北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) 陰影
陰影
なつかしき陰影(いんえい)をつくらんとて
雛罌粟(ひなげし)はひらき、
かなしき疲れを求めんとて
女は踊る。
晴れやかに鳴く鳥は日くれを思ひ、
蜥蝪(とかげ)は美くしくふりかへり、
時計の針は薄らあかりをいそしむ…………
捉(とら)へがたき過ぎし日の歡樂(くわんらく)よ、
哀愁(あいしゆう)よ、
すべてみな、かはたれにうつしゆく
薄靑きシネマのまたたき、
いそがしき不可思議のそのフイルム。
げにげにわかき日のキネオラマよ、
思ひ出はそのかげに伴奏(つれひ)くピアノ、
月と瓦斯との接吻(キス)、
瓏銀(ろうぎん)の水をゆく小舟。
なつかしき陰影をつくらんとて
雛嬰粟(ひなげし)は顫へ、
かなしき疲れを求めんとて
女は踊る。
[やぶちゃん注:「フイルム」と「キネオラマ」の表記は底本原本の見た目の印象に近づけた。
「雛罌粟」ポピー(poppy)。キンポウゲ目ケシ科ケシ属ヒナゲシ Papaver rhoeas。
「蜥蝪は美くしくふりかへり」「蜥蝪」は通常は「蜥蜴」であるが「蝪」は「蜴」の異体字であって誤字ではない。
「キネオラマ」諸辞書は、キネオラマは和製の合成英語(kinema+panorama)で明治時代の興行見世物の一種とし、パノラマの背景・点景などに色を変えた照明を照射し、種々に変化させて見せる装置といった解説が一律になされている。ただ、実物が残っておらず、画像も見当たらなかった。当初、私は「のぞきからくり」の進化系で、閉鎖系のジオラマに照明をあてて変化したかのように疑似的見せるものかと推測したが、中には立体写真に光りをあてて立体のように見せるものだろうという記載もあって、どうも不満であった。調べてみたところでは、大久保遼氏の論文「キノドラマとキネオラマ:旅順海戦と近代的知覚」(『映像学』(二〇〇八年五月日本映像学会発行・PDF)の解説がよい(「東京大学学術機関リポジトリ」のこちらでダウン・ロード出来る)。詳しくはそれを読まれたいが、私が想像した以上に大きなもので、舞台の前面にミニチュア・ジオラマがあり、その背後にスクリーンを配して、映像或いは回転照明による多色光線を当て、音響も別に出し、立体的にリアルに動的な臨場感を現出させたものであったことが判るのである。しかも、そこでそれを眺めた著名人として、江戸川乱歩・宮澤賢治・稲垣足穂(私は足穂は好きではないが)が登場するとなれば、読まない手はあるまい。
「瓏銀」鮮やかな明るい銀色のこと。]
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