北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) たんぽぽ
たんぽぽ
わが友は自刄したり、彼の血に染みたる
亡骸はその場所より靜かに釣臺に載せら
れて、彼の家へかへりぬ。附き添ふもの
一兩名、痛ましき夕日のなかにわれらは
ただたんぽぽの穗の毛を踏みゆきぬ、友、
時に年十九、名は中島鎭夫。
あかき血しほはたんぽぽの
ゆめの逕(こみち)にしたたるや、
君がかなしき釣臺(つりだい)は
ひとり入日にゆられゆく…………
あかき血しほはたんぽぽの
黃なる蕾(つぼみ)を染めてゆく、
君がかなしき傷口(きずぐち)に
春のにほひも泌み入らむ…………
あかき血しほはたんぽぽの
晝のつかれに觸(ふ)れてゆく、
ふはふはと飛ぶたんぽぽの
圓い穗の毛に、そよかぜに、…………
あかき血しほはたんぽぽに、
けふの入日(いりひ)もたんぽぽに、
絕えて聲なき釣臺(つりだい)の
かげも、靈(たまし)もたんぽぽに。
あかき血しほはたんぽぽの
野邊をこまかに顫(ふる)へゆく。
半ばくづれし、なほ小さき、
おもひおもひのそのゆめに。
あかき血しほはたんぽぽの
かげのしめりにちりてゆく、
君がかなしき傷口(きずぐち)に
蟲の鳴く音(ね)も消え入らむ…………
あかき血しほはたんぽぼの
けふのなごりにしたたるや、
君がかなしき釣臺(つりだい)は
ひとり入日にゆられゆく…………
[やぶちゃん注:前書きはポイント落ちで行も詰まってあるが、敢えて同ポイントで行間も明けて示した。但し、底本では全四行のところ、ブラウザでの不具合を考え、六行に分かった。
「中島鎭夫」序の「わが生ひたち」の「9」に既出既注であるが、これは特に再掲する。所持する書籍ではこれが如何なる人物か分からなかったが、複数のネット記事を並べてみることでやっと判明した。以下はリンク先以外の信頼出来る資料も参考にしてある。彼は白秋の親友で中島鎭夫(なかじましずお(しづを) 明治一九(一八八六)年五月九日~明治三七(一九〇四)年二月十三日)のことである。ペンネームは白雨(はくう)。享年十九(満十七歳)。中学に入学した白秋は級友と回覧雑誌を作って歌作・詩作にいそしみ、後期には校内で文学会を組織して新聞『硯香』小説や論説なども書いたが、低能教育の弊風を非難する内容の一文が学当局の忌諱に触れ、問題となったりした。その交流の中でも最も親しかったのが中島鎭夫であった。左大臣光永氏の「北原白秋 朗読」の本篇の解説に『「白秋」「白雨」、どちらもペンネームに「白」の字がついてますが、これは彼ら文学仲間の連帯の証でした』。『中島青年はみずから文芸部を発足し、生徒の』八『割近くが部員になったということですから、行動力とリーダーシップがあったようです』。『ところが中島青年がトルストイの『復活』を回し読みしていたところ、普段から文芸部をよく思わない教師から難癖をつけられ、退学に追い込まれます』。『当時』(明治三七(一九〇四)年)『は日露戦争に突入した年で、ロシア文学を愛好しているだけで非難の対象になったのです』。『中島青年はこの疑いに名誉を傷つけられ、自らの潔白を証明するため、短刀で喉を突いて自刃しました』。『中島青年は死に際して自分のぶんも文学の志を遂げてくれと白秋に遺書を遺します』。『一番の親友を失った白秋の心中は想像するにあまりあります。白秋はその気持ちを「林下の黙想」という詩に託して「文庫」に投稿』、『この詩は審査員に絶賛され』、明治三七年四月号に『全文掲載されます』。『そしてこの年、白秋は中学を中退し、父に内緒で上京。本格的に文学の道を歩み始めたのでした』とある。また、「西日本新聞社」公式サイト内の「日本がロシアに宣戦布告をした3日後のこと…」という記事は、『日本がロシアに宣戦布告をした』三『日後のこと。現在の福岡県柳川市で』十七『歳の文学少年が命を絶った。中島鎮夫(しずお)、ペンネームは白雨(はくう)。後に国民的詩人となる北原白秋の大親友である』。『白秋の回想によると、鎮夫は神童肌の少年で、語学に堪能だった。英語に加え独学でロシア語も勉強していたことから「露探」(ロシアのスパイ)のぬれぎぬを着せられる。汚名に耐えきれず、親戚の家の押し入れで、喉を短刀で突いた。「あなたを思っている」との遺書を白秋に残して』早朝に逝ったのであった。『教室で鎮夫の死を知った白秋はぽろぽろ泣いて駆けつけ』、『友の遺骸を板に乗せ、タンポポが咲く野道を家まで運んだ』とある。サイト「ブック・バン」の「【文庫双六】自死した親友を悼む白秋の悲しみ――川本三郎」には、『白秋は鎮夫を愛していた。「二人は肉交こそなかったが、殆ど同性の恋に堕ちていたかもわからないほど、日ましに親密になった」とのちに回想している』ともある。日露戦争の明治天皇の「露國ニ對スル宣戰ノ詔勅」が正式な宣戦布告で、これは明治三七(一九〇四)年二月十日であった(事実上の開戦はこの二日前の同年二月八日の旅順港にあったロシア旅順艦隊に対する日本海軍駆逐艦の奇襲攻撃(旅順口攻撃)であったが、当時は攻撃開始の前に宣戦布告しなければならないという国際法の規定がなかった)。以上に出る「林下の黙想」は三百行にも及ぶ長詩らしいが、その内、探し出して電子化したいと考えている。
「釣臺」台になる板の両端を吊(つ)り上げて二人で担いでゆく運搬具。担架の駕籠舁き方式である。
本篇を以って「TONKA JOHN の悲哀」パートは終わっている。]
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