叔父一家の変容――【注意!】「先生」は靜に逢う以前に恋をしている事実を見逃してはならない
私の性分として考へずにはゐられなくなりました。何うして私の心持が斯う變つたのでらう。いや何うして向ふが斯う變つたのだらう。私は突然死んだ父や母が、鈍い私の眼を洗つて、急に世の中が判然見えるやうにして吳れたのではないかと疑ひました。私は父や母が此世に居なくなつた後でも、居た時と同じやうに私を愛して吳れるものと、何處か心の奥で信じてゐたのです。尤も其頃でも私は決して理に暗い質ではありませんでした。然し先祖から讓られた迷信の磈(かたまり)も、强い力で私の血の中に潜んでゐたのです。今でも潜んでゐるでせう。
私はたつた一人山へ行つて、父母(ふぼ)の墓の前に跪づきました。半は哀悼の意味、半は感謝の心持で跪いたのです。さうして私の未來の幸福が、此冷たい石の下に橫はる彼等の手にまだ握られてでもゐるやうな氣分で、私の運命を守るべく彼等に祈りました。貴方は笑ふかも知れない。私も笑はれても仕方がないと思ひます。然し私はさうした人間だつたのです。
私の世界は掌(たなごゝろ)を翻へすやうに變りました。尤も是は私に取つて始めての經驗ではなかつたのです。私が十六七の時でしたらう、始めて世の中に美くしいものがあるといふ事實を發見した時には、一度にはつと驚ろきました。何遍も自分の眼を疑つて、何遍も自分の眼を擦(こす)りました。さうして心の中であゝ美しいと叫びました。十六七と云へば、男でも女でも、俗にいふ色氣の付く頃です。色氣の付いた私は世の中にある美しいものゝ代表者として、始めて女を見る事が出來たのです。今迄其存在(ぞんざい)に少しも氣の付かなかつた異性に對して、盲目(めくら)の眼(め)が忽ち開(あ)いたのです。それ以來私の天地は全く新らしいものとなりました。
(『東京朝日新聞』大正3(1914)年6月23日(火曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第六十より)
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因みに――初出中の「伯父」は呆れることだが――総て漱石の「叔父」の誤りである。
「先生」の数え十六、十七歳は旧制中学の終わりである。「先生」はしっかり新潟美人に惹かれているのである。迂闊な学生の「私」とは訳が違うのである。それを多くの研究者(在野の私も含めて)はこの記載と先生の初恋の認識を全く無視しているのは全く「迂闊な」ことである。