萩原朔太郎 氷島 初版本原拠版 附・初出形 虎
虎
虎なり
曠茫として巨像の如く
百貨店上屋階の檻に眠れど
汝はもと機械に非ず
牙齒もて肉を食ひ裂くとも
いかんぞ人間の物理を知らむ。
見よ 穹窿に煤煙ながれ
工場區街の屋根屋根より
悲しき汽笛は響き渡る。
虎なり
虎なり
午後なり
廣告風船(ばるうむ)は高く揚りて
薄暮に迫る都會の空
高層建築の上に遠く座りて
汝は旗の如くに飢えたるかな。
沓として眺望すれば
街路を這ひ行く蛆虫ども
生きたる食餌を暗欝にせり。
虎なり
昇降機械(えれべえたあ)の往復する
東京市中繁華の屋根に
琥珀の斑(まだら)なる毛皮をきて
曠野の如くに寂しむもの。
虎なり!
ああすべて汝の殘像
虛空のむなしき全景たり。
――銀座松坂屋の屋上にて――
[やぶちゃん注:「飢え」はママ(初出も同じ)。「沓として」は萩原朔太郎の思い込み誤用(初出も同じ)。無論「杳として」が正しい。ここは「はるかに遠く」の意。
「百貨店上屋階の檻に眠れ」る「虎」『「Vol.41 松坂屋・屋上遊園の歴史|松坂屋史料室」』(原資料(パンフレット画像)はこちら)に『1925年(大正14)5月1日に、銀座店は百貨店初の試みである動物園を屋上に開設し、虎やライオンで人気を集めた』とある。本篇の初出は以下に出すが、昭和八年である。
巨匠萩原朔太郎には「虎」が似合う。……惨めな私には場違いなところに飼われていた見すぼらしい「猿」が相応しかった。……その意味は……そうさ、私の中山省三郎氏訳の「航海 イワン・ツルゲーネフ」の私の注を見られよ…………
初出は昭和八(一九三三)年六月発行の『生理』「Ⅰ」である。
*
屋上の虎
虎なり
茫漠として巨像の如く
百貨店上屋階の檻に眠れど
汝はもと機械に非ず
牙齒もて肉を食ひ裂くとも
いかんぞ人間の物理を知らむ。
見よ 穹窿に煤煙ながれ
工場區街の屋根屋根より
悲しき汽笛は響き渡る。
虎なり
虎なり。
午後なり
廣告風船(ばるうむ)は高く揚りて
薄暮に迫る都會の空
高層建築の上に遠く座りて
汝は旗の如くに飢えたるかな。
沓として眺望すれば
街路を這ひ行く蛆虫ども
生きたる食餌を暗欝にせり。
虎なり
昇降機械(えれべえたあ)の往復する
東京市中繁華の屋根に
琥珀の斑(まだら)なる毛皮をきて
曠野の如くに寂しむもの。
虎なり
ああすべて汝の殘像
虛空のむなしき全景たり。
――銀座松屋の屋上にて――
*
最後の添書の「坂」の脱落はママ。]
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