三州奇談續編卷之五 向瀨の妖華
三州奇談後編 第五
向瀨の妖華
能州羽喰郡(はくひこほり)子浦(しほ)村と云ふは、往昔(そのかみ)は「志乎(しを)」と書き、中頃は「志保(しほ)」と書き、今は「子浦(しほ)」と書するなり。此里に炎上の變事ありて、文字を代ふること度々と聞ゆ。此村に在座(ゐま)す一社は、則(すなはち)「延喜式一名帳」に載る所、能州四十三座の神の内「志乎の神社」是なり。
[やぶちゃん注:「子浦村」現在、宝達志水町(ちょう)子浦(しお)地区があるが、「志乎の神社」はここ(グーグル・マップ・データ。石川県羽咋郡宝達志水町荻谷、荻島、敷浪入会地)であるから、旧「子浦村」は広域で捉えるべきである。さて志乎神社であるが、まずその表記の「乎」は、呉音では歴史的仮名遣で「ヲ」、現代仮名遣で「オ」となるから、現代では「しお」の発音と同じとなる。現在の「子浦」は「しお」であるが、麦水が旧村名とする「保」は「ホ」であるから、その音変化で同一の「しお」となったと考えられる。玄松子氏のサイトのこちらの解説が最もよいので引用させて戴く。『参道の階段を上ると「式内郷社志乎神社」と刻まれた社号標が立ち、さらに登ると石鳥居。鳥居をくぐると大伴家持の歌碑があり、木漏れ日の射す参道を歩くと階段の上に神門。階段を上り、神門をくぐって左手に進むと大きな社殿がある。入母屋造の拝殿には雪除けの板が貼りめぐらされており入口には鍵かかっていたが、昭和五十二年発行の『全国神社名鑑』所載の写真には、この板は無い。昭和五十二年八月の大雨で崖崩れがあり土砂流失によって社殿の一部が損壊。その後復旧したという。その時に取り付けたのだろうか、それとも取り外し可能なのか。大きな拝殿の後方の斜面に本殿の覆屋がある。中の本殿は確認していないが、資料には神明造とある。参拝時に境内社を確認できていないが、資料には末社三社とあり、『平成祭データ』には諏訪神社(建御名方神)、若宮八幡社(應神天皇)、若宮社(豊受大神)の名前が載っていた。参拝は天気の良い十月の午後。社前から見る境内は日射しのため眩しかったが、参道は暗く静か。だが、神門をくぐると、再び明るく広い境内がひらけ、とても晴れやかな印象を受けた。社伝によると、崇神天皇五年、当地に疫病が流行り多くの死者が出たため、勅して当社を建て祈願したという、式内社・志乎神社に比定される古社。また、聖武天皇天平八年』(七三六年)『の痘瘡の流行や天平十九年』(七四七年)の『飢饉の際にも霊験があり、天皇より幣帛を賜り、神階が進められた。「シヲ」の地名は万葉集の大伴家持の以下の歌にも登場する。「之乎路から直越え来れば羽咋の海、朝凪ぎしたり船揖もがも」また、古今集には以下の歌。「志乎の山さし出の磯に棲む千鳥、君が御代をは八千代とそ啼く」』。『通称は鍵取大明神。毎年神無月』(十月)『に、各地の神々は出雲へ参集するが、当社の祭神は、能登国内の諸神社の留守番として諸神社の鍵を預かり、出雲へ行かずに能登国を守護するという。だが『能登志微』』(のとしちょう:幕末から明治にかけて官吏であった森田平次の郷土史料)『には、昔は一宮気多大神が気多本宮へ神幸の際に三つの神輿が出たが、当社の神が鍵取りとして神輿の前に出て、本宮の扉を開けた』『とあるらしい』。『また『志雄町史』には、羽咋の郡家の倉院が当地に設けられ、その鍵が神格化して信仰された結果ではないかとあるらしい。中世以降しばしば戦禍に会い、社宝・旧記などを焼失。さらに天正二年』(一五七四年)、『上杉謙信の侵入によって社領を没収され、社殿は焼失。慶長十六年』(一六一一年)、『前田利長によって再興された。明治四年郷社に列した。氏子区域が荻谷、荻島、敷波の三ケ村であったため、「三ケの宮」とも呼ばれているようだ。当社の祭は、昔は「ケンカ祭」と呼ばれ「三ケの祭りは、ただの日か。宇野気の婆の昼休み」と俚謡にも唄われ』、『見物人が各地から集まって、山が埋まったという』。『拝殿の屋根瓦に、菊紋のような輪宝紋のような神紋が付けられていた。『全国神社名鑑』所載の拝殿の写真にも、輪宝紋のような紋を染めた幕がかけられている。正確には輪宝紋かどうか確認していないが、とりあえず、『全国神社名鑑』の写真を参考に神紋を描いてみた』(最上部の写真の右手)。『参拝時には知らなかったが、社前の』一五九『号線を挟んだ地に、旧志乎神社境内地跡と伝えられる場所があるらしい。鎮座地の宝達志水町は』二〇〇五年(平成十七年)に『羽咋郡の志雄町と押水町が合併して新設された町』で、『当社は、その志雄町に鎮座している。この志雄町という町名から当社・志乎神社の社号となったか』、『あるいは、その逆だったのかわからないが、合併によって「志」だけが残ったことになる』とある。頻りに麦水の言う炎上の変事が確認出来る。]
此地に於て壽永二年五月源平の戰(いくさ)ありし日、平相國の末子(ばつし)三河守知敎、此山路に討たれ給ふ。木曾殿は爰を過ぎて、小田中新王(こだなかしんわう)の塚の前に【小田中は此二里東なり。新王塚は龜塚(かめづか)とて謂れある地なり。今は嚴然たり。說種々あり。後に記す。】陣せし由、「平家物語」に見えたり。古戰の地及び千早振(ちはやぶる)神代の社頭、所から風色(ふうしよく)物さび、石動(いするぎ)山下(さんか)荒山(あらやま)に續きて、松杉浦風吹すさびたる山里なり。
[やぶちゃん注:「壽永二年五月源平の戰」所謂、木曽義仲と平維盛・平行盛(清盛の次男基盛の長男)・平忠度が寿永二年五月十一日(一一八三年六月二日)にぶつかった「倶利伽羅合戦」。
「知敎」平知度(たいらのとものり)が正しい。清盛の七男(但し、八男の平清房がいるので「末子」は疑問である)。ウィキの「平知度」によれば、治承四(一一八〇)年、源頼朝を討つべく、甥維盛・叔父忠度と共に大将軍の一人として東国に下向するが、「富士川の戦い」で大敗を喫して帰京、翌年に参加した「墨俣川の戦い」では源行家らの軍勢に勝利を納めたが、この倶利伽羅合戦に参加した際、義仲軍に壊滅的な敗北を喫し、知度は源親義・重義父子と交戦して相打ちとなり、この日、戦死した(或いは自刃したともされる)。源平の戦さに於ける清盛に連なる平家一門中の最初の戦没者であった。石川県河北郡津幡町にはその首塚と伝わる石碑が現存する。「津幡町役場」公式サイト内の「平知度の首塚」が詳しい。碑の位置の地図も確認出来る。なお、推定するに、彼の享年は二十七以下と思われる。
『小田中新王の塚の前に【小田中は此二里東なり。新王塚は龜塚とて謂れある地なり。今は嚴然たり。說種々あり。後に記す。】陣せし由、「平家物語」に見えたり』高野本の第七巻に、
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やがて是に鏡鞍置いて、白山の社へ神馬に立てられけり。木曾殿の給ひけるは、
「今は思ふ事なし。但し、伯父の十郞藏人(くらんど)殿[やぶちゃん注:源行家。]の志保の戰(いくさ)こそおぼつかなけれ。いざや行(ゆ)いて見む。」
とて、四萬餘騎が中より、馬や人を選すぐつて、二萬餘騎で馳せ向かふ。ここに氷見の湊を渡さんとするに、折節潮滿ちて、深さ淺さを知らざりければ、鞍置き馬十匹ばかり追ひ入れたり。鞍爪浸るほどにて、相違なく向ひの岸に着きにけり。木曾殿これを見給ひて、
「淺かりけるぞ、渡せや。」
とて、二萬餘騎の大勢皆打入つて渡しけり。案の如く十郞藏人殿行家、散々に驅けなされ、引き退いて、人馬の息休むる處に、木曾殿、
「さればこそ。」
おて、荒手二萬餘騎入れかへて、平家三萬餘騎が中へ喚(おめ)いて驅け入り、揉みに揉ふで、火出づる程にぞ攻めたりける。平家の兵共、しばしささへて防ぎけれ共、こらへずしてそこをも遂に攻め落さる。平家の方には、大將軍三河守知敎討たれ給ひぬ。是は入道相國の末子也。侍共多おほく亡びにけり。木曾殿は志保の山打ち越えて、能登の小田中(こだなか)、親王の塚の前にぞ陣を取る。
*
と出る。さても、これは現在、「小田中(こだなか)古墳群」と呼ばれる石川県鹿島郡中能登町小田中にある「小田中親王塚」と称される古墳を指す(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「小田中古墳群」を引く。親王塚古墳・亀塚古墳の二基から成り、『実際の被葬者は明らかでないが、両古墳は宮内庁により「大入杵命墓(おおいりきのみことのはか)」およびその陪冢(陪塚)に治定されているほか、中能登町指定史跡に指定されている(指定名称は「親王塚及び亀塚古墳」)』。『石動山系西麓部に位置する、古墳時代前期の』『古墳群で』、『両古墳は約』四十『メートル離れて築造されている』。『そのうち親王塚古墳については『平家物語』巻』七『に「木曾殿(木曽義仲)は、志保の山打ちこえて、能登の小田中、新王の塚の前に陣をとる」と見え、古くから知られた古墳になる(比定には異説もある)』。『現在は両古墳とも宮内庁の管理下にあ』る。『実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「大入杵命墓(おおいりきのみことのはか)」として第』十『代崇神天皇皇子の大入杵命の墓に治定されている』。『古墳名については、古く『平家物語』や近世文書では「新王塚」とも見えることから、「新王塚」を正しい表記とする指摘がある』。『墳頂には「親王社(新王社)」と称される社があったが、陵墓治定を受けて撤去されている』。『墳形は円形。直径は約』六十五『メートルを測り、北陸地方では最大級の円墳である』。墳丘は三段の築成で、『墳丘表面では、花崗岩や輝石安山岩板石(一部)による葺石が認められる』。『墳丘周囲には、北側を除く部分で周溝が認められている』。『主体部の埋葬施設としては、かつて描かれた絵図から石槨であったことが知られる(現在までに埋め戻し)』。『現在は親王社跡の前方に窪みと石材が残るが、石材については親王社の建材の可能性もあり詳らかでない』。『この石槨から出土したとされる三角縁神獣鏡・管玉が、現在は近隣の白久志山御祖神社に伝世されている』が、『そのほかに、古墳域から埴輪等は検出されていない』。『この親王塚古墳は』四『世紀後半』から『末期頃(古墳時代前期後半)の築造と推定されて』おり、『墳頂には、後世に据えられたものとして、風化した簡素な浮彫の石仏』一『体と五輪塔』一『基が残されている』とある。
「荒山」石動山から南西に尾根を三キロほど下った地点付近(グーグル・マップ・データ航空写真)。現在、手前に荒山城址と升形山があり、県道一八号が通って荒山峠となっている。]
爰に元文六年[やぶちゃん注:一七四一年。]とやらんの事とかや、子浦の人口に殘る奇花の談あり。
此山入の一里許隔りて、向瀨(むこせ)村と云あり。爰に妙覺寺と云ヘる淨土宗の寺ありき。
此老僧用事ありて子浦村へ出でられけるに、日も夕影の山路になづみ、とある石に腰掛けて休み居たりしが、頃しも皐月(やつき)の茨(うばら)・卯の花、所々にしらみたるよき日なりしに、物音(ものおと)寂として一つも聞えず、只空籟(くうらい)鳴り渡るのみなりしに、傍(かたはら)の山田の溝に、大石二つ並び立ちたる水の落ち下る流(ながれ)ありしに、圖らずも鮮(あざやか)なる花、牡丹と覺えて流れ出で、水の淀みにすわる。續いて數輪の牡丹花流れ出で、水面(みなも)に並ぶ程に、
「あなふしぎや」
と見居たるに、暫くして水を押登りて、其出でたる石へ引入りて一つも見えず。
花は仰向(あふむけ)にすわりて押並びたりし。
妖色きらきらと油ぎりて光り渡るさまなり。其時は採らんとする心も付かず。其引入りたる時に及びて怪しみ思ひ覗き見るに、石に入りて跡なし。
暫くして日も傾きしほどに、恐るゝ心も付きて、頓(やが)て此流の岸に付きて子浦村へ下りけるに、七八町[やぶちゃん注:七百六十四~八百七十二メートルほど。]過ぎてより蛙の飛ぶこと甚多し。思ふに皐月の頃なれば、何所(いづく)も蛙多かるべきことなるに、彼の牡丹花の出でたる近所には、曾て蛙一つも見えずありし。是(これ)跡に思ひ合すなり。
子浦村に着きて此の話をせられてけるに、其隣の兄息子(あにむすこ)喜八と云ふ者來り合せて、此咄を聞きて大いに不審し、
「我も今日東谷の道を通りしに、二丈[やぶちゃん注:六メートル。]ばかり下の川中に、其花の躰(てい)なる物を見たり。逢か岸の上より見たるなれば、『牡丹か百合かの折れ流れたるにこそ』と思ひ過ぎ來りしが、御僧の御咄に付きて思ひ合せば、是も同じ躰なり。其儘ありしや、又石に入りしや、我は夫(それ)を見捨て過ぎたり。所こそ替れ、花は相似たり。偖々(さてさて)ふしぎなり。古き人に毒蛇妖花をなすとは聞及びたりしこともあり。是も夫なるにや。今日は暮ぬ。明日其吟味仕盡(しつく)して見たし。御僧御歸りに其所を敎へ給へ、探し見ん」
と約東して歸る。
僧歸路に及ぶ頃、喜八は一人の壯子(さうし)を僕(しもべ)にし來り、得物の鍬・鎌など持ちて此僧に連立ち、酒飯(しゆはん)も能くしたゝめて、
「彼(かの)所に尋行き探して見ん」
と、打連れ立ち勇み出で、僧の見たる所へ尋ね至りて爰に打休らひ、一時許(いつときばかり)鎭まりて待てども、花も出で來らず、蛙も又多く飛びて常の山水なれば、我(わ)がきのふ東谷の岸の上より見たる所の地へ走り行きて見れども、是も牡丹・百合などの花も影もなく、朽ちたる草とてもなし。
「偖は彌々(いよいよ)蛇氣(じやき)の類(たぐひ)にこそ」
と、又立戾り、右の花の引込みたる兩石を押返して見てけるに、爰にも蟒蛇(うはばみ)の蟠(わだかま)りたると見えて、土(つち)陷(おちい)り穴よぢれて、大蛇の過ぎ去りたる跡見ゆ。是を掘慕(ほりした)ひて見るに、又谷川の邊りに出づ。
依りて壯氣の喜八なれば、いよく其行衞を尋ね入り見るに、二町[やぶちゃん注:二百十八メートル。]許上りて草押倒れ、茨など打臥せて、蟒蛇の住みけるかと覺えたる小谷あり。是よりは氣(き)化(け)してやありけん、又は見付得ずしてやありけん。方々普ねく探せども、行衞更に知れず。
爰に於て日影を測り、きのふ見たる頃を尋ね合ふに、同時同刻にして爰の物かしこへ來(きた)るとは見えず。
思ふに往古の山田の大蛇は、八岐(やまた)の溪に滿つと聞く。今時(きんじ)も良々(やや)立歸り來りてやありけん。新大蛇の妖をなす。先づ二谷は證跡(しやうせき)慥(たしか)に見來(みきた)る。猶幾谷に蟠るや知るべからず。
昔此能登の國に、大蛇と化鳥(けてう)と住みて、山海穩やかならず。大己貴尊(おほなむちのみこと)是を平らげ、民(たみ)能く生き、海船能く登る故に、國を「能登」と云ふとやらん聞えし。神代の記に立歸るべき時しにやと、子浦の人々恐れ語れり。
[やぶちゃん注:元の記載方法に戻って、不快感がなくなった。なんとか続けられそうだ。
「向瀨(むこせ)村」読みは現代のそれをそのまま用いた。宝達志水町向瀬(むこせ)(グーグル・マップ・データ)。子浦の東直近。
「妙覺寺」浄土真宗の「明覺寺」(グーグル・マップ・データ)なら現存するが?
「空籟」春風の囁き。
「東谷」子浦地区の子浦川の上流(途中で向瀬へは分岐して向瀬川となる)部か。
「掘慕(ほりした)ひて見るに」掘って、その這った跡を追い掛けて見たところが。
「化鳥(けてう)」「はくい市観光協会」公式サイト内のこちらに、「羽咋」の由来について、『羽咋の由来-怪鳥伝説-』として、『神代の神話のはなし。むかしむかしこの地域には』怪鳥『が出現し、村人を襲っていたという伝説があります。そこに、垂仁天皇の命によりやってきた磐衝別命(いわつくわけのみこと)が、供に連れていた』三『匹の犬とともに怪鳥を倒しました。しかし、怪鳥の羽根に喰らいついた』三『匹の犬は、戦いのすえに死んでしまいました。こうして、「羽を喰う」から「羽喰(はくい)」』……『「羽咋」という地名が生まれたのです。羽咋市内には、磐衝別命や』三『匹の犬にゆかりのある遺跡(古墳)が残されています』とあった。結構、エグい由来だ、知らなんだわ……。
「大己貴尊(おほなむちのみこと)」大国主命の異名。
「能登」の語源説は定説がない。ウィキの「能登半島」には、『一説によるとアイヌ語で半島あるいは突起を意味する「not」から来たという。他に湾(ここでは七尾湾)を意味する飲み門(のみと)が由来との説もある』とあるが、どうも孰れも信じ難い気がする。]
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