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2020/06/15

三州奇談續編卷之五 麥生の懷古

 

    麥生の懷古

 麥生(むぎを)と云ふは里の名なり。羽喰(はくひ)郡押水の鄕、則(すなはち)末森古城の下なり。往昔の繁榮の都會にやありけん。此邊の村々に一條・二條等の名、或は何町何丁何小路(こうぢ)の名殘る。竹生野(たこの)村迄の間、地平かにして古碑・古樹多し。國君菅公末森後援御勝利の後、此麥生の村の民家を濱表(はまおもて)へ引遷(ひきうつ)し、今濱(いまはま)と名付く。故に爰には寺院のみ殘る。妙法輪寺と云ふあり、丘陵物さびたり。是(ここ)は往古(わうこ)法輪寺とて、天台宗山門の下なりけるを、中頃日像上人の勸めに歸して法華となり、寺號に妙の字を加へて今日猶榮えます。此向ひの松の中に、彼(かの)式内四十三座の中(うち)相見(あひみ)の神社立(たち)給ふ。所から物たりて、今は藁葺の纔(わづ)かながら、境内は廣く淸淨の地なり。此麓には八幡宮の社建てり。是は朝夕に莊嚴(しやうごん)輝きて、金光(きんくわう)燦爛(さんらん)として、神事祭禮も相撲などありて近鄕の賑ひを寄せ、新來(しんき)の宮立(みやだて)ながら時めき見ゆ。憶ふに國祖の菅君、彼(かの)末森戰勝の御陣場なれば、此八幡は陣貝(ぢんがひ)を集めて祭るのよし聞ゆ。尤も左(さ)もあるべき躰(てい)なり。されば押水(おしみづ)の鄕の名、所以(ゆゑ)あるかな。

[やぶちゃん注:「麥生(むぎを)」現在の石川県羽咋郡宝達志水町(ちょう)麦生(むぎう)附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。読みはスタンフォード大学の「國土地理院圖」の「石動」の読みを判読した結果である(「ヨ」のように見えるが、下部のそれは一画目の右下方がはみ出ており、この下方の横線に見えるのは河川の一部である。「フ」「ウ」ではない。とすれば、「ヲ」としか判読出来ないが、ただ、一画目の右縦が直角に下がっているのは気にはなる)。但し、歴史的仮名遣ならば「むぎお」が正しく、現在の行政地名のそれは転訛した口語音「むぎゅう」から転じたものと推測される。「近世奇談全集」では『むぎふ』とルビを振る。

「羽喰(はくひ)郡押水の鄕」現在の宝達志水町は旧押水町(おしみずまち)と旧志雄町とが合併したもので、旧町名は旧町内の紺屋町地区にある「押しの泉」に由来する。ウィキの「宝達志水町」の旧押水町についての記載によれば、『昔、弘法大師がこの地を通った時に水を求めたところ、老婆が一杯の水を恵んでくれた。その礼として大師が杖で岩を押したところに清水が湧き出たという弘法水伝説が残されている』とある。この中央付近ストリートビューで確認出来る。これが後で麦水の言う「押水(おしみづ)の鄕の名、所以(ゆゑ)あるかな」の謂われであるが、後段で麦水が言うように、水利がよい(ということは洪水の危険も高いわけだが)というのが、本来の地名由来であろう。

「末森古城」石川県羽咋郡宝達志水町竹生野(たこの)のここ。東に麦生地区がある。ウィキの「末森城(能登国)」によれば、末森山(標高一三八・八メートル)に『所在したため、この名で呼ばれたが、「末守」あるいは「末盛」と記した資料も残る(『信長公記』など)。曲輪は山中に点在し』、合計面積は実に三万平方メートルにも及ぶ。当初、『畠山氏の家臣で地頭職であった土肥親真』(どいちかざね)『によって築城されたとされるが、詳しくは不明』。天正五(一五七七)年に『越後国より侵攻してきた上杉謙信に降伏、斎藤朝信らが末森に入ったとの記述がある。その後、そのまま親真が城主として配された』。しかし、天正八年に『加賀国の一向一揆を鎮圧した織田氏家臣の柴田勝家らが侵攻してくると、再び降伏。土肥氏は同地に改めて配された前田利家の与力的な立場となったため、これ以後』、『前田家が支配することとなる』。『なお、この際に土肥親真は前田利家の妻芳春院(まつ)の姪を娶るが、末森城に在したため「末守殿」と呼ばれた』。『末森城は加賀国と能登国を繋ぐ交通の要所であり』、天正十二年に『徳川家康に同調した佐々成政が、この城を攻めたが』、『城主奥村永福』(ながとみ)『が死守(末森城の戦い)。この勝利により前田利家の能登・加賀統治の基礎が築かれたとも』されるが、元和元(一六一五)年の『一国一城令により廃城とな』った。『本丸主門は、金沢城鶴の丸南門として移築されていたが』、宝暦九(一七五九)年に『火災によって焼失してしまっている。本丸は、津幡町加賀爪へ移転され、加賀藩主代々の御旅屋として利用された』が、明治一〇(一八七七)年『に火災によって焼失』して現存しないとある。

「此邊の村々に一條・二條等の名、或は何町何丁何小路(こうぢ)の名殘る」現在は残念ながら確認出来ない。こういう旧地名は残すべきだったと心から思う。

「竹生野(たこの)村」「近世奇談全集」では『たかふの』とルビを振るが、現在の宝達志水町竹生野(たこの)に拠った。

「國君菅公」菅原道真の末裔と称した藩祖前田利家。

「末森後援御勝利」前注の「末森城の戦い」を指す。

「今濱(いまはま)」現在の麦生の西方の海岸沿いに宝達志水町今浜が今浜新地区を挟んで現存する。

「妙法輪寺」麦生に現存する。山号は宝栄山。日蓮宗。今浜村の法華堂五兵衛邸で日像(文永六(一二六九)年~康永元/興国三(一三四二)年:俗姓は平賀氏。下総国出身。房号肥後房から肥後阿闍梨と称された。日蓮宗四条門流の祖。建治元(一二七五)年に日蓮の高弟であった兄の日朗に師事した後、日蓮の直弟子となった)が法輪寺(妙法輪寺の前身)の真言僧哲源律師と法論し、感銘した哲源は法輪寺を日蓮宗に改宗し、後に寺を妙法輪寺と改名し、自らも日源を名乗ってその開基となった。日源は元中三/至徳三(一三八六)年示寂。

「式内四十三座」「延喜式」の神名帳には能登国には大社一座一社(名神大社。現在の石川県羽咋市寺家町にある能登国一宮の気多神社に比定される)及び小社四十二座四十二社を記載する。

「相見(あひみ)の神社」相見神社 (式内社・大海郷(おおみのごう)総社)「石川県神社庁」公式サイトの解説によれば、『式内社にして大海(相見=押水)一郷の総社。奥村永福の崇敬篤く、相見明神、相見権現と称された。社伝によれば、此の地の民を苦しめた大鷲を退治された大国主命が、須勢理姫と逢われたところから』「愛見の郷」と『名付けられ』、『相見神社と称したというが、実は海神族奉祀の社であろう』とある。

「八幡宮の社建てり」恐らくは現在は宝達志水町今浜に移っている今濱八幡神社であろう(それでも麦生地区や相見神社にごく近い)。「石川県神社庁」公式サイトの解説によれば、『元、式内社相見神社の境内摂社であったが、末森城主奥村永福の崇敬特に篤く、享保』二〇(一七三五)年に『今浜向山に遷祀し、後、安政』五(一八五八)年、『同親王山の現在地に遷座され』、『遠国よりの奉賽が多かった。社殿には北前船等の絵馬が多く奉納せられている』とある。

「陣貝(ぢんがひ)」戦さの陣中で軍勢の進退などの合図に吹き鳴らした法螺貝のこと。]

 

 爰は河押入りて淵池となるもの、此邊所々多し。田畠の利となれば、「湯」と云ふものに取りて水を所々へ分つ【「湯水」古名なる。今は「用水」と云ふ。】其中に「忍水池(おしみいけ)」と云ふあり。鱗(いろこ)一つ取りても惜み給ふとて、昔より此池に獵(れふ)をなさず。此妙法輪寺の老僧の物語りに、

「『おしみ池』には、享保の頃にや一つの怪しき事を聞きし。一水涯(みづぎは)四五尺許(ばかり)去りて、水は腰に至る程の底に、巾着(きんちやく)の如きもの見ゆ。村人立寄りて、

『あれは何(なん)ぞ』

と沙汰するに、いかに見ても巾着と覺しくて、根付なども見え、葉隱れに藻の下に見ゆ。適(あつぱ)れ見事なる物に見えしかば、

『誰(だれ)取りに入れ、彼れ取に入れ』

といへども、日頃靈(れい)ある池なれば恐れて入る者なし。

 翌日も打眺めけるに、もとの所に

『ふらふら』

としてあり。何(いづ)れも

『扨は岸を通る人の落したるにや。今少し奧は脊丈(せたけ)もかくるゝ深みなればあぶなき物なり』

とて打捨(うちす)て畑業(はたわざ)に掛り居る。

 晝上(ひるあが)りの頃、一人欲深(よくぶか)き者、水練も利(き)きてやありけん、潜かに飛入りて其巾着を取りて岸に上るに、紐と覺しくて蓴菜(じゆんさい)の如き物付きて隨ひ來(きた)る。

 此者嬉しく、只走り走りて畠人(はたびと)どものある所へ來(きた)る。凡(およそ)一町計(ばかり)も來りけるに、紐は猶付き來りし。

 爰にて二三人打寄り、

『巾着を取りて來りしか』

と取廻(とりまは)し見るに、一尺許去りて、根付と見えたる、赤き色にて緣(ふち)を括(くく)りたる物あり。藻(も)の實(も)と見えたり。

 扨(さて)巾着は皮とは見えながら、何とも知れず。したたかに重かりしかば、

『目を引き見る』

とて、手の上にすゑて試(こころ)むる内に、彼(かの)蔓(つる)の紐の如き物一しやくり引く如く覺えしが、巾着手の中(なか)を飛出(とびい)で、空中を飛びてもとの池へ引入りたり。

 人々驚き、跡を見ずして逃歸(にげかへ)れり。

 巾着は慥(たしか)に見たる者二三人もありしが、其大(おほい)さは人々見樣(みやう)違ひ、『一尺四方許』と覺し者もあり、『五寸許』と覺えし者もあり。皮にてやありし、生類(しゃうるゐ)にてやありし、是はしかと知れず。

『其後(そののち)又(また)池に出づることなし』

と村人の云ひし。

 我は見ざることなれば、實正(じつしやう)慥(しか)とは云ひ難し。されども二三人も見たる者、近年迄存命せしが、今はなし」

と語られき。

 此物元來草實(くさのみ)の類(たぐひ)か、又は古器(こき)の類ひか、神の惜み給ふにぞあるらん。されども取りたる人も、さして煩(わづら)ひもせで恙(つつが)なく居りしことは慥に見たり。

 付き來(きた)る紐の如きものは蔓とは見えながら、一町許も引來(ひききた)るは何糸にやありけん。

「ぬめぬめ」

としたることゝ、根付(ねつき)の藻玉(もだま)なりしことは慥に覺ゆ。巾着は丸き物にて重し。池を上(あが)りし時は、小さかりしが、次第にふえたり。今思へば、中は何ぞ生物(いきもの)にやありけん。

「鷄(にはとり)[やぶちゃん注:「近世奇談全集」は「鶉(うづら)」とする。その方が不定サイズにはしっくりくる。鶏卵ではデカ過ぎだ。]の玉子の如き物六つ七つ入りし樣(やう)に覺し」

と、取來(とりきた)る里人の、

「夢の如くに覺えし」

と常々云ひし。

[やぶちゃん注:『「湯」と云ふものに取りて水を所々へ分つ【「湯水」古名なる。今は「用水」と云ふ。】』こうした呼称を私は知らないが、調べてみると、金沢市の公式サイト内の金沢での水利事業の解説の中に、『用水利用』として『釜湯=消火用水源』という記載を見出した(画面表示が異常に大きいのでリンクはさせない。ルビもないから「ゆ」と読んでよいか)。

「忍水池(おしみいけ)」現在、この名の池は確認出来ないが、多数の池塘があるので、現地の方なら判るかも知れない。御教授願えれば幸いである。

「鱗(いろこ)」主に魚などの水生動物の総称。

「享保」一七一六年~一七三六年。

「四五尺」一・二一~一・五一メートル。

「一町」一〇九メートル。

「目を引き見る」「目を挽きてみむ」の意であろう。鋸樣のもので引き割ってみようとしたものと採る。

「彼(かの)蔓(つる)の紐の如き物一しやくり引く如く覺えしが」蔓のような後に続いている奇体な水草の如き附属物が物体の内部に引き上げるように「シュッ!」と入っていったかのように見えたが。

 さても。この奇体な巾着様物体の私の推理である。これは恐らく、

動物界外肛動物門掩喉綱(えんこう)掩喉目ヒメテンコケムシ科カンテンコケムシ Asajirella gelatinosa

であろうと私は踏む。カンテンコケムシ個虫は一ミリメートル(それでも淡水産コケムシ類では大きい)しかないが、その群体は二〇センチメートルに達することがある。広瀬雅人氏の論文「日本産淡水コケムシ類の分類と同定」(『日本動物分類学会誌』二〇一二年発行・PDF)によれば、本種はアジアでしか確認されておらず、本邦にもともと棲息していた淡水産コケムシであり、この群体塊の形は以下に私が述べるオオマリコケムシの群体に似ているともある(但し、『個虫の口上突起が赤くないことと浮遊性休芽の形態』が有意に異なること『で容易に区別できる』とされる)。同種は本邦では準絶滅危惧種とされる希少種でお見せするに相応しい写真を見出し難いのであるが、

「京都府公式」サイト内の「京都府レッドデータブック2015」の同種の画像と解説

「兵庫県立 人と自然の博物館」公式サイト内の『キリンビアパーク神戸のビオトープ池に「カンテンコケムシ」が出現』(スイレンの葉柄に着生した同群体)

写真共有サイト「フォト蔵」の「カンテンコケムシ1」とする写真

などを見られたい。②のような固着を呈した部分はまさに本文の藻の紐状を呈していることが判り、③は「巾着」という表現が腑に落ちる形であると言える。

 実は当初はその大きさから、ボール状群体の直径は数メートル(最大個体は二・八メートル弱)を越えることもある掩喉目オオマリコケムシ科オオマリコケムシ属オオマリコケムシ Pectinatella magnifica を考えたが、同種の本邦での発見は一九七二年の山梨県河口湖が最も古いもので、当時棲息していた可能性はない(同種は北アメリカ東部原産で一九〇〇年頃に中央ヨーロッパに持ち込まれたという。以上はウィキの「オオマリカンテンコケムシ」に拠った)。

 他に考えたのは、両生綱有尾目サンショウウオ亜目サンショウウオ科サンショウウオ属クロサンショウウオ Hynobius nigrescens)の卵体で、白い楕円状の卵塊のかなり大きなものが一対、透明な粘体に包まれているのであるが(私は富山に居た時分に裏の溜池で実見したものは全体(長軸)が十五センチメートルほどあった)、これは相応に大きいが、こんなに固くないから違う。これが、海産の生物であるなら、もっと候補を増やすことが出来るが、淡水産では私はカンテンコケムシしか挙げることが出来ない。もっと相応しいものがあるとなれば、是非、御教授あられたい。なお、私の同定には元の池に飛び戻るという奇体な行動様態を事実として考証要素に加える余地は全くない(その場合は妖怪・妖獣まで裾野を狸の金玉並みに広げねばならぬ)。悪しからず。]

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