北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) 夜 / 挿絵「生膽取」
夜
夜(よる)は黑…………銀箔(ぎんぱく)の裏面(うら)の黑。
滑(なめ)らかな瀉海(がたうみ)の黑、
さうして芝居の下幕(さげまく)の黑、
幽靈の髮の黑。
夜は黑…………ぬるぬると蛇(くちなは)の目が光り、
おはぐろの臭(にほひ)のいやらしく、
千金丹の鞄(かばん)がうろつき、
黑猫がふわりとあるく…………夜は黑。
夜は黑…………おそろしい、忍びやかな盜人(ぬすびと)の黑、
定九郞の蛇目傘(じやのめがさ)、
誰だか頸(くび)すぢに觸(さは)るやうな、
力のない死螢の翅(はね)のやうな。
夜は黑…………時計の數字の奇異(ふしぎ)な黑。
血潮のしたたる
生(なま)じろい鋏を持つて
生膽取(いきぎもとり)のさしのぞく夜。
夜は黑…………瞑(つぶ)つても瞑つても、
靑い赤い無數(むすう)の靈(たましひ)の落ちかかる夜。
耳鳴(みみなり)の底知れぬ夜(よる)。
暗い夜。
ひとりぼつちの夜。
夜…………夜…………夜…………
[やぶちゃん注:底本ではエンディングが第四連の「生(なま)じろい鋏を持つて」以下で右ページ「256」目一杯に配され、見開き左ページに挿絵「生膽取」が配されてある。上に配した画像は国立国会図書館デジタルコレクションの底本と同じ初版本画像(但し、モノクロームである。しかし、デッサンには却ってコントラストが生じて都合がよい)をダウン・ロードし、底本と比較しながら、汚損(額の有意な点は汚損の可能性があるが、初版も同じであるので消さずに残した)を可能な限り除去した。下方の手書きの「Ikigimo tori.」は赤で記されてあるので下方に活字で追加しておいた。
「定九郞」(さだくらう)は既出既注だが、再掲しておくと、浄瑠璃「仮名手本忠臣藏」五段目に登場する人物で、百姓与市兵衛を殺して金を奪う放蕩無頼の武士で、実は元は塩冶の家老斧九太夫嫡男の大野群右衛門。六段目で、勘平に猪と間違えて撃ち殺されて惨めに死ぬ。彼が、雨の中、蛇の目傘を広げて見得を切るのは浮世絵にもされた名場面の一つである。
「死螢」「しにぼたる」と訓じておく。]
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