北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) 斷章 三十四
三 十 四
ああ、あはれ、
靑にぶき救世軍の
汚(よ)ごれたる硝子戶のまへに
向日葵(ひぐるま)咲き、
堀端(ほりばた)を半纒(はんてん)ひとりペンキ壺さげて過ぎゆく。
いづこにか物賣の笛、
ああ、ひと目――日の夕、
われはいま忙(せは)しなの電車より。
[やぶちゃん注:「救世軍」「Salvation Army」の訳語。小学館「日本大百科全書」より引く。『実践的な社会活動を重んじるプロテスタントの一教派』。一八六五年(本邦の元治元年から元治二年及び慶応元年相当)に『ロンドンのスラム街イースト・エンドで、メソジスト教会の牧師ブース William Booth 夫妻らによって始められた』、『キリストの福音』『の伝道、信仰的共同体の形成、貧困と悪徳を敵として社会改善のために戦うことを目的とする団体である。ブースはその実践の最善の方法として、軍隊用語と軍服型の制服と軍隊方式の組織を採用した。現在』、『ロンドンに万国本営を置き、各国に本営―連隊―小隊―分隊などの組織をもち、社会主義国を除くほとんどすべての国で活動している』。『立者ブースは少年時代に父親の事業の失敗と死によって苦労し』、十五『歳で回心を経験、貧困に苦しむ人たちへの共感を抱く。伝道者としての召命を自覚し、妻キャサリンの協力を得て、創意工夫を生かしてスラム街で伝道活動に従事』(開設一八六五年以降のこと)『する過程で、情熱的なブースはメソジスト教会から分かれて東ロンドン伝導会を組織したのち、この活動組織を』一八七八年(明治十一年相当)に『「救世軍」と改名した。救世軍はキリスト教の教義を単純化した「救いと聖潔」を中心教理とし、その教理を「血と火」という標語にまとめた。血はキリストを、火は聖霊を表象する。既成教派で重んじる礼典は否定した。禁酒と禁煙を守る生活の規律は合理的・禁欲的エートス(道徳的気風)を生み出した。このような純然たる救霊運動として出発した救世軍は、地域住民の多様な日常的必要に対応しうる施設を提供して奉仕活動に従事した。マイクロホンのない時代に、群衆を集める工夫として』ラッパ『を吹奏したことから、ブラスバンドが伝道の武器となった』。『日本での活動は』明治二八(一八九五)年に「ライト大佐」ら十四『名の伝道者が来日したことから始まり、救世軍の伝道方法と情熱に共鳴した山室軍平(やまむろぐんぺい)』(明治五(一八七二)年~昭和一五(一九四〇)年:岡山生まれ。農家に生まれ、東京で印刷工をしている際にキリスト教に入信し、伝道学校を経て同志社で学んだ。この年、救世軍に入り、大正一五(一九二六)年に日本人初の「救世軍司令官」となった「日本救世軍」の創立者)『が参加し、志を同じくする者が祈りと力とをあわせて日本救世軍を発展させ、行政の責任者が無視していた底辺の大衆の心の問題と救いと生活上の援助に誠実な努力を注いだ。公娼』『制度の犠牲となっていた女性の解放運動』に明治三三(一九〇〇)年に『立ち上がり』、大学殖民館・労働寄宿舎・社会殖民館などを開設、さらに病院や結核療養所を『経営するなど、伝道と同時に活発な社会奉仕活動によって注目され』た。『年末の街頭の風物になっている慈街頭募金活動の「社会鍋(なべ)」も、その活動の一端であ』った。『日中戦争が深刻化した』昭和一五(一九四〇)年、『救世軍は政府の弾圧によって救世団と改名し、翌年政府の指導下で生まれた日本基督』『教団に参加』、戦後の昭和二一(一九四六)年に「救世軍日本本営」として再建されて今日に至る。「靑にぶき」とは恐らく救世軍の軍服(イギリス軍人軍服の色)と似たような色をした旧本部のガラス窓を指すものか(当時、実際に本部のそれがそんな色をしていたどうかは不詳)。]
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