北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) 霜
霜
柔かなる月の出に
生(なま)じろき百合の根は匂ひいで、
鴉の鳴かで步みゆく畑、
その畑に霜はふる、銀の薄き疼痛(とうつう)…………
過ぎし日は苦(にが)き芽を蒔きちらし、
沈默(ちんもく)はうしろより啄みゆく、
虎列拉(コレラ)病める農人(のうにん)の厨に
黃なる灯(ひ)の聲もなくちらつけるほど。
霜はふる、土龍(もぐら)の死にし小徑(こみち)に、
かつ黑き鳥類(てうるゐ)の足あとに、故鄕(ふるさと)のにほひに、
霜はふる、しみじみと鍼(はり)をもてかいさぐりゆく
盲鍼醫(めくらい)の觸覺のごと。
思ひ出の月夜なり、銀(しろがね)の痛き鍍金(メツキ)に、
薄靑き光線の暈(かさ)かけて慄(わななく)く夜なり。
放埒(ほうらつ)のわが悔に、初戀の淸き傷手(いたで)に、
秘密おほき少年のフアンタジヤに。
霜はふる。
ややにふる、
來るべき冬の日の幻滅(デスイリユジヨン)…………
[やぶちゃん注:「過ぎし日は苦(にが)き芽を蒔きちらし、」/「沈默(ちんもく)はうしろより啄みゆく、」は長く記憶されるべき、痛烈な詩句である。少なくとも、私にとっては。
「幻滅(デスイリユジヨン)」あたかも「death illusion」に見えるが(それがまた「幻滅」にしっくりきてしまうのだが)、“disillusion”(ディスィリュージョン)のつもりであろう。]
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