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2020/06/02

三州奇談續編卷之四 湯涌の奇談

 

三州奇談後編卷四

 

   湯涌の奇談

 加州金城淺野川の水上、南の方(かた)山に入ること三里ばかり過ぎて、「湯涌(ゆわく)の溫泉」とて、切疵・打身・瘡毒(さうどく)の類ひに奇妙の功ある靈湯あり。地も迫りて又開け、ふしぎに賑はへる所なり。先年白尾屋某(なにがし)の亂心して、數十人を切りし地といへども、今は世隔(へだて)て、絕えて騷がしきこともなく、靜平(せいへい)日々に重なり、年每に湯も榮えける。

[やぶちゃん注:以下、読み終わって見ると、話がまるで終わらない。遂に、堀麦水、連載小説形式に変えてしまうのである。面白いと思う読者もいるとは思う。だが、私ははっきり言って呆れ果てて、「いい加減に落ち着けや!」と怒鳴りたくなること頻り、であると言っておく。

「湯涌の溫泉」金沢の南東(金沢城から確かに十二キロほど)、現在の浅野川を上り詰めた石川県金沢市湯涌町(ゆわくまち)を含む山間の湯涌温泉(グーグル・マップ・データ航空写真)。「湯涌温泉観光協会」公式サイトのこちらによれば、湯涌温泉の発祥は養老二(七一八)年頃、『農夫が体を癒す白鷺を見て、温泉の湧き出るのを発見したと伝えられる説があるほか』(これは山中温泉と同じ)、『白山を開いた泰澄太師の発見とも伝えられて』おり、『藩政時代には、歴代藩主の「湯治ゆ」として加賀藩御用達の湯であったとされてい』るとある。

「瘡毒」梅毒。

「白尾屋某の亂心して、數十人を切りし」色々調べてはみたが、犯人も事件も不詳。「白尾屋」という屋号は金沢の知られた薬種商のそれが知られ、その家系と恐らく別に、各務支考や立花北枝と信仰があった金沢の俳人に白尾屋從吾(しらをやじゆうご(しらおやじゅうご))という人物もいる。但し、彼らとこの犯人が関係のある縁者か否かは確認出来ない。]

 

 爰に町下代(まちげだい)と云へる役に、西田宇太夫と云へる一士あり。元來は越中富山の人といへり。樣子ありて金澤へ引越し居られけるが、小身(せうしん)と云ひ、殊に質朴なる生れなれば、我が着る染物の色を、柹色類(かきいろのたぐひ)及び黃茶(きちや)の類ひの色に染(そめ)なして着られける。他の色は染料(そめれう)むづかしき故にやあらん。

[やぶちゃん注:「町下代」「加能郷土辞彙」によれば、『金澤町奉行に屬した下吏。その初は不明であるが、承應二年[やぶちゃん注:一六五三年。]に松下四郞右衞門、萬治二年[やぶちゃん注:一六五九年。]に山口助右衞門・森川五郎右衞門が命ぜられてゐる。元祿三年[やぶちゃん注:一六九〇年。]の文書に、先年は町下代一人に五人扶持を與へられ、町中から銀子五十枚を遣はしたが、寬文六年[やぶちゃん注:一六六六年。]すべて切米五十俵になつた。その職務は二十年許前から小買手役』(藩内の必需品・消耗品等の直接の購買担当業務を指すか?)『の外、藩侯他出の際は町同』心『を助けて道筋を警固することになつたとある。それより以前は小買手役・市中道橋修理奉行を分擔したのである』とある。加賀藩の治安・保全担当や勝手方の購買担当の役職らしい。

「西田宇太夫」不詳。史料検索にも掛かってこない。但し、次話でどこかの家中の者ではなく、加賀藩藩士であることが明記される。

「樣子ありて」仔細あって。

「小身」身分が低いこと。俸禄の少ない身分。]

 

 或日用事ありて春日町(かすがまち)を通られしに、折節在鄕より入る馬多き時にやありけん、人馬肩を並べ押合ひて過ぎける時なりしに、何とかしけん河原毛(かはらげ)の馬一つ來りて、一躍刎(は)ねしが、終(つひ)に西田宇太夫の黃茶色の袷の袖口ヘ、馬の顏を入れて、躍れどもぬけず。終に踏飛(ふみとば)ばし、袖を刎切(ふんぎ)りて過ぐ。

 宇太夫は仰向に打倒され、しかも腰のあたりを馬蹈みしかども、其砌(そのみぎり)はさして痛まず。馬士(まご)も驚き詑び、あたりの町衆も立出で挨拶ありけるに、西田宇太夫も堪忍して宅へ歸る。

 偖(さて)日を過(すぐ)したるに、其跡痛みて止まず。人々も聞き傳へて

「湯涌へ湯治に行き給へ」

と勸むる人も多かりし程に、外聞かたがた止むことを得ず、心には更に進まぬよしなりしを、奉行衆に願ひて暇(いとま)を乞ひ、湯涌へ入湯せられけるが、一族の内より十二三なる子息を預り行(ゆか)れしとぞ聞えし。

[やぶちゃん注:「春日町」現在の石川県金沢市春日町附近(グーグル・マップ・データ)。

「河原毛」私は内心、『ここまで前の話を引っ張りたいのかッツ! 麦水ッツ! ちつと私は怒っとっちゃ!』と叫びたくなったが、これ、実は後(次の章)のシークエンスへの伏線であって、前の話を引っ張ったのではないことが後で判るようになっている。ちょっとヒントを言うと、発音上の洒落である。

「一躍刎(は)ねしが」前脚を上げて跳(は)ねたが。「刎」は本来は「人の首を刎(は)ねる=切って落とす」の謂いで印象のよくない字である。

「刎切(ふんぎ)りて」私の当て読み(「ふん」は音)。「はねぎりて」でもいいが、どうも語調がのろく、私には気に入らない。馬が跳ね飛んで首で宇太夫の袖を切り破ったのである。

「馬士(まご)」当て訓。無論、「ばし」だが、こっち(馬子)がいい。馬方。]

 

 其頃、前田内藏助殿(くらのすけどの)内(うち)に不破次右衞門、橫山求馬(もとめ)殿内(うち)山上次右衞門、村井又兵衞殿内(うち)片岡佐兵衞なども、入湯に往合(ゆきあ)ひ、隣座敷にありて湯本の不行儀、互ひに語り合ひて日を過(すご)されしに、其頃金澤に「相撲取」と呼ばるゝ者來りて入湯して遊ぶ。其中に堀川町にて瓦山(かはらやま)九郞右衞門・獅ヶ嶽長右衞門と云ふ者、殊に能(よ)く橫行し、人の座敷とも云はず踏越えて、人を人とも思はず。日夜山に遊び水に浸(ひた)りて、放逸此上なく騷ぎ廻りし。

 此地には二所の勝地あり。「笠松」とて、人も作りなさゞれどもつくりたる如く笠の形となり、其邊へ塵一葉も置かず、誰(たれ)も箒(はふき)采(と)る者もなきに自然と奇麗なり。「一の瀨の水」とて、「盃(さかづき)が淵」より流れ來(きた)る淸冷の川あり。遊人常に弄景(らうけい)の所なり。

 然らば心ある人は、景をも助け塵をも拂ひて置くべきに、此者ども爰に遊ぶ時は、一の瀨の魚を探して淵底(ふちぞこ)をも荒らし、笠松の枝を折り火に焚きなどして、狼藉此上なく狂ひ廻りて、古地を損する事ども多かりき。

 されば此所には久しく此地の神あり。世俗には天狗と恐るれども、多くは老狐・長獺(ちやうだつ)[やぶちゃん注:年経た獺(かわうそ)。]の類(たぐひ)と覺えし。昔より名高く人口(じんこう)にも傳へて、「笠松の大山伏」、「一の瀨の小山伏」と云ふ。此二山伏、彼等の惡行(あくぎやう)に息をひそめ、日の過ぐるをも立(た)て兼ねて居給ふなる折からに、其惡少年の徒(と)に天神町板屋八兵衞と云ふ者來りて、彌々(いよいよ)酒を勸め、况や妓女の類(たぐひ)を引來りて、興じ浮き踊り狂ふ。彼(かの)笠松・一の瀨の地を掘返し汚(けが)し侵すこと多かりしかば、此兩神相議(あひぎ)して曰く、

「卽(すなはち)今の惡徒無賴の輩(やから)、我等を侵すこと尤も甚だし。頃日(けいじつ)[やぶちゃん注:近頃。]况や笠松には穴を埋(うづ)め、一の瀨には獺(かはうそ)の子を殺し、惡行(あくぎやう)限りなく云はんかたなし。此地の村役人ども、此等を咎めざるも甚だ心得ず。何にしても一騷動を起して、村中(むらうち)にも辛(から)き目を見せてくれんものを」

と、内談一決して、喧嘩の種を蒔きそめし。これ一朝のことに非ず、時々の恨みもだしがたく、兩山伏がはからひにて此事起り來りしと、案に知られてふしぎなる。

[やぶちゃん注:頭の部分は底本では「其頃前田内藏助殿内に、不破次右衞門・橫山求馬殿内山上次右衞門、村井又兵衞殿内片岡佐兵衞なども入湯に往合ひ」となっているが、如何にも読み難いので特異的に記号を変えた(今まで私は本「三州奇談」については句読点については完全に原本通りに再現している。「・」記号は原本にもあるが、こちらは今までも増やしてある)。用は「前田内藏助殿」・「橫山求馬殿」・「村井又兵衞殿」が仕えている主家で、それぞれの「不破次右衞門」・「山上次右衞門」・「片岡佐兵衞」という三人の家士が湯涌の温泉に来合わせていたというのである。因みにこの主家の方は容易に判るので以下に示すと、

・「前田内藏助」は人持組で前田内蔵助家(三千石)で、姓で判る通り、藩主の一門の流れ。

・「橫山求馬」(きうま(きゅうま)と読んでもよい)というのは人持組頭(加賀八家)の中の横山家(富山城代で三万石。国家老。前田利長に仕え、「賤ケ岳の戦い」で戦死した横山長隆を祖とし、利長が家督を継ぐとともに利長の直臣から前田宗家の家臣に編入された一家)で、恐らく当代は第七代当主の加賀藩年寄横山隆達(たかみち 享保一三(一七二八)年~安永五(一七七七)年)と思われる。彼の幼名には「求馬」があり、この話を麦水がだらだらと前の話の続きのように好んで書いている以上、同時制とこっちも勝手にとらせてもらうなら、「田宮の覺悟」の凄惨な事件は安永二(一七七三)年の事実であったから、彼と勝手に限定出来る、させてもらうのである。

・「村井又兵衞殿」加賀八家の一つである村井家(松根城代で一万六千五百石余。利家の尾張時代からの臣であった村井長頼が祖で、当初、七家だった人持組に後から村井家が加わって以降「八家」と称されるようになった)の、これも前注と同様の理由から、加賀藩年寄で第七代当主であった村井長穹(ながたか 元文四(一七三九)年~寛政二(一七九〇)年)と推定出来る。彼の通称には又兵衛がある。

さても以下、「不破次右衞門」・「山上次右衞門」・「片岡佐兵衞」は試みに「不破次右衞門」を調べてみたものの、労ばかりにして、何一つ、行き当たらなかったによって放擲す。悪しからず。

「相撲取」は「すまひとり」・「すまふとり」などと読めるが、麦水がどう読んでいるかは確定出来ぬ。

「堀川町」金沢市堀川町(ほりかわまち)

「瓦山(かはらやま)九郞右衞門・獅ヶ嶽長右衞門」孰れも不詳。

「笠松」「一の瀨の水」「盃が淵」「加能郷土辞彙」の「湯涌十景」(ゆわくじっけい)に『湯涌溫泉を中心にした附近の十景で、「祇林紅樹」・「荒屋夜雨」・「育王暮雪」・「戶室夕照」・「市瀨秋月」・「笠松晩涼」・「杉村藤花」・「高尾朝霞」・「盞淵綠水」・「湯涌溫泉」を數へる。河島正卿がその十勝景を賦した』とあり、「カハシママサモリ 河島正卿」の条には、『金澤の商人で、通稱は島屋與三兵衞』。『享保十二年』(一七二七年)『五月二十日石川郡湯涌溫泉に遊び、その十勝景を賦した』とある。他に検索を掛けたり、史料を見てみたが、これ以前に「湯涌十景」を呼称した例を見出せなかった。河島がこの命数を作ったかどうかは別として、この辺りで形成されたと考えてよかろう。しかし、現在のどこがそれぞれに相当するのか、これもよく判らなかった。ただ、「笠松晩涼」(かさまつのばんりょう)と「市瀨秋月」(いちせのしゅうげつ)及び「盞淵綠水」(さかづきぶちのりょくすい:読みは総て私の推定で現代仮名遣)が以上の三つに相当することは間違いない。

「日の過ぐるをも立(た)て兼ねて居給ふなる折からに」「立て兼ねて」がよく判らぬ。日が過ぎて(彼奴らが帰るのを、イジイジしながら落ち着けずに)立ち待ち兼てさえおられたところが、の意でとっておく。

「天神町」石川県金沢市天神町(グーグル・マップ・データ)。「いらかぐみ」の作成になるサイト「古い町並を歩く」の「金沢市天神町の町並み」に、『江戸時代には上・下の二町に分かれ、東側が上天神町、西側が下天神町。共に武士・足軽・小者や町人の稼ぎ職、左官職が混住していた』とある。

「板屋八兵衞」不詳。何者か知らぬが、小金持ちらしい。

「此兩神相議(あひぎ)して曰く、……」何故、麦水にこんなことが書ける? 最早、これが実録怪奇談でないというバラシとなってしまい、私は呆れかえるばかりである。どうです? せめても、形式上は守られてきた本「三州奇談」の一話完結型(話が後に続く場合でも、そこで一つの奇談の内容が読者に理解されて終わる)が完全に壊れていることがお判り戴けるであろう。しかも、以下、「蹴飛西田」・「溫泉の喧嘩」・「蕭然たる湯氣」と題名から見てもお判りの通り、完全に新聞の連載小説と同じことになっているのである。その後の「兩妖の異說」はこれまた、以上の話の妖怪「大山伏」と「小山伏」についての異説紹介という形となって続いたものであって、何んとまあ、これで「三州奇談續編卷之四」は終わっているのである。最早、こつこつと各地の怪奇談を蒐集して歩いている麦水の後ろ姿は見えなくなった。ここにいるのは、机上に顎を支えて戯作をこねくり回して、欠伸をしている間延びした顔の麦水ばかりである。全く以って失望した。しかし、ここでやめるわけにも行かぬ。

 なお、本篇は『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 熊谷彌惣左衞門の話 一』に登場するので参照されたい(リンク先は私の電子化注)。]

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