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2020/06/30

三州奇談續編卷之六 七尾網ㇾ燐

 

    七尾網ㇾ燐

 今の七尾は、松尾山の古城を引きたるなり。古城を「舊七尾(もとななを)」と云ひ、山の尾に七つの名あり。鶴の尾・烏帽子の尾・龜の尾・袴の尾・牛の尾・松の尾・竹の尾と云ふ。宇多天皇の御宇に、源の順(したがふ)能州剌史として此所に居せり。此の院の御宇に、武部の判官師澄(もろずみ)館(たち)を此上の南麓に構ふ。後醍醐天皇の御宇、中院(なかのゐんの)少將定淸(さだきよ)國吏として居す。後花園院御宇永享の頃より畠山數代居城たり。正親町院(おほぎまちゐん)の御宇天正年中に、國君利家公、人家を今の長洲の波打際に遷(うつ)され、「所口(ところぐち)」と云ふ。然(しか)れども七尾とも稱す。

[やぶちゃん注:「七尾網ㇾ燐」「七尾に燐を網(あみと)る」と読んでおく。

「松尾山の古城」七尾城の別名を松尾城と呼ぶ。サイト「城郭放浪記」の「能登 七尾城」によれば、

   《引用開始》

築城年代は定かではないが畠山氏によって築かれた。能登畠山氏は室町幕府の要職である三管領の一家畠山氏の庶家で、畠山基国の次男畠山満慶を祖とする。

初代畠山満慶は次男であったが、父の畠山基国が没したとき兄の畠山満家が蟄居中であったがために畠山氏の家督を継いだ。しかし、後に満家が赦免されたため、満慶は家督を兄に返還した。これに感謝した満家は、能登一国を満慶に分与し能登畠山氏が誕生した。

満慶の後、義忠・義統と続いたが三代までは在京が多く、本格的に能登に下向したのは四代畠山義元の頃であったという。

天文年間(1532年〜1555年)の八代畠山義続の頃になると、畠山氏は内乱状態になり、次第に重臣たちの力が増していき、能登七人衆(温井紹春・遊佐続光・遊佐宗円・長続連・三宅総広・平総知・伊丹続堅)と呼ばれた。永禄9年(1566年)には九代畠山義綱は重臣たちに追放され、家督を継いだ畠山義慶もまた、天正2年(1574年)に急死(暗殺という説もある)し、家督は弟の義隆が継いだ。こうしたなか、越後上杉謙信は越中から能登へと勢力を広げ、天正4年(1576年)には七尾城を囲み、富木城・熊木城・穴水城・正院川尻城など周囲の支城を攻略していった。 天正5年(1577年)ついに重臣遊佐続光が内応し、上杉の兵を城内に引き入れ七尾城は落城した。

上杉氏が七尾城を落とした後は、鯵坂長実が城代として置かれ、遊佐続光とともに支配した。しかし、天正9年(1581年)には織田信長の軍勢により支配され、能登は前田利家に与えられた。利家はいったん七尾城に入ったが、小丸山城を築いて移り、さらには金沢城へ移った。

   《引用終了》

リンク先に地図もある。

「鶴の尾……」「日本100名城ガイド」の「七尾城」に、『七尾という地名は、七尾城が築かれた松尾・竹尾・梅尾・菊尾・亀尾・虎尾・龍尾の七つの尾根に由来するといわれ、本丸の置かれた松尾から松尾城、末尾城の別名がある』とある。写真の防塁を見るに、山寨としては、かなり手の込んだ造りであったことが判る。

「宇多天皇の御宇」仁和三(八八七)年~寛平九(八九七)年であるが、源順は生まれてもいない頃で、大間違いである。彼が能登守に補任されたのは天元三(九八〇)年或いは前年とされるから、五代も後の第六十四代円融天皇の治世(安和二(九六九)年~永観二(九八四)年)である。

「源の順(したがふ)能州剌史として此所に居せり」「古碑陸奥」に詳しく注した。

「此の院の御宇」以下を見れば、これも大間違いのコンコンチキである。「此の院の」という振り自体が意味が通じぬ。良心的に見ると、以下に示す通り、院政期と合致はする。

「武部の判官師澄」は、「加能郷土辞彙」『能登誌に、久安・仁平』(一一四五年~一一五三年)『の頃七尾城に武部判官師澄が代官として居したといひ、越登賀三州志因概覽に、康治又は文治』(前者は一一四二年から一一四四年(近衛天皇の世であるが鳥羽法皇の院政期ではある)、後者は一一八五年から一一九〇年まで(後鳥羽天皇の世であるが後白河院の院政期ではある))『の頃武部判官師澄が能登の國司であったともある。しかしこの師澄は他に所見がない』とあって全体に信ずるに足らない

「後醍醐天皇の御宇」文保二(一三一八)年~延元四/暦応二(一三三九)年。

「中院少將定淸」(?~建武二(一三三六)年)は鎌倉末期から南北朝時代にかけての公家で武将。源定清としても知られる。越中守。「建武の新政」(元弘三(一三三三)年七月十七日より開始)の頃、父定平が護良親王に仕えると、左近衛中将、越中守に任じられ、越中国へ赴いた。建武二(一三三五)年八月に「中先代の乱」が起こると、越中でも北条時兼が蜂起し、定清は一旦は鎮圧に成功したものの、次いで守護である井上俊清が蜂起すると、抗しきれず、越中・能登国境にあった寺院石動山を頼ったものの、同年十二月に井上俊清が石動山を攻めた際に戦死している。

「後花園院御宇」正長元(一四二八)年~寛正五(一四六四)年。

 

「永享」一四二九年~一四四一年。

「畠山」複数回既出既注。この時期の畠山氏はウィキの「畠山氏」の「能登畠山家(匠作家)」の「室町時代」以降を参照されたい。

「正親町院の御宇」正親町天皇の在位は弘治三(一五五七)年から天正一四(一五八六)年。

『國君利家公、人家を今の長洲の波打際に遷(うつ)され、「所口(ところぐち)」と云ふ。然(しか)れども七尾とも稱す』既出既注であるが、補足すると、天正九(一五八一)年に畠山氏の七尾城に入った前田利家は、翌年、七尾湾に面する所口村に小丸山城を計画、旧七尾城下の町人を移して新城下町を経営しようとしたが、天正十一年に金沢城へ移ったことから城築は中止された。しかし、この地の軍事的・経済的重要性から町作りは続けられ、元和年間(一六一五年~一六二四年:徳川秀忠・家光の治世)には町奉行が置かれ所口町のほかに能登全域の治安と流通をも支配した(ここは平凡社「世界大百科事典」に拠った)。]

 

 此の古城に燐火あり。鬼燐(きりん)は何國(いづこ)にもありて、奇なりとす。然れども試み考ふるに、多くは鳥(とり)に類(たぐひ)す。されど大小ありて、慥かに夫と定め難し。

 所口には「夜鳥(やてう)」と云ふもの多し。形ち見えず。水筋(みづすぢ)に飛下りて水鷄(くひな)に似て大(おほい)なる聲をなす。其なす事は一向知れずといへども、夜每に出づるは必(かならず)餌(ゑ)を求むる所ありと見ゆ。稀に空中を過ぐるを見る。大さ鳩より勝れて尾長し。飛行(ひぎやう)燕に似て、羽(は)がへしの强きこと類(るゐ)すべき物なし。或は大蟲喰(おほむしくひ)の類(たぐひ)ともいへども、しかと定めず。忽ち數里を去つて音をなす。折々火光(くわくわう)ありと云ふ。「冶鳥(やてう)」の類にや。古へより捕へ得たる者なし、只「夜鳥」とのみにて實(じつ)に無名なり。又「闇夜茸(やみよたけ)」と云ふ物あり。闇中に二三莖を下げてあるけば、三四尺四方は明るくして晝の如し。多く積む所には、遠望(えんばう)火光に似てけり。是を煮て喰ふに、吐潟(としや)[やぶちゃん注:「潟」はママ。「瀉」の誤字。]して多く煩(わづ)らふ。味も又劣れり。必ず食すべからずとかや。

 「蜘(くも)の火」・「海月(くらげ)の火」は前段にも云へり。

 されば七尾の東邊(とうへん)の町に、越後屋仲介と云ふ人、元文年中の事にや。七月も過ぎての頃(ころ)汀(みぎは)に出で、鰡魚(ぼら)を打たんと網をはどりして持ちけることありしに、彼(か)の畠山(はたけやま)の古城の跡松尾山の尾のうへより、いつも出づる鬼火此夜も飛來りしが、水の上へ落下(おちくだ)りてけるを、

『是は珍し面白し』

と思ひ、潜(ひそ)み足(あし)して伺ひよるに、此鬼火も隨分近く飛下りしを、

『時分よし』

と思ひければ、投網を

「ざぶ」

と打掛けしに、怪しや此火忽ち數千萬の小光(しやうくわう)になり、網の目を漏れ出で空ヘ飛出づる。

 其樣金箔の風に吹かるゝ如く、億萬の螢の散亂するに似て、

『雲の上迄行くべくは秋風(しうふう)吹くか』

と思ひしに、二三丈許上りて又打(うち)かたまり、一團丸(いちだんぐわん)の火となりて、空を飛びて田の面(も)の方(かた)へ行去れり。

 網を引寄せて見るに、網には何もさはらずとなり。

 扨は氣のみありて形ちなき物と見えたり。

 是は蟲魚鳥獸の類(たぐひ)とは見えず、古血(こけつ)の變をなすにやあらん。

 又安樂寺と云へる御坊の前及び寺町と云ふ間には、昔より「すゝけ行燈(あんどう)」と云ふ火あり。年每に四五度人を驚かさゞることなし。只煤(すす)びたる角行燈(かくあんどう)の如し。地を離れて五七尺より外(ほか)上へは上らず。人(ひと)行違ふ時は暫く消えて、去れば又灯(とも)すと云ひ、又人によりて火飛び越ゆる如きことありとも云ふ。狸・貉(むじな)の類(たぐひ)の火と覺ゆ。多くは雨夜にあり。此程も行逢ひし人ありとの噂なり。

 然(しか)れば夜光(やくわう)は物として具せざるはなしと見ゆ。「下(した)てる姬」の山谷を照し、「衣通姬(そどおほりひめ)」の衣を透(とほ)すは、只美光(びくわう)の沙汰ながら、「玉藻の前」の夜光も、實(じつ)は人にて火光を得たる故にやあらん。佛菩薩の光明とても、夜中のことならば是又心得難からん。

[やぶちゃん注:「水鷄(くひな)」はツル目クイナ科クイナ属クイナ亜種クイナ Rallus aquaticus indicus。全長二十三~三十一センチメートルで、翼開長は三十八~四十五センチメートル。体重百~二百グラム。上面の羽衣は褐色や暗黄褐色で、羽軸に沿って黒い斑紋が入り、縦縞状に見える。顔から胸部にかけての羽衣は青灰色で、体側面や腹部の羽衣、尾羽基部の下面を被う羽毛は黒く、白い縞模様が入る。湿原・湖沼・水辺の竹藪・水田などに棲息するが、半夜行性であり、昼間は茂みの中で休んでいる。但し、ここで麦水は「水鷄に似て」いるが、有意に「大なる聲をなす」と言っており、これはクイナではなく、クイナ科ヒメクイナ属ヒクイナ Porzana fusca ととってよい。同種はその独特の鳴き声から、古くから「水鶏たたく」(「戸を叩く」の意)と言いならわされてきたからである。しかもクイナやヒクイナは夜行性(或いは半夜行性)である。私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 水雞 (クイナ・ヒクイナ)」の注のリンク先で鳴き声が聴ける。

「羽(は)がへし」羽虫を取るために何度も嘴で羽を強く扱(しご)くこと。

「大蟲喰(おほむしくひ)」スズメ目スズメ亜目スズメ小目ウグイス科メボソムシクイ属オオムシクイPhylloscopus examinandus。但し、本種が同定されたのはごく最近のことなので、ウィキの「ムシクイ類」にあるムシクイ類の別種の大型の種の可能性がある。サイト「Macaulay Library」で鳴き声と動画が見られ、サイト「さえずりナビ」の「オオムシクイ」で鳴き声を複数聴くことが出来る。

「冶鳥(やてう)」私の『和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 治鳥(ぢちやう) (実は妖鳥「冶鳥(やちょう)」だ!)』の本文と私の考証注を参照されたい。

「闇夜茸(やみよたけ)」本邦で最も明るく自発発光する茸は、菌界担子菌門菌蕈亜門真正担子菌綱ハラタケ目クヌギタケ科クヌギタケ属ヤコウタケ Mycena chlorophos であるが、ウィキの「ヤコウタケ」にある通り、『日本では小笠原諸島や八丈島を主な自生地とし、関東以西の太平洋側地域に分布が見られる』ばかりであるから、違う(そこには本種の発光度は『世界一と紹介される場合も多』く、十『個程度集めれば』、『小さな文字も読めるほどに明るい』とある、但し、子実体は三日と短命である)。また、本種は毒性はないが、『水っぽくかび臭いため食用には適さない』とある。そうなると、あれしかない。ハラタケ目ホウライタケ科ツキヨタケ属ツキヨタケ Omphalotus japonicus である。ウィキの「ツキヨタケ」によれば、『子実体の各部のうち、発光性を有するのはひだのみで、かさや柄は、表面においても内部においても光らない。また、ひだが堅いものに触れたりして損傷した部分は光らなくなる』。『発光のピークはかさがじゅうぶんに開いた後の』二日から三日『程度であるという』。『また、菌体が古くなると、光量は次第に小さくなる』『が、小動物などにより食害された部分などを除けば、ひだの光量の低下は一個の子実体中において均等に起こり、部分的に光のむらが生じることはない』。『ひだの断面は』一様に『発光するが、胞子については「発光性を欠く」という報告』『と、「湿った場所に落ちると光る」という報告』『とがある。さらに、菌糸体については、当初は発光しないとされていた』『が、測定機器の進歩により、肉眼的には検知することができない微弱な光を発していることが判明した。培養した菌糸において、多数の胞子を起源とした菌糸(重相菌糸)は、唯一個の胞子を発芽させて得た菌糸(単相菌糸)と比較して』一千『倍ほど高い光量を示したという』。『ひだの発光は、ランプテロフラビン(5’-α-リボフラノシルリボフラビン)に起因するものである』とある。本種は有毒で、『摂食後』三十『分から』三『時間で発症し、下痢と嘔吐が中心となり』、『あるいは腹痛をも併発する』。『景色が青白く見えるなどの幻覚症状がおこる場合もあり、重篤な場合は、痙攣・脱水・アシドーシスショック』(acidosis shock)血液のpHが七・三五未満の酸性になった状態。過呼吸・意識障害(重症化すると昏睡)・手足の震戦をきたす)『少数ではあるが』、『死亡例』『も報告されている』。『ツキヨタケから得られた毒成分は』、現在、『日本未産の有毒きのこである Omphalotus illudens から単離されたイルジン(Illudin)と同一物質であることが明らかにされ』ている。中毒症状も麦水の記載と一致する。というより、同ウィキの「古典上での記述」には、『日本では古くから毒キノコとして広く知られており、『今昔物語集』では和太利(わたり)という名で登場し、ヒラタケと偽ってこの菌を入れた汁物でもてなす毒殺未遂事件が取り上げられている(二十八巻「金峰山別当食二毒茸不醉語第十八」)』(金峰山(みたけ)の別当、毒茸(どくたけ)を食ひて酔(ゑ)はざる語(こと)第十八。こちらで原文が読める)。『また、同じく二十八巻の十七話として、「藤の樹に発生した平茸を食したことによる中毒事件」』(「左大臣御読経所僧酔茸死語第十七」(左大臣の御読経所(みどきやうどころ)の僧、茸に酔ひて死す語第十七)が『題材とされている』(ここで読める)『ほか、同じ巻の第十九話「比叡山横川僧酔茸誦経語第十九」』(比叡山(ひえのやま)の横川(よこかは)の僧、茸に酔ひて経を誦する語第十九。ここで読める)『として、平茸とおぼしき茸を持ち帰ったところ、「これは平茸ではない」という者と「いや、平茸だから食べられる」という者とがあり、汁物にして食したところ中毒を起こした、と記述されている。後者の二つの例においては「和太利」の名こそ登場しないものの、これらもまたツキヨタケによるものではないかと推測されている』とした後に、本「三州奇談續編卷之五」の本篇が引用されてある(略す)。その後に、『同じく、江戸時代の天保』六(一八三五)年に『坂本浩然が著した「菌譜(第二巻毒菌之部)」にも、「月夜蕈又一種石曽根等ノ朽木横倒スルモノニ生ズ状チ硬木耳ノ如ク紫黒色夜間光アリ余野州探薬ノ時友人櫟齋卜同ク山中ノ栗樹ノ立枯二生ズルモノデ見ルニ香蕈ノ如シ傍テ是チ得テ家ニ帰リ酒肴トス食スルモノ皆腹痛、吐瀉急ニ樺皮チ煎ジ服サシメテ漸ク解ス故ニ知ル此菌ノ大毒アルコトヲ余ハ幸ニシテ免ガルルコトヲ得タリ謹ズンバアル可カラズ(石曽根などの倒木上に発生するもので、形状はキクラゲに似て紫黒色を呈し、夜になると光る:また立ち枯れたクヌギに発生しているシイタケに似た茸をみかけたが、これを酒の肴として食したところ、食べた者はみな腹痛と吐瀉とをきたしたので、カンバの樹皮を煎じて服用してことなきを得た:この茸に激毒が含まれているのは明らかなので、食用にしてはいけない)」との記述がある。「黒紫色で夜になると光る」菌が、現代の分類学上でなにに当たるのかは不明だが、「クヌギの立ち枯れ木に生じた、香蕈(=シイタケ)類似の茸」については、ツキヨタケを指すものである可能性が考えられる』とある。

「闇中に二三莖を下げてあるけば、三四尺四方は明るくして晝の如し」ツキヨタケの発光画像と動画及びその露光時間などから見て、一メートル四方が昼のように明るく見えるというのはあり得ないことと思う。「遠望(えんばう)火光に似てけり」も色が全然違う。これらは嘘である。

「蜘(くも)の火」「三州奇談卷之二 八幡の金火」参照。

「海月(くらげ)の火」「三州奇談卷之一 火光斷絕の刀」参照。

「七尾の東邊の町」所口を中心とするなら、その東側で、しかも旧七尾城を見上げる河川となると、この大谷川辺りか(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。ボラは淡水域までよく遡上する。特に幼魚は驚くべき数の群れを成して遡上することで知られる。

「越後屋仲介」不詳。

「元文年中」一七三六年~一七四一年。徳川吉宗の治世。「三州奇談」の完成は宝暦・明和(一七五一年~一七七二年)頃と推定される。

「鰡魚」ボラ目ボラ科ボラ属ボラ Mugil cephalus

「網をはどりして」不詳だが、「はどり」とは「端取(はど)り」ではないかとも思った。所謂、投網(とあみ)を打つ際に、網を摘まんで束ね、その内の鎖の附いた端部分を片手で持って、全体を回して投げうつようにすることを言っているのではあるまいか。

「二三丈」約六~九メートル。

「是は蟲魚鳥獸の類(たぐひ)とは見えず、古血(こけつ)の變をなすにやあらん」と言っているが、別段、これは蛍の群舞と見て、何ら不思議はあるまい。交尾行動をとる際の♂ホタルは想像を絶する群れを成して発光し、活発な飛翔を行うので、ここはそれで解釈は可能のようにも思われる。また、ボラ用の投網ならば、目はかなり粗くてよいから、ホタルなんぞは皆抜け落ちてしまう。

「安樂寺と云へる御坊の前及び寺町と云ふ間」石川県七尾市鍜冶町に浄土真宗安楽寺が現存する。また、この鍛冶町の東北に接する七尾市郡町(こおりまち)には地図上で現認出来るだけで五つの寺院を数える。ここの町名の旧称か?

「すゝけ行燈(あんどう)」実はこの話、私の『柴田宵曲 妖異博物館 「狸の火」』で触れられてある。

「五七尺」一・五二~二・一二メートル。

「然(しか)れば夜光(やくわう)は物として具せざるはなしと見ゆ」以上から察するに、夜の妖しい光物は、一つとして全くの孤立した単一個体で出現し、何者も引き連れずに現れるものはないと考えられる。ここで或いは麦水は「具す」対象を人間と捉えているのではあるまいか? 則ち、「夜光」する妖怪はどんなものでも人間に添うてこそ出来(しゅったい)するのであって、人がいなければ、妖怪「夜光」は出現しないと言っているのではないか? 何だか、量子力学の話みたようになってきた。月は人が観測している=人が見ている間は存在しても、目を離したら、この世界に月は存在しないという例の命題である。

「下てる姬」「古事記」では本名を高比売命(たかひめのみこと)、またの名は「下照比売命(したてるひめのみこと)」、「日本書紀」では下照姫、たまの名は「高姫」「稚国玉(わかくにたま)」とする。記紀では、葦原中国(あしはらのなかつくに)平定のために高天原から遣わされた天若日子(あめのわかひこ)と結婚した。天若日子が高天原からの返し矢に当たって死んだ時、下照姬の泣く声が天まで届き、その声を聞いた天若日子の父の天津国玉神は葦原中国に降り来たって天若日子の喪屋(もや)を建てて殯(もがり)を行った。それに阿遅鉏高日子根神(あぢすきたかひこねのかみ)が訪れたが、その姿が天若日子にそっくりであったため、天津国玉神らは彼が生き返ったと喜んだ。阿遅鉏高日子根神は「穢わしい死人と間違えるな」と怒り、喪屋を斬り崩し、蹴り飛ばして去って行った。下照姫は遅鉏高日子根神の名を明かす歌を詠んだとある(以上はウィキの「シタテルヒメ」に拠った)。

「衣通姬」は記紀に伝承される女性。「古事記」では「衣通郎女」「衣通王」で「そとおりのみこ」、「日本書紀」では「衣通郎姫」で「そとおしのいらつめ」と表記されるが、記紀の間で衣通姫の設定が異なっており、叔母と姪の関係にある別の人物の名である。大変に美しい女性で、その美しさが衣を通して輝くことがこの名の由来である。「本朝三美人」の一人とも称される。「古事記」には允恭天皇皇女の軽大郎女(かるのおおいらつめ)の別名とし、同母兄である軽太子(かるのひつぎのみこ)と情を通じるインセスト・タブーを犯す。それが原因で允恭天皇崩御後、軽太子は群臣に背かれて失脚して伊予へ流刑となるが、衣通姫もそれを追って伊予に赴き、再会を果たし、二人は心中する(これが「衣通姫伝説」となる)。「日本書紀」では、允恭天皇の皇后忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)の妹である弟姫(おとひめ)とされ、允恭天皇に寵愛された妃として描かれる。近江坂田から迎えられて入内し、藤原宮(奈良県橿原市)に住んだが、皇后の嫉妬を理由に河内の茅渟宮(ちぬのみや:現在の大阪府泉佐野市)へ移り住んだものの、天皇は遊猟にかこつけては彼女の許に通い続けた。皇后がこれを諌め諭すと、以後の行幸は稀になったという。紀伊の国で信仰されていた玉津島姫と同一視され、和歌に優れていたとされて「和歌三神」の一柱とされる。現在では和歌山県和歌山市にある玉津島神社に稚日女尊(わかひるめのみこと:高天原の斎服殿(いみはたどの)で神衣を織っていた際に素戔嗚が生き馬の皮を逆剥ぎにして部屋の中に投げ込んだために驚いて梭(ひ)で火登(ほと:女性生殖器)傷つけて亡くなった、あの天照大神の岩戸隠れの発端の犠牲者である)及び神功皇后ともに合祀されてある(以上はウィキの「衣通姫」に拠った)。

「玉藻の前」鳥羽上皇の寵を得たとされる伝説上の美女で、大陸から飛び来った金毛九尾の狐が変じたもの、陰陽師に見破られ、那須の殺生石になったという伝説の妖狐。御伽草子「玉藻の草紙」・謡曲「殺生石」、浄瑠璃・歌舞伎・合巻(ごうかん)に広く脚色された。詳しくはウィキの「玉藻の前」がよい。

「人にて火光を得たる故にやあらん」「幻惑され対峙する人間の存在があったればこそ、人の手に入れた火の光を以って、自己の幻術に用いることが可能となったというのが真相ののではないのか?」の意であろう。

「佛菩薩の光明とても、夜中のことならば是又心得難からん」仏・菩薩らの大慈大悲の光明と言うても、これ、人の寝静まってしまった真夜中の闇の中にあっては、これ、また、それに照らして証するなら、凡夫がそれを心得るというのも難かしいことなんじゃなかろうか? と終わりに諧謔したのである。あんまり面白くないぜ、麦水さんよ。]

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