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2020/07/31

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 丈艸 四

 

       

 

 芭蕉が館を捐(す)てた翌年、浪化の名によって『有磯海』が上梓された。この書の刊行は芭蕉生前からの計画であったらしく、題号について芭蕉に相談したという話も伝えられている。芭蕉が「奥の細道」の帰途、北陸道にかかって詠んだ「早稲(わせ)の香や分入(わけいる)みぎは有そ海」の句に因(ちな)んだもので、巻頭にこの句を記し、浪化以下十二人の早稲の句を列べてあるが、特に初の五句だけは「早稲の香や」を上五字に置いたほど、芭蕉に対する思慕の情の強いものである。

 この書の序は丈艸が書いた。少、長いけれども、全文をここに引用する。

[やぶちゃん注:「館を捐(す)てた」貴人が死去することを言う。「館(かん)を捐つ」「館舎(かんしゃ)を捐つ」「捐館 (えんかん) 」。「戦国策」の「趙策」が原拠。

「早稲(わせ)の香や」正字で示す。

 早稻の香や分入(わけいる)道はありそ海

私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 61 越中国分 早稲の香や分け入る右は有磯海』を参照されたい。

 以下、原本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。]

 

はれの歌読むと思はゞ法輪に詣で所がら薄を詠(ながめ)よとおしへ、雪見の駒の手綱しづかにずして㶚橋[やぶちゃん注:「はけう」。]の辺にあそべと示しけん、よくも風雅のわり符を合(あはせ)て、向上の関を越過(こえすぎ)ける事よ。然(しかれ)どもつくづく思ふに是等はみな文吏官士の上にして、たまさかに市塵を離るゝ便(たより)なるベし。平生(へいぜい)身を風雲に吹ちらして心を大虚にとゞめん中には、限もなき江山に足ふみのばして行(ゆく)さき毎の風物をあはれみ、雪ちるやほやの薄としほれ果(はて)たる風情、いかでか其(その)法輪㶚橋にのみかたよらんや。されば芭蕉菴の主、年久しく官袴[やぶちゃん注:「くわんこ」。]の身をもぬけて、しばしの苔の莚にも膝煖(あたたま)る暇なく所々に病床の暁を悲しみ、年々に衰老の歩(あゆみ)を費してまたとなく古びたる後姿には引かへて、句ごとのあたらしみは折々に人の唇を寒からしむ。一年(ひととせ)、越の幽蹤(ゆうしよう)に杖を引て、袂(たもと)を山路のわたくし雨にしぼり、海岸孤絶の風吟心を悩されしかど、聞入(ききいる)べき耳持たる木末も見えず、辰巳(たつみ)あがりの棹哥[やぶちゃん注:「たうか」。]のみ声々なれば、むなしく早稲の香の一句を留(とどめ)て過(すぎ)られ侍(はべり)しを、年を経て浪化風人の吟鬚(ぎんしゆ)を此(この)道に撚(ひね)られしより、あたりの浦山頭[やぶちゃん注:「かうべ」。]をもたげ翠(みどり)をうかべしかば、いつとなく此の句の風に移り浪に残りて、えもいはれぬ趣の浮(うかび)けるにぞ、ひたすら其(その)境のたゞならざりし事をおしみ感ぜられけるあまりに、穂を拾ひ葉をあつめて終[やぶちゃん注:「つひ」。]に此集の根ざしとはなりぬ。この比(ごろ)洛の去来をして、あらましを記せん事を蒙る[やぶちゃん注:「かうむる」。]。かゝる磯山陰をもたどり残す方なくして、かゝることの葉をこそ、あまねく世の中にも聞えわたらば、猶ありとし国のくまぐまにはいかなる章句をか伝られ侍るにやと思ひつゞくる果しもなく、ありそめぐりの杖のあとをしたはれけん筆のあとも、又なつかしきにひかれて序[やぶちゃん注:「じよす」。]。

            懶窩埜衲丈艸謾書

[やぶちゃん注:野田別天楼編の大正一二(一九二三)年雁来紅社刊「丈艸集」巻末(国立国会図書館デジタルコレクション)のこちらで正字正仮名で読める。

「しづかにずして」不詳。「修(ず)して」があるが、これでは「修行して」の意で、タズ手綱を執っての意にはなるまい。上記リンク先では「しづかにして」である。これなら「靜かに」爲(し)「て」の意として不足はない。

「㶚橋」は現在の河南省許昌市西にあったらしい(当該位置は現在は不詳)覇陵橋のことであろう。曹操の陣営に留め置かれていた関羽が、劉備の無事を知って、曹操のもとを離れる。別れを告げずに去る関羽を、曹操は敢えて追手を出さず、曹操から送られた袍を関羽が矛で受け取って去ったという二人の英雄の別れの橋とされる。

「雪ちるやほやの薄」これは「猿蓑」に載る芭蕉の句、

   信濃路を過るに

 雪散るや穗屋の薄の刈り殘し

を指す。「猿蓑」の稿が成ったのは元禄四(一六九二)年四月であるから、元禄三年以前となるが、芭蕉は冬の信濃へ行ったことはなく、貞亨五(一六八八)年の「更科紀行」の折りの記憶かとも思われるものの、それは秋であって合わない。されば、本句は仮想景と思われる。原拠は恐らく「撰集抄」の「信濃野ほやのすすきに雪ちりて」であろう。これは「巻七 第一四 越地山臥助男命事」(越地(こしぢ)の山臥(やまぶし)男の命を助ける事)の冒頭の一文である。

   *

おなじ比、越のかたへ修行し侍りしに、甲斐の白根には雪積つもり、淺間の嶽(たけ)には煙(けぶり)のみ心細く立ち昇るありさま、信濃のほやのすゝきに雪散りて、

   下葉はいろの野邊のおも、おもひまし行く
   まののわたりのまろき橋、つらゝむすばぬ
   たに川の水の、ながれすぎぬる果てを知ら
   する人もなき、

峻(さが)しき山ぢの峯のくつ木の繁きがもと、木曾のかけ橋ふみみれば、生きて此世の思出(おもひで)にし、死にて後の世のかこつけとせんとまで覺え侍りき。あづま路(ぢ)こそ、おもしろき所と聞き置きしもし思ひ侍(はべり)しに、物數(かず)にもあらざりけり。[やぶちゃん注:以下略。]

   *

私の引用は岩波文庫版(西尾光一校注一九七〇年刊)で底本が異なるが、「やたがらすナビ」のこちらで全文が読める。さらに実はこのフレーズの元はもっと遙かに遡るもので、「箕輪町誌(歴史編)」の電子化された中に「御射山祭」(後述)に触れた中に、『御射山の文献的初見は『袖中抄』(万葉集以後堀河百首ごろまでの歌集)の「信濃なる穂屋のすすきも風ふけばそよそよさこそいはまほしけれ」という詠み人知らずの歌で、平安期堀河天皇ころには東国の風がわりな祭りとして、都人の歌材になっていたという』というのである。「穗屋」は薄の穂で作った神の仮の御座所で、信州諏訪地方で毎年、諏訪大神が御射山(みさやま)に神幸されるに当たって、この「御狩屋」と呼ばれる穂屋を作る風習があり、秋の収穫の予祝行事として「御射山祭」として古くから名高いものであった。嘗ては祭りのために沢山の穂屋が建ち並び、一時、閑寂な山に村里ができたように賑わったとされる(御射山を名乗る神社は諏訪周辺に多数ある)が、現在は長野県諏訪郡富士見町の御射山神社(グーグル・マップ・データ)境内の膳部屋(ぜんぶや:神饌を準備する棟)のみが薄で覆われる唯一の穂屋となっていると、サイト「諏訪大社と諏訪神社」の「御射山社」にはある(サイト・ページの名称は「御射山社」であるが、地図上では「御射山神社」となっているものの、そのサイド・パネルの写真を見るに、解説板は「御射山社」となっていて、境内の写真も一致するから、ここに間違いない)。

「幽蹤」世間から離れてひっそりしている人の踏み分けた跡もかすかな地。

「山路のわたくし雨」ある限られた地域だけに降るにわか雨。特に下は晴れているのに山の上だけに降る雨を指す。

「辰巳(たつみ)あがり」声が高く大きいこと、或いは、言葉や動作が荒々しいこと。ここは後者であろう。語源は未詳のようで、小学館「日本国語大辞典」にも載らない。

「棹哥」水子(かこ)が棹をさしながらうたう唄。舟唄。

「吟鬚」詩歌を吟ずることを鬚を向けること喩えた。中国で古くから、風変わりな鬚を詩人は生やしているとされた転語のようである。

「根ざし」濫觴。

「蒙る」その役目を与えられてしまった。

「ありとし国」「有りと有る」の協調形「有りとし有る國」の約縮。ありとあらゆる総ての国々。

「懶窩埜衲」「らんくわ(らんか)」丈草の別号。

「埜衲」「やどふ(やどう)」(底本は「やどう」)或いは「やのふ(やのう)」。「衲」は「衲衣(のうえ)」(出家修行者が着用する衣服のこと。「衲」は「繕う・継ぎ接ぐ」の意であり、人々の捨てた襤褸布を拾って洗って縫合せして着用したことに基づく。別に「糞掃衣 (ふんぞうえ)」 などとも称した)で、「田舎の僧・野僧」或いは一人称人代名詞で僧が自分を遜って言ふ語。ここは後者。

「謾書」「まんしよ」。妄(みだ)りに誤魔化して書いたものの意。]

 

 この序全体が芭蕉に対する思慕の情を以て埋められているのはいうまでもない。丈艸の観た芭蕉なるものを端的に示せとならば、第一にこの序を挙ぐべきであろう。が、この文章は芭蕉の風格を伝うると共に、丈艸その人の風雅観をも示している。二度まで法輪㶚橋を引合に出して、たまさかに市塵を離るる文吏官士に一拶を与えたのは、丈艸自身の体得した風雅の上から、期せずして生れた声でなければならぬ。

 芭蕉が「早稲の香」の一句を得た元禄二年には、丈艸もまだ俳壇の表面に姿を現していなかった。浪化は勿論のことである。『有磯海』一巻は単に芭蕉行脚の杖の跡を慕うだけではない、芭蕉その人を慕い、芭蕉によって遺された道を慕うのである。『有磯海』が元禄期の撰集中にあって、嶄然(ざんぜん)頭角を現しているのは偶然でない。今集中の丈艸の句を左に抄出する。

[やぶちゃん注:「嶄然頭角を現」すで、「他より一際抜きん出て才能や力量を現わす」の意。]

 

 わせのかややとひ出るゝ庵の舟   丈艸

[やぶちゃん注:「やとひ出るゝ」は「傭ひいでるる」で、座五は「いほのふね」。早稲を刈る頃ともなって、我が庵の舟遊びの小舟までが借り出されて行くという、秋の琵琶湖畔のフレーミングである。]

 

 聖霊も出てかりのよの旅ねかな   丈艸

[やぶちゃん注:「聖霊」は「しやうりやう」で、「出て」は「でて」。一九八九年岩波文庫刊の堀切実氏の編注になる「蕉門名家句選(下)」の評釈によれば、『旅中に魂祭りを迎えての吟である。今宵は聖霊たちも一時(いっとき)この世にお帰りになる――その聖霊たちと一緒に、自分も旅中の仮り枕をすることだ、といったところであろう。このとき心喪に服していた丈草の夢枕には、生前から「世にふるもさらに宗祇のしぐれ哉」(『虚栗』)と詠み、この世を仮りの世と観じていた芭蕉の姿があったのであろう』とある。私はこの宗祇の「世にもふるさらに時雨のやどりかな」にただその名を裁ち入れただけのこの芭蕉の句に非常に惹かれている。自分の生を宗祇という宇宙の中の僅かな点の時空間へと転じたそれは並大抵の詩人には出来ぬ絶対の仕儀だからに他ならない。]

 

 木啄の入まはりけりやぶの松    同

[やぶちゃん注:上五は「きつつきの」、中七は「いりまはりけり」。]

 

 啼はれて目ざしもうとし鹿のなり  同

[やぶちゃん注:上五は「なきはれて」で「鳴き腫れて」、「目ざし」は「めざし」で眼差(まなざ)し。妻恋に疲れた牡鹿(おじか)のそれをアップにするその手法は見事。]

 

 野山にもつかで昼から月の客    同

[やぶちゃん注:今夜の月を野で見るか、それとも、いっそ山でするかと、昼から落ち着かぬ風狂人を諧謔したもの。丈草自身のカリカチャイズではない。]

 

 友ずれの舟にねつかぬよさむかな  同

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「友ずれ」なのだから「友連(づ)れ」ではなく、舟の「とも擦(ず)れ」である。堀切氏は前掲書で、『船中夜泊の吟である。琵琶湖沿岸の水郷あたりに舟旅をしたときのことであろうか。自分の乗る舟と隣に碇泊する舟とが友擦れをする度に、軽い衝動を感じて、なかなか寝つかれないのである。折しも、秋の夜寒のころで、旅のわびしさが一層つのってくるのであろう』とされ、語釈も「友ずれ」に『共擦。互いにすれ合うこと。ここは、二艘の舟が並んでつながれていて、波にゆられる度に相方の舷』(ふなばた)『がぶつかりこすれ合うこと』とある。]

 

 寒けれど穴にもなかずきりぎりす  同

[やぶちゃん注:「きりぎりす」はここでは現在の蟋蟀(コオロギ)である。]

 

 やねふきの海をねぢむく時雨かな  同

[やぶちゃん注:堀切氏は前掲書で、『初冬のころ、浜心に近い家の屋根に乗って男が屋根葺をしている。そこへ突然ぱらぱらと時雨が降りかかってきたので、屋根葺の男は、来たなというふうに、かがんだまま身体(からだ)を棙じって海の方をふり向いたという光景である。男の視野には一瞬、時雨雲の下で寒々と光る海が入ったはずであるが、すぐさま身体を元へ戻して屋根葺の仕事を続けているのである。おそらく「海」は琵琶湖であろう』と適確な評釈をなさって、さらに『『句集』に中七「海をふりむく」とするのは改案か。「ふりむく」の方が表現に落ち着きが生じるが、「ねじむく」にも俳意が感じられて捨て難いところがある』と言い添えておられる。私は断然、「ねぢむく」でなくてはならぬと思う。]

 

 雪空や片隅さびし牛のるす     同

[やぶちゃん注:カメラがゆっくりとカーブしながらティルト・ダウンして、牛小屋へと進んでくる。私好みのワン・カットである。三好達治の散文詩「村」のようじゃないか!]

 

 竹簀戸のあほちこぼつや梅の花   同

[やぶちゃん注:「竹簀戸」は「たけすど」で、竹を粗く編んで作った枝折戸(しおりど:折った木の枝や竹をそのままに使った簡単な開き戸。多くは庭の出入口などに設ける)のこと。「あほちこぼつ」は「煽(あほ)ち毀(こぼ)つ」で「煽って壊す」こと。まさに瞬時のそれを高速度撮影でしっかりとスカルプティング・イン・タイムしたものである。]

 

 背戸中はさえかへりけり田にしがら 同

[やぶちゃん注:上五は「せどなかは」。堀切氏は前掲書で、『家の裏口の土間のあたりには食べたあとの田螺の殼がころがっていて、春とは名ばかり、ぶり返した寒さがひとしお身にしみることだ、というのである。元禄八年春の吟である。師を失くしたばかりの丈草の目には、殺生をしたあとの残骸である田螺の殼がうつろに映るのであろう』とされる。語注で「さへかへり」は『「冴え返る」の意。春になって寒さが戻ること。春の季題』とある。後の「田螺」も春の季題である。最後に『丈草が、生きるために殺生をしなければならぬ人のさだめに悶々としていたことは、「里の男のはみちらしたる田にしがらを、水底にしづめ待居』(まちゐ)『たれば、腥(なまぐさき)をむさぼれるどぢやうの、いくらともなく入こもりて」と前書した』、

 入替(いりかは)るどぢやうも死ぬに田にしがら(『初蟬』)

『の句などからも察せられる』とある。なお、ここで描写されるタニシであるが、これは琵琶湖固有種(過去は流下する瀬田川にも棲息したとされる)である一属一種の腹足綱原始紐舌目タニシ科アフリカタニシ(アフリカヒメタニシ)亜科ナガタニシ属ナガタニシ Heterogen longispira である可能性が高いように思われる。殻高は五センチメートルから最大で七センチメートルほどにもなり、本邦在来のタニシの中では最大級で、他種よりも殻皮が緑色がかったものが多い。螺管の上方に肩が生ずるため、螺塔部が有意に段々となるのを特徴とするが、時には肩が弱く、一見、ヒメタニシ(アフリカタニシ(アフリカヒメタニシ)亜科 Bellamya 属(或いは Sinotaia 属)ヒメタニシ Bellamya (Sinotaia) quadrata histrica:殻高約三・五センチメートル。北海道から九州に分布。中国からの外来種であるとする説もある。小型であるため、本邦では食用に適さないとされる)やオオタニシ(Bellamya 属(或いはマルタニシ属 Cipangopaludina)オオタニシ Bellamya (Cipangopaludina) japonica:殻高約六・五センチメートル。北海道から九州に分布)に似た個体が出現することもある。胎児殻の形態が他の種と大きく異なっており、殻頂自体は尖るが、それに続く螺層には特徴的な螺状の畝(うね)が生じ、畝の上が平坦部になる。大型であるため、古くからオオタニシなどとともに琵琶湖産として食用にされ、昭和末期頃までは年間数トンの漁獲量があったという。しかしその後、個体数が減少し、他の二枚貝類を目的とした貝曳漁(かいびきりょう)で少量が混獲される程度となったと言われ、中でも水質悪化の激しい南湖では激減しているとされる。二〇〇〇年には準絶滅危惧(NT)種に指定されてしまった(一部の琵琶湖水系以外の場所で見られるものがあるが、これは移入個体群で、神奈川県・岐阜県・京都府などの記録があるものの、琵琶湖産魚介類の放流移植に伴って無意識的に人為移入されたものと推定されている)。本種は胎殻の類似などから、中国雲南省のコブタニシ属 Margarya に近縁であると言われている。属名は変わった形の胎殻を表わし、種小名は長く伸びたような螺塔に由来する。他に本邦産種にはBellamya 属(或いはマルタニシ属 Cipangopaludina)シナタニシ亜種マルタニシ Bellamya (Cipangopaludina) chinensis laeta:殻高約四・五~六センチメートル。北海道から沖縄に分布)がいる。他に「ジャンボタニシ」などという和名で呼んでしまった養殖用に持ち込まれて(昭和五六(一九八一)年)野生化した外来侵入種で、大型(最大八センチメートル)の原始紐舌目リンゴガイ上科リンゴガイ科リンゴガイ属スクミリンゴガイ Pomacea canaliculata とラプラタリンゴガイ Pomacea insularum が西日本を中心に増えているが、彼らはタニシとは縁も所縁もない全くの別種である。(以上は主にウィキの「タニシ」に拠った)。]

 

 片尻は岩にかけけりはな筵     同

[やぶちゃん注:座五は「はなむしろ」。花茣蓙(はなござ)。いろいろな色に染めた藺 () で花模様などを織り出した茣蓙。無地に捺染 (なっせん) を施したものもある。はなむしろ。夏の季題。]

 

 ほとゝぎすたれに渡さん川むかへ  同

[やぶちゃん注:この句、ちょっと意味をとりかねている。識者の御教授を乞う。]

 

 涼しさのこゝろもとなしつたうるし 同

[やぶちゃん注:季題は「涼しさ」で夏。されば蔦漆(ムクロジ目ウルシ科ウルシ属ツタウルシ Toxicodendron orientale は青々しくぺらぺらしている(ツタウルシは晩秋にならないと紅葉しない)。その微風に微かに揺れるのを詠んだ。「こゝろもとなし」は前後の「涼しさ」と「つたうるし」に掛かるようになっているのである。]

 

 この外にもう一つ「朝霜や茶湯の後のくすり鍋」という芭蕉迫慕の句があるわけであるが、前に引いたからここには省略する。

 「わせのかや」の句は『丈艸発句集』には「雇ひ出さるゝ」となっている。「出さるゝ」か「出らるゝ」か、二つより読み方はなさそうであるが、多分前者であろう。

 「友ずれ」というのは「とも擦れ」ではないかと思う。『丈艸発句集』には「友づれの」とあり、「有朋堂文庫」には「一本「友つれて」とあり」[やぶちゃん注:総て鍵括弧はママ。]と註してある。これでは人間の友達を連れて舟に乗ったが、なかなか寝られぬという風に解される虞(おそれ)がある。ここは友達などが登場しては面白くない。『曠野』にある「友ずれの木賊(とくさ)すゞしや風の音」という山川の句の「友ずれ」と同じことで、近く舫(もや)った舟が浪か何かのために互に擦れ合う、そのために眠れぬというのではあるまいか。少くともそう解した方が、夜寒の情が身に逼(せま)るような気がする。

[やぶちゃん注:「山川」寺村山川(さんせん 生没年不詳)。伊勢津藩士で榎本其角の門人。]

 「やねふきの」の句は『丈艸発句集』に「海をふりむく」となっている。現在屋根を葺きつつある最中に時雨が来た。直ぐ晴れるかどうか、空模様を見るために手を休めて後を振向いたのであろう。この句にあっては「海」の一字が画竜点晴の妙を発揮している。この一字あるによって、海を背にした家の屋根に人が上って、屋根を葺いているという景色がはっきり浮んで来る。更に想像を逞(たくま)しゅうすれば、黒み渡った海上には、時雨雲の下に遠い帆影なども動いているかも知れぬ。海の方から時雨が来たために其方(そちら)を見たのか、時雨が海の方へ抜けるためにその行方を見たのか、その辺はいずれでも構わない。余念なく屋根を葺いている男が、時雨が来たことによって背後の海を顧みたという、そこに巧まざる躍動がある。「ふりむく」ではいささか軽過ぎる。やはり「ねぢむく」という強い言葉の方が適切のようである。

 『有磯海』所収の句は必ずしも従来の作品に比して、特に異色あるものとも思われぬ。目まぐるしく変化するのを才分の豊なものと解する批評家は、丈艸の作品を以て一所に停滞するものと見るかも知れない。丈艸の丈艸たる所以は、変化を求めざる世界において、自在な歩みを続ける点に存するのである。

 芭蕉生前と歿後とでは、蕉門作家の句にも多くの変化が認められる。純客観の本尊と称せられる凡兆でさえ『猿蓑』集中の句と、十年後の『荒小田』集中の句とでは、よほどの軒輊(けんち)を示しているのを見れば、その他は推して知るべきであろう。但丈艸の句にはそういう意味の変化の差を認めがたい。彼の句が軽々に時流を逐って[やぶちゃん注:「おって」。]変化せぬのは、それだけ深い根抵に立っているためではあるまいか。

[やぶちゃん注:「荒小田」(あらおだ)舎羅編。元禄一四(一七〇一)年刊。

「軒輊」「軒」は「車の前が高い」こと、「輊」は「車の前が低い」ことを意味し、そこから「上がり下がり・高低」、転じて「優劣・軽重・大小」などの差があることを言う。]

 

 『続有磯海』は『有磯海』より三年後に、同じく浪化の名によって刊行された撰集である。この集における丈艸の句はさのみ多くないが、依然悠々たる歩みを続けている。

 柊にさえかへりたる月夜かな    丈艸

[やぶちゃん注:「月夜」で秋であるが、ここではシソ目モクセイ科 Oleeae 連モクセイ属ヒイラギ 変種ヒイラギ Osmanthus heterophyllus var. bibracteatus が芳しい白い花を咲かせていると読むべきで、さすれば、季節は実際には初冬(現行では「柊の花」は初冬(「立冬」(十一月八日頃)から「大雪」の前日(十二月七日頃))の季語とする)を想定してよいように思う。花無しでは「さへかりたる」が生きてこない。因みに、私は季語を軽蔑しているので問題にする気も実はない。]

 

 胡床かく岩から下やふぢの花    同

[やぶちゃん注:初五は「あぐらかく」。藤の花を俯瞰するロケーションに新味がある。]

 

 あら壁や水で字を吹夕涼み     同

[やぶちゃん注:松尾勝郎氏編著「蝸牛 俳句文庫17 内藤丈草」(一九九五年蝸牛社刊)によれば、『「あら壁」は荒塗をしたままの』塗りたての『壁。夕涼みをしている子供が、口にふくんだ水を荒壁に吹きかけ、大きな字を書きつける。夕涼みの子供たちのいたずら』とある。それ叱らぬ丈草には後の一茶の優しさを感ずる。]

 

   嵯峨の辺に逍遥して

 猪追の寐入か藪の子規       同

[やぶちゃん注:「ししおひのねいるかやぶのほととぎす」。「猪追」は、農地の傍らに小屋や掛け物をして、そこで笛を吹いたり、板や撞木を打ち鳴らしたりして、通常は複数で交代したりして夜通し、田畑の見張りをする方法で、猪や鹿の害を避ける方法として、ごく近代まで行われていた。松尾氏の前掲書には、『猪を追いはらう役の猪追いも、どうやら寝てしまったよう』で、『竹藪から漏れてくるほととぎすの鳴く音』だけが、『静かな嵯峨野の夏の夜』に聴こえるばかりといった感じの評釈をされておられる。『嵯峨野は竹薮で知られる』ともある。因みに、ホトトギスは夜も鳴くことで古くから知られ、詩歌にも詠まれている。実際には深夜ではなく、宵の頃と、早暁の三時頃から日の出頃にかけてよく鳴く(私も暗い内に直上の裏山からの彼らの声のために起こされる)。特に飛びながら鳴くようである。]

 

 鹿小屋の火にさしむくや菴の窓   同

[やぶちゃん注:先に挙げた諸本では堀切氏も松尾氏も「鹿小屋」を「しかごや」と読んでおられるのだが、どうも私には従えない。これはこれで「ししごや」と読みたい。前の「猪追(ししおひ)」小屋と同じものであるが、山間では「鹿」で「しし」と読んで猪をも鹿をも指したし、前注で示した通り、セットで農作物や農地を荒らす害獣として一緒に認識されていたからである(私の『早川孝太郎「猪・鹿・狸」』(全電子化注完結)の各所を読まれたい)。堀切氏は『仏幻庵の秋の景であろう。近くの山畠にある鹿』『小屋の灯がぽつんと一つだけ見える――その灯に向かい合うように、わが草庵の窓があるというのである。夜ごとに見える鹿小屋の灯だけが、草庵に孤独が生活を送る丈草の心に、人なつかしさの情けを蘇らせるのであろう』とある。松尾氏の評釈もほぼ同じである。]

 

   田家

 茶の酔や菜たね咲ふす裏合せ    同

[やぶちゃん注:「田家」は「でんか」で田舎の家であるが、この「田」は広義の農耕地畠地に接した田舎家の謂いであろう。堀切氏前掲書によれば、「菜たね」は『菜種の花で、菜の花のこと』、座五は『裏と表とが互いに向き合っていること。背中合わせ。元来は二軒の家が互いにうしろ向きに建っていること』を指すが、『ここは裏手がすぐ菜畑になっているのを、このように見立てたものであろう』とされ、評釈では『仏幻庵での生活ぶりのしのばれる句である。庵の裏手の畑には一面に菜の花が咲きふしている』(比較的低い位置で花が咲き広がっていることを謂っていよう)『が、自分もそれを眺めながら、茶を存分に飲』み味わって、『ぼんやりと寝そべっていることだ、というのであろう。芭蕉の俳文「月見ノ賦」(『和漢文操』巻一)によれば、師翁から白楽天に擬せられた丈草であるので酒の酔とも無縁ではなかったろうが、あえて茶の酔に悠然としているさまをとらえて詠んだところがかもしろい』とある。松尾氏前掲書では、丈草は茶の湯にも造詣が深かった旨の記載がある。]

 

 屋のむねの麦や穂に出て夕日影   同

[やぶちゃん注:こうした巧まざるトリミングの妙にこそ丈草の句の秘訣があると私は思っている。]

 

 芭蕉のような偉大な指導者を失った後、俳壇が乱離に赴くのは当然の話である。門弟が各異を立てて自己の主張を誇揚するのもまた已むを得ない話かも知れぬ。けれどもこういう形勢に左右されて、自分の足許までしどろもどろになるのは、その人の識量の大ならざることを語るものである。要は芭蕉生前に体得した道の深浅如何にある。丈艸の足許に狂いを見せぬのは、必ずしも彼の境遇が世外に超然としていたためばかりではない。一たび芭蕉によって得た道を、惑わずに歩み続けるだけの確信を有したために外ならぬ。

 去来が卯七と共に『渡鳥集』を撰んだのは宝永元年、芭蕉歿後十年の歳月を閲(けみ)しているが、丈艸の句には何の狂いも生していない。

[やぶちゃん注:「宝永元年」一七〇四年。元禄十七年三月十三日(グレゴリオ暦一七〇四年四月十六日)に元禄から改元。]

 

 山鼻や渡りつきたる鳥の声     丈艸

[やぶちゃん注:「山鼻」は「やまはな」で山の端の意。この鳥は渡り鳥(秋の季題)であればこそ評釈はいらぬ。]

 

 送り火の山にのぼるや家の数    同

[やぶちゃん注:「のぼる」のは送り火の煙。]

 

 戸を明て月のならしや芝の上    同

[やぶちゃん注:「明て」は「あけて」。松尾氏の前掲書によれば、『庵の戸を開けて外に出てみると、明るい月光が柴を一面に照らし出している。「月のならし」は月の光が隈なく照らすさま。元禄十六年八月十四日、小望月の吟』と評釈しておられる。「小望月(こもちづき)」は望月の前夜の月。陰暦十四日の月を指す。グレゴリオ暦では一七〇二年九月二十四日である。]

 

 鍋本にかたぐ日影や村しぐれ    同

[やぶちゃん注:初五は「なべもと」で鍋を使っている竈か七輪の下(もと)。独り夕餉の支度である。「村しぐれ」は「叢時雨」で、一頻り激しく降っては止み、止んでは降る雨のこと。冬の季題。]

 

 水風呂に筧しかけて谷の柴     同

[やぶちゃん注:「水風呂」は先にも出たが、再掲しておくと、「すいふろ」で、茶の湯の道具である「水風炉 (すいふろ) 」に構造が似るところから、桶の下に竈(かまど)が取り付けてあって浴槽の水を沸かして入る風呂。「据(す)ゑ風呂」とも言う。「筧」は「かけひ(かけい)」で水を引くために渡した樋(とい)のこと。風呂を沸かすに谷川の水を引くために筧を引き掛け、また、谷を歩いて焚き付けにする柴を集める、まさに隠者の体(てい)である。]

 

 狐なく岡の昼間や雪ぐもり     同

[やぶちゃん注:松尾氏の前掲書に、『「雪ぐもり」はいまにも雪になりそうな、底冷えのする曇り空。冷え冷えする雪催』(ゆきもよ)『いの昼下り、岡辺に鳴く狐の』「こうこう」という『声も、いかにも寒々しく聞こえる。元禄十五年二月二十二日、仏幻庵に浪化、支考らが来訪した折の吟』とある。グレゴリオ暦では一七〇二年三月二十日である。]

 

 啄木鳥の枯木さがすや花の中    同

[やぶちゃん注:「きつつきやかれきをさがすはなのなか」。キツツキは秋の季題であるが、ここは「花」で春。咲き誇る桜を尻目に、枯れ木を探しては餌を突(つつ)き探す啄木鳥へと、大胆にずらして、しかもその飛び移る鳥影に美しい桜の花を背景としてぼかしつつも出すという、まさに俳諧的妙味の句と言えよう。掲句は松尾氏の前掲書によれば「渡鳥集」(去来・卯七編。丈草跋文(元禄一五(一七〇二)年十一月)で刊行は宝永元(一七〇四)年刊)の句形で、「菊の道」(紫白女(しはくじょ)編・元禄十三年刊)では、

 木つゝきや枯木尋(たずぬ)る花の中

であり、「東華集」(支考編・元禄十三年刊)・「丈草句集」では、

 木つゝの枯木をさがす花の中

とする。私は断然、「木つゝきや枯木尋る花の中」を推す。]

 

   草庵

 火を打ば軒に鳴合ふ雨蛙      同

[やぶちゃん注:「ひをうてばのきになきあふあまがへる」。松尾氏前掲書に「志津屋敷(しづやしき)」(箕十(きじゅう)編・元禄十五年刊)所収の句として酷似した、

 火を打てば軒に答(こたふ)る蛙(かはづ)かな

の句を挙げてあり、こちらの方が出来がよい。同句の松尾氏の評釈では(踊り字「〱」を正字化した)、『句意は嘯風(しょうふう)宛書簡の「かちかちと打てども、例のしめりほくち、小腹のたついきほひ、ひゞきに軒近く、雨蛙の、をのが友の声かと取りちがへたるにや、かならず鳴き出すおかしさ」に尽きる。「打てば響く」の諺を連想させリズム。元禄十四年』春『の作』とある。]

 

   木曾川の辺にて

 ながれ木や篝火の空の時鳥     同

[やぶちゃん注:堀切氏前掲書評釈に、『大水のために溢(あふ)れんばかりになった木曾川の川面を次から次へと』流木が落ち『流れてくる。堤には』『あかあかと篝火が焚かれ、物々しく警戒する人たちの姿が見える――そんなとき』、『時鳥が一声鳴き過ぎたというのである。凄絶な気配の漲った夜明け間近の情景である』と評され、「時鳥」について、『古来、鳴き声を賞美されてきた鳥であるが、その声は人の叫び声のようにも聞こえるもの』であるともされる。特異な緊張感や災害窮迫の恐怖を倍加させる効果を狙ったものともとれよう。また、堀切氏は本句を『元禄十三年夏の美濃路行脚の折の吟であろう』とされる。同年十二月五日附の丈草の書簡にもこの句が載っているとある。]

 

   元春法師が身まかりけるに

 世の中を投出したる団扇かな    同

[やぶちゃん注:「よのなかをなげいだしたるうちはかな」。

「元春法師」不詳。]

 

 「送り火」の句の如き、「鍋本に」の句の如き、あるいは「ながれ木や」の句の如き、調子の引緊った[やぶちゃん注:「ひきしまった」。]点からいっても、底に湛(たた)えた幽玄の趣からいっても、『有磯海』時代に比して更にその歩を進めているように思う。これらの句は年と共に澄む丈艸の心境の産物ではあるが、また句における不退転の努力を見るに足るものである。

 「啄木鳥」の句は『東華集』には「啄木鳥や枯木をさがす」とあり、『菊の道』には「枯木尋ぬる」とある。『東華集』『菊の道』は共に元禄十三年刊であるから、丈艸としては「啄木鳥の枯木さがすや」で落着(おちつ)いたのかも知れぬ。これは眼前の景色だけでなしに、何か寓するところがあるようである。

 元春法師追悼の句は丈艸の一面を窺うべきものであろう。団扇を投出す如く世の中を投出したというのは、尋常の追悼句ではない。如何にも禅坊主らしい気がする。

 

今日の先生――「奥さん、御孃さんを私に下さい」――「下さい、是非下さい」「私の妻(つま)として是非下さい」――「急に貰ひたいのだ」――『云ひ出したのは突然でも、考へたのは突然でない』

○茶の間。(基本的に先生と奥さんの畳表面に置いた低い位置からの俯瞰交互ショット)

 長火鉢の前。箱膳の向うの先生。食事後。黙って敷島を吹かしている。やや落ち着かない。
 奥さん、口元に軽い笑みを浮かべながら長火鉢の向うでやや首を上げて先生の様子を黙って見ている。
 下女を呼ぶ奥さん。[やぶちゃん注:「□□」には下女の名が入る。]

奥さん「□□や。膳をお下げして。」

 奥さん、鉄瓶に水を注し、また火鉢の縁を拭いたりしている。
 先生、そそくさと二本目の敷島を懐から出し、銜える。
 火種を差し出す奥さん。
 火を貰う先生の手のアップ(向うにソフト・フォーカスの奥さん)。震える煙草(アップ)。
 妙にせっかちに何度もスパスパと吹かす先生。

先生 「……あの、奥さん……あ、今日は何か、これから特別な用でも、ありますか?」

奥さん「(穏やかな笑顔のままで。ゆっくりと)いゝえ。」

 かたまったような先生。灰を火箸で調える奥さん。間。

奥さん「(同じく)何故です?」

先生 「……実は……少しお話したいことが、あるのですが……」

奥さん「(同じく)何ですか?」

 奥さん、笑顔のまま先生の顔を見る。 先生、軽い咳払いをし、暫く、間。

先生 「……少し陽射しが出てきましたかね……」

奥さん「ええ、そうですね。」

先生 「……今年の冬は、そう寒くはないですね……」

奥さん「……ええ、まあ、そうですね。」

先生 「……あの、最近のKは、どう思われますか……」

奥さん「……は? 特にこれといって気にはなりませんが……」

先生 「……その、○○の奴が近頃、奥さんに何か、言いはしませんでしたか?」[やぶちゃん注:「○○」にはKの姓が入る。]

 奥さん、思いも寄らないという表情で。

奥さん「何を?……(間)……貴方には、何か仰やったんですか?」

 

○茶の間。(続き。基本的に先生と奥さんの畳表面に置いた低い位置からの俯瞰交互ショット)

先生 「あっ……いいえ……(間)……その、ここ数日、互いに忙しくて、ろくに話も出来なかったから、また例の調子で黙りこくっているのかと、ちょいと聞いてみただけのことです。別段、彼から何か頼まれたわけじゃありません……これからお話したいことは彼に関わる用件ではないのです。」

奥さん「(笑顔に戻って)左右ですか。」

 後を待っている。間。

先生 「(突然、性急な口調で)奥さん、御孃さんを私に下さい!」

 それほど驚ろいた様子ではないが、少し微苦笑して、暫く黙って唇を少し開いては閉じ、黙って先生の顔を見ている。やや間。

先生 「下さい! 是非下さい!……(間)……私の妻として是非下さい!」

奥さん「上げてもいいが、あんまり急じゃありませんか?」

先生 「急にもらいくたくなったのです!」

 奥さん、笑ひ出す。笑いながら、

奥さん「よく考えたのですか?」

先生 「もらいたいと言い出したのは突然ですけれど……いいえ! もらいたいと望んでいたのはずっと先(せん)からのことで……決して昨日今日の突然などでは――ありません!」

 茶の間の対話の映像はままで、映像の会話は次のナレーションの間はオフ。

今の先生のナレーション「……それから未だ、二つ三つの問答がありましたが、私はそれを忘れて仕舞いました。男のように判然した所のある奥さんは、普通の女と違ってこんな場合には大変心持よく話の出来る人でした。……」

 奥さんのバスト・ショット。

奥さん「よござんす、差し上げましょう。……差し上げるなんて威張った口のきける境遇ではありません。どうぞもらってやって下さい。御存じの通り、父親のない憐れな子です。」

 ここも、茶の間の対話の映像はままで、映像の会話は次のナレーションの間はオフ。

先生のナレーション「……話は簡単で、且つ明瞭に片付いてしまいました。最初から仕舞いまでに、恐らく十五分とは掛らなかつたでしょう。……奥さんは何の条件も持ち出さなかったのです。『親類に相談する必要もない、後から断ればそれで沢山だ』と言いました。『本人の意向さへたしかめるに及ばない』と明言しました。……そんな点になると、学問をした私の方が、却って形式に拘泥するぐらいに思われたものです。……」

先生 「ご親類は兎に角、ご当人にはあらかじめ話をして承諾を得るのが筋では、ありませんか?」

奥さん「大丈夫です。本人が不承知の所へ、私があの子をやる筈がありませんから。」

 見上げる満面の自信と笑みの奥さん(俯瞰のバスト・ショット)。

   *

(昨日の『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月30日(木曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第九十八回の終りと、今日の『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月31日(金曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第九十九回のシークエンスを繋げて、オリジナルにシナリオ化した)

   *

 自分の室へ歸つた私は、事のあまりに譯もなく進行したのを考へて、却つて變な氣持になりました。果して大丈夫なのだらうかといふ疑念さへ、どこからか頭の底に這ひ込んで來た位です。けれども大體の上に於て、私の未來の運命は、是(これ)で定められたのだといふ觀念が私の凡てを新たにしました。

 私は午頃又茶の間へ出掛けて行つて、奥さんに、今朝(けさ)の話を御孃さんに何時通じてくれる積かと尋ねました。奥さんは、自分さへ承知してゐれば、いつ話しても構はなからうといふやうな事を云ふのです。斯うなると何んだか私よりも相手の方が男見たやうなので、私はそれぎり引き込まうとしました。すると奥さんが私を引き留(と)めて、もし早い方が希望ならば、今日でも可(い)い、稽古から歸つて來たら、すぐ話さうと云ふのです。さうして貰ふ方が都合が好いと答へて又自分の室に歸りました。然し默つて自分の机の前に坐つて、二人のこそ/\話を遠くから聞いてゐる私を想像して見ると、何だか落ち付いてゐられないやうな氣もするのです。私はとう/\帽子を被つて表へ出ました。さうして坂の下で御孃さんに行(い)き合ひました。何にも知らない御孃さんは私を見て驚ろいたらしかつたのです。私が帽子を脫(と)つて「今御歸り」と尋ねると、向ふではもう病氣は癒つたのかと不思議さうに聞くのです。私は「えゝ癒りました、癒りました」と答へて、ずん/\水道橋(すゐだうはし)の方へ曲つてしまひました。(本日分から。太字は私が附した)

   *

……先生……確かに……
あなたの未来の運命は……
これで定められたのでした……
……おぞましく孤独な運命として…………

   *

最終シークエンスに注意せよ! 「又」である。この「又」は勿論、あの先生にとって忘れられぬ屈辱のおぞましい記憶である「第(八十七)回」の雨上がりの道でKと御嬢さんとKに遭遇してしまった場所と――同じ場所――であるということを意味しているのである。そうして、こここそが、私が円環の中心であり、ゼロ座標であると目している地点でもあるのである。

 

2020/07/30

大和本草卷之十三 魚之下 鱸魚(スズキ)

 

鱸魚 大ナル者二三尺三月以後七月マテ肥ユ暑月

多ク乄味ヨシ八月ヨリヤスル夏秋サシミ鱠トシ鮓ト

ス夏月膓ノ味ヨシクモワタト云膓アリ脂多ク味ヨシ

病人忌之小ナルヲセイコト云松江ナルヘシ中華松江

ノ鱸ハ其大サ日本ノセイコノ如シト云中華ノ鱸ハ

小ナリ本草ニノスル處長僅ニ數寸トアリ○河鱸味尤

ヨシ暑月ノ佳品ナリ出雲ノ松江ノ湖ノ鱸味最スク

レタリ海ト河トノ間ニアルモ味ヨシ漁人釣之或戈ニテ

ツキテトル○鰷魚ヲセイコト訓ズルハ非ナリ鰷魚ハアユ

也セイコハ小鱸也

○やぶちゃんの書き下し文

鱸魚(すずき) 大なる者、二、三尺。三月以後、七月まで肥ゆ。暑月、多くして、味、よし。八月より、やする。夏・秋、さしみ・鱠〔(なます)〕とし、鮓〔(すし)〕とす。夏月、膓〔(わた)〕の味、よし。「くもわた」と云ふ膓あり、脂、多く、味、よし。病人、之を忌む。小なるを「せいご」と云ふ。「松江(せうがう)」なるべし。中華の松江の鱸は其の大いさ、日本の「せいご」のごとしと云ふ。中華の鱸は、小なり。「本草」にのする處、『長さ僅かに數寸』とあり。

○河鱸〔(かはすずき)は〕、味、尤もよし。暑月の佳品なり。出雲の松江(まつえ)の湖の鱸、味、最もすぐれたり。海と河との間にあるも、味、よし。漁人、之れを釣り、或いは戈(ほこ)にて、つきて、とる。

○鰷魚〔(はや)〕を「せいご」と訓ずるは非なり。鰷魚は「あゆ」なり。「せいご」は小〔さき〕鱸なり。

[やぶちゃん注:先行する「大和本草卷之十三 魚之上 河鱸 (スズキ)」と甚だ重複する記載が多いが、煩を厭わず、注も再掲する。条鰭綱棘鰭上目スズキ目スズキ亜目スズキ科スズキ属スズキ Lateolabrax japonicus である。多くの海水魚が分類学上、スズキ目 Perciformes に属することから、スズキを海水魚と思っている方が多いが、彼らは海水域も純淡水域も全く自由に回遊するので、スズキは淡水魚であると言った方がよりよいと私は考えている(海水魚とする記載も多く見かけるが、では、同じくライフ・サイクルに於いて海に下って稚魚が海水・汽水域で生まれて川に戻る種群を海水魚とは言わないし、海水魚図鑑にも載らないウナギ・アユ・サケ(サケが成魚として甚だしく大きくなるのは総て海でであり、後に産卵のために母川回帰する)を考えれば、この謂いはやはりおかしいことが判る。但し、生物学的に産卵と発生が純淡水ではなく、海水・汽水で行われる魚類を淡水魚とする考え方も根強いため、誤りとは言えない。というより、淡水魚・海水魚という分類は既に古典的分類学に属するもので、将来的には何か別な分類呼称を用意すべきであるように私には思われる)ウィキの「スズキ」によれば、『冬から春に湾奥(干潟、アマモ場、ガラモ場、砂浜海岸)や河口付近、河川内の各浅所で仔稚魚が見られ』、『一部は体長』二センチメートル『ほどの仔稚魚期から』、『純淡水域まで遡上する』。『この際、遡上前の成長がより悪い個体ほど』。『河川に遡上する傾向がある』。『仔稚魚は遊泳力が非常に弱いため、潮汐の大きな有明海では上げ潮を利用して』、『潮汐の非常に小さい日本海では塩水遡上を利用して河川を遡上する』。『若狭湾で、耳石の微量元素を指標にして調べた結果によれば』、『純淡水域を利用する個体の割合は』三『割強に上る』。『仔稚魚はカイアシ類や枝角類などの小型の生物から、アミ類、端脚類などの比較的大型の生物へとを主食を変化させながら成長』し、『夏になると』、『河川に遡上した個体の一部が』、五センチメートル『ほどになり』、『海に下る』。ところが、特に春から秋にかけての水温の高い時期には、本種の浸透圧調整機能も高いことから、成魚期以降でもかなりの個体が河川の純淡水域の思いがけない上流域まで遡上する(益軒が「夏・秋」を食味の最上期と叙述するのと合致する)。堰の無かった昔は、琵琶湖まで遡上する個体もいたとされるのである。但し、種としてのスズキは、冬には沿岸及び湾口部・河口などの外洋水の影響を受ける水域で産卵や越冬を行ない、また純淡水域のみでは繁殖は出来ない。則ち、少なくともライフ・サイクルの産卵・発生・出生期には絶対に海水・汽水域が必要なのである私自身、例えば、横浜市の戸塚駅直近の柏尾川(途中で境川に合流し、江の島の北手前で相模湾にそそぐ。河口からは実測で十四キロメートル以上はある)で四十センチメートルを優に超える大きな成魚の数十尾以上の群れが遡上するのを何度も目撃している。以下に以上の生態上の事実を真面目に判り易く述べても、スズキを純粋に海の魚に決まってると思っている人はなかなか信じて呉れず(こういう頑なな人は存外、多い。困るのは魚通を自認している人ほどその傾向が強いことである)、私の作った都市伝説だと思われる始末で、ほとほと困るのだが。なお、スズキは出世魚としても知られ、地方によってサイズと呼称が異なる。

セイゴ(コッパ)→フッコ→スズキ→オオタロウ(ニュウドウ)

セイゴ→ハネ→スズキ(関西)

セイゴ→マダカ →ナナイチ→スズキ(東海)

ハクラコ→ハクラ→ハネ→スズキ(佐賀)

などである。こうした異名の詳細は「ぼうずコンニャクの市場魚貝類図鑑」の「スズキ」のページの最後の「地方名・市場名」が詳しいので参照されたい。

「八月より、やする」「八月」は陰暦なので注意。新暦では八月下旬から十月上旬となる。「やする」は「瘦する」。痩せ始める。但し、この謂いには疑問がある。実際にスズキが痩せるのは産卵後の春であって、秋以降ではない。確かに、脂が乗る梅雨時から夏にかけてが旬とされるものの、秋から初冬にかけて、産卵のために海から遡上してくる♀は腹が太く(子持ちで脂もそのために乗っているのだから、当然)、寧ろ肥えて見える個体も多いからである。なお、「スズキは性転換を行い、スズキは、五十センチメートルまでがで、それ以上になるとに性転換する」と言う説が古くから信じられ、今もそう思っている釣り人や業者がいるが、これは都市伝説並みの誤りである。釣りサイト「fimo」の「スズキの性転換」で水産研究者による『スズキの雄雌の『標準体長』組成を調べたデータ』(しかも一九六〇年代の研究資料である)も掲げられて、否定されている。

「鮓〔(すし)〕」熟れ鮓。ちょっと今は食わないな。でも、美味そうだ(私は「鮒鮓」が大の好物である)。

「膓〔(わた)〕」『「くもわた」と云ふ膓あり』私の知るところでは、「くもわた」は鱈(タラ目タラ科タラ亜科マダラ属マダラ Gadus macrocephalus)の白子の異名である。調べてみると、スズキの白子は相当に(タラ以上という評価もある)美味いらしい。私は個人的にあまり白子自体が好きではない(妻は絶対禁忌食物である)から、タラとアンコウ以外のそれは食べたことはない。「鮟肝」は例外的に絶品。禁断のトラフグの肝も、とあるところで食べたことがあるが、鮟肝の方が遙かに美味である。

「松江(せうがう)」「中華の松江」現在の上海市松江区であろう。東の黄海から黄浦江が入り込み、その上流は広大な太湖へと繋がっている。藤井統之氏の論文「松江と鱸」(平成二四(二〇一二)年・PDF)が、当地と出雲の松江を語られ、「大和本草」の本記載も掲げて、考証されておられる。必見である。

『「本草」にのする處、『長さ僅かに數寸』とあり』「本草綱目」の「鱗之二」のそれは以下。

   *

鱸魚【宋・嘉定。】

釋名 四鰓魚。時珍曰、『黒色曰盧。此魚白質黒章、故名。淞人名四鰓魚。』。

集解 時珍曰、『鱸出吳中、淞江尤盛、四五月方出。長僅數寸、狀微似鱖而色白、有黑㸃、巨口細鱗、有四鰓。楊誠齋詩頗盡其狀、云、『鱸出鱸鄕蘆葉前 垂虹亭下不論錢 買來玉尺如何短 鑄出銀梭直是圓 白質黑章三四㸃 細鱗巨口一雙鮮 春風已有真風味 想得秋風更逈然』。「南郡記」云、『吳人獻淞江鱸鱠於隋煬帝。帝曰、「金虀玉鱠、東南佳味也」。』。

肉 氣味 甘、平、有小毒。宗奭曰、『雖有小毒、不甚發病。』。禹錫曰、『多食、發痃癖瘡腫、不可同乳酪食。』。李廷飛云、『肝不可食剝人面皮。』。詵曰、『中鱸魚毒者、蘆根汁解之。』。

主治 補五臟、益筋骨、和腸胃、治水氣、多食宜人、作鮓尤良。曝乾甚香美【「嘉定」。】。益肝腎【宗奭。】安胎補中。作鱠尤佳【孟詵。】。

   *

先の論文で藤井氏は、『現代版本草の『中薬大辞典(1986)』には、≪李時珍は鱸が松江の四鰓魚(杜父魚科松江鱸魚 Trachidermus fasciatus Heckel)だと見做しているが』、『その根拠とした“状は鱸魚にやや似て色白、黒点あり、巨口細鱗”等の特質は、まさに鮨科の鱸魚で、松江鱸魚ではない。≫とある。鮨はヒレか魚名のハタ。鮨科は Serranidae で、英和辞書ではスズキとあるが』、『専門用語としてはハタ科となる。杜父魚科はカジカ科。中国語Wikipedia『維基百科』には≪松江鱸 Trachidermus fasciatus(ヤマノカミ、山の神(両者とも原文)) ≫とある。松江鱸=山の神であるが、中国が鱸形(スズキ)目 Perciformes であるのに対して』、『日本ではカサゴ目 Scorpaeniformes。松江鱸は明人が混同し』、「本草綱目」は『今もこれだから、益軒が戸惑うのも無理はない。益軒は筑前生まれの福岡藩士である。絶滅危惧種とされる山の神が』、『今』、『唯一棲む有明海に筑後川が流れ込む。筑後川上流の別称上座川に、川鱸これありと自著『筑前国続風土記』に載る。別項に杜父魚はハゼに似るという記述もある。山の神も見たに違いないが、目に山の神=松江鱸の図式なく看過したようだ。松江命名者の見え方も益軒と同じであろう。ところでスズキ目の科レベルの多様化はジュラ紀と白亜紀との境界付近で起きたらしいから、鱸と松江鱸が分岐したのがその頃か、また』、『山の神がカサゴ目なら恐竜時代か』と驚くべき時間をドライヴされて論じておられ、面白い。

「河鱸〔(かはすずき)〕」「海鱸〔(うみすずき)〕と形狀同じ」当然です。同種ですから。益軒は同じ類の別種として見ていたようだが、上記のように現代人の多くが、「海の魚」と信じて疑わない事実に照らせば、遙かに益軒先生の方が「まとも」と言える。但し、条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目スズキ目スズキ亜目スズキ上科 Percoidea に属する、広義の「スズキ」の仲間で、海産のメバルによく似ている(事実、姿は海水魚にしか見えない)、
スズキ上科ペルキクティス科 Percichthyidae オヤニラミ属オヤニラミ Coreoperca kawamebari
がいるから、「河鱸」ってえのはそれじゃないの? と言われる御仁もあろうが、そういうツッコミをされる方に限って私の過去記事を読んでくれていない。残念ながら、益軒先生は「オヤニラミ」を、とうに、本巻の別項で既に記載し終えているのである。「大和本草卷之十三 魚之上 水くり(オヤニラミ)」を参照されたい。――と「大和本草卷之十三 魚之上 河鱸 (スズキ)」と注したのだったが、前の藤井氏の引用からは、条鰭綱スズキ目カジカ科ヤマノカミ属ヤマノカミ Trachidermus fasciatus を正体の最有力候補とする(或いは加える)必要が出てきた。

「戈(ほこ)」突き銛や「やす」(簎・矠)の類い。

「鰷魚〔(はや)〕」『鰷魚は「あゆ」なり』この限定は誤り。「ハヤ」類「ハエ」「ハヨ」とも呼ぶ)で、これは概ね、

コイ科ウグイ亜科ウグイ属ウグイ Pseudaspius hakonensis

ウグイ亜科アブラハヤ属アムールミノー亜種アブラハヤ Rhynchocypris logowskii steindachneri

アブラハヤ属チャイニーズミノー亜種タカハヤ Rhynchocypris oxycephalus jouyi

コイ科Oxygastrinae 亜科ハス属オイカワ Opsariichthys platypus

Oxygastrinae 亜科カワムツ属ヌマムツ Nipponocypris sieboldii

Oxygastrinae 亜科カワムツ属カワムツ Nipponocypris temminckii

の六種を指す総称と考えてよい。漢字では「鮠」「鯈」「芳養」と書き、要は日本産のコイ科 Cyprinidae の淡水魚の中で、中型のもので細長いスマートな体型を有する種群の、釣り用語や各地での方言呼称として用いられる総称名であって、「ハヤ」という種は存在しない。以上の六種の内、ウグイ・オイカワ・ヌマムツ・アブラハヤの四種の画像はウィキの「ハヤ」で見ることができる。タカハヤカワムツはそれぞれのウィキ(リンク先)で見られたい。但し、益軒は既に鰷魚は鮎(キュウリウオ目キュウリウオ亜目キュウリウオ上科キュウリウオ科アユ亜科アユ属アユ Plecoglossus altivelis)だと何度もしつこく言っていて、処置なしである。]

今日――先生はKの「覚悟」を致命的に誤読し――掟破りの卑劣な先手に着手してしまう――

 「Kの果斷に富んだ性格は私によく知れてゐました。彼の此事件に就いてのみ優柔な譯も私にはちやんと呑み込めてゐたのです。つまり私は一般を心得た上で、例外の塲合をしつかり攫(つら)まへた積で得意だつたのです。所が「覺悟」といふ彼の言葉を、頭のなかで何遍も咀嚼してゐるうちに、私の得意はだん/\色を失なつて、仕舞にはぐら/\搖(うご)き始めるやうになりました。私は此塲合も或は彼にとつて例外でないのかも知れないと思ひ出したのです。凡ての疑惑、煩悶、懊惱(あうなう)、を一度に解決する最後の手段を、彼は胸のなかに疊み込んでゐるのではなからうかと疑ぐり始めたのです。さうした新らしい光で覺悟の二字を眺め返して見た私は、はつと驚ろきました。其時の私が若し此驚きを以て、もう一返彼の口にした覺悟の内容を公平に見廻したらば、まだ可かつたかも知れません。悲しい事に私は片眼(めつかち)でした。私はたゞKが御孃さんに對して進んで行くといふ意味に其言葉を解釋しました。果斷に富んだ彼の性格が、戀の方面に發揮されるのが卽ち彼の覺悟だらうと一圖に思ひ込んでしまつたのです。

 私は私にも最後の決斷が必要だといふ聲を心の耳で聞きました。私はすぐ其聲に應じて勇氣を振り起しました。私はKより先に、しかもKの知らない間に、事を運ばなくてはならないと覺悟を極めました。私は默つて機會を覘(ねら)つてゐました

   *

 一週間の後(のち)私はとう/\堪へ切れなくなつて、假病を遣ひました。奥さんからも御孃さんからも、K自身からも、起きろといふ催促を受けた私は、生返事をした丈で、十時頃迄蒲團を被つて寐てゐました。私はKも御孃さんもゐなくなつて、家の内がひつそり靜まつた頃を見計つて寢床を出ました。私の顏を見た奥さんは、すぐ何處が惡いかと尋ねました。食物(たべもの)は枕元へ運んでやるから、もつと寐てゐたら可からうと忠告しても吳れました。身體(からだ)に異狀のない私は、とても寐る氣にはなれません。顏を洗つて何時もの通り茶の間で飯を食ひました。其時奥さんは長火鉢の向側から給仕をして吳れたのです。私は朝飯とも午飯とも片付かない茶椀を手に持つた儘、何んな風に問題を切り出したものだらうかと、そればかり屈託してゐたから、外觀からは實際氣分の好くない病人らしく見えただらうと思ひます。

   *

私は仕方なしに言葉の上で、好(い)い加減にうろつき廻つた末、Kが近頃何か云ひはしなかつたかと奥さんに聞いて見ました。奥さんは思ひも寄らないといふ風をして、「何を?」とまた反問して來ました。さうして私の答へる前に、「貴方には何か仰やつたんですか」と却て向で聞くのです。

『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月30日(木曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第九十八回より。太字傍線は私が附した)

なお、今日この日、7月30日は明治天皇の祥月命日に当たるのである――

 

2020/07/29

大和本草卷之十三 魚之下 緋魚 (最終同定比定判断はカサゴ・アコウダイ・アカメバル)

 

【外】

緋魚 其色如緋有一種紅魚金緋一種婦魚近緋

右ハ王氏彙苑ニ出タリ今筑紫ノ方言ニ馬ヌス人ト云

魚アリ形狀紅鬃魚ノコトク長五寸許鯛ノ類ニ非ス

其首ハメハルノコトシ口ト目ト大ナリ色ハ甚赤クシテ

朱ノコトシ是緋魚欤赤魚其形狀頗メハルノコトシ色

赤ク乄黃色マシレリ無毒病人食ツテ無害赤キ叓

馬ヌス人ニ及ハスアコノ類多シ色紅ナラサルアリ黃㸃多

キモアリ又長州ノ海ニカラカコト云魚アリアコヨリ小ニ乄

赤キコトアコヨリ甚シ順和名ニ䱩魚ヲカラカゴト訓

○やぶちゃんの書き下し文

【外】

緋魚 『其の色、緋のごとし。一種、紅魚有り、金緋。一種、婦魚、緋に近し。』〔と。〕右は「王氏彙苑」に出たり。今、筑紫の方言に「馬ぬす人」と云ふ魚あり。形狀、紅鬃魚〔(こうそうぎよ)〕のごとく、長さ五寸許り。鯛の類〔(るゐ)〕に非ず。其の首は「めばる」のごとし。口と目と大なり。色は甚だ赤くして朱のごとし。是れ、緋魚か。赤魚(あこ)。其の形狀、頗〔(すこぶ)る〕「めばる」のごとし。色、赤くして、黃色、まじれり。毒、無し。病人、食つて、害、無し。赤き事、「馬ぬす人」に及ばず。「あこ」の類、多し。色、紅ならざるあり。黃㸃多きものあり。又、長州の海に「からかご」と云ふ魚あり。「あこ」より小にして、赤きこと、「あこ」より甚し。順〔が〕「和名」に「䱩魚」を「からかご」と訓ず。

[やぶちゃん注:本種は以下の叙述を一つ一つ検証して行かないと同定は出来ない。しかも困ったことに後の方になっても、必ずしも本当の姿が見えてこない厄介な叙述なのである。そこで今回はまず、変則的に、最後にある、この項の中で、本邦で最も古い叙述記載(平安中期)である源順の「和名類聚抄」(承平年間(九三一年~九三八年)に勤子内親王の求めに応じて源順(みなもとのしたごう)が編纂した類書(百科事典)的要素を持った国語辞典)から攻めてゆくことにする。

『順が「和名」に「䱩魚」を「からかご」と訓ず』「和名類聚抄」の「卷第十九 鱗介部第三十 龍魚類第二百三十六」のここ(国立国会図書館デジタルコレクションの寛文七(一六六七)年版本)に、

   *

䱩魚 崔禹錫食經云䱩【莫往反与罔同和名加良加古】似䱌魚而頰著鉤者也

(䱩魚(カラカコ) 崔禹錫が「食經(しよくけい)」に云はく、『䱩【「莫(ク)」・「往(ワ)」の反、「罔(マウ)」と同じ。和名「加良加古(からかこ)」。】は䱌魚(いしふし)に似て頰に鉤(かぎ)を著(つ)くる者なり。)

   *

とある。「䱌魚」はここの二つ前に(画像で原文は見えるから、推定訓読のみ示す)、

   *

䱌(イシフシ) 崔禹錫が「食經」に云はく、『䱌【音「夷」。和名「伊師布之」。】は、性(しやう)、伏沈(ふくちん)し、石閒(せきかん)に在る者なり。

   *

まず、この似ているという「(イシフシ)」は「石伏」で「イシブシ」、則ち、日本固有種で北海道南部以南の日本各地に広く分布している(現在、絶滅危惧IB類(EN)指定を受けているから「していた」とすべきであろう)、

条鰭綱スズキ目カジカ科カジカ属カジカ Cottus pollux

を有力な候補と考えてよい。「鰍」が最も知られる漢字表記で、「ゴリ」「ドンコ」の異名も広く行われており、基本、淡水系で多く認められ、捕獲も川であり、非常に古くから食用にされてきた、日本人には馴染みの種(群)である(古く朝廷が内陸にあったことを考えると、淡水魚であるという比定はまず一番に挙がってくる)。さて、カジカ種群(Cottus pollux complex)には、生活史や形態的・遺伝的特徴が有意に異なる集団が明確に存在し、主な区別群としては、現在、大卵型(河川陸封型)・中卵型(両側回遊型)・小卵型(両側回遊型・湖沼陸封型)が知られている(詳しくはウィキの「カジカ(魚)」を参照されたい)。そこである人はこう言うかも知れぬ。

『それなら、そのカジカ類の一部を「魚(カラカコ)」=「カラカゴ」と呼んでいたのだと解釈すればいい』と。

ところが、それで手打ちとなるかというと、そうは問屋が卸さないのだ。そもそもが本邦で食用とされた川や河口・潟で主に獲れる魚はカジカ以外にも、他に多くの、

ハゼ類(条鰭綱ハゼ目ハゼ亜目 Gobioidei

がおり、それらも生態や面相の類似から、やはり「いしぶし」と呼ばれていたと考えてよいからである。いや、さらに、同じように川底の石の下にいる状態で獲れる全然違う他の川魚だってまさに「石伏」魚に含まれるのである。近代以前の一般人にとっては生物学的分類による区別は、有毒生物がその中に含まれない限りは、必要性が、ほぼ、ないからである。

しかも、ここで戻って「和名類聚抄」の肝心な「䱩魚」の方をよく読まなくてはいけない。そこには魚に似て」いるけれども、「頰に鉤(かぎ)を著(つ)くる者」だと言っているのだ。これは中国の本草書「食經」の記載だからと言って無視は出来ない。源順がこう書くに際しては、それなりに腑に落ちた認識があるからであると考えねばならず、それが実際、後の本草学者によって少しも否定されなかった以上は、「からかご」は「いしぶし」似ているけれども、区別があって、頰=鰓附近に棘(或いは針)を持っていると言っているということである。しかし、一般的な淡水のカジカやハゼでそのような種はピンとこない(胸鰭部分が吸盤化している種や肥大した種はカジカやハゼにいくらもいるが、それを「鉤」と敢えて言っているのは、とりもなおさず、「痛い棘」としか私は読めない)。
しかし、川底辺りに棲息し、胸鰭辺りに危険な棘を持っている淡水魚はいるのだ!

条鰭綱ナマズ目ギギ科ギバチ属ギバチ Pseudobagrus tokiensis

ギバチ属アリアケギバチ Pseudobagrus aurantiacus

ギバチ属ギギ Pelteobagrus nudiceps

孰れも日本固有種で、三種ともに背鰭・胸鰭の棘は鋭く、刺さると激しく痛む。前二者(嘗てはアリアゲギバチ(九州西部・長崎県壱岐にのみ分布)はギバチと同一とされていた)では生物学的・薬理的に単離されたわけではないが、古くから「毒を持っている」ともされる。

則ち、彼らも同定候補に含まれてくるということになるのである。

「私の風呂敷が広げ過ぎだ」という御仁のために示しておこう。非常によくお世話になるサイト「真名真魚字典」のこちらの、

341

を見られたい。そこでは参考字体に「」も一緒に挙がっているのだ。頭は『○邦名』『(1)[罔]魚=カジカ(集覧「大日本水産会編・水産宝典」「水産俗字解」「水産名彙」)。カラカゴ(同「水産俗字解」「水産名彙」)』。『(1)カラカキ(カラカギ)。カラカコ(カラカゴ)。(2)チチカフリ。チチカムリ。チチンカムリ』と始まり、「和名類聚抄」その他の考証を経て、結論として、「・「」・「カラカゴ」・「イシブシ」とは、『おそらく棘ないし鉤をもつギギの仲間、あるいはハゼ・カジカの仲間を指して付けられた用例として多く集』まった対象を指すと考えるのが適切であるとされているのである。

 さて。ではこれで範疇を囲い込んだかと言うと――これがまた――ダメ――なのだ。

 何故か? 既にお読みになった時から感じておられるであろうが、益軒の叙述は、凡そ、

淡水産魚類の記載ではなく、海産魚類としか思われないから

なのである。

益軒は『「馬ぬす人」と云ふ魚』がいるが、それは「鯛の類〔(るゐ)〕に非ず」と言い、『其の首は「めばる」のごと』くだ、と孰れもタイとメバルと、海産魚類を比喩に用いているからである。無論、川魚を比喩形容するのに海産魚類を用いてはいけないという法はない。スズキ目ケツギョ科 Coreoperca 属オヤニラミ Coreoperca kawamebari のごとく、海の魚みたような川魚もいますからな。しかし、決定的なのは『長州の海に「からかご」と云ふ魚あり』と言ってしまっていることである。

 さてもまた、振り出しに戻ってしまうことになる。

 いや! 挫けまいぞ! またしても「ケツ」から行こうじゃないか!

『長州の海に「からかご」と云ふ魚あり。「あこ」より小にして、赤きこと、「あこ」より甚し』零から始める。「カラカゴ」の異名を持つ海産魚を探す。早速、釣り具サイトで引きがある。『週刊つりニュース』の「釣・楽(ちょうらく)」の「カサゴ カサゴ科」だ。『カサゴ科に属し、体長は三十五センチに達する。日本各地、朝鮮半島、台湾、中国の沿岸に分布し、岩礁や藻場にすむ。頭が大きく、眼・鼻・額・頚のそばに強い棘を持ち、ごつごつした感じを与える。体色は沿岸のもので黒褐色、沖合のものは暗赤色で、個体による差が大きい』として、以下、かなり詳しい地方名が並ぶが、そこに『山口県でホウゴウ・ウドホウゴウ・カラカゴ・カラコ・ゴウチ・山口・福岡・長崎県でアラカブ、福岡県でアルカブ・オオアルカブ・モアルカブ・ゴウゾウ、長崎県でゴウザ、熊本県でガラカブ・カラカブ』と出るのだ(なお、今一つ、『兵庫・岡山県でメバル、兵庫県・大阪府でアカメバル』と呼んでいることにも注意しておきたい)。この「カラカゴ」は無論のこと、一見、似ていない「アルカブ」が熊本で「ガラカブ」「カラカブ」となるのを知ると、これは「カラカゴ」系の血を引く呼称と強く感じられるのである。しかも、これらが、益軒が殆んどの時間を過ごした福岡に近いという点も頼り甲斐があるというもんなのだ。されば、ここに、俄然、

条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目カサゴ目カサゴ亜目メバル科メバル亜科カサゴ属カサゴ Sebastiscus marmoratus

或いはその仲間たちが、新しい候補者として名乗りを挙げてくるのである。カサゴは一般には、体色を暗い褐色とすることが多いが、ウィキの「カサゴ」によれば、『浅い所に棲むカサゴは岩や海藻の色に合わせた褐色をしているのに対し、深い所に棲むカサゴは鮮やかな赤色である。赤色光の吸収と残留青色光の拡散が起こる海中、すなわち青い海の中では、赤色系の体色は環境の青色光と相殺されて地味な灰色に見えるため、これは保護色として機能する。簡単に言うと、赤い光は海の深い所まで届かないので、赤い色をしたカサゴは敵や獲物から見つかりにくい。これは深海における適応の一つで、実際、深海生物には真っ赤な体色のものが多く見られる』とあって、本文の赤い魚体にしっかり合致するのである。別なミクシイの公開記事(私は先般やめてしまった)に「カサゴ」を下関で「カラカゴ」と呼んでいるとあった。ぼうずコンニャク氏の「市場魚貝類図鑑」の「カサゴ」のページの「地方名・市場名」の欄には『カラカブ』と『カラコ』がある。

 さて、では、その「カラカゴ」は「あこ」より小さいが、遙かに赤いと言っているところの、「あこ」は何だ? これはまんず、ピンとくるのがいる。深海魚の

メバル科メバル属アコウダイ Sebastes matsubarae

だ。彼はズバリ! 「アコ」と別称し、他に「アコウ」「メヌケ」「メヌキ」などとも呼ばれ(近縁種にオオサガ(顎口上綱硬骨魚綱条鰭亜綱棘鰭上目スズキ目カサゴ亜目メバル科メバル属オオサガ Sebastes iracundus)・サンコウメヌケ(カサゴ亜目メバル科メバル属サンコウメヌケ Sebastes flammeus)・バラメヌケ(カサゴ亜目メバル科メバル属バラメヌケ Sebastes baramenuke)がいるが、これらも一括して「メヌケ」と呼ばれることが多い)、太平洋側では茨城県から高知県沖、日本海側では新潟県から山口県沖に分布し、特に相模湾や駿河湾の深所で多獲される。深海の岩礁地帯に棲息し、体色は鮮やかな赤色で、しばしば背中に大きな黒斑を持つのを特徴とする。全長六〇センチメートル以上になる。十二月から四月頃までの間は水深二〇〇から三〇〇メートルのやや浅いところに移動して産卵するとされているが、他の季節には水深六〇〇から七〇〇メートルの深所を住み家としている。以上は主文を平凡社「世界大百科事典」に拠ったが――さても――アコウダイは漢字ではどう表記するか? ぼうずコンニャク氏の「市場魚貝類図鑑」の「アコウダイ」のページを見よう!

阿侯鯛・赤魚鯛・緋魚・阿加魚

だ! やっと本文の頭からちゃんと落ち着いて読み始められる、正常に注が出来る!

「王氏彙苑」中国の古い類書(百科事典)と思われるものに「彙苑」があり、それを明代の文人政治家王世貞(一五二六年~一五九〇年)が註したものがあるが、それか。よく判らぬ。中文サイトでも電子化したものを見出せなかった。

「緋魚」実は私の寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十九 魚類 江海有鱗魚」に「緋魚」がある。そこには以下のようにある。

   *

あかを    赤魚【俗】

緋魚     【俗云阿加乎又略阿古】

フイ イユイ

 

興化府志云緋魚其色如緋

△按緋魚狀畧似鯛而厚※〔→濶〕眼甚大而突出其大者二三尺細鱗鰭窄尾倶鮮紅如緋肉脆白味甘美關東多有各月最賞之攝播希有之以藻魚大者稱赤魚而代之

[やぶちゃん字注:※=「濶」の(つくり)が「闊」。]

赤鱒【俗云阿加末豆】 狀類緋魚又似鱒色深赤味亦不佳

   *

あかを    赤魚【俗。】

緋魚     【俗に阿加乎と云ふ。

フイ イユイ  又、略して阿古。】

 

「興化府志」に云ふ、『緋魚、其の色、緋のごとし。』と。

△按ずるに、緋魚、狀、畧ぼ鯛に似て、厚く濶し。眼、甚だ大にして突出す。其の大なる者、二~三尺。細鱗、鰭、窄(すぼ)く、尾倶に鮮紅、緋のごとし。肉、脆く白し。味、甘美。關東に多く有り。各月、最も之を賞す。攝[やぶちゃん注:摂津。]〕・播[やぶちゃん注:播磨。]、希に之有り。藻魚(もいを)の大なる者を以て赤魚(あこ)と稱して之に代ふ。

赤鱒(あかます)【俗に阿加末豆と云ふ。】 狀、緋魚(あかを)に類して、又、鱒に似たり。色、深赤。味も亦、佳ならず。

   *

そこで私は嘗て以下のように注した(ここでは注を追加した)。

   *

[やぶちゃん注:カサゴ目メバル科メバル属アコウダイ Sebastes matsubarae か。スズキ目ハタ科のキジハタ Epinephelus akaara も瀬戸内や大阪地方にあってアコウ又はアカウと呼称されるが、ここは深海から引上げる為に著しく突出する眼球及び全身が極めて赤い色を呈している点等から、前者をとる。

・「興化府志」は明の呂一静(李攀竜 (りはんりょう) らとともに「後七子 」(ごしちし) の一人とされ、盛唐の詩・秦漢の文を尊ぶ古典主義を唱えたことで知られる)らによって撰せられた現在の福建省の興化府地方の地誌。一五七五年成立。

・「赤鱒」アカマス。スズキ目フエダイ科バラフエダイ Lutjanus bohar をこのように呼称するが、これは南洋系で現在でも小笠原方面から入荷するとあり、同定候補とはならない。これがスズキ目ハタ科のキジハタ Epinephelus akaar か? キジハタには三重県で「アズキマス」という異名を持ち、他に「アカハタ」という異名もあるようだが、「アカマス キジハタ」の検索ではヒットしない。「アカマス」という異名ではカサゴ目フサカサゴ科 Sebastiscus marmoratus がいるが、「深赤」は疑問であるし、以下の「藻魚」の項に「笠子魚」が掲げられている以上、除外される。識者の意見を伺いたい。

   *

「婦魚」不詳。検索でヒットせず。ただ、緋色の魚の一種を、かく異名するというの附には落ちる。

『筑紫の方言に「馬ぬす人」と云ふ魚あり』サイト「みんなの知識 ちょっと便利帳」の「魚(魚介類)の名前と漢字表記」のこちらに、「アコウダイ」の項に『ウマヌスビト、アコウ、アコ』とある。また、ネット検索で見出した「Ⅲ 魚等にかかわる漢字」(PDF)の表中に『アカウオ 馬盗人(ウマヌスビト)』とある。この「アカウオ」とは、カサゴ亜目メバル科メバル属アラスカメヌケ Sebastes alutus を指すから、何ら問題はない。但し、同種はオホーツク海から太平洋沿岸、青森県から宮城県の太平洋沿岸でしか捕獲されない。しかし、「アカウオ」は近代以前は「アコウダイ」の異名としても少しもおかしくない。いや! ぼうずコンニャク氏の「市場魚貝類図鑑」の「アコウダイ」異名に、東京都などで「アカウオ」「赤魚」が載り、『赤いメバル類の総称。後にアラスカメヌケや輸入ものの赤いメバル類の呼び名に変わる』とある。則ち、赤いメバル類或いは、もっと広くカサゴ類の赤みの強い種群はやはり嘗て「アカウオ」と普通に市場で呼ばれていたのである。 

「紅鬃魚〔(こうそうぎよ)〕」「鬃」これは馬の鬣を意味する語である。背鰭の棘鰭を言っていると考えてよいから、以上のアコウダイを始めとするカサゴ群の魚類に相応しい。ただ、個人的には「馬盗人」という命名への由来への根拠はひどく気にはなる。由来を探し得なかったのが気に懸かる。識者の御教授を乞うものである。

「鯛」スズキ目タイ科 Sparidae のタイ類。全く別種でも類体型から「~ダイ」は本邦の常套的呼称で、大衆は「~ダイ」という名を何でも好む。その結果としてタイとは待った全く無縁のトンデモない魚をタイの仲間だと思って騙されて食わされる結果となっている。例えば、スズキ目ベラ亜目カワスズメ科ナイルティラピア Oreochromis niloticus は純淡水魚でタイとは全く無関係なのに「イズミダイ」「チカダイ」と称して切り身として売られ、多くの日本人が安い鯛と勘違いして食わされたケースがある。また、彼らは順応性が高く、強い繁殖力を持ち、大型漁として釣りの対象となる。安易に放流されれば、確実に日本の河川の生態系に深刻な打撃を加えることは確実である。生態系被害防止外来種に指定されているが、既に沖縄の河川ではティラピアが異様に増えてしまっている。

「めばる」条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目カサゴ目カサゴ亜目メバル科メバル属メバル(アカメバル)Sebastes inermis

或いは同属の近縁種

シロメバル Sebastes cheni

或いは

クロメバルSebastes ventricosus の孰れかである。特にここではアカメバル(赤眼張)が叙述対象である考えてよい。同種の釣魚としての俗称は「赤(あか)」「金(きん)」「沖メバル」であるからで、ここで最後に挙げる候補追加種として最も相応しい。

「色、紅ならざるあり。黃㸃多きものあり」近海で獲れるカサゴ類は黄・白斑の斑模様が普通に認められる。

 最後に。最初の注の考察は無化されたとは私は思っていない。淡水産カジカ類の形状は海産カサゴ類の形状と似ている箇所が種々見られ、有毒棘条もしっかり持っている種もいるからである。古典的博物学の面白みは、実に見た目の共通を以ってグループを作る――今はDNAやアイソザイム分析の分子生物学的分類学によって見捨てられてしまった視認形態相同類似型分類学――諧謔的に言わせて貰えば、「俳諧的な『見立て』を楽しむところの、古典的なスローで如何にも人間臭い見た目第一主義の綜合学的分類」でもあったのである。]

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 丈艸 三

 

       

 

 芭蕉が旅に病んで枯野の夢を見た難波の客舎(かくしゃ)には、丈艸も馳つけた一人であった。支考が『笈日記』に記したところを見ると、「膳所大津の間伊勢尾張のしたしき人、に文したゝめつかはす」とあるのが十月五日、正秀・去来・乙州・木節・丈艸・李由が報を聞いて馳せつけたのは一日置いた七日になっている。電報も速達も、汽車も自動車もない時代にあっては、江州と大坂との間で、これだけの時間を要したのである。

[やぶちゃん注:「原文が私の「笈日記」中の芭蕉終焉の前後を記した「前後日記」(PDF縦書版)で読めるので、是非、参照されたい。]

 芭蕉の病状がよくないので、之道が住吉の四所に参って延年を祈ることになった時、病牀に居合せたものだけで所願の句を作った。丈艸の句は

 峠こす鴨のさなりや諸きほひ    丈艸

であった。「凩の空見なほすや鶴の声」と詠んだ去来、「初雪にやがて手引ん佐太の宮」と詠んだ正秀、「足がろに竹の林やみそさゞい」と詠んだ惟然、「起さるゝ声も嬉しき湯婆(たんぽ)かな」と詠んだ支考――師を思う情は同じであるが、各人各様の面目は自らその句に発揮されているように思う。

 其角が馳せつけた十月十一日の晩、夜伽(よとぎ)の面々が句を作った時、丈艸の詠んだのは

 うづくまる薬の下の寒さかな    丈艸

[やぶちゃん注:「下」は「もと」。]

である。この句が芭蕉の賞讃を得たということは、『笈日記』にもなければ『枯尾花』にもない。ただ去来が「丈艸誄」の中に次のように記している。

[やぶちゃん注:掲句は「去来抄」(自筆稿本)では、

 うづくまるやくわんの下のさむさ哉 丈草

先師難波病床に人々に夜伽の句をすゝめて、今日より我が死期の句也。一字の相談を加ふべからずと也。さまざまの吟ども多く侍りけれど、たゞ此一句のみ丈草出來たりとの給ふ。かゝる時はかゝる情こそうごかめ。興を催し景をさぐるいとまあらじとは、此時こそおもひしり侍りける。

   *

という句形で出る。「やくわん」は「やかん」で「藥缶」、漢方の薬を煎じる鍋のことである。掲句の「藥」も意味は同じ。

 以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。]

 

又難波の病床、側に侍るもの共に、伽(とぎ)の発句をすゝめ、けふより我が死後の句なるべし、一字の相談を加ふべからずとの給ひければ、或は吹飯より鶴を招むと、折からの景物にかけてことぶきを述[やぶちゃん注:「のべ」。]、あるはしかられて次の間に出ると、たよりなき思ひにしほれ、又は病人の余りすゝるやと、むつましきかぎりを尽しける。其ふしぶしも等閑[やぶちゃん注:「なほざり」。]に見やり、たゞうづくまる寒さかなといへる一句のみぞ、丈艸出来たり[やぶちゃん注:「でかしたり」。]とは、感じ給ひける。実にかゝる折には、かゝる誠こそうごかめ、興を探り、作を求る[やぶちゃん注:「もとむる」。]いとまあらじとは、其時にこそ思ひ知侍りけれ[やぶちゃん注:「しりはべしけれ」。]。

 

 「吹井より鶴を招かん時雨かな」は其角、「しかられて次の間へ出る寒さかな」は支考、「病中のあまりすゝるや冬ごもり」は去来である。この時の作者はすべて八人、芭蕉としては生前に与える最後の批判、弟子たちとしては師に示す最後の発句であるだけに、平生とは気分の異るものがあったに相違ない。芭蕉の批評が他の一切に触れず、直に褒詞(ほうじ)となって丈艸の上に落ちたことは、弟子としての最後の面目であるのみならず、また永遠に忘れ得ぬ思出でもあったろう。丈艸のこの句には表面的に躍動するものはないけれども、再誦三誦するに及んで、真に奥底からにしみ出て来るような或者を感ぜずにはおられぬ。垂死の芭蕉はこれを感得して、佳(よ)しとしたものと思われる。

[やぶちゃん注:「吹飯より鶴を招む」では「ふけひ」で、宵曲が示した「吹井より鶴を招かん時雨かな」であれば「ふけゐ」となる。この其角の句は「新拾遺和歌集」(勅撰和歌集。二条為明(ためあき)撰。貞治二(一三六三)年に室町幕府第二代将軍足利義詮の執奏により後光厳天皇より綸旨が下って開始され、貞治三年十月の為明の死去後、頓阿が継いで、同年十二月に成った)の順徳天皇の一首(一七五〇番)、

 蘆邊より潮滿ちくらし天つ風吹飯(ふけひ)の浦に鶴(たづ)ぞ鳴くなる

を裁ち入れたもの。「吹飯の浦」は「万葉集」以来の歌枕で、現在の大阪府泉南郡岬町深日(ふけ)(グーグル・マップ・データ)の海岸とされる。古来、「風が吹く」の意や「夜が更ける」の意を込めて和歌に詠まれることが多かった。]

 

 芭蕉を悼んだ丈艸の句は『枯尾花』に

    暁の墓もゆるぐや千鳥数奇   丈艸

の一句がある。義仲寺における初七日(しょなぬか)及六七日(ろくしちにち)の追善俳諧の中にも丈艸の名は見えているが、芭蕉に対する追慕の情は必ずしも悉(つく)されているわけではない。丈艸の丈艸たる面目のよく現れたものは、そういう作品の上よりもむしろ芭蕉歿後における丈艸の態度である。この点に関し去来は「先師遷化(せんげ)の後は、膳所松本の誰かれ、たふとみなづきて、義仲寺の上の山に、草庵をむすびければ」云々と記しているに過ぎぬが、丈艸が亡師のために三年間、一石一字の法華経を書写したということは、特筆されねばならぬ事柄であろう。石経(せっきょう)のことは丈艸自身次のように記している。

[やぶちゃん注:掲句、

 曉(あかつき)の墓もゆるぐや千鳥數奇(ちどりすき)

は元禄七年十月十四日(芭蕉は元禄七年十月十二日(一六九四年十一月二十八日)没))の追悼吟である。芭蕉は、

 星崎の闇を見よとや啼千鳥

(貞享四年十一月七日の歌仙の発句。私の『「笈の小文」の旅シンクロニティ――星崎の闇を見よとや啼く千鳥 芭蕉』を参照)を意識しての、芭蕉の千鳥への偏愛をインスパイアしたもの。

 以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。]

 

国々の墓所も同じ墓所の霜にしらめる三年の喪は疎[やぶちゃん注:「まばら」。]ならぬ中に、湖上の木曾寺は其全き姿を収めて、人々のぬかづき寄る袖の泪[やぶちゃん注:「なみだ」。]も、一しほの時雨をすゝむる旧寺の夕べより朝をかけて梵筵(ぼんえん)吟席の勤[やぶちゃん注:「つとめ」。]ねもごろなり。然れども野衲は独り財なく病有る身なれば、なみなみの手向(たむけ)も心にまかせず、あたり近き谷川の小石かきあつめて蓮経の要品[やぶちゃん注:「えうぼん」。]を写し、その菩提を祈りその恩を謝せむ事を願へり、誠に今更の夢とのみ驚く心、喪のかぎりに筆を抛(なげう)ち手を拱して[やぶちゃん注:「きやうして」。]唯墓前の枯野を見るのみ。

 石経の墨を添へけり初時雨     丈艸

[やぶちゃん注:以上は「香語」(かうご(こうご):導師が香を焚き、仏前に語りかけること。「拈香(ねんこう)法語」の略。因みに特に葬儀の際のそれを引導と呼ぶ)と題した句文で、句自体は芭蕉の三回忌に当たる元禄九年十月十二日頃に詠まれた句であると、堀切氏の前掲書にある。この哀切々たるモノクロームの絶対の映像はあたかもアンドレイ・タルコフスキイの「アンドレイ・ルブリョフ」の無言の行に徹するルブリョフをさえ私は想起する。

「野衲」「やなう」。「衲」は衲衣(のうえ)の意で田舎の僧。転じて一人称の人称代名詞で僧が自身を遜(へりくだ)って言う語。愚僧。野僧。]

 

 何時(いつ)の世如何なる時代を問わず、一団の中心をなす大人物が亡くなった後には、必ず解体分離の作用が起る。その作用は外界より切崩されるものでなしに、一団の内部より生ずる性質のものである。元禄七年に芭蕉を喪(うしな)った後の俳壇にも、自らこの作用が現れた。今まで小異を棄てて大同についていた蕉門の作者たちも、各々自己の見地を主張して門戸を張ろうとする。其角、嵐雪以下の作者は、いずれも芭蕉の衣鉢を伝うるに足る高弟に相違ないが、その器局(ききょく)には自ら限度があり、芭蕉によって総括されていた俳諧の天地をそのまま継承するわけには行かない。この傾向に対して不満の意を表した去来の立場も、芭蕉に比して狭い自己の分野を語るに外ならなかった。丈艸は芭蕉の生前歿後を通じ、俳諧に関して議論らしいものを述べていない。門戸の見を有せぬことは勿論である。芭蕉を喪うと共に、永久に依るべきものを失った彼は、その菩提を祈りその恩を謝せむがために、一石一字の写経を怠らず、三年の喪に服したのであった。

[やぶちゃん注:「器局」才能と度量。器量。

「門戸の見」「もんこのけん」。他者と交流し、また外部の存在や見識を受け入れるために開かれるべき入り口。]

 

 以下少しく芭蕉歿後における丈艸の句を挙げて、その追慕の情を偲ぶことにする。

   いがへおもむくときばせを翁
   墓にまうでて

 ことづても此とほりかや墓のつゆ    丈艸

[やぶちゃん注:元禄一〇(一六八七)年七月、芭蕉の故郷伊賀に旅立つ折り、芭蕉の墓前に手向けた一句。「人生、朝露の如し」が、その「此(この)とほり」の「ことづて」であったことだ、という謂いである。こういう感傷句はこの丈草以外の有象無象の俳人が口にするや、直ちに薄っぺらく嘘臭いものに響くから不思議である。]

 

   越の十丈吟士此秋伊勢詣での道すがら
   山吟野詠文囊に満むとす、就中湖上の
   無名庵を尋ねて蕉翁の古墳を弔ふ余
   (あまり)、哀いまだ尽ずして予が草
   庵に杖をひかる、柴の扉は粟津野の秋
   風に霜枯て一夜の草の枕何おもひ出な
   らんとも覚えず、殊更発句せよと望ま
   るゝにせん方なき壁に片より柱に背中
   をせめてやうやうおもひ付る事あり、
   翁往昔麓の庵に寝覚して此岡山の鹿追
   の声をはかなみ、何とぞ句なるべき景
   情いづれはとねらひ暮されし夢の跡な
   がら、今又呼やまぬ声々をむかしがた
   りのひとつ趣向の片はしにもと筆を馳
   す

 鹿小屋の声はふもとぞ庵の客      同

[やぶちゃん注:「鹿小屋」は「ししごや」。これは「射水川」(いみづがは:十丈編。元禄十四年自序)に所収の句文「木曾塚」。野田別天楼編の大正一二(一九二三)年雁来紅社刊「丈艸集」巻末(国立国会図書館デジタルコレクション)のこちらで正字正仮名で読める。「十丈」は竹内十丈(?~享保八(一七二三)年)。越中生まれ。元禄九年、伊勢・京都・大坂・粟津・彦根などの松尾芭蕉の高弟を訪ね、その折の句を上巻に、文通の句を下巻に収めて「射水川」を刊行した。以下、上記リンク先の「射水川」のそれを参考に(宵曲の引用が何に基づくか判らぬが、有意に異なる箇所がある)正字で記号も増やし、読みを推定で補った。

   *

      木 曾 塚

越の十丈吟士、此秋、伊勢詣での道すがら、山吟野詠、文囊(ぶんなう)に滿ちんとす。就中(なかんづく)、湖上の無名庵(むみやうあん)を尋ねて、蕉翁の古墳を弔ふ。餘念いまだ盡きずして、予が草庵に杖を曳かる。柴の扉(とぼそ)は粟津野(あはづの)の秋風に霜枯(しもがれ)て一夜(ひとよ)の草の枕、何おもひ出ならんとも覺えず。殊更「發句せよ」と望まるゝにせん方なく、壁に片より、柱に背中をせめて、やうやうおもひつくる事あり、翁、往昔(そのかみ)、麓の庵(いほり)に旅寢して、此(この)岡山の鹿追(ししおひ)の聲をはかなみ、「何とぞ句なるべき景情いづれは」とねらひ暮されし夢の跡ながら、今、又、呼びやまぬ聲々を、むかしがたりのひとつ趣向の片はしにも、と筆を馳(は)す。

 鹿小屋(ししごや)の聲はふもとぞ庵(いほ)の客

   *]

 

   芭蕉翁追悼

 ゆりすわる小春の海や塚の前      丈艸

[やぶちゃん注:「後の旅」(如行編・元禄八年序)所収。「小春」は陰暦十月の異名。「ゆりすわる」「搖り坐る」で、体をゆり動かして落ち着かせた状態に成して座ることで、松尾勝郎氏編著「蝸牛 俳句文庫17 内藤丈草」(一九九五年蝸牛社刊)によれば、『琵琶湖の動きと、丈草の心のゆらぎを掛ける。先師の墓前で穏やかな湖水を見つめる。自分にの心にもいくらか平常心が戻ってきた』と評釈しておられる。但し、ここは「ゆりすわる」の「ゆり」の方に重みがあるように思われ、寧ろ、未だ師を欠損した自身の心の揺らぎの方に傾きがあるように私には読める。]

 

   幻住庵頽廃の跡一見して

 霜原や窓の付たる壁のきれ       同

[やぶちゃん注:浪化編で元禄十一年刊の「続有磯海」所収。凄絶の景である。後の宵曲の評釈が正鵠を射ており、屋上屋はいらぬ。]

 

   芭蕉翁の七日々々もうつり行あはれさ
   猶無名庵に偶居してこゝちさへすぐれ
   ず、去来がもとへ申つかはしける

 朝霜や茶湯の後のくすり鍋       同

[やぶちゃん注:堀切氏の前掲書に従えば、元禄七年十月十二日(一六九四年十一月二十八日)の芭蕉逝去の年内の冬の句で、丈草は芭蕉の死を悼んで三年の心喪を決し、木曾塚無名庵に籠っていたが、体調が思わしくなかったことを言う。だから「くすり鍋」(こちらは自身のための漢方薬を煮出すための鍋である。まず、先師のための「茶湯」(ちやとう)を供えてその「後」(あと)から、というところに丈草の思いが籠る)。「偶居」は「寓居」の誤記。「茶湯」は『茶を煎じて出した湯のこと。ここは仏前に供えるためのもの』と堀切氏注にあり、前書にある通り、去来にこの句を送った。その返しは、

 朝霜や人參つんで墓まいり

(「まいり」はママ)であったとある。]

 

   芭蕉翁の往昔を思ふ

 梅が香に迷はぬ道のちまたかな     同

[やぶちゃん注:松尾氏前掲書によれば、『「道」は蕉風の道。「ちまた」は別れ道。今咲き匂う梅の薫香のような亡師の教えを、これからも信奉してゆくのみ、との決意表明。芭蕉七回忌の元禄十三年春。去来と巻いた歌仙の発句』とある。前書は「丈草句集」のもの。]

 

  芭蕉翁の墳に詣でゝ我病身をおもふ

 陽炎や墓より外に住むばかり      同

[やぶちゃん注:「かげろふやはかよりそとにすむばかり」。丈草畢生の絶唱。元禄九年春の作。但し、掲句は「浮世の北」(可吟編・元禄九年刊)のそれで、私は「初蟬」(風国編。元禄九年刊)の、

   芭蕉翁塚にまうでゝ

 陽炎や塚より外に住(すむ)ばかり

の「塚」でありたい。それは個人的に偏愛する、芭蕉が亡き小杉一笑を詠じた絶唱、

 塚も動け我泣聲は秋の風

に遠く幽かに通うからである(なお、私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 65 金沢 塚も動け我が泣く聲は秋の風』をも参照されたい。但し、そこでは私は比較に於いては批判的に丈草の句を評している)。そこにもリンクさせた私の「宇野浩二 芥川龍之介 二十一~(5)」では、私は本句を以下のように評釈した。

   *

……先師の墓に詣でる……と……折柄、春の陽炎ゆらゆらと……師の墓もその景も……みなみな定めなき姿に搖れてをる……その影も搖れ搖れる陽炎も……ともに儚く消えゆくもの……いや……儚く消えゆくものは、外でもない……この我が身とて同じ如……先師と我と……「幽明相隔つ」なんどとは言うものの……いや、儚き幻に過ぎぬこの我が身とて……ただただ「墓」からたった一歩の外に……たまさか、住んでをるに過ぎぬのであり……いや、我が心は既にして……冥界へとあくがれて……直き、この身も滅び……確かに先師の元へと……我れは旅立つ……

   *

私の訳では鼻白む向きも多かろうからして、堀切氏の前掲書のそれを引くと、『先師芭蕉翁の墓に詣でてみると、墓のあたりには陽炎がゆらゆらと立っている。たちまちにして消えるはかない陽炎と同じく、自分もいつこの世を去るかわからない。師と自分と今は幽明境を異にしているのであるが、幻のようなわが身は、ただ墓から一歩外の世界に住むだけのことであり、すでに心は墓の中、間もなく師翁の後を追う身なのである、といった句意であろう。平常から病身であり、仏幻庵に孤独なわび住いをしていた丈草の師翁への心服のほどが、痛いほどに伝わってくる句である。春の季節のおとずれの象徴でもあり、また幻のようにはかないものの象徴でもある「陽炎」がよく効いている』とされる。]

 

   越中翁塚手向

 入る月や時雨るゝ雲の底光り      同

[やぶちゃん注:堀切氏前掲書によれば、元禄一三(一七〇〇)年に丈草が越中井波の翁塚(おきなづか)に向けて遙かに詠んだ手向(たむ)けの一句である(そこに行ったのではない。後述)。翁塚は富山県観光公式サイト「とやま観光ナビ」の「翁塚・黒髪庵」に(地図有り)、『井波の町の緑あふれる浄蓮寺境内に』ある芭蕉供養塚である。『芭蕉の門弟だった瑞泉寺』第十一『代の浪化上人が、芭蕉の墓から小石』三『個を持ち帰り、浄蓮寺の境内に塚を建てました。その』二『年後には芭蕉の遺髪も納められたといいます。この塚を翁塚と言い、表面に「翁塚」の二字が刻まれています。翁塚は、伊賀上野の故郷塚、義仲寺の本廟とともに芭蕉三塚とされています』(私は大学時分に訪れたことがあるはずなのだが、全く記憶がない)とある。堀切氏前掲書に、『浪化が元禄十三年上洛の折、義仲寺の翁墓前の小石を三個拾って帰り、それを埋めて井波浄蓮社の翁墳を建立したが、この意図に合わせて』、同年中に『各地の門人に乞うて集めた十百韻の中の一つの発句が、この句であったという』とあり、『宵月が西空に入ろうとするあたりに時雨雲がかかってきたが、その雲が底の方から光っているように見えるという景色である。凄味を帯びた客観写生の句にみえるが、裏面には、芭蕉の没したことを「入月」にたとえ、その命日(陰暦十月十二日)を「しぐれ」に合わせ、さらにその没後の威光を「雲の底光」に示すという寓意がこめられているのである』と評されておられる。]

 

   芭蕉翁七回忌追福の時法華経頓写の前
   書あり

 待受けて経書く風の落葉かな      同

[やぶちゃん注:「頓写」(とんしや)とは追善供養のために大勢が集まって一部の経を一日で速やかに写すことを言う。「一日経」とも。松尾氏の前掲書では、『心待ちにした亡師の七回忌。風もこの日を待ちうけていたのか、写経する目の前を、落葉も経文字を書くような舞いかたで散っている』と評釈しておられる。]

 

   奈良の玄梅蕉翁の
   こがらしの身は竹斎に似たる哉
   といへる句を夢見て、其翁の像を画き
   て讃望みけるに

 木がらしの身は猶軽し夢の中      同

[やぶちゃん注:「玄梅」石岡玄梅(生没年未詳)。奈良の人。当初は貞門に属したが、貞享二(一六八五)年に奈良を訪れた芭蕉の門人となり、素觴子(そしょうし)の号を与えられた。編著に「鳥の道」(元禄十年序)がある。堀切氏は前掲書評釈で、『前書にみえるように、玄梅に求められて、芭蕉の像に賛をした句である。木枯しに吹かれながら瓢々と旅を続けられた芭蕉生前の侘姿』(わびすがた)『は、今、あなたの夢の中では、なおいっそう軽やかなものとして浮かんできたことであろう、という意である。もちろん、そこには丈草自身の故翁への想いもこめられているわけである』とされ、玄梅について、「鳥の道」によれば、『芭蕉に草扉を敲かれ、素觴子(そしょうし)の号を与えられて、「誉られて挨拶もなきかはづ哉」と吟じたことがあったという。そうした懐しい回想をこめ、丈草に翁の像への賛を望んだのであろう』とある。堀切氏も指摘されておられるが、前書の芭蕉の句は正しくは、

 狂句こがらしの身は竹齋に似たる哉

「俳諧七部集」の第一「冬の日」(山本荷兮編。貞享元(一六八四)年刊)の巻頭「こがらしの卷」の破格の発句である。「冬の日」では芭蕉の前書があって、

   *

笠は長途の雨にほころび、帋衣(かみこ)はとまりとまりのあらしにもめたり。侘(わび)つくしたるわび人、我さへあはれにおぼえける。むかし狂哥の才士、此國にたどりし事を、不圖(ふと)おもひ出(いで)て申(まうし)侍る。

   *

と附される。「長途」は「野ざらし紀行」の旅を指す。「狂哥の才士」「竹齋」は江戸初期の仮名草子でベストセラーとなった「竹斎(物語)」の主人公を指す。全二巻。烏丸(からすま)光広の作とする説もあるが、現行では伊勢松坂生まれの江戸の医師富山道冶(とみやまどうや)とする説が有力。元和七(一六二一)年から寛永一三(一六三六)年頃までの間で成立したもので、写本・木活字本・整版本などの諸本がある。京の藪医者竹斎が、「にらみの介」という郎党をつれて江戸へ下る途中、名古屋で開業したりしながら、さまざまな滑稽を展開する話。啓蒙的色彩も強く、また、名所記風な味わいもあり、後の「東海道名所記」から「東海道中膝栗毛」に至るまで大きな影響を与えた。伊東洋氏は「芭蕉DB」のこちらで、『やぶ医者が下男を連れて諸国行脚をする和製ドン・キホーテ物語。芭蕉は自らのやつれた姿と俳諧に掛ける尋常ならざる想いを竹斎の風狂になぞらえた。この旅の風狂は、芭蕉俳諧の一大転機になっており、名古屋の門弟に見せる並々ならぬ自信とみてよい。冒頭の「狂句」は、芭蕉の決意を示す並々ならぬ宣言であり、敢えて「狂句」という自虐的な言い方をしたのであろう。ただし、「狂句」は、後日削除したと言われている』とある。]

 

 これらの句は必ずしも年次を同じゅうするものではない。例えば「ゆりすわる」の句、「朝霜や」の句に現れた追慕の情と、「待受けて」の句、「木がらし」の句に現れたそれとでは、時間的に見て大分の距離があるに相違ないが、その底に流れるものには自ら一貫したところがある。

 「ことづても」の句は元禄十一年の『続有磯海』に出ているから、歿後数年を経ざる場合のものであろう。伊賀は芭蕉の郷里である。芭蕉の歿後その郷里へ行くことになった丈艸は、出発に先って義仲寺の墓に諧でた。「此とほり」というのは人生朝露の如きを意味するのであろうか。「ことづて」は無論郷里の人に対する伝言と思われる。亡師の郷里に赴かむとしてその墓前に立った丈艸は、今更の如く人生の無常なるを痛感せずにいられぬ。その感懐を一句に托したので、句としては面白くもないが、出家沙門たる丈艸の面目はよく現れている。

 「鹿小屋」の句はそれに比べるとよほど面白い。尤もその面白味の大半は、前書によって補われねばならぬものであるが、この感懐は前の句のような観念的なものでないからである。芭蕉の墳を弔い丈艸の庵を訪い寄った俳人が、強いて何か発句をと乞う。「感ありて吟じ、人ありて談じ、常は此事打わすれたるが如し」という丈艸としては、いささか迷惑であったに相違ない。乃ち壁により柱に靠(もた)れて考えるうちに、芭蕉在世当時のことを憶出(おもいだ)した。「麓の庵」というのは栗津の無名庵であろう。「鹿追の声」は畑を荒す鹿を迫う百姓の声らしい。芭蕉がその声を寝覚に聞いて、何とか句になりそうなものだといっていたが、遂に意を果さなかった。その声は今でも聞えて来る。翁の興がった鹿小屋の声は、今麓の方に聞えるのがそれだ、と庵の客に対して語ったのである。この鹿追の追懐は前の句より更に数年後の作であるらしい。

 「幻住庵頽廃」のことは他に何か文献があるのかも知れぬが、姑(しばら)くこの句だけで考えても、芭蕉歿後数年にして全く頽(すた)れていたことがわかる。芭蕉の遺蹟をたずねた丈艸は、頽れた壁が落ちているのを見出した。その壁には窓の一部がついている。単に頽れた壁だけでは、われわれに訴える感じはさのみ強くない。「壁の付たる窓のきれ」というに至ってその印象がまざまざと眼に浮んで来るような気がする。

 「陽炎や」の句についてはまた芥川氏の説がある。許六が亡師迫善の句について、自己の「鬢の霜無言の時の姿かな」を挙げ、嵐雪の「なき人の裾をつかめば納豆かな」を罵倒した。芥川氏はそれに対し、

[やぶちゃん注:以下は、前に掲げた芥川龍之介『「續晉明集」讀後』の一節。

以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。]

 

これは大気焰にも何にもせよ、正に許六の言の通りである。しかし五老井主人以外に、誰も先師を憶うの句に光焰を放ったものはなかったのであろうか? 第二年の追善かどうかはしばらく問わず、下にかかげる丈艸の句は確にその種類の尤(ゆう)なるものである。いや、僕の所信によれば、むしろ許六の悼亡よりも深処の生命を捉えたものである。

 

といって、丈艸のこの句を挙げているのである。許六の「自得発明弁」に対して一拶(いっさつ)を与えるだけなら、あるいはこの一句で足りるかも知れない。丈艸はその他にもかくの如く先師に対する追慕の情を叙している。この一事は丈艸その人を考える上において容易に看過すべからざるものと信ずる。

[やぶちゃん注:「自得発明弁」は既注であるが、再掲しておくと、俳諧論書「許六・去来 俳諧問答」(許六と去来の間で交わされた往復書簡を集めたもので「贈落舍去來書」・「俳諧自讃之論」・「答許子問難辯」・「再呈落柿舍先生」・「俳諧自讃之論」・「自得發明弁」(「弁」はママ)・「同門評判」から成る)の一章。]

今日のおぞましい先生の態度を見よ!――しかし「安静」は続かぬ――Kの「覚悟」の語への関係妄想的「ぐるぐる」が遂に始まってしまう――

 上野から歸つた晩は、私に取つて比較的安靜な夜(よ)でした。私はKが室へ引き上げたあとを追ひ懸けて、彼の机の傍に坐り込みました。さうして取り留めもない世間話をわざと彼に仕向けました。彼は迷惑さうでした。私の眼には勝利の色が多少輝いてゐたでせう、私の聲にはたしかに得意の響があつたのです。私はしばらくKと一つ火鉢(ひはち)に手を翳した後(あと)、自分の室に歸りました。外の事にかけては何をしても彼に及ばなかつた私も、其時丈は恐るゝに足りないといふ自覺を彼に對して有つてゐたのです。

 私は程なく穩やかな眠に落ちました。

『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月29日(水曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第九十七回より。太字下線は私が附した(以下同じ。後の方は改行・行空けや記号を多く施し、Kの台詞内の「私」を「お前」に変えた。ポイントも一部で変えた)。以上のシークエンスは私の生理的嫌悪感を甚だしく刺激する特異点である。以下、続く短い部分のみをシナリオ化してみた)

   *

○先生の部屋
K 「○○……」(先生の呼び名)
 先生、眼を覚ます。蒲団の下方を見る。
 間の襖が六十センチばかり開いていて、そこにKの黒い影が立っている。Kの室には先の通り、未だ灯火が点いている。
 急に安静な眠りから起こされてしまった先生は、面食らい、少しの間、口をきくことも出来ずに「ぼうっ」として、その光景を眺めている。
 黒い影法師のやうに立ち竦んでいるK。落ち着いた声で。
K 「もう寝たのか。」
先生「何か用か。」
 あくまで妙に落ち着いた声で話す、Kの、黒い影法師。
K 「大した用でもない。……ただもう寝たか、まだ起きているかと思って、便所へ行ったついでに聞いて見ただけだ。」
 K、襖を静かに「ぴたり」と立て切る。

   *

 私の室は、すぐ、元の暗闇に歸りました。
 私は、其暗闇より、靜かな夢を見るべく、又、眼を閉ぢました。
 私は、それぎり、何も知りません。

 然し、翌朝になつて、昨夕(ゆふべ)の事を考へて見ると、何だか、不思議でした。
 私は『ことによると、凡てが夢ではないか?』と思ひました。

 それで、飯を食ふ時、Kに聞きました。Kは、
「たしかに襖を開けてお前の名を呼んだ」
と云ひます。
「何故そんな事をしたのか」
と尋ねると、別に判然(はつきり)した返事もしません。
 調子の拔けた頃になつて、
「近頃は熟睡が出來るのか」
と、却て向ふから私に問ふのです。
 私は、何だか、變に感じました。

 其日は丁度同じ時間に講義の始まる時間割になつてゐたので、二人はやがて一所に宅を出ました。
 今朝から昨夕の事が氣に掛つてゐる私は、途中でまたKを追窮しました
 けれどもKはやはり私を滿足させるやうな答をしません
 私は
「あの事件に就いて何か話す積ではなかつたのか」
と念を押して見ました。Kは
「左右ではない」
と强い調子で云ひ切りました。
『昨日、上野で「其話はもう止めやう」と云つたではないか』
と注意する如くにも聞こえました。

 Kはさういふ點に掛けて鋭どい自尊心を有つた男なのです。

 不圖其處に氣のついた私は突然彼の用ひた「覺悟」といふ言葉を連想し出しました

 すると、今迄、丸で氣にならなかつた其二字が、妙な力で、私の頭を抑へ始めたのです。

 

 

2020/07/28

大和本草卷之十三 魚之下 鴟尾(しやちほこ) (シャチ)

 

【外】

鴟尾 事物紀原云唐會要海中有魚虬尾似鴟激

浪則降雨遂作其像於屋以厭火災今以尾

為之蘇鶚演義曰蚩海獸也蚩尾水精能辟火災

可置之堂殿今人多作鴟字又俗間呼爲鴟吻墨

客揮犀注為獸○蚩尾或海魚トシ或海獸トス海

魚ニ。シヤチホコアリ此魚日本ニテハ伊勢海ニアリ西州

ニハマレ也全體黑色也或ネスミイロナリ又黒トンバウト

云此魚性剛ニシテヨク海鰌ヲツキテ追フクジラ恐レ

テ逃ク一切ノ魚ヲ食ス牙齒スルトナリ大サ五七尺

ヨリ三四間ニイタル油多シ皮ニ牡蠣生ス群遊ス今

城門樓閣寺院ノ棟ノ端ニ瓦ニテツクリ立ツ卽此魚

ナリ又魚虎ヲシヤチホコト訓スルハ非ナリ本草ニ云處ニ

不合元升翁曰シヤチホコハ竜頭魚ナルヘシ

○やぶちゃんの書き下し文

【外】

鴟尾(しやちほこ) 「事物紀原」に云はく、『「唐の會要〔くわいよう〕〕」に、海中に、魚、有り。虬〔(きう)〕。尾、鴟〔(しび)〕に似、浪に激すれば、則ち、雨を降らす。遂に其の像を屋〔(や)〕に作る。以つて火災を厭(まじな)ふ』と云云(うんぬん)。今、尾を以つて之を為〔(つく)〕る。「蘇鶚演義」に曰はく、『蚩〔(し)〕は海獸なり。蚩尾〔(しび)〕は水の精。能く火災を辟〔(さ)〕く。これを堂・殿に置くべし。今人、多く「鴟」の字と作〔(な)〕す。又、俗間、呼びて「鴟吻〔(しふん)〕」と爲す』〔と〕。「墨客揮犀〔(ぼつかくきさい)〕」の注に『獸』と為す。

○蚩尾、或いは海魚とし、或いは海獸とす。海魚に「しやちほこ」あり。此の魚、日本にては伊勢〔の〕海にあり。西州には、まれなり。全體、黑色なり。或いは、ねずみいろなり。又、「黒とんばう」と云ふ。此の魚、性、剛〔(かう)〕にして。よく海鰌(くじら)を、つきて、追ふ。くじら、恐れて逃〔(に)〕ぐ。一切の魚を食す。牙齒〔(がし)〕するどなり。大いさ、五、七尺より三、四間にいたる。油、多し。皮に牡蠣〔(かき)〕を生ず。群遊す。今、城門・樓閣・寺院の棟〔(むね)〕の端に、瓦にてつくり、立つ〔は〕、卽ち此の魚なり。又、「魚虎」を「しやちほこ」と訓ずるは、非なり。「本草」に云ふ處に合はず。元升(げんしやう)翁曰はく、「『しやちほこ』は竜頭魚なるべし」〔と〕。

 

[やぶちゃん注:想像上の「鯱(しゃち)」は、姿は魚、頭は虎、尾鰭は常に空を向いていて、背中に幾重もの鋭い棘を有するとされる幻獣であり、また、ここに記された通り、それを模したところの主に火災を避けるための呪的形象として屋根に使用される装飾の一種である。一字で「鯱(しゃちほこ)」とも読み、「鯱鉾」とも書かれる。寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十九 魚類 江海有鱗魚」では「魚虎(しやちほこ)」と記されてある(リンク先は私の電子化注)。通常、大棟(おおむね)の両端に取り付け、鬼瓦と同様に守り神とされ、建物が火事の際には水を噴き出して火を消すとされる(「鴟尾(しび)」も同じであるが、特にあれは幻獣ではなく、中国で同様の呪的役割として、魚が水面から飛び上がって尾を水面上に出した姿を具象化したものであって、屋根の上面が水面を表わし、水面下にある建物は燃えないとの言い伝えから「火除け」として用いられたものと考えられている)。ウィキの「鯱」によれば、鯱は『本来は、寺院堂塔内にある厨子等を飾っていたものを織田信長が安土城天主の装飾に取り入れて使用したことで普及したといわれている』。『現在でも陶器製やセメント製のものなどが一般の住宅や寺院などで使用されることがある』。『瓦・木・石・金属などで作られる。城の天守や主要な櫓や櫓門などにはよく、陶器製(鯱瓦)のものや、銅板張木造のものが上げられる。城郭建築に用いられている銅板張木造鯱のもので最大の現存例は松江城天守(高さ2.08メートル)のものといわれて』おり、『青銅製(鋳造)のものでは、高知城天守のものがある』。『粘土製の鯱瓦は、重量軽減や乾燥時のひび割れを避けるために中を空洞にして作られているため、非常に壊れやすい。棟から突起した心棒と呼ばれる棒に突き刺し、補強材を付けて固定される』。『木造の鯱は、木製の仏像を造る原理に木を組み合わせて、ある程度の形を造っておき、防水のため、外側に銅板などを貼り付けて細かい細工なども施す。粘土製と同じく心棒に差し込み』、『補強材を付けて固定される』。『金色の鯱のことを特に金鯱という。金鯱には陶器製の鯱瓦に漆を塗り、金箔を貼り付けたものが多かった。一般の金箔押鯱瓦は、岡山城天守に創建当初載せられたものなどがある』。『特異なものでは木造の鯱に銅板の代わりに金板を貼り付けたものが上げられることがある。構造は銅板張りの木造鯱と同じ』で、『現在の名古屋城大天守に上げられているものがそれである。同じ仕様のものは、徳川大坂城天守や江戸城天守などに使用された』とある。

 しかし、本条は読み進めれば判る通り、益軒は実在する、

哺乳綱鯨偶蹄目マイルカ科シャチ亜科シャチ属シャチ Orcinus orca

に同定しており、博物学的に正しい。但し、福岡から殆んど離れなかった益軒が実物を見た可能性はゼロに等しい。シャチと言えば、私は今でも鮮やかに覚えている、少年時代の漫画学習百科の「海のふしぎ」の巻に、サングラスをかけた小さなシャチが、おだやかな顔をしたクジラを襲っているイラストを……。ちょっとした参考書にも、シャチは攻撃的で、自分よりも大きなシロナガスクジラ(鯨偶蹄目ナガスクジラ科ナガスクジラ属シロナガスクジラ Balaenoptera musculus)を襲ったり、凶暴なホホジロザメ(軟骨魚綱板鰓亜綱ネズミザメ目ネズミザメ科ホホジロザメ属ホホジロザメ Carcharodon carcharias)等と闘い、そこから「海のギャング」と呼ばれる、と書かれていたものだ。英名も「Killer whale」、学名の Orcinus orca も「冥府の魔物」という意味でもある。しかし実際には、肉食性ではあるが、他のクジラやイルカに比べ、同種間にあっては攻撃的ではないし、多くの水族館でショーの対象となって、人間との相性も悪くない(私は、芸はさせないが、子供たちと交感(セラピー)するバンクーバーのオルカが極めて自然で印象的だった)。背面黒、腹面白、両目上方にアイパッチ(eye patch)と呼ぶ白紋があるお洒落な姿、ブリーチング(breaching:海面に激しく体を打ちつけるジャンピング)やスパイ・ホッピング(spy hopping:頭部を海面に出して索敵・警戒するような仕草)、数十頭の集団で生活する社会性、エコロケーション(echolocation:反響定位)による相互連絡やチーム・ワークによる狩猟、じゃれ合う遊戯行動等、少しばかりちっぽけな彼等がシャチの分際で人間の目に付き過ぎたせいかもしれないな。本項の叙述もそんな感じだ。『出るシャチはブリーチング』というわけか。

「事物紀原」中国の類書(百科事典)。原本は二十巻二百十七事、現行本は十巻千七百六十五事。宋の高丞撰。成立年は未詳。事物を天文・地理・生物・風俗など五十五部門に分類して名称や縁起の由来を古書に求めて記したもの。当該部分は「卷八」の以下(「中國哲學書電子化計劃」より引き、漢字の一部表記を変更した。また、早稲田大学図書館古典総合データベースにあるこちらの寛文四(一六六四)年刊の訓点附版本(PDF)を参考に、不完全ではあるが、句読点や鍵括弧を附して読み易くした 。リンク先のそれは送り仮名も振られているので、対照すると完全訓読出来る。問題はどこが各書籍の引用なのかが不明なだけである)。

   *

「唐會要」曰、漢栢梁殿災。越巫言、海中有魚、虬尾似鴟。激浪則降雨。遂作其像於屋、以厭火災。王叡「炙轂子」、栢梁災越巫獻術、取鴟魚尾置於殿屋、以厭勝之。今瓦爲之。「蘇鶚演義」曰、漢武作栢梁殿。上疏者曰、蚩尾水之精能辟火災。可置之堂殿。今人多作鴟字、顔之推亦、作鴟。劉孝孫「事始」、作蚩尾。又俗間呼爲鴟吻。如鴟鳶。遂以此呼之後。因有作此鴟者。王子年「拾遺記」曰、鯀治水無功。自沉羽淵化爲玄魚。海人於羽山下修玄魚祠、四時致祭。嘗見瀺灂出水。長百丈、噴水激浪、必雨降。「漢書」越巫請以鴟魚尾。厭火災、今鴟尾卽此魚尾也。按王嘉晉人。晉去漢未逺當時、已作鴟字。蘇鶚之說亦、未爲允也。吳處厚「靑箱雜記」曰、海有魚虬尾、似鴟。用以噴浪、則降雨。漢栢梁臺災。越巫上厭勝之法。起建章宫、設鴟魚之像於屋脊、以厭火災。卽今世鴟吻是也。

   *

「唐の會要」「唐會要」(とうかいよう)は中国の北宋の王溥(おうふ 九二二年~九八二年)が撰して、太祖の建隆二(九六一)年に完成した、現存最古の会要(一つの王朝の国家制度・歴史地理・風俗民情を収録した歴史書の一種)である。ウィキの「唐合会要」によれば、『本書は、蘇冕』(そべん)「会要」と崔鉉(さいげん)らが撰した「続会要」の『続編として作られ、専ら唐一代の政治・経済・文化等の各項目の制度沿革を記録しており』、「通典」(つてん:唐の杜佑(とゆう)が記した中国史上初めての形式が完備された法制度関係書で、黄帝と有虞氏(舜)の時代から、唐の玄宗の天宝晩期の法令制度の制度沿革に至るまでを記録し、その中でも唐代を最も詳しく述べてある)などの『典籍と多くの類似点を有している。しかしながら、唐代の制度に関する記載は、更に詳細であり』、「旧唐書」(くとうじょ)中に『大量の史料が存在する。例えば、「音楽志」・「天文志」などは』、皆、『本書から採られて』いるため、『本書の記載に誤りがあれば』、「旧唐書」もまた『同じ誤りを犯している』という具合である。『なお且つ本書は』「旧唐書」・「新唐書」『未収の史実を』も『記載しており』、「大唐起居注」・「大唐実録」が既に『亡佚した今、部分的な内容であっても、多く本書に保存されて』あって貴重なのである。『原本は流伝の過程の中で残缺し、現行本は清代乾隆年間に整理された本の重印で』、全書百巻・五百十四目で『あるが、少なからざる条目下には「雑録」が有り、門類に分けられていないため、査読に』は『不便である。別に張忱石の』「唐会要人名索引」が『あり、検索に便である』とある。引用部は同書の「巻四十四」の「雜災變」の一節。中文ウィキソース「維基文庫」のここから引く。一部の漢字表記を変更し、文の開始位置も変えた。

   *

開元十五年七月四日。雷震興教門兩鴟吻。欄檻及柱災。

蘇氏駁曰。東海有魚。虯尾似鴟。因以爲名。以噴浪則降雨。漢柏梁災。越巫上厭勝之法。乃大起建章宮。遂設鴟魚之像於屋脊。畫藻井之文於梁上。用厭火祥也。今呼爲鴟吻。豈不誤矣哉。

   *

「虬〔きう〕」龍の子どもで二本の角を持つとされる。みづち(蛟)。

「鴟〔(しび)〕」実在する鳥ではトビ・フクロウ・ミミズクなどを指し、怪鳥の意もある。

「浪に激すれば」波濤の高まりに怒ると。

「屋〔(や)〕」屋根。

「厭(まじな)ふ」「咒(まじな)ふ」「呪(まじな)ふ」に同じ。

「今、尾を以つて之を為〔(つく)〕る」現在は尾の部分だけを形象する。されば、ここの部分に関しては「鯱鉾」よりも「鴟尾」を解説しているとする方が相応しい。

「蘇鶚演義」唐の蘇鶚の撰になる本草書「蘇氏演義」。引用は「巻上」の以下。「漢籍リポジトリ」の同書から引いた。一部の漢字表記を変更し、句読点や鍵括弧を推定で附した。

   *

蚩者、海獸也。漢武帝作柏梁殿。有上䟽者云、「蚩尾、水之精、能辟火災、可置之堂殿。」。今人多作鴟字。見其吻如䲭鳶、遂呼之爲䲭吻。顏之推亦、作此䲭。劉孝孫「事始」作此。蚩尾、既是水獸、作蚩尤之蚩是也。蚩尤銅頭鐵額、牛角牛耳、獸之形也。作䲭鳶字、卽少意義。

   *

「蚩〔(し)〕」この漢字自体は、本来は「這い歩く虫」の意で海棲動物の意味はない。但し、上で述べられるように、中国神話に登場する狂暴な神に蚩尤(しゆう:黄帝時代の諸侯とも臣ともされるが、獣身で銅の頭に鉄の額を持つとか、四目六臂で人の身体に牛の頭と鳥の蹄を持つとか、頭に角があるなどとも伝えるモンスターである。黄帝と涿鹿(たくろく)の野で戦って敗死したともされる)がいるので、それとの関連を想像すると、何となくこの漢字もありかも、という気はしてくる。

「蚩尾〔(しび)〕」「鴟尾」の別表記で使用される。

「鴟吻〔(しふん)〕」小学館「日本国語大辞典」にも「鴟尾」に同じとする

「墨客揮犀〔(ぼつかくきさい)〕」宋の彭乗(ほうじょう)の撰になる随筆。日中数種の全電子化テクストを用いて「獣」「獸」「兽」で調べたが、孰れもヒットしない。不審。

「日本にては伊勢〔の〕海にあり」ウィキの「シャチ」によれば、『日本では北海道の根室海峡から北方四島にかけてや、和歌山県太地町にて度々目撃されている』とあるから、伊勢というのは腑に落ちる。

「全體、黑色なり。或いは、ねずみいろなり」聞き書きで、実見していないので、この誤りは仕方あるまい。ウィキの「シャチ」によれば、『背面は黒、腹面は白色で、両目の上方にアイパッチと呼ばれる白い模様がある。生後間もない個体では、白色部分が薄い茶色やオレンジ色を帯びている。この体色は、群れで行動するときに仲間同士で位置を確認したり、獲物に進行方向を誤認させたり、自身の体を小さく見せたりする効果があると言われている。大きな背びれを持ち、オスのものは最大で2メートルに達する。背びれの根元にサドルパッチ』(saddle patch)『と呼ばれる灰色の模様があり、個々の模様や背びれの形状は一頭ずつ異なるため、これを個体識別の材料とすることができる』とある。

「黒とんばう」黒蜻蛉であろうが、違和感がない異名である。「シャチ」よりずっといい。

「五、七尺より三、四間」一メートル八十二センチから七メートル二十七センチ。シャチはマイルカ科 Delphinidae の中では最大種で、平均で体長は♂で5.8~6.7メートル、♀で4.9~5.8メートル。

「油、多し」Q&Aサイトの「シャチは食べられるか」という質問への答えに、『国内では座礁したシャチを食べた事があったかもしれません。積極的に食用目的で獲った事はあまりないと思います』。『しかし壱岐では高松鯨という塩鯨があったそうです。タカマツとはシャチの事です』。『戦後~1970年代ごろまでは油脂採取目的で乱獲し、定住型シャチがいたとしたら』、『絶滅したのではとも言われてます』。『日本では一部を除き』、『殆どいなくなってしまった』ともある。また、『アイヌは他のイルカや鯨を漁の対象としても』、『シャチは神鯨として』、『決して』捕『ったり』、『食べたりする事は有りませんでした』。『インドネシアのランバタ島ではシャチを獲っていたと思います。ですが漁師は自分では食べずに交易品にして』いたもの『と思います』とあった。

「皮に牡蠣〔(かき)〕を生ず」これは中型以上のクジラ類に一般に普通に見られる現象で、この附着が各個体の識別にも利用されている。

『「魚虎」を「しやちほこ」と訓ずるは、非なり。「本草」に云ふ處に合はず』これは当然である。「本草綱目」のそれは全く別種の記載だからである。「鳞之四」の以下を読まれたい。

   *

魚虎【「拾遺」。】

 釋名 土奴魚【「臨海記」。】。

 集解 藏器曰、『生南海。頭如虎、背皮如猬有刺、着人如蛇咬。亦有變爲虎者。』。時珍曰、『按、「倦游録」云、「海中泡魚大如斗、身有刺如猬、能化爲豪猪。」。此卽魚虎也。』。「述異記」云、『老則變爲鮫魚。』。

 氣味 有毒。

   *

概ね、魚類愛好家なら、即、お判りの通り、「本草綱目」の記すこの「魚虎」は、虎や蝟(ハリネズミ)が化生したという叙述はブットビだが、それを勝手に比喩として転ずるなら、背部の刺の描写は、まず、カサゴ亜目オニオコゼ科オニオコゼ属オニオコゼ Inimicus japonicus などを筆頭としたカサゴ目の毒刺を有するグループであることが見て取れる。

「元升翁」本草学者で医師の向井元升(げんしょう 慶長一四(一六〇九)年~延宝五(一六七七)年)であろう。ウィキの「向井元升」によれば、『肥前国に生まれ』で五『歳で父、兼義とともに長崎に出て、医学を独学し』、二十二『歳で医師となる』。慶安四(一六五一)年、ポルトガルの棄教した宣教師クリストファン・フェレイラの訳稿を元に天文書『乾坤弁説』を著し』、承応三(一六五四)年には『幕命により、蘭館医ヨアン(Hans Joan)から通詞とともに聞き取り編集した、『紅毛流外科秘要』』全五『巻をまとめた』。万治元(千六百五十八)年、『家族と京都に出て医師を開業した』。寛文一一(一六七一)年、『加賀藩主前田綱紀の依頼により『庖厨備用倭名本草』を著した。『庖厨備用倭名本草』は、中国・元の李東垣の『東垣食物本草』などから食品』四百六十『種を撰び、倭名、形状、食性能毒等を加えたものである』。なお、彼の『次男は俳人の向井去来』である。

「竜頭魚」現行では条鰭綱ダツ目ダツ亜目トビウオ上科サヨリ科サヨリ属サヨリ Hyporhamphus sajori の異名で、こう書いて「さより」と読ませるらしいが、これまた、ちょっと私にはピンとこない。元は中国の「通雅」(明の方以智(ほういち)撰の語学書)由来のようだ。しかし思うに「龍頭」(りゅうず:梵鐘の最上部の環状を成している部分の名称。ニ個の獣頭からなり、口唇の部分で梵鐘の上蓋に接している)って、如何にも鴟尾っぽくねえか?!

大和本草卷之十三 魚之下 アナゴ

 

【和品】

アナゴ 鰻鱺ニ似テ可食味ウナキニ不及海ウナキトモ

云鱧ヲモ海ウナキト云然𪜈別ナリ

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

アナゴ 鰻鱺〔(うなぎ)〕に似て食ふべし。味、「うなぎ」に及ばず。「海うなぎ」とも云ふ。鱧〔(はも)〕をも「海うなぎ」と云ふ。然れども、別なり。

 

[やぶちゃん注:条鰭綱新鰭亜綱カライワシ上目ウナギ目アナゴ亜目アナゴ科アナゴ属マアナゴ Conger myriaster。最大全長は一メートルにも達する。性的二型で♀の方が大きく、標準で♂は40 cm前後、♀は90 cmほど。口を閉じた際に下顎が上顎に隠れるのが特徴で、大型個体は顎の力が非常に強く、歯も鋭いため、噛まれると大怪我をするので注意が必要。また、ウナギと同じく血液に血清毒(蛋白毒イクシオトキシン(ichthyotoxin))が含まれ、粘液にも同じく含まれているため、生食は十分に水に晒すことが必須である。

「鰻鱺〔(うなぎ)〕」音は「マンレイ」。条鰭綱ウナギ目ウナギ亜目ウナギ科ウナギ属ニホンウナギ Anguilla japonica「大和本草卷之十三 魚之上 鰻鱺 (ウナギ)」を参照。血清毒については以下のリンク先も必ず参照のこと。

「鱧〔(はも)〕」条鰭綱ウナギ目ハモ科ハモ属ハモ Muraenesox cinereus。直前の「大和本草卷之十三 魚之下 鱧魚(れいぎよ)・海鰻(はも)(ハモ・ウツボ他/誤認同定多数含む)」を参照。]

譚海 卷之三 細川家和哥の事

 

細川家和哥の事

○石田治部少輔謀反の時、玄旨法印丹後の城に籠られしに、逆徒貴詰(せめつめ)て既にあやうかりし由叡聞(えいぶん)に達し、和歌の名匠なる事を悼み思召(おぼしめし)、逆徒へ勅使を立られ、早速圍(かこみ)をとき無事に成(なり)たり。其時玄旨法印必死の覺悟ゆゑ、年來和歌相傳の書を箱に入(いれ)、光廣卿へ傳へられ、往反(わうはん)贈答の詠に及ベり。子息三齋殿此事を殘念に存ぜられ、和歌の事に拘(こだは)りて武士の死(しす)ベき時に死せざる恥(はづ)べき事とて、以後三齋和歌を詠ぜられずといへり。今時(きんじ)も細川家斗(ばか)りは京都隱居住(ぢゆう)する事相叶(あひかな)ふ例(ためし)のよし、和歌の事によりて然るにやといへり。

[やぶちゃん注:「石田治部少輔」石田三成。

「謀反」豊臣秀吉の没後、政権の首座に就いた大老徳川家康は、度重なる上洛命令に応じずに敵対的姿勢を強める会津の上杉景勝を討伐するために、慶長五(一六〇〇)年六月に諸将を率いて東下した(「会津征伐」)が、家康と対立して佐和山に蟄居していた石田三成は、家康の出陣によって畿内一帯が軍事的空白地域となったのを好機と捉え、大坂城に入り、家康討伐の兵を挙げたことを指す。その緒戦が慶長五年七月十九日から九月六日にかけて、丹後田辺城(現在の京都府舞鶴市のここ。グーグル・マップ・データ)を巡りって起こったのがここで挙げられた「丹後田辺城の戦い」である。本籠城戦は広義の「関ヶ原の戦い」の一環として戦われ、丹波福知山城主小野木重次、同亀岡城主前田茂勝らの西軍が、田辺城に籠城する細川幽斎・細川幸隆(東軍)を攻めた。参照したウィキの「田辺城の戦い」によれば、『西軍は、まず』、『畿内近国の家康側諸勢力の制圧に務めた。上杉討伐軍に参加していた細川忠興の丹後田辺城もその目標の一つで、小野木重次・前田茂勝・織田信包・小出吉政・杉原長房・谷衛友・藤掛永勝・川勝秀氏・早川長政・長谷川宗仁・赤松左兵衛佐・山名主殿頭ら、丹波・但馬の諸大名を中心とする』一万五千の『兵が包囲した』。『忠興が殆んどの丹後兵を連れて出ていたので、この時田辺城を守っていたのは、忠興の実弟の細川幸隆と父の幽斎および従兄弟の三淵光行(幽斎の甥)が率いる』五百名に『すぎなかった』。『幸隆と幽斎は抵抗したものの、兵力の差は隔絶し、援軍の見込みもなく』、七月十九日から『始まった攻城戦は、月末には落城寸前となった』。『しかし西軍の中には、当代一の文化人でもある幽斎を歌道の師として仰いでいる諸将も少なくなく、攻撃は積極性を欠くものであった。当時幽斎は三条西実枝から歌道の奥義を伝える古今伝授を相伝されており、弟子の一人である八条宮智仁親王やその兄後陽成天皇も幽斎の討死と古今伝授の断絶を恐れていた。八条宮は使者を遣わして開城を勧めたが、幽斎はこれを謝絶し、討死の覚悟を伝えて籠城戦を継続』、「古今集証明状」を八条宮に贈り、「源氏抄」と「二十一代和歌集」を朝廷に献上している。『ついに天皇が、幽斎の歌道の弟子である大納言三条西実条と中納言中院通勝、中将烏丸光広を勅使として田辺城の東西両軍に派遣し、講和を命じるに至った。勅命ということで幸隆と幽斎はこれに従い』、九月十三日、『田辺城を明け渡し、敵将前田茂勝の居城である丹波亀山城に身を移されることとなった』。『この戦いは西軍の勝利となったが、小野木ら丹波・但馬の西軍』一万五千は、この間、『田辺城に釘付けにされ、開城から』二日後に起こった「関ヶ原の戦い」本戦に『間に合わな』くなったのであった。

「玄旨法印」戦国から江戸前期の武将で歌人の細川藤孝(幽斎)(天文三(一五三四)年~慶長一五(一六一〇)年)。京生まれ。三淵晴員(みつぶちはるかず)の次男であったが、伯父細川元常の養子となった。細川忠興の父。足利義晴・義輝や織田信長に仕えて丹後田辺城主となり、後に豊臣秀吉・徳川家康に仕えた。和歌を三条西実枝(さねき)に学び、古今伝授を受けて二条家の正統を伝えた。有職故実・書道・茶道にも通じた。剃髪して幽斎玄旨と号した。著書に「百人一首抄」・歌集「衆妙集」等がある。

「光廣」先の「元和の比堂上之風儀惡敷事」の私の注を参照。

「子息三齋殿」細川藤孝(幽斎)の長男で当時は丹後国宮津城主。後、豊前国小倉藩初代藩主となった細川忠興(永禄六(一五六三)年~正保二(一六四六)年)。「田辺城の戦い」の開城の一件で、一時、父と不和になっており、それがこの述懐に現われている。

「以後三齋和歌を詠ぜられずといへり」事実かどうかは不詳。]

甲子夜話卷之六 16 富小路貞直卿、千蔭と贈答の事

 

6-16 富小路貞直卿、千蔭と贈答の事

堂上と地下の贈答に、見るべきほどの歌は多く聞ず。十年前にも有しや、富小路三位貞直卿より、加藤千蔭へ給はりし消息の裏に、

 陰あふぐ心のはてはなきぞとほ

      くまなくみらむ武藏のゝ月

とありし時、千蔭の返しに、

 むさし野ゝを草が上も雲井より

      もらさぬ月の影あふぐ哉

これ等は京紳にも恥ざる咏なるべし【二條、林氏の册、抄錄】。

■やぶちゃんの呟き

「富小路貞直」宝暦一一(一七六二)年~天保八(一八三七)年)は江戸後期の公卿・歌人。伏原宣条(ふしはらのぶえだ)の子で富小路良直の養子。加藤千蔭(ちかげ)に和歌の添削を受け、本居宣長とも親交があった。正三位・治部卿(じぶきょう)。号は如泥。

「千蔭」「加藤千蔭」(享保二〇(一七三五)年~文化五(一八〇八)年)江戸中・後期の江戸生まれの歌人で国学者。幕臣で歌人の加藤枝直(えなお:本姓は橘)の三男。賀茂真淵に入門した。歌風は平明優雅で、村田春海(はるみ)とともに「江戸派」を代表した。書は「千蔭流」と呼ばれ、画や狂歌も巧みであった。著作に「万葉集略解(りゃくげ)」、家集に「うけらが花」などがある。

「二條」これは前の6-15 儒者の歌」と本条の意であろうか。

「林氏」お馴染みの静山の友人の儒者で、林家第八代の林述斎であろう。

甲子夜話卷之六 15 儒者の歌

 

6-15 儒者の歌

儒士の歌と云ものは多くは無きものなるが、林羅山の歌は木下氏の編る「視今集」に載たり。又その弟永喜の歌とて、人の傳る所を錄す。

   心ちよからぬおりふし筆とりて

 殘すとは書をかねども水莖の

      跡やはかなき形見ならまし

   夏草

 しげりあひて道も夏野の草の葉の

      そよぐ方にや人通ふらん

■やぶちゃんの呟き

「林羅山」(天正一一(一五八三)年~明暦三(一六五七)年)は江戸初期の朱子学派儒学者。林家の祖。羅山は号で、本名は信勝。出家後の号道春(どうしゅん)の名でも知られる。独学のうちに、朱子学に熱中し、慶長九(一六〇四)年と藤原惺窩と出逢い、翌年、彼が羅山を推挙して徳川家康に会い、二十三歳の若さで家康のブレーンの一人となった。慶長一二(一六〇七年)、家康の命により僧形となった。寛永元(一六二四)年には就任したばかりの第三代将軍徳川家光の侍講となり、さらに幕府政治に深く関与していった。

「木下氏」秀吉の正室高台院の義理の曾孫木下(豊臣)秀三。

「視今集」木下秀三撰「和歌視今集」。正徳元(一七一一)年成立。

「永喜」林永喜(えいき 天正一三(一五八五)年~寛永一五(一六三八)年)は羅山の実弟で儒学者・歌人。羅山とともに江戸幕府に仕え、初期の幕政に参画した。兄に道学を、歌道家に和歌を学び、慶長九(一六〇四)年に藤原惺窩に対面して啓発を受けた。度々、漢和聯句会に参加し、慶長一三(一六〇八)年には一華堂乗阿と「源氏物語」について論争している。

「かねども」「兼ねども」か。

甲子夜話卷之六 14 伶人多氏、浴恩老侯と贈答の事

 

6-14 伶人多氏、浴恩老侯と贈答の事

京伶人多大和守【久敬】下りし折から、樂翁招てひたもの催馬樂を學ばれしに、大和歸京に臨みけるときかくなん、

 君にこそ拾はれにけれいせの海の

      なぎさによれるかひもなき身を

其時、樂翁の返し、

 打よする心計に日をふれど

      なぎさの玉は手にもとられず

一時の戲といへど風雅なることなり。大和も伶工には珍らしき風致なりき。

■やぶちゃんの呟き

「伶人多氏」「多」(おほの)「大和守【久敬】」雅楽演奏家多久敬(おおのひさかた 明和九(一七七二)年~弘化二(一八四五)年)。

「老侯」「樂翁」白川藩藩主・老中松平定信(宝暦八(一七五八)年~文政一二(一八二九)年)。老中失脚は寛政五(一七九三)年。

「ひたもの」ひたすら。

「催馬樂」「さいばら」。古代歌謡の一つ。平安時代に民謡を雅楽風に編曲したもの。笏拍子(しゃくびょうし:当初は二枚の笏を用いたが、後に笏を縦に中央で二つに割った形となった。主唱者が両手に持って打ち鳴らして用いる)・和琴(わごん)・笛・篳篥(ひちりき)・笙(しょう)・箏(そう)・琵琶(びわ)などで伴奏した。

「伊勢」文化九(一八一二)年に定信は家督を長男の定永に譲って隠居(文化九(一八一二)年3月)隠居しているが、実際には藩政の実権は以前として掌握していた。定永の時代に久松松平家旧領伊勢桑名藩への領地替えが行われているが、これは定信の要望により行われたものとされている。定信の白川藩藩祖定綱以来の先祖の地は伊勢桑名であった。

「心計に」「こころばかりに」。

「戲」「たはむれ」。

今日、あのKの「覺悟?……!……覺悟なら……ないこともない……」という決定的な台詞が発せられてしまう――

 「私はKと並んで足を運ばせながら、彼の口を出る次の言葉を腹の中で暗に待ち受けました或は待ち伏せと云つた方がまだ適當かも知れません。其時の私はたとひKを騙し打ちにしても構はない位(くらゐ)に思つてゐたのです。然し私にも敎育相當の良心はありますから、もし誰か私の傍へ來て、御前は卑怯だと一言私語(さゝや)いて吳れるものがあつたなら、私は其瞬間に、はつと我に立ち歸つたかも知れません。もしKが其人であつたなら、私は恐らく彼の前に赤面したでせう。たゞKは私を窘(たしな)めるには餘りに正直でした。餘りに單純でした。餘りに人格が善良だつたのです。目のくらんだ私は、其處に敬意を拂ふ事を忘れて、却て其處に付け込んだのです。其處を利用して彼を打ち倒さうとしたのです。

 Kはしばらくして、私の名を呼んで私の方を見ました。今度は私の方で自然と足を留めました。するとKも留まりました。私は其時やつとKの眼を眞向に見る事が出來たのです。Kは私より脊の高い男でしたから、私は勢ひ彼の顏を見上げるやうにしなければなりません。私はさうした態度で、狼の如き心を罪のない羊に向けたのです。

(『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月28日(火曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第九十六回より。太字下線は私が附した)

 以下、私のオリジナル・シナリオ――

 なお、Kの最後の台詞は「心」では実際には

すると彼は卒然「覺悟?」と聞きました。さうして私がまだ何とも答へない先に「覺悟、―覺悟ならない事もない」と付け加へました。彼の調子は獨言のやうでした。又夢の中の言葉のやうでした。

である。

   *

○上野公園。(続き)

 Kの後姿。のろのろとフランケンシュタインの怪物のように歩むK。

 追いついて、Kと並んで歩む先生。夕暮れ。

K 「……○○……」

[やぶちゃん注:「○○」には先生の姓が入る。]

 先生の方を見るK(先生目線の上向きのバスト・ショット)。

 先生とK、立ち止まる(フルショット。背後に枯れた木立を煽って)。

 Kの悲痛な顏(真正面のフル・フェイス・ショット)。

 先生の顏(夕日を反射する眼鏡は鏡面のようにハレーションして眼は見えない。見上げる真正面のフル・フェイス・ショット)

 K、淋しそうな眼、表情(真正面のフル・フェイス・ショット)。

K 「……もう、その話はやめよう。」

 対する二人(ミディアム・ショット)。

K 「……やめてくれ。」

先生「(ゆっくりと極めて冷静に)やめてくれつて、僕が、言い出したことじゃない。もともと君の方から持ち出した話じゃないか。……(間)……しかし、君がやめたければ、やめてもいいが、……(間)……ただ、口の先でやめたって仕方あるまい? 君の心でそれを止めるだけの、『覚悟』がなければ。……一体、君は、君の平生の主張をどうするつもりなんだ?」

 項垂(うなだ)れていることが分かるKの後頭部(やや上から魚眼レンズの俯瞰ショット。僅かに高速度撮影)。間。カメラがややティルト・アップすると、向うに先生(捉えた瞬間、先生を迅速にフレーム・アップ。則ち、次の二つの台詞はフレーム上ではオフで発せられることになる)。

K 「……覚悟?……」

 フレームの中の向うの先生が口を開いて何か言おうとする。しかしそれに合わせて、独白(モノローグ)のように、夢の中の言葉のやうに(台詞と共にややティルト・ダウンして、画面いっぱいにKの後姿。項垂れたままに)。

K 「覚悟?……!……覚悟なら……ないこともない……」

 

○上野公園(遠景)
 人気のない夕暮れの上野公園を下ってくる先生とK。小さく。


○上野公園(不忍池への下り坂)
 これ以降、二人の下駄の音のみ(SE)。魚眼レンズでクレーン・アップ、ティルト・ダウンして、手前から二人、イン。下駄の音。

――カッ! カッ! カッ!

 背後から二人の頭部(この映像を下駄の音に合わせて、微かにフレーム・アップ、カット・バック、微かにフレーム・アウト、カット。バックで繰り返す)

 地べたにカメラ、右上からインする先生の下駄の足。先生の足止まる。直ぐ向うを下駄履きのKの足が右から左へ抜ける。先生の両足、踏み変えて、振り返る動作の足(アップ。微かに高速度撮影。先生のにじるキュッという靴音。その音がK一人の下駄音と不協和音のように絡む)。

――カッ! カッ! カッ!(Kの下駄音という風であるが、大きなままで微かにエコーを入れる)

 何気なく振り返る先生(俯瞰ショット。微かに高速度撮影)。夕日が一閃! 眼鏡に反射してハレーションを起こす。

 その先生をなめて、坂を下る項を垂れたままに下ってゆくKの姿。

――カッ! カッ! カッ!

 暮れなずむ薄暗い空(広角)。

 霜に打たれて蒼味を失った茶褐色の杉の木立が梢を並べて聳えている中空(分かる分からない程度にティルト・ダウンさせるが、地上は映さない)。

 先生の右唇を中心にしたフル・フェイス・ショット(魚眼レンズ)。震える、先生の口元!

 遠景。坂下の下ってゆくKの後姿。

――カッ! カッ! カッ!

――カ! カ! カ! カ!

 先生、Kの方へ走ってゆく(クレーン・アップ。微かに高速度撮影。ここでは二人の足音が不協和音のように絡む)。(F・O・。……だが、その後も SE 残る)


――カッ! カッ! カッ!…………

――カ! カ! カ! カ!…………

 

2020/07/27

三州奇談續編卷之八 八幡の靈異 / 三州奇談 全148話 電子化注 完遂!

 

    八幡の靈異

 埴生(はにふ)の神社は彼(かの)大夫坊が願書に名高くして、此邊の所々は木曾義仲倶利伽羅を說くの證跡にして、此話は事古りたれば筆を止(や)めつ。社頭石階遙に上る。石壇悉く累文(るいもん)ありて、雨中の長きにも道辷(すべ)ることなく、心穩かに坂を上る。危きを忘るゝも又々妙あり。社頭物さび、尊さは云ふにや及ぶ。應現(わうげん)の神なるは書き續くとも盡し難し。爰に土人の奇話あり。

[やぶちゃん注:「埴生の神社」現在の富山県小矢部市埴生にある埴生護国八幡宮(グーグル・マップ・データ)。サイド・パネルの麦水も登った階(きざはし)をリンクさせておく。

「大夫坊が願書」既に出た通り、大夫坊覚明(たゆうぼうかくみょう・かくめい 保延六(一一四〇)年以前?~元久二(一二〇五)年以後)は信救得業(しんぎゅうとくごう)とも称した木曽義仲の右筆。元は藤原氏の中下級貴族の出身と見られる。寿永二年五月十一日、現在の先の埴生護国八幡宮(八幡神は源氏の氏神である)を義仲が偶然に見出し、義仲が戦勝祈願をした際にその願書を書いており、それは現在も八幡宮に残っている。彼については個人サイト「事象の地平」のこちらに非常に詳しい。

「倶利伽羅」とはサンスクリット語「クリカ」の漢音写で、インドで八つの龍の王の内の一柱の名であり、「陀羅尼集経」では「鳩利龍王」とも漢訳されている。仏教に取り入れられた「倶利迦羅竜王」は、岩上に直立する宝剣に火炎に包まれた黒龍が巻きついている様で形象され、この竜王は「不動明王」の化身として集合されて特に武家に崇拝された。剣と火炎は一切の邪悪罪障を滅ぼすとされる。寿永二(一一八三)年木曾義仲が平維盛の軍勢をその峠の南斜面に當深い谷に攻め落としたことで知られる倶利伽羅峠であるが、この名も、その峠に倶利迦羅不動を祀る堂が存在したことに由来している。倶利迦羅不動寺は養老二(七一八)年、元正天皇の勅願により、倶利迦羅不動明王を奉安されたのが始まりと伝えられ、弘仁二(八一二)年、弘法大師が本尊と同体の不動尊像を彫って別当山として長楽寺が開山されたのが確かな創建である。ここで麦水が「說く」と言っているのは、倶利迦羅竜王が絶対の正義を以って戦うことで仏敵を滅ぼす如く、我らが平家を倒すことが必定されていることを神に誓い、部下の将兵らに説いたという謂いであろう。

「累文」重なった層状の紋様。]

 

 近く元文三年の春の事とにや。一夜社頭

「ざはざは」

と人音し、鈴鳴り馬嘶(いなな)く躰(てい)のこと曉に至れり。近鄕の人怪しみ思ひしとなり。音を聞きたる人は甚だ多かりしが、其中に宇兵衞と云ふ者は、

「むつく」

と起きて社頭へ走り登り見けるに、最早朝日煌々と出で輝きて、辰(たつ)にも及ばんとする頃、倶利伽羅山の東谷なる須小池(すこいけ)と云ふ上に、魚津浦に見なれし喜見城(きけんじやう)と云ふ物の立ちて、人家城廓はもとより、人馬旌旗(せいき)の行かふさま、ありありと見え渡る。併(しか)し先づ異國の人のやうに覺え、城樓も異國のけしきに思ひし。只彩色の樣(さま)照り輝き、見事なること云ふばかりなし。然るに此御神は、敵國降伏の誓言なればにやありけん。暫くして此社頭より、

「そよそよ」

と風吹き渡るよと見えしが、此城樓・旌旗悉く消え失せて、跡(あと)靑天白日となりき。

 其二三年は殊に豐年打續き、世上(せじやう)里民(りみん)腹を皷(こ)して樂しみ、諸國民安かりし。是を思へば神の遊戯にして、異靈吉祥(きつしやう)なるためしとぞ思はる。

 蜃氣の樓をなすは、此邊(このあたり)海上の常ながら、蜃は元來山雉(やまきじ)にして、其卵地中に成るよし。「南島變」の中に詳しく記す。

 扨は北地の山は、土中自ら此氣を吐くことあるか。又は須小池は元來大いなる鯉(こひ)住む故に名づくと云へば、鯉も又氣を吐くものにや。辨じ難し。此外往々此山畔霧裡(きりのうち)に、城廓を見ること折々ありと云ふ。扨又此邊及びみとだ海道筋に、醬油を造る大家どもは、大釜に鹽を入れて湯に燒くこと折々なり。然るに時々には鹽固まりて解けざるものあり。其形樓閣の如し。其形誠に怪しき迄なるもの出來ること多し。門・戶・扉まで備(そなは)りたること奇妙なり。終(つひ)に石となる。又皆解けてかたまらざる日もあり。かたまれば必ず家居なり。思ふに地氣家の形をなすは、天然の妙にして、家居もと人工の外に出たること明らけし。然れば山氣・湖氣現(うつつ)に樓閣を結ぶ、又故ありと覺ゆ。

[やぶちゃん注:面白い。蜃気楼の城郭や兵馬・旌旗(軍旗)が異国のそれであったが故に、倶利伽羅龍王(不動明王)の法力(「敵國降伏の誓言」通り)が自動的に働き、蜃気楼も成敗されて消えたというのである。

「そよそよ」

と風吹き渡るよと見えしが、此城樓・旌旗悉く消え失せて、跡(あと)靑天

「元文三年」一七三八年。

「辰」午前七時。

「須小池」倶利伽羅峠東谷には多数の池沼があるが、どれだか分からない。一番大きなそれは「埴生大池」或いは「大池」(グーグル・マップ・データ)と呼ばれる。一応、これを第一比定候補としておく。先の埴生護国神社とは直線で二キロほどしか離れていない。倶利伽羅合戦ではこの池のすぐ南方に義仲軍の初期本陣が配された。

「魚津浦に見なれし」富山湾の内で最も本格的な蜃気楼が見られるのは、現在でも魚津である。

「喜見城」本来は梵天と並ぶ仏教の護法大善神たる帝釈天の居城の名(サンスクリット語「スダルシャン」の漢訳語「ス」は「適切な・良い」、「ダルシャン」は「見る」の意)。須彌山(しゅみせん)の頂上にある忉利天(とうりてん)の中央に位置し、城の四門に四大庭園があって諸天人が遊楽するという。ここは、それを転じた蜃気楼の異名。

「蜃は元來山雉(やまきじ)にして、其卵地中に成るよし」「近世奇談全集」では「山雉」に『やまどり』とルビするが、従えない(後述)。一般には「蜃気楼」の「蜃」は大蛤(おおはまぐり)或いは蛟(みづち:龍の一種)の吐き出す気とされるのが伝統で(根っこは「蛤」の方が正解のようだ。「蜃」が龍の一種を表わす字として別に用いられたことによる混同が始まりのようだ。既に古く「礼記」の「月令(がつりょう)」では両者が同名異物であるとする記載がある)あるが、蛤より龍の方が人の想像を飛翔させやすいことからと思われるが、龍説が増殖し(確かにどデカい蛤というのでは本体が動かないから、関連して伝説を作るのに食指が動かない気はする)、ウィキの「蜃」には、『一方で竜とする説は、中国の本草書『本草綱目』にあり、ハマグリではなく』、『蛟竜(竜の一種)に属する蜃が気を吐いて蜃気楼を作るとある』。『この蜃とはヘビに似たもので、角』・『赤いひげ・鬣』(たてがみ)を持ち、腰より『下の下半身は逆鱗』(げきりん)『であるとされている』。『蜃の脂を混ぜて作ったろうそくを灯しても幻の楼閣が見られるとあ』り、『さらにこの蜃の発生について、ヘビがキジと交わって卵を産み、それが地下数丈に入ってヘビとなり、さらに数百年後に天に昇って蜃になるとしている』。宋代書かれた百科辞典である「埤雅(ひが)」の『著者である陸佃』(りくでん)も同じく、『蜃はヘビとキジの間に生まれるものと述べている。『また『礼記』にはキジが大水の中に入ると蜃になるとあり』(私がさっき注したのは個々の部分で、日本ではその注記が無視されて広まったのである)、『この発想は日本にも伝わっている』とあった(下線太字は私が附した)。『「山鳥」と「山雉」は同じだろ?』と御仁がいるとすれば、それは大いなる誤りである。

「雉」はキジ目キジ科キジ属キジ Phasianus versicolor(但し、現在、学名を Phasianus colchicus とする主張もある)

であり、

「山鳥」は日本固有種でキジ目キジ科ヤマドリ属ヤマドリ Syrmaticus soemmerringii scintillans

で属で異なる別種だからである。詳しくは私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 野鷄(きじ きぎす)」及び「和漢三才圖會第四十二 原禽類 山雞(やまどり)」を読まれたい。

「南島變」「寬永南島變」。本書の筆者堀麦水の宝暦一四(一七六四)年成立と見られる「天草の乱」を中心とした実録物。最後ぐらい、宣伝は大目に見て上げよう。

「北地の山は、土中自ら此氣を吐くことあるか」それは火山なら幾らもあるし、硫黄ガスは有毒成分硫化水素を含むし、二酸化炭素や一酸化炭素で人は簡単に窒息死する(そうしたものが滞留した窪地で人が亡くなったり(自衛隊演習での事故が十年ほど前に実際にあった、体が動かなくなるのはそれで、民俗社会では「ダリ」という妖怪のせいとしたりしたのである)。天然ガスもそう感じられるであろう。

「大いなる鯉」「鯉も又氣を吐くものにや」登龍門伝説で年経て上流に至れば龍と成るのだからね。本邦での鯉の妖異も甚だ多い。でかい奴の顔を見てると、何か人語を喋りそうだもんな。

「みとだ海道」射水市水戸田へ向かう街道か。ここからなら現在の県道九号あたりがその後身か。

「大釜に鹽を入れて湯に燒く」この「鹽」は「潮」とあるべきところであろう。

「地氣家の形をなすは、天然の妙」というより、海水を使っているのだから、やっぱ、大はまぐりの気でごわしょうぞ! 麦水どん!

 以上を以って「三州奇談續編」全巻の終りである。今年の一月十七日開始だから、半年がかりとなった。何か一つの達成感はある。麦水さん! また、何時か、何処かで!!!

【2022年10月26日追記】たまたま調べていて、本「三州奇談」(正・續)の目次を電子化するのを忘れていたことに気づいた。しかし、今さらに遅きに失しており、誰からも目次を附してくれという申し出もないので、ブログ・カテゴリ「怪奇談集」を開いて戴ければ、標題は整然と並んでいるからして、本篇には目次は附さないことに決した。その代わり、底本の国立国会図書館デジタルコレクションの目次ページの冒頭(正・續併呑)をリンクさせて、お茶を濁すこととする。悪しからず。

三州奇談續編卷之八 妖鼠領ㇾ墳

 

    妖鼠領ㇾ墳

 鼠は社によりて尊(たつと)しと聞しが、塚に依れば妖をなすことも故ありや。「今目(ま)のあたり見たり」と人の語るあり。越中礪波郡金谷本鄕の下にて、木船の續きに五社と云ふ村あり。道明村と云ふに隣りて、さまで人遠き所にも非ず。されど此兩村の間墓所にして、古墓も又多し。爰に妖鼠住みて久しく小獸の類(るゐ)を取殺す。初めは人々『狼・犬などの所爲にもや』と思ひ居(をり)しが、近年頻りに飼猫失せてけるに、多くは此墓邊(あたり)に嚙殺(かみころ)されて死骸を殘す。

[やぶちゃん注:標題は「妖鼠(えうそ)墳を領(りやう)す」。

「鼠は社によりて尊し」国津神を統べる大国主命は素戔嗚尊の娘須世理毘売(すせりひめ)と互いに一目惚れして、素戔嗚尊に婚姻の許しを貰いに行くが、素戔嗚からは許諾するに際して様々な過酷な試練を命ぜられてしまう。その試練の一つに、大野原で火攻めにされるシークエンスがあるが、その時、鼠が現われて逃げ道を教えることから、大国主命の神使は鼠とされ、また、神仏習合の下で彼は大黒天(七福神の一つ)と同一とされたことにより、豊饒の米と縁の深い鼠が眷属とされた。されば、大国主命を祀る神社では鼠をかく扱う。

「越中礪波郡金谷本鄕」不詳。しかし、以下の地名からして、この地図の小矢部川右岸の表示範囲(或いはもっと広域。グーグル・マップ・データ。以下同じ)の、現在の高岡市福岡町の一部及び小矢部市の一部の広域を、かく呼んでいたものと考えてよかろう。

「木船」高岡市福岡町木舟

「五社と云ふ村」木舟の南に接して小矢部市五社がある。

「道明村」その五社の南に接して小矢部市道明がある。

「此兩村の間」表現からは五社地区と道明地区の間となるが、現在の地区境界は複雑に凸凹している。但し、グーグル・マップ・データ航空写真で見ても、今は田圃と道で、そこに墓の痕跡らしきものは見当たらない。但し、ストリート・ビューで見たところ、一箇所、碑石のようなものがあった。新しくて墓石とは思われないものの、奇妙な形の小さな石が三つ、二基の碑の間に明らかに人為的に整然と並べて鎮座されてあるのはいささか気にはなった)。なお、狭義の古墳時代以前の墳墓遺跡はこの付近にはないようである(小矢部川左岸の丘陵辺縁部にはかなりの数を認める)。]

 

 然るに安永七年[やぶちゃん注:一七七八年。]の春、五社村の勘兵衞が子伊兵衞と云ふ者、廿七歲にて角力(すまふ)も取り、力量も剛(つよ)し。知音(ちいん)ありて道明村へ咄(はな)しに行き、夜半頃に夜咄し終りて歸りしが、心しぶとき男なれぱ、塚原古墳を通るも心にかゝらず、常に行き通ひしが、今宵は人より猫を一つ貰ひて、懷ろに抱き歸ることゝなりしに、此塚原へ來るに、頃は二月十三日の夜なれぱ、朧寒き薄曇り、何とやら恐ろしげなる景色に、とある塚の積揚げたる石、

「がば」

と崩るゝ音するとひとしく飛出づる怪しき物あり。只飛鳥(ひてう)の如く走り來りて、伊兵衞が膝口のあたりに飛付き、懷ろへ傳ひ登る。懷の猫は、身を震はし恐れ屈む。五社村の伊兵衞は力勝れたる者なれば、

「こは心得ず」

と怪物が首と覺しきを引摑みて二三間[やぶちゃん注:三・六四~五・四五メートル。]投ぐるに、中(ちゆう)より飛來りて伊兵衞が足に喰付(くらひつ)くに、是を蹴放(けはな)して待つ所に、又肩に飛付き、或は背中に嚙付き、或は乳(ち)の邊りを五ヶ所嚙破(かみやぶ)る。伊兵衞怒りて、力を盡して首を捕へ、ふり下げて見るに、長さ二尺許なり。鼬・𪕐(てん)の類(たぐひ)にやと、力に任せて首筋をしむるに、血を吐きて死したり。懷ろの猫も、いかなる故にや死しぬ。依りて此怪物を手に下げて家に歸り、翌日見るに大いなる鼠なり。顏甚だ長く大にして、四寸五分[やぶちゃん注:約十二センチ。]あり。身は一尺八寸[やぶちゃん注:五十四・五センチ。]。首にかけて二尺三四寸[やぶちゃん注:七十一センチ前後。]の鼠にて、尾の長さも二尺[やぶちゃん注:六十・六センチ。]あるべし、其末切れ居(をり)たり。毛兀(は)げ皮古びて、恐ろしきさまなり。近所の猫を集めて取らしむるに、いかなる猫にても、一度見ると逸足(いちあし)出して迯去(にげさ)る。只毒氣を恐るゝ如し。

「是は不思議」

と場中(ばなか)[やぶちゃん注:大勢の人が集まっているところ。]にさらし置きて、是を喰ふ猫もあるかと、普(あまね)く隣々村々の猫を集むるに、輙(たやす)く傍(かたはら)へ進む猫もなし。

 然るに靑雲の間より鳶(とび)下りて、一摑みに引(ひつ)さげ去る。曾て心とせざる躰(てい)なり。扨(さて)枝上にありてむしり喰ふ。他の鳶も又餘肉を得て爭ひ喰ふこと、常の鼠の如くして更に怪しむ躰(てい)なし。

 扨は其好惡さまざまありて、道違へば少しも功威(こうい)なきこと眞然たり。

 是を思へば、藥物の合不合爰に於ていちじるし。尤も深く考へあるべきことにや。

 其後(そののち)にも此塚中程に剛鼠(がうそ)あり、躰(すがた)折々見ゆ。

「久しく猫を取りし鼠は、此塚なりけり」

と知らるゝなり。

 世の變易斯く迄に及ぶ。分けて猫をのみ好きたること、鼠の肝又別物に似たり。

[やぶちゃん注:「𪕐(てん)」漢字の意味不明。大修館書店「廣漢和辭典」にも載らず、ネット上の中文サイトでも意味を附記せず、それどころか音不詳とさえあった。ここで読みは「近世奇談全集」に拠った。「てん」は「貂」でネコ目イヌ亜目イタチ科イタチ亜科テン属ホンドテン Martes melampus melampus のことであろう。本邦のそれは日本固有種である。但し、テン属自体は北アメリカ大陸・ユーラシア大陸・インドネシア・日本と広く分布はする。

「分けて猫をのみ好きたること、鼠の肝又別物に似たり」「鼠の肝」というのは「虫臂鼠肝(ちゅうひそかん)」のことで、「虫臂」は「虫の肘(ひじ)」で、「鼠肝」は「鼠の肝(きも)」で「取るに足らないこと・くだらないこと」或いは「物事の変化は人間には予想することが難しいということ」の喩えであるから、猫だけを愛玩する嗜好や、人の僅かな好悪は所詮、他者には理解出来ないものだということか。にしても、「是を思へば、藥物の合不合爰に於ていちじるし」という糞のような教訓を最後に置きたがるこの晩年の麦水は、最早、奇談を純粋に怪奇なる話としてそのまま味わうという素直な気持ちがかなり薄れてしまっているような気がしてならない。……いやさ、後、一話で、「三州奇談」は、終わるのだが……。]

三州奇談續編卷之八 蛇氣の靈妖

 

    蛇氣の靈妖

 龍の上るといふを望めば、雲中ゆたかに下りたる物あり。大小長短時として異なり。紅毛人は

「水柱なり」

と云ひて、

「『佛狼機(イシビヤ)』を發して打倒せば、降りかゝりたる空も晴天に直る」

と云ふ。「生物にあらず」と云ふ說もあり。然れども是必ず龍氣なること眞然たり。滑川水橋の邊りは、時として數疋登る。誰彼是を望むことなり。實(げ)にもあたりの風荒きには似ず。甚だ鈍き物なり。折には雲を呼ぶに遲き時やありけん、頭を跡へ下(おろ)す時あり。爰に於ては顯(あら)はに見ゆるとなり。細く四角にして髭あり。繪に書く雨龍(あまりやう)と云ふものに似り。或は橫にも落つ。

「甚だぬるきものなり」

と、人々證を立てゝ咄せし。

「雲も波もすさまじく上る物なり」

と云ふ。扨は龍なることは決せり。上る時初めは蛇なりとぞ。

[やぶちゃん注:本格的な巨大な竜巻から時に見かける旋毛風(つむじかぜ)或いは雲の形の変形するのを擬えて誤認したものと採れる。

「佛狼機(イシビヤ)」「石火矢」「石火箭」で、原義は石・鉄・鉛などを飛ばして城攻めに用いた兵器を指すが、ここは「紅毛人」の言うとあるから、近世初期に西洋から伝来した大砲のことである。

「滑川水橋」既出の現在の富山湾沿岸の富山市水橋町(グーグル・マップ・データ)であろう。東で僅かに滑川に接する。

「雨龍」龍の一種螭龍(ちりゅう)を指すともされ、雨乞いの対象となったり、家紋となったりしている。グーグル画像検索「雨龍」をリンクさせておく。]

 

 安永八年三月の頃、這槻川(はひつきがは)の際(きは)に川越(かはごえ)を以て世を渡る忠右衞と云ふ者ありき。兄は三ケ村(さんがむら)の長右衞門と云ふ、[やぶちゃん注:読点はママ。]此長右衞門の門(かど)に大松ありき。先年願ひて是を伐る。此根蟠(わだかま)りて大きくありしを、頃日(けいじつ)此根を掘廻しけるに、最早引越(ひきこさ)さん[やぶちゃん注:引き抜こう。]とする時、松の根の底に蛇あり。三尺許と見ゆ。常の蛇とは見えながら、何となく怖ろし。手傳ひの人長右衞門に向ひ、

「何とやら此蛇は主らしき顏つきに候まゝ、又土を掛けて埋(うづ)むべし」

なんど云ふを、長右衞門聞かず。

「かゝることは打捨つるに若かず」

とて、杖を入れてはね出(いだ)す。

 初めは動く如く、後(のち)には重うして出難(いでがた)し。漸く十人許り寄り、鐡捧など入れて刎出(はねいだ)したるに、土の上へ出せば五六尺ばかりの蛇となる。則ち是をろばし[やぶちゃん注:転がして。]、濱表へ捨てたるに、水に入ると其儘眞直(まつすぐ)に立ちて、長右衞門を追かくる。凡そ一丈餘の丈(たけ)に見ゆ。長右衞門逸足(いちあし)出して逃げゝるに、幸ひ川越忠右衞門家は側(かたは)らに掘切あれば、橫に飛び堅に走りて家に駈入るに、蛇は只直ぐに馳せ過ぎ、又掘出したる松の根に入りしとも云ふ。又何國(いづこ)へや行けん見えず。

 是より長右衞門煩(わづろ)うて人心地なし。

 魚津の法華山長慶寺は旦那寺と云ひ、に名高きことなれぱ、人を遣はし此趣を申して賴みけるに、

「是は蛇氣のかゝれるものなり。必ず物に狂ふことあるものぞ。用心せよ」

と申越(まうしこ)す。

 實(げ)にも其如く、其夜より長右衞門亂心の躰(てい)となり、橫に倒れて這廻る。又大(おほい)なる石を寢ながら打返す。凡(およそ)十人許の力を寄せたるが如し。

 弟忠右衞門甚だ驚き、大勢を賴みて縛りからげて家の柱につなぎ置く。されども業(げふ)[やぶちゃん注:それぞれの仕事。]あれば皆々外へ出る其跡へ、近付きの馬士(ばし)[やぶちゃん注:馬子(まご)。]寄りしに、人は居らず、長右衞門縛られてありしかば、

「是は如何に」

と問ふ。長右衞門云ふ。

「我れ弟に縛られたり、この縛り解きてくれよ」

と賴む。馬士いぶかりければ、

「さらばそこに生ひたる草を一つかみ我が口ヘ入れてくれ」

と云ふ。馬士不便(ふびん)に思ひ、指圖の草を與へければ、暫くして繩を

「ぶつぶつ」

押切りて、手を打振り立出づる。

 馬士驚き、駈け行きて弟忠右衞門に語る。忠右衞門大に驚き、

「夫(それ)にては定めて往來の人の障りを仕出(しいだ)さん」

と、馬士を初め近鄕の人三四十人をやとひかけ返り見れば、長右衞門は大童(おほわらは)になり、あたるを幸ひに石礫(いちづぶて)を打ち、往來の人々通ることを得ず。

 忠右衞門氣の毒がり、馬士に恨(うらみ)を云ふ程に、馬士連(れん)は是非なく押かゝり、大勢にて捕へしが、力市ばい手強(てごは)く當り打伏せし故にや、縛り置くうちに其夜長右衞門は死したり。

 是に依りて只今騷動にならんやと詮議最中なり。然れども蛇のつきたるには證據多けれぱ、下にて濟むべき沙汰なり。

[やぶちゃん注:蛇が特殊な草を食って威力を示すというのは、各地の伝承にあり、メジャーなものでは上方落語の古典「蛇含草(じゃがんそう)」、それを江戸落語でインスパイアした「そば清」(「蕎麦の羽織」「羽織の蕎麦」とも)が知られる。但し、それは消化効果のある草である。

「安永八年」一七七八年。堀麦水は天明三(一七八三)年没であるから、後の「頃日」(近頃)の用字が腑に落ちる。

「這槻川(はひつきがは)」前にも出てきたが、私は上市川の異名か、当時の分流のようには私は読めるように感じている。上市川の河口付近の左岸が前段に出た水橋地区に近い(一部は接している)からでもある。なお、後のロケーションからは「忠右衞」の家は下流の河口付近にあったと私には読める。【2020年7月27日追記】何時も情報を戴くT氏よりメールを頂戴した。「這槻川」は「万葉集」巻第十七巻の四〇二四番の大伴家持の一首、

  新川郡の延槻河(はひつきがは)を渡りし時に作れる歌一首

 立山(たちやま)の雪し消(く)らしも延槻(はひつき)の

    川の渡瀨(わたりぜ)鐙(あぶみ)漬(つ)かすも

で「延槻河(川)」 は現在の早月川であるとされ、「大日本地誌大系」第二十八巻「三州地理誌稿」(昭和六(一九三一)年蘆田伊人編・富田景周著)に(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの当該ページ画像)、

早月川【萬葉集】作延槻川、其源小又北又之二水出立山麓、西北數十町至折戶村、北轉小早川自東入焉、右升方村、左大島新村、而達于海

とあるとのことであった。私も「早月川」と音が酷似することが気になっていたが、前の「水橋」との地理上の位置に拘り過ぎた。]


   *

「川越」人馬や物資を川渡しする生業であろう。

「三ケ村」不詳。近い地名で中新川郡上市町三日市がある。「今昔マップ」を見ると、現在の上市町の上市川左岸の現在よりももっと広い地域を「三日市」と呼んでいたことが判る。但し、ここから上市川河口(海岸)までは六キロ弱はあり、蛇を転がして行くには長過ぎるので違う。もっと河口近くになくてはおかしいが、見当たらない。【2020年7月27日削除・追記】前記のT氏より、現在の富山県魚津市三ケ(さんが)であるとの御指摘を頂戴した。ここである。注意されたいのは、片貝川の内陸山岳部と、早月川の河口右岸という約九キロメートル以上も離れた飛び地を持つことである。こうした現象は山間部が専ら河川運送に頼り、周囲と隔絶したケースでまま見られる(和歌山県飛び地がその最も良い例である)。ただ、片貝川と早月川は丘陵を隔てて六キロ以上離れおり、実際に如何なる理由でこの飛び地が形成されているのかは、厳密には判らない。しかし、この早月川右岸の「三ケ」地区がこの話柄の場所と考えると、蛇を転がすというシーンが腑に落ちる。さすれば、忠右衛門は現在の早月川河口右岸で早月川の渡し業を営んでいたと理解出来る。いつも乍ら、T氏に感謝申し上げるものである。

「三尺許」(九十一センチ)が「土の上へ出せば五六尺」(約一・五二~一・八二メートル)というのは、最初は蜷局(とぐろ)を巻いていたために誤認したのである。

「一丈餘」三メートル越え。

「法華山長慶寺」不詳。現在の魚津にはこの寺はない。富山県内にもこの山号を持つ長慶寺はない(但し、長慶寺は富山市にはある)。]

 

 されば蛇の變はさまざまに聞ゆ。

 富山の金草山と云ふは、片貝谷の上なり。然るに滑川の木樵の人到りしに、八九尺許なる蛇の逃げ走る躰(てい)を見る。

『如何に』

と思ふに。暫くして猿とや云はん、狒々(ひひ)とやせん、三尺許の人躰(ひとてい)のもの、續きて追掛け行く。樵者(きこり)其跡を見るに、早うして風の如し。家に歸りて人に問ふに、

「夫は『狒々王』と云ふものなり。能く蛇を喰ふ」

と云ふ。

 又同じ片貝谷にて蛇の追ひし獸あり。猫か鼬(いたち)かと覺ゆ。追詰められて松の穴へ入り、空へ逃げて梢より飛ぶ所を、樵夫(きこり)鍬(くわ)にて打殺しけるに、匂ひ堪へ難く、着物にもいつ迄か其香殘りしと云ふ。其香を問へば

「反魂丹(はんごんたん)の匂ひなり」

と云ふ。山人なれば外の香を知らで斯く云ふにや。

「麝香(じやかう)の屬(たぐ)ひならん」

と人々惜(をし)む。

 されば越中の東は信・飛に接すれば、獸蛇(じうだ)の異甚だ多くして筆にあまれり。

[やぶちゃん注:「金草山」不詳。但し、「片貝谷」は片貝川のこの付近(グーグル・マップ・データ航空写真。但し、非常に広域である)であるから、その何れかのピークではあろう。

「狒々」ここは実見した対象は大型の猿の謂いととっておいてよかろう。妖怪のそれにしては、やや小さめだからである。

「狒々王」ここはもう妖獣としてのそれである。ウィキの「狒々」によれば、『日本に伝わる妖怪。サルを大型化したような姿をしており、老いたサルがこの妖怪になるともいう』。『山中に棲んでおり、怪力を有し、よく人間の女性を攫うとされる』。『柳田國男の著書『妖怪談義』によると、狒々は獰猛だが、人間を見ると大笑いし、唇が捲れて目まで覆ってしまう。そこで、狒々を笑わせて、唇が目を覆ったときに、唇の上から額を錐で突き刺せば、捕らえることができるという』。『狒々の名はこの笑い声が由来といわれる』。『また同書では』、天和三(一六八三)年に越後国で、正徳四(一七一四)年には『伊豆で狒々が実際に捕らえられたとあり、前者は体長』四尺八寸、後者は七尺八寸あったという。『北アルプスの黒部谷に伝わる話では、滑川伊折りの源助という荒っぽい杣頭(樵の親方)がおり、素手で猿や狸を打ち殺し、山刀一つで熊と格闘する剛の者であったという。あるとき』、『源助が井戸菊の谷を伐採しようと入ったとき、風雲が巻き起こり人が飛ばされてしまい、谷へ入れないので離れようとした途端、同行の若い樵(作兵衛)が物の怪に取り憑かれて気を失い、狒狒のような怪獣が樵を宙に引き上げ引き裂き殺そうとしたという。源助は狒狒と引っ張り合いになり、しばらく続いたが、作兵衛を殺したらお前たちも残らず殺すと言うと放し立ち去った。源助は作兵衛を背負って血まみれになり、夜明け近くになり仲間が助けたという(肯搆泉達録、黒部山中の事)。この話では狒狒は風雲を起こしてその中を飛び回り、人を投げたり引き裂く妖怪とされる』(以上の話は「三州奇談卷之五 異獸似ㇾ鬼」にも出ている。「肯搆泉達録」は越中通史の先駆けとなった記録で、文化一二(一八一五)年)の完成。富山藩御前物書役野崎伝助の書いた「喚起泉達録」を孫で藩校広徳館の学正を勤めた野崎雅明が書き継いだもの。当該原本の話は明二五(一八九二)年の活字本があり、国立国会図書館デジタルコレクションのここで読める)。『もとは中国の妖怪であり、『爾雅』釈獣に「狒狒は人に似て、ざんばら髪で走るのが速く、人を食う」という。郭璞の注には「梟陽のことである。『山海経』に「その姿は人の顔で唇が長く、体は黒くて毛が生えており、かかとが曲がっている。人を見ると笑う」という。交州・広州・南康郡の山中にもいて、大きいものは背丈が1丈あまりある。俗に「山都」と呼ぶ。」といっている』。『江戸時代の百科事典『和漢三才図会』には西南夷(中国西南部)に棲息するとして、『本草綱目』からの引用で、身長は大型のもので一丈』(三・〇三メートル)『あまり、体は黒い毛で覆われ、人を襲って食べるとある。また、人の言葉を話し、人の生死を予知することもできるともいう。長い髪はかつらの原料になるともいう。実際には『本草綱目』のものはゴリラやチンパンジーを指すものであり、当時の日本にはこれらの類人猿は存在しなかったことから、異常に発育したサル類に『本草綱目』の記述を当てはめたもの、とする説がある』。『知能も高く、人と会話でき、覚のように人の心を読み取るともいう。血は緋色の染料となるといい、この血で着物を染めると退色することがないという。また、人がこの血を飲むと、鬼を見る能力を得るともいう』私の寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の「狒狒」も是非、参照されたい。

「能く蛇を喰ふ」好んで食うとは思われないが、ニホンザルは雑食性で動物の肉も食う。

「反魂丹」一般には「越中富山の反魂丹」で知られる、胃痛・腹痛などに効能がある丸薬。本邦の中世よりの家庭用医薬品として知られる。ウィキの「反魂丹」によれば、元々、『「反魂」は、死者の魂を呼び戻す、つまり死者を蘇生させるという意味であり、「反魂丹」は、もとは中国の説話等に登場する霊薬の呼び名である(説話中に登場する類似のものに、焚くと死んだ者の姿が現れる香・反魂香がある)』。『室町時代、堺の商人・万代掃部助(もず かもんのすけ)が中国人から処方を学び、家内で代々伝えてきた。万代家(後に読みを「もず」から「まんだい」に変更)は』第三『代目の時に岡山藩に移り住み、医業を生業とし』、第八『代目の頃には岡山藩主・池田忠雄のお抱え医となるに至った』。『越中富山藩』第二代藩主『前田正甫』(まさとし)『が腹痛を起こした際、万代の反魂丹が効いたことから、正甫』が、天和三(1683)年にその万代家第十一代目の『万代常閑(まんだい じょうかん)を富山に呼び寄せ、処方のレクチャーを受けた。それ以降、正甫は独自に調合させた「反魂丹」を印籠に入れて常時携帯した』という。元禄三(一六九〇)年のこと、『江戸城内において、三春藩主・秋田輝季が激しい腹痛を訴えたため、その場に居合わせた前田正甫が携帯していた反魂丹を服用させたところ、すぐに腹痛は治まった。これを見ていた諸大名がこの薬効に驚き、自分たちの藩内での販売を頼んだ。正甫は薬種商の松井屋源右衛門に反魂丹を製造させ、諸国に行商させた。この松井屋による行商が、富山の売薬に代表される医薬品の配置販売業のもととなった』とある。『江戸時代の反魂丹の特徴は龍脳が配合されていることであり、またその他』二十『数種の生薬・鉱物成分が配合された処方であったことが過去の文献にみられ』、『一例は以下のようなものである』として、『龍脳、牽牛子、枳実、枳殻、胡黄連、丁子(丁香)、木香、黄芩、連翹、黄連、縮砂、乳香、陳皮、青皮、大黄、鶴虱、三稜、甘草、赤小豆、蕎麦、小麦、麝香、熊香、白丁香、雄黄、辰砂』を挙げてある。私は所謂、鼻を撲(う)つ感じの薬臭い外郎(ういろう)臭のことを言っているものと思う。

「麝香」私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 麝(じやかう)(ジャコウジカ)」の注を読まれたい。

「信・飛」信濃・飛驒。越後を外さんといてぇな!]

今日、先生は、おぞましい最終兵器を起動させてしまう――

○上野公園。

K 「……どう思う?」

先生「何がだ?」

K 「……今の俺を、どう思う?……お前は、どんな眼で俺を見ている?……」

先生「この際、何んで私の批評が必要なんだ?」

 K、何時にない悄然とした口調で。

K 「……自分の……弱い人間であるのが……実際、恥ずかしい……」

 先生、Kを見ず一緒に歩む。先生、黙っている。

K 「……迷ってる……だから……自分で自分が、分らなくなってしまった……だから……お前に公平な批評を求めるより……外に仕方がない……」

 先生、Kの台詞を食って。

先生「迷う?」

K 「……進んでいいか……退ぞいていいか……それに迷うのだ……」

 先生、ゆっくりと落ち着いて。

先生「……退ぞこうと思へば…………退ぞけるのか?」

 K、立ち止まる。黙っている。
 先生、少し行って止まる。しかし、Kの方は振り返らない。暫くして。

K 「…………苦しい……」

 先生、振り返る。
 K、のピクピクと動く口元のアップ。
 先生の右の眼鏡アップ。表面に映るKの小さな姿。

   *

實際彼の表情には苦しさうな所があり/\と見えてゐました。もし相手が御孃さんでなかつたならば、私は何んなに彼に都合の好い返事を、その渇き切つた顏の上に慈雨の如く注いで遣つたか分りません。私はその位の美くしい同情を有つて生れて來た人間と自分ながら信じてゐます。然し其時の私は違つてゐました。

(『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月26日(日曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第九十四回よりシナリオ化と末尾引用)

   *

○上野公園。(続き)

 振り返った先生の右の眼鏡アップ。表面に映るKの小さな姿(そのままの画面で)。

先生「精神的に向上心のないものは馬鹿だ。」

 K、微かにびくっとする。間。ゆっくりと先生の方へ歩み始めるK(バスト・ショット。僅かに高速度撮影で、散る枯葉を掠めさせる)。

 カット・バックで先生(バスト・ショット、Kよりも大きめ。僅かにフレーム・アップさせながら)。

先生「精神的に向上心のないものは、馬鹿だ――。」

 Kの後頭部(やや上から魚眼レンズの俯瞰ショット。僅かに高速度撮影)。間。

K 「馬鹿だ……(間)……僕は馬鹿だ……」

 K、ぴたりとそこで立ち止まる。K、うな垂れて地面を見詰めているのが分かるように背後から俯瞰ショット。

 先生の横顔(アップ)。ぎょっとして顔を上げる。何時の間にか先生の前にKの姿はない。カメラ、ゆっくりと回る。先生がさっきの進行方向を向くと、Kの後姿。のろのろとフランケンシュタインの怪物のように歩むK。

『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月27日(月曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第九十五回をもとにシナリオ化)

 

2020/07/26

三州奇談續編卷之八 山王の愛兒

 

    山王の愛兒

 滑川西口瀨羽(せは)町と云ふに、山王の神社あり。祭禮には神輿出で、人崇め、神靈あること限りなし。目のあたり神靈種々を見る、算(かぞ)へ盡すべからず。

[やぶちゃん注:「滑川西口瀨羽町」現在の滑川市瀬羽町附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。当時は、宿場や物資の集産地としての宿方と、漁業や物資の船積みの浦方に分かれており、北陸街道沿いに西から東へとメイン・ストリートが形成されて非常に栄えていたという。

「山王の神社」滑川市加島町にある加積雪嶋神社(かずみゆきしまじんじゃ)の江戸時代の呼称。創建は不詳。古くは社域も広大で社家・社僧が奉祀した大社であったとされる。先に出た同じ滑川の櫟原(いちはら)神社(ここ。滑川市神明町)を「東の宮」と呼称するのに対して、当社を「西の宮」と通称する。国司として越中に赴任した大友家持も度々当社に参詣し、源義経が奥州へ下る際には武運を祈願して拝殿に沓を残したという。江戸時代も山王社と称して前田家の崇敬も篤く、幣帛・諸器物などの寄進を受けている。]

 

 然るに明和七年六月廿九日と七月朔日の兩夜、不思議の神燈ありき。此社は拜殿の奧に障子あり。此外は石階にして、六尺許去りて本殿の階ヘ上る。然るに夜五時頃に至り、朗(ほがら)かなる灯火ありて、障子の内にかくる立合せの二間(にけん)前なる所に、三角に照り輝く。拜殿中の備へ物。高麗狗(こまいぬ)甚だ明かに見え、繪馬も見分くベき程なり。夜九つ頃に灯沈みて見えず。如斯(かくのごとき)の事兩夜なり。

[やぶちゃん注:「明和七年六月廿九日と七月朔日」この記載は或いは麦水の記載ミスかも知れない。何故なら、この年は六月が閏月で閏六月があるからで、普通は閏を外しては表現しないからである。但し、閏が落ちただけだとすると、怪異出来が連続した二日に亙って発生したことになって話としては腑への落ち具合がすっきりする。明和七年閏六月は小の月で二十九日で終わり、翌日が七月一日だからである。明和七年閏六月二十九日はグレゴリオ暦一七七〇年八月二十日で、同七月一日は八月二十一日に相当する。

「二間」三メートル六十四センチ弱。

「夜九つ」午前零時。]

 

 諸人怪しみ、

「此火は何なるぞ」

と打擧(うちこぞ)り見る。役人某なる人來り窺ひ、若しくは

「隣家の灯火の漏れ來(きた)るにや」

と、近隣を制し火を消さしむるに、灯明(とうみやう)變ること更になし。

 火は西の方より來りかゝり、暫くして下へ引入り消ゆ。初めは竹の子の如く四五寸許なり。暫くして二三寸許となり、一時許にして一寸許となり、將棊(しやうぎ)の駒の如くになれば、下ヘ落ちてなし。又暫くして西の方よりかゝり來ること前の如し。

 此役人なる人怪みて後ろへ廻(まは)り窺ふに、闇(くら)うして火光(くわくわう)なし。前に廻れば又本(もと)の如く、障子に移りて明らかにかゝれり。

 二夜にして近隣神靈を恐れ、又火災を恐れて、櫟原(いちはら)の神主吉尾(よしを)氏を招じて、幣(ぬさ)を捧げて神樂(かぐら)を奏す。爰に納受ありけん、火消えて再び出でず。

 神主も役人も予が親友なれば、悉く聞けり。此靈火何と云ふ事を知らず。尤も此通は鬼火多し。眼目山立川寺(がんもくざんりゆうせんじ)へは龍女が献ずる灯、必ず七月の間に、此邊(このあたり)加茂川を上る。

[やぶちゃん注:プラズマや雷球ではこのようにはなるまい。しかも二日続けてである。されば、この怪火現象は私には説明がつかない。

「吉尾氏」不詳。

「眼目山立川寺」富山県中新川郡上市町眼目にある曹洞宗の名刹

「加茂川」富山県魚津市を流れる鴨川(地図中央を西に流れる川。別名「神明川」、古くは河口付近では「鬼江川(おんねがわ)」とも呼ばれていた)があるが、立川寺と位置が全く合わない。同寺直近を下るのは上市川であるから、その誤りではなろうか?]

 

 又近き頃蓬澤(よもぎざは)と云ふ所に、山缺(か)けたりしに、缺口(かけぐち)に夜々火光あり。光り二三十步を照すべし。每夜の事なれば、見に集(あつま)る人多し。奉行所へ聞えなぱ里の費(つひ)へならんと、里民談じて夜中火光の所へ印しに竹をさし置き、翌日に至りて掘出(ほりいだ)し見るに、三尺計なる丸き石なり。靑紫にして斑紋あり。火光の出づべき樣(やう)なし。打破りて捨て、後再ぴ火光なしと聞えし。

[やぶちゃん注:「蓬澤」中新川郡上市町蓬沢であろう(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「奉行所へ聞えなぱ里の費へならん」このような山間部の不審火は大きな山火事となる可能性が頗る高いから、当然、早急に藩に届け出なくてはならない。しかし、そうすれば、以前に述べた通り、大変な手間(常時監視と現場保全)や検使の尋問や世話(宿所や食事は総て村が負担する)が面倒だからである。例えば、私のオリジナルな高校古文教材の授業案である「やぶちゃんと行く江戸のトワイライト・ゾーン」の第一話『【第一夜】「うつろ舟の異人の女」~円盤型ヴィークルの中にエイリアンの女性を発見!』の曲亭馬琴編の「兎園小説」中の琴嶺舎(滝沢興継。馬琴の子息。但し、馬琴の代筆と考えてよい)の「うつろ舟の蠻女」(リンク先は高校生向けなので新字体)を読まれれば、このめんどくさい事実が腑に落ちるはずである。なお、この怪光(石)現象は私は原因を想起出来ない。所謂、地殻内の圧力によるプラズマ発生ともされる地震光かとも考えたが、ここでは実際にその光が二、三十歩を照らすほどの明るさであるというのはそれと附合しないと思う。識者の御教授を乞う。]

 

 されば

「此等の内にや」

と、色々宮殿の火をためすに、中々さにも非ず。火の色は黃にして常の灯なり。靑き妖火の類(たぐひ)とは見えず。只神靈の然らしむることゝ覺ゆ。此神の靈は度々(たびたび)にして常の如し。堂再建の時も、近所の老人の枕上に立ちて、再興を乞ひ給ふこと幾人もありし。夢裡(ゆめうち)の裝束(さうぞく)かたり合ひて見るに、皆同じ事なり。再興終りて拜殿の屋根をこけらに葺(ふ)く。然るに誤ちて屋根より落つる大工ありし。然るに恙なし。屋根より落ちなば、本殿の石の階(きざはし)に打たれて甚だ痛むべきなるに、此大工落ちたる時、下に赤衣(しやくえ)の袴着て烏帽子(えぼし)召したる人出で、抱きて社殿の内に入れらるゝと覺ゆ。故に痛まず。何ぞ屋根より落つるとて、四五間[やぶちゃん注:七・二七~九・〇九メートル。]も違ふ拜殿の中へ臥するの理(ことわり)あらん。眞に冥慮とぞ見えし。【大工には非ず、手傳(てつだひ)の息子なり。越前屋惣五郞と云ふ者の子なり。】故に大工の親一跡(いつせき)を賣りて、御戶帳(みとちやう)を拵へ、其日に寄進すと聞ゆ。

[やぶちゃん注:この割注は注目すべきところで、父の手伝いにきたうら若い青年或いはちょっと年嵩の少年(父の正式な弟子になっていないから若いと考えるべき)なのである。本話の以下の神霊の愛童の性質の本筋と繋がるのである。

「越前屋惣五郞」不詳。

「一跡」後継ぎに譲るべき全財産。身代。まあ、ここは、その時に実際に持っていた金を総て、といった謂いであろう。

「御戶帳」「御斗帳」とも書く。仏像などを安置する厨子などの上に懸ける覆い。金襴・錦など美しい高級な布で作られる物が多い。斗(ます)を伏せたような形をしていることからかく呼ぶ。]

 

 又其後漁人の夢に告げて、

「鮹(たこ)の頭を備ヘよ」

となり。其頃鮹來(きた)ることなし。然れども告げに任せ、鰯網(いはしあみ)をかへて鮹網を入るゝに、大(おほい)に鮹を得たり。

 早速此頭(あたま)に米を添へて献供(けんぐ)すと聞ゆ。

 安永の頃も、神輿又一つ新しく出來(しゆつたい)せしに、此人足(にんそく)の内に親(おや)死して十日許なる者交(まぢは)り出でしに、神輿の棒倒れて額に當り、大(おほい)に疵(きず)付きしことあり。靈罰も又いちじるし。

 小兒を愛し給ふこと、諸社にすぐれて甚し。不思議にも小兒集り、此拜殿を荒し遊ぶこと、いかなる雨風(あめかぜ)の日といへども絕えず。雪二三丈に及ぶ日も、小兒二三人は必ず來り遊ぶなり。然して戶の鍵をはづし、神供をあらす。然れども是を叱れば、叱る人に祟りて、小兒には咎めなし。故に役人なる人は格別、下僕などは小兒を追ふことならず。只大いに一威を恐る。一年(ひととせ)小兒御神躰を盜み出(いだ)し、大皷(たいこ)をたゝき、つれ、杖に荷ひて跳り廻(まは)る。近隣の人大いに恐れ、小兒を叱り御神躰を本(もと)の所へ納む。其夜の夢に、

「汝等いかなれば構ふこと斯(かく)の如きぞや。神慮終日小兒と遊びて樂(たのし)むに、汝が爲に興(きよう)盡きたり。然れども是本(も)と神忠に出づ、故に祟りをなさず。重ねて如斯(かくのごとき)の事あらぱ大(おほい)に罰せん」

とありし。小兒へは一向咎(とがめ)なし。御本躰の失ひたるも多し。小兒の業(わざ)なる時は咎めなし。御本躰は一尺許の木像なり。【一說に、弘法大師作正觀音(しやうくわんのん)共(とも)云ふ。然れ共衣冠正しく見ゆ。神躰實(じつ)なり。】初めは二十一躰ありしよし。今は八躰ならではなし。然れども賞罰同じ事なり。

 此(この)靈威にして此和柔(なごやか)なるの理(ことわり)計り難し。實(げ)に小兒を好き給ふと見ゆ。布袋和尙は川渡りにもあたまをいたゞき、地藏菩薩は賽(さい)の河原に石積みて鬼に詑び給ふも、慈悲計りにはあらじ。元來天性(てんせい)小兒好きより事發(おこ)ると覺ゆ。

 菅相丞(くわんしやうじやう)は小兒の遊びを見て、

「此心末(すゑ)通らば人程有難きものはあらじ」

と宣ひ、貞德法師はふり袖着て交り、長頭丸(ちやうづまる)の童(わら)べ好(ず)き聞えし。

 然るに儒者先生殿のみ小兒の遊びを叱り廻(まは)し、作り馴れたる澁面(じふめん)にかたいぢなるを仕似(しに)せとす。是れ此門の「店(たな)の出しそこなひ」にて、不はやり思ひ知らるゝなり。只々此神の和光、人近き咄(はな)しを聞くに付けて、尊(たつと)さ優(まさ)りし心地して、予が唐好(からずき)の癖も、少しは薄らぎ覺えしも又神思(しんし)にや。

[やぶちゃん注:「備へよ」はママ。「供へよ」。

「安永」一七七二年~一七八一年。

「親死して十日許なる者交り出でしに、神輿の棒倒れて額に當り、大に疵付きしことあり。靈罰も又いちじるし」ここは単に死穢を嫌ったもの。

「一年小兒御神躰を盜み出し、大皷をたゝき、つれ、杖に荷ひて跳り廻(まは)る」底本は「大皷をたゝきつれ、」であるが、どうもおかしいのでかく読点を特異的に挿入した。「つれ」はその悪童の「連れ」の意で採ったのである。一貫して小児は複数形ではないが、複数でやったほが賑やかでよいではないか。太鼓を担うのも杖で二人の方が叩き易かろう。

「神躰實(じつ)なり」二行割注のため、よく見えない。「寳」のように見える。但し、「近世奇談全集」は『實』であり、神体が宝なのは当たり前だから、ここは御神体が鏡などのシンボルではなく、実際の像であることを言っていると採った。

「布袋和尚は川渡りにもあたまをいたゞき」よく意味が判らぬ。子どもらを面白がらせるために蛸坊主のようにしてという意味か。伝説の仏僧布袋和尚(唐末から五代時代にかけて明州(現在の中国浙江省寧波市)に実在したとされ、本邦では専ら七福神の一人として知られる)は、沢山の子ども(十八人とも)を引き連れていたと言われており、小難しい説法をせず、笑顔で子どもたちと遊んだとも伝えるので、ここに例として出すのは腑には落ちはする。

「菅相丞」菅原道真。(くわんしやうじやう)は小兒の遊びを見て、

「此心末通らば人程有難きものはあらじ」出典未詳。

「貞德法師」江戸前期の俳人・歌人・歌学者であった松永貞徳。彼は別号にここに出る「長頭丸(ちょうずまる)」や保童坊があり、子供好きであったとされる。

「仕似(しに)せとす」必ずそれをトレード・マークとする。

「此門」儒家。

「店の出しそこなひ」当然あるべき態度としては誤った行為であること。

「不はやり」「不流行(ふばや)り」か。「評判が悪い悪しき姿勢」であることを言うのであろう。只々

「和光」「和光同塵」の略。元は「老子」の第四章にある「和其光、同其塵」からで、「光をやわらげて塵(ちり)に交わる」の意にして、「自分の学徳・才能を包み隠して俗世間と普通に交わること」を言う。仏語に転じて、仏・菩薩 が本来の威光を和らげ、塵に穢(けが)れた現世に仮の身を現わし、衆生を救うことをも指す。

「人近き」民に親しむ。

「予が唐好(からずき)の癖」麦水は和学より漢文学がお好き。

「神思」本邦の神の御心を無意識のうちに受けた精神の在り様(よう)。 ]

 

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 丈艸 二

 

       

 

 元禄四年芭蕉が去来の落柿舎に滞在した時は、丈艸も訪問者の一人であった『嵯峨日記』四月二十六日の条に「史邦丈艸見ㇾ問」とあり、次の詩及(および)句が記してある。

[やぶちゃん注:「元禄四年」一六九一年。

「四月二十六日」二十五日の誤り。

「史邦丈艸見ㇾ問」「史邦・丈艸、問(と)はる」。]

 

   題落柿舎           丈艸

 深対峨峰伴鳥魚

 就荒喜似野人居

 枝頭今欠赤虬卵

 青葉分題堪学書

 

   尋小督墳

 強攪怨情出深宮

 一輪秋月野村風

 昔季僅得求琴韵

 何処孤墳竹樹中

 

 芽出しより二葉に茂る柿の実     丈艸

 

[やぶちゃん注:漢詩・発句の間は一行空けた。漢詩は実は訓点附き(ここでは各句末に句点まで打たれてある)であるが、向後は白文で示す。五月蠅くなるだけで、しかも一部で記される読みが現代仮名遣という気持ちの悪いもので、凡そ完全には電子化する気が起きないものだからである。今まで通り、以下に正字正仮名で一応本文のそれに概ね沿いながら訓読文を附す。但し、恣意的に正字とし、歴史的仮名遣を用い、句点は排除し、一部に字空けを施す。

 

  落柹舍に題す           丈艸

深く峨峰(がほう)に對し 鳥魚(てうぎよ)を伴ふ

荒(くわう)に就き 野人の居に似たるを喜ぶ

枝頭(しとう) 今 缺く 赤虬(せききう)の卵(らん)

靑葉(せいえふ) 題を分かちて 書を學ぶに堪(た)へたり

 

  小督(こがう)の墳(つか)を尋ぬ

强(た)つて怨情(ゑんじやう)を攪(みだ)して 深宮を出づ

一輪の秋月(しうげつ) 野村(やそん)の風

昔季(せきねん) 僅かに琴韵(きんいん)を求め得たり

何處(いづこ)ぞ 孤墳(こふん) 竹樹(ちくじゆ)の中(うち)

 

芽出(めだ)しより二葉(ふたば)に茂る柹の實(さね) 丈艸

 

「落柹舍に題す」の語注。

・「峨峰」嵯峨の峰々。

・「鳥魚を伴ふ」鳥が楽しく囀り鳴き、魚が気儘に泳ぎ回っている。

・「荒」落柿舎への野道は荒れるに任せて。

・「野人」野夫(やぶ)。田舎の農夫。本来なら持ち主の去来を形容するが、ここはそれを芭蕉に置き換えている。

・「枝頭 今 缺く 赤虬の卵」枝先に今は柿の実はなっていないけれど。「赤虬」「虬」(きゅう)は「虯」(きゅう)の俗字で、本来は蛟(みづち=龍)の子の中で二本の角のある虯龍のこと。「赤い虯龍の卵」から転じて「赤く熟した柿の実」の異名である。]

・「靑葉 題を分かちて 書を學ぶに堪へたり」青々としたその若葉は、種々の詩歌を詠んで書きつけるに相応しい。木の葉に詩歌を記す故事は多い。

 

「小督の墳を尋ぬ」の語注。

・「小督」「平家物語」で知られる高倉天皇の寵姫小督(保元二(一一五七)年~?)が平清盛のために宮中から退けられて嵐山嵯峨野に隠棲し、そこに果てたと伝え、当時、既に複数の「小督塚」と伝えるものがあった。それは「去来 三」で詳しく考証して注したので見られたい。

・「强つて」已む無く。無理矢理。「出づ」を修飾する語。清盛の横暴によって帝への慕情を「已む無く」断ち切って身を引いたことを言う。

・「一輪の秋月 野村の風」隠棲した嵯峨野の荒涼寂寞をシンボライズする。

・「昔季 僅かに琴韵を求め得たり」「琴韵」は琴の調べで、ここは「平家物語」で、源仲国が高倉天皇の命で小督の隠居所を尋ねたとされるエピソードを受けた、謡曲「小督」に基づくもので、琴の音を頼りに仲国が小督を探し当てて対面する部分を裁ち入れたもの。]

 

丈草の句、

 芽出しより二葉に茂る柹の實

「二葉」は実際の柿の実から芽を出した小さな二葉を以って「茂る」と見立て、秋の赤き実の壮観を匂わせたもの。タルコフスキイの「惑星ソラリス」の終わり近くの印象的な窓辺の容器からの発芽のシーンを私は図らずも想起した。]

 

 本によってはこの「芽出しより」の句を史邦の作とし、「途中の吟」という前書のある「ほとゝぎすなくや榎[やぶちゃん注:「えのき」。]も梅さくら」の句を丈艸としているそうである。「ほとゝぎす」の句は『己(おの)が光』にも丈艸として出ているから、あるいはその方が正しいのかも知れぬ。同時に来た二人の訪問者の句が、記さるるに当って混雑するなどということは、決してあるまじき次第ではない。同じく二十六日の条には「芽出しより」の句を発句として五句の附合(つけあい)あり、四句目に丈艸の「人のくむうち釣瓶(つるべ)まつなり」というのがある。誰も一句しかないところに丈艸だけ二度出るのは妙だから、発句を史邦とすれば工合がいいようであるが、『一葉集』の方で見ると、「人のくむうち」は凡兆になっている。いよいよ出でてわからない。『丈艸発句集』には「芽出しより」も「ほとゝぎす」も両方入っているが、前者を『嵯峨日記』に拠り、後者を『己が光』に拠ったとすれば、それまでの話である。『去来発句集』の前書には「芽立より二葉にしげる柿の実と丈艸申されしも」云、ということが見えるから、丈艸としても差支ないかと思う。但いずれにしてもこの両句は丈艸のために重きをなすほどのものではない。

[やぶちゃん注:「己が光」車庸編。元禄五(一六九二)年刊。

「同じく」「嵯峨日記」『二十六日の条には「芽出しより」の句を発句として五句の附合あり』

「一葉集」「俳諧一葉集」。仏兮(ぶっけい)・湖中編に成り、文政一〇(一八二七)年刊。言わば、松尾芭蕉の最初の全集で、芭蕉の句を実に千八十三句収録し、知られる俳文・紀行類・書簡・言行断簡(存疑の部なども含む)をも所収する優れものである。大正一四(一九二五)年紅玉堂書店刊の活字本の国立国会図書館デジタルコレクションのここと次のここで確かに丈草とする。以下に五句附合部分を電子化しておく。

   *

廿六日

 

芽出しより二葉に茂る柿の實      丈草

 はたけの塵にかゝる卯の花      芭蕉

蝸牛たのもしげなき角ふりて      去來

 人のくむうちを釣瓶まつなり     丈草

有明に三度飛脚の行やらん       乙州

 

   *]

 

 丈艸の漢詩は相当作品があるらしいが、この二首の如きも嵯峨を背景としているだけに、特に看過しがたいものがある。小督の塚は芭蕉も落柿舎へ来た翌日に弔っている。「墓は三軒屋の鄰、藪の中にあり。しるしに桜を植たり。かしこくも錦繡綾羅の上に起ふして、終に藪中の塵芥となれり。昭君村の柳、巫女廟の花のむかしもおもひやらる」といい、「うきふしや竹の子となる人の果」と詠んだのが、「昔季僅得求琴豹。何処孤墳竹樹中」に当るわけである。

[やぶちゃん注:以上は「去来 三」の私の注を参照されたい。]

 

 芭蕉の遺語として伝えられたものの中に、次のようなことがあった。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。]

 

正秀(まさひで)問[やぶちゃん注:「とふ」。]、古今集に空にしられぬ雪ぞ降ける、人にしられぬ花や咲らん、春にしられぬ花ぞ咲なる、一集に此三首を撰す、一集一作者にかやうの事例(ためし)あるにや、翁曰[やぶちゃん注:「いはく」。]貫之の好(このめ)ることばと見えたり、かやうの事は今の人はきらふべきを、昔はきらはずと見えたり、もろこしの詩にも左様の例あるにや、いつぞや丈艸の物語に、杜子美(としび)に専ら其(その)事あり、近き詩人の于鱗(うりん)とやらんの詩におほく有事とて、其詩も聞つれどわすれたり。

或禅僧詩の事を尋られしに、翁曰、詩の事は隠士素堂と云ふもの此道に深きすきものにて、人も名をしれるなり。かれ常に云、詩は隠者の詩、風雅にてよろしとなり。

[やぶちゃん注:「俳諧一葉集」(大正一四(一九二五)年紅玉堂書店刊)を国立国会図書館デジタルコレクションで調べたところ、「遺語之部」のここに前者が(左の「541」ページ後ろから七行目)、ここに後者があった(左の「605」ページの前から四行目)。

「古今集に空にしられぬ雪ぞ降ける、人にしられぬ花や咲らん、春にしられぬ花ぞ咲なる、一集に此三首を撰す」正秀の謂いには誤りがあり、最初のそれは、

   亭子院歌合に

 櫻散る木(こ)の下(した)風は寒からで

     空に知られぬ雪ぞ降りける

で貫之の歌ではあるが、「古今和歌集」ではなく、「拾遺和歌集」の「巻第一 春」に所収するものである(六四番)。以下は「古今和歌集」。

   春の歌とて、よめる      貫之

 三輪山をしかも隱すか春霞

     人に知られぬ花や咲くらむ

        (「巻第二 春歌下」・九四番)

   冬の歌とて、よめる    紀 貫之

 雪降れば冬ごもりせる草も木も

     春に知られぬ花ぞ咲きける

        (「巻第六 冬歌」・三二三番)

因みに、この遺語は芥川龍之介が「芭蕉雜記」の「十一 海彼岸の文學」に順序を逆にして引いている。その解析は驚くべく緻密なものである。リンク先の私の古い電子テクストを是非読まれたい。宵曲は或いはそれを知っていて、しかもやや嫉妬染みて紹介しなかったものかも知れない。]

 

 元禄人の漢詩に対する造詣は、固より今人の揣摩(しま)を許さぬ。杜詩を愛して最後まで頭陀(ずだ)に入れていたという芭蕉が、特に二人の説を挙げて答えているのは、頗る注目に値する。元禄の俳諧はその初期に当り、漢詩によって新生面を開いたと見るべき点がある。素堂は『虚栗』以前からの作家であり、漢詩趣味の人として自他共に許しているのみならず、芭蕉よりやや年長であるから、その説を引くのに不思議はない。年少の門下たる丈艸の説を特に引いているのは、漢詩に対する造詣の自ら他に異るものがあったためであろう。丈艸は俳諧に志すことが遅かったから、其角以下の諸作家の如く、形の上に現れた漢詩趣味はむしろ稀薄であるが、それは前に述べた禅臭の乏しいのと同じく、造詣の露出せざる点において、丈艸の風格の重厚なる所以を語るものでなければならぬ。

[やぶちゃん注:「揣摩」「揣」も「摩」もともに「おしはかる」の意で、他人のことなどをあれこれと推量すること。]

 

 『猿蓑』以後における丈艸の句にはどんなものがあるか、少しく諸書から抄出して見ることにする。

 はね釣瓶蛇の行衛や杜若      丈艸

[やぶちゃん注:「はねつるべへびのゆくへやかきつばた」。カット・バックで面白いが、ちょっと贅沢に対象を詰め込み過ぎていて、感興を引き出すのが「行衛や」だけで今一つパンチに乏しくなってしまった憾みがある。]

 辻堂に梟立込月夜かな       同

[やぶちゃん注:中七は「ふくろたちこむ」。月皓々たる中に、それを避けて梟が辻堂にぎっしりと籠っているのである。明暗を逆手にとった佳句である。]

 草庵の火燵の下や古狸       同

[やぶちゃん注:「火燵」は「こたつ」。一九八九年岩波文庫刊の堀切実氏の編注になる「蕉門名家句選(下)」で、『貞享五』(一六八八)『年八月、丈草が病気を理由に遁世したあと、参禅の師玉堂和尚に所縁を求めて居を定めた京都深草の庵でのことであろう』と注されておられる。]

 しら浜や犬吠かゝるけふの月    同

[やぶちゃん注:松尾勝郎氏編著「蝸牛 俳句文庫17 内藤丈草」(一九九五年蝸牛社刊)によれば、『元禄六』(一六九三)『年の、仲秋』『八月十五夜の月』(「けふの月」でその日を特に指すことが出来る)を『惟然・洒堂たちと淀川に』『賞した折の句』とある。]

 藁焚ば灰によごるゝ竈馬かな    同

[やぶちゃん注:上五は「わらたけば」、「竈馬」は「いとど」。これはもう真正の直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目カマドウマ上科カマドウマ科カマドウマ亜科カマドウマ Diestrammena apicalis でなくてはならない。かすかな赤いグラーデションが見える。好きな句である。]

 くろみ立沖の時雨や幾所      同

[やぶちゃん注:上五は「くろみだつ」、座五は「いくところ」。広角レンズで琵琶湖の沖を撮る。よく見ると、そこにところどころ黝(くろ)ずんだところが、幽かにぼやけるように動いて見える。それが動いてゆく時雨の驟雨のそれなのだ、というランドマークにダイナミズムを与えた丈草の名句に一つである。宵曲も後で述べるように、この「藤の実」所収の句形が素晴らしい。「炭俵」の「黒みけり沖の時雨の行(ゆき)どころ」ではレンズが望遠で画面中の動的対象が一つに絞られて、完全に興が殺がれる。]

 朝霜や聾の門の鉢ひらき      同

[やぶちゃん注:中七は「つんぼのかどの」。「鉢ひらき」は「鉢開き」で「鉢坊主」のこと。所謂、托鉢して金品を乞い歩く僧を言う。]

 ほそぼそと塵焚門の燕かな     同

[やぶちゃん注:中七は「ちりたくかどの」。モノクロームに焚く火のたまさかに燃え上がる赤と、ツバメの喉と額の紅がさっとかすめて、部分彩色される。素敵な句だ。]

 野馬のゆすり起すや盲蛇      同

[やぶちゃん注:「野馬」は「かげろふ」と読む。座五は「めくらへび」。「陽炎」を「野馬」と表記するのは「荘子」の「逍遙遊篇」に基づくもの。岩波文庫(一九七〇年刊)の金屋治訳注の注によれば、『郭注に「野馬とは游気なり」とあり、成玄英の疏』『は「青春の時、陽気発動し、遙かに藪沢の中を望めばなおなお奔馬の如し。故に野馬という。」と説明する』とある。「盲蛇」は未だ寝坊の、冬眠から覚めぬ地中の蛇を言ったものであろう。「野馬」という当て字が非常に上手く機能して心理上の画像を豊かにしている。]

 うかうかと来ては花見の留守居かな 同

 人事の句が少いのは『猿蓑』已に然りであった。その後においてもこの傾向に変りはない。「うかうかと来ては」の句がその点でやや珍しいものであるが、花見そのものでなしに、「花見の留守居」であるところはやはり丈艸である。この句には丈艸一流の滑稽趣味の存することを見逃し難い。

[やぶちゃん注:堀切実氏の前掲書では、『春の日和につられて、うかうかと親しい人の家を訪ねたら、ちょうど一家そろって花見に出かけようとするところ、つい留守居を頼まれて引き受けてしまい、そのまま一日中その家に過ごすことになってしまったというのである。これはしくじったという気持もあろうが、まあ、これも一興よと留守居を楽しむ気分が中心であろう。隠棲の身とて、家族もなく、俗用もない気楽な丈草の立場が軽妙で剽逸な味わいとなって表われている』とされた上で、「留守居」について語注され、『留守番をすること。①花見に出かけたあとの留守番、②花見をしながらの留守番、の両解があり、西村真砂子氏は、江戸幕府職名の一「留守居役」にひっかけて、気取った言い方をしたもので、②の解がふさわしいとする』とある。私も花も何もない留守居では淋しい。一本(ひともと)の小さな桜の木を留守居宅の庭に配したい。さればこそ、「花見の留守居かな」がモノクロームから天然色に代わる。]

 

 ほそぼそと芥を焚く門の燕も悪くない。藁灰に汚れる竈馬に目をとめた点にも、その微細な観察を窺い得るが、就中(なかんずく)元禄俳諧の骨髄を捉えたものは、「くろみ立沖の時雨」の一句であろう。眺めやる沖の方は時雨が降っているために、幾所も黒み立っている。空も波も暗い。そういう海上の光景がひしひしと身に迫って来る。去来にも「いそがしや沖の時雨の真帆片帆」という句があり、句としては働いているけれども、この丈艸の句のような蒼勁(そうけい)な力がない。自然に迫るものを欠いている点で竟(つい)に一籌(いっちゅう)を輸(ゆ)さねばなるまいと思う。『炭俵』には「黒みけり沖の時雨の行(ゆき)どころ」となっているが、「くろみ立」の方が調子が強い。「行どころ」は「幾所」に如かぬようである。

[やぶちゃん注:宵曲の、去来の句との比較も含めて、全面的に支持するものである。

「蒼勁」筆跡や文章が枯れていて、しかも力強いさま。

「一籌(いっちゅう)を輸(ゆ)」すは「一段階、劣る」「一歩、譲る」の意。「籌」は実務や占術に於いて数を数えるのに用いた木の串(くし)で、「輸する」の「輸」には「致す・運ぶ・移す」以外に「負ける・負け」の意があり、ここはそれ。もともとは宋の陸游の詩「九月六夜夢中作笑詩覺而忘之明日戲追補一首」の最終句「道得老夫輸一籌」に基づくという。]

 

 大はらや蝶の出てまふ朧月     丈艸

[やぶちゃん注:堀切氏は前掲書で、「北の山」(句空編・元禄五(一六九二)年刊)の句形、

 大はらや蝶のでゝまふ朧月

で本句を示され、『朧月の夜、大原の里を逍遥していると、ほのかな明かりの中に白い蝶がひらひらと舞っているのが眼に映った、というのである。洛北の大原は『平家物語』や謡曲の『大原御幸』で知られる歴史的由緒のあるところ、朧夜に浮かび出た蝶は、あるいはこの地に隠棲した建礼門院の精霊の幻覚であるのかもしれない。「でゝ舞ふ」には、あたかも能舞台にシテが登場してくるときのような趣も感にられよう。句は、そうしたよ〝実〟と〝虚〟の入り交じった夢幻的な世界を一幅の画のようにとらえているのである。そニに作者の詩情が見事に形象化されているわけである。蝶は夜飛ばないものとされるが、作者の眼には確かにそれが蝶と映ったのであろう』と評釈され、語注されて、「大はら」は『洛北(京那府愛宕郡)の大原の地名とみる説と洛西(同乙訓郡)の大原(大原野)とみる説がある。前者は『平家物語』濯頂巻の「大原御幸」や謡曲『大原御幸』で知られ、建礼門院の庵室であった寂光院や三千院がある。また後者とみる説は地形的な点を考慮に入れた見解である。両者ともに「朧の清水」なる名所をもっている』とあり、「蝶」には、『春の季題。蝶は夜間飛ばないものという非難があるが、たとえ蛾などの虫であったにしても、作者はそれを蝶として詠んだものとすれば、それはそれで差し支えあるまい』とされる(「朧月」も春の季題である)。さらに、『出典とした『北の山』以外は中七「出て」とあり、これを「イデテ」と読む説もあるが、『北の山』の句形に従って、「デテ」と読むべきである。また去来の「丈草が誄」(『本朝文選』巻六・『幻の庵』所収)によれば、去来が知友の句を集めて深川の芭蕉に送ったところ、芭蕉が丈草のこの句について「この僧なつかしといへ」と返書に記して寄こしたと伝えられる。なお、出典としてあげた『幻の庵』』(魯九編・宝永元(一七〇四)年自跋)『では、去来の追悼詞(「丈草誄」と同文)中に出ている句である。元禄四年春、加賀から上洛した句空とともに大原に遊吟した折の作と推定される』とある。なお、夕刻陽が陰ってからでも飛翔する蝶はいる。渡りをする蝶は早朝暗い時間から飛び始める。実際、摂餌もパートナー探し(紫外線が必要)も出来ず、夜行性の他の動物に捕食されるリスクも高まるから、夜に蝶が飛んでメリットはないから、殆どの蝶は飛ばないことは事実である。しかし、文芸、特に和歌や発句に博物学的な正確さを要求するようになるのは、実際には近代以降の喧騒に過ぎず、堀切氏の言うように、丈草には見えたのだという〈詩的幻想〉で何ら問題ない。寧ろ、「これはあり得ない」と切り捨てる馬鹿に付き合ったり、これこれの種が朧月夜のこの時間帯なら飛ぶのでその種であると学名を記して鼻白ませる者を相手にする必要など、ない。但し、私はこれを以って丈草の代表句の一つに数えるのには、やや躊躇するものである。]

 

 雨乞の雨気こはがるかり著かな   同

[やぶちゃん注:「あまごひの あまけこはがる かりぎかな」。堀切氏は前掲書で、『それぞれに装いをした村人たちがそろって神社に集まり、雨乞いの祈願をしているが、その中には衣裳が借着であるために、黒雲が出てきて雨の降りそうな空に内心気が気でない者もいるようだ、というのである。人情のかかしみを道破したところに、俳意が働いている』と評釈しておられる。]

 

 蘆の穂や顔撫揚る夢ごゝろ     同

[やぶちゃん注:中七は「かほなぜあぐる」。堀切氏の前掲書評釈には、『舟旅をしているときのことであろう。舟が芦間を分けて進むとき、風にそよぐ岸辺の芦が舟端に仮睡していた自分の顔をすっと撫で上げたのを、半睡半醒の夢ごこちのうちに感じたというのである。前書がなく、表現が不十分なのが欠点であるが、いかにも世を捨てて自在な境地にあった丈草らしい一句といえよう』とある。]

 

 水風呂の下や案山子の身の終    同

[やぶちゃん注:「水風呂」は「すいふろ」。茶の湯の道具である「水風炉 (すいふろ) 」に構造が似るところから、桶 の下に竈(かまど)が取り付けてあって浴槽の水を沸かして入る風呂。「据(す)ゑ風呂」とも言う。「案山子」は「かがし」と濁っている(語源・表記については江副水城氏のブログ「日本語の語源〜目から鱗の語源ブログ〜」の「【かかし】の語源」が目から鱗、必読!)。座五は「みのをはり」。]

 

 榾の火やあかつき方の五六尺    同

[やぶちゃん注:「榾」は「ほだ」。囲炉裏や竈で焚く薪(たきぎ)。掘り起こした木の根や樹木の切れ端。「ほた」と清音でも発音する。堀切氏前掲書に、『山家などに旅寝でもした折の吟であろう。暁方の寒さに起き出して炉に投げ入れた榾の火が、暁闇の中でぱあっと五、六尺の高さにも燃え上がったという光景である。冷え込んだ室内の空気の中に、勢いよく真っ赤に上がる榾の炎が強烈な印象で眼に映じたのである』とされ、『草庵独居の炉辺のさまとみる説もある』とある。]

 

 「大はら」の句は丈艸の句として人口に膾炙したものの一である。去来の「丈草誄」の中に「先師深川に帰り給ふ比、此辺の句ども、書あつめまいらせけるうち、大原や蝶の出て舞ふおぼろ月などいへる句、二つ三つ書入侍りしに、風雅のやゝ上達せる事を評し、此僧なつかしといへとは、我方への伝へなり」とあるのを見れば、当時から評判だったものに相違ない。後世のものではあるが『俳諧白雄夜話』はこの句について次のような話を伝えている。

[やぶちゃん注:『去来の「丈草誄」』榛原守一氏のサイト「小さな資料室」のこちらで全文が正字正仮名で電子化されてある(因みに、このサイトには源義経の「腰越狀」芥川龍之介の詩「相聞」など、私のサイトへのリンクが附されたものがある)。

「俳諧白雄夜話」天保四(一八三三)年刊。ここ(「国文学研究資料館」の画像データベース。左頁の後ろから三行目「一大はらのおほろ月」と次のページにかけて)。

 以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。]

 

  大原や蝶の出てまふ朧月

丈艸の句也、蕉翁の曰、蝶の舞さまいかゞあらんやと聞給ひしに、さく夜大原を通りてまさに此姿を見侍りぬと、翁曰、しかるうへは秀逸たるべし、誠に大原なるべしとぞ頌歎[やぶちゃん注:「しようたん」。]浅からずありしと。

 

 蝶が果して夜飛ぶか否かについては、芭蕉も先ず疑ったが、丈艸が実際そういう景色を見たというのを聞いて、それならよろしい、といったのである。丈艸は譃をいうような人とも思われぬ。近代科学の洗礼を受けた人たちは勿論、芭蕉以上にこの蝶の実在性を疑っている。夜飛ぶとすれば蛾に相違ないというのであるが、朧月夜に蛾の飛ぶというのも、何だか少しそぐわぬところがある。丈艸は『白雄夜話』にある通り、実際大原においてこういう光景に接し、特殊な興味を感じてこの句を作ったのではあるまいか。近代人の一人たる北原白秋氏の歌集にも、月夜の蝶を詠じたものがあるからである。

   ふと見つけて寂しかりけり月の夜の光に白き蝶の舞うてゐる

   現(うつつ)なき月夜の蝶の翅(はね)たゝき藤豆の花の上に揺れてをる

 この二首は丈艸の句よりも遥に写生的であるだけに、自然観察における実在性を疑う余地はあるまいと思う。自然界の現象の中にぱ、われわれのような見聞の乏しい者の速断を許さぬものがしばしばある。月夜を飛ぶ蝶にも何か理由があるのかもわからない。

[やぶちゃん注:以上の白秋の二首は詩歌集「雀の卵」(大正一〇(一九二一)年アルス刊)の中の「月下の蝶」と標題した二首(のみ)であるが、

 ふと見つけて寂しかりけり月の夜の光に白き蝶の舞うてゐる

 現うつつなき月夜の蝶の翅たたき藤豆の花の上に搖れてをる

とある。しかし、残念なことに、同詩歌集の序の中で一部の決定稿の推敲過程を並べて見せている中に、前者の原作として、

 ふと見つけて淚こぼるる月讀の光に白い蛾が飛んでゐる

を示してしまっている。即ち、白秋の見た実景は「蝶」ではなく、「蛾」であったことが明らかとなっているのである。さすれば、二首目それも実は蛾である可能性がいやさかに高くなるのである。まんまと宵曲は騙されたわけであった。

 

 但この「大はら」の句は、古来有名な割に、丈艸としては最高峰に立つ作ではないようである。人口に膾炙する所以はその辺にあるのであろうが、美しい代りに迫力には乏しい。蝶が夜飛ぶという特色ある景色も、大原に対する詠歎的な気持に覆われた憾(うらみ)がある。

 「雨乞」の句、「水風呂」の句にはまた例の滑稽趣味がある。滑稽としてはあくどいものではないが、いささか理が詰んでいるため、上乗のものとは目し難い。この点ではむしろ前にあった「草庵の火燵の下や古狸」の句を推すべきであろう。これらの句は見方によっては滑稽ではないかも知れない。但丈艸の滑稽趣味ということを念頭に置いて見る時、これらの句も一応留目する必要がありそうに思う。それほど彼の滑稽は淡いのである。

 「榾の火」の句は佳作とするに躊躇せぬ。「くろみ立」の句とは多少種類を異にするけれども、元禄俳諧の骨髄を捉えている点に変りはない。こういう句の人に迫る力を、文字で説明するのは困難である。「大はらや」の句などと併せ誦すれば、丈艸の面目の彼にあらずしてこれに存することは何人も認めざるを得ぬであろう。芥川氏は丈艸を説くに当って、二度とも「大はらや」及「榾の火」の二句を挙げていた。丈艸の句の幅を示すためには、固より両者を示さなければなるまい。ただ丈艸の真骨頂は、有名なる「大はら」よりも、比較的有名ならざる「榾の火」によく現れていることを語れば足るのである。

[やぶちゃん注:「一」で述べた芥川龍之介の『「續晉明集」讀後』(正確には初出は『几董と丈艸と――「續晉明集」を讀みて』)と「澄江堂雜記」の「丈草の事」を指す。]

三州奇談續編卷之八 妙年の河伯

 

    妙年の河伯

 新川郡(にひかはのこほり)滑川(なめりかは)は大鄕にして、其稱する滑川を知らず。

「若しや靑砥左衞門が付けしか」

と是を尋ぬるに、滑川は古名にて、元來川あり。今は海入り來て、其水源なる中河原村の小淸水に近し。纔(わづ)かに湧出づる水なり。昔は「小濱松」と云ひしより寺家(じけい)・神家(じんけ)と川を隔(へだ)て、兩側ありしよし。今は町名に殘れり。濱表は伏木と云ふ。伏鬼千軒の號殘れり。賑はしき湊のよし。

「今の放生津(はうじやうづ)のあなたへ引きし伏木と云ふは爰(ここ)なり」

とにや。今の地は辰尾にして、小川滑川の號(な)うつり來ると見ゆ。町の東に櫟原(いちはら)の神社あり。式内の神なり。辰尾の古名は「刀尾(タチヲ)」とにや。是等の號皆々變じて、小名(こな)の滑川を總名となすも又因緣と覺ゆ。西に「水橋の渡り」あり。是は常願寺川の末(すゑ)にして甚だ深く、水所々より落合ふといへども、「あまが瀨」と云ふ渡りあり。義經奧州下りの頃、畑等(ハタケラ)右衞門尉といふもの、此渡り瀨を敎へしとて、今に畑等淸兵衞とて百姓の中に其後孫あり。今も飛脚など、此家に渡りを習ひて打渡り、舟の隙入(ひまいり)を免かるゝとかや。世には飛鳥(あすか)の川もあるに、數百年の今日迄淵・瀨替らざるも又妙なり。扨は水中靈あること怪しむに足らんや。湘靈鼓瑟(こひつ)の事を聞けば、舜(しゆん)の二女(にぢよ)猶水底に瑟を鳴らせるとかや。左(さ)もあるべし。越中は大川多き所なり。俗諺あり。折々は深淵に鈴の音(ね)あり、小兒の踊る時に袂に鈴ありて鳴るに似たること多し。究むべき道もあらねば、誰(たれ)見とむる者もなし。

[やぶちゃん注:標題は「みやうねんのかはく(みょうねんのかはく)」と読んでおく。「妙年」は「妙齢」と使う如く、「妙」は「若い」の意で「若い年頃」。先例に徴して「かはく」と読んだが、「近世奇談全集」の本文ルビは『かつぱ』である。しかし、以下の叙述は明らかに中国起原の記載となっているので、従わなかった。河伯は本来は中国の河川に棲息する異獣で、本邦の河童とは形態の一部がやや類似してはいるものの、中国のそれは爬虫類を思わせる異なる架空の水棲動物であって河童とは異なる。河童はあくまで日本固有の妖怪である。

「新川郡滑川」現在の富山県滑川市(グーグル・マップ・データ)。

「其稱する滑川を知らず」「今、この地に滑川という川は存在しない」の意。

「若しや靑砥左衞門が付けしか」鎌倉後期の武士青砥藤綱。私の「『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 滑川」及びそこにもリンクさせた私の「耳囊 卷之四 靑砥左衞門加增を斷りし事」を読まれたい。麦水がかく言ったのは、その有名な錢探しのエピソードが鎌倉の滑川(グーグル・マップ・データ。以下同じ)であることに拠る。現在の鎌倉市浄明寺のここに「青砥藤綱邸舊蹟碑」があり、エピソードのロケーションとされる「青砥橋」があるが、実際のロケーションはずっと下流の現在の「東勝寺橋」附近ともされる。しかし、実はこの人物自身、実在が疑わしい。

「其水源なる」「なる」は存在を意味する用法で「というのは」の謂い。

「中河原村の小淸水」不詳。位置的に見ると、滑川市清水町が相応しいか。

「小濱松」不詳。

「寺家(じけい)」滑川市寺家町(じけいまち)。読みは現在の行政地名に従った。

「神家(じんか)」滑川市神家町(じんかまち)。同前。

「川」早月川水系と思われる。

「濱表は伏木と云ふ」不詳。現存しない。「今の放生津(はうじやうづ)のあなたへ引きし伏木と云ふは爰(ここ)なり」と後に出るから、高岡市伏木へと移転したというのか? こんな話は伏木に六年いたが、聴いたことがない。ともかくも滑川の「伏木」の地名は早い時期に消失してしまったものと見える。しかし、この辺り、記載の意味がよく判らない。

「伏鬼千軒」不詳。

「賑はしき湊のよし」滑川漁港のことか。

「辰尾」富山市辰尾があるが、「小川滑川の號(な)うつり來ると見ゆ」『辰尾の古名は「刀尾(タチヲ)」とにや』もどこを指し、叙述で何を意味したいかがよく判らぬ。

「櫟原(いちはら)の神社」ここ(滑川市神明町)。現在の呼称でルビした。「近世奇談全集」では『いちゐばら』とルビする。創建は大宝元(七〇一)年とも、また、人皇第十三代成務天皇の御宇の勧請で、文武天皇大宝年間の再興とも言う。ともかくも往時は相当な大社であったらしい。

「式内の神なり」「延喜式」の「神名帳上下」(延喜式神名帳)に記載がある。

「小名(こな)」村や町を小分けした小字 (こあざ) のこと。しかし、ここも何故、小字を「滑川」と称したかが、明らかとなっていない。それが分からなかったことが麦水をしてこのよく判らない叙述となってしまったような気もする。

「水橋の渡り」富山市水橋町。常願寺川の河口の近く(東)で滑川市に東方部分が僅かに接している。

『「あまが瀨」と云ふ渡り』「富山市立水橋西部小学校」公式サイトの校長の談話の中に、自校の生徒を『天瀬っ子』と呼んでいるのを見つけた。場所は不明。

「畑等(ハタケラ)右衞門尉」富山市水橋畠等(みずはしはたけら)という地名を見出せた。しかも、これを調べるうちに、内藤浩誉氏の論文「川を渡る静御前」PDF)を発見、そこで詳細を尽くして、ここの義経伝説が載る。是非、読まれたいが、それによれば、常願寺川を古くは海士瀬川と呼んだとある。流域は恐らく変化していると思われるが、「あまが瀨」という水深の浅いそれは原常願寺川にあったものと判った。

「習ひて」場所を教えて貰って。

「隙入(ひまいり)」手間どること。時間がかかること。用事に時間をとられること。

「飛鳥の川」奈良県中西部を流れる大和川水系の川。奈良盆地西部を多く北流する大和川の支流の一つで、「明日香川」とも綴る。流域は古代より開けた地で、古歌にもしばしば詠まれた(ウィキの「飛鳥川(奈良県)」に拠る)。ここ

「湘靈鼓瑟」「湘靈 瑟を鼓(こ)す」で「楚辞」の屈原作と伝える「遠遊」の一句(第八段の中)の「使湘靈鼓瑟」(湘靈(しやうれい)をして瑟(しつ)を鼓(こ)せしめ)。「湘水の神である湘君に大型の琴(二十五弦の琴)を弾かせる」の意。湘君は楚の民の信仰の厚かった洞庭湖一帯の水神。以下にある通り、伝説によれば、伝説の聖王堯(ぎょう)の二人の娘であった娥皇(がこう)と女英(じょえい)は、堯を継いだ舜が、悪神三苗(さんびょう)を征伐するために、沅・湘(洞庭湖の南方一帯)の辺りに至った際、そこの蒼梧(そうご)の地で崩じたと聴いて、悲しんで自ら入水して水神となつたとされる。ここはその詩によれば、祝融(南方の火の神)が彼女たちにその水底で瑟を弾かせた、というのである。原文でよければ、「維基文庫」のこちらに全文がある。]

 

 然るに安永四年八月の事なりし。滑川の南有金(ありかね)村の傍(かたはら)に今井川と云ふあり。是(これ)這槻川(はひつきがは)の枝川(しせん/えだがは)なり。高月村專福寺は弓の庄(しやう)柿澤(かきざは)の圓光寺の二男なり。早朝用事ありて柿澤より專福寺へ歸ることありしが、此今井川に臨む。

 朝六半時(むつはんどき)頃の事なり。川に來りて向ひを見れば、岸に一人の小女(こをんな)ありて顏を見合(みあは)す。其顏色白きこと雲の如く、光ありて甚だ美麗、只(ただ)雛の如し。長(た)け二尺餘り。髮のかざりは常の如く、簪(かんざし)をはさむ。ゆるく步みて立てり。衣服を見るに五彩ありて見事なり。人間(じんかん)中の織物とは見えず。兩脚甚だ露(あら)はれ、着物は腰の廻(まは)りと覺ゆ。白き膝あらはに出でたり。手元・袖口のあたり網の如き物下り居(をり)て、手も又甚だ白し。人間(にんげん)に相異(あひことな)ることなく、只甚だ低し。

 專福寺と顏を見合すこと度々なり。笑(ゑみ)を含めるけしきにも覺ゆ。

 依りて專福寺總身汗出で、戰慄止(と)め難し。

 暫くして岸を來る商人(あきんど)二・三人連(づれ)なるものあり。

 此妖物(えうぶつ)人音(ひとおと)を忌みけん、暫く川緣(かはふち)によるよと見えしが、楊株(やなぎかぶ)の間(あひだ)より水に入るに、音もなく消ゆるに似て、又再び見えず。

 專福寺は暫く立去りかねしが、漸(やうや)く迎(むかへ)を待ちて、川を渡り過ぎて寺に歸る。

 下人顏色の異(い)なるに驚き、色々藥を調(ととの)へ養生をなさしむ。

 數日(すじつ)にして本復に至るとなり。

 是れを櫟原(いちはら)の神主(かんぬし)なる人に尋ねしに、答へて、

「是は必ず河伯(かはく)ならん」

となり。

 いろいろ聞き合(あは)するに、良々(やや)河伯に決定(けつじやう)す。

 思ふに是(これ)河伯水靈の類(たぐひ)にしては、甚だ幼童なるものと覺ゆ。

 湘靈の瑟を鼓するを思へば、是等は小女(こをんな)にして踊り遊ぶらんも計るべからず。

 扨は淵底やゝもすれば鈴音を聞きしも、若しや是等の河伯遊びむれて唄ふ折(をり)ならんか。

 郡(こほり)の名の新川(にひかは)に比して見れば、河伯も又新川の名を免かれざるも又理(ことは)りと云はんか。

[やぶちゃん注:「安永四年」一七七五年。

「有金(ありかね)村」滑川市有金

「今井川」不詳。有金は上市川の右岸であるが、同地区を少なくとも四つの細い川が現認出来る。或いはこれらの孰れかかも知れない。後の「這槻川の枝川なり」の「這槻川」が上市川のようには読めるように感ずる。

「高月村」滑川市高月町。上市川の河口右岸。

「專福寺」文脈上は人の名であるが、以下で「專福寺へ歸ることありし」とあるから、やはり寺の名である。因みに、富山市内には専福寺という同名の浄土真宗の寺が二ヶ寺、存在する。一つは富山市南田町に、今一つは富山市米田にある。孰れかは不詳。

「弓の庄柿澤の圓光寺」富山県中新川郡上市町柿沢にある浄土真宗大悟山円光寺

の二男なり。早朝用事ありて柿澤よりが、此今井川に臨む。

「朝六半時頃」午前七時頃。

「下人」専福寺の寺男。

「良々(やや)」ほぼ。概ね。(よくよく)河伯に決定す。

「郡の名の新川に比して見れば、河伯も又新川の名を免かれざるも又理りと云はんか」私が馬鹿なのか、ちっとも理屈に合っているとは思われない、というか、どこが符合するというのかも判らぬ。]

2020/07/25

三州奇談續編卷之八 唐島の異觀

 

    唐島の異觀

 氷見の唐島は、萬葉の頃は聞かずと雖も、國君を始め奉り、風騷の人の秀歌あまた聞ゆ。事多ければ略す。地は氷見の川口を離(はな)るゝ事十二町[やぶちゃん注:一キロ三〇九メートル。]、海中に孤立せり。遠望愛すべく、島に上(あが)りて又驚くに堪へたり。凡(およそ)竹生島(ちくぶしま)・江の島に類(たぐひ)す。元(も)と坤輪(こんりん)より岩を疊みて涌出(ゆうしゆつ)せる物なれば、風景豈(あに)俗物ならんや。大躰は前段に記す如く、遠くは佐渡を望み、近くは能越の嶺嶽累々と廻(めぐ)らし、海深く、蒼濱白砂(さうひんはくさ)、舟の行違(ゆきちが)ふものは浪に敷くに似たり。既に渡舟(わたしぶね)岸に至れば、石を飛び岩を這ひて上る。坂中(さかなか)鳥居あり。大巖(おほいは)には必ず六道能化(のうげ)の兄息子を彫む。本堂は辨財天、三間四面許(ばかり)莊嚴(しやうごん)せり。四方欄干の緣を廻る。大凡(おほよそ)堂景備前の島「あぶとの觀音」に類(るゐ)す。爰も向うの海中の飛島(とびしま)を「あぶが崎」と云ふ。能州にも「あぶや」の號あり。思ふに「あぶ」は蠻音(ばんおん)ならん。水を「あぶ」などいふ如く、舟路には蠻語の入交(いりまぢ)るものにこそ。扨(さて)堂の後ろの下り坂、岩をくぐり石に迫りて、刀頭(たちがしら)に蟹這ひ履下(りか)に蜷(にな)を踏む。甚だ江の島の奧の院金龜山(きんきさん)より「兒(ちご)が淵(ふち)」に下る邊(あたり)に似たり。「胎内くぐり」と云ふ岩を出で、波かゝる平岩に飛移れば、此岩橫に臥すこと二十丈許、又一路あるに似て銀漢にや續くらんと疑はる。此岩の五六町[やぶちゃん注:五四六~六五四メートル半。]波路を隔て「牛島」あり。又「机が島」あり。其形(かた)ち相似たれば號(なづ)く。牛は臥牛にして生けるが如し。海荒き日は牛頭の波數丈に打上り、唬々吼々(がうがうこうこう)として聲あるが如し。三所の龍灯は、必ず爰の波底より出づと云ふ。都(やが)て唐島の岩は洲入りて捉ふるに易く、能く傳へば此島を一周するに危ぶからず。岩間々々土自らありて、草樹色々生ひたり。近年大樹大松枯れてなし。是れ遊人多く火を焚きて慰み、或は岩穴に火藥をつめて大鳥銃の術をまねびなどして、巖半ば死(しに)枯るゝ如くなりし故ともいふ。鳥居の邊(あたり)には淸水の出づる大石あり。「義經の水乞石(みずこひいし)」と號(な)づく。一年(ひととせ)開帳のありし時は、爰に判官渡り住みて日を重ねられしことなど、詞(ことば)をかざる僧ありしと聞く。必ず虛ならん。石穴には辛螺(にし)・蛸など群り住みて、遊人肴(さかな)に不足なし。釣竿を下せば黑鯛といふ物かゝりて、又々一興をなす。此山を廻(めぐ)るに、必ず和國になき面影を見ることあり。草木石貝に限らず。折々怪しきものを得るといふ。名(な)空(むな)しからず。友文鵝(ぶんが)なる男興じて咄す。

「里諺に此堂の緣にうつむきになり、股の間より海畔を望めば、必ず異國の人家か蠻界の人家を見ると云ふ。故に多く『唐(もろこし)を見ん』とて、内股の間に首を入れて興ず。人家或時はふしぎにも見え、又見馴れざる所の見ゆることもあり。先年開帳の時は、麓の岩間に荼店を設けて、岩間を直(ぢか)に生洲(いけす)となして鯛・蛸の類(たぐひ)を放し置き、酒を賣りしに、人々多く押合ひて食するに、其頃我も渡りて酒に興じ、打倒れて夢も半(なかば)の頃、早や人大方歸り盡きて淋しくなりし頃、不圖(ふと)目覺めて彼(かの)俗諺を思ひ出して、股より覗き見しに、山上より來る一人あり。唐裝束(からしやうぞく)を着し、髮は女の如く唐子髷(からこまげ)にして、手に大旗を持來(もちきた)る。大いに怪しみ、

『不思議不思議』

と感ずる間に、異人(いじん)間近(まぢか)く來り、

『ハンメリハンメリ』

といふ。驚きて手に持つ旗を見れば、

『ハシリカンフラ』

と書き付けあり。扨は藥賣殿(くすりうりどの)にてありしと初めて知りしが、時しも此内股より覗く所へ來かゝりしは、渠(かれ)も又應(わう)の遁(のが)れざることありしにやと、をかしく歸りしぞ。今日も岩間岩間探し給へ、異物あるべし」

とて終日遊ぶ。

[やぶちゃん注:「唐島」は既出既注であるが、メインだから再掲する。氷見漁港から三百メートル沖合にあり、濃い緑に包まれている小さな島。県指定の天然記念物に指定されました。氷見漁港の守り神を一度は見ておきたいものです。にある小島の無人島で、氷見市丸の内にある曹洞宗海慧山海慧山光禅寺(グーグル・マップ・データ。漫画家藤子不二雄A氏の生家。昨年の三月に友人らと訪れた)が全島を所有し、唐島は同寺の境内とされており、島内には弁天堂・観音堂・「火ともし地蔵」・「弁慶の足跡」・「夫婦岩」などがあり、昔から地元の信仰を集めている。光禅寺を創建した明峰素哲が唐の大火を消し鎮め、その返礼に唐から島を贈られたという言い伝えから、「唐島」と呼ばれる。地質学的には石灰質砂岩から成る。遠い昔、十九の頃、演劇部の後輩の女性と、他の連中が泳いでいる間、何か訳あって泳がずに寂しそうにしていたので、誘って船で行ったことがあった。

「萬葉の頃は聞かずと雖も、國君を始め奉り、風騷の人の秀歌あまた聞ゆ」「万葉集」巻第十九の四二三二番歌に出る「雪の島」を唐島とする説は、既に「多湖老狐」で否定した。「國君」は加賀藩第三代藩主前田光高。既出既注だが、再掲すると、徳川光圀撰の「新百人一首」の第二十四番に、「加越能少將光高」として、

 なごの海やうら山かけてながむれば

    やまとにはあらぬ波のからしま

とある。万葉で売らんかなの氷見ならば、唐島の和歌を集成したページを誰か作っていようと調べたが、見当たらない。調べる気も起らない。悪しからず。

「竹生島」言わずもがな、琵琶湖北部に位置する島。現在は全域が滋賀県長浜市早崎町に属する(グーグル・マップ・データ。左のサイド・パネルの写真がよかろう)。正直、小さな唐島と比較するのはどうかなと思う。

「江の島」言わずもがな、私の思い出だらけでくしゃくしゃになった神奈川県藤沢市江の島(グーグル・マップ・データ。同じく左のサイド・パネルの写真がよかろう)。比較は同前。

「坤輪」「乾坤(けんこん)」で判る通り、「坤」は易学に於いて「天」を意味する「乾」とともに万物を生成する「地」の表象であり、単純にこの大地は「坤輪」という地軸によって支えられていると考えられた。

「能越」能登国と越中国。

「蒼濱」「蒼」は海の色。

「六道能化(のうげ)の兄息子」「六道能化」六道の巷 (ちまた) に現われて衆生を教化し救う地蔵菩薩のこと。「兄息子」は「一番年上の息子」や「年かさな息子」を指すが、意味が判らぬ。或いは「兄・息子」で大きい地蔵や小さい地蔵のことか。そう読んでおく。

「三間四面」五メートル四十五センチ四方。

『備前の島「あぶとの觀音」』広島県福山市沼隈町能登原にある臨済宗海潮山磐台寺(ばんだいじ)の本尊十一面観音。瀬戸内海に面した阿伏兎(あぶと)岬(先端の高所)にあるので「阿伏兎観音」とも呼ばれる。私は「阿伏兎観音」を見たことはないが、写真を見るにロケーションは唐島の比ではなく、悪いけれど、記憶の中の唐島のそれは如何にもしょぼかった。グーグル画像検索「阿伏兎観音」もリンクさせておく。

『向うの海中の飛島を「あぶが崎」と云ふ』「牛島」「机が島」グーグル・マップ・データ航空写真を見ると、唐島から東北沖合三百メートル圏内に三つの岩礁を現認出来る。海図を見ても同じ方向に六つほどの岩礁或いは暗礁に近いものを認める。これらのうちの孰れかであろう。スタンフォード大学の「參謀本部」の「邑知潟(オウチガタ)」(明治四二(一九〇九)年作図・昭和九(一九三四)年修正)を見ても、同じ東北沖に明らかに三つの岩礁を認める。地元も漁師の方に聴けば、総ての岩礁や岩根に名があるはずだが。何方かお調べ戴けまいか?

『能州にも「あぶや」の號あり』西能登であるが、石川県羽咋郡志賀町安部屋(グーグル・マップ・データ)があり、その海岸も安部屋海岸と呼ぶ。しかし、だいだい、ここで言うなら、唐島の北北東八キロ半の位置にある虻ガ島(グーグル・マップ・データ)をこそ言うべきであろう。

『思ふに「あぶ」は蠻音(ばんおん)ならん。水を「あぶ」などいふ如く、舟路には蠻語の入交(いりまぢ)るものにこそ』この「蠻音」「蠻語」は外来語・外国語の意。仏教用語で仏に供える水を「閼伽(あか)」と呼ぶが、これはサンスクリット語由来の「アルガ」(ラテン文字転写「argha」)の漢音写であり、一説にラテン語の「水」を意味する「aqua」(アクア)もそれが語源だという話を聴いたことがある。

「刀頭」麦水は御用商人の次男であるから帯刀していないので、単に頭の上の方の謂い。

「蜷」腹足類。巻貝。

「江の島の奧の院金龜山」伝承によれば、弘仁五(八一四)年に弘法大師空海が金窟(現在の江の島の南にある「お岩屋」)に参拝し、国土守護・万民救済を祈願して社殿(岩屋本宮)を創建し、神仏習合によって金亀山与願寺(よがんじ)という寺院になったとする。詳しくは私の「新編鎌倉志卷之六」或いは「鎌倉攬勝考卷之十一附錄」をどうぞ。

「兒が淵」江の島の最西端(グーグル・マップ・データ航空写真。サイド・パネルの写真を見られたい)。由来となった若衆道の悲話は同前の「新編鎌倉志卷之六」の「兒淵(チゴガフチ)」の条を見られたい。麦水はそこに「下る邊に似たり」(爼岩のことと思う)などと言っているが、唐島は凡そ及ばない。

「二十丈」約六〇メートル六〇センチ。唐島の現在の裏手(東北の富山湾側)は四十五メートルもない。但し、当時とはかなり島の形も潮下線も異なると考えられるので、これは信じてよかろう。

「銀漢」銀河。天の川。

「唬々吼々(がうがうこうこう)」読みは「近世奇談全集」に従った。後半を「くく」と読んだのでは迫力を欠くように思われる。「唬」は「脅(おど)す・脅(おびや)かす・驚かせる」の意があり、「吼」は獅子吼(ししく)で知られる通り、「獣がほえる・わめく・どなる」の意。そうした意味と、激しい波濤の立てる音のオノマトペイアと考えてよい。因みに、十六小地獄(八大地獄の周囲に付属する小規模な地獄)の一つに「吼々処」(くくしょ)と呼ばれる地獄がある。ここには恩を仇で返した者や自分を信頼してくれる古くからの友人に対して嘘をついた者が落ち、獄卒が罪人の顎に穴をあけて舌を引き出し、それに毒の泥を塗って焼け爛れたところに、さらに毒虫がたかる、という苦痛を繰り返すという。

「三所の龍灯は、必ず爰」(牛島)「の波底より出づと云ふ」「朝日の石玉」の本文及び私の注を参照。朝日山上日寺にある「龍灯の松」に「大晦日の夜、三ヶ所一團となりて牛島より來りかゝると云ふ」とある、それ、でである。なお、そこに同寺の背後にある山を泰澄が牛に駕してやってきたとあるから、或いはこの「牛島」は、単に形のシミュラクラではなく、その泰澄が跨った牛が最後に化したというような伝承があるのかも知れない。

「洲入りて」砂州が島の周囲に形成されて。

「大鳥銃」不詳。「近世奇談全集」では「鳥銃」の部分に『てつぱう』とルビする。ということは大銃(おおづつ)・大砲のことではなかろうか。とすれば、ここも「おほづつ」と読む方がいいし、躓かずにすんなり読めるではないか。

「義經の水乞石」不詳。現存しないか。日本海から東北果ては北海道にまで無数にある義経伝説の一つとして理解は出来る。すぐ近くの雨晴海岸にある義経岩(グーグル・マップ・データ)もそれで、こちらは風雨に見舞われ、弁慶が岩を押し上げて穴を作って雨宿りしたという古跡があり、その時の「弁慶の足跡」もちゃんとあったやに記憶している。雨晴海岸は私の青春のアンニュイの海岸である。

「一年開帳のありし時は、爰に判官渡り住みて日を重ねられし」彼の生涯にそんな平穏な日々はなかったことは馬鹿でも判る。

「辛螺(にし)」外套腔から出す粘液が辛い味を持っている食用の腹足(巻貝)類の総称であるが、辛くない巻貝にも有意に当てられている。テングニシ(軟体動物門腹足綱前鰓亜綱新腹足目アクキガイ超科テングニシ科テングニシ属テングニシ Hemifusus ternatanus:肉もワタも美味い)・アカニシ(アクキガイ超科アクガイ上科アクキガイ科チリメンボラ亜科チリメンボラ属アカニシ Rapana venosa:刺身が美味い。「薙刀鬼灯」はこの種の卵囊である)などがあるが、ナガニシ(アクキガイ超科イトマキボラ科ナガニシ亜科ナガニシ属ナガニシ Fusinus perplexus:身が美味いが、身を出すのに殻割しかないのが面倒)・イボニシ(アクキガイ科レイシガイ亜科レイシガイ属イボニシ Thais clavigera:塩ゆでの辛みがなんとも言えず美味い)はとくに辛い。

「黑鯛」スズキ目タイ科ヘダイ亜科クロダイ属クロダイ Acanthopagrus schlegelii

「文鵝」不詳。麦水の友人でこの名となれば、俳句仲間であろう。

(ぶんが)なる男興じて咄す。

「里諺に此堂の緣にうつむきになり、股の間より海畔を望めば、必ず異國の人家か蠻界の人家を見ると云ふ」股覗きはせずとも、富山湾名物蜃気楼であろう。それともファタ・モルガーナか?(イタリア語:Fata Morgana:モーガン・ル・フェイ(Morgan le Fay)のイタリア語の呼び名。「アーサー王物語」に登場する女でアーサー王の異父姉にして魔女とされる。イタリアでは彼女がメッシナ海峡に蜃気楼を作り出し、船乗りを惑わして船を座礁させてしまうという伝説が残されており、一説に死に至る真の悲しみに沈んだ者にのみ見えるともされる) 無論、ここでの「股覗き」とは異界を覗くための非日常的行動としての呪的な意味を持っているものではあるが、ただ「股覗き」というのはここの場合、視線が海水面に非常に近づくため、或いは温度・湿度・屈折率が通常の目の高さとは異なることから(その時の太陽の位置も関係してくる)、蜃気楼或いは浮島現象等が見えやすくなるのかも知れないなどと私は夢想した。

「人家或時はふしぎにも見え」というのはまさに蜃気楼である。私も六年間伏木いた内で、数度、見たことがある。一度は巨大なタンカーが沖を航行しているかと思ったのだがが、よく見ると、それは自分の立っている背後の海端の石油タンク群なのであった。

「麓の岩間に荼店を設けて、岩間を直に生洲となして鯛・蛸の類を放し置き、酒を賣りし」江の島の稚児が淵から爼岩や「お岩屋」にかけての岩礁帯で、近代まで、ほぼ同じようなことが行われていた。酒客の出す金銭に応じて、海に入り、鮑などの魚介を採って供するのである。実際には予め海中に網で生け簀を沈めてあったものかとも思われる。私の「『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 江島」の文章(記者が酒に酔って岩場で転倒して怪我をするシーンがある)や挿絵、同じく『山本松谷「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」挿絵 江の島お岩屋(龍窟)の図』を見られたい。また、芥川龍之介の「大導寺信輔の半生――或精神的風景畫――」(リンク先は私の古い電子テクスト)の「六 友だち」を読まれたい。江の島の「潜り」の少年や海女に主人公(芥川龍之介自身)の友人である男爵の長男が硬貨を海に投げ入れて獲らせるという差別的なシークエンスが描かれている。彼らは実はまさにそうしたことを生業としていた者たちなのである。ロケーションは江ノ島、時は旧制高校時代の四月であるから、明治四四(一九一一)年四月及び翌年の四月或いは大正二(一九一三)年四月となる。

「山上より來る一人あり」酔っているから、向きも判らず、海を見ずに島の方を見てしまっているのである。滑稽の極みで、面白い。

「唐裝束(からしやうぞく)を着し」彩色豊かな、妙ちきりんな服だったのをかく見違えたのである。

「唐子髷」中世から近世へかけての、元服前の子供の髪の結い方の一つ。唐子(中国風の服装や髪形をした子供)のように、髻 (もとどり) から上を二つに分け、頭の上で二つの輪に作ったもの。近世には女性の髪形となった。

「ハンメリハンメリ」不詳。個人ブログ「秋残り」のこちらに、『ハンメルという、音をめる、という。半音を上げ下げるハンメリという。メリヤッセという』とある。大阪弁らしいが、このブログ記事全体が、失礼乍ら、何を書いておられるのか、よく判らぬ。観賞用多肉植物に単子葉植物綱キジカクシ目ススキノキ科ハオルシア属Haworthia の中に、Haworthia mirabilis 'hammeri'(アオルシア・ミラビリス・ハンメリ)という名の種がいるようだ。現代の日本人には愛好家が多いらしく、オークションや栽培記載に、この名が掛かってはくる。英文サイトのこちらに同種の記載と写真が載る。それによれば、南アフリカの喜望峰の東のスウェレンダム(Swellendam)というところが原産地らしい。ドイツ語に「hummel」という語がある(発音は「ヒュンメル」だが、文字列だけを見ていると「ハンメリ」と読みそうになる)がこれは「マルハナバチ」(膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目ツバチ上科ミツバチ科ミツバチ亜科又はマルハナバチ亜科マルハナバチ族マルハナバチ属 Bombus)を表わすという。どれもピンとこない。小学館「日本国語大辞典」にも載らない。判らぬ。オランダ語か、ポルトガル語か。識者の御教授を乞う。或いは酩酊した人物が、股覗きで頭に血が上って聴いているのだから、当てにならぬので、聴き違いをそのままに妖しい外国語のように記しただけのことかも知れぬ。

「ハシリカンフラ」「近世奇談全集」は『バシリカンフラ』とする。やはり孰れでも不詳。小学館「日本国語大辞典」にも似たものさえも載らぬ。しかし、酩酊している文鵝はこの言葉を聴いて相手が異界の異人ではなく、当たり前の薬売りであったことを認知している以上、これには意味がなくてはおかしい。当時の失われた富山弁なのであろうか? 同じく識者の御教授を乞う。

「藥賣」所持する三谷一馬氏の「江戸商売図絵」(一九九五年中公文庫刊)の「薬」のパートの絵図を見るに、しっくりくるような姿の者はいない。その冒頭にはまさに越中富山の「反魂香売り」が載るが、それは大きな縦長の箱を天秤棒で前後に担いで行商する形である。旗を持っているのは同書では一人だけで、それは「石見銀山鼠取受合」の文字を青地に白く染め出した旗であったとあり、幟(のぼり)は縦五尺で、『大体貧乏そうな服装が多い』とあるし、そもそもがちっぽけな唐島に石見銀山を売りに来るのもヘンだから違う。お手上げ。相応しい薬売りの姿を見つけられた方がおられたら、是非、御一報を!

 本篇は「三州奇談」の中では疑似奇談で可笑しく面白いエンディングという点でも特異点と言える。なお、「学校の怪談」や口裂け女の追跡でブレイクした民俗学者常光徹氏の「異界をのぞく呪的なしぐさ」PDF)に珍しくこの「三州奇談續編」の本篇の一部が活字化されているのであるが、惜しいことに『著者の麦水自身も関心があったようでご開帳で島に渡った際に見ている。そのとき見えた唐装束の異人は実は旗を持って歩いてきた薬売りだったとオチがついている』と読みを間違えている。これが素人なら何も言わない。都市伝説(アーバン・レジェンド)研究の騎手たる常光氏だからこそゆゆしき問題なのである。私がこの章の電子化をしない限り、私がここで常光氏の誤読を指摘しない限り――「三州奇談」(そもそも厳密には「三州奇談続編」でなくてはいけない)に麦水がそれを経験したと載っているという誤認が、これからずっと一人歩きして行ったであろうからである。そうした致命的な誤りが真実扱いされるというのが噂話=都市伝説の病理だからである。常光氏は自らそうした噂話形成の病的なミスを犯してしまっている――からなのである。

先生のおぞましい索敵が始まる

Kの告白のあった日の晩飯の席と、それに続くその夜のシークエンス――

 奥さんは私に
「何うかしたのか」
と聞きました。私は
「少し心持が惡い」
と答へました。實際私は心持が惡かつたのです。
 すると今度は御孃さんがKに同じ問を掛けました。Kは私のやうに「心持が惡い」とは答へません。
「たゞ口が利きたくないからだ」
と云ひました。御孃さんは
「何故口が利きたくないのか」
と追窮しました。
 私は其時ふと重たい瞼を上げてKの顏を見ました。私には『Kが何と答へるだらうか』といふ好奇心があつたのです。
 Kの唇は例のやうに少し顫へてゐました。それが知らない人から見ると、丸で返事に迷つてゐるとしか思はれないのです。
 御孃さんは笑ひながら
「又何か六づかしい事を考へてゐるのだらう」
と云ひました。
 Kの顏は心持薄赤くなりました。

 其晩私は何時もより早く床へ入りました。
 私が食事の時氣分が惡いと云つたのを氣にして、奥さんは十時頃蕎麥湯を持つて來て吳れました。然し私の室はもう眞暗でした。奥さんは
「おやおや」
と云つて、仕切りの襖を細目に開けました。洋燈(ランプ)の光がKの机から斜にぼんやりと私の室に差し込みました。Kはまだ起きてゐたものと見えます。
 奥さんは枕元に坐つて、
「大方風邪を引いたのだらうから身體を暖ためるが可(い)い」
と云つて、湯呑を顏の傍へ突き付けるのです。私は已を得ず、どろ/\した蕎麥湯を奥さんの見てゐる前で飮んだのです。

 私は遲くなる迄暗いなかで考へてゐました。無論一つ問題をぐる/\廻轉させる丈で、外に何の效力もなかつたのです。
 私は突然
『Kが今隣りの室で何をしてゐるだらう』
と思ひ出しました。私は半ば無意識に
「おい」と聲を掛けました。
すると向ふでも
「おい」
と返事をしました。Kもまだ起きてゐたのです。私は
「まだ寢ないのか」
と襖ごしに聞きました。
「もう寐る」
といふ簡單な挨拶がありました。
「何をしてゐるのだ」
と私は重ねて問ひました。
 今度はKの答がありません。
 其代り五六分經つたと思ふ頃に、押入を「がらり」と開けて、床を延べる音が手に取るやうに聞こえました。
 私は
「もう何時か」
と又尋ねました。Kは
「一時二十分(ふん)だ」
と答へました。
 やがて洋燈をふつと吹き消す音がして、家中(うちぢゆう)が眞暗なうちに、しんと靜まりました。

 然し私の眼は其暗いなかで愈冴えて來るばかりです。私はまた半ば無意識な狀態で、
「おい」
とKに聲を掛けました。Kも以前と同じやうな調子で、
「おい」
と答へました。私は
「今朝彼から聞いた事に就いて、もつと詳しい話をしたいが、彼の都合は何うだ」
と、とう/\此方(こつち)から切り出しました。私は無論襖越にそんな談話を交換する氣はなかつたのですが、Kの返答だけは卽坐に得られる事と考へたのです。所がKは先刻(さつき)から二度「おい」と呼ばれて、二度「おい」と答へたやうな素直な調子で、今度は應じません。
「左右だなあ」
と低い聲で澁つてゐます。私は又『はつ』
と思はせられました。

『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月24日(金曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第九十二回からであるが、太字下線は私が附し、また、鍵括弧や改行を用いて場面を想起し易く加工した。以下も同じ仕儀を施した

   *

 Kの生返事は翌日になつても、其翌日になつても、彼の態度によく現はれてゐました。彼は自分から進んで例の問題に觸れようとする氣色を決して見せませんでした。
 尤も機會もなかつたのです。奥さんと御孃さんが揃つて一日宅を空けでもしなければ、二人はゆつくり落付いて、左右いふ事を話し合ふ譯にも行かないのですから。私はそれを能く心得てゐました。心得てゐながら、變にいら/\し出すのです。
 其結果始めは向ふから來るのを待つ積で、暗に用意をしてゐた私が、折があつたら此方で口を切らうと決心するやうになつたのです。

 同時に私は默つて家のものゝ樣子を觀察して見ました。
 然し奥さんの態度にも御孃さんの素振にも、別に平生と變つた點はありませんでした。

 Kの自白以前と自白以後とで、彼等の擧動に是といふ差違が生じないならば、彼の自白は單に私丈に限られた自白で、肝心の本人にも、又其監督者たる奥さんにも、まだ通じてゐないのは慥(たしか)でした。
 さう考へた時私は少し安心しました。
 それで
『無理に機會を拵えて、わざとらしく話を持ち出すよりは、自然の與へて吳れるものを取り逃さないやうにする方が好からう』
と思つて、例の問題にはしばらく手を着けずにそつとして置く事にしました。

 斯う云つて仕舞へば大變簡單に聞こえますが、さうした心の經過には、潮の滿干(みちひ)と同じやうに、色々の高低(たかひく)があつたのです。
 私はKの動かない樣子を見て、それにさまざまの意味を付け加へました。
 奥さんと御孃さんの言語動作を觀察して、
『二人の心が果して其處に現はれてゐる通なのだらうか』
と疑つても見ました。
 さうして
『人間の胸の中に裝置された複雜な器械が、時計の針のやうに、明瞭に僞りなく、盤上の數字を指し得るものだらうか』
と考へました。要するに私は同じ事を斯うも取り、彼(あ)あも取りした揚句、漸く此處に落ち付いたものと思つて下さい。更に六づかしく云へば、「落ち付く」などゝいふ言葉は此際決して使はれた義理でなかつたのかも知れません。

 其内學校がまた始まりました。
 私達は時間の同じ日には連れ立つて宅を出ます。都合が可ければ歸る時にも矢張り一所に歸りました。
 外部から見たKと私は、何にも前と違つた所がないやうに親しくなつたのです。
 けれども腹の中では、各自(てんでん)に各自の事を勝手に考へてゐたに違ひありません。
 ある日私は突然往來でKに肉薄しました。
 私が第一に聞いたのは、此間の自白が私丈に限られてゐるか、又は奥さんや御孃さんにも通じてゐるかの點にあつたのです。
『私の是から取るべき態度は、此問に對する彼の答次第で極めなければならない』
と、私は思つたのです。
 すると彼は
「外の人にはまだ誰にも打ち明けてゐない」
と明言しました。
 私は事情が自分の推察通りだつたので、内心嬉しがりました。
 私はKの私より橫着なのを能く知つてゐました。彼の度胸にも敵(かな)はないといふ自覺があつたのです。
 けれども一方では又妙に彼を信じてゐました
 學資の事で養家(やうか)を三年も欺むいてゐた彼ですけれども、彼の信用は私に對して少しも損はれてゐなかつたのです。私はそれがために却て彼を信じ出した位です。
 だからいくら疑ひ深い私でも、明白な彼の答を腹の中で否定する氣は起りやうがなかつたのです。

 私は又彼に向つて、
「彼の戀を何う取り扱かふ積か」
と尋ねました。
「それが單なる自白に過ぎないのか、又は其自白についで、實際的の效果をも收める氣なのか」
と問ふたのです。
 然るに彼は其處になると、何にも答へません。
 默つて下を向いて步き出します。
 私は彼に
「隱し立をして吳れるな、凡て思つた通りを話して吳れ」
と賴みました。
 彼は
「何もお前に隱す必要はない」[やぶちゃん注:「お前」は原文では「私」。]
と判然(はつきり)斷言しました。
 然し私の知らうとする點には、一言の返事も與へないのです。
 私も往來だからわざ/\立ち留まつて底迄突ま留める譯に行きません。ついそれなりに爲(し)てしまひました。

『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月25日(土曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第九十三回全)

   *

緻密な観察に見えるそれが強迫神経症漱石の投影で関係妄想的に手もなく不安増殖してゆくさまが見て取れる。

この冷酷無惨な索敵行動の言い訳(言い訳にならない言い訳)の中で最も私が「酷(むご)い」と感ずるのは、

『彼の信用は私に對して少しも損はれてゐなかつたのです。私はそれがために却て彼を信じ出した位です。だからいくら疑ひ深い私でも、明白な彼の答を腹の中で否定する氣は起りやうがなかつたのです。』

という先生の述懐である。

自分に全幅の信頼を置いている相手を――それを当方は完全なる敵として認知している以上――抹殺することは――頗る容易である――

   *

なお、本作の中で時間が細かく分まで示されるのはここだけである。私は漱石の病跡学的観点から見て、Kが自殺した時刻を漱石はこの――午前一時二十分であったと睨んでいる――

2020/07/24

人を莫迦にするな

私の母はALSで亡くなったのだ!!!

「聖子テレジアは天国に召されました 直史ルカ記」

 

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 丈艸 一

[やぶちゃん注:内藤丈草(寛文二(一六六二)年~元禄一七(一七〇四)年)は通称、林右衛門。名は本常。別号に仏幻庵・懶窩(らんか)・無懐・無辺・一風・太忘軒(たいぼうけん)など。元尾張犬山藩士の嫡子として生まれたが、早々に実母を失い、弟は皆、異腹であり、この体験や親族間のごたごたが彼の生活史や人格形成に大きな影響を与えたと考えられる。十四の時出仕し、青年時には漢詩を学び、黄檗宗の玉堂和尚について参禅したりしたが、貞享五(一六八八)年八月、二十七の若さで病気を理由に致仕し、遁世した(貞享五年は九月三十日に元禄に改元された)。中村史邦を頼って上洛し、彼の紹介で元禄二(一六八九)年の冬、落柿舎にて芭蕉に入門した。二年後に出た「猿蓑」では早くも跋文を任され、発句十二句が入集している。元禄六(一六九三)年には近江に移って無名庵に住し、翌年、芭蕉終焉の枕頭にも侍し、師逝去後は三年の喪に服すことを決意、木曽塚無名庵(むみょうあん)に籠り、「寝ころび草」を記し、次いで元禄九年からは義仲寺近くの龍ヶ岡に仏幻庵(現在の膳所駅南西直近にある龍ヶ岡俳人墓地跡」が跡地。グーグル・マップ・データ)を結んで、清閑と孤独を愛した。元禄一三(一七〇〇)年には一時、郷里に帰省したが、帰庵後は病がちとなり、閉関の誓いを立て、師追福の「法華経」千部の読誦・一字一石の経塚建立を発願、これを果たし、翌元禄十七年春二月二十四日に没した(元禄十七年は三月十三日に宝永に改元された)。享年四十三。前半生の部分については、伊藤洋氏の「芭蕉DB」の「内藤丈草」に、『尾張犬山藩士内藤源左衛門の長子として生まれる。幼くして母に死別し、継母にはたくさんの子供が産まれ、丈草に注がれるべき両親の愛情は薄かった。このトラウマは、丈草の生涯つきまとうこととなる』。『そもそも、内藤源左衛門は、元来は越前福井の貧乏武士だったのだが、源左衛門の妹、丈草の叔母が』、『犬山藩江戸屋敷に奉公中に藩主成瀬正虎のお手がついて一子をもうけ、この縁で、特に功も無いまま』に『犬山藩に取り立てられたものであ』った。『このタナボタ的幸運は長続きせず、藩主の代替わりと叔母・松壽院の死によって瓦解』してしまう。『丈草の従兄弟に当たる松壽院の一子直龍は尾張徳川家に養子に出されたが』、『狂疾を口実に蟄居させられ』、『失脚するに及んで内藤家も没落』、悪いことに『丈草は、この直龍に仕えていたので、この悲劇をまともに受けることになった。こういう度重なる不運に人生のはかなさを知った丈草は』、結局、『武士を捨てて遁世、近江松本に棲』むこととなったと記されている。さても。私は丈草の句が好きでたまらない人間である。]

 

      丈  艸

 

       

 芥川龍之介氏が蕉門の作家の中で最も推重していたのは内藤丈艸であった。大正の末頃に『俳壇文芸』という雑誌が出た時、第一号の第一頁に芥川氏の短い文章が載っており、その中に「丈艸の事」という一条があったと記憶する。全集についてその文を引用すれば左の如きものである。

[やぶちゃん注:以下、短い宵曲の付記を挟んで、引用は底本では全体が二字下げである。孰れも前後を一行空けた。以下は、芥川龍之介の「澄江堂雜記」(大正一四(一九二五)年一月発行の雑誌『俳壇文藝』所収)に掲載されたもので、後に『梅・馬・鶯』に「澄江堂雜記」集成版で「二十五 丈艸」と番号を付して所収された。初出では『續「とても」』とのカップリングである。当該初出の「澄江堂雜記」(正字正仮名)は私のサイトの古い電子化を見られたい。]

 

蕉門に竜象(りゅうぞう)の多いことは言うを待たない。しかし誰が最も的々(てきてき)と芭蕉の衣鉢を伝えたかと言えば恐らくは内藤丈艸であろう。少くとも発句は蕉門中、誰もこの俳諧の新発意(しんぼち)ほど芭蕉の寂びを捉えたものはない。近頃野田別天楼氏の編した『丈艸集』を一読し、殊にこの感を深うした。

[やぶちゃん注:「竜象」徳の高い僧を竜と象に譬えた語で、一般に僧を敬っていう語である。

「新発意」発心 (ほっしん) して僧になったばかりの人。

「野田別天楼」(明治二(一八六九)年~昭和一九(一九四四)年)は俳人。備前国邑久(おく)郡磯上(いそかみ)村(現在の岡山県瀬戸内市長船町磯)生まれ。本名は要吉。明治三〇(一八九七)年から正岡子規の指導を受け、『ホトトギス』などに投句、教職にあって報徳商業学校(現在の報徳学園中学校・高等学校)校長を務めた。「京阪満月会」では幹事を務め、松瀬青々の『倦鳥』(けんちょう)同人となって関西俳壇で活躍した。昭和九(一九三四)年には『足日木』(あしびき)を、翌年には『雁来紅』(がんらいこう)を創刊・主宰した。俳諧史の研究では潁原退蔵と親交があった。

「丈艸集」野田別天楼編で大正一二(一九二三)年雁来紅社刊。]

 

 しかして丈艸の句十余を挙げ、

 

これらの句は啻(ただ)に寂びを得たと言うばかりではない。一句一句変化に富んでいることは作家たる力量を示すものである。几董(きとう)輩の丈艸を嗤(わら)っているのは僣越もまた甚しいと思う。

[やぶちゃん注:「几董」蕪村の高弟高井几董(たかいきとう 寛保元(一七四一)年~寛政元(一七八九)年)。複数回既出既注であるが、ここは必要があると判断するので再掲しておく。京の俳諧師高井几圭の次男として生まれた。父に師事して俳諧を学んだが、特に宝井其角に深く私淑していた。明和七(一七七〇)年三十歳で与謝蕪村に入門、当初より頭角を現し、蕪村を補佐して一門を束ねるまでに至った。安永七(一七七九)年には蕪村と同行して大坂・摂津・播磨・瀬戸内方面に吟行の旅に出た。温厚な性格で、蕪村の門人全てと分け隔て無く親交を持った。門人以外では松岡青蘿・大島蓼太・久村暁台といった名俳と親交を持った。天明三(一七八四)年に蕪村が没すると、直ちに「蕪村句集」を編むなど、俳句の中興に尽力した。京都を活動の中心に据えていたが、天明五(一七八五)年、蕪村が師であった早野巴人の「一夜松」に倣い、「続一夜松」を比野聖廟に奉納しようとしたが叶わなかった経緯から、その遺志を継いで関東に赴いた。この際に出家し、僧号を詐善居士と名乗った。天明六(一七八六)年に巴人・蕪村に次いで第三世夜半亭を継ぎ、この年に「続一夜松」を刊行している(以上は概ねウィキの「高井几董」に拠った)。]

 

と結んでいる。几董輩云々とあるのは『続晋明集(ぞくしんめいしゅう)』中の記載を指すのであろう。この事は「続晋明集読後」なる文章に記されている。これは「丈艸の事」ほど短くないから、全文を引くには便宜でないが、問題は几董が丈艸を評した「僧丈草ナル者ハ蕉門十哲之一人也。而シテ句々不ㇾ見秀逸。蓋テハ斯序文ㇾ謂ㇾ出ヅトㇾ群矣。不ㇾ及支考許六者也」[やぶちゃん注:「僧の丈艸なる者は蕉門十哲の一人なり。而して、句々、秀逸を見ず。蓋(けだ)し斯(この)序文に於ては群を出づと謂ふべし。支考・許六に及ばざる者なり」。]という数語に存するのである。芥川氏はこの文章についてこういっている。

[やぶちゃん注:同前で同前の仕儀を施した。原文全文は電子化されたものがネットにないので、この電子化のために、急遽、ブログで作成した。こちらである。芥川龍之介の『「續晉明集」讀後』は大正一三(一九二四)年七月二十二日附『東京日日新聞』の「ブックレヴィユー」欄に、「几董と丈艸と――『「續晉明集」讀後』を讀みて」と題して掲載されたもので(龍之介満三十二歳)、後の作品集『梅・馬・鶯』に表記の代で所収されたものである。本文に出る通り、同年七月十日に古今書院より刊行された「續晉明集」の書評である。しかし、一読、判るが、最後の段落の推薦はこれまた頗る形式上のもので、寧ろ、私には強烈なアイロニーに富んだ「侏儒の言葉」と同じものを感じ、思わず、ニンマリしてしまうのである。是非、全文を読まれたい。先の「丈艸の事」の半年前のものである。]

 

僕はこの文章に逢著した時、発見の感をなしたといった。なしたのは必ずしも偶然ではない。几董は其角を崇拝した余り、晋明と号した俳人である。几董の面目はそれだけでも彷彿するのに苦まない[やぶちゃん注:「くるしまない」。]であろう。が、丈艸を軽蔑していたことは一層その面目を明らかにするものといわなげればならぬ。

 

 この文章は表面的には必ずしも蔑意を以て書かれていない。しかも芥川氏が丈艸を推重する態度の朋(あきらか)である以上、敬意を以て書かれたものでないことは勿論である。芥川氏は次いで許六の言を引き、

[やぶちゃん注:以下二箇所、同前の仕儀を行った。]

 

 尤も許六も丈艸を軽蔑していたわけではない。「丈艸が器よし。花実ともに大方相応せり」とは「同門評」の言である。しかし支考を「器もつともよし」といい、其角を「器きはめてよし」といったのを思うと、甚だ重んじなかったといわなげればならぬ。けれども丈艸の句を検すれば[やぶちゃん注:「けみすれば」。]、その如何にも澄徹[やぶちゃん注:「ちょうてつ」。澄んで透き通っていること。]した句境ば其角の大才と比べて見ても、おのずから別乾坤を打開している。

 

といい、丈卿の句十余を挙げて、

 

手当り次第に抜いて見ても丈艸の句はこういう風に波瀾老成の妙を得ている。たとえば「木枕の垢や伊吹にのこる雪」を見よ。この残雪の美しさは誰か丈艸の外に捉え得たであろう? けれども几董は悠々と「句々秀逸を見ず」と称している。更にまた「支考許六に及ばざる者なり」と称している。

 

 芥川氏はここでもまた表面的に几董の言を否定していない。但丈艸の句を揚げることによって、逆に几董の言に多大の疑問を投げかけているのである。

 尤もこの問題の中心になっている几董の意見なるものは、丈艸評というほど改ったものではない。『流川集』に序した丈艸の一文に書添えた程度のもので、固より著書として公にしたわけでもない。「句々秀逸を見ず」という総評も、「蓋この序文においては群を出づといふべし」という限定的批評も、「支考許六に及ばざる者なり」という比較論も、その間に一貫したものがないように思われる。支考、許六に及ばぬというのも、句の上において然るのか、文章の上において然るのか、支考、許六共に文章の雄であるだけに、多少の疑なきを得ぬ。もし句の上においてもまた丈艸を以て二子の下に置くというならば、悠々たる几董の批評は達に解せざる者の悠々である。几董がよく衣鉢を伝えたはずの蕪村は、支麦(しばく)と称して支考、乙由(おつゆう)を軽んじた。几董と共に蕪村の高弟であった召波は、極端にこの説を奉じ、蕪村が「麦林支考其調(そのしらべ)賤しといへども、工みに人情世態を尽す、さればまゝ支麦の句法に倣ふも、又工案の一助ならざるにあらず、詩家に李杜を貴ぶに論なし、猶元白[やぶちゃん注:「げんぱく」。]をすてざるが如くせよ」という折衷説を持出しても、「叟(そう)我をあざむきて野狐禅(やこぜん)に引くことなかれ、画家に呉張を画魔とす、支麦は則ち俳魔ならくのみ」といって肯(がえん)ぜず、ますます支麦を罵って他を顧みなかったと伝えられている。几董が支考を丈艸の上に置くということが、句の評価の上にも及ぶならば、几董は師説に徹すること、召波の如くなり得なかったというべきであろう。

[やぶちゃん注:「流川集」(ながれがわしゅう)露川編。丈草序。元禄六(一六九三)年刊。

「乙由」中川乙由(延宝三(一六七五)年~元文四(一七三九)年)は伊勢の人。別号は麦林舎。材木商から後に御師(おんし:伊勢神宮の下級神職。参拝の案内・祈祷及び宿の手配や提供をし、併せて信仰を広める活動もした。伊勢神宮の者のみを「おんし」と読み、全国的な社寺のそれは「おし」と読む)。俳諧は、初め、支考に学び、後に岩田涼菟(りょうと)に従った。涼菟没後は〈伊勢風〉の中心となったが、その一派は平俗な作風で似通った支考の〈美濃派〉とともに、通俗に堕した句柄として「田舎蕉門」とか「支麦(しばく)の徒」と卑称された。

「元白」は「げんぱく」で中唐の名詩人元稹(げんしん)と白居易を、或いは彼らを中心とした詩風を指す。二人には唱和の作が多く、孰れも平易な口語を取り入れており、「元和体」として当時、流行した。

「呉張」明代の画家呉偉と張路。呉偉(一四五九年~一五〇八年)は明の浙派 (せっぱ) の画家。江夏 (湖北省) の人で、多く金陵 (南京) に寓居した。成化・弘治年間(一四六五年~一五〇五年に画院に入り、天子に愛重された。絵は浙派の祖戴進に学んだと伝えられるが,、北宗画の画法を学んで山水・人物画を描き、粗放な筆墨法は戴進以上に増幅され、南宗を尊んで北宗をけなす「貶北論」を生む原因となった。張路(一四六四年?~一五三八年?)は同じく浙派の画家。号の平山で知られる。河南省開封の人で、かつて太学に学んだが仕官せず、一生を在野の画家として過ごした。浙派後期に属し、呉偉を学んで山水・人物を多く描いたが、筆墨が粗放に過ぎるとして、後の文人批評家からは「狂態邪学」と貶(けな)された。即ち、呉も張も北宋画派浙派の代表者にして奔放自在な画風で知られ、積極的に南画を誹謗したことなどから、南画を正統視する立場からは異端視、魔とされたというのである。

『蕪村が「麦林支考其調賤しといへども、工みに人情世態を尽す、さればまゝ支麦の句法に倣ふも、又工案の一助ならざるにあらず、詩家に李杜を貴ぶに論なし、猶元白をすてざるが如くせよ」という折衷説を持出しても、「叟我をあざむきて野狐禅に引くことなかれ、画家に呉張を画魔とす、支麦は則ち俳魔ならくのみ」といって肯(がえん)ぜず、ますます支麦を罵って他を顧みなかった』これは「春泥句集」(黒柳召波の俳諧集。召波の没後に遺稿を子の維駒 (これこま) が纏めたもの。春泥は春泥舍で召波の別号)の蕪村の序(安永六年十二月七日(既に一七七七年)クレジット)に出るもの。昭和二(一九二七)年有朋堂書店刊「名家俳句集」で藤井紫影校訂。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで当該部分(六一八ページから六一九ページにかけて)が読める。]

 

 几董は其角を尊敬した。晋明と号し、『新雑談集(しんぞうだんしゅう)』を著し、筆蹟までこれに模したあたり、心酔したという方が当っているかも知れない。其角を崇拝するが故に丈艸を軽蔑するということは、芥川氏のいうが如く「一層その面目を明らかにするもの」であるにせよ、公平な批評でないことは勿論である。香川景樹(かがわかげき)は『新学異見』において「鎌倉のが右府(うふ)の歌は志気ある人決して見るべきものにあらず」といい、「右府の歌の如くことごとく古調を踏襲め[やぶちゃん注:「かすめ」。]古言を割裂[やぶちゃん注:「とり」。]たらんには」といって実朝の歌を貶(けな)した。この批評は真淵に反対する立場から、自己の信条に忠実なるものかも知れぬが、竟(つい)に公平を以て許し難いのと一般である。

[やぶちゃん注:「新雑談集」天明五(一七八五)年刊の几董晩年の句文集。書名自体が其角の「雑談集」へのオード。

「香川景樹」(明和五(一七六八)年~天保一四(一八四三)年)は江戸後期の歌人。因幡出身。本姓は荒井。初名は純徳。二条派の香川景柄(かげもと)の養子。小沢蘆庵の影響を強く受け、後に養家を去り、「桂園派」を起こした。「調べの説」を唱え、先の賀茂真淵(元禄一〇(一六九七)年~明和六(一七六九)年)らの復古主義歌学を否定した。

「新学異見」香川景樹の歌論書。一巻。文化八(一八一一)年成立で同十二年に刊行された。真淵の「新学」に対して「古今和歌集」を擁護し、「現代主義」を主張した。国立国会図書館デジタルコレクションで明二五(一八九二)年しきしま発行所刊の活字本で読める(本歌論は短い)。当該部はここ(左ページ後ろから五行目から)。本文に附した読みはこれに拠った。

「踏襲め」そのままに新たな創意もなく奪い取り。]

 

 几董の丈艸評なるものは、実をいうとそれほど重きを置くに足るものではない。芥川氏が問題にしたから、本文に入るに先(さきだ)って少しく低徊して見たまでの話である。その芥川氏が已に「几董輩の丈艸を嗤っているのは僣越もまた甚しい」と打止めている以上、とかくの言説は無用の沙汰であろう。強いて蛇足を加えるならば、古人に対する後人の批判なるものが、往々にして几董の丈艸評に堕するのではないか、ということがあるに過ぎぬ。

 丈艸は芭蕉の傘下における沙門の一人である。彼が犬山の武士から、一擲(いってき)して方外(ほうがい)の人となったのは、指に痛[やぶちゃん注:「いたみ」。]があって刀の柄が握れぬからだともいい、かねてその弟に家禄を譲る志があったので、病に托したのだともいう。「多年負ヒシㇾ屋一蝸牛。化シテ蛞蝓タリ自由。火宅最涎沫キルヲ。追-法雨ヲ林丘」[やぶちゃん注:「多年、屋(をく)を負ひし一蝸牛(いちくわぎう)。化(け)して蛞蝓(かつゆ)と倣(な)り、自由を得たり。火宅、最も惶(おそ)る涎沫(せんばつ)の盡きるを。法雨(はうう)を追尋(つひじん)し、林丘(りんきう)に入る」。]という偈(げ)によってもわかるように、彼はたよりなき風雲に身をせめられたのではない。仕(し)を辞すると共に正面から「仏籬祖室(ぶつりそしつ)の扉(とぼそ)」に入ったのである。

[やぶちゃん注:「方外の人」俗世の外に身を置く人。広く僧・画家・医師などを指したが、ここは武士身分を捨てて僧となったことを言う。

「蛞蝓(かつゆ)」ナメクジ。

「涎沫(せんばつ)」泡のようなよだれ。ナメクジの粘液のこと。ここは儚い生への執着のシンボル。

「仏籬祖室」仏陀の籬 (まがき) と祖師達磨の部屋。転じて仏教と禅門のこと。]

 

 両刀を棄てて緇衣(しえ)を身に纏った丈艸は、どういう機縁で芭蕉に近づくようになったか。

[やぶちゃん注:「緇衣」「緇」は「黒い」の意で、墨染めの僧衣。]

 

   ばせを翁に文通の奥に

 招けども届かぬ空や天津鴈       丈艸

という句は相見(そうけん)以前のものと思うが、はっきりした年代はわからない。去来の書いた「丈艸誄(るい)」に「其後洛の史邦にゆかり、五雨亭に仮寐し、先師にま見え初られし」とあるのを見れば、史邦の因(ちなみ)によったものらしい。芭蕉は逸早(いちはや)くその本質を洞見して、「此僧此道にすゝみ学ばゞ、人の上にたゝむ事、月を越べからず」といったけれども、丈艸は強いて句作に力(つと)めるという風でもなかった。この事は「丈艸誄」にも「性くるしみ学ぶ事を好まず、感ありて吟じ、人ありて談じ、常は此事打わすれたるが如し」とあり、許六も「同門評判」の中で「釈氏(しゃくし)の風雅たるによつて、一筋に身をなげうちたる所見えず、たとへば興に乗じて来たり、興つきて帰ると言へるがごとし」と評している。超然たる丈艸の面目は、これらの評語の裏にも自ら窺うことが出来る。

[やぶちゃん注:掲句の、

 招けども屆かぬ空や天津鴈(あまつかり)

は、季題は「天津鴈」で秋。松尾勝郎氏編著「蝸牛 俳句文庫17 内藤丈草」(一九九五年蝸牛社刊)によれば、「龍ケ岡」(馬州編・宝暦三(一七五三)年自序)からで、前書は「丈草句集」にあるものとし、『「天津鴈」は空を飛ぶ鴈。あなたに師事したいと思う願いは、届きそうもない。江戸につながる空を自在に飛ぶ鴈を、ただ羨むばかり。二十五歳の貞享三年』(一六八六年)、『無懐の俳号で書き送ったと伝わる句』とある。]

 

 丈艸は其角や嵐雪のように、元禄度の俳諧の変選に際会していない。彼は蕉門らの礎(いしずえ)が殆ど確立してから出現した作者だけに、去未が経験したほどの俳風の変化も、身に感じなかったろうと思われる。彼の句が早く一家の風を具えていたことは、『猿蓑』所載の句が已にこれを明にしている。

 幾人かしぐれかけぬく瀬田の橋     丈艸

[やぶちゃん注:上五は「いくたりか」。まるで歌川広重の傑作「名所江戸百景 大はしあたけの夕立」か、葛飾北斎のどれこれを見るような、俯瞰のスカルプティング・イン・タイムである。「瀬田夕照」が定番なのに、そこに敢えて冬の昼間の時雨を持って来てしかも、かっちりとしたフレームの中に雨のと走る行人をすこぶる動的に撮った、まことに映像的なダイナミックな名句と言える。言わずもがなであるが、彼らの実際の卓抜した酷似する浮世絵群はこれから百年も後に描かれたものなのである。]

 

   貧交

 まじはりは紙子の切を譲りけり     丈艸

[やぶちゃん注:「紙子」は「かみこ」、「切」は「きれ」。「紙子」は紙子紙 (かみこがみ) で作った衣服のこと。当初は律宗の僧が用い始め、後に一般に使用されるようになった着衣。軽く保温性に優れ、胴着や袖無しの羽織に作ることが多い。近世以降、安価なところから貧しい人々の間で用いられたことから、「みすぼらしい姿・惨めな境遇」の形容ともなったことをも無論、踏まえた選語である。前書に見る通り、杜甫の楽府「貧交行(ひんこうかう)」のネガティヴな感懐をもとに、それをアウフヘーベンして自身と友(不詳)の清貧の交わりの「直きこと」「まこと」を表わしている。

   *

 貧交行

翻手作雲覆手雨

紛紛輕薄何須數

君不見管鮑貧時交

此道今人棄如土

  貧交行

 手を翻(ひるがへ)せば雲と作(な)り

 手を 覆(くつがへ)せば雨

 紛紛たる輕薄 何ぞ數ふるを須(もち)ひん

 君見ずや 管鮑(くわんんぱう)貧時の交はりを

 此の道 今人(こんじん) 棄つること 土のごとし

   *]

 

 背門口の入江にのぼる千鳥かな     同

[やぶちゃん注:「背門口」は「せどぐち」。一九八九年岩波文庫刊の堀切実氏の編注になる「蕉門名家句選(下)」の評釈によれば、『琵琶湖の岸に接した旅宿の裏口からの眺めであろう湖上にまだ明るみの残る時分、千鳥が狭い入江へ水面に浮上したままやってくる情景に感興を発したのである。冬の湖辺の閑寂な情趣がよくあらわされている。一句、昼の景か夜の景か、また千鳥は飛翔しているのか、浮上しているのか、諸説の分かれるところであるが、「入江にのぼる」という言い方からみて、千鳥の水面に浮上する姿を中心とした情景を想い浮かべるのが自然であろうと考えられる』とされ、さらに『この句、おそらく、丈草が湖南の地へ移住する以前、京にあって、湖畔に旅したときの吟とみられる』とされる。「千鳥」チドリ目チドリ亜目チドリ科 Charadriidae。博物誌や本邦の種群については「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鴴(ちどり)」を参照されたい。冬の季題である。但し、堀切氏の評釈には私はやや疑問が残る。それは『千鳥の水面に浮上する姿を中心とした情景を想い浮かべるのが自然であろう』というところで、種によってはチドリの中には有意な深さの水面に浮いているものもおり、中には水中に潜ることの出来る種もいるかとは思うが、一般的な認識から言えば(当時も今もである)、千鳥は水辺のごく浅い水辺や潟をせっせと歩いて摂餌行動をとるものである。寧ろ、この句の新味は、そうした千鳥足の元となった彼らの平面上の水平移動の映像を手前への動きとして捉え、あたかも湖から「のぼ」って来るように見た「見立て」のパースペクティヴにこそあるように私は思う。それはまさに、同書で堀切氏が並べて引く同じ丈草の、

 水底を見て來た㒵(かほ)の小鴨(こがも)哉

が、同じような逆方向へのモーメントとして詠まれているのと相応するように思われるのである。

 

 しづかさを数珠もおもはず網代守    同

[やぶちゃん注:「網代守」は「あじろもり」。堀切氏の前掲経書では、『川瀬の音のみがひびく冬の夜――この静寂境にあれば誰でも仏心を起こし、数珠を手にすることを想い起こしそうなものなのに、あの網代守はただ一心に簀』(すのこ)『に入った水魚をすくい捕って殺生を重ねていることだ、というのである。そうした救われない網代守の行為を憐んでいるようでもあり、またその無皆無分別の悠然たる姿を羨望しているようでもある』と評され、『「を」は逆接の意の接続助詞』、『「網代」は川瀬の両岸から、たくさんの杭をV宇形に打ち込み、その先端のところに簀を設けて、魚を誘い入れて捕る漁法。その網代の番人が「網代守」で、簀の側に簡単な床と屋根をしつらえ、夜間は篝火をたいて、網で魚を掬いとる。山城(京)の宇治川や近江(滋賀)の田上の氷魚』(ひお:鮎の稚魚。二~三センチメートル程で体は殆んど半透明。秋から冬にかけて琵琶湖で獲れるものが知られる)『を捕る網代がよく知られている。ここは琵琶湖のものか。冬の季題』とあり、更に「猿蓑さがし」(稺柯坊(さいかぼう)空然著になる「猿蓑」の最古の全評釈書「猿みのさがし」(文政一一(一八二八)年刊)『には謡曲『鵜飼』で、鵜使の仕方話として出る「面白の有様や、面白の有様や、底にも見ゆる篝火(かがりび)に、驚く魚を追ひ回(まわ)し、潜(かず)き上げ掬(すく)ひ上げ、隙(ひま)なく魚を食ふ時は、罪も報ひも後の世も、忘れ果(は)てて面白や」の場面を背景にしたものと説いている』とある。この最後のそれは原拠の当否は別として、句解の裾野がぐっと広がってきて面白い。]

 

 一月は我に米かせはちたゝき      同

[やぶちゃん注:「一月」は「ひとつき」。堀切氏前掲書に、『毎晩洛中を物乞いに歩きまわっている鉢叩きよ、もう喜捨の米も大分たまったことだろうから、どうか貧しいわたくしのためにひと月分ほど融通してほしい、というのである。鉢叩きに心の中で呼びかけているのであるが、物を乞うのが鉢叩きなのに、これを逆手にとって、鉢叩きに物を乞うとしたところが、俳諧らしいユーモアである。貧なる境涯にあって、このようにおどけたしぐさをみせるところに丈草の洒脱な境地がくみとれる』とある。「はちたゝき」は「去来 二」で既出既注。]

 

 ほとゝぎす滝よりかみのわたりかな   同

[やぶちゃん注:堀切氏前掲書に、『若葉のころの山中の趣深い情景である。滝になって流れ落ちているところより、さらに上流の山深い谷川の渡し場を、冷たい水に漬って徒渉(かちわた)りしていると、突然、周囲の静寂を破って、時鳥が一声鳴き過ぎた、というのであろう。樵夫などの通うような道がおのずと渓流の渡しにさしかかったところなのであろう。下流の方が滝になって轟々と流れ落ちているのが眺められるのである』とされ、「渡り」は『渡し場の意』。但し、『一説に「あたり」と解して、滝の落ちるところからさらに上方あたりに時鳥が鳴き過ぎたとみる』ものもある、とある。別解は景色全体が不分明となり、私は好かない。]

 

 隙明や蚤の出て行耳の穴        同

[やぶちゃん注:上五は「ひまあくや」とルビする。中七は「のみのでてゆく」であろう。「蚤」は夏の季題。堀切氏は「隙明や」を「ひまあきや」と読まれ(中七は「のみのでてゆく」)、『蚤もどうやら隙をもてあましたらしく、わが耳の穴を出てゆくことだ、というのである。隙をもてあます蚤に、おのれの懶惰(らんだ)なる境涯を重ねているのであり、そこに洒脱でユーモラスな味わいがある』と評しておられるが、語注で、「隙明」は『暇明。なすことがなくなって暇になること。閑暇の時。一説に「ひまあくや」また「ひまあけや」とも読み、語意も、戸や壁の隙間(すきま)から光がさし込んで夜が明けてゆくこと、あるいは「蚤の出て行く隙明(ヒマアキ)」(『猿蓑さがし』)で通路発見のこととするなど諸説がある』とある。想像の諧謔句として孤独を莞爾としてそのまま受けとめている丈草の人柄が淋しい笑いを誘う一句である。]

 

 京筑紫去年の月とふ僧中間       同

[やぶちゃん注:「去年」は「こぞ」、「中間」は「なかま」で仲間に同じい。堀切氏の評釈。『京の僧と筑紫から帰った憎とが、月見の座に同席して、互いに別れ別れに見た去年の名月のことを尋ね合いながら月見をしているのであろう。「去年の筑紫の月はいかがでしたか」、「留守にしていた京の月はどんな風情でしたか」と語り合うのである。「僧仲間」は四、五人とも考えられるが、ここでは二人の対座とみておいた。おそらくひとりは京住の丈草自身とみてよかろう。去年の月のことを話題にして、今年の月見の様子をとらえているのが趣向である。「京」「筑紫」といった古雅な地名を出したのも、月見にふさわしい』とあり、注で『「筑紫」は筑前と筑後の古称。いまの福岡県をさすが、広義には九州一円をいう。「京」と「筑紫」は都と鄙との対照をなす』とされ、「僧中間」には、『この相手の僧については不明であるが、一説には、これを脱俗の心をもった去来のこととみる。なお、この句をそれぞれ各地に修業に出かけてきた四、五人の僧たちが集まった場面とみる解も多い』とする。私は対座で相手を去来(彼は長崎出身である)する説に賛成する。]

 

 行秋の四五日よわるすゝきかな     同

[やぶちゃん注:私の偏愛の一句である。]

 

 我事と鰌のにげし根芹かな       同

[やぶちゃん注:上五は「わがことと」、「鰌」は「どじやう」、「根芹」は「ねぜり」。]

 

 真先に見し枝ならんちる桜       同

[やぶちゃん注:上五「まつさきに」。

 なお、以上の「幾人か」以下の総ての句は「猿蓑」所収である。まさに「引っ提げてやってきたな」の観が私にはする。]

 

 これらの句は何方(どちら)から見ても危気[やぶちゃん注:「あぶなげ」。]のない、堂々たる作品である。許六のいわゆる「釈氏の風雅」たるにかかわらず、御悟(おさと)り臭い、観念的なものが見当らぬのは、けだしその道に入ることの深きがためであろう。「京筑紫」の一句は僧の姿を句中に現しているが、その僧同士も去年見た月のことを語り合っているので、格別坊主臭いところはない。「隙明や」の句、「我事と」の句などに、ほのかな滑稽趣味が漂っているのは、丈艸の句の世界を考える上において、看過すべからざるものであろうと思う。

 丈艸は『猿蓑』のために漢文の跋を草している。「維𠰏元禄四稔辛未仲夏。余掛於洛陽旅亭偶会兆来吟席。見ㇾ需シテ此事センコトヲ書尾。卒ㇾ毫不ㇾ揣ㇾ拙[やぶちゃん注:後注を必ず参照のこと。]とあるに従えば、京都で凡兆、去来に頼まれたものの如くであるが、それにはどうしても頼まれるだけのものがなければならぬ。『猿蓑』は芭蕉監督の下に成った有力な撰集であり、殊に序文の方は蕉門第一の高足たる其角が筆を執っているのだから、いい加減に跋を書かせたものとも思われない。人は『猿蓑』における彗星的作家として凡兆を挙げる。けれども凡兆は『猿蓑』を以てはじめて出現した作家ではない。『曠野(あらの)』その他二、三の集にその片鱗を示していることは、かつて記した通りである。丈艸の作品が句々老成の趣を示しているのは、その天稟(てんぴん)に出ずるものとしても差支ない。ただ超然として「常は此事打わすれたるが如」く、「興に乗じて来たり興つきて帰ると言へるがごと」き丈艸が、一面において『猿蓑』の跋を草するほど重きをなしていたということは、慥(たしか)に注目に値する。当時の丈艸は漸く三十になったばかりだったのである。

[やぶちゃん注:「維𠰏元禄四稔辛未仲夏。余掛錫於洛陽旅亭偶会兆来吟席。見ㇾ需シテ此事センコトヲ書尾。卒ㇾ毫不ㇾ揣ㇾ拙この「𠰏」であるが、これは諸本や原本(「早稲田大学図書館」公式サイト内の「古典総合データベース」の当該部)を見ても、特殊な「※」(「日」+「之」)という字体となっている(Unicodeその他でも表示不能)。しかしこれは調べた限りでは「時」の異体字であり、それであってこそ文意が通じる(底本も「とき」とルビはする。今までもそうだが、底本の漢文訓読部分は読みのルビは省略している。表示が出来ない以外にもそのルビが歴史的仮名遣になっていないのが厭だからである)。されば、この「𠰏」は誤字である。宵曲のそれか、底本編者のそれかは分からぬ(宵曲の原本が読めないので)。ともかくも以下に訓読するが、「※」はいやなので「時」で示す。

   *

維(こ)れ時に元祿四稔(ねん)辛未(かのとひつじ/しんび)仲夏。余、錫を洛陽の旅亭掛(かけ)て偶(たまたま)兆・來の吟席に會(くわい)す。此事(このこと)を記して書尾に題せんことを需(もと)めらる。卒(にはか)に毫(がう)を援(とり)て拙(せつ)を揣(はか)らず。

   *

「元祿四稔辛未」一六九一年。「稔」は「年」の言祝ぎの代字。「毫」は筆(ふで)。「揣らず」は「よく考えもせず」の意。

「高足」(こうそく)は門人や弟子の中で特に優秀な者。高弟。]

梅崎春生 長編 砂時計 電子化注一括縦書PDFサイト版 公開

こちらで分割公開した梅崎春生の長編「砂時計」の全電子化注をサイトでPDF縦書一括版として公開した。どうぞ、御ゆるりとお読みあれかし。

2020/07/23

三州奇談續編卷之八 阿尾の石劍

[やぶちゃん注:遂に最終巻に突入する。]

 

 三州奇談後編 卷 八

 

    阿尾の石劍

 氷見の西北阿尾(あを)の古城は、往昔菊池伊豆守住館(ぢゆうかん)の地にして、海岸猶今殘壘(ざんるい)巍然(ぎぜん)たり。左は灘(なだ)に折れ、右は間島(ましま)になだれて、後ろに藪波(やぶなみ)の里あり。彼(か)の「萬葉集」にも詠ずる所となり、海中阿武島(あぶがしま)・唐島(からしま)左右に見ゆ。唐島は國君光高(みつたか)公の、「大和にはあらぬ唐島」と讀ませ給ひし高詠あり。本より有磯の浦波(うらなみ)萬里(ばんり)の遠きを狹(せば)めて、佐渡が島宮崎の端よりあら波のよせ來(きた)れば、眺望詞(ことば)も及ばず。眼涯(がんがい)豈(あに)極まりあらんや。此磯は本(も)と「萬葉集」に葛かづらをよみ寄せたりし「有磯の渡り」にして、「大崎」や「有磯の渡り」と云ひし。「大崎(おほさき)」とは「阿尾渡(あをのわたり)」の轉語、今は「尾ヶ崎」といふ。渡りは此地とて、猶海中に石路(いしのみち)髣髴と見ゆ。今も猶血氣の人、勇める馬を試みに打渡すに、輙(たやす)く唐島に行き渡る。其間一里許ならん。海苔(のり)生ひ海雲(もづく)亂れて、左右の深さ千仭(せんじん)とにや。近頃も二丈に及ぶ海松(みる)を引上げたり。是「千年木(せんねんぼく)」と云ふものゝよし、根莖(ねくき)十(とお)かゝへなり。今其木を切りて姿(すがた)といふ村に殘れり。菊池の古城は海を肱折(ひぢを)りてさし出(いだ)し、切岸(きりぎし)絕壁眼(め)くるめきて見上(みあ)ぐべからず。上を少し下りて石上(せきしやう)に松あり。稀に鷹の巢をなすことありとかや。急なる所(ところ)繩を下(おろ)して量るに、十六丈餘となり。

[やぶちゃん注:「阿尾」富山県氷見市阿尾(グーグル・マップ・データ航空写真)。私の好きな場所。高校時代、ここから通う綺麗な女の子がいたのをふっと思い出した。

「古城」富山湾に面した独立丘陵の岬である城ケ崎に築かれた戦国時代の山城。ウィキの「阿尾城」によれば、『能登へ向かう街道と海上交通をおさえる要衝に位置し、戦国末期の城主として肥後菊池氏の末裔である菊池武勝・安信親子が知られる』。『菊池武勝は上杉謙信に従った後、織田信長と結び、越中入りした佐々成政配下として活躍した。信長死後は成政と対立した前田利家方につき、佐々成政に攻められるも前田勢の加勢により撃退している』。『菊池氏は前田方についた後も阿尾城への居城と知行』一『万石を安堵されたものの』、慶長元(一五九六)年に『当主が没すると』、『阿尾城もまもなく廃城となった』。『なお、菊池氏が前田方についた』天正一三(一五八五)年に『阿尾城に入った前田方の武将のひとりが傾奇者』(かぶきもの)『として知られる前田慶次郎である。城主だったとする見方もあるものの、実際に城にとどまったのは』五月から七月頃までの僅か三ヶ月ほどだ『と考えられている』。また、『氷見市教育委員会が行った発掘調査の結果』では、『明確な城郭遺構は確認されなかった。ただし、伝二の丸・伝三の丸地区で』十五世紀から十六世紀の『遺物が出土しており、ここを中心に城として機能していたと』は『考えられている』とある。より詳しくは、写真も豊富なこちらをお薦めする。

「往昔」今までも何度も(全十二箇所)も出てくる語句であるが、読みは確定し難い。音は「わうじやく(おうじゃく)」であるが、当て訓で「そのかみ」或いは「むかし」とも読めるからである。私は一貫して「そのかみ」と読むことにしている。

「菊池伊豆守」前注に出た菊池武勝(享禄三(一五三〇)年~慶長一一(一六〇六)年)。肥後菊池氏の末裔。越中国射水郡阿尾城主。ウィキの「菊池武勝」によれば(先とダブるが、ほぼそのまま引いた)、『別氏は屋代(八代)。通称は右衛門尉、入道後は右衛門入道。別名は義勝。官位は伊豆守(自称)。子は安信。また陸奥国は糠部郡・鶴ヶ崎順法寺城、田名部館城主だった菊池正義は弟』。永禄四(一五六一)年頃、『阿尾城主として上杉謙信に仕える。謙信の死後は織田信長に属し』、天正八(一五八〇)年三月十六日には、『信長より屋代十郎左衛門尉・菊池右衛門入道宛てに知行を安堵する朱印状が与えられて』おり、翌年二月、『信長は征服途中にあった越中の一職支配権を佐々成政に与え、武勝はその与力と』なっている。「本能寺の変」後、『佐々成政が』、『羽柴秀吉や同じ信長子飼いでありながら秀吉と同調姿勢を取るようになった前田利家と不仲になると、武勝は秀吉・利家側に付くことを選択』、天正十三年五月には、『前田勢を阿尾城に迎え入れた。この際、入城した前田勢の』一『人に傾奇者として知られる前田慶次がいた』。その後の同年七月には『阿尾城への居城と知行』一『万石を安堵されたものの、ほどなく武勝は山城国柴野へ退去し、嫡子安信も』慶長元(一五九六)年に『没すると、その子大学が相続したものの』、『代って新知』千五百石に代えられ、『以降、菊池氏は代々加賀藩に仕えた』、また、『阿尾城は安信が亡くなってほどなく廃城となったものと考えられる』とある。

「壘」外敵を防ぐために築造した構造物。

「巍然」山や構造物が高く聳え立っているさま。

「灘」ここは波や潮流の荒い水域の謂いではなく、沿岸水域面を指している。

「間島」島嶼名ではなく、地名。氷見市間島(グーグル・マップ・データ)。

「藪波の里」現在の氷見市薮田(グーグル・マップ・データ)の旧地名と推定される。阿尾城北の後背地で、北西に延び、南東部分は海岸に接している。

『「萬葉集」にも詠ずる所となり』巻第十八の大伴家持の一首(四一三八番)、

   墾田(こんでん)の地を檢察する事に
   緣りて、礪波郡(となみのこほり)の
   主帳(しゆつやう)多治比部北里(た
   ぢひべのきたさと)が家に宿る。時に、
   忽ちに風雨起こりて、辭去するを得ず
   して作れる歌一首

 荊波(やぶなみ)の里に宿借り春雨に

    隱(こも)り障(つつ)むと

          妹(いも)に告げつや

  二月(きさらぎ)十八日、
  守(かみ)大伴宿禰(おほ
  とものすくね)家持の作。

前書の「墾田の地」は口分田(「大化の改新」後に「班田収授法」によって人民に正式に支給された規定の田畑)以外に開墾を許可した地区のこと。国守の采配でそれを設けることが許されていた。「主帳」郡官職の四等官で書記役。一首は同行した男たちに戯れに言ったもの。後書のそれは天平勝宝二年二月十八日。但し、この「荊波(やぶなみ)」(「藪波」でもよい)の地の比定は、この阿尾の「藪波の里」(現在の薮田)以外に、富山県小矢部市浅地薮波(グーグル・マップ・データ)をも比定候補地とする。しかし、主帳の名の中の「北里」や、「忽ちに風雨起こりて、辞去するを得ず」というのは、藪田の地がよりロケーションとしては相応しいように私は思う。

「阿武島」現在の虻ガ島(あぶがしま:グーグル・マップ・データ)。阿尾からは直線で七キロ以上離れる島嶼。富山県最大の島で無人島。氷見市姿の東の沖合い一・八キロ沖合にある。海産無脊椎動物が非常に多く見られ、また、寒流と暖流の影響を受けるため、冷帯系植物と温帯系植物が共生植生し、固有種もいる。私は残念ながら機会(高校時代の生物部の採集合宿で行く機会があったが、私は演劇部と掛け持ちしており、合宿が重なったことから参加しなかった)を逸して渡ったことがない。

「唐島」複数回、既出既注。氷見市街直近の島。

「光高公」加賀藩第三代藩主前田光高(元和元(一六一六)年~正保二(一六四五)年)。第二代藩主利常の長男。母は第二代将軍徳川秀忠の娘珠姫(天徳院)。正室は第三代将軍徳川家光の養女で水戸藩主徳川頼房の娘大姫。徳川家康・浅井長政・お市の方の外曾孫であり、藩祖前田利家の嫡孫。満二十九歳で急死したが、これは、その才能や人物を恐れた幕府による毒殺説や、近臣らによる毒殺などの噂もあったとされる。

「大和にはあらぬ唐島」は徳川光圀撰の「新百人一首」の第二十四番に、「加越能少將光高」として、

 なごの海やうら山かけてながむれば

    やまとにはあらぬ波のからしま

とある。

「佐渡が島宮崎」不詳。私は佐渡が好きで三度も行き、全島を周回しているが、「宮崎」という地名・岬名は知らない。小佐渡の最南端の沢崎(グーグル・マップ・データ)の誤りではないろうか。

『「萬葉集」に葛かづらをよみ寄せたりし』不詳。一つは、巻十八の「京(みやこ)に向かはむ時に、貴人(うまひと)を見、及(また)、美人(うまひと)に相(あ)ひて飮宴(うたげ)する日の爲に、懷(おもひ)を述べて、儲(ま)けて作れる歌二首」と前書する天平感宝元(七四九)年閏五月二十八日に詠まれたものの第一首(四一二〇番)、

 見まく欲(ほ)り

    思ひしなへに

   蘰(かづら)懸け

     かぐはし君を

      相ひ見つるかも

であるが、これは上京のための、事前作成歌であって、阿尾のロケーションとは関係がないから違う。今一つは、巻十七の天平一九(七四七)年四月二十六日に大伴家持が詠んだ賦を真似た長歌(三九九一番)、

   *

  布勢の水海(みづうみ)に遊覽せる賦一首

    この海は射水郡の舊江(ふるえ)に
    あり

物部(もののふ)の 八十伴(やそともの)の緖(を)の 思ふどち 心遣(や)らむと 馬並(な)めて うちくちぶりの 白波の 荒磯(ありそ)に寄する 澁谿(しぶたに)の 崎(さき)徘徊(たもとほ)り 松田江の 長濱過ぎて 宇奈比川(うなひかは) 淸き瀨ごとに 鵜川(うかは)立ち か行きかく行き 見つれども そこも飽(あ)かにと 布勢(ふせ)の海に 舟浮(う)け据ゑて 沖邊(おきへ)漕ぎ 邊(へ)に漕ぎ見れば 渚(なぎさ)には あぢ群騷(むらさは)き 島𢌞(しまま)には 木末(こぬれ)花咲き 許多(ここばく)も 見の淸(さや)けきか 玉匣(たまくしげ) 二上山(ふたがみやま)に 延(は)ふ蔦(つた)の 行きは別れず あり通ひ いや每年(としのは)に 思ふどち かくし遊ばむ 今も見るごと

の「延ふ蔦の」である。ここは一日、原十二町潟に遊んだ折りの詠であるから、阿尾には近い。但し、「延ふ蔦の」は比喩であって実景ではない(「二上山にいやさかに這い伸びて決して切れぬ蔦葛(つたかづら)の如く、これから先もずっと別れることなく、かくもここに通い続けて、毎年、ここで遊ぼうではないか」)。しかも「蔦」であって「葛かづら」ではない。しかし、そもそもが「蔦」「葛」「蘰」は「かづら」と同訓するように総て「つるくさ」であって一緒である。私はこの長歌を指しているのではないかと思う。他に適切な一首があるとせば、是非、御教授あられたい。

「大崎」確認出来ない。なお、虻ガ島の近くの海岸に大境(おおざかい:グーグル・マップ・データ)がある。六つもの文化層を持つ縄文中期から中世にかけての複合遺跡である大境洞窟住居跡で知られる。ここも私のとても好きな場所である。

『「大崎(おほさき)」とは「阿尾渡(あをのわたり)」の轉語』信じ難い。「あおのわたり」が「おーさき」に音転訛するとは思えない。いや、こんなものは簡単に阿尾のある岬が有意に「大」きく三「崎」として突き出ているという形状からの異名としてよいではないか?

『今は「尾ヶ崎」といふ』確認出来ない。今も「阿尾」は「阿尾」である。私はこの地名が好きだ。

「唐島に行き渡る。其間一里許ならん」阿尾から直線で唐島は一・六キロメートルしかない。ということは、この起点は阿尾のもっと北の藪田か小杉ということになる。しかし、この場合は直線渡渉ではなく、海岸線を渡って行くのでなければ騎馬では実際には絶対に無理である。そこで旧海岸線(現在の氷見市街の北西部は埋め立てで有意に張り出している)を想定して浜辺を実測してみると、確かに阿尾の先端から唐島までは確かに一里ほどになるのである。

「海苔(のり)」狭義には、岩海苔(いわのり/いのり)とも呼ばれ、分類学上では紅色植物門紅藻亜門ウシケノリ綱ウシケノリ目ウシケノリ科アマノリ属 Porphyra に属するグループに属する一群の総称。板海苔に加工されるものが殆んどである。但し、この言葉は古くは今少し広義の食用海藻類にも使われていた形跡もあるので、緑色植物門緑藻亜門アオサ藻綱アオサ目アオサ科のアオサ属 Ulva やアオノリ属 Enteromorpha、また、かつてアオサ目に分類され、アオサの別名とさえされていた「海苔の佃煮」の原料にするアオサ藻綱ヒビミドロ目ヒトエグサ Monostroma nitidum 等も含めて考えてよい。前者は冬から春に生育し、概ね食用となるが、中には処理を誤って生食すると有毒な種もあるので注意が必要である。詳しい博物誌は寺島良安「和漢三才圖會 卷第九十七 水草 藻類 苔類」の「うみのも 海藻」の項及び私の注を参照されたい。有毒性のそれはその「おごのり 於期菜」の項で私が注してあるので、気になる方は、是非、読まれたい。既に死亡例があるのである。

「海雲」褐藻綱ナガマツモ目 Chordariales のモズク科 Spermatochnaceae やナガマツモ科Chordariaceae に属する海藻類の総称であるが、本邦で食用として流通している「モズク」はナガマツモ科に属するオキナワモズク Cladosiphon okamuranus とイシモズク Sphaerotrichia divaricata が九割以上を占めている。しかし、私にとっては一九八〇年代までは正しくモズク科の標準和名モズク Nemacystus decipiens が「モズク」であったように思われ、当時、今はなき大船の沖縄料理店「むんじゅる」でオキナワモズクを初めて食した際には、私は『このモズクでないモズクに少し似た太い別種の海藻を、食品名としてこのように命名したのか』と、長く思い込んでいたものである。また、これほどオキナワモズクが「モズク」として席捲するとも思っていなかった(私は沖縄を愛すること、人後に落ちないつもりである。が、モズクに関して言えば、あのオキナワモズクを「モズク」と呼称することについては、私の味覚や食感記憶が今でも強い違和感を覚えさせるのである)。イシモズクもいやに黒々して歯応えも硬過ぎる気がして、やはり「モズク」と呼称したくないのが、正直な気持ちである。但し、現在、沖縄に於いて、全国への流通量が少なくなっていた真正のモズク Nemacystus decipiens(奇異なことに「オキナワムズク」を「モズク」と呼称するようになってしまい、本来の真正モズクであるこちらはイトモズクとかキヌモズクとか呼ばれるようになってしまったのは著しく不当である!)の養殖が行われており、商品として沖縄産でありながら『おや? これはオキナワモズクではないぞ? 「モズク」だぞ!』と感じさせるものが出回るようになったのは嬉しい限りである(それがまた沖縄産であることも快哉を叫びたい)。一般にはモズク Nemacystus decipiens 等が同じ褐藻綱のホンダワラ(ヒバマタ目ホンダワラ Sargassum fulvellum)等に付着することから「藻に付く」となって語源となったされるが、実は我々の知る上記のオキナワモズク・イシモズクは他の藻に絡みつかず、岩石に着生する。なお、他にモズク科フトモズク Tinocladia crassa やニセモズク科ニセモズク Acrothrix pacifica 等が類似種としてある。なお、モズク Nemacystus decipiens の学名の属名は、ギリシャ語の「Nema」(「糸」の意)と「cystus」(「嚢」)の合成で、種小名「decipiens」は「虚偽の・欺瞞の」という意味である。言い得て妙ではある。但し、麦水がモズクをちゃんと種として認識していたかどうかは怪しい。広義の潮下帯以下に植生する海藻の異名としてこの「海雲」を使用した可能性の方が高いと考える。

「千仭」単位としての一仭は八尺或いは七尺から、二千百二十メートルから二千四百二十四メートルとなるが、ここは無論、非常に深い意である。因みに、通常の大陸棚は海岸から水深が約二百メートルのところを指すが、富山湾ではこの大陸棚の幅が狭く、少し沖合に出ただけで急激に深くなる。沖合二~三キロメートルで既に水深が八百メートルほどになり、最深部では千二百メートルにも達する。但し、海図を調べたところ、阿尾の半島周辺部分は深くても二十メートルから五十メートル前後である。

「二丈」六メートル六センチ。

「海松」現行はこれや「水松」は、緑藻植物門アオサ藻綱イワズタ目ミル科ミル属ミル Codium fragile を指すが、無論、これは小さなミル(それでも成体個体は四十センチメートルにはなる)ではあり得ず、既に想像されている通り、これは所謂、広義の「珊瑚」類のことを指している。恐らくは

通称総称でウミマツ(海松)と現在も呼ばれるところの刺胞動物門花虫綱六放サンゴ亜綱ツノサンゴ(黒珊瑚)目Antipathariaの仲間

ではないかと考えられる。当初は樹木状で有意に長いという点から、

ツノサンゴ目ウミカラマツ科ムチカラマツ Cirripathes anguina

を同定候補としようと思ったが、いっかな、「二丈」で「根莖十かゝへ」は、これ、大き過ぎて話にならない。まあ、孰れも今までもありがちだった誇張表現として許せば、ムチカラマツの群れが生えている場合は、その仮根の塊り部分は相応に大きくはなる。しかし、沢山、枝状になっているという記載がない以上、そう解釈するのにはやや無理があるようにも読める。それでもこれが最有力候補としてよいし、後に出る麦水の実見した「石劔」はまさにこれであると私は思っている。

他に

斧足(二枚貝)綱翼形亜綱カキ目イタボガキ亜目カキ上科 Ostreoidea に属するカキの仲間

には、驚くほど管状に生育して直立する個体があることは知っているが、こんなに大きなものはいない。

次に、海中に形成された牡蠣群の死骸の殻で出来た驚くべき大きさ(数十メートルでもあり得る)の山を「蠔山」(ごうざん:蠔は牡蠣(カキ)に同じい)と呼ぶが、こんな高木状には、まず、ならない。但し、その蠔山の一部が損壊してそのような感じで崩れたとなれば、こうなるかも知れぬ。が、しかし、蠔山は想像を絶するほどに非常に堅固なもので、そんなに簡単に都合よい形に外れたりは、恐らく、しない。

或いは大型のクジラやサメ類或いはイルカ類の死骸のその脊椎骨

などをも考えたが、それらの場合、海中に一度落ちて、何らかの生物が表面に繁殖でもしない限り、それらはバラバラになってしまって、樹木状にはならない。

翻って、或いは

それらの肋骨や顎骨ならあり得るかも知れぬ

が、しかし、老練の漁師ならばそれと必ず見抜けるはずであるから不審である。

まず以ってこの奇体な「千年木」に対する私の推理はここまでである。もっと相応しい比定物があるとせば、是非、御教授戴きたい。

「姿(すがた)といふ村」富山県氷見市姿(グーグル・マップ・データ)。虻ガ島が沖に位置する。

「菊池の古城」阿尾城のこと。グーグル・マップ・データ航空写真を見ると、「海を肱折(ひぢを)りてさし出(いだ)し」というのが、腑に落ちる。

「十六丈餘」約四十八メートル半。阿尾城跡の現在の最高標高は四十メートルほどである。]

 

 安永八の今年、此所に網して石劍を得たり。漁人役所に訟(うつた)ふることを憚りて、他の海へ投捨(なげす)つるに、又かゝり來(きた)ること三度なり。因(ちな)みありて菊池の古城を慕ふに似たり。依りて終(つひ)に鄕首(がうしゆ)加納(かなう)某へ持來(もちきた)る。則ち此主(このあるじ)予に示さる。是を見るに長さ一尺ばかり、鍔(つば)・鞘(さや)石間(いしのあひだ)に顯はれたり。石・貝色々に廻(めぐ)り、刀を包みて又一箇の劍(つるぎ)の如く、又亂木(らんぼく)にも類(るゐ)せり。かたヘの人いふ。

「此刀眞(まこと)に鬼を追ふに宜(よろ)しきなるべし」

と。實(げ)にも左(さ)に覺ゆる。いかなる時にか海中に入りけん。

「首かききりし勢ひ目(ま)のあたりなり」

といふ人もあり。何の緣にか今歸り來(きた)るや。元弘の頃伊勢より寳劔を捧(ささ)ぐるに事よく似て、人の用ひざるも又(また)時(とき)なり。今(いま)靜平上(せいへいじやう)に一箇の紛失物なし。何れへ向ひ誰を皷動(こどう)して奇特(きどく)を求むべき道なく、慾僧邪士(よくそうじやし)も思ひを止(や)めて、石は石となりて無用の寳(たから)を尊(たつと)むことなし。我れ爰に於て濱邊を見んと過ぐるに、灰俵(はひだはら)に感ずることありし。黑魚の大いなるを裂きて、四子魚のをどるに對してなり。是は別卷に記す。時を思うて止まず。無用の石劔何ぞそれ來るや何ぞそれ來るや。

[やぶちゃん注:最後の部分は底本では「無用の石劔何ぞそれ來るや」に踊り字「〱」で、セオリー通りならば、動詞のみを繰り返して、「無用の石劔何ぞそれ來るや來るや」となるのだが、どうもパンチがない。敢えてかくした。

「安永八の今年」一七八〇年。これはすこぶる興味深い叙述である。堀麦水は享保三(一七一八)年金沢生まれで、天明三(一七八三)年没であることが判っている。正編のみを載せる所持する堤邦彦・杉本好伸編「近世民間異聞怪談集成」(「江戸怪異綺想文芸大系」高田衛監修・第五巻)には「三州奇談」完成は宝暦・明和(一七五一年~一七七二年)頃と推定されるとするが、これは正編のそれであろう。即ち、麦水は「三州奇談」正編完成後、実に八年以上をかけて、本続編を書き継いできたことが判る。他にも実録物をガンガン書いているのだから、相当なパワーである。まあ、この年で二十九だから、やる気満々だったわけだな。でも三年後には亡くなっているのだな。老少不定。南無阿彌陀佛、南無阿彌陀佛……

「石劍を得たり。漁人役所に訟ふることを憚りて、他の海へ投捨つ」実際の刀剣類であるなら、実際には使用不能であったとしても、武家のものである可能性があるわけで、これは当然、漁師が持っていてはいけないし、藩に届けなくてはならない。そうすれば、大変な手間(保護保存)や検使の尋問や世話(宿所や食事は総て村が負担する)が面倒だからである。例えば、私のオリジナルな高校古文教材の授業案である「やぶちゃんと行く江戸のトワイライト・ゾーン」の第一話『【第一夜】「うつろ舟の異人の女」~円盤型ヴィークルの中にエイリアンの女性を発見!』の曲亭馬琴編の「兎園小説」中の琴嶺舎(滝沢興継。馬琴の子息。但し、馬琴の代筆と考えてよい)の「うつろ舟の蠻女」(リンク先は高校生向けなので新字体)を読まれれば、このめんどくさい事実が腑に落ちるはずである。

「鄕首」恐らくは複数の村を束ねる郷(ごう)の代表者のことであろう。

「加納某」これは無論、人の姓であるが、例えば、阿尾から南に接する間島の内陸に接して、現在、富山県氷見市加納(グーグル・マップ・データ)がある。

「鬼」「き」と読んでおきたい。邪鬼。

『「首かききりし勢ひ目(ま)のあたりなり」といふ人もあり』とわざわざ記しているのは、麦水にはとてもそんな風には見えなかったという示唆である。

「元弘の頃伊勢より寳劔を捧(ささ)ぐる」三種の神器(他に「八咫鏡」・「八尺瓊勾玉」)の一つで天皇の持つ武力の象徴とされる、素戔嗚が八岐大蛇を退治した際に大蛇の尾から見出だした天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ:別名倭武尊の東征での窮地を救ったエピソードから「草薙剣」とも呼ぶ)は、素戔嗚によって高天原の天照大神に献上された後、天孫降臨に際して他の神器とともに瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に託され、地上に降った。崇神天皇の御代に、草薙剣の形代(かたしろ:レプリカ)が造られ、形代は宮中に残され、本来の神剣は笠縫宮を経由して伊勢神宮に移されたとされる。景行天皇の御代、伊勢神宮の倭姫命(やまとひめのみこと)は東征する倭武尊にこの神剣を託すが、彼の死後、本剣は神宮に戻ることなく、宮簀媛(みやずひめ:倭武尊の妻)と尾張氏が尾張国で祀り続けたとされ、これが熱田神宮の起源となり、現在も同宮の御神体として秘物として祀られている。一方、形代の方の剣は「壇ノ浦の戦い」における安徳天皇入水により関門海峡に沈み、失われてしまう。結局、後鳥羽天皇は三種の神器がないままに即位している。平氏滅亡によって神鏡と勾玉は確保されたが、神剣は欠損したままとなったのである。その後、朝廷は伊勢神宮から朝廷に献上された剣を「草薙剣」と措定し、南北朝時代には北朝陣営・南朝陣営ともに神剣を含む三種の神器の所持を主張して正統性を争うこととなり、この混乱は後小松天皇に於ける「南北朝合一」(「明徳の和約」)まで続いた。なお現在、形代として措定された神剣は宮中に祭られている(以上はウィキの「天叢雲剣」他に拠った)。この最後の部分を言っているのであろう。

「又時なり」時間と人とその対象物との不可知の関係性からの巡り合わせである。

「靜平上」太平であるこの地上。

「一箇の紛失物なし」ただの一つも必要であるべき一箇のこの剣に相当する対象物が紛失しているという事実はどこにもない。

「何れへ向ひ誰を皷動して奇特を求むべき道なく」何処の誰と言って突き動かして音を立て有難い恵みをこの剣に求めるという正道を述べる教えや遺言(いげん)もなく。

「慾僧邪士も思ひを止めて」法を外れた売僧(まいす)や邪悪な道術を使う輩も誰(た)れ一人としてそれを求めんとする希求(けぐ)をやめてしまっており。

「灰俵(はひだはら)に感ずることありし。黑魚の大いなるを裂きて、四子魚のをどるに對してなり」ここ、全く意味が判らない。識者の御教授を乞う。「灰俵」は灰を詰め込んだ俵で、見掛け倒しの中身のない、或いは、価値のないものの謂いか? 「黑魚」はメジナ(棘鰭上目スズキ目スズキ亜目メジナ科メジナ属メジナ Girella punctata)か。その大きなメジナ(成魚では四十センチメートルを超える)の腹を裂いて、その胃の中にある四匹の「子魚」が出てくることか。しかし、メジナは魚食性ではないから違う。「クロウオ」の異名を現在持つものに、超巨大(最大二メートル)になる深海魚の棘鰭上目カサゴ目ギンダラ亜目ギンダラ科アブラボウズ属アブラボウズ Erilepis zonifer がおり、彼は肉食性で小魚を捕食するのでぴったりだが、残念なことに日本海側には棲息しないようだ。とすれば、悪食で知られ小魚も食い、老成すると、巨大(最大七十センチメートル)になるだけでなく、横縞がぼけて全体に黒ずんで見えるところのスズキ目タイ科ヘダイ亜科クロダイ属クロダイ Acanthopagrus schlegelii ととってよかろう。

「是は別卷に記す」「三州奇談續編」は本巻を以って終わっている。麦水の「三州奇談續編」は未完成で終わったものか。没年とさっきの「安永八の今年」が逆に不吉に作用してしまった。]

今日、先生は明確にKを靜攻略のために――絶対必殺の仇敵・魔物・祟りを齎す強力な魔人――と意識することに注意せよ!

(以下、引用は私の『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月23日(木曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第九十一回から。太字・下線・記号番号は私が附した)

   *

 「二人は各自(めい/\)の室に引き取つたぎり顏を合はせませんでした。Kの靜かな事は朝と同じでした。私も凝と考へ込んでゐました。

 私は當然自分の心をKに打ち明けるべき筈だと思ひました。然し①それにはもう時機が後れてしまつたといふ氣も起りました。何故先刻(さつき)Kの言葉を遮つて、此方(こつち)から②逆襲しなかつたのか、其處が③非常な手落(てぬか)りのやうに見えて來ました。責(せ)めてKの後に續いて、自分は自分の思ふ通りを其塲で話して仕舞つたら、まだ好かつたらうにとも考へました。③Kの自白に一段落が付いた今となつて、此方(こつち)から又同じ事を切り出すのは、何う思案しても變でした。私は此不自然に打ち勝つ方法を知らなかつたのです。私の頭は悔恨に搖られてぐら/\しました。

 ④私はKが再び仕切の襖を開けて向ふから突進してきて吳れゝば好(い)いと思ひました。私に云はせれば、先刻(さつき)は丸で不意擊(ふいうち)に會つたも同じでした。私にはKに應ずる準備も何もなかつたのです。私は午前に失つたものを、今度は取り戾さうといふ下心を持つてゐました。それで時々眼を上げて、襖を眺めました。然し➄其は何時迄經つても開きません。さうしてKは永久になのです。

   *

①Kに先陣の先駆けを奪われた先生

   +

②Kを靜争奪戦の一騎打ちに於ける絶対必殺の敵と意識する先生

   +

③Kに先陣先駆けを奪われた致命的失策を後悔する先生

   +

④無策の内――未だに自分を信頼しきっているKが手ぶらで自分のところに馬鹿正直に再び無手ぶらで進み出てきて(「突進」はKを先生が敵として形容したそれに過ぎないことに注意)、先に食らった不意打ちによって失った最重要拠点の奪還を何としてもせねばならぬという激しい焦燥に駆られる先生

   ↓

「然し」前線の逆茂木「は何時迄經つても開」かず《開いたままになるのは何時かを考えて見よ》、「さうして」仇敵「Kは永久に靜」なものである

   *

私はわざとKの室を回避するやうにして、斯んな風に自分を往來の眞中に見出したのです。

   *

★ここでK(の部屋)を中心とした円運動で先生が往来へ出るということに注意。

   *

 私には第一に彼が解しがたい男のやうに見えました。何うしてあんな事を突然私に打ち明けたのか、又何うして打ち明けなければゐられない程に、彼の戀が募つて來たのか、さうして平生(へいせい)の彼は何處に吹き飛ばされてしまつたのか凡て私には解しにくい問題でした私は彼の强い事を知つてゐました。又彼の眞面目な事を知つてゐました私は是から私の取るべき態度を決する前に、彼について聞かなければならない多くを有つてゐると信じました。同時に是からさき彼を相手にするのが變に氣味が惡かつたのです。私は夢中に町の中を步きながら、自分の室に凝と坐つてゐる彼の容貌を始終眼の前に描き出しました。しかもいくら私が步いても彼を動かす事は到底出來ないのだといふ聲が何處かで聞こえるのです。つまり私には彼が一種の魔物のやうに思へたからでせう。私は永久彼に祟られたのではなからうかといふ氣さへしました。

   *

★Kを明確な強力にして真面目な恐るべき攻略し難い敵・魔物・永久の祟りを齎すまがまがしき存在と認知してしまう先生

★当然のこととして索敵行動に出ることを自覚表明する先生(遺書を読む学生の「私」に対してである)

この白々しい自己正当化の表現に気をつけるべきである。既にして先生はKを排除すること以外には考えていない、そんな余裕はないのは以上で明らかであり、ここにはK排除計画の策定とその結果が齎す既成事実を先送りしつつ、当時の自己合理化を――遺書を読む学生の「私」に対して――行っているという事実を忘れてはいけない。

「こゝろ」の「読み」の難しさは、読者が遺書を読む学生の「私」と一体になって読み進む立場を忘れないようにしながらも、全くの「現代の一読者」として自己の人生観・恋愛観に比してそれを批判的視点から読むという、読み手側の二重構造があることにある。しかも、面倒なことには、作者漱石はそれを意識しては書いてはいないという点である。漱石にしてみれば、遺書以前の部分で読者である「あなた」は、作中の学生「私」なのだと決めつけているものと考えてよい。無論、当時は、それでよかった、と私は思う。しかし、先生とKがもくもくと歩いた房州の景色が既に今や幻しとなってしまったように(少なくとも今の房州ではあのシークエンス全体をロケすることは不可能である)、その作者の無言の要請は私は現代に於いてはほぼ無化されると思うのである。少なくとも、肝心なシークエンスでは、我々は――学生の「私」――から離れて――今の「あなた」として読まねばならない箇所が必要だ――と私は切に思うのである。

2020/07/22

芥川龍之介 「續晉明集」讀後 《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版)

[やぶちゃん注:本篇は大正一三(一九二四)年七月二十二日附『東京日日新聞』の「ブックレヴィユー」欄に、『几董と丈艸と――「續晉明集」を讀みて』と題して掲載されたもので、後の作品集『梅・馬・鶯』に表記の題で所収されたものである。本文に出る通り、同年七月十日に古今書院より刊行された「續晉明集」の書評である。しかし、一読、判るが、最後の段落の推薦はこれまた頗る形式上のもので、寧ろ、私には強烈なアイロニーに富んだ「侏儒の言葉」と同じものを感じ、思わず、ニンマリしてしまうのである。同書の解説者勝峯晉風(しんぷう)氏も校訂者遠藤蓼花(れうくわ(りょうか))氏も跋文らしきものを記した河東碧梧桐氏さえも、これには微苦笑せざを得なかったに相違あるまい。いや、それが実に、いい、のである。

 底本は岩波書店版旧全集第七巻(一九七八年刊)を用いた。発句や前書部分はブラウザでの不具合を考え、底本よりずっと上に引き上げてある。

 なお、これは現在、ブログで進行中の柴田宵曲の「俳諧随筆 蕉門の人々」の現在準備中の「丈草」の章の注のために、これ、どうしても必要となったため、急遽、電子化したものである。されば、語注等は附していない。一箇所だけ注しておくなら、「五老井主人」(ごらうせいしゆじん(ごろうせいしゅじん))は森川許六の別号である。将来的には注を追記として附したいとは思っている。]

 

  「續晉明集」讀後

 

 「續晉明集」一卷は勝峯晉風氏の解說と遠藤蓼花氏の校訂とを加へた几董句稿の第二編である。(古今書院出版)僕はこの書を讀んでゐるうちにかういふ文章を發見した。發見といふのは大袈裟かも知れない。現に勝峯氏も解說のうちにちやんとその件を引用してゐるが僕の心もちからいへば、正に發見にちがひなかつた。

 『僧丈草は蕉門十哲の一人なり。而して句々秀逸を見ず。蓋この序文においては群を出づといふべし。支考許六に及ばざるものなり。』(原文は漢文である。)

 僕はこの文章に逢著した時、發見の感をなしたといつた。なしたのは必ずしも偶然ではない。几董は其角を崇拜した餘り、晉明と號した俳人である。几董の面目はそれだけでも彷彿するのに苦まないであらう。が、丈艸を輕蔑してゐたことは一層その面目を明らかにするものといはなければならぬ。

 許六はその「自得發明の辨」にかう云ふ大氣焰を吐いてゐる――「第二年の追善、深川はせを庵に述べたり。予自畫の像を書せたる故に、その前書をして、

  鬢の霜無言の時の姿かな

とせし也。(中略)誰一人秀たる句も見えず。さてさてはかなきこころざしにてあはれなり。

  なき人の裾をつかめば納豆かな  嵐 雪

 師の追善にかやうのたわけを盡くす嵐雪が俳諧も世におこなはれて口すぎをする、世上面白からぬことなり。」(下略)

 これは大氣焰にも何にもせよ、正に許六の言の通りである。しかし五老井主人以外に、誰も先師を憶ふの句に光焰を放つたものはなかつたのであらうか? 第二年の追善かどうかはしばらく問はず、下にかかげる丈艸の句は確にその種類の尤なるものである。いや、僕の所信によれば、寧ろ許六の悼亡よりも深處の生命を捉へたものである。

   芭蕉翁の墳にまうでてわが病身をおもふ。

  陽炎や墓よりそとにすむばかり

 尤も許六も丈艸を輕蔑してゐたわけではない。

 「丈艸が器よし。花實ともに大方相應せり。」

とは「同門評」の言である。しかし支考を「器もつともよし」といひ、其角を「器きはめてよし」といつたのを思ふと、甚だ重んじなかつたといはなければならぬ。けれども丈艸の句を檢すれば、その如何にも澄徹した句境は其角の大才と比べて見ても、おのづから別乾坤を打開してゐる。

  大原や蝶の出て舞ふおぼろ月

  春雨やぬけ出たままの夜着の穴

  木枕の垢や伊吹にのこる雪(前書略)

  谷風や靑田を𢌞る庵の客

  町中の山や五月の上り雲(美濃の關にて)

  小屛風に山里すずし腹の上

  夜明まで雨吹く中や二つ星

  蜻蛉の來ては蠅とる笠の中(旅中)

  病人と撞木に寢たる夜寒かな

  鷄頭の晝をうつすやぬり枕

  屋根葺の海をふりむく時雨かな

  榾の火や曉がたの五六尺

 手當り次第に拔いて見ても丈艸の句はかういふ風に波瀾老成の妙を得てゐる。たとへば「木枕の垢や伊吹にのこる雪」を見よ。この殘雪の美しさは誰か丈艸の外に捉へ得たであらう? けれども几董は悠々と「句々秀逸を見ず」と稱してゐる。更にまた「支考許六に及ばざる者なり」と稱してゐる。

 「續晉明集」の俳諧史料上の價値は既にこの書の本文の終に河東碧梧桐氏もいひ及んでゐる。しかしそれは俳諧史家以外に或は興味を與へないかも知れない。が、几董の面目――天明の俳人の多い中にも正に蕪村の衣鉢を傳へた一人の藝術家の面目は歷々とこの書に露はれてゐる。これは僕等俳諧を愛し俳諧を作るものにとつては會心の事といはなければならぬ。卽ち「續晉明集」を同好の士にすすめる所以である。 (一三・七・一四)

 

梅崎春生 砂時計 29 / 砂時計~了

 

     29

 

 駅から夕陽養老院にいたる石ころ道を、栗山佐介は鞄と卓上ピアノを胸に抱き、びっこを引きながら歩いていた。空は明るく平和と栄光に満ち、樹立ちはあおあおと天を指して伸びていた。道ばたに簇生(そうせい)した雑草の花々に蝶や蜂が群れ、中空を時折つばめがしなやかに身をひるがえして飛翔(ひしょう)する。卓上ピアノは佐介のびっこの足並にしたがって、ぐるるんぐるるんと不機嫌な音を立てた。昨日よりもずっと音色がわるい。靴で蹴飛ばされ、堤の斜面をころがり落ちたせいで、木質部の接合がゆるみ、釘の頭さえ出ていたし、形そのものが総体的にすこし歪(ゆが)んでいた。音階も狂っているらしい。[やぶちゃん注:「簇生」「叢生」とも書く。草木などが群がり生えること。]

(堤をころがり落ちたくらいで、こんなにガタガタになるなんて)卓上ピアノを持ち換えながら佐介は思った。(だから日本品は駄目なんだ。世界の市場からボイコットを食うんだ)

 日の位置は正午をぐっと越していた。遠くで牛の鳴き声が聞え、また近くの林の中から、犬が何匹も厭な声で鳴き立てながら、街道を横切って走って行った。さっき上水路に辷り落ちそうになったことも忘れて、佐介はのんびりと口笛を吹いていた。口笛のつもりでも、唇の形が悪いので、それは音となっては出ない。やがて夕陽養老院の鉄の正門が近づいてきた。

「お腹(なか)がすいたな」口笛を中止して佐介は呟(つぶ)いた。「そうだ。今日は経営者会議だったな。木見婆さんが俺のために、御馳走の残りを取って置いてくれるといいんだがな。しかしあの婆、ふくぶくしい格好はしているが、見かけによらず全然親切げのない婆さんだからなあ。あの木見婆さん」

「木見婆さん」

 調理室の半開きの扉から、松木第五郎爺の顔がそっとあらわれて、押し殺したような声で呼びかけた。焼き終えた鰻(うなぎ)を折りに詰めつつあった木見婆は、ぎょっとそちらに振り向いた。松木爺の顔が歯の抜けた口をひらいてにやにやわらっている。「入ってもいいか」

 木見婆は折詰めの作業を継続しながら、入ってもいい、という身振りを黙ってしてみせた。松木爺はすばやく調理室に飛び込んで、用心深く扉をしめた。そして調理台に近づいた。

「ふん。ウナギか」松木爺は見下げ果てたような高慢ちきな声を出した。「折詰めと来たな。ふん、そうか。お土産か」

「ねえ、ニラ爺さんはどこにかくれている?」作業の手を休めないまま、木見婆は哀願的な声を出した。「もう見付かったの?」

「知らないね」松木爺は鰻に向って鼻翼を動かした。「まだだろう」

「ねえ、ニラ爺はどんなことをしゃべったのさ」木見婆は肥った軀(からだ)を切なげにくねらした。「そして、聞いたのはあんただけ?」

「ずいぶん御心配だね」松木爺ははぐらかした。「心配することはないよ。おれたち、黙っててやるからな」

「おれたち?」木見婆は顔色を変えた。「あんたひとりにしゃべったんじゃないんだね。あのニラの糞爺!」

「昨夜の会議が遅かっただろう。だからおれたちは寝不足で、とても疲労している」松木爺はおもむろに本題に入った。「疲労回復には糖分摂取が第一だな。おれたちはこの数ヵ月というものは、汁粉という名の食物を一度も口にしたことがない。婆さんもこしらえたことがないだろう」

「院長先生がニラ爺さんを呼んで来いとおっしゃるんだよ」木見婆は苦しそうにばたばたと足踏みをした。「もう何か院長先生の耳に届いたんじゃないかしら。だからそれを確かめるために、ニラ爺を呼んで来いとおっしゃったんじゃないかしら」

「なに。院長がニラ爺を?」松木爺はいぶかしげに木見婆を見た。「そりゃおかしいな。聞き捨てにならんぞ。何時のことだ」

「何時だったかしら」今度は木見婆が質問をはぐらかした。院長から口止めされていることをふっと思い出したのだ。「な、なにを食べたいと言うの。汁粉という名の食物をかい?」

「おい!」松木爺は猿臂(えんぴ)を伸ばして、木見婆の肩をぎゅっとつかんだ。「ニラ爺を呼べと院長が言ったのは、会議の席上でか。それともそれ以外の場所でか?」[やぶちゃん注:「猿臂」猿の腕。転じて、そのように長い腕。]

「痛いよ!」木見婆は顔をしかめ、勢いを込めて松木爺の掌を肩から振り放した。「痛いじゃないか。いきなり人の肩をつかんだりしてさ。助平!」

「助平?」松木爺は失笑した。「そんなせりふは若い娘が言うことだ。六十にもなって、うぬぼれもはなはだしいよ。それよりも院長は、ニラ爺のことを何と言ってた?」

「うぬぼれで悪かったね。イイだ」木見婆は顎(あご)を憎々しげに突き出して、両掌をパンパンと打ち合わせた。折詰め製作をすっかり完了してしまったのだ。「そんなこと、教えてやらないよ。こちらが何か訊ねると、はぐらかしてろくすっぽ教えないくせに、自分の都合となると、しつこく聞きたがる。何て身勝手な爺さんだろう」

「そ、そんなことを言っていいのか、お前」

「お前?」木見婆はその呼称で自尊心をぐっと傷つけられたらしく、顔色を変えた。「お前。お前とは何だよ。お前呼ばわりされる覚えはあたしにゃないよ。あたしゃあね、これでも自分で働き、自分の力で食ってんだよ。養老院に放り込まれ、お情けで食わして貰っているヨタヨタ爺とは違うんだ」

「なに。ヨタヨタ爺とは何だ!」松木爺はたまりかねたように拳固をかためて振り上げた。「お情けで食わせて貰ってるとは、何という言い種(ぐさ)だ。よし、お前がそういう気持なら、おれにも考えがある。おれは今直ぐにでもお前のことを、あらいざらい院長に……」

 木見婆は身構えたまま、松木爺は拳固を振り上げたまま、はたと絶句した。調理室の扉が外からコツコツと叩かれたからだ。二人は一斉に扉を見、そして黙って顔を見合わせた。そして松木爺はふり上げた拳固をへなへなとおろし、かくれ場所を求めるように忙がしく視線を動かした。ノブがぎぎっと回された。木見婆がするどく叫んだ。

「誰?」

「なんだ。鍵がかかってないのか」扉が開かれて声がはっきり飛び込んできた。「僕だよ。栗山だよ。ああ、おなかがすいた」

 栗山佐介は皮鞄と卓上ピアノを窮屈そうに抱きかかえ、びっこを引きながら調理室に入ってきた。ふと立ち止って、不審げな視線を松木爺に向けた。松木爺はすっかり困惑して、あざらしのように顔をあてどなく左右に動かした。木見婆は頰をふくらませて手早く折詰めを五つ積み重ねた。

「木見婆さん。何か食べるものないかね」佐介は荷物を米櫃(こめびつ)の上に置きながら言った。「僕はおなかが。ヘコペコだよ」

「何もないよ。お茶漬けでも食べな」木見婆はつっけんどんに答えた。腹立ちがまだ続いていたし、それに彼女はこの栗山書記をあまり高くは買っていなかった。「それは何だい。そのごろりんしゃん」

「卓上ピアノだよ」佐介は丼をとり大釜の方に歩きながら答えた。「もう会議は始まってるのかい?」

「もう終りかかってるよ。あんたの来ようが遅いんで、院長先生カンカンになってるわよ」

「だって僕、膝をネンザしたんだよ」飯をよそう手を休めて、佐介は不審げに松木爺の顔を見た。「はて、ここは在院者の立入禁止地区じゃなかったかな」

「そうなんだよ」木見婆は両手で折詰めをかかえ上げ、とげとげしく言った。「立入禁止だと言うのに、この爺さん、無理矢理に押し入って来たんだよ。図々しい」

「入ってもいいと言ったじゃないか」松木爺はふたたび勃然(ぼつぜん)といきどおって、両方の掌が自然に拳固の形になった。[やぶちゃん注:「勃然」突然に起こり立つさま。或いは、顔色を変えて怒るさま。むっとするさま。]

「入っていいという格好をしたから、俺はよんどころなく入って来たんだ。図々しいとはどちらのことか」

「まあまあ」両方の剣幕が意外にもはげしいので、佐介はびっくりしてとりなした。「まあそれはどちらでもいいよ。僕は別段とがめてやしないんだ。でも、院長に見付かるとまずいから、松木爺さんも早いとこ出て行った方がいいな」

「出ればいいんだろう、出れば」松木爺はくるりと背を向けた。「木見婆。ニラ爺の件で後悔するなよ!」

 松木爺は捨ぜりふを残し、扉をパンと開き放したまま、肩をいからせて廊下に出て行った。

「ニラ爺さんがどうかしたのかね?」佐介はきょとんとした顔で木見婆に訊ねた。ニラ爺の件とは何だろう。リヤカーのことか?」

「ニラ爺さんの姿が今朝から見えないんだよ」木見婆はとぼけてごまかした。「悪者にでもさらわれたんじゃないかしら」

「そうかも知れないね。とっ拍子もない爺さんだからね」佐介は丼飯に茶をざぶざぶとかけ、木椅子にちょこなんと腰をおろして冗談めかした口をきいた。「悪者どもにかどわかされ、押入れか何かに幽閉され、今頃は嘆き悲しんでるかも知れないな」

 しかしニラ爺は、幽閉されてはいたものの、嘆き悲しんではいなかった。悲しむかわりに怒っていた。その怒りはニラ爺の置かれた位置において、発散されることなく、刻刻と蓄積されつつあった。煙爺も同様であった。ぐしょぐしょにしめった古書類の上にあぐらをかき、両老人は耳を猟犬のようにそばだて、眼をきらきらと光らせて怒っていた。板戸ひとつ隔てた院長室では、さきほどからの論議の中心であった院長の責任割当が、やっと妥協点に到達していたのだ。二瓶のウィスキーはすっかり空になり、それらは分散されて六人の男女の腹中に入り、各人の額や頰や顎をあかく染めていた。菓子屋の眼はとろけかかっていたし、女金貸の動作はじだらくになっていたし、黒須院長にいたってはさながら赤インクをすっぽり浴びた巨大な海坊主であった。その赤い海坊主は咽喉(のど)までのぞけるほどの大口をあけて、ここちよげに哄笑(こうしょう)した。

「やっと折り合いましたな」笑いを収めて院長は会議録を開いた。「毎月二人宛か。これじゃわたしもたいへんだな。よっぽど努力しなくちゃ責任額が達せられないぞ」

「その代り二人以上殺したら」と女金貸がくねくねと身体をよじらせた。「一人当り二万円の手当がつくんじゃないの。いい身分ねえ。あたしが院長になりたいくらいだわ」

「そのかわりに二人に達しない場合には」院長は会議録にゴシゴシ書きつけながら答えた。「一人当り二万円ずつの割合で、月給から差引かれるんですからな。一人も死ななきゃ、わたしはその月は手弁当で働くということになる。大へんなサービスだ」

「だから今までみたいな行き当りばったりな方針をやめて」教授がずり落ちかかった鼻眼鏡の位置を正し、重々しく訓戒した。「組織的、かつ計画的に運営して行かねばならんよ。それが院長の幸福であり、ひいては我々の幸福となるんだ。こんな狭い国土ではだね、誰かが幸福になるためには、その分だけ誰かが不幸にならざるを得ない。他人の不幸をこいねがうことは、とりもなおさず自分の幸福をこいねがうことになるのだ。老いたる物質に不幸が皺(しわ)寄せになるのは、まあ止むを得ないことだし、当然のことでもある。しっかりやるんだな、院長」

 扉がことことと叩かれて、折詰めをかかえた木見婆がえっさえっさと入ってきた。教授は口をつぐんだ。木見婆は折詰めを卓上に、各自の前に並べ始めた。

「ニラ爺さんはまだか」院長が訊ねた。「何をしているんだね?」

「どこにいるのか見当らないのです」そして木見婆は思い余ったように院長に反問した。「一体ニラ爺さんに、どんな用事がおありになるのでしょうか?」

「ちょっと訊ねたいことがあるのだ」院長は自分のあから顔を掌でぶるんとこすった。「当院にはたいへん悪い奴がいる。それについて聞きたいのだ」

「悪い奴?」

 木見婆はぎくっと肩を慄わせて院長の顔を見た。院長の眼はとろんと好色的にうるんで、女金貸のふくよかな二の腕にそそがれていた。その腕も酔いのために桃色に染まっているのだ。そのままの姿勢で院長は大きくうなずいた。「そうだ。悪がしこい奴だ」

 木見婆の心臓はどきんと波打った。彼女はそのまま二三歩後退し、丁寧に頭を下げながらやっとのことで言った。

「もう用事はございませんか」

「もう用事はない」院長が掌を振った。「下ってもよろしい」

 何気ない院長のその言葉は、最後の宣告のように木見婆に響いた。木見婆はぶったおれそうな気分になり、扉を排して廊下に出た。よたよたと階段を降り始めた。教授が待ちかねたように口を開いた。

「在院者の回転率を高めるためにはだね、タイル張りのような物理的方法より、やはり化学的方法に重点を置くべきだと僕は思う。たとえば先ほどの黄変米の件だがね、あれを飯にたきこんで、一律に皆に食べさせるのは、あまり効果的な方法ではない」

「と申しますと?」

「たとえばだね、黄変米の中で、イスランジャ黄変米というやつは、これは人間の肝臓をおかす」教授は自分の肝臓の上を掌で押えた。「だから当院でも、肝臓の悪い人を集めて、これを食べさせるようにしたがよかろう。それからタイ国黄変米、これはもっぱら心臓や腎臓の障害をおこさせるな。だからこれは、心臓や腎臓の弱まった在院者にあてがうと効果的だ。そういう風に、黄変米と言っても、いろんな種類があるのだから、その種類に応じて医学的臨床的に使用することが大切だ。そうしないと、月二人は無理かも知れないよ。院長。当院在院者の健康診断簿はととのっているか」

「一応ととのってはいますが」院長は禿頭を押えて恐縮した。「なにしろ俵君は犬猫専門で、人間の方は専門ではありませんので」

「やはり人間専門の医者に変えるべきだねえ」食堂主が主張した。「獣医じゃ仕方がないし、それにあの俵医師はあまり当院に熱心でないようだからさ」

 木見婆は力無く肩をおとして、ふらふらと調理室に戻ってきた。二杯目の茶漬をかっこんでいる栗山佐介に眼もくれず、調理室のすみの戸棚の前に立ち、引出しから私物の大きな風呂敷をとり出して、そそくさとエプロンを外した。

「どうしたんだね」佐介はいぶかしく訊ねた。「顔色が悪いよ。病気じゃないのか」

「あたしゃもうここで働くのがイヤになったよ」木見婆は投げ出すように答えた。「もう辞(や)めちまおうかしら」

「辞めちまいなよ」佐介は冷淡に答えて、茶漬の残りをざぶざぶとかきこみ、ぎくしゃくと立ち上った。「さあ、院長室に出勤するかな」

「部屋割り変更の件ですが」院長は空瓶を卓の下に片付けながら説明した。「当院では年に一回部屋替えを行う。それもくじ引きによってです。今年はその期日は過ぎているのですが、わたしはわたしの考えがあって、わざとそれを引延ばしているのです」

「それは好都合だったな」と運送屋が言った。「じゃ先生の提案のような具合にして、部屋替えをやればいいな」

「先ず人間の医者を雇って来ることね」と女金貸。「そして早急に全員の綿密な健康診断をやることね。近頃、人間ドック入りというのが、あちこちで流行しているらしいわよ」

「そう、そう」食堂主が相槌を打った。「わたしも近いうちにそれに入ろうかと考えているんだ」

「しかし在院者にそれを感づかれてはまずいよ」教授が言った。「肝臓の悪い者は悪い者同士、心臓は心臓、胃腸は胃腸、卒中体質は卒中体質と、各グループにわけて部屋割りを行うんだ。そして、各グループによって、食事の種類をかえる。たとえば卒中体質グループなどには、酒煙草の特別支給を考慮してもいいな。肝臓グループにはイスランジャ黄変米のヤキ飯などだ。なに、政府が大がかりでまた大ざっぱにやっていることを、僕たちはこぢんまりと計画的にやってみるだけの話さ。ははは」

「誰だ。はいれ」黒須院長が大声を出した。扉がまたコツコツと鳴ったのだ。「韮山爺さんか?」

「僕です」扉のすき間から佐介がぽっこりと顔を出した。

「栗山書記です。いささか遅刻しました」

「なにがいささかだ!」院長は眉を吊り上げて、不興気にはき出した。「いささかということは、ちょっとと言うことだ。見ろ、会議は終りかけてるじゃないか」

「膝にネンザが起きたので、接骨医に行ってたのです」鞄と卓上ピアノをかかえて、佐介は恐縮した表情でびっこを引き引き入ってきた。「診断書をお見せしましょうか」

「診断書なんかいらん!」院長は怒鳴った。「もう君には、何も要求しないよ」

「まあまあ、おだやかに」と女金貸がなまめかしくとりなした。「ネンザなら仕方がないじゃないの。ねえ、書記さん。どうしたの。ころんだの?」

「ええ。犬に追っかけられて」佐介は習慣的なうそをついた。「僕は、もともところびやすく出来ているもんですから」

「そうでしょうねえ」女金貸は同情した。「書記さんはまったく頭でっかちだものねえ」

「ころびやすいのはまとめて」運送屋が本題に戻った。「二階の部屋に割当てるといいね。階段の登り降りということがあるから」

「水爆マグロなんか惜しいことをしましたな」食堂主が膝を叩いて口惜しがった。「魚河岸(うおがし)にわたしの従弟が勤めていてね、そいつに頼めばガイガーカウンターで調べる前のマグロを、都合して呉れたかも知れない。そしてそれを当院用に回せたのになあ」

「水燥マグロは、今は入荷してないのかい?」

「入荷してるかも知れないが」と食堂主。「昨年暮で政府は検査を中止してしまったんだ。だからどれが水爆マグロで、どれがふつうのマグロだか、見分けがつかないんだよ、険呑(けんのん)なことだ」

「どういう体質や病気に」教授がまたしても腕時計をのぞいた。「どういう食物が悪いか。その精密な一覧表を、来月の会議までに、院長は人間医者と相談して作成して呉れ。部屋割りとか、具体的な食事給与の方法については、どうしますか。今日ここでやりますか。それとも来月に――」

「来月だ」

「来月だ」

「来月ね」

「では、時間も来たようだし、今日の月例会議はこれで終ります」と教授が宣言した。「とにかくこういう事業を運営するには、人の和ということが大切です。われわれ経営者はもちろんのこと、院長との連絡、院長と部下、職員や書記や調理人にいたるまで、緊密に団結してことに当らねばならん。そうしないととても九十九名を相手として運営しては行けない。院長。部下の統率掌握という点には、ぬかりはないだろうな」

「そ、それは大丈夫です」院長は大げさに胸をどんと叩いた。「調理人の末々にいたるまでわたしにすっかり心服しています」

「木見婆さんが辞めたいと言っていましたよ」書記卓から佐介がうっかりと口を辷らした。「どういうわけですか、もうこんなところはイヤだって」

「なに?」院長は朱面をかり立てて佐介をにらみつけた。「いらざることに口を出すな。何も知らないくせに!」

「さあ、出かけるか」食堂主が立ち上りながら、居眠りをしている菓子屋をはげしく揺り起した。「おい、会議は終ったんだよ」

「え、なに、ああ、そうか」菓子屋は眼をぱちぱちさせながら口の端のよだれを拭いた。「僕のウナギはどれだ?」

 経営者たちはそれぞれ立ち上り、上着を着け、おのおの折詰めをぶら下げた。院長はすばやく入口の方にかけて行き、侍従のようにうやうやしく扉を押し開いた。教授を先頭に、五人の男女はぞろぞろと廊下に流れ出た。院長もそのあとにくっついて、階段を三四段降りかけたが、たちまち飛鳥のように階段をかけ登り、勢い込んで院長室にまい戻ってきた。書記卓の栗山佐介の前にいきなり立ちふさがった。

「もう君は今日限り、当院に出勤して来なくてよろしい。私物をまとめて帰って呉れたまえ」

「え。クビですか?」佐介はびっくりして院長の顔を見た。

「でも、僕がいないと、いろいろ当院の事務に支障……」

「後釜には女秘書がやってくることになっている」院長は怒りを押えて無理ににやりとわらった。「電報を打っても出て来ないし、出て来たと思うと、いらざることに口を出すし」

「昨晩は僕の方にも都合がありまして――」

 院長はその弁解を聞かず、くるりと身をひるがえして、経営者たちのあとを追って階段をどどどどとかけ降りた。経営者たちの群はおのおの折詰めをぶら下げ、すでに玄関を出て、陽光の玉砂利道を正門の方にゆるゆると進みつつあった。彼等の後ろ姿を見送るべく院長は笑いで頰を引きつらせながら、玄関の石畳のとば口に立ち止った。(今日はきゃつ等にも相当点数をかせがれたな)と院長は考えた。(ウィスキー戦術もあるいは逆効果だったかも知れないぞ)院長の頭上、バルコニーの端をかすめて、つばめが一羽すばらしい速度で飛んだ。その時院長室の書類戸棚が内側からがたごとと開かれて、煙爺とニラ爺がごそごそと這い出してきた。栗山佐介はぎょっとして書記卓の前に棒立ちになった。両老人の顔は憤怒と疲労と空腹のために、険(けわ)しい色にくまどられ、眼はにじみ出た涙や目やにのためにきらきらとかがやいていた。うしろめたい緊迫感と驚愕が佐介の身体を棒立ちのまま動けなくした。

「ど、どうして、そ、そんなところに」佐介の舌はもつれた。「這入ってたんです?」

「聞いたぞ」煙爺が腰をさすりながら低い声で言った。

「何もかも聞いたぞ?」

「お前たちの相談を」ニラ爺はかすれた声でわらった。

「すっかり聞いてやったぞ。ヒ、ヒ、ヒ」

「ぼ、ぼくは今来たばかりなんだ」弁解にならぬ弁解を佐介はした。「来たとたんにクビになってさ。何が何だかさっぱり判らないんだ」

 両老人はじりじりと書記卓に近づいてきた。長時間戸棚の中にちぢこまっていたので、二人とも足がしびれているらしく、その動作は緩慢であった。佐介は身体を固くして二人の動きをじっと見守っていた。しかし二老人はただ無意味に動いているだけで、どうしたら自分の感情を動きに移せるか、判っていないように見えた。ニラ爺の手が偶然に書記卓の卓上ピアノに触れ、さげすむような声を出した。

「なんや。これ、オルガンか?」

「ピアノだよ」佐介はおとなしく答えた。「あんたに上げるよ。そのつもりで持って来たんだ」

「またこれにも、たくらみがあるんじゃなかろうな」煙爺が佐介をきっとにらんだ。「全く油断もすきもないからな。強化米だとばかり思っていたら、黄変米だと来やがる。ニラ爺さんにそれを弾かせて、皆を神経衰弱にしようという仕組みだろう」

「そ、そんなことはないよ」

 ニラ爺は卓上ピアノから手を放したが、また直ぐに抱き上げて、何を思ったかふらふらとバルコニーの方に動き出した。開かれた窓からさわやかな空気が流れ入ってきた。煙爺は両手を上げて深呼吸をしながら、いらだたしげな足どりでそのあとにつづいた。バルコニーの上からは、あおあおと茂った院内菜園が見え、鈍(にび)色の鉄の正門が見え、かなた駅に至る一筋の石ころ道が見えた。その石ころ道を経営者たちの一行が小さく歩いていた。その右手にあたる雑木林の中から、大小数匹のよごれた犬がのそのそと這い出し、いやな声で啼き立てながら、こもごも入り乱れて石ころ道に走って来た。最初に悲鳴をあげたのは、一行の最後尾を歩いていた女金貸であった。

「犬が!」彼女は走り出そうとしたが、石ころにハイヒールの踵(かかと)をとられてよろめいた。「あっ、たすけてえ!」

 四人の男はぎょっとして振り向いた。よろめいた女金貸の折詰めを、大きな灰色の犬が濡れた鼻先を近づけてくんくんと嗅いだ。脚の短い小さな犬は金貸の背後に回り、そのふくよかな腰のあたりをくんくんと嗅ぎ回った。教授が叱咜するように言った。

「悲鳴を上げるんじゃない。そんな声を出すと、ますます犬からバカにされるんだ!」

 女金貸は大急ぎで眼の色をかえて起き上った。犬たちは二三歩後退した。眼の色を変えているのは彼女だけでなく、四人の男たちもすっかり変っていた。なかんずく恐怖で眼を青くしていた食堂主は、その肥った躰[やぶちゃん注:「からだ」。]にはずみをつけて、いきなりかけ出そうとした。教授が大声で叱りつけた。

「走るな! 走るとガブリと嚙みつかれるぞ。ふつうの歩調で歩くんだ」

「自分のことばかりを考えるな!」運送屋が必死に怒鳴った。しかしその運送屋も声がうわずって、足どりもすこし早くなっていた。「落着け。落着いて、かたまって歩け。犬になめられるな!」

「アレエ!」

 女金貸はふたたび絶叫して、鰻(うなぎ)の折詰めを手から放した。灰色犬がガブリと折詰めを嚙んで引っぱったのだ。犬たちはたちまち折詰めにたかり、押し合いへし合い、低くうなり合って牙を鳴らした。折詰めはただちにばらばらに分解され、犬たちは舌を鳴らして鰻の白焼きをむさぼり食い始めた。女金貸は小走りで一行に追い付いた。

「落着いて、ゆっくり歩け!」運送屋がふたたびうわずった声で注意した。「俺もビルマ俄線で野犬に後追いされたが、走っちゃダメだぞ。走ったとたんに飛びかかられるぞ。粛々(しゅくしゅく)と歩け!」

「狂犬じゃないかしら」女金貸が半分泣き声で言った。「狂犬だったらどうしましょう」

「不吉なことを言うな」菓子屋が慄えながら歩を早めた。

「ああ、神様!」

「ははは、犬にたかられてるな」玄関のとば口で背伸びしながら、院長がたのしげにひとりごとを言った。「二人や三人嚙みつかれた方がいいよ。だいたい経営者にはウルサ型が多過ぎるからな」

「折詰めなんかぶら下げてるもんだから」バルコニーの上で小手をかざしたまま、佐介はにこにことニラ爺をかえりみた。「犬から、うようよたかられているよ」

 ニラ爺は沈黙していた。沈黙したまま、バルコニーから半身乗り出して、真下をじっと見おろしていた。その真下には、開き切った向日葵(ひまわり)の花のような形で、黒須院長の禿頭があった。ニラ爺は手にした卓上ピアノを、ねらいをつけて、バルコニーからぐっと差し出した。そのまま手を放した。風圧を鍵盤(キイ)に受けて、卓上ピアノは微妙なメロディを奏しながら、まっすぐに大地めがけて落下し、院長の肩をわずかかすめて、めちゃめちゃな音響と共に石畳の角にぶつかった。声にならない声を立てて本能的に腰を曲げた院長の禿頭に、一本の小さな釘をともなった木質部の破片が、まるでねらいをつけたかのようにするどく飛びかかった。釘は禿頭にぐさりと突きささり、木の破片は釘にとめられてそのまま額にぶら下った。院長は頭を押えて、大声でわめいた。

「ああ、誰か、誰か来てくれ!」

 院長は玄関に逃げこみながら力をこめて釘を引き抜いた。引き抜かれた穴から、アルコール分を若干含有した鮮血がどくどくと流れ出て、院長の掌やこめかみや頰をべっとりと濡らした。院長は顔色を変えた。電球のガラスの針で脳天を突き刺し、そして死んでしまった父親のことを、パッと思い出したのだ。院長は追いつめられた鼠のような顔になり、忙しく左右を見回し、あえぐような声を出した。

「ああ、誰か来て呉れ。俵医師、いや俵じゃダメだ。木見婆さん。木見婆さん!」

 木見婆は私物や米やカンヅメを大風呂敷に包みこみ、すでに夕陽養老院の建物を離れ、小走りで裏門の方にかけていた。行きがけの駄賃に、米やカンヅメ類を欲張って押し込んだので、その風呂敷包みの重みで、木見婆の走り方はまるで泥酔者のそれであった。ニラ爺はバルコニーから院長室へかけこみ、廊下に飛び出して階段を大急ぎでかけ降りた。どこに行くというあてもなく、ニラ爺は顔中を汗と涙だらけにしながら、大声を上げて階下の廊下を走っていた。煙爺もあてもなくそれにつづいて走った。院長はふたたび玉砂利道に飛び出し、頭を両掌で押え、玉砂利を蹴散らしながら、鼠花火のようにそこらを無目的にかけ回っていた。経営者たちはてんでに折詰めを道ばたに投げ捨て、走るな、走るな、とお互いを牽制(けんせい)し合いながら、競歩の選手のように足を突張って駅に急いでいた。競歩と言うにはそれは規約を無視し過ぎていて、やはりそれは一種の疾走であった。犬たちは折詰めにたかってはそれを食べ尽し、また疾走する経営者たちのあとを追って走った。走ったりよろめいたりかけ回ったりしている人間や犬たちに、晩春の陽光はうらうらとさしわたり、さわやかな大気を切って紫黒色のつばめが飛んだ。つばめの尻尾は翅(はね)とともに長く、しゃれた形に分岐していて、それを自在に操作しながら方向を変えた。人間はとてもこういう具合に身軽には行かない。

 

[やぶちゃん注:以上を以って本篇「砂時計」は終わっている。]

梅崎春生 砂時計 28

 

     28

 

 東寮階下のどんづまりの部屋では、各爺さんがそれぞれ昼食を済ませ、それぞれ食後のいこいをとっていた。長老の遊佐爺は肱(ひじ)まくらでかるい午睡をとっていたし、滝川爺と柿本爺は手製の将棋盤で将棋をさしていた。松木爺は輪番制の畠仕事をさぼって、鋏(はさみ)でチョキチョキと足の爪を切っていた。午後の陽光はこの部屋にもななめに射し入っている。やがて松木爺は爪をすっかり切り終え、鋏を投げ出して大きな欠伸(あくび)をした。

「さて」欠伸を閉じて松木爺はひとりごとめかして言った。「も一度ニラ爺でも探しに出かけるかな」

 誰もそれに返事をしなかった。松木爺はふらふらと立ち上った。

 木見婆は空の岡持を提(さ)げて、ふらふらと中央大階段を降りてきた。すると廊下の向うからふらふらと歩いてくる甲斐爺、森爺の姿を認めたので、木見婆はぎくっと身体を緊張させ、急ぎ足になってその両爺に近づいて行った。

「まだ見付からないのかい?」木見婆は早口で訊ねた。

「まだ?」

「まだなんだよ」甲斐爺がしょんぼりと答えた。一体どこにかくれやがったのか。木見婆さんは心当りないか」

「あるわけないよ」そして木見婆は声を強めた。「もし見付けたらね、何はさしおいてもあたしのとこに飛んで来るようにと、そう伝言してお呉れよ。ほんとに大事な用事があるんだからさ。きっとよ」

「わかったよ」と森爺が答えた。「そのかわり、あんたが見付けたら、直ぐに知らしとくれよな。その岡持は何だい?」

「院長室で今会議をやってんだよ。それに料理を運ぶのさ」

「どんな料理?」と両爺は眼をかがやかせ唾をのみこみながら訊ねた。

「それは焼魚とか、きんとんとか」と、木見婆は答えた。「茶碗むしとか、いろいろさ」

「残飯費運搬費の値下げ、院内菜園のことなんかは、経営の本筋から言えば、末の末のことだ」気取った手付きで茶碗むしの蓋を取りながら教授が重々しく言った。「経営方法の大宗は、在院者を次々回転させるにある。電車会社の経営と同じだ。降りる人があってこそ、次々に人が乗ってくるのだ。乗りっぱなしにされては、経営が成り立たないよ。だから我々も枝葉末節を論ずることをやめて、大宗を論じなくてはならん。近時の当院の不振も、死ぬべき人が死んで呉れないという点に最大の原因がある。如何にして在院者の回転率を高めるべきか」[やぶちゃん注:「大宗」は「たいそう」は「物事の初め・おおもと」或いは「大部分・おおかた」の意。]

「そうだ。そうだ」と食堂主が賛意を表した。「わたしんちでも、卓に坐りっぱなしで、一日中かかってゆっくり食べられては、やり切れんものな」

「どうして近頃」と運送屋が小首をかたむけた。「皆死ななくなったんだろうなあ」

「やり方も悪いんだよ」と菓子屋。「院長の怠慢だ」

「いっそのこと」女金貸が手を上げて言った。「院長の責任制ということにしたらどう?」

「責任制?」

「割当制のことよ」女金貸は院長の方に向き直った。「今在院者は、九十九人、だったわね」

「そうです」

「すると、一ヵ月に三人死ぬ」と女金貸は指を折って数えた。「全部入れ替わるのに、三十三ヵ月、すなわち二年と九ヵ月かかるわけね。四人だと、ええ、約二十五ヵ月か」

「そう」教授がうなずいた。「二年と一月だ。商売柄だけあって、計算は正確だね」

「一ヵ月三人というところでどう?」女金貸は一座を見回した。「一ヵ月三人を院長の責任額にするのよ。三人に足りない場合は、院長の月給から比例して相当額を差し引く。三人以上死んだ場合は、もちろんその分だけ院長に手当を出す。そうすれば院長も仕事に励みが出るでしょう」

「それはいい考えだ」と運送屋が卓をたたいて賛成した。

「三人死ぬと、新入りが三人で三十万円か。適当なところだね。院長、一月に三人殺すのは、わけないだろうね」

「飛んでもない」院長はまっかになり、眉をびくびく動かして掌を振った。「一月三人もわたしが殺すなんて、そんな無茶な、非常識な――」

「殺すというから具合が悪い」教授がたしなめた。「死なしめて上げるんだよ。さっきも院長は言ったではないか。老人は死ぬために生きているって。つまり老朽物質を、無に帰させるわけだね」

「そ、それはそうですが――」

「死なしめて上げるって、精神的にこいねがっているだけではダメだ」教授はあかくなった額をゴシゴシと搔(か)いた。「こういうことは組織的に、計画的にやらんといけないな。行き当りばったりじゃ困る」

「そうよ」女金貸が勢い込んだ声を出した。「この間の風呂のタイル張りの件だって、行き当りばったりよ。辷って死んだのは、たった一人じゃないの。あのタイルの張り替えはいくらかかったの?」

「六万円です」と院長が帳簿を開きながら答えた。「そして直ちに林爺さんが辷って死んで呉れたので新入者が十万円持って入ってきました。すなわち差引き四万円……」

「ちょいと待った」運送屋が口を入れた。「その算術はおかしいぞ。死んだ林爺さんは満八十歳だったな。するとタイルで辷らないでも、いずれ何かの原因で遠からず死ぬべき状態にあったわけだ。それをかんたんに引き算で片付けようなんて――」

「しかし」院長は禿頭をふり立てて抗弁した。「今までのところは一人ですが、これから先、タイルが張ってある限り、何人もが辷って後頭部を打つでしょう。それをこいねがってわたしは、石鹸だけは爺さんたちに潤沢(じゅんたく)に配給してある」

「そう都合よく行くものか。鼠だって捕鼠器に一匹かかれば、あとは用心してかからなくなるよ。ましてこれは人間だ」

「六万円とは金をかけ過ぎたよ」と菓子屋。「ひっくりかえすには、廊下や階段に臘(ろう)[やぶちゃん注:漢字はママ。「蠟」の誤字か誤植。後も同じ。]を塗りたくった方が、はるかに安上りで効果的だったんじゃないか」

「しかし院長たるわたくしが、深夜ごそごそと床に臘を塗り回っている現場を、爺さんたちに見られたら具合が悪いですよ」と院長は言った。「それに廊下や階段に塗りたくって、爺さんたちでなく、あなた方が引っくり返ったらどうします?」

「そいつはごめんだ。桑原、桑原」食堂主は首をちぢめた。「わたしや近頃血圧が高いんだよ。頭を打ったらそれっきりだ」

「そうでしょう」院長は鼻翼をふくらませた。「わたしだって辷り転びたくない」

「黄変米の方はどうなってる?」教授が質問した。「継続して投与しているかね?」

「僕が毎月納入していますよ」と、菓子屋が引き取った。「菓子製造の加工用原料として払い下げを受けたやつの、その相当量を当院用に回しています」

「回ってきた分を、院長はチャンと飯にたき込んでいるか?」

「たき込んではいますがね」院長は瓶をとり上げ、各自のグラスに次々に充たしてやった。「あんまり多量に混入すると、ぼそぼそ飯になって、在院者は食べ残すし、それに黄色く色が染まるんでねえ。強化米などとごまかしてはいますが」

「その程度じゃ在院者に大した実害は与えないな」教授が軽蔑したような声を出した。「その程度なら一般国民も食べているよ。すでに現政府は、黄変米騒ぎのほとぼりがさめたのを見はからって、こっそりと毒米を配給ルートに乗せ始めてるよ。僕んとこの大学の消費生活協同組合が、配給外米をだね、どうもおかしいてんで専門家に頼んで検査して貰ったんだ。するとそれからイスランジャ菌がうじゃうじゃと検出されたんだ」

「その組合って、何をするところです?」

「学内食堂を経営しているんだよ」教授はグラスを手にした。「学生、職員の数干名がそこを利用しているんだぜ」

「ひどいな」

「ひどいもんですねえ」

「ひどいわね」

 面々は異口同音に、政府のやり方に対して、怨嗟(えんさ)の声を上げた。

「だから僕の家では」と教授は落着きはらった。「外米配給は一切辞退しているんだ」

「外米はまだ相当滞貨しているんですか?」

「相当あるようだね」と教授。「せんだって食糧衛生局長が、非公開の会議の席上でだがね、現在外米の滞貨は二十万トンに達しているが、なんとか早く配給ルートにのせて片付けてしまいたいと、語ったそうだ。二十万トンとは相当な量だよ」

「僕んとこにも毎月一定量」と菓子屋が説明した。「加工用原料として配給がある」

「全部を加工用原料に払い下げればいいのにね」

「加工用原料としての払い下げ価格は、たいへん安いんだよ」と教授。「全部を加工用に払い下げれば、食糧管理特別会計にたちまち五十億円の穴があくんだ。それじゃあ配給操作にもさしつかえるしねえ。だから政府は国民の目をごまかして、毒米を配給ルートに乗せたがっているし、また実際に乗せているんだよ」

「あんたその払い下げ米を」女金貸が菓子屋に顔を向けた。「タダで当院に納入してるの?」

「タダじゃないさ」菓子屋は困感したように見る見る渋面をつくった。「僕も商売人だがね。でも当院納入の分には、利益はほとんど見ていないです」

「いかほどで買ってるの」女金貸は院長に顔をねじ向けた。

「支払いは金じゃなくて、物々交換です」院長は帳簿を開いた。「ええと、払い下げ米三升につき、配給内地米一升という割です」

「それは暴利だ」食堂主と運送屋が一斉に叫んだので、菓子屋はいささか狼狽した。「払い下げ米はタダ同様だろ?」

「タダ同様じゃありませんよ」菓子屋は顔をぱっとあかくして必死に弁解した。「ちゃんとしかるべき値段を払っていますよ。しかし、諸君がそうおっしゃるなら、交換比率を改定してもよろしい。その用意はあります」

「あたりまえだよ」食堂主がきめつけた。「今までにあんたは相当儲(もう)けたな」

「儲けやしないよ」菓子屋はひらひらと掌を振った。「あんたんちの残飯と同じ程度だよ」

「皆さんがそんなに自分のことだけしかお考えにならないから」と院長は女金貸の方を掌で指した。「こちらから融資を受けねばならんということになり、また実際に融資を受けている。嘆かわしいことですな」

「金利はいくらだ」と運送屋が訊ねた。「まさか十一(トイチ)じゃあるまいな」

「おほほほほ」女金貸は手の甲で后をおおい、途方もなくいい声でわらった。「十一だなんて、そんなにわたしがむさぼるわけがないじゃないの。もう内輪揉(も)めは止しましょうよ。そんなこと、枝葉末節だわよ。ねえ先生」

「今日俵医師は出席しないのか」女金貸のながしめを受けとめて、教授が話題を転じた。「在院者の回転方法に関して、僕は俵医師の意見を聞きたいと思っていたのだが」

「先ほど申しました通り、当区の狂犬予防週間で」と院長が答えた。「そちらの仕事をやっているのです」

「今日のような大切な会議には」と運送屋が言った。「欠席されては困りますねえ。獣医だからそういうことになる。この際俵医師をクビにして、まっとうな人間の医者を雇うことにしたらどうですか」

「そうだよ」と食堂主が賛成した。「獣医は雇い賃が安い。しかし、安かろう悪かろうでは、かえって当院の損になる」

「俵医師を雇ったのは僕だがね」と教授がきらりと眼を光らせた。「獣医をえらんだのは、単に費用が安く上るからではない。君たちは人間医と獣医の心構えの差異を知っているか。人間医は人間の命を最高価値のものとして取りあつかう。ところが獣医はだね。たとえばここに一匹千円の犬がいて、それが病気になったとする。その病気を治すのに、千五百円の注射が必要だとする。その場合、獣医は決してその千五百円の注射液を使用しないものだよ。判るかね」

「なるほどねえ」と女金貸が相槌(あいづち)を打った。「注射液の方がその犬よりも、五百円がた高価な物質ってわけね」

「そうだ。まったく当院向きだ」教授は莞爾(かんじ)としてうなずいた。「それにしても俵医師の本日欠席はけしからんな」

「当区はとても狂犬が多いのです。都内随一の狂犬発生区なのです」と院長が説明した。「さきほど駅から当院までの道ばたに、犬が何匹もうろうろしていたでしょう。あれが全部野犬なのですよ」

『そいつはいけねえ』菓子屋が言った。「野放し犬が一番恐いんだ」

「在院者で誰か嚙まれた?」と女金貸。

「いや、まだ誰も」と院長。「どういうわけか当区の野犬は、爺さんには嚙みつかないようですな。旨くないからでしょう。嚙みつかれるのはたいてい働き盛りの男女です」

「もし嚙みづかれて、それが狂犬だったら、どうなるの?」

「発病したらもうたすからんね」と教授が説明した。「狂犬の唾液の中の狂犬病ビールスが、かみ傷から人体に入り、神経にとりついて脳の中に入りこみ、どんどん殖えて脳の細胞をメチャメチャに食い荒してしまう。それでかんたんに一巻の終りだ」

「怖いわねえ」女金貸はぞっと身を慄わせた。「帰りが怖いわ」

「狂犬のことはそれくらいにして」と教授は腕時計をちらと見た。「さっきの院長の責任制の間題だね、一ヵ月三人を割当てるという説が出たが、皆さんどうですか?」

「三人なんか飛んでもない!」院長は大声を立てて中腰になった。「三人なんか無茶ですよ。そんなに死ぬもんですか。当院の今までの歴史をしらべても、終戦前後の食糧悪事情の頃をのぞいては、月三人ということは絶対にありませんでしたよ」

「終戦前後はぞろぞろ死んだんだろ」と運送屋。「では、今にしても、やり方ひとつによっては、殺せない筈はない」

「そんなことをおっしゃるくらいなら」院長は興奮して卓をどんと叩いた。「当院に火をつけて、九十九名の爺さんもろとも、まる焼きにしたらどうですか。建物が古いから、火の回りは早いですよ。ただし、その炎上の責任はわたしは負いませんぞ」

「そりゃ無茶だよ。建物まで燃しては元も子もない。燃やしたいのは中身だけだよ」と運送屋が言い返した。「それにおれたちは、九十九人をいっぺんに死んで貰いたいとは言っていない。いっぺんにではなくて、順々に死んで貰いたいんだ。院長。一ヵ月三人。じたばたせずに引き受けたらどうだね」

「三人は無理です」院長は頑張った。「どうしても三人を押しつけるなら、わたしとしても辞職の他はない。辞めさせていただきます」

「じゃあ辞めて貰って」と運送屋は一座を見回した。「他に後釜を探しますか」

「どうぞお勝手に」院長はおどすように声をするどくした。「わたしが辞めると、後任の院長が来る。しかし世の中にはそうそう人物のいるわけがないから、今まで通りうまく行くと思ったら大間違いですよ。それに、ふつうの人間なら、院長と名がつけば、在院者の方を大切に考えるでしょうからねえ。わたしはいつでも院長の椅子を投げ出して、よろこんで後任と交替します。後悔なさらないように。黒須玄一みたいに都合のいい院長はいなかった。そうあとで考えても、もう遅いですよ」

「よし判った」教授がうなずき、にやりと笑った。「なかなかやるもんだねえ。どこかの首相みたいだ」

「わたしは信念をもってやっているのです」

「それじゃ院長さん」女金貸が院長にやわらかく言った。

「院長さんは一ヵ月に何人なら引き受けると言うの?」

「ええ、それはですねえ」院長は腕を組んで禿頭をかたむけた。「ええ、一ヵ月に一人というとこで、どうでしょう?」

「一人?」食堂主が眼を剝(う)いた。「するとこんな大きな所帯で、月々の収入がわずか十万円か」

「正式にはそうですが」院長は答えた。「他に羽根運動からの援助もありますし、菜園収穫物売却などの別途収入もありますので、最低の運営には差支えないと思います」

「一T人とは言いも言ったもんだ」運送屋が舌打ちをした。「全部入れ替わるのに、九十九ヵ月か。ああ、おれは気が遠くなる」

「一人を責任額にして、実はそれ以上毎月殺して、手当をごっそり稼ぐつもりだろう」と菓子屋。「ずるいぞ」

「あたしたちだって、ずいぶん犠牲をはらってるのにねえ」と女金貸。「院長だけがいい目を見るという法はないわ」

「院長」きんとんをもぐもぐ嚙みながら教授が言った。

「いくらかけ引きとは言え、皆の発言の通り、一ヵ月一人は無茶だよ。承服出来ないよ。では、我々もいくらか譲歩するから、君も大幅に歩み寄れ。な、一ヵ月二人半ではどうだね。そこらで妥協して手を打とうじゃないか」

[やぶちゃん注:「黄変米」ウィキの「黄変米」より引く(一部、私が補足した)。『黄変米(おうへんまい)とは、人体に有害な毒素を生成するカビが繁殖して黄色や橙色に変色した米のこと』。主に菌界子嚢菌門ユーロチウム菌綱 Eurotiomycetes ユーロチウム目 Eurotiales マユハキタケ科属アオカビ(ペニシリウム)属 (Penicillium) の『カビが原因となる。カビ自体は有害なわけではないが、カビが作り出す生成物が肝機能障害や腎臓障害を引き起こす毒素となる。カビ毒をマイコトキシン』(Mycotoxin)『と総称するが、総じて高温に強く』、『分解が困難なため』、『加熱殺菌によりカビ自体を死滅させても』、『毒素は無毒化されずに残存してしまう。黄変米はカビの拡散を防ぐためと毒素分解の必要性から高温で焼却して廃棄するのが最善の処理方法である』(とあるが、多くのアオカビ(ペニシリウム)属の種はマイコトキシンを産生しないため、これらが直接に重篤な食中毒の原因になることは殆どない。但し、アオカビが生えた食品では、他の有害なカビの増殖も進んでいると考えるべきではある。例外は次注参照)。『日本では戦後の食糧難の時代に外国から大量の米が輸入され、国民への配給が行われていた』が、昭和二六(一九五一)年十二月にビルマ(現在のミャンマー)より『輸入された6,700トンの米を横浜検疫所が調査したところ』、翌年の一月に約三分の一が『黄変米である事が判明し、倉庫からの移動禁止処分が取られた』。『すぐに厚生省(現厚生労働省)の食品衛生調査会で審議され、黄変米が1%以上混入している輸入米は配給には回さない事が決められた。基準を超えた米はやむを得ず倉庫内に保管されたが、その後も輸入米から続々と黄変米が見つかり』、『在庫が増え続けた。配給米の管理を行っていた農林省(現農林水産省)は処分に困り、黄変米の危険性は科学的に解明されていないという詭弁を用いて、当初の1%未満という基準を3%未満に緩和し』、『配給に回す計画を立てた。この計画が外部に漏れ、朝日新聞が』昭和二九(一九五四)年七月に『スクープしたことで世論の批判がおき、黄変米の配給停止を求める市民運動などが活発化することになる。在野の研究者も黄変米の危険性を指摘したが、政府は配給を強行し、配給に回されなかった米についても味噌、醤油、酒、煎餅などの加工材料として倉庫から出荷しようとした』。『この直後に厚生省の主導で黄変米特別研究会が組織され、農林省食料研究所の角田廣博士、東京大学医学部の浦口健二助教授などが黄変米の研究を開始した。研究会では、角田や浦口などの努力により極めて短期間に黄変米の高い毒性が解明される事になった』。『研究会の成果と、世論の強い反発のため』、『黄変米の配給は継続できなくなり、同年の』十『月には黄変米の配給が断念された。このため、黄変米の在庫は増え続ける一方となり、窮地に陥った政府は』昭和三一(一九五六)年二月、『明確な安全性の根拠が無いまま、黄変米を再精米し、表面のカビを削り落として配給を行う政策を再度発表』した。『だが、黄変米の在庫は減る事が無く』、『長期にわたって倉庫に保管され続けることになり、結局は再精米の上で家畜の飼料など食用以外の用途として』実に十『年間に』亙って『処分されたといわれている』。『なお、特別研究会に参加した角田は黄変米が発見された当初より』、『職を辞する覚悟で農林省に強硬に抗議した事が知られており、はじめの時点で1%基準が策定されたのも彼の尽力によるものが大きい。彼の努力が無ければ』、『黄変米の配給問題は誰にも知られずに闇に葬られていた可能性が高いと言われている』。『第二次世界大戦の影響で若い男性はすべて戦争に駆り出され』、『農村の労働力は枯渇していた。また、肥料をはじめとする農業資材も極度に不足していた。この状況で、復員兵や満州などからの帰還者が大量に日本国内に流入したため未曾有の食糧不足が発生した。当時の状況においては外国からの輸入物資に頼るほかに道は無かったが、肝心の外貨は底を突き、度重なる空襲によって生産設備は灰燼に帰していたので外貨の獲得手段も無かった』。『政府は少ない外貨を効率的に使用し、食料と復興のための必要物資を調達しなければならなかった。このため、外国で米を調達する際には価格優先で低品質のものを選択する以外なく、輸送船も荷物を安く運べさえすれば良いという選択肢を取らざるを得なかった。結果的に、輸送中に米にカビが生え』、『黄変米となってしまった。貴重な外貨で手に入れた物資だっただけに捨てる事もできず、新たに輸入するにはまた外貨が必要となるので、何とかして当初の目的どおりに使用しようと考えた為に発生した事件であ』った、とある(太字下線は私が本篇に語られる内容が事実であることを示すために附した)

「イスランジャ菌」上のウィキの「黄変米」では、『黄変米の原因となる主要なカビ』として以下の菌界子嚢菌門ユーロチウム菌綱ユーロチウム目マユハキタケ科属アオカビ(ペニシリウム)属の三種が挙げられてある(一部に私が補足を加えた)。

・ペニシリウム・シトレオビライデ Penicillium citreo-viride(「シトレオビリデ」とも表記される。当初は「ペニシリウム・トキシカリウム」(Penicillium toxicariume)と名付けられていた。毒素としてマイコトキシンの一種シトレオビリジン Citreoviridin という神経毒を生成し、呼吸困難・痙攣を引き起こす

・ペニシリウム・シトリヌム Penicillium citrinum(「シトリナム」とも表記される。毒素としてマイコトキシンの一種シトリニン citrinin を生成し、腎機能障害・腎臓癌を引き起こす

・ペニシリウム・イスランディクム Penicillium islandicum(「イスランジウム」「イスランジクム」「イスランジカム」とも表記される。毒素として孰れもマイコトキシンの一種であるシクロクロロチン Cyclochlorotine(イスランジトキシン islanditoxin とも呼ぶ)・ルテオスカイリン Luteoskyrin を生成し、肝機能障害・肝硬変・肝臓癌を引き起こす

さても、この最後のペニシリウム・イスランディクム Penicillium islandicum こそが俗名を「イスランジア黄変米菌」と呼ぶのである。「株式会社リンクス」のサイト「食品の二次汚染対策相談室」(同社藤川氏担当)の「ペニシリウム(Penicillium)属」を参照されたい。さらに、『日本植物病理学会報』(第二十号・昭和三一(一九五六)年発行・PDF)の『昭和30年度関西部会 於 神戸大学姫路分校 昭和301016, 17日』とある中の、「139」ページ右の、堀道紀氏と山本功男氏の講演要旨『(46) Peuicillium tardum の寄生に因る黄変米について』の中に『イスランジヤ黄変米』という表記が見出せる。以上の記載には「日本マイコトキシン学会」公式サイトのこちらも参照して正確を期した。ある種の現代作家は平気でいい加減な架空の病気や、都市伝説染みた病原体・細菌・ウイルスをまともな文脈の中に登場させて平気な顔している無責任なケースがあるが、梅崎春生はちゃんと調べ上げて記していることが判る。

「十一(トイチ)」十日で一割という金利(利息)を取ることを指すが、現在では十日に二割や三割といった暴利を貪る高利貸全般を対象に「といち」または「といち金融」と呼んでいる。

「当区はとても狂犬が多いのです。都内随一の狂犬発生区なのです」これは何かの資料を調べれば、夕陽養老院及びその他のロケーションをかなり絞ることが出来るのだが、当時の東京都の行政区別の狂犬病発生数を見出すことは出来なかった。しかし「東京都福祉保健局」公式サイト内の「日本における狂犬病の発生状況」に載る「全国及び東京での犬の狂犬病発生数」を見ると、

昭和二八(一九五三)年 【全国】176頭 【東京都】128

昭和二九(一九五四)年 【全国】  98  【東京都】  47

昭和三〇(一九五五)年 【全国】  23  【東京都】    3

とある。なお、昭和三二(一九五七)年以降、ヒトでは全国的に発生はない(外地罹患帰国発症事例は除く)。

「狂犬病ビールス」狂犬病の病原体は第五群(一本鎖RNA -鎖)モノネガウイルス目 Mononegavirales ラブドウイルス科 Rhabdoviridae リッサウイルス属狂犬病ウイルス (Genotype 1Rabies virus を病原体とするウイルス性の人獣共通感染症で、ワクチン接種を受けずに発病した場合、ほぼ確実に死に至る。確立した治療法はない。咬傷部から侵入した狂犬病ウイルスは、神経系を介して脳神経組織に到達して発症する。その感染の速さは、日に数ミリから数十ミリと言われており、従って咬傷を受けた部位が脳や中枢神経系から遠位であれば、咬傷後のワクチン接種処置の時間が稼げると言える。脳組織に近い傷ほど潜伏期間は短く、二週間程度で、遠位部では時に数ヶ月以上、事例の中には二年後という記録もあるという(ここはウィキの「狂犬病」他に拠った)。]

梅崎春生 砂時計 27

 

     27

 

 流れは相変らず碾茶色(ひきちゃいろ)にねっとりと濁り、塵芥や木片をのせて、かなりの早さで下流へ下流へと動いていた。その上水路の堤の急斜面を、栗山佐介は腰をひくくかがめ、斜面の立木の枝や草をつかみながら、用心深く降り始めた。昨夜半まで降りつづいた雨のために、草や地面はまだ濡れていた。濡れて辷りやすくなっていた。靴が辷るので、いい足場をえらぶ必要があった。

「大丈夫?」堤の上から曽我ランコが声をかけた。「靴を脱いだらどうなの。辷るとまた膝をいためるわよ」

「大丈夫だよ」佐介は堤上を見上げてわらった。「軍隊じゃもっともっと、危いことをやった」

 曽我ランコから四五間[やぶちゃん注:約七・三〇~八・一〇メートル。]離れた場所に、乃木七郎は立っていた。小腰をかがめては石を拾い、ちょいと小首をかしげ、対岸に生えたアカシヤの木にねらいをつけた。石は乃木七郎の手を離れて勢いよく飛んだ。石はアカシヤの幹にあやまたずに命中し、急斜面を水路にむかってころころところがり落ちた。小さな水しぶきをあげて石はたちまち見えなくなった。

「ふん。何だっけなあ。ええ。何だったかなあ」

 乃木七郎は、ひどい頭痛をこらえるような表情になり、左手に抱いた卓上ピアノをいらだたしげにゆすぶった。石を握ってねらいをつける、その手や肩や身体全体の感じ、それがうしなわれた記憶の中から、しきりに彼に何かを呼びかけて来ようとするのだ。もう一歩踏み込むと何もかも判りそうなのだが、その一歩がどうしても踏み込めない。事実頭の芯もしんしんと痛み始めていた。乃木七郎は再び腰をかがめて石を拾い、双の眼玉を中心に寄せて、ふたたび対岸のアカシヤにねらいをつけた。栗山佐介はあぶなっかしい腰つきで、斜面の四分の一ほどを降りた。

「大丈夫? 辷るとたいへんよ」

 曽我ランコはそう言いながら、そこらから棒きれを拾い、板裏草履をぬいではだしになった。はだしのまま棒を支えにして、彼女自らも佐介を追って斜面をそろそろと降り始めた。乃木七郎の石がまた空気をするどく切って、対岸に飛んだ。石はアカシヤの幹に見事にぶっつかり、カーンといい音を立てた。草を摑(つか)んだ不安定な姿勢で栗山佐介は顔を上げ、アカシヤの方に視線をむけてつぶやいた。

「いいコントロールだな。あんな奴にねらわれちゃたまらない」

「辷りやすいわねえ」用心深くのろのろと下方に移動しながら、曽我ランコがあぶなげな声を出した。「はだしでもツルツルするんだから、靴穿(は)きは用心した方がいいわよ」

「靴よりはだしの方が辷るんだ」佐介はやや不機嫌な声を出し、曽我ランコを見上げた。用事もないのにあぶない斜面を降りてくるランコに、なにか忌々(いまいま)しさを感じたのだ。それに乃木七郎をひとりに放置しておくことの不用心さもあった。「ダメだよ。君は降りて来ちゃいけないったら。辷り落ちたらどうするんだ。ここに落っこちたら、もう絶対にたすからないよ」

「あたしは大丈夫よ」曽我ランコは不安定な姿勢でせせらわらった。「わたしは小さい頃から、冒険ごっこが大好きだったんだもの」

 石が又しても対岸へ飛んだ。五十米ほど上流にかかった木橋を、二人の男が急ぎ足で渡り終え、土堤上の小径(こみち)をこちらに近づきつつあった。一人の男はカメラを肩から提げていたが、もはや口にチューインガムは嚙んでいなかった。もう一人の男は小型胴乱を小脇にかかえ、どういうつもりか鳥打帽子を前後さかさまにかぶっていた。

 曽我ランコはさらに下方に移動して、栗山佐介の地点に近づいた。佐介はさっきと同じ姿勢で、しかし何かまぶしげな眼付きになって、そのランコの姿をぼんやり見上げていた。姿勢の不安定さのために、彼女の若々しい肉体の輸郭が、スラックスの線に露わに出ていたのだ。佐介のその視線に気付くと、曽我ランコは急にとがめる眼つきになった。

「何見てるの。接骨木(にわとこ)はとらないの?」

「とるよ。今一休みしているところだ」佐介はあわてて視線を水路の方に向けた。接骨木は佐介の地点から更に三米ばかり下方に、その枝をひろげていた。そこに至る斜面は、今まで降りてきた斜面より、ずっと急になっている。その急斜のかたむきを佐介は眼で計って見た。

「さあ。降りるとすればここからかな」

「ずいぶん急ね」佐介の地点まで降りてきた曽我ランコは、その急斜をたしかめて二の足を踏んだらしかった。

「あたし、ここにつかまって、この棒を出したげるから、それにつかまって降りたらどう?」

「そうしようかな」

 佐介は亀のように斜面に貼りついた。ランコは右掌で紅葉の細い根っこを握りしめ、左手につかんだ棒ぎれを佐介の方にぐっとさし伸ばした。佐介はその棒の端をつかみ、あぶなげな足どりを斜面に踏み入れた。靴がずるずると五寸ばかりすべった。佐介は棒をつかむ掌に、ぐっと力を入れた。曽我ランコも顔を紅潮させ、ふといぶかしげな顔になって、土堤道をななめにふり仰いだ。いそがしく乱れた足音が聞えたからだ。乃木七郎は悠然と五つ目の石を拾い上げた。その背に二人の男の足音が殺到した。

「さあ、逃げるんだ」

 カメラ男がはあはあと呼吸をはずませ、そう言いながら乃木七郎の右手に自分の腕をからませた。

「早く。早く。あいつらが登って来ないうちに!」

 胴乱男が乃木の左方に回って、同じく腕をからませようとした。ところが乃木の左腕は卓上ピアノを抱いているので、白い鍵盤はけたたましい音を立てて、ジャランジャランと鳴りわたった。斜面の中途で曽我ランコが金切声を立てた。

「何、何をしてるの!」

「はあ」

 乃木七郎は間の抜けた声で返事をして、きょとんとした顔で斜面を見おろし、そして二人の男の顔を見回した。自分にどんな事態が起りつつあるのか、もちろん彼に理解出来なかっかのだ。胴乱男はいらだたしげに乃木七郎の肩をこづいた。

「さあ、早く。そんなもの、捨てちまうんだ!」

 肩をこづいた手で、胴乱男はいきなり卓上ピアノを乃木の左腕からはたき落した。ピアノはガシャンと地面に落ちた。カメラ男の靴がそれを蹴飛ばした。ピアノは大小高低の音をさまざまに響かせながら、斜面をにぎにぎしくころがり落ちた。

「待てえ!」曽我ランコがありったけの声で叫んだ。「泥棒。泥――棒!」

 卓上ピアノはその曽我ランコをめがけて奔転(ほんてん)した。ランコは佐介をつないだ棒きれを突き離し、奔転するものを辛うじて受けとめた。受けとめたというより、身体全体でせきとめた。栗山佐介は離された棒きれと共に、一気に三米の急斜をすべり落ち、これも辛うじて目指す接骨木の幹に必死にしがみついた。佐介の眼は恐怖と衝動で青味を帯びてきらきら光り、毛穴からふき出した冷汗と脂で、顔中はべっとりと濡れていた。ねとねとと濁った水路の急流が、佐介の眼下を音もなくうねっている。

「ああ」佐介はかすれた声でうめいた。「ああ、おれはいつもこんな具合になっちまう。惨(みじ)めで貧乏たらしい役割を、いつもおれはこんな具合に引受けてしまう」

 曽我ランコはがむしゃらな勢いで、草をつかみ木の根をつかみ、斜面を這い登っていた。堤上の小径を、乃木七郎を中にして、二人の男は足をぴょんぴょんとはね上げて、彼方に遁走しつつあった。得体(えたい)の知れない二人男の熱意にくらべると、乃木七郎はそれほど疾走の意志を持たないので、歩調がちぐはぐで、見た目の割にはスピードは出ていなかった。小学校の秋季運動会の父兄有志の三人四脚みたいな具合に、この三人編成の一団はぎくしゃくと動いていた。それでも曽我ランコが堤上に這い登った時、彼等の姿はもはや現場から六七十米の彼方にあった。人気のない堤の上を、並木に見えかくれしながら、一団は不格好にがたぴしと遠ざかって行く。

「待てえっ!」

 曽我ランコは板裏草履をつっかけ、走り出そうとしたが、すでに及ばぬとあきらめたらしく、口惜しげにじだんだを踏んだ。板裏草腹の裏で砂利がぐりぐりと鳴った。その曽我ランコの姿を、水際の接骨木にしがみついたまま、栗山佐介は眼を大きく見開いて見上げていた。恐怖の一瞬が過ぎ、佐介の耳にはしゅんしゅんとはげしい耳鳴りが始まっていた。まっさおな空と目の光を背景にして、堤上にじだんだを踏む曽我ランコの黒い輪郭の動きは、なにか嘔(は)き出したくなるような醜悪な感じをただよわせていた。堤上の小径から横に切れたらしく、一団三人の後ろ姿はその時ふっとランコの視野から消滅した。ランコは足踏みを中止し、ブラウスの袖で瞼を拭いながら、栗山佐介を見おろした。天井にとりついた弱々しげな冬の蝉のように、佐介の身体はしなやかな接骨木の幹にとまっていた。そのたよりない姿を、曽我ランコは笑いに似た影を頰に貼りつかせ、しばらく見おろしていた。佐介も黙ってしがみついたまま、耳鳴りを耳に聞きながら、じっと身動きをしないでいた。

「上っておいで」

 やがて曽我ランコが、非常にやさしい、ほとんど猫撫で声にちかい声で呼びかけた。佐介はそれに応じるようにもぞもぞと左手を動かした。ランコは喜悦をこめた厭らしい声で繰り返した。

「ひとりで、上っておいで。ひとりでよ」

 

 気温はじりじりと上昇しつつあった。

 森爺と甲斐爺は相変らずつながって、巣を失った蟻のように、院内のあちこちにふらふらと歩いていた。ニラ爺たちが見当らぬので、昼飯を食う気にもならないのであった。調理室で木見婆はぶよぶよと肥った顔に汗を滲(にじ)ませて、何かぶつぶつと呟きながら、調理に手をつけたり、半開きの扉の方をじろりとにらんだりしていた。

 風通しの悪い湿った院長室の書類戸棚の中では、ニラ爺と煙爺が玉の汗を顔いっぱいに吹き出して、ぎゅっとちぢこまっていた。ニラ爺の玉の汗は、暑さのためというよりも、尿意をこらえる努力によるものであった。折しも節穴から黒須院長のがらがら声が流れ込んできた。

「今日は暑いですなあ。失礼して上衣を脱(と)らせていただきます」院長は五つの釦(ボタン)を外して、詰襟服をぐいと脱ぎ、ちぢみのシャツだけになった。そして仕舞扇で胸元をばたばたあおぎ立てながら、皆を見回した。「どうです。皆さんもお脱ぎになってはいかがですか。お互いに胸襟を開いて語り合いましょうや」

「そうだな、そうするか」

 と菓子屋がそそくさと上衣をとった。つづいてデブの食堂主。逞(たくま)しい運送屋。最後に女金貸がボレロを脱いだ。白い肉付きのいい女金貸の左腕には、大きな種痘のあとが三つずつ二列縦隊にならんでついている。上衣をとらないのは教授だけであった。教授は鼻眼鏡をかけ、蝶ネクタイをきちんとしめて澄ましこんでいた。暑いのは気温の上昇のためだけでなく、ウィスキーのせいもあったのだろう。六人が六人とも頰や額をあかく染め、中には眼がとろんとなりかかっているのもいた。オムレツ付け合わせのジャガ芋の最後の一片を、ぽいと口に放り込んで味わいながら、食堂主がひとりごとを言った。

「ふん。あのムクムク婆さん、なかなか料理が巧者なもんだな」

「そうですか」院長はいい気持で答えた。「そうでしょう」

「あの婆さん、古いのかね?」

「いや、勤め始めて二年ばかりですが、腕も確かだし、それに実直一点ばりで、わたしどもも大変重宝していますよ」

「わたしんちのコックよりもうまいかも知れんぞ」食堂主はフォークの背をべろりと嘗(な)めて、お世辞を使った。「ところでどうです。わたしんちの料理は、在院者たちに評判いいかね?」

「まあまあと言うところでしょうな」そして院長は憂わしげに眉をひそめた。「残飯そのものの味より別に、困ったことがあるんですよ」

「何だね?」

「一口に言えば、鮮度の問題です。冬の間はまだまだよろしいが、こんなに気候があたたかくなって来るとね」院長は手で空気を引っかき回すようにした。「食堂さんから朝の残飯残肴(ざんこう)が当院に運搬されてくる。それを翌目の朝まで保たしておくことは、もう気温が許さないのです。だからそれを夕食にあてる他はない。同じ事情で食堂さんの晩の残飯残看は、当院では翌朝の食卓にあらわれるということになる。それで昨日も在院者の一部が、わたしに不平を言ってきた。朝には朝飯らしい食事、夕には夕方らしい食事を食わせろってね」

「何と返事した?」

「うまくごまかして、突っぱねましたがね。すると昨朝に出したテンプラ、あれが揚げ立てじゃなかったとか、身が千切れていたとか、そんなことをてんでに言い出してきた」

「わたしんちのお客の食い残しだから仕方がない」食堂主が頰をぷうとふくらませた。「それは在院者として、ゼイタクというもんだ」

「残飯残肴を食わせられていることを、在院者たちがそろそろかんづいて来たんではないか」教授が口をはさんだ。「どういう搬入方法をとってるのかね?」

「それは俺んとこで請負(うけお)ってるんですよ」運送屋が引取った。「オート三輪で運ぶんですがね、荷台は完全被覆だから、内部は全然のぞけないようになっている」

「そのオート三輪は、直接調理場の中まで入れるようになっているんです」院長が説明を補足した。「調理室はわたしの命令で、在院者は一切オフ・リミットになっている。だから残看積みおろしの現場を、在院者は絶対に見ることは出来ない。積みおろしだけでなく調理の現状もです」

「積みおろしの現状を見ないでも、食事の内容によって、在院者がそろそろかんづくということもあり得るな」

「そうです。そうです」院長は大きくうなずいて、グラスをとり上げた。「そこがわたしの立場の辛いところです」

「院内の食事内容に」女金貸が訊ねた。「残飯残肴は何割ぐらい占めてるの?」

「約半分です。あとは院内菜園からの収穫と、若干の購入品です」そして院長は食堂主に顔をねじ向けた。「ところでこの席上で食堂さんに御相談があるのですが」

「何だね?」

「この二ヵ月、当院の財政運営の上において、残念ながら若干の赤字を出しておる。それをわたしだけの責任のように皆さんはおっしゃるが、心外なことだと思うのです。赤字打開にはこの際皆さんの協力をも是非懇請したい。まずさしあたって、食堂さんの残飯残肴の購入価格ですが――」

「高いとでもいうのか?」食堂主はきらりと眼を光らせた。「あれが相場なんだぜ」

「相場であるかも知れませんが」院長はぐっと丹田に力を入れた。「この危機を乗り切るために、も少し安くしていただきたいと思う。なにしろ食料費というものは、当院経常費の大きな部分をしめているのですから、ちょっと負けていただいただけで、ぐんと違うと思うのです。わたしはなにも在院者の味方をして、そう言っておるのではない。わたしは信念をもって言っている。食堂さん、あなたも経営者の一人でしょう。残飯を安く入れてそれで当院が黒字になれば、黒字になったことによってあなたもトクすることになるでしょう」

「それも道理だ」先ほどから眼をとろんとさせて聞いていた菓子屋が、卓をぽんと叩いた。「うまい手を考えたな」

 教授と女金貸は互いに顔を見合わせて、賛意を表する如くうなずきあった。その一座の空気を察知して、食堂主はややいきり立った。

「院長は、わ、わたしんちばかりに皺(しわ)寄せをしてくるが、そいじゃ運送屋はどうなんだ?」

「お、おれは全然実費だよ」いきなり飛び火してきたので運送屋は目を白黒させた。「おれなんか残飯運搬で、全然儲(もう)けていないんだよ。犠牲的サービスだ。ガソリン代に毛の生えた程度しか受取っていない」

「その生えた毛を剃(そ)り落していただきたいものですな」

 と院長は強気に出た。経営不振の責任を分散させることによってのみ、院長の地位は保たれる。黒須院長はとっさにそう判断したのだ。教授と女金貸はふたたび顔を見合わせ、うなずきあった。それを見て運送屋は頑張るは非と判断したらしく、直ぐに折れて出た。

「じゃいいよ。おれ、ガソリン代だけに負けとくよ。光栄ある夕陽養老院の仕事だものなあ」

 菓子屋が手をパチパチとたたいた。食堂主は渋い顔をつくり、むっと頰をふくらませた。女金貸がその食堂主にむかって、なぐさめるように言った。

「残飯なんかタダみたいなもんじゃないの。在院者たちが食べて呉れるおかげで、処理費がまるまるたすかる勘定じゃなくって?」

「そうでもねえですよ」食堂主は渋面のまま答えた。「歿飯残肴というと、豚のエサにしかならないように人は思っているが、なに、そんなもんじゃない。豚が食うのは塵芥です。わたしんちみたいな高級食堂の残りものは、豚なんかには勿体(もったい)ないし、また当院なんかにも勿体ないぐらいですよ。あたしんちの残肴で、もりもり栄養をとって長生きされては困る、という心配もあるほどだ」

「そのかわり鮮度が落ちていますからな」院長がわらいながら言った。「どんなに高級な料理でも、古くなると味が落ちるし、栄養もなくなる」

「そうだな。それでは暫定処置として」教授が重々しく勧告した。「今頃から夏場にわたって、値段を下げることにしたらどうだね。食堂さんも、栄養や味が落ちるとあれば、仕方ないだろう」

「そんなものですかね」食堂主は面白くなさそうに答えた。「じゃ暫定的にわたしが譲歩しましょう」

 院長は大急ぎで会議録を開き、喜色を面上にみなぎらせて、残肴購入費ならびに運搬費の値下げを書き込んだ。食堂主はその院長の手付きを横目で見ながら、はき出すように言った。

「おれたちも犠牲的協力に出たんだから、院長も今いっそう経済を引きしめてもらいたいもんだな」

「さっきの報告で」運送屋が口を出した。「備品のリヤカーが破損したとのことだったが、どうして破損したんだね。気がゆるんで粗略に取り扱ったんじゃないか」

「ええ、それは」と院長は口ごもった。

「リヤカーなんてものは、よっぽどのことがなけりゃ破損しないもんだよ。おれんとこのように仕事の激しい運送屋でも、そんなことはめったにない」

「破損というのは」と女金貸。「どの程度なの?」

「なんなら俺んとこで」と運送屋。「実費で修繕してやってもいいよ」

「全壊です」と院長は腹を据(す)えて答えた。「修繕の余地はありません」

「修繕の余地がない?」食堂主が険(けわ)しい声を出した。一体どうしたんだ」

「本当のことを申し上げますが、これはわたしの手落ちでした」院長は恐縮と謹慎の意をこめて、禿頭をちょっと下げた。「当院に、韮山(にらやま)伝七という、すこしばかり頭の呆けたバカ爺さんがおりまして……」

「おい、お前のことを話してるぞ」書類戸棚の中で煙爺が、ニラ爺の脇腹を小突いてささやいた。「院長の声だぞ」ニラ爺は返事をしなかった。眼をかっと見開き、緊張して節穴をにらみつけていた。オシッコはまさに出そうだし、自分のことが話題に上っているし、緊張せざるを得ないのであった。黒須院長の説明が滔々(とうとう)と続いている。その一句々々を耳に収めながら、ニラ爺の顔はあかくなったりあおくなったり、歯を食いしばったりこめかみをビクビクさせたり、いろんな変化をした。

「沖禎介、横川省三の名前を出して、わたしはついにニラ爺を説得した」院長は得々として面々を見回した。「ニラ爺は欣然(きんぜん)としてその役目を引き受けることになりました」

「頭の呆けたバカ爺さんだと言ったが」食堂主が質問した。「そのバカ爺さんに、そんな重大な役目がつとまるかね?」

「つとまらなきゃ、ちょんとクビです。何とか名目をつけて追い出すだけです」

「院長は先刻、園内の栽培物は結局在院者の口に入るんだ、と言明しましたな」運送屋が意地悪い口調で言った。「ところが今の説明では、外部に売り出してるじゃないか」

「院内需要を充たした残りですよ」

「売上代金はちゃんと会計に繰入(くりい)れてあるだろうね」

「ええ、そ、それはもちろん」院長はどもった。「そうするつもりです」

つもりだって?」運送屋が声を高くした。「じゃ、まだやっていないのか、まさか自分のふところに……」

 その時扉が外側からほとほとと叩かれたので、運送屋は口をつぐんだ。院長が大声を出した。

「誰だ、はいれ」

 扉が開かれて、岡持を提げた木見婆がのそのそと入ってきた。彼女は無表情に卓に近づき、岡持の蓋(ふた)をあけ、皿小鉢のたぐいを並べ始めた。院長が声をかけた。

「木見婆さん。あんたの料理は皆さんのお賞(ほ)めにあずかったよ」

「うん。なかなか旨(うま)かった」

「鰻(うなぎ)なんか」と女金貸が言った。「とくに旨かったわよ。本職はだしだわ」

「ありがとうございます」と木見婆は白髪頭を下げた。

「鰻はまだ残ってるかね?」院長が訊ねた。「残ってたら、白焼きにして五人分、折詰めを頼むよ」

「かしこまりました」

「それからちょっと」と院長は声をすこし低くした。「ニラ爺さんにちょっと院長室に来るように伝えて呉れ」

「ニラ爺さん?」木見婆はぎくりとして、手にした小鉢を取り落しそうになった。

「そうだ。ニラ爺さんだ。ちょっと訊ねたいことがあるのだ」木見婆の態度に気付かず院長はつづけた。「他の爺さんに気取られないように、そっとだよ。そっと耳打ちするんだよ」

「お前のことを呼んでるぜ」煙爺がじゃけんにニラ爺の脇腹をこづき、とげとげしくささやいた。「お前、スパイだったのか?」

「スパイやない!」ニラ爺は顔を蒼白にしてささやきかえした。「院長が勝手に決めてるだけや」

「ほんとか?」

 ニラ爺は唇を嚙んだまま返事をしなかった。皿小鉢を並べ終って空の岡持をとり上げた木見婆に、院長は重ねて念を押した。

「いいか。そっとだよ。ことに遊佐爺や滝爺に気付かれないようにするんだよ。おや、木見婆さん、顔色がすこし悪いようだな。寝不足か」

「寝不足でございます」木見婆は答えた。「他に用事はございませんか」

「お前、出ないでいいのか?」煙爺がふたたびささやいた。「お前、呼び出されているんだぞ」

「出ない!」ニラ爺はささやき返した。「おれ、ここでおしっこをする。もう我慢出来ん」

「ちょっと待て!」

 煙爺はあわててごそごそと身体を動かして、ニラ爺との間隔を拡げた。ニラ爺は眼を据(す)えた。

[やぶちゃん注:「アカシヤ」これは真正のマメ目マメ科ネムノキ亜科アカシア属 Acacia ではなく(真正のアカシア類は温暖な気候でないと生育が難しく、本邦では関東以北では栽培が困難であるものが多いからである)、所謂、「ニセアカシア」、マメ科マメ亜科ハリエンジュ属ハリエンジュ Robinia pseudoacacia であると思われる。「ニセアカシア」=ハリエンジュは北アメリカ原産であるが、本邦には明治六(一八七三)年に移入され、街路樹・公園樹や砂防・土止めに植栽されているが、広範に野生化もしており、しかも面倒なことに輸入された「ハリエンジュ」(ニセアカシア)を当時は「アカシア」と称していたことから、現在でも根強く混同されているからである。例えば、「アカシアはちみつ」として販売されている蜂蜜は「ニセアカシア」(ハリエンジュ)の蜜なのである(以上は主にウィキの「ニセアカシア」に拠った)。]

梅崎春生 砂時計 26

 

     26

 

 大きな調理台を前にして、午餐会の料理をあれこれ調製しながらも、木見婆の気持はいっこうに落着いていなかった。塩をつかもうとして砂糖壺に手をつっこんだり、つまみ食いのつもりで陶器の箸置きをガリッと嚙み、あわててはき出してみたり、そんなことばかりしているので、調製はなかなかはかどらない。調理場にいるのは、木見婆ひとりであった。戸外はうらうらと天気がいいのに、調理場は完全な北向きだから、陽光のひとかけらもここには射し入って来ない。そのうすぐらい調理室で、木見婆は時折すっかり手元を留守にして、隅の米櫃(こめびつ)を横目でにらんだり、扉の方に素早い視線を走らせたりした。調理室の扉は、平常はかたく閉ざされているのに、今日ばかりはわざとなかば開かれているのだ。廊下に足音がする度に、木見婆はぽったりした瞼を引っぱり上げ、眼球をその方に、じろりと動かした。それは巣のすみにかくれて獲物を待つ蜘蛛(くも)の動作にも似ていた。扉を半開きにしてあるのは、ニラ爺が廊下を通りかかるのをつかまえるためであった。

「ほんとに、韮山(にらやま)伝七の糞爺!」

 たびたび塩と間違うので、砂糖壺をかかえて手荒く戸棚に押し込みながら、木見婆は腹立たしげにつぶやいた。

「さんざんあたしからゆすって行ったくせに、それをまた他人にべらべらとしゃべるなんて!」

 さっきの松木爺との会話以来、木見婆の気分はささくれ立ち、不安げに波打っていた。一体ニラ爺がどの程度までしゃべったのか、松木爺だけにしゃべったのか、松木爺以外の者にもしゃべったのか。それらの疑問が木見婆のいらいらに拍車をかけていた。ニラ爺が何もかもしゃべったとすれば、たちまちその噂は全寮に拡がるだろう。拡がったからには、それらはやがて院側の職員の耳にも入り、更(さら)に黒須院長の耳にも届くだろう。すると黒須院長はまっかになって激怒し、木見婆を呼びつけて大声叱咜(しった)するだろう。その想像だけでも木見婆はぞっと身慄いが出る。三十も歳下の院長を、木見婆はひどく怖がっていたのだ。[やぶちゃん注:「大声叱咜」「たいせいしった」。]

「ほんとにニラ爺の奴!」胡瓜(きゅうり)を束にしてゴシゴシ刻みながら、木見婆はふたたび押え切れずにつぶやいた。「早くとっつかまえて、きゅうきゅう絞り上げて、口止めしなくっちゃ。べらべらしゃべり回られては、あたしの身の破滅じゃないか。院長がかんかんに怒って巡査を呼んで来たら、あたしはどうしたらいいんだろう」

 木見婆は庖丁(ほうちょう)の手をハッと止め、顔を扉の方にぐいと振り向けた。廊下の方で忍びやかな足音が聞えたからだ。そして半開きの扉の間に、二つの皺(しわ)だらけの顔がぬっとあらわれた。それは木見婆の予期待望したニラ爺の顔でなく、西寮の森爺と甲斐爺の顔であった。その顔のひとつが猫撫で声で口を開いた。

「木見婆さん。入ってもいいかい?」

「入らせとくれよ」も一つの顔が言葉をそえた。「ちょっとでいいからさ」

「何の用事があるんだい」木見婆はつっけんどんに答えて、庖丁の背でまな板をとんと叩いた。「ここは院長先生の命令で、立入禁止、オフ・リミットになってんだよ。知ってるだろ」

「そりゃ知ってるけどさ」と森爺がやや哀願的に言った。「ちょっとでいいから、頼みますよ」

「立入りを禁止するなんて、水臭いじゃないか」と甲斐爺。「先代の院長の時分は、俺たち、ここに自由に出入り出来たよ。木見婆さんだって、知ってる筈じゃないか。それを今更、立入禁止だなんて――」

「何言ってんだよ。富士のお山だって、立入禁止になる世の中だよ。第一男が、用事もないのに調理室に出入りするなんて、間違いの元だよ。それとも何か用事でもあると言うのかい」

 森爺と甲斐爺は顔をつき合わせて、何かこそこそと相談をした。そして森爺が二人を代表して、手を揉(も)みながら口を切った。

「実はね、ニラ爺のことだけどね、まさか木見婆さんは……」

「ああ。ニラ爺!」

 木見婆はとたんに絶望して、両手を宙に上げ、傍の小椅子にくたくたと腰をおろした。小椅子はその重さに耐えかねて、ギギッときしんだ。木見婆は両掌で顔をおおい、ふてくされた声を出した。

「入りたけりゃ入んな。ほんとにいけすかない爺たちだよ!」

 森爺と甲斐爺はびっくりしたように、顔を見合わせた。木見婆の態度があまりにも急変したからだ。次の瞬間、森爺はにやりと顔をほころばせ、甲斐爺の耳に口を近づけた。「やはり、ニラ爺、ここにかくれてたんだよ。木見婆さんの態度で判るよ」

「こんなところにかくれるなんて、ずるいねえ」甲斐爺はささやき返した。「さあ、探そうか」

 二老人は爪さき立って、そろそろと調理室に歩み入った。甲斐爺が扉をしめた。それから二人は調理室のあちこちを歩き回り、棚をあけたり、調理台の下をのぞき込んだり、いろいろなことをした。しかしニラ爺の姿はどこにも見当らなかった。小椅子に腰かけた木見婆は、顔をおおった両掌の指の股から、二老人の動作をじろじろと観察していた。しかし木見婆の予期に反して、二老人は棚や引出しをゴトゴトとあけたりしめたりするだけで、つまみ食いをしたり食物をポケットにくすねたり、そんなことは一切やらないようなので、木見婆はついに掌を顔から引き剝がし、いぶかしげな声を出した。

「あんたたち、一体なにをしてんだね?」

「探してるんだよ」

「探してるって、何をさ」

「ニラ爺さんだよ」甲斐爺が腰を伸ばして、不審そうに木見婆を見た。一体あの爺さんたちをどこにかくしたんだい?」

「ニラ爺さんたち?」木見婆は思わず大声を出した。「どこにかくしただって?」

「そうだよ」森爺も腰を伸ばして、天井を見上げた。「まさか、天井裏にもぐり込んでやしないだろうな」

「何故ニラ爺さんたちが、天井にもぐり込むわけがあるの?」木見婆は椅子をギイと鳴らして立ち上った。「大掃除はもう一ヵ月も前に済んだじゃないか」

「誰が大掃除だと言った」甲斐爺は失笑した。「大掃除なんかであるものか。かくれんぼだよ」

「かくれんぼ?」木見婆はふたたび大声を出した。「あんたたちは、かくれんぼをやってんのかい」

「そうだよ。かくれんぼをやっては悪いのか?」

「ニラ爺さんたちがここにかくれるわけがないじゃないか!」すっかり事情が判ったので、木見婆は元気を取り戻し、かつ大いに立腹してじだんだを踏んだ。「いい歳をして、かくれんぼだなんて。粋狂(すいきょう)も休み休みにして頂戴よ!」

「でも、一時間内に探し出さねば、百円とられるんだよ」甲斐爺が口をとがらせた。一時間を過ぎると、二十分毎に五十円ずつ加算されるんだ。たまった話か」

「かくれんぼをやりたかったら、外でやっとくれ!」木見婆はなおもつづけてじだんだを踏み、その振動で胡瓜(きゅうり)が一本、調理台からころころと床にころげ落ちた。「ここは立入禁止だよ。院長先生に言いつけるわよ。こんなところにニラ爺さんをかくすわけが、あたしにあるとでも言うの」

「だって、さっきニラ爺さんの名を出したら」森爺がなおもうたがわしげな声を出した。「とたんにあんたはへたヘたと、元気がなくなったじゃないか。だからニラ爺がいると、わしらは思ったんだ」

「そうだ。そうだ」甲斐爺が冷蔵庫の把手(とって)に手をかけた。「この中かも知れないな」

「そこはムリだろう」と森爺が手で制した。「いくらニラ爺の身体が小さくても、そこには這入れないよ。第一そこだったら、ニラに煙はたちまち冷凍人間になっちまう」

「へたへたとなろうと、むくむくとなろうと、あたしの勝手だよ」木見婆は憤然ときめつけて、床(ゆか)から胡瓜を拾い上げた。「あたしもちょっとニラ爺さんに用事があるんだよ。ニラ爺さんを見付けたら、そう言っときな。あたしがカンカンになってるってね。あのおしゃべり爺!」

「ここにもいないのか」未練そうに冷蔵庫の把手から手を放しながら、甲斐爺は吐息をついた。「ここにもいないとすれば、あいつら、どこにもぐり込んでいやがるのか。メーターがどんどん上るじゃないか。困った。困ったなあ」

「困ったなあ」書類戸棚の中で、ニラ爺が何度目かの切なげな嘆息をもらした。「ほんとに進退谷(きわ)まった」

 煙爺はそれに答えず、黙然と膝を抱き、頭をしょんぼりと垂れていた。戸棚の中で、戸板の隙間や節穴から入る光線は、縞(しま)や筒となり、内部をぼうと明るくしていた。そこに一尺ほどの高さにしきつめられているのは、よれよれの古記録や古書類のたぐいであった。それから蒸れたようなかびのにおいが立ちのぼり、紙魚(しみ)かがちょろちょろと這い回っている。ニラ爺に煙爺は、それらの堆積を座蒲団がわりにして、木乃伊(みいら)の如くちょこなんとちぢこまり、苦しそうにまた憂鬱そうに眉根を寄せていた。扉の外から隙間や節穴を通して、器物のカチャカチャ触れる音や咀嚼(そしゃく)音、旨そうなものの匂いなどが、遠慮なく侵入してくるのだ。煙爺の下腹がグルルと音を立てた。

「栗山書記がまだ出て参りませんので、細部までは行き届きませんでしたが、以上が大体の今月の報告です」黒須院長は帳簿をぱたりと閉じ、一座をにこやかに見回しながら、グラスに手を伸ばした。「今月だけで見ると、あまり成績が上らないように思われるかも知れませんが、まあ当院のような事業は、いわば継続事業とでも称すべきものですから、経営者側におかれましても、長い目で見ていただきたいと思いますな」

 沈黙が来た。院長卓をかこんだ六人の男女は、そのしばらくの沈黙を、しきりと箸を動かし、またグラスを口に持って行ったりした。報告を検討するというより、咀嚼や玩味(がんみ)の方に忙がしい風なので、院長はほっとした表情でグラスを卓へ戻し、大きなハンカチを取り出してごしごしと額の汗を拭いた。陽光の加減で、室内の温度もかなり上昇していたのだ。

「これ、ピチピチしていて、おいしいわね」女高利貸がオムレツにつけ合わせた桃色トマトの一片を箸でつまみ上げた。「これ、当院で採れたの?」

「そうです」院長は莞爾(かんじ)としてうなずいた。「畠にしてみて初めて判ったんですが、ここらは実に地味(ちみ)が肥えていましてねえ、野菜栽培(さいばい)にはまったく好適の土地でしたよ」

「一年前の院長の英断が当ったというわけだね」酔いで額をうすあかくした食堂主が、同じくトマトをつまみながら口を入れた。「芝生を畠に一挙に改変するなんて、なかなかいい着眼だったよ。引っ剝(ぱ)がしたあの芝生は、いくらで売れたっけ」

「あれは上質の高麗芝(こうらいしば)でしたから」院長は帳簿をぺらぺらとめくった。フ兄えと、一坪当り百八十円でした。収入はちゃんと別途会計に繰り入れてあります」

「芝屋に売らないで、直接需要者に売ったら、もっと高値でさばけただろうねえ」運送屋が残念そうに言った。「今高麗芝の上等は、二百五十円から三百円してるよ」

「売り惜しむと時期外(はず)れになるんでねえ」と院長は弁解した。「芝生も植込みの時期があるんですよ。そこを外すと、値段もぐんとたたかれるんだ」

「で、在院者たちは」菓子屋が言った。「畠仕事に喜んで精を出しているかね。不平不満の向きも少しはあると聞いたが」

「まあどうにかやっています」院長もトマトをつまんで、べろりと口中に放り込んだ。「輪番制ですから、大した負担にはならないんですよ。しかし一部には、働いただけの報酬をよこせという声もありますが」

「今のところは無報酬というわけだね」

「そうです。園内の栽培物は、結局在院者の口に入るんですからな。それにわたしはかねがね、在院者に向って、適当な労働は長寿の秘訣だと言い聞かしてある。まったく畠仕事というやつは健康なものですからねえ」

「長寿の秘訣もいいけれど」教授がグラスを乾して口を出した。「皆が長寿を保ったら、当院としては困るじゃないか。さっきの報告によれば、今月も先月も死亡者は一人も出ていない。二ヵ月間一人も死なないなんて、当院始まってのことだよ。こんなに回転率が悪くては、とても経営は成り立たないぜ」

「そのこともわたしはいろいろ考えておりますが」院長はごまかすようにパセリをつまんでがしがしと嚙んだ。「近頃老人がなかなか死なないということは、当院だけのことでなく、世界一般、日本人全般のことでして、現に戦前にくらべると、日本人の平均寿命はぐんと伸びている。これひとえに、予防医学の発達普及、栄養剤の進歩、抗生物質の発見、生活水準の復帰、その他のいろんな原因によって、寿命がぐんぐんと伸びました。だから当院だけを問題にされると、院長の立場としても困るんですがね」

「しかし経営が成立しなきゃ、元も子もないじゃないか。僕らは慈善事業をやっているんじゃないからね」教授は気取った手付きで、鼻眼鏡の位置を正した。「どうにかしてそこを調整する必要がある。そうでないと僕は経営から手を引かざるを得ない」

「わたしも」

「おれも」

「僕も」

「わたしもよ」

 残る四人が異口同音に唱和したので、黒須院長はいささか狼狽の気配を示し、またハンカチで額をごしごし拭った。

「入所の資格年齢を、すこし引き上げてはどうですか」肥った食堂主がオムレツを引っくり返しながら提案した。「入所年齢が六十歳、払込金額が十万円。これで七十も八十も生き延びられては、とてもやっては行けませんやね。どうです。入所年齢を六十五歳ぐらいに引き上げては?」

「いっそのこと、七十歳に引き上げたらどうだね」と菓子屋。

「いや七十歳だと集まりが悪くなるだろう」と運送屋。

「空き人員に対して、入所希望者数が下回ることは、経営上面白くないよ」

「婆さんの入所を許可したら」と菓子屋。「希望者数が下回ることはないだろう」

「婆さんはダメだよ」と食堂主がむちむちと肥った手を振った。「婆さんの入所を許可すると、爺さんたちが張り切って、ボルモン分泌の機能を回復して、ますます長生きになってしまうよ。折角生命力が尽き果てる方向にむかっているのに、そんな刺戟を与えて逆行させる手はないよ」

「爺さんだけのことでなく、婆さんという奴はまったく長生きするよ」と運送屋。「女は男よりたしかに十年は長生きする。女って奴は図々しいからな」

「図々しくってお気の毒さま」女金貸が身体をくねくねさせて拗(す)ねた。「どうせ女は図々しいわよ」

「ごめん。ごめん」運送屋は頭に手をやってあやまった。「おれ、一般的な開題として発言したんだよ。気に障ったらあやまるよ」

「ではやはり中(なか)をとって、暫定的に六十五歳にしますか」

教授がぐるぐると一座を見回した。「異存ございませんね。では満場一致で、入所資格年齢の規約改正が成立しました」

 黒須院長は大急ぎで会議録を開き、規約改正の件を記入した。

「今、在院者は何人でしたかね」女金貸が院長に訊ねた。

「ええ。九十九名です」

「九十九名。半端(はんぱ)な数なのね。もうすこし詰まらないの?」

「ええ、それはとても!」院長は、大げさに掌を振った。

「わたしが着任した時は総数六十六名。つまり一部屋に二名宛でしたが、それを無理して三人一部屋にこぎつけた。人員の五割増しですな。在院者の猛反対を押し切って、わたしがこの企画を敢行し成功したことは、皆さんの記憶にも新しいことと思います」

 院長は鼻翼をうごめかして、得意げに一座を見回した。

「そういう経緯(いきさつ)でありますからして、この際一部屋の収容人員を殖やすことは、現在の段附では先ず無理でしょうな。強行すると、かえって在院者の気持を刺戟して、まずいことになるでしょう。現に在院者の一部から、寮舎増築の要求も出ています」

「寮舎増築?」菓子屋が眼を剝(む)いた。「そんな無茶な!」

「だからわたしが押えてあるのです」

「一部屋三人というと、一人当り二畳ね」と女金貸が言った。「二畳あれば充分じゃない? 爺さんはしなびているから、体積や表面積が小さいし、二畳でも広過ぎるくらいだわ。都立の養老院ではどうなってるの?」

「板橋養老院では、目下のところ、一・一畳です」院長は言いにくそうに発言した。「もっとも将来は、一・五畳にまで拡げる予定だとのことですが」

「じゃ、うちも一・五畳にしたらどう?」女金貸は食い下った。「二畳なんてぜいたく千万よ」

「将来は知らず、現在の段階では無理です」院長は頑張った。女金貸の言い分を入れて、増員を断行する自信が院長になかったのだ。「折角今のところ、一部の不良老年をのぞいて在院者の大部分は、わたしをすっかり信頼し、かつ心服している。これは大切なことですからな。院内行政は在院者の信頼なくしては出来ません。わたしが在院者の信頼をなくすと、かえってあなた方の損になりますよ。わたしの立場にもなってみて下さい」

「それもそうだな」教授がグラスをなめながら、ややおだやかな口を利いた。「院長としては、あくまで在院者の味方だというゼスチュアを見せて置く必要があるだろうな」「そうです。そうです」院長は理解者を得て、喜ばしげに合点々々をした。「そこらのかね合いややりくりが、とてもむつかしいのです」

「我が国の総理大臣、今の総理や先代の総理大臣、あの人たちのやり口を二匿徹底的に研究してみるんだな。なあ、院長」そして教授が空のグラスをにゅっと差出したので、院長はそれにウィスキーをどくどくと注いでやった。「ことに先代の総理大臣は、すっかり国民の代表であり味方であるようなふりをしながら、実に巧みに外国にまるまる奉仕したからな。あの巧妙な手口を是非院長も学ばんけりゃならんよ」

「そうです。そうします」

 総理大臣になぞらえられて、院長はすっかりいい気持になり、にこにこしながら自分もグラスを唇に持って行った。教授は続けた。

「とにかく何かをやろうとする場合、考えたりためらったりすることなく、先ず事実をつくってしまうんだ。それが肝要だ。いわゆる既成事実というやつだね。既成事実さえ出来れば、理屈や弁解はあとからどうにでもつくもんだ。自衛隊なんかがその一等好い例だね。その点において、一部屋三人の既成事実を強引(ごういん)につくったのは、これはまったく院長の手腕であり功績だった」

「それなら更(さら)に進めて」と女金貸。「一部屋四人の既成事実をつくったらどう?」

「それはやはりかえってまずい」と食堂主が院長の肩を持った。「そうすれば、院長は在院者の味方でなく、我々の手先だということが、ばれてしまいはしませんか」

「そうです。そうです」院長はますますにこにこしながら、自分のグラスに液体を充たした。「在院者たちは実に敏感で、猜疑(さいぎ)の念に富んでいますからねえ。うっかりしたことは出来ませんよ」

「と言って、在院者たちに感傷的な同情を持ってはいけないよ。事業に感傷は禁物だ」教授が、釘をさした。「近来学問の発達によって、有機物と無機物の差がだんだんなくなって来た。科学は有機物をも合成出来る方向に進みつつある。生命だって蛋白質(たんぱくしつ)の配列によることが判ってきたのだ。だから遠からず生命も合成されるようになるだろう。すなわち現今にあっては人間は物質だ。爺さんというのは、老朽した物質にほかならん。つまり老朽物質以外のものとして老人を考えてはならないのだ。その点において、院長はまだ若いから、老人に対して甘い考えを持っているんじゃないかね。あいつらは単に朽ち果てて行く物質に過ぎないのだよ。人間だと考えるからいけない。人間なんていう特別のものは、もはやこの宇宙には存在しないんだ」

「そう、そうです」院長はへどもどしながら答えた。「わ、わたしも大体そういう風(ふう)に、考えてはいるんですが――」

「老人は老朽物質だ。と同時に、我々は現在生動しているところの動物だ」教授の口調はだんだん講義風になってきた。「我々自身が物質であるという認識の上に立ってのみ、我々は老人を老朽物質として眺め得る。これが原子時代における新しい視角であり理念なのだ。夕陽養老院の経営もその理念の上に立てられるべきだ。いいかね、院長。僕も物質だが、君も物質だよ。物質以外の何ものでもないよ」

「わたしもだ」

「おれも」

「僕も」

「あたしも物質よ」

 面々は遅れじとそれぞれ宣言した。そして院長を含む六人の物質は、お互いに顔を見合わせ、何となくにやりと笑み交し、何となくそろってグラスを取り上げた。書類戸棚の中でニラ爺が煙爺にささやきかけた。

「むつかしい話をしてるねえ。まだ終らんのかなあ」

 空腹に比例して、耳が冴えてくるのだ。聴覚のみならず視覚や触覚や嗅覚も、しだいにするどくなってくる傾向にあった。二老人はひしとちぢこまったまま、外界の気配に感覚をとぎ澄ましていた。節穴からグラスのカチリと触れ合う音と共に、面々の声が流れ入ってきた。

「乾杯」

「乾杯」

「乾杯」

「只今の人開物質説には感服しましたな」運送屋が童顔をほころばせて教授に言った。「物質。まったくそうですな。眼からウロコが落ちたような気がしましたよ」

「わたしも昨日、街で飯を食いながら、そんなことを考えましたな」二本目のウィスキー角瓶の栓を抜きながら、院長が言った。「小さな鰻(うなぎ)屋でしたが、その調理場の傍の小部屋に、小柄な婆さんが縫物か何かしていた。その後ろ姿を見て、ああこの婆さんは死ぬために生きている、そういう感じがわたしの胸を強く打ったのです。だから我々壮者は、あらゆる手を尽して、老いたる者を死なしめて上げなくてはならない。死ぬということが彼等の生の目的ですからね。そうすることが、わたしたち壮者の責務であり、義務というものです。そうわたしは考える」

「老人というものは」と菓子屋。「死ぬために生きているのか?」

「そうです」院長は得々として大きくうなずいた。「子供は何のために生きているか。若者になるために生きている。その若者は大人になるために生きている。それと同じことですよ」

「その論法で行くと――」運送屋が面白くなさそうに、口をもごもごさせて言った。「おれたちは、爺さんになるために、生きているのかね?」

「するとあたしは」女金貸も不快そうに口を入れた。「婆さんになるために生きてるとでもいうの?」

「いや、それは」論理の盲点をつかれ、院長はへどもどして、ウィスキーの小量を卓にこぼした。「わ、わたしたちは違う。違うような気がする。わたしはただ、鰻屋の婆さんを見た時、そんなことを感じたと申し上げたかっただけです。実際あそこの鰻はおいしゅうござんしたなあ。アッハッハア」

「抽象的な話はそれくらいにして」教授は忙しげに袖をまくり、腕時計を一瞥(いちべつ)した。「今後の経営の具体的方針に、そろそろ入ろうではありませんか。今の状態では、財政はジリ貧になる一方だ。強力な政策によって、打開策を講じなくてはならないと僕は思う」

「そうです。そうです」

「お互いに忙しい身体であるからして」教授は重々しく言った。「進行もてきぱきと願いましょう。院長。もう一杯、ウィスキーを呉れえ」

[やぶちゃん注:「富士のお山だって、立入禁止になる世の中だよ」種々調べて見たが、本作初出(『群像』昭和二九(一九五四)年八月号から翌年七月号連載)以前に富士山が全面入山禁止となった事実は見当たらない。充分な計画や装備がされていない夏山期間以外の富士登山は禁止とされている(但し、法的規制ではない)。但し、この頃から、恐らくは、富士の登山に最適な夏山期間(一般的に本邦の登山総体には夏季登山という認識があり、概ね七月上旬から九月上旬を指す)外の、高高度であるために登山用の重装備と熟練した登山技術を持たないと極めて危険な厳冬期(富士の場合は概ね十二月後半から三月一杯)は、仮に経験者であってさえも山頂は目指すべきではないと山屋の間でも常識として認識されており(昨年二〇一九年十二月一日からは十二月一日から三月三十一日までの期間の富士山の三千メートル以上の登山では登山届が義務化されている)、そうした保全認識や入山規制及び立入禁止区域の指定などを、木見婆さんは山登りという境界や占有利権者がいないはずの自然の日本一の「富士のお山だって」「立入禁止」という謂いとなったものであろう。富士演習場の米軍摂取は場所が場所で、それを謂っているというのは無理がある。

「じだんだを踏んだ」「地団太」の意味は怒ったり悔しがったりして、激しく足を踏み鳴らすこと。「地団太」「地団駄」などと漢字を当てるが、本来は、鍛冶に用いる足で踏んで送風する方式の大きな鞴(ふいご)を指す「地蹈鞴(じたたら)」の音変化で、転じて、怒ったり悔しがったりして、足で地を何回も踏みつけることを言うようになった。

「進退谷(きわ)まった」この「谷」は動詞で「窮(きわ)まる・行き詰まる」の意で、流れを遡って谷にぶつかってしまえば、それ以上進めずに窮まってしまうことから、後へも先へも行けぬ意となったもの。原拠は「詩経」の「大雅」に所収する「桑柔」という治世の乱れを嘆く詩篇の一節、「人亦有言 進退維谷」(人 亦た言へること有り/進退 維(こ)れ 谷(きは)まれり)に基づく。

「先代の総理大臣」吉田茂。第五次吉田内閣は昭和二八(一九五三)年五月二十一日から昭和二九(一九五四)年十二月十日であるが、第一次(昭和二三(一九四八)年十月十五日就任)から連続しており、通算二千六百十六日も在任した。本章の初出は既に昭和三〇(一九五五)年になってからのものと推定される。

「自衛隊なんかがその一等好い例だね」昭和二九(一九五四)年七月一日、吉田茂は保安庁と保安隊を防衛庁と自衛隊に改組させ、野党が自衛隊は軍隊であるとして違憲と追及した際には彼は「軍隊という定義にもよりますが、これにいわゆる戦力がないことは明らかであります」と答弁している(「自衛隊法」及び「防衛庁設置法」の公布は同年六月九日で、七月一日は両法の施行日)。]

今日――Kはお嬢さんへの切ない恋情を先生に告白する――

 其内年が暮れて春になりました。ある日奥さんがKに歌留多(かるた)を遣るから誰か友達を連れて來ないかと云つた事があります。するとKはすぐ友達なぞは一人もないと答へたので、奥さんは驚ろいてしまひました。成程Kに友達といふ程の友達は一人もなかつたのです。往來で會つた時挨拶をする位(くらゐ)のものは多少ありましたが、それ等だつて決して歌留多などを取る柄ではなかつたのです。奥さんはそれぢや私の知つたものでも呼んで來たら何うかと云ひ直しましたが、私も生憎そんな陽氣な遊びをする心持になれないので、好(よ)い加減な生返事をしたなり、打ち遣つて置きました。所が晩になつてKと私はとう/\御孃さんに引つ張り出されてしまひました。客も誰も來ないのに、内々(うちうぢ)の小人數(こにんず)丈で取らうといふ歌留多ですから頗る靜なものでした。其上斯ういふ遊技を遣り付けないKは、丸で懷手をしてゐる人と同樣でした。私はKに一體百人一首の歌を知つてゐるのかと尋ねました。Kは能く知らないと答へました。私の言葉を聞いた御孃さんは、大方Kを輕蔑するとでも取つたのでせう。それから眼に立つやうにKの加勢をし出しました。仕舞には二人が殆ど組になつて私に當るといふ有樣になつて來ました。私は相手次第では喧嘩を始めたかも知れなかつたのです。幸ひにKの態度は少しも最初と變りませんでした。彼の何處にも得意らしい樣子を認めなかつた私は、無事に其塲を切り上げる事が出來ました。

 それから二三日經つた後(のち)の事でしたらう、奥さんと御孃さんは朝から市ケ谷にゐる親類の所へ行くと云つて宅を出ました。Kも私もまだ學校の始まらない頃でしたから、留守居同樣あとに殘つてゐました。私は書物を讀むのも散步に出るのも厭だつたので、たゞ漠然と火鉢(ひはち)の緣に肱(ひじ)を載せて凝(じつ)と顋(あご)を支へたなり考へてゐました。隣の室にゐるKも一向音を立てませんでした。双方とも居るのだか居ないのだか分らない位靜でした。尤も斯ういふ事は、二人の間柄として別に珍らしくも何ともなかつたのですから、私は別段それを氣にも留めませんでした。

 十時頃になつて、Kは不意に仕切の襖を開けて私と顏を見合せました。彼は敷居の上に立つた儘、私に何を考へてゐると聞きました。私はもとより何も考へてゐなかつたのです。もし考へてゐたとすれば、何時もの通り御孃さんが問題だつたかも知れません。其御孃さんには無論奥さんも食付(くつつ)いてゐますが、近頃ではK自身が切り離すべからざる人のやうに、私の頭の中をぐるぐる回つて、此問題を複雜にしてゐるのです。Kと顏を見合せた私は、今迄朧氣(おぼろげ)に彼を一種の邪魔ものゝ如く意識してゐながら、明らかに左右と答へる譯に行かなかつたのです。私は依然として彼の顏を見て默つてゐました。するとKの方からつか/\と私の座敷へ入つて來て、私のあたつてゐる火鉢(ひはち)の前に坐りました。私はすぐ兩肱(りやうびず)を火鉢(ひはち)の縁から取り除けて、心持それをKの方へ押し遣るやうにしました。

 Kは何時もに似合はない話を始めました。奥さんと御孃さんは市ケ谷の何處へ行つたのだらうと云ふのです。私は大方叔母さんの所だらうと答へました。Kは其叔母さんは何だと又聞きます。私は矢張り軍人の細君だと敎へて遣りました。すると女の年始は大抵十五日過だのに、何故そんなに早く出掛けたのだらうと質問するのです。私は何故だか知らないと挨拶するより外に仕方がありませんでした。

(以上、『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月21日(火曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第八十九回より。太字は私が附した)

 「Kは中々奥さんと御孃さんの話を己(や)めませんでした。仕舞には私も答へられないやうな立ち入つた事迄聞くのです。私は面倒(めんたう)よりも不思議の感に打たれました。以前私の方から二人を問題にして話しかけた時の彼を思ひ出すと、私は何うしても彼の調子の變つてゐる所に氣が付かずにはゐられないのです。私はとう/\何故今日に限つてそんな事ばかり云ふのかと彼に尋ねました。其時彼は突然默りました。然し私は彼の結んだ口元の肉が顫(ふる)へるやうに動いてゐるのを注視しました。彼は元來無口な男でした。平生(へいせい)から何か云はうとすると、云ふ前に能く口のあたりをもぐ/\させる癖がありました。彼の唇がわざと彼の意志に反抗するやうに容易(たやす)く開(あ)かない所に、彼の言葉の重みも籠つてゐたのでせう。一旦聲が口を破つて出るとなると、其聲には普通の人よりも倍の强い力がありました。

 彼の口元を一寸眺めた時、私はまた何か出て來るなとすぐ疳付(かんづ)いたのですが、それが果して何の準備なのか、私の豫覺は丸でなかつたのです。だから驚ろいたのです。彼の重々しい口から、彼の御孃さんに對する切ない戀を打ち明けられた時の私を想像して見て下さい。私は彼の魔法棒(まほふぼう)のために一度に化石されたやうなものです。口をもぐ/\させる働さへ、私にはなくなつて仕舞つたのです。

 其時の私は恐ろしさの塊りと云ひませうか、又は苦しさの塊りと云ひませうか、何しろ一つの塊りでした。石か鐵のやうに頭から足の先までが急に固くなつたのです。呼吸をする彈力性さへ失はれた位(くらゐ)に堅くなつたのです。幸ひな事に其狀態は長く續きませんでした。私は一瞬間の後(のち)に、また人間らしい氣分を取り戻しました。さうして、すぐ失策(しま)つたと思ひました。先(せん)を越されたなと思ひました。

 然し其先を何うしやうといふ分別は丸で起りません。恐らく起る丈の餘裕がなかつたのでせう。私は腋の下から出る氣味のわるい汗が襯衣(しやつ)に滲み透るのを凝と我慢して動かずにゐました。Kは其間何時もの通り重い口を切つては、ぽつり/\と自分の心を打ち明けて行きます。私は苦しくつて堪りませんでした。恐らく其苦しさは、大きな廣告のやうに、私の顏の上に判然りした字で貼り付けられてあつたらうと私は思ふのです。いくらKでも其處に氣の付かない筈はないのですが、彼は又彼で、自分の事に一切を集中してゐるから、私の表情などに注意する暇(ひま)がなかつたのでせう。彼の自白は最初から最後まで同じ調子で貫ぬいてゐました。重くて鈍い代りに、とても容易な事では動かせないといふ感じを私に與へたのです。私の心は半分其自白を聞いてゐながら、半分何うしやう/\といふ念に絕えず搔き亂されてゐましたから、細かい點になると殆ど耳へ入らないと同樣でしたが、それでも彼の口に出す言葉の調子だけは强く胸に響きました。そのために私は前いつた苦痛ばかりでなく、ときには一種の恐ろしさを感ずるやうになつたのです。つまり相手は自分より强いのだといふ恐怖の念が萌し始めたのです。

 Kの話が一通り濟んだ時、私は何とも云ふ事が出來ませんでした。此方も彼の前に同じ意味の自白をしたものだらうか、夫とも打ち明けずにゐる方が得策だらうか、私はそんな利害を考へて默つてゐたのではありません。たゞ何事も云へなかつたのです。又云ふ氣にもならなかつたのです。

 午食(ひるめし)の時、Kと私は向ひ合せに席を占めました。下女に給仕をして貰つて、私はいつにない不味い飯を濟ませました。二人は食事中も殆ど口を利きませんでした。奥さんと御孃さんは何時歸るのだか分りませんでした。

『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月22日(水曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第九十回の総て。太字下線は私が附した)

   *

私は、意外なことに、若き日に読んだ折り、この最後の最後の上辺だけの日常のシークエンスを脳裡に再現して、そこに激しい強い衝撃を受けたことを思い出す。この昼飯のシーンのカット・バックに、私は、名状しがたい痛烈な悲しみを感じたのである……

2020/07/21

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 去来 五 / 去来~了

 

        

 

 去来とその郷貫(きょうかん)たる長崎とについては自(おのづか)ら専門研究家の手に俟たねばならぬものが多い。長崎帰省の如きも何度かあったことと思うが、句の上においてそれが著しく目につくのは元禄十二年[やぶちゃん注:一六九九年。]以後である。

   長崎立春
    幼ころ此浦を出四十の後春をむかへて
    みやこを古郷となす

 うぶすなにあまへて旅ぞ花の春 去来(小弓誹諧)

[やぶちゃん注:「郷貫」「貫」は「本貫地(ほんがんち)」などと使うように「戸籍」の意。本籍或いは郷里のこと。

「幼ころ」は「をさなきころ」、「出」は「いで」、「後」は「のち」、「古郷」は「ふるさと」。「うぶすな」ここは生まれた土地の守り神の意の「産土神(うぶすながみ)」を通わせながら、「その人の生まれた土地・生地」の意。「小弓誹諧」「小弓誹諧集」。東鷲編。元禄十二年刊。]

   長崎にて

 浦人を寐せて海見る月夜かな  去来(誹諧曾我)

[やぶちゃん注:「寐せて」「ねせて」であろう。「ねかせて」では字余りの弛みが厭だ。「誹諧曾我」白雪編。元禄十二年自序。]

   崎陽に旅寝の比

 故郷も今はかり寝や渡鳥    同(けふの昔)

[やぶちゃん注:「崎陽」は「きよう」で長崎の異名。「比」は「ころ」。]

   長崎のうらに旅ねせし年

 とし波のくゞりて行や足のした 同(青蓮)

[やぶちゃん注:上五は寄る年波を匂わせた諧謔。当時(元禄十二年で)、去来数え四十九。]

   長崎にて

 海を見る目つきも出ず花の空  同

[やぶちゃん注:花の春の駘蕩たる空(陸)景色の方にどうしても目移りがしてしまい、故郷の懐かしい海本来の美景に目が向かぬというのであろう。]

 この帰省は恐らく元禄十一年、即ち『梟日記』に支考との応酬があった時であろう。秋の句の多いことから推して、「この人は父母の墓ありて此秋の玉祭(たままつり)せむとおもへるなるべし」という支考の言葉は首肯出来るが、同じく諸書に散見する九州方面の句も、やはりこの時の作と思われる。

[やぶちゃん注:「梟日記」は各務支考が元禄一一(一六九八)年四月二十日に難波津を門出した西国旅行の俳文。長崎七月九日に着き、二日後の十一日に、思わずも京から下向してきた去来に逢う。「四」に以下の条が概ね出ているのであるが、どうも新字が気に入らない。今回は国立国会図書館デジタルコレクションの大正一五(一九二六)年蕉門珍書百種刊行会刊「蕉門珍書百種 第十編」の当該部を視認して二日分のそれを正字で電子化しておく(踊り字は「〱」は「々」に代えた。字配りは再現していない。句読点と濁点を補った)。

   *

十一日

此日、洛の去來、きたる。人々、おどろく。この人は父母の墓ありて、此秋の玉祭せむとおもへるなるべし。此日こゝに會して、おもひがけぬ事のいとめづらしければ、

 萩咲て便あたらしみやこ人

牡年・魯町は骨肉の間にして、卯七・素行はそのゆかりの人にてぞおはしける。この外の人も入つどひて、丈草はいかに髮や長からん。正秀はいかにたちつけ着る秋やきぬらん。野明はいかに野童はいかに、爲有が梅ぼしの花は野夫にして野ならず。落柿舍の秋は腰張へげて、月影いるゝ槇の戶にやあらんと、是をとひ、かれをいぶかしむほどに

 そくさいの數にとはれむ嵯峨の柿   去來

   返し

 柿ぬしの野分かゝえて旅ねかな    支考

 

十二日

  牡年亭夜話

卯七曰、「今宵は先師の忌日にして、此會、此こゝろ、さらにもとめがたからん。たかく蕉門の筋骨を論し、風雅の褒貶をきかむ。そもそも先師一生の名句といふはいかに。」。答曰、「さだめがたし。時にあひ、をりにふれては、いづれかよろしく、いすれかあしからん。世に名人と上手とのふたつあるべし。名句は無念無想の間より浮て先師も我もあり、人々も又あるべし。名句のなきに有念相の人なればならし。たとへ俳諧しらぬ人も、いはゞ名句はあるべし。上手といふは霧屑をとりあつめて料理せむに、よしとあしきとのさかひありては、しめて、上手・下手の名をわくるならん。吾ともがら、先師のむねをさだめねば、名句の事はしらず。

卯七曰、「公等(キンラ)自讃の句ありや。」。曰、「自讃の句はしらず。自性の句あるべし。」。

 應々といへどたゝくや雪の門

去來

 有明にふりむきがたき寒さかな

評曰、「始の雪の門は、應とこたへて起ぬも、答をきゝてたゝくも推敲の二字、ふたゝび、世にありて、夜の雪の情つきたりといふべし。次の有明はその情幽遠にして、その姿をばいふべからず。」。

 膓に秋のしみたる熟柿かな

                      支考

 梢まで來てゐる秋のあつさかな

評曰、「始の熟柿は西瓜に似て、西瓜にあらず。西瓜は物を染て薄く、熟柿は物をそめて濃ならん。漸寒の情つきたりといふべし。次の殘暑はその情幽遠にして、その姿をばいふべからず。

されば、秋ふたつ冬ふたつ、そのさま、眞草の變化に似たれば、ならべてかく論じたる也。自讃の句は、吾、しらず。是を自性の句といふべし。先師生前の句は、お月、その光におほはれあれども、あるにはあらざらん。筋骨褒貶は沒後の論なるべし。

素行曰、「『八九間空で雨降柳哉』といふ句は、そのよそほひはしりぬ。落所、たしかならず。」。西華坊曰、「この句に物語あり。」。去來曰、「我も有。」。坊曰、「吾、まづあり。木曾塚の舊草にありて、ある人、此句をとふ。曰、『見難し。この柳は白壁の土藏の間か、檜皮ぶきのそりより、片枝うたれてさし出たるが、八、九間もそらにひろごりて、春雨の降ふらぬけしきならん』と申たれば、翁は『障子のあなたよりこなたを見おこして、さりや、大佛のあたりにて、かゝる柳を見をきたる』と申されしが、「續猿蓑」に、「春の烏の畠ほる聲」といふ脇にて、春雨の降ふらぬけしきとは、ましてさだめたる也。」。去來曰、「我はその秋の事なるべし。我別墅におはして、『此春柳の句みつあり、いづれかましたらん』とありしを、『八九間の柳、さる風情はいづこにか見侍しか』と申たれば、『そよ大佛のあたりならずや、げに』と申、翁も『そこなり』とて、わらひ給へり。」。[やぶちゃん注:以下続くが、長いのでここまでとする。リンク先で読まれたい。]

   *]

 

   園木の宿にて小姫のまだらぶしうたふを
   きゝて

 月かげに裾を染たよ浦の秋  去来(小柑子・青莚)

[やぶちゃん注:中七は「すそをそめたよ」。

「園木」は「そのぎ」であるが、不詳。或いは旧彼杵(そのぎ)宿(長崎街道宿場町)のことか。現在の長崎県東彼杵郡東彼杵町彼杵宿郷(そのぎしゅくごう)を中心とした付近か(グーグル・マップ・データ)。但し、「彼杵」を「園木」と書いたという記載は見当たらなかった。

「小姫」少女の親しみを込めた呼称。門付の唄女(うたいめ)か。

「まだらぶし」「まだら」日本海沿岸の港町に多く見られる古い民謡。瀬賀章代氏の論文『石川県輪島崎における古民謡 「まだら」の伝承について』(『歴史地理学』一九九三年九月発行・PDF)によれば(コンマを読点に代えた)、『九州佐賀県の唐津と壱岐にはさまれた壱岐水道に、馬渡(まだら)島がある』(ここ(グーグル・マップ・データ))。『「まだら」とは、この小さな島が発生の地とされる古民謡である。「まだら」はもともと船乗り唄であり、海唄であったが,起舟』(注に『船を起こす祝いの日であり、ふつうは』一月十一日に『行われる。漁師にとっては最も大切な日の一つである。この日を過ぎると漁師は初漁に出てもよいこととなる』とある)『・造船式のみならず、現在では結婚式・「建ちまい(建前)」の際にも唄われ、祝儀唄としての性格がかなり強くなっている』。『「まだら」は海上のルートによって九州から日本海沿岸を北上したと推測され、やや曲節(節まわし)が変化しているものの、明らかに「まだら」と思われる唄が、主に日本海側の各地に散在している。これらの唄を総称して、系統的に「まだら」と呼んでいる』。『「まだら」は、「めでためでたの若松様よ 枝もさかえる葉も茂る」を元唄とする。産み字』(注に『一音の母韻を引いて語るときのその音。たとえば「こそ」を「こそお」と引いて言う「お」の類』とある)『をたくさん持ち、嫋嫋(じょうじょう)とした長い節まわしが特徴であり、書けばわずかこれだけの文句を延々と唄いつなぐ。この長い節まわしが、「まだら」であるかどうかを判定する際の大きな指標となっている。あまりに長い節まわしのため、田んぼで農作業していた農民が「まだら」を唄いはじめ、牛をひいて我が家に帰り、再び田んぼへ戻り、二度目に我が家へ帰着したら、ようやく唄い終わったというエピソードもあるほどである』とある。詳しくは同論文を読まれたい。

「小柑子」「小柑子集(しょうこうじしゅう)」は野紅編。元禄十六年自跋。

「青莚」(あおむしろ)は除風編。元禄十三年刊。]

   筑前直方にて

 行秋や花にふくるゝ旅衣   同(はつたより)

[やぶちゃん注:現在の福岡県直方(のおがた)市(グーグル・マップ・データ)。]

   宰府奉納

 幾秋の白毛も神のひかりかな 同(そこの花)

[やぶちゃん注:「宰府」大宰府。「白毛」は「しらが」。「そこの花」は万子編。元禄十四年刊。]

   小倉にて七夕のひる

 七夕をよけてやたゝが舟躍り 同(泊船集)

[やぶちゃん注:「やたゝ」は「矢楯(やたて)」の音の交替形「やたた」か。軍陣の矢や鉄砲の攻撃を防ぐための防御具で、ここは船端にかける小楯であろう。七夕の日の歴史絵巻の軍船のショーがあったものか。]

   七夕は黒崎沙明にて

 うちつけに星待顔や浦の宿  同

[やぶちゃん注:「黒崎」(くろさき)「沙明」(さめい)黒崎は黒崎宿で、現在の福岡県北九州市八幡西区黒崎。洞海湾の南岸。当時の洞海湾はもっと広かった。当時、この宿の商人富田屋(関屋)沙明(富田甚左ヱ門。砂明とも)が蕉門俳人として知られていた。中七は「ほしまつかほや」。]

   田上といふ山家にて

 山家にて魚喰ふ上に早稲の飯 同

[やぶちゃん注:「田上」現在の滋賀県大津市の田上(たなかみ)地区(グーグル・マップ・データ航空写真。非常に広域で、「田上」を持つ地名が複数ある。山間部である)であろうか。]

   田上の名月

 名月や田上にせまる旅心   同(けふの昔)

[やぶちゃん注:「けふの昔」朱拙編。元禄十二(一六九九)年刊。]

   はかたにて

 五里の浜月を抱て旅寐かな  同(当座払)

[やぶちゃん注:「抱て」は「かかへて」。「当座払」(とうざはらひ)は千山編。元禄十六年自序。]

   福岡にて

 福岡や千賀もあら津も雁鱸  同(菊の道)

[やぶちゃん注:「千賀」は「ちが」、座五は「かり/すずき」。

「千賀」は「値嘉(ちが)の浦」のこと。現在の福岡県の海の古称とも、長崎県及び五島列島周辺の海の古称ともされる。

「あら津」福岡県福岡市中央区荒津(グーグル・マップ・データ)。福岡湾東南の湾奥の突先に位置する。

「雁」は「かり」と読んでいよう。広義のガン(「鴈」「雁」)は鳥綱Carinatae 亜綱Neornithes 下綱Neognathae 小綱カモ目カモ科ガン亜科 Anserinae の水鳥の中で、カモ(カモ目カモ亜目カモ科 Anatidae の仲間、或いはカモ科マガモ属 Anasより大きく、ハクチョウ(カモ科Anserinae 亜科 Cygnus 属の六種及び Coscoroba  属の一種の全七種)より小さい種群を総称する。詳しくは私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鴈(かり・がん)〔ガン〕」を参照されたい。

「鱸」は淡水魚である条鰭綱棘鰭上目スズキ目スズキ亜目スズキ科スズキ属スズキ Lateolabrax japonicus。淡水魚と私が書くのを不審に思われる方は、私の「大和本草卷之十三 魚之上 鱸 (スズキ)」の注を読まれたい。

「菊の道」紫白女(しはくじょ 生没年未詳)編。元禄一三(一七〇〇)年京都井筒屋刊。本邦初の女性による俳諧撰集として知られる。江戸前期から中期の俳人で肥前田代(佐賀県)の人。夫の寺崎一波とともに蕉門の坂本朱拙に学び、のち志太野坡に師事した。初号は糸白で、女を付けず紫白とも号する。]

   黒崎にて探題

 気づかうて渡る灘女や鱸釣  去来(旅袋集)

[やぶちゃん注:「探題」詩歌の会に於いて幾つかの題の中から籖引きのようにして取った題で詩歌を作ることを言う。座五は「すずきつり」。

「灘女」「なだめ」で海の浅瀬を歩いて渡って行く女性。海女と限定する必要はなく、海藻や貝などを漁っていると限定するのも要らぬお世話だ。まあ、漁師の妻か娘ではあろうが、何か必要があって、服をたくし上げて、一心に力強く、海歩く女を点景させるのが、私はよいと思う。というか座五こそ要らぬお世話で、私は鼻白む。

「旅袋集」「旅袋」。路健編。元禄十二年序。]

   筑前博多にて

 菊の香にもまれてねばや浜庇 同(そこの花)

[やぶちゃん注:座五は「はまびさし」。言わずもがなであるが、「新古今和歌集」(巻第四 秋歌上)の藤原定家の歌で、「三夕の歌」の一首として知られる(三六三番)、

   西行法師すゝめて百首歌よませ
   侍りけるに

 見わたせば花も紅葉もなかりけり

         浦のとまやの秋の夕暮

のインスパイアである。]

 

 宝永元年に至り、去来は甥の卯七と協力して『渡鳥集』を上梓した。巻の最初に芭蕉の「日にかゝる雲やしばしのわたりどり」を置き、続いて十九人の渡鳥の句を掲げてあるが、「渡鳥」の名の由って来るところは、長崎に帰った去来の心境、「故郷も今はかり寝や渡鳥」の一句にあるのではないかと想像する。

 『渡鳥集』の中には去来の書いた「入長崎記」[やぶちゃん注:「長崎に入るの記」。]がある。「長途に垢つける衣装の上に腰刀よこたへ、あぶつけといふ物鞍坪にくゝり付、笠まぶかに両足ふらめかし」て、「漸く弟の家にたどり入」った去来が、長崎の様子を略叙したもので、「折ふしの盆会に照り渡りたる燈籠の火影(ほかげ)」を見ては、

 見し人も孫子になりて墓参      去来

[やぶちゃん注:「孫子」「まご・こ」。座五は無論、「はかまゐり」。]

の感を深うせざるを得なかった。短いながらも引締った文章であるが、この末に「故郷も今はかり寝」の一句あるによって、元禄十一年帰省の際のものたることは明である。

[やぶちゃん注:「宝永元年」一七〇四年。

「渡鳥集」は写本が早稲田大学図書館古典総合データベースのここで読め(全篇一括のPDFはこちら)、その冒頭に「入長崎記」がある。非常に綺麗な写本で読むに苦労がない。是非、見られたい。

「あぶつけ」「鐙付」あぶみつけ)」の変化した語か。乗掛馬(のりかけうま)の両脇に付けた荷物。]

 

 去来はこの時かなり長く郷里に滞在していたらしい。前に挙げた「とし波」の句、「うぶすな」の句は、その年をここに送った消息を物語っている。「海を見る目つきも出ず花の空」の前書に「田上尼の前栽の花見にまねかれて」とあるのを見れば、花の咲く時分までとどまっていたものであろうか。『渡鳥集』にはなおいくつも収穫を存している。

[やぶちゃん注:「田上尼」(たがみのあま ?~享保四(一七一九)年)は長崎の人。箕田勝(みのだ かつ)。去来の縁者で、夫の没後、長崎近郊の田上に隠居を構えて住んでいたことから、この名がある。去来の弟牡年は彼女の養子であり、卯七は彼女の実家の甥に当たる。発句もものしており、「猿蓑」・「有磯海」などに入集している。]

 

   立山下魯町がもとにて

 山本や鳥入来る星迎へ        去来

[やぶちゃん注:「やまもとやとりいりきたるほしむかへ」。

「立山下」(たてやました)長崎県長崎市立山はここで、丘陵部が多い。その下方に去来の弟で牡年の兄の向井魯町(?~享保一二(一七二七)年:儒学者で長崎聖堂の大学頭や江戸幕府長崎奉行所の書物改役も務めた)は居を構えていたらしい。]

   先放をあくの浦に訪

 八月や潮のさはぎの山かづら     同

[やぶちゃん注:「先放」は「せんぱう(せんぽう)」で去来の友人で長崎の人。生没年未詳で詳細事蹟も不詳。「訪」は「とふ」。

「あくの浦」長崎県長崎市飽(あく)の浦町(うらまち)(グーグル・マップ・データ)。]

   牡年亭にて

 海山を覚えて後の月見かな      同

[やぶちゃん注:月夜となったが、昼の間にそこに見た海山をモノクロームの画面の中に想起しているというのであろう。]

   影照院は崎陽の辰巳に有。
   入江みぎりに廻り、小嶋山
   向に横たふ。吟友支考が
   「蕎麦にまた染かはりけん
   山畠」と聞えしは秋の比に
   や来りけん、其年の名残惜
   まんと人に誘れて

 山畑や青み残して冬構        同

[やぶちゃん注:「冬構」は「ふゆがまへ」。

「影照院」現存しない。ここは現存する長崎県長崎市鍛冶屋町にある浄土宗正覚山中道院大音寺の末庵であった影照院で、寛永一七(一六四〇)年開創であったとされる。現在、その旧影照院の煉瓦造のアーチ型山門(明治元(一八六八)年頃の制作とされる)が残っているだけである(恐らくこれ。グーグル・マップ・データのサイド・パネルの画像)。但し、ということは少なくとも明治前期までは影照院は存在したということが判る。

「辰巳」南東。

「入江みぎりに廻り」当時は長崎湾の東部分がこの辺りまで貫入していたものか。

「小嶋山」「今昔マップ」で見ると、南正面に「小嶋」(現在は複数の「小島」を含む地区に分割されている)の地名と丘陵部を見出せる(現在は宅地化が進んで、山のようには見えない)。この付近を指すと採っておく。]

   先放が別墅

 朝々の葉の働きや杜若        去来

[やぶちゃん注:「別墅」は「べつしよ(べっしょ)」別宅。別荘。「杜若」は「かきつばた」。]

   風叩が春の気色見んと
   舟さし寄けるに乗て

 鶯が人の真似るか梅ケ崎       同

[やぶちゃん注:この句、意味が今一つ腑に落ちない。「風叩」は「ふうこう」去来の俳句仲間と思われるが、不詳。「気色」は「けしき」、「寄けるに乗て」は「よせけるにのりて」。

「梅ケ崎」長崎県長崎市梅香崎町(うめがさきまち)であろう。現在は、内陸地区だが、やはりここにも長崎湾は完全にここまで貫入していたのであろう。]

 いずれにしてもこの長崎行は去来晩年の大きな出来事であり、『渡鳥集』一巻は注目すべきものたるを失わぬ。

 元禄の末から宝永の初へかけての数年ほど、蕉門の有力者が相次いで世を去ったことはあるまい。『有磯海』以来、去来とは因縁の深かった浪化上人が元禄十六年に先ず逝き、翌宝永元年には丈艸も世を去った。浪化追悼の句としては

   悼浪化君

 その時や空に花ふる野べの雪     去来

[やぶちゃん注:浪化は三十二の若さで遷化した。彼は浄土真宗の僧で、父は東本願寺十四世法主琢如であったから、花は蓮華の花に相違ない。]

の一句が伝わっているのみであるが、丈艸の訃に接しては悵然(ちょうぜん)として「丈艸誄(るい)」一篇を草している。去来が丈艸に逢ったのは、元禄十五年の十月が最後であった。「丈艸誄」の末段にはこうある。

[やぶちゃん注:「悵然」悲しみ嘆くさま。がっかりして打ちひしがれるさま。

「丈艸誄」「風俗文選(ふうぞくもんぜん)」(森川許六編の俳文選集。全十巻五冊。宝永三(一七〇六)年刊。松尾芭蕉及び蕉門俳人二十八人の俳文百十六編を集め、作者列伝を加えてある。「本朝文選」とも呼ぶ)所収。「誄」は死者の生前の功徳を讃え、哀悼の意を表することを指す語。

 以下、引用は底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。]

 

人は山を下らざるの誓ひあり。予は世にたゞよふの役ありて、久しく逢坂の関(せき)越(こゆ)る道もしらず。去々年[やぶちゃん注:「きよきよねん」。]の神無月(かんなづき)、一夜の閑をぬすみ、草庵にやどりて、さむき夜や、おもひつくれば山の上と申て[やぶちゃん注:「まうして」。]、こよひの芳話に、よろづを忘れけりと、其喜びも斜(ななめ)ならず。更行(ふけゆく)まゝに雷鳴地にひゞき、吹(ふく)風扉をはなちければ、虚室欲ㇾ夸ㇾ閑是宝。満山雷雨震寒更[やぶちゃん注:返り点のみ示した。底本の訓点を参考にしつつ、私流に訓読すると、「虛室(きよしつ)閑(しづ)かに夸(ほこ)らんと欲す 是れ 寶(たから)/滿山の雷雨 寒更に震(ふる)ふ」。]と、興し出(いで)られ、笑ひ明してわかれぬ。身の上を啼(なく)からす哉(かな)ときこえし、雪気(ゆきげ)の空もふたゝび行[やぶちゃん注:「ゆき」。]めぐり、今むなしき名のみ残りける。凡(およそ)十年のわらひは、三年のうらみに化し、其恨(うらみ)は百年のかなしみを生ず。をしみても猶名残をしく、此一句を手向(たむけ)て、来(こ)しかた行末を語り侍るのみ。

  なき名きく春や三とせの生別(いきわか)れ

[やぶちゃん注:「人は山を下らざるの誓ひあり」丈草のそれを指す。彼は膳所近傍の龍ヶ岡に仏幻庵を結び、孤独の生涯を終えた。

「予は世にたゞよふの役ありて」私(去来自身)は世間に絡む仕事があって。しかし、具体に浪人になって後に何をしていたものか、不明。確かに親族から金銭的援助を受けて平然としているような男ではないから、何か、仕事をしていたのであろう。その仕事、何となく気になる。

「さむき夜や、おもひつくれば山の上」これは発句であるから読点はいらない。「おもひつくれば」は「考えて見れば」の意。この丈草殿の草庵は山の上にあるのだから、寒いのは当たり前という、駄句である。

「芳話」は「はうわ(ほうわ)」で「楽しい話」の意。

「虚室欲ㇾ夸ㇾ閑是宝。満山雷雨震寒更」「何もない部屋にいることが、これ、私の誇りであり(所謂、「無一物即無尽蔵」)、閑寂こそ、これ、私の宝である。一山総てに雷雨が襲って、寒い夜更けの全山を震わせている」の意。後半部は謂わば、禅の公案を模したものと私は読む。

「身の上を啼(なく)からす哉(かな)」丈草の句の一部。

 雪曇り身の上を啼く烏かな

が正格。

「凡(およそ)十年のわらひは」小学館「日本古典文学全集 近世俳句俳文集」の松尾靖秋氏の注に、『丈草は元禄十七年二月二十四日四十三歳で没したのだから、去来と面会したのが落柿舎に芭蕉をたずねた元禄四年とすれば、それから死没の三年前(去々年の神無月)の歓談まではおよそ十年間となる』とある。

「三年のうらみに化し」同前で、『一昨年の十月から三年間会わなかったことをさす』とある。「うらみ」は言わずもがなであるが、丈草を訪ねようしないかった去来自身への去来の恨みである。

「其恨は百年のかなしみを生ず。をしみても猶名残をしく」白居易の「長恨歌」の最終シークエンスを意識したコーダであることは言うまでもなかろう。]

 

 芭蕉歿後、去来が最も志を同じゅうしたのは丈艸であったろう。芭蕉に参する年代もやや遅く、年齢も去来よりは大分下であったが、「此僧此道にすゝみ学ばゝ、人の上にたゝむ事、月を越べからず」という芭蕉の眼識に誤はなかった。去来が丈艸を悼む情の強かったのは、単にその句が秀抜なるがためのみではない。その人物において、道を楽しむ態度において、いわゆる群雄と選を異にするものがあったからである。

[やぶちゃん注:「此僧此道にすゝみ学ばゝ、人の上にたゝむ事、月を越べからず」やはり去来の「丈艸誄」の一節。

   *

先師の言(ことば)に、「此僧此道にすゝみ學ばゞ、人の上にたゝむ事、月を越べからず」とのたまへり。其下地(したぢ)[やぶちゃん注:素質。]のうるはしき事、うらやむべし。然れども、性(しやう)くるしみ學ぶ事を好まず、感ありて吟じ、人ありて談じ、常は此事打わすれたるが如し。

   *

「選を異にする」「せんをことにする」。別の部類に属する。]

 

 丈艸が亡くなったのは二月の末である。涙を揮って斯人(しじん)のために誄(るい)を草した去来が、その年のうちにまた後を逐うて世を去ろうとは、固より彼自身も思いがけなかったに相違ない。蕉門の柱石は相次いで倒れた。剛復(ごうふく)なる許六をして「いかなる蕉門滅亡の月日にやありけむ、去年の冬は、中越(ちゆうえつ)の院家[やぶちゃん注:「ゐんげ」。]薨(こう)じ給ひぬ。ことし衣更著(きさらぎ)、丈艸卒(しゆつ)す。秋九月此(この)郎[やぶちゃん注:「らう」。]去(さつ)て、手もぎ足もぎの思ひをさせて、人の腸(はらわた)を断(たた)せけるぞや。猶生き残りたる十大弟子の中にも、世のたすけとなりがたきもあるべし。其人かの人と、かへまくほしと思ふ方も有べし。従来の因縁ふかきえにしありて、しかも同じ痢疾(りしつ)のやまひをうけて、共に終りをとげり」と浩歎(こうたん)せしめたのを見ても、如何に去来の死が蕉門に取って大きな損失であったかがわかる。享年は五十三であった。

[やぶちゃん注:以上の引用は「風俗文選」所収の森川許六自身の手になる「去來誄」の一節。こちらのPDFがよい(全50コマの内の「10」コマ目から。引用部は「11」コマ目から)。

「剛復」度量が大きく、こせこせしないこと。大胆でもの怖じしないこと。太っ腹。

「去年の冬は、中越の院家薨じ給ひぬ」は先に出た浪化の逝去を指す。彼は越中国井波瑞泉寺の住職であったが、京との間を頻りに往来した。「院家」はここでは単に「大きな寺院」の意。彼が没したのは元禄十六年十月九日(グレゴリオ暦一七〇三年十一月十七日)であった。翌元禄十七年は三月十三日に宝永に改元し、去来はその宝永元年九月十日(一七〇四年十月八日)に没した。なお、丈草は元禄十七年二月二十四日(一七〇四年三月二十九日)であった。

「此郎」去来を指す。「郞」は男性の意。

「痢疾」通常は赤痢を指す。ただ、俳人の死因というのは何を見ても、何故か載っていないことが多く、浪化・丈草・去来の死因も特定出来なかった。これが正しい(三人ともに赤痢が死因)とすれば、知られていない事実と言えよう。

「此郎」去来を指す。「郞」は男性の意。]

 

 許六の文中にある「中越の院家」は即ち浪化である。「同じ痢疾のやまひ」というのは芭蕉と同病であったことを指すので、芭蕉の病が急であったように、去来の病も急だったのであろう。篤実なる去来は師翁と同じ病を獲て逝くという点に、浅からざる因を感じていたかも知れない。宝永元年には丈艸、去来が相次いで逝き、宝永四年には其角、嵐雪がまた相次いで世を去っている。こういう事実の迹を見ると、そこに偶然ならざる何者かがあるように思われてならぬ。

[やぶちゃん注:芭蕉の死因は諸説あるが、食中毒・赤痢・感染性腸炎・潰瘍性大腸炎辺りが推定されている。]

 

 許六はまた去来の人物を評して「心ざし深くて、一とせ難波の変を聞て[やぶちゃん注:「ききて」。]、速[やぶちゃん注:「すみやか」。]にともづなを解[やぶちゃん注:「とき」。]、義仲寺の葬り[やぶちゃん注:「はうふり」。]にも、肩衣(かたぎぬ)に鋤鍬[やぶちゃん注:「すきくは」。]を携ふ。死後の城を堅ク守り、諸生をなづけ、初心をたすく。越の浪化にかはりて、有磯(ありそ)砥波(となみ)の書を選じ、崎の卯七をたすけて、渡り鳥を集む[やぶちゃん注:「あつむ」。]」といっている。悄然として鋤鍬を手にした去来の肩衣姿は目に見えるようである。去来は其角のように流通無碍(むげ)でなかったから、その俳諧における態度は正に「死後の城を堅ク守」るものであった。従ってその門葉は多くなかったが、道のために「諸生をなづけ、初心をたすく」るの労は敢て吝(おし)まなかったのであろう。芭蕉生前の『猿蓑』といい、歿後の『有磯海』『渡鳥集』といい、去来の関係した撰集がいずれも粒の揃ったものであるのは、最もよくこれを証している。去来は妄(みだり)に事を起すを好まぬ。いやしくも撰集に携わる以上は、並々ならぬ用意と苦心とを以て事に当ったものと思われる。

[やぶちゃん注:引用は、やはり許六の「去來ガ誄」の一節。

「崎」長崎。

「流通無碍」融通無碍に同じい。]

 

 門弟に富まぬ去来の身辺には不思議に俳人が輩出した。魯町、牡年、卯七、素行に加うるに、可南女(かなじょ)、千子(ちね)、田上尼(たがみのあま)の三女性を以てすれば、一族一門だけでも侮るべからざる陣容である。俳句などに縁のなさそうな兄の震軒でさえ、芭蕉の訃(ふ)に接して「冬柳かれて名ばかり残りけり」と詠んでいる位だから、一門に対する去来の感化を想うべきであろう。妹の千子は貞享年中に去来と共に伊勢参宮の旅に上り、少数ながらすぐれた句をとどめたが、元禄元年五月「もえやすく又消やすき蛍かな」の一句を形見としてこの世を去った。「手のうへにかなしく消る去蛍かな」という去来の句は、この妹を悼んだものである。千子にして今少しくながらえたならば、去来一門のみならず、元禄女流のために気を吐くに足る作品を遺したことと思われる。

[やぶちゃん注:「可南女」向井去来の妻(生没年未詳)で「とみ」と「たみ」の二女をもうけた。夫の没後は尼となって「貞従」(或いは「貞松」とも)と称した。句は宝永二(一七〇五)年刊の去来追善集「誰身(たがみ)の秋」の他、蕉門の撰集に散見される。]

 

 去来について記すべき事はなお少くない。彼の俳句観を窺うべき『去未抄』『旅寝論』その他をも一瞥するつもりであったが、あまり長くなるから他日を期するとして、今まで引用するに及ばなかった句を若干挙げて置く。

 高潮や海より暮れて梅の花     去来

   弟魯町故郷へ帰りけるに

 手をはなつ中に落ちけり朧月    同

[やぶちゃん注:「中」は「うち」。一九八九年岩波文庫刊の堀切実氏の編注になる「蕉門名家句選(下)」の評釈によれば、『弟魯町がはるばる故郷長崎へ帰ってゆくのを、早暁見送ったときの吟である。いつまでも名残を惜しんで、ずっと互いに手を握り合っていたが、やっと思い切って手を放してみると、先刻まで出ていた朧月はいつのまにかもう山の端に落ちて消えてしまっていた、というのであろう。別離を惜しんでためらう心の揺れを詠んだものであろうが、時間の経過を示すのに朧月を用いたところ、やや作意が過ぎているともいえる』とやや苦言を呈しておられる。また、「中」の読みについては、『一説には「なか」と読み、別れてゆく二人の間に、の意と解するものもある』とする。さらに、「去来抄」の「先師評」に『よると、芭蕉が「この句悪きといふにはあらず。功者にて、ただいひまぎらされたるなり」と評したこと、去来が結局これを「意到りて句到らざる句」と認めたことが伝えられる。なお、この句』は『「朧月一足づゝもわかれかな」(『炭俵』)の初案ではないかとも考えられる』とある。「去来抄」のそれは以下。

   *

  手をはなつ中に落ちけり朧月   去來

魯町に別るゝ句也。先師曰、此句惡きといふにはあらず。功者にてたゞ謂まぎらされたる句也。去來曰、いか樣にさしてなき事を、句上にてあやつりたる處有。しかれどいまだ十分に解せず。予が心中にハ一物侍れど、句上にあらハれずと見ゆ。いハゆる意到句不到也。

   *

「意到句不到也」読み下すなら、「意、到るも、句、到らざるなり」。]

 花守や白き頭をつきあはせ     同

[やぶちゃん注:「頭」は「かしら」。堀切氏の前掲書で評釈されて、『美しく咲き匂う桜花の下で、花守の老人がふたり、白髪頭をつき合わせるようにして、ひそひそとなにか話し合っている情景である。桜の花の華麗さと、花の番をする老人の沈静した白髪のすがたとの対照に、不思議な調和がある。芭蕉がこの句を「さび色よくあらはれ、悦び候」(『去来抄』)と評したゆえんである。謡曲『嵐山』に登場する花守の老夫婦からの趣向であると思われるが、ここは「花守」をそのまま老夫婦と限定しなくてもよかろう』とされ、語注で、「花守」は『花の番人。謡曲『嵐山』の冒頭部で、勅使が、吉野千本の桜が移植された嵐山の桜を見に出かけると、花守の老夫婦が花に対して礼拝しているので、そのいわれを尋ねる場面に「シテサシこれはこの嵐山の花を守る、夫婦の者にて候なり」、また「シテさん候これは嵐山の花守にて候。(下略)」とみえる。その他、謡曲『田村』にも「花守」が出てくるし、芭蕉にも「一里はみな花守の子孫かや」(『猿蓑』)の用例がある。春の季題』とあり、さらに、「去来抄」の「修行教」の『「さび」を説く条に例示されるほか、元禄六年十二月十七日付塵生宛去来書簡・同七年五月十四日付芭蕉宛去来書簡にも報じられ、さらに同八年一月二十九日付許六宛去来書簡にも「古翁の評に、さび色よくあらハれ珎重のよし、被仰下候。(下略)」と報じられている』。『なお、復本二郎氏は『芭蕉における「さび」の構造』において、先の謡曲『嵐山』をこの句の典拠として示した上で、一句は、これを一段すり上げて作したものであるとし、花守の老夫婦が白髪頭を「つき合せ」ているところに、「さび色」があらわれているのだと説いている』とある。「被仰下候」は「おほせくだされさふらふ」と読む。「去来抄」のそれは以下。

   *

野明曰、「句のさびはいかなるものにや。」。去來曰、「さびは句の色也。閑寂なるをいふにあらず。たとへば老人の甲冑を帶し、戰場にはたらき、錦繡をかざり御宴に侍りても老の姿有るがごとし。賑かなる句にも、靜(しづか)なる句にもあるもの也。今一句をあぐ。」。

  花守や白き頭をつき合せ     去來

先師曰、「寂色よく顯はれ、悅べる」と也。

   *]

 小袖ほす尼なつかしや窓の花    同

 熊野路に知人もちぬ桐の花     同

   雲とりの峠にて

 五月雨に沈むや紀伊の八庄司    同

[やぶちゃん注:「雲とりの峠」熊野那智大社(和歌山県東牟婁郡那智勝浦町)と熊野本宮大社(和歌山県田辺市本宮町本宮)とを結ぶ参詣道の途中にある「大雲取越え」「小雲取越え」の孰れかと思われる。現行では「石倉峠」「越前峠」がある。この付近と推定する(グーグル・マップ・データ航空写真。)

「八庄司」熊野八庄司(はっしょうじ)。ウィキの「熊野八庄司」によれば、『紀伊熊野の八つの庄の庄司。荘園領主の命によって雑務を掌ったが、多くは土豪として部族化した。代々「鈴木庄司」を称した藤白鈴木氏、「湯河庄司」を称した湯川氏、「野長瀬庄司」を称した野長瀬氏らが記録に見える』が、『八つの庄については諸説ある』とある。諸説はリンク先を参照されたい。]

 青柴を蚊帳にも釣るや八瀬大原   同

[やぶちゃん注:「八瀬大原」は「やせおはら」。「大原女(おおはらめ)」で知られた京都府京都市左京区北東部にある地名。比叡山の北西麓、高野川上流部に位置する。大原盆地は四方を山に囲まれており、高野川に沿って若狭街道が通っている。かつて大原村は山城国愛宕郡に属し、南隣の八瀬と併せて「八瀬大原」とも称された。古くは「おはら」と読まれ、小原とも表記された(以上はウィキの「大原(京都市)」に拠る)。この中央の南北部分の広域(グーグル・マップ・データ)。拡大すると、町名に「大原」及び「八瀬」の名を現認出来る。]

 石も木も眼に光るあつさかな    同

[やぶちゃん注:「眼」は「まなこ」。この句、私は珍しく佳句と思う。]

   数十里を一日に過て

 打たゝく駒のかしらや天の川    同

   長崎丸山にて

 いなづまやどの傾城とかり枕    同

[やぶちゃん注:「丸山」は江戸時代から長崎の花街として栄えた遊廓。現在の長崎県長崎市丸山町・寄合町(グーグル・マップ・データ)のこと。当初は鎖国令により、オランダ商館と同様、平戸の丸山から移設されたものである。堀切氏前掲書評釈に、『一瞬、ぴかりと稲妻が光った。いったいあの稲妻はどの遊女と枕をかわし、仮りの契りを結ぶのであろうか、というのである』。前書を受けて、『遊廓丸山の遊女の身の上――その夜毎に相手を変えてゆかねばならぬ愛のはかなさを、瞬時に消えてしまう稲妻のはかなさに託して詠んだものである』とある。]

   仲秋の望猶子を送葬して

 かゝる夜の月も見にけり野辺送   同

[やぶちゃん注:「望」は「もち」。座五は「のべおくり」。「仲秋」とあるから旧暦八月十五日。「猶子」本来は兄弟や親族の子などを自分の子として迎え入れた養子のことであるが、ここは広義にそれを転じた甥の子の意。堀切氏の前掲書の本句の注に、『元禄三年八月十四日に没した向井俊素のことで、翌十五日に詠まれた追悼句である』とある。]

 浅茅生やまくり手おろす虫の声   同

[やぶちゃん注:「浅茅生」は「あさぢふ」(現代仮名遣「あさじう」。珍しく底本では歴史的仮名遣で振られてある)。疎らに或いは丈低く生えた茅(ちがや:単子葉植物綱イネ目イネ科チガヤ属チガヤ Imperata cylindrica)。文学作品では荒涼とした風景を表わすことが多い。虫取りの句。鳴き声を目当てに、虫を捕まえようと、茅の中に腕捲りをし、そっと手を下したその情景を切り取ったものであろう。]

 啼鹿を椎の木間に見付たり     同

[やぶちゃん注:「なくしかをしひのこのまにみつけたり」。]

雁がねの竿になる時尚さびし     同

[やぶちゃん注:この句も私は何か惹かれる。]

墨染に眉の毛ながし冬籠り      同

一しぐれしぐれてあかし辻行燈    同

[やぶちゃん注:座五は「つじあんど」。堀切氏前掲書語注に、『辻番所などの前の街路に備えてあった木製で灯籠形の行灯』とあり、別な撰集では座五を「辻燈籠」とするとある。]

 句の年代も内容も一様ではない。しかし去来らしい気稟(きひん)の高さは、どの句をも貫いている。容易に足取の乱れぬ点において、去来は最も完成された作家の一人というを憚らぬ。

[やぶちゃん注:以上、やはり、私は去来には惹かれる句が有意に少ないことが、今回、はっきりと判った。]

梅崎春生 砂時計 24・25

 

     24

 

 二両連結の電車が、がたごとと小さな駅に入ってきて停止した。各扉からばらばらと人がはき出された。前の車両から四十がらみのでっぷり肥った食堂経営者、後の車両から色眼鏡をかけた三十四五の女高利貸がプラットホームに降り立ち、その二人は同時に相手を認め合って、あいさつを交した。

「久しぶりのいい天気ですな」

「ほんとに」女高利貸はちょっとしなをつくって答えた。

「ごみごみした町中に住んでると、時たまの郊外風景は、とても新鮮に感じられますわねえ」

 二人は並んで改札口を出た。

 五分経つと、次の電車が入ってきた。

 前の車両から四十四五の痩せた菓子製造業者が降り、後の車両から三十前後の体格のいい運送業者が降りてきた。

 運送屋が菓子製造業者を呼びとめて、にこにことあいさつをした。「やあ、いい天気だねえ」

 菓子製造業者が近くの林や樹立(こだ)ちを指差した。「どうだい。樹々の緑が眼に沁みわたるようじゃないか」

「まったくですな」運送屋が相槌を打った。「仕事でトラックで走り回ってる時は、郊外なんか道ががたがたで、なんだいと思うけれどもね」

「人生とはそんなものだよ」

 菓子製造業者が先に、それにつづいて運送屋が改札口を出た。

 五分経って、また次の電車が入ってきた。

 後尾の車両から、某大学教授と黒須院長がのそのそと、プラットホームに降りてきた。教授も院長に劣らず、つやつやと血色のいい顔をしていた。

「いつ来ても郊外はいいなあ」教授は院長をかえりみた。「人間も五十になると、自然の美しさがしみじみ判ってくるよ。君もなんだねえ、しょっちゅうこんな環境の中にいると、いくらか詩人的な心境にもなるだろう」

「そうでもありませんよ」院長は自分の頭をつるりと撫でた。「時たまやってくる人は、すぐに詩人になるらしいが、常住ここにいると、いろんなことがありましてねえ」

「そりゃそうかも知れないな」

 教授は鼻眼鏡をちょいとずり上げ、威儀を正して改札口を通り抜けた。院長がそれにつづいた。院長の切符を受取ると、若い改札係ははさみをカチャカチャ鳴らしながら、詰所に戻って行った。院長は細長くて四角な包みを左に持ち換え、教授に追いついて肩をならべた。教授が訊ねた。

「ええと、今月は何人死んだかね?」

「残念ながら一人も」黒須院長はひょいと首をすくめて、恐縮の風情(ふぜい)を見せた。「先々月八十歳の林爺さんが、風呂場のタイルで辷って死んで以来、まだ誰も死んで呉れないです。どういうわけですか。わたしとしても、いろいろ心を砕いてはいるんですが――」

「心を砕いたって仕方がない」教授は渋い顔になった。

「そういう精神主義ではダメだ。在院者の回転率を高めるには、高めるだけの具体的措置を取らねばならん。君も就任以来、割に成績を上げたが、近頃はすこしたるんで来たんじゃないか」

「たるんでいるわけじゃありませんが」院長は弱ったような声を出した。「それに関連して、先生に御相談したいことがありまして」

「なんだね?」

「ち、ちかごろ在院者の一部に」院長はぎょろぎょろ周囲を見回した。「不逞(ふてい)の思想を持った奴が発生しまして――」

「不逞の思想?」

「つ、つまり、この連中の言動を観察していると、アカじゃなかろうかと思われる節がある」院長はせかせかとウィスキーの箱入り包みを右に持ちかえた。「連中と言っても、まだ少数ですが、放って置くとこれがだんだん拡がって、取りかえしのつかぬようなことにもなりかねない。わたしとしても、今後いろいろ手を打ってみるつもりですが、なにしろアカの対策というのは初めてのことなので、何か有効な措置があれば、先生の御意見を伺いたいと思いまして」

「アカが発生した?」教授はますます渋い顔になり、はき出すように言った。「それは大変だ」

「わたしも思い悩んでいるのです」院長は教授に身をすり寄せた。そのとたんにウィスキー箱が、教授の脇腹をぐいとこづいたので、教授は思わずギュッというような声を立てた。院長はあわててあやまった。「どうも失礼」

「痛いじゃないか」教授は唇をへの字に曲げた。「その包みは何だね?」

「へへ、ウィスキーです」院長は包みをまた左へ持ちかえた。「今日の午餐会(ごさんかい)に出そうと思いまして」

「ウィスキーで僕たちをごまかそうとするんじゃあるまいな」教授は疑わしげに眼を光らせた。

「いや、いや、かりそめにもそんなこと」院長はたいこもち的な動作で、ふたたび右掌で自分の禿頭をつるりと撫で上げた。「そんなことをわたしがたくらむわけがないですよ。和(なご)やかな月例午餐会を持ちたい、その誠心誠意だけです」

「泥鰌(どじょう)を殺すには酒を用いるからな」教授は皮肉な口をきいた。「院長は近頃在院者に同情を持ち始めたんじゃないか」

「飛んでもない」院長はあわてて掌を振った。「とんでもないことですよ。先生」

 空は晴れていたけれども、赤土道はまだじとじととぬかるんでいた。ツバメが一羽、樹立ちの梢をかすめ、また道すれすれに飛んだ。その道の彼方に、やがて、夕陽養老院の屋根互やバルコニーが見えてきた。そ。のバルコニーにつづく院長室の扉のノブを、今しも食堂主の厚味のある掌が、ひねってぐいと押したところであった。

「おや。まだ誰も来ていない」食堂主はのっしのっしと院長室に足を踏み入れた。「するとわしたちが先着かな」

「黒須院長もいないのかしら」光線よけの色眼鏡を外(はず)しながら、女高利貸が言った。「バルコニーに出てみない?」

「甲斐爺たちじゃないようだよ」その院長室の書類戸棚の中で、双生の胎児のようにちぢこまってよりそっていた二人の中で、煙爺がすこしあおざめてニラ爺にささやいた。

「女の声だよ」

「弱ったなあ」くらがりの中で、額から冷汗を滲(にじ)ませながら、ニラ爺はささやき返した。「木見婆さんかな」

「木見婆じゃないよ。声が若いよ」煙爺がささやいた。

「思い切って、飛び出して逃げるか」

「ねえ。バルコニーに出てみない」女高利貸がふたたび言った。「いい眺めよ」

「わしはここでいいですよ」食堂主はソファーにどっかと腰をおろした。「近頃また肥ってきたもんだから、ちょっと歩くとすぐにくたびれる。それに、御婦人の前でなんだが、この季節にはとかく股(また)ずれの傾向がありましてねえ」

「院長の声でもないらしいよ」煙爺はささやいた。「どうする。飛び出すか」

「ここに入って」とニラ爺。「もう一時間経ったかねえ」

「まだ三十分ぐらいだよ」

「すると今飛び出すと、百円取られるぜ」

「そうだねえ。百円取られるのもシャクだねえ」

「ほんまに俺、近頃取られてばかりいるのや」ニラ爺は悲しげにささやいた。「甲斐爺にも、おれ、二百円からの借金があるのや」

「しかし、ここに止ってると、海坊主が戻って来るかも知れないよ」

「そうやねえ。弱ったねえ」

「進退谷(きわ)まったねえ。どうする?」

 その時、院長室の扉のノブが、ふたたびゴトゴトと鳴った。二人の爺さんは暗闇の中で、それぞれの姿勢でギュッと身体を固くした。扉が勢いよく開かれて、運送屋と菓子屋が入ってきた。そしてソファーの食堂主とあいさつを交した。

「やあ」

「やあ、やあ」

「また誰か入ってきたよ」煙爺が絶望的な声でささやいた。「二人のようだよ。困ったねえ」

「こんなとこに隠れたのはかるはずみやったねえ」ニラ爺は身体を小刻みに慄わせ、涙を瞼に滲ませていた。「どうしてこんなことを思い付いたか」

「思い付いたのはお前じゃないか」煙爺は小さな声できめつけた。「お前が思い付かなきゃ、こんなことになるわけないよ」

「お前だって賛成したやないか。あの時」ニラ爺もあおざめたまま小声で言い返した。「お前さえ反対すりゃ、こんなことにならん」

「ああ、院長と博士がやってくるわよ」バルコニーの上で女高利貸がかん高い声で叫んだ。「院長の禿頭が、日光の反射でピカピカと光っている。まるで新しい銅貨みたいよ」

「どれ、どれ」

 一番年若な運送屋が、元気のいい足どりでバルコニーに出て行った。野菜畠にはさまれた砂利道を、今院長と教授が何か語らいながら、玄関の方に歩いてくる。無帽の黒須院長の頭は、その角度によってキラリと日光を弾(はじ)き、またどんよりと曇ったりした。運送屋は両掌をメガホンの形にして、バルコニーから大声を出した。

「院長に博士。遅いぞう。かけ足イ!」

[やぶちゃん注:以下、一行空け。]

 

「さて」牛島康之がまぶしそうに空を見上げながら言った。「今日はどうしようかな。栗さん。お前はどうする。研究所に出勤するか?」

「しないよ」佐介も小手をかざして空を眺めた。「今日は養老院勤務だ」

「ああ、お前さんは隔日勤務だったな」牛島は忌々(いまいま)しげに爆音の方に顔を向けた。「じゃあ俺は、ロケ先に出かけることにするか。いい天気だからな。どうも今日の研究所出勤はヤバイような気がする」

 空にはヘリコプターが一台、地上百米の高度を、不恰好なかたちで、爆音を立ててのろのろと動いていた。曽我ランコも乃木七郎もそれを見上げていた。高度が低いので、操縦者のかおかたちも眺められた。乃木七郎は卓上ピアノを両手で胸にかかえていた。いや、かかえさせられていた。その乃木七郎が言った。

「あんなところから、地上の人間どもを見おろすと、さだめし愉快でしょうねえ」

「こいつはどうする?」牛島は乃木を顎でしゃくった。

「ロケ先に連れて行くわけにも行かないし」

「僕があずかるよ」佐介は答えた。「身柄を託されているのは僕だ。あんたじゃない」

[やぶちゃん注:以下、行空けが明らかに二行分ある。

 

 

 焼け残り地区の木造ペンキ塗りの二階建て。そのてっぺんの飾り屋根の中から、明るい空気をななめに切って、つばめがしきりに出たり入ったりしていた。階上の白川研究所に、今日出勤しているのは、熊井照子と玉虫老人だけであった。須貝も牛島も、佐介も鴨志田も、その姿を見せていなかった。だから熊井照子は『所報』原稿整理の仕事をほったらかして、ミッキー・スピレインの『裁くのは俺だ』に没頭していたし、玉虫老人もスクラップつくりをさぼって、入れ歯を外してそれの掃除に専念していた。陽光の惰気が部屋に満ちあふれていた。熊井照子はふっと頁から眼を放して、不安げに部屋中を見回した。

「どうしたのかしら」彼女はいぶかしげに玉虫老人に話しかけた。「もう十一時だというのに、誰も出てこないなんて、なにか凶(わる)いことでもおこったのかしら」

 王虫老人は返事をしなかった。老人は両眼をやや眇(すがめ)にして、義歯(いれば)の代赭色(たいしゃいろ)の人造歯ぐきを、小さなブラシでごしごしと熱心にみがいていた。熊井照子は腹立たしげに舌打ちをして呟(つぶ)いた。

「耳遠の爺さんにはかなわない。馬の耳に念仏だわ」

 その時、壁の鳩時計から鳩が飛び出して、調子のいい声でつづけざまに十一声啼いた。老人はふとブラシの手を休めて時計を見上げ、落着かぬげにきょときょとと周囲を見た。

「どうしたんですかな。熊井さん」老人は心配そうな声を出した。「十一時だというのに、まだ誰も出勤して来ませんな。はて、何か凶(わる)いことでもおこったのか」

 熊井照子はふんと言った顔付きで、返事をしなかった。そして机の下に手を入れて、ごそごそと靴下の具合を直した。スカートがめくれて、膝頭からすべすべした股のあたりまでがのぞけたので、玉虫老人の眼は急に一回り大きくなって、ものめずらしげに、熊井照子の手の動きや脚のかたちを眺め始めた。その視線に気付くと、彼女はあわててスカートをおろし、玉虫老人をにらみつけた。老人は首をすくめ、眼を元の大きさにして立ち上り、義歯掃除で汚れた水をとっ換えに、コップをささげ持ってとことこと部屋を出て行った。階段を降りる足音がした。階下の土地事務所ではソファーの上に、昨日と同じく中年の客が一人、紅茶をすすりながらしずかに煙草をくゆらしていた。玉虫老人の足音を聞きつけると、急に眼をするどくして、階段の方に顔を向けた。玉虫老人は無表情な顔で客の前を横切り、洗面所に水をあけ、ふたたびコップに新しい水を充たした。その背後からソファーの客が、低い押しつけるような声で、老人に話しかけた。

「爺さん。階上(うえ)の連中はどうしたんだね。今日はまだ姿を見せないようだが」

 老人は返事をしなかった。相変らず表情のない顔で、新しい水をささげ持ち、とことこと部屋を横切り、そしてその姿は階段の登り口に消えた。足音が階段を登って行った。

「あの爺。かなつんぼか」

 なんとなく得体(えたい)の知れないその客は、舌をタンと鳴らして立ち上った。ちょっと小首をかしげ、事務員たちの不審げな視線の中を、土地会社の赤塗り電話台の方へつかつかと歩み寄った。受話器をとり上げた。

[やぶちゃん注:ここで以前に須貝が疑った如く、階下の客の男は、実は白川研究所を見張っていることが判然とする。

 次は一行空け。]

 

 なんとなく得体の知れない人物たちは、ここだけでなく、あちこちの部屋の中にも、街頭にも、映両館にも、パチンコ屋にもいた。何と得体の知れない人物が近頃殖えてきたことだろう。きっとなにかが狂っているせいにちがいない。そいつらはうじょうじょと、駅の待合室にも、競輪場にも、公園の花壇にも、上水路の堤にも動いていた。上水の堤のは二人連れで、両者とも一見紳士風で、片方の紳士は胸に二眼のカメラを提(さ)げ、口にはチューインガムをしきりに嚙んでいたし、も一人の紳士は鳥打帽子をかぶり、小型の胴乱を肩にかけていた。二人は肩をならべて、至極緩慢に歩いていた。胴乱紳士は時に小腰をかがめて、ありふれた雑草の葉をむしって、胴乱の中に大事そうに収めたりした。カメラ紳士の方は蓋をあけてファインダーをのぞき込み、上水路や土堤の樹々を写す真似などをしていた。上水路の幅は十米ぐらいで、その両岸から急斜面に堤がせり上っていた。道は堤の上に、すなわち水路をはさんで平行していた。斜面にはところどころ立札が立ち、『この流れは都民の上水道になる水ですから塵埃(じんあい)その他を投げ込まないで下さい。水道局』と書いてある。流れは碾茶羊羹(ひきちゃようかん)の色のようにねっとりと濁り、木の葉や屑を乗せてかなりの早さで動いていた。対岸の三十米ほど前方を、三人の男女がぶらぶらと歩いていた。その一人の栗山佐介の眼は、斜面に生えたさまざまの灌木(かんぼく)の、葉の形や枝ぶりなどをうろうろと物色していた。曽我ランコは佐介と肩を並べ、乃木七郎はすこし先を歩いていた。乃木は卓上ピアノを脇に抱き、吟遊詩人のように胸を張って、意気揚々と漫歩していた。「あれが接骨木(にわとこ)かな。ストップ」佐介は号令をかけた。乃木七郎は立ち止った。佐介はポケットかられいのメモ用手帳を取り出した。対岸の後方でも二人の紳士が同時に立ち止り、それぞれ写真のファインダーをあけたり、雑草の葉っぱを採集したりした。佐介は手帳に眼を近づけた。渋川接骨院の薬用植物図鑑からのメモがそこにある。「ええと、葉は対生し羽状複葉と。小葉は披針形にして縁辺に鋸歯(のこぎりば)を有すか。どうもあれらしいな」

[やぶちゃん注:さても、この最後のロケーションの「上水路の堤」「この流れは都民の上水道になる水ですから塵埃その他を投げ込まないで下さい。水道局」の注意書きのあるところというのは、東京に詳しい方なら場所が比定出来るのではないかと思う(栗山佐介の住所のそばとなる)。識者の御教授を乞うものである。

「うじょうじょ」のオノマトペイアは「うじゃうじゃ」と同じ。

「碾茶羊羹の色」鶯色。

「灌木」低木。概ね、通常成人の背の高さよりも低いものを称する。

「披針形」(ひしんけい)は先の尖った平たく細長い形(笹の葉のようなもの)の植物の葉の形について言う語。]

 

     25

 

 木見婆は大きな岡持を重そうにぶら下げて、調理室から廊下に出た。中央階段に足をかけたとたん、背後から呼びかける声がした。松木爺が両手をだらりと垂らして、階段の脇に立っている。

「木見婆さん。ニラ爺はどこにいるか、あんた知らんかね」

「知らないよ」木見婆は眼をきらりと光らせ、つっかかるように答えた。「あたしゃニラ爺さんの番人じゃないよ」「そんなにつんけんしなくてもいいじゃないか」松木爺は気勢をそがれて、にやりと笑った。「なにもあんたを番人だとは言ってない。知ってるか、知ってないか、ちょいと訊ねてみただけだよ」

「だからあたしゃ、知らないと答えたんだよ」木見婆は不興げに水洟(みずばな)をしゅんとすすった。「あたしゃもう行くよ。忙しいんだから」

「ニラ爺のやつ、どこに雲隠れしたのかなあ」松木爺は横目で岡持の方を見た。「何だね、それ。おいしそうな匂いがするが」

「あんたと関係ないわ。これ院長先生の食事!」

「へえ。院長はいっぺんにそんなに沢山食べるのか。ちょいと拝見」

 松木爺は岡持へ手を伸ばそうとした。木見婆ははっと肥軀[やぶちゃん注:「ひく」。]をひいて、眼の色をたちまち険(けわ)しくした。

「よしてよ。ほんとに近頃の爺さんたちは、意地きたないったらありゃしない」

「なに。俺が意地きたない?」松木爺もむっとして眼を剝(む)いた。「なにもつまみ食いさせろとは、俺は言ってないぞ。見せろと言ってるだけだぞ」

「見せるのもおことわり!」

「何を言ってる!」松木爺は眼をつり上げた。「こう見えてもこの松木第五郎はだな、ニラ爺みたいな意地きたなとは違うぞ」

 木見婆はぎょっと身体を固くして、一歩二歩後退した。松木爺はおっかぶせるように言葉をついだ。

「昨晩あんたはニラ爺に、いろんな食べ物を呉れたらしいじゃないか。御奇特なことだ。へへ、俺は何もかも知ってるぞ」

 木見婆はぶよぶよした顔を硬化させたまま、黙って更(さら)に一歩後退した。それに応ずるように松木爺は大股に一歩踏み出した。

「俺はニラ爺とは違うから、何も呉れとは言わん!」松木爺は肩をそびやかして高圧的に出た。「その岡持の中を見せなさい!」

「厭らし!」

 木見婆はふてくされて、岡持をがたんと階段の上に置き、そっぽを向いて舌打ちをした。松木爺は手を伸ばして岡持のふたをがたがたとあけた。

「おや、四つ五つ六つ。ウナギが六人前に、オムレツが六人前」松木爺はじろりと木見婆をにらんだ。「吸物も六人前。いくら海坊主が大食いでも、吸物六人前も飲むわけがないぞ。うわばみじゃあるまいし」

「お客さんの分も一緒だよ」木見婆は上眼使いに松木爺を見て、切なげな声を出した。「ニラ爺さん、何をべらべらしゃべったの?」

「いや、べらべらというほどじゃないが」松木爺は語調をやや柔かにした。「お客というのは、誰だね。お客は五人か?」

「経営者の方たち。経営者会議なのよ」木見婆は声をひそめた。「このこと、誰にも言わないでね。院側の行事のことをあんたたちにしゃべると、あたしゃあとで院長先生からこっぴどく叱られるからさ。お願い!」

「ふん。経営者会議か」松木爺は満足げにうなずいた。

「なるほどな。今日が会議か」

「他人に絶対に言わないでよ」と、木見婆はねんを押した。「ねえ。ニラ爺さんは、どんなことをしゃべったの。どんなことをよ」

「早く二階に行かないと、料理がさめてしまうよ」松木爺は質問をはぐらかした。「ふん。ウナギにオムレッが六人前、か」

「ニラ爺がしゃべったのは、あんだにだけ?」木見婆は顔をくしゃくしゃにして、岡持の柄を握った。「あんたにだけでしょうね」

「うん。ううん」松木爺はあいまいに首を動かした。「それについては、後刻じっくりと相談しよう」

「あんただけでしょうね」木見婆はおどおどとくり返した。「あたし、夜の八時まで、調理室にいるわ。さっきのこと、ほんとに誰にもしゃべらないでね。きっとよ」

 木見婆はそして頰肉と額肉とを接近させ、眼を埋没させるような顔をして見せ、くるりとむこうを向き、手すりにすがりながら、力なく階段を登り始めた。力なげに見えたのは背後からだけで、木見婆は一歩ごとに歯ぎしりしながら、

「ニラ爺の奴。ニラ爺のやつ!」

 とにくにくしげに呟(つぶや)いていた。その後ろ姿が踊り場に消えると、松木爺は身をひるがえして廊下を小走りにあるき、東寮の曲り角まで来た。その曲り角で、松木爺は向うから曲ってきた森爺と、あやうく正面から鉢あわせをするところであった。

「あぶないじゃないか」森爺がたたらを踏みながら口をとがらせてなじった。ニラ爺たちの姿をまだ発見出来ないものだから、森爺は少しいらだっていたのだ。「廊下の角を曲る時は走っちゃいけないと、かねがね注意されてることじゃないか」

「ごめん、ごめん」常に似合わず松木爺は素直にあやまった。「つい気が急(せ)いていたもんで」

「松爺さん」傍から甲斐爺が思いあまったように口を入れた。「ニラ爺さんの所在を知らないか」

「ニラ爺?」松木爺は二人の顔をじろじろと見くらべた。

「ニラ爺じゃなければ、煙爺でもいいんだ」森爺が言葉をそえた。一体あいつら、どこに隠れやがったのか。影も形も見当らぬ」

「かくれんぼをやってるのか」松木爺はすっかり呆れ果て、かつ腹も立てた。「何たることだ。ニラ爺のやつ!」

「まったく、何たることだ」

 おしっこを怺(こら)える小児のように、森爺は両足で忙しく地だんだを踏んだ。

 木見婆は岡持を両手で提(さ)げ、院長室の扉を脚でほとほとノックした。室内から黒須院長の声がした。

「はいれ!」

 木見婆は岡持を床に置き、扉のノブを回した。院長卓を囲んで、食堂主、高利貸、菓子屋、教授、運送屋が、順々に、それぞれの姿勢で椅子に腰をおろしていた。院長はわざとらしく機嫌のいい声を出した。

「グラス六つ、持って来たか?」

「持って参りました」木見婆は岡持を卓のそばに運んだ。「料理は半分だけで、あとは直ぐ持って参ります」

「あとはゆっくりでいいよ」と院長はやさしく答えた。「料理は念入りにこさえたろうね」

「まさかあたしん店の残飯じゃあるまいな」食堂主が冗談を飛ばした。「わたしんちのなら、食い飽きてるよ」

「あれはみんな在院者に回してありますよ」一座の笑い声の中で、黒須院長は自分の額をポンと叩いた。「これは木見婆さんが腕によりをかけた、当院特別製の料理ですよ。木見婆さん。ウナギも焼いたね」

「はい」

 木見婆は皿や椀を次々に卓上に並べ始めた。その器物のカチャカチャ音が、板戸のすき間を通して、書類戸棚の中にも入ってきた。ごちゃごちゃに積まれた古書類や記録の束の中に、埃をかぶってちぢこまっている煙爺が、そっとニラ爺の耳たぶに口を寄せてささやいた。

「ウナギだってよ」

「そうらしいねえ」ニラ爺の腹がグルグルと鳴った。「おれ、おなかがすこし空いてきた」

「おれもだ」

 そして二老人はくらがりの中で、鼻をぴこぴことうごかした。板戸のすき間や節穴から、おいしそうな食べ物の匂いが、埃くさい空気の中に流れ入ってきたのだ。皿を並べ終ると、木見婆は院長の指示通りウィスキーの栓をぬいて、各自のグラスを充たして回りながら、柄にもない愛想を言った。

「こんなお婆さんのお酌ではお気に召しますまいがねえ」

「そりゃやはり若い女の方がいいね」運送屋が真面目な顔でグラスに后をつけた。「第一酒の味がちがうやね」

「じゃ若い女性でも雇い入れますかな」院長もグラスを手にしながら、すかさず口を入れた。「高峰秀子か島崎雪子みたいな美しいのをね。おい、木見婆さん。栗山書記はどこにいる?」

「栗山さんはまだ出勤して来られません」

「なに。まだ出勤して来ない?」院長の眉根がぐいとふくらんだ。「昨夜の呼出電報にも応じないし、今日も大切な会議だというのに、まだ出て来ない。一体何をしているんだろう。勤労意欲がないのかな。もしそうだとすれば、あいつはクビにするより他はないぞ」

「栗山書記って、あの頭の大きい、おかしげな男?」女高利貸がウナギをもごもご頰張りながら訊ねた。

「そうです。あんなのを雇い入れたのは、全くわたしの失敗だった」院長は演技的な大きな舌打ちをした。「いっそあれをクビにして、若い女秘書を雇い入れたいもんですな。皆さん、如何(いかが)でしょうか。女秘書は、隔日勤務でなく、常勤ですが、なにしろ女子のことですから、人件費という点では、あまり変りがないと思いますが」

「まあそれも、こちらでよく考えてみよう」と教授が渋い声で言った。「今日は俵医師はどうした?」

「只今当区は狂犬予防週間で」院長が答えた。「どうしても手が外(はず)せないと言って来ました」

「狂犬週間なら本業だから仕方がないが」菓子屋もグラスを舐(な)めた。「副業のこちらもあまりおろそかにして貰いたくないな」

「良く言い聞かせて置きましょう」そして院長は木見婆に目くばせをした。「木見婆さん。あの書棚から、会議録綴りを持ってきなさい。そしてあんたはもう下ってよろしい。適当な頃に次の料理を持ってくるように」

『書棚』という言葉が発音された時、書類戸棚の中の二老人はぎくっと身体をふるわせ、お互いを楯(たて)とするようにひしひしと寄りそい合った。しかし幸いにもそれは別の書棚のことであった。その書棚から会議録綴りをとり出し、院長の前に置くと、木見婆はぼたりと一礼して院長室を出て行った。

「なるほど。あの婆さんじゃ色気が全くないな」足音が遠のくと、食堂主が肥った身体をゆるがせて、にやにやと笑った。「院長もまだ独身だし、若い女秘書を欲しがる気持もよく判るよ。時に、この間の写真はどうしたい?」

「へ、へ、へ」と院長は照れくさげに笑った。「あれはちゃんとしまってありますよ」

「さあ、食べながらでもいいから、そろそろ会議を始めてはどうだね」教授が腕時計をちらと見て発言した。「僕は午後人に逢う予定があるんだ」

「ではそうしますか」院長はグラスを置いて、うかがうように一座を見回した。「では、今日の会議は、愉快に飲み食い、談笑裡にすすめたいと思います。栗山書記未参のため、記録はわたしがとることにしましょう。願わくは次回の経営者会議は、美しい女秘書によって記録される、そういうことになりたいもんですなあ。わっはっはあ」

[やぶちゃん注:ここで俵医師は老人たちが疑った通り、驚くべきことに医師ではなく、獣医であったことが明かされる。

「ぼたり」のオノマトペイアはママ。]

 

「なに。経営者たちが集まっている?」滝川爺がぐいと膝を乗り出した。「院長室にか。どうしてそれが判った?」「木見婆をつかまえたんだ、階段のところで」松木爺は得意げに一座を見回した。「あの婆、大きな岡持ぶら提げてやがった。そこをつかまえて、俺はうまいこと誘導尋問をしてやったんだ」

「何人集まっている?」柿本爺が訊ねた。

「院長も入れて六人らしい。実際に見たわけじゃないが、岡持の中の料理は六人前だったから。いくら経営者でも、一人で二人前食べることはなかろう」

 滝川爺はごそごそと立ち上って窓辺に行き、院長室のガラス窓を見上げた。いい天気だというのにその窓は固くとざされていた。

「会議は会議として」長老の遊佐爺が発言した。「ニラ爺はどうした。どこにいた?」

「それが見付からないんだよ」松木爺は面目なさそうに頭を垂れた。「ニラ爺は、煙爺、甲斐爺、森爺たちと、かくれんぼをやっているらしいんだ。オニの森爺と甲斐爺が、嘆いていたよ。影もかたちも見えないって」

「なに。かくれんぼだと?」遊佐爺は常にない犬声を立てて、白い眉毛をびくびく動かした。「昨晩あんなに言い聞かせてやったのに、もうかくれんぼだなんて、全く仕方のない爺さんだな。もすこし性根があるとにらんでいたが、わしの見込み違いだったかな。朽木は雕(ほ)るべからず。糞土の牆(かき)はぬるべからず。ニラ爺はついに糞土の牆であったかな」

「一体どこにもぐり込んだか」ニラ爺を発見出来なかった責めをごまかすように、松木爺は聞えよがしにひとりごとを言った。「森爺の話では、風呂場、便所にもいないし、豚小屋までしらべたけれど、いなかったらしい。平常はもそもそしてるくせに、かくれんぼなんかになると、うまく立ち回る。なにしろ困った爺さんだ」

「ふん。会議をやっているか」うるさ型の柿本爺が奥歯をかみしめながら、考え深そうに発言した。「遊佐爺さん。経営者が集会しているということだが、昨夜のあんたの発言のように、いろいろ山積した諸問題を、院長を抜きにして、いきなり経営者にぶっつけてみたらどうか。案外その方が解決が早いかも知れんぞ」

「いや、いや。それは問題だぞ」遊佐爺が答えた。「院長を抜きにして直接経営者と談合するということは、院長の懇請によって、こちらは一応撤回した。そういうことになっている。そのバランスを一挙にぶちこわすのは、まずいとわしは思う。やはりこういうことはフェアプレイで行こう」

「フェアプレイと言ったって」柿本爺が唇を曲げて抗議した。「それは両方とも紳士である場合にこそ成立するものだ。院長が果たして紳士であるかどうか――」

「判らんぞ」と窓辺の滝川爺が引き取った。「院長はおれたちにはうまいことを言うが、かげでは何を企んでいるか、判ったものではないぞ」

「そりゃそうかも知れないが」遊佐爺は一座を手で制した。「しかし一応相手を信頼しないことには、会見だの交渉だのは成立しない。だから今日、それをいっぺんにぶちこわしては、むしろわしらは不利な立場におち入ることになると思う。それにだな、いきなり経営者にぶつかっても、経営者たちがどんなことを考えているか、わしたちは判っていないから、やはり慎重に、一歩々々やっていく方がいい。せいてはことを仕損ずるとはこのことだ」

「あそこで今どんな話をしているか」滝川爺が窓から院長室の方を指差した。「そっと聞いてみたいもんだな。そうすれば、連中が何を考えているか、ハッキリ判るんだがな」

「遊佐爺さん。わしはあんたの考え方は、どうしても甘いと思う」柿本爺は直言した。「長老のあんたがそんなに甘いから、ニラ爺のような脱落者が出てくるんだ。一体ニラ爺はどこに行きゃがったんだろう」

「ほんまに弱ったねえ」

 書類戸棚の中に窮屈に閉じこめられ、身動きも出来ない状態で、ニラ爺が悲しげにささやいた。「この連中、しばらくこの部屋から、出て行きそうにもないねえ。おれ、泣きたくなってきた」

「泣いたら外に聞えるぞ」煙爺があわててニラ爺の股をつねった。「泣きたくなっただって。おれの方がよっぽど泣き出したいよ。お前のおかげで、こんなところに閉じこめられてさ」

「おれ、オシッコもしたくなったのや」ニラ爺は音を立てないように手を動かして、下腹を押えた。「どこかに便所ないか」

「戸棚の中に便所があってたまるか」煙爺が小さな声で叱りつけた。「オシッコなんてものは、その気になれば、一時間や二時間我慢出来ないわけはない。お互いに日本男児じゃないか。頼むから、辛抱してくれ。な、頼む」

[やぶちゃん注:「朽木は雕(ほ)るべからず。糞土の牆(かき)はぬるべからず」「朽木糞牆(きゅうぼくふんしょう)」「朽木糞土」「朽木之材(きゅうぼくのざい)」などと四字熟語でも言う。怠け者の譬え。手の施しようのない対象や、役に立たない無用な物を比喩するもの。掲げられたそれは逐語的には「腐った木には、到底、彫刻出来ないし、腐って崩れた土塀は、最早、上塗りが不能であるように、怠け者は教育し難いことを謂う。「朽木」は「枯れて腐った木」、「糞土の牆」は「腐ってぼろぼろになった土塀」の意。出典は「論語」の「公冶長(こうやちょう)」の以下である。

   *

宰予晝寢、子曰、朽木不可雕也、糞土之牆、不可杇也、於予與何誅、子曰、始吾於人也、聽其言而信其行、今吾於人也、聽其言而觀其行、於予與改是。

(宰予(さいよ)、晝、寝(い)ぬ。子曰く、「朽木(きうぼく)は雕(ゑ)るべからず、糞土の牆(かき)は杇(ぬ)るべからず。予に於いてか何ぞ誅(せ)めん。」と。子曰く、「始め吾(われ)人に於けるや、其の言を聽きて其の行(かう)を信ず。今、吾人に於けるや、其の言を聴きて其の行を觀る。予に於てか是れ改たむ」と。)

   *

少し語注すると、「宰予」は宰我(予は名、我は字(あざな))。魯の生まれで孔門十哲の一人として弁舌が巧みであったが、ここで見るように「論語」ではたびたび孔子から叱責を受けているトリック・スターである。「晝寢ぬ」は勉強をせずに昼寝をしていたのである。「誅めん」反語。「朽木糞牆たるお前に対しては何を叱って意味があろうか、いや、処置なしだ」の意。それ以下は畳みかけて言ったもので、そういう宰予の為体(ていたらく)を例に「当初、私は人の言説を聴いて素直にその行動もそれに従うものと信じたものだった。しかし今は、他者の言説を聞いた時には、同時にその行動を観察するようになった。それはまさに宰予、お前のお蔭でかく改めたのである」の意。二重の叱咤がきつい。]

2020/07/20

梅崎春生 砂時計 23

 

     23

 

 渋川接骨院は、駅の踏切から線路沿いにしばらく歩き、小さな自動車修繕屋から右に折れ、その小路の数えて六軒目にあった。

 普通のしもたや風(ふう)のつくりで、門をくぐって玄関の前に立つと、ガラス扉に『ほねつぎ』という字が浮き出ている。その字も古びて、周囲から黄色く褪(あ)せかけている。そのそばに大きな表札がかかっていて、『柔道整復師』『漢方和方薬師』この二つの肩書をつけた渋川丈助の名が、筆太に記されてあった。ガラス扉をあけると、とっつきの部屋が待合室になり、それにつづいた十畳敷の部屋が診療室という具合だ。煎(せん)じ薬や練り薬のにおいが何時もそこらいっぱいにただよっていた。

 午前十時、渋川丈助はその診療室にきちんと正坐し、相対した女客の足首に指を触れていた。かるく揉(も)むようにして、筋の具合をたしかめながら、重々しい声を出した。

「お名前は?」

 女客は自分の名を答えて、痛そうに自分の脚を両掌で抑えた。渋川丈助は指をおもむろに離して、悠然と顎鬚(あごひげ)をしごいた。

「かるいネンザをおこしておりまするな」

 渋川丈助の顎鬚は、長さが一尺に余る。齢のせいでもう真白になっている。この老人が町を歩くと、通行人が振り返るほど見事な鬚だ。もちろん老人は朝夕この鬚に、卵の白身など使って、丹念な手入れを怠らない。彼がこんな立派な鬚を仕立てたのは、趣味やおしゃれというよりも、職業上の要求からであった。接骨医だの漢方医などという商売は、相手を威圧し、信頼感をおこさせる必要がある。軽軽しく見られては繁昌しないのだ。それには尺余の白鬚などは、打ってつけの装置であることを彼は知っていた。渋川丈助は顔を左右に振って、その白鬚をゆさゆさと波打たせた。

「腰の筋の弱まりが、とかく足首にやってくる」渋川丈助は重々しく口を開いた。この重々しい口ぶりは職業上のものであった。その証拠にこの老人は、孫と遊ぶ時などになると、ずっとかるい若々しい声を出すのだ。「転びでもなされたかな?」

「はい」女客は神妙に答えた。「悪者にあとをつけられ、暗い夜道を走ろうとして転びまして――」

 待合室に坐って番を待つ男たちの眼が、きらりと光って女客を見た。渋川丈助は右手を伸ばし、傍の戸棚から薬箱と黒い薬壺をとりおろした。女客は膝を押えたまま、まぶしそうに顔を上げて、出窓の方に顔を向けた。午前十時の陽光が、その出窓からさんさんと射し入ってくるのだ。久しぶりの日射しだが、この天気もすぐに崩れて、曇天や雨天に立ち戻ることだろう。渋川丈助は黒壺の蓋をとりながら、女客の足首に視線を据えた。足首には足首の表情があった。足首はその形のまま羞恥と痛みを訴えていた。手当は直ぐに終った。

「いかほど?」裾をととのえながら女客は甘い声で訊ねた。

「百五十円」

 布で指を拭きながら、渋川丈助は柱の方を顎でしゃくった。鬚がしろじろと前後に揺れた。柱には郵便受けみたいな木箱がとりつけられ、診療費は患者がめいめい自分でそれに納入する仕組みになっているのだ。女客は不自由そうに立ち上り、それに百五十円を入れ、小腰をかがめ、すこしびっこを引きながら、玄関の方に出て行った。渋川丈助は待合室の方をみた。待合室の壁には貼紙がしてあり、それにはこう書いてある。『日曜祭日は休診。平日は先着十五名に限り診療。主人敬白』渋川丈助はゆったりと腕を組み、今朝診療した患者の数を胸の中で勘定してみた。先着十五名に限るというのは、老齢でそれ以上診療出来ないというわけでなく、これももっぱら職業上の効果をねらったものであった。事実、一年ほど前から十五名に制限して以来、渋川接骨院には急に来院者の数が増加したようだ。それまでは来院者は平均日に十人ぐらいだったのに、この定めを貼り出して以来、時には二十人ぐらいも押しかけてくる日がある。二十人だと五人があぶれる勘定になる。渋川老人はこのやり方を、戦争中の配給制度から考えついた。配給が制限されると、人間は急にガツガツしてくる。診療の配給制度だって同じことだ。老人は腕組みをしずかに解き、職業用の重々しい声を出した。

「次の方」

 待合室の連中はちょっと顔を見合わせ、その一人がのそのそと立ち上り、右足を引きずるようにして診療室に入ってきた。渋川丈助の前に腰をおろすと、慣れた風(ふう)にズボンをまくり上げ、そそくさと右膝を露出した。そのなま白い膝頭の格好や表情で、丈助はその膝の持主の名を直ぐに思い出した。この患者は以前にも時々やってきたことがある。右膝に弱味を持った若い男だ。

「栗山佐介さんじゃったな」渋川老人は確かめるように上目を使って、じろりとその男客の顔を見た。「また膝をやられたのかね」

「ええ」栗山佐介は膝頭を大切そうに撫で回しながら答えた。「またネンザをおこしたようです」

「あんたの右膝はもともと弱いんじゃから」渋川は両掌を伸ばしてその膝蓋をはさみつけるようにした。「せいぜい可愛がって、いたわらんけりゃならん。そうですな。ふん、やはりネンザをおこしておるようだ」

渋川丈助は指で患部をあちこち確かめるように押した。佐介は唇を嚙み、眉をぴくぴくと動かして、その痛みをこらえた。

「い、いたわってはいるんですが、昨晩、つい取組み合いの格闘をやりまして」

「取組み合い?」老人はじろりと佐介を睨み上げた。「格闘なんか、膝のためにはもっともよろしくないですな。で、相手は? 相手はどんな悪者でしたじゃ?」

 待合室の空火鉢のそばで、抜きかけていた鼻毛の手を休め、牛島康之がぎろりと眼を光らせた。佐介は待合室をちらと振り返り、直ぐに顔を元に戻して、困った顔で困った声を出した。「ワ、ワルモノというほどの奴、いや、ほどの男じゃありませんが、なにしろ力の強い人物で――」

「悪者という奴は、とかく御婦人のあとをつけたり、飛びかかったりするものじゃ」ふたたび棚から別の練り薬の容器を取りおろしながら、老人はもったいらしく言い聞かせた。「だから近頃このあたりでも、ネンザや打ち身の患者が急に増加しましたな。用心せんけりゃならん」

 齢の割にはつやつやした渋川老人の指が容器の蓋を取った。蓋を取った瞬間その練り薬から、薄荷(はっか)、樟脳(しょうのう)、蕃椒(とうがらし)などの入り混った、刺戟性のにおいがゆらゆらと発散した。渋川は竹のへらを使って、それを器用に和紙に伸ばし、いきなりべたりと佐介の膝に貼りつけた。佐介はびくっと神経的に脚を慄わせ、かすかな咽喉(のど)音を立てた。つめたかったのだ。渋川老人はそれを無視して、慣れた手付きでその上に繃帯(ほうたい)をぐるぐると巻き始めた。(やはり夕陽養老院の爺さんたちとは違うようだな)渋川の自信ありげな物腰や動作を観察しながら佐介は考えた。(やはり自分の力で生きて行くやつと、そうでないやつとは、たいへんに違うものだ)佐介は老人の手さばきから視線をはなし、明るい出窓の方に移しながら、ぼんやりした声で訊ねた。

「自宅療法としては、どうするのが一番いいでしょう?」

「湿布じゃな」巻き上げた繃帯に小さな留め金をかけながら老人は答えた。「アオキ、忍冬(すいかずら)、接骨木(にわとこ)、この三つの枝や実や葉を煎(せん)じて湿布する。これが一番ですな」

「アオキ?」

「そら、庭木によくあるじゃろう。赤い楕円形(だえんけい)の実のなるやつ」老人は非現をしごいた。「忍冬、接骨木は上水路の堤にいくらでも生えている。あの堤は水道局のものだが、少少なら折り取ってもかまわんじゃろう。さあ、次の方」

 待合室の三人はちょっと顔を見合わせ、曽我ランコが立ち上って、爪先立って診療室に入ってきた。じゅうたんがよごれてくろずんでいたからだ。曽我ランコは佐介と入れ替わりに座蒲団に坐り込み、かるい声で言った。

「あたし、打ち身よ。なおせて」

「打ち身はわたしの得意ですじゃ」

 学をひけらかすことにおいて得意になっていた老人は、曽我ランコのその言葉に自尊心を傷つけられ、たちまちむっとなった。

「打ち身にもいろんな種類がある。大体十六種類ぐらいに分類出来る。あなたのはどれに該当(がいとう)するか、ひとつしらべて進ぜよう。出して見せなさい?」

 曽我ランコは眼をぱちぱちさせて、ブラウスの胸部に両掌をあてた。そして待合室の方をきっと振り返った。空火鉢を囲んだ三人の男の眼が、好奇のかがやきを帯びて、曽我ランコに集中していた。彼女はややきつい口調で言った。

「こちらを見ちゃダメよ!」

 佐介と牛島は直ちにがたがたと膝を動かして向うむきになった。乃木七郎は牛島から耳たぶを引っぱられ、暴力的に向きを変えさせられた。その三人の背中を確認して、曽我ランコは顔を元に戻した。そしてブラウスが開かれた。壁に面坐した乃木七郎の指が、所在なさそうに動いで、畳の上の卓上ピアノの鍵盤(キイ)をポンと弾いた。牛島がいらだたしげに叱りつけた。

「余計な音を立てるな!」

[やぶちゃん注:「薄荷」本邦産種はシソ目シソ科ハッカ属ハッカ変種ニホンハッカ Mentha canadensis var. piperascens。精油成分には大脳皮質や延髄を興奮させる作用があり、発汗・血液循環促進効果があり、外用すると、局所的に血管を拡張させる作用によって筋肉の緊張や痛みを和らげる働きをする。現在は化学合成されたメントールにとって代わられた。

「樟脳」クスノキ目クスノキ科ニッケイ属クスノキ Cinnamomum camphora の精油の主成分である分子式 C10H16で表される二環性モノテルペンケトン(monoterpene ketone)の一種。クスノキ片を水蒸気蒸留して得られる(現在では主にピネンから化学合成で作られている)。特異香のある昇華性の無色透明の板状結晶で、セルロイドの原料であった他、医療剤(カンフル(ドイツ語:Kampfer)と呼ぶ)・防虫剤・香料などに使用されている。

「アオキ」ガリア目ガリア科アオキ属アオキ変種アオキ Aucuba japonica var. japonica。生葉には配糖体オークビンなどが含まれ、排膿・消炎・抗菌作用があり、古くから民間療法で腫れ物・火傷・切り傷・おできなどの保護や消炎に用いられてきた。

「忍冬」マツムシソウ目スイカズラ科スイカズラ属スイカズラ Lonicera japonica。漢方の生薬としてよく知られる。

「接骨木」マツムシソウ目レンプクソウ科ニワトコ属ニワトコ亜種ニワトコ Sambucus sieboldiana var. pinnatisecta。和名の漢字表記は枝や幹を煎じて水飴状にしたものを、骨折の治療の際の湿布剤に用いたためとされ、現在も民間薬として筋骨挫傷に薬効があるとされる。

 以下、底本も一行空け。]

 

 久しぶりの晴天で、夕陽養老院もここしばらくの暗鬱(あんうつ)の風情(ふぜい)をはらいおとし、生き生きとよみがえったように見えた。

 ねぎ、茄子(なす)、いんげん、胡瓜(きゅうり)、トマトの各畠では、さんさんたる陽光を浴びて、当番の爺さんたちが、虫をつまんで潰したり、病葉(わくらば)をチョキチョキと摘み切ったりしていた。豚舎に残飯を運ぶ爺さん、洗濯場でいそいそと洗濯にいそしむ爺さんたちの姿も見られた。屋根瓦やバルコニーからはさかんに水蒸気が立ちのぼっている。朝食後黒須院長が外出したので、院内には更にゆったりした空気がただよっていた。木見婆は調理室の椅子にもたれて、朝っぱらからうとうとと居眠りを始めていた。東寮階下のどん詰まりの部屋では、昨日の面々が集まって、また何かひそひそと密議を凝らしていた。その一人の滝川爺がふと不審げに頭を上げて、一座をぐるぐると見回した。

「おや、どうも人数がすくないと思ったら、ニラ爺がいないではないか」

「ニラ爺の奴、朝飯を食ったきり、姿を見せないんだ」松木爺が応じた。「一体どこに行ってやがるんだろう。大切な会議だと言うのに」

「実際仕方のない爺さんだ」柿本爺が嘆息した。「我々にかくれて木見婆をゆするし、それで改心したかと思えば会議には欠席するし、あんな頼りない爺、在院者代表から除名したらどうだ」

「いや、いや、除名は性急に過ぎる。わしたちは長い目で見てやらねばならん」遊佐爺がゆったりと発音した。「松爺さん。お前行って、ニラ爺を探して来なさい」

「あそこで今朝も会議をやってるのや」西寮二階の廊下の窓から、ニラ爺は顔を半分だけのぞかせ、東寮階下を指差しながら、甲斐爺と煙爺と森爺に説明した。この三人の爺さんは、かくれんぼや追っかけごっこにおけるニラ爺の常連の相棒であった。「それを知ってるから、俺は朝からあの部屋に寄りつかないのや。会議なんかほんとにくさくさするぜ。かくれんぼの方がなんぼ面白いか」[やぶちゃん注:「煙爺」初出の人物である。すぐ後で本名が「煙田六郎右衛門」と出てくるのだが、恐らくこの「煙田」という姓は「たばた」と読むのであろうと思う。しかし「煙爺」はこれ、私は「けむじい」と読んでおくことにする。]

「そうだ。そうだ」と森爺が相槌を打った。「会議とかくれんぼとじゃ、土台くらべものにはならん」

「おや、誰か立ち上ったぞ。松爺さんらしい」甲斐爺が注意をうながした。「お前を探しに来るんじゃないか」

「便所に立ったんだろう。松爺は割かた便所が近いからな」と煙爺。

「それよか早くジャンケンをやろうよ。今日俺はニラ爺さんと組むよ。何時もの通り、一時間以内に探し出せねば、百円だよ」

「よし。やろう」

 四人の爺さんは二組に別れ、代表を出して勢いよくジャンケンをした。ジャンケンは二三合の後、韮山(にらやま)伝七、煙田六郎右衛門の組の勝ちとなった。煙爺は勝ち誇った声で宣言した。

「いいか、お前さんたちはここで目をつむって、二百数えるんだぜ。それから俺たちを探しに来い。なに、一時間やそこら、きっと隠れおおせて見せるわい」

「大きな口を叩くな」甲斐爺と森爺も闘志をたかぶらせ異口(いく)同音に叫んだ。「一時間はおろか、三十分で探し出して見せるぞ!」

 そして甲斐爺と森爺は両掌を眼にあて、壁を向いて、声たかだかと数え始めた。ニラ爺と煙爺は手をつないで廊下を走り出した。走り出したとは言え、老齢で足が遅いから、やはり二百という数が必要なのであった。ニラ爺組は呼吸をはずませながら廊下を曲った。

「今日は皆が、び、びっくりするようなとこに隠れようやないか」ニラ爺がせわしい呼吸のあい聞に提案した。「ふ、ふつうのとこやったら、直ぐに見付かってしまうぜ」

「そうだねえ。たいていのところには隠れてしまったからねえ。風呂場の風呂桶の中も隠れたし」煙爺は疲労のために速度を落した。「天(あめ)が下には隠れがもなし、か」

「いいとこがある」突然ニラ爺が眼をかがやかして立ち止った。「院長室はどうや。院長室の書類戸棚。今海坊主は外出してるし、丁度好都合やないか。あそこなら一時間かかっても見付かる心配はないぜ」

「院長室とは考えたねえ」

 二人の爺さんは立ち止り、はあはあ言いながら顔を見合わせた。

「やって見るか、思い切って」

「なにしろ百円の問題やからなあ」

 鈎の手廊下の彼方で、今しも森爺と甲斐爺が数を読み終ったらしく、

「もういいかい」

 という声が聞えてきた。煙爺とニラ爺はふたたびハッと顔を見合わせ、無言でうなずき合い、廊下を横っ飛びに飛んで、院長室の前に立ち止った。ニラ爺のかさかさ掌が扉のノブをつかんだ。廊下の彼方から、二人の鬼の声がしだいに近づいてくる。

「もう、いい、かい」

「もう、いい、かい」

 

「もう、いいわよ」

 曽我ランコはブラウスの釦(ボタン)をとめながら、顔だけ待合室の方を振り返った。むっとした表情で壁に面していた三人男は、ごそごそと膝を動かしてこちらに向き直った。渋川丈助はタオルで指を拭きとりながら、もったいぶったせきばらいと共に言った。

「さあ。次の方」

「お前が先だ」牛島が乃木七郎の腰骨をぐいとこづいた。

「お前を待合室に残しとくわけにはいかない」

 乃木七郎はふらふらと立ち上って、診察室に足を踏み入れた。それでも心配なのか、牛島もごそごそと立ち上って、乃木のあとにつづいた。佐介もつられて腰を浮かせた。待合室はそれで空になり、診察室は人だらけになった。渋川丈助はとがめるような眼付きで皆を見回し、やや険しい声で言った。

「そうどやどやと入ってきてはいけませんぞ。患者はどなたじゃ?」

「この男です」

 佐介が乃木七郎を指した。曽我ランコが立ち退(の)いた座蒲団の上に、乃木七郎は悠然と坐り込み、渋川老人ににこにこと笑顔を見せた。老人はむっとしたまま笑いを返さなかった。

「この男は、頭にも打撲傷を負ったんですが」佐介が乃木の傍に坐り込みながら説明した。膝に繃帯(ほうたい)を巻きつけているので、右脚だけは立て膝だ。「その、頭を殴られたのが原因で、なんだか頭のネジがすこし狂ってしまったらしいんです。つまり、記憶がすっかりなくなって、何も憶い出せない。頭のコブもなんですが、この方もひとつ――」「コブの方は治療しなくてもいいぞ」牛島がつっけんどんに口をはさんだ。「コブなんかは手当しないでも、自然に引っこむ。治療費がもったいないよ。先生。その頭ボケの方だけは何とかして貰いたいですな」

 渋川丈助は不機嫌そうに顎を引き、鬚をがさがさと動かした。先ほどの曽我ランコのあいさつ、総員そろってどやどやと診療室に入ってきたこと、それにこの無遠慮な言い方に、老人は少からず感情を害していた。老人は顎を引いたまま、じろりと四人を見回した。

「治療代が惜しいとおっしゃるなら、コブはそのままにしときましょう」老人は薬棚の引出しをガタゴトとあけて、サックの中から天眼鏡を取り出した。「頭のネジの狂い方にも、いろんな種類がある。大別すれば八通り、細別すれば三十二通りもある。わしが今調べて進ぜるから、素人(しろうと)がはたから口を出さないでもらいたいじゃ」

 老人は天眼鏡を乃木七郎の面前にかざし、じっとのぞき込んだ。乃木七郎も相変らず頰をゆるめて、かざされた天眼鏡を通じて、逆に老人の瞳をのぞき上げた。天眼鏡を間にして、両者の瞳はしばらくお互いを眺め合っていた。やがて老人はかるく舌打ちをして、天眼鏡をおさめた。

「これは当分治らないな」威厳を保つために老人は横柄な声を出した。「この仁(じん)の瞳は、黄瞳(おうどう)と言って、一面に黄味がかかっておる。脳漿(のうしょう)が溷濁(こんだく)している証拠じゃ。記憶が戻るには、先ず一ヵ月はかかろう」

「一ヵ月?」牛島がうなった。「とてもそれまでは待ち切れん。薬はないんですか?」

「バカにつける薬はありませんじゃ」老人はそっけない答え方をした。「はい。あなたがた三人で、八百円いただきます」

「八百円?」乃木七郎はとんきょうな声で復唱して、小首をかしげた。もやもやと溷濁した記憶の中に、その『八百円』という言葉が、破片のようにキラッと光ったからだ。

「八百円。ええ、何だったっけ」

「なにか憶い出したか?」牛島がたたみかけた。

「ええ、八百円」乃木七郎は眼をキョトキョトさせた。

「わたしは、八百円、貰う権利がある。あるような気がする」

「何を言ってんだ」牛島は失笑した。「たわごと言わないで、そこをのけ。今度は俺が診療して貰うんだ」

「あんたも頭のネジの方か」老人はつめたく言って、すっくと立ち上った。「残念ながらこの仁で、十五人になる。あんたは明日やっておいで」

「明日?」牛島はぽかんとした顔付きになった。

「ここの規定なんだよ」佐介が牛島の袖を引き、待合室の貼紙を指差した。「診療は一日十五人に限定されているんだ」

 渋川丈助はそのすきに皆の間を通り抜け、すっすっと奥の部屋に引込んで行った。牛島が規定を読み終えた時、老人の姿はもう見えなくなっていた。

 

「ばかにしてやがる!」牛島は奥の間に向って拳固をふり上げた。「なんだい。もったいぶりゃがって。あのヒゲ爺!」

「さあ、帰りましょうよ」曽我ランコは立ち上った。「十五人ときまっているなら、仕方がないじゃないの。でも、あのヒゲ爺さん、案外ヤブね。一ヵ月なんて、あたしも待ち切れないわ」

「わたくしだって待ち切れません」乃木七郎はにこやかに三人を見回した。「わたしは金を持たないんですが、わたしの診察費、どなたか立替えて置いて下さい」

 

先生「御孃さんと一所に出たのか」――K「左右ではない。眞砂町で偶然出會つたから連れ立つて歸つて來たのだ」……お孃さん「何處へ行つたか中(あ)てゝ見ろ」(笑いながら)



 「私はKに向つて御孃さんと一所に出たのかと聞きました。Kは左右ではないと答へました。眞砂町で偶然出會つたから連れ立つて歸つて來たのだと說明しました。私はそれ以上に立ち入つた質問を控へなければなりませんでした。然し食事(しよくし)の時、又御孃さんに向つて、同じ問を掛けたくなりました。すると御孃さんは私の嫌ひな例の笑ひ方をするのです。さうして何處へ行つたか中(あ)てゝ見ろと仕舞に云ふのです。其頃の私はまだ癇癪持でしたから、さう不眞面目に若い女から取り扱はれると腹が立ちました。所が其處に氣の付くのは、同じ食卓に着いてゐるものゝうちで奥さん一人だつたのです。Kは寧ろ平氣でした。御孃さんの態度になると、知つてわざと遣るのか、知らないで無邪氣に遣るのか、其處の區別が一寸(ちよつと)判然(はんせん)しない點がありました。若い女として御孃さんは思慮に富んだ方でしたけれども、其若い女に共通な私の嫌(きらひ)な所も、あると思へば思へなくもなかつたのです。さうして其嫌な所は、Kが宅へ來てから、始めて私の眼に着き出したのです。

   *

 私はそれ迄躊躇してゐた自分の心を、一思ひに相手の胸へ擲(たゝ)き付けやうかと考へ出しました。私の相手といふのは御孃さんではありません、奥さんの事です。奥さんに御孃さんを吳れろと明白な談判(だんぱん)を開かうかと考へたのです。然しさう決心しながら、一日(にち)/\と私は斷行の日を延ばして行つたのです。さういふと私はいかにも優柔な男のやうに見えます、又見えても構ひませんが、實際私の進みかねたのは、意志の力に不足があつた爲ではありません。Kの來ないうちは、他の手に乘るのが厭だといふ我慢が私を抑へ付けて、一步も動けないやうにしてゐました。Kの來た後(のち)は、もしかすると御孃さんがKの方に意があるのではなからうかといふ疑念が絕えず私を制するやうになつたのです。果して御孃さんが私よりもKに心を傾むけてゐるならば、此戀は口へ云ひ出す價値のないものと私は決心してゐたのです。恥を搔かせられるのが辛いなどゝ云ふのとは少し譯が違ひます。此方(こつち)でいくら思つても、向ふが内心他の人に愛の眼(まなこ)を注いでゐるならば、私はそんな女と一所になるのは厭なのです。世の中では否應なしに自分の好(す)いた女を嫁に貰つて嬉しがつてゐる人もありますが、それは私達より餘つ程世間ずれのした男か、さもなければ愛の心理がよく呑み込めない鈍物のする事と、當時の私は考へてゐたのです。一度貰つて仕舞へば何うか斯(か)うか落ち付くものだ位(くらゐ)の哲理では、承知する事が出來ない位私は熱してゐました。つまり私は極めて高尙な愛の理論家だつたのです。同時に尤も迂遠な愛の實際家だつたのです。


『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月20日(月曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第八十八回より)

今一度、以下の事実を思い出してみ給え。

   *

 「十一月の寒い雨の降る日の事でした。私は外套を濡らして例の通り蒟蒻閻魔(こんにやくえんま)を拔けて細い坂路を上(あが)つて宅へ歸りました。Kの室は空虛(がらんど)うでしたけれども、火鉢(ひはち)には繼ぎたての火が暖かさうに燃えてゐました。私も冷たい手を早く赤い炭の上に翳(かざ)さうと思つて、急いで自分の室の仕切を開けました。すると私の火鉢には冷たい灰が白く殘つてゐる丈で、火種(ひたね)さへ盡きてゐるのです。私は急に不愉快になりました。
 其時私の足音を聞いて出て來たのは、奥さんでした。奥さんは默つて室の眞中に立つてゐる私を見て、氣の毒さうに外套を脫がせて吳れたり、日本服を着せて吳れたりしました。それから私が寒いといふのを聞いて、すぐ次の間からKの火鉢(ひはち)を持つて來て吳れました。私がKはもう歸つたのかと聞きましたら、奥さんは歸つて又出たと答へました。其日もKは私より後れて歸る時間割だつたのですから、私は何うした譯かと思ひました。奥さん大方用事でも出來たのだらうと云つてゐました。

『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月19日(日曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第八十七回より。太字・下線は私が附した)

   *

前の――富坂下が泥々になるような「寒い雨の降」っているとんでもない天候の時間帯に――お嬢さんは一体――何の用があって――何処に行ったのだろう?――そうしてその行先は――読者である我々だけではない――親しいはずの先生にさえ――当てられない場所――なのだ……

翻って見よ――またしても其日もKは私より後れて歸る時間割だつた」のに先に帰っていたである――Kの部屋の火鉢は「繼ぎたての火が暖かさうに燃えてゐ」た――そうだ――Kが授業を端折って「歸つて」来ながら、雨の中を「又出た」のは先生が帰宅した、ついさっきなのだ――Kは一体何の用があって――こんな雨の中を――何処へ行ったのだろう?――先生の心落ち着かない書見などは短かい時間だったと考えるのが自然だ――但し、雨は止んでいた――そうして――先生は散歩に出、西富坂を下って東富坂の上りのとば口で二人連れの彼らに遭遇したのだ――

これらの〈事実としての不審の恐るべき堆積〉は、よく考えて見れば、誰が見てたって海中にそそり立つ牡蠣群のそれのように〈不審の忌まわしくも屹立する山〉と言えるではないか――

 

2020/07/19

三州奇談續編卷之七 朝日の石玉 / 三州奇談續編卷之七~了

 

     朝日の石玉

 朝日山上日寺(じやうにちじ)に登る。此地や風潔く水淸し。元來有磯・奈湖の海を眸中(ばうちゆう)に盡(つく)し、立岳(りふがく)・寳嶺(はうれい)に目を極むれば、景は云ふべきにも非ず。寺は莊嚴(しやうごん)物さび、「龍灯の松」あり。是は大晦日の夜、三ヶ所一團となりて牛島より來りかゝると云ふ。上の山を「牛潜(うしもぐ)り」と云ふ。越の大德泰澄の牛に駕(が)して、山路を通ひ給ふよし物語るを聞きしが、略す。寺院は白鳳年中に開かれし山なれども、中興我が國君の歸依により、芳春尼公の佛忠懇志(こんし)より起るよし。大和の法師、慶長十八年に緣起を殘す。本尊は觀世音一寸八分の尊像にして、石玉(せきぎよく)に乘じて太田の濱に上(あが)り給ふよし。御佛(みほとけ)は後に、鳥佛師(とりぶつし)が作の五尺の木像の頭上(とうじやう)に納(をさま)り給ひて、拜見し難し。其乘り給ふ石を「兩曜石(りやうえうせき)」と號す。寺號・山號も爰に起るとにや。親しく手に移し戴くに、掌中濕(うるほ)ひ石に汗を發す。此石大(おほい)さ三寸ばかり、蓮花(れんくわ)一葩(ひとひら)の形に似て、兩面に日月(じつげつ)の紋あり。色黃にして不思議殊(こと)に多しとなり。既に太田濱に上り給ふ時も、石ありて損ぜんことを恐れ、百餘間の石を退(の)け給ふとて、岩崎は石甚だ多けれども、太田濱には今に小粒なる石だにもなしとにや。能く能く其兩曜石を愛(めで)し給ふと見ゆ。依りてつくづく拜し奉るに、是咋嗒(さたう)の類(たぐひ)にして、靈鹿(れいろく)・妙兎(めうと)の類(たぐひ)、是を捧げたるならんと思ふ。

[やぶちゃん注:「朝日山上日寺」富山県氷見市朝日本町にある真言宗朝日山上日寺(グーグル・マップ・データ)。本尊は一寸八分(約五・五センチメートル)の千手観世音菩薩。創建は天武天皇一〇(六八一)年、開基は法道上人と伝える。嘗ては七堂伽藍が完備し、十八坊を有した大寺であったが、数度の火災により、現在は江戸時代の本坊銀杏精舎(いちょうしょうじゃ)、観音堂など数宇を残すのみである。毎年四月十七日と十八日の観音縁日に行われる祭礼「ごんごん祭り」は、寛文四(一六六四)年の大干魃の際に雨乞いをして待望の慈雨を得たことへの感謝のために始められた祭りと伝え、現在も盛大に行われて参詣者は鐘を打ち鳴らして厄除け・諸願成就を祈る。境内の大銀杏は樹齢千三百年、周囲十二メートルに及ぶ大樹で、乳(ちち)授けの霊木とされて、国の天然記念物である(小学館「日本大百科全書」に拠る)。ここである(グーグル・マップ・データ航空写真)。……ああっ!……何んということか!?!……ここは……私にとって秘密の場所である……遠い昔の……若き日の私の心臓の高鳴りが……聴こえる!…………

「立岳」立山の異名。

「寳嶺」立山連峰の他の霊峰の峰々。

「大晦日の夜、三ヶ所一團となりて牛島より來りかゝると云ふ」「日文研」の「怪異・妖怪伝承データベース」のこちらに、「龍燈」として、小倉学氏の「北陸の龍燈伝説」(『加能民俗研究』通巻十七号・平成元(一九八九)年「加能民俗の会」官発行所収)に「誹諧草庵集」・及び本書を出典として、この氷見市『朝日山の山腹にある観音堂の前の松に、毎年正月朔日と六月十七日の夜龍燈がかかる。本尊の観音様が太田浜から上がったものだが、龍燈は三ヶ所一団となって牛島から飛来する』とある。「牛島」は後の最終巻「三州奇談續編卷之八」の「唐島の異觀」によって、唐島から五、六百メートル離れた岩礁の名前と出る。

「越の大德泰澄」(たいちょう 天武天皇一一(六八二)年~神護景雲元(七六七)年)は奈良時代の修験道の僧で、当時の越前国の白山を開山したと伝えられ、「越(こし)の大徳」と称された。既出既注であるが、再掲しておく。越前国麻生津(現在の福井市南部)で豪族三神安角(みかみのやすずみ)の次男として生まれ、十四歳で出家し、法澄と名乗った。近くの越智山に登って、十一面観音を念じて修行を積んだ。大宝二(七〇二)年、文武天皇から鎮護国家の法師に任ぜられ、豊原寺(越前国坂井郡(現在の福井県坂井市丸岡町豊原)にあった天台宗寺院。白山信仰の有力な拠点であったが、現存しない)を建立した。その後、養老元(七一七)年、越前国の白山に登り、妙理大菩薩を感得した。同年には白山信仰の本拠地の一つである平泉寺を建立した。養老三年からは越前国を離れ、各地にて仏教の布教活動を行ったが、養老六年、元正天皇の病気平癒を祈願し、その功により神融禅師(じんゆうぜんじ)の号を賜っている。天平九(七三七)年に流行した疱瘡を収束させた功により、孝謙仙洞の重祚で称徳天皇に即位の折り、正一位大僧正位を賜り、泰澄に改名したと伝えられる(以上はウィキの「泰澄」に拠った)。

「白鳳年中」寺社の縁起や地方の地誌や歴史書等に多数散見される私年号(逸年号とも呼ぶ。「日本書紀」に現れない元号を指す)の一つで、通説では元号の白雉(六五〇年〜六五四年)の別称・美称であるともされている。他に六六一年から六八三年とも、中世以降の寺社縁起等では六七二年から六八五年の期間を指すものもあるという。なお、「続日本紀」の神亀元(七二四年)年冬十月の条には『白鳳より以來、朱雀以前、年代玄遠にして、尋問明め難し』という記載がみられる(ここはウィキの「白鳳」に拠った)。

「中興我が國君の歸依により、芳春尼公」前田利家の正室まつ(天文一六(一五四七)年~元和三(一六一七)年)の戒名。上日寺は江戸時代は前田家の祈願所となった。

「慶長十八年」一六一三年。

「太田の濱」現在の太田地区の海浜で、松田枝(まつだえ)浜及び島尾にかけての広域呼称(グーグル・マップ・データ航空写真)と考えられる。私の好きな美しい海岸である。

「鳥佛師」鞍作止利(くらつくりのとり 生没年不詳)のこと。飛鳥時代の仏師。「鳥仏師」とも書くが、これは「司馬鞍作部首止利仏師(しばのくらつくりべのおびととりぶっし)」の通称。中国の南梁からの渡来人司馬達等(しばたっと)の孫とされるが、司馬一族自体が四世紀頃に渡来した「鞍作村主(すぐり)」なる人物の子孫とする説もある。聖徳太子や当時の権力者蘇我氏に重用され、「日本書紀」によれば、推古天皇一四(六〇六)年に飛鳥寺の釈迦如来坐像(飛鳥大仏)を造像したとされ(但し、彼の作仏を否定する説もある)、六二三年には、聖徳太子と母后・妃の菩提を弔うため、法隆寺金堂の釈迦如来及び両脇侍像を完成している。先の「飛鳥大仏」が後世の補修が多いのに比べ、この三尊像は殆んど完全に残っており、光背裏の刻銘から、彼の確実な作品と知られる貴重な仏像である。作風は中国北魏竜門系の様式を取り入れながら、独自な造形感覚で日本的に整斉された「止利様式」を確立しており、単純な形の大きく張った目、両端が釣り上がってアルカイック・スマイルと称される不思議な微笑を感じさせる唇、板を重ねたように堅く直線的な衣の襞など、象徴的で力強く、威厳に満ちており、名実ともに七世紀前半の彫刻界を代表する作家であったことを示している(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「兩曜石」日月石のこと。全国的な非常に古い岩石信仰として、太陽と月を象徴するとする磐座(いわくら)によくつく名前であるが、時に晴雨や潮の干満を司る石ともされ、豊穣のシンボルとして陰陽石との関連も認められる。ここでは、海浜に漂着したものである点や、風雨を支配する龍との絡みから、そうしたニュアンスが匂う。実際に「親しく手に移し戴くに、掌中濕ひ石に汗を發す」という辺りはそうした水を司る水石とも読める。但し、ネットで検索する限りでは、同寺には現存しないようである。

「百餘間」百間は約一八二メートル。

「岩崎」伏木の東、国分浜の先の岩崎ノ鼻から雨晴海岸の東に至る岩礁地帯。ここも私にはとても懐かしい場所である。跋渉もし、釣り(甚だ岩掛かりしたものである)もした。

「太田濱……」確かに現在も穏やかな美しい砂浜海岸である。

「能く能く其兩曜石を愛し給ふと見ゆ」主語は流れ着いた本尊観世音菩薩(像)である。

「咋嗒(さたう)」これは各種獣類の胎内結石或いは悪性・良性の腫瘍や免疫システムが形成した異物等を称するもので、普通は「鮓答」と書き、「さとう」と読む。「牛の玉(たま)」とか「犬の玉」という風にも呼ぶ。「詳しくは私の「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 鮓荅(へいさらばさら・へいたらばさら)(獣類の体内の結石)」の私の注を参照されたい。

「靈鹿・妙兎」ただの鹿や兎ではない神霊神仏の使者や眷属であるそれら。]

 

 されば氷見は海畔也。又遙か二里奧なる蒲田・神代(こうじろ)の間にさへ鹽井(しほゐ)を出(いだ)す。【粥(かゆを燒(たく)に甚だよしとなり。他村へ汲めば水となるといふ。】海近き此邊(このあたり)、水潔(きよ)きこと近鄕の例すべきに非ず。妙智力能く靈淸水(れいせいすい)を御手洗(みたらひ)となし給ふ故となり。緣起の中にも、此御佛の施主芳春院殿と稱して、天竺震旦(てんぢくしつたん)稀有の女才(ぢよさい)と崇(あが)め奉る。然共善には惡添ひ、幸ひには害隨ひて、功德は黑闇女(こくあんによ)と須臾(しゆゆ)も相離れず。又々此女才を侵(おか)す女才ありて、北海に少し怨(うらみ)をなすこと「中外傳」中にも記す。其後も海氣(かいき)の押して登るを、銀杏の大樹能く支へ、或は人家火災起り、御手洗の麗水(れいすい)數日(すじつ)留(とま)る事抔(など)聞えし。近年も靈風起り、末院山王の堂を吹潰(ふきつぶ)し、其再興勸化(くわんげ)より氷見の人々論起りて騷(さはが)しき迄に及ぶ。是は年近ければ記さず。

[やぶちゃん注:「蒲田」富山県氷見市蒲田(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「神代」蒲田の西及び北に接する富山県氷見市神代(こうじろ)(同前)。ここの北の末端でも海岸線から四・二キロ内陸で、南部分は山間地である。

「鹽井」塩水の井戸。

「此御佛の施主芳春院殿と稱して、天竺震旦(てんぢくしつたん)稀有の女才(ぢよさい)と崇(あが)め奉る」思うに「と稱して」の「と」は「を」の誤判読か、誤写ではなかろうか。後半は本邦(や中国)どころか、インド・チベット中にあって稀有の才女という謂いであろう。利家の正室芳春院まつは、学問や武芸に通じた女性として頓に知られる才媛であった。

「黑闇女」吉祥天の妹であるが、容貌醜く、人に災いを与える女神とされる。密教では閻魔大王の妃とする。「胎蔵界曼荼羅」の「外金剛部」に属す。像は肉色で、左手に人頭の杖を持つ。

『此女才を侵(おか)す女才ありて、北海に少し怨(うらみ)をなすこと「中外傳」中にも記す』既に何度も注した通り、自己宣伝。正しい書名は「慶長中外傳」で本「三州奇談」の筆写堀麦水の実録物。「加能郷土辞彙」によれば、本体は『豐臣氏の事蹟を詳記して、元和元年大坂落城に及ぶ。文飾を加へて面白く記され、後の繪本太閤記も之によつて作られたのだといはれる』とある。同書を読むことが出来ないので、上記の内容は不詳。

「末院山王の堂」「末院」とあるので上日寺の僧坊と思われるが、現存しない。山王権現は神道系であるから、「其再興勸化より氷見の人々論起りて騷しき迄に及ぶ」というのは、或いは本寺側や一部の信者が再興にあまり乗り気でなかったのかも知れない。]

 

 扨濱表(はまおもて)に下りて見渡すに、本(も)と是(これ)古戰の地なり。町はづれの「三本松」と云ふ地下には「首數(しゆすう)何百の内」と云ふ札を掘出(ほりいだ)せし話も聞えたり。

[やぶちゃん注:上杉謙信や佐々成政の侵攻の際にこの辺りは戦場となっている。

『町はづれの「三本松」』不詳。「町はづれ」で、以下続けて「柳田」を経てとあるのだから、氷見市柳田(グーグル・マップ・データ)の市街地との境に比定は出来ようか。]

 

 是より柳田を過ぎて彼(かの)の太田濱なり。此濱實(げ)にも小石迚(とて)もなし。眞(まこと)に梵力(ぼんりき)能く泥沙にも及ぶこと驚くに堪へたり。此邊大鳥(おほとり)の死する物多し。人に尋ぬるに「是れ信天翁(あはうどり)」となり。得て人の喰ふべき肉なければ、打殺して捨つとかや。多くは狗(いぬ)の取り、小兒の戲れにて撲(たた)き殺したるなり。

「大悲の誓ひの濱なるに無用の殺生哉(かな)、鳥も又逃(にげ)よかし」

と委しく尋ぬれば、和莊平(わさうへい)なる人ありて敎へて曰く、

「此邊(このあたり)を『贅鳥(アホウドリ)』と云ふは、人のあまり肉の如く無用より號(なづ)く。元來此鳥目耳(みみ)用をなさず。然るに小魚を投ぐるに寄り來(きた)るは、氣(かざ)を以て相求むるなり。

『こうこう』

と呼ぶに來(きた)るも、氣(かざ)の氣(き)に對するなり。目見えず耳なき故、呼びよせて捕へ得るに甚だ易し。形ちは鴈(かり)に似てまた大いなり。毛は必ず白し、而していやしき黑毛を交(まぢ)ゆ。口嘴(くちばし)黃にして大なり、曲珠(まがたま)の形ちをなす。かゝる巨躰(きよたい)を、何を喰ひてか生涯を送るらんと見るに、纔(わづ)かに鷗の取落したる小魚を喰(くら)ひ、網を遁れ出でたる細鱗(さいりん)を甞(な)めて世の樂(たのし)みとす。然るに此中(このうち)小賢(こざか)しき贅鳥(ぜいてう)ありて、彼(か)の觀音の佛力にすがり、

『我にも目を明けさせて景淸(かげきよ)の昔をなさしめ給へ』

と、此濱に願ひし鳥あり。功力(くりき)豈(あに)魚鳥(ぎよてう)に至らざらんや。忽ち眼(まなこ)明きたる鳥となりしに、數日(すじつ)にして瘦せ衰へ、既に死せんとす。則ち同類の信天翁(あはうどり)に氣(き)を以て示して曰く、

『汝等今の身を樂みて別願を起すことなかれ。我が眼明きて甚だ樂しからんと思ひしに、却りて大害爰に來(きた)る。憂ひて今死せんとす。元來我曹(われら)は死せんとする時鳴くこと悲し。是(これ)人の善言(ぜんげん)と同事(おなじこと)なり。能く聞き置くべし。先づ眼見ゆると物を恐るゝ事甚だ發す。人にも心ひかれ。大魚にも退(しりぞ)け去らんとす。扨(さて)他の鳶(とび)・鴉の多く食を得るを見て、羨みてねたみ、又怒ること燃ゆるが如し。頻りに奔走するに餌(ゑさ)小鳥程も得がたし。故に心痛して悲瘦骨(こつ)に至る。高く飛ぶ鴻鶴(こうかく)を見ては羽の及ばざることを恨み、水に潜る鸕鷀を見ては身の重きを歎く。只日々に物に恐るゝと怨むとの爲に苦しみ多くして、彼(か)の耳なく目なく氣の餌(ゑ)を求むるの思ひにて、人の側(かたはら)とも大魚の眼(まなこ)とも知らず走り行き、鰯一つ得る時、「天地の間此樂みの上なし」と思ひしを思へば、今悔(くや)しきこと限りなし。若し經說に云ふ、「盲龜(まうき)の浮木(うきぎ)」、暫く日を重ねなば、肩たゆみ目埃(ほこり)入りて其悲しみ云ふべからず。願ひたることは初め叶ひたる一時(いつとき)のみにして早(はや)苦し。汝達(なんぢたち)天性のまゝ樂みて、願ひ求(もとむ)ることあるべからず』

と遺言しき。此故に此鳥死に及びても、又樂しさを知る。大悲の誓ひにはこり果てたる鳥ぞや。死鳥(してう)にあたらしき感慨を必ず起し給ふな」

と、杖をかゞめかして去りし。

[やぶちゃん注:「柳田」氷見市柳田(グーグル・マップ・データ)。

「信天翁(あはうどり)」ミズナギドリ目アホウドリ科アホウドリ属アホウドリ Phoebastria albatrus。私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鶚(みさご)(ミサゴ/〔附録〕信天翁(アホウドリ))」を参照されたい。なお、ごく近年の学術調査による「DNAメタバーコーディング」と呼ばれる手法によってアホウドリが摂餌した生物を糞から特定した結果、彼らが特異的に好んでクラゲを摂餌していることが判明している。

「得て人の喰ふべき肉なければ」というわけではない。食用にはなるが、あまり美味いものではないというネット記載をやっと見つけた。しかしヒトはただ捨ててはいない。本邦では専ら羽毛を採取する目的で撲殺し(和名はヒトが近づいても地表での動きが緩慢で、捕殺が容易であったことに由来する)、乱獲が続いて絶滅しかかった。

「大悲の誓ひの濱」この浜に漂着した観世音菩薩は、「世」の人々の「音」声を「観」じて、その苦悩から救済する菩薩の謂いで、人々の姿に応じて「大」慈「悲」を行ずることを「誓」われたところから、千変万化の相となると称し、その姿は六観音・三十三観音などに多様に表わされる。

「和莊平」不詳。何か、怪しい名前だね(後述)。

「此邊(このあたり)を『贅鳥(アホウドリ)』と云ふ」太田浜の異称を「あほうどり」言うというのである。後の結果は「信天翁」も裏切られる。

「人のあまり肉の如く無用より號く」前の地名の漢字を見ると、「贅鳥」で「贅肉」のそれで、「人のあまり肉」(余分な肉)の意である。これは恐らく先行する――「人」がその「肉」を不味いとして「あまり」食わず、殺してもその肉は「あまり肉」として捨てるように「無用」な鳥のいるところ――という意味にも通じているのであろう。

「こうこう」これはヒトがアホウドリを遊びで打ち殺すために呼び寄せる時の声のオノマトペイア。因みに、アホウドリの鳴き声は「サントリーの愛鳥活動」のこちらでどうぞ。

「氣(かざ)」臭い。

「氣(かざ)の氣(き)に對するなり」「臭いの気(き)の流れに応じているのである」の意で採るためにかく読んだ。

「鴈(かり)」「がん」と読んでもよい。広義のガン(「鴈」「雁」)は鳥綱Carinatae 亜綱Neornithes 下綱Neognathae 小綱カモ目カモ科ガン亜科 Anserinae の水鳥の中で、カモ(カモ目カモ亜目カモ科 Anatidae の仲間、或いはカモ科マガモ属 Anasより大きく、ハクチョウ(カモ科Anserinae 亜科 Cygnus 属の六種及び Coscoroba  属の一種の全七種)より小さい種群を総称する。詳しくは私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鴈(かり・がん)〔ガン〕」を参照されたい。

「此中小賢しき贅鳥(ぜいてう)ありて」以下、どうも二重に「贅鳥」を掛けているところ、これ、諧謔に過ぎた話で、如何にも作り物臭い、鼻白む展開である。目が見えなかった時の方が幸福、目が見えるようになって恐怖や憤懣に満ちるようになって不幸になったという、如何にもな感官による煩悩を戒める説教のようなところが、どうにも厭な感じだ(「ジョン・M・シング(John Millington Synge)著 松村みね子訳 聖者の泉(三幕):The Well of the Saintsの方が遙かに面白い。リンク先は私の電子テクスト)。麦水の見え透いた創作のような気さえしてくる。もし、現地のこの伝承があるとならば、是非、お教え戴きたい。

「景淸の昔」藤原悪七兵衛景清(?~建久七(一一九六)年?)は、平安末期の平氏に属した武士。平氏と俗称されるものの、藤原秀郷の子孫伊勢藤原氏(伊藤氏)の出。平家一門の西走に従って一ノ谷・屋島・壇ノ浦と転戦奮戦した。「平家物語」巻十一「弓流(ゆみながし)」で、源氏方の美尾屋十郎の錣(しころ)を素手で引き千切ったという「錣引き」で知られる勇猛果敢な荒武者(「悪」は「強い」の意)。壇ノ浦から逃れたとされるが、その後の動静は不明。幕府方に降って後に出家したとも、伊賀に赴き、建久年間に挙兵したとも伝わる。後、謡曲「景清」や近松の「出世景清」等で脚色されて伝説化した。この謡曲「景清」では、落魄して盲人となった彼と、一人娘人丸との再会悲話仕立てで、後者は平家滅亡後も頼朝の命を狙う荒事で、鎌倉には捕らわれた景清が入れられたという「景清の牢」跡なるものがあるが、信じ難い。私の「鎌倉攬勝考卷之九」の「景淸牢跡」を参照されたい。

「善言」人のよき言葉、後の者たちへの戒めとなる言葉。

「鴻鶴」ここは大きな鳥のこと。アホウドリは確かに高高度を飛ぶことは出来ない。但し、「空を飛ぶのは苦手」などとしばしばネット記載されているのは大変な誤りで、飛ぶのに長い滑走距離を必要とするに過ぎない。そもそもが彼らは渡り鳥であるから、実は気流に乗って滑空をしながら、一度も羽ばたきをせずに、驚くべき長距離をも飛ぶことが出来るのである。

「鸕鷀(ろじ)」鵜(う)の異名。ここは海浜なので、カツオドリ目ウ科ウ属ウミウ Phalacrocorax capillatus。なお、事実、本邦産のアホウドリは海中に潜ることは出来ない。

「盲龜(まうき)の浮木(うきぎ)」広い海の上に一ヶ所だけ穴が空いている一本の木が浮かんでおり、この海に住んでいる百年に一度だけ海面に浮かんできて頭を出す一匹の目の見えない亀が、その木の穴に頭を突っ込むことは非常に難しい。人が人としてこの世に生まれ出ずることは、この盲亀が浮木に頭を入れることよりも難しい想像を絶することなのであるという譬え話。釈迦が阿難に諭したそれとされる。

 さても。この話のエンディング、信天翁(あほうどり)はその目や耳の不自由故に「無為自然」の中に自(おのず)とその「分」(ぶん)を知って生き死にしてゆくのであればこそ、「此故に此鳥死に及びても、又樂しさを知る」というのだ。仏説のありがたい観世音菩薩なんぞの「大悲の誓ひには」すっかり「こり果て」てしまっていると言うのだ。さればこそ――そうした「死鳥」に「あたらしき」皮相的な勝手な「感慨」なんぞは、これ、決して起こされぬが身のためじゃ――と言って悠然と杖を突いて去ってゆく「和莊平」という男の後ろ姿は、「漁父之辭」の道家的人物として描かれる漁父のラスト・シーンの映像とよく合致しているではないか! 則ち、この男は「和」(倭・日本)の「莊」子的な在野の真人としての「平」民であることが判るのである。ますます麦水の作り話の可能性が高くなってくるように私は思うね。しかし、これはこれで、いい。老荘好きの私としては。

 以上で「三州奇談續編卷之七」は終わっている。]

梅崎春生 砂時計 22

 

     22

 

 深夜の廊下をニラ爺は足音をぬすんで、東寮の方に曲り込んだ。身体よりは大き目の薄地のカーキ色の上衣、その双のポケットはずっしりとふくらみ、襯衣(シャツ)の中にも何か押し込んでいると見え、上衣の腹のあたりがむっくりとかさばっていた。

(追い出される心配はなくなったし、木見婆の弱味はおさえたし、今日は何という佳い日だろう)

 さっき木見婆からせびり上げた、コップ一杯の味付用の味醂(みりん)、その酔いがほのぼのと身体中に回り、かつニラ爺の気持を浮き浮きと高揚させていた。味醂(みりん)にしろ何にしろ、酒精(アルコール)分の飲料を口にしたことは、ここ久しぶりのことであった。ニラ爺はふくらんだ上衣の腹を、たしかめるように両掌で押えて見た。

(もうあれから相当時間が経ったから、爺さんたちはとっくに解散して、それぞれ部屋に引き取り、ぐうぐう眠ってるだろう。松木爺さんたちも眠っているといいな。眠っているとこの獲物を見付けられずに済む。もし起きておれば、分け前をよこせと、あの爺さんたちは言うだろう。実際当院の爺さんたちは、意地きたないのが多いからな)

 自分の意地きたなさをすっかり棚にあげて、ニラ爺はそんなことを考えた。しかしニラ爺のその考えは、たいへんに情況を甘く見過ぎたうらみがあった。松木爺はおろか、七老人はいまだ解散することなく、どんづまりの部屋に車座をつくっていたのだ。車座の中央には当院禁制の電熱器が置かれ、その上に薬罐(やかん)がしゅんしゅんと湯気をふき上げていた。爺さんたちはお茶を入れて飲んでいた。茶は松木爺の提供によるもので、割かた上質の煎茶(せんちゃ)であった。

「さあ、夜も遅いから、今日はこれで解散することにしよう」遊佐爺は舌を鳴らしながら残りの茶を飲みほし、重々しげに一座を見回した。「今日の会見は皆の努力によって、一応終了したが、必ずしも成功だとはいえなかった。残念ながら海坊主にも相当点数を稼がれた。しかし会見は今日一ぺんこっきりというわけではないからして、ますますわしたちは団結して、ことに当らねばならん。いや、みんな御苦労さんでした」

「御苦労さんでした」

「御苦労さんでした」

 爺さんたちがこもごも唱和し、めいめい腰を浮かしかけた時、たてつけの悪い入口の扉がガタゴトと押し開かれた。皆の視線は一斉にそこに集まった。扉のすき間からニラ爺の禿頭がぬっとのぞいた。ニラ爺はたちまちどぎまぎして、顔をさっとあかくし、思わず逃げ腰となった。松木爺が怒鳴った。

「ニラ爺!」

 ニラ爺はますますへどもどしながら、扉にすがるようにして、尻を後方に引いた。腰を曲げることによって、上衣のふくらみを皆の眼からかくそうとしたのだ。松木爺がふたたび叱声を上げた。

「ニラ爺。今まで、どこに行ってたんだ!」

 ニラ爺はそのままの姿勢で黙っていた。顔のあかさは急に引いて、額はむしろ蒼味を帯びてきた。松木爺は三度たたみかけた。

「どこに行ってたんだと言うのに!」

「便所や!」ニラ爺はせっぱつまって言い返した。「便所に行くのは俺の自由や」

「便所だけにそんな時間がかかるのか」松木爺はかさにかかった。「お前さん、痔(じ)でも悪いのか。俺はお前さんとこの一年同室したが、そんな話はついぞ聞かなかったぞ!」

「ニラ爺さん」遊佐爺が松木爺を制して、重々しくニラ爺をさしまねいた。「ここに上って来なさい」

 ニラ爺は本当にせっぱ詰まった。扉にすがった双の手がぶるぶるとふるえ出した。道佐爺が重ねて命令した。

「上って来なさい!」

「上るよ」ニラ爺はとたんにふて腐れて、腰をすっくと伸ばした。そしてのそのそと部屋に上って来た。「上ればいいんだろう。ここはおれの部屋や」

「ニラ爺さん。お前、ポケットに何を入れてるんだ」滝川爺が疑わしげに眼を光らせた。電燈の真下でポケットのふくらみはかくすべくもなかったのだ。「出して見い」

「こ、これは私物や」ニラ爺はどもって、きょときょとと一座を不安げに見回した。「私物にまで他人の干渉は受けん」

「お前、便所に行ったと言ってたが」松木爺がまた口を出した。「便所に私物をかくしてたのか」

 ニラ爺は額をあおくして松木爺をにらみつけた。返事はしなかった。それがますます一座の疑惑を深めた。道佐爺はたまりかねたようにごそごそと乗り出し、自分の膝をニラ爺の膝にぴったりとくっつけた。おごそかな声で言った。

「ニラ爺さん。わしの顔を見なさい。まっすぐにわしを見なさい」

 ニラ爺はいよいよふて腐れて、遊佐爺に向って顎(あご)を突き出した。

「おや?」遊佐爺は語気をするどくした。「何かアルコール性のにおいがするぞ。お前、酒を飲んだな」

「酒じゃない。味醂や」ニラ爺は度胸を定めて居直った。

「味醂(みりん)を飲んじゃあかんのか?」

「飲んでいけないとは、わしは言いません。飲んでもいいがだ、どこでその味琳を手に入れたのか」遊佐爺は教えさとす口調になった。「お前さんはさっきわしを指圧した時、近頃煙草銭にもこと欠いてると言ったではないか。煙草銭にもこと欠いてるお前さんが、味醂(みりん)を買えるわけがないではないか。お前さんの行動は疑惑に包まれている。この際一切を開陳して、みんなの疑惑を晴らせ。先ずそのポケットのものを出して見せなさい」

 ニラ爺はポケットのものを出すかわりに、降伏する兵士のように、眼をつむって黙って両手をさし上げた。遊佐爺は自ら手を下すことなぐ、松木爺の方を向いて命令した。

「松爺さん。お前が引っぱり出しなさい」

 松木爺はいそいそと膝行(しっこう)して、ニラ爺の背後に回った。ポケットから次々に紙包みやセロハン包みを引っぱり出した。それらは皆食べ物であった。煮豆。味醂干し。南京豆。せんべい。ニッケ玉。ジャムの瓶詰。それにセロハン包みのカンピョウなどが、最後に引っぱり出された。ニラ爺は観念したように両手を上げたまま、微動だにしなかった。一座の視線は疑惑と驚異にみちて、畳に並べられた品々にそそがれた。遊佐爺が言った。

「それだけか」

「ポケットはこれだけのようだ」

 松木爺はニラ爺のポケットを両側からぱんぱんと叩いた。ニラ爺は眼を開いて両手を静かにおろした。そのニラ爺の挙動をにらんでいた柿本爺が、語気するどく発言した。

「ヘソのあたりが妙にふくれ上っているぞ」

 ニラ爺はとたんに絶望落胆して、ふたたび両手をたかだかとさし上げた。松木爺の手がニラ爺の上衣をまくり、シャツの釦(ボタン)を外した。そこからも紙袋が二つ引っぱり出された。松木爺はその口をのぞいた。

「これは白砂糖。こっちの方は、黒砂糖だ」松木爺は誇らしげに一座に報告し、ニラ爺を横あいからにらみつけた。

「便所に行ったなんて言いやがって、一体どこからこれをくすねて来た」

「くすねて来たんじゃない!」ニラ爺はやけっぱちになって怒鳴り返した。「人聞きの悪いことを言うな!」

「では、どこから手に入れたんだ?」

 ニラ爺は歯を食いしばり、発言を拒否する気配を見せた。その様子を見ていた道佐爺がしずかに発言した。

「松爺さんも、柿爺さんもしばらく黙っていなさい」そして遊佐爺はニラ爺の肩にやさしく手をかけた。「なあ、ニラ爺さん。あんたがその品々を持っていることを、わしたちは責めているんじゃない。物を所有するということは、各人の自由だ。その自由は尊ばれねばならん。しかしだな、ニラ爺さん、現在わしたちは在院者代表として、院内改革の闘いに立ち上っているのだ。あんたも光栄ある代表者の一人だ。代表者であるからには、公私両面において、その進退をハッキリさせて置く義務がある。な、そうだろう。あんたがこれらの品々を持つのはいいが、どこから手に入れたかということは、一応説明する義務があるだろう。そうしないと自(おのずか)ら、くすねて来たんじゃないか、という疑惑も生じるわけだ。それじゃあんたも困るだろう」

「くすねて来たんじゃない」ニラ爺は力なく言った。「貰ったんや」

「誰から貰った?」

 ニラ爺はふたたび歯を食いしばった。松木爺がたまりかねたように、横あいから口を出した。

「まさか海坊主から貰ったんじゃあるまいな」

 ニラ爺はギクリと身体を慄わせ、眼の色をかえて、松木爺をにらみつけた。

「う、海坊主から貰うわけないやないか。松爺はおれの人格を侮辱するつもりか!」

「そう、そう、海坊主から貰うわけがない。松木爺はすこし口を慎(つつし)みなさい」道佐爺はやさしくニラ爺の肩をゆすぶった。「誰から貰った?」

 ニラ爺は口をもごもごさせた。言おうか言うまいか、瞬間ニラ爺の心は千々(ちぢ)に乱れた。その瞬間をとらえて、遊佐爺がおびやかすような声を出した。

「言わないと、くすねたものと断定するぞ!」

「木、木見婆や」ニラ爺は悲痛な声でどもった。「木見婆さんがおれに呉れたんや」

「なに、木見婆?」道佐爺はニラ爺をきっと見据(す)え、検事みたいな声を出した。「いかなるいきさつで、木見婆はこれらの品々を、お前に呉れたのか。ニラ爺はこれを説明せよ!」

 

「僕が何故死のうと思ったのか、そこだけが僕の記憶からポッカリと脱落しているんだ。今でも判らない」

 積み夜具に背をふかぶかともたせかけ、栗山佐介は沈痛な声で言った。

「何故僕は死ぬつもりになったんだろう」

 牛島康之は座蒲団を枕にし、毛布を抱きしめるようにして、大きないびきを立てていた。乃木七郎は顎まで夏蒲団を引き上げ、あおむけに行儀よく眠っていた。乃木七郎の左足首は帯でくくられ、その帯のもひとつの端には赤い卓上ピアノがくくりつけてあった。曽我ランコは板壁によりかかり、腕を組んで、その二人の寝姿を眺めていた。スラックスに包まれた両脚は、きちんとそろって、畳の上にまっすぐ伸びていた。佐介は眼を伏せて、スラックスからはみ出たランコの白い足の甲や、つちふまずや足指を、ぼんやりと見ていた。

「僕は東京を食い詰めた。しかし食い詰めたこと自体は、自殺の原因にはならない。だって僕は若いんだもの。若ささえあれば、どんなにやってでも生きて行ける」

「そうね」曽我ランコが相槌(あいづち)を打った。

「食い詰めて僕は田舎落ちすることになった。田舎に別にあてはなかったけれども、僕の友人がいてね、困ったらやってこい、半月や一月は食わせてやる、そう言って呉れてたもんだから、僕は行く決心になった。僕は駅を降りてそいつの家にとことこと歩いて行った。北小路、とそいつの名は言うんだが、北小路家はその地方の豪家で、庭も広く、梅の木や栗の木がたくさん生えていた。門をくぐって玄関まで、五十米以上もあったような気がするね。そこが石で畳んだ坂道でね、そこをえっちらおっちら登りながら、僕は突然イヤな予感がした。北小路のやつ、ああは言ったが、僕の顔を見たとたんに、イヤな顔をするんじゃないか、半月はおろか、一日だって泊めるのを迷惑がるんじゃないか。ちらとそんな予感がしたんだ。予感というより、確信と言った方が近いかも知れない」

 そして佐介は黙った。曽我ランコは自分の足を佐介から眺められていることを意識して、足指をピコピコと動かした。足指は肉体から独立して、なまめかしく動いた。

「それで、やっぱり迷惑がられたの?」

「いや、そうでもなかった。が、僕の方でへんに遠慮しちゃったんだ。北小路は僕に、上れ上れ、としきりにすすめたが、僕はへんにひねくれて、かたくなになって、玄関先で帰ると言い張ったんだ。ほんとは一月ばかり厄介になるつもりだったんだがね、ふしぎな力が僕を駆(か)って、僕を玄関先だけで辞退させた。今直ぐ東京に戻るんだと、僕はもう喧嘩腰で言い張ったような気がする。そこで北小路も負けて、弁当をつくって呉れた。大急ぎでつくったもんだから、かんたんな弁当だね。赤ん坊の頭ほどもある塩味の握り飯、それにタクアンの五六片だ。僕はそれを貰い、そそくさと駅に引き返した。待合室でポケットウィスキーを飲み、その握り飯を食べた。食べ終ると待合室を出、線路沿いの土堤をあるいて、陸橋まで来たのだ。間もなく二十一時五十九分着の普通列車がやってくる。僕はそれをあらかじめ知っていた。それをじっと待っていた――。やがてかなたの闇に、突然ギラギラとヘッドライトが現われた。僕はもう夢中で陸橋にぶらりとぶら下り、そしてそのまま手を離した。僕は線路に落ちたのだ」

「轢(ひ)かれたの?」

「轢かれたら、僕が今君の前にいるわけがない」と佐介は真面目な顔で言った。「轢かれなかったのだ。なにかの手違いで、汽車は僕の身体の上を通過しなかった。僕は枕木に膝を打ちつけただけで、それでおめおめと土堤を這い上ったんだ」

 佐介は手を伸ばして、ズボンをたくし上げ、右膝を露出した。青白い膝蓋[やぶちゃん注:「しつがい」。]を撫でさすった。

「その時から、この膝の具合があまり良くない。僕の身体の中でここが唯一の弱味となったな。この世に弱味なき人間なし。今夜の格闘でも、牛島からここを蹴上げられた。敵というやつは、必ず弱味をねらって来るものだ」

「それで」曽我ランコはちょっとうんざりした。「死にそこなったわけね」

 佐介はうなずいた。

「僕は当日のことを、ほとんど何でも覚えている。北小路家のたたずまい、待合室にいた人々の顔やその会話の内容、陸橋を渡ってきた牛車の音、牛の眼の色、何でもありありと頭にこびりついている。ところが、自分が何故死のうと思ったのか、死のうと決心したのか、そこだけが僕の記憶から完全に脱落しているんだ。自殺を試みたからには、その理由がなくちゃいけないだろう。その理由が、今いくら記憶をひっかき回しても、出て来ないんだ」

「変なのねえ」曽我ランコは眉をひそめた。「そんなこと、あるかしら」

「あるんだね」佐介はまたランコの足指に視線をうつした。「イヤなもの、腐敗したものをたべると、胃はどうするか。嘔吐(おうと)というやり方で、これを排除してしまう。目にゴミが入ったら、目はどうするか。涙をさかんに出すことによって、異物を流し出してしまう。そんな具合に僕の死のうとした気持や動機が、あまりにも耐えられないものだったために、僕の記憶が自動的にそれを排除し、追放してしまったんじゃないかしら、傷口から膿(うみ)と共にトゲを排出するようにさ。近頃そんなことも考えるんだ。しかし、記憶に耐え切れないような、どんな切ない動機や原因が、その時の僕にあったんだろう。その耐え切れないやつを、記憶からしめ出すことによって、その日からやっと僕は生きてきた。死にそこなって、生きて来た。いや、死にそこなったというより、僕はその時やはり死んだのだ。死んだと言っていいだろう。人を自殺におもむかせるほどの重大な素因を、すっかり排除し脱落させてしまったんだからね。生きてると自慢するだけの資格は僕にないよ。つまり人として感動する権利を、僕はなにものかによってすっかり取り上げられてしまった。取り上げられたというより、返上したと言った方がいい。時に君の足指は、よく動くもんだね。白雪姫の小人みたいだ」

「イヤな眼!」曽我ランコはすばやく足を引っこめた。「眼がかさかさに乾いているのね。まるで今にも残酷なことをやり出すみたい」

「疲れてるんだ」見るものがなくなったものだから、佐介は小さなあくびをして、視線をうろうろさせた。「ああ、僕はずい分長い間疲れている」

「自殺の気持の記憶は」足先を掌でつつみ込むようにしながら、ランコは訊ねた。「今全然ないというわけね」

「そうだね。あるとすれば、漠然とした憎悪の感じだけだ。それが膜のように僕の記憶にかぶさっている。それも、僕が誰かを憎んでるのか、誰かが僕を憎んでいるのか、全然ハッキリしないんだ。ただそこらの中核に、憎しみみたいなものがあったということだけが、漠然と残っているんだが、それだけじゃ仕様がないやね」佐介は乃木七郎の寝姿を顎でさした。「このおっさんは、いつ記憶が回復するか知らないが、あるいは僕も、ある日のある時、ふっとそれが戻ってくるかも知れない。戻ってくるかも知れないし永久に戻って来ないかも知れない。そのどちらが僕に有利なのか、幸福なのか、判らないけれどもね、その点はこのおっさんも同じだ」

「金魚をつかまえろ」その時牛島が寝言を言いながら、ごろりと寝返りをうった。佐介とランコは顔を見合わせた。「金魚を三匹だぞ」

「ノメクタ。ニエコヨ」夕陽養老院院長室備えつけの大型ソファーの上で、黒須院長は突然大声でハッキリと寝言を言った。院長は肱(ひじ)掛けを枕とし、くの字型の窮屈な姿勢で眠っていた。よだれが顎鬚を一筋光らせ、詰襟服の第一ボタンでとまっていた。院長は小学校時代の習字の夢をみていた。彼は右手をふわふわと宙に浮かせ、くにゃくにゃと動かしながら、寝言を続行した。「レルキヤ。ヒセハホ。……」

「ふ、ふ、ふ」寝床の中でニラ爺は低く笑っていた。ニラ爺も覚めているのではなく、眠っていた。眠りながらニラ爺はわらっていた。木見婆からの折角の獲物を、道佐爺たちによって全部没収され、以後かくの如き不正を働かないと誓わされ、ふんだりけったりの目に合わされたにも拘らず、ニラ爺は無邪気に眠り笑いをしていた。眠っている時のニラ爺の顔は、起きている時のそれにくらべて、五つ六つ若返って見えた。ニラ爺のとなりには松木爺が、松木爺のとなりには滝川爺が、それぞれの寝床にぐっすり眠っていた。その東寮どんづまりの六畳間に、ニラ爺の含み笑いの声だけが陰にこもって響いた。「ふ、ふ、ふ」

「ああ、疲れた。昨夜もほとんど眠っていないんだ」佐介は首をうしろに曲げて、音のないあくびをした。一層積み夜具にぐんなりと背をもたせながら、ふかぶかと眼を閉じた。「それに膝も痛い。明朝、骨接(ほねつ)ぎに行こう。曽我君。君もいっしょに行かないか。サクラ通りをずっと行ったところに、上手な接骨医がいるんだ。爺さんだけれどもね、骨折だけじゃなく、ネンザや打ち身、そんなやつをうまくなおすんだよ。僕はいつも右膝の具合が悪くなると、そこにかけつける。曽我君、オッパイの具合はどうだね?」

「ずきずき痛いわ」曽我ランコは佐介を横目で見ながら、左掌で乳房を押えた。「その骨接ぎ、こんなのもやって呉れるの?」

「やって呉れるさ、打ち身だもの」佐介は眼を閉じたまま物憂(ものう)げに言った。「僕はどうもあいつ等が怪しいと思うんだ。こんなX君なんか、ほんとは問題じゃないよ」

「あいつ等?」

「ほら、あのジャンパーを着た男さ、それに赤スカートの」佐介の語調はしだいに舌たるく、あいまいになってきた。「あいつ等、対策協議会をリードしているようだが、どうもそのリードの仕方が怪しいな。今日の投石騒動だって、あいつ等は戸袋のかげにかくれて、初めから安全地帯にいて、何も傷つかなかった。偶然にしては出来過ぎている。何かあるんじゃないか」

「何が?」

 佐介は返事をしなかった。そのままの姿勢で一瞬の間に、佐介は眠りの世界に入っていた。やがて曽我ランコは板壁から背を引き離し、音のしないようにそっと立ち上った。土間へ降りた。

「あたし、もう帰るわ」

 少数のものを除いて、夜はほとんどの人間、ほとんどの物体を眠らせつつあった。その少数のもののひとつに、カレー工場の器械があった。数多(あまた)のウスとキネとをそなえたその大きな器械は、永遠の刑罰を受けた巨人のように、悲しげな音を立てながら、ガッシャ、ガッシャ、ガッシャと動いていた。寝しずまった周囲の中で、その周囲から憎悪されることによって、その音は孤独に自暴自棄に響きわたった。

[やぶちゃん注:「味醂」にルビがあったり、なかったりはママ。

「ノメクタ。ニエコヨ」「院長は小学校時代の習字の夢をみていた。彼は右手をふわふわと宙に浮かせ、くにゃくにゃと動かしながら、寝言を続行した」「レルキヤ。ヒセハホ」国立国会図書館デジタルコレクションの大塚治六著「硬毛兩様 書方の指導書 尋一」(大正一五(一九二六)年東洋図書刊)の「敎材解說並に指導法」の中に「第一 ノメクタ」「第二 ニエコヨ」「第三 フラソツ」「第四 レルキヤ」「第五 ヒセハホ」「第六 アカイモミヂ」等とある。ここに出るそれぞれは、「ノメクタ」が『斜畫の用筆法と右向の點の打方との二つを授ける』とあり、以下、「ニエコヨ」は『橫畫の用筆法とコとヨの曲り角の用筆法を授く』、「レルキヤ」は『勾』(かぎ)『と竪畫との用筆法を授ける』、「ヒセハホ」は『ヒセの第二畫の曲り角の用筆法を會得させる』とあった。なるほど! と一人合点した。

「一層積み夜具」消波ブロックの施工で「一層積み」「多層積み」があるが、私は蒲団にこうした謂い方をしたことがないのでちょっと不審で、何らかの誤記か誤植かと思ったが、既に牛島と乃木に使い、一枚しかない一つの蒲団を一度(「一層」)折りたたんだ(でないと「背をもたせ」られない)ものを指していると読んでおく。]

東西(とざい)東西(とーざい)――このところご覧に入れまするは「心 東富坂下の段」――東西(とーざい)東(とー)…………

 「十一月の寒い雨の降る日の事でした。私は外套を濡らして例の通り蒟蒻閻魔(こんにやくえんま)を拔けて細い坂路を上(あが)つて宅へ歸りました。Kの室は空虛(がらんど)うでしたけれども、火鉢(ひはち)には繼ぎたての火が暖かさうに燃えてゐました。私も冷たい手を早く赤い炭の上に翳(かざ)さうと思つて、急いで自分の室の仕切を開けました。すると私の火鉢には冷たい灰が白く殘つてゐる丈で、火種(ひたね)さへ盡きてゐるのです。私は急に不愉快になりました。

   *

 私はしばらく其處に坐つたまゝ書見をしました。宅の中がしんと靜まつて、誰の話し聲も聞こえないうちに、初冬の寒さと佗びしさとが、私の身體に食ひ込むやうな感じがしました。私はすぐ書物を伏せて立ち上りました。私は不圖賑やかな所へ行きたくなつたのです。雨はやつと歇(あが)つたやうですが、空はまだ冷たい鉛のやうに重く見えたので、私は用心のため、蛇の目を肩に擔いで、砲兵工廠の裏手の土塀について東へ坂を下りました。其時分はまだ道路の改正が出來ない頃なので、坂の勾配(こうはい)が今よりもずつと急でした。道幅も狹くて、あゝ眞直ではなかつたのです。其上あの谷へ下りると、南が高い建物で塞がつてゐるのと、放水(みづはき)がよくないのとで、往來はどろどろでした。ことに細い石橋を渡つて柳町(やなぎちやう)の通りへ出る間が非道(ひど)かつたのです。足駄(あした)でも長靴でも無暗に步く譯には行きません。誰でも路の眞中に自然と細長く泥が搔き分けられた所を、後生大事に辿つて行かなければなりません。其幅は僅か一二尺しかないのですから、手もなく往來に敷いてある帶の上を踏んで向へ越すのと同じ事です。行く人はみんな一列になつてそろ/\通り拔けます。私は此細帶の上で、はたりとKに出合ひました。足の方にばかり氣を取られてゐた私は、彼と向き合ふ迄、彼の存在に丸で氣が付かずにゐたのです。私は不意に自分の前が塞がつたので偶然眼を上げた時、始めて其處に立つてゐるKを認めたのです。私はKに何處へ行つたのかと聞きました。Kは一寸其處迄と云つたぎりでした。彼の答へは何時もの通りふんといふ調子でした。Kと私は細い帶の上で身體を替せました。するとKのすぐ後に一人の若い女が立つてゐるのが見えました。近眼の私には、今迄それが能く分らなかつたのですが、Kを遣り越した後で、其女の顏を見ると、それが宅の御孃さんだつたので、私は少からず驚ろきました。御孃さんは心持薄赤い顏をして、私に挨拶をしました。其時分の束髪は今と違つて廂が出てゐないのです、さうして頭の眞中に蛇のやうにぐる/\卷きつけてあつたものです。私はぼんやり御孃さんの頭を見てゐましたが、次の瞬間に、何方(どつち)か路を讓らなければならないのだといふ事に氣が付きました。私は思ひ切つてどろ/\の中へ片足踏(ふ)ん込(ご)みました。さうして比較的通り易い所を空けて、御孃さんを渡して遣りました。

 私は柳町の通りへ出ました。然し何處へ行つて好(い)いか自分にも分らなくなりました。何處へ行つても面白くないやうな心持がしました。私は飛泥(はね)の上がるのも構はずに、糠(ぬか)る海(み)の中を自暴(やけ)にどし/\步きました。それから直ぐ宅へ歸つて來ました。

『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月19日(日曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第八十七回より。太字は私が附した)

   *

私はリンク先で施した地理学的注のオリジナル性には今も強い自信を持っている。未読の方は、是非読まれたい。

 

 

2020/07/18

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 去来 四

 

       

 

 元禄十年の夏、去来は「贈晋渉川先生書」なる一文を草して其角に贈った。其角はこれを自己の撰集たる『末若葉(うらわかば)』の巻尾に掲げたが、去来の説に対しては何も答えなかった。しかるに風国(ふうこく)が『末若葉』と同年に出した『菊の香』を見ると、「贈晋渉川先生書」の外に「贈其角先生書」を録し、後者を「去来が正文」と称している。両者の趣意はほぼ同じものであるが、「贈其角先生書」の方が長くもあり、委曲を尽してもいるように思う。文末の日付は『末若葉』にある方が後になっているから、先ず風国のいわゆる正文を草し、これによって「贈晋渉川先生書」を作ったのかも知れない。

[やぶちゃん注:「元禄十年」一六九七年。

「贈晋渉川先生書」「晋渉川(しようせん)先生に贈るの書」。「渉川」は其角の号の一つ。

「末若葉」同年刊。「早稲田大学古典総合データベース」のこちらで原本を見ることができ、去来のそれはここここ但し、其角はこの原書簡にかなりの手を加えて、上手く自身の発句集の跋文に仕立て上げてしまっているのである。其角はやはり一癖二癖ある千両役者である。

「風国」伊藤風国(?~元禄一四(一七〇一)年)は蕉門俳人で京の医師。通称、玄恕(げんじょ)。俳諧選集「初蟬(はつせみ)」を元禄九年九月に出版したが、これが杜撰だと許六に非難されたことがある。芭蕉の作品集の最初の書である元禄十一年刊の「泊船集」の編者として蕉風の伝承に貢献した功労者でもある(伊藤洋氏の「芭蕉DB」の「芭蕉関係人名集」の彼の記載を参考にさせて戴いた)。

「菊の香」前注で出た先行して刊行した「初蟬」の誤りを訂正したもの。同年の九月の自序である。許六の批判に応じたものであろう。

「贈其角先生書」今泉準一氏の論文「芭蕉の其角評価」(『明治大学教養論集』第二五一号所収・PDF)の第四章で、同文の『去来が生前の芭蕉に其角の作風が芭蕉の作風と異なることを芭蕉に質問し、芭蕉がこれに答えた言が載っている』とされ、その当該部分が活字化されているので参照されたい。また、以前に紹介した、藤井美保子氏の論文「去来・其角・許六それぞれの不易流行――芭蕉没後の俳論のゆくえ「答許子問難弁」まで――」(『成蹊国文』二〇一二年三月発行・PDF)も大いに参考になる。特に「三 其角――不易を知る人――」では、「贈晋渉川先生書」と「贈其角先生書」とを比較して示されている部分は必読である。]

 

 去来は芭蕉が『奥の細道』の旅を了(お)えて洛に入った頃を以て、蕉門の俳諧一変の機と見ている。『ひさご』『猿蓑』の時代がそれで、去来自身もこの際に当って「笈(きゅう)を幻住庵に荷ひ、棒を落柿舎に受け」ほぼその趣を得た。その後に起った新風は即ち『炭俵』『続猿蓑』である。――去来はこれを冒頭にして、俳諧の不易流行の必ずしも二致あるにあらざるを論じ、「不易の句を知ざれば本立がたく、流行の句を学び[やぶちゃん注:ママ。]ざれば風あらたならず。能(よく)不易をしる人は往としておしうつらずといふ事なし。たまたま一時の流行に秀たるものは、たゞ己が口質(こうしつ)の時に逢(あう)のみにて、他日流行の場にいたりて一歩もあゆむ事あたはず」という見解を述べた。去来が其角の句に慊焉(けんえん)たる所以のものは、不易の句をよくせざるがためではない、むしろ流行の句において近来趣を失っている点にある、というのである。

[やぶちゃん注:「笈(きゅう)を幻住庵に荷ひ、棒を落柿舎に受け」去来の「贈晋子其角書」の冒頭部分(但し、「末若葉」では其角によって省略されている)。幸い、先の藤井美保子氏の論文に載るので、漢字を正字化して示すと(読みは私が振った)、

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故翁奥羽の行脚より都へ越(こし)給ひける比(ころ)、當門の俳諧一變す。我が輩、笈を幻住庵に荷ひ、棒を落柹舍に受けて、略(ほぼ)そのおもむきを得たり。『ひさご』『さるみの』是也。其後又一つの新風を起こさる。『炭俵』『続猿』是也。

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「不易の句を知ざれば本立がたく、流行の句を学びざれば風あらたならず。能(よく)不易をしる人は往としておしうつらずといふ事なし」これも「贈晋子其角書」の以上の冒頭に直に続く部分(但し、「末若葉」では其角によって大幅に省略されている。先の原本画像と比較されたい)。同じく藤井氏のそれを参考に、同前の仕儀で示す。踊り字「〱」は正字化した。

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去来問曰(とひていはく)、「師の風雅見及(みおよぶ)處、『次韻』にあらたまり、『みなし栗』にうつりてこのかた、しばしば変じて門人、その流行に浴せん事を思へり。我是を聞けり、句に千載不易のすがた有(あり)、一時流行のすがた兩端有(あり)。此(これ)を兩端におしへ[やぶちゃん注:ママ。]給へども、その本(もと)一なり。一なるは共に風雅の誠をとればなり。不易の句を知らざれば本立(たち)がたく流行の句を學び[やぶちゃん注:ママ。]ざれば風あらたならず。能(よく)不易を知る人は、往(ゆ)くとしておしうつらずといふ事なし。

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なお、藤井氏は「次韻」の箇所に注されて、『延宝九年』(一六八一年)『一月に京都信徳らの『七百五十韻』を継いで千句万尾させたもの』で、『連中は芭蕉・其角・才麿・揚水。俳諧革新をすすめた高い評価の選集。のちの蕉風には遠いが「贈晋子其角書」に「師の風雅見及ぶところ次韻にあらたまり」とある』とある。

「口質」くちぐせ。

「慊焉」「慊」には「満足」と「不満足」との二様の意があるため、「あきたらず思うさま。不満足なさま」と、正反対の(但し、多くは多く下に打消の語を伴って結果して前者同様の意に用いる)「満足に思うさま」の意がある。ここは無論、最初の意でよい。]

 

 其角はこれに答えなかったが、許六が横から出て「贈落柿舎去来書」を草し、其角のために弁ずると同時に、許六一流の俳論を持出した。去来は直に「答許子問難弁」を作り、つぶさに許六の説くところに答えている。これも元禄十年中の事である。その論旨に至っては一々ここに引用している遑(いとま)がないが、芭蕉歿後四年足らずにして、已に有力なる蕉門作家の間にかくの如き意見の対立を見たのであった。

[やぶちゃん注:「贈落柿舎去来書」(「落柿舍去來に贈るの書」)とと「答許子問難弁」(「許子が問難に答ふるの辯」)は既出既注の俳諧論書「許六・去来 俳諧問答」の中の一篇として載る。早稲田大学図書館古典総合データベースのここで読める。メインの一部の現代語訳が橘佐為氏のブログのこちらにある。]

 

 子規居士はこの問題に関し、「俳諧無門関」において次のように述べたことがある。

[やぶちゃん注:以下は底本では全体が一字下げ。前後を一行空けた。「俳諧無門関」は正岡子規の俳句研究の一篇だが、私は未見。執筆年も不明。]

 

蕉門の迦葉(かしょう)、舎利弗(しゃりほつ)、道に入るいづれか深く、説をなすいづれか正しき。正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)涅槃妙心実相無相微妙の法門は芭蕉これを去来に付嘱する時、其角別に変幻自在縦横無尽非雅非俗奇妙の俳門を立てて一世を風靡す。去来より見る、其角は外道(げどう)なり。其角より見る、去来は我見に執す。去来は不易に得て東に進む、其角は流行に得て西に走る。いよいよ進みいよいよ走り、しかして顧れば他の我を距る[やぶちゃん注:「へだつる」。]こといよいよ遠きを見る。かつ道(い)へ、那辺(なへん)かこれ風馬牛(ふうばぎゅう)相会する処[やぶちゃん注:「あいかいするところ」。]。

[やぶちゃん注:「風馬牛」本来は「馬や牛の雌雄が、互いに慕い合っても、会うことができないほど遠く隔たっていること」を謂い、転じて「互いに無関係であること。また、そういう態度をとること」を言う出典は「春秋左伝」僖公(きこう)四年の『風馬牛相 (あひ) 及ばず』に拠る。「風」は「発情して雌雄が相手を求める」の意である。]

 

 其角と去来とはその立場を異にし、また進路を異にする。所詮合致すべきものではない。これを同一の傘下に包容するのは、芭蕉の如き大人物の力を俟(ま)たなければならぬ。道を信ずること篤き去来が断々乎として「角の才の大なるを以て論ぜば、我かれを頭上にいたゞかん。角が句のいやしきをもつて論ぜば、我かれを脚下に見ん」といい放つ以上、両者手を携えて進むことは困難である。芭蕉歿後の俳諧は、外観的には必ずしも衰退を示さなかったかも知れない。ただ芭蕉在時の如き幅を失ったことは、この其角、去来対立の一事を以て見ても、容易に推察し得べき事柄である。

[やぶちゃん注:「角の才の大なるを以て論ぜば、我かれを頭上にいたゞかん。角が句のいやしきをもつて論ぜば、我かれを脚下に見ん」調べたところ、やはり許六の「俳諧問答」の中の「答許子問難辨」の、その「四」の一節である。私の所持する橫澤三郞校注岩波文庫版(一九五四年刊)は当時発見された善本である「專宗寺本」底本で、少し異なる。【 】は二行割注。

   *

來書曰、かれに及ぶ又門弟も見えず。
去來曰、是おそらく阿兄の過論ならんか。
 角が才の大なるを以て論ぜば、我かれを頭上
 にいたゞかん。角が句のひきゝを以て論ぜバ、
 我かれを脚下に見ん。况や俊哲の人をや。【予
 亢(アヤマツ)て此ㇾをいふにあらず。同門
 の句における、おそるべき者五六輩有。阿兄
 もその一人なり。】

   *

編者による頭注があり、「ひきゝ」の部分は従来、同書の底本に用いられていた寛政一二(一八〇〇)年冬十二月板行の蕪村の門の月居序の五冊本では、『いやしき』となっているとある。]

 

 当世の俳諧に慊焉たるだけ、去来の芭蕉に対する思慕の情は一層切なるものがあったに相違ない。

   翁の身まかり給