石川啄木 詩集「あこがれ」(初版準拠版) 傘のぬし
傘 の ぬ し
柳(やなぎ)の門(かど)にただずめば、
胸の奧より擣(つ)くに似る
鐘がさそひし細雨(ほそあめ)に
ぬれて、淋(さび)しき秋の暮、
絹(きぬ)むらさきの深張(ふかばり)の
小傘(をがさ)を斜(はす)に、君は來ぬ。
もとより夢のさまよひの
心やさしき君なれば、
あゆみはゆるき駒下駄(こまげた)の、
その音に胸はきざまれて、
うつむきとづる眼には
仄(ほの)むらさきの靄(もや)わせぬ。
袖やふるると、をののぎの
もろ手を置ける胸の上、
言葉も落ちず、手もふれず、
步みはゆるき駒下駄の
その音に知れば、君過ぎぬ。
ああ人もなき村路(むらみち)に
かへり見もせぬ傘(かさ)の主(ぬし)、
心いためて見送れば、
むらさきの靄やうやうに
あせて、新月(にひづき)野にいづる
空のうるみも目に添ひつ、
柳の雫(しづく)ひややかに
冷えし我が頰に落ちにける。
(乙巳一月十八日)
[やぶちゃん注:「ただずめば」はママ。「彳めば」であるから「たたずめば」が正しい。初出はちゃんとそうなっている(後掲)。
「わせぬ」は仮名遣の誤りがないとすれば、「和せぬ」であろうと考えたが、初出を見て、びっくりだ。「靄(もや)走せぬ」となっている。ここからフィード・バックすると、ここは「靄(もや)走(は)せぬ」で、「馳(は)せぬ」に同じく、それを「わせぬ」と誤って表記したものとしか思えない。非常に痛い致命的ミスである。
「をののぎ」は「慄(をのの)く・戰く」の連用形の名詞化であるが、最後の濁音は一般的とは言えない。ここも初出はちゃんとそうなっている。
初出は『はがき新誌』明治三八(一九〇五)年三月号。以上の通り、表記ミスが余りにひど過ぎるので初出を示しておく。総ルビだが、読みは一部に留めた。
*
傘のぬし
柳の門にたたずめば、
胸の奧より擣くに似る
鐘がさそひし細雨に
ぬれて淋しき秋のくれ、
絹むらさきの深張(ふかばり)の
小傘(をがさ)を斜(はす)に、君は來ぬ。
もとより夢のさまよひの
心やさしき君なれば、
あゆみはゆるき駒下駄の、
その音(ね)に胸は刻まれて、
うつむきとづる眼(まなこ)には
仄むらさきの靄走(は)せぬ。
袖やふるると、をののきの
もろ手を置ける胸の上、
言葉も落ちず、手もふれず、
步みはゆるき駒下駄の
その音に知れば、君過ぎぬ。
ああ人もなき村路に
かへり見もせぬ傘のぬし。
心いためて見送れば、
むらさきの靄やうやうに
あせて、新月(にひづき)野(の)にいづる
空のうるみも目に添ひつ、
柳のしづく冷やかに
冷えし我が頰(ほ)に落ちにける。
*]
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