1370000アクセス突破記念 北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) 始動 / (献辞)・自序「わが生ひたち」・挿絵その他目次
[やぶちゃん注:北原白秋(明治一八(一八八五)年~昭和一七(一九四二)年)の第二詩集「おもひで」は東京の東雲堂書店から明治四四(一九一一)年六月五日に刊行された。著者自装。私が白秋の詩歌集の中でも最も偏愛するものである。
私は初版本を所持しないが、幸いにして「国文学研究資料館」公式サイト内の「電子資料館 近代文献情報データベース ポータル近代書誌・近代画像データベース」のこちらで高知市民図書館「近森文庫」蔵の初版本を、本体の殆んど総てを視認することが出来るので、これを底本とした(画像使用は出来ないので、リンクで対応した)。但し、加工用データとして、菊池真一先生が嘗て御自身の研究室サイトで公開しておられた「明治大正詩歌文学館」の中の同初版本を底本とした「思ひ出 抒情小曲集」の電子化データ(HTML版。二〇〇一年二月十四日ダウン・ロード。残念乍ら、現在は公開されておられない。但し、当該データは漢字が新字で読みは振られてない)を使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる(但し、かなりミスタイプがある)。今回、表題を一般的な「思ひ出」としなかったのは、表紙(上記リンク参照)のタイトル(トランプのダイヤのクィーンの下方)が「O MO I DE」であること、本書の背のタイトルと扉のそれが孰れも「抒情小曲集 おもひで」であること、「そもそもが視認底本の国文学研究資料館の当該映像のデータ書誌の書名も「おもひで」でであることに拠る(「小扉」のみで「思ひ出 抒情小曲集」とするだけで、「奥付」にさえ書名なく(但し、これは当時の出版物では特に異例なことではない)、その後の広告に本書が「思ひ出 抒情小曲集 新版」と載っているという御愛嬌はある)。
私は自慰行為として電子化データを作ったことは一度たりともない。ここで言っておくと、本詩集を偏愛する一人として、まともに初版の詩集「氷島」の全篇を完全に電子化したデータが殆んどないこと、唯一と思われる「青空文庫」のそれは「旧字」をうたってい乍ら作成時のコード制約(Shift-JIS)ために、今現在では表示漢字が見るに耐えないほどに気持ちが悪く不徹底であること(但し、詩集中の挿絵等を挿入してある点で高く評価する)、等々がこれを始動する大きな理由の一つである。挿絵等は底本画像をリンクする形や別な初版資料で示す。字のポイントや配置は必ずしも完全再現はしていない。踊字「〱」「〲」は正字化した。なお、詩篇中の一行が二行に亙る場合は二行目は一字下げとなっているが、一行時字数を底本通りにしても、ブラウザの字のポイントの設定で如何様にも変わってしまうので、再現してない。脳内でそのように処理されたい。そこまで私はお人好しではない。
一部でオリジナルに気になった部分に注を附した。この「序」に施したそれだけでも新たに始動した価値を私は認めている。
なお、本プロジェクトは本ブログが、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来(このブログ「Blog鬼火~日々の迷走」開始自体はその前年の2005年7月6日)、本ブログが昨日夜半、1370000アクセスを突破した記念として始動するものである。【二〇二〇年六月九日始動 藪野直史】]
抒 情 小 曲 集
おもひで
著 及 裝 幀
北 原 白 秋
序詩外七章
二百十五篇
東 京
東 雲 堂
京橋區南傳馬町三丁目十番地
五 月 版
[やぶちゃん注:「扉」(「小扉」は冒頭注で示したので略す)。実際には総ては右から左へ表記であるが、画像で示す分、電子化では今の書記法に変えた。水平罫線は実際には二重線で、最下部の「五月版」を除いた全体が、その二重線で四角に囲われている(中の二本は左右が外枠内側の接点部で終わっていて開放はされず繋がってはいない。「おもひで」が強い紅色で、「東雲堂」が薄めの赤色である。「五月版」はただ単に発行は六月五日であるが、印刷は五月二十日であるというだけのことで、初版初刷であることを示すだけで、特別な版を指しているものではない。]
この小さき抒情小曲集をそのかみのあえかなりしわが母上
と、愛弟 Tinka John に贈る。
Tonka John.
[やぶちゃん注:献辞。ほぼ中央に二行で配されてある。白秋、本名北原隆吉(りゅうきち)は、福岡県山門(やまと)郡沖端(おきのはた)村(現在の柳川市沖端町(おきのはたまち。出生地は母の実家の熊本県玉名郡関外目(せきほかめ)村(現在の南関町(なんかんまち))。孰れもグーグル・マップ・データ))で裕福な酒造業を主とする商家(屋号は「油屋」或いは「古問屋(ふるどいや)」と称し(以下の序では『ふつどいや』とルビする)、柳河藩御用達の老舗の海産物問屋で白秋の祖父の代より酒造業兼業を始めていた)の御曹司として生まれた(次男であったが、先妻の子の長男豊太郎は生後間もなく夭折していた)。土地の人々は彼のことを「油屋のとんかじょん」と呼んだが、これは無論、英語ではなく、柳川方言で「大きな坊ちゃん」という豪家の子弟への尊称と親愛の表現であった。白秋にはすぐ下の弟(三男)で二歳下の北原鉄雄(明治二〇(一八八七)年~昭和三二(一九五七)年)がいたが、彼は兄に対して「小さな坊ちゃん」の意で「ちんかじょん」と呼ばれた。白秋はこの綽名が大人になっても気に入っており、英語風に「トンカ・ジョン」として、英語で綴ってかくも模して楽しんだのであった。実際に書簡でも弟鉄雄に対して「トンカジョンよりチンカジョンへ」などと認めたりしている。白秋は三十歲の大正四(一九一五)年二月に、森鷗外と上田敏を顧問に仰いで阿蘭陀(おらんだ)書房を麻布(後に有楽町へ移る)に起こすが、この鉄雄が社主兼営業部長であった。彼は雑誌『ARS』を創刊、ここは後に兄白秋の著作の大半を出版し、画集・写真集・文学などを扱った「アルス」社となった(同社名での創業は大正六年)。因みにその下の四男の弟北原義雄(明治二九(一八九六)年~昭和六〇(一九八五)年)もじきに阿蘭陀書房に参加して、後に美術誌で知られる出版会社『アトリヱ』社の創刊・創業者ともなった。因みに、芥川龍之介の処女作品集「羅生門」(大正六年五月刊)はまさにその阿蘭陀書房が出版元であるが、その奥付の発行者は四男の北原義雄である(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの画像)。]
[やぶちゃん注:ここにこのピエロを描いた口絵が入る。以下に出る挿画の目次によれば、「Pierrotの思ひ出」と題されてある。画の中のピエロの左上に赤で(ピエロの髪も同色の赤い)「OmOIDÉ」と小文字「m」を大文字の大きさに変形させた上、「E」にアクサンテギュを附してフランス語のように見せかけた「おもいで」の文字が入る。]
わが生ひたち
…………時は逝く、何時しらず柔かに影してぞゆく、
時は逝く、赤き蒸汽の船腹の過ぎゆくごとく。
(過ぎし日第二十)
1
時は過ぎた。さうして溫かい苅麥(かりむぎ)のほめきに、赤い首(くび)の螢に、或は靑いとんぼの眼に、黑猫の美くしい毛色に、謂れなき不可思議の愛着を寄せた私の幼年時代も何時の間にか慕はしい「思ひ出」の哀歡となつてゆく。
捉へがたい感覺の記憶は今日もなほ私の心を苛(いら)だたしめ、恐れしめ、歎かしめ 苦しませる。この小さな抒情小曲集に歌はれた私の十五歲以前の Life はいかにも幼稚な柔順(おとな)しい、然し飾氣のない、時としては淫婦の手を恐るゝ赤い石竹の花のやうに無智であつた。さうして驚き易い私の皮膚と靈とはつねに螽斯(きりぎりす)の薄い四肢のやうに新しい發見の前に喜び顫へた。兎に角私は感じた。さうして生れたまゝの水々しい五官の感觸が私にある「神秘」を傳へ、ある「懷疑」の萠芽を微かながらも泡立たせたことは事實である。さうしてまだ知らぬ人生の「秘密」を知らうとする幼年の本能は常に銀箔の光を放つ水面にかのついついと跳ねてゆく水すましの番ひにも震慄(わなな)いたのである。
尤も、私は過去追憶にのみ生(い)きんとするものではない。私はまたこの現在の生活に不滿足な爲めに美くしい過ぎし日の世界に、懷かしい靈の避難所を見出さうとする弱い心からかういふ詩作にのみ耽つてゐるのでもない。「思ひ出」は私の藝術の半面である。私は同時に「邪宗門」の象徵詩を公にし、今はまた「東京景物詩」の製作にも從ふてゐる。從てその一面をのみ觀て、輕々にその傾向なり詩風なりを速斷せらるゝほど作者に取つて苦痛なことはない。如何なる人生の姿にも矛盾はある。影の形に添ふごとく、開き盡した牡丹花のかげに昨日の薄あかりのなほ顫へてやまぬやうに、現實に執する私の心は時として一碗の査古律(ちよよれーと)に蒸し熱い鄕土のにほひを嗅ぎ、幽かな泪芙藍(さふらん)の凋れにある日の未練を殘す。見果てぬ夢の歎きは目に見えぬ銀の鎖の微かに過去と現在とを繼いで慄くやうに、つねに忙たゞしい生活の耳元に啜り泣く。さはいへ此集の第三章に收めた「おもひで」二十篇の追憶體は寧ろ「邪宗門」以前の詩風であつた。まだ現實の痛苦にも思ひ到らず、ただ羅漫的な氣分の、何となき追憶に耽つたひとしきりの夢に過ぎなかつた。さりながら「生の芽生」及「Tonka John の悲哀」に輯めた新作の幾十篇には幼年を幼年として、自分の感覺に抵觸し得た現實の生そのものを拙ないながらも官能的に描き出さうと欲した。從つて用ゐた語彙なり手法なりもやはり現在風にして試みたのである。畢竟自敍傳として見て欲しい一種の感覺史なり性欲史なりに外ならぬ。實際私は過去を全く今の自分から遊離したものとして追慕するよりも、充實した現在生活の根底を更に力强く印象せしめんが爲に、兎に角過去といふわが第一の烙印を自分で力ある額の上に烙きつけやうと欲したのである、とはいふものゝ、私はなほこの小さな詩集の限りある紙面に於て企畫した事の十分の一も描寫し得なかつたのを悲しむ、幼ない昔は兎に角秘密多き少年時代の感情生活はまだまだ複雜であり神經的である。私はなほ何らかの新らしい形式の上にその切ないほど怪しかつた感覺の負債を充分に償ひ得べき何らかの新らしい機會の來らんことを待つ。
「斷章」の六十一篇は「邪宗門」と同時代の小曲であつてその以後の新風ではない。それは恰度强い印象派の色彩のかげに微かなテレビン油の潤りのさまよふてゐるやうに彼の集のかげに今なほ見出されずして顫へてゐたものである、私はかの私の抒情の「歌」とゝもにこの「斷章」のやうな仄かな藝術品が「邪宗門」や「東京景物詩」やその他の異なつた象徵詩の閒にも、なほ純なるわかき日の悲しみを賴りなく伴奏しつゝあつた事をせめては首肯して欲しいのである。
私は兎に角、可憐なさうして手ごろの小さい抒情小曲集を、私のなつかしい人々の手に獻げたいと思つて、なるべく自分に親しみの深い、稚い時代の「思ひ出」を玆に集めた。從て私の生ひたちなり、生れた鄕土の特色なり、豫め多少は知つて戴く必要がある。
[やぶちゃん注:この序は非常に長いので、各章で注を打つ。ここが冒頭。本詩篇本文のこの赤い角が丸い組枠が非常にお洒落で、ここからノンブル(左ページで赤線内左肩、右ページで同右肩)も始まる(本序にあってはローマ数字で始まりは「Ⅸ」でこれもまた如何にもお洒落だ)私は近代詩集の美麗な装幀を三冊挙げよと言われたら、躊躇なくこれを数え入れる。
「恐れしめ、歎かしめ 苦しませる」の半角字空けはママ。前の部分との比較をするに、読点は半角分の字空けになるので、読点の植字脱落と判断される。
「泪芙藍(さふらん)」正しくはサフラン(単子葉植物綱キジカクシ目アヤメ科クロッカス属サフラン Crocus sativ)の漢字表記は「洎芙藍」(借字で意味はない)でないとおかしい。植字工・校正係のミスとも思われるが、白秋自身の誤って認識していた可能性も否定は出来ない。「洎」の字は「注ぐ」の意ではあるが、通常和文で使用することはない漢字で、後の昭和三(一九二八)年アルス刊の北原白秋自身の編著になる自身の詩集集成の一つである「白秋詩集Ⅱ」でも「泊芙藍」で「泊」と誤っているからである。
「凋れ」「しぼれ」或いは「しをれ」。名詞形として後者の方が自然。
「テレビン油(テレビンゆ)は turpentine。テレピン油或いはターペンタインとも呼び、マツ科 Pinaceae の樹木のチップ或いはそれらの樹木から採取された松脂を水蒸気蒸留することによって得られる精油で、油彩絵具の溶剤として知られる。当該油を指すポルトガル語「terebintina」(テュルビンティーナ)が語源。
「潤り」私は恐らく「しめり」(湿り)と訓じているものと思う。]
2
私の鄕里柳河は水鄕である。さうして靜かな廢市の一つである。自然の風物は如何にも南國的であるが、既に柳河の街を貫通する數知れぬ溝渠(ほりわり)のにほひには日に日に廢れてゆく舊い封建時代の白壁が今なほ懷かしい影を映す。肥後路より、或は久留米路より、或は佐賀より筑後川の流を超えて、わが街に入り來る旅びとはその周圍の大平野に分岐して、遠く近く瓏銀の光を放つてゐる幾多の人工的河水を眼にするであらう。さうして步むにつれて、その水面の隨所に、菱の葉、蓮、眞菰、河骨、或は赤褐黃綠その他樣々の浮藻の强烈な更紗模樣のなかに微かに淡紫のウオタアヒヤシンスの花を見出すであらう。水は淸らかに流れて廢市に入り、廢れはてた Noskai 屋(遊女屋)の人もなき厨の下を流れ、洗濯女の白い洒布に注ぎ、水門に堰かれては、三味線の音の緩む晝すぎを小料理の黑いダアリヤの花に歎き、酒造る水となり、汲水(くみづ)場に立つ湯上りの素肌しなやかな肺病娘の唇を嗽ぎ、氣の弱い鶩の毛に擾され、さうして夜は觀音講のなつかしい提燈の灯をちらつかせながら、樋(ゐび)を隔てゝ海近き沖(おき)ノ端(ばた)の鹹川(しほかは)に落ちてゆく、靜かな幾多の溝渠はかうして昔のまゝの白壁に寂しく光り、たまたま芝居見の水路となり、蛇を奔らせ、變化多き少年の秘密を育む。水鄕柳河はさながら水に浮いた灰色の柩である。
*
折々の季節につれて四邊の風物も改まる。短い冬の間にも見る影もなく汚ごれ果てた田や畑に、刈株のみが鋤きかへされたまゝ色もなく乾き盡くし、羽に白い斑紋を持つた怪しげな髙麗烏(かうげがらす)(この地方特殊の烏)のみが廢れた寺院の屋根に鳴き叫ぶ、さうして靑い股引をつけた櫨(はじ)の實採りの男が靜かに暮れてゆく卵いろの梢を眺めては無言に手を動かしてゐる外には、展望の曠い平野丈に何らの見るべき變化もなく、凡てが陰欝な光に被はれる。柳河の街の子供はかういふ時幽かなシユブタ(方言鮠(ハエ)の一種)の腹の閃めきにも話にきく生膽取(いきゞもとり)の靑い眼つきを思ひ出し、海邊の黑猫はほゝけ果てた白い穗の限りもなく戰いでゐる枯葦原の中に、ぢつと蹲つたまゝ、過ぎゆく冬の囁きに晝もなほ耳かたむけて死ぬるであらう。
*
いづれにもまして春の季節の長いといふ事はまた此地方を限りなく悲しいものに思はせる、麥がのび、見わたす限りの平野に黃ろい菜の花の毛氈が柔かな軟風に薰り初めるころ、まだ見ぬ幸を求むるためにうらわかい町の娘の一群は笈に身を窶し、哀れな巡禮の姿となつて、初めて西國三十三番の札所を旅して步るく(巡禮に出る習慣は別に宗敎上の深い信仰からでもなく、單にお嫁め入りの資格としてどんな良家の娘にも必要であつた。)その留守の間にも水車は長閑かに廻り、町端れの飾屋の爺は大きな鼈甲緣の眼鏡をかけて、怪しい金象眼の愁にチンカチと鎚を鳴らし、片思の薄葉鐵職人はぢりぢりと赤い封蠟を溶かし、黃色い支那服の商人は生溫い挨拶の言葉をかけて戶每を覗き初める。春も半ばとなつて菜の花もちりかゝるころには街道のところどころに木蠟を平準(なら)して干す畑が蒼白く光り、さうして狐憑(きつねつき)の女が他愛もなく狂ひ出し、野の隅には粗末な蓆張りの圓天井が作られる。その芝居小屋のかげをゆく馬車の喇叭のなつかしさよ。
さはいへ大麥の花が咲き、からしの花も實(み)となる晚春(ばんしゆん)の名殘惜しさは靑くさい芥子の萼(うてな)や新らしい蠶豆(そらまめ)の香ひ[やぶちゃん注:「にほひ」。]にいつしかとまたまぎれてゆく。
まだ夏には早い五月の水路(すゐろ)に杉の葉の飾りを取りつけ初めた大きな三神丸(さんじんまる)の一部をふと學校がへりに發見した沖ノ端の子供の喜びは何に讐へやう。艫の方の化粧部屋は蓆(むしろ)で張られ、昔ながらの廢れかけた舟舞臺には櫻の造花を隈なくかざし、欄干の三方に垂らした御簾(みす)は彩色(さいしき)も腿せはてたものではあるが、水天宮の祭日となれば粹な町内の若い衆が紺の半被(はつぴ)に棹さゝれて、幕あひには笛や太鼓や三味線の囃子面白く、町を替ゆるたびに幕を替え、日を替ゆるたびに歌舞伎の藝題(げだい)もとり替えて、同じ水路を上下すること三日三夜、見物は皆あちらこちらの溝渠から小舟に棹さして集まり、華やかに水鄕の歡を盡くして別れるものゝ何處かに頽廢の趣が見えて祭の濟んだあとから夏の哀れは日に日に深くなる。
この騷ぎが靜まれば柳河にはまたゆかしい螢の時季が來る。
あの眼の光るは
星か、螢か、鵜の鳥か、
螢ならばお手にとろ、
お星樣なら拜みませう……
稚(をさな)い時私はよくかういふ子守唄をきかされた、さうして恐ろしい夜の闇にをびえながら、乳母の背中(せなか)から手を出して例の首の赤い螢を握りしめた時私はどんなに好奇の心に顫へたであらう。實際螢は地方の名物である。馬鈴薯の花さくころ。街の小舟はまた幾つとなく矢部川の流を溯り初める。さうして甘酸ゆい燐光の息するたびに、あをあをと(め)眼に泌(し)みる螢籠に美くしい假寢(かりね)の夢を時たまに閃めかしながら水のまにまに夜をこめて流れ下るのを習慣とするのである。
*
長い霖雨の間に果實(くだもの)の樹は孕み女のやうに重くしなだれ、ものゝ卵はねばねばと瀦水(たまりみづ)のむじな藻(も)にからみつき、蛇は木にのぼり、眞菰は繁りに繁る。柳河の夏はかうして凡ての心を重く暗く腐らしたあと、池の邊(ほとり)に鬼百合の赤い閃めきを先だてゝ、烘くが如き暑熱を注ぎかける。
日光の直射を恐れて羽蟻は飛びめぐり、溝渠には水涸れて惡臭を放ち、病犬は朝鮮薊の紫の刺に後退(あとしざ)りつゝ咆(ほ)え廻り、蛙は蒼白い腹を仰向けて死に、泥臭い鮒のあたまは苦しさうに泡を立てはじめる。七八月の炎熱はかうして平原の到るところの街々に激しい流行病(はやりやまい[やぶちゃん注:ママ。])を仲介し、日ごとに夕燒の赤い反照を浴びせかけるのである。
この時、海に最も近い沖ノ端の漁師原(りやうしばら)には男も女も半裸體のまゝ紅い西瓜をむさぼり、石炭酸の强い異臭の中に晝は寢ね、夜は病魔退散のまじなひとして廢れた街(まち)の中、或は堀(ほり)の柳のかげに BANKO(椽臺)を持ち出しては盛んに花火を揚げる。さうして朽ちかゝつた家々のランプのかげから、死に瀕(ひん)した虎剌拉患者(これらくわんじや)は恐ろしさうに蒲團を匍(は)ひいだし、ただぢつと薄(うす)あかりの中(うち)に色變(か)えて[やぶちゃん注:ママ。]ゆく五色花火のしたゝりに疲れた瞳を集める。
燒酎の不攝生に人々の胃を犯すもこの時である。犬殺しが步(あ)るき、巫女(みこ)が酒倉に見えるのもこの時である。さうして雨乞の思ひ思ひに白粉をつけ、紅(あか)い隈どりを凝らした假裝行列の日に日に幾隊となく續いてゆくのもこの時である。さはいへまた久留米絣をつけ新らしい手籠(てかご)を擁(かゝ)えた[やぶちゃん注:ママ。]菱の實賣りの娘の、なつかしい「菱シヤンヲウ」の呼聲をきくのもこの時である。
*
九月に入つて登記所の庭に黃色い鷄頭の花が咲くやうになつてもまだ虎剌拉(コレラ)は止む氣色もない。若い町の辨護士が忙(いそが)しさうに粗末な硝子戶を出入(ではい)りし、靑白い藥種屋の娘の亂行の漸く人の噂に上るやうになれば秋はもう靑い澁柿を搗く酒屋の杵の音にも新らしい匂の爽かさを忍ばせる。
祇園會が了り秋もふけて、線香を乾(かわ)かす家、からし油を搾(しぼ)る店、パラピン蠟燭を造る娘、提燈の繪を描く義太夫の師匠、ひとり飴形屋(飴形(あめがた)は飴の一種である、柳河特殊のもの)の二階に取り殘された旅役者の女房、すべてがしんみりとした氣分に物の哀れを思ひ知る十月の末には、先づ秋祭の準備として柳河のあらゆる溝渠はあらゆる市民の手に依て、一旦水門の扉を閉され、水は干(ほ)され、魚は掬(すく)はれ、腥くさい水草は取り除かれ、溝(どぶ)どろは奇麗に浚ひ盡くされる。この「水落ち」の樂しさは町の子供の何にも代へ難い季節の華である。さうしてこの一騷(さわ)ぎのあとから、また久濶(ひさし)ぶりに淸らかな水は廢市に注ぎ入り、樂しい祭の前觸(まへぶれ)が、異樣な道化(どうけ[やぶちゃん注:ママ。])の服裝をして、喇叭を鳴らし拍子木を打ちつゝ、明日(あす)の芝居の藝題(げだい)を面白ろをかしく披露しながら町から町へと巡り步るく。
祭は町から町へ日を異にして準備される、さうして彼我の家庭を擧げて往來しては一夕の愉快なる團欒に美くしい懇親の情を交すのである。加之、識る人も識らぬ人も醉うては無禮講の風俗をかしく、朱欒(ざぼん)の實のかげに幼兒と獨樂(こま)を回(ま)はし、戶ごとに酒をたづねては浮かれ步るく。祭のあとの寂しさはまた格別である、野は火のやうな櫨紅葉に百舌がただ啼きしきるばかり、何處からともなく漂浪(さすら)ふて來た傀儡師(くぐつし)の肩の上に、生白い華魁(おいらん)の首が、カツクカツクと眉を振る物凄さも、何時の間にか人々の記憶から搔き消されるやうに消え失せて、寂しい寂しい冬が來る。
*
要するに柳河は廢市である。とある街の辻に古くから立つてゐる圓筒狀の黑い廣告塔に、折々(をりをり)、西洋奇術の貼札(はりふだ)が紅いへらへら踊の怪しい景氣をつけるほかにはよし今のやうに、アセチリン瓦斯を點(つ)け、新たに電氣燈(でんき)をひいて見たところで、格別、これはといふ變化も凡ての沈滯から美くしい手品(てじな)を見せるやうに容易く蘇(よみがへ)らせる事は不可能であらう。ただ偶々(たまたま)に東京がへりの若い齒科醫がその窓の障子に氣まぐれな赤い硝子を入れただけのことで、何時しか屋根に薊の咲いた古い旅籠屋にはほんの商用向の旅人が殆ど泊つたけはひも見せないで立つて了ふ。ただ何時通つても白痴の久たんは靑い手拭を被つたまゝ同じ風に同じ電信柱をかき抱き、ボンボン時計を修繕(なほ)す禿頭は硝子戶の中に俯向(うつむ)いたぎりチツクタツクと音をつまみ、本屋の主人(あるじ)は蒼白い顏をして空をたゞ凝視(みつ)めてゐる。かういふ何の物音もなく眠つた街に、住む人は因循で、ただ柔順(おとな)しく、僅に Gonshan(良家の娘、方言)のあの情の深さうな、そして流暢な、軟かみのある語韻の九州には珍らしいほど京都風なのに阿蘭陀訛の溶(とろ)け込んだ夕暮のささやきばかりがなつかしい。風俗の淫(みだ)らなのにひきかへて遊女屋のひとつも殘らず廢れたのは哀れぶかい趣のひとつであるが、それも小さな平和な街の小さな世間體を恐るゝ――利發な心が卑怯にも人の目につき易い遊びから自然と身を退くに至つたのであらう。いまもなほ黑いダアリヤのかげから、かくれ遊びの三味線は晝もきこえて水はむかしのやうに流れてゆく。
[やぶちゃん注:「瓏銀」「ろうぎん」で鮮やかな或いは明るい銀色のこと。
「菱」私の愛する双子葉植物綱フトモモ目ミソハギ科ヒシ属ヒシ Trapa japonica。花は白く小さい。私はほんの幼少の頃、母の実家のあった大隅半島の岩川の山間の池で自生した自然のその実を採り、食べた。
「蓮」ヤマモガシ目ハス科ハス属ハス Nelumbo nucifera。
「眞菰」単子葉類植物綱イネ目イネ科エールハルタ亜科 Ehrhartoideae Oryzeae族マコモ属マコモ Zizania latifolia。水辺に群生し、成長すると大型になり、人の背丈程まで高くなる。花期は夏から秋で雌花は黄緑色を、雄花は紫色を呈する。
「河骨」双子葉植物綱スイレン目スイレン科コウホネ属コウホネ Nuphar japonica。花期は六月から九月頃で、水の上に長い花柄を突き出し、その先端に上向きに丸いカップ状の黄色い五弁の花を一つだけ咲かせる。
「ウオタアヒヤシンス」単子葉植物綱ツユクサ目ミズアオイ科ホテイアオイ(布袋葵)属ホテイアオイ Eichhornia crassipes の英名(Water Hyacinth)。花期は夏で、ウィキの「ホテイアオイ」によれば、『花茎が葉の間から高く伸び、大きな花を数個』から『十数個つける。花は青紫で、花びらは六枚、上に向いた花びらが幅広く、真ん中に黄色の斑紋があり、周りを紫の模様が囲んでいる』とある。
「Noskai 屋(遊女屋)」小学館「日本国語大辞典」に「のすかい」で娼妓・遊女の方言とし、九州で広汎に見られるようである。語源は記されていないが、熊本の方の記載を見ると、「のすかい」で「いやな感じがする」「風紀上よろしくない」という意であるとある。
「厨」「くりや」。炊事場。
「洒布」「しやふ(しゃふ)」。洗っている着物。
「鶩」「あひる」。カモ目カモ科マガモ属マガモ品種アヒル Anas platyrhynchos var. domesticus。
「擾され」「みだされ」。「亂され」に同じい。「氣の弱い鶩の毛に」とは臆病なアヒルがすぐに騒ぎ立てると、彼らの羽毛が飛び散り、それが水につかって濁らせることを言うのであろう。
「觀音講」次章「3」で具体的に語られる。
「樋(ゐび)」方言辞典の記載に「いび」があり、『灌漑用の水をひく樋』(熊本県玉名郡)。『井堰』(大分県宇佐郡)とある。後者は「水を他所に引いたり、水量を調節するために、川水をせき止めた所」を言う。「を隔てゝ」が少し少し不審だが、これは柳川の人工的な運河が自然の流れではない「樋」(とい)のような水路であることを自然の川に対して「隔てて」と称しているのであろうと思う。以下、何度も出るが、総て「ゐび」と読んでおく。
「海近き沖(おき)ノ端(ばた)の鹹川(しほかは)」「今昔マップ」を見ると、それこそ白秋の実家辺りから西部分は明らかに人工的に整然と掘られた運河様の「溝渠(こうきよ(こうきょ))」=掘割と思われる箇所が古い地図でも確認出来、それは直線的に沖端川に注いでいるので一目瞭然である。そこを運河で「隔てて」南方の沖端川の河口少し上流付近で流れ出ることを指していると思われる。「鹹川(しほかは)」はこの部分の呼称のように思われる。以下の「3」でこのことが実家との位置ではっきりと示されてある。
「溝渠」「こうきよ(こうきょ)」。掘割。運河。
「髙麗烏(かうげがらす)」スズメ目カラス科カササギ属カササギ Pica pica。ウィキの「カササギ」によれば、『日本では』、今現在では広範囲に棲息が確認されており、『北海道、新潟県、長野県』、『福岡県、佐賀県、長崎県、熊本県で繁殖が記録されている。秋田県』、『山形県、神奈川県、福井県、兵庫県、鳥取県、島根県、宮崎県、鹿児島の各県、島嶼部では佐渡島、対馬で生息が確認されている』。しかし、『古代の日本には、もともと』種としての『カササギは生息し』てい『なかったと考えられる。「魏志倭人伝」も「日本にはカササギがいない」と記述している』。しかし、「かささぎ」の鳥の名自体は『七夕の架け橋を作る伝説の鳥として』『日本に知られることとなった。奈良時代の歌人大伴家持は七夕伝説に取材した』「鵲の渡せる橋におく霜のしろきを見れば夜ぞ更けにける」(「家持集」冬)を詠い、「小倉百人一首」で超メジャーになってしまったものの、当時の誰もが実在する鵲(かささぎ)という鳥は知らなかったのである。古く極めて限定的に棲息していた『九州の個体群は、朝鮮とは別亜種で中国と同亜種に分類されて』おり、この『九州の個体群は』十七『世紀に朝鮮半島から現在の佐賀県(佐賀藩)および福岡県筑後地方(柳河藩)に人為移入された個体が起源とされる』。『なお、『日本書紀』には飛鳥時代に新羅から「鵲」を持ち帰ったという記述がある』ものの、『室町時代以前の文献にみられる観察記録にはカササギと断定出来る記述は無いとされている』。『移入時期は豊臣秀吉の朝鮮出兵とする説』『もあるが』、『文献記録が無く』、『伝聞の域を出ていない』。『一方、台風や季節風により』、『本来』、『生息域である大陸から迷行し飛来した自然渡来個体が定着した可能性も否定されていない』ものの、原生個体群の内の古い『福岡県玄界灘沿岸生息群と佐賀平野生息個体群の分布調査からは自然渡来の可能性は極めて低いと』されている。また、「万葉集」に』真正の種としてのカササギが詠まれていると判断できるものが『無い事が渡来時期の傍証のひとつとなっている』。『江戶時代には「朝鮮がらす」「高麗がらす」「とうがらす」の別称があり、江戶時代の生息範囲は柳河藩と佐嘉藩の周辺の周辺非常に狭い地域に限られていた。また、佐嘉藩では狩猟禁止令により保護されていた』とある。
「櫨(はじ)」ムクロジ目ウルシ科ウルシ属ハゼノキ Toxicodendron succedaneum。ウィキの「ハゼノキ」によれば、『果実を蒸して圧搾して採取される高融点の脂肪、つまり木蝋』(もくろう)『は、和蝋燭(Japanese candle)、坐薬や軟膏の基剤、ポマード、石鹸、クレヨンなどの原料として利用される。日本では、江戶時代に西日本の諸藩で木蝋をとる目的で盛んに栽培された。また、江戶時代中期以前は時としてアク抜き後焼いて食すほか、すりつぶしてこね、ハゼ餅(東北地方のゆべしに近いものと考えられる)として加工されるなど、救荒食物としての利用もあった。現在も、食品の表面に光沢をつけるために利用される例がある』とし、『日本への渡来は安土桃山時代末の』天正一九(一五九一)年に『筑前の貿易商人神屋宗湛や島井宗室らによって中国南部から種子が輸入され、当時需要が高まりつつあったろうそくの蝋を採取する目的で栽培されたのがはじまりとされる。その後』、『江戶時代中期に入って中国から琉球王国を経由して、薩摩でも栽培が本格的に広まった。薩摩藩は後に』慶応三(一八六七)年の『パリ万国博覧会に』『このハゼノキから採った木蝋』『を出品している』。また、『広島藩では』一七〇〇年代後半から『藩有林を請山として貸出し、商人らがハゼノキをウルシノキとともに大規模に植林、製蝋を行っていた記録が残る』とし、『今日の本州の山地に見られるハゼノキは』、これらの『蝋の採取の目的で栽培されたものの一部が野生化したものとみられている』とある。
「シユブタ(方言鮠(ハエ)の一種)」「ハヤ」類(「ハエ」「ハヨ」とも呼ぶ)で、これは概ね、
コイ科ウグイ亜科ウグイ属ウグイ Pseudaspius hakonensis
ウグイ亜科アブラハヤ属アムールミノー亜種アブラハヤ Rhynchocypris logowskii steindachneri
アブラハヤ属チャイニーズミノー亜種タカハヤ Rhynchocypris oxycephalus jouyi
コイ科Oxygastrinae 亜科ハス属オイカワ Opsariichthys platypus
Oxygastrinae 亜科カワムツ属ヌマムツ Nipponocypris sieboldii
Oxygastrinae 亜科カワムツ属カワムツ Nipponocypris temminckii
の六種を指す総称と考えてよい。漢字では他に「鯈」「芳養」とも書き、要は日本産のコイ科 Cyprinidae の淡水魚の中で、中型のもので細長いスマートな体型を有する種群の、釣り用語や各地での方言呼称として用いられる総称名であって、「ハヤ」という種は存在しない。以上の六種の内、ウグイ・オイカワ・ヌマムツ・アブラハヤの四種の画像はウィキの「ハヤ」で見ることができる。タカハヤとカワムツはそれぞれのウィキ(リンク先)で見られる。しかし、どうもこの異名が気になった。どうもこれ、ハヤ類の異名らしくないのである。検索してみたら、あった! こちらの『アブラボテ』で、『地方名:ボテ(琵琶湖)、クソベンチョコ(柳川市)、シュブタ(筑後川)』(☜!)とあり、『体が黒ずんでいて一対の口ひげを持』ち、『岐阜県以西』に棲息するとある。
コイ目コイ科タナゴ亜科アブラボテ属アブラボテ Tanakia limbata
だ。ウィキの「アブラボテ」によれば、『日本固有種(濃尾平野以西の本州、四国北部、九州北部、淡路島)』で、体長は四~七センチメートルで、大型個体は十センチメートルに『達する。体形は、近縁種のヤリタナゴより体高が高い側扁体形である。体色は褐色を帯びた銀白色で、肩部や体側面に斑紋や縦帯は入らない。和名のアブラ(脂)は本種の体色に由来し、ボテはタナゴの俗称。側線は完全で』、『口角に』一『対の長い口髭がある。背鰭には紡錘型のオレンジ色の斑紋が入る。尻鰭の縁は黒く、種小名limbataは「縁のある」の意。九州の個体群のみ、縁取りの黒色帯は』二『本である』。『繁殖期のオスは婚姻色を現す。生息地により婚姻色の発現様態には差異が大きく、体側上半部から背にかけて、濃尾平野から関西地方では暗緑色、岡山では紫色、九州では褐色に染まる。吻端には白い瘤(追星)が』一『つ現れる。メスは黒い産卵管を伸ばす』。『水の澄んだ河川、用水路等に生息する。主に単独で生活し、縄張りを形成する。稚魚は群れを形成し、水草等の間に潜み』、『生活する。食性は雑食で、小型の水生昆虫や甲殻類、藻類等を食べる。繁殖形態は卵生で』、三月から七月にかけて『ドブガイやマツカサガイなどイシガイ目の淡水生二枚貝に卵を産みつける』とあった。個人サイト「雑魚の水辺」のアブラボテのページが写真豊富で強力! 是非見られたい。しかし、思うのだが、この体型の淡水魚の「鮠」(はや)の類とは私は絶対呼ばないと思う。呼ぶとしたら、それは極めて異例な「鮠」と言えると思う。つーより、これってモロに「タナゴ」にしか見えへんて! 甚だ不審である。初め、「アブラハヤ」の誤りかと思ったが、実は上記の「ハヤ」類の中で、「アブラハヤ」のみは九州には棲息しないのであり得ないのである。一つ、「タカハヤ」との誤認が考えられる。何故なら、「タカハヤ」は鹿児島の一方言名では「アブラメ」とも呼ばれるからである。但し、「タカハヤ」と「アブラボテ」全く似ていない。
「生膽取(いきゞもとり)」古くから子どもの生肝は難病の特効薬と噂され、言うことをきかない子には生肝採りに取られるぞと脅したものであった。例えば、胎児のそれではあるが、既に「今昔物語集」の卷第二十九の「丹波守平貞盛取兒干語第二十五」(丹波守平貞盛、兒干(じかん)を取れる語(こと)第二十五)にそれを認める。そこでは悪性の腫瘍で、ここで原文が読める。そこでは女児の場合は効かないとして、かなり酷い展開を示す。
「薄葉鐵」「ぶりき(ブリキ)」と読む。オランダ語「blik」。鉄鋼鋼板をスズで表面処理したもの。
「水路(すゐろ)」当時考えられていた歴史的仮名遣では正しいが、現在は「すいろ」で正しいことが判っている。
「水天宮」「三神丸」白秋の生家の東直近にある福岡県柳川市矢留の沖端水天宮(グーグル・マップ・データ)は安徳天皇を祭神とし、五月の三・四・五日を祭日とし、この時、三神丸という舟が建造され、そこに舟舞台が作られる。六隻の小舟の上に杉の木を切り込んだ柱や梁などで釘を一本も使わずに長さ十七メートル、高さ六メートルの中に縦約五・五メートル、横約三・六メートルの青い杉の葉を船の周りに飾りつけた舞台が作られ、そこで芝居や別名「オランダ囃子」とも称される水天宮囃子が奉納される。参照した「柳川市沖端水天宮 沖端町青年部」のこちらのページ他を見られたい。
「矢部川」先に示した塩塚川のさらに東側を流れる(グーグル・マップ・データ)。
「霖雨」「りんう」。長雨。
「むじな藻」ウツボカズラ目モウセンゴケ科ムジナモ属ムジナモ Aldrovanda vesiculosa は一属一種の食虫植物で浮遊性水草・根は発芽時に幼根があるだけで通常は固定しない。葉がハエトリグサと同じく二枚貝のような捕虫器官になっており、動物プランクトンを捕食することで知られる。本邦での発見は明治二三(一八九〇)年で、極地的にしか棲息せず、現在では自然界で見ることは殆んど不可能で、私自身、淡水アクアリウムで見たことしかない。思うに白秋の言っているそれは、私は一見似たように見えるユキノシタ目アリノトウグサ科フサモ属フサモ Myriophyllum verticillatum ではないかと思われる。
「烘く」「かがやく」。
「朝鮮薊」キク目キク科アザミ亜科アザミ連チョウセンアザミ属チョウセンアザミ Cynara scolymus。所謂、イタリア料理でお馴染みの「Artichoke(アーティチョーク)」の和名である。地中海原産であるが、本邦には既に江戸時代にオランダから渡来していた。
「漁師原(りやうしばら)」これは恐らく沖端の漁師村の中の地域内での限定地名呼称であろう。現在の地名としては現認は出来ない。但し、私は本来は「りやうしばる(りょうしばる)」と読んだのではないかと疑っている。九州では有意な岡や野原は「原(ばる)」と呼称されるからである。因みに、私の亡き母は鹿児島出身である。
「石炭酸」フェノール(phenol)。特異な臭いを持つ無色又は白色の針状結晶又は結晶性の固形物で、水にやや溶け、弱い酸性を示す。化学式はC6H5OH。元はコールタールの分留により得たもので、防腐剤・消毒殺菌剤とする。
「BANKO(椽臺)」柳川で各家庭の玄関先にあった畳一畳分ほどで高さ六十センチメートル程の杉材で造られた縁台。サイト「月刊『杉』WEB版」の橋本憲之氏の『特集 西鉄柳川駅「学ぼう! つくろう! 駅前広場でモノづくり」』の「モノ づくりをとおして」の解説と写真を見られたい。
「菱シヤンヲウ」先のヒシの実売りの掛け声と思われるが、「シヤンヲウ」は意味不明。識者の御教授を乞う。
「祇園會」陰暦六月十五日前後の夏に各地の八坂神社で行われる祭礼。祇園御霊会。ここは福岡県みやま市瀬高町(せたかまち)上庄(かみしょう)にある八坂神社のそれであろう(グーグル・マップ・データ)。
「からし油」フウチョウソウ目アブラナ科アブラナ属セイヨウカラシナ変種カラシナ Brassica juncea var. cernua の種子を絞った油。辛くない。同種の本邦への伝来は弥生時代にまで遡るとされる。
「パラピン蠟燭」石油から分離された白色半透明の固体のパラフィン(paraffin)を原料とした蝋燭。
「飴形屋」「飴形(あめがた)」は「柳川大松下(おおまつした)飴本舗」公式サイトのこちらによれば、『使う材料は、もち米と麦芽だけで、砂糖などは一切使いません。もち米を蒸した後、麦芽を加えて一晩寝かせ絞り煮詰めて、練り上げます。すると砂糖の甘さとは根本的に違う、本当に自然で円やかな甘さになり』、『出来上がった飴には煎った糠と一緒に箱に詰め保存をよくします』。『大松下のあめは産後の母乳に良いと言われ』、『全国より出産のお祝いとして御贔屓をいただいております』とある。ここに入って飴を食ううち、他の連中が飲み買いにいんで、「二階に取り殘された旅役者の女房」ということか? 或いは、本当に捨てられたということか?
「久濶(ひさし)ぶり」二字へのルビ。
「藝題(げだい)」外題に同じい。
「朱欒(ざぼん)」ムクロジ目ミカン科ミカン亜科ミカン連ミカン亜連ミカン属ザボン Citrus maxima。ブンタン(文旦)やボンタンの名の方が今は通りがよいが、ザボンが正式和名である。
「櫨紅葉」前に倣って「はじもみぢ」と訓じておく。
「百舌」モズ。私の好きな、スズメ目スズメ亜目モズ科モズ属モズ Lanius bucephalus。詳しくは私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 鵙(もず)(モズ)」を読まれたい。
「久たん」「きうたん(きゅうたん)」と読んでおく。「たん」は敬愛の接尾語「ちゃん」の訛か。
「因循」「いんじゆん(いんじゅん)」。「古い習慣や方法などに従うばかりでそれを一向に改めようとしないこと」。結果した「思い切りが悪くてぐずぐずしていること・引っ込み思案なさま」の意もある。まあ、前者でよかろう。
「Gonshan(良家の娘、方言)」現代仮名遣「ごんしゃん」。個人サイトらしい「世界の民謡・童謡」の「ごんしゃん GONSHANの意味・語源 北原白秋の詩集『思ひ出』で多用された柳河地域の方言」によれば、『語源・由来については諸説あるが、まず「ごん」については、姉御(あねご)・娘御(むすめご)など女性への敬称「御(ご)」が変化したとの説が有力なようだ』。『この「ごん」にさらに敬称の「さん」または「様(さま)」が語尾について「ごんさん」となり、そこから変化して「ごんしゃん」となったとのこと』。『柳河地域には「おんご」という方言もあり、これは上述の「ご」の前にさらに尊敬語の「お」がついた「おご」が長音化したもの』で、『「おんご」と「ごんしゃん」の使い分けについては、一般的に、前者の方が少女・幼女に使われるという』。また『狂言』『の中にも、ごんしゃん』『の語源・由来と関連性が認められる用語が存在』し、狂言では『主人・太郎冠者・次郎冠者など、登場人物が名前ではなく役柄で呼ばれるが、その数ある登場人物の中に「おごう」という役柄がある』。『「おごう」の役割は「良家の娘/若妻」であり、ごんしゃんが意味する人物像と一致している』。『主人に「様」がつくように、「おごう」にも「様」がつくのであれば「おごうさま」となり、「ごんしゃん」へ音変化することも十分に考えられる』とある。
「阿蘭陀訛」「オランダなまり」。]
3
柳河を南に約半里ほど隔てて六騎(ロツキユ)の街(まち)沖(おき)ノ端(はた)がある。(六騎(ロツキユ)とはこの街に住む漁夫の諢名[やぶちゃん注:「あだな」。]であつて、昔平家沒落の砌に打ち洩らされの六騎がここへ落ちて來て初めて漁り[やぶちゃん注:「すなどり」。]に從事したといふ、而してその子孫が世々その業を繼襲し、繁殖して今日の部落を爲すに至つたのである。)畢境は柳河の一部と見做すべきも、海に近いだけ凡ての習俗もより多く南國的な、怠惰けた[やぶちゃん注:「なまけた」或いは「だらけた」か。]規律(しまり)のない何となく投げやりなところがある。さうしてかの柳河のただ外面(うはべ)に取すまして廢れた面紗(おもぎぬ)のかげに淫(みだ)らな秘密を匿(かく)してゐるのに比ぶれば、凡てが露(あらは)で、元氣で、また華(はな)やかである。かの巡禮の行樂、虎列拉避(コレラよ)けの花火、さては古めかしい水祭の行事などおほかたこの街特殊のものであつて、張のつよい言葉つきも淫らに、ことにこの街のわかい六騎(ロクキユ)は溫ければ漁(すなど)り、風の吹く日は遊び、雨には寢(い)ね、空腹(ひもじ)くなれば食(くら)ひ、酒をのみては月琴を彈き、夜はただ女を抱くといふ風である。かうして宗敎を遊樂に結びつけ、遊樂のなかに微かに一味の哀感を繼いでゐる。觀世音は永久(とこしへ)にうらわかい町の處女に依て齋(いつ)がれ(各の町に一體づつの觀世音を祭る、物日にはそれぞれある店の一部を借りて開帳し、これに侍づくわかい娘たちは參詣の人にくろ豆を配(くば)り、或は小屋をかけていろいろの催(もよふし[やぶちゃん注:ママ。])をする。さうしてこの中の資格は處女に限られ、緣づいたものは籍を除かれ、新しい妙齡(としごろ)のものが代つて入(はい)る。)天火(てんび)のふる祭の晚の神前に幾つとなくかかぐる牡丹に唐獅子(からしし)の大提灯は、またわかい六騎(ロクキユ)の逞ましい日に燒けた腕(かひな)に献げられ、霜月親鸞上人の御正忌となれば七日七夜の法要は寺々の鐘鳴りわたり、朝の御講に詣(まう)づるとては、わかい男女(をとこをんな)夜明まへの街の溝石をからころと踏み鳴らしながら、御正忌參(めえ)らんかん……の淫らな小歌に浮かれて媾曳(あひゞき)の樂しさを佛のまへに祈るのである。
沖(おき)ノ端(はな)の寫眞を見る人は柳、栴檀、柘榴、櫨などのかげに、而も街の眞中(たゞなか)を人工的水路の、水もひたひたと白く光つては芍藥の根を洗ひ洗濯女の手に波紋を𤲿く夏の眞晝の光景に一種のある異國的情緖の微漾を感ずるであらう。あの水祭はここで催され藍玉(あいだま[やぶちゃん注:ママ。])の俵を載せ、或は葡萄色の酒袋を香(にほひ)の滴るばかり積みかさねた小舟は每日ここを上下する。正面の白壁はわが叔父の新宅であつて、高い酒倉は甍の上部を現はすのみ。かうして、私の母家はこの水の右折して、終に二條の大きな樋に極まり、渦を卷いて鹹川に落ちてゆくその袂から、是に左したるところにある。
今は銀行となつたが、もとはやはり姻戚の阿波の藍玉屋(あいだまや[やぶちゃん注:ママ。])の生鼠壁(なまこかべ)の隣に越太夫といふ義太夫の師匠が何時も氣輕な肩肌ぬぎの婆さんと差向ひで、大きな大きな提燈を張り代へながら、極彩色で牡丹に唐獅子や、櫻のちらしなどをよく描いてゐた藁葺きの小店と、それと相對して同じ樣な生鼠壁の舊家が二つ並んでゐる。何れも魚問屋で右が醬油を造り、左が酒を造つた。その酒屋の、私は Tonka John (大きい坊ちやん、弟と比較していふ、阿蘭陀訛か。)である。して、隣は矢張り祖父時代に岐れた北原の分家で、後には醬油釀造を止した。
南町の私の家を差覗く人は、薊や蒲生英(たんぽぽ)の生えた舊い土藏づくりの朽ちかゝつた屋根の下に、澁い店格子を透いて、銘酒を滿たした五つの朱塗の樽と、同じ色の桝のいくつかに目を留めるであらう。さうしてその上の梁(はり)の一つに、紺色の可憐な燕の雛が懷かしさうに、牡丹いろの頰をちらりと巢の外に見せて、ついついと鳴いてゐる日もあつた。土間は廣く、店全幅(みせいつぱい)の藥種屋式(やくしゆやしき)の硝子戶棚には曇つた山葵色(わさびいろ)の紙が張つて、その中(なか)ほどの柱に阿蘭陀渡の古い掛時計が、まだ精確に、その扉の繪の、眼の靑い、そして胸の白い女の橫顏のうへに、チクタクと秒刻の優しい步みを續けてゐた。その戶棚を開けると綠礬、硝石、甘草、肉桂、薄荷、どくだみの葉、中には賣藥の版木等がしんみりと交錯(こんがら)がつた一種異樣の臭を放つ。それはある漂浪者がこゝに來て食客をしてゐた時分密かに町の人に藥を賣つてゐたのが、逝(な)くなつたので、そのまゝにしてあるといふ、舊い話であらう。
庭には無論朱欒の老木が十月となれば何時も黃色い大きな實をつけた。その後の高い穀倉に秋は日ごとに赤い夕陽を照りつけ、小流を隔てゝ十戶ばかりの並倉に夏の酒は濕つて悲しみ、溫かい春の日のぺんぺん草の上に桶匠(をけなわ[やぶちゃん注:ママ。])は長閑に槌を鳴らし、赤裸々(あかはだか)の酒屋男(さかやおとこ[やぶちゃん注:ママ。])は雪のふる臘月にも酒の仕込(しこ)みに走り回り、さうして街の水路から樋をくぐつて來(く)るかの小(ちい[やぶちゃん注:ママ。])さい流(ながれ)は隱居屋の凉み臺の下を流れ、泉水に分れ注ぎ、酒桶を洗ひ眞白な米を流す水となり、同じ屋敷内の潴水に落ち、ガメノシユブタケ(藻の一種)の毛根を幽かに顫はせ、然(しか)るのち、ちゆうまえんだの菜園を一周回(めぐり)して貧しい六騎(ロクキユ)の厨裏(くりやうら)に濁つた澱みをつくるのであつた。そのちゆうまえんだはもと古い僧院の跡だといふ深い竹藪であつたのを、私の七八歲のころ、父が他から買ひ求めて、竹藪を拓き野菜をつくり、柑子を植ゑ、西洋草花を培養した。それでもなほ晝は赤い鬼百合の咲く畑に夜(よる)は幽靈の生(なま)じろい火が燃えた。
世間ではこの舊家を屋號通りに「油屋」と呼び、或は「古問屋(ふつどいや[やぶちゃん注:ママ。])」と稱(とな)へた。實際私の生家は此六騎街中の一二の家柄であるばかりでなく、酒造家としても最も石數高く、魚類の問屋としては九州地方の老舖として夙(つと)に知られてゐたのである。從て濱に出ると平土、五嶋、薩摩、天草、長崎等の船が無鹽、鹽魚、鯨、南瓜(ボウブラ)、西瓜、たまには鵞烏、七面鳥の類まで積んで來て、絕えず取引してゐたものだつた。さうして魚市場の閑な折々(をりをり)は、血のついた腥くさい甃石(いしだゝみ)の上で、旅興行の手品師が囃子おもしろく、咽喉を眞赤(まつか)に開(あ)けては、激しい夕燒の中で、よく大きな雁首の煙管を管いつぱいに吞んで見せたものである。
私はかういふ雰圍氣の中で何時も可なり贅澤な氣分のもとに所謂油屋の Tonka John として安らかに生ひ立つたのである。
[やぶちゃん注:二箇所の太字「ちゆうまえんだ」は原本では傍点「ヽ」。
「面紗(おもぎぬ)」「めんしや(めんしゃ)」。主に顔を隠すためのベールのこと。
「水祭」「みづまつり」。先に出た沖端水天宮の祭日。
「溫ければ」「ぬくければ」と読んでおく。
「月琴」(げつきん(げっきん))は中国のリュート系の撥弦楽器で、満月のような円形の共鳴胴に短い首、琴杵(ちんがん)を持つ。弦数は時代や国によって異なるが概ね二弦から四弦。弦を親指以外の指先で押さえつけて弾片(ピック)で弦を弾いて音を出す。共鳴孔は無い。演奏時は椅子に座りながら月琴を腿の上に置き、胴を自分の体から少し離して弾く。胴内に不安定な金具が仕込んであり、それを振ったり、叩いて音を鳴らす、鳴り胴と呼ばれる機構を備えたものもある。起源は阮咸琵琶や阮と呼ばれるものであるとされているが、よくわかっていない。日本の明清楽でも使われるが、明楽の「月琴」が棹の長い「阮咸」であるのに対し、清楽の「月琴」は胴の丸い円形胴の月琴であり、両者は全く別の楽器である。明楽は清楽に押されて早くに衰退したこともあり、日本で単に「月琴」と言えば、清楽で使う月琴を指す。参照したウィキの「月琴」によれば、『清楽の月琴は長崎経由で中国から輸入されたが、ほどなく日本国内でも模倣製作され、清楽以外の俗曲の演奏にも用いられるようになった。江戸時代から幕末・明治期にかけて大いに流行し、演歌師や法界屋、更には瞽女等にも演奏された』。『司馬遼太郎の歴史小説』「竜馬がゆく」の『中で、坂本龍馬の妻・お龍』(りょう)『がつま弾く描写がある(現在の知名度の高さはそれによるところが大きい)。しかし日清戦争』(明治二七(一八九四)年七月から翌年にかけて起こった。当時、白秋は満九~十歳)『時に「敵性楽器」とされてからは廃れた』とある。
「物日」(ものび)は祝い事や祭りなどが行われる特別な日を指す。
「天火(てんび)」不詳。篝火のことか。
「霜月親鸞上人の御正忌」「七日七夜の法要」「御仏事(おぶつじ)」のこと。浄土真宗の開祖親鸞聖人の忌日から七昼夜に亙って報恩謝徳のために行う法会を指す。親鸞は弘長二年十一月二十八日(ユリウス暦一二六三年一月九日/グレゴリオ暦換算一二六三年一月十六日相当)没。
「沖(おき)ノ端(はな)の寫眞」本詩集のこちらに挿入されてある。後に出る挿絵類の目次では『鄕里「柳河沖ノ端』と題してある。
「栴檀」ムクロジ目センダン科センダン属センダン Melia azedarach。
「柘榴」フトモモ目ミソハギ科ザクロ属ザクロ Punica granatum。
「櫨」「はじ」。ハゼノキ。既出既注。
「微漾」「びやう(びよう)」。幽かに漂ってくること。
「藍玉(あいだま)」正しくは「あゐだま」。藍(タデ目タデ科イヌタデ属アイ Persicaria tinctoria)の葉を発酵・熟成させた染料である蒅(すくも)を突き固めて固形化したもの。ウィキの「藍玉(染料)」によれば、『藍の葉を収穫して乾燥させた後、蔵の中で寝かせ、これに水を打って良く湿らせながら上下に撹拌し、約』七十五日から九十日間ほど『発酵させたものを再び乾燥させると、無色の物質であるインディカンが酸化されて青色のインディゴへと変化して、その色が濃くなることで黒色の土塊状の物質が出来る。これを蒅(すくも)と呼ぶ。蒅の状態でも染料としては十分使用可能であったが、運搬に不向きであったために後にこれを臼で突き固めて乾燥させて扁円形の小さな塊にすることによって運搬を容易にした。これが藍玉である』とある。
「私の母家はこの水の右折して、終に二條の大きな樋に極まり、渦を卷いて鹹川に落ちてゆくその袂から、是に左したるところにある」この描写から先に出た「鹹川(しほかは)」は固有名詞で、やはりこの中央部分の沖端川に流入する水路のことを指していることが判る。
「その酒屋」グーグルストリートビューで現在の「白秋生家」を正面から見る。
「綠礬」硫酸塩鉱物の一種。古くは外科用軟膏に用いた。
「硝石」同じく硝酸塩鉱物の一種。火薬原料として知られる有毒であるが、漢方では消癥(しょうちょう:体内に出来た腫物を癒す)・通便・解毒の効能があり、腹部膨満・腫瘤・腹痛・便秘・腫物などに用いる。
「肉桂」クスノキ目クスノキ科ニッケイ属ニッケイ Cinnamomum sieboldii。内樹皮を乾燥させた桂皮(けいひ)は漢方生薬の知られた一品。
「桶匠(をけなわ)」桶を作る職人であるが、「なわ」は、動詞「綯(な)ふ」あるいは接尾語「なふ」(名詞・形容詞の語幹などに付いて「その行為をする」の意を表わす動詞を作る)の変化したものと思われるから、「をけなは」が正しいと判断した。
「臘月」陰暦十二月の異名。元来は「臘祭」という中国の習慣で年末に神と祖先の祭祀を一緒に(繋ぎ合わせて)行うというものであったが、別に「臘」は「獵(猟)」に通ずることから猟をして捕えた獣を祭壇に供えたことによる。現行ではその旧年と新年を「繋ぎ合わせる月」の原義と説明されることが多い。
「ガメノシユブタケ(藻の一種)」既出既注の「ウオタアヒヤシンス」=ホテイアオイの異名の一つと思われる。個人ブログ「FLOS, 花, BLUME, FLOWER, 華,FLEUR, FLOR, ЦBETOK, FIORE」の「ホテイアオイ(1/2) スリナム産昆虫変態図譜,前田次郎『草木栽培法』,谷上廣南筆『西洋草花図譜』,学名初出,方言,中国名」に、佐賀県のホテイアオイの異名収集が成されたなかに、『がねんしぶたけ』『がめのしぶたい』『がめのしぶたけ』『がめのしゅぶたけ』『がめのしゅぷたけ』『がめんしふた』『がめんしぶた』『がめんしぶたけ』という異名が出る。
「ちゆうまえんだ」北原家の菜園の固有名詞であるが、語源不詳。
「平土」平戸。
「五嶋」五島。
「無鹽」(ぶえん)で、生(なま)のままで塩漬けしてない新鮮な魚介類を指す。
「南瓜(ボウブラ)」カボチャ(ウリ目ウリ科カボチャ連カボチャ属 Cucurbita)のこと。サイト「旬の食材百科」の「春日ぼうふら/肥後野菜<南瓜の品種」によれば、カボチャは『ポルトガルからカンボジアを経て日本に伝わったとされ、その際、カンボジアから来た野菜と言う事でカンボジアが訛り「カボチャ」と呼ばれるようになったと』も言い、『この「ボウブラ」とは』、『もともとポルトガル語「abobora=アボーボラ」が訛ったものと言われて』おり、『この「abobora」とはウリ科の野菜を意味する言葉だそうで、ポルトガル人によって伝えられた事を意味し』、『今では「かぼちゃ」という呼び方が一般的で』あるが、『今でも九州では「ボウブラ」と呼んだりするとある。ウィキの「カボチャ」にも、『日本語における呼称は、この果菜が国外から渡来したことに関連するものが多』く、『一般にはポルトガル語由来であるとされ、通説として「カンボジア」を意味する Camboja (カンボジャ)の転訛であるとされる』。『方言では「ぼうぶら」「ボーボラ」などの名を用いる地方もあり、これはやはりポルトガル語で、「カボチャ」や「ウリ類」を意味する abóbora (アボボラ)に由来するとされる。ほかに「唐茄子(とうなす)」「南京(なんきん)」などの名もある。 漢字表記「南瓜」は中国語: 南瓜 (ナングァ; nánguā)によるもの』とある。なお、原産地は『南北アメリカ大陸だが』、現行の『主要生産地は中国、インド、ウクライナ、アフリカである』ともある。]
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私の第二の故鄕は肥後の南關[やぶちゃん注:「なんくわん」。]であつた。南關は柳河より東五里、筑後境の物靜かな山中の小市街である。その街の近郊外目(ほかめ)の山あひに恰も小さな城のやうに何時も夕日の反照をうけて、たまたま舊道をゆく人の瞻仰の的となつた天守造りの眞白な三層樓があつた。それが母の生れた家であつて、數代この近鄕の尊敬と素朴な農人の信望とをあつめた石井家の邸宅であつた。
私もまたこの小さな國の老侯のやうに敬はれ、侍(かしづ)かれ、慕はれて、餘生を讀書三昧に耽つた外祖業隆(なりたか)翁の眞白な長髯[やぶちゃん注:「ちやうぜん」。]のなつかしさを忘るる事が出來ぬ。私は土地の習慣上實はこの家で生れて――明治十八年二月二十五日――然る後古めかしい黑塗の駕籠に乘つて、まだ若い母上と柳河に歸つた。
私は生れて極めて虛弱な兒であつた。さうして癇癪の强い、ほんの僅かな外氣に當るか、冷たい指さきに觸(さは)られても、直ぐ四十度近くの高熱を喚び起した程、危險極まる兒であった。石井家では私を柳河の「びいどろ罎」と綽名した位、殆んど壞れ物に觸るやうな心持ちで恐れて誰もえう[やぶちゃん注:ママ。副詞の「よう」。]抱けなかつたさうである。それで彼此[やぶちゃん注:「かれこれ」。]往來するにしても俥からでなしに、わざわざ古めかしい女駕籠(をんなのりもの)を仕立てたほど和蘭の舶來品扱ひにされた。それでもある時なぞは着いてすぐ玄關に舁き据ゑた駕籠の、扉をあけて手から手へ渡されたばかりをもう蒼くなって痙攣けて[やぶちゃん注:「ひきつけて」。]了つたさうである。
三歲の時、私は劇しい窒扶斯(チブス)に罹つた。さうして朱欒(ザボン)の花の白くちるかげから通つてゆく葬列を見て私は初めて乳母の死を知つた。彼女は私の身熱のあまり高かつたため何時(いつ)しか病を傳染(うつ)されて、私の身代りに死んだのである。私の彼女に於ける記憶は別にこれといふものもない。ただ母上のふところから伸びあがつて白い柩を眺めた時その時が初めのまた終りであつた。
次に來た乳母はおいそと云つた。私はよく彼女(かれ)と外目(ほかめ)の母の家に行つては何時(いつ)も長々と滯留した。さうして迎ひの人力車がその銀の輪をキラキラさして遙かの山すその岡の赤い曼珠沙華のかげから寢ころんで見た小さな視界のひとすぢ道を懷しさうに音をたてて軋つて[やぶちゃん注:「きしつて」。]來るまで、私たちは山にゆき谷にゆき、さうしてただ夢の樣に何ものかを探し回てもう馴(なれ)つこになつて珍らしくもない自分たちの瀉くさい海の方へ歸らうとも思はなんだ。
かういふ次第で私は小さい時から山のにほひに親しむことが出來た。私はその山の中で初めて松脂のにほひを嗅ぎ、ゐもりの赤い腹を知つた。さうして玉蟲と斑猫(はんめう)と毒茸と、…………いろいろの草木、昆蟲、禽獸から放散する特殊のかをりを凡て驚異の觸感を以て嗅いで回つた。かかる場合に私の五官はいかに新らしい喜悅に顫へたであらう。それは恰度薄い紗(きれ)に冷たいアルコールを浸して身體の一部を拭いたあとのやうに山の空氣は常に爽やかな幼年時代の官感を刺戟せずには措かなかつた。
南關の春祭はまた六騎(ロクキユ)の街に育つた羅漫的(ロマンチツク)な幼兒をして山に對する好奇心を煽てる[やぶちゃん注:「あふりたてる」と訓じておく。]に充分であつた。私は祭物見の前後に顫へながらどんぐりの實のお池の水に落つる音をきき、それからわかい叔母の乳くびを何となく手で觸つた。
[やぶちゃん注:「外祖業隆」個人サイト「Compassionコラム」の「ホームエッセイ散歩〜知られざるもの〜」の「掌説うためいろ 火宅と清貧白秋の母」によれば、白秋の母シケは、この『熊本県玉名郡南関で酒造業を営む富裕な石井業隆(なりたか)の二女で』、『業隆は郷士の出で、横井小楠を師とした知識人であった。白秋は膨大な書籍を蔵する南関の母の実家で誕生した。隆吉の命名者は業隆である』とある。横井小楠(文化六(一八〇九)年~明治二(一八六九)年)は儒者で元肥後熊本藩士。名は時存(ときあり)。天保一〇(一八三九)年、江戸に遊学、帰藩後は家塾を開き、実学派の中心となった。安政五(一八五八)年、福井藩主松平慶永の藩政顧問となり、藩の富国策を指導、新政府のもと、京都で参与となったが、欧米文化信奉の元凶と誤解されて明治二年一月五日に暗殺された。
「明治十八年二月二十五日」白秋の実際の誕生日は同年一月二十五日であるが、これは戸籍上のもので示しされてある。
「窒扶斯(チブス)」私は乳母(シカという名であった)が看病で感染して死んでいることから見て、これは「腸チフス」であろうと踏む。腸チフスは真正細菌プロテオバクテリア門 Proteobacteri ガンマプロテオバクテリア綱 Gammaproteobacteria エンテロバクター目 Enterobacterales 腸内細菌科サルモネラ属の一種チフス菌 Salmonella enterica var.enterica serovar Typhi によって引き起こされる感染症である。同様に看病で感染して死んだ事例(架空だが)が夏目漱石の「こゝろ」の「先生」の父母である。腸チフスについては、私のそのシークエンスである「『東京朝日新聞』大正3(1914)年6月18日(木曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第五十七回」の私の注の「膓窒扶斯」を参照されたい。]
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さて、柳河の虛弱なびいどろ罎は何時(いつ)のまにか内氣な柔順(おとな)しいさうして癇の蟲のひりひりした兒になつた。私はよく近所の兒どもを集めて、あかい夕日のさし込んだ穀倉のなかで、溫かな苅麥やほぐれた空俵(あきだはら)のかげを二十日鼠のやうに騷(さわ)ぎ回つた。さうしてかくれんぼの息をひそめて、仲のいい女の兒と、とある隅の壁の方に肩を小さくして探(さが)し手を待つてゐる間に、しばしば埋もれた[やぶちゃん注:「うづもれた」。]鶩[やぶちゃん注:「あひる」。]の卵を見つけ出し、さうして棟木のかげからぬるぬると匍ひ下る靑大將のあの凄い皮肉(ひにく)な晝の眼つきを恐れた。
日の中はかうしてうやむやに過ぎてもゆくが、夜が來て酒倉の暗い中から酛(もと)すり歌の擢(かい)[やぶちゃん注:漢字はママ。]の音がしんみりと調子(てうし)をそろへて靜かな空の闇に消えてゆく時分(じぶん)になれば赤い三日月の差し入る幼兒(をさなご)の寢部屋の窓に靑い眼をした生膽取(いきぎもとり)の「時」がくる。
私は「夜」といふものが怖(こは)かつた。何故にこんな明るい晝のあとから「夜」といふ厭な恐ろしいものが見えるか、私は疑つた、さうして乳母の胸に犇(ひし)と抱きついては眼の色も變るまで慄(わなな)いたものだ。眞夜中の時計の音はまた妄想に痺れた、 Tonka John の小さな頭腦に生膽取の血のついた足音を忍びやかに刻みつけながら、時々深い奈落にでも引つ込むやうに、ボーンと時を點(う)つ。
後(のち)には晝の日なかにも蒼白い幽靈を見るやうになつた。黑猫の背なかから臭(にほひ)の强い大麥の穗を眺めながら、前(さき)の世の母を思ひ、まだ見ぬなつかしい何人(なにびと)かを探すやうなあどけない眼つきをした。ある時はまた、現在のわが父母は果してわが眞實の親かといふ恐ろしい疑(うたがひ)に罹(かか)つて酒桶のかげの蒼じろい黴(かび)のうへに素足をつけて、明るい晝の日を寂しい倉のすみに坐つた。その恐ろしい謎(なぞ)を投げたのは氣狂(きちがひ)のおみかの婆である、溫かい五月の苺の花が咲くころ、樂しげに靑い硝子を碎いて、凧の絲の鋭い上にも鋭いやうに瀝靑(チヤン)の製造に餘念もなかつた時、彼女は恐ろしさうに入つて來た、さうして顫へてる私に、Tonka John 汝(おまへ)のお母(つか)さんは眞實(ほんと[やぶちゃん注:ママ。])のお母(つか)さんかの、返事をなさろ、證據があるなら出して見んの――私は靑くなつた、さうして駈けて母のふところに抱きついたものの、また恐ろしくなつて逃げるやうに父のところに行つた。丁度何かで不機嫌だつた父は金庫の把手(とりて)をひねりながら鍵(かぎ)の穴に鍵をキリリと入れて、ヂロツとその兒を振りかへつた、私はわつと泣いた。それからといふものは靑い小鳥の歌でさへ私には恐ろしいある囁(ささやき)きにきこえたのである。
そりばつてん、Tonka John はまた氣まぐれな兒であつた。七月が來て觀音樣の晚になれば、町のわかい娘たちはいつも奇麗な踊り小屋を作(こさ)へて、華やかな引幕をひきその中で投げやりな風俗の浮(うき)々と囀(さへ)づりかはしながら踊つた。それにあの情(じやう)の薄くて我儘な私と三つ違ひの異母姉(ねえ)さんも可哀(かはい)い姿で踊つた。五歲六歲(いつつむつつ)の私もまた引き入れられて、眞白に白粉を塗り、派出(はで)なきものをつけて、何がなしに小さい手をひらいて踊つた。
[やぶちゃん注:太字「びいどろ罎」「ぬるぬる」は底本では傍点「ヽ」。
匍ひ下る靑大將のあの凄い皮肉(ひにく)な晝の眼つきを恐れた。
「酛(もと)すり歌」酒造に於いて、米や米麹を擂り潰して溶かし攪拌して自然界にある乳酸菌を取り込んで乳酸発酵を促す初発の米を擂り潰す作業を「酛すり」や「山卸(やまおろし)」と呼ぶ。その時に歌う労働唄である。
「擢(かい)」「櫂」が正しい。他の作家でもしばしば見られる誤用である。
「瀝靑(チヤン)」天然のアスファルト・タール・ピッチなどの黒色の粘着性のある物質の総称。「チャン」は英語の「chian turpentine」の略などと言われるが、既に江戸時代に似たような性質を持つ「松脂」を「チャン」と呼んでいる(例えば私の「やぶちゃんと行く江戸のトワイライト・ゾーン」の『【第一夜】「うつろ舟の異人の女」~円盤型ヴィークルの中にエイリアンの女性を発見!』の曲亭馬琴編「兎園小説」の原文「うつろ舟の蛮女」を見よ)ことを考えると、寧ろ、この「チャン」は「瀝」の音の一つである「shuāng」(シゥアン)が変化した中国語由来と思う。タールやアスファルトを凧糸に沁み込ませ、さらに厚く仕上げれば、丈夫になるだけでなく、敵の凧の糸を容易に切ることが出来るのである。
「Tonka John 汝(おまへ)のお母(つか)さんは眞實(ほんと[やぶちゃん注:ママ。])のお母(つか)さんかの、返事をなさろ、證據があるなら出して見んの――私は靑くなつた、さうして駈けて母のふところに抱きついたものの、また恐ろしくなつて逃げるやうに父のところに行つた。丁度何かで不機嫌だつた父は金庫の把手(とりて)をひねりながら鍵(かぎ)の穴に鍵をキリリと入れて、ヂロツとその兒を振りかへつた、私はわつと泣いた」このシークエンスは見たことがあるような恐るべきデジャ・ヴュを惹起させるもの凄いものである。タルコフスキイに撮って貰いたかったくらいだ。
「そりばつてん」筑紫方言で「そうだけでども、しかしながら」の意。]
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靜かな晝のお葬式に、あの取澄ました納所坊主の折々ぐわららんと鳴らす鐃鈸(ねうばち)の音を聽いたばかりでも笑ひ轉(ころ)げ、單に佛手柑[やぶちゃん注:「ぶつしゆかん」。]の實が酸(す)ゆかつたといつては世の中をつくづく果敢(はか)なむだ頃の Tonka John の心は今思ふても罪のない鷹揚なものであつた。さうしてその恐ろしく我儘な氣分のなかにも既にしをらしい初戀の芽は萠えてゐた。
美くしい小さな Gonshan. 忘れもせぬ七歲の日の水祭(みづまつり)に初めてその兒を見てからといふものは私の羞恥に滿ちた幼い心臟は紅玉入の小さな時計でも懷中に匿してゐるやうに何時となく幽かに顫へ初めた。
私はある夕かた、六騎の貧しい子供らの群に交つて喇叭を鳴らし、腐れた野菜と胡蘿葡[やぶちゃん注:「こらふ」。人参(にんじん)の漢名。]の汚(よ)ごれた溝(どぶ)どろのそばに、粗末な蓆の小屋をかけて、柔かな羽蟲の纏(もつ)れを哀しみながら、ただひとり金紙に緋縅[やぶちゃん注:「ひおどし」。]の鎧をつけ、鍬形のついた甲[やぶちゃん注:「かぶと」。]を戴き、木太刀を佩いて生眞面目(きまじめ)に芝居の身振をしてみたことがあつた。さうして魚(さかな)くさい見物のなかに蠶豆[やぶちゃん注:「そらまめ」。]の靑い液(しる)に小さな指さきを染めて、罪もなくその葉を鳴らしながら、ぱつちりと黑い眸(め)を見ひらいて立つてゐたその兒をちらと私の見出した時に、ただくわつと逆上(のぼせ)て云ふべき臺辭(せりふ)も忘れ、極(きま)り惡(わ)るさに俯向(うつむ)いて了つた――その前を六騎の汚(きた)ない子供らが鼻汁(はな)を垂らし、黑坊(くろんぼ)のやうな赭(あか)つちやけた裸で、不審(ふしん)さうに彼らが小さな主人公の顏を見かへりながら、張合もなく何時までも飜筋斗(とんぼがへり)をしてゐた事を思ひ出す。
ある日はまた穀倉の暗い二階の隅に幕を張り薄靑い幻燈の雪を映しては、長持のなかに藏(しま)つてある祭の山車(だし)の、金(きん)の薄い垂尾(たりを)をいくつとなく下げた、鳳凰の羽(はね)の、あるかなき幽かな囁きにも耳かたむけた。
かうした間にも夏の休暇には必ず山をたづねた。さうして柳河の Tonka John はまたその一鄕の罪もない小君主であつた。路に逢ふほどの農人はみな丁寧にその靑い頰かむりを解(と)いて會釋した、私はまた何事もわが意の儘に左右[やぶちゃん注:「さう」。]し得るものと信じた。而して自分ひとりが特別に天の恩寵に預つてるやうな勝ち誇つた心になつてたゞ我儘に跳ね回つた。
黑馬(あを)にもよく乘つた、玉蟲もよく捕へては針で殺した、蟻の穴を獨樂の心棒でほぢくり回し、石油をかけ、時には憎いもののやうに毛蟲を踏みにじつた。女の子の唇にも毒々しい蝶の粉をなすりつけた。然しながら私は矢張りひとりぼつちだつた。ひとりぼつちで、靜かに蠶室[やぶちゃん注:「さんしつ」。]の桑の葉のあひだに坐つて、幽かな音をたてては食み盡くす蠶の眼のふちの無智な薄褐色(かばいろ)[やぶちゃん注:「褐色」二字のみへのルビ。]の慄(わなな)きを凝(ぢつ)と眺めながら子供ごころにも寂しい人生の何ものにか觸れえたやうな氣がした。
夜になれば一番年のわかい熊本英學校出の叔父がゆめのやうなその天守の欄干(てすり)に出てよく笛を吹いた。さうして彼方此方(あちらこちら)の秣(まぐさ)や凋れた南瓜の花のかげから山の兒どもが栗毛の汗のついた指で、しんみりと手づくりの笛を吹きはじめる。さうして何時も谷を隔てた圓い丘の上に、また圓(まんま)るな明るい月が夕照(ゆふやけ)の赤く殘つた空を恰度(てうど[やぶちゃん注:ママ。])花札の二十坊主のやうにのぼつたものである。
かういふ時、私は晝の「催眠術」の代償として─―この快活な叔父が曾て催眠術の新書を手に入れた事があつた。それからといふものは無理に私を蠶室の暗い一室に連れ込んで怪しい眼付やをかしな手眞似を爲はじめた、私は決して眠らなかつた。始めはよく轉げて笑つたものの、後にはあまりに叔父の生眞面目(きまじめ)なのに恐ろしくなつて幾度か逃げやうとした。顫へてゐる私の眼の前には白い蛾の粉(こな)のついた大きな掌(てのひら)と十本の指の間から凝(ぢつ)と睨んでゐる黑い眼、………蠶の卵の彈(はぢ)く音、繭を食ひ切る音、はづんだ生殖の顫(ふる)へ、凡てが恐怖(おそれ)に蒼くなつた私の耳に小さな剃刀を入れるやうに絕間なく泌み込んで來る。私は何時も最後には泣き出したのである。――そのパノラマのやうな夜景のなかで、亞拉比亞夜話(アラビアンナイト)の曾邊伊傳(ソベイデ)の譚(はなし)や、西洋奇談の魔法使ひや、驢馬に化(な)された西藏[やぶちゃん注:「チベツト」。]王子の話を聞かして貰つて、さうして緣(ふち)の紅い黑表紙の讃美歌集をまさぐりながらそのまま奇異(ふしぎ)な眠に落ちるのが常であつた。
[やぶちゃん注:「納所坊主」「なつしよばうず(なっしょぼうず)」。寺の会計・庶務を取り扱う下級の僧。特に禅寺でのそうした僧を指す場合が多い。
「鐃鈸(ねうばち)」現代仮名遣「にょうばち」。濁音化せずに「ねうはち(にょうはち)」とも。禅宗の法会ではお馴染みの仏具である。「曹洞宗近畿管区教化センター」公式サイト内の「鐃鈸」より引く(現物の写真有り)。『鐃鈸は、西洋楽器のシンバルに似ているが、音はそれよりも素朴で太い。紐を指の間に挟んで持ち、上下に擦り合わせるようにして音を出す。力まかせに打ち鳴らしても美しい音は出ない。特に音の余韻を生じさせるために、双方を微妙に触れ合うようにするが、ある程度熟練しないとうまく奏でることができない』。『また、上部の端をカチカチと軽く触れ合わせる鳴らし方もある』。『曹洞宗では、施食会などの特別な法要や葬儀で使用する。手鏧(しゅけい)(引鏧(いんきん))・太鼓とセットで鳴らすことが多く、これを「鼓鈸(鉢)(くはつ)」という。俗に「チン・ポン・ジャラン」などと表現される』。『仏さまの徳を讃えたり、諸仏書菩薩をお迎えするため、また亡き人の成仏のために鳴らされる』。『中央がドーム状に突起した円盤形の法楽器』で、『主に銅製』。『両手に持って打ち合わせて音を出す』もので、『妙鉢(みょうはち)・鈸(はつ)ということもある』。とある。そ「の音を聽いたばかりでも笑ひ轉(ころ)げ」た白秋の気持ちは実はよく判る。私は祖母の葬儀(臨済宗円覚寺)でこのとんでもない鐃鈸の音を聴いた時、既に二十六で教員だったが、思わず、吹き出しそうになったからである。
「佛手柑」ムクロジ目ミカン科ミカン属シトロン変種ブッシュカン Citrus medica var. sarcodactylis。但し、ここで彼は「實が酸(す)ゆかった」と記しているから、果肉の少ないブッシュカンではなく、変種でない、もとの被子植物門双子葉植物綱ムクロジ目ミカン科ミカン属シトロン Citrus medica で、和名「丸仏手柑(マルブシュカン)」のことを指しているのではないかと思う。ウィキの「シトロン」によれば、『漢名は枸櫞(くえん)。レモン』(ミカン属レモン Citrus limon)『と類縁関係にある』。『原産はインド東部、ガンジス川上流の高地。しかし紀元前にはすでにローマや中国に伝来していた。またアメリカ大陸にはコロンブスによる到達以降に伝わった。日本では「本草図譜」(』文政一一(一八二八)年成立『)に記載されているので、江戸時代以前に伝わっていたと思われる』。『枝にはとげが多い。葉は淡黄緑色、細長い楕円形で縁に細かいぎざぎざ(鋸歯)がある。新芽や花は淡紫色を帯びている品種が多く、花弁は細長い』。『熟した果実の表面は黄色く、形状は品種により様々だが、一般に紡錘形で重さは』百五十~二百グラムで、『頂部に乳頭が発達している。果皮はやわらかいが分厚く、果肉が少なく、果汁も少ない。また』、『果肉がかなりすっぱい品種とそうでない品種がある』。『ユダヤ教では一部の品種の果実をエトログ』『と呼び、「仮庵の祭り」で新年初めての降雨を祈願する儀式に用いる四種の植物の』一『つとする』。現代『フランス語でシトロン(Citron)と言った場合は』、『本種ではなく』、『レモンを指す。現在のフランス語でシトロンを示す場合はセドラ(Cédrat)と呼ぶ』とある。
「花札の二十坊主」は坊主の頭みたように見える『山(芒)に月』の札を指し、それが「二十点」札となるそうである。
「亞拉比亞夜話(アラビアンナイト)の曾邊伊傳(ソベイデ)の譚(はなし)」「千夜一夜物語」の「荷かつぎ人足と乙女たちとの物語」の「第一の乙女ゾバイダの話」のことか。ウィキのこちらの粗筋を読まれたい。
「驢馬に化(な)された西藏王子の話」不詳。グリムにならロバになった王子の話はある。チベットの民話で犬になった王子が麦を手に入れる話はあるらしい。]
7
私はその當時まだあの蒼い海といふものを曾て見たことがなかつた。海といふものに就ての私の第一の印象は私を抱いて船から上陸した人の眞白(まつしろ)な蝙蝠傘(かうもりがさ)の輝きであつた。それは夏の眞晝だつたかも知れぬ、痛(いた)いほど眼(め)に泌んだ[やぶちゃん注:「しんだ」。]白色はその後未だに忘れることが出來(でき)なかつた。それが何時(いつ)だつたか、それからどうしたか、さつぱり私には記憶がない。それが不圖(ふと)したことからある近親(みより)の人の眼を患つて肥前小濱(をばま)の湯治場(たうぢば)に滯留してゐた頃、母と乳母とあかんぼと遙(はる)ばる船から海を渡つて見舞に行つた當時の出來事だといふことがわかつた。その話から、不思議(ふしぎ)に Tonka John の記憶にもまだ殘つてゐたことを聞いた時のその人の驚きはをかしいほどであつた。何故ならばその當時私はまだほんの乳(ち)のみ兒で當歲か、やつと二歲(ふたつ)かであつたのである。次で乳母の背(せ)なかから見た海は濁(にご)つた黃いろい象(ざう)の皮膚のやうなものだつた。さうして潮の引いたあとの潟(がた)の色の恐ろしいまで滑らかな傾斜はかの大空の反射をうけた群靑の光澤とともに、如何に私の神經を脅かしたか、瀉といふものを見たことのない人には到底不可解のものであらう。この詩集には載せなかつたが、矢張り「思ひ出」の中に私はその時の恐怖を歌つたものがある。
海を見てはじめおそれぬ。
そは何時か、乳母の背に寢て、
色靑き鯨の髯を賣るといふ老舖見ごと。
それから年を經て、私はその瀉(がた)のなかに「ムツゴロ」といふ奇異(ふしぎ)な魚の棲息してゐることを知つた。そうしてその山椒魚(さんしよのうを)に似た怪(あや)しい皮膚の、小さなゐもり狀の一群を恐ろしいもののやうに、覗きに行つた。後には吹矢(ふきや)のさきを二つに割(さ)いて、その眼や頭(あたま)を狙つて殺して步(ある)いたこともある。瀉にはまた「ワラスボ」といふ鰻に似て肌の生赤い斑點(ぶち)のある、ぬるぬるとした靜脉色[やぶちゃん注:「じやうみやくいろ」。]の魚もゐた。魚といふよりも寧ろ蛇類の癩病にかかつた姿である。「メクワジヤ」と稱する貝は靑くて病的な香を發する下等動物である。それを多食する吝嗇(けちんぼ)の女房はよく眼を病んで堀端(ほりばた)で鍋を洗つてゐた。「アゲマキ」といふ貝は潚洒[やぶちゃん注:「せうしや」。]な薄黃色の殼(から)のなかに、やはり薄黃色の帽子をつけた片跛(かたちんば)の人間そのままの姿をして滑稽にもセピア色の褌[やぶちゃん注:「ふんどし」。]をしめた小いさな而して美味な生物である。その貝を捕る女は半切(はんぎり)を片手に引き寄せながら板子を滑らしては面白ろさうに走つてゆく。恰度、夏の入日があかあかと反射する時、私達の手から殘酷に投げ棄てられた黑猫が黑猫の眼が、ぬるぬると滑り込みながら、もがけばもがくほど粘々(ねばねば)した瀉の吸盤に吸ひ込まれて、苦しまぎれに斷末魔の爪を搔きちらした一種異樣の恐ろしい點彩𤲿の上を、女はまた輕るく走りながらその板を滑らせては光澤(つや)つやと平準(なら)してゆく。さうして汐の靜かにさしてくる日沒後の傾斜面は沈着(おちつ)いた紫色の光を帶びて幽かに夕づつのかげを浮べる。かうした瀉の不可思議は私らの幼年時代に取つては實に怪しくも美くしい何かしら深い秘密を秘めた恐怖と光の魔宮であつた。
それは兎もあれ、十六の初旅に小蒸汽や赤い商船のかげに見た門司の海の凄いほど透きわたつた濃藍色はどんなに私をして新しい西洋の香に噎ばしめたであらう[やぶちゃん注:「むせばしめたであらう」。]。さうしてその翌年長崎旅行の途次汽車の窓から見た大村灣の風光は實にかの繪にのみ見た廣重の海の靑さであつた。
[やぶちゃん注:「肥前小濱(をばま)の湯治場(たうぢば)」現在の長崎県雲仙市小浜町を中心とした小浜温泉(グーグル・マップ・データ)。
「ムツゴロ」スズキ目ハゼ亜目ハゼ科オキスデルシス亜科ムツゴロウ属ムツゴロウ Boleophthalmus pectinirostris。「日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十七章 南方の旅 熊本城の謎の洞窟 / ムツゴロウ実見 / ミドリシャミセンガイを試食す / 高橋の大凧」の私の注を参照。
「ワラスボ」スズキ目ハゼ亜目ハゼ科ワラスボ亜科ワラスボ属ワラスボ Odontamblyopus lacepedii。ウィキの「ワラスボ」を引く。『成魚は全長』四〇『センチメートルに達し、オスの方が大きい。体形はウナギのように細長く、背鰭・尾鰭・尻鰭も繋がる。体色は青みがかっており、青灰色や赤紫色にも見える。目が退化していて、頭部にごく小さな点として確認できるのみである。上向きに開いた大きな口には牙が並び、独特の風貌をしているが、噛まれてもあまり痛くはない。鱗も退化していて、体の前半部に円形・後半に楕円形の鱗が散在する。これらの外見が海外映画『エイリアン』シリーズに登場する宇宙生物の頭部に似ていることから、メディアで採り上げられる際はしばしば「エイリアンのような魚」と比喩され、地元に漁場がある佐賀市もそう宣伝するようになった』。『ハゼ科の魚ではあるが、腹鰭が吸盤になっていること以外はハゼに見えないような外見をしている。和名「ワラスボ」は、稲藁を束ねて作る筒の様な形に似るための名称と考えられる。チワラスボ Taenioides cirratus に似ているが、チワラスボは下顎に』三『対の短いひげがある点で区別する』。『日本、朝鮮半島、台湾、中国に分布し、日本では有明海奥部の軟泥干潟のみに生息する。八代海の前島でも見つかったことがあるが、記録地は生息に適した軟泥干潟ではなかったため』、『偶発的な記録と考えられる。ムツゴロウやハゼクチなどと同じく、中国大陸と九州が陸続きだった頃に有明海へ定着した大陸系遺存種と考えられている』。『干潟の泥中に巣穴を掘って住み、潮が満ちると海中に泳ぎだす。食性は肉食性で、小魚や貝類、甲殻類、多毛類など小動物を幅広く捕食する』。『産卵期は夏』。『仔魚は一般的な魚のように大きな丸い目と水平に開いた口を持つが、成長するにつれ』、『目が退化し、口が上向きになり、牙が発達する』とある。
「メクワジヤ」「女冠者」である。ここでは冠輪動物上門腕足動物門 Brachiopoda に属する、二枚の殻を持つ(但し、貝類ではない。同種の殻は前後であって、斧足類のように左右ではないのである)海産の原始的な底生無脊椎動物である、腕足綱無関節亜綱舌殻(シャミセンガイ/リンギュラ)目シャミセンガイ科シャミセンガイ属ミドリシャミセンガイ Lingula anatina を指している。私の「大和本草卷之十四 水蟲 介類 メクハジヤ」や、『HP「鬼火」開設8周年記念 日本その日その日 E.S.モース 石川欣一訳 始動』の私の「腕足類」の注を読まれたい。モースはもともとこの腕足類の専門家であった。
「アゲマキ」斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ目ナタマメガイ科アゲマキガイ Sinonovacula constricta。形状が大まかには異歯亜綱 incertae 目マテガイ上科マテガイ科マテガイ Solen strictus に似てはいるが、全くの寸詰りで、素人でも全くの別種(目レベルで異なる)と分かる。本邦では有明海と瀬戸内海の一部のみに分布するも、絶滅の危機に曝されている。私の『「栗氏千蟲譜」巻九 栗本丹洲』に優れた博物画でしるされてあり、また、私の「大和本草卷之十四 水蟲 介類 蟶(マテ)」も参照されたい(後者の貝原益軒は福岡藩士であった)。
「潚洒」現行では諸本が「瀟洒」(しょうしゃ)に書き変えて平然としているが、これは誤字ではない。この字も使用出来るのである。「こういうことが知らぬうちに行われているから、世間は油断がならないのです」。
「半切(はんぎり)」「半切桶」(はんぎりおけ)の略。多種多様の用途持った平たい桶(一般の桶を半分に切った浅さの意)を指す。
「板子」九州の有明海などで、まさにムツゴロウやワラスボなどの漁に使う道具。長さ二メートル前後で幅三〇センチメートル前後の板。上に乗って足で蹴り、干潟を移動する。「す板」「押し板」「はね板」などと呼ばれるが、近年は専ら「潟(がた)スキー」の呼び名が一般化してしまった。
「點彩𤲿」点描画。
「廣重」言わずもがな、「東海道五十三次」の青や藍の美しい海で知られる歌川広重(寛政九(一七九七)年~安政五(一八五八)年:本姓は安藤)。]
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蛇目傘を肩にしてキツとなった定九郞の靑い眼つきや、赤い毛布のかげを立つてゆく芝居の死人などに一種の奇妙な恐怖を懷いた三四歲の頃から私の異國趣味乃至異常な氣分に憧がるる心は蕨[やぶちゃん注:「わらび」。]の花のやうに特殊な縮(ちぢ)れ方をした。
かういふ最初の記憶はウオタアヒアシンスの花の仄かに咲いた瀦水(たまりみづ)の傍(そば)をふらつきながら、從姉(いとこ)とその背(せな)に負はれてゐた私と、つい見惚(みと)れて一緖に陷(はま)つた―─その生命(いのち)の瀨戶際に瓢然と現はれて救ひ上げて吳れた眞黑な坊さんが不思議にも幼兒にある忘れがたい印象を殘した。
日が蝕(むしく)ひ、黃色い陰欝の光のもとにまだ見も知らぬ寂しい鳥がほろほろと鳴き、曼珠沙華のかげを鼬(いたち)が急忙(あわただ)しく橫ぎるあとから、あの恐ろしい生膽取は忍んで來る。薄あかりのなかに凝視(みつ)むる小さな銀側時計の怪しい數字に苦蓬(にがよもぎ)の香(にほひ)泌みわたり、右に持つた薄手(うすで)の和蘭皿にはまだ眞赤(まつか)な幼兒の生膽がヒクヒクと息をつく。水門の上に蒼白い月がのぼり、栴檀の葉につやつやと露がたまれば膽(きも)のわななきもはたと靜止して足もとにはちんちろりんが鳴きはじめる。日が暮れるとこの妄想の恐怖(おそれ)は何時(いつ)も小さな幼兒の胸に鋭利な鋏の尖端(さき)を突きつけた。
ある夜はわれとわが靈(たましひ)の姿にも驚かされたことがある。外(そと)には三味線の音じめも投げやりに、町の娘たちは觀音さまの紅い提燈に結ひたての髮を匂はしながら華やかに肩肌脫ぎの一列になつてあの淫らな活惚(かつぽれ)を踊つてゐた。取り亂した化粧部屋にはただひとり三歲四歲の私が匍(は)ひ廻(まは)りながら何ものかを探すやうにいらいらと氣を焦(あせ)つてゐた。ある拍子に、ふと薄暗い鏡の中に私は私の思ひがけない姿に衝突(ぶつつ)かつたのである。鏡に映つた兒どもの、面(つら)には凄いほど眞白(まつしろ)に白粉(おしろひ)を塗(ぬ)つてあつた、睫(まつげ)のみ黑くパツチリと開(ひら)いた兩(ふたつ)の眼の底から恐怖(おそれ)に竦(すく)んだ瞳が生眞面目(きまじめ)に震慄(わなな)いてゐた、さうして見よ、背後(うしろ)から尾をあげ背(せ)を高めた黑猫がただぢつと金(きん)の眼を光らしてゐたではないか。私は悸然(ぎよつ)として泣いた。
私の異國趣味は稚い時既にわが手の中に操(あやつ)られた。菱形の西洋凧を飛ばし、朱色(しゆいろ)の面(めん)(朱色人面の凧、Tonka John の持つてゐたのは直徑一間半[やぶちゃん注:二メートル七十八センチメートル弱。]ほどあつた。)を裸の酒屋男七八人に揚げさせ、瀝靑を作り、幻燈を映し、さうして和蘭訛の小歌を歌つた。
私はまたいろいろの小さなびいどろ罎に薄荷や肉桂水を入れて吸つて步(あ)るいた。また濃(こい[やぶちゃん注:ママ。])い液は白紙に垂らし、柔かに揉んで濕(しめ)した上その端々(はしばし)を小さく引き裂いては唇にあてた。さうして私の行くところにはたよりない幼兒の淚をそそるやうに、强い强い肉桂の香が何時(いつ)でも付き纒ふて離れなかつた。
うつし繪の面(おもて)に濕(しめ)つた仄かな油のにほひはまた新しい七歲の夏を印象せしめる。私はよく汗のついた手首に、その繪の女王や昆虫[やぶちゃん注:ママ。]の彩色を痒(かゆ)いほど押しては貼り、剝(はが)してはそつと貼りつけて、水路の小舟に伊蘇普物語[やぶちゃん注:「いそほものがたり」。]の奇(あや)しい頁を飜へした。
無邪氣な惡戯(いたづら)の末、片意地に芝居見を强請(せが)んだ末、弟を泣かした末、私は終日土藏の中に押し込(こ)められて泣き叫んだ。その窓(まど)の下には露草(つゆくさ)の仄かな花が咲いてゐた。哀れな小さい囚人はかうして泣き疲(つか)れたあと、何時(いつ)もその潤んだ眶[やぶちゃん注:「まぶち」。目蓋(まぶた)。]に幽かな燐のにほひの泌み入る薄暗い空氣の氣はひを感じた。そこには舊い昔難波[やぶちゃん注:ママ。「難破」。]した商船から拾ひ上げた阿蘭陀附木(おらんだつけぎ)(マツチのこと[やぶちゃん注:句点なし。]柳河語)の大きな凾[やぶちゃん注:「はこ」。]が濕(しめ)りに濕つたまま投げ出されてあつた。私はそのひとつを淚に濡れた手で拾ひ取り、さうしてその黃色なエチケツトの帆船航海の圖に怪しい哀れさを感じながら、その一本を拔いては懷(なつ)かしさうに擦(す)つて見た。無論點火する氣づかひはない。氣づかひはないが、ただ何時までも何時までも同じやうにただ擦(す)つてゐたかつたのである。麹室[やぶちゃん注:「かうぢむろ」。]のなかによく弄んだ骨牌[やぶちゃん注:「かるた」。]の女王のなつかしさはいふまでもない。
Tonka John の部屋にはまた生れた以前から舊い油繪の大額が煤けきつたまま土藏づくりの鐵格子窓から薄い光線を受けて、柔かにものの吐息のなかに沈默してゐた、その繪は白いホテルや、潚洒な外輪船の駛しつて[やぶちゃん注:「はしつて」。]ゐる異國の港の風景で、赤い斷層面のかげをゆく和蘭人[やぶちゃん注:「おらんだじん」と読んでおく。]の一人が新らしいキヤべツ畑の垣根に腰をかがめて放尿してゐるおつとりとした懷かしい風俗を𤲿いたものであつた。私はそのかげで每夜美くしい姉上や肥滿つた[やぶちゃん注:「ふとつた」。]氣の輕るい乳母と一緖に眠るのが常であつた。
頑固で、何時もむつつりした、舊い家から滅多に外へも出た事はなく、流行唄[やぶちゃん注:「はやりうた」。]のひとつすら唄へなかつた私の父にも矢張り氣まぐれな道樂はあつた。あの陰氣な稻荷の巫女(みこ)や、天狗使ひや、(A+B)2………などの方程式で怪しい占ひをした漂浪者や、護摩(ごま)を焚く琵琶法師やを滯留さしては、いろいろな不思議を信じた行爲の閑暇(ひま)にはまた七面鳥を朱欒(ザボン)のかげに放ち、二三百の白い鉢に牡丹を開かせ、鷄を飼ひ、薔薇を植ゑる事を忘れなかつた。さうして樣々に飽きはてては年每にその對手を替へた。鷄を鶩[やぶちゃん注:「あひる」。]に替え、朝顏のために前の薔薇を根こそぎ棄てて了つた。さうして遂にはちゆうまえんだに豚小屋まで設けたほど、凡てが投げやりであつた。
私はまた五島平土[やぶちゃん注:「平戶」に同じい。]の船頭衆から長崎や島原の歌も聞いた。年の師走には市が立つてそれらの珍客を載せた大船はいつも四十艘五十艘と港入りした。酒造(さけつくり)のほかに何の物音もしなかった沖ノ端の街は急に色めき渡つて再び戰(いくさ)のやうな「古問屋(ふつどひや)の師走業(しはすご[やぶちゃん注:ママ。])」がはじまる。さうしてこの家の舊い習慣として、その前後に催さるる入船出船の酒盛(さかもり)には長崎の紅い三尺手拭を鉢卷にして、琉球節を唄ふ放恣にして素朴な船頭衆のなかに、柳河のしをらしい藝妓や舞子が頑(かた)くなな主人の心まで浮々するやうに三味線を彈き、太鼓を敲(たた)いた。その小さい舞子のなかの美くしい一人を Tonka John はまた何となく愛(いと)しいものに思つた。
[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。
「定九郞」(さだくらう)は浄瑠璃「仮名手本忠臣藏」五段目に登場する人物で、百姓与市兵衛を殺して金を奪う放蕩無頼の武士で、実は元は塩冶の家老斧九太夫嫡男の大野群右衛門。六段目で、勘平に猪と間違えて撃ち殺されて惨めに死ぬ。
「赤い毛布のかげを立つてゆく芝居の死人」不詳。識者の御教授を乞う。
「蕨の花のやうに特殊な縮(ちぢ)れ方をした」ワラビはシダ植物門 Pteridophyta(シダ綱シダ目コバノイシカグマ科ワラビ属ワラビ Pteridium aquilinum)で花は咲かない。春に出る新芽が成長し始めた際の、全体に黄緑色を呈してやや硬いそれを指して言っているのであろう。
「苦蓬(にがよもぎ)」標準和名ではキク亜綱キク目キク科キク亜科ヨモギ属ニガヨモギ Artemisia absinthiu を指すが、ここは寧ろ、「ヨハネの黙示録」第八章第十節で第三の御使いが、ラッパを吹き鳴らし、松明のように燃えている大きな星が空から落ち、川の三分の一とその水源との上に落ちて水を苦くさせ、人々が死んだ、この星の名を「苦よもぎ」と言うというそれを意識したものであろう。
「ちんちろりん」一般にはバッタ目キリギリス亜目コオロギ科 Xenogryllus 属マツムシ Xenogryllus marmoratus の鳴き音のオノマトペイアとする。
「活惚(かつぽれ)」門付の大道演芸に発祥する踊り。文化文政年間 (一八〇四年~一八三〇年) に願人(がんにん)坊主が、白の行衣(ぎょうえ)・墨染の腰衣(こしごろも)・浅黄(あさぎ)の投頭巾(なげづきん)・赤緒草履の姿で花傘万灯を持ち、「やあ、とこせ」と歌っては江戸市中を踊り歩いたのに始まる。また、大阪の住吉大社の御田植神事に行われる「住吉踊り」の流れを受けるともされる。明治初期に三味線伴奏により「かっぽれ踊り」と称して浅草に常設小屋を設けて興行し、寄席芸となった。
「ある拍子に、ふと薄暗い鏡の中に私は私の思ひがけない姿に衝突(ぶつつ)かつたのである。鏡に映つた兒どもの、面(つら)には凄いほど眞白(まつしろ)に白粉(おしろひ)を塗(ぬ)つてあつた、睫(まつげ)のみ黑くパツチリと開(ひら)いた兩(ふたつ)の眼の底から恐怖(おそれ)に竦(すく)んだ瞳が生眞面目(きまじめ)に震慄(わなな)いてゐた、さうして見よ、背後(うしろ)から尾をあげ背(せ)を高めた黑猫がただぢつと金(きん)の眼を光らしてゐたではないか。私は悸然(ぎよつ)として泣いた」この映像も凄絶である。幼少の童子であるだけに、無声のそれに慄然とする。
「菱形の西洋凧」所謂「カイト」(kite)で南蛮文化としてかなり早くから移入されていた。
「朱色人面の凧」天狗を描いたそれは見たことがある。天狗は南蛮人の恰好の代替象徴であった。
「和蘭訛」「オランダなまり」。白秋の造語するように、一見、外来語っぽい似非単語を洒落たものであろう。
「肉桂水」所謂、シナモンを効かせた「ニッキ水」のこと。
「うつし繪」単にステロタイプに写生した絵のこと。
「伊蘇普物語」「イソップ物語」。古くは宣教師ハビアン訳で文禄二(一五九三)年に天草で出版され「天草本伊曽保物語」と呼ばれ、後にそれを参考にした仮名草子で寛永一六(一六三九)年刊記の古活字版や、万治二(一六五九)年板行の絵入り整版本などがあるが、ここは、それらの亜流本であろう。
「エチケツト」不詳。箱に書かれた商標意匠のようには思われる。
「(A+B)2………などの方程式で怪しい占ひをした漂浪者」因数分解占いとはなかなか面白いね。
「琉球節」この名は明治三〇(一八九七)年頃の流行歌の一つにあり、鹿児島から琉球に輸入された二上がり調子(三味線の調弦法の一つで、本調子を基準にして第二弦を一全音(長二度)高くしたもの。はでで陽気な気分や田舎風を表す)のものであるが、その頃は白秋は満十二歲ほどになってしまう。但し、或いは、それよりずっと早くに、この柳河辺りにはそれが南からの商用船の水子によって齎されていたとしてもおかしくはない。]
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舌出人形の赤い舌を引き拔き、黑い揚羽蝶(あげは)の翅(はね)をむしりちらした心はまたリイダアの版𤲿の新らしい手觸(てざはり)を知るやうになつた。而してただ九歲以後のさだかならぬ性慾の對象として新奇な書籍――ことに西洋奇談――ほど Tonka John の幼い心を搔き亂したものは無かつた。「埋れ木」のゲザがボオドレエルの「惡の華」をまさぐりながら解らぬながらもあの怪しい幻想の匂ひに憧がれたといふ同じ幼年の思ひ出のなつかしさよ。
外目(ほかめ)の祖父は雪の日の爐邊に可哀いい沖ノ端の孫を引きよせながら懷かしさうに佛蘭西式調練の小太鼓の囃子を歌つて聽かす外にはまだ稺い[やぶちゃん注:「をさない」。]子供に何らの讀書の權能をも認めて吳れなかつた。當時民友社ものを耽讀してゐた若い叔父はただ「夢想兵衞胡蝶物語」一册しか自由に讀まして吳れぬ。祖父の書架を飾つた古い蘭書の黑皮表紙や廣重や北齋乃至草艸紙[やぶちゃん注:「くさざうし」。]の見かへしの澁い手觸り、黃表紙、雨月物語、その他樣々の稗史、物語、探偵奇談、佛蘭西革命小說、經國美談、三國志、西遊記等の珍書は羅曼的な兒童の燃えたつ憧憬の情を嗾かして[やぶちゃん注:「けしかして」。けしかけて。]遂にはかの嚴格なる禁斷を犯かさしむるに到つた。
私はよく葡萄棚の下に綠いろの日の光を浴びながら新らしい紙の匂ひに親しみ、赤い柿の實の反射にぼやけた草艸紙の平假名を拾つては百舌の啼く音をきき耽つた。私は本のひとつひとつの匂ひや色や手觸の異なる每にそれぞれ特殊なある感覺の悲しみを嗅ぎわけた。私は梨の木に上つて果實の甘い液にナイフの刄(は)をつける時も、ゐもりの赤い腹を恐れて芝くさのほめきに身をひたす時も、赤(あか)ん谷の婆(母の乳母で髮の白いなつかしい老婆だつた)のところに山桃(やんもも[やぶちゃん注:ママ。])採りにゆく時にも、絕えず何らかの稗史を手にしないことは無かつた。私はたゞ感動し、昂奮し、あらゆる稚い空想に耽つた。
ある日の午後圓い玉葱の花に黃色い日光が照りつけて、晝の蟲が幽かにパツチパツチと鳴いてゐる時、私はその上の丘の芝生に寢ころびながら初めて自分の身體から泌み出る强い汗の臭を知つた。さうして軟風のいらいらと葱の臭を吹きおくるたびに私はある異常な靈の壓迫を感じた。かういふ日が續いて私は遂に激しい本能の衝動に驅られた。さうしてその日から非常に晝の太陽を恐るるやうになつた。
愈[やぶちゃん注:「いよいよ」。]「春の覺醒(めざめ)」の時代が來た。さうして赤い靑い書籍の手觸りに全官感を慄かしてゐた[やぶちゃん注:「おののかしてゐた」。]私はまたその以外の新しい世界を發見し得た恐怖(おそれ)と喜びに身も靈も顫はしながら燃えたつ瞳に凡てのものを美くしく苦るしく[やぶちゃん注:ママ。]さうして哀しく、寂しく感じ得るやうになつた。さはいへ、私もまた喜怒哀樂の情の激しい一面に極めて武士的な正義と信實とを尊ぶ淸らかな母の手に育てられて、一時は强ひて山羊の血の交つた怯儒な心に酒を恐れ煙草を惡み、單に懷中鏡を持てゐたといふ丈けで友人とも絕交しかけたほど僞善的な十四の春を迎へた。さうして何時までも女を恐れた。淫らな水鄕に育つた私はかうして不思議にも淸らかな淸敎徒(ピユリタン)としての少年期を了つた。
尤もその僞善的な傾向も長くはなかつた、無意識に壓迫された本然の性情は何時の間にか新らしい反抗の炎を上げた。その苦しい前後に當つて私は激しい神經の衰弱をおぼえた、さうしてただひとり靜かに瞑想し思索する病的な夜の鳥の心になった。さうして私の少年期の了るころ、常に兄弟のやうに親しんだ友人の一人は自刄して遂にその才氣煥發だつた短い一生の最後を自分の赤い血潮で華やかに彩どつて、たんぽぽのさく野中のひとすぢ道を彼の墓場へ靜かに送られて行つたのである。殘された私はまた陰欝な、そのなかにいらいらとした紅い戲奴(ヂヤウカア)のやうな心を閃めかす氣の短い感情の激しい二十歲の生活に入つた。さうして若鷲の巢立ちを思はせるやうに忙たゞしく東京をさして上つた。
[やぶちゃん注:『「埋れ木」のゲザ』ボヘミア系ドイツ人女性作家オシップ・シュービン(Ossip Schubin:本名 Aloisia Kirschner:アロイジア・キルシュナー 一八五四年〜一九三四年)が書いた小説“Die Geschichte eines Genies”(「一人の天才の物語」)を森鷗外が翻訳した「埋木(うもれぎ)」の才能あるヴァイオリニストである主人公ゲザ・フオン・ザイレン(Gesa van Zuylen)のこと。明治二三(一八九〇)年から二十五年にかけて、『しがらみ草紙』に連載された。以上は概ね藤田保幸氏の論文『森鷗外訳「埋木」の文章について』(『龍谷大学論集』第二七八号所収)及びネットで見つけたドイツ語の梗概資料に拠った。私は鷗外訳さえ未読であるからして、以下のボードレールの「悪の華」との連関は語れない。悪しからず。
「夢想兵衞胡蝶物語」(現代仮名遣「むそうびょうえこちょうものがたり」)は曲亭馬琴の読本で、個人ブログ「よろめき硯塚」のこちらによれば、『生物知りで議論好きな夢想兵衛が、浦島仙人からもらった凧に乗って少年国・色慾国・強飲国・貪婪国といった風変わりな国々を遍歴するという話。馬琴版のガリバー旅行記と言った』作品とある。早稲田大学図書館古典総合データベースのこちらで文化七(一八一〇)年江戸板行版が総て視認出来る。
「淸敎徒(ピユリタン)」底本ではルビの最後は「・」で読めない。ここは後発の諸本を参考に特異的に「ン」とした。
「常に兄弟のやうに親しんだ友人の一人は自刄して遂にその才氣煥發だつた短い一生の最後を自分の赤い血潮で華やかに彩どつて、たんぽぽのさく野中のひとすぢ道を彼の墓場へ靜かに送られて行つた」所持する書籍ではこれが如何なる人物か分からなかったが、複数のネット記事を並べてみることでやっと判明した。以下はリンク先以外の信頼出来る資料も参考にしてある。彼は白秋の親友で中島鎭夫(なかじましずお(しづを) 明治一九(一八八六)年五月九日~明治三七(一九〇四)年二月十三日)という。ペンネームは白雨(はくう)。享年十九(満十七歳)。中学に入学した白秋は級友と回覧雑誌を作って歌作・詩作にいそしみ、後期には校内で文学会を組織して新聞『硯香』小説や論説なども書いたが、低能教育の弊風を非難する内容の一文が学当局の忌諱に触れ、問題となったりした。その交流の中でも最も親しかったのが中島鎭夫であった。左大臣光永氏の「北原白秋 朗読」の本篇の解説に『「白秋」「白雨」、どちらもペンネームに「白」の字がついてますが、これは彼ら文学仲間の連帯の証でした』。『中島青年はみずから文芸部を発足し、生徒の』八『割近くが部員になったということですから、行動力とリーダーシップがあったようです』。『ところが中島青年がトルストイの『復活』を回し読みしていたところ、普段から文芸部をよく思わない教師から難癖をつけられ、退学に追い込まれます』。『当時』(明治三七(一九〇四)年)『は日露戦争に突入した年で、ロシア文学を愛好しているだけで非難の対象になったのです』。『中島青年はこの疑いに名誉を傷つけられ、自らの潔白を証明するため、短刀で喉を突いて自刃しました』。『中島青年は死に際して自分のぶんも文学の志を遂げてくれと白秋に遺書を遺します』。『一番の親友を失った白秋の心中は想像するにあまりあります。白秋はその気持ちを「林下の黙想」という詩に託して「文庫」に投稿』、『この詩は審査員に絶賛され』、明治三七年四月号に『全文掲載されます』。『そしてこの年、白秋は中学を中退し、父に内緒で上京。本格的に文学の道を歩み始めたのでした』とある。また、「西日本新聞社」公式サイト内の「日本がロシアに宣戦布告をした3日後のこと…」という記事は、『日本がロシアに宣戦布告をした』三『日後のこと。現在の福岡県柳川市で』十七『歳の文学少年が命を絶った。中島鎮夫(しずお)、ペンネームは白雨(はくう)。後に国民的詩人となる北原白秋の大親友である』。『白秋の回想によると、鎮夫は神童肌の少年で、語学に堪能だった。英語に加え独学でロシア語も勉強していたことから「露探」(ロシアのスパイ)のぬれぎぬを着せられる。汚名に耐えきれず、親戚の家の押し入れで、喉を短刀で突いた。「あなたを思っている」との遺書を白秋に残して』早朝に逝ったのであった。『教室で鎮夫の死を知った白秋はぽろぽろ泣いて駆けつけ』、『友の遺骸を板に乗せ、タンポポが咲く野道を家まで運んだ』とある。サイト「ブック・バン」の「【文庫双六】自死した親友を悼む白秋の悲しみ――川本三郎」には、『白秋は鎮夫を愛していた。「二人は肉交こそなかったが、殆ど同性の恋に堕ちていたかもわからないほど、日ましに親密になった」とのちに回想している』ともある。日露戦争の明治天皇の「露國ニ對スル宣戰ノ詔勅」が正式な宣戦布告で、これは明治三七(一九〇四)年二月十日であった(事実上の開戦はこの二日前の同年二月八日の旅順港にあったロシア旅順艦隊に対する日本海軍駆逐艦の奇襲攻撃(旅順口攻撃)であったが、当時は攻撃開始の前に宣戦布告しなければならないという国際法の規定がなかった)。
「戲奴(ヂヤウカア)」joker。]
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私が十六の時、沖(おき)ノ端(はた)に大火があつた。さうしてなつかしい多くの酒倉も、あらゆる桶に新らしい金いろの日本酒を滿たしたまま眞蒼に炎上した。白い鶩のゐた潴水、周圍の淸らかな堀割、泉水すべてが酒となつて、なほ寒い早春の日光に泡立つては消防の刺子(さしこ)姿の朱線に反射した。無數の小さい河魚は醉つぱらつて浮き上り、酒の流れに口をつけて飮んだ人は泥醉して僅に燒け殘つた母家(おもや)に轉(ころ)がり込み、金箔の古ぼけた大きな佛檀の扉を剝がしたり歌つたり踊つたりした。私は恰度そのとき、魚市場に上荷(あ)げてあつた葢(ふた)もない黑砂糖の桶に腰をかけて、運び出された家財のなかにたゞひとつ泥にまみれ表紙もちぎれて風の吹くままにヒラヒラと顫へてゐた紫色の若菜集をしみじみと目に淚を溜めて何時(いつ)までも何時(いつ)までも凝視(みつ)めてみたことをよく覺えてゐる。
その後以前にも優るほどの巨大な新倉が建ち、酒の名の「潮(うしほ)」とともに、一時は古い柳河の街にたゞひとり花々しい虛勢を張つてはゐたものの、それも遂には沈んでゆく太陽の斷末魔の反照(てりかへし)に過ぎなかつた。その十年の短い月日のなかに、廢れてゆくものは廢れ、死んでゆく人は死に、ただひとり古い木版𤲿の手觸のやうに、殘つてゐた懷かしい水鄕の風俗も多くは忘られて、たゞ小さな街に殘つた氣も狹く口先のみ怜悧なあの眼の狡猾(こすつか)らい人士のみが小さな裁判沙汰に生嚙りの法律論を鬪はして徒に日をおくるばかり、季節の變るたびに集まつた旅役者も大方は新顏の陋(さも)しい味も風情もないものになつて了つた。さうして食ひつめものの商人は門司、佐世保、大牟田などの新らしい繁華を慕ふて奔り、金齒入れた高利貸は朝鮮にゆき、六騎の活氣ある一團は六十餘艘の小舟に鮟鱇組[やぶちゃん注:「あんかうぐみ」。]の旗じるし飜(ひるが)へしながら遠洋漁業の途にのぼるかして、わかい子弟の東京へゆくものさへ、誰一人この因循な故鄕に歸らうとはせぬ。かやうにして街に殘されたものは眞菰[やぶちゃん注:「まこも」。]臭(くさ)い潴水(たまりみづ)に釣を好む樂隱居か、ただ金庫の前に居眠りをして一生を過ごすあの蒼白い素封家の John – John (良家の息子、やや馬鹿にしていふ言葉である。)かで、追ひ追ひに舊家は廢(すた)れ、地方の山持(やまもち)、田地持の類(たぐひ)も何時(いつ)しかに流浪の身となつた者が多い。母の家も祖父の沒後よくある例(ならひ)の武士の商法とかで、山林に手を出し、地方唯一の名望家として政治屋にまた盛に擔ぎ上げられたが爲めに瞬く間に財產を傾け盡くして、今はあの白い天守の屋根に屋根の艸が秋每に赤い實をつくる外には、廣い屋敷は見るかげもなく荒れはてて了つた。加之[やぶちゃん注:「しかのみならず」。]、火災後の長い心勞と疲憊の末、柳河の「油屋」として、九州の古問屋として數代知られた舊家も遂には一家沒落の憂き目を見るやうになつた。
私がこの「思ひ出」の編纂に着手し初めたのは、ちやうど鄕家の舊(ふる)い財寶はあの花火の揚る、堀端のなつかしい柳のかげで無慘にも白日競賣の辱(はづか)しめを受けたといふ母上の身も世もあられないやうな悲しい手紙に接した時であつた。而して新らしい創作に從つてゐる間に秋となり冬が來て、今はまた晚春の惱ましい氣分に水祭(みづまつり)の囃子(はやし)や蠶豆の靑くさい香ひのそことなく忍ばるるころとなつた。國よりの通知には愈酒倉は解かれ、親子兄弟凡てあの根ざしの深い「思出の家」から思ひきつて立ち退くべき時機が迫つたといふ事であつた。而して馴れぬ水仕業(みづしわざ)に可憐な妹の指が次第に大きく醜くなつてゆきますといふ事であつた。かうしてこの小さな抒情小曲集も今はただ家を失つたわが肉親にたつた一つの贈物(おくりもの)としたい爲めに、表紙にも思出の深い骨牌の女王を用ゐ、繪には全く無經驗な癖に首の赤い螢や生膽取や John や Gonshan の漫畫まで挿んで[やぶちゃん注:「さしはさんで」。]見た、而して心ゆくまで自分の思を懷かしみたいと思つて、拙い[やぶちゃん注:「つたない」。]ながら自分の意匠通りに裝幀して、漸くこの五月に上梓する事となつた。なほこの集に挿んだ司馬江漢の銅版畫は第一回の競賣の際古道具屋の手に依て一旦埃塵溜(ごみため)に投げ棄てられたのをそつと私の拾つて來たものであつて、着色の珍らしい、印象の强い異國趣味のものだつたのが寫眞の不鮮明な爲め全く原畫の風韻を失つて了つたのはこの上もなく殘念に思はれる。畢竟私はこの「思ひ出」に依て、故鄕と幼年時代の自分とに潔く訣別しやうと思ふ。過ぎゆく一切のものをしてかの紅い天鵞絨葵[やぶちゃん注:「びらうどあふひ」。]のやうに凋ましめよ。私の望むところは寧ろあの光輝ある未來である。而して私の凡ての感覺が新らしい甘藍[やぶちゃん注:「かんらん」。キャベツ。]の葉のやうに生いきと强い香ひを放つてゐる「刹那」の狂ほしい氣分のなかに更に力ある人生の意義を見出すことである。終にたつた一人の愛する妹の爲めに、その可憐な十の指の何時までも細くしなやかならんことを切に祈つて置く。
TONKA JOHN.
一九一一、晚春、
東京にて。
[やぶちゃん注:「鮟鱇組」「西日本新聞」公式サイト内のこちらの記事に、『明治の頃、有明海に面した福岡県柳川市の子どもは朝鮮のことを単に「韓(から)」と呼んだ。遠い東京よりよほどなじみがあったとか。柳川出身の詩聖・北原白秋がそう記している』。『白秋が少年期を過ごした沖端(おきのはた)には「鮟鱇(あんこう)組」という遠洋漁業隊があった。小舟の船団で有明海から五島列島、対馬と島伝いに北上し、朝鮮半島沿岸の海の幸を持ち帰った。陸路でようやく蒸気機関車が走り始めた時代。海路で行く「韓」は今よりかなり近い国だった』とある。
「水仕業(みづしわざ)」炊事・洗濯仕事。
「天鵞絨葵」「びらうどあふひ」の「びらうど」は後の「序詩」の読み表記を採用した。アオイ目アオイ科ビロードアオイ属ウスベニタチアオイ Athaea officinalis の異名。グーグル画像検索「Athaea officinalis」をリンクさせておく。
なお、所持する新潮社「日本詩人全集7 北原白秋」(昭和四二(一九六七)年刊)の年譜によれば、明治三四(一九〇一)年満十六歳の三月、『沖端の大火で類焼し、酒倉と六千余石の酒を焼失する。この時酒が附近の小川に流れ、人々が争ってこれを飲み、消防夫まで泥酔したと伝えられている。家運はその後衰退の一途をたどる』とあり、明治三十七年(満十九歳)の条には、『三月、中学卒業試験中、一日病欠。担任の数学教師に追試験を許されず、争って憤然と退学。家運の挽回をわが子に期待する父とも衝突したが、詩人として世に立つ固い決心を抱いて出京、この時、母は反対する父に内密で行李をまとめ、蒲団の包みとともに、親戚の家の二階から縄で下ろし、ほどよい脱出の機会を計らって父を説得してくれ』、『上京した白秋は早稲田大学英文予科に入学』したとある。]
[やぶちゃん注:以下ここから十七ページに亙って本詩篇分の「思ひ出目次」となるが、必要と認めないので、省略する。但し、最後に附く挿絵その他の目次のみは(ここ)電子化しておく。当該ページにはそこに示された表題がないからである。一部のリーダとページ数はカットしたが、表題自体に当該画像部をリンクさせておく。しかし、今回、ここで、とんでもない白秋の致命的なミスに気づいた。]
挿𤲿
欄𤲿
John ………………………………………一
[やぶちゃん注:「序詩」の標題扉であるが、実際にはこのページのデッサンには左下に「Gonshan.」と記してあるので、次のそれと絵の配置を誤っていることが判る。即ち、我々はこの二枚の絵だけを相互に交換して見なくてはならないのだと私は思う。]
Gonshan ………………………………一二一
[やぶちゃん注:実際にはこのページのデッサンには左下に「John.」と記してあるので、前のそれと絵の配置を誤っているので、同前の仕儀が必要と考える。]
寫眞版
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