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2020/06/06

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 凡兆 二

 

       

 「竹冷(ちくれい)文庫」の一冊として『荒小田(あらおだ)』(元禄十四年[やぶちゃん注:一七〇一年。]刊)なる俳書が覆刻されたのは大正十四年[やぶちゃん注:一九二五年。]三月であった。この書は、校訂者星野麦人(ほしのばくじん)氏が巻末において「初めてこの本を手にとった時に、驚喜したのは凡兆の句の沢山にある事で、これまで伝えられた凡兆の句の約同数に近きものがこの書の中に寵められてあった事であった」といっている通り、凡兆の句の注意者にとっては看過すべからざるものである。

[やぶちゃん注:「荒小田」舎羅編。

「星野麦人」(明治一〇(一八七七)年~昭和四〇(一九六五)年)は俳人。東京生まれ。尾崎紅葉の教えを受け、『毎日俳壇』『日本俳壇』に投句、子規庵句会にも列席して俳句の修行を積んだ。また、角田竹冷(つのだちくれい 安政四(一八五七)年~大正八(一九一九)年:政治家で俳人。古俳諧収集家としても知られ、ここに出る「竹冷文庫」は東京大学総合図書館にある角田の蔵書である)らの『秋声会』にも参加した。『俳藪』を創刊し、後に『秋声会』機関誌『卯杖』と合併して『木太刀(きだち)』と改題・主宰した。明治新派俳壇古老の一人で俳諧史・古俳句研究として知られ、編著に「紅葉句帳」・「蕉門十哲句集」等がある。]

 『荒小田』所収の凡兆の句は全部で三十九句あるが、『猿蓑』と重複するものは一句も見当らぬ。特に左の三十四句は未だかつて吾人の目に触れぬものばかりであった。

 むら雲や今宵の月を乗て行       凡兆

[やぶちゃん注:座五は「のりてゆく」。]

 尾上とは秋の平地のはりまがた     同

[やぶちゃん注:「尾上」は「おのへ」で旧村名。現在の兵庫県加古川市尾上町附近。「今昔マップ」で見ると、旧尾上村は加古川河口左岸に展開した平野で播磨灘に面していたことが判る。地形から見て、恐らく、江戸時代は海浜部が大きな潟であったようにも推察出来る。]

 荻萩と下葉くらべよ長みじか      同

[やぶちゃん注:「荻」(単子葉植物綱イネ目イネ科ススキ属オギ Miscanthus sacchariflorus)の葉は四〇~八〇センチと長く、幅も一~三センチ程あり、中肋が触らずともはっきり判る。河川敷などの湿地に群生するが、ヨシなどに比べると乾燥した位置を好む。「萩」(本邦の代表種は双子葉植物綱マメ科マメ亜科 Desmodieae 族ハギ属ヤマハギ Lespedeza bicolor)の葉は直立するか横に伸びた茎に小さな楕円形を成してつき、長さ五センチ以下の三葉から成っている。ここでは後者の萩は茎部も含めた枝葉を下葉(植物体の下方についている葉)と呼んでいるものと思う。その極端に異なる長短の葉の趣きを「貝合わせ」(貝は葉に擬し得る)「歌合わせ」(「和歌」とは「言の葉(ことのは)」である)ならぬ「葉合わせ」して御覧な、と秋風に揺れる荻と萩に戯れに呼びかけているのである。萩は水はけのよい場所を好むから、川沿いの道を逍遙する左右に荻と萩があるか。]

   隠者を訪て

 無花果の一色は先のがれけり      同

[やぶちゃん注:「訪て」は「とひて」と読んでおく。「一色」は「ひといろ」か。「先」は「まづ」である。季節が早かったせいか、隠者の庭に咲くイチジク(バラ目クワ科イチジク属イチジク Ficus carica)の果実(我々が実と呼んでいるものは花を入れた袋で花嚢と呼ぶ。熟して食べている部分は果肉ではなくて花托と小果である)が、まさにこの時はまだ成熟前のそれであって、独特のあの隠者には相応しからぬ妖艶な濃い紫色を呈さず、緑のままであったのを隠遁者のそれに(「遁(のが)れる」)興じたものかと思われる。]

 年ぎれの柿もこゝろやむら紅葉     同

[やぶちゃん注:「年切れ」「としぎれ・ねんぎれ」と読み、樹木が年によっては実を結ばなくなることを指す。]

 蕎麦白き花野をゆけば花野かな     同

[やぶちゃん注:後の「花野」は秋の千草の萌え出づる実際の秋の自然に花野である。]

 又荒た垣根やたけて花つばな      同

[やぶちゃん注:「荒た」は「あれた」。「たけて」は「長けて」ですっかり伸び切っての謂いであるが、「前の「荒れた」に「猛けた」を掛けていよう。「花つばな」は「茅花(つばな)」と同じチガヤ(単子葉植物綱イネ目イネ科チガヤ属チガヤ Imperata cylindrica)の花穂、或いはその草体全体の別名でもあるが、ここは前者。]

 魂まつり泣やまことの遊び事      同

[やぶちゃん注:「魂まつり」は「たままつり」で秋の盆祭り。「泣や」は「なくや」。盆の前後に幼い子らが、親の祖霊を祭るそれを真似て遊んでいるのであろう。しかも、遊びであり乍ら、そこで、ある子らはその遊びに中にあって本当に泣いているのであった。作者はそこに「まことの」「魂まつり」の意味を見出しているとも言えるように思われる。]

 山霧や駕籠にうき寝の腹いたし     同

[やぶちゃん注:これは後の本文で宵曲が詳しく解説しているが、私は読みが一方向のベクトルで浅いと思う。彼は「腹いたし」を単に「山霧」の冷気のせいとのみするのだが、私はこの腹痛は、山越えの激しい上下の揺れでまず腹がおかしくなって痛くなったのであり、体が「浮き」沈みをひどく繰り返す「浮き・憂き」「寢」の、いやさ、寝られもしない脾胃(ひい)を吐き出さんばかりの有様の中にあって、やおら、しんしんと山霧の冷えまでもがそれに加わって「腹いたし」とくるのだと読む。大方の御叱正を俟つ。]

 沸釜や我も八十瀬の網代守       同

[やぶちゃん注:「にえがまやわれもやそせのあじろもり」。「沸釜」煮え釜。「八十瀬」本邦の各地の瀬の意であろう。「網代守」夜に篝火を焚いて網代(湖の水際や川の瀬に柴や竹を細かく立て並べて流れに狭い流路を作り、そこに簀(す)を配しておいて、魚をその中へ誘い込んで漁る仕掛け。冬の宇治川の氷魚(ひお)漁が古くから知られる)の番をする人。冬の季題。寒い冬の夜の孤独な詩人の晩の囲炉裏での一齣を比喩したものであろう。]

 行水も妻に寐すごす氷かな       同

[やぶちゃん注:この一句、意味が解けない。識者の御教授を乞う。

 身ひとつを里に来なくかみそさゞい   同

[やぶちゃん注:「みそさゞい」スズメ目ミソサザイ科ミソサザイ属ミソサザイ Troglodytes troglodytes。漢字表記は「鷦鷯」。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 巧婦鳥(みそさざい)(ミソサザイ)」を参照されたい。小さな体の割りには声が大きく、囀りは高音の大変に良く響く声で「チリリリリ」と鳴く(引用元で音声が聴ける。私は彼の囀りが好きだ)。また、地鳴きで「チャッチャッ」とも鳴く。]

 秋風の仕入たを見よ枯尾花       同

   千日寺にまうてゝ

 念仏より欠たふとき霜夜かな      同

[やぶちゃん注:「千日寺」は「せんにちでら」。「まうてゝ」はママ(「參うでて」)。「念仏」は「ねぶつ」と読む。「欠」は「あくび」。「千日寺」は現在の大阪府大阪市中央区難波にある浄土宗天龍山法善寺(ほうぜんじ)の別称。現在地に移転した中誉専念が寛永二一(一六四四)年から千日念仏回向を始めたとされることに由る。参籠してそれを成している信徒に中に欠伸をしながら念仏を唱え続けている人を見つけて、その様態に、現世の現実の中の真理を見出したかのように大上段に「念仏より」「たふとき」と捉えた諧謔の面白みである。]

 緑からさまざまとして落葉かな     同

 ならの葉の布になりてやもる時雨    同

 桐の葉のもろくも遅き落葉かな     同

 御仏事や海士の塩焼志賀堅田      同

[やぶちゃん注:「御仏事」は「おぶつじ」であるが、これは一般には狭義に浄土真宗の開祖親鸞聖人の忌日から七昼夜に亙って報恩謝徳のために行う法会を指す。親鸞は弘長二年十一月二十八日(ユリウス暦一二六三年一月九日/グレゴリオ暦換算一二六三年一月十六日相当)没であるから、冬の季題となる。中七は「あまのしほやく」。「志賀堅田」ここには室町時代に出来た浄土真宗本福寺があり、この寺は本願寺八世蓮如から厚い信任を受け、彼が「寛正の法難」によって大谷本願寺を延暦寺によって破壊されると、この堅田の地に逃亡、彼はこの地の共同自治の一方の強力な集団「全人衆」(商工業者や周辺農民から成る)からの強い支持を受け、後に「堅田門徒」と称せられるほどの非常に強力な勢力をこの地に築くこととなった。なお、「志賀堅田」は御存じの通り、琵琶湖南西岸(グーグル・マップ・データ)であるから、よく判らぬが、この「塩焼く」とは、「御仏事」の潔斎のために身を清浄にするするため、海水を持ち来たって、ここで煮込んで焼き塩を作っているということであろうか?]

 山吹の莟も青し吉野川         同

[やぶちゃん注:累加の係助詞「も」は吉野川渓流の水の「青」さをも匂わせたものであろう。芭蕉も同じこの吉野川上流の急流「西河」(にじこう)にて、貞享五年三月二十二日(一六八八年四月二十二日)に、

   西河(にじかう)

 ほろほろと山吹ちるか瀧のおと

と詠んでいる(私の『「笈の小文」の旅シンクロニティ――ほろほろと山吹ちるか瀧のおと 芭蕉』を参照されたい)。但し、これは芭蕉を意識したというわけではなく、一九八九年岩波文庫刊の堀切実氏の編注になる「蕉門名家句選(下)」の注によれば、『吉野川に「岸の山吹」を詠むのは、『古今集』(巻二・春下)の「吉野川岸の山吹ふく風に底の影さへうつろひにけり」(紀貫之)の歌以来の伝統である』とある。]

 尼も来よ毎日出て花七日        同

[やぶちゃん注:「花七日」は「はななぬか」と読み、桜の花が、咲いてから散るまでたった七日間に過ぎぬということから、「命の盛りの短く儚い」ことを喩える。そこで尼僧に花見に出でよと呼びかけたところに、そうした仏語の背後に、ある種の艶めいた匂いを添えている。]

   八瀬や高雄の柴売に題す

 さわらびや横槌を売女の童       同

[やぶちゃん注:「八瀬」は「やせ」。現在の京都府京都市左京区の広域地名右京区梅ヶ畑の「高雄」地区(孰れもグーグル・マップ・データ航空写真)と同じくお大原女のように薪柴・木工品・花卉などを頭上に載せて売り歩いた、中七以下は「よこづちをうるめのわらは」。「横槌」とは丸木に柄を付けた槌で、頭部の側面で物を打ち叩く道具。砧(きぬた)や藁打ちなどの加工に用いた。「さわらび」は「早蕨」で芽を出したばかりのワラビ。春の季題。]

 真似をして霞をかくす嵐かな      同

[やぶちゃん注:月に村雲を諧謔したか。]

 木のまたのあでやかなりし柳かな    同

[やぶちゃん注:何やらん下卑たところへ堕ちる寸前で止めたなかなか艶っぽくも爽やかな句である。これをえげつないと見るのは、その読者自身の下卑た精神自体の反映であることをお忘れなく。]

 雲雀鳴下はかつらの河原かな      同

[やぶちゃん注:「雲雀鳴」は「ひばりなく」、「下は」は「したは」。]

 春の日に露を煎(いり)てや梅の花   同

 枝に居てなくや柞のほとゝぎす     凡兆

[やぶちゃん注:「柞」は「ははそ」。コナラの古名ともナラ・クヌギ類の総称とも言う。]

   須磨にて

 川水や汐つき戻すほとゝぎす      同

[やぶちゃん注:満潮時の景であろう。]

 御祓する宜禰はやまぶの川社      同

[やぶちゃん注:「みそぎするねぎはやまぶのかはやしろ」。この一句、意味が解けない。識者の御教授を乞う。] 

 長けれど帯は常槃のころもがヘ     同

[やぶちゃん注:「常槃」は「ときは」。緑色のまま不変である常緑樹の常磐木(ときわぎ)色で長生に掛けたか。]

 あばらやの戸のかすがひよなめくじり  同

[やぶちゃん注:人の住まぬあばら家の荒涼たる景として好きなモノクロームの句である。蛞蝓のスーロな動きが微かな動として効いている。]

 青葉かな起て舌かく初瀬川       同

[やぶちゃん注:中七は「たちてしたかく」であろうが、この一句、意味が解けない。識者の御教授を乞う。

 砂川や夕がほのある屋ねの上      同

[やぶちゃん注:「砂川」で天の川を連想させ、高みにある「夕顔」の花に「源氏物語」の薄幸の夕顔を通わせたものか。]

 生壁も籾一粒の早稲田かな       同

[やぶちゃん注:「生壁」は「なまかべ」。塗りたてで、まだよく乾いていない壁であるが、そこに籾が塗り込まれあるのが見え、それを「早稲田だ」と洒落たものか。クロース・アップの面白い句であると思う。]

 蕗の葉をへだてゝ見るや這ほたる    同

[やぶちゃん注:「這」は「はふ」。]

 『俳家全集』所収のものと重複するのは「夕顔のあとからのぼる葎かな」「団栗や熊野の民の朝餉」「黍の根や心をつくる秋の風」「師走かな餅つく音の須磨の浦」「田の水のありたけ氷るあしたかな」の数句に過ぎない。『猿蓑』以外に伝わる句はいくらもないと信ぜられた凡兆の句が、一の俳書からこれだけ発見されたということは、慥に驚喜に値する事実であろう。但これによって俳諧史上における凡兆の価値は更に重きを加えたかどうか、固より疑問としなければならぬ。

 子規居士が『俳家全集』に加えた十八句、小洒氏が『ホトトギス』に挙げた四句、それらはいずれも『猿蓑』集中のものに比して遜色あるものであった。今『荒小田』によって加えられた三十余句も、大体において『猿蓑』を凌駕するに足らぬものであるといって差支あるまい。第一に『猿蓑』集中の諸作のように粒が揃っていない。第二に『猿蓑』において示したような、調子の緊密を欠いている。第三にかつて『猿蓑』において与えられた「純客観派の本尊」なる評語は、これらの作品の全部に当嵌めがたいような気がする。

 尤も凡兆を目するに「純客観派の本尊」を以てすることは、明治以後の新解説だから、元禄人たる凡兆の与り知るところでないといい得るかも知れぬ。鳴雪翁は純客観の一点で大に凡兆を認められたが、それにのみ固執されるのでないことは、『猿蓑』集中の

 豆植る畑も木部屋も名所かな      凡兆

[やぶちゃん注:「凡兆 一」に既出既注。]

を評して「この句はいつもの純客観と違って、主観に重きを置いた句だが、やはり趣向の取り方も詞の言い廻しも共にうまい。凡兆の技倆は実に測られん」といい、また

   豊国にて

 竹の子の力を何にたとふべき      凡兆

について「すらりと言い放ったのみならず、しまって力のある処も、豊公その人を詠ずるに最も適当している」といわれているのを見て明(あきらか)である。『猿蓑』の凡兆の句はその長伎たる客観句は勿論、数の少い主観句においても、常に緊密な調子と、これを貫く強い力とを持っている。『荒小田』所載の句には遺憾ながらそれがない。これはとかくの言議を費すよりも、同材料の句を詠じた句を並記した方が早手廻しだと思われるから、左に若干の例を挙げることにする。

[やぶちゃん注:「竹の子の力を何にたとふべき」不審。「猿蓑」(卷第二・夏)では、

    豊國にて

 竹の子の力を誰にたとふべき

である。「誰」は「たれ」と読みたい。堀切氏の前掲書には、『京東山にあった豊国廟に詣で、廟の周辺に生えている竹の子を見て詠んだものであろう。地面から芽を突き出し、あれよあれよとみる間に勢いよく生長してゆく竹の子のたくましい力を、いったい誰にたとえたらよいだろうか――もちろん、それは豊太閤の出世のめざましさを想い浮かばせるものなのである、といった意である。「誰にたとふべき」とわざとはぐらかすように言っているが、これはむしろ読者に当然の共感を催促するような強い叙法なのである。卑賤な身分から身を起こして太閤にまでなった秀古のことは、当時も各種の〝太閤記物〟によって知られていたのである。やや説明的なとらえ方ながら、「竹の子」「誰に」「たとふべき」とタ音の力強さを重ねた緊密な手法が、効果的である』と評釈され、語注では、「豊国」は『豊臣秀吉を祀った霊廟。豊国廟。慶長四年、京都東山の阿弥ケ峰の裾に建てられたが、徳川時代になってから荒廃していたらしい。石川丈山の詩「題豊国神社廟壁」(寛文十一年刊『覆醬集』)に「零落す東山古廟の廊、蒼苔蔓艸頽墻に上る」と伝える』とある。季題は「竹の子」で夏である。なお、「豊国」、豊国廟(ほうこくびょう)は豊臣秀吉の墓所で、現在、京都市東山区阿弥陀ヶ峰の山頂に石造五輪塔が建てられてある。ウィキの「豊国廟」によれば、『豊臣秀吉の死後間も無く作られた豊国廟は、現在の京都市東山区阿弥陀ヶ峰麓の太閤担(たいこうだいら)といわれる広場のところにあった。かつて、この地には豊国廟の他にも秀吉を祀る壮麗な豊国社も建立されていた』。『しかし、豊国廟と豊国社は、豊臣秀吉の死後に徳川家康によって破壊されてしまい、豊国廟は』明治一三(一八八〇)年に再修築が行われるまで、実に三百年余り放置されていたのであった。明治八(一八七五)年に『豊国神社が再興されたことから』、『豊国廟の整備が行われ始め』、明治三〇(一八九七)年に『阿弥陀ヶ峰山頂に伊東忠太の設計になる巨大な石造五輪塔が建てられ』、翌年に『豊太閤三百年祭が大々的に挙行されている』。『この工事の際、土中から素焼きの壷に入った秀吉の遺骸とおぼしきものが発見されたが、遺骸は丁重に再埋葬され』、『その西の麓の平坦地、かつての社殿があった太閤坦には秀吉の孫である国松と秀吉の愛妾松の丸殿の供養塔(五輪塔)が寺町の誓願寺から移されて建っている』とある。

 以下、二句ごとに上部に二行に亙る「(」が附されてある。再現出来ないので直線断片で似たようにした。セットが際立つように、特異的に前後に行空けをした。]

 

┌ある僧の嫌ひし花の都かな       凡兆(猿蓑)

└尼も来よ毎日出て花七日        同 (荒小田)

 

   瀕田の蛍見

┌闇の夜や子供泣き出す蛍ぶね      凡兆(猿蓑)

└蕗の葉をへだてゝ見るや這ほたる    同 (荒小田)

 

┌朝露や鬱金畠の秋の風         凡兆(猿蓑)

└きびの根や心をるくる秋の風      同 (荒小田)

[やぶちゃん注:前の句の「鬱金畠」は「うこんばたけ」。単子葉植物綱ショウガ目ショウガ科ウコン属ウコン Curcuma longa。本邦では古くから生薬とともに黄色染料の原料として栽培されていた。]

 

┌三葉散りて跡は枯木や桐の苗      凡兆(猿蓑)

└桐の葉のもろくも遅き落葉かな     同 (荒小田)

[やぶちゃん注:前の句の「三葉」は「みは」。

「ある僧の嫌ひし花の都かな」は堀切氏の前掲書に載り、そこでは、『桜花満開の美しい都の春の道を歩んでいると、ふと、こうした花やかな都を嫌って山中に隠れた僧のことが想い起されるというのである。ある僧については玄賓僧都・石川丈山・西行法師などの名があげられているが、その誰とは定め難い。いわゆる「面影‘」の手法で詠んだものであろう。花の都を離れて行った人を憐れむような、懐しむような淡い感興を催しているのである』と評釈され、語注で「ある僧」に、『都を辞するとき「遠つ国は山水きよしことおほき君が都はすまずまされり」(『汀談抄』)と詠んだ玄賓僧都をさすとするもの、洛東了果寺辺に隠栖した石川丈山に仮託する説、さらに「花見にと群(む)れつつ人の来るのみぞあたら桜のとがにはありける」(『山家集』上・春)とか「今よりは花見ん人に伝へおかん世を遁れつつ山に住まへと」(同上)と詠んでいる西行法師の面影とみる説がある』とされる。私は西行で充分である。

「闇の夜や子供泣き出す蛍ぶね」堀切氏は同前掲書で、松尾芭蕉が元禄三(一六九〇)年『六月に幻住庵から出て、一時、京の凡兆宅にあったころのことか』とされ、確かに「猿蓑」(卷之二・夏)には

   勢田の螢見二句

 闇の夜や子供泣出す蛍ぶね      凡兆

 ほたる見や船頭醉ておぼつかな    芭蕉

と出ている。「勢田」は滋賀県大津市瀬田の螢谷附近(グーグル・マップ・データ)のこと。]

 

 比較の便宜を主にしたのだから、必ずしも『猿蓑』から佳句を選り抜いたというわけではない。けれどもこの両句を対比する時、何よりも強く感ぜられるのは、句としての力の相違である。この相違を説明するためには当然歳月の経過ということも考えられる。芭蕉生前の、しかも僅々三年間にすら、『猿蓑』と『炭俵』とでは調子の上にかなりの差を生じている。芭蕉の死を隔てた十年の歳月が、『猿蓑』の凡兆をして『荒小田』の凡兆たらしむるのに不思議はないかも知れぬ。ただこの三十余句にして世に存する以上、『猿蓑』のみに立脚した在来の凡兆評は、多少の修正を加えらるべきである。

[やぶちゃん注:「炭俵」(野坡ほか編)の刊行が早く元禄七(一六九四)年、「猿蓑」(去来・凡兆編)は元禄十一年、「荒小田」は元禄十四年である。]

 『荒小田』を通じて見た凡兆の句は、一言にしていえば元禄の他の作家に比してさのみ異色あるものではないということに尽きる。『猿蓑』の凡兆は純客観の本尊たり、写生句の先覚者たり得ても、『荒小田』の凡兆は所詮これらの名に値せぬ作家である。客観、主観の問題が面倒ならば、これはしばらく引込めても構わない。『荒小田』の凡兆は『猿蓑』の凡兆よりも遥に劣った作家である。『猿蓑』以後の十年は、彼に進歩を齎さずして退歩もしくは低下を齎したと断言するに憚らぬ。

 蕗の葉越に蛍の光を認めた「蕗の葉をへだてゝ見るや這ほたる」の句は、『荒小田』中の句にあっては客観的な部に属するものであろう。けれども中七字の調子が弛緩を免れぬ上に、広葉にとまる蛍の光を描いたものは、同じ元禄時代[やぶちゃん注:十七年までで一六八八年から一七〇四年まで。]に

 梧の葉に光り広げる蛍かな       土芳

 桐の葉の裏も表も蛍かな        柯山

[やぶちゃん注:前句の「梧」も「きり」と読む。]

「柯山」俳諧撰集「藤の実」(素牛(=惟然)編)元禄七年跋に載るが、詳細事蹟不詳。]

などという句があり、凡兆の句にそれほど特異な観察を認めるわけには行かない。「砂川や夕顔のある屋ねの上」に至っては更に客観的であるが、この種の客観写生ならば、必ずしも凡兆の手腕を俟ってはじめて成るというほどのものではなさそうである。

 元禄の句が後世のものほど客観に徹せぬのは、主観的な詠歎が附纏うからだといわれている。これに対して敢然客観趣味の立場を固守したというのが、『猿蓑』によって凡兆を偉なりとする在来の論法であった。『荒小田』の凡兆の句に小主観の附纏うものが多いのは、上掲の句が明かにこれを証する。殊に「秋風の仕入たを見よ」といい、「真似をして霞をかくす」といい、「春の日に露を煎てや」というが如き叙法は、一句の調子を弱めているのみならず、一種の厭味をさえ伴っている。主観的な元禄の句としても決してすぐれたものではない。

 「あばらやの戸のかすがひよなめくじり」の句は、直に一茶の「柴の戸や錠の替りにかたつぶり」を想い出させる。一茶は趣向において凡兆の後塵を拝すると共に、「錠の代り」の一語によって更に句を俗ならしめているが、あばら家の戸に這う蛞蝓(なめくじ)を鎹(かすがい)に見立てるなどという思いつきは、誰がやってもあまり感心すべきものではない。いわんや純客観派の本尊たる凡兆においてをやである。

[やぶちゃん注:一茶の句は年代の確認出来るものでは「七番日記」(文化一二(一八一五)年)に所収する。しかし、遙かに凡兆の方が非凡と言える。私は宵曲の批判を断じて肯じない。]

 「さわらびや横槌を売女の童」「雲雀鳴下はかつらの河原かな」の二句は、共に京都を描いた句である。凡兆は『猿蓑』以後、どの位京都にいたものかわからぬが、これは京都生活の産物である点に一種の興味がある。凡兆の筆に成った「柴売ノ説」は『風俗文選』に収められており、『猿蓑』にも

   八瀬おはらに遊吟して柴うりの
   文書ける序手に

 まねきまねき枴の先の薄かな      凡兆

[やぶちゃん注:「柴うりの文」は「しば賣(う)りのぶん」、「序手」は「ついで」。「枴」は「あふご」。農事に用いる天秤棒のこと。]

の句をとどめている。柴売に興味を動かされたこと知るべきであろう。

 『荒小田』所収三十九句のうち、調子の緊密な点で『猿蓑』に次ぐものは、けだし「山霧や駕籠にうき寝の腹いたし」の一句である。山霧の深い中を駕籠に舁(か)かれて行く、駕中の人は霧の冷(ひえ)に中(あた)ったものか、頻(しきり)に腹が痛む、というので、区々たる小主観を弄せず、かなり複雑なことを一句に盛り得ている。痛む腹を抱えながら駕籠に揺られて行く山中孤客の姿が、ひしひしと身に迫るように感ぜられる。『猿蓑』以上に進んだとはいい得ぬにしろ、『猿蓑』以外に何らか新なる世界を開拓し得た点を認めなければならぬ。吾人は最初『荒小田』を点検するに当ってひそかにこの種の獲物を期待したのであったが、その結果は上掲の如きものに過ぎなかった。『荒小田』の凡兆の句は『猿蓑』のそれに比して価値あるものではない。ただこれまで知られなかった凡兆の半面を明(あきらか)にし、在来の定説に修正の余地を見出した点において、この三十余句の出現は決して無意義ではなかったと思われる。

 

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