明日は梅崎春生の二作品の電子化に特化する
明日は梅崎春生の二作品の電子化に特化することにした。
……以下、「枕」の余談である……
……一年ほど前のことである。たまたま検索の途中、私の梅崎春生の電子化注について、私のフル・ネームを挙げて、
――「青空文庫」に梅崎春生があるのに、わざわざ自分でご苦労さまにも電子化して、何だか注まで施している人がいる――
と言ったニュアンスで語り出した上に、私の「桜島」に挿入してある作品分析注を「こういうことはするべきではない」といった見当違いの如何にも饐えたインキ臭い批判(注が不快なら読まなければよい。目障りならコピー・ペーストして「サクラエディタ」などのソフトでテクストの[やぶちゃん注:]を一発一括削除すればよい。私の電子テクストは消毒滅菌された教科書のようなかっちりした優等生様々のものではないのはどれもそうだ)をした「青空文庫」御用達能天気似非文学識者ブロガーの記事を見つけたのだが、こいつは「青空文庫」のシンパサイザーとしても救い難い低能の輩或いは「青空文庫」の誰彼から慫慂されて自己肥大の背伸びをした回し者としか思えない、文章も如何にも下手糞なる御仁なのであった。
何より、語るに堕ちているのは、第一が、「青空文庫」の梅崎春生の公開データは今日2020年6月22日現在の時点でも、たったの15篇のみ(作業中に至っては2篇という貧しさだ)なのである。その内、全文掲載(但し、「青空文庫」は本文のみ)で私の公開分とダブるのは「桜島」と「幻化」だけであるが、
梅崎春生「幻化」附やぶちゃん注【完】
梅崎春生「桜島」附やぶちゃん注【完】
は以上を読まれれば判る通り、孰れも私のそれは「青空文庫」を加工データにしてさえいない全くの独自の完全オリジナルな作成になるものである(「青空文庫」に先を越されて悔しかったのは特に私の偏愛する「蜆」一作だけである。無論、屋上屋のマスターベーションはいやだから私は涙を呑んで電子化していない)。
現在、私のサイトの目録では、64篇(サイト版「桜島」「幻化」と一部のエッセイを含む。しかも総てに亙って私の「オゾましい」オリジナル注附きである)を挙げてある。それ以外に私は私のブログ・カテゴリ「梅崎春生」で、沖積舎版第Ⅶ巻の詩・日記・随筆・文芸時評総て(優に200タイトル以上)をも電子化注しており(先のサイト目録の小説のかなりのものはここにある)、私の梅崎春生の電子化注作品の数は凡そ「天下」の「青空文庫」などお話にならない優位な数の電子化を行っているのである。このブロガーは「200余」篇と「15」篇の違いさえも判らぬ救い難い大馬鹿としか思えぬのであった。
ともかく、その糞記事を見て以来、梅崎春生の電子化はキリ番アクセスの時だけに限定し続けてきた。――読む奴が阿呆しかいないのなら、やるこっちも阿呆だ――と思うたからである。
閑話休題。
さて。先般、私はツイッターを脱会したつもりだったのだが、とある別ブラウザ・ソフトを用いてたまたま開けてしまったところ、未だ嘗てのアカウントに表面上、問題なくアクセス出来ることが判り、今日、開けてみたところ、「メッセージリクエスト」という一回も使ったことのなかったものに、梅崎春生の二篇の作品電子化の要望が旧フォロワーから5月21日に打たれてあったことを遅まきながら発見したのであった(そういうところは私も救い難い大阿呆とは言えようぞ)。
これに応えないのは、梅崎春生を愛する私、以上のように異様なコダワりの電子化をしている私にとっては、すこぶる気持ちの悪いことなのである。
されば、その方の求めた梅崎春生の二作品を明日、電子化に特化して(他の電子化注を停止して)完成することにしたのである。
――私はもう失うべきものは総て失った気がしている。誰(たれ)の親愛も信ずる気もなくなった。しかし、将来の誰かの僅かな細い繊細な琴線に触れ得る何ものかを私の非力が少しでも成し得るとなら、私はそのやれることをやるべき義務と権利があると秘かに信じている――
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