北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) 赤き椿
赤き椿
わが眼(め)に赤き藪椿。
外(そと)の空氣にあかあかと、
音なく光り、はた、落つる。
いま死にのぞむわが乳母の
かなしき眼(め)つき…………藪椿。
醜(みにく)き面(かほ)をゆがめつつ
家畜(かちく)のごとく、はた泣くは、
わが手を執(と)るは、吸ひつくは、
憎(にく)く、汚(きた)なく恐ろしき
最愛(さいあい)の手か、たましひか。
かの眼(め)に赤き藪椿
小さき頭腦(あたま)にあかあかと、
音なく光り、はた、落つる。
[やぶちゃん注:フロイト流に言うと、本質的には、口唇期にイソギンチャクのように固着してそれを永久に忘れられないのが、北原白秋という生き物である。しかも彼はそれに成人後も異常に固執することで、汎性的な閉じた世界で独自に特殊な不全な変性を繰り返しながら、不完全な奇形的な複製を陸続と生み出しながら増殖して、それが彼の詩人としての詩想の脳内に共生しているのだと私は思う。而して、その中心に彼は〈自分の代わりに死んだ〉乳母を――マリア――或いは――独自の――反マリア(これは私の弁証学的な「正」「反」の言い回しに過ぎないものでキリスト教とは無縁と言ってよい。白秋がバテレン語をお洒落な言語として使用しているのと同じ程度に下劣である)――としてがつっしりと据えているように感ずるのである。こうした閉じられた系の中では絶対的と思われる世俗的道徳的正誤や善悪は完全に無化され、それを認知すべき術(すべ)は永遠にないのである(ゲーデルの不完全性定理がそれを証明している)。そもそも自己や想念を完全に複製し続けることは出来ない。それを恐らく北原白秋は感性的に認知していたのだという気がする。それが、私が彼をある意味、偏愛する理由でもあると感ずる。何故そんな奇体なことが分かるのかって? 私がそうだからさ!!!
「藪椿」あまり認識されていると思わないので言っておくと、我々が「椿」と呼んでいるのは、ツツジ目ツバキ科 Theeae 連ツバキ属ヤブツバキ Camellia japonica が正しい標準和名である。]