北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) 願人坊
願人坊
雪のふる夜(よ)の倉見れば
願人坊(ぐわんにんばう)を思ひ出す。
願人坊は赤頭巾(あかづきん)、
目も鼻もなく、眞白な
のつぺらぼんの赤頭巾。
「ちよぼくれちよんがら、そもそもわつちが
のつぺらぼんのすつぺらぼん、すつぺらぼんののつぺらぼんの、
坊主になつたる所謂因緣(いはくいんねん)きいてもくんねへ、
しかも十四のその春はじめて」…………
踊(をど)り出したる惡玉(あくだま)が
願人坊の赤頭巾。
かの雪の夜(よ)の酒宴(さかもり)に、
我(わ)が顫へしは恐ろしきあるものの面(かほ)、「色のいの字の」
白き道化がひと踊(をどり)…………
乳母の背なかに目を伏せて
恐れながらにさし覗(のぞ)き、
淫(みだ)らがましき身振(みぶり)をば幽かにこころ疑(うたが)ひぬ、
なんとなけれどおもしろく。
「お松さんにお竹さん、椎茸(しいひたけ)さんに干瓢(かんぺう)さんと…………
手練手管」が何ごとか知らぬその日の赤頭巾、
惡玉踊(あくだまをどり)の變化(へんげ)もの。
雪のふる夜(よ)の倉見れば
願人坊を思ひ出す。
雪のふる夜(よ)に、戯(おど)けしは
酒屋男(さかやをとこ)の尻かろの踊り上手のそれならで、
最(もと)も醜(みにく)く美しく饑(う)ゑてひそめる仇敵(あだがたき)、
おのが身の淫(たはれ)ごころと知るや知らずや。
[やぶちゃん注:終わりから二行目の「醜(みにく)く」は原本ではルビが『みくに』となっている。これは明らかな植字工の誤植で、確実に躓くので、特異的に訂した。「くんねへ」はママ。
「願人坊主」とは僧形の大道芸人で、本来は、依頼者に代わって寺社を代参したり、願掛けや講中の代待(だいまち)・代垢離(だいごり)をした宗教的代願職を行う者を指した(元来は江戸東叡山寛永寺の支配下で僧侶の欠員を待って僧籍に入ることを願っていた者たちを指すとする説もある)。江戸時代には藤沢派(羽黒派)と鞍馬派の二派があり、江戸の市街地で集団生活をしていた。元禄頃(一六八八年~一七〇四年)になると、馬喰(ばくろう)町や橋本町に住み、天保頃(一八三〇年~一八四四年)には芝新網町・下谷山崎町・四谷天竜寺門前附近に居住していた。判じ物や各種の怪しげな祈禱・庚申の代待等を請け負って行う一方、諸芸を見せては乞食(こつじき)した。「半田行人(はんだぎょうにん)」「金毘羅行人」「すたすた坊主」「まかしょ」「わいわい天王」「おぼくれ坊主(ちょぼくれ、ちょんがれ)」「阿呆陀羅経(あほだらきょう)」「住吉踊り」などの多様な異名があり、これらの名が彼らが見せて物貰いをした大道芸の多種多様であったことを物語っている。それらの芸は、滑稽・諧謔に富み、卑俗なものであったため、民衆に親しまれた。門付(かどづけ)の祭文(さいもん)も語り、後の「浪花節」や「かっぽれ」に影響を与え、歌舞伎にもその風俗芸能が取り入れられた(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。なお、彼らは被差別民であった非人扱いであった。個人ブログ「TOKYO “Metanoia”」の「願人坊二態⑴」と「願人坊二態⑵」に、ジーボルトが長崎の町絵師川原慶賀に江戸の民の百九態を描かせた画帳からのそれが載る。「赤頭巾」のニュアンスが判る。因みに、そろそろよかろう、私が昔、電子化した『「思ひ出」と幼年心理 萩原朔太郎』をリンクさせておく。]
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