三州奇談續編卷之五 末森の臼音
末森の臼音
一日今濱の人々と末森の城跡に上る。尾[やぶちゃん注:尾根。]續きの山峰廻りて自(おのづか)らの空堀(からぼり)となる。此間に椀・膳抔(など)を貸す洞穴あり。樵(きこり)路を迷はす幽谷あり。嶺上の道は北海を見盡して景云ふ許(ばかり)なし。本丸・二の丸・兵粮藏(ひやうらうぐら)等の跡、其間大いなり。ほのかにきく、末森は古へより大城(おほしろ)にして、奧村公の栅(とりで)に用ひ給ひしは、元來古城地の上に構へられしと覺ゆ。谷切れ山廻(めぐ)りて、眞(まこと)に天のなせる城地(じやうち)なり。東方は佐々成政が富山より押向ひたる笠懸・壺井山と云ふ峰なり。北方に長家(ちやうけ)の救援ありたりし白子濱の松も見ゆ。山上甚だ廣く、自(おのづか)らの谷切(たにぎれ)あり。今は土崩れ岩欠け碎けても、猶其廣きを見る。且つ兩方に石動・寳達の二山高く折れ臥したり。嶺上笹生ひ茂りて、松甚だ物寂びたり。天籟常に多くして膽寒し。獨步すべからず。東方の谷を「御花畑」と云ふ。是れ彼(か)の戰(いくさ)の日、米を以て馬を洗ひし計略を用ひし所なりと沙汰す。思ふに其頃是等の長計には及ぶべからず。水の手を取り切りて攻上がると聞き、城中必死の勢を以て能く防戰を遂げたるものと思はるれ。軍書の「七國志」には出だせり。是奧村氏をして危急絕地の躰(てい)を示し、其日の働きを强くせんと欲せしならん。予千秋氏の家に就て、國君の祖の感狀を讀むに、千秋氏の職・忠古今に秀で、勇氣の勵み奧村公に劣らず。故に加祿褒賞のことあり。然れば七國志の文の用、返りてかたかたをなみする害あり。此故に爰に告ぐ。又奧村公の室(しつ)御鍋(おなべ)御前侍女を率(ひき)ゐて働き、壯勇の名士と云ふとも及ぶべからず。且つ其心利きて粥餅を搗きて軍中の兵士へ分け與へ、其勢をねぎらひ、勇を勵ましむ。今に於て俗諺となれりと云ふ。其勇魂響きてや、此所にある木魂(こだま)餅を搗く如し。試(こころみ)に谷に入りて聲を發するに、兩方の嶺にこたへて、餅臼の拍子の如し。里人甚だ快しとして、古へを稱すること限りなし。將(ま)た山上には水氣ありて水猶出づ。今以て掘穿(ほりうが)ちて水を溜むれば、五七千人の口を濕すに足れり。城地はふしぎなるものなり。近年鐡門の跡虎口(ここう)と云へる山岸(やまきし)に、百合の鮮かに咲きたる、實(げ)に姫百合の名あるも、鬼の名の働きも聞えてけりと、或人の、
勇々(をを)しさや虎口の百合の脛(はぎ)高き
さとかたは田畑兵衞の佐々が猛勢を誑らかしたる道と語りけるに、同じく、
さとかたや 斑猫(はんめう)導く 山ふか見
など興じながら、猶此話の聞捨て難く、其奧をさがすことになん及びし。
[やぶちゃん注:「奧村公の栅(とりで)に用ひ給ひしは、元來古城地の上に構へられしと覺ゆ」の「構へられし」は底本では「構へられじ」であるが、打消推量・意志では意味が上手く取れない。「近世奇談全集」によって特異的に訂した。
「今濱」「麥生の懷古」に既出既注。
「末森の城跡」石川県羽咋郡宝達志水町竹生野(たこの)のここ。「麥生の懷古」の注も参照。国土地理院図で見ると、自然の要害であることが手に取るように判る。
「椀・膳抔(など)を貸す洞穴あり」所謂、「椀貸(わんかし)伝説」である。池・沼・塚・洞穴などで、膳椀を頼めば貸してくれるとする伝承で、全国に広く分布している。椀を貸してくれるのはそれぞれの主(ぬし)である山姥・大蛇・狐・河童などと言われており、また、不心得者がいて,借りた椀を返さなかったため。以後、貸して貰えなくなったという話が附隨する。この伝説の由来については、木地屋 (きじや) と呼ばれた椀作りの工人との沈黙交易の歴史が説話化されたとする説と、土器の出土の謎を説明しようとするところから生れたとする説の二つがある。以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠ったが、私のブログ・カテゴリ「柳田國男」の『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 一』(ここで「沈黙貿易」も説明されてあり、注も施してある)以下で十五回で詳述されてあるので、興味のある方は是非読まれたい。
「奧村公」奥村永福(ながとみ 天文一〇(一五四一)年~寛永元(一六二四)年)は織豊から江戸前期の武士。加賀金沢藩士。前田利家・利長・利常三代の藩主に仕えた。天正一二(一五八四)年、この末森城を守り、佐々成政の軍勢を撃退したことで知られる。尾張以来の前田家家臣で金沢藩八家の内の奥村宗家初代。
「笠懸」不詳。東方向なら、似た名前に羽咋郡宝達志水町原の棚懸城跡があり、標高二六三メートルの山頂に築かれている。すぐ東が富山県氷見市棚懸。
「壺井山」不詳。坪井山砦跡が近くにあるが、ここは末森城の南南西で東はない。但し、個人サイト「北陸の城跡」の「坪井山砦跡」に、『末森城の出城として末森城から交代で、守将が守っていたが、佐々成政(富山城)・神保氏張(守山城)の軍に攻略され、末森の合戦では佐々軍の本陣になる』とあるので、当時の状況的にはここであっても問題はない。
「長家の救援」「末森城の戦い」では長連龍(つらたつ)の軍が利家の救援軍として駆けつけ、利家に「抜群の活躍比類なし、真実頼もしく候」と賞されている。但し、実は実戦には参加しておらず、合戦後に危険を顧みずに駆けつけた点を利家から賞されたのであった(ウィキの「長連龍」に拠る)。
「白子濱」北なら、出浜か千里浜である。
「自らの谷切あり」自然に生じた攻めるに難い深く食い込んだ谷がある。
「米を以て馬を洗ひし計略を用ひし所なり」籠城戦ではかなり知られた籠城側の計略。城攻めではまず包囲網によって水を絶つことが肝要である。その際、籠城側は、まだ城内には水が豊富にある、と敵に思わせるために、包囲軍から見える所で白米を馬に浴びせ、馬を洗い始める。遠くからこれを見ると、米が水のように見え、包囲軍は水断ちの効果はないと勘違いするという守りの機略であるが、実際にはしょぼくてすぐばれそうな気はする。
『軍書の「七國志」』江戸中期の小説家で近世最大の軍書作家と称される馬場信意(のぶおき/のぶのり 寛文九(一六六九)年~享保一三(一七二八)年)の「北陸七(しち)國志」。
「千秋」「末森城の戦い」で奥村とともに籠城した武将千秋範昌(せんしゅうのりまさ)の後裔であろう。
「感狀」主に軍事面において特別な功労を果たした下位の者に対し、上位の者がそれを評価・賞賛するために発給した文書のこと。
「故に加祿褒賞のことあり」「加能郷土辞彙」の千秋範昌の項に、「末森城の戦い」の『後』、『十六日利家は、押水の内千俵の地を加增して之を賞し、前後八千五百六十俵を受けた。範昌歿後一子彦兵衞幼にして五百石を受け、爲に家道衰へたが、後裔相襲』(つ)『いで藩に仕えた』とある。
「返りてかたかたをなみする害あり」「なみする」は「無みする」「蔑する」で形容詞「無し」の語幹に連用修飾語を作る接尾語「み」の付いた「なみ」に動詞「す」の付いたものの連体形で「そのものの存在を無視する・ないがしろにする」の意。却って奥村公以外の人々を蔑(ないがし)ろにしてしまう弊害がある。
「粥餅」「望粥」「餅粥」(もちがゆ)のことであろう。古くは望(もち)の日、特に正月十五日に作った小豆(あずき)粥のこと。後世は「望」を「餅」の意にとり、実際の餅を入れて煮た。「搗きて」とあるから、餅入りであろう。
「鐡門の跡虎口と云へる山岸に、百合の鮮かに咲きたる、實(まこと)に姫百合の名あるも、鬼の名の働きも聞えてけり」「鐡」・「虎口」・「山岸」(切り立った崖)というおどろおどろしいシチュエーションに対して、対照的に「百合の鮮かに咲き」、それが実に「姫百合」という名の花で「ある」というのも、「鬼」神・武神の命「名の働きも」自然、感じられるものだ、という謂いであろう。単子葉植物綱ユリ目ユリ科ヒメユリ Lilium concolor。五~六月、橙・赤・黄色などの杯(さかずき)状の星形の小花を開く。本邦の自生地では群生せず、まばらに生えることが多い。
「勇々しさや虎口の百合の脛高き」女たちが和服の袖を引き上げて脛が見えるのも構わず、武士(もののふ)らと籠城戦に働くさまをスーパー・インポーズしたものであろう。
「さとかた」麓の村里のある方。
「田畑兵衞の佐々が猛勢を誑らかしたる道」「田畑兵衞」は現在の石川県羽咋郡宝達志水町(ほうだつしみずちょう)沢川(そうごう)及び富山県高岡市福岡町(まち)沢川(そうごう)附近の旧沢川(そうごう)村の地付きの豪族。個人サイト「赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!」の『【北陸七国史】「能登末森城の戦い」を左右した「五位庄沢川村 田畑兵衛の裏切り」!!』に、『五位庄の中に在り、しかも県境の要衝に当たる「沢川村」は丁度、両城の中間に当たり、しかも、網の目の様に張り巡らされた山道の結節点に当たる。その「沢川村」を束ねていた土豪の田畑兵衛は佐々軍に味方すると見せかけて佐々軍を遠回りさせ山中で迷子にさせて佐々軍の末森への参陣を業と遅らせた。この身内と思っていた田畑兵衛の裏切りは、赤丸、柴野の佐々軍にとっては思いもかけなかった。このまさかの裏切りで、前田利家軍の応援部隊が到着して、佐々軍は末森城を落とせなかった。この戦いでの失策は実質的に佐々軍の敗北に直結し、その後、前田軍の連絡で越中に攻め寄せてきた豊臣秀吉の大軍は富山市の呉羽山に本陣を設け、出城の安田城を築いて富山城の佐々軍に対峙した。成政は秀吉から「僧の姿で本陣に詫びに来れば許す」とする書状を受け取り、戦う事無く敵陣の中を歩いて秀吉の下に出向いた。途中、敵陣の将兵が嘲笑う中を成政は一人、呉羽山を登り』、『秀吉の下に膝を屈した』。『その後、九州熊本に転封になった成政は予てからの知り合いの秀吉の妻ねねに越中富山の立山に咲く珍しい「黒百合」を献上するが、この黒百合が「不吉」だと噂されて、遂には一揆の責任を取らされて成政は切腹させられた』とある。地図画像を用いて判り易く説明されており、さらに先に出た「北陸七國志」の「田畠兵衞嚮導」を画像で読むことが出来る。必見!
「斑猫」昆虫綱有翅昆虫亜綱新翅下綱Coleopterida 上目鞘翅(コウチュウ)目食肉(オサムシ)亜目オサムシ科ハンミョウ亜科 Cicindelini 族 Cicindelina 亜族ハンミョウ属ハンミョウ(ナミハンミョウ)Cicindela japonica。人が近づくと飛んで逃げ、一〜二メートルほど飛んでは着地し、度々、後ろを振り返る。往々にしてこれを繰り返すことから、そのさまを道案内に喩え、「みちおしえ」「みちしるべ」という別名を昔から持つ。本種に関しては、博物誌として私の「和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 斑猫」の本文及び私の注を必ず参照して欲しい。かなり強い毒性を持つ鞘翅目Cucujiformia 下目ゴミムシダマシ上科ツチハンミョウ科 Meloidae に属するツチハンミョウ(土斑猫)類と本種を混同してはいけないからである。
「など興じながら、猶此話の聞捨て難く、其奧をさがすことになん及びし」は「三州奇談續編」に入ってから、異様に多くなった「次回のお楽しみ」的な「続く」を示すやり方である。]
« 北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) 敵 | トップページ | 北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) たそがれどき »