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2020/06/24

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 凡兆 三

 

       

 同じ年の十二月に柴田笥浦氏編の『凡兆句集』が出た。この書には当然『荒小田』の句も取入れられており、総計百十三句、これまで凡兆の句を集めたものの中で、最も多数に上っていることはいうまでもない。その中から『荒小田』所収のものを除き、『俳家全集』その他に見当らなかった句を左に挙げる。

[やぶちゃん注:「同じ年の十二月に柴田笥浦氏編の『凡兆句集』が出た」これは前章「二」の頭まで遡っての謂いで、「竹冷文庫」の一冊として星野麦人校訂に成る「荒小田」が覆刻された大正一四(一九二五)年のことを指す。同年十二月に天青堂の俳句叢書の一冊として「凡兆句集 附 羽紅女句集」として出版されている。編者は「しばた すほ」と読む。本名は勉治郎。俳人で俳諧研究家であった以外は詳細事蹟不詳。同初版は国立国会図書館デジタルコレクションの画像で総て読め、一発で一冊丸ごとダウンロード出来る。]

 大としをおもへば年の敵かな   凡兆(去来抄)

[やぶちゃん注:「敵」は「かたき」。一年の掛け買い借金の総支払いをせねばならぬ大晦日というのは、考えてみると年来の仇に毎年末に必ず遭って対峙しているようなものではないか? 毎年巡って来る大敵じゃ! 大晦日さへなければ太平じゃのに! と諧謔して言い放ったもの。但し、この句については、「去来抄」の「先師評」に、

   *

   大歲をおもへバとしの敵哉  凡兆

元の五文字「戀すてふ」と置て、予が句也。去來曰、「このほ句に季なし。」。信徳曰、「『戀櫻』と置べし。花騷人のおもふ事切也。」。去來曰、「物に相應あり。古人花を愛して明るを待、くるゝをおしみ、人をうらみ山野に行迷ひ侍れど、いまだ身命(しんみやう)のさたに及ず。『櫻』とおかば、却て『年の敵哉』といへる處、あさまに成なん。」。信德(しんとく)、猶、心得ず。重て先師に語る。先師曰、「そこらハ信徳がしる處にあらず。」ト也。其後凡兆、「大歳を」と冠す。先師曰、「誠に是の一日千年の敵なり。いしくも置たる物かな。」と、大笑し給ひけり。

   *

と出ているので、作者はやや微妙である。訳文風に注しておくと――最初に向井去来が、

 戀すてふおもへばとしの敵哉  去來

と「千年の恋」を詠じようとしたものの、季詞がないので困って信徳に相談した。

◎「信德」は伊藤信徳(寛永一〇(一六三三)年~元禄一一(一六九八)年:芭蕉より十歳年上)で京都の豪商で俳人。当初は高瀬梅盛に師事するが、談林派に転じ、延宝五(一六七七)年に江戸に下って松尾芭蕉・山口素堂と百韻三巻を興行、翌年「江戸三吟」として刊行するど、蕉門と親しく交わっていたが、貞享・元禄(一六八四年~一七〇四年)にかけて、芭蕉と信徳の俳壇的地位がともに高まって拮抗するにつれ、仲は疎遠となったが、元禄期の京俳壇を代表する存在であった。

さても、彼は去来の千年の「恋」を残しつつ、

「されば、

 戀櫻おもへばとしの敵哉    信德

とするがよい。風狂人は『桜』の散るを惜しんで新春の到来とともに咲かばすぐ散る桜を愛でるものなれば、それを仇とせばよかろう」

と応じたのだが、去来は

「いや、ものには分相応の釣り合いというものがある。確かに、古えより、文人墨客は桜の花を愛(め)で、夜の明くるを待かね、日の暮るるを惜しみ、その瞬く間に散り消えゆくをば人の心の変わりやすさにさえにたとえて恨みつつも、山野に行き迷いてまで観桜致しはすれど、さりとて、これ、生死(しょうじ)に関わる如き『仇』であったためしはない。しかも、『戀櫻』では『千年の恋』と『桜への思い』があからさまになるばかりか、その『恋』と『桜』二つの方が思いもしなかった対立分離を成し、対関係のように剝き出しに浮き上がってきてしまって、拙者が当初の創意した句想とは全くかけ離れた、訳のわからぬ句になってしまう。」

と答えた。しかし信徳はその反論に承服しなかった。

 そこで再度、師芭蕉に伺いを立てたところが、

「その辺りの俳趣は信徳の認知出来るところでは、これ、ない。」

とのみ答えた。

 ところが、後、凡兆がこの句に「大歲を」と被せた。

 それを聴いた芭蕉は「流石は凡兆じゃ! まことに、これ、『一日千年の敵(かたき)』ではないか! いや! 実に見事にかく言い置いたものじゃのう!」

と呵々大笑しなさったのであった――というのである。則ち、本句は実は中七座五は去来のものが元であって、上五のみが凡兆という合作ということになる。しかも、この「去来抄」の記載から、一九八九年岩波文庫刊の堀切実氏の編注になる「蕉門名家句選(下)」の本句の評釈によれば、これは凡兆が「猿蓑」の撰に携わっていた元禄四(一六九一)年頃のエピソードと推定出来るのである。]

 猪の首のつよさよ花の春     同(俳人百家撰)

[やぶちゃん注:「猪」は「ゐのしし」。堀切氏の前掲書では本句を評釈されて(但し、堀切氏は「猿舞師」に基づいて引いているため、宵曲が後で述べるように、

 猪の首のつよさよ年の暮

の句形である)、『元緑七年の暮、罪を得て獄中にあったときの吟である。不運にして、いま獄中に年の暮を迎えようとしているが、来年は亥の年である[やぶちゃん注:翌元禄八(一六九五)年は乙亥(きのとゐ)であった。]――あの猪(亥)の首の強さを見習って、これからはまた何物にも負けず、真っしぐらに進んでゆきたいものだ、と決意を表明した句である。獄中にあっても、なお傲然(ごうぜん)たる意気の強さを失なわない凡兆の姿を象徴しているのである』とある。また、本句の出所の一つとして堀切氏が挙げておられる高桑闌更(享保一一(一七二六)年~寛政一〇(一七九八)年:生家は加賀金沢の商家。和田希因に学び、蕉風復古を唱えて京で芭蕉堂を営んだ)編「誹諧世説」(天明五(一七八五)年刊)の原本を「早稲田大学図書館」公式サイト内の「古典総合データベース」に見つけた(三種ある内の中央のものを用いた)ので、当該部「凡兆獄中歳旦の說」を以下に電子化しておく(一部は後の「附記」で宵曲も引いてはいるが、尻が切れてしまっている)。歴史的仮名遣に一部誤りがあるが、総てママである。

   *

    凡兆(ぼんちやう)獄中(ごくちう)歳旦(さいたん)の說

凡兆は、もと金城の產(さん)にて、洛(らく)に住(ぢう)し、醫業(いぎやう)をもて世わたりとす。嘗て罪有(つみある)人にしたしみ、其連累をかふむりて、獄中(ごくちう)に年を明(あか)しけるに、其明(あく)る年(とし)牢中(ろうちう)にて、

   猪(いのしゝ)の首(くび)のつよさよ花の春 凡兆

   陽炎(かげらう)の身にもゆるさぬしらみ哉

なと、聞(きこ)へたるに、聞人淚(なみだ)をおとさずというふ事なし。かくて身にあやまりなき申ひらき、上天(しやうてん)に通じ、程(ほど)なく累絏(るいせつ)の中を出てふたゝひ悅びの眉(まゆ)をひらきけるに、あたの此世をあさましとのみ思ひとりけるにや、果(はて)は亡名(ばうめい)してすがたしれずなりにけるとぞ。

   *

「あたの」は判読に迷ったが、「徒(あだ)の」で「空しい・はかないものである」の意で採った。個人的には――堀切氏や宵曲に悪いが――「花の春」の方がこのエピソードに残すに優れた表現だと私は思う。]

 かげろふの身にもゆるさぬ蝨かな 同

[やぶちゃん注:「蝨」は「しらみ」。前注参照。]

 藪蔭の足軽町や残る雪      同(俳人百家集)

[やぶちゃん注:「俳人百家集」江戸後期の川柳作家で五世川柳を襲名した緑亭川柳(天明七(一七八七)年~安政五(一八五八)年:本名は雅好、通称は金蔵。幼くして父を亡くし佃島の漁師に養われた。後に魚問屋・名主となった。二世川柳柄井弥惣右衛門に川柳を学んだ)の編したもの。この句、如何にもつまらぬ句である。]

 ひめゆりやちよろちよろ川の岸に咲く 同(画讃真蹟)

   神祇

 鈴虫や浮世にそまぬ神の庭    同(真蹟短冊)

 川音の芒ばかりとなる夜かな   同(俳諧発句全集)

[やぶちゃん注:「俳諧発句全集」不詳。しかしこの句は私は好きだ。]

 くれて行く秋や三つ葉の萩の色  同(三河小町)

[やぶちゃん注:「三河小町」白雪編。元禄一五(一七〇二)年刊。]

 萩の葉やいかなる人の指の跡   同

 くだけたる船の湊やほとゝぎす  同

[やぶちゃん注:強烈な台風が過ぎた後の港の廃景に、生き生きとした鋭い不如帰の一声を添えた対位法的リアリズムが斬新でよい。]

 真蹟によるものは姑(しばら)く措(お)く、後人の手に成った類題集その他のものは、多少疑問の点がないでもない。例えば「猪」の句、「かげろふ」の句を挙げた緑亭川柳(りょくていせんりゅう)の『俳人百家撰』の如きは、子規居士のいわゆる「編輯家」の編著で、時代も遥に下っており、その内容も信憑するに足らぬ俗書である。居士は早く明治二十七年[やぶちゃん注:一八九四年。]中にこの書の杜撰を指摘している位だから、凡兆の二句の如きも目に触れていたに相違ないが、これを採って『俳家全集』に収めなかったのは、けだしその書の資料とし難いためであろう。『凡兆句集』の編者たる笥浦氏も『百家撰』の記事を以て典拠の明ならざるものとし、「信用の置かれぬのを遺憾とする」と断じているにかかわらず、両句を『百家撰』によって挙げたのはどうしたものであろうか。「猪の首の強さよ」の句は、種文(しゅぶん)編の『俳諧猿舞師(さるまわし)』(元禄十一年[やぶちゃん注:一六九八年。]刊)に特に「読人しらず」としてこれを掲げている。但『猿舞師』は下五が「年の暮」となっているが、『百家撰』の典拠が明でないならば、これに従うより仕方がなさそうである。『韻塞』に「門前の小家もあそぶ冬至かな」が「不知作者」となっていることは前にも一言した。かつて『猿蓑』において作者の明になっている句を、わざわざ「不知作者」として掲げるには何らかの事情がなければならぬ。『韻塞』は元禄九年刊であるから、『猿舞師』より二年早い勘定になるが、とにかくこの辺に至って凡兆のために名を裏(つつ)む必要を生じたのではあるまいかと想像する。

[やぶちゃん注:既に述べた通り、凡兆の釈放は元禄一二(一六九九)年か翌年頃と考えられているから、以上の事実からは最低でも三年か四年ほどは下獄していたことになる。]

 「かげろふ」の句は『百家撰』以外何に出ている句かわからず、『凡兆句集』がこれを冬の部に入れている理由も明瞭でない。それよりも更に不審なのは、同書の後記に

[やぶちゃん注:確かに不審である。ここである。「かげろふ」(陽炎)は春の季題であり、「蝨」(しらみ・虱)は季題としての使用例が極めて少なく、歳時記でも「三秋」或いは「秋」としたり、「夏」としたりしていて信用におけない。

 以下引用は全体が二字下げ。前後を一行空けた。]

 

「かけろふ」の句は草士(そうし)編の『ねなし草』にも採られているし、他の一句も確かな反証がないから、一応採録することにした。因に附言して置きたいのは、この「かけろふの」の句は『ねなし草』に「囚にありしとき」と前書を附してあるが、編者の草士は盲人であって、記億を辿って編輯したので、従って誤謬を伝えないともいえないから、暫く『俳人百家撰』のままにして置いた。

[やぶちゃん注:以上は「凡兆句集」の「後記」のここから次のページにある。

「草士(そうし)編の『ねなし草』」宝永六(一七七七)年序・跋。]

 

とあることである。草士が自ら諳(そらん)じた百句を並べて『ねなし草』と題したことは、集中に「やつがれ二十とせ眼を愁へて諸集にくらく万境にうとし、そらんじたる百句を爰にならべけるに虚空のねなし草とぞなれる」とある通りであるが、盲目の一事を以て収にその内容に不信用の札を貼るのは、いささか早計に失しはしないだろうか。笥浦氏のこの言は十分『ねなし草』を点検された結果と思われるが、「かげろふの」の句は『ねなし草』のどこにも見当らない。集中唯一の凡兆の句は「かゝる身を蝨のせむる五月かな」で、「囚にありしとき」の前書はこれについているのである。『ねなし草』の出版は宝永六年であり、これから逆算すると、二十年前は『猿蓑』出版以前に当る。草士は芭蕉歿後に出現した俳人でもなさそうだし、巻首に尚白の序もあるから、さほど信頼すべからざる書とは思われぬ。盲人の記億はむしろ目あきよりいいものがありはせぬかという気もするが、とにかく「囚にありしとき」の前書が「かげろふの」の句でなしに、「かゝる身を」についている以上、『ねなし草』に対する今の説は的を外れたわけである。「かゝる身を」の句は子規居士も『俳家全集』中にこれを収め、笥浦氏も『袖草紙(そでぞうし)』によってこれを採録している。両句共に獄中において蝨に悩まされることを詠じたらしいが、緑亭川柳はどこから「かげろふの」の句を得来ったか、『百家撰』が杜撰の書であるだけに、今少し確実な出所を知りたいと思う。

[やぶちゃん注:「尚白」(慶安三(一六五〇)年~享保七(一七二二)年)は近江大津の人で医を業とした。姓は江左(こうさ)。本姓は塩川。初め貞門・談林の俳諧を学んだが、貞享二(一六八五)年に芭蕉の門に入った。近江蕉門の長老として、「孤松(ひとつまつ)」「夏衣(なつごろも)」などの俳書を編したものの、蕉風後期の展開について行けず、芭蕉から離反した。芭蕉より六歳つ年下。既出既注であるが、再掲した。

「袖草紙」片石編。享保二一(一七三六)年刊。]

 笥浦氏はまた「凩や廊下のしたの村すゞめ」という夕兆(せきちょう)の句が、従来しばしば凡兆に誤られていることを指摘している。これは正にその通りで、『有磯海』を見れば自ら明な事実であるが、『凡兆句集』にも同様の誤が全然ないわけではない。

[やぶちゃん注:「夕兆」以上は「凡兆句集」の「後記」のここに出、

   *

大須賀乙字編「春夏秋冬」外數多の書籍に

  凩や廊下のしたの村すゞめ

を凡兆の句として採錄してゐるが、此句は夕兆といつて、有名な浪化上人の連衆の一人で、越中井波の人の句である。浪化編「有磯海」に出てゐるのを、夕と凡とを見誤つたものであらう。

   *

とある。「有磯海」は正しくは「浪礒海 浪化集上」で、浪化編で元禄八(一六九五)年刊である。]

     馬の息ほのかに白しけさの霜

の句を『類題発句集』によって収めているが如きはそれである。「俳諧文庫」の『類題発句集』には「凡兆」となっているけれども、『有磯海』に

     馬の息ほのかに寒しけさの霜  民丁

とあるのみならず、『俳句分類』は同じく『類題発句集』から「夕兆」として挙げているから、凡兆になったのは活字本以後の誤ではないかと思われる。『有磯海』所載の句が二度まで凡兆と誤られたのは、偶然かも知れぬが不思議な事実というべきであろう。

[やぶちゃん注:「早稲田大学図書館」公式サイト内の「古典総合データベース」の「有礒海」の当該部で確認出来た。そこには「民丁」の号の右上に「せゝ」とあるので、滋賀大津の膳所の近江蕉門の俳人である可能性が高いことが判る。]

 『三河小町』は『荒小田』より一年おくれて元禄十五年に出版された。集中に収められた凡兆の句は三句に過ぎぬが、他のいずれの俳書にも見えず、後の類題集等にも採録されぬ句ばかりである。但[やぶちゃん注:「ただし」。]句としてはあまり面白いものではない。

 凡兆の句の蒐集は『凡兆句集』の出現によって一段落を告げた形であったが、私はその後もまだ気長に捜す態度を捨てなかった。活字になって出版される元禄期の俳書の中には、極めて稀に凡兆の句がある。野紅(やこう)撰の『小柑子(しょうこうじ)』、知方(ともかた)撰の『はつたより』――これら集中のものは各一、二句に過ぎぬが、いずれも『荒小田』所収の句と重復していた。『俳家全集』にも『凡兆句集』にもあって、三宅嘯山(みやけしょうざん)の『古選』以上に遡れなかった「煤掃や餅の序になでゝおく」の句が、『元禄百人一句』によって加生時代の作たるを慥(たしか)作得たような、小さな発見もあった。そういう中で新に見出し得た凡兆の作は大体次の如きものである。

[やぶちゃん注:「野紅撰の『小柑子』」元禄一六(一七〇三)年自跋。

「知方撰の『はつたより』」書名は「初便(はつだより)」で元禄十五年序・跋。

「三宅嘯山の『古選』」三宅嘯山(享保三(一七一八)年~享和元(一八〇一)年)は儒者で俳人。京生まれの質商であったが、儒者としては青蓮院宮の侍講を務めた。一方、望月宋屋(そうおく)に俳諧を学び、炭太祇・与謝蕪村らと交わり、漢詩にも優れ、中国白話小説にも通じた。彼の「俳諧古選」(これが正式名称)などの評論では元禄期への復帰を提唱した。

「元禄百人一句」江水編。元禄四(一六九一)年成立。]

 月晴てさし鯖しぶき今宵かな     加生(江鮭子)

[やぶちゃん注:「つきはれてさしさばしぶきこよひかな」。堀切氏の前掲書の評釈に、『盆の会食でのことであろうか。宵の空は晴れて月は皓々と照っているが、食事に供された刺鯖の味はやけに渋いことだというのである。塩づけにした刺鯖はもともと舌を刺すほど塩辛いものであるが、その感触を明月の夜の晴れやかな雰囲気と対照させたのであろう』とされ、「月晴て」で秋の季題、「さし鯖」は『鯖を背開きにして塩でつけ、二枚をひと重ねとして、これを一刺という。仏事につながる行事に用いるもので、特にお盆の会食などには必ず出されたもの』とされ、これも『秋の季題』とある。

「江鮭子」はこれで「あめご」と読む。蕉門で芭蕉の之道(しどう:伏見屋久右衛門。大坂道修町の薬種問屋の主人で大坂蕉門の重鎮の一人であり、芭蕉の最後を看取った一人である。芭蕉の大坂行の一つは、彼が近江膳所の医師で近江蕉門の重鎮の一人であった浜田酒堂と対立していた和解仲介の目的があった)編で元禄三(一六九〇)年自序。因みに、書名はサケ目サケ科タイヘイヨウサケ属サクラマス亜種サツキマス Oncorhynchus masou ishikawae の地方異名。アマゴ(但し、一説には独立種とする見方もないではないが、研究が進んでいない)。]

 こりもせで今年も萌る芭蕉かな    凡兆(弓)

[やぶちゃん注:「萌る」は「もゆる」。本句は芭蕉へのあからさまな批判句として知られる。押切氏の前掲書の評釈では、『今年の春もまた、性懲りもなく芭蕉の芽が萌え出てきたことだ、という句意である』が、実は凡兆が加わった「猿蓑」の『撰集の終わったあと、師芭蕉から離反していった凡兆の、師に対するあてこすりの意を露骨に表わしたものであろう』とある。ここにある「弓」は元禄六(一六九三)年九月刊の壷中編になる俳諧選集「俳諧弓」であるが、これは『越人・野水・凡兆らによる反芭蕉の風を含んだ撰集であったとされる』とある。]

 蜻蛉の藻に日をくらす流かな     同

[やぶちゃん注:「蜻蛉」は「とんぼう」、「流」は「ながれ」。堀切氏の前掲書評釈に、『川の流れの上にちょっと先端を出した水草に止まっていた蜻蛉が、つういと飛び去っていったかと思うと、しばらくしてまた元のところへ戻ってくる――そんなことを何度もくり返しながら蜻蛉は日を暮らしているように見える、というのである、叙景的な構図の句であるが、そこに時間的な経過も表わされているのである、「藻に日をくらす」とはかもしろいとらえ方である』とある。私の好きな句である。]

 雪ふるか燈うごく夜の宿       同

[やぶちゃん注:「燈」は「ともしび」。同じく堀切氏の評釈。『冬の夜、外では雪が降っているのであろうか、室内の狐灯の下に静かにすわっていると、灯火の焔(ほのお)が微かにゆらめいているというのである。物音一つしない中で、寒さは部屋の中までひしひしと迫ってくるのである。句調も緊密で、冬の夜の情趣がよくとらえられている』とある。全く以って同感の佳句である。]

 若草に口ばしぬぐふ烏かな      同(曠野後集)

[やぶちゃん注:「曠野後集」(あらのこうしゅう)は荷兮編元禄二(一六八九)年序。同じ荷兮編の「曠野」の四年後(序による)の撰集。]

   越人にあふて

 をとこぶり水のむ顔や秋の月     同

[やぶちゃん注:堀切氏前掲書評釈に、『元禄三年八月、近江幻住庵の芭蕉を訪問した折、同門の越人に会し、初対面の挨拶として詠んだ句である。秋の月が皓々と照る下で、水を飲むあなたの男ぶりがまことに美しいというのである』とあり、『元禄三年八月四日付千那宛芭蕉書簡に「加生、越人へ挨拶」として出る句』で、「礦野後集」には『「越人にあふて」と前書』とある。]

 植松やそのやどり木の山つゝじ    同(柞原集)

[やぶちゃん注:「柞原集」は「ははらそはしゅう」と読む。句空編で元禄五年刊。人の植植えた松の根の絡まる窪みであろうか、宿り木のようにして山躑躅が咲いているというのであろうが、どうも博物テンコ盛りで私は気に入らない。映像は「山つゝじ」に次第にアップしてゆくのであろうが、「植」「その」「やどり木」的なと、説明的なマルチ・カメラであって感動の焦点がすっかりぼけてしまっている。]

 たがために夜るも世話やくほとゝぎす 同

 うつくしく牛の瘦たる夏野かな    同

 綿ふくや河内も見ゆる男山      同

[やぶちゃん注:堀切氏前掲書評釈に、『晴れた日、男山に登ってみると、遥か河内の方まで見渡せるひろびろとした眺望がひらけ、麓のあたりには、白く咲いた綿畠の風景が続いている。綿吹くころの晩秋の澄み切った空が目に浮かぶような気持のよい句である』とされ、綿(アオイ目アオイ科ワタ属アジアワタ Gossypium arboretum は、『夏期に、淡黄色または白色の五弁花を開いたあと、花の季節が終わると、子房が発達して桃の実のようなかたちの蒴果(さっか)』(果実の内で乾燥して裂けて種子を放出する裂開果のうちの一形式名。果皮が乾燥して基部から上に向って裂ける。身近なものではアサガオ・ホウセンカなどがそれ)『となり、やがて成熟して乾燥すると三つに裂(さ)けて、内部の白い棉毛を露出するようになる。これを開絮(かいじょ)と呼び、俳諧では「綿吹く」または「桃吹く」という。秋の季題』と注され、「男山」は『都の南部にある山。山頂に石清水八幡宮がある』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 七夕の夕月や鈍(どん)に暮かぬる  同

[やぶちゃん注:この読み、無論、底本のルビなのであるが、どうも「どん」は私は生理的に気に入らない。これは「にび」ではないのか? 月が出ているが、まだ濃鼠(こいねず)の空で暮れかねていて、天の川や牽牛も淑女も未だよく見えぬと言うのであろう。

 白露と花にかへつゝ芋畠       凡 兆

[やぶちゃん注:この芋は里芋(単子葉植物綱オモダカ目サトイモ科サトイモ属サトイモ Colocasia esculenta であろう。本邦のサトイモは一般には「花が咲かない」と言われる(但し、実際には着花することはある。着蕾した株の中心に、葉ではなく鞘(さや)状の器官が生じ、次いでその脇から淡黄色の細長い仏炎苞を伸長させる。花は仏炎苞内で肉穂花序を形成する。以上はウィキの「サトイモ」による)ことから、上五と中七が腑に落ちる。サトイモの葉の露は物心ついた頃からの私の偏愛物である。]

 富士の野や鹿臥とこの片さがり    同

[やぶちゃん注:「鹿臥とこの」は「鹿(しか)臥(ふす)とこの」。]

 枯るほど鵜の来てねるや松の色    同

[やぶちゃん注:「枯る」は「かるる」。]

 くま笹のうき世見あはすかれ野かな  同

[やぶちゃん注:冬に向けて隈取をした熊笹(ここでは種群ではなく、大型の葉を持った笹類と私は摂る)の葉の群生は、何となくそれぞれの葉の個群が互いに顔を見合わせるような感じはする。また、熊笹の類は山地に多く、「うき世」との境界にもある。]

 『俳家全集』において加えられた十八句、次いで補われた六句、『荒小田』の三十四句(重複の分を除く)、更に『凡兆句集』において追加された十句を合せると、総計百十二句になる。『凡兆句集』は全部で百十三句あるけれども、「馬の息」の一句は削除しなければならぬからである。『猿蓑』の四十四句以外に多く伝わらぬと称せられた凡兆の句が、百を超えただけでも驚かなければならぬのに、「弓」以下の十四句を加えれば、殆ど三倍近くの数になろうとしている。明治時代の凡兆論が『猿蓑』に限って論ぜられたのは、あの時代としては已むを得ないが、現在これだけの句が発見された以上、凡兆論の内容も当然修正されなければならぬわけである。『猿蓑』の価値を尊重するの余り、他の句を顧みようとせぬのは、研究に忠実ならざるばかりでなく、凡兆に忠実なる所以でもない。

 われわれは手許に集った材料を一切ぶちまけて、『猿蓑』以外の方角から、少しく凡兆の面目を窺って見ようかと思う。古俳書の多くが好事家の手に帰し、徒(いたずら)に高閣(こうかく)に束(つか)ねられていることも久しいものである。大正末葉以来、凡兆の句が頻に発見されたについても、その一半は古俳書覆刻の功に帰すべきであろう。例えば『荒小田』一部だけにしても、もっと早く人の目に触れる機会があったならば、凡兆研究の上に何らかの影響を与えていたに相違ない。われわれはこの意味において、古俳書の続々活字になって現れることを希望している。最近目についた『柞原集』の九句の如きも、『加越能古俳書大観(かえつのうこはいしょたいかん)』の出版によってはじめてその機を得たわけであるが、古俳書の中にはこういう凡兆の句がまだいくらもあって、寂然(せきぜん)と声を収めているのではないかと思うと、何となく歯痒(はがゆ)いような感じもする。凡兆のような資料の乏しい作家にあっては、一句といえども軽々に看過することは出来ない。類題集中にのみ伝えられている句の出所を突止めて、時代の先後を考える必要もある。網は今後も長く張って置かなければならぬが、しばらくこの辺を以て一区切にしようとするのである。

[やぶちゃん注:「高閣に束ねる」書物などを高い棚の上に束ねて載せたまま読まずにほうっておくの意。「晋書」の「庾翼(ゆよく)伝」に拠る故事成句。庾翼が才名高かった杜乂(とがい)と殷浩(いんこう)を重んぜずに、彼らの書いた書物を高閣に束ね上げ、「天下が泰平になってから二人の任を論議しよう」と語ったことに由る。

 以下、の「附記」は前が一行空けで、全体が二字下げポイント落ちである。]

 

   (附 記)

 その後奈良鹿郎氏の示教によって「かげろふの身にもゆるさぬ蝨かな」は闌更(らんこう)の『俳諧世説(はいかいせせつ)』に出ていることを知り得た。「凡兆獄中歳旦の説」の題下に「凡兆はもと金城の産にして洛に住し医業をもつて世わたりとす、嘗て罪有人(つみあるひと)にしたしみ其連累(れんるい)をかふむりて獄中に年を明し[やぶちゃん注:「あかし」。]けるに、其明る[やぶちゃん注:「あくる」。]年牢中にて」とあって「猪の首」及「かげろふ」の二句を記し、「聞人(きくひと)涙をおとさずといふ事なし、身にあやまりなき申しひらき上天に通じ、程なく累絏(るいせつ)の中を出て[やぶちゃん注:「いでて」。]ふたゝび悦びの眉(まゆ)をひらきけるに」云々と出ている。『俳人百家撰』の記載はこれに拠ったことは明[やぶちゃん注:「あきらか」。]であるが、闌更は果して何に拠ったものか、当時の俳書に所見のないものだけに、更にその出所を慥めたいような気がする。

[やぶちゃん注:「奈良鹿郎」(なら しかろう)(明治二二(一八八九)年~昭和三五(一九六〇)年)は神奈川県出身。門司において吉岡禅寺洞を知り、俳句を志し、高浜虚子に師事した。『ホトトギス』同人。]

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