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2020/06/20

三州奇談續編卷之五 菱脇の巨鰻

 

    菱脇の巨鰻

 今濱を出で、子浦(しほ)・杉の谷(や)・飯(いひ)の山など續く。左に大湖(おほうみ)を見る。是羽喰(はくひ)の海なり。「萬葉集」にも、

  志乎路からたゞ越くれば羽喰の海の

        朝なぎしたりふね梶もがも

此江の上流を「菱脇(ひしわけ)の汀(みぎは)」と云ふ。菱脇の名は「平家物語」にも見ゆ。則ち羽喰の海の北表(きたおもて)にして、大町・金丸(かなまる)と云ふ村に接し、千路(ちぢ)の人家を西に見る。桑・麻生ひ、靑田渺々たる汀なり。此西の際(きは)は美女山の麓なり。美女山は橫に折臥(をれふ)して七里に續く。遊女の打倒れたる形にも似たらんや。一の宮は此尾先(をさき)にして、此山の麓は一の宮神社祭禮の日、七尾へ出る神輿(みこし)の道なり。羽喰の海菱脇にては四角に見ゆ。是れ眼(まなこ)窄(すぼ)きが故ならん。子浦(しほ)・本江(ほんがう)・永光寺(ようくわうじ)の麓にては、此海を川の如く帶の如く細く見えしに、菱脇に下り立てば見るほど大(おほい)に替る。扨は幅も又數里に及ぶと思はるれ。此所(ここ)は長如庵公の歸國の時、畠山及び黑瀧の衆と合戰ありし所。實(げ)にも山兩方に對し、中廣く平(たいら)かなれば屈强の戰地、信州桔梗(ききやう)が原の地の理に良々(やや)似たり。此戰ひ如庵公勝(かち)に及びて、後(のち)能登一國悉く隨從すと聞ゆ。

[やぶちゃん注:「菱脇の巨鰻」は「ひしわきのおほうなぎ」と読んでおく。

「今濱」は現在の石川県羽咋郡宝達志水町今浜(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「子浦(しほ)」宝達志水町子浦

「杉の谷」子浦の北西に同発音の宝達志水町杉野屋(すぎのや)(グーグル・マップ・データ航空写真)がある。ここは御覧の通り、丘陵に挟まれた谷のような地形である。

「飯の山」その杉野屋のさらに北西に石川県羽咋市飯山町(いいやままち)がある。

「羽喰(はくひ)の海」干拓で今は羽咋川の幅広の中流部にしか見えない邑知潟(おうちがた)のこと。後注「菱脇の汀」にリンクしたスタンフォド大学の地図を参照のこと。

「萬葉集」「志乎路からたゞ越くれば羽喰の海の」「朝なぎしたりふね梶もがも」巻第十七の「守大伴家持の、春の出擧(すいこ)に諸郡を巡行し、時に當りて、屬(つづ)れる所の歌九首」中の第五首(四〇二五番。「出擧」は春に農民に官の稲を貸し付けて、秋に三割から五割の稲とともに貸与分を回収した貸借制度を指す)、

   氣太(けだ)の神宮(かむみや)に赴き參り、海邊を行く時に作れる歌一首

 之乎路(しをぢ)から直(ただ)越え來れば羽咋の海(み)朝凪(あさな)ぎしたり船楫(ふなかぢ)もがも

「氣太の神宮」現在の石川県羽咋市寺家町(じけまち)の能登一宮気多大社。但し、当時の能登は分立しておらず、越中国に属していた。「之乎路(しをぢ)」は富山県の氷見から石川県の羽咋に至る道の当時の地域呼称。限定するならば、まさに先の宝達志水町子浦附近に同定出来る。下句は「如何にも穏やかに朝凪しているではないか。ああ、あそこに舟を漕ぎ出したいものだ」の意。

「菱脇の汀」現在の石川県羽咋市菱分町(ひしわけまち)であるが、ここの北西の現在の羽咋川の川幅が有意に広くなっている部分は、往時は大きな邑知潟が広がっていた。スタンフォード大学の「國土地理院圖」(明治四三(一九一〇)年測図・昭和九(一九三四)年修正版)の「邑知潟」を見ても、現在との有意な違いがはっきりと判る。

『菱脇の名は「平家物語」にも見ゆ』どこにどう出てくるのか、多少は調べてみたものの、私には判らなかった。識者の御教授を是非とも乞うものである。

「大町」羽咋市大町が北東に他の複数の町を挟んであるが、これは後発のもので、昔は大きな潟湖であったことをお忘れなく。菱分周辺は嘗ては殆んど田圃であった。先のスタンフォードの地図を見よ。

「金丸」旧邑知潟北東岸の石川県鹿島郡中能登町金丸及びその南の石川県羽咋市金丸出町

「千路(ちぢ)」琴分の東の旧邑知潟対岸に当たる羽咋市千路町(ちじまち)

「美女山」菱分から東北に六・六キロメートルほど離れた、石川県鹿島郡中能登町能登部上(のとべかみ)にある眉丈山(びじょうざん)のこと。サイト「YamaReco」の「中能登「眉丈山丘陵」縦走~「雨の宮古墳群」探訪をかねて~」の下方の写真の説明の中に眉丈山は丘陵で、『長細すぎて、画面に収まり切』らないとあるのは、ここで麦水が『橫に折臥(をれふ)して七里に續く』とあるのと一致し(但し、実際は十六キロメートルで四里強しかない)、さらに『「眉丈山」の名前の由来は、羽咋市神子原町(みこはらまち)の山の上から、北側にあるこの丘陵を見たときに、美人』『の左の眉毛(まゆげ)のように見えたからだそうで』、『眉毛(びもう)山=美女(びじょ)山=眉丈山』となったそうであると説明されてある。

「一の宮神社」前の家持の歌で既注。

「眼(まなこ)窄(すぼ)き」自然地形或いは気象によって視野狭窄が生ずることを言っていよう。

「本江」羽咋市本江町(ほんごうまち)

「永光寺」羽咋市酒井町にある曹洞宗洞谷山永光寺(ようこうじ)

「長如庵公」複数回既出既注の、戦国から江戸初期にかけての武将で、織田家の家臣、後に前田家の家臣となった長連龍(ちょうのつらたつ 天文一五(一五四六)年~元和五(一六一九)年)のこと。「如庵」は彼の戒名。ウィキの「長連龍」を見られたい。

「畠山」同じく上記のウィキを見られたい。天正五(一五七七)年の上杉謙信の侵攻によって宗家は絶えた。

「黑瀧の衆」「近世奇談全集」は『愚瀧の衆』とするが、戦国に暗愚な私には不詳。識者の御教授を乞う。

「信州桔梗(ききやう)が原」長野県塩尻市街の北方から西方に広がる台地。西縁は奈良井川の深い侵食谷で限られるほか、東・北も浅い谷などで限られた火山灰土壌から成り、中世の宗良(むねなが)親王と小笠原長基(ながもと)との合戦や戦国末期に数度の戦場となった場所。但し、現在、それらの古跡は残っていない。古くは上記から北の松本市出川付近までの広域呼称であった。リンク地図ではその広い古い範囲を画面内に示した。]

 

 邊(このあたり)「四つ柳」といふ所の醫家某の話に、

 「元來此海は鰻の多き所にて、秋の末に及びては此鰻ども大海へ落つる。其時は羽喰川に網を張りて多く取得る。能く石麻呂(いはまろ)が夏瘦(なつやせ)を治すべし。

 然るに元文年中の頃にや、三十年ばかりも先と覺ゆ。葉月も過ぎての菱花(ひしのはな)は亂れ盡きて、水桔梗(みづききやう)の猶殘りたる冷風ながら、未だ午時(ひるま)は暑くして水邊を好む時なりし。予此汀に立休らひ、四方の躰(てい)を見居たるに、其日は風もなく漁舟一つも出でず。不思議の寂寥たる詠(なが)めなりしに、水面(みなも)に多く小さく黑き物立つこと夥しく見ゆ。怪しみて能く見るに、沖抔(など)猶多く、水を一二寸許(ばかり)出でて物を植ゑたる如し。ふしぎに思ひ、汀に能く寄りて是を見るに、鰻の頭(かしら)を出したるなり。足元の淺き波間にも、筆程の小首を出(いだ)したる小鰻共、人をも恐れず眞直(ますぐ)に立居(たちを)る躰(てい)なり。

『是はいかに』

と見るに、暫くして千路(ちぢ)の岸の方と覺え、

『ざわざわ[やぶちゃん注:ママ。]』

と音あり。怒潮(どてう)の風に起(おこ)るが如きながら、只一路に魚波(うをなみ)さだつ[やぶちゃん注:「騷立つ」。ごたごたする。]氣色にて、大町村の方へ登る。

 此時多くの鰻鱺(うなぎ[やぶちゃん注:「まんれい」でもよい。])の顏皆此方(こなた)へ向ふ。暫くして海の中へ打寄るやうに見えしが、眞中に大きさ一升樽程の黑き物、一尺許水面にさし上(あが)りて見ゆる。十四五町[やぶちゃん注:一・五~一・六キロ強。]も向(むか)ひのことなれば、此程を圖(はか)るに、近付けば二升樽か三升樽許の大(おほい)さにて、二三尺も水上の高さなるべし。其躰(てい)先づ黑きやうなる薄赤みの光あり。髭長く左右にはぬる。又烏帽子の折れたる如きもの後ろに見え、甚だ赤き筋も交り見ゆ。其頭(かしら)水に浮み出づるに、一同に數多(あまた)の鰻首(かうべ)を以て水を叩くこと二度なり。其音

『ばたばた』

と聞え、千杵(せんしよ)の碪(きぬた)[やぶちゃん注:砧に同じ。]暮時に起(おこ)るが如し。水煙(みづけむり)立てゝ慥(たしか)に禮(れい)物(もの)する氣色(けしき)なり。

 二度終りて後(のち)、此大頭(おほがしら)の者水に沉(しづ)みて見えず。又向ひの岸に立波(たてなみ)して下(しも)へ行くやうに見えしが、前後四方の鰻ども、一せいに從ふ振りにて、一時(いつとき)許は湖中(うみなか)に音ありて止まず。其時刻に至りては、漸々(やうやう)漁舟の網を打つ者も出で見えしが、跡にて尋(たづぬ)るに、

『不獵にて一疋も取り得ず』

とか咄しける。

 其年落鰻(おちうなぎ)甚だ數(かず)なく、何方(いづかた)ヘ從ひ行きしや、羽喰の川に鰻を見ることもなかりしが、十月過ぎて冬半(なかば)より又々多く取れたると聞えし。河伯(かはく)の魚臣(ぎよしん)をひきゆるは、古本(こほん)にも出で、前段放生湖(はうじやうのうみ)にも書きたれば、夫(それ)は衆魚を引き、殊に必ず赤鯉(あかごひ)の從ふことも聞きしに、是は只鰻鱺のみなり。扨は一家々々の別ありて、其行(ゆく)所替るにや。其理(ことわり)量るべからず。去れば此事を古き漁人に問ひしに。

『此海に限り必ずあることにて、大小は替れども、大方は隔年程に伏從(ふくじゆう)[やぶちゃん注:「服從」に同じい。]の躰(てい)見ゆることあり』

と云ひし。

 其人なくなりても十年餘なり。

 其後此年迄一向斯くの如きこと見たりと云ふ者なし。

 而して此海に領論起る。臣從の鰻鱺いかなる應ならん、不思議なり。

 思ふに其所(そのところ)は千路(ちぢ)より十町許上(か)み、一つ木の松の向ひ邊りの海中なりし』

と、美女山の川尻へ越ゆる峠の道をあてに、海へ指さして敎へられし。

[やぶちゃん注:「四つ柳」羽咋市四柳町。麦分の東直近。

「石麻呂が夏瘦」「万葉集」巻第十六の大伴家持の「瘦せたる人を嗤咲(わら)へる歌二首」の第一首(三八五三番)、

 石麿(いはまろ)にわれ物申す夏瘦に良(よ)しといふものぞ鰻(むなぎ)取り食(め)せ

に拠る、「夏バテによる夏痩せ」の言い換え。

「元文年中」一七三六年から一七四一年。吉宗の治世。「三州奇談」完成は宝暦・明和(一七五一年~一七七二年)頃と推定されるから、「三十年ばかりも先と覺ゆ」は概ね合致する。

「葉月」陰暦八月。

「菱花(ひしのはな)は亂れ盡きて」フトモモ目ミソハギ科ヒシ属ヒシ Trapa japonica の開花は夏から秋の七月から十月にかけてで、取り敢えずは合致する。

「水桔梗」キク亜綱ゴマノハグサ目タヌキモ科タヌキモ属ムラサキミミカキグサ Utricularia uliginosa か。情報少なく、同定不能。

「河伯」水神。次の注のリンク先の私の当該注を参照されたい。

「前段放生湖」「三州奇談續編 卷之一 龜祭の紀譚」を指す。

「赤鯉の從ふ」前のリンク先の「夫は何とやら古き本にも聞きし咄しなり。若や『東湖の赤鯉』の云ひ違へにや」の私の注を参照。

「一家々々の別」水族の種類に拠ってその従う眷属・家臣が異なること。

「此海に領論起る」羽咋の漁師間で海域の漁業権の争いが発生したということであろう。

「千路(ちぢ)より十町許上(か)み」ということは、一・九キロメートルも上流ということになる。完全な淡水域である。

「美女山の川尻へ越ゆる峠の道をあてに」最後は「その道辺りを目視して」の謂いであろう。

 最後に。この巨大な祖神的ウナギは何か? 私は叙述から真っ先に想起したのは、その突き出た頭部とするもののミミクリーから、異様に巨大な

刺胞動物門ヒドロ虫綱クダクラゲ目嚢泳亜目カツオノエボシ科カツオノエボシ属カツオノエボシ Physalia physalis

であった(厳密には医師が視認出来たのはその気泡体だけであるが)。多くの水面上部にいる鰻が激しく礼をするかの如く跳ね上がるのは、その触手の刺胞に刺されて苦しんでそうするのだと思ったからである。気泡体が高さ一〇センチメートルの個体でさえ、触手体は周囲一〇~三〇メートルに広がり、海中は非常に広い範囲で危険である。汽水である邑知潟の最深部の淡水域まで来ると言うのも、自立的指向性運動性能を全く持たない彼らにして、おかしくはなく、風に吹かれれば、どこまでも行く。しかも淡水域に入り込んで死んでも、彼らは各部が独立した特化した群体なのであり、刺胞体の刺胞機能や毒は完全に維持される(刺胞の発射も純粋に物理的であって死後に渚に上がって乾燥しても長くしっかり射出機能と強毒が保たれる)。しかしこれ、残念ながら、同種は日本海側に出現することは普通は、ない。若狭湾で稀れに漂着が認められるから、能登に来ないとは言えないものの、まあ、そうそうはなかろう(元気なそれをたまたま現認したとすれば、この話は生物学的にも特異点の貴重なケースと言えるかも知れない)。そこはちょっと残念だ。

実は今一つの可能性を考えてはいる。それは小型のクジラが鰻を一気呑みするために水中で直立し、頭部を突き上げて下顎のみを水面に平行に九〇度近く開いた可能性だ。しかし、そのようにいくら何でも邑知潟の最奥部の深さが、小型のクジラが立ち泳ぎ出来るほどに深かったというのは考え難いから、これもダメか。

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