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2020/06/02

三州奇談續編卷之四 蹴飛西田

[やぶちゃん注:前話で注した如く、以下は完全に前話の続きである。表題は「西田を蹴り飛ばす」と訓じておく。前話の最後で述べた如く、いたく筆者に失望したので、今は丁寧に注を附すのが馬鹿々々しいと感じている。それでもぐっと抑えて、可能な限り、躓くところは割注で入れておいた。実際、難しい語句はあまりない。]

 

    飛西田

 夕暮早き山陰に、谷の軒端の指向ひたれば、片さがりなる門の前。石高く岩缺けて、一步も步み難き湯本なれども、壯年靑春の浮氣者どもなれば、小唄うたひ連れて夜每に躍(をど)る。月遲き夜は、殊に目ざすとも知れぬ闇路ながら、漸く戶々の藁火の影に、宿を失はず戾り居る。子規(ほととぎす)は鳴けども聞く人もなく、只猿は徒(いたづ)らに叫びて泪(なみだ)こぼす人もなく、只人の婦を興じ引き、姊妹の帶を叩きて、夜は多く更(ふ)くる迄、聲のからびるを期(ご)として浮かれ步行(あり)き、果(はて)は湯に投じて其夜を明(あか)す。只三味線の鳴る方に友を引く媒(なかだち)となりて、西田氏の連れ來(きた)る小兒も、彼(かの)惡徒が許に行きて遊びしを、宇太夫引寄せて大に叱り、

「人でなしの中に交(まじは)る者に非ず」

と、次(つい)でにあて言(ごと)して[やぶちゃん注:不詳。「言い添えて」の意か。]彼惡徒を大に謗(そし)る。

 障子さへ隔てぬ中(なか)らひ[やぶちゃん注:といった(話が筒抜けの)宿屋の中の状態であったので。]なれば、聲聞えて人々も腹立つ。

 されど日も重なれば只も居難(ゐにく)く、或夜西田氏も、人の嘯(うそぶ)くに任せて幼子(をさなご)が手を携へ、一腰(いちえう)[やぶちゃん注:一振りの刀。]を下げざまにさして、闇紛れの踊りに立交(たちまじ)り出でられけるを、何者にてやありけん、後ろより忍び足して窺ひ寄るやうに見えしが、彼春日町にて馬に踏まれし痛(いたみ)も直らぬ腰の程を、坪も違へず

「どう」

と蹴たりけるに、覺えず二間[やぶちゃん注:三メートル強。]許り中(ちゆう)に蹴揚(けあげ)られしと思ひしが、隣の川端の積石の上に

「どう」

と落ちける。幸にして川へは落ちず。

 されども石にしたゝか打たれて、暫くは息出でず、物云ふことも能(あた)はざりしかども、闇中のことなれば人もなく、尋ね問ふ者もなし。良々(やや)暫く臥居(ふしゐ)たりしが、次第に痛(いたみ)も退(ひ)き、心定りて、漸々(やうやう)片々の[やぶちゃん注:がくがくとして思うようにならない、の意であろう。]膝を抱へながら起き上り、預りし子に手を引かれて、なくなく立歸れども、心中無念やる方なく、痛き腰をかゞめて其邊(そのあたり)に立やすらへども、誰がしたりと云ふ見覺(みおぼえ)もなく、蹴(け)たる奴原(やつばら)は此傍(このそば)に居るべき筈なければ、詮方なく見廻はして宿に歸り、

「又一廻(まは)りの迎ひ湯のいひ立(たて)を設けたり」[やぶちゃん注:「さてさて。かく戻って、またも一巡りの迎え湯治をする言い訳の種が出来たちゅもんやちゃ。」の意であろう。]

と、獨り言に苦笑して其夜を明されたり。

 元來西田氏は直(ぢき)の御家人なり。近所の湯入(ゆいり)は皆家中の家士なれば、何となく志(こころざし)合(あ)はず。例の家中者どもと思はるゝ所を胸に持ちて、甚だ惡(にく)みちらし、一言云ふ言葉質(ことばじち)取りて、兎に角立合ひし間なり。西田も家中者は役先(やくさき)違(ちが)へば、直(ぢき)に腹立ちにくければ、町方は我手先なり、人々恐れ居れば、其方へ向ひて何かに怒り、

「湯を上れ」

など云はれければ、町方にも恨む者も多かりし。今度の蹴(け)たることは、此一仲間(ひとなかま)とは見えながら、誰とも其人は知れざりける。

 然るに其明けの夜より、流行唄(はやりうた)と聞えて、武士のけたいは堪忍(かんにん)もせうが、町のけたいは氣があかぬとも云ふ。又は、

「されど思ひは闇の夜晴るゝ、獅子には飛(とば)され河原毛(かはらけ)には蹴らるゝ」

と唄ひ廻(めぐ)る。依りて思へば、

『此(これ)相撲取共の所爲にや。獅子ヶ嶽・瓦山(かはらやま)と聞えたれば、「河原毛には蹴られた」と云ふ物ならん。あの二間許(ばかり)も飛上りしこと思へば、中々常の者の所爲にては叶はず。扨々(さてさて)憎きこと』

ゝ思ひ籠められ、兎角「今度の入湯無用」と云ふことを云はぬ許(ばかり)にいため付られ、

『若しや其中に、如何にもしてあはれ我を蹴たる奴の知るゝならば、是非もなし切死ぞ』

と日頃に似合はぬ思ひ切りとなるも、笠松の「大山伏」、一の瀨の「小山伏」がそゝのかすとは白雲(しらくも)の、立居(たちゐ)に付けて聞出だしける。

[やぶちゃん注:以上の敵対感情を記す部分が、どうにもクド過ぎる。西田は各家(け)の家中の連中とも徹底して反目しあっており、さらに町人に対しても「町人連中は、皆、私の手下も同じ」と考え、先に湯船に町人が入っている場合には、「湯から上がれ」、出ろ、退去しろと言う始末で、宿泊している町人連中からも多く恨んでいた、というのであり、その結果として、後ろから蹴った奴を特定したり、ある範囲に限定することが出来ないというのである。而してそうされるだけの差別意識を西田自身も内に過剰に保持していたことを、何だか、グダグダと畳みかけて圧縮しているため、甚だ読み難くなってしまっている。しかいこの前のクドい表現といい、最後の「切死」まで思い詰める心理変容過程を見るに、殆んど神経症的な強迫観念に襲われている様子が描かれているとも言えぬことはない。但し、無論、そこは『笠松の「大山伏」』と『一の瀨の「小山伏」』(これは前話の最後に登場している)という狐と獺の変化(へんげ)の呪力によるものとするのである。この点ではやはり前の巻の「田宮の覺悟」との連関性を保持しているとも言えるのである。

「一言云ふ言葉質取りて」「一言云ふ」を兎角「言葉質」に「取りて」の謂い。「言葉質」(ことばじち)は、ここでは、互いに相手の言ったことを後に批判する際の証拠として記憶しておくことを指している。所謂、「言質 (げんち)」である。]。

「けたい」これは「怪體(体)」「希體」「稀體」で、「奇妙」・「不思議」・「気に食わずいまいましいこと」を指す語で、ここは最後。

「氣があかぬ」気にくわない。

「流行唄」は一種の相撲甚句のように歌っているのであろう。

「あはれ」感動詞。叫び声。「ああッツ!」。

「とは白雲(しらくも)の」「とは知らざるものの」に掛ける。]

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