柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 丈艸 四
四
芭蕉が館を捐(す)てた翌年、浪化の名によって『有磯海』が上梓された。この書の刊行は芭蕉生前からの計画であったらしく、題号について芭蕉に相談したという話も伝えられている。芭蕉が「奥の細道」の帰途、北陸道にかかって詠んだ「早稲(わせ)の香や分入(わけいる)みぎは有そ海」の句に因(ちな)んだもので、巻頭にこの句を記し、浪化以下十二人の早稲の句を列べてあるが、特に初の五句だけは「早稲の香や」を上五字に置いたほど、芭蕉に対する思慕の情の強いものである。
この書の序は丈艸が書いた。少、長いけれども、全文をここに引用する。
[やぶちゃん注:「館を捐(す)てた」貴人が死去することを言う。「館(かん)を捐つ」「館舎(かんしゃ)を捐つ」「捐館 (えんかん) 」。「戦国策」の「趙策」が原拠。
「早稲(わせ)の香や」正字で示す。
早稻の香や分入(わけいる)道はありそ海
私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 61 越中国分 早稲の香や分け入る右は有磯海』を参照されたい。
以下、原本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。]
はれの歌読むと思はゞ法輪に詣で所がら薄を詠(ながめ)よとおしへ、雪見の駒の手綱しづかにずして㶚橋[やぶちゃん注:「はけう」。]の辺にあそべと示しけん、よくも風雅のわり符を合(あはせ)て、向上の関を越過(こえすぎ)ける事よ。然(しかれ)どもつくづく思ふに是等はみな文吏官士の上にして、たまさかに市塵を離るゝ便(たより)なるベし。平生(へいぜい)身を風雲に吹ちらして心を大虚にとゞめん中には、限もなき江山に足ふみのばして行(ゆく)さき毎の風物をあはれみ、雪ちるやほやの薄としほれ果(はて)たる風情、いかでか其(その)法輪㶚橋にのみかたよらんや。されば芭蕉菴の主、年久しく官袴[やぶちゃん注:「くわんこ」。]の身をもぬけて、しばしの苔の莚にも膝煖(あたたま)る暇なく所々に病床の暁を悲しみ、年々に衰老の歩(あゆみ)を費してまたとなく古びたる後姿には引かへて、句ごとのあたらしみは折々に人の唇を寒からしむ。一年(ひととせ)、越の幽蹤(ゆうしよう)に杖を引て、袂(たもと)を山路のわたくし雨にしぼり、海岸孤絶の風吟心を悩されしかど、聞入(ききいる)べき耳持たる木末も見えず、辰巳(たつみ)あがりの棹哥[やぶちゃん注:「たうか」。]のみ声々なれば、むなしく早稲の香の一句を留(とどめ)て過(すぎ)られ侍(はべり)しを、年を経て浪化風人の吟鬚(ぎんしゆ)を此(この)道に撚(ひね)られしより、あたりの浦山頭[やぶちゃん注:「かうべ」。]をもたげ翠(みどり)をうかべしかば、いつとなく此の句の風に移り浪に残りて、えもいはれぬ趣の浮(うかび)けるにぞ、ひたすら其(その)境のたゞならざりし事をおしみ感ぜられけるあまりに、穂を拾ひ葉をあつめて終[やぶちゃん注:「つひ」。]に此集の根ざしとはなりぬ。この比(ごろ)洛の去来をして、あらましを記せん事を蒙る[やぶちゃん注:「かうむる」。]。かゝる磯山陰をもたどり残す方なくして、かゝることの葉をこそ、あまねく世の中にも聞えわたらば、猶ありとし国のくまぐまにはいかなる章句をか伝られ侍るにやと思ひつゞくる果しもなく、ありそめぐりの杖のあとをしたはれけん筆のあとも、又なつかしきにひかれて序[やぶちゃん注:「じよす」。]。
懶窩埜衲丈艸謾書
[やぶちゃん注:野田別天楼編の大正一二(一九二三)年雁来紅社刊「丈艸集」巻末(国立国会図書館デジタルコレクション)のこちらで正字正仮名で読める。
「しづかにずして」不詳。「修(ず)して」があるが、これでは「修行して」の意で、タズ手綱を執っての意にはなるまい。上記リンク先では「しづかにして」である。これなら「靜かに」爲(し)「て」の意として不足はない。
「㶚橋」は現在の河南省許昌市西にあったらしい(当該位置は現在は不詳)覇陵橋のことであろう。曹操の陣営に留め置かれていた関羽が、劉備の無事を知って、曹操のもとを離れる。別れを告げずに去る関羽を、曹操は敢えて追手を出さず、曹操から送られた袍を関羽が矛で受け取って去ったという二人の英雄の別れの橋とされる。
「雪ちるやほやの薄」これは「猿蓑」に載る芭蕉の句、
信濃路を過るに
雪散るや穗屋の薄の刈り殘し
を指す。「猿蓑」の稿が成ったのは元禄四(一六九二)年四月であるから、元禄三年以前となるが、芭蕉は冬の信濃へ行ったことはなく、貞亨五(一六八八)年の「更科紀行」の折りの記憶かとも思われるものの、それは秋であって合わない。されば、本句は仮想景と思われる。原拠は恐らく「撰集抄」の「信濃野ほやのすすきに雪ちりて」であろう。これは「巻七 第一四 越地山臥助男命事」(越地(こしぢ)の山臥(やまぶし)男の命を助ける事)の冒頭の一文である。
*
おなじ比、越のかたへ修行し侍りしに、甲斐の白根には雪積つもり、淺間の嶽(たけ)には煙(けぶり)のみ心細く立ち昇るありさま、信濃のほやのすゝきに雪散りて、
下葉はいろの野邊のおも、おもひまし行く
まののわたりのまろき橋、つらゝむすばぬ
たに川の水の、ながれすぎぬる果てを知ら
する人もなき、
峻(さが)しき山ぢの峯のくつ木の繁きがもと、木曾のかけ橋ふみみれば、生きて此世の思出(おもひで)にし、死にて後の世のかこつけとせんとまで覺え侍りき。あづま路(ぢ)こそ、おもしろき所と聞き置きしもし思ひ侍(はべり)しに、物數(かず)にもあらざりけり。[やぶちゃん注:以下略。]
*
私の引用は岩波文庫版(西尾光一校注一九七〇年刊)で底本が異なるが、「やたがらすナビ」のこちらで全文が読める。さらに実はこのフレーズの元はもっと遙かに遡るもので、「箕輪町誌(歴史編)」の電子化された中に「御射山祭」(後述)に触れた中に、『御射山の文献的初見は『袖中抄』(万葉集以後堀河百首ごろまでの歌集)の「信濃なる穂屋のすすきも風ふけばそよそよさこそいはまほしけれ」という詠み人知らずの歌で、平安期堀河天皇ころには東国の風がわりな祭りとして、都人の歌材になっていたという』というのである。「穗屋」は薄の穂で作った神の仮の御座所で、信州諏訪地方で毎年、諏訪大神が御射山(みさやま)に神幸されるに当たって、この「御狩屋」と呼ばれる穂屋を作る風習があり、秋の収穫の予祝行事として「御射山祭」として古くから名高いものであった。嘗ては祭りのために沢山の穂屋が建ち並び、一時、閑寂な山に村里ができたように賑わったとされる(御射山を名乗る神社は諏訪周辺に多数ある)が、現在は長野県諏訪郡富士見町の御射山神社(グーグル・マップ・データ)境内の膳部屋(ぜんぶや:神饌を準備する棟)のみが薄で覆われる唯一の穂屋となっていると、サイト「諏訪大社と諏訪神社」の「御射山社」にはある(サイト・ページの名称は「御射山社」であるが、地図上では「御射山神社」となっているものの、そのサイド・パネルの写真を見るに、解説板は「御射山社」となっていて、境内の写真も一致するから、ここに間違いない)。
「幽蹤」世間から離れてひっそりしている人の踏み分けた跡もかすかな地。
「山路のわたくし雨」ある限られた地域だけに降るにわか雨。特に下は晴れているのに山の上だけに降る雨を指す。
「辰巳(たつみ)あがり」声が高く大きいこと、或いは、言葉や動作が荒々しいこと。ここは後者であろう。語源は未詳のようで、小学館「日本国語大辞典」にも載らない。
「棹哥」水子(かこ)が棹をさしながらうたう唄。舟唄。
「吟鬚」詩歌を吟ずることを鬚を向けること喩えた。中国で古くから、風変わりな鬚を詩人は生やしているとされた転語のようである。
「根ざし」濫觴。
「蒙る」その役目を与えられてしまった。
「ありとし国」「有りと有る」の協調形「有りとし有る國」の約縮。ありとあらゆる総ての国々。
「懶窩埜衲」「らんくわ(らんか)」丈草の別号。
「埜衲」「やどふ(やどう)」(底本は「やどう」)或いは「やのふ(やのう)」。「衲」は「衲衣(のうえ)」(出家修行者が着用する衣服のこと。「衲」は「繕う・継ぎ接ぐ」の意であり、人々の捨てた襤褸布を拾って洗って縫合せして着用したことに基づく。別に「糞掃衣 (ふんぞうえ)」 などとも称した)で、「田舎の僧・野僧」或いは一人称人代名詞で僧が自分を遜って言ふ語。ここは後者。
「謾書」「まんしよ」。妄(みだ)りに誤魔化して書いたものの意。]
この序全体が芭蕉に対する思慕の情を以て埋められているのはいうまでもない。丈艸の観た芭蕉なるものを端的に示せとならば、第一にこの序を挙ぐべきであろう。が、この文章は芭蕉の風格を伝うると共に、丈艸その人の風雅観をも示している。二度まで法輪㶚橋を引合に出して、たまさかに市塵を離るる文吏官士に一拶を与えたのは、丈艸自身の体得した風雅の上から、期せずして生れた声でなければならぬ。
芭蕉が「早稲の香」の一句を得た元禄二年には、丈艸もまだ俳壇の表面に姿を現していなかった。浪化は勿論のことである。『有磯海』一巻は単に芭蕉行脚の杖の跡を慕うだけではない、芭蕉その人を慕い、芭蕉によって遺された道を慕うのである。『有磯海』が元禄期の撰集中にあって、嶄然(ざんぜん)頭角を現しているのは偶然でない。今集中の丈艸の句を左に抄出する。
[やぶちゃん注:「嶄然頭角を現」すで、「他より一際抜きん出て才能や力量を現わす」の意。]
わせのかややとひ出るゝ庵の舟 丈艸
[やぶちゃん注:「やとひ出るゝ」は「傭ひいでるる」で、座五は「いほのふね」。早稲を刈る頃ともなって、我が庵の舟遊びの小舟までが借り出されて行くという、秋の琵琶湖畔のフレーミングである。]
聖霊も出てかりのよの旅ねかな 丈艸
[やぶちゃん注:「聖霊」は「しやうりやう」で、「出て」は「でて」。一九八九年岩波文庫刊の堀切実氏の編注になる「蕉門名家句選(下)」の評釈によれば、『旅中に魂祭りを迎えての吟である。今宵は聖霊たちも一時(いっとき)この世にお帰りになる――その聖霊たちと一緒に、自分も旅中の仮り枕をすることだ、といったところであろう。このとき心喪に服していた丈草の夢枕には、生前から「世にふるもさらに宗祇のしぐれ哉」(『虚栗』)と詠み、この世を仮りの世と観じていた芭蕉の姿があったのであろう』とある。私はこの宗祇の「世にもふるさらに時雨のやどりかな」にただその名を裁ち入れただけのこの芭蕉の句に非常に惹かれている。自分の生を宗祇という宇宙の中の僅かな点の時空間へと転じたそれは並大抵の詩人には出来ぬ絶対の仕儀だからに他ならない。]
木啄の入まはりけりやぶの松 同
[やぶちゃん注:上五は「きつつきの」、中七は「いりまはりけり」。]
啼はれて目ざしもうとし鹿のなり 同
[やぶちゃん注:上五は「なきはれて」で「鳴き腫れて」、「目ざし」は「めざし」で眼差(まなざ)し。妻恋に疲れた牡鹿(おじか)のそれをアップにするその手法は見事。]
野山にもつかで昼から月の客 同
[やぶちゃん注:今夜の月を野で見るか、それとも、いっそ山でするかと、昼から落ち着かぬ風狂人を諧謔したもの。丈草自身のカリカチャイズではない。]
友ずれの舟にねつかぬよさむかな 同
[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「友ずれ」なのだから「友連(づ)れ」ではなく、舟の「とも擦(ず)れ」である。堀切氏は前掲書で、『船中夜泊の吟である。琵琶湖沿岸の水郷あたりに舟旅をしたときのことであろうか。自分の乗る舟と隣に碇泊する舟とが友擦れをする度に、軽い衝動を感じて、なかなか寝つかれないのである。折しも、秋の夜寒のころで、旅のわびしさが一層つのってくるのであろう』とされ、語釈も「友ずれ」に『共擦。互いにすれ合うこと。ここは、二艘の舟が並んでつながれていて、波にゆられる度に相方の舷』(ふなばた)『がぶつかりこすれ合うこと』とある。]
寒けれど穴にもなかずきりぎりす 同
[やぶちゃん注:「きりぎりす」はここでは現在の蟋蟀(コオロギ)である。]
やねふきの海をねぢむく時雨かな 同
[やぶちゃん注:堀切氏は前掲書で、『初冬のころ、浜心に近い家の屋根に乗って男が屋根葺をしている。そこへ突然ぱらぱらと時雨が降りかかってきたので、屋根葺の男は、来たなというふうに、かがんだまま身体(からだ)を棙じって海の方をふり向いたという光景である。男の視野には一瞬、時雨雲の下で寒々と光る海が入ったはずであるが、すぐさま身体を元へ戻して屋根葺の仕事を続けているのである。おそらく「海」は琵琶湖であろう』と適確な評釈をなさって、さらに『『句集』に中七「海をふりむく」とするのは改案か。「ふりむく」の方が表現に落ち着きが生じるが、「ねじむく」にも俳意が感じられて捨て難いところがある』と言い添えておられる。私は断然、「ねぢむく」でなくてはならぬと思う。]
雪空や片隅さびし牛のるす 同
[やぶちゃん注:カメラがゆっくりとカーブしながらティルト・ダウンして、牛小屋へと進んでくる。私好みのワン・カットである。三好達治の散文詩「村」のようじゃないか!]
竹簀戸のあほちこぼつや梅の花 同
[やぶちゃん注:「竹簀戸」は「たけすど」で、竹を粗く編んで作った枝折戸(しおりど:折った木の枝や竹をそのままに使った簡単な開き戸。多くは庭の出入口などに設ける)のこと。「あほちこぼつ」は「煽(あほ)ち毀(こぼ)つ」で「煽って壊す」こと。まさに瞬時のそれを高速度撮影でしっかりとスカルプティング・イン・タイムしたものである。]
背戸中はさえかへりけり田にしがら 同
[やぶちゃん注:上五は「せどなかは」。堀切氏は前掲書で、『家の裏口の土間のあたりには食べたあとの田螺の殼がころがっていて、春とは名ばかり、ぶり返した寒さがひとしお身にしみることだ、というのである。元禄八年春の吟である。師を失くしたばかりの丈草の目には、殺生をしたあとの残骸である田螺の殼がうつろに映るのであろう』とされる。語注で「さへかへり」は『「冴え返る」の意。春になって寒さが戻ること。春の季題』とある。後の「田螺」も春の季題である。最後に『丈草が、生きるために殺生をしなければならぬ人のさだめに悶々としていたことは、「里の男のはみちらしたる田にしがらを、水底にしづめ待居』(まちゐ)『たれば、腥(なまぐさき)をむさぼれるどぢやうの、いくらともなく入こもりて」と前書した』、
入替(いりかは)るどぢやうも死ぬに田にしがら(『初蟬』)
『の句などからも察せられる』とある。なお、ここで描写されるタニシであるが、これは琵琶湖固有種(過去は流下する瀬田川にも棲息したとされる)である一属一種の腹足綱原始紐舌目タニシ科アフリカタニシ(アフリカヒメタニシ)亜科ナガタニシ属ナガタニシ Heterogen longispira である可能性が高いように思われる。殻高は五センチメートルから最大で七センチメートルほどにもなり、本邦在来のタニシの中では最大級で、他種よりも殻皮が緑色がかったものが多い。螺管の上方に肩が生ずるため、螺塔部が有意に段々となるのを特徴とするが、時には肩が弱く、一見、ヒメタニシ(アフリカタニシ(アフリカヒメタニシ)亜科 Bellamya 属(或いは Sinotaia 属)ヒメタニシ Bellamya (Sinotaia) quadrata histrica:殻高約三・五センチメートル。北海道から九州に分布。中国からの外来種であるとする説もある。小型であるため、本邦では食用に適さないとされる)やオオタニシ(Bellamya 属(或いはマルタニシ属 Cipangopaludina)オオタニシ Bellamya (Cipangopaludina) japonica:殻高約六・五センチメートル。北海道から九州に分布)に似た個体が出現することもある。胎児殻の形態が他の種と大きく異なっており、殻頂自体は尖るが、それに続く螺層には特徴的な螺状の畝(うね)が生じ、畝の上が平坦部になる。大型であるため、古くからオオタニシなどとともに琵琶湖産として食用にされ、昭和末期頃までは年間数トンの漁獲量があったという。しかしその後、個体数が減少し、他の二枚貝類を目的とした貝曳漁(かいびきりょう)で少量が混獲される程度となったと言われ、中でも水質悪化の激しい南湖では激減しているとされる。二〇〇〇年には準絶滅危惧(NT)種に指定されてしまった(一部の琵琶湖水系以外の場所で見られるものがあるが、これは移入個体群で、神奈川県・岐阜県・京都府などの記録があるものの、琵琶湖産魚介類の放流移植に伴って無意識的に人為移入されたものと推定されている)。本種は胎殻の類似などから、中国雲南省のコブタニシ属 Margarya に近縁であると言われている。属名は変わった形の胎殻を表わし、種小名は長く伸びたような螺塔に由来する。他に本邦産種にはBellamya 属(或いはマルタニシ属 Cipangopaludina)シナタニシ亜種マルタニシ Bellamya (Cipangopaludina) chinensis laeta:殻高約四・五~六センチメートル。北海道から沖縄に分布)がいる。他に「ジャンボタニシ」などという和名で呼んでしまった養殖用に持ち込まれて(昭和五六(一九八一)年)野生化した外来侵入種で、大型(最大八センチメートル)の原始紐舌目リンゴガイ上科リンゴガイ科リンゴガイ属スクミリンゴガイ Pomacea canaliculata とラプラタリンゴガイ Pomacea insularum が西日本を中心に増えているが、彼らはタニシとは縁も所縁もない全くの別種である。(以上は主にウィキの「タニシ」に拠った)。]
片尻は岩にかけけりはな筵 同
[やぶちゃん注:座五は「はなむしろ」。花茣蓙(はなござ)。いろいろな色に染めた藺 (い) で花模様などを織り出した茣蓙。無地に捺染 (なっせん) を施したものもある。はなむしろ。夏の季題。]
ほとゝぎすたれに渡さん川むかへ 同
[やぶちゃん注:この句、ちょっと意味をとりかねている。識者の御教授を乞う。]
涼しさのこゝろもとなしつたうるし 同
[やぶちゃん注:季題は「涼しさ」で夏。されば蔦漆(ムクロジ目ウルシ科ウルシ属ツタウルシ Toxicodendron orientale は青々しくぺらぺらしている(ツタウルシは晩秋にならないと紅葉しない)。その微風に微かに揺れるのを詠んだ。「こゝろもとなし」は前後の「涼しさ」と「つたうるし」に掛かるようになっているのである。]
この外にもう一つ「朝霜や茶湯の後のくすり鍋」という芭蕉迫慕の句があるわけであるが、前に引いたからここには省略する。
「わせのかや」の句は『丈艸発句集』には「雇ひ出さるゝ」となっている。「出さるゝ」か「出らるゝ」か、二つより読み方はなさそうであるが、多分前者であろう。
「友ずれ」というのは「とも擦れ」ではないかと思う。『丈艸発句集』には「友づれの」とあり、「有朋堂文庫」には「一本「友つれて」とあり」[やぶちゃん注:総て鍵括弧はママ。]と註してある。これでは人間の友達を連れて舟に乗ったが、なかなか寝られぬという風に解される虞(おそれ)がある。ここは友達などが登場しては面白くない。『曠野』にある「友ずれの木賊(とくさ)すゞしや風の音」という山川の句の「友ずれ」と同じことで、近く舫(もや)った舟が浪か何かのために互に擦れ合う、そのために眠れぬというのではあるまいか。少くともそう解した方が、夜寒の情が身に逼(せま)るような気がする。
[やぶちゃん注:「山川」寺村山川(さんせん 生没年不詳)。伊勢津藩士で榎本其角の門人。]
「やねふきの」の句は『丈艸発句集』に「海をふりむく」となっている。現在屋根を葺きつつある最中に時雨が来た。直ぐ晴れるかどうか、空模様を見るために手を休めて後を振向いたのであろう。この句にあっては「海」の一字が画竜点晴の妙を発揮している。この一字あるによって、海を背にした家の屋根に人が上って、屋根を葺いているという景色がはっきり浮んで来る。更に想像を逞(たくま)しゅうすれば、黒み渡った海上には、時雨雲の下に遠い帆影なども動いているかも知れぬ。海の方から時雨が来たために其方(そちら)を見たのか、時雨が海の方へ抜けるためにその行方を見たのか、その辺はいずれでも構わない。余念なく屋根を葺いている男が、時雨が来たことによって背後の海を顧みたという、そこに巧まざる躍動がある。「ふりむく」ではいささか軽過ぎる。やはり「ねぢむく」という強い言葉の方が適切のようである。
『有磯海』所収の句は必ずしも従来の作品に比して、特に異色あるものとも思われぬ。目まぐるしく変化するのを才分の豊なものと解する批評家は、丈艸の作品を以て一所に停滞するものと見るかも知れない。丈艸の丈艸たる所以は、変化を求めざる世界において、自在な歩みを続ける点に存するのである。
芭蕉生前と歿後とでは、蕉門作家の句にも多くの変化が認められる。純客観の本尊と称せられる凡兆でさえ『猿蓑』集中の句と、十年後の『荒小田』集中の句とでは、よほどの軒輊(けんち)を示しているのを見れば、その他は推して知るべきであろう。但丈艸の句にはそういう意味の変化の差を認めがたい。彼の句が軽々に時流を逐って[やぶちゃん注:「おって」。]変化せぬのは、それだけ深い根抵に立っているためではあるまいか。
[やぶちゃん注:「荒小田」(あらおだ)舎羅編。元禄一四(一七〇一)年刊。
「軒輊」「軒」は「車の前が高い」こと、「輊」は「車の前が低い」ことを意味し、そこから「上がり下がり・高低」、転じて「優劣・軽重・大小」などの差があることを言う。]
『続有磯海』は『有磯海』より三年後に、同じく浪化の名によって刊行された撰集である。この集における丈艸の句はさのみ多くないが、依然悠々たる歩みを続けている。
柊にさえかへりたる月夜かな 丈艸
[やぶちゃん注:「月夜」で秋であるが、ここではシソ目モクセイ科 Oleeae 連モクセイ属ヒイラギ 変種ヒイラギ Osmanthus heterophyllus var. bibracteatus が芳しい白い花を咲かせていると読むべきで、さすれば、季節は実際には初冬(現行では「柊の花」は初冬(「立冬」(十一月八日頃)から「大雪」の前日(十二月七日頃))の季語とする)を想定してよいように思う。花無しでは「さへかりたる」が生きてこない。因みに、私は季語を軽蔑しているので問題にする気も実はない。]
胡床かく岩から下やふぢの花 同
[やぶちゃん注:初五は「あぐらかく」。藤の花を俯瞰するロケーションに新味がある。]
あら壁や水で字を吹夕涼み 同
[やぶちゃん注:松尾勝郎氏編著「蝸牛 俳句文庫17 内藤丈草」(一九九五年蝸牛社刊)によれば、『「あら壁」は荒塗をしたままの』塗りたての『壁。夕涼みをしている子供が、口にふくんだ水を荒壁に吹きかけ、大きな字を書きつける。夕涼みの子供たちのいたずら』とある。それ叱らぬ丈草には後の一茶の優しさを感ずる。]
嵯峨の辺に逍遥して
猪追の寐入か藪の子規 同
[やぶちゃん注:「ししおひのねいるかやぶのほととぎす」。「猪追」は、農地の傍らに小屋や掛け物をして、そこで笛を吹いたり、板や撞木を打ち鳴らしたりして、通常は複数で交代したりして夜通し、田畑の見張りをする方法で、猪や鹿の害を避ける方法として、ごく近代まで行われていた。松尾氏の前掲書には、『猪を追いはらう役の猪追いも、どうやら寝てしまったよう』で、『竹藪から漏れてくるほととぎすの鳴く音』だけが、『静かな嵯峨野の夏の夜』に聴こえるばかりといった感じの評釈をされておられる。『嵯峨野は竹薮で知られる』ともある。因みに、ホトトギスは夜も鳴くことで古くから知られ、詩歌にも詠まれている。実際には深夜ではなく、宵の頃と、早暁の三時頃から日の出頃にかけてよく鳴く(私も暗い内に直上の裏山からの彼らの声のために起こされる)。特に飛びながら鳴くようである。]
鹿小屋の火にさしむくや菴の窓 同
[やぶちゃん注:先に挙げた諸本では堀切氏も松尾氏も「鹿小屋」を「しかごや」と読んでおられるのだが、どうも私には従えない。これはこれで「ししごや」と読みたい。前の「猪追(ししおひ)」小屋と同じものであるが、山間では「鹿」で「しし」と読んで猪をも鹿をも指したし、前注で示した通り、セットで農作物や農地を荒らす害獣として一緒に認識されていたからである(私の『早川孝太郎「猪・鹿・狸」』(全電子化注完結)の各所を読まれたい)。堀切氏は『仏幻庵の秋の景であろう。近くの山畠にある鹿』『小屋の灯がぽつんと一つだけ見える――その灯に向かい合うように、わが草庵の窓があるというのである。夜ごとに見える鹿小屋の灯だけが、草庵に孤独が生活を送る丈草の心に、人なつかしさの情けを蘇らせるのであろう』とある。松尾氏の評釈もほぼ同じである。]
田家
茶の酔や菜たね咲ふす裏合せ 同
[やぶちゃん注:「田家」は「でんか」で田舎の家であるが、この「田」は広義の農耕地畠地に接した田舎家の謂いであろう。堀切氏前掲書によれば、「菜たね」は『菜種の花で、菜の花のこと』、座五は『裏と表とが互いに向き合っていること。背中合わせ。元来は二軒の家が互いにうしろ向きに建っていること』を指すが、『ここは裏手がすぐ菜畑になっているのを、このように見立てたものであろう』とされ、評釈では『仏幻庵での生活ぶりのしのばれる句である。庵の裏手の畑には一面に菜の花が咲きふしている』(比較的低い位置で花が咲き広がっていることを謂っていよう)『が、自分もそれを眺めながら、茶を存分に飲』み味わって、『ぼんやりと寝そべっていることだ、というのであろう。芭蕉の俳文「月見ノ賦」(『和漢文操』巻一)によれば、師翁から白楽天に擬せられた丈草であるので酒の酔とも無縁ではなかったろうが、あえて茶の酔に悠然としているさまをとらえて詠んだところがかもしろい』とある。松尾氏前掲書では、丈草は茶の湯にも造詣が深かった旨の記載がある。]
屋のむねの麦や穂に出て夕日影 同
[やぶちゃん注:こうした巧まざるトリミングの妙にこそ丈草の句の秘訣があると私は思っている。]
芭蕉のような偉大な指導者を失った後、俳壇が乱離に赴くのは当然の話である。門弟が各〻異を立てて自己の主張を誇揚するのもまた已むを得ない話かも知れぬ。けれどもこういう形勢に左右されて、自分の足許までしどろもどろになるのは、その人の識量の大ならざることを語るものである。要は芭蕉生前に体得した道の深浅如何にある。丈艸の足許に狂いを見せぬのは、必ずしも彼の境遇が世外に超然としていたためばかりではない。一たび芭蕉によって得た道を、惑わずに歩み続けるだけの確信を有したために外ならぬ。
去来が卯七と共に『渡鳥集』を撰んだのは宝永元年、芭蕉歿後十年の歳月を閲(けみ)しているが、丈艸の句には何の狂いも生していない。
[やぶちゃん注:「宝永元年」一七〇四年。元禄十七年三月十三日(グレゴリオ暦一七〇四年四月十六日)に元禄から改元。]
山鼻や渡りつきたる鳥の声 丈艸
[やぶちゃん注:「山鼻」は「やまはな」で山の端の意。この鳥は渡り鳥(秋の季題)であればこそ評釈はいらぬ。]
送り火の山にのぼるや家の数 同
[やぶちゃん注:「のぼる」のは送り火の煙。]
戸を明て月のならしや芝の上 同
[やぶちゃん注:「明て」は「あけて」。松尾氏の前掲書によれば、『庵の戸を開けて外に出てみると、明るい月光が柴を一面に照らし出している。「月のならし」は月の光が隈なく照らすさま。元禄十六年八月十四日、小望月の吟』と評釈しておられる。「小望月(こもちづき)」は望月の前夜の月。陰暦十四日の月を指す。グレゴリオ暦では一七〇二年九月二十四日である。]
鍋本にかたぐ日影や村しぐれ 同
[やぶちゃん注:初五は「なべもと」で鍋を使っている竈か七輪の下(もと)。独り夕餉の支度である。「村しぐれ」は「叢時雨」で、一頻り激しく降っては止み、止んでは降る雨のこと。冬の季題。]
水風呂に筧しかけて谷の柴 同
[やぶちゃん注:「水風呂」は先にも出たが、再掲しておくと、「すいふろ」で、茶の湯の道具である「水風炉 (すいふろ) 」に構造が似るところから、桶の下に竈(かまど)が取り付けてあって浴槽の水を沸かして入る風呂。「据(す)ゑ風呂」とも言う。「筧」は「かけひ(かけい)」で水を引くために渡した樋(とい)のこと。風呂を沸かすに谷川の水を引くために筧を引き掛け、また、谷を歩いて焚き付けにする柴を集める、まさに隠者の体(てい)である。]
狐なく岡の昼間や雪ぐもり 同
[やぶちゃん注:松尾氏の前掲書に、『「雪ぐもり」はいまにも雪になりそうな、底冷えのする曇り空。冷え冷えする雪催』(ゆきもよ)『いの昼下り、岡辺に鳴く狐の』「こうこう」という『声も、いかにも寒々しく聞こえる。元禄十五年二月二十二日、仏幻庵に浪化、支考らが来訪した折の吟』とある。グレゴリオ暦では一七〇二年三月二十日である。]
啄木鳥の枯木さがすや花の中 同
[やぶちゃん注:「きつつきやかれきをさがすはなのなか」。キツツキは秋の季題であるが、ここは「花」で春。咲き誇る桜を尻目に、枯れ木を探しては餌を突(つつ)き探す啄木鳥へと、大胆にずらして、しかもその飛び移る鳥影に美しい桜の花を背景としてぼかしつつも出すという、まさに俳諧的妙味の句と言えよう。掲句は松尾氏の前掲書によれば「渡鳥集」(去来・卯七編。丈草跋文(元禄一五(一七〇二)年十一月)で刊行は宝永元(一七〇四)年刊)の句形で、「菊の道」(紫白女(しはくじょ)編・元禄十三年刊)では、
木つゝきや枯木尋(たずぬ)る花の中
であり、「東華集」(支考編・元禄十三年刊)・「丈草句集」では、
木つゝの枯木をさがす花の中
とする。私は断然、「木つゝきや枯木尋る花の中」を推す。]
草庵
火を打ば軒に鳴合ふ雨蛙 同
[やぶちゃん注:「ひをうてばのきになきあふあまがへる」。松尾氏前掲書に「志津屋敷(しづやしき)」(箕十(きじゅう)編・元禄十五年刊)所収の句として酷似した、
火を打てば軒に答(こたふ)る蛙(かはづ)かな
の句を挙げてあり、こちらの方が出来がよい。同句の松尾氏の評釈では(踊り字「〱」を正字化した)、『句意は嘯風(しょうふう)宛書簡の「かちかちと打てども、例のしめりほくち、小腹のたついきほひ、ひゞきに軒近く、雨蛙の、をのが友の声かと取りちがへたるにや、かならず鳴き出すおかしさ」に尽きる。「打てば響く」の諺を連想させリズム。元禄十四年』春『の作』とある。]
木曾川の辺にて
ながれ木や篝火の空の時鳥 同
[やぶちゃん注:堀切氏前掲書評釈に、『大水のために溢(あふ)れんばかりになった木曾川の川面を次から次へと』流木が落ち『流れてくる。堤には』『あかあかと篝火が焚かれ、物々しく警戒する人たちの姿が見える――そんなとき』、『時鳥が一声鳴き過ぎたというのである。凄絶な気配の漲った夜明け間近の情景である』と評され、「時鳥」について、『古来、鳴き声を賞美されてきた鳥であるが、その声は人の叫び声のようにも聞こえるもの』であるともされる。特異な緊張感や災害窮迫の恐怖を倍加させる効果を狙ったものともとれよう。また、堀切氏は本句を『元禄十三年夏の美濃路行脚の折の吟であろう』とされる。同年十二月五日附の丈草の書簡にもこの句が載っているとある。]
元春法師が身まかりけるに
世の中を投出したる団扇かな 同
[やぶちゃん注:「よのなかをなげいだしたるうちはかな」。
「元春法師」不詳。]
「送り火」の句の如き、「鍋本に」の句の如き、あるいは「ながれ木や」の句の如き、調子の引緊った[やぶちゃん注:「ひきしまった」。]点からいっても、底に湛(たた)えた幽玄の趣からいっても、『有磯海』時代に比して更にその歩を進めているように思う。これらの句は年と共に澄む丈艸の心境の産物ではあるが、また句における不退転の努力を見るに足るものである。
「啄木鳥」の句は『東華集』には「啄木鳥や枯木をさがす」とあり、『菊の道』には「枯木尋ぬる」とある。『東華集』『菊の道』は共に元禄十三年刊であるから、丈艸としては「啄木鳥の枯木さがすや」で落着(おちつ)いたのかも知れぬ。これは眼前の景色だけでなしに、何か寓するところがあるようである。
元春法師追悼の句は丈艸の一面を窺うべきものであろう。団扇を投出す如く世の中を投出したというのは、尋常の追悼句ではない。如何にも禅坊主らしい気がする。