北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) 胡瓜
胡瓜
そのにほひなどか忘れむ。
ほのじろき胡瓜(きうり)の花よ。
そのひと日、かげにかくれて
わが見てし胡瓜の花よ。
かの日には歌舞伎見るとて
父上にせがみまつりき。
そがために小さき兄弟(はらから)
日をひと日家を追はれき。
弟は水の邊(へ)に立ち、
聲あげて泣きもいでしか。
われははた胡瓜の棚に
身をひそめすすり泣きしき。
かくてしも幼き淚
頰にくゆるしばしがほどぞ、
珍(めづ)らなる新らしき香に
うち噎(むせ)び、なべて忘れつ。
さあれ、かの痛(つ)らき父の眼(め)
たまたまに思ひいでつつ、
日をひと日、泣きも疲れて
數へ見てし胡瓜の花よ。
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