柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 凡兆 五 /(再々リロード) 凡兆~了
五
ここまで書いたところで奈良鹿郎氏の示教を得た。(『桐の葉』昭和十二年十二月号)同氏が安井小洒(やすいしょうしゃ)氏の『蕉門名家句集』によって示された凡兆の遺珠は左の如きものである。
[やぶちゃん注:「奈良鹿郎」既出既注。「凡兆 三」の末尾の私の注を参照されたい。
「安井小洒」(明治一一(一八七八)年~昭和一七(一九四二)年)は俳人で蕉門を中心とした俳文学研究家にして兵庫の「なつめや書荘」店主。本名、知之。「蕉門名家句集」は昭和一一(一九三六)年に自社から刊行したもの。既出既注であるが、再掲した。]
塵ながすほどにもふらじ春の雨 加生(新花鳥)
[やぶちゃん注:「新花鳥」汲谷軒好春編。元禄四(一六九一)年刊。]
餞桃々坊
須磨の春我も若木に笠ぬがん 凡兆(追鳥狩)
[やぶちゃん注:前書は「桃々坊(たうたうばう)に餞(はなむけ)す」。「桃々坊」は榎本舎羅(しゃら 生没年不詳)は大坂蕉門重鎮の一人であった槐本之道(えのもとしどう)の紹介で入った蕉門俳人。大坂生まれ。後に剃髪した。今までに上がった撰集「麻の実」や「荒小田」の編でも知られる。ウィキの「舎羅」によれば、『貧困と風雅とに名を得たと言われた』。『芭蕉が、大坂で最期の床に就いた時、看護師代わりになって汚れ物の始末までした。去来は、「人々にかかる汚れを耻給へば、座臥のたすけとなるもの呑舟と舎羅也、これは之道が貧しくして有ながら彼が門人ならば他ならずとて、召して介抱の便とし給ふ」(「枯尾華」)と書いている』とある。一句は「源氏物語」の「須磨」にでも拠っている餞別句か、私にはよく判らない。
「追鳥狩」は「おひどがり(おいとがり)」と読み、舎羅自身の編で、元禄一四(一七〇一)年刊である。]
たのみよる桜や茶屋のよつ柱 同(岨の古畑)
[やぶちゃん注:「岨の古畑」は「そばのふるはた」(「岨」は崖の意)で梅員編。元禄十六年刊。]
西行寺
なりけりの切字と花を手むけかな 同
[やぶちゃん注:「西行寺」現在の京都市伏見区竹田西内畑町に嘗てあった西行所縁の寺。白河天皇陵の北に位置し、西行が鳥羽上皇の北面の武士であった頃の邸宅跡と伝えられる。江戸時代には庵室があり、西行寺と称し、境内には月見池や剃髪堂があった。明治一一(一八七八)年に六三〇メートルほど東の伏見区竹田内畑町にある観音寺(浄土宗)に併合され、現在は旧跡には西行寺跡を示す石標のみがある(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。なお、観音寺には西行法師像と伝える坐像が安置されてあるという(とネット上に複数の記載があるが、確認出来ない)。一句は西行の知られた一首「年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山」(「新古今和歌集」)の今初めて気づいたことを示す詠嘆認識の条動詞連語「なりけり」を俳句の切れ字と分離して転じ、「願はくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月のころ」やら、世阿弥の謡曲「西行桜」(ここが舞台)をインスパイアしたものであろう。]
とり沙汰も無事で暮けり葛の花 同
[やぶちゃん注:マメ目マメ科マメ亜科インゲンマメ連ダイズ亜連クズ属クズ変種クズ Pueraria montana var. lobata の花は秋であるが、「けり」は過去ではなく、詠嘆であろうから、気にしていたある彼に関わる世間の噂或いは評判も悪しくは立たぬと読めて、無事に年も越せそうだというのであろうか。]
刈株の蕎麦も心や秋のかぜ 凡兆(鏽鏡)
[やぶちゃん注:「刈株」刈り取った跡の切り株。普通は稲のそれだが、ここは蕎麦のそれを指し、稲のそれに通わせて詠嘆したもの。
「鏽鏡」は「さびかがみ」で、舎羅編。正徳三(一七一三)年刊。]
羊蹄は世に多かほの枯野かな 同
[やぶちゃん注:「羊蹄」は「ぎしぎし」でナデシコ目タデ科スイバ属ギシギシ Rumex japonicus。現行では仲春の季題だが、「枯野」で冬。ギシギシは秋に発芽して、茎を伸ばさずに、地面にへばりつくように株の中心から放射状に多くの葉を広げたロゼット状の姿で冬の寒さを越す。殺風景な枯野にへばりつくように我が物顔のそれを詠じた。私にとっては母から教えられた「すっかんぽ」の名で馴染みの雑草である。]
わたくしの見ものや雪のみほつくし 同(万句四之富士)
[やぶちゃん注:「みほつくし」はママ。川流れなどにある杭であるが、歴史的仮名遣は「みをつくし」が正しい。上五は「自分だけの」の謂いであろう。
「万句四之富士」は「まんくよつのふじ」で野坡編。正徳五(一七一五)年自序。]
出るからは花なき在も花見かな 同(百曲)
[やぶちゃん注:「出る」は「でる」であろう。「在」は「ざい」で里。
「百曲」は「ももまがり」で市山らの編で、享保二(一七一七)年刊。]
上巳
住よしや河掘添て春の海 同
[やぶちゃん注:「上巳」は「じやうし(じょうし)」で、中七は「かはほりそえて」。一九八九年岩波文庫刊の堀切実氏の編注になる「蕉門名家句選(下)」の評釈によれば、「上巳」は『本来三月上(かみ)の巳(み)の日の意だが、のちには三月三日のことと定められた。いわゆる大潮の日に当たり、潮の引いたあとの浜が潮干狩に最適になる』とあり、「住よし」は『大阪湾に臨む摂津住吉の浦のこと。古来、和歌にも詠まれたところで、眺めが美しかった。『滑稽雑談』(正徳三年刊)に「貞徳師云、潮干とばかりは雑なり。住吉の潮干は春なり」とある』と注された上で、『摂津住吉の浦の潮干の風景である。美しい住吉の浜の干潟に潮干狩の人たちが戯れに掘った溝がわずかに海水を引き入れており、その溝続きに穏やかな春の海がひろがっているというのである。人々が掘った小さな溝を大げさに「河掘添て」といったのであろう』とある。]
大和紀行の時
老の手の籠におどるや山清水 同
[やぶちゃん注:「籠」はシチュエーションからして山駕籠に乗っているのであろう。]
唐僧も見るや吉野の山桜 同
[やぶちゃん注:「唐僧」は「からそう」と読みたい。歴史詠風に渡来僧の視線に吉野の桜をぶつけたところに着想の新奇さはある。]
五月雨や苔むす庵のかうの物 同(柴のほまれ)
[やぶちゃん注:「庵」は「いほ」であろう。「柴のほまれ」は宇白編宝暦八(一七五八)年刊。]
以上のうち「加生」となっている『新花鳥』が元禄四年版、他は『荒小田』以後に属する。句として特筆するに足るほどのものは見当らぬようであるが、埋没している凡兆の作品が、古俳書研究家の手によって次第に発掘されて行くことは感謝に堪えぬ。
凡兆の一生は詳(つまびらか)でない。その交游等についても委しく事は不明である。去来とは『猿蓑』撰の関係もあり、落柿舎にしばしば来ていることを見ても、相当親しかったものと思われるが、他に徴すべき材料は見当らぬ。其角との交渉は恐らく元禄元年から二年へかけて滞在した時に始まるのであろう。『いつを昔』には十月二十日の嵯峨遊吟及霜月下の七日尚白亭の条に加生の名が見えている。
[やぶちゃん注:「いつを昔」(「何時を昔」であろう)は別名「俳番匠(はいばんしょう)」と言う。其角編で元禄三(一六九〇)年刊。既出既注。]
凡兆が亭にあそびて炉の南といふことを
埋火の南をきけやきりぎりす 其角
[やぶちゃん注:「埋火」は「うづみび」。この其角の句の意味は私にはよく判らない。茶道の風炉(ふろ)釜の配置か、或いは席位置か? 識者の御教授を乞う。]
という句も、前書は見えぬが『いつを昔』の中に出ているので、やはり同じ滞在中のものと思われる。
凡兆は夫妻ともに俳人であった。有名な「我子なら供にはやらじ夜の雪」という句は、『いつを昔』に「加生つまとめ」として出ており、凡兆の妻の作であること、その名を「とめ」といったことをも併せて知り得る便宜がある。其角は嵯峨遊吟の末に
縫かゝる紙子にいはん嵯峨の冬 其角
の句を掲げ、「加生のつまのぬはれけるなり」という註を加えているから、凡兆の家とは相当親しい交渉があったのであろう。それが元禄四年[やぶちゃん注:一六九一年。]の『猿蓑』乃至『嵯峨日記』になると、羽紅という名に変っている。『猿蓑』にある
わがみかよはくやまひがちなりければ
髪けづらんも物むづかしと
此春さまをかへて
笄もくしも昔やちり椿 羽紅
[やぶちゃん注:以上は「猿蓑」の「卷之四」にある。「さまをかへて」が尼になるの意。「笄」は「かうがい(こうがい)」。]
の句は、剃髪の年代を推測せしむる唯一の材料であるが、羽紅の名は剃髪と同時に改めたものか、凡兆の改号に伴う現象であるか、その辺のことはわからない。芭蕉は『嵯峨日記』の中で「羽紅尼」といい、「羽紅夫婦」といい、「羽紅凡兆」といい、同日の条に三たび異った書き方をしている。羽紅が凡兆の妻であるかどうかということについては、一時異説もあったようであるが、現在では『荒小田』に「凡兆妻羽紅」とある一事だけで、十分証明出来ると思う。羽紅は凡兆に従って俳諧に入り、芭蕉に親炙する機会の多い婦人の一人であった。『猿蓑』の撰に入るもの幻住庵の「几右日記(きゆうにっき)」を併せて実に十三、女流の首位を占めているのは、必ずしも撰者の妻たるがためのみではない。
だまされし星の光や小夜時雨 羽紅
縫物や著もせでよごす五月雨 同
はるさめのあがるや軒になく雀 同
の如く、力量の凡ならざるために外(ほか)ならぬのである。
[やぶちゃん注:「我子なら供にはやらじ夜の雪」この句には『いつを昔』には「交題百句」の巻頭に配されてあって、
感心 次郞といふをつれてつまの夜咄に行
という前書がある。「早稲田大学図書館古典総合データベース」の原本の当該部をリンクさせておく。但し、私には前書も含めてよく意味がとれない。識者の御教授を乞う。
「几右日記」「猿蓑」の巻六に、芭蕉の俳文「幻住庵記」と向井震軒による「後題」の後に載る幻住庵での芭蕉の日記というが、訪問客らの発句三十五句のみから成る句記録に過ぎない。その中の羽江の句は一句で、
石山の行かで果せし秋の風 羽紅
である。]
凡兆が囹圄(れいご)[やぶちゃん注:牢獄。「囹」も「圄」牢屋の意。]の人となってから、羽紅はどうしていたか、『続猿蓑』に
春の野やいづれの草にかぶれけむ 羽紅
の一句を存する外は、凡兆が俳書の上に姿を現すまで、羽紅の名もまた表面から消去っている。
凡兆は出獄後ずっと大坂に隠れ、羽紅と起居を共にしていたものの如くであるが、ただ一つ疑問なのは、元禄十五年の『はつたより』に
木のまたのあてやかなりし柳かな 江戸凡兆
とあることである。凡兆はこの時分に江戸へ行っていたかどうか、江戸という肩書が他に例のないものであるだけに――この句が前年の『荒小田』にも出ているものであるだけに、いささか首を傾けざるを得ない。誤伝か、誤記か、さもなければ故意に肩書を変えたものか、いずれかのうちと見るより仕方があるまい。
[やぶちゃん注:この句、如何にもストレートな艶句であるが、私は惹かれない。「江戸」とかで宵曲が深く疑っている通り、凡兆の句ではないのではないか? 彼の句としても駄句の部類である気がする。「はつたより」は「初便(はつだより)」で知方編。元禄一五(一七〇二)年序・跋。]
由来凡兆という作家は、その句によって、その人を勘(かんが)えるのに困難な作家である。『猿蓑』所載の四十四句について見ても、前書附のものは六句に過ぎず、その中でもやや異色あるものはといえば、左の一句あるに過ぎない。
越より飛驒へ行くとて籠のわたりの
あやふきところところ道もなき山路
にさまよひて
鷲の巣の樟の枯枝に日は入りぬ 凡兆
[やぶちゃん注:「樟」は「くす」。クスノキ目クスノキ科ニッケイ属クスノキ Cinnamomum camphora。堀切氏前掲書の評釈に、『飛騨・越中国境の山中の景である。人跡まれな山峡はすっかり夕闇に沈み、黒々と浮き立つようにそびえる巨大な樟の枯れ枝に、大きな鷲の巣がかかっているのが仰がれる。折しも月が落ちて、稜線の空は真っ赤に燃えている、という光景である。雄大で、しかも凄絶な感のある山中の夕景である。一幅の画として、ほとんど人工的とも思えるほど見事に構成された世界を成している。しかも、その光景を見上げている旅人の孤愁のようなものさえ汲みとることができるのである。助詞「の」を重ねた上で、「樟の枯枝に」で一呼吸置き、さらに、「日は入ぬ」と柔かく治定した音調も、よく整っているといえよう』と絶賛され、『凡兆が飛驒へ赴いたのはいつか不明。あるいは一句の表現効果を上げるために、それらしく虚構の設定をしたものか。「籠のわたり」は飛驒・越中の両国を流れる庄川(射水川)の上流白川谷にあったものをさすか。急流の両岸とも絶壁で橋を渡せないので、藤蔓を張り、籠を吊して引き綱で渡る仕掛けがあった』と注されている。昭和五三(一九七八)年(第五版)小学館刊「日本古典文学全集 近世俳句俳文集」で栗山理一氏は本句を揚げて、江戸後期の随筆で伴蒿蹊(ばんこうけい)著「閑田耕筆」(享和元(一八〇一)年刊。見聞記や感想を「天地」・「人」・「物」・「事」の全四部に分けて収載する)から「籠の渡り」の記事を引かれた後、『飛越の国境にはこのような籠のわたりが十余か所もあった』とされる。「閑田耕筆」は私も好きな随筆であるので、「卷之一 天地部」に載る記事を、私のオリジナルで引きたい。底本は原本を国立国会図書館デジタルコレクションの画像で視認し(一部にオリジナルにひらがなで歴史的仮名遣で読みを推定で添え、句読点・鍵括弧等を補助した。【 】は二行割注)、そこにある「籠の渡し」の挿絵(本文より少し後ろ)も添えた(裏映りがするのでトリミング補正を加えた)。
*
○懸崕絕壁(ケンカイセツへキ)數十丈屹立(コツリツ)し、下は急流迅瀨(キウリウジンライ)にして、柱を建(たつ)べからざる所、奇巧を用て橋をわたすもの、甲斐に猿橋(サルハシ)、信濃に水内(ミヌチ)の曲橋(マガリハシ)など、圖を見其話をも聞しが、曲橋は信濃地名考に出たれば更にいふべからず。猿ばしは圖を寫とめざりき。其所由は、猿のたくみにならひてかけそめたりしとかや。こゝに、また、此頃、飛驒の人田中記文といふが訪來(たづねきたり)て、其國の藤ばし、「かごのわたり」のことをかたり、且(かつ)記せるものを示さる。[やぶちゃん注:以下、「藤橋」についての語りとなるが、中略する。但し、今回、既にこの条全体を電子化したので、近い内に「藤橋」の絵も添えて、「怪奇談集」にアップするつもりである。]「籠のわたり」は吉城郡中山村に在(あり)て、神通河に架す。川の北は蟹寺(カンテラ)【里人カンテラと稱ふ。】村とて、越中の南鄙なり。「籃(カゴノ)渡」とは橋にあらず。「西域傳」にいへる「度索(トサク)」といふもの歟(か)。其地兩岸絕壁にして、河の流れいちはやく、水に航(フネ)すべからず。崕(キシ)に橋すべからず。故に大索(オホナハ)三筋を張(はり)て崕(キシ)に架(わた)し、懸(カク)るに小籃(カゴ)をもてし、人其中にうづくまるを、籃に兩索(フタツナハ)ありて、前崕(キシ)曳(ヒ)キㇾ之ヲ後(うしろ)ノ崕(がけへ)送(ヲク)リㇾ之ヲ、南北より相助ケ、からうじて渡る。土人は男女をいはず、手をもてみづから索(ナハ)をたぐりて、たやすく行(ゆき)かひすること、神のごとし。籃は木を揉(タハ)めて幹(モト)とし、底は藤をもてめくらし、編(アム)こと蜘(くも)のあみを結ぶがごとし。三(みつ)の大索、月每に一筋を更(ハフ)るといふ。其往(ユキ)來のしげきこと知るべし。飛驒より越中に行(ゆく)道あまたあれど、此道便(ヘン)なればとかや。此餘椿原荻町共に此國大野郡にして、此籃(カゴ)もて度(わた)ること、同じ。荻町は其地ことに險溢(サカシク)、其河、流(ナカレ)駛(トク)、しかも東崕高く、西卑(ヒク)ければ、階梯(ハシ)をたてゝ登りて、籃に就(ツク)。椿原は是よりも猶、危しとぞ。記者、中山を賦せる古詩の歌体長篇あれど、事に繁(シケ)ければ洩(モラ)しぬ。いにしへ衣笠内府(きぶがさないふ[やぶちゃん注:鎌倉時代の内大臣で歌人であった衣笠家良(建久三(一一九二)年~文永元(一二六四)年)])の御詠とて、其所につたふるは、〽「徒(いたづら)にやすく過來(すぎき)ぬ山藤のかごのわたりもあれば有物(あるもの)を」。おのれにも歌をこはれて、とみに口ずさふ。〽「波分(なみわけ)しまなし堅間かたま」のふることも斐太(ヒタ)にありてふ渡りにぞ思ふ」。
*
また、堀切氏は前掲書で、『樟は常緑樹で冬枯れはない。「樟」は「鷲」とともに飛驒地方には見られないものとする説もあるし、これを否定する説もある』と注されておられる。因みに調べてみたが、クスノキは飛驒に実際に自生するし(ネット記載で複数確認。植物学的にもクスノキが飛驒に植生しないという謂い自体が植生学的に非科学的である)、鷲類の内でも、例えばタカ目タカ科イヌワシ属イヌワシ Aquila chrysaetos japonica は棲息する(これも確認済み)。ただ、確かに凡兆はその生涯の中で飛驒に行ったことは少なくとも現行の資料の中では確認出来ないことは事実である。しかし、だからと言って、即、否定は出来ぬ。……例えば、君はアイスランドに行ったことがあるか?……マチュ・ピチュやナスカの地上絵を現地で見たことがあるか?……敦煌はどうだ?……礼文島にのみ植生する単子葉植物綱キジカクシ目ラン科アツモリソウ属アツモリソウ変種レブンアツモリソウ Cypripedium marcanthum var. rebunense を目の前で親しく剖検するのを見たことがあるか?……以上に私は総て「イエス」と胸を張って答えられるのだ――孤独な隅の老人と馬鹿にするな――人には相応に人に知られない旅は――ある――ものだよ……]
これは凡兆の足跡の遠きに及んだ唯一の例である。前書は現在の事のように記してあるけれども、過去における旅中の所見を改めて句にしたものかと想像する。金沢に生れ、京にあって医を業とし、不幸にして囹圄の人となった後、余生を大坂に送った凡兆は、芭蕉や惟然は勿論、其角嵐雪ほどの旅程にも上らずに、その生涯を終ったのであろう。
かつて沼波瓊音(ぬなみけいおん)氏をして「芭蕉に妾ありき」なる一文を草せしめた『小ばなし』という写本がある。風律(ふうりつ)が野坡その他に聞いた話を書きとめたもので、寿貞が芭蕉の若い時の妾であったという記載もその中から発見されたのであるが、同書はまた野坡の談として次のような一節を伝えている。
[やぶちゃん注:「沼波瓊音」(明治一〇(一八七七)年~昭和二(一九二七)年)は国文学者で俳人にして強力な日本主義者。名古屋生まれ。本名、武夫。東京帝国大学国文科卒。『俳味』主宰。
以下、底本では全体が一字下げで、冒頭の一だけが上に飛び出ている。前後を一行空けた。]
一 凡兆は京の医者にて越度(おちど)の事有(あり)京追放のよしその後家翁の手跡手紙など多く持居[やぶちゃん注:「もちをり」。]申候、払度[やぶちゃん注:「はらひたき」。]よし来てたのみ申候故備中辺へ多くもとめ遣し候
「芭蕉に妾ありき」からの孫引であるが、この記載は出獄後の凡兆について慥に或事実を語っているように思う。凡兆が京を去ったのは、自ら人目を憚ったばかりでなく、処分のために土地を去らなければならなかったのであろう。そういう悲境に沈淪(ちんりん)[やぶちゃん注:落魄(おちぶ)れること。]した凡兆が、芭蕉の筆蹟や手紙の類を金に易(か)うべく、野坡のところへ頼みに来たというのは如何にもありそうな話で、同情に堪えぬものがある。
土芳の『蓑虫庵集』を見ると、正徳三年[やぶちゃん注:一七一三年。]の条に
正月廿八日難波尼羽紅に送る
海なき都に袖しぼる尼と聞へしも、
いまにつゝがなしと人の云けるまゝ
便求て申侍る
白うをにまぎれてゆかし藻汐草
妻にかはりて凡兆より返し句申候とて
わびぬれば身は埒もなきもづくかな
ということが出ている。土芳との交渉も久しく絶えておったのを、今なお健在であるとの消息を人から聞いて、その人に托して「白うを」の句を贈ったものらしい。これに酬いた「わびぬれば」の句は、今伝わっている凡兆の句としては最後のものであるが、直接土芳に送ったのでなしに、土芳の消息を齎(もたら)した人に対して示すという程度だったのであろう。故人の情をうれしく思うよりも、先ず現在の境遇を恥ずるという心持が、この句によって窺われるように思う。
[やぶちゃん注:「蓑虫庵集」土芳著。元禄元(一六八八)年から宝永・正徳を経て享保一四(一七二九)年にかけて四十年余りの間に記したものの集成。以上の引用はまことにしみじみとした哀感の交感を湛えていて一読忘れ難い。
「海なき都」と言ったら、現行の認識では奈良しかないが、ここは京都のことか。]
凡兆の死に関する消息もまた『蓑虫庵集』中にある。
午の秋
はつ秋の比難波の老尼羽紅に文して
申侍る、凡兆子の事さてさて残念
無申斗候、事過て候へども
承候まゝなつかしさ申入候
此秋や夢とうつゝのふたり住
午というのは正徳四年である。凡兆の訃報は直に伝えられず、程経て土芳の耳に入ったと見える。「事過て」というのがどの位の時間を含んでいるか、「はつ秋の比」とあるのから考えて、亡くなったのがそれ以前であることは疑ないが、何とも見当がつかない。(凡兆を悼んだものとしてはなお「行春(ゆくはる)や知らば断(たつ)べき琴の糸 野坡」「西東どのかげろふに法の糸 許六」等の句がある。野坡は前の『小ばなし』の記事もあり、大坂時代に交渉があったものと思われるが、許六の方はあまり因縁のなさそうな人だけに注意を惹く。両句とも春の季であるところを見ると、凡兆の死はあるいは春だったのかも知れぬ)
[やぶちゃん注:前書の一行字数はブラウザの不具合を考えて私が勝手に変えた。この一句、土芳の優しさがよく表れている佳句である。
「午」「むま」「うま」。正徳四年(一七一四年)は甲午(きのえうま)である。
「無申斗候」「まうすばかりなくさふらふ」。
「行春(ゆくはる)や知らば断(たつ)べき琴の糸 野坡」管鮑断琴の交わりを引いて哀悼する。
「西東どのかげろふに法の糸 許六」この「かげろふ」は「糸遊」のことであろう。春の晴れた日に蜘蛛の子が草葉の先に登って糸を出しては風に乗じて空を浮遊して移動する生態を捉えたもので、漢語では「遊糸」と言う。蜘蛛の糸が光を受けて流れ乱れるさまは薄い絹織物(漢詩では「碧羅」)に喩えられ、蜘蛛の糸が光の加減で見えたり見えなかったりするところから、あるかなきかの儚いものの謂いともなった。「法の糸」は個人的には「のりのいと」と読みたい。「法(のり)の道(みち)」は仏語で「仏道」の意である。彌陀の衆生一切漏らさぬはずの網の目はどこにある?! と凡兆の死に人知れず慟哭して指弾する許六の悼句には飾らぬ深い悲哀が籠っている。]
土芳は更に享保七年に至って、次のように記している。
きさらぎ中旬難波の尼羽紅より又
懇にしたゝめて其内句有、
心ざしいざもうすべしさくら花
猶外にも一二句有、其返し消息に
申遣す
さくら咲け遠里人のこゝろばへ
[やぶちゃん注:「遠里人」「とほさとびと」。]
羽紅が凡兆歿後九年まで健在であったことは、この記載によって明である。「こゝろざしいざ申べしさくら花」の一句は、羽江の作として伝わっている最後のものであろう。三度まで句を贈って羽紅を慰めた土芳は、凡兆と如何なる交渉を持っていたか、杳(よう)としてたずぬべくもないのを遺憾とする。
[やぶちゃん注:前書の一行字数はブラウザの不具合を考えて私が勝手に変えた。前書中の羽紅の一句は頭を下げ、前後を一行空けた。この句も土芳の羽紅への思いやりに富んだいい句である。宵曲の述懐するように、その経緯(いきさつ)を知りたくなるほどに、である。]
丈艸の書いた『猿蓑』の跋には「洛下ノ逸人凡兆去来」といい「偶会ス二兆来ノ吟席ニ一」[やぶちゃん注:正字化して訓読すると、「偶(たまた)ま兆(てう)・來(らい)の吟席に會(くわい)す」。]といい、常に凡兆を先に書いている。子規居士は「大方凡兆の方が年上ででもあったからであろう」と解しているが、しばらくこの説に従う時は、去来の歿年五十三、凡兆はこれに後るること九年であるから、六十を大分越えていたわけである。凡兆の後半生は悲惨であったに相違ないが、そういう境遇に陥りながらも、京を去る遠からざる難波(なにわ)の地に、老妻と残生を共にし得たことを思えば、一概に悲惨とのみいい去るべきではないかも知れぬ。凡兆の句が歿後久しきにわたって正当な評価を得なかったのは、気の毒といえば気の毒であるようなものの、伯楽の出ずるに遇わぬ限り、千里の馬といえども槽櫪(そうれき)[やぶちゃん注:馬の飼料を入れる槽(おけ)。飼葉桶(かいばおけ)。転じて馬小屋の意もある。]に伏すのが世の常態である。衆愚の盲拝を受けるのが望なら、去って月並国(つきなみこく)の民(たみ)となるに如(し)くはない。少くとも現代においては、凡兆は天下知己なきことを憂えぬであろう。
[やぶちゃん注:宵曲の毅然たる正当な凡兆への評として心打たれる。凡兆はユダである。ユダは先鋭的なキリスト教布教推進者として復権されねばならないのと同じく、すこぶるシネマティクな詩想を持った凡兆も、今、復権されねばならない!]
山嶽の高さを云々する者は、その最高峯を計らなければならぬという。凡兆の高さを論ずる場合には『猿蓑』一部で十分である。明治以来の凡兆論は常にそれであった。しかし凡兆その人の面目を『猿蓑』だけに限ろうとするのは、頂上だけで富士を談ずるのと同じく、異論を生ずる虞がある。本文は即ち従来閑却されていた方面から、凡兆を観察したに外ならぬ。『一葉集(いちようしゅう)』の遺語によれば、芭蕉は凡兆に向って「一世のうち秀逸の三五あらん人は作者也、十句に及ぶ人は名人也」と告げたというのである。人を見て法を説く芭蕉は、凡兆に対してはかくの如き垂示の必要を認めたのであろう。この芭蕉の標準に従っても、凡兆は慥に作者の域を超えて名人の域に入っている。しかもそれを芭蕉の生前、『猿蓑』一部で果しているに至っては、何人もその超凡の資と異常なる努力とを認めざるを得まい。凡兆の全盛期は極めて短かったが、本質的に見て真に全盛の名に負(そむ)かぬものであった。
[やぶちゃん注:「一葉集」「俳諧一葉集」。仏兮(ぶっけい)・湖中編に成り、文政一〇(一八二七)年刊。言わば、松尾芭蕉の最初の全集で、芭蕉の句を実に千八十三句収録し、知られる俳文・紀行類・書簡・言行断簡(存疑の部なども含む)をも所収する優れものである。大正一四(一九二五)年紅玉堂書店刊の活字本の国立国会図書館デジタルコレクションの「569」ページ四行目に出る。]
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