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2020/06/28

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 去来 一

 

      去  来

 

       

 蕪村が『鬼貫句選』の跋において其角、嵐雪、去来、素堂、鬼貫を五子とし、その風韻を知らざる者には共に俳諧を語るべからずといったことは、前に嵐雪の条に記した。五子なる語はこれにはじまるのであろう。しかるに蕪村の弟子である大魯(たいろ)の閲を経て行われた『五子稿(ごしこう)』は、素堂、去来の外に来山(らいざん)、言水(ごんすい)、沾徳(せんとく)を挙げている。蕪村のいわゆる「五子」がその最も尊重する作家であったことはいうまでもないが、『五子稿』が其角、嵐雪、鬼貫を除いたのは、必ずしもこれを軽んじたものとも思われぬ。右の『鬼貫句選』の跋に「其角嵐雪おのおの集あり、素堂はもとより句少く、去来はおのづから句多きも、諸家の選にもるゝこと侍らず、ひとり鬼貫は大家にして世に伝はる句稀なり」云、とある筆法に従えば、一家の集ある其角、嵐雪、鬼貫の三者を除き、代うるに来山、言水、浩徳を以てしたものとも解釈することが出来る。

[やぶちゃん注:向井去来(慶安四(一六五一)年~宝永元(一七〇四)年)は蕉門十哲の一人。儒医向井元升(げんしょう)の二男として長崎市興善町に生まれた。堂上家に仕え、一時、福岡の叔父のもとに身を寄せて武芸を上達させ、その功あって二十五歳の時、福岡藩に招請されたが、なぜか固辞し、以後、京で浪人生活を送った。貞享初年(一六八四年)から文通によって松尾芭蕉の教えを受け、同三年に江戸に下って初めて芭蕉と会うことを得た。元禄二(一六八九)年の冬には、近畿滞在中の芭蕉を自身に別荘である嵯峨野の落柿舎に招き、同四年の夏には芭蕉の宿舎として落柿舎を提供している。この間、「俳諧の古今集」と称される「猿蓑」の編集に野沢凡兆とともに従事し、芭蕉から俳諧の真髄を学ぶ機会に恵まれた。その著「去来抄」は蕉風俳論の最も重要な文献とされているが、本書にはこのときの体験に基づく記事が多い。篤実な性格は芭蕉の絶大な信頼を得ており、芭蕉は戯れに彼を「西三十三ケ国の俳諧奉行」と呼んだという。しかしこの去来にも、若い頃は女性に溺れるような多感な一面があったらしく、丈草の書簡に「此人(去来のこと)も昔は具足を賣(うり)て傾城にかかり候」と記されてある。彼は、一生、正式な結婚をせず、しかし可南という内縁の女性と暮らしたが、この女性はもとは京都五条坂の遊女であったと伝えられる(以上は主文を「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「蕪村」の「『鬼貫句選』の跋」今回は藤井紫影校訂「名家俳句集」(昭和二(一九二七)年有朋堂書店刊)の蕪村跋を国立国会図書館デジタルコレクションの画像でリンクさせておく。

「前に嵐雪の条に記した」「嵐雪 三」参照。

「五子稿」芦陰舎大魯序は安永三年、麻青菴直生跋は安永四(一七七五)年で大坂の書肆朝陽館編で安永四年板行。原本を早稲田大学図書館の「古典総合データベース」のこちらで画像で読むことが出来る

「来山」小西来山(承応三(一六五四)年~享保元(一七一六)年)は大坂(和泉)生まれ。芭蕉(寛永二一・正保元(一六四四)年生まれ)と同時代の俳人。父は薬種商。七歳で西山宗因門の前川由平に学び、十八歳で俳諧点者となった。禅を南岳悦山に学んで法体(ほったい)となった。延宝六(一六七八)年の西鶴編「物種集(ものだねしゅう)」に初出。元禄三(一六九〇)年以降に活動が活発化し、元禄三年から元禄七年の間に生前に発表された約二百六十句のうちの凡そ九十句が発表されている。その間の元禄五年には「俳諧三物」(来山の独吟表六句を巻頭に置いて他に知友門弟の句を所収)を板行したが、以後、自ら選んだ集は存在しない。元禄十年代以降は雑俳点者としての活躍が甚だしくなり、大坂の雑俳書で来山に無関係のものは殆どないともされる。但し、来山自身は纏まった自分名義の俳書は残していない。「常の詞」による俳諧を説き、素直で平淡な句作りや日常の中に美を求める姿勢を特徴とし、時に卑俗で理屈臭い句が多いともされる(以上はウィキの「小西来山」や諸辞書を参考にしたが、同ウィキの記載にはやや疑問がある)。私は彼の辞世とするものが忘れ難い(伴蒿蹊「近世畸人傳」に拠る)。

 來山は生まれた咎で死ぬる也それでうらみも何もかもなし

「言水」池西言水(慶安三(一六五〇)年~享保七(一七二二)年)はやはり芭蕉と同時代の俳人。ウィキの「池西言水」によれば、言水は奈良生まれで、十六歳で法体(ほったい)して『俳諧に専念したと伝えられる。江戸に出た年代は不詳であるが』延宝年間(一六七〇年代後半)に『大名俳人、内藤風虎』(ふうこ:陸奥磐城平藩第三代藩主内藤義概(よしむね 元和五(一六一九)年~貞享二(一六八五)年)の諡号。ウィキの「内藤義概」によれば、『晩年の義概は俳句に耽溺して次第に藩政を省みなくな』ったとある)『のサロンで頭角を現した』。延宝六(一六七八)年に『第一撰集、『江戸新道』を編集した。その後『江戸蛇之鮓』『江戸弁慶』『東日記』などを編集し、岸本調和、椎本才麿の一門、松尾芭蕉一派と交流した』。天和二(一六八二)年の『春、京都に移り、『後様姿』を上梓した後、北越、奥羽に旅し』、天和四(一六八四)年まで『西国、九州、出羽・佐渡への』三度の『地方行脚をおこなった』。貞享四(一六八七)年、『伊藤信徳、北村湖春、斎藤如泉らと『三月物』を編集した。但馬豊岡藩主・京極高住』とも交流した、とある。私の好きな句の一つは、

 凩(こがらし)のはては有りけり海の音

である。特に挙げずとも、俳句を嗜む御仁なら「エッツ!?!」と驚くであろう。特に出さぬが、近現代の誰彼の名句とされるものは粗方、この言水の名句の剽窃に過ぎぬとさえ私は思っているほどに好きな句なのである。

「沾徳」(寛文二(一六六二)年~享保一一(一七二六)年)江戸中期の俳人。姓は門田、のち水間。江戸生まれ。はじめ沾葉と号し、露言に師事。磐城平(いわきたいら)城主内藤風虎(前注参照)の息露沾(蕉門中で最も身分の高い人物として知られる。但し、二十八歳の時に御家騒動によって家老の讒言で貶められて麻布六本木の別邸で部屋住みのままに生涯を終えた世間的には不遇の人であった)から師弟に露・沾の各一字を授かったものとされる。俳壇への登場は延宝六(一六七八)年。露沾の寵を得て内藤家に仕え、山口素堂に兄事し、儒学を林家に、歌学を山本春正・清水宗川に学んだ。風虎没後に同家を去り、貞享四(一六八七)年に姓号を改めて俳諧宗匠となった。素堂の仲介で蕉門の其角と親交を結び、其角没後はその洒落風を継承し、過渡期の江戸俳壇を統率する位置に立ち、点者として一世を風靡した(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。彼は赤穂浪士の大高源五(俳号は子葉)の俳句の師として専ら知られるが、私は特にピンとくる句を知らない。]

 去来の名は芭蕉の生前から已に重きを成していた。芭蕉が杉風(さんぷう)を以て東三十三国の俳諧奉行とし、去来を以て西三十三国の俳諧奉行とするといったのは、固(もと)より一場の戯言[やぶちゃん注:「ざれごと」。]であろうが、彼の名は凡兆と共に事に当った『猿蓑』撰集のみを以てしても、永く俳壇に記億さるべきである。しかも凡兆の仕事が竟(つい)に『猿蓑』以外に出なかったに反し、去来は遥に多くの痕迹をとどめている。蝶夢が『去来発句集』の序において、西の去来、丈艸を東の其角、嵐雪に比し、「其角嵐雪は風雅を弘(ひろ)むるを業とし、もつぱら名利[やぶちゃん注:「みやうり」。]の境に遊べばまたその流れを汲む輩(やから)も多くて、其角に五元集、嵐雪に玄峰集といへる家の集ありて世につたふ。さるを去来丈艸は蕉翁の直指[やぶちゃん注:「ぢきし」。直伝(じきでん)のこと。]の旨をあやまらず、風雅の名利を深く厭(いと)ひて、ただ拈華微笑[やぶちゃん注:「ねんげみしやう(ねんげみしょう)」。]のこゝろをよく伝へて、一紙の伝書をも著さず、一人の門人をもとめざれば、ましてその発句を書集むべき人もなし」といったのは、主として俳譜に臨む態度の相違を述べたのであるが、あらゆる意味において其角、嵐雪と好箇の対照をなすものは去来、丈艸の二人であろう。

[やぶちゃん注:「蝶夢」五升庵蝶夢(享保一七(一七三二)年~寛政七(一七九六)年)は江戸中期の時宗僧で俳人(職業俳人ではない)。京の生まれ。出自・俗名などは不詳。幼くして京の法国寺(時宗)に入った。十三歳で阿弥陀寺内の帰白院に転じ、後に住職となったが、この頃より俳諧を志し、早野巴人系の宗屋(そうおく)門下に入るが、宝暦九(一七五七)年、敦賀に赴いたのを契機として都市風の俳諧から地方風の俳諧に転じた。俳人で行脚僧の既白や加賀国出身の二柳・麦水などと交流し、蕉風俳諧の復興を志した。やがて三十六歳で洛東岡崎に五升庵を結び、芭蕉顕彰の事業に力を注いだ。その活動は義仲寺の復興と護持・粟津文庫の創設・毎年忌日の「しぐれ会」の実施・全国的な地方行脚による芭蕉復興の地方拡大などであった。編著書の大半は芭蕉顕彰に関わるものであり、松尾芭蕉の遺作を研究刊行した「芭蕉翁発句集」・「芭蕉翁文集」・「芭蕉翁俳諧集』の三部作は、始めて芭蕉の著作を集成したものであり、「芭蕉翁絵詞伝」は本格的な芭蕉伝としてとみに知られる(以上はウィキの「蝶夢」他を参照した)。

「去来発句集」蝶夢編で明和八(一七七一)年刊。去来の逝去から六十七年後のことであった。先と同じ国立国会図書館デジタルコレクションの蝶夢の序の頭の画像をリンクさせておく。]

 去来の「贈晋氏其角書」を読むと、其角の作品に対しては、芭蕉生前から已に不満を懐いていた事がわかる。その意見は千歳不易、一時流行というような語によって現されているが、その本(もと)づくところはやはり其角なり去来なりの人物性行に存するのであろう。「不易の句をしらざれば本[やぶちゃん注:「もと」。]たちがたく、流行の句をまなびざれば風[やぶちゃん注:「ふう」。]あらたまらず。よく不易を知る人は往々にしてうつらずと云ふことなし。たまたま一時の流行に秀たる[やぶちゃん注:「ひいでたる」。]ものは、たゞおのれが口質[やぶちゃん注:「くちぐせ」。]のときに逢ふのみにて、他日流行の場にいたりて一歩もあゆむことあたはず」という去来の見解に従えば、其角現在の俳風は芭蕉のそれに一致せず、従って「諸生のまよひ、同門のうらみ」も少くないというのである。芭蕉はさすがに群雄を駕馭(がぎょ)するだけの包容力を具えていたから、去来の論を肯定すると同時に、其角の立場をも認め、「なをながくこゝにとゞまりなば、我其角をもつて剣(つるぎ)の菜刀(ながたな)になりたりとせん」という去来の評に対しては、「なんじが言慎むべし。角や今我今日の流行におくるゝとも、行(ゆく)すへまたそこばくの風流をばなしいだしきたらんも知るベからず」と戒めている。芭蕉の骨髄は去来、丈艸これを伝えたという蝶夢の見方も一理あるが、其角、嵐雪――去来、丈艸を左右の両翼として進んだものと見た方が、あるいは妥当であるかも知れない。

[やぶちゃん注:「贈晋氏其角書」「晋氏(しんし)其角に贈るの書」。「晋氏」は「晋子」とあるべきところ。これは俳諧論書「許六・去来 俳諧問答」の冒頭に配されたもので、実際に元禄一〇(一六九七)年閏二月附で去来から其角に送られた書簡の写しである。当該書はこれを皮切りに、翌年にかけて許六と去来の間で交わされた往復書簡を集めたもので、「贈落舍去來書」・「俳諧自讃之論」・「答許子問難辯」・「再呈落柿舍先生」・「俳諧自讃之論」・「自得發明弁」(「弁」はママ)・「同門評判」から成る。去来は〈不易流行〉論を、許六は万葉・古今から受け継いだ伝統的文芸の〈血脈(けちみゃく)〉説を前面に打ち出して論を戦わせており、蕉風俳論書として第一級の価値を有する。天明五(一七八五)年に浩々舎芳麿により「俳諧問答靑根が峰嶺」として出版され、寛政一二(一八〇〇)年に「俳諧問答」の題で再版された。以上は平凡社「世界大百科事典」を参考にしたが、叙述に不全な点があるので私が手を加えてある。「贈晋子其角書」はそれほど長いものではないので、以下に電子化を試みる。底本は所持する一九五四年岩波文庫刊橫澤三郞校注「許六 去来 俳諧問答」を用いたが、一部の読みは私が推定で歴史的仮名遣で補い、判り易くするために段落を成形し記号も増やした。歴史的仮名遣の誤りはママである。

   *

 故翁奥羽の行脚より都へ越給ひける比、當門の俳諧一変す。我(わが)輩(ともがら)、笈(おひ)を幻住庵にになひ、杖を落柿舍に受(うけ)て、畧(ほぼ)そのおもむきを得たり。「瓢(ひさご)」・「さるみの」是也。其後またひとつの新風を起さる。「炭俵」「續猿蓑」なり。

 去來問(とひて)云(いはく)、

「師の風雅見及(みおよぶ)處、次韻にあらたまり、『みなし栗』にうつりてよりこのかた、しばしば變じて、門人、その流行に浴せん事をおもへり。」

 吾、これを聞けり。

「句に千載不易のすがたあり。一時流行のすがたあり。これを兩端(たん)におしへたまへども、その本(もと)一(ひとつ)なり。一なるはともに風雅のまことをとれば也。不易の句を知らざれば本たちがたく、流行の句をまなびざれば、風、あらたならず。よく不易を知る人は、往々にしてうつらずと云ふことなし。たまたま一時の流行に秀(ひいで)たるものは、たゞおのれが口質(くちくせ)のときに逢ふのみにて、他日流行の場にいたりて一步もあゆむことあたはず。」

と。

「しりぞいておもふに、其角子はちからのおこのふことあたはざるものにあらず。且つ才麿(さいまろ)・一晶(いつすい)のともがらのごとく、おのれが管見(くわんけん)に息づきて、道をかぎり、師を損ずるたぐひにあらず。みづからおよぶべからざることは、書に筆し、くちに言へり。しかれどもその詠草をかへり見れば、不易の句におゐては、すこぶる奇妙をふるへり。流行の句にいたりては、近來(ちかごろ)そのおもむきをうしなへり。ことに角子は世上の宗匠、蕉門の高弟なり。かへつて吟跡の師とひとしからざる、諸生のまよひ、同門のうらみすくなからず。」

 翁のいはく、

「なんぢが言(いひ)、しかり。しかれども、およそ天下に師たるものは、まづおのが形・くらゐをさだめざれば、人おもむく所なし。これ角が舊姿(きうし)をあらためざるゆへにして、が流行にすゝまざるところなり。わが老吟にともなへる人々は、雲かすみのかぜに變ずるがごとく、朝々暮々かしこにあらはれ、こゝに跡なからん事をたのしめる狂客なりとも、風雅(ふうが)のまことを知らば、しばらく流行のおなじからざるも、又相はげむのたよりなるべし。」

 去來のいはく、

「師の言かへすべからず。しかれども、かへつて風(ふう)は詠にあらはれ、本哥(ほんか)といへども、代々の宗(そう)の樣おなじからず。いはんや誹諧(はいかい)はあたらしみをもつて命とす。本哥は代(よ)をもつて變(へんず)べくば、この道(みち)年をもつて易ふべし。水雪の淸きも、とゞまりてうごかざれば、かならず汚穢(おゑつ)を生じたり。今日諸生の爲に古格(こかく)をあらためずといふとも、なをながくこゝにとゞまりなば、我(われ)其角をもつて、剱(つるぎ)の菜刀(ながたな)になりたりとせん。」

 翁のいはく、

「なんじが言愼(つつし)むべし。角や今(ワガ)我今日の流行におくるゝとも、行(ゆく)すへ、また、そこばくの風流をなしいだしきたらんも知るべからず。」

 去來のいはく、

「さる事あり。これを待(まつ)にとし月あらんを歎くのみ。」

と、つぶやき、しりぞきぬ。

 翁、なくなり給ひて、むなしく四とせの春秋をつもり、いまだ我、東西雲裏(うんり)のうらみをいたせりといへども、なを松柏霜後のよはひをことぶけり。さいはいにこの書を書して、案下におくる。先生これをいかんとし給ふべきや。

   右                去來稿

   *

かなり判り易いことを言っていると思う。なお、藤井美保子氏の論文「去来・其角・許六それぞれの不易流行――芭蕉没後の俳論のゆくえ「答許子問難弁」まで――」(『成蹊国文』二〇一二年三月発行・PDF)がなかなかいい。一読をお勧めする。

「剣の菜刀になりたりとせん」は諺「昔の剣(つるぎ)今の菜刀(ながたな)」のこと。一般には「昔、剣として用いられたものも、今はせいぜい菜刀の役にしか立たない」の意を転じて、「すぐれた人も老いた今は物の役に立たなくなってしまっている」ということ、或いは「すぐれたものも、古くなると時世に合わなくなってしまう」ことの換喩。「昔千里も今一里」と同じ。]

 去来が芭蕉に接近するようになったのは、何時頃からかわからぬが、その句は貞享二年の『一楼賦』(いちろうふ)にあるのが最も古いようである。しかしその句は

 五日経ぬあすは戸無瀬の鮎汲ん  去来

[やぶちゃん注:「いつかへぬあすはとなせのあゆくまん」。「五日経ぬ」は若鮎の遡上が始まったと聴いて五日経ったということか。「戸無瀬」は京嵐山付近の地名でこの辺り(グーグル・マップ・データ)。「鮎汲ん」は春三月の季題で、「若鮎汲(わかあゆくみ)」のこと。若鮎が群れを成して川を遡って来るところを、網を使ってその中へと追い込み、柄杓(ひしゃく)や叉手(さで)で掬(すく)い上げて汲み取る川漁法を言う。所収する「一楼賦」は風瀑編で、貞享二(一六八五)年自序。]

 雪の山かはつた脚もなかりけり  同

[やぶちゃん注:よく意味が判らない。一面雪を被った山々はそうでない時の裾野(脚)の変化も何もなく変容しているさまを謂うのか?]

の二句に過ぎぬ。次いで同三年に

 初春や家に譲りの太刀はかん   去来(其角歳旦帖)

[やぶちゃん注:「其角歳旦帖」は複数あるが、確かに貞亨三年版が存在する。]

 一畦はしばし鳴やむ蛙かな    去来(蛙合)

[やぶちゃん注:「一畦」は「ひとあぜ」。「蛙合」は「かはづあはせ(かわずあわせ)」で、仙化編で、確かに貞享三年刊。]

等がある。「初春や」の句は翌年の『続虚栗(ぞくみなしぐり)』に至って「元日や」と改めたが、調子は「元日や」の方が引緊っていいように思う。作家としての去来の発足は先ず『続虚栗』以後と見るベきで、芭蕉の門下ではそう古い方でもなし、また新しい方でもない。『奥の細道』旅行を境として姑(しばら)く前後に分けるなら前期の弟子に属することになる。『続虚栗』は已に蕉門の醇化期に入っているから、去来の句には最初から生硬晦渋なものは見当らない。

[やぶちゃん注:「続虚栗」其角編。貞享四年刊。]

 蚊遣にはなさで香たく悔みかな   去来

[やぶちゃん注:「蚊遣」は「かやり」。]

 たまたまに三日月拝む五月かな   同

   木津へまかりて

 山里の蚊は昼中に喰ひけり     同

[やぶちゃん注:「昼中」は「ひるなか」、「喰ひけり」は「くらひけり」。]

 更る夜を鄰に効ふすゞみかな    同

[やぶちゃん注:「更る」は「ふける」、「効ふ」は「ならふ」。]

 旅寐して香わろき草の蚊遣かな   同

[やぶちゃん注:「香」は「か」。]

 鎧著てつかれためさん土用干    同

[やぶちゃん注:上五は「よろひきて」。]

   遊女ときは身まかりけるを
   いたみて久しくあひしれり
   ける人に申侍る

 露烟此世の外の身うけかな     同

[やぶちゃん注:「露烟」は「つゆけぶり」、「外」は「ほか」。この句は、いい。]

 躍子よあすは畠の艸ぬかん     同

[やぶちゃん注:「躍子」は「をどりこ」。]

 たれたれも東むくらん月の昏    同

[やぶちゃん注:「昏」は「くれ」。]

   嵯峨に小屋作りて折ふしの
   休息仕候なれば

 月のこよひ我里人の藁うたん    同

[やぶちゃん注:「仕候」は「つかまつりさふらふ」。後の落柿舎である。貞享二年秋に移った直後の吟であろう。]

 盲より啞のかはゆき月見かな    同

[やぶちゃん注:「盲」は「めくら」、「啞」は「おし」。「かはゆき」は「哀れで見て居られない」の意。]

 長き夜も旅くたびれにねられけり  同

 雲よりも先にこぼるゝしぐれかな  同

 年の夜や人に手足の十ばかり    同

[やぶちゃん注:大晦日に集った人々の夜更けて雑魚寝するさまを詠んだものであろう。]

 頭から一筋にいい下すような去来一流の調子は、この時已に出来上っている。機に臨み時に

応じて千変万化するが如きは、固よりその長伎(ちょうぎ)ではない。一見無造作にいい放ったようで、内に一種の力を蔵しているのが、去来一流の鍛錬を経た所以である。

[やぶちゃん注:「長伎」得意とする技法。]

 かつて目黒野鳥氏が去来の句に語尾を「ん」で止めたものが多いといって、『去来発句集』についてその句を示されたことがあった。『続虚栗』にある十四句のうち、「ん」を用いたものが五つに及んでいるのは、俳句生活の第一歩においてその実例に乏しからざるを語るものであるが、これは去来個人の特徴と見るべきか、この時代における共通の調子と見るべきか、俄に判定しがたいものがある。「ん」を用いたものは『続虚栗』全体で五十を超え、其角の作にも同じく八を算え得るからである。が、いずれにせよ、こういう句法の多いことが、去来の一本調子の作中において、一種の効果を収めているだけは間違ない。

[やぶちゃん注:「目黒野鳥」(めぐろやちょう 明治一四(一八八一)年~昭和三八(一九六三)年)は俳人で俳諧研究者。「芭蕉翁編年誌」(昭和三三(一九五八)年青蛙房刊)などがある。]

 蕉門の句は『続虚栗』より『曠野』に進むに及んで、一層雅馴なものになった。『続虚栗』はその題名が語っているように、『虚栗』一流の圭角(けいかく)がなお多少名残をとどめているけれども、『曠野』に至っては全くこれを脱却し得ている。あまりに平淡に赴いた結果、時に平板に失しはせぬかを疑わしむるものがないでもないが、俳諧史上における『曠野』の特徴は正にこの無特徴に似たところにある。この集に現れた去来の作品は次のようなものである。

[やぶちゃん注:「圭角」「圭」は「玉」(ぎょく)の意で、元は玉の尖った部分。宝玉の角(かど)で、転じて「性格や言動にかどがあって円満でないこと」を言う。]

 何事ぞ花見る人の長刀       去来

[やぶちゃん注:「長刀」は「なががたな」。]

 名月や海もおもはず山も見ず    同

 鶯の鳴や餌ひろふ片手にも     同

[やぶちゃん注:「餌」は「ゑ」。「片手」は「一方で」の意。]

 うごくとも見えで畑うつ麓かな   同

[やぶちゃん注:一九八九年岩波文庫刊の堀切実氏の編注になる「蕉門名家句選(下)」の本句の注で、元禄二(一六八九)年頃の作と推定されておられる。かなり遠く離れている農作業の景であるが、静止画像かと思われる中に、農具を振り上げる微妙な瞬間が捉えられている。面白い。]

 いくすべり骨をる岸のかはづかな  同

 あそぶともゆくともしらぬ燕かな  同

 笋の時よりしるし弓の竹      同

[やぶちゃん注:「笋」は「たけのこ」。]

 涼しさよ白雨ながら入日影     同

[やぶちゃん注:「白雨」は「ゆふだち(ゆうだち)」。]

 秋風やしら木の弓に弦はらん    同

[やぶちゃん注:「弦」は「つる」。]

 湖の水まさりけり五月雨      同

[やぶちゃん注:「みづうみのみづまさりけりさつきあめ」。琵琶湖の景。其角や許六が絶賛しているが、私は少しもいいと思わぬ。既にお判りかと思うが、私は嘗て去来の句にいいと思ったことは少ない。どこか理(り)に徹した、冷たさを感じるからである。

 榾の火に親子足さす侘ねかな    同

[やぶちゃん注:「榾」は「ほだ」。]

   いもうとの迫善に

 手のうへにかなしく消る蛍かな   同

[やぶちゃん注:「消る」は「きゆる」。一九八九年岩波文庫刊の堀切実氏の編注になる「蕉門名家句選(下)」の本句の評釈で、貞享五(一六八八)年(去来は満三十七ほど)『五月十五目に没した妹千子(ちね)への追悼吟である。愛する妹の命の象徴である蛍が、自分の掌の中ではかなく消えてしまったのは、なんともつらく悲しいことだ、というのである。千子が辞世吟で「もえやすく又消えやすき蛍かな」(『いつを昔』)と詠んだのに唱和するかたちで、深い哀悼の意を表した句である。蛍は、和泉式部の「物思へば沢の蛍もわが身よりあくがれ出づる魂かとぞ見る」(『後拾遺和歌集』第二十・雑)の歌以来、人の魂(命)に見立てられることが多かったのである』とされ、「いもうと」に注されて、『向井千代のこと。俳号を千子(ちね)といい、長崎の廻船問屋清水藤右衛門に嫁して一子をもうけたが、貞享五年五月、三十歳にもならぬ若さでなくなった。去来の一族には、妻可南女をはじめ、俳諧を嗜むものが多かったが、千子もそのひとり。貞享三年秋には、去来・千子連れだって『伊勢紀行』の旅をしている』とされ、また「句集では『「妹千子身まかりけるに」と前書する』とある。]

   李下が妻のみまかりしをいたみて

 ねられずやかたへひえゆく北おろし 同

[やぶちゃん注:「李下」(りか 生没年未詳)は蕉門の俳人。延宝九(一六八一年)春に彼が深川の師松尾桃青の草庵に芭蕉の一株を植えた。これを記念してこの翌天和元年三月の千春編の「武蔵曲」以降に、彼は「芭蕉」を名乗るようになったのであった。「曠野」・「虚栗」・「其袋」などに入集する、芭蕉の初期(芭蕉の立机は延宝六(一六七八)年であるが、それ以前に彼は芭蕉に従っていたものと思われる直参である)。李下の妻ゆきも門人であったが、この時(貞亨五・元禄元(一六八八)年秋「ゆき」没か。貞享五年九月三十日(グレゴリオ暦一六八八年十月二十三日)に元禄に改元)、芭蕉も彼女に、

   李下が妻の悼(いたみ)

 被(かづ)き伏す蒲團や寒き夜やすごき

追善句を贈っている。]

 『曠野』に収められている去来の句は、量においては必ずしも他を圧するに足らぬけれども、質においては嶄然(ざんぜん)頭角を現している。特に「秋風」の句、「湖の水まさりけり」の句の如きは、永く俳諧の天地に光彩を放つべき名句である。『曠野』集中の珍たるのみではない。

[やぶちゃん注:「嶄然頭角を現」すで、「他より一際抜きん出て才能や力量を現わす」の意。]

 寺田博士が高等学校の生徒だった時分に、はじめて夏目漱石氏を訪うて俳句に関する話を聞いた。その時の談片の中に「秋風やしら木の弓に弦はらん」というようなのはいい句である、ということがあったかと記億する。こういう格の高い句は、去来のような人物を俟ってはじめて得べきものであろう。去来の心より発する一種の力が粛殺(しゅくさつ)の気と共にひしひしと身に迫るのを覚える。「湖の水まさりけり」の句については、許六の『自得発明弁』にこうある。

[やぶちゃん注:「寺田博士」物理学者で随筆家・俳人でもあった寺田寅彦(明治一一(一八七八)年~昭和一〇(一九三五)年)。彼は熊本五に明治二九(一八九六)年に入学するが、当時、同校で英語教師であった夏目漱石と、物理学教師田丸卓郎と出逢い、両者から大きな影響を受けて科学と文学を志し、明治三一(一八九八)年には夏目漱石を主宰とした俳句結社『紫溟吟社』の創設に参加した。東京帝国大学理科大学入学はその翌年のことであった。

「自得発明弁」既出既注の俳諧論書「許六・去来 俳諧問答」の中の一篇。

 以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。]

 

一、予当流入門の頃、五月雨の句すべしとて、

  湖の水もまさるや五月雨

といふ句したり。つくづくと思ふに、此句余り直にして味すくなしとて、案じかへてよからぬ句にしたり。其後あら野出たり。先生の句に

  湖の水まさりけり五月雨

といふ句見侍りて、予が心夜の明たる心地して、初て誹かいの心ん[やぶちゃん注:ママ。]を得たり。是先生の恩なりと覚て、今に此事を忘れず。

 

 ここに先生というのは去来の事である。傲慢不遜なる許六をしてこの言あらしめたのは、ただに同門の先輩であるというばかりでなく、この句に啓発さるるところが多かったためであろう。子規居士は更にこれを敷衍(ふえん)して、

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。]

 

「も」「や」の二字と「けり」の二字と、ただこれ二字、彼に執せば則ち直下に地獄に堕ち、これに依らば則ち忽然として成仏しをはらん。「も」の字元これ悪魔の名、能く妖法を修法を修す。一たび彼に触れんか、十有七字麻了痺了俗了俚了軟了死了す。人々須(すべから)く「も」の字除(よけ)の御符を以て自家頭中の「も」の字を追儺(なやら)ひて一箇半箇の「も」を留(とどむ)る莫れ。乃ち[やぶちゃん注:「すなはち」。]天地玲瓏(れいろう)、空裡の一塵を見ん。

[やぶちゃん注:引用元不詳。発見したら追記する。]

 

と説いている。「湖の水まさりけり五月雨」の句は、漠々たる中に天地の大を蔵する概(がい)がある。子規居士の説は「水まさりけり」と「水もまさるや」との差を論破して余薀(ようん)なきものであるが、この差を生ずる所以のものは、やはり去来その人に帰するより外はあるまいと思う。『曠野』における去来の句は、外面的に人目を眩するものを持たぬにかかわらず、内実において慥に人の心を打つ力を具えている。

[やぶちゃん注:相変わらず、くどいが、私はそうは思わない。]

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