北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) 櫨の實
櫨の實
冬の日が灰いろの市街を染めた、――
めづらしい黃(きい)ろさで、あかるく。
濁川に、向ふ河岸(かし)の櫨(はじ)の實に、
そのかげの朱印を押した材木の置場に。
枯れ枯れになった葦(あし)の葉のささやき、………
潮の引く方へおとなしく家鴨(あひる)がすべり、
鰻を生けた魚籠(うけ)のにほひも澱(とろ)む。
古風な中二階の危ふさ、
欄干(てすり)のそばに赤い果(み)の萬年靑(おもと)を置いて、
柳河のしをらしい縫針(ぬひはり)の娘が
物指(ものさし)を頰にあてて考へてる。
何處(どこ)かで三味線の懶(ものう)い調子、―─
疲れてゆく靜かな思ひ出の街(まち)、
その裏(うら)の寂しい生活(くらし)をさしのぞくやうに
「出(いで)の橋」の朽ちかかつた橋桁(はしげた)のうへから
*YORANBANSHO の花嫁が耻かしさうに眺めてゆく。
久し振りに雪のふりさうな空合(そらあひ)から
氣まぐれな夕日がまたあかるくてりかへし、
櫨(はじ)の實の卵いろに光る梢、
をりをり黑い鴉が留まつては消えてゆく。
* 嫁入のあくる日盛裝したる花嫁綿帽をかぶりて
先に立ち、澁き紋服の姑つきそひて、町内及近
親の家庭を披露してあるく、風俗花やかなれど
も匂いと古く雅びやかなり。
[やぶちゃん注:「櫨(はじ)」既出既注であるが、再掲する。ムクロジ目ウルシ科ウルシ属ハゼノキ Toxicodendron succedaneum。ウィキの「ハゼノキ」によれば、『果実を蒸して圧搾して採取される高融点の脂肪、つまり木蝋』(もくろう)『は、和蝋燭(Japanese candle)、坐薬や軟膏の基剤、ポマード、石鹸、クレヨンなどの原料として利用される。日本では、江戶時代に西日本の諸藩で木蝋をとる目的で盛んに栽培された。また、江戶時代中期以前は時としてアク抜き後焼いて食すほか、すりつぶしてこね、ハゼ餅(東北地方のゆべしに近いものと考えられる)として加工されるなど、救荒食物としての利用もあった。現在も、食品の表面に光沢をつけるために利用される例がある』とし、『日本への渡来は安土桃山時代末の』天正一九(一五九一)年に『筑前の貿易商人神屋宗湛や島井宗室らによって中国南部から種子が輸入され、当時需要が高まりつつあったろうそくの蝋を採取する目的で栽培されたのがはじまりとされる。その後』、『江戶時代中期に入って中国から琉球王国を経由して、薩摩でも栽培が本格的に広まった。薩摩藩は後に』慶応三(一八六七)年の『パリ万国博覧会に』『このハゼノキから採った木蝋』『を出品している』。また、『広島藩では』一七〇〇年代後半から『藩有林を請山として貸出し、商人らがハゼノキをウルシ』(ウルシ科ウルシ属ウルシ Toxicodendron vernicifluum)『ともに大規模に植林、製蝋を行っていた記録が残る』とし、『今日の本州の山地に見られるハゼノキは』、これらの『蝋の採取の目的で栽培されたものの一部が野生化したものとみられている』とある。
「魚籠(うけ)」ここでは魚籠(びく)生け簀のように使用している情景が思い浮かぶ。但し、本来の「うけ」は「筌」で川漁に使う古くからある漁具で、細い竹を編み、筌口(うけぐち)を二重にしてしかも内側のそれは内部で中央に窄まる形に成してあり、外形全体は一方が窄まって閉鎖された間延びした砲弾型となっている。ともかく筌口から内部の餌の匂いに惹かれて中に入った魚は外に出られない仕組みになっている。水路や堀底の魚道に一晩仕掛けておき、ウナギ・ドジョウ・ナマズ・ウグイや中大型のエビ・カニなどを捕る道具を指す。或いは、筌口側をしっかり閉鎖し、尖塔状の部分を水面に出して杭に固定し、獲れたままを生け簀代わりとしているのかも知れない。
「萬年靑(おもと)」単子葉植物綱キジカクシ目キジカクシ科スズラン亜科オモト属オモト Rohdea japonica。本邦には古くから西日本を中心に自生する。ウィキの「オモト」によれば、『革質の分厚い針のような形の葉が根元から生え』、四〇センチメートル『ほどの大きさに育つ。夏』頃、『葉の間から花茎を伸ばし』、『淡い黄緑の小さな花を円筒状に密生させる。秋ごろにつく実は赤く艶のある液果で』、『鳥が好む』。『赤い実と緑の葉の対照が愛され、俳諧では秋の季語。観賞用としても古くから栽培され、江戸中期に日本で爆発的に流行し、斑が入ったものや覆輪のあるものなどさまざまな種類が作出された。これらの品種を含む古典園芸植物としての万年青(おもと)は現在も多くの品種が栽培されている』とある。
「出(いで)の橋」この中央の沖端川に架橋する橋(グーグル・マップ・データ)。藩政時代の城下への入り口に当たった。
「YORANBANSHO」註で意味は分かるが、現行、こう呼ばれているかどうか、この行事が普通に行われているいるかどうかは、ネット検索では不思議なほど掛かってこない。御存じの方はお教え願えれば幸いである。
なお、この詩篇は見開き右ページ「300」で終わり、左ページには挿絵目次で『鄕里「柳河沖ノ端」』と題した写真が差し込まれてある。]
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