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2020/06/17

三州奇談續編卷之五 古碑陸奥

    古碑陸奥

 右に記す麥生(むぎを)・竹生野(たこの)の邊(あたり)、城下めきたる町名(まちな)の付きたる里多し。思ふに往古源の順(したがふ)能州任官の頃、此あたりにも館(やかた)して、暫く都會の趣ありと覺ゆ。道じるし・碑など、文明・天文の頃迄は銘ある瓦石(ぐわせき)のあちこちに立てありしが、元來此邊(このあたり)石なき所なれば、村里の礎(いしずゑ)に用ひ、寺院堂社の塔婆などに直し用ひて、慥(たしか)に夫(それ)と知るべきものなし。今にても全き物を得ば、石摺(いしずり)となして古銘の證跡なるを顯(あらは)すべきに、惜(をし)きことかな今はひとつもなし。適々(たまたま)公境と私境との領境(りやうざかひ)の橋に交(まぢ)りありし。享保の頃迄は一字か二字か顯(あらは)れありしが、今は松板(まついた)に換りて、其石は何にかなりはてゝなし。惜むべし。

「此地今も末森に城主ありて、地に好事の者も住むならば、何ぞ拾ひ出(いだ)して懷古の思ひの種とせんに、口をし口をし」

と、妙法輪寺の住僧憤られし。

[やぶちゃん注:「麥生(むぎを)・竹生野(たこの)」前条「麥生の懷古」を参照。地名の読みもそちらの私の注を必ず参照されたい。独自に最も適切と私が判断したもので振ってあるからである(「近世奇談全集」では前者を『むぎふ』、後者を『たかふの』とするが、従えない)。

「源の順」源順(みなもとのしたごう 延喜一一(九一一)年~永観元(九八三)年)は平安中期の貴族・歌人で学者。嵯峨源氏で、大納言源定(さだむ)の曾孫にして左馬允源挙(こぞる)の次男。官位は従五位上・能登守。「梨壺の五人」の一人にして「三十六歌仙」の一人である。嵯峨天皇の子であった源定第六子であったが、淳和天皇の猶子となり、賜姓源氏で降下した)を祖とし、その子(三男か)源至は左京大夫に進んだが、至の子であった挙は正七位下相当にしか進めず、しかも延長八(九三〇)年には急死した(至は「伊勢物語」第三十九段に色好みでけしからぬ歌を詠んだエピソードの主役として登場している)。ウィキの「源順」によれば、『順は若い頃から奨学院において勉学に励み博学で有名で、承平年間』(九三一年~九三八年)に二十歳代の若さで『日本最初の分類体辞典『和名類聚抄』を編纂した。漢詩文に優れた才能を見せる一方』、和歌にも優れ、天暦五(九五一)年には『和歌所の寄人』(よりうど)『となり、梨壺の五人の一人として『万葉集』の訓点作業と『後撰和歌集』の撰集作業に参加した』。天徳四(九六〇)年の内裏歌合にも出詠しており、様々な歌合で判者(審判)を務めた。特に斎宮女御・徽子女王とその娘・規子内親王のサロンには親しく出入りし』、貞元二(九七七)年の斎宮『規子内親王の伊勢国下向の際も群行に随行している』。『しかし、この多才ぶりは伝統的な大学寮の紀伝道』(元は歴史(主に中国史)を教えた学科。後に漢文学の学科である文章道(もんじょうどう)と統合して歴史・漢文学の両方を教える学科となった)『では評価されなかったらしく、文章生に補されたのは和歌所寄人補任よりも』二年後の天暦七(九五三)年で四十三歳の時であった。天暦一〇(九五六)年に『勘解由判官に任じられると、民部丞・東宮蔵人を経て』、康保三(九六六)年に『従五位下・下総権守に叙任される(ただし、遥任)』。康保四(九六七)年には『和泉守に任じられる。しかし、源高明のサロンに出入りしていたことが、任期中の』安和二(九六九)年に発生した「安和の変」(藤原氏による他氏排斥事件の一つ。謀反の密告により左大臣源高明が失脚させられた)『以後の官途に影響を与え』、天禄二(九七一)年の『和泉守退任後』、天元三(九八〇)年或いは前年に『能登守に補任されるまで長い散位生活を送った。なお、この間の』天延二(九七四)年には『従五位上に叙せられている』。勅撰歌人として「拾遺和歌集」に二十七首が入集されて、後の勅撰和歌集には五十一首が採られている。『大変な才人として知られており、源順の和歌を集めた私家集『源順集』には、数々の言葉遊びの技巧を凝らした和歌が収められている。また『うつほ物語』、『落窪物語』、『篁物語』の作者にも擬せられ、『竹取物語』の作者説の一人にも挙げられ』ている、とある。老齢(七十歲)でもあり、遥任国守かと思ったが、個人サイト「国府物語」の「能登国」の記載を読む限り、驚異の実務国守であったようである。「安和の変」に絡んだ見せしめか。能登国府跡は発掘されていないが、まさに順自身の記した「和名類聚抄」巻五「國郡部第十二」の「北陸郡第六十三」の「能登國」には「能登國國府在能登郡」とあり、先のリンク先によれば、『現在の七尾市古府の総社』(ここ。グーグル・マップ・データ。以下同じ)『の近くか、七尾市府中町』(ここ)『のあたり』にあったと推定出来るとある。但し、「麥生・竹生野」からは北東に二十七キロ以上離れている。

「城下めきたる町名の付きたる里多し」どのような名を指しているか不明。現行地名にはそれらしいものは私は認めない。

「文明・天文」スパンが長過ぎる。文明は一四六九年から一四八七年で、その後、長享・延徳・明応・文亀・永正・大永・享禄を挟んで、天文(一五三二年から一五五五年)となり、実に八十六年もある。

「公境と私境との領境の橋に交りありし」加賀藩の藩領の中の私的な領地の間に架けられた橋の石材に交じっていたという意か。

「享保」一七一六年から一七三六年。

「今は松板(まついた)に換りて」「三州奇談」の完成は宝暦・明和(一七五一年~一七七二年)頃と推定されているから、「今」はその頃で、「橋の石材部は皆、松板材に替えられてしまっていて」の意であろう。

「末森に城主ありて」前条「麥生の懷古」で注した通り、末森城は既に元和元(一六一五)年の「一国一城令」で廃城となっている。

「妙法輪寺」前条「麥生の懷古」に既出既注。]

 

 次でに陸奧の話をなして云ふ。

「我は津輕に住みたる者なれば、略々(ほぼ)聞きたり。是は今云ふ『壺の石文(いしぶみ)』と稱する石、仙臺の傍(そば)にあれども、是はいつの代にか作意したる形代(かたしろ)なり。其(その)實(まこと)の石文と云ふは、津輕七戶(しちのへ)の内の壺村と云ふにあり。其地は壺川と云ふ流(ながれ)あり。此内松淵と云ふ所に四五丈許の石、川水に中ば橫(よこたは)りてあり。水の方へ潛り見れば、『曰本中央』の文字も見ゆると云ふ。是ぞ實の『壺の碑』と稱すべきなり。

 石文やつがるの遠に有と聞えて世の中をおもひはなれぬ

と、『拾玉集』に淸輔がよめるも慥なる證據なり。仙臺の石碑は石小さし。其上あたりの鄕に『壺』の字の所なし。仙臺は世々の都會なる故に移して引きたると見ゆ。古跡を新しく作ることは、奧州のならはしなり。多賀の城跡に里程を記したるは別物なり。里程も合はず。實は南部の壺村四五丈許(ばかり)の石、『是ぞ田村丸(たむらまろ)などの弓筈(ゆはず)にて彫りし』など云ひ傳ふる壺の石碑なるべし。文字見えざるが爲に、中頃の似せ物にまけたると見ゆ。此事は小野氏道敬、神道の禳占して誓(せい)を立て爰を證すといへり。仙臺は繁榮の地なれば其物を殘し、南部は奧の末なれば其物隱る。爰の北地も海道の往來繁き所ならば、いか許(ばかり)『萬葉』以來の古歌に合せて古蹟も作るべきに、寂寞と人通り絕えたる所なれば、物を作意することもなく、昔の儘に荒果(あれは)て、村里にかはる迄なり。あなかしこ、爰等の地名いたづらに見捨つべからず」

とて、欠石(かけいし)などを集めて、昔物語りありしも又尊きなり。

[やぶちゃん注:この妙法輪寺の住僧が永く津軽に住んでいた者であって、失われた石碑の話として、語り出しているのであり、後半は厳密には「三州」の奇談とは言い難いが、この能登の地で聴いた他郷の奇談として許せるものではある。

「壺の石文(いしぶみ)」これは征夷大将軍坂上田村麻呂(天平宝字二(七五八)年~弘仁二(八一一)年)が巨石の表面に矢の矢尻で文字を書いたと伝承されていた碑を指す。これを芭蕉も実見して「奥の細道」に記している。『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅26 壺の碑』の本文と、その真贋について詳しく記した私の注を参照されたい。そちらを十全に読んで戴いたものとして、以下、注する。

「津輕七戶(しちのへ)の内の壺村」現在、「日本中央の碑」の発見場所と保存されてある場所とが異なる。実際に見つかったとされる前者は青森県上北郡東北町字千曳(ちびき)で、当該の石はそこから西に二キロ半ほど離れた、上北郡東北町字家ノ下にある「日本中央の碑歴史公園」の「日本中央の碑保存館」に保存されている。しかし「壺川」、現在の坪川は発見地より南西に四キロほど離れた位置を流れる。この流域は現在の上北郡七戸町内を貫流してはいるものの、「松淵」という場所は不明である。則ち、ここで麦水が言っている場所は、まず、以下に現代になって発見された「日本中央の碑」のあった場所とは有意に離れているということであり、以下、見る通り、サイズも全く違うのである。なお且つ、現在のこの「日本中央」と刻んだ石はウィキの「つぼのいしぶみ」にある通り、昭和二四(一九四九)年六月に東北町の千曳神社の近くにある千曳集落の川村種吉が、千曳集落と石文(いしぶみ)集落の間の谷底に落ちていた巨石を、「袖中抄」(十二世紀末に編纂された僧顕昭作の歌学書)などにある伝説を確かめてみようと、大人数でひっくり返してみたところ、石の地面に埋まっていた面に、この「日本中央」という文面が彫られていたというのである。この碑、僅か七十一年前の発見なのである。但し、この伝承自体の信憑性はどうなのかという点では、こちらでPDFで読める「七戸町町史」第二巻の「古代」の「第四章 壺の碑伝説と都母村」(6090ページ。全文掲載。「都母村」は「日本後記」に出る坪村の原型で「つも」と読むか)を読む限りでは、眉唾ではなく、実際にあったと充分に考えられるもののようには感じられる。そこで筆者は坂上田村麻呂をともに征討に参加し、後を引き継いだ形でこの坪村まで到達している文室綿麻呂(ふんやのわたまろ 天平神護元(七六五)年~弘仁一四(八二三)年)と読み換えた上で極めて高い信憑性があると結論づけている。無論、現在の石の真否は別としてである。

「四五丈」十二~十五・一五メートル。現在の「日本中央の碑」は高さ一・五メートルしかない。

「石文やつがるの遠に有と聞えて世の中をおもひはなれぬ」これを「拾玉集」で「淸輔がよめる」と言っているのは訳が分からないし、「えて」もおかしいぞ?! 「拾玉集」は天台僧で関白藤原忠通の子にして九条兼実の弟慈円(久寿二(一一五五)年~嘉禄元(一二二五)年)の私家集(成立は南北朝になってからの正平元/貞和二 (一三四六) 年)でっせ? これは藤原清輔(長治元(一一〇四)年~治承元(一一七七)年)の「清輔集」の「雑」の部に、

 石ぶみや津輕(つかろ)の遠(をち)にありと聞くえぞ世の中を思ひ離れぬ

と載る一首である。「清輔集」は所持しないので、複数の信頼し得る記載を総合して漢字に換えた。「つかろ」は津軽の古称。

「田村丸」坂上田村麻呂のこと。

「弓筈(ゆはず)」弓の木製の本体の両端。弓弭 (ゆはず) 。通常は弓本体と同じ木製であるが(木弭(きゆはず))、補強のために骨・角(つの)を彫刻して弓の両端に嵌めたり(骨弭・角弭)、金銅や銀などの金属で作って被せた金(かな)弭もあるので、石面を削ってもおかしくはない。

「小野氏道敬」不詳。小野篁や道風の後裔か。

「禳占」「じやうせん(じょうせん)」或いは「はらひうら」か。神を祀ってお祓いをして卜占することか。]

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