北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) 隣の屋根
隣の屋根
夕まぐれ、たれこめて珈琲のにほひに噎(むせ)び、
古ぼけし和蘭陀自鳴鐘(おらんだとけい)取りおろし拭きつつあれば
黃に光るザボンの實ぽつかりと夕日に浮び、
黑猫はひそやかにそのかげをゆく…………
あたたかき足跡のつづきゆく瓦の塵よ。
風重きかの屋根に香(にほひ)濃き艸こそなけれ。
晷(かげ)りゆく日のあゆみたまゆらに明(あか)ると見つつ、
過ぎし日のやるせなき思ひ出はまた晷(かげ)りゆく。
[やぶちゃん注:「隣」だからと言って直に不倫相手の俊子を想起する輩は反詩的作家論狂信者であって、百害あって一利なしの強迫神経症に等しいと言っておく。白秋の三面スキャンダル記事など知らなかった若き日に素直にこの詩を読めた自分を想起すべきである。]