柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 凡兆 四
四
俳書に現れたところだけを以て見れば、凡兆の俳句生活は元禄二年[やぶちゃん注:一六八九年。]から正徳年間[やぶちゃん注:一七一一年~一七一六年。]に及ぶわけで、その間二十余年にわたるのだから、決して短い方ではない。けれども宝永以後[やぶちゃん注:宝永(一七〇四年~一七一一年)元年以降の十三年間。]の作品は、分量においていうに足らず、元禄年間[やぶちゃん注:元禄は十七年に宝永に改元。]の句といえども、前後二つに分れて中間が相当とぎれている。凡兆の俳句生活は年代の長い割に空白が多いのである。
『曠野』に二句、『いつを昔』に四句、『華摘』に一句をとどめたのみで、さのみ有力な作家とも思われぬ凡兆がどうして去来と共に『猿蓑』の撰に当るような重要な役割をつとめるようになったか、その間の消息については何も伝わっていない。当時芭蕉は『奥の細道』の大旅行を了えて関西に入り、京洛附近に優遊しつつあった。京都居住者たる凡兆ここにおいて大に芭蕉に親灸し、作品の上に驚くべき飛躍を示すに至ったのであろう。
[やぶちゃん注:「優遊」のんびりと心のままにするさま。]
加生の号は『華摘』の記載によって、元禄三年の夏までは用いられたものと推定出来る。『卯辰集』や『百人一句』に従えば四年まで持越せるようでもあるが、当時の句集は現代の出版物と違って、こまかい月日まではわからぬから、妄(みだり)に先後を定めるわけに行かず、句集によってその境界(きょうがい)を定めることは困難である。殊に『卯辰集』所載の句が『猿蓑』にあると同じ「渡りかけて藻の花のぞく流かな」で名前が「加生」になっていることは、いよいよその決定を困難ならしむるものといわざるを得ない。よってここでは大づかみに、加生は『猿蓑』刊行の元禄四年を以て凡兆と改め、作句の上に著しい進歩を示したということにする。
『猿蓑』は一朝一夕にして成ったものではない。自らそこに至るべき径路がある。しかも『猿蓑』刊行当時を以て蕉門俳諧の最も緊張充実せる時代とすることには、恐らく何人も異論はあるまいと思う。『猿蓑』は実にこういう盛時の京洛を背景として生れ、俳壇の総帥たる芭蕉の指揮の下に成ったのである。たとい加生時代に人の目を牽くような成績を示しておらぬにせよ、芭蕉が特に凡兆を抜いて去来と共に撰に当らしめたのは、大に見るところがあったために相違ない。
『猿蓑』撰集の一事は、慥に凡兆の名を不朽ならしめた。凡兆は『猿蓑』によって著れた第一の人として、十分にその実力を発揮したが、単に句数において集中に冠(かん)たるばかりでなく、句々皆誦するに堪えたることを多(た)としなければならぬ。撰者がその集に自己の句を多く載せることは、芭蕉の遺語にも「撰集に撰者の句あまた入る事、むかし千載集の時再勅許有て俊成卿の歌加増せられたることあり、当時俳譜撰者憚(はばかり)なくともゆるすべき事となり」とあり、歌の例に倣ったものらしいが、多く入れると同時に粒を揃えるには、人知れぬ努力を要するわけである。『猿蓑』の凡兆の如く、撰者の責を重んじた例はけだし稀であろう。(『猿蓑』の凡兆については先輩の説が已にこれを悉(つく)しているから、蛇足を加える必要はないが、その句だけ少し左に引用して置く)
鶯や下駄の歯につく小田の土 凡兆
[やぶちゃん注:「小田」は「おだ」で「小」は接頭語で当該語彙を和らげる働きのそれと採る。小さな田圃ではなく、すっと意識の中に取り込まれるような親和性のある田の姿を意味するものである。中七座五は普通なら汚れた歩き難さや不快を意味するところが、ウグイスの鳴き音とともに「おだ」の「お」音が春到来の軽くステップしたくなるような心地よさへと見事に変化しているのである。凡兆、これ、ただの「凡」ではない。]
花ちるや伽藍の枢おとし行く 同
[やぶちゃん注:「枢」は「くるる」。戸締まりのために戸の桟から敷居に差し込む止め木或いはその仕掛けを言う(「とぼそ」とも読む)。一九八九年岩波文庫刊の堀切実氏の編注になる「蕉門名家句選(下)」の評釈によれば、『参詣人の人影も絶えた閑寂にして清浄な大寺院の夕暮である。折からひとりの寺の番僧が現われ、御堂の重い扉を閉め、扉の桟(さん)をごとんと落として立ち去っていった。その小さな音が境内に余韻を引く中で、庭の桜がはらはらと散るという情景である。ひっそりとした寺院の夕闇の中で、無表情なひとりの寺僧の動きが鮮やかに浮かび上がってくる。その上、境内の閑寂さの中に、小さく響く枢(くるる)の音がいっそう幽寂を深め、春の夕べに桜の散る艶なる背景の中で、なにやら物悲しい情趣を盛り上げている。〝さび〟ある句趣と評すべきであるが、古来の和歌的な落花の情緒を一新したところ、全く俳諧の新しみでもある』とある。また、「行く」に注されて、『これを動作の反覆の意にとって、各堂の扉を順々に閉めて廻るさまとする解もある』と紹介されておられる。なお、堀切氏は凡兆を高く評価しておられ、その眼目のつけ方が鋭く、私の及ぶ域ではない。故に以下、かなりの量の引用を示すことをお許し戴きたい。]
灰捨て白梅うるむ垣根かな 同
[やぶちゃん注:堀切氏は前掲書で評釈されて、『白梅の咲く垣根の下し、運んできた白い灰をぶちまけると、軽い灰かぐらが舞い上がり、鮮やかな純白に見えていた白晦の花びらが、灰かぐらのヴェール越しに、一瞬心なしか不透明に曇ったように見えた、というのである。光沢のある清楚な梅の花びらが、少しぼかしたようになって、かえって艶な気配を帯びてくるさまをとらえたものである。動きの中のある一瞬を、繊細な感性の働きによって鋭くつかんでいる。白梅の美を表わすのに、目常的で卑俗な「灰」との配合をもってしたところが、いかにも俳諧らしい』とされる。因みに、「梅の牛」(盛水編。延享四(一六八七)年刊)では下五が「根垣かな」とする、ともある。]
髪剃や一夜に金精て五月雨 同
[やぶちゃん注:底本は「かみそりやひとよにさびてさつきあめ」と読んでいる。「一夜」は「いちや」の方がいい。同じく前掲書で堀切氏は本句を挙げて、『物みなしたたるき』(じめじめとして湿っている様子)『五月雨の候、つい昨夜も使った剃刀をとり出してみると、思いもかけず赤錆』(あかさび)『が浮いていたのである。「髪剃や」という強い対象の提示によって、まず具象性が導かれ、「一夜に金精(さび)て」という率直に驚きを含んだ表現によって、時の推移と変貌に対する微かな心のゆらめきが象徴されてくる。そこに哀憐の情も牛じてくるのである。「一夜に金精て」は誇張のようにもみえるが、やはり湿気の多い五月雨時の体験に基づくものであろう。「五月雨」の本情が見事にとらえられてかり、単に対象を切りとっただけではない俳趣の構成が成立しているのである。なんでもないような日常的世界の中に凡兆の詩心の確かさが光っている句である』と讃しておられる。全く以って同感である。]
市中は物の匂ひや夏の月 同
[やぶちゃん注:「市中」は「いちなか」。同じく堀切氏の評釈。『真夏の街中(まちなか)の宵の口は、昼の暑さも消えやらず、雑多なものの入り交じった、すえたような匂いがむんむんとして、むし暑さを増長する。だが、地上とは対照的に、屋根の上には清涼な夏の月が仰がれるのである。一句、市中の暑さをとらえながら、伝統的な夏の月の本情としての涼しさをも詠み込んでいるのである。市中の庶民の生活の場の感覚的な把握のしかたと、伝統的な月の風情ヘの詠嘆とが交錯してくるところに、俳諧の世界の新しさがある。表現のリズムはひきしまって単純にみえるが、詠出された世界は単純な叙景ではない』と適確に鑑賞されておられる。また、「市中」は「まちなか」と読む説もあるとされ、『凡兆の住む京の街であろう』と注される。市中雑踏の広角から嗅覚に移り、さらにティルト・アップして涼しき夏の月を映像に差し入れるこれは、只者のやれることではない。]
すゞしさや朝草門ンに荷ひ込 同
[やぶちゃん注:読みは「すずしさや//あさくさ/もんに//になひこむ」。同じく堀切氏の評釈。『夏の朝早く、露に濡れたままの青い刈草を門の中へかつぎ込んでいる情景が、いかにも涼しそうに見えるのである。庄屋など、ある程度格式のある農家の朝であろうか。刈草は飼料にしたり、緑肥としたりするためのものである。「すずしさや」と主観的に爽涼の感をまず打ち出し、次いで「朝草門ンに荷ひ込」と印象鮮明で、しかも動きのある叙景を重ねてゆく句法に、まったく隙(すき)がない。「門ン」とはね、これを「荷ひ込」と受ける語勢にも音調上の働きがある』と絶賛されておられる。「朝草」に注され、『農家で、馬の飼料などにするため、早朝に草を刈りとること。「朝草刈」は涼しい間の一仕事としての意味もあるが、露を含んだ青草はまだ柔らかく刈りやすいのである』とされ、座五は『荷ひ込(こみ)」ともよめる』とされる。]
あさ露や鬱金畠の秋の風 同
[やぶちゃん注:「鬱金畠」は「うこんばたけ」。単子葉植物綱ショウガ目ショウガ科ウコン属ウコン Curcuma longa。本邦では古くから生薬とともに黄色染料の原料として栽培されていた。やはり堀切氏の評釈を引く。『芭蕉葉に似た大きな鬱金(うこん)の葉に朝露が結び、その葉をはたはたとひらめかして秋風が吹き渡っているという、欝金畠の朝景色である。季節からみて、広葉に交じって白い花も咲いているのであろう。明け方の清涼な感じがよく出ている。一句「あさ露」「鬱金畠」「秋の風」と季語が重なっていることについての議論があるが、「秋の風」の爽涼感で統一されるであろう。平明な叙景句だが、「秋風」に「鬱金畠」を配したところに新しみがある』とある。もと自由律で今も季語を嫌悪する私は季重ねなどを問題にするのは俳句の早期滅亡の元凶の一つと心得る。]
百舌鳥なくや入日さし込女松原 同
[やぶちゃん注:「もずなくやいりひさしこむめまつばら」。「女松」は一般には球果植物門マツ綱マツ目マツ科マツ属アカマツ Pinus densiflora の異名である。樹皮が黒褐色を呈するマツ属クロマツ Pinus thunbergii とよく似ているものの、樹皮が有意に赤っぽく、葉がやや細くて柔らかであり、手で触れてもクロマツほど痛くない。そこから、クロマツが「雄松」と呼ばれるのに対して、「雌松」と呼ばれるのである。同じく堀切氏の評釈。『赤松の立ち並んでいる林に秋の夕日がさし込み、赤みを帯びた松の幹がほてったように輝いて美しい。折しも、周囲の静閑な空気を突き破るように、キィーキィーと鋭くかん高い百舌鳥の鳴き声が聞こえてきた、というのである。赤松原の鮮明な視覚的風景と百舌鳥のけたたましいような鳴き声とが見事に配きされて、高雅で清楚な秋の景趣が描き出されている。「入日さし込」によって「女松原」の空間のひろがりが表わされ、また「女松原」の「女」の一字によって「さし込む」人目のやわらかさが感じられてくるのも妙である』。私の偏愛する鳥「百舌鳥」(モズ)の博物誌については、私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 鵙(もず) (モズ)」を是非、参照されたい。]
初潮や鳴門の浪の飛脚舟 同
[やぶちゃん注:堀切氏の前掲書の語注に、「初潮」は『陰暦八月十五日の大潮のこと。力強い高波になる。秋の季題』とあり、「飛脚舟」は『急ぎの連絡のため、日和や風向きに無関係に急行する小舟。飛脚小早(こばや)ともいう、数丁の艪で漕ぐ』とあり、評釈は、『一年中で潮の最も高くなる初潮の夜、満月の皓々と照る下、激しく渦を巻く鳴門海峡を、白い波しぶきをあげながら、一艘の飛脚舟が勇壮に疾走してゆく光景である。迫力満点のダイナミックな画面構成の句であるが、凡兆の足跡から推して、おそらくは想像によって描いたものであろう。「鳴門の浪の」と「ナ」の韻を重ねて弾みをつけた音調上の効果も見逃せない。森田蘭氏の『猿蓑発句鑑賞』には、この句の背景に『平家物語』巻六「飛脚到来」の一場面――義仲挙兵に動揺した平氏一門に、さらに鎮西・伊予からも平家離反の知らせを運ぶ飛脚舟が到来して風雲急を告げるという場面があることを指摘しているが、その当否はともかく、実景というよりは想像の句であることは間違いないようである』とある。「平家」の歴史詠とする解釈は私は語るに落ちた解釈と思う。]
肌さむし竹切山のうす紅葉 同
[やぶちゃん注:中七は「たけきるやまの」。堀切氏前掲書評釈。『竹山では竹を伐っている。周囲の山ではうっすらと紅葉がはじまっている。その紅葉の色を眺めながら、堅い竹の幹を鉈(なた)で伐る音のひびきを聞いていると、そぞろに肌寒く感じられてくる、というのである。若草色の竹にうす紅葉の色彩の配合、冷やかな竹の感触とその竹を伐る音のさびしいひびき――それらがおのずと初五「肌さむし」に統合されてくるような句法である』。]
時雨るゝや黒木つむ屋の窓あかり 同
[やぶちゃん注:堀切氏の前掲書では、かなり長い鑑賞と注が附されてある。幾つかの注を引く。「黒木」は『生木を黒くいぶした薪。八瀬・大原・鞍馬などから京の町へ売りに出されたもの。大原木(おはらぎ)・竃木(かまき)ともいう。黒木を積み蓄えるのは、冬仕度としてである』とされ、「窓あかり」は以下の諸説を挙げておられる。『⑴窓から漏れる灯影、⑵窓からさし込む光、の二説があるが、ここは⑴を中心に解した。⑴の用例として西村真砂子氏は『古典俳句を学ぶ(上)』において、嵐竹の付句「蛙なく窓のあかりに舟寄て」をあげている。▽古注にも「つみ置(おき)たる黒木に時雨のかかりたるを、閑窓の内より詠(なが)め侘たる作也」(『猿蓑さがし』)とみる説と「黒木つむ屋の軒かたむきてかすかに見ゆる窓明りはいかなる白拍子の親もとにやとゆかし」(『猿蓑爪じるし』)ととらえる説とがあるが、この句の形象の特色は、作者の視点が、瞬時において内外自在な転換をなすことによって、そこに形象の重層性を生じさせているところにあろう。なお、森田蘭氏の『猿蓑発句鑑賞』は、この句を実景からの着想とせず、謡曲『野宮』で光源氏と六条御息所の対面する場面に、黒木の鳥居と小柴垣があることから、この「小柴垣」を「黒木」にして、庶民の家屋に舞台を変えて趣向したものと解している』。以下、堀切の評釈を掲げる。『時雨降る夜、「黒木つむ屋」の軒も傾き、微かに漏れる窓明かりに、ひっそりと暮らす人たちの生活の息遣いも思いやられるのである。寒中に備え黒木を軒近くまで積み上げた情景を遠望する体』(てい)『であるが、作者の心は窓の内の人と交流している。「窓あかり」は一般に外光による窓の明るみをいうところから、一句を室内にむける吟として、時雨の音を聞く寒々とした室内で、外に積み上げた黒木の間の小窓から明かりのさし込むのをとらえた景とみる解が多いが、それでは「黒木つむ屋」の構図が生きてこない。一句の視点を〝実(じつ)〟にとらえるのではなく、単なる写生を超えて対象と自己とが一体化したような高い句境を想うべきなのである。いずれにせよ、伝統的な時雨の佗しい風情と俳諧的な仄(ほのか)な生活の匂いとが見事に配合されて、無限の詩情を漂わしている』と本句の詩的映像を見事に再現しておられる。]
禅寺の松の落葉や神無月 同
[やぶちゃん注:堀切氏の評釈。『禅寺はとくに閑静な地が多い。初冬の穏やかな日ざしの下、きれいに掃き清められた禅寺の庭に、少し色の変わった松の落葉が、わずかに散りこぼれているという情景である。いかにも神無月にふさわしい冬枯れの景色なのである。「神無月」に連想されやすい「紅葉」をいわず、常緑樹の「松の落葉」のみを点出したところが効果的であり、凡兆らしい緻密で格調の高い句法となっている』。真正のモノクロームの映画の持つ多様な微妙な心的な陰影による色彩感覚が再現されたものと言えよう。]
古寺の簀子も青し冬がまへ 同
[やぶちゃん注:堀切氏の評釈。『森閑とした古寺がある。いま冬支度をする時期を迎え、薪を積んだり、雪囲いをしたり、庫裡(くり)を 繕ったりしているところであるが、その中でとりわけ張り替えたばかりの竹の簀子縁の青さが印象的に映るのである。また、その青竹の色によって、逆に周囲の冬枯れの景色も想いやられるのである』。]
炭竃に手負の猪の倒れけり 同
[やぶちゃん注:「すみがまにておひのししのたふれけり」。堀切氏の「倒れけり」の注によれば、『⑴目の前で倒れた、⑵倒れていた、の二説があるが、評釈に示したような意味で、ここは、⑴とみた』とある。山中の炭焼き竃がロケーションであるなら、強いリアリズムとして、私は⑴以外は考えられない。⑵では――山を歩いていてふと見たら、既に手負いの猪だったものが遂に疲れ切って竃に突き当たって死んで居った――という間の抜けたものになってしまい(或いは素材の事実はそうであったかも知れぬが)、スカルプティング・イン・タイムを眼目とする凡兆にして⑵は詩想としてはあり得ない。堀切氏の評釈も、『猟師に撃(う)たれて、さんざん荒れ狂った手負いの猪が炭竃に突き当たって倒れ込んだというのである。人里離れた冬山に血に染った猪が倒れているという凄絶な光景であろう。これを今まさに目前で倒れたように、動的に、ドラマチックに構成してとらえたところが俳諧の手づまである。古来「臥す猪の床」という歌語もあるように、風雅の世界の中で詠まれてきた猪を、山中の炭焼の竃のところに見出しているのも俳諧らしい着眼といえよう』とある。]
呼かへす鮒売見えぬあられかな 同
[やぶちゃん注:堀切氏の評釈。『寒鮒売りが威勢のよい呼び声で表を足早に通り過ぎてゆく。大急ぎで門口に出て、大声で呼び返してみたが、もうその姿は、折から激しく降る霰に視界をさえぎられて見えなくなっていた、というのである。庶民の日常生活の一コマをとらえて、見事に詩の世界につくりあげている』。『生活の中の一瞬の動作の機微を、自然との交錯の中で巧みに描きとめている』。語注されてこの「寒鮒売り」のそれは『琵琶湖でとれる近江鮒か。寒中の鮒は脂肪に富んで美味という。その鮒を生きたまま桶に入れて天秤でかつぎながら行商するのであろう』とされる。]
下京や雪つむ上の夜の雨 同
[やぶちゃん注:堀切氏の評釈。『下京の家並みには雪が一面に積もっている。夜になると、その降り積もった雪の上にしとしとと雨が降りそそいできた。だが、そんな寒々とした佗しさの中でも、下京の人たちは心を寄せあって団欒(だんらん)のくらしをしているのである。「雪つむ上の夜の雨」という鋭い感覚で切りとられた情景の中に、「下京や」という庶民的な情緒が探り起こされているのである。冷たい雪に覆われていても、窓から洩れる家々の灯りに生活のぬくもりが感じられるからである』とされる。なお、堀切氏も指摘されておられるが、これは「去来抄」の「先師評」で、
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下京や雪つむ上のよるの雨 凡兆
此句初(はじめ)冠(かんむり)なし。先師をはじめ、いろいろと置(おき)侍りて、此冠に極(きは)め給ふ。凡兆「あ。」トとこたへて、いまだ落(おち)つかず。先師曰、「兆、汝、手柄に此(この)冠を置(おく)べし。若(もし)まさる物あらば、我(われ)二度(ふたたび)俳諧をいふべからず。」ト也。
去來曰、「此五文字のよき事ハたれたれもしり侍れど、是外にあるまじとハいかでかしり侍らん。此事他門の人聞(きき)侍らバ、腹いたく、いくつも冠置(おく)るべし。其よしとおかるゝ物は、またこなたにハおかしかりなんと、おもひ侍る也。」。
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まさに禅問答そのものだが、さすれば、これは厳密には中七座五が凡兆、上五が芭蕉の合作ということになる。凡兆が離れて行くのは、こうした芭蕉の絶対の自信が、或いは彼にはかなり五月蠅く感ぜられたのかも知れぬ。]
ながながと川一筋や雪の原 同
これらの句が明(あきらか)に示している通り、凡兆の客観趣味なるものは、平面的にこまかいというよりも、内面的に厚み乃至深みを持ったものである。平面的なこまかさならあるいは企て及ぶであろう。この重厚な滋味に至っては遂に如何ともすることが出来ない。
凡兆の句は『猿蓑』所載のものを最高峯として、その前後に少しく散在しているが、『猿蓑』の句と重複するものは存外少い。『西の雲』『卯辰集』『挑の実』等に一句ずつ見えるに過ぎぬ。凡兆が如何に『猿蓑』に主力を集中したかは、この一事を以て想像することが出来る。
[やぶちゃん注:「西の雲」かの遂に芭蕉に逢えずに亡くなった金沢の俳人小杉一笑の兄ノ松(べっしょう)の編に成る一笑追善集である。私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 65 金沢 塚も動け我が泣く聲は秋の風』を参照されたい。]
『猿蓑』中心の山は六年に至って一先ず尽きる。『柞原集(ははそはらしゅう)』の十一句、『薦獅子集(こもしししゅう)』の一句、『曠野後集』の二句、『弓』の三句、いずれも俳句年代からいえば『猿蓑』と大差ないものであろうが、『猿蓑』に比べると皆見劣りがする。『曠野』から『猿蓑』へ驀進した凡兆は、頂上を極むると同時に、直に低下せざるを得なかったのであろうか。篩(ふるい)にかけた作品が悉く『猿蓑』に萃(あつま)り、いささか劣るものが他の集に廻ったものと解すべきであろうか。客観趣味の本尊として凡兆を崇める上からは、爾余の作品はあるもなおなきが如きものである。
凡兆前期の俳句生活が意外に早く募を閉じたについては、彼が罪に坐して獄に下ったということも考えられる。凡兆が蕉門に入ったのは何時頃かわからぬが、元禄三、四年の交(こう)にあっては最も芭蕉に親しい一人であった。
『嵯峨日記』のはじめに芭蕉を送って落柿舎に来たのも凡兆であり、落柿舎滞在の半月ばかりの間に、なお二度も訪ねて来ている。羽紅と共に落柿舎に一泊した時などは、一張の蚊帳に五人も寝るのだから、誰も眠ることが出来ず、「夜半過る頃よりもおのおの起出て、昼の菓子盆など取出て暁ちかきまで話明す」という風であった。その時「去年(こぞ)の夏凡兆が宅に臥(ふし)たるに二畳の蚊屋に四国の人ふしたり、おもふこと四(よつ)にして夢も又四くさと書捨てた事もなど云出して[やぶちゃん注:「いひいだして」。]笑ひぬ」ともある。「去年の夏」というのは元禄三年で、幻住庵時代に当るから、芭蕉も時に山を下って凡兆の家などに泊ったことがあるらしいのである。それほど親しい交渉のあった凡兆が、芭蕉の最後の病牀に駈付けておらぬばかりでなく、追悼の一句すら寄せておらぬというには、何か不可能な事情が伏在すると見なければなるまいと思う。
元禄六年を限りとして、一先ず凡兆の句が見えなくなること、芭蕉病歿当時の消息が明(あきらか)でないこと、この二つの事実から推定すれば、凡兆の下獄は元禄四年以後七年以前の出来事と見てよさそうである。更に傍証を挙げるならば、この前にもちょっと記したように、『韻塞』が「門前の小家もあそぶ冬至かな」を特に「不知作者」としていること、『俳譜猿舞師』が「猪の首の強さよ年の暮」を「読人しらず」にしていることも算う[やぶちゃん注:「かぞう」。]べきであろう。『韻塞』の撰者たる李由は何が故に『猿蓑』集中の句を採って「不知作者」としたか。凡兆の苦を憐んでこれを採り、獄中にあるのゆえを以てその名を省(はぶ)いたのだとすれば、元禄九年はなお獄にあったのである。「猪」の句は当時において凡兆の句たることを証明する材料が見当らぬけれども、もしこの「猪」が年の「亥」を利かせたものとすれば、元禄八年のわけになる。亥年のことはなお再考を要するとしても、この二条はどうも凡兆の下獄と関係ありそうな気がする。
凡兆の出獄に至っては下獄よりも更に見当がつかない。しかし芭蕉歿前からその跡を絶った凡兆の句が、『荒小田』に三十九句も迸出(へいしゅつ)[やぶちゃん注:勢いよく出ること。]することは、獄中にあっては望み難いことであるから、元禄十四年頃にはとにかく世の中に出ていたものと想像する。獄中の作もあったかも知れぬが、凡兆も恐らくは愧じて示さず、舎羅も凡兆のためにそういう句は採ることを避けたであろう。『猿蓑』と『荒小田』との間には十年の歳月があり、右の如き重大事件を含んでいるにかかわらず、その間の消息を伝える句は一つもない。『猿蓑』と『荒小田』とだけを対照すれば、句に格段の相違を認め得るから、その理由を十年の歳月と、凡兆境遇の変化とに帰し得ぬこともないけれども、『猿蓑』に続いて現れた『柞原集』『薦獅子集』『曠野後集』『弓』等の諸集の句は、『猿蓑』よりもむしろ『荒小田』の句風に近いので、一概に断定は下しかねる。但(ただし)説明の便宜上、『猿蓑』中心の時代を前期とするに対し、『荒小田』以後をしばらく後期と呼ぶだけの話である。
凡兆の句の散見する諸集は、決して多いというわけに行かない。柴田笥浦氏は北国筋の句集にその句の採られていないことを挙げて、早く生国(しょうこく)加賀を離れた理由にしているが、『卯辰集』の一句はともかく、『柞原集』の十一句が発見された今日では、そう断言も出来ぬようである。われわれのいうところも、すべて現在までにわかった点を単位とするので、新材料が出れば直に訂正しなければならぬが、今日までのところでは前期の句と後期の句とはあまり交錯しておらぬかと思う。ただ『柞原集』にあった「身ひとつを里に来なくか鷦鷯(みそさざい)」の句が一つ、『荒小田』に載っているに過ぎぬ。反対に前期同士にあっては、多からぬ諸集に同じ句が重出するように、後期の諸集にあっても、同一句の重出がいくつか認められる。中間が切断されているだけに、凡兆の句を前後二期に分けることは、必ずしも無理ではなさそうである。
[やぶちゃん注:「鷦鷯」既出であるが、再掲しておく。スズメ目ミソサザイ科ミソサザイ属ミソサザイ Troglodytes troglodytes。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 巧婦鳥(みそさざい)(ミソサザイ)」を参照されたい。小さな体の割りには声が大きく、囀りは高音の大変に良く響く声で「チリリリリ」と鳴く(引用元で音声が聴ける。私は彼の囀りが好きだ)。また、地鳴きで「チャッチャッ」とも鳴く。]
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