北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) 秋の日
秋の日
小さいその兒があかあかと
とんぼがへりや、皿まはし…………
小さいその兒はしなしなと身體(からだ)反(そ)らして逆(さか)さまに、
足を輪にして、手に受けて、
顏を踵(かかと)にちよと挾む、
足のあひだにその顏の坐(すは)るかなしさ、生(なま)じろさ。
落つる夕日のまんまろな光ながめてひと雫(しづく)。
あかい夕日のまんまろな光眺めてまじまじと、
足を輪にして、顏据ゑて、小さいその兒はまた淚。
傍(そば)にや親爺(おやぢ)が眞面目(まじめ)がほ、
鉦(かね)や太鼓でちんからと、俵くづしの輕業(かるわざ)の
浮いた囃子(はやし)がちんからと。
知らぬ他國の潟海(がたうみ)に鴨の鳴くこゑほのじろく、
魚市場(さかないちば)の夕映(ゆふばえ)が血なまぐさそに照るばかり、
人立ちもないけうとさに秋も過ぎゆく、ちんからと。―
小さいその兒がただひとり、
とんぼがへりや、皿まはし、…………
[やぶちゃん注:第三連の「潟海(がたうみ)」は実はルビが『がたうろ』となっている。しかし、「潟海」を「がたうろ」と読むことは考え難いこと、本詩集の後に出る「夜」の第一連二行目に「潟海(がたうみ)」と出ること、ルビは植字が小さく「ろ」と「み」は見誤り易いことから、誤植と断じて特異的に訂した。現行諸本も総て「がたうみ」である。なお、一部の電子化(例えば「青空文庫」版。底本は『「柳河版 思ひ出」御花で昭和四二(一九六七)年初版の昭和五三(一九七八)年第六版とする)では、最終連二行が前連に繋がっているが、これは初版に徴するなら、明らかな誤りである。原本を見て戴ければ判る通り、見開き改ページ部分に当たるが、ここには素人が見ても判然とする通り、行空けがある。詩篇のリズムからも、この行空けは自然にして当然である。秦恒平氏のサイトの「思ひ出 抄 北原 白秋」でもちゃんと行空けされてある。
ここで描写されるのは所謂、角兵衛獅子である。ウィキの「角兵衛獅子」によれば、越後獅子が江戸に来たのは宝暦五(一七五五)年のことで、諸侯へ召し出されて獅子冠(ししかむり)を演じた親方が角兵衛であったから角兵衛の獅子・角兵衛獅子となったともいわれる。信濃川中流部の中之口川沿岸の農民角兵衛が毎年の凶作や飢饉から村人を救うために獅子舞を創案して、それが児童が中心として演じる大道芸となったものであるとする。七歳以上、十四、五歳以下の児童が、縞模様のもんぺと錏(しころ:兜の鉢の左右から後方に垂れて頸を覆うもの。)の付いた小さい獅子頭を頭上に頂いた格好で演じる。獅子頭の毛には鶏の羽根が用いられ、錏には紅染の絹の中央に黒繻子があしらわれている。人員構成は本来は獅子舞四名・笛吹一人・太鼓一人の計六名(これより少ないと定められた曲が出来なかった)であったが、後に獅子舞に二名と笛吹兼太鼓一名が増え、九名構成となった。このうち、笛吹き又は太鼓打ちを「親方」と呼ぶ。親方は曲名を告げ、掛け声調子を取って、獅子舞はその指示に従って芸を演じた。なお、江戸後期の百科随筆「嬉遊笑覧」(喜多村節信(ときのぶ)著・文政一三(一八三〇)年成立)では『越後獅子を江戸にては角兵衞獅子といふ。越後にては蒲原郡より出づるに依りカンバラ獅子といふとぞ、角兵衞獅子は、恐らくは蒲原獅子の誤りならむ』と考証している。『娯楽業者の群』大正一二(一九二三)年実業之日本刊)では、洪水に悩まされた現在の新潟県西蒲原郡に月潟村の者が堤を造る費用を得るために、子供に越後の獅子踊りをさせて旅稼ぎをさせたのが始まりで、江戸時代には、越後から親方が連れて各地を訪れていたが、大正時代の東京では、東京に定住した新潟出身者が行なっていたとある。
「知らぬ他國」は言わずもがなだが、角兵衛獅子の少年にとって、である。]
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