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2020/06/28

三州奇談續編卷之六 雷餘の風怪

 三州奇談續編 卷 六 

 

    雷餘の風怪

 宋の蘇過が「颶風(ぐふう)の賦」に、「赤雲夾ㇾ日而翔ㇾ南」と云ふ。實(げ)に斯かる日なりけり。安永七年五月七日は予が所口(ところぐち)に寄宿せし間なり。此の夜大風大雷あり。されば

「此の邊(あたり)は雷落ちて、必ず餘火(よか)家を燒くこと度々なり」

とて、町々に皆提灯を出だし、家々に灯を照らして家財を片付け、戶障子をはづし、人々身構へして、

「只今も隣家に燒亡の起ることもや」

と罵りて喧噪なり。

 遠火の見ゆるとは沙汰ありし。

 然れども其夜何のこともなし。雷は十(とお)許强く響き、雨は纔(わづか)に降り、風は三時(さんどき)[やぶちゃん注:六時間。]ばかり强く吹きて止みぬ。

 扨(さて)翌日來(くる)人ありて語り、風怪の一段を聞けり。

 其夜雷餘の火災ありし地は、所口より三里、堀松と云ふより半道ばかり西、福居(ふくゐ)と云ふ所なり。爰は家五六十軒ありて、安部屋(あぶや)の湊へも三十町許の海濱へ近き里とかや。然るに其夜其村の家十四五軒悉く破壞す。此内二軒は實(じつ)に雷火の餘(あまり)燒亡となりしを、風吹散らしたるなり。十二軒は皆怪しき躰(てい)なり。

 雷落つると同時に一物あり、黑く丸く長き物なり。其形人々見るといへども、何と云ふこも見定めず。先づ一尺廻(まは)りに三尺許の立ちし形の者なり。

 家の内に飛入りて

「くるくる」

と舞ふ。此時に家内の道具・障子・唐紙など、皆悉く舞(まひ)あるき、暫くして家皆空中に舞上り、忽ち風の爲に吹散らされて、早苗田(さなへだ)の上へ吹きて落ち塵となる。

 其後向ひの家に飛入り、向ひ濟めば隣の家に飛び入りて同じ躰なり。十二軒の家皆斯くの如し。

 舞ふ所の異物一つにてやありけん、二つ三つにてやありけん。怪物の數は知り難し。

 十四軒共に吹亂(ふきみだ)され、粉となりて空中へ上り去り、落つる所田面(たのも)の間二三町に及ぶ。其風變(ふうへん)すさまじ。「鉅鹿(きよろく)の戰(いくさ)」・「昆陽の役」とも云ひつべし。

 其建具・敷物など空中に飛行(ひぎゃう)する躰、暫く眼中何に譬ふべきなし。是還りて席(むしろ)の大(おほい)さ雪片の如しといふとも可なり。田間(でんかん)地を見ざる躰なれば、今日より此埃塵(あいじん)を片付け、一番草(ぐさ)・二番草取るとは聞きしに、一番に早苗(さなへ)の筵菰(むしろこも)をひろへることは珍し。後に聞けば

「早苗皆損じて荒蕪となる故に、四五日にして又苗を植ゑ直したり」

と聞えし、此風怪是れ何物ぞ。さればかゝることにて、さまで害をなさゞりし。

 風怪は所口にも此七八年許り先きにありし。何れの日ならん、豆腐屋町富田屋と云へる四つ辻の間より風吹き卷き出で、町中を舞ひ過ぐる。此時店々の逍具・障子・上敷(うはじき)など、皆浮き出る。空に上る程にはなかりし。其後橋の上に至り、又川の中へ上る。一時ばかりは何のこともなし。『靜まりしや』と思ふ所に、二時(ふたとき)半許して川より跳り上るが如く見えて、中酒見の門、正屋(まさや)のあたりを又舞ありく。

 其時は人々も見馴れて、數百人立騷ぎ見物す。晝と云ひ、多く人々見たることなれば、虛談はあるまじ。實(げ)に怪しき物なりと聞えぬ。申の刻[やぶちゃん注:午後四時。]過ぎしに吹止みぬとなり。

 是等は辻風か羊角風(つむじかぜ)の類(たぐひ)と見えながら、其理(ことわり)知り難し。是には黑き物はなし。

「今度の福居村の風怪は雷の屬類(ぞくるゐ)にや」

と、生き物のやうに沙汰してけり。

[やぶちゃん注:「雷餘」「らいよ」と読んでおく。この「餘」は恐らく「後」の意であろう。

『宋の蘇過が「颶風の賦」』蘇過(一〇七二年~一一二三年)はかの蘇軾の第三子にして北宋の官人で文人。「颶風の賦」は蘇軾作とされるも、或いはこの子の蘇過の作ともされるらしい。「颶風」強く激しい風。近代には熱帯低気圧や温帯低気圧に伴う暴風を指す古い気象用語でもある。中文の「維基文庫」のこちらで全文が読める。

「赤雲夾ㇾ日而翔ㇾ南」「赤雲、日を夾(はさ)みて南に翔(かけ)る」。

「安永七年五月七日」グレゴリオ暦一七七八年六月一日。

「所口」現在の七尾市の中心部に当たる石川県七尾市所口町(ところぐちまち)(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「堀松」所口からは西南西に直線で十五キロメートルほどの能登半島の西側中央の石川県羽咋郡志賀町(しかまち)堀松

「福居」現在、堀松から三キロメートル弱の位置に南東羽咋郡志賀町福井がある。

「安部屋」志賀町安部屋(あぶや)。麦水はその「湊へも三十町」(三キロメートル強)「許の海濱へ近き里」が「福居」だと言っている。実際には堀松の方がすぐ「安部屋」の後背地ではあるが、確かに、福井からは北西に四キロメートル弱は離れているので齟齬はないとは言える。

「其夜其村の家十四五軒悉く破壞す。此内二軒は賞に雷火の餘(あまり)燒亡となりしを、風吹散らしたるなり。十二軒は皆怪しき躰なり」「福居」村は戸数「五六十軒」で、その内、二軒が落雷による出火で全焼し、全壊した残りの十二、三軒は皆、奇っ怪な現象に襲われたようである、という意であろう。

「雷落つると同時に一物あり、黑く丸く長き物なり。其形人々見るといへども、何と云ふこも見定めず。先づ一尺廻(まは)りに三尺許の立ちし形の者なり」円筒形でその周囲は三〇センチメートルで、円筒の高さは九十一センチメートルほどとある。これは小型の竜巻と考えてよいであろう。以下の状況からも特に不思議はない。

「早苗田」稲の若苗を育てておく苗代田(なわしろだ)のこと。ここから代田(だいだ)へ移し植えるのが田植え。季節的にも齟齬がない。

「二三町」二一八~三二七メートル。複数発生した可能性もないとは言えないが、十二軒もの残骸がこの短い範囲内に総て収まっているとするなら、発生した竜巻は一つであったのかも知れないという感じはする。

「鉅鹿の戰」は「陳勝・呉広の乱」の直後の紀元前二〇七年に項羽の楚軍と章邯(しょうかん)の秦軍との間で鉅鹿(現在の河北省邢台(けいだい)市平郷県)で行われた戦い。ウィキの「鉅鹿の戦い」によれば、『項羽は腹心の英布に先遣隊を任せて鉅鹿に急行させた。しかし英布は兵力で勝る秦軍に苦戦したため、項羽は自ら軍を率いて黄河を渡り』、三『日間の食料だけを残して渡河の船や料理の鍋などを全て黄河に捨てた』。『後が無くなった項羽の楚軍は秦の大軍を相手に奮戦し、ついに秦軍を打ち破った。秦軍は王離が捕虜となり、蘇角が戦死し、渉間が自害して、章邯も退却を余儀なくされた』。『兵力で劣る項羽の楚軍が勝利したことにより、項羽の下には諸侯の兵が集まり始め』る一方、『章邯の秦軍はその後』、『九度に及ぶ項羽の諸侯連合軍との会戦に全て敗北し、最終的に章邯が部下の司馬欣・董翳の説得に応じて楚軍に降伏し』、『秦は継戦能力を事実上失うこととなった』。『項羽は章邯・司馬欣・董翳を配下に加えたが、秦軍の降兵』二十『万人は不穏な気配があるとして英布に皆殺しにさせた』。『その後、諸侯連合軍は咸陽へ進軍し、項羽は先に咸陽を制圧していた楚の将軍劉邦と咸陽郊外の』鴻門で会見することとなったのである。

「昆陽の役」前・後漢の交代期に劉秀 (光武帝) と、王莽 (おうもう) が、現在の河南省葉県で行なった戦い。紀元二三年、王莽の大軍四十二万は、劉秀の守る昆陽城を取囲んだが、劉秀は将士を激励し、自らは城を出て援軍を組織し、包囲軍の外側から攻撃を仕掛け、遂に王莽の軍は敗北、以後、勝利を得た劉秀の勢力が伸張した(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「眼中」目に移ったさま。

「是還りて席(むしろ)の大(おほい)さ雪片の如しといふとも可なり」これは、敢えて言い換えるとなら、莚大の大きさの物が雪が降りしきるように落ちてくるようだったと言ってよい。

「早苗(さなへ)の筵菰をひろへる」早苗に被った家屋の破片の除去を「筵」や「菰」と言い換えたのである。

「又苗を植ゑ直したり」恐らくはその損壊が撒き散らされて全滅した場所以外のところに早苗田があってかなりの量が無事であったか、損壊を免れた村人が家内に保護しておいたものや予備で足りたということであろう。

「豆腐屋町富田屋」不詳

「中酒見の門」不詳。思うに、天正一〇(一五八二)年に現在の七尾市街地に前田利家によって築かれた平城小丸山(こまるやま)城の城門跡の地名ではなかろうか。 この城は幕府の一国一城令により江戸初期に廃城となっている。ここのどこかである。

「正屋(まさや)」不詳。読みは「近世奇談全集」に拠った。

「羊角風(つむじかぜ)」読みは「近世奇談全集」を参考にした。

「生き物のやうに沙汰してけり」「雷の屬類(ぞくるゐ)にや」という噂が幻獣とされた雷獣の眷属というニュアンスを持つからである。]

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