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2020/07/31

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 丈艸 四

 

       

 

 芭蕉が館を捐(す)てた翌年、浪化の名によって『有磯海』が上梓された。この書の刊行は芭蕉生前からの計画であったらしく、題号について芭蕉に相談したという話も伝えられている。芭蕉が「奥の細道」の帰途、北陸道にかかって詠んだ「早稲(わせ)の香や分入(わけいる)みぎは有そ海」の句に因(ちな)んだもので、巻頭にこの句を記し、浪化以下十二人の早稲の句を列べてあるが、特に初の五句だけは「早稲の香や」を上五字に置いたほど、芭蕉に対する思慕の情の強いものである。

 この書の序は丈艸が書いた。少、長いけれども、全文をここに引用する。

[やぶちゃん注:「館を捐(す)てた」貴人が死去することを言う。「館(かん)を捐つ」「館舎(かんしゃ)を捐つ」「捐館 (えんかん) 」。「戦国策」の「趙策」が原拠。

「早稲(わせ)の香や」正字で示す。

 早稻の香や分入(わけいる)道はありそ海

私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 61 越中国分 早稲の香や分け入る右は有磯海』を参照されたい。

 以下、原本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。]

 

はれの歌読むと思はゞ法輪に詣で所がら薄を詠(ながめ)よとおしへ、雪見の駒の手綱しづかにずして㶚橋[やぶちゃん注:「はけう」。]の辺にあそべと示しけん、よくも風雅のわり符を合(あはせ)て、向上の関を越過(こえすぎ)ける事よ。然(しかれ)どもつくづく思ふに是等はみな文吏官士の上にして、たまさかに市塵を離るゝ便(たより)なるベし。平生(へいぜい)身を風雲に吹ちらして心を大虚にとゞめん中には、限もなき江山に足ふみのばして行(ゆく)さき毎の風物をあはれみ、雪ちるやほやの薄としほれ果(はて)たる風情、いかでか其(その)法輪㶚橋にのみかたよらんや。されば芭蕉菴の主、年久しく官袴[やぶちゃん注:「くわんこ」。]の身をもぬけて、しばしの苔の莚にも膝煖(あたたま)る暇なく所々に病床の暁を悲しみ、年々に衰老の歩(あゆみ)を費してまたとなく古びたる後姿には引かへて、句ごとのあたらしみは折々に人の唇を寒からしむ。一年(ひととせ)、越の幽蹤(ゆうしよう)に杖を引て、袂(たもと)を山路のわたくし雨にしぼり、海岸孤絶の風吟心を悩されしかど、聞入(ききいる)べき耳持たる木末も見えず、辰巳(たつみ)あがりの棹哥[やぶちゃん注:「たうか」。]のみ声々なれば、むなしく早稲の香の一句を留(とどめ)て過(すぎ)られ侍(はべり)しを、年を経て浪化風人の吟鬚(ぎんしゆ)を此(この)道に撚(ひね)られしより、あたりの浦山頭[やぶちゃん注:「かうべ」。]をもたげ翠(みどり)をうかべしかば、いつとなく此の句の風に移り浪に残りて、えもいはれぬ趣の浮(うかび)けるにぞ、ひたすら其(その)境のたゞならざりし事をおしみ感ぜられけるあまりに、穂を拾ひ葉をあつめて終[やぶちゃん注:「つひ」。]に此集の根ざしとはなりぬ。この比(ごろ)洛の去来をして、あらましを記せん事を蒙る[やぶちゃん注:「かうむる」。]。かゝる磯山陰をもたどり残す方なくして、かゝることの葉をこそ、あまねく世の中にも聞えわたらば、猶ありとし国のくまぐまにはいかなる章句をか伝られ侍るにやと思ひつゞくる果しもなく、ありそめぐりの杖のあとをしたはれけん筆のあとも、又なつかしきにひかれて序[やぶちゃん注:「じよす」。]。

            懶窩埜衲丈艸謾書

[やぶちゃん注:野田別天楼編の大正一二(一九二三)年雁来紅社刊「丈艸集」巻末(国立国会図書館デジタルコレクション)のこちらで正字正仮名で読める。

「しづかにずして」不詳。「修(ず)して」があるが、これでは「修行して」の意で、タズ手綱を執っての意にはなるまい。上記リンク先では「しづかにして」である。これなら「靜かに」爲(し)「て」の意として不足はない。

「㶚橋」は現在の河南省許昌市西にあったらしい(当該位置は現在は不詳)覇陵橋のことであろう。曹操の陣営に留め置かれていた関羽が、劉備の無事を知って、曹操のもとを離れる。別れを告げずに去る関羽を、曹操は敢えて追手を出さず、曹操から送られた袍を関羽が矛で受け取って去ったという二人の英雄の別れの橋とされる。

「雪ちるやほやの薄」これは「猿蓑」に載る芭蕉の句、

   信濃路を過るに

 雪散るや穗屋の薄の刈り殘し

を指す。「猿蓑」の稿が成ったのは元禄四(一六九二)年四月であるから、元禄三年以前となるが、芭蕉は冬の信濃へ行ったことはなく、貞亨五(一六八八)年の「更科紀行」の折りの記憶かとも思われるものの、それは秋であって合わない。されば、本句は仮想景と思われる。原拠は恐らく「撰集抄」の「信濃野ほやのすすきに雪ちりて」であろう。これは「巻七 第一四 越地山臥助男命事」(越地(こしぢ)の山臥(やまぶし)男の命を助ける事)の冒頭の一文である。

   *

おなじ比、越のかたへ修行し侍りしに、甲斐の白根には雪積つもり、淺間の嶽(たけ)には煙(けぶり)のみ心細く立ち昇るありさま、信濃のほやのすゝきに雪散りて、

   下葉はいろの野邊のおも、おもひまし行く
   まののわたりのまろき橋、つらゝむすばぬ
   たに川の水の、ながれすぎぬる果てを知ら
   する人もなき、

峻(さが)しき山ぢの峯のくつ木の繁きがもと、木曾のかけ橋ふみみれば、生きて此世の思出(おもひで)にし、死にて後の世のかこつけとせんとまで覺え侍りき。あづま路(ぢ)こそ、おもしろき所と聞き置きしもし思ひ侍(はべり)しに、物數(かず)にもあらざりけり。[やぶちゃん注:以下略。]

   *

私の引用は岩波文庫版(西尾光一校注一九七〇年刊)で底本が異なるが、「やたがらすナビ」のこちらで全文が読める。さらに実はこのフレーズの元はもっと遙かに遡るもので、「箕輪町誌(歴史編)」の電子化された中に「御射山祭」(後述)に触れた中に、『御射山の文献的初見は『袖中抄』(万葉集以後堀河百首ごろまでの歌集)の「信濃なる穂屋のすすきも風ふけばそよそよさこそいはまほしけれ」という詠み人知らずの歌で、平安期堀河天皇ころには東国の風がわりな祭りとして、都人の歌材になっていたという』というのである。「穗屋」は薄の穂で作った神の仮の御座所で、信州諏訪地方で毎年、諏訪大神が御射山(みさやま)に神幸されるに当たって、この「御狩屋」と呼ばれる穂屋を作る風習があり、秋の収穫の予祝行事として「御射山祭」として古くから名高いものであった。嘗ては祭りのために沢山の穂屋が建ち並び、一時、閑寂な山に村里ができたように賑わったとされる(御射山を名乗る神社は諏訪周辺に多数ある)が、現在は長野県諏訪郡富士見町の御射山神社(グーグル・マップ・データ)境内の膳部屋(ぜんぶや:神饌を準備する棟)のみが薄で覆われる唯一の穂屋となっていると、サイト「諏訪大社と諏訪神社」の「御射山社」にはある(サイト・ページの名称は「御射山社」であるが、地図上では「御射山神社」となっているものの、そのサイド・パネルの写真を見るに、解説板は「御射山社」となっていて、境内の写真も一致するから、ここに間違いない)。

「幽蹤」世間から離れてひっそりしている人の踏み分けた跡もかすかな地。

「山路のわたくし雨」ある限られた地域だけに降るにわか雨。特に下は晴れているのに山の上だけに降る雨を指す。

「辰巳(たつみ)あがり」声が高く大きいこと、或いは、言葉や動作が荒々しいこと。ここは後者であろう。語源は未詳のようで、小学館「日本国語大辞典」にも載らない。

「棹哥」水子(かこ)が棹をさしながらうたう唄。舟唄。

「吟鬚」詩歌を吟ずることを鬚を向けること喩えた。中国で古くから、風変わりな鬚を詩人は生やしているとされた転語のようである。

「根ざし」濫觴。

「蒙る」その役目を与えられてしまった。

「ありとし国」「有りと有る」の協調形「有りとし有る國」の約縮。ありとあらゆる総ての国々。

「懶窩埜衲」「らんくわ(らんか)」丈草の別号。

「埜衲」「やどふ(やどう)」(底本は「やどう」)或いは「やのふ(やのう)」。「衲」は「衲衣(のうえ)」(出家修行者が着用する衣服のこと。「衲」は「繕う・継ぎ接ぐ」の意であり、人々の捨てた襤褸布を拾って洗って縫合せして着用したことに基づく。別に「糞掃衣 (ふんぞうえ)」 などとも称した)で、「田舎の僧・野僧」或いは一人称人代名詞で僧が自分を遜って言ふ語。ここは後者。

「謾書」「まんしよ」。妄(みだ)りに誤魔化して書いたものの意。]

 

 この序全体が芭蕉に対する思慕の情を以て埋められているのはいうまでもない。丈艸の観た芭蕉なるものを端的に示せとならば、第一にこの序を挙ぐべきであろう。が、この文章は芭蕉の風格を伝うると共に、丈艸その人の風雅観をも示している。二度まで法輪㶚橋を引合に出して、たまさかに市塵を離るる文吏官士に一拶を与えたのは、丈艸自身の体得した風雅の上から、期せずして生れた声でなければならぬ。

 芭蕉が「早稲の香」の一句を得た元禄二年には、丈艸もまだ俳壇の表面に姿を現していなかった。浪化は勿論のことである。『有磯海』一巻は単に芭蕉行脚の杖の跡を慕うだけではない、芭蕉その人を慕い、芭蕉によって遺された道を慕うのである。『有磯海』が元禄期の撰集中にあって、嶄然(ざんぜん)頭角を現しているのは偶然でない。今集中の丈艸の句を左に抄出する。

[やぶちゃん注:「嶄然頭角を現」すで、「他より一際抜きん出て才能や力量を現わす」の意。]

 

 わせのかややとひ出るゝ庵の舟   丈艸

[やぶちゃん注:「やとひ出るゝ」は「傭ひいでるる」で、座五は「いほのふね」。早稲を刈る頃ともなって、我が庵の舟遊びの小舟までが借り出されて行くという、秋の琵琶湖畔のフレーミングである。]

 

 聖霊も出てかりのよの旅ねかな   丈艸

[やぶちゃん注:「聖霊」は「しやうりやう」で、「出て」は「でて」。一九八九年岩波文庫刊の堀切実氏の編注になる「蕉門名家句選(下)」の評釈によれば、『旅中に魂祭りを迎えての吟である。今宵は聖霊たちも一時(いっとき)この世にお帰りになる――その聖霊たちと一緒に、自分も旅中の仮り枕をすることだ、といったところであろう。このとき心喪に服していた丈草の夢枕には、生前から「世にふるもさらに宗祇のしぐれ哉」(『虚栗』)と詠み、この世を仮りの世と観じていた芭蕉の姿があったのであろう』とある。私はこの宗祇の「世にもふるさらに時雨のやどりかな」にただその名を裁ち入れただけのこの芭蕉の句に非常に惹かれている。自分の生を宗祇という宇宙の中の僅かな点の時空間へと転じたそれは並大抵の詩人には出来ぬ絶対の仕儀だからに他ならない。]

 

 木啄の入まはりけりやぶの松    同

[やぶちゃん注:上五は「きつつきの」、中七は「いりまはりけり」。]

 

 啼はれて目ざしもうとし鹿のなり  同

[やぶちゃん注:上五は「なきはれて」で「鳴き腫れて」、「目ざし」は「めざし」で眼差(まなざ)し。妻恋に疲れた牡鹿(おじか)のそれをアップにするその手法は見事。]

 

 野山にもつかで昼から月の客    同

[やぶちゃん注:今夜の月を野で見るか、それとも、いっそ山でするかと、昼から落ち着かぬ風狂人を諧謔したもの。丈草自身のカリカチャイズではない。]

 

 友ずれの舟にねつかぬよさむかな  同

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「友ずれ」なのだから「友連(づ)れ」ではなく、舟の「とも擦(ず)れ」である。堀切氏は前掲書で、『船中夜泊の吟である。琵琶湖沿岸の水郷あたりに舟旅をしたときのことであろうか。自分の乗る舟と隣に碇泊する舟とが友擦れをする度に、軽い衝動を感じて、なかなか寝つかれないのである。折しも、秋の夜寒のころで、旅のわびしさが一層つのってくるのであろう』とされ、語釈も「友ずれ」に『共擦。互いにすれ合うこと。ここは、二艘の舟が並んでつながれていて、波にゆられる度に相方の舷』(ふなばた)『がぶつかりこすれ合うこと』とある。]

 

 寒けれど穴にもなかずきりぎりす  同

[やぶちゃん注:「きりぎりす」はここでは現在の蟋蟀(コオロギ)である。]

 

 やねふきの海をねぢむく時雨かな  同

[やぶちゃん注:堀切氏は前掲書で、『初冬のころ、浜心に近い家の屋根に乗って男が屋根葺をしている。そこへ突然ぱらぱらと時雨が降りかかってきたので、屋根葺の男は、来たなというふうに、かがんだまま身体(からだ)を棙じって海の方をふり向いたという光景である。男の視野には一瞬、時雨雲の下で寒々と光る海が入ったはずであるが、すぐさま身体を元へ戻して屋根葺の仕事を続けているのである。おそらく「海」は琵琶湖であろう』と適確な評釈をなさって、さらに『『句集』に中七「海をふりむく」とするのは改案か。「ふりむく」の方が表現に落ち着きが生じるが、「ねじむく」にも俳意が感じられて捨て難いところがある』と言い添えておられる。私は断然、「ねぢむく」でなくてはならぬと思う。]

 

 雪空や片隅さびし牛のるす     同

[やぶちゃん注:カメラがゆっくりとカーブしながらティルト・ダウンして、牛小屋へと進んでくる。私好みのワン・カットである。三好達治の散文詩「村」のようじゃないか!]

 

 竹簀戸のあほちこぼつや梅の花   同

[やぶちゃん注:「竹簀戸」は「たけすど」で、竹を粗く編んで作った枝折戸(しおりど:折った木の枝や竹をそのままに使った簡単な開き戸。多くは庭の出入口などに設ける)のこと。「あほちこぼつ」は「煽(あほ)ち毀(こぼ)つ」で「煽って壊す」こと。まさに瞬時のそれを高速度撮影でしっかりとスカルプティング・イン・タイムしたものである。]

 

 背戸中はさえかへりけり田にしがら 同

[やぶちゃん注:上五は「せどなかは」。堀切氏は前掲書で、『家の裏口の土間のあたりには食べたあとの田螺の殼がころがっていて、春とは名ばかり、ぶり返した寒さがひとしお身にしみることだ、というのである。元禄八年春の吟である。師を失くしたばかりの丈草の目には、殺生をしたあとの残骸である田螺の殼がうつろに映るのであろう』とされる。語注で「さへかへり」は『「冴え返る」の意。春になって寒さが戻ること。春の季題』とある。後の「田螺」も春の季題である。最後に『丈草が、生きるために殺生をしなければならぬ人のさだめに悶々としていたことは、「里の男のはみちらしたる田にしがらを、水底にしづめ待居』(まちゐ)『たれば、腥(なまぐさき)をむさぼれるどぢやうの、いくらともなく入こもりて」と前書した』、

 入替(いりかは)るどぢやうも死ぬに田にしがら(『初蟬』)

『の句などからも察せられる』とある。なお、ここで描写されるタニシであるが、これは琵琶湖固有種(過去は流下する瀬田川にも棲息したとされる)である一属一種の腹足綱原始紐舌目タニシ科アフリカタニシ(アフリカヒメタニシ)亜科ナガタニシ属ナガタニシ Heterogen longispira である可能性が高いように思われる。殻高は五センチメートルから最大で七センチメートルほどにもなり、本邦在来のタニシの中では最大級で、他種よりも殻皮が緑色がかったものが多い。螺管の上方に肩が生ずるため、螺塔部が有意に段々となるのを特徴とするが、時には肩が弱く、一見、ヒメタニシ(アフリカタニシ(アフリカヒメタニシ)亜科 Bellamya 属(或いは Sinotaia 属)ヒメタニシ Bellamya (Sinotaia) quadrata histrica:殻高約三・五センチメートル。北海道から九州に分布。中国からの外来種であるとする説もある。小型であるため、本邦では食用に適さないとされる)やオオタニシ(Bellamya 属(或いはマルタニシ属 Cipangopaludina)オオタニシ Bellamya (Cipangopaludina) japonica:殻高約六・五センチメートル。北海道から九州に分布)に似た個体が出現することもある。胎児殻の形態が他の種と大きく異なっており、殻頂自体は尖るが、それに続く螺層には特徴的な螺状の畝(うね)が生じ、畝の上が平坦部になる。大型であるため、古くからオオタニシなどとともに琵琶湖産として食用にされ、昭和末期頃までは年間数トンの漁獲量があったという。しかしその後、個体数が減少し、他の二枚貝類を目的とした貝曳漁(かいびきりょう)で少量が混獲される程度となったと言われ、中でも水質悪化の激しい南湖では激減しているとされる。二〇〇〇年には準絶滅危惧(NT)種に指定されてしまった(一部の琵琶湖水系以外の場所で見られるものがあるが、これは移入個体群で、神奈川県・岐阜県・京都府などの記録があるものの、琵琶湖産魚介類の放流移植に伴って無意識的に人為移入されたものと推定されている)。本種は胎殻の類似などから、中国雲南省のコブタニシ属 Margarya に近縁であると言われている。属名は変わった形の胎殻を表わし、種小名は長く伸びたような螺塔に由来する。他に本邦産種にはBellamya 属(或いはマルタニシ属 Cipangopaludina)シナタニシ亜種マルタニシ Bellamya (Cipangopaludina) chinensis laeta:殻高約四・五~六センチメートル。北海道から沖縄に分布)がいる。他に「ジャンボタニシ」などという和名で呼んでしまった養殖用に持ち込まれて(昭和五六(一九八一)年)野生化した外来侵入種で、大型(最大八センチメートル)の原始紐舌目リンゴガイ上科リンゴガイ科リンゴガイ属スクミリンゴガイ Pomacea canaliculata とラプラタリンゴガイ Pomacea insularum が西日本を中心に増えているが、彼らはタニシとは縁も所縁もない全くの別種である。(以上は主にウィキの「タニシ」に拠った)。]

 

 片尻は岩にかけけりはな筵     同

[やぶちゃん注:座五は「はなむしろ」。花茣蓙(はなござ)。いろいろな色に染めた藺 () で花模様などを織り出した茣蓙。無地に捺染 (なっせん) を施したものもある。はなむしろ。夏の季題。]

 

 ほとゝぎすたれに渡さん川むかへ  同

[やぶちゃん注:この句、ちょっと意味をとりかねている。識者の御教授を乞う。]

 

 涼しさのこゝろもとなしつたうるし 同

[やぶちゃん注:季題は「涼しさ」で夏。されば蔦漆(ムクロジ目ウルシ科ウルシ属ツタウルシ Toxicodendron orientale は青々しくぺらぺらしている(ツタウルシは晩秋にならないと紅葉しない)。その微風に微かに揺れるのを詠んだ。「こゝろもとなし」は前後の「涼しさ」と「つたうるし」に掛かるようになっているのである。]

 

 この外にもう一つ「朝霜や茶湯の後のくすり鍋」という芭蕉迫慕の句があるわけであるが、前に引いたからここには省略する。

 「わせのかや」の句は『丈艸発句集』には「雇ひ出さるゝ」となっている。「出さるゝ」か「出らるゝ」か、二つより読み方はなさそうであるが、多分前者であろう。

 「友ずれ」というのは「とも擦れ」ではないかと思う。『丈艸発句集』には「友づれの」とあり、「有朋堂文庫」には「一本「友つれて」とあり」[やぶちゃん注:総て鍵括弧はママ。]と註してある。これでは人間の友達を連れて舟に乗ったが、なかなか寝られぬという風に解される虞(おそれ)がある。ここは友達などが登場しては面白くない。『曠野』にある「友ずれの木賊(とくさ)すゞしや風の音」という山川の句の「友ずれ」と同じことで、近く舫(もや)った舟が浪か何かのために互に擦れ合う、そのために眠れぬというのではあるまいか。少くともそう解した方が、夜寒の情が身に逼(せま)るような気がする。

[やぶちゃん注:「山川」寺村山川(さんせん 生没年不詳)。伊勢津藩士で榎本其角の門人。]

 「やねふきの」の句は『丈艸発句集』に「海をふりむく」となっている。現在屋根を葺きつつある最中に時雨が来た。直ぐ晴れるかどうか、空模様を見るために手を休めて後を振向いたのであろう。この句にあっては「海」の一字が画竜点晴の妙を発揮している。この一字あるによって、海を背にした家の屋根に人が上って、屋根を葺いているという景色がはっきり浮んで来る。更に想像を逞(たくま)しゅうすれば、黒み渡った海上には、時雨雲の下に遠い帆影なども動いているかも知れぬ。海の方から時雨が来たために其方(そちら)を見たのか、時雨が海の方へ抜けるためにその行方を見たのか、その辺はいずれでも構わない。余念なく屋根を葺いている男が、時雨が来たことによって背後の海を顧みたという、そこに巧まざる躍動がある。「ふりむく」ではいささか軽過ぎる。やはり「ねぢむく」という強い言葉の方が適切のようである。

 『有磯海』所収の句は必ずしも従来の作品に比して、特に異色あるものとも思われぬ。目まぐるしく変化するのを才分の豊なものと解する批評家は、丈艸の作品を以て一所に停滞するものと見るかも知れない。丈艸の丈艸たる所以は、変化を求めざる世界において、自在な歩みを続ける点に存するのである。

 芭蕉生前と歿後とでは、蕉門作家の句にも多くの変化が認められる。純客観の本尊と称せられる凡兆でさえ『猿蓑』集中の句と、十年後の『荒小田』集中の句とでは、よほどの軒輊(けんち)を示しているのを見れば、その他は推して知るべきであろう。但丈艸の句にはそういう意味の変化の差を認めがたい。彼の句が軽々に時流を逐って[やぶちゃん注:「おって」。]変化せぬのは、それだけ深い根抵に立っているためではあるまいか。

[やぶちゃん注:「荒小田」(あらおだ)舎羅編。元禄一四(一七〇一)年刊。

「軒輊」「軒」は「車の前が高い」こと、「輊」は「車の前が低い」ことを意味し、そこから「上がり下がり・高低」、転じて「優劣・軽重・大小」などの差があることを言う。]

 

 『続有磯海』は『有磯海』より三年後に、同じく浪化の名によって刊行された撰集である。この集における丈艸の句はさのみ多くないが、依然悠々たる歩みを続けている。

 柊にさえかへりたる月夜かな    丈艸

[やぶちゃん注:「月夜」で秋であるが、ここではシソ目モクセイ科 Oleeae 連モクセイ属ヒイラギ 変種ヒイラギ Osmanthus heterophyllus var. bibracteatus が芳しい白い花を咲かせていると読むべきで、さすれば、季節は実際には初冬(現行では「柊の花」は初冬(「立冬」(十一月八日頃)から「大雪」の前日(十二月七日頃))の季語とする)を想定してよいように思う。花無しでは「さへかりたる」が生きてこない。因みに、私は季語を軽蔑しているので問題にする気も実はない。]

 

 胡床かく岩から下やふぢの花    同

[やぶちゃん注:初五は「あぐらかく」。藤の花を俯瞰するロケーションに新味がある。]

 

 あら壁や水で字を吹夕涼み     同

[やぶちゃん注:松尾勝郎氏編著「蝸牛 俳句文庫17 内藤丈草」(一九九五年蝸牛社刊)によれば、『「あら壁」は荒塗をしたままの』塗りたての『壁。夕涼みをしている子供が、口にふくんだ水を荒壁に吹きかけ、大きな字を書きつける。夕涼みの子供たちのいたずら』とある。それ叱らぬ丈草には後の一茶の優しさを感ずる。]

 

   嵯峨の辺に逍遥して

 猪追の寐入か藪の子規       同

[やぶちゃん注:「ししおひのねいるかやぶのほととぎす」。「猪追」は、農地の傍らに小屋や掛け物をして、そこで笛を吹いたり、板や撞木を打ち鳴らしたりして、通常は複数で交代したりして夜通し、田畑の見張りをする方法で、猪や鹿の害を避ける方法として、ごく近代まで行われていた。松尾氏の前掲書には、『猪を追いはらう役の猪追いも、どうやら寝てしまったよう』で、『竹藪から漏れてくるほととぎすの鳴く音』だけが、『静かな嵯峨野の夏の夜』に聴こえるばかりといった感じの評釈をされておられる。『嵯峨野は竹薮で知られる』ともある。因みに、ホトトギスは夜も鳴くことで古くから知られ、詩歌にも詠まれている。実際には深夜ではなく、宵の頃と、早暁の三時頃から日の出頃にかけてよく鳴く(私も暗い内に直上の裏山からの彼らの声のために起こされる)。特に飛びながら鳴くようである。]

 

 鹿小屋の火にさしむくや菴の窓   同

[やぶちゃん注:先に挙げた諸本では堀切氏も松尾氏も「鹿小屋」を「しかごや」と読んでおられるのだが、どうも私には従えない。これはこれで「ししごや」と読みたい。前の「猪追(ししおひ)」小屋と同じものであるが、山間では「鹿」で「しし」と読んで猪をも鹿をも指したし、前注で示した通り、セットで農作物や農地を荒らす害獣として一緒に認識されていたからである(私の『早川孝太郎「猪・鹿・狸」』(全電子化注完結)の各所を読まれたい)。堀切氏は『仏幻庵の秋の景であろう。近くの山畠にある鹿』『小屋の灯がぽつんと一つだけ見える――その灯に向かい合うように、わが草庵の窓があるというのである。夜ごとに見える鹿小屋の灯だけが、草庵に孤独が生活を送る丈草の心に、人なつかしさの情けを蘇らせるのであろう』とある。松尾氏の評釈もほぼ同じである。]

 

   田家

 茶の酔や菜たね咲ふす裏合せ    同

[やぶちゃん注:「田家」は「でんか」で田舎の家であるが、この「田」は広義の農耕地畠地に接した田舎家の謂いであろう。堀切氏前掲書によれば、「菜たね」は『菜種の花で、菜の花のこと』、座五は『裏と表とが互いに向き合っていること。背中合わせ。元来は二軒の家が互いにうしろ向きに建っていること』を指すが、『ここは裏手がすぐ菜畑になっているのを、このように見立てたものであろう』とされ、評釈では『仏幻庵での生活ぶりのしのばれる句である。庵の裏手の畑には一面に菜の花が咲きふしている』(比較的低い位置で花が咲き広がっていることを謂っていよう)『が、自分もそれを眺めながら、茶を存分に飲』み味わって、『ぼんやりと寝そべっていることだ、というのであろう。芭蕉の俳文「月見ノ賦」(『和漢文操』巻一)によれば、師翁から白楽天に擬せられた丈草であるので酒の酔とも無縁ではなかったろうが、あえて茶の酔に悠然としているさまをとらえて詠んだところがかもしろい』とある。松尾氏前掲書では、丈草は茶の湯にも造詣が深かった旨の記載がある。]

 

 屋のむねの麦や穂に出て夕日影   同

[やぶちゃん注:こうした巧まざるトリミングの妙にこそ丈草の句の秘訣があると私は思っている。]

 

 芭蕉のような偉大な指導者を失った後、俳壇が乱離に赴くのは当然の話である。門弟が各異を立てて自己の主張を誇揚するのもまた已むを得ない話かも知れぬ。けれどもこういう形勢に左右されて、自分の足許までしどろもどろになるのは、その人の識量の大ならざることを語るものである。要は芭蕉生前に体得した道の深浅如何にある。丈艸の足許に狂いを見せぬのは、必ずしも彼の境遇が世外に超然としていたためばかりではない。一たび芭蕉によって得た道を、惑わずに歩み続けるだけの確信を有したために外ならぬ。

 去来が卯七と共に『渡鳥集』を撰んだのは宝永元年、芭蕉歿後十年の歳月を閲(けみ)しているが、丈艸の句には何の狂いも生していない。

[やぶちゃん注:「宝永元年」一七〇四年。元禄十七年三月十三日(グレゴリオ暦一七〇四年四月十六日)に元禄から改元。]

 

 山鼻や渡りつきたる鳥の声     丈艸

[やぶちゃん注:「山鼻」は「やまはな」で山の端の意。この鳥は渡り鳥(秋の季題)であればこそ評釈はいらぬ。]

 

 送り火の山にのぼるや家の数    同

[やぶちゃん注:「のぼる」のは送り火の煙。]

 

 戸を明て月のならしや芝の上    同

[やぶちゃん注:「明て」は「あけて」。松尾氏の前掲書によれば、『庵の戸を開けて外に出てみると、明るい月光が柴を一面に照らし出している。「月のならし」は月の光が隈なく照らすさま。元禄十六年八月十四日、小望月の吟』と評釈しておられる。「小望月(こもちづき)」は望月の前夜の月。陰暦十四日の月を指す。グレゴリオ暦では一七〇二年九月二十四日である。]

 

 鍋本にかたぐ日影や村しぐれ    同

[やぶちゃん注:初五は「なべもと」で鍋を使っている竈か七輪の下(もと)。独り夕餉の支度である。「村しぐれ」は「叢時雨」で、一頻り激しく降っては止み、止んでは降る雨のこと。冬の季題。]

 

 水風呂に筧しかけて谷の柴     同

[やぶちゃん注:「水風呂」は先にも出たが、再掲しておくと、「すいふろ」で、茶の湯の道具である「水風炉 (すいふろ) 」に構造が似るところから、桶の下に竈(かまど)が取り付けてあって浴槽の水を沸かして入る風呂。「据(す)ゑ風呂」とも言う。「筧」は「かけひ(かけい)」で水を引くために渡した樋(とい)のこと。風呂を沸かすに谷川の水を引くために筧を引き掛け、また、谷を歩いて焚き付けにする柴を集める、まさに隠者の体(てい)である。]

 

 狐なく岡の昼間や雪ぐもり     同

[やぶちゃん注:松尾氏の前掲書に、『「雪ぐもり」はいまにも雪になりそうな、底冷えのする曇り空。冷え冷えする雪催』(ゆきもよ)『いの昼下り、岡辺に鳴く狐の』「こうこう」という『声も、いかにも寒々しく聞こえる。元禄十五年二月二十二日、仏幻庵に浪化、支考らが来訪した折の吟』とある。グレゴリオ暦では一七〇二年三月二十日である。]

 

 啄木鳥の枯木さがすや花の中    同

[やぶちゃん注:「きつつきやかれきをさがすはなのなか」。キツツキは秋の季題であるが、ここは「花」で春。咲き誇る桜を尻目に、枯れ木を探しては餌を突(つつ)き探す啄木鳥へと、大胆にずらして、しかもその飛び移る鳥影に美しい桜の花を背景としてぼかしつつも出すという、まさに俳諧的妙味の句と言えよう。掲句は松尾氏の前掲書によれば「渡鳥集」(去来・卯七編。丈草跋文(元禄一五(一七〇二)年十一月)で刊行は宝永元(一七〇四)年刊)の句形で、「菊の道」(紫白女(しはくじょ)編・元禄十三年刊)では、

 木つゝきや枯木尋(たずぬ)る花の中

であり、「東華集」(支考編・元禄十三年刊)・「丈草句集」では、

 木つゝの枯木をさがす花の中

とする。私は断然、「木つゝきや枯木尋る花の中」を推す。]

 

   草庵

 火を打ば軒に鳴合ふ雨蛙      同

[やぶちゃん注:「ひをうてばのきになきあふあまがへる」。松尾氏前掲書に「志津屋敷(しづやしき)」(箕十(きじゅう)編・元禄十五年刊)所収の句として酷似した、

 火を打てば軒に答(こたふ)る蛙(かはづ)かな

の句を挙げてあり、こちらの方が出来がよい。同句の松尾氏の評釈では(踊り字「〱」を正字化した)、『句意は嘯風(しょうふう)宛書簡の「かちかちと打てども、例のしめりほくち、小腹のたついきほひ、ひゞきに軒近く、雨蛙の、をのが友の声かと取りちがへたるにや、かならず鳴き出すおかしさ」に尽きる。「打てば響く」の諺を連想させリズム。元禄十四年』春『の作』とある。]

 

   木曾川の辺にて

 ながれ木や篝火の空の時鳥     同

[やぶちゃん注:堀切氏前掲書評釈に、『大水のために溢(あふ)れんばかりになった木曾川の川面を次から次へと』流木が落ち『流れてくる。堤には』『あかあかと篝火が焚かれ、物々しく警戒する人たちの姿が見える――そんなとき』、『時鳥が一声鳴き過ぎたというのである。凄絶な気配の漲った夜明け間近の情景である』と評され、「時鳥」について、『古来、鳴き声を賞美されてきた鳥であるが、その声は人の叫び声のようにも聞こえるもの』であるともされる。特異な緊張感や災害窮迫の恐怖を倍加させる効果を狙ったものともとれよう。また、堀切氏は本句を『元禄十三年夏の美濃路行脚の折の吟であろう』とされる。同年十二月五日附の丈草の書簡にもこの句が載っているとある。]

 

   元春法師が身まかりけるに

 世の中を投出したる団扇かな    同

[やぶちゃん注:「よのなかをなげいだしたるうちはかな」。

「元春法師」不詳。]

 

 「送り火」の句の如き、「鍋本に」の句の如き、あるいは「ながれ木や」の句の如き、調子の引緊った[やぶちゃん注:「ひきしまった」。]点からいっても、底に湛(たた)えた幽玄の趣からいっても、『有磯海』時代に比して更にその歩を進めているように思う。これらの句は年と共に澄む丈艸の心境の産物ではあるが、また句における不退転の努力を見るに足るものである。

 「啄木鳥」の句は『東華集』には「啄木鳥や枯木をさがす」とあり、『菊の道』には「枯木尋ぬる」とある。『東華集』『菊の道』は共に元禄十三年刊であるから、丈艸としては「啄木鳥の枯木さがすや」で落着(おちつ)いたのかも知れぬ。これは眼前の景色だけでなしに、何か寓するところがあるようである。

 元春法師追悼の句は丈艸の一面を窺うべきものであろう。団扇を投出す如く世の中を投出したというのは、尋常の追悼句ではない。如何にも禅坊主らしい気がする。

 

今日の先生――「奥さん、御孃さんを私に下さい」――「下さい、是非下さい」「私の妻(つま)として是非下さい」――「急に貰ひたいのだ」――『云ひ出したのは突然でも、考へたのは突然でない』

○茶の間。(基本的に先生と奥さんの畳表面に置いた低い位置からの俯瞰交互ショット)

 長火鉢の前。箱膳の向うの先生。食事後。黙って敷島を吹かしている。やや落ち着かない。
 奥さん、口元に軽い笑みを浮かべながら長火鉢の向うでやや首を上げて先生の様子を黙って見ている。
 下女を呼ぶ奥さん。[やぶちゃん注:「□□」には下女の名が入る。]

奥さん「□□や。膳をお下げして。」

 奥さん、鉄瓶に水を注し、また火鉢の縁を拭いたりしている。
 先生、そそくさと二本目の敷島を懐から出し、銜える。
 火種を差し出す奥さん。
 火を貰う先生の手のアップ(向うにソフト・フォーカスの奥さん)。震える煙草(アップ)。
 妙にせっかちに何度もスパスパと吹かす先生。

先生 「……あの、奥さん……あ、今日は何か、これから特別な用でも、ありますか?」

奥さん「(穏やかな笑顔のままで。ゆっくりと)いゝえ。」

 かたまったような先生。灰を火箸で調える奥さん。間。

奥さん「(同じく)何故です?」

先生 「……実は……少しお話したいことが、あるのですが……」

奥さん「(同じく)何ですか?」

 奥さん、笑顔のまま先生の顔を見る。 先生、軽い咳払いをし、暫く、間。

先生 「……少し陽射しが出てきましたかね……」

奥さん「ええ、そうですね。」

先生 「……今年の冬は、そう寒くはないですね……」

奥さん「……ええ、まあ、そうですね。」

先生 「……あの、最近のKは、どう思われますか……」

奥さん「……は? 特にこれといって気にはなりませんが……」

先生 「……その、○○の奴が近頃、奥さんに何か、言いはしませんでしたか?」[やぶちゃん注:「○○」にはKの姓が入る。]

 奥さん、思いも寄らないという表情で。

奥さん「何を?……(間)……貴方には、何か仰やったんですか?」

 

○茶の間。(続き。基本的に先生と奥さんの畳表面に置いた低い位置からの俯瞰交互ショット)

先生 「あっ……いいえ……(間)……その、ここ数日、互いに忙しくて、ろくに話も出来なかったから、また例の調子で黙りこくっているのかと、ちょいと聞いてみただけのことです。別段、彼から何か頼まれたわけじゃありません……これからお話したいことは彼に関わる用件ではないのです。」

奥さん「(笑顔に戻って)左右ですか。」

 後を待っている。間。

先生 「(突然、性急な口調で)奥さん、御孃さんを私に下さい!」

 それほど驚ろいた様子ではないが、少し微苦笑して、暫く黙って唇を少し開いては閉じ、黙って先生の顔を見ている。やや間。

先生 「下さい! 是非下さい!……(間)……私の妻として是非下さい!」

奥さん「上げてもいいが、あんまり急じゃありませんか?」

先生 「急にもらいくたくなったのです!」

 奥さん、笑ひ出す。笑いながら、

奥さん「よく考えたのですか?」

先生 「もらいたいと言い出したのは突然ですけれど……いいえ! もらいたいと望んでいたのはずっと先(せん)からのことで……決して昨日今日の突然などでは――ありません!」

 茶の間の対話の映像はままで、映像の会話は次のナレーションの間はオフ。

今の先生のナレーション「……それから未だ、二つ三つの問答がありましたが、私はそれを忘れて仕舞いました。男のように判然した所のある奥さんは、普通の女と違ってこんな場合には大変心持よく話の出来る人でした。……」

 奥さんのバスト・ショット。

奥さん「よござんす、差し上げましょう。……差し上げるなんて威張った口のきける境遇ではありません。どうぞもらってやって下さい。御存じの通り、父親のない憐れな子です。」

 ここも、茶の間の対話の映像はままで、映像の会話は次のナレーションの間はオフ。

先生のナレーション「……話は簡単で、且つ明瞭に片付いてしまいました。最初から仕舞いまでに、恐らく十五分とは掛らなかつたでしょう。……奥さんは何の条件も持ち出さなかったのです。『親類に相談する必要もない、後から断ればそれで沢山だ』と言いました。『本人の意向さへたしかめるに及ばない』と明言しました。……そんな点になると、学問をした私の方が、却って形式に拘泥するぐらいに思われたものです。……」

先生 「ご親類は兎に角、ご当人にはあらかじめ話をして承諾を得るのが筋では、ありませんか?」

奥さん「大丈夫です。本人が不承知の所へ、私があの子をやる筈がありませんから。」

 見上げる満面の自信と笑みの奥さん(俯瞰のバスト・ショット)。

   *

(昨日の『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月30日(木曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第九十八回の終りと、今日の『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月31日(金曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第九十九回のシークエンスを繋げて、オリジナルにシナリオ化した)

   *

 自分の室へ歸つた私は、事のあまりに譯もなく進行したのを考へて、却つて變な氣持になりました。果して大丈夫なのだらうかといふ疑念さへ、どこからか頭の底に這ひ込んで來た位です。けれども大體の上に於て、私の未來の運命は、是(これ)で定められたのだといふ觀念が私の凡てを新たにしました。

 私は午頃又茶の間へ出掛けて行つて、奥さんに、今朝(けさ)の話を御孃さんに何時通じてくれる積かと尋ねました。奥さんは、自分さへ承知してゐれば、いつ話しても構はなからうといふやうな事を云ふのです。斯うなると何んだか私よりも相手の方が男見たやうなので、私はそれぎり引き込まうとしました。すると奥さんが私を引き留(と)めて、もし早い方が希望ならば、今日でも可(い)い、稽古から歸つて來たら、すぐ話さうと云ふのです。さうして貰ふ方が都合が好いと答へて又自分の室に歸りました。然し默つて自分の机の前に坐つて、二人のこそ/\話を遠くから聞いてゐる私を想像して見ると、何だか落ち付いてゐられないやうな氣もするのです。私はとう/\帽子を被つて表へ出ました。さうして坂の下で御孃さんに行(い)き合ひました。何にも知らない御孃さんは私を見て驚ろいたらしかつたのです。私が帽子を脫(と)つて「今御歸り」と尋ねると、向ふではもう病氣は癒つたのかと不思議さうに聞くのです。私は「えゝ癒りました、癒りました」と答へて、ずん/\水道橋(すゐだうはし)の方へ曲つてしまひました。(本日分から。太字は私が附した)

   *

……先生……確かに……
あなたの未来の運命は……
これで定められたのでした……
……おぞましく孤独な運命として…………

   *

最終シークエンスに注意せよ! 「又」である。この「又」は勿論、あの先生にとって忘れられぬ屈辱のおぞましい記憶である「第(八十七)回」の雨上がりの道でKと御嬢さんとKに遭遇してしまった場所と――同じ場所――であるということを意味しているのである。そうして、こここそが、私が円環の中心であり、ゼロ座標であると目している地点でもあるのである。

 

2020/07/30

大和本草卷之十三 魚之下 鱸魚(スズキ)

 

鱸魚 大ナル者二三尺三月以後七月マテ肥ユ暑月

多ク乄味ヨシ八月ヨリヤスル夏秋サシミ鱠トシ鮓ト

ス夏月膓ノ味ヨシクモワタト云膓アリ脂多ク味ヨシ

病人忌之小ナルヲセイコト云松江ナルヘシ中華松江

ノ鱸ハ其大サ日本ノセイコノ如シト云中華ノ鱸ハ

小ナリ本草ニノスル處長僅ニ數寸トアリ○河鱸味尤

ヨシ暑月ノ佳品ナリ出雲ノ松江ノ湖ノ鱸味最スク

レタリ海ト河トノ間ニアルモ味ヨシ漁人釣之或戈ニテ

ツキテトル○鰷魚ヲセイコト訓ズルハ非ナリ鰷魚ハアユ

也セイコハ小鱸也

○やぶちゃんの書き下し文

鱸魚(すずき) 大なる者、二、三尺。三月以後、七月まで肥ゆ。暑月、多くして、味、よし。八月より、やする。夏・秋、さしみ・鱠〔(なます)〕とし、鮓〔(すし)〕とす。夏月、膓〔(わた)〕の味、よし。「くもわた」と云ふ膓あり、脂、多く、味、よし。病人、之を忌む。小なるを「せいご」と云ふ。「松江(せうがう)」なるべし。中華の松江の鱸は其の大いさ、日本の「せいご」のごとしと云ふ。中華の鱸は、小なり。「本草」にのする處、『長さ僅かに數寸』とあり。

○河鱸〔(かはすずき)は〕、味、尤もよし。暑月の佳品なり。出雲の松江(まつえ)の湖の鱸、味、最もすぐれたり。海と河との間にあるも、味、よし。漁人、之れを釣り、或いは戈(ほこ)にて、つきて、とる。

○鰷魚〔(はや)〕を「せいご」と訓ずるは非なり。鰷魚は「あゆ」なり。「せいご」は小〔さき〕鱸なり。

[やぶちゃん注:先行する「大和本草卷之十三 魚之上 河鱸 (スズキ)」と甚だ重複する記載が多いが、煩を厭わず、注も再掲する。条鰭綱棘鰭上目スズキ目スズキ亜目スズキ科スズキ属スズキ Lateolabrax japonicus である。多くの海水魚が分類学上、スズキ目 Perciformes に属することから、スズキを海水魚と思っている方が多いが、彼らは海水域も純淡水域も全く自由に回遊するので、スズキは淡水魚であると言った方がよりよいと私は考えている(海水魚とする記載も多く見かけるが、では、同じくライフ・サイクルに於いて海に下って稚魚が海水・汽水域で生まれて川に戻る種群を海水魚とは言わないし、海水魚図鑑にも載らないウナギ・アユ・サケ(サケが成魚として甚だしく大きくなるのは総て海でであり、後に産卵のために母川回帰する)を考えれば、この謂いはやはりおかしいことが判る。但し、生物学的に産卵と発生が純淡水ではなく、海水・汽水で行われる魚類を淡水魚とする考え方も根強いため、誤りとは言えない。というより、淡水魚・海水魚という分類は既に古典的分類学に属するもので、将来的には何か別な分類呼称を用意すべきであるように私には思われる)ウィキの「スズキ」によれば、『冬から春に湾奥(干潟、アマモ場、ガラモ場、砂浜海岸)や河口付近、河川内の各浅所で仔稚魚が見られ』、『一部は体長』二センチメートル『ほどの仔稚魚期から』、『純淡水域まで遡上する』。『この際、遡上前の成長がより悪い個体ほど』。『河川に遡上する傾向がある』。『仔稚魚は遊泳力が非常に弱いため、潮汐の大きな有明海では上げ潮を利用して』、『潮汐の非常に小さい日本海では塩水遡上を利用して河川を遡上する』。『若狭湾で、耳石の微量元素を指標にして調べた結果によれば』、『純淡水域を利用する個体の割合は』三『割強に上る』。『仔稚魚はカイアシ類や枝角類などの小型の生物から、アミ類、端脚類などの比較的大型の生物へとを主食を変化させながら成長』し、『夏になると』、『河川に遡上した個体の一部が』、五センチメートル『ほどになり』、『海に下る』。ところが、特に春から秋にかけての水温の高い時期には、本種の浸透圧調整機能も高いことから、成魚期以降でもかなりの個体が河川の純淡水域の思いがけない上流域まで遡上する(益軒が「夏・秋」を食味の最上期と叙述するのと合致する)。堰の無かった昔は、琵琶湖まで遡上する個体もいたとされるのである。但し、種としてのスズキは、冬には沿岸及び湾口部・河口などの外洋水の影響を受ける水域で産卵や越冬を行ない、また純淡水域のみでは繁殖は出来ない。則ち、少なくともライフ・サイクルの産卵・発生・出生期には絶対に海水・汽水域が必要なのである私自身、例えば、横浜市の戸塚駅直近の柏尾川(途中で境川に合流し、江の島の北手前で相模湾にそそぐ。河口からは実測で十四キロメートル以上はある)で四十センチメートルを優に超える大きな成魚の数十尾以上の群れが遡上するのを何度も目撃している。以下に以上の生態上の事実を真面目に判り易く述べても、スズキを純粋に海の魚に決まってると思っている人はなかなか信じて呉れず(こういう頑なな人は存外、多い。困るのは魚通を自認している人ほどその傾向が強いことである)、私の作った都市伝説だと思われる始末で、ほとほと困るのだが。なお、スズキは出世魚としても知られ、地方によってサイズと呼称が異なる。

セイゴ(コッパ)→フッコ→スズキ→オオタロウ(ニュウドウ)

セイゴ→ハネ→スズキ(関西)

セイゴ→マダカ →ナナイチ→スズキ(東海)

ハクラコ→ハクラ→ハネ→スズキ(佐賀)

などである。こうした異名の詳細は「ぼうずコンニャクの市場魚貝類図鑑」の「スズキ」のページの最後の「地方名・市場名」が詳しいので参照されたい。

「八月より、やする」「八月」は陰暦なので注意。新暦では八月下旬から十月上旬となる。「やする」は「瘦する」。痩せ始める。但し、この謂いには疑問がある。実際にスズキが痩せるのは産卵後の春であって、秋以降ではない。確かに、脂が乗る梅雨時から夏にかけてが旬とされるものの、秋から初冬にかけて、産卵のために海から遡上してくる♀は腹が太く(子持ちで脂もそのために乗っているのだから、当然)、寧ろ肥えて見える個体も多いからである。なお、「スズキは性転換を行い、スズキは、五十センチメートルまでがで、それ以上になるとに性転換する」と言う説が古くから信じられ、今もそう思っている釣り人や業者がいるが、これは都市伝説並みの誤りである。釣りサイト「fimo」の「スズキの性転換」で水産研究者による『スズキの雄雌の『標準体長』組成を調べたデータ』(しかも一九六〇年代の研究資料である)も掲げられて、否定されている。

「鮓〔(すし)〕」熟れ鮓。ちょっと今は食わないな。でも、美味そうだ(私は「鮒鮓」が大の好物である)。

「膓〔(わた)〕」『「くもわた」と云ふ膓あり』私の知るところでは、「くもわた」は鱈(タラ目タラ科タラ亜科マダラ属マダラ Gadus macrocephalus)の白子の異名である。調べてみると、スズキの白子は相当に(タラ以上という評価もある)美味いらしい。私は個人的にあまり白子自体が好きではない(妻は絶対禁忌食物である)から、タラとアンコウ以外のそれは食べたことはない。「鮟肝」は例外的に絶品。禁断のトラフグの肝も、とあるところで食べたことがあるが、鮟肝の方が遙かに美味である。

「松江(せうがう)」「中華の松江」現在の上海市松江区であろう。東の黄海から黄浦江が入り込み、その上流は広大な太湖へと繋がっている。藤井統之氏の論文「松江と鱸」(平成二四(二〇一二)年・PDF)が、当地と出雲の松江を語られ、「大和本草」の本記載も掲げて、考証されておられる。必見である。

『「本草」にのする處、『長さ僅かに數寸』とあり』「本草綱目」の「鱗之二」のそれは以下。

   *

鱸魚【宋・嘉定。】

釋名 四鰓魚。時珍曰、『黒色曰盧。此魚白質黒章、故名。淞人名四鰓魚。』。

集解 時珍曰、『鱸出吳中、淞江尤盛、四五月方出。長僅數寸、狀微似鱖而色白、有黑㸃、巨口細鱗、有四鰓。楊誠齋詩頗盡其狀、云、『鱸出鱸鄕蘆葉前 垂虹亭下不論錢 買來玉尺如何短 鑄出銀梭直是圓 白質黑章三四㸃 細鱗巨口一雙鮮 春風已有真風味 想得秋風更逈然』。「南郡記」云、『吳人獻淞江鱸鱠於隋煬帝。帝曰、「金虀玉鱠、東南佳味也」。』。

肉 氣味 甘、平、有小毒。宗奭曰、『雖有小毒、不甚發病。』。禹錫曰、『多食、發痃癖瘡腫、不可同乳酪食。』。李廷飛云、『肝不可食剝人面皮。』。詵曰、『中鱸魚毒者、蘆根汁解之。』。

主治 補五臟、益筋骨、和腸胃、治水氣、多食宜人、作鮓尤良。曝乾甚香美【「嘉定」。】。益肝腎【宗奭。】安胎補中。作鱠尤佳【孟詵。】。

   *

先の論文で藤井氏は、『現代版本草の『中薬大辞典(1986)』には、≪李時珍は鱸が松江の四鰓魚(杜父魚科松江鱸魚 Trachidermus fasciatus Heckel)だと見做しているが』、『その根拠とした“状は鱸魚にやや似て色白、黒点あり、巨口細鱗”等の特質は、まさに鮨科の鱸魚で、松江鱸魚ではない。≫とある。鮨はヒレか魚名のハタ。鮨科は Serranidae で、英和辞書ではスズキとあるが』、『専門用語としてはハタ科となる。杜父魚科はカジカ科。中国語Wikipedia『維基百科』には≪松江鱸 Trachidermus fasciatus(ヤマノカミ、山の神(両者とも原文)) ≫とある。松江鱸=山の神であるが、中国が鱸形(スズキ)目 Perciformes であるのに対して』、『日本ではカサゴ目 Scorpaeniformes。松江鱸は明人が混同し』、「本草綱目」は『今もこれだから、益軒が戸惑うのも無理はない。益軒は筑前生まれの福岡藩士である。絶滅危惧種とされる山の神が』、『今』、『唯一棲む有明海に筑後川が流れ込む。筑後川上流の別称上座川に、川鱸これありと自著『筑前国続風土記』に載る。別項に杜父魚はハゼに似るという記述もある。山の神も見たに違いないが、目に山の神=松江鱸の図式なく看過したようだ。松江命名者の見え方も益軒と同じであろう。ところでスズキ目の科レベルの多様化はジュラ紀と白亜紀との境界付近で起きたらしいから、鱸と松江鱸が分岐したのがその頃か、また』、『山の神がカサゴ目なら恐竜時代か』と驚くべき時間をドライヴされて論じておられ、面白い。

「河鱸〔(かはすずき)〕」「海鱸〔(うみすずき)〕と形狀同じ」当然です。同種ですから。益軒は同じ類の別種として見ていたようだが、上記のように現代人の多くが、「海の魚」と信じて疑わない事実に照らせば、遙かに益軒先生の方が「まとも」と言える。但し、条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目スズキ目スズキ亜目スズキ上科 Percoidea に属する、広義の「スズキ」の仲間で、海産のメバルによく似ている(事実、姿は海水魚にしか見えない)、
スズキ上科ペルキクティス科 Percichthyidae オヤニラミ属オヤニラミ Coreoperca kawamebari
がいるから、「河鱸」ってえのはそれじゃないの? と言われる御仁もあろうが、そういうツッコミをされる方に限って私の過去記事を読んでくれていない。残念ながら、益軒先生は「オヤニラミ」を、とうに、本巻の別項で既に記載し終えているのである。「大和本草卷之十三 魚之上 水くり(オヤニラミ)」を参照されたい。――と「大和本草卷之十三 魚之上 河鱸 (スズキ)」と注したのだったが、前の藤井氏の引用からは、条鰭綱スズキ目カジカ科ヤマノカミ属ヤマノカミ Trachidermus fasciatus を正体の最有力候補とする(或いは加える)必要が出てきた。

「戈(ほこ)」突き銛や「やす」(簎・矠)の類い。

「鰷魚〔(はや)〕」『鰷魚は「あゆ」なり』この限定は誤り。「ハヤ」類「ハエ」「ハヨ」とも呼ぶ)で、これは概ね、

コイ科ウグイ亜科ウグイ属ウグイ Pseudaspius hakonensis

ウグイ亜科アブラハヤ属アムールミノー亜種アブラハヤ Rhynchocypris logowskii steindachneri

アブラハヤ属チャイニーズミノー亜種タカハヤ Rhynchocypris oxycephalus jouyi

コイ科Oxygastrinae 亜科ハス属オイカワ Opsariichthys platypus

Oxygastrinae 亜科カワムツ属ヌマムツ Nipponocypris sieboldii

Oxygastrinae 亜科カワムツ属カワムツ Nipponocypris temminckii

の六種を指す総称と考えてよい。漢字では「鮠」「鯈」「芳養」と書き、要は日本産のコイ科 Cyprinidae の淡水魚の中で、中型のもので細長いスマートな体型を有する種群の、釣り用語や各地での方言呼称として用いられる総称名であって、「ハヤ」という種は存在しない。以上の六種の内、ウグイ・オイカワ・ヌマムツ・アブラハヤの四種の画像はウィキの「ハヤ」で見ることができる。タカハヤカワムツはそれぞれのウィキ(リンク先)で見られたい。但し、益軒は既に鰷魚は鮎(キュウリウオ目キュウリウオ亜目キュウリウオ上科キュウリウオ科アユ亜科アユ属アユ Plecoglossus altivelis)だと何度もしつこく言っていて、処置なしである。]

今日――先生はKの「覚悟」を致命的に誤読し――掟破りの卑劣な先手に着手してしまう――

 「Kの果斷に富んだ性格は私によく知れてゐました。彼の此事件に就いてのみ優柔な譯も私にはちやんと呑み込めてゐたのです。つまり私は一般を心得た上で、例外の塲合をしつかり攫(つら)まへた積で得意だつたのです。所が「覺悟」といふ彼の言葉を、頭のなかで何遍も咀嚼してゐるうちに、私の得意はだん/\色を失なつて、仕舞にはぐら/\搖(うご)き始めるやうになりました。私は此塲合も或は彼にとつて例外でないのかも知れないと思ひ出したのです。凡ての疑惑、煩悶、懊惱(あうなう)、を一度に解決する最後の手段を、彼は胸のなかに疊み込んでゐるのではなからうかと疑ぐり始めたのです。さうした新らしい光で覺悟の二字を眺め返して見た私は、はつと驚ろきました。其時の私が若し此驚きを以て、もう一返彼の口にした覺悟の内容を公平に見廻したらば、まだ可かつたかも知れません。悲しい事に私は片眼(めつかち)でした。私はたゞKが御孃さんに對して進んで行くといふ意味に其言葉を解釋しました。果斷に富んだ彼の性格が、戀の方面に發揮されるのが卽ち彼の覺悟だらうと一圖に思ひ込んでしまつたのです。

 私は私にも最後の決斷が必要だといふ聲を心の耳で聞きました。私はすぐ其聲に應じて勇氣を振り起しました。私はKより先に、しかもKの知らない間に、事を運ばなくてはならないと覺悟を極めました。私は默つて機會を覘(ねら)つてゐました

   *

 一週間の後(のち)私はとう/\堪へ切れなくなつて、假病を遣ひました。奥さんからも御孃さんからも、K自身からも、起きろといふ催促を受けた私は、生返事をした丈で、十時頃迄蒲團を被つて寐てゐました。私はKも御孃さんもゐなくなつて、家の内がひつそり靜まつた頃を見計つて寢床を出ました。私の顏を見た奥さんは、すぐ何處が惡いかと尋ねました。食物(たべもの)は枕元へ運んでやるから、もつと寐てゐたら可からうと忠告しても吳れました。身體(からだ)に異狀のない私は、とても寐る氣にはなれません。顏を洗つて何時もの通り茶の間で飯を食ひました。其時奥さんは長火鉢の向側から給仕をして吳れたのです。私は朝飯とも午飯とも片付かない茶椀を手に持つた儘、何んな風に問題を切り出したものだらうかと、そればかり屈託してゐたから、外觀からは實際氣分の好くない病人らしく見えただらうと思ひます。

   *

私は仕方なしに言葉の上で、好(い)い加減にうろつき廻つた末、Kが近頃何か云ひはしなかつたかと奥さんに聞いて見ました。奥さんは思ひも寄らないといふ風をして、「何を?」とまた反問して來ました。さうして私の答へる前に、「貴方には何か仰やつたんですか」と却て向で聞くのです。

『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月30日(木曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第九十八回より。太字傍線は私が附した)

なお、今日この日、7月30日は明治天皇の祥月命日に当たるのである――

 

2020/07/29

大和本草卷之十三 魚之下 緋魚 (最終同定比定判断はカサゴ・アコウダイ・アカメバル)

 

【外】

緋魚 其色如緋有一種紅魚金緋一種婦魚近緋

右ハ王氏彙苑ニ出タリ今筑紫ノ方言ニ馬ヌス人ト云

魚アリ形狀紅鬃魚ノコトク長五寸許鯛ノ類ニ非ス

其首ハメハルノコトシ口ト目ト大ナリ色ハ甚赤クシテ

朱ノコトシ是緋魚欤赤魚其形狀頗メハルノコトシ色

赤ク乄黃色マシレリ無毒病人食ツテ無害赤キ叓

馬ヌス人ニ及ハスアコノ類多シ色紅ナラサルアリ黃㸃多

キモアリ又長州ノ海ニカラカコト云魚アリアコヨリ小ニ乄

赤キコトアコヨリ甚シ順和名ニ䱩魚ヲカラカゴト訓

○やぶちゃんの書き下し文

【外】

緋魚 『其の色、緋のごとし。一種、紅魚有り、金緋。一種、婦魚、緋に近し。』〔と。〕右は「王氏彙苑」に出たり。今、筑紫の方言に「馬ぬす人」と云ふ魚あり。形狀、紅鬃魚〔(こうそうぎよ)〕のごとく、長さ五寸許り。鯛の類〔(るゐ)〕に非ず。其の首は「めばる」のごとし。口と目と大なり。色は甚だ赤くして朱のごとし。是れ、緋魚か。赤魚(あこ)。其の形狀、頗〔(すこぶ)る〕「めばる」のごとし。色、赤くして、黃色、まじれり。毒、無し。病人、食つて、害、無し。赤き事、「馬ぬす人」に及ばず。「あこ」の類、多し。色、紅ならざるあり。黃㸃多きものあり。又、長州の海に「からかご」と云ふ魚あり。「あこ」より小にして、赤きこと、「あこ」より甚し。順〔が〕「和名」に「䱩魚」を「からかご」と訓ず。

[やぶちゃん注:本種は以下の叙述を一つ一つ検証して行かないと同定は出来ない。しかも困ったことに後の方になっても、必ずしも本当の姿が見えてこない厄介な叙述なのである。そこで今回はまず、変則的に、最後にある、この項の中で、本邦で最も古い叙述記載(平安中期)である源順の「和名類聚抄」(承平年間(九三一年~九三八年)に勤子内親王の求めに応じて源順(みなもとのしたごう)が編纂した類書(百科事典)的要素を持った国語辞典)から攻めてゆくことにする。

『順が「和名」に「䱩魚」を「からかご」と訓ず』「和名類聚抄」の「卷第十九 鱗介部第三十 龍魚類第二百三十六」のここ(国立国会図書館デジタルコレクションの寛文七(一六六七)年版本)に、

   *

䱩魚 崔禹錫食經云䱩【莫往反与罔同和名加良加古】似䱌魚而頰著鉤者也

(䱩魚(カラカコ) 崔禹錫が「食經(しよくけい)」に云はく、『䱩【「莫(ク)」・「往(ワ)」の反、「罔(マウ)」と同じ。和名「加良加古(からかこ)」。】は䱌魚(いしふし)に似て頰に鉤(かぎ)を著(つ)くる者なり。)

   *

とある。「䱌魚」はここの二つ前に(画像で原文は見えるから、推定訓読のみ示す)、

   *

䱌(イシフシ) 崔禹錫が「食經」に云はく、『䱌【音「夷」。和名「伊師布之」。】は、性(しやう)、伏沈(ふくちん)し、石閒(せきかん)に在る者なり。

   *

まず、この似ているという「(イシフシ)」は「石伏」で「イシブシ」、則ち、日本固有種で北海道南部以南の日本各地に広く分布している(現在、絶滅危惧IB類(EN)指定を受けているから「していた」とすべきであろう)、

条鰭綱スズキ目カジカ科カジカ属カジカ Cottus pollux

を有力な候補と考えてよい。「鰍」が最も知られる漢字表記で、「ゴリ」「ドンコ」の異名も広く行われており、基本、淡水系で多く認められ、捕獲も川であり、非常に古くから食用にされてきた、日本人には馴染みの種(群)である(古く朝廷が内陸にあったことを考えると、淡水魚であるという比定はまず一番に挙がってくる)。さて、カジカ種群(Cottus pollux complex)には、生活史や形態的・遺伝的特徴が有意に異なる集団が明確に存在し、主な区別群としては、現在、大卵型(河川陸封型)・中卵型(両側回遊型)・小卵型(両側回遊型・湖沼陸封型)が知られている(詳しくはウィキの「カジカ(魚)」を参照されたい)。そこである人はこう言うかも知れぬ。

『それなら、そのカジカ類の一部を「魚(カラカコ)」=「カラカゴ」と呼んでいたのだと解釈すればいい』と。

ところが、それで手打ちとなるかというと、そうは問屋が卸さないのだ。そもそもが本邦で食用とされた川や河口・潟で主に獲れる魚はカジカ以外にも、他に多くの、

ハゼ類(条鰭綱ハゼ目ハゼ亜目 Gobioidei

がおり、それらも生態や面相の類似から、やはり「いしぶし」と呼ばれていたと考えてよいからである。いや、さらに、同じように川底の石の下にいる状態で獲れる全然違う他の川魚だってまさに「石伏」魚に含まれるのである。近代以前の一般人にとっては生物学的分類による区別は、有毒生物がその中に含まれない限りは、必要性が、ほぼ、ないからである。

しかも、ここで戻って「和名類聚抄」の肝心な「䱩魚」の方をよく読まなくてはいけない。そこには魚に似て」いるけれども、「頰に鉤(かぎ)を著(つ)くる者」だと言っているのだ。これは中国の本草書「食經」の記載だからと言って無視は出来ない。源順がこう書くに際しては、それなりに腑に落ちた認識があるからであると考えねばならず、それが実際、後の本草学者によって少しも否定されなかった以上は、「からかご」は「いしぶし」似ているけれども、区別があって、頰=鰓附近に棘(或いは針)を持っていると言っているということである。しかし、一般的な淡水のカジカやハゼでそのような種はピンとこない(胸鰭部分が吸盤化している種や肥大した種はカジカやハゼにいくらもいるが、それを「鉤」と敢えて言っているのは、とりもなおさず、「痛い棘」としか私は読めない)。
しかし、川底辺りに棲息し、胸鰭辺りに危険な棘を持っている淡水魚はいるのだ!

条鰭綱ナマズ目ギギ科ギバチ属ギバチ Pseudobagrus tokiensis

ギバチ属アリアケギバチ Pseudobagrus aurantiacus

ギバチ属ギギ Pelteobagrus nudiceps

孰れも日本固有種で、三種ともに背鰭・胸鰭の棘は鋭く、刺さると激しく痛む。前二者(嘗てはアリアゲギバチ(九州西部・長崎県壱岐にのみ分布)はギバチと同一とされていた)では生物学的・薬理的に単離されたわけではないが、古くから「毒を持っている」ともされる。

則ち、彼らも同定候補に含まれてくるということになるのである。

「私の風呂敷が広げ過ぎだ」という御仁のために示しておこう。非常によくお世話になるサイト「真名真魚字典」のこちらの、

341

を見られたい。そこでは参考字体に「」も一緒に挙がっているのだ。頭は『○邦名』『(1)[罔]魚=カジカ(集覧「大日本水産会編・水産宝典」「水産俗字解」「水産名彙」)。カラカゴ(同「水産俗字解」「水産名彙」)』。『(1)カラカキ(カラカギ)。カラカコ(カラカゴ)。(2)チチカフリ。チチカムリ。チチンカムリ』と始まり、「和名類聚抄」その他の考証を経て、結論として、「・「」・「カラカゴ」・「イシブシ」とは、『おそらく棘ないし鉤をもつギギの仲間、あるいはハゼ・カジカの仲間を指して付けられた用例として多く集』まった対象を指すと考えるのが適切であるとされているのである。

 さて。ではこれで範疇を囲い込んだかと言うと――これがまた――ダメ――なのだ。

 何故か? 既にお読みになった時から感じておられるであろうが、益軒の叙述は、凡そ、

淡水産魚類の記載ではなく、海産魚類としか思われないから

なのである。

益軒は『「馬ぬす人」と云ふ魚』がいるが、それは「鯛の類〔(るゐ)〕に非ず」と言い、『其の首は「めばる」のごと』くだ、と孰れもタイとメバルと、海産魚類を比喩に用いているからである。無論、川魚を比喩形容するのに海産魚類を用いてはいけないという法はない。スズキ目ケツギョ科 Coreoperca 属オヤニラミ Coreoperca kawamebari のごとく、海の魚みたような川魚もいますからな。しかし、決定的なのは『長州の海に「からかご」と云ふ魚あり』と言ってしまっていることである。

 さてもまた、振り出しに戻ってしまうことになる。

 いや! 挫けまいぞ! またしても「ケツ」から行こうじゃないか!

『長州の海に「からかご」と云ふ魚あり。「あこ」より小にして、赤きこと、「あこ」より甚し』零から始める。「カラカゴ」の異名を持つ海産魚を探す。早速、釣り具サイトで引きがある。『週刊つりニュース』の「釣・楽(ちょうらく)」の「カサゴ カサゴ科」だ。『カサゴ科に属し、体長は三十五センチに達する。日本各地、朝鮮半島、台湾、中国の沿岸に分布し、岩礁や藻場にすむ。頭が大きく、眼・鼻・額・頚のそばに強い棘を持ち、ごつごつした感じを与える。体色は沿岸のもので黒褐色、沖合のものは暗赤色で、個体による差が大きい』として、以下、かなり詳しい地方名が並ぶが、そこに『山口県でホウゴウ・ウドホウゴウ・カラカゴ・カラコ・ゴウチ・山口・福岡・長崎県でアラカブ、福岡県でアルカブ・オオアルカブ・モアルカブ・ゴウゾウ、長崎県でゴウザ、熊本県でガラカブ・カラカブ』と出るのだ(なお、今一つ、『兵庫・岡山県でメバル、兵庫県・大阪府でアカメバル』と呼んでいることにも注意しておきたい)。この「カラカゴ」は無論のこと、一見、似ていない「アルカブ」が熊本で「ガラカブ」「カラカブ」となるのを知ると、これは「カラカゴ」系の血を引く呼称と強く感じられるのである。しかも、これらが、益軒が殆んどの時間を過ごした福岡に近いという点も頼り甲斐があるというもんなのだ。されば、ここに、俄然、

条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目カサゴ目カサゴ亜目メバル科メバル亜科カサゴ属カサゴ Sebastiscus marmoratus

或いはその仲間たちが、新しい候補者として名乗りを挙げてくるのである。カサゴは一般には、体色を暗い褐色とすることが多いが、ウィキの「カサゴ」によれば、『浅い所に棲むカサゴは岩や海藻の色に合わせた褐色をしているのに対し、深い所に棲むカサゴは鮮やかな赤色である。赤色光の吸収と残留青色光の拡散が起こる海中、すなわち青い海の中では、赤色系の体色は環境の青色光と相殺されて地味な灰色に見えるため、これは保護色として機能する。簡単に言うと、赤い光は海の深い所まで届かないので、赤い色をしたカサゴは敵や獲物から見つかりにくい。これは深海における適応の一つで、実際、深海生物には真っ赤な体色のものが多く見られる』とあって、本文の赤い魚体にしっかり合致するのである。別なミクシイの公開記事(私は先般やめてしまった)に「カサゴ」を下関で「カラカゴ」と呼んでいるとあった。ぼうずコンニャク氏の「市場魚貝類図鑑」の「カサゴ」のページの「地方名・市場名」の欄には『カラカブ』と『カラコ』がある。

 さて、では、その「カラカゴ」は「あこ」より小さいが、遙かに赤いと言っているところの、「あこ」は何だ? これはまんず、ピンとくるのがいる。深海魚の

メバル科メバル属アコウダイ Sebastes matsubarae

だ。彼はズバリ! 「アコ」と別称し、他に「アコウ」「メヌケ」「メヌキ」などとも呼ばれ(近縁種にオオサガ(顎口上綱硬骨魚綱条鰭亜綱棘鰭上目スズキ目カサゴ亜目メバル科メバル属オオサガ Sebastes iracundus)・サンコウメヌケ(カサゴ亜目メバル科メバル属サンコウメヌケ Sebastes flammeus)・バラメヌケ(カサゴ亜目メバル科メバル属バラメヌケ Sebastes baramenuke)がいるが、これらも一括して「メヌケ」と呼ばれることが多い)、太平洋側では茨城県から高知県沖、日本海側では新潟県から山口県沖に分布し、特に相模湾や駿河湾の深所で多獲される。深海の岩礁地帯に棲息し、体色は鮮やかな赤色で、しばしば背中に大きな黒斑を持つのを特徴とする。全長六〇センチメートル以上になる。十二月から四月頃までの間は水深二〇〇から三〇〇メートルのやや浅いところに移動して産卵するとされているが、他の季節には水深六〇〇から七〇〇メートルの深所を住み家としている。以上は主文を平凡社「世界大百科事典」に拠ったが――さても――アコウダイは漢字ではどう表記するか? ぼうずコンニャク氏の「市場魚貝類図鑑」の「アコウダイ」のページを見よう!

阿侯鯛・赤魚鯛・緋魚・阿加魚

だ! やっと本文の頭からちゃんと落ち着いて読み始められる、正常に注が出来る!

「王氏彙苑」中国の古い類書(百科事典)と思われるものに「彙苑」があり、それを明代の文人政治家王世貞(一五二六年~一五九〇年)が註したものがあるが、それか。よく判らぬ。中文サイトでも電子化したものを見出せなかった。

「緋魚」実は私の寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十九 魚類 江海有鱗魚」に「緋魚」がある。そこには以下のようにある。

   *

あかを    赤魚【俗】

緋魚     【俗云阿加乎又略阿古】

フイ イユイ

 

興化府志云緋魚其色如緋

△按緋魚狀畧似鯛而厚※〔→濶〕眼甚大而突出其大者二三尺細鱗鰭窄尾倶鮮紅如緋肉脆白味甘美關東多有各月最賞之攝播希有之以藻魚大者稱赤魚而代之

[やぶちゃん字注:※=「濶」の(つくり)が「闊」。]

赤鱒【俗云阿加末豆】 狀類緋魚又似鱒色深赤味亦不佳

   *

あかを    赤魚【俗。】

緋魚     【俗に阿加乎と云ふ。

フイ イユイ  又、略して阿古。】

 

「興化府志」に云ふ、『緋魚、其の色、緋のごとし。』と。

△按ずるに、緋魚、狀、畧ぼ鯛に似て、厚く濶し。眼、甚だ大にして突出す。其の大なる者、二~三尺。細鱗、鰭、窄(すぼ)く、尾倶に鮮紅、緋のごとし。肉、脆く白し。味、甘美。關東に多く有り。各月、最も之を賞す。攝[やぶちゃん注:摂津。]〕・播[やぶちゃん注:播磨。]、希に之有り。藻魚(もいを)の大なる者を以て赤魚(あこ)と稱して之に代ふ。

赤鱒(あかます)【俗に阿加末豆と云ふ。】 狀、緋魚(あかを)に類して、又、鱒に似たり。色、深赤。味も亦、佳ならず。

   *

そこで私は嘗て以下のように注した(ここでは注を追加した)。

   *

[やぶちゃん注:カサゴ目メバル科メバル属アコウダイ Sebastes matsubarae か。スズキ目ハタ科のキジハタ Epinephelus akaara も瀬戸内や大阪地方にあってアコウ又はアカウと呼称されるが、ここは深海から引上げる為に著しく突出する眼球及び全身が極めて赤い色を呈している点等から、前者をとる。

・「興化府志」は明の呂一静(李攀竜 (りはんりょう) らとともに「後七子 」(ごしちし) の一人とされ、盛唐の詩・秦漢の文を尊ぶ古典主義を唱えたことで知られる)らによって撰せられた現在の福建省の興化府地方の地誌。一五七五年成立。

・「赤鱒」アカマス。スズキ目フエダイ科バラフエダイ Lutjanus bohar をこのように呼称するが、これは南洋系で現在でも小笠原方面から入荷するとあり、同定候補とはならない。これがスズキ目ハタ科のキジハタ Epinephelus akaar か? キジハタには三重県で「アズキマス」という異名を持ち、他に「アカハタ」という異名もあるようだが、「アカマス キジハタ」の検索ではヒットしない。「アカマス」という異名ではカサゴ目フサカサゴ科 Sebastiscus marmoratus がいるが、「深赤」は疑問であるし、以下の「藻魚」の項に「笠子魚」が掲げられている以上、除外される。識者の意見を伺いたい。

   *

「婦魚」不詳。検索でヒットせず。ただ、緋色の魚の一種を、かく異名するというの附には落ちる。

『筑紫の方言に「馬ぬす人」と云ふ魚あり』サイト「みんなの知識 ちょっと便利帳」の「魚(魚介類)の名前と漢字表記」のこちらに、「アコウダイ」の項に『ウマヌスビト、アコウ、アコ』とある。また、ネット検索で見出した「Ⅲ 魚等にかかわる漢字」(PDF)の表中に『アカウオ 馬盗人(ウマヌスビト)』とある。この「アカウオ」とは、カサゴ亜目メバル科メバル属アラスカメヌケ Sebastes alutus を指すから、何ら問題はない。但し、同種はオホーツク海から太平洋沿岸、青森県から宮城県の太平洋沿岸でしか捕獲されない。しかし、「アカウオ」は近代以前は「アコウダイ」の異名としても少しもおかしくない。いや! ぼうずコンニャク氏の「市場魚貝類図鑑」の「アコウダイ」異名に、東京都などで「アカウオ」「赤魚」が載り、『赤いメバル類の総称。後にアラスカメヌケや輸入ものの赤いメバル類の呼び名に変わる』とある。則ち、赤いメバル類或いは、もっと広くカサゴ類の赤みの強い種群はやはり嘗て「アカウオ」と普通に市場で呼ばれていたのである。 

「紅鬃魚〔(こうそうぎよ)〕」「鬃」これは馬の鬣を意味する語である。背鰭の棘鰭を言っていると考えてよいから、以上のアコウダイを始めとするカサゴ群の魚類に相応しい。ただ、個人的には「馬盗人」という命名への由来への根拠はひどく気にはなる。由来を探し得なかったのが気に懸かる。識者の御教授を乞うものである。

「鯛」スズキ目タイ科 Sparidae のタイ類。全く別種でも類体型から「~ダイ」は本邦の常套的呼称で、大衆は「~ダイ」という名を何でも好む。その結果としてタイとは待った全く無縁のトンデモない魚をタイの仲間だと思って騙されて食わされる結果となっている。例えば、スズキ目ベラ亜目カワスズメ科ナイルティラピア Oreochromis niloticus は純淡水魚でタイとは全く無関係なのに「イズミダイ」「チカダイ」と称して切り身として売られ、多くの日本人が安い鯛と勘違いして食わされたケースがある。また、彼らは順応性が高く、強い繁殖力を持ち、大型漁として釣りの対象となる。安易に放流されれば、確実に日本の河川の生態系に深刻な打撃を加えることは確実である。生態系被害防止外来種に指定されているが、既に沖縄の河川ではティラピアが異様に増えてしまっている。

「めばる」条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目カサゴ目カサゴ亜目メバル科メバル属メバル(アカメバル)Sebastes inermis

或いは同属の近縁種

シロメバル Sebastes cheni

或いは

クロメバルSebastes ventricosus の孰れかである。特にここではアカメバル(赤眼張)が叙述対象である考えてよい。同種の釣魚としての俗称は「赤(あか)」「金(きん)」「沖メバル」であるからで、ここで最後に挙げる候補追加種として最も相応しい。

「色、紅ならざるあり。黃㸃多きものあり」近海で獲れるカサゴ類は黄・白斑の斑模様が普通に認められる。

 最後に。最初の注の考察は無化されたとは私は思っていない。淡水産カジカ類の形状は海産カサゴ類の形状と似ている箇所が種々見られ、有毒棘条もしっかり持っている種もいるからである。古典的博物学の面白みは、実に見た目の共通を以ってグループを作る――今はDNAやアイソザイム分析の分子生物学的分類学によって見捨てられてしまった視認形態相同類似型分類学――諧謔的に言わせて貰えば、「俳諧的な『見立て』を楽しむところの、古典的なスローで如何にも人間臭い見た目第一主義の綜合学的分類」でもあったのである。]

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 丈艸 三

 

       

 

 芭蕉が旅に病んで枯野の夢を見た難波の客舎(かくしゃ)には、丈艸も馳つけた一人であった。支考が『笈日記』に記したところを見ると、「膳所大津の間伊勢尾張のしたしき人、に文したゝめつかはす」とあるのが十月五日、正秀・去来・乙州・木節・丈艸・李由が報を聞いて馳せつけたのは一日置いた七日になっている。電報も速達も、汽車も自動車もない時代にあっては、江州と大坂との間で、これだけの時間を要したのである。

[やぶちゃん注:「原文が私の「笈日記」中の芭蕉終焉の前後を記した「前後日記」(PDF縦書版)で読めるので、是非、参照されたい。]

 芭蕉の病状がよくないので、之道が住吉の四所に参って延年を祈ることになった時、病牀に居合せたものだけで所願の句を作った。丈艸の句は

 峠こす鴨のさなりや諸きほひ    丈艸

であった。「凩の空見なほすや鶴の声」と詠んだ去来、「初雪にやがて手引ん佐太の宮」と詠んだ正秀、「足がろに竹の林やみそさゞい」と詠んだ惟然、「起さるゝ声も嬉しき湯婆(たんぽ)かな」と詠んだ支考――師を思う情は同じであるが、各人各様の面目は自らその句に発揮されているように思う。

 其角が馳せつけた十月十一日の晩、夜伽(よとぎ)の面々が句を作った時、丈艸の詠んだのは

 うづくまる薬の下の寒さかな    丈艸

[やぶちゃん注:「下」は「もと」。]

である。この句が芭蕉の賞讃を得たということは、『笈日記』にもなければ『枯尾花』にもない。ただ去来が「丈艸誄」の中に次のように記している。

[やぶちゃん注:掲句は「去来抄」(自筆稿本)では、

 うづくまるやくわんの下のさむさ哉 丈草

先師難波病床に人々に夜伽の句をすゝめて、今日より我が死期の句也。一字の相談を加ふべからずと也。さまざまの吟ども多く侍りけれど、たゞ此一句のみ丈草出來たりとの給ふ。かゝる時はかゝる情こそうごかめ。興を催し景をさぐるいとまあらじとは、此時こそおもひしり侍りける。

   *

という句形で出る。「やくわん」は「やかん」で「藥缶」、漢方の薬を煎じる鍋のことである。掲句の「藥」も意味は同じ。

 以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。]

 

又難波の病床、側に侍るもの共に、伽(とぎ)の発句をすゝめ、けふより我が死後の句なるべし、一字の相談を加ふべからずとの給ひければ、或は吹飯より鶴を招むと、折からの景物にかけてことぶきを述[やぶちゃん注:「のべ」。]、あるはしかられて次の間に出ると、たよりなき思ひにしほれ、又は病人の余りすゝるやと、むつましきかぎりを尽しける。其ふしぶしも等閑[やぶちゃん注:「なほざり」。]に見やり、たゞうづくまる寒さかなといへる一句のみぞ、丈艸出来たり[やぶちゃん注:「でかしたり」。]とは、感じ給ひける。実にかゝる折には、かゝる誠こそうごかめ、興を探り、作を求る[やぶちゃん注:「もとむる」。]いとまあらじとは、其時にこそ思ひ知侍りけれ[やぶちゃん注:「しりはべしけれ」。]。

 

 「吹井より鶴を招かん時雨かな」は其角、「しかられて次の間へ出る寒さかな」は支考、「病中のあまりすゝるや冬ごもり」は去来である。この時の作者はすべて八人、芭蕉としては生前に与える最後の批判、弟子たちとしては師に示す最後の発句であるだけに、平生とは気分の異るものがあったに相違ない。芭蕉の批評が他の一切に触れず、直に褒詞(ほうじ)となって丈艸の上に落ちたことは、弟子としての最後の面目であるのみならず、また永遠に忘れ得ぬ思出でもあったろう。丈艸のこの句には表面的に躍動するものはないけれども、再誦三誦するに及んで、真に奥底からにしみ出て来るような或者を感ぜずにはおられぬ。垂死の芭蕉はこれを感得して、佳(よ)しとしたものと思われる。

[やぶちゃん注:「吹飯より鶴を招む」では「ふけひ」で、宵曲が示した「吹井より鶴を招かん時雨かな」であれば「ふけゐ」となる。この其角の句は「新拾遺和歌集」(勅撰和歌集。二条為明(ためあき)撰。貞治二(一三六三)年に室町幕府第二代将軍足利義詮の執奏により後光厳天皇より綸旨が下って開始され、貞治三年十月の為明の死去後、頓阿が継いで、同年十二月に成った)の順徳天皇の一首(一七五〇番)、

 蘆邊より潮滿ちくらし天つ風吹飯(ふけひ)の浦に鶴(たづ)ぞ鳴くなる

を裁ち入れたもの。「吹飯の浦」は「万葉集」以来の歌枕で、現在の大阪府泉南郡岬町深日(ふけ)(グーグル・マップ・データ)の海岸とされる。古来、「風が吹く」の意や「夜が更ける」の意を込めて和歌に詠まれることが多かった。]

 

 芭蕉を悼んだ丈艸の句は『枯尾花』に

    暁の墓もゆるぐや千鳥数奇   丈艸

の一句がある。義仲寺における初七日(しょなぬか)及六七日(ろくしちにち)の追善俳諧の中にも丈艸の名は見えているが、芭蕉に対する追慕の情は必ずしも悉(つく)されているわけではない。丈艸の丈艸たる面目のよく現れたものは、そういう作品の上よりもむしろ芭蕉歿後における丈艸の態度である。この点に関し去来は「先師遷化(せんげ)の後は、膳所松本の誰かれ、たふとみなづきて、義仲寺の上の山に、草庵をむすびければ」云々と記しているに過ぎぬが、丈艸が亡師のために三年間、一石一字の法華経を書写したということは、特筆されねばならぬ事柄であろう。石経(せっきょう)のことは丈艸自身次のように記している。

[やぶちゃん注:掲句、

 曉(あかつき)の墓もゆるぐや千鳥數奇(ちどりすき)

は元禄七年十月十四日(芭蕉は元禄七年十月十二日(一六九四年十一月二十八日)没))の追悼吟である。芭蕉は、

 星崎の闇を見よとや啼千鳥

(貞享四年十一月七日の歌仙の発句。私の『「笈の小文」の旅シンクロニティ――星崎の闇を見よとや啼く千鳥 芭蕉』を参照)を意識しての、芭蕉の千鳥への偏愛をインスパイアしたもの。

 以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。]

 

国々の墓所も同じ墓所の霜にしらめる三年の喪は疎[やぶちゃん注:「まばら」。]ならぬ中に、湖上の木曾寺は其全き姿を収めて、人々のぬかづき寄る袖の泪[やぶちゃん注:「なみだ」。]も、一しほの時雨をすゝむる旧寺の夕べより朝をかけて梵筵(ぼんえん)吟席の勤[やぶちゃん注:「つとめ」。]ねもごろなり。然れども野衲は独り財なく病有る身なれば、なみなみの手向(たむけ)も心にまかせず、あたり近き谷川の小石かきあつめて蓮経の要品[やぶちゃん注:「えうぼん」。]を写し、その菩提を祈りその恩を謝せむ事を願へり、誠に今更の夢とのみ驚く心、喪のかぎりに筆を抛(なげう)ち手を拱して[やぶちゃん注:「きやうして」。]唯墓前の枯野を見るのみ。

 石経の墨を添へけり初時雨     丈艸

[やぶちゃん注:以上は「香語」(かうご(こうご):導師が香を焚き、仏前に語りかけること。「拈香(ねんこう)法語」の略。因みに特に葬儀の際のそれを引導と呼ぶ)と題した句文で、句自体は芭蕉の三回忌に当たる元禄九年十月十二日頃に詠まれた句であると、堀切氏の前掲書にある。この哀切々たるモノクロームの絶対の映像はあたかもアンドレイ・タルコフスキイの「アンドレイ・ルブリョフ」の無言の行に徹するルブリョフをさえ私は想起する。

「野衲」「やなう」。「衲」は衲衣(のうえ)の意で田舎の僧。転じて一人称の人称代名詞で僧が自身を遜(へりくだ)って言う語。愚僧。野僧。]

 

 何時(いつ)の世如何なる時代を問わず、一団の中心をなす大人物が亡くなった後には、必ず解体分離の作用が起る。その作用は外界より切崩されるものでなしに、一団の内部より生ずる性質のものである。元禄七年に芭蕉を喪(うしな)った後の俳壇にも、自らこの作用が現れた。今まで小異を棄てて大同についていた蕉門の作者たちも、各々自己の見地を主張して門戸を張ろうとする。其角、嵐雪以下の作者は、いずれも芭蕉の衣鉢を伝うるに足る高弟に相違ないが、その器局(ききょく)には自ら限度があり、芭蕉によって総括されていた俳諧の天地をそのまま継承するわけには行かない。この傾向に対して不満の意を表した去来の立場も、芭蕉に比して狭い自己の分野を語るに外ならなかった。丈艸は芭蕉の生前歿後を通じ、俳諧に関して議論らしいものを述べていない。門戸の見を有せぬことは勿論である。芭蕉を喪うと共に、永久に依るべきものを失った彼は、その菩提を祈りその恩を謝せむがために、一石一字の写経を怠らず、三年の喪に服したのであった。

[やぶちゃん注:「器局」才能と度量。器量。

「門戸の見」「もんこのけん」。他者と交流し、また外部の存在や見識を受け入れるために開かれるべき入り口。]

 

 以下少しく芭蕉歿後における丈艸の句を挙げて、その追慕の情を偲ぶことにする。

   いがへおもむくときばせを翁
   墓にまうでて

 ことづても此とほりかや墓のつゆ    丈艸

[やぶちゃん注:元禄一〇(一六八七)年七月、芭蕉の故郷伊賀に旅立つ折り、芭蕉の墓前に手向けた一句。「人生、朝露の如し」が、その「此(この)とほり」の「ことづて」であったことだ、という謂いである。こういう感傷句はこの丈草以外の有象無象の俳人が口にするや、直ちに薄っぺらく嘘臭いものに響くから不思議である。]

 

   越の十丈吟士此秋伊勢詣での道すがら
   山吟野詠文囊に満むとす、就中湖上の
   無名庵を尋ねて蕉翁の古墳を弔ふ余
   (あまり)、哀いまだ尽ずして予が草
   庵に杖をひかる、柴の扉は粟津野の秋
   風に霜枯て一夜の草の枕何おもひ出な
   らんとも覚えず、殊更発句せよと望ま
   るゝにせん方なき壁に片より柱に背中
   をせめてやうやうおもひ付る事あり、
   翁往昔麓の庵に寝覚して此岡山の鹿追
   の声をはかなみ、何とぞ句なるべき景
   情いづれはとねらひ暮されし夢の跡な
   がら、今又呼やまぬ声々をむかしがた
   りのひとつ趣向の片はしにもと筆を馳
   す

 鹿小屋の声はふもとぞ庵の客      同

[やぶちゃん注:「鹿小屋」は「ししごや」。これは「射水川」(いみづがは:十丈編。元禄十四年自序)に所収の句文「木曾塚」。野田別天楼編の大正一二(一九二三)年雁来紅社刊「丈艸集」巻末(国立国会図書館デジタルコレクション)のこちらで正字正仮名で読める。「十丈」は竹内十丈(?~享保八(一七二三)年)。越中生まれ。元禄九年、伊勢・京都・大坂・粟津・彦根などの松尾芭蕉の高弟を訪ね、その折の句を上巻に、文通の句を下巻に収めて「射水川」を刊行した。以下、上記リンク先の「射水川」のそれを参考に(宵曲の引用が何に基づくか判らぬが、有意に異なる箇所がある)正字で記号も増やし、読みを推定で補った。

   *

      木 曾 塚

越の十丈吟士、此秋、伊勢詣での道すがら、山吟野詠、文囊(ぶんなう)に滿ちんとす。就中(なかんづく)、湖上の無名庵(むみやうあん)を尋ねて、蕉翁の古墳を弔ふ。餘念いまだ盡きずして、予が草庵に杖を曳かる。柴の扉(とぼそ)は粟津野(あはづの)の秋風に霜枯(しもがれ)て一夜(ひとよ)の草の枕、何おもひ出ならんとも覺えず。殊更「發句せよ」と望まるゝにせん方なく、壁に片より、柱に背中をせめて、やうやうおもひつくる事あり、翁、往昔(そのかみ)、麓の庵(いほり)に旅寢して、此(この)岡山の鹿追(ししおひ)の聲をはかなみ、「何とぞ句なるべき景情いづれは」とねらひ暮されし夢の跡ながら、今、又、呼びやまぬ聲々を、むかしがたりのひとつ趣向の片はしにも、と筆を馳(は)す。

 鹿小屋(ししごや)の聲はふもとぞ庵(いほ)の客

   *]

 

   芭蕉翁追悼

 ゆりすわる小春の海や塚の前      丈艸

[やぶちゃん注:「後の旅」(如行編・元禄八年序)所収。「小春」は陰暦十月の異名。「ゆりすわる」「搖り坐る」で、体をゆり動かして落ち着かせた状態に成して座ることで、松尾勝郎氏編著「蝸牛 俳句文庫17 内藤丈草」(一九九五年蝸牛社刊)によれば、『琵琶湖の動きと、丈草の心のゆらぎを掛ける。先師の墓前で穏やかな湖水を見つめる。自分にの心にもいくらか平常心が戻ってきた』と評釈しておられる。但し、ここは「ゆりすわる」の「ゆり」の方に重みがあるように思われ、寧ろ、未だ師を欠損した自身の心の揺らぎの方に傾きがあるように私には読める。]

 

   幻住庵頽廃の跡一見して

 霜原や窓の付たる壁のきれ       同

[やぶちゃん注:浪化編で元禄十一年刊の「続有磯海」所収。凄絶の景である。後の宵曲の評釈が正鵠を射ており、屋上屋はいらぬ。]

 

   芭蕉翁の七日々々もうつり行あはれさ
   猶無名庵に偶居してこゝちさへすぐれ
   ず、去来がもとへ申つかはしける

 朝霜や茶湯の後のくすり鍋       同

[やぶちゃん注:堀切氏の前掲書に従えば、元禄七年十月十二日(一六九四年十一月二十八日)の芭蕉逝去の年内の冬の句で、丈草は芭蕉の死を悼んで三年の心喪を決し、木曾塚無名庵に籠っていたが、体調が思わしくなかったことを言う。だから「くすり鍋」(こちらは自身のための漢方薬を煮出すための鍋である。まず、先師のための「茶湯」(ちやとう)を供えてその「後」(あと)から、というところに丈草の思いが籠る)。「偶居」は「寓居」の誤記。「茶湯」は『茶を煎じて出した湯のこと。ここは仏前に供えるためのもの』と堀切氏注にあり、前書にある通り、去来にこの句を送った。その返しは、

 朝霜や人參つんで墓まいり

(「まいり」はママ)であったとある。]

 

   芭蕉翁の往昔を思ふ

 梅が香に迷はぬ道のちまたかな     同

[やぶちゃん注:松尾氏前掲書によれば、『「道」は蕉風の道。「ちまた」は別れ道。今咲き匂う梅の薫香のような亡師の教えを、これからも信奉してゆくのみ、との決意表明。芭蕉七回忌の元禄十三年春。去来と巻いた歌仙の発句』とある。前書は「丈草句集」のもの。]

 

  芭蕉翁の墳に詣でゝ我病身をおもふ

 陽炎や墓より外に住むばかり      同

[やぶちゃん注:「かげろふやはかよりそとにすむばかり」。丈草畢生の絶唱。元禄九年春の作。但し、掲句は「浮世の北」(可吟編・元禄九年刊)のそれで、私は「初蟬」(風国編。元禄九年刊)の、

   芭蕉翁塚にまうでゝ

 陽炎や塚より外に住(すむ)ばかり

の「塚」でありたい。それは個人的に偏愛する、芭蕉が亡き小杉一笑を詠じた絶唱、

 塚も動け我泣聲は秋の風

に遠く幽かに通うからである(なお、私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 65 金沢 塚も動け我が泣く聲は秋の風』をも参照されたい。但し、そこでは私は比較に於いては批判的に丈草の句を評している)。そこにもリンクさせた私の「宇野浩二 芥川龍之介 二十一~(5)」では、私は本句を以下のように評釈した。

   *

……先師の墓に詣でる……と……折柄、春の陽炎ゆらゆらと……師の墓もその景も……みなみな定めなき姿に搖れてをる……その影も搖れ搖れる陽炎も……ともに儚く消えゆくもの……いや……儚く消えゆくものは、外でもない……この我が身とて同じ如……先師と我と……「幽明相隔つ」なんどとは言うものの……いや、儚き幻に過ぎぬこの我が身とて……ただただ「墓」からたった一歩の外に……たまさか、住んでをるに過ぎぬのであり……いや、我が心は既にして……冥界へとあくがれて……直き、この身も滅び……確かに先師の元へと……我れは旅立つ……

   *

私の訳では鼻白む向きも多かろうからして、堀切氏の前掲書のそれを引くと、『先師芭蕉翁の墓に詣でてみると、墓のあたりには陽炎がゆらゆらと立っている。たちまちにして消えるはかない陽炎と同じく、自分もいつこの世を去るかわからない。師と自分と今は幽明境を異にしているのであるが、幻のようなわが身は、ただ墓から一歩外の世界に住むだけのことであり、すでに心は墓の中、間もなく師翁の後を追う身なのである、といった句意であろう。平常から病身であり、仏幻庵に孤独なわび住いをしていた丈草の師翁への心服のほどが、痛いほどに伝わってくる句である。春の季節のおとずれの象徴でもあり、また幻のようにはかないものの象徴でもある「陽炎」がよく効いている』とされる。]

 

   越中翁塚手向

 入る月や時雨るゝ雲の底光り      同

[やぶちゃん注:堀切氏前掲書によれば、元禄一三(一七〇〇)年に丈草が越中井波の翁塚(おきなづか)に向けて遙かに詠んだ手向(たむ)けの一句である(そこに行ったのではない。後述)。翁塚は富山県観光公式サイト「とやま観光ナビ」の「翁塚・黒髪庵」に(地図有り)、『井波の町の緑あふれる浄蓮寺境内に』ある芭蕉供養塚である。『芭蕉の門弟だった瑞泉寺』第十一『代の浪化上人が、芭蕉の墓から小石』三『個を持ち帰り、浄蓮寺の境内に塚を建てました。その』二『年後には芭蕉の遺髪も納められたといいます。この塚を翁塚と言い、表面に「翁塚」の二字が刻まれています。翁塚は、伊賀上野の故郷塚、義仲寺の本廟とともに芭蕉三塚とされています』(私は大学時分に訪れたことがあるはずなのだが、全く記憶がない)とある。堀切氏前掲書に、『浪化が元禄十三年上洛の折、義仲寺の翁墓前の小石を三個拾って帰り、それを埋めて井波浄蓮社の翁墳を建立したが、この意図に合わせて』、同年中に『各地の門人に乞うて集めた十百韻の中の一つの発句が、この句であったという』とあり、『宵月が西空に入ろうとするあたりに時雨雲がかかってきたが、その雲が底の方から光っているように見えるという景色である。凄味を帯びた客観写生の句にみえるが、裏面には、芭蕉の没したことを「入月」にたとえ、その命日(陰暦十月十二日)を「しぐれ」に合わせ、さらにその没後の威光を「雲の底光」に示すという寓意がこめられているのである』と評されておられる。]

 

   芭蕉翁七回忌追福の時法華経頓写の前
   書あり

 待受けて経書く風の落葉かな      同

[やぶちゃん注:「頓写」(とんしや)とは追善供養のために大勢が集まって一部の経を一日で速やかに写すことを言う。「一日経」とも。松尾氏の前掲書では、『心待ちにした亡師の七回忌。風もこの日を待ちうけていたのか、写経する目の前を、落葉も経文字を書くような舞いかたで散っている』と評釈しておられる。]

 

   奈良の玄梅蕉翁の
   こがらしの身は竹斎に似たる哉
   といへる句を夢見て、其翁の像を画き
   て讃望みけるに

 木がらしの身は猶軽し夢の中      同

[やぶちゃん注:「玄梅」石岡玄梅(生没年未詳)。奈良の人。当初は貞門に属したが、貞享二(一六八五)年に奈良を訪れた芭蕉の門人となり、素觴子(そしょうし)の号を与えられた。編著に「鳥の道」(元禄十年序)がある。堀切氏は前掲書評釈で、『前書にみえるように、玄梅に求められて、芭蕉の像に賛をした句である。木枯しに吹かれながら瓢々と旅を続けられた芭蕉生前の侘姿』(わびすがた)『は、今、あなたの夢の中では、なおいっそう軽やかなものとして浮かんできたことであろう、という意である。もちろん、そこには丈草自身の故翁への想いもこめられているわけである』とされ、玄梅について、「鳥の道」によれば、『芭蕉に草扉を敲かれ、素觴子(そしょうし)の号を与えられて、「誉られて挨拶もなきかはづ哉」と吟じたことがあったという。そうした懐しい回想をこめ、丈草に翁の像への賛を望んだのであろう』とある。堀切氏も指摘されておられるが、前書の芭蕉の句は正しくは、

 狂句こがらしの身は竹齋に似たる哉

「俳諧七部集」の第一「冬の日」(山本荷兮編。貞享元(一六八四)年刊)の巻頭「こがらしの卷」の破格の発句である。「冬の日」では芭蕉の前書があって、

   *

笠は長途の雨にほころび、帋衣(かみこ)はとまりとまりのあらしにもめたり。侘(わび)つくしたるわび人、我さへあはれにおぼえける。むかし狂哥の才士、此國にたどりし事を、不圖(ふと)おもひ出(いで)て申(まうし)侍る。

   *

と附される。「長途」は「野ざらし紀行」の旅を指す。「狂哥の才士」「竹齋」は江戸初期の仮名草子でベストセラーとなった「竹斎(物語)」の主人公を指す。全二巻。烏丸(からすま)光広の作とする説もあるが、現行では伊勢松坂生まれの江戸の医師富山道冶(とみやまどうや)とする説が有力。元和七(一六二一)年から寛永一三(一六三六)年頃までの間で成立したもので、写本・木活字本・整版本などの諸本がある。京の藪医者竹斎が、「にらみの介」という郎党をつれて江戸へ下る途中、名古屋で開業したりしながら、さまざまな滑稽を展開する話。啓蒙的色彩も強く、また、名所記風な味わいもあり、後の「東海道名所記」から「東海道中膝栗毛」に至るまで大きな影響を与えた。伊東洋氏は「芭蕉DB」のこちらで、『やぶ医者が下男を連れて諸国行脚をする和製ドン・キホーテ物語。芭蕉は自らのやつれた姿と俳諧に掛ける尋常ならざる想いを竹斎の風狂になぞらえた。この旅の風狂は、芭蕉俳諧の一大転機になっており、名古屋の門弟に見せる並々ならぬ自信とみてよい。冒頭の「狂句」は、芭蕉の決意を示す並々ならぬ宣言であり、敢えて「狂句」という自虐的な言い方をしたのであろう。ただし、「狂句」は、後日削除したと言われている』とある。]

 

 これらの句は必ずしも年次を同じゅうするものではない。例えば「ゆりすわる」の句、「朝霜や」の句に現れた追慕の情と、「待受けて」の句、「木がらし」の句に現れたそれとでは、時間的に見て大分の距離があるに相違ないが、その底に流れるものには自ら一貫したところがある。

 「ことづても」の句は元禄十一年の『続有磯海』に出ているから、歿後数年を経ざる場合のものであろう。伊賀は芭蕉の郷里である。芭蕉の歿後その郷里へ行くことになった丈艸は、出発に先って義仲寺の墓に諧でた。「此とほり」というのは人生朝露の如きを意味するのであろうか。「ことづて」は無論郷里の人に対する伝言と思われる。亡師の郷里に赴かむとしてその墓前に立った丈艸は、今更の如く人生の無常なるを痛感せずにいられぬ。その感懐を一句に托したので、句としては面白くもないが、出家沙門たる丈艸の面目はよく現れている。

 「鹿小屋」の句はそれに比べるとよほど面白い。尤もその面白味の大半は、前書によって補われねばならぬものであるが、この感懐は前の句のような観念的なものでないからである。芭蕉の墳を弔い丈艸の庵を訪い寄った俳人が、強いて何か発句をと乞う。「感ありて吟じ、人ありて談じ、常は此事打わすれたるが如し」という丈艸としては、いささか迷惑であったに相違ない。乃ち壁により柱に靠(もた)れて考えるうちに、芭蕉在世当時のことを憶出(おもいだ)した。「麓の庵」というのは栗津の無名庵であろう。「鹿追の声」は畑を荒す鹿を迫う百姓の声らしい。芭蕉がその声を寝覚に聞いて、何とか句になりそうなものだといっていたが、遂に意を果さなかった。その声は今でも聞えて来る。翁の興がった鹿小屋の声は、今麓の方に聞えるのがそれだ、と庵の客に対して語ったのである。この鹿追の追懐は前の句より更に数年後の作であるらしい。

 「幻住庵頽廃」のことは他に何か文献があるのかも知れぬが、姑(しばら)くこの句だけで考えても、芭蕉歿後数年にして全く頽(すた)れていたことがわかる。芭蕉の遺蹟をたずねた丈艸は、頽れた壁が落ちているのを見出した。その壁には窓の一部がついている。単に頽れた壁だけでは、われわれに訴える感じはさのみ強くない。「壁の付たる窓のきれ」というに至ってその印象がまざまざと眼に浮んで来るような気がする。

 「陽炎や」の句についてはまた芥川氏の説がある。許六が亡師迫善の句について、自己の「鬢の霜無言の時の姿かな」を挙げ、嵐雪の「なき人の裾をつかめば納豆かな」を罵倒した。芥川氏はそれに対し、

[やぶちゃん注:以下は、前に掲げた芥川龍之介『「續晉明集」讀後』の一節。

以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。]

 

これは大気焰にも何にもせよ、正に許六の言の通りである。しかし五老井主人以外に、誰も先師を憶うの句に光焰を放ったものはなかったのであろうか? 第二年の追善かどうかはしばらく問わず、下にかかげる丈艸の句は確にその種類の尤(ゆう)なるものである。いや、僕の所信によれば、むしろ許六の悼亡よりも深処の生命を捉えたものである。

 

といって、丈艸のこの句を挙げているのである。許六の「自得発明弁」に対して一拶(いっさつ)を与えるだけなら、あるいはこの一句で足りるかも知れない。丈艸はその他にもかくの如く先師に対する追慕の情を叙している。この一事は丈艸その人を考える上において容易に看過すべからざるものと信ずる。

[やぶちゃん注:「自得発明弁」は既注であるが、再掲しておくと、俳諧論書「許六・去来 俳諧問答」(許六と去来の間で交わされた往復書簡を集めたもので「贈落舍去來書」・「俳諧自讃之論」・「答許子問難辯」・「再呈落柿舍先生」・「俳諧自讃之論」・「自得發明弁」(「弁」はママ)・「同門評判」から成る)の一章。]

今日のおぞましい先生の態度を見よ!――しかし「安静」は続かぬ――Kの「覚悟」の語への関係妄想的「ぐるぐる」が遂に始まってしまう――

 上野から歸つた晩は、私に取つて比較的安靜な夜(よ)でした。私はKが室へ引き上げたあとを追ひ懸けて、彼の机の傍に坐り込みました。さうして取り留めもない世間話をわざと彼に仕向けました。彼は迷惑さうでした。私の眼には勝利の色が多少輝いてゐたでせう、私の聲にはたしかに得意の響があつたのです。私はしばらくKと一つ火鉢(ひはち)に手を翳した後(あと)、自分の室に歸りました。外の事にかけては何をしても彼に及ばなかつた私も、其時丈は恐るゝに足りないといふ自覺を彼に對して有つてゐたのです。

 私は程なく穩やかな眠に落ちました。

『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月29日(水曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第九十七回より。太字下線は私が附した(以下同じ。後の方は改行・行空けや記号を多く施し、Kの台詞内の「私」を「お前」に変えた。ポイントも一部で変えた)。以上のシークエンスは私の生理的嫌悪感を甚だしく刺激する特異点である。以下、続く短い部分のみをシナリオ化してみた)

   *

○先生の部屋
K 「○○……」(先生の呼び名)
 先生、眼を覚ます。蒲団の下方を見る。
 間の襖が六十センチばかり開いていて、そこにKの黒い影が立っている。Kの室には先の通り、未だ灯火が点いている。
 急に安静な眠りから起こされてしまった先生は、面食らい、少しの間、口をきくことも出来ずに「ぼうっ」として、その光景を眺めている。
 黒い影法師のやうに立ち竦んでいるK。落ち着いた声で。
K 「もう寝たのか。」
先生「何か用か。」
 あくまで妙に落ち着いた声で話す、Kの、黒い影法師。
K 「大した用でもない。……ただもう寝たか、まだ起きているかと思って、便所へ行ったついでに聞いて見ただけだ。」
 K、襖を静かに「ぴたり」と立て切る。

   *

 私の室は、すぐ、元の暗闇に歸りました。
 私は、其暗闇より、靜かな夢を見るべく、又、眼を閉ぢました。
 私は、それぎり、何も知りません。

 然し、翌朝になつて、昨夕(ゆふべ)の事を考へて見ると、何だか、不思議でした。
 私は『ことによると、凡てが夢ではないか?』と思ひました。

 それで、飯を食ふ時、Kに聞きました。Kは、
「たしかに襖を開けてお前の名を呼んだ」
と云ひます。
「何故そんな事をしたのか」
と尋ねると、別に判然(はつきり)した返事もしません。
 調子の拔けた頃になつて、
「近頃は熟睡が出來るのか」
と、却て向ふから私に問ふのです。
 私は、何だか、變に感じました。

 其日は丁度同じ時間に講義の始まる時間割になつてゐたので、二人はやがて一所に宅を出ました。
 今朝から昨夕の事が氣に掛つてゐる私は、途中でまたKを追窮しました
 けれどもKはやはり私を滿足させるやうな答をしません
 私は
「あの事件に就いて何か話す積ではなかつたのか」
と念を押して見ました。Kは
「左右ではない」
と强い調子で云ひ切りました。
『昨日、上野で「其話はもう止めやう」と云つたではないか』
と注意する如くにも聞こえました。

 Kはさういふ點に掛けて鋭どい自尊心を有つた男なのです。

 不圖其處に氣のついた私は突然彼の用ひた「覺悟」といふ言葉を連想し出しました

 すると、今迄、丸で氣にならなかつた其二字が、妙な力で、私の頭を抑へ始めたのです。

 

 

2020/07/28

大和本草卷之十三 魚之下 鴟尾(しやちほこ) (シャチ)

 

【外】

鴟尾 事物紀原云唐會要海中有魚虬尾似鴟激

浪則降雨遂作其像於屋以厭火災今以尾

為之蘇鶚演義曰蚩海獸也蚩尾水精能辟火災

可置之堂殿今人多作鴟字又俗間呼爲鴟吻墨

客揮犀注為獸○蚩尾或海魚トシ或海獸トス海

魚ニ。シヤチホコアリ此魚日本ニテハ伊勢海ニアリ西州

ニハマレ也全體黑色也或ネスミイロナリ又黒トンバウト

云此魚性剛ニシテヨク海鰌ヲツキテ追フクジラ恐レ

テ逃ク一切ノ魚ヲ食ス牙齒スルトナリ大サ五七尺

ヨリ三四間ニイタル油多シ皮ニ牡蠣生ス群遊ス今

城門樓閣寺院ノ棟ノ端ニ瓦ニテツクリ立ツ卽此魚

ナリ又魚虎ヲシヤチホコト訓スルハ非ナリ本草ニ云處ニ

不合元升翁曰シヤチホコハ竜頭魚ナルヘシ

○やぶちゃんの書き下し文

【外】

鴟尾(しやちほこ) 「事物紀原」に云はく、『「唐の會要〔くわいよう〕〕」に、海中に、魚、有り。虬〔(きう)〕。尾、鴟〔(しび)〕に似、浪に激すれば、則ち、雨を降らす。遂に其の像を屋〔(や)〕に作る。以つて火災を厭(まじな)ふ』と云云(うんぬん)。今、尾を以つて之を為〔(つく)〕る。「蘇鶚演義」に曰はく、『蚩〔(し)〕は海獸なり。蚩尾〔(しび)〕は水の精。能く火災を辟〔(さ)〕く。これを堂・殿に置くべし。今人、多く「鴟」の字と作〔(な)〕す。又、俗間、呼びて「鴟吻〔(しふん)〕」と爲す』〔と〕。「墨客揮犀〔(ぼつかくきさい)〕」の注に『獸』と為す。

○蚩尾、或いは海魚とし、或いは海獸とす。海魚に「しやちほこ」あり。此の魚、日本にては伊勢〔の〕海にあり。西州には、まれなり。全體、黑色なり。或いは、ねずみいろなり。又、「黒とんばう」と云ふ。此の魚、性、剛〔(かう)〕にして。よく海鰌(くじら)を、つきて、追ふ。くじら、恐れて逃〔(に)〕ぐ。一切の魚を食す。牙齒〔(がし)〕するどなり。大いさ、五、七尺より三、四間にいたる。油、多し。皮に牡蠣〔(かき)〕を生ず。群遊す。今、城門・樓閣・寺院の棟〔(むね)〕の端に、瓦にてつくり、立つ〔は〕、卽ち此の魚なり。又、「魚虎」を「しやちほこ」と訓ずるは、非なり。「本草」に云ふ處に合はず。元升(げんしやう)翁曰はく、「『しやちほこ』は竜頭魚なるべし」〔と〕。

 

[やぶちゃん注:想像上の「鯱(しゃち)」は、姿は魚、頭は虎、尾鰭は常に空を向いていて、背中に幾重もの鋭い棘を有するとされる幻獣であり、また、ここに記された通り、それを模したところの主に火災を避けるための呪的形象として屋根に使用される装飾の一種である。一字で「鯱(しゃちほこ)」とも読み、「鯱鉾」とも書かれる。寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十九 魚類 江海有鱗魚」では「魚虎(しやちほこ)」と記されてある(リンク先は私の電子化注)。通常、大棟(おおむね)の両端に取り付け、鬼瓦と同様に守り神とされ、建物が火事の際には水を噴き出して火を消すとされる(「鴟尾(しび)」も同じであるが、特にあれは幻獣ではなく、中国で同様の呪的役割として、魚が水面から飛び上がって尾を水面上に出した姿を具象化したものであって、屋根の上面が水面を表わし、水面下にある建物は燃えないとの言い伝えから「火除け」として用いられたものと考えられている)。ウィキの「鯱」によれば、鯱は『本来は、寺院堂塔内にある厨子等を飾っていたものを織田信長が安土城天主の装飾に取り入れて使用したことで普及したといわれている』。『現在でも陶器製やセメント製のものなどが一般の住宅や寺院などで使用されることがある』。『瓦・木・石・金属などで作られる。城の天守や主要な櫓や櫓門などにはよく、陶器製(鯱瓦)のものや、銅板張木造のものが上げられる。城郭建築に用いられている銅板張木造鯱のもので最大の現存例は松江城天守(高さ2.08メートル)のものといわれて』おり、『青銅製(鋳造)のものでは、高知城天守のものがある』。『粘土製の鯱瓦は、重量軽減や乾燥時のひび割れを避けるために中を空洞にして作られているため、非常に壊れやすい。棟から突起した心棒と呼ばれる棒に突き刺し、補強材を付けて固定される』。『木造の鯱は、木製の仏像を造る原理に木を組み合わせて、ある程度の形を造っておき、防水のため、外側に銅板などを貼り付けて細かい細工なども施す。粘土製と同じく心棒に差し込み』、『補強材を付けて固定される』。『金色の鯱のことを特に金鯱という。金鯱には陶器製の鯱瓦に漆を塗り、金箔を貼り付けたものが多かった。一般の金箔押鯱瓦は、岡山城天守に創建当初載せられたものなどがある』。『特異なものでは木造の鯱に銅板の代わりに金板を貼り付けたものが上げられることがある。構造は銅板張りの木造鯱と同じ』で、『現在の名古屋城大天守に上げられているものがそれである。同じ仕様のものは、徳川大坂城天守や江戸城天守などに使用された』とある。

 しかし、本条は読み進めれば判る通り、益軒は実在する、

哺乳綱鯨偶蹄目マイルカ科シャチ亜科シャチ属シャチ Orcinus orca

に同定しており、博物学的に正しい。但し、福岡から殆んど離れなかった益軒が実物を見た可能性はゼロに等しい。シャチと言えば、私は今でも鮮やかに覚えている、少年時代の漫画学習百科の「海のふしぎ」の巻に、サングラスをかけた小さなシャチが、おだやかな顔をしたクジラを襲っているイラストを……。ちょっとした参考書にも、シャチは攻撃的で、自分よりも大きなシロナガスクジラ(鯨偶蹄目ナガスクジラ科ナガスクジラ属シロナガスクジラ Balaenoptera musculus)を襲ったり、凶暴なホホジロザメ(軟骨魚綱板鰓亜綱ネズミザメ目ネズミザメ科ホホジロザメ属ホホジロザメ Carcharodon carcharias)等と闘い、そこから「海のギャング」と呼ばれる、と書かれていたものだ。英名も「Killer whale」、学名の Orcinus orca も「冥府の魔物」という意味でもある。しかし実際には、肉食性ではあるが、他のクジラやイルカに比べ、同種間にあっては攻撃的ではないし、多くの水族館でショーの対象となって、人間との相性も悪くない(私は、芸はさせないが、子供たちと交感(セラピー)するバンクーバーのオルカが極めて自然で印象的だった)。背面黒、腹面白、両目上方にアイパッチ(eye patch)と呼ぶ白紋があるお洒落な姿、ブリーチング(breaching:海面に激しく体を打ちつけるジャンピング)やスパイ・ホッピング(spy hopping:頭部を海面に出して索敵・警戒するような仕草)、数十頭の集団で生活する社会性、エコロケーション(echolocation:反響定位)による相互連絡やチーム・ワークによる狩猟、じゃれ合う遊戯行動等、少しばかりちっぽけな彼等がシャチの分際で人間の目に付き過ぎたせいかもしれないな。本項の叙述もそんな感じだ。『出るシャチはブリーチング』というわけか。

「事物紀原」中国の類書(百科事典)。原本は二十巻二百十七事、現行本は十巻千七百六十五事。宋の高丞撰。成立年は未詳。事物を天文・地理・生物・風俗など五十五部門に分類して名称や縁起の由来を古書に求めて記したもの。当該部分は「卷八」の以下(「中國哲學書電子化計劃」より引き、漢字の一部表記を変更した。また、早稲田大学図書館古典総合データベースにあるこちらの寛文四(一六六四)年刊の訓点附版本(PDF)を参考に、不完全ではあるが、句読点や鍵括弧を附して読み易くした 。リンク先のそれは送り仮名も振られているので、対照すると完全訓読出来る。問題はどこが各書籍の引用なのかが不明なだけである)。

   *

「唐會要」曰、漢栢梁殿災。越巫言、海中有魚、虬尾似鴟。激浪則降雨。遂作其像於屋、以厭火災。王叡「炙轂子」、栢梁災越巫獻術、取鴟魚尾置於殿屋、以厭勝之。今瓦爲之。「蘇鶚演義」曰、漢武作栢梁殿。上疏者曰、蚩尾水之精能辟火災。可置之堂殿。今人多作鴟字、顔之推亦、作鴟。劉孝孫「事始」、作蚩尾。又俗間呼爲鴟吻。如鴟鳶。遂以此呼之後。因有作此鴟者。王子年「拾遺記」曰、鯀治水無功。自沉羽淵化爲玄魚。海人於羽山下修玄魚祠、四時致祭。嘗見瀺灂出水。長百丈、噴水激浪、必雨降。「漢書」越巫請以鴟魚尾。厭火災、今鴟尾卽此魚尾也。按王嘉晉人。晉去漢未逺當時、已作鴟字。蘇鶚之說亦、未爲允也。吳處厚「靑箱雜記」曰、海有魚虬尾、似鴟。用以噴浪、則降雨。漢栢梁臺災。越巫上厭勝之法。起建章宫、設鴟魚之像於屋脊、以厭火災。卽今世鴟吻是也。

   *

「唐の會要」「唐會要」(とうかいよう)は中国の北宋の王溥(おうふ 九二二年~九八二年)が撰して、太祖の建隆二(九六一)年に完成した、現存最古の会要(一つの王朝の国家制度・歴史地理・風俗民情を収録した歴史書の一種)である。ウィキの「唐合会要」によれば、『本書は、蘇冕』(そべん)「会要」と崔鉉(さいげん)らが撰した「続会要」の『続編として作られ、専ら唐一代の政治・経済・文化等の各項目の制度沿革を記録しており』、「通典」(つてん:唐の杜佑(とゆう)が記した中国史上初めての形式が完備された法制度関係書で、黄帝と有虞氏(舜)の時代から、唐の玄宗の天宝晩期の法令制度の制度沿革に至るまでを記録し、その中でも唐代を最も詳しく述べてある)などの『典籍と多くの類似点を有している。しかしながら、唐代の制度に関する記載は、更に詳細であり』、「旧唐書」(くとうじょ)中に『大量の史料が存在する。例えば、「音楽志」・「天文志」などは』、皆、『本書から採られて』いるため、『本書の記載に誤りがあれば』、「旧唐書」もまた『同じ誤りを犯している』という具合である。『なお且つ本書は』「旧唐書」・「新唐書」『未収の史実を』も『記載しており』、「大唐起居注」・「大唐実録」が既に『亡佚した今、部分的な内容であっても、多く本書に保存されて』あって貴重なのである。『原本は流伝の過程の中で残缺し、現行本は清代乾隆年間に整理された本の重印で』、全書百巻・五百十四目で『あるが、少なからざる条目下には「雑録」が有り、門類に分けられていないため、査読に』は『不便である。別に張忱石の』「唐会要人名索引」が『あり、検索に便である』とある。引用部は同書の「巻四十四」の「雜災變」の一節。中文ウィキソース「維基文庫」のここから引く。一部の漢字表記を変更し、文の開始位置も変えた。

   *

開元十五年七月四日。雷震興教門兩鴟吻。欄檻及柱災。

蘇氏駁曰。東海有魚。虯尾似鴟。因以爲名。以噴浪則降雨。漢柏梁災。越巫上厭勝之法。乃大起建章宮。遂設鴟魚之像於屋脊。畫藻井之文於梁上。用厭火祥也。今呼爲鴟吻。豈不誤矣哉。

   *

「虬〔きう〕」龍の子どもで二本の角を持つとされる。みづち(蛟)。

「鴟〔(しび)〕」実在する鳥ではトビ・フクロウ・ミミズクなどを指し、怪鳥の意もある。

「浪に激すれば」波濤の高まりに怒ると。

「屋〔(や)〕」屋根。

「厭(まじな)ふ」「咒(まじな)ふ」「呪(まじな)ふ」に同じ。

「今、尾を以つて之を為〔(つく)〕る」現在は尾の部分だけを形象する。されば、ここの部分に関しては「鯱鉾」よりも「鴟尾」を解説しているとする方が相応しい。

「蘇鶚演義」唐の蘇鶚の撰になる本草書「蘇氏演義」。引用は「巻上」の以下。「漢籍リポジトリ」の同書から引いた。一部の漢字表記を変更し、句読点や鍵括弧を推定で附した。

   *

蚩者、海獸也。漢武帝作柏梁殿。有上䟽者云、「蚩尾、水之精、能辟火災、可置之堂殿。」。今人多作鴟字。見其吻如䲭鳶、遂呼之爲䲭吻。顏之推亦、作此䲭。劉孝孫「事始」作此。蚩尾、既是水獸、作蚩尤之蚩是也。蚩尤銅頭鐵額、牛角牛耳、獸之形也。作䲭鳶字、卽少意義。

   *

「蚩〔(し)〕」この漢字自体は、本来は「這い歩く虫」の意で海棲動物の意味はない。但し、上で述べられるように、中国神話に登場する狂暴な神に蚩尤(しゆう:黄帝時代の諸侯とも臣ともされるが、獣身で銅の頭に鉄の額を持つとか、四目六臂で人の身体に牛の頭と鳥の蹄を持つとか、頭に角があるなどとも伝えるモンスターである。黄帝と涿鹿(たくろく)の野で戦って敗死したともされる)がいるので、それとの関連を想像すると、何となくこの漢字もありかも、という気はしてくる。

「蚩尾〔(しび)〕」「鴟尾」の別表記で使用される。

「鴟吻〔(しふん)〕」小学館「日本国語大辞典」にも「鴟尾」に同じとする

「墨客揮犀〔(ぼつかくきさい)〕」宋の彭乗(ほうじょう)の撰になる随筆。日中数種の全電子化テクストを用いて「獣」「獸」「兽」で調べたが、孰れもヒットしない。不審。

「日本にては伊勢〔の〕海にあり」ウィキの「シャチ」によれば、『日本では北海道の根室海峡から北方四島にかけてや、和歌山県太地町にて度々目撃されている』とあるから、伊勢というのは腑に落ちる。

「全體、黑色なり。或いは、ねずみいろなり」聞き書きで、実見していないので、この誤りは仕方あるまい。ウィキの「シャチ」によれば、『背面は黒、腹面は白色で、両目の上方にアイパッチと呼ばれる白い模様がある。生後間もない個体では、白色部分が薄い茶色やオレンジ色を帯びている。この体色は、群れで行動するときに仲間同士で位置を確認したり、獲物に進行方向を誤認させたり、自身の体を小さく見せたりする効果があると言われている。大きな背びれを持ち、オスのものは最大で2メートルに達する。背びれの根元にサドルパッチ』(saddle patch)『と呼ばれる灰色の模様があり、個々の模様や背びれの形状は一頭ずつ異なるため、これを個体識別の材料とすることができる』とある。

「黒とんばう」黒蜻蛉であろうが、違和感がない異名である。「シャチ」よりずっといい。

「五、七尺より三、四間」一メートル八十二センチから七メートル二十七センチ。シャチはマイルカ科 Delphinidae の中では最大種で、平均で体長は♂で5.8~6.7メートル、♀で4.9~5.8メートル。

「油、多し」Q&Aサイトの「シャチは食べられるか」という質問への答えに、『国内では座礁したシャチを食べた事があったかもしれません。積極的に食用目的で獲った事はあまりないと思います』。『しかし壱岐では高松鯨という塩鯨があったそうです。タカマツとはシャチの事です』。『戦後~1970年代ごろまでは油脂採取目的で乱獲し、定住型シャチがいたとしたら』、『絶滅したのではとも言われてます』。『日本では一部を除き』、『殆どいなくなってしまった』ともある。また、『アイヌは他のイルカや鯨を漁の対象としても』、『シャチは神鯨として』、『決して』捕『ったり』、『食べたりする事は有りませんでした』。『インドネシアのランバタ島ではシャチを獲っていたと思います。ですが漁師は自分では食べずに交易品にして』いたもの『と思います』とあった。

「皮に牡蠣〔(かき)〕を生ず」これは中型以上のクジラ類に一般に普通に見られる現象で、この附着が各個体の識別にも利用されている。

『「魚虎」を「しやちほこ」と訓ずるは、非なり。「本草」に云ふ處に合はず』これは当然である。「本草綱目」のそれは全く別種の記載だからである。「鳞之四」の以下を読まれたい。

   *

魚虎【「拾遺」。】

 釋名 土奴魚【「臨海記」。】。

 集解 藏器曰、『生南海。頭如虎、背皮如猬有刺、着人如蛇咬。亦有變爲虎者。』。時珍曰、『按、「倦游録」云、「海中泡魚大如斗、身有刺如猬、能化爲豪猪。」。此卽魚虎也。』。「述異記」云、『老則變爲鮫魚。』。

 氣味 有毒。

   *

概ね、魚類愛好家なら、即、お判りの通り、「本草綱目」の記すこの「魚虎」は、虎や蝟(ハリネズミ)が化生したという叙述はブットビだが、それを勝手に比喩として転ずるなら、背部の刺の描写は、まず、カサゴ亜目オニオコゼ科オニオコゼ属オニオコゼ Inimicus japonicus などを筆頭としたカサゴ目の毒刺を有するグループであることが見て取れる。

「元升翁」本草学者で医師の向井元升(げんしょう 慶長一四(一六〇九)年~延宝五(一六七七)年)であろう。ウィキの「向井元升」によれば、『肥前国に生まれ』で五『歳で父、兼義とともに長崎に出て、医学を独学し』、二十二『歳で医師となる』。慶安四(一六五一)年、ポルトガルの棄教した宣教師クリストファン・フェレイラの訳稿を元に天文書『乾坤弁説』を著し』、承応三(一六五四)年には『幕命により、蘭館医ヨアン(Hans Joan)から通詞とともに聞き取り編集した、『紅毛流外科秘要』』全五『巻をまとめた』。万治元(千六百五十八)年、『家族と京都に出て医師を開業した』。寛文一一(一六七一)年、『加賀藩主前田綱紀の依頼により『庖厨備用倭名本草』を著した。『庖厨備用倭名本草』は、中国・元の李東垣の『東垣食物本草』などから食品』四百六十『種を撰び、倭名、形状、食性能毒等を加えたものである』。なお、彼の『次男は俳人の向井去来』である。

「竜頭魚」現行では条鰭綱ダツ目ダツ亜目トビウオ上科サヨリ科サヨリ属サヨリ Hyporhamphus sajori の異名で、こう書いて「さより」と読ませるらしいが、これまた、ちょっと私にはピンとこない。元は中国の「通雅」(明の方以智(ほういち)撰の語学書)由来のようだ。しかし思うに「龍頭」(りゅうず:梵鐘の最上部の環状を成している部分の名称。ニ個の獣頭からなり、口唇の部分で梵鐘の上蓋に接している)って、如何にも鴟尾っぽくねえか?!

大和本草卷之十三 魚之下 アナゴ

 

【和品】

アナゴ 鰻鱺ニ似テ可食味ウナキニ不及海ウナキトモ

云鱧ヲモ海ウナキト云然𪜈別ナリ

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

アナゴ 鰻鱺〔(うなぎ)〕に似て食ふべし。味、「うなぎ」に及ばず。「海うなぎ」とも云ふ。鱧〔(はも)〕をも「海うなぎ」と云ふ。然れども、別なり。

 

[やぶちゃん注:条鰭綱新鰭亜綱カライワシ上目ウナギ目アナゴ亜目アナゴ科アナゴ属マアナゴ Conger myriaster。最大全長は一メートルにも達する。性的二型で♀の方が大きく、標準で♂は40 cm前後、♀は90 cmほど。口を閉じた際に下顎が上顎に隠れるのが特徴で、大型個体は顎の力が非常に強く、歯も鋭いため、噛まれると大怪我をするので注意が必要。また、ウナギと同じく血液に血清毒(蛋白毒イクシオトキシン(ichthyotoxin))が含まれ、粘液にも同じく含まれているため、生食は十分に水に晒すことが必須である。

「鰻鱺〔(うなぎ)〕」音は「マンレイ」。条鰭綱ウナギ目ウナギ亜目ウナギ科ウナギ属ニホンウナギ Anguilla japonica「大和本草卷之十三 魚之上 鰻鱺 (ウナギ)」を参照。血清毒については以下のリンク先も必ず参照のこと。

「鱧〔(はも)〕」条鰭綱ウナギ目ハモ科ハモ属ハモ Muraenesox cinereus。直前の「大和本草卷之十三 魚之下 鱧魚(れいぎよ)・海鰻(はも)(ハモ・ウツボ他/誤認同定多数含む)」を参照。]

譚海 卷之三 細川家和哥の事

 

細川家和哥の事

○石田治部少輔謀反の時、玄旨法印丹後の城に籠られしに、逆徒貴詰(せめつめ)て既にあやうかりし由叡聞(えいぶん)に達し、和歌の名匠なる事を悼み思召(おぼしめし)、逆徒へ勅使を立られ、早速圍(かこみ)をとき無事に成(なり)たり。其時玄旨法印必死の覺悟ゆゑ、年來和歌相傳の書を箱に入(いれ)、光廣卿へ傳へられ、往反(わうはん)贈答の詠に及ベり。子息三齋殿此事を殘念に存ぜられ、和歌の事に拘(こだは)りて武士の死(しす)ベき時に死せざる恥(はづ)べき事とて、以後三齋和歌を詠ぜられずといへり。今時(きんじ)も細川家斗(ばか)りは京都隱居住(ぢゆう)する事相叶(あひかな)ふ例(ためし)のよし、和歌の事によりて然るにやといへり。

[やぶちゃん注:「石田治部少輔」石田三成。

「謀反」豊臣秀吉の没後、政権の首座に就いた大老徳川家康は、度重なる上洛命令に応じずに敵対的姿勢を強める会津の上杉景勝を討伐するために、慶長五(一六〇〇)年六月に諸将を率いて東下した(「会津征伐」)が、家康と対立して佐和山に蟄居していた石田三成は、家康の出陣によって畿内一帯が軍事的空白地域となったのを好機と捉え、大坂城に入り、家康討伐の兵を挙げたことを指す。その緒戦が慶長五年七月十九日から九月六日にかけて、丹後田辺城(現在の京都府舞鶴市のここ。グーグル・マップ・データ)を巡りって起こったのがここで挙げられた「丹後田辺城の戦い」である。本籠城戦は広義の「関ヶ原の戦い」の一環として戦われ、丹波福知山城主小野木重次、同亀岡城主前田茂勝らの西軍が、田辺城に籠城する細川幽斎・細川幸隆(東軍)を攻めた。参照したウィキの「田辺城の戦い」によれば、『西軍は、まず』、『畿内近国の家康側諸勢力の制圧に務めた。上杉討伐軍に参加していた細川忠興の丹後田辺城もその目標の一つで、小野木重次・前田茂勝・織田信包・小出吉政・杉原長房・谷衛友・藤掛永勝・川勝秀氏・早川長政・長谷川宗仁・赤松左兵衛佐・山名主殿頭ら、丹波・但馬の諸大名を中心とする』一万五千の『兵が包囲した』。『忠興が殆んどの丹後兵を連れて出ていたので、この時田辺城を守っていたのは、忠興の実弟の細川幸隆と父の幽斎および従兄弟の三淵光行(幽斎の甥)が率いる』五百名に『すぎなかった』。『幸隆と幽斎は抵抗したものの、兵力の差は隔絶し、援軍の見込みもなく』、七月十九日から『始まった攻城戦は、月末には落城寸前となった』。『しかし西軍の中には、当代一の文化人でもある幽斎を歌道の師として仰いでいる諸将も少なくなく、攻撃は積極性を欠くものであった。当時幽斎は三条西実枝から歌道の奥義を伝える古今伝授を相伝されており、弟子の一人である八条宮智仁親王やその兄後陽成天皇も幽斎の討死と古今伝授の断絶を恐れていた。八条宮は使者を遣わして開城を勧めたが、幽斎はこれを謝絶し、討死の覚悟を伝えて籠城戦を継続』、「古今集証明状」を八条宮に贈り、「源氏抄」と「二十一代和歌集」を朝廷に献上している。『ついに天皇が、幽斎の歌道の弟子である大納言三条西実条と中納言中院通勝、中将烏丸光広を勅使として田辺城の東西両軍に派遣し、講和を命じるに至った。勅命ということで幸隆と幽斎はこれに従い』、九月十三日、『田辺城を明け渡し、敵将前田茂勝の居城である丹波亀山城に身を移されることとなった』。『この戦いは西軍の勝利となったが、小野木ら丹波・但馬の西軍』一万五千は、この間、『田辺城に釘付けにされ、開城から』二日後に起こった「関ヶ原の戦い」本戦に『間に合わな』くなったのであった。

「玄旨法印」戦国から江戸前期の武将で歌人の細川藤孝(幽斎)(天文三(一五三四)年~慶長一五(一六一〇)年)。京生まれ。三淵晴員(みつぶちはるかず)の次男であったが、伯父細川元常の養子となった。細川忠興の父。足利義晴・義輝や織田信長に仕えて丹後田辺城主となり、後に豊臣秀吉・徳川家康に仕えた。和歌を三条西実枝(さねき)に学び、古今伝授を受けて二条家の正統を伝えた。有職故実・書道・茶道にも通じた。剃髪して幽斎玄旨と号した。著書に「百人一首抄」・歌集「衆妙集」等がある。

「光廣」先の「元和の比堂上之風儀惡敷事」の私の注を参照。

「子息三齋殿」細川藤孝(幽斎)の長男で当時は丹後国宮津城主。後、豊前国小倉藩初代藩主となった細川忠興(永禄六(一五六三)年~正保二(一六四六)年)。「田辺城の戦い」の開城の一件で、一時、父と不和になっており、それがこの述懐に現われている。

「以後三齋和歌を詠ぜられずといへり」事実かどうかは不詳。]

甲子夜話卷之六 16 富小路貞直卿、千蔭と贈答の事

 

6-16 富小路貞直卿、千蔭と贈答の事

堂上と地下の贈答に、見るべきほどの歌は多く聞ず。十年前にも有しや、富小路三位貞直卿より、加藤千蔭へ給はりし消息の裏に、

 陰あふぐ心のはてはなきぞとほ

      くまなくみらむ武藏のゝ月

とありし時、千蔭の返しに、

 むさし野ゝを草が上も雲井より

      もらさぬ月の影あふぐ哉

これ等は京紳にも恥ざる咏なるべし【二條、林氏の册、抄錄】。

■やぶちゃんの呟き

「富小路貞直」宝暦一一(一七六二)年~天保八(一八三七)年)は江戸後期の公卿・歌人。伏原宣条(ふしはらのぶえだ)の子で富小路良直の養子。加藤千蔭(ちかげ)に和歌の添削を受け、本居宣長とも親交があった。正三位・治部卿(じぶきょう)。号は如泥。

「千蔭」「加藤千蔭」(享保二〇(一七三五)年~文化五(一八〇八)年)江戸中・後期の江戸生まれの歌人で国学者。幕臣で歌人の加藤枝直(えなお:本姓は橘)の三男。賀茂真淵に入門した。歌風は平明優雅で、村田春海(はるみ)とともに「江戸派」を代表した。書は「千蔭流」と呼ばれ、画や狂歌も巧みであった。著作に「万葉集略解(りゃくげ)」、家集に「うけらが花」などがある。

「二條」これは前の6-15 儒者の歌」と本条の意であろうか。

「林氏」お馴染みの静山の友人の儒者で、林家第八代の林述斎であろう。

甲子夜話卷之六 15 儒者の歌

 

6-15 儒者の歌

儒士の歌と云ものは多くは無きものなるが、林羅山の歌は木下氏の編る「視今集」に載たり。又その弟永喜の歌とて、人の傳る所を錄す。

   心ちよからぬおりふし筆とりて

 殘すとは書をかねども水莖の

      跡やはかなき形見ならまし

   夏草

 しげりあひて道も夏野の草の葉の

      そよぐ方にや人通ふらん

■やぶちゃんの呟き

「林羅山」(天正一一(一五八三)年~明暦三(一六五七)年)は江戸初期の朱子学派儒学者。林家の祖。羅山は号で、本名は信勝。出家後の号道春(どうしゅん)の名でも知られる。独学のうちに、朱子学に熱中し、慶長九(一六〇四)年と藤原惺窩と出逢い、翌年、彼が羅山を推挙して徳川家康に会い、二十三歳の若さで家康のブレーンの一人となった。慶長一二(一六〇七年)、家康の命により僧形となった。寛永元(一六二四)年には就任したばかりの第三代将軍徳川家光の侍講となり、さらに幕府政治に深く関与していった。

「木下氏」秀吉の正室高台院の義理の曾孫木下(豊臣)秀三。

「視今集」木下秀三撰「和歌視今集」。正徳元(一七一一)年成立。

「永喜」林永喜(えいき 天正一三(一五八五)年~寛永一五(一六三八)年)は羅山の実弟で儒学者・歌人。羅山とともに江戸幕府に仕え、初期の幕政に参画した。兄に道学を、歌道家に和歌を学び、慶長九(一六〇四)年に藤原惺窩に対面して啓発を受けた。度々、漢和聯句会に参加し、慶長一三(一六〇八)年には一華堂乗阿と「源氏物語」について論争している。

「かねども」「兼ねども」か。

甲子夜話卷之六 14 伶人多氏、浴恩老侯と贈答の事

 

6-14 伶人多氏、浴恩老侯と贈答の事

京伶人多大和守【久敬】下りし折から、樂翁招てひたもの催馬樂を學ばれしに、大和歸京に臨みけるときかくなん、

 君にこそ拾はれにけれいせの海の

      なぎさによれるかひもなき身を

其時、樂翁の返し、

 打よする心計に日をふれど

      なぎさの玉は手にもとられず

一時の戲といへど風雅なることなり。大和も伶工には珍らしき風致なりき。

■やぶちゃんの呟き

「伶人多氏」「多」(おほの)「大和守【久敬】」雅楽演奏家多久敬(おおのひさかた 明和九(一七七二)年~弘化二(一八四五)年)。

「老侯」「樂翁」白川藩藩主・老中松平定信(宝暦八(一七五八)年~文政一二(一八二九)年)。老中失脚は寛政五(一七九三)年。

「ひたもの」ひたすら。

「催馬樂」「さいばら」。古代歌謡の一つ。平安時代に民謡を雅楽風に編曲したもの。笏拍子(しゃくびょうし:当初は二枚の笏を用いたが、後に笏を縦に中央で二つに割った形となった。主唱者が両手に持って打ち鳴らして用いる)・和琴(わごん)・笛・篳篥(ひちりき)・笙(しょう)・箏(そう)・琵琶(びわ)などで伴奏した。

「伊勢」文化九(一八一二)年に定信は家督を長男の定永に譲って隠居(文化九(一八一二)年3月)隠居しているが、実際には藩政の実権は以前として掌握していた。定永の時代に久松松平家旧領伊勢桑名藩への領地替えが行われているが、これは定信の要望により行われたものとされている。定信の白川藩藩祖定綱以来の先祖の地は伊勢桑名であった。

「心計に」「こころばかりに」。

「戲」「たはむれ」。

今日、あのKの「覺悟?……!……覺悟なら……ないこともない……」という決定的な台詞が発せられてしまう――

 「私はKと並んで足を運ばせながら、彼の口を出る次の言葉を腹の中で暗に待ち受けました或は待ち伏せと云つた方がまだ適當かも知れません。其時の私はたとひKを騙し打ちにしても構はない位(くらゐ)に思つてゐたのです。然し私にも敎育相當の良心はありますから、もし誰か私の傍へ來て、御前は卑怯だと一言私語(さゝや)いて吳れるものがあつたなら、私は其瞬間に、はつと我に立ち歸つたかも知れません。もしKが其人であつたなら、私は恐らく彼の前に赤面したでせう。たゞKは私を窘(たしな)めるには餘りに正直でした。餘りに單純でした。餘りに人格が善良だつたのです。目のくらんだ私は、其處に敬意を拂ふ事を忘れて、却て其處に付け込んだのです。其處を利用して彼を打ち倒さうとしたのです。

 Kはしばらくして、私の名を呼んで私の方を見ました。今度は私の方で自然と足を留めました。するとKも留まりました。私は其時やつとKの眼を眞向に見る事が出來たのです。Kは私より脊の高い男でしたから、私は勢ひ彼の顏を見上げるやうにしなければなりません。私はさうした態度で、狼の如き心を罪のない羊に向けたのです。

(『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月28日(火曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第九十六回より。太字下線は私が附した)

 以下、私のオリジナル・シナリオ――

 なお、Kの最後の台詞は「心」では実際には

すると彼は卒然「覺悟?」と聞きました。さうして私がまだ何とも答へない先に「覺悟、―覺悟ならない事もない」と付け加へました。彼の調子は獨言のやうでした。又夢の中の言葉のやうでした。

である。

   *

○上野公園。(続き)

 Kの後姿。のろのろとフランケンシュタインの怪物のように歩むK。

 追いついて、Kと並んで歩む先生。夕暮れ。

K 「……○○……」

[やぶちゃん注:「○○」には先生の姓が入る。]

 先生の方を見るK(先生目線の上向きのバスト・ショット)。

 先生とK、立ち止まる(フルショット。背後に枯れた木立を煽って)。

 Kの悲痛な顏(真正面のフル・フェイス・ショット)。

 先生の顏(夕日を反射する眼鏡は鏡面のようにハレーションして眼は見えない。見上げる真正面のフル・フェイス・ショット)

 K、淋しそうな眼、表情(真正面のフル・フェイス・ショット)。

K 「……もう、その話はやめよう。」

 対する二人(ミディアム・ショット)。

K 「……やめてくれ。」

先生「(ゆっくりと極めて冷静に)やめてくれつて、僕が、言い出したことじゃない。もともと君の方から持ち出した話じゃないか。……(間)……しかし、君がやめたければ、やめてもいいが、……(間)……ただ、口の先でやめたって仕方あるまい? 君の心でそれを止めるだけの、『覚悟』がなければ。……一体、君は、君の平生の主張をどうするつもりなんだ?」

 項垂(うなだ)れていることが分かるKの後頭部(やや上から魚眼レンズの俯瞰ショット。僅かに高速度撮影)。間。カメラがややティルト・アップすると、向うに先生(捉えた瞬間、先生を迅速にフレーム・アップ。則ち、次の二つの台詞はフレーム上ではオフで発せられることになる)。

K 「……覚悟?……」

 フレームの中の向うの先生が口を開いて何か言おうとする。しかしそれに合わせて、独白(モノローグ)のように、夢の中の言葉のやうに(台詞と共にややティルト・ダウンして、画面いっぱいにKの後姿。項垂れたままに)。

K 「覚悟?……!……覚悟なら……ないこともない……」

 

○上野公園(遠景)
 人気のない夕暮れの上野公園を下ってくる先生とK。小さく。


○上野公園(不忍池への下り坂)
 これ以降、二人の下駄の音のみ(SE)。魚眼レンズでクレーン・アップ、ティルト・ダウンして、手前から二人、イン。下駄の音。

――カッ! カッ! カッ!

 背後から二人の頭部(この映像を下駄の音に合わせて、微かにフレーム・アップ、カット・バック、微かにフレーム・アウト、カット。バックで繰り返す)

 地べたにカメラ、右上からインする先生の下駄の足。先生の足止まる。直ぐ向うを下駄履きのKの足が右から左へ抜ける。先生の両足、踏み変えて、振り返る動作の足(アップ。微かに高速度撮影。先生のにじるキュッという靴音。その音がK一人の下駄音と不協和音のように絡む)。

――カッ! カッ! カッ!(Kの下駄音という風であるが、大きなままで微かにエコーを入れる)

 何気なく振り返る先生(俯瞰ショット。微かに高速度撮影)。夕日が一閃! 眼鏡に反射してハレーションを起こす。

 その先生をなめて、坂を下る項を垂れたままに下ってゆくKの姿。

――カッ! カッ! カッ!

 暮れなずむ薄暗い空(広角)。

 霜に打たれて蒼味を失った茶褐色の杉の木立が梢を並べて聳えている中空(分かる分からない程度にティルト・ダウンさせるが、地上は映さない)。

 先生の右唇を中心にしたフル・フェイス・ショット(魚眼レンズ)。震える、先生の口元!

 遠景。坂下の下ってゆくKの後姿。

――カッ! カッ! カッ!

――カ! カ! カ! カ!

 先生、Kの方へ走ってゆく(クレーン・アップ。微かに高速度撮影。ここでは二人の足音が不協和音のように絡む)。(F・O・。……だが、その後も SE 残る)


――カッ! カッ! カッ!…………

――カ! カ! カ! カ!…………

 

2020/07/27

三州奇談續編卷之八 八幡の靈異 / 三州奇談 全148話 電子化注 完遂!

 

    八幡の靈異

 埴生(はにふ)の神社は彼(かの)大夫坊が願書に名高くして、此邊の所々は木曾義仲倶利伽羅を說くの證跡にして、此話は事古りたれば筆を止(や)めつ。社頭石階遙に上る。石壇悉く累文(るいもん)ありて、雨中の長きにも道辷(すべ)ることなく、心穩かに坂を上る。危きを忘るゝも又々妙あり。社頭物さび、尊さは云ふにや及ぶ。應現(わうげん)の神なるは書き續くとも盡し難し。爰に土人の奇話あり。

[やぶちゃん注:「埴生の神社」現在の富山県小矢部市埴生にある埴生護国八幡宮(グーグル・マップ・データ)。サイド・パネルの麦水も登った階(きざはし)をリンクさせておく。

「大夫坊が願書」既に出た通り、大夫坊覚明(たゆうぼうかくみょう・かくめい 保延六(一一四〇)年以前?~元久二(一二〇五)年以後)は信救得業(しんぎゅうとくごう)とも称した木曽義仲の右筆。元は藤原氏の中下級貴族の出身と見られる。寿永二年五月十一日、現在の先の埴生護国八幡宮(八幡神は源氏の氏神である)を義仲が偶然に見出し、義仲が戦勝祈願をした際にその願書を書いており、それは現在も八幡宮に残っている。彼については個人サイト「事象の地平」のこちらに非常に詳しい。

「倶利伽羅」とはサンスクリット語「クリカ」の漢音写で、インドで八つの龍の王の内の一柱の名であり、「陀羅尼集経」では「鳩利龍王」とも漢訳されている。仏教に取り入れられた「倶利迦羅竜王」は、岩上に直立する宝剣に火炎に包まれた黒龍が巻きついている様で形象され、この竜王は「不動明王」の化身として集合されて特に武家に崇拝された。剣と火炎は一切の邪悪罪障を滅ぼすとされる。寿永二(一一八三)年木曾義仲が平維盛の軍勢をその峠の南斜面に當深い谷に攻め落としたことで知られる倶利伽羅峠であるが、この名も、その峠に倶利迦羅不動を祀る堂が存在したことに由来している。倶利迦羅不動寺は養老二(七一八)年、元正天皇の勅願により、倶利迦羅不動明王を奉安されたのが始まりと伝えられ、弘仁二(八一二)年、弘法大師が本尊と同体の不動尊像を彫って別当山として長楽寺が開山されたのが確かな創建である。ここで麦水が「說く」と言っているのは、倶利迦羅竜王が絶対の正義を以って戦うことで仏敵を滅ぼす如く、我らが平家を倒すことが必定されていることを神に誓い、部下の将兵らに説いたという謂いであろう。

「累文」重なった層状の紋様。]

 

 近く元文三年の春の事とにや。一夜社頭

「ざはざは」

と人音し、鈴鳴り馬嘶(いなな)く躰(てい)のこと曉に至れり。近鄕の人怪しみ思ひしとなり。音を聞きたる人は甚だ多かりしが、其中に宇兵衞と云ふ者は、

「むつく」

と起きて社頭へ走り登り見けるに、最早朝日煌々と出で輝きて、辰(たつ)にも及ばんとする頃、倶利伽羅山の東谷なる須小池(すこいけ)と云ふ上に、魚津浦に見なれし喜見城(きけんじやう)と云ふ物の立ちて、人家城廓はもとより、人馬旌旗(せいき)の行かふさま、ありありと見え渡る。併(しか)し先づ異國の人のやうに覺え、城樓も異國のけしきに思ひし。只彩色の樣(さま)照り輝き、見事なること云ふばかりなし。然るに此御神は、敵國降伏の誓言なればにやありけん。暫くして此社頭より、

「そよそよ」

と風吹き渡るよと見えしが、此城樓・旌旗悉く消え失せて、跡(あと)靑天白日となりき。

 其二三年は殊に豐年打續き、世上(せじやう)里民(りみん)腹を皷(こ)して樂しみ、諸國民安かりし。是を思へば神の遊戯にして、異靈吉祥(きつしやう)なるためしとぞ思はる。

 蜃氣の樓をなすは、此邊(このあたり)海上の常ながら、蜃は元來山雉(やまきじ)にして、其卵地中に成るよし。「南島變」の中に詳しく記す。

 扨は北地の山は、土中自ら此氣を吐くことあるか。又は須小池は元來大いなる鯉(こひ)住む故に名づくと云へば、鯉も又氣を吐くものにや。辨じ難し。此外往々此山畔霧裡(きりのうち)に、城廓を見ること折々ありと云ふ。扨又此邊及びみとだ海道筋に、醬油を造る大家どもは、大釜に鹽を入れて湯に燒くこと折々なり。然るに時々には鹽固まりて解けざるものあり。其形樓閣の如し。其形誠に怪しき迄なるもの出來ること多し。門・戶・扉まで備(そなは)りたること奇妙なり。終(つひ)に石となる。又皆解けてかたまらざる日もあり。かたまれば必ず家居なり。思ふに地氣家の形をなすは、天然の妙にして、家居もと人工の外に出たること明らけし。然れば山氣・湖氣現(うつつ)に樓閣を結ぶ、又故ありと覺ゆ。

[やぶちゃん注:面白い。蜃気楼の城郭や兵馬・旌旗(軍旗)が異国のそれであったが故に、倶利伽羅龍王(不動明王)の法力(「敵國降伏の誓言」通り)が自動的に働き、蜃気楼も成敗されて消えたというのである。

「そよそよ」

と風吹き渡るよと見えしが、此城樓・旌旗悉く消え失せて、跡(あと)靑天

「元文三年」一七三八年。

「辰」午前七時。

「須小池」倶利伽羅峠東谷には多数の池沼があるが、どれだか分からない。一番大きなそれは「埴生大池」或いは「大池」(グーグル・マップ・データ)と呼ばれる。一応、これを第一比定候補としておく。先の埴生護国神社とは直線で二キロほどしか離れていない。倶利伽羅合戦ではこの池のすぐ南方に義仲軍の初期本陣が配された。

「魚津浦に見なれし」富山湾の内で最も本格的な蜃気楼が見られるのは、現在でも魚津である。

「喜見城」本来は梵天と並ぶ仏教の護法大善神たる帝釈天の居城の名(サンスクリット語「スダルシャン」の漢訳語「ス」は「適切な・良い」、「ダルシャン」は「見る」の意)。須彌山(しゅみせん)の頂上にある忉利天(とうりてん)の中央に位置し、城の四門に四大庭園があって諸天人が遊楽するという。ここは、それを転じた蜃気楼の異名。

「蜃は元來山雉(やまきじ)にして、其卵地中に成るよし」「近世奇談全集」では「山雉」に『やまどり』とルビするが、従えない(後述)。一般には「蜃気楼」の「蜃」は大蛤(おおはまぐり)或いは蛟(みづち:龍の一種)の吐き出す気とされるのが伝統で(根っこは「蛤」の方が正解のようだ。「蜃」が龍の一種を表わす字として別に用いられたことによる混同が始まりのようだ。既に古く「礼記」の「月令(がつりょう)」では両者が同名異物であるとする記載がある)あるが、蛤より龍の方が人の想像を飛翔させやすいことからと思われるが、龍説が増殖し(確かにどデカい蛤というのでは本体が動かないから、関連して伝説を作るのに食指が動かない気はする)、ウィキの「蜃」には、『一方で竜とする説は、中国の本草書『本草綱目』にあり、ハマグリではなく』、『蛟竜(竜の一種)に属する蜃が気を吐いて蜃気楼を作るとある』。『この蜃とはヘビに似たもので、角』・『赤いひげ・鬣』(たてがみ)を持ち、腰より『下の下半身は逆鱗』(げきりん)『であるとされている』。『蜃の脂を混ぜて作ったろうそくを灯しても幻の楼閣が見られるとあ』り、『さらにこの蜃の発生について、ヘビがキジと交わって卵を産み、それが地下数丈に入ってヘビとなり、さらに数百年後に天に昇って蜃になるとしている』。宋代書かれた百科辞典である「埤雅(ひが)」の『著者である陸佃』(りくでん)も同じく、『蜃はヘビとキジの間に生まれるものと述べている。『また『礼記』にはキジが大水の中に入ると蜃になるとあり』(私がさっき注したのは個々の部分で、日本ではその注記が無視されて広まったのである)、『この発想は日本にも伝わっている』とあった(下線太字は私が附した)。『「山鳥」と「山雉」は同じだろ?』と御仁がいるとすれば、それは大いなる誤りである。

「雉」はキジ目キジ科キジ属キジ Phasianus versicolor(但し、現在、学名を Phasianus colchicus とする主張もある)

であり、

「山鳥」は日本固有種でキジ目キジ科ヤマドリ属ヤマドリ Syrmaticus soemmerringii scintillans

で属で異なる別種だからである。詳しくは私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 野鷄(きじ きぎす)」及び「和漢三才圖會第四十二 原禽類 山雞(やまどり)」を読まれたい。

「南島變」「寬永南島變」。本書の筆者堀麦水の宝暦一四(一七六四)年成立と見られる「天草の乱」を中心とした実録物。最後ぐらい、宣伝は大目に見て上げよう。

「北地の山は、土中自ら此氣を吐くことあるか」それは火山なら幾らもあるし、硫黄ガスは有毒成分硫化水素を含むし、二酸化炭素や一酸化炭素で人は簡単に窒息死する(そうしたものが滞留した窪地で人が亡くなったり(自衛隊演習での事故が十年ほど前に実際にあった、体が動かなくなるのはそれで、民俗社会では「ダリ」という妖怪のせいとしたりしたのである)。天然ガスもそう感じられるであろう。

「大いなる鯉」「鯉も又氣を吐くものにや」登龍門伝説で年経て上流に至れば龍と成るのだからね。本邦での鯉の妖異も甚だ多い。でかい奴の顔を見てると、何か人語を喋りそうだもんな。

「みとだ海道」射水市水戸田へ向かう街道か。ここからなら現在の県道九号あたりがその後身か。

「大釜に鹽を入れて湯に燒く」この「鹽」は「潮」とあるべきところであろう。

「地氣家の形をなすは、天然の妙」というより、海水を使っているのだから、やっぱ、大はまぐりの気でごわしょうぞ! 麦水どん!

 以上を以って「三州奇談續編」全巻の終りである。今年の一月十七日開始だから、半年がかりとなった。何か一つの達成感はある。麦水さん! また、何時か、何処かで!!!

【2022年10月26日追記】たまたま調べていて、本「三州奇談」(正・續)の目次を電子化するのを忘れていたことに気づいた。しかし、今さらに遅きに失しており、誰からも目次を附してくれという申し出もないので、ブログ・カテゴリ「怪奇談集」を開いて戴ければ、標題は整然と並んでいるからして、本篇には目次は附さないことに決した。その代わり、底本の国立国会図書館デジタルコレクションの目次ページの冒頭(正・續併呑)をリンクさせて、お茶を濁すこととする。悪しからず。

三州奇談續編卷之八 妖鼠領ㇾ墳

 

    妖鼠領ㇾ墳

 鼠は社によりて尊(たつと)しと聞しが、塚に依れば妖をなすことも故ありや。「今目(ま)のあたり見たり」と人の語るあり。越中礪波郡金谷本鄕の下にて、木船の續きに五社と云ふ村あり。道明村と云ふに隣りて、さまで人遠き所にも非ず。されど此兩村の間墓所にして、古墓も又多し。爰に妖鼠住みて久しく小獸の類(るゐ)を取殺す。初めは人々『狼・犬などの所爲にもや』と思ひ居(をり)しが、近年頻りに飼猫失せてけるに、多くは此墓邊(あたり)に嚙殺(かみころ)されて死骸を殘す。

[やぶちゃん注:標題は「妖鼠(えうそ)墳を領(りやう)す」。

「鼠は社によりて尊し」国津神を統べる大国主命は素戔嗚尊の娘須世理毘売(すせりひめ)と互いに一目惚れして、素戔嗚尊に婚姻の許しを貰いに行くが、素戔嗚からは許諾するに際して様々な過酷な試練を命ぜられてしまう。その試練の一つに、大野原で火攻めにされるシークエンスがあるが、その時、鼠が現われて逃げ道を教えることから、大国主命の神使は鼠とされ、また、神仏習合の下で彼は大黒天(七福神の一つ)と同一とされたことにより、豊饒の米と縁の深い鼠が眷属とされた。されば、大国主命を祀る神社では鼠をかく扱う。

「越中礪波郡金谷本鄕」不詳。しかし、以下の地名からして、この地図の小矢部川右岸の表示範囲(或いはもっと広域。グーグル・マップ・データ。以下同じ)の、現在の高岡市福岡町の一部及び小矢部市の一部の広域を、かく呼んでいたものと考えてよかろう。

「木船」高岡市福岡町木舟

「五社と云ふ村」木舟の南に接して小矢部市五社がある。

「道明村」その五社の南に接して小矢部市道明がある。

「此兩村の間」表現からは五社地区と道明地区の間となるが、現在の地区境界は複雑に凸凹している。但し、グーグル・マップ・データ航空写真で見ても、今は田圃と道で、そこに墓の痕跡らしきものは見当たらない。但し、ストリート・ビューで見たところ、一箇所、碑石のようなものがあった。新しくて墓石とは思われないものの、奇妙な形の小さな石が三つ、二基の碑の間に明らかに人為的に整然と並べて鎮座されてあるのはいささか気にはなった)。なお、狭義の古墳時代以前の墳墓遺跡はこの付近にはないようである(小矢部川左岸の丘陵辺縁部にはかなりの数を認める)。]

 

 然るに安永七年[やぶちゃん注:一七七八年。]の春、五社村の勘兵衞が子伊兵衞と云ふ者、廿七歲にて角力(すまふ)も取り、力量も剛(つよ)し。知音(ちいん)ありて道明村へ咄(はな)しに行き、夜半頃に夜咄し終りて歸りしが、心しぶとき男なれぱ、塚原古墳を通るも心にかゝらず、常に行き通ひしが、今宵は人より猫を一つ貰ひて、懷ろに抱き歸ることゝなりしに、此塚原へ來るに、頃は二月十三日の夜なれぱ、朧寒き薄曇り、何とやら恐ろしげなる景色に、とある塚の積揚げたる石、

「がば」

と崩るゝ音するとひとしく飛出づる怪しき物あり。只飛鳥(ひてう)の如く走り來りて、伊兵衞が膝口のあたりに飛付き、懷ろへ傳ひ登る。懷の猫は、身を震はし恐れ屈む。五社村の伊兵衞は力勝れたる者なれば、

「こは心得ず」

と怪物が首と覺しきを引摑みて二三間[やぶちゃん注:三・六四~五・四五メートル。]投ぐるに、中(ちゆう)より飛來りて伊兵衞が足に喰付(くらひつ)くに、是を蹴放(けはな)して待つ所に、又肩に飛付き、或は背中に嚙付き、或は乳(ち)の邊りを五ヶ所嚙破(かみやぶ)る。伊兵衞怒りて、力を盡して首を捕へ、ふり下げて見るに、長さ二尺許なり。鼬・𪕐(てん)の類(たぐひ)にやと、力に任せて首筋をしむるに、血を吐きて死したり。懷ろの猫も、いかなる故にや死しぬ。依りて此怪物を手に下げて家に歸り、翌日見るに大いなる鼠なり。顏甚だ長く大にして、四寸五分[やぶちゃん注:約十二センチ。]あり。身は一尺八寸[やぶちゃん注:五十四・五センチ。]。首にかけて二尺三四寸[やぶちゃん注:七十一センチ前後。]の鼠にて、尾の長さも二尺[やぶちゃん注:六十・六センチ。]あるべし、其末切れ居(をり)たり。毛兀(は)げ皮古びて、恐ろしきさまなり。近所の猫を集めて取らしむるに、いかなる猫にても、一度見ると逸足(いちあし)出して迯去(にげさ)る。只毒氣を恐るゝ如し。

「是は不思議」

と場中(ばなか)[やぶちゃん注:大勢の人が集まっているところ。]にさらし置きて、是を喰ふ猫もあるかと、普(あまね)く隣々村々の猫を集むるに、輙(たやす)く傍(かたはら)へ進む猫もなし。

 然るに靑雲の間より鳶(とび)下りて、一摑みに引(ひつ)さげ去る。曾て心とせざる躰(てい)なり。扨(さて)枝上にありてむしり喰ふ。他の鳶も又餘肉を得て爭ひ喰ふこと、常の鼠の如くして更に怪しむ躰(てい)なし。

 扨は其好惡さまざまありて、道違へば少しも功威(こうい)なきこと眞然たり。

 是を思へば、藥物の合不合爰に於ていちじるし。尤も深く考へあるべきことにや。

 其後(そののち)にも此塚中程に剛鼠(がうそ)あり、躰(すがた)折々見ゆ。

「久しく猫を取りし鼠は、此塚なりけり」

と知らるゝなり。

 世の變易斯く迄に及ぶ。分けて猫をのみ好きたること、鼠の肝又別物に似たり。

[やぶちゃん注:「𪕐(てん)」漢字の意味不明。大修館書店「廣漢和辭典」にも載らず、ネット上の中文サイトでも意味を附記せず、それどころか音不詳とさえあった。ここで読みは「近世奇談全集」に拠った。「てん」は「貂」でネコ目イヌ亜目イタチ科イタチ亜科テン属ホンドテン Martes melampus melampus のことであろう。本邦のそれは日本固有種である。但し、テン属自体は北アメリカ大陸・ユーラシア大陸・インドネシア・日本と広く分布はする。

「分けて猫をのみ好きたること、鼠の肝又別物に似たり」「鼠の肝」というのは「虫臂鼠肝(ちゅうひそかん)」のことで、「虫臂」は「虫の肘(ひじ)」で、「鼠肝」は「鼠の肝(きも)」で「取るに足らないこと・くだらないこと」或いは「物事の変化は人間には予想することが難しいということ」の喩えであるから、猫だけを愛玩する嗜好や、人の僅かな好悪は所詮、他者には理解出来ないものだということか。にしても、「是を思へば、藥物の合不合爰に於ていちじるし」という糞のような教訓を最後に置きたがるこの晩年の麦水は、最早、奇談を純粋に怪奇なる話としてそのまま味わうという素直な気持ちがかなり薄れてしまっているような気がしてならない。……いやさ、後、一話で、「三州奇談」は、終わるのだが……。]

三州奇談續編卷之八 蛇氣の靈妖

 

    蛇氣の靈妖

 龍の上るといふを望めば、雲中ゆたかに下りたる物あり。大小長短時として異なり。紅毛人は

「水柱なり」

と云ひて、

「『佛狼機(イシビヤ)』を發して打倒せば、降りかゝりたる空も晴天に直る」

と云ふ。「生物にあらず」と云ふ說もあり。然れども是必ず龍氣なること眞然たり。滑川水橋の邊りは、時として數疋登る。誰彼是を望むことなり。實(げ)にもあたりの風荒きには似ず。甚だ鈍き物なり。折には雲を呼ぶに遲き時やありけん、頭を跡へ下(おろ)す時あり。爰に於ては顯(あら)はに見ゆるとなり。細く四角にして髭あり。繪に書く雨龍(あまりやう)と云ふものに似り。或は橫にも落つ。

「甚だぬるきものなり」

と、人々證を立てゝ咄せし。

「雲も波もすさまじく上る物なり」

と云ふ。扨は龍なることは決せり。上る時初めは蛇なりとぞ。

[やぶちゃん注:本格的な巨大な竜巻から時に見かける旋毛風(つむじかぜ)或いは雲の形の変形するのを擬えて誤認したものと採れる。

「佛狼機(イシビヤ)」「石火矢」「石火箭」で、原義は石・鉄・鉛などを飛ばして城攻めに用いた兵器を指すが、ここは「紅毛人」の言うとあるから、近世初期に西洋から伝来した大砲のことである。

「滑川水橋」既出の現在の富山湾沿岸の富山市水橋町(グーグル・マップ・データ)であろう。東で僅かに滑川に接する。

「雨龍」龍の一種螭龍(ちりゅう)を指すともされ、雨乞いの対象となったり、家紋となったりしている。グーグル画像検索「雨龍」をリンクさせておく。]

 

 安永八年三月の頃、這槻川(はひつきがは)の際(きは)に川越(かはごえ)を以て世を渡る忠右衞と云ふ者ありき。兄は三ケ村(さんがむら)の長右衞門と云ふ、[やぶちゃん注:読点はママ。]此長右衞門の門(かど)に大松ありき。先年願ひて是を伐る。此根蟠(わだかま)りて大きくありしを、頃日(けいじつ)此根を掘廻しけるに、最早引越(ひきこさ)さん[やぶちゃん注:引き抜こう。]とする時、松の根の底に蛇あり。三尺許と見ゆ。常の蛇とは見えながら、何となく怖ろし。手傳ひの人長右衞門に向ひ、

「何とやら此蛇は主らしき顏つきに候まゝ、又土を掛けて埋(うづ)むべし」

なんど云ふを、長右衞門聞かず。

「かゝることは打捨つるに若かず」

とて、杖を入れてはね出(いだ)す。

 初めは動く如く、後(のち)には重うして出難(いでがた)し。漸く十人許り寄り、鐡捧など入れて刎出(はねいだ)したるに、土の上へ出せば五六尺ばかりの蛇となる。則ち是をろばし[やぶちゃん注:転がして。]、濱表へ捨てたるに、水に入ると其儘眞直(まつすぐ)に立ちて、長右衞門を追かくる。凡そ一丈餘の丈(たけ)に見ゆ。長右衞門逸足(いちあし)出して逃げゝるに、幸ひ川越忠右衞門家は側(かたは)らに掘切あれば、橫に飛び堅に走りて家に駈入るに、蛇は只直ぐに馳せ過ぎ、又掘出したる松の根に入りしとも云ふ。又何國(いづこ)へや行けん見えず。

 是より長右衞門煩(わづろ)うて人心地なし。

 魚津の法華山長慶寺は旦那寺と云ひ、に名高きことなれぱ、人を遣はし此趣を申して賴みけるに、

「是は蛇氣のかゝれるものなり。必ず物に狂ふことあるものぞ。用心せよ」

と申越(まうしこ)す。

 實(げ)にも其如く、其夜より長右衞門亂心の躰(てい)となり、橫に倒れて這廻る。又大(おほい)なる石を寢ながら打返す。凡(およそ)十人許の力を寄せたるが如し。

 弟忠右衞門甚だ驚き、大勢を賴みて縛りからげて家の柱につなぎ置く。されども業(げふ)[やぶちゃん注:それぞれの仕事。]あれば皆々外へ出る其跡へ、近付きの馬士(ばし)[やぶちゃん注:馬子(まご)。]寄りしに、人は居らず、長右衞門縛られてありしかば、

「是は如何に」

と問ふ。長右衞門云ふ。

「我れ弟に縛られたり、この縛り解きてくれよ」

と賴む。馬士いぶかりければ、

「さらばそこに生ひたる草を一つかみ我が口ヘ入れてくれ」

と云ふ。馬士不便(ふびん)に思ひ、指圖の草を與へければ、暫くして繩を

「ぶつぶつ」

押切りて、手を打振り立出づる。

 馬士驚き、駈け行きて弟忠右衞門に語る。忠右衞門大に驚き、

「夫(それ)にては定めて往來の人の障りを仕出(しいだ)さん」

と、馬士を初め近鄕の人三四十人をやとひかけ返り見れば、長右衞門は大童(おほわらは)になり、あたるを幸ひに石礫(いちづぶて)を打ち、往來の人々通ることを得ず。

 忠右衞門氣の毒がり、馬士に恨(うらみ)を云ふ程に、馬士連(れん)は是非なく押かゝり、大勢にて捕へしが、力市ばい手強(てごは)く當り打伏せし故にや、縛り置くうちに其夜長右衞門は死したり。

 是に依りて只今騷動にならんやと詮議最中なり。然れども蛇のつきたるには證據多けれぱ、下にて濟むべき沙汰なり。

[やぶちゃん注:蛇が特殊な草を食って威力を示すというのは、各地の伝承にあり、メジャーなものでは上方落語の古典「蛇含草(じゃがんそう)」、それを江戸落語でインスパイアした「そば清」(「蕎麦の羽織」「羽織の蕎麦」とも)が知られる。但し、それは消化効果のある草である。

「安永八年」一七七八年。堀麦水は天明三(一七八三)年没であるから、後の「頃日」(近頃)の用字が腑に落ちる。

「這槻川(はひつきがは)」前にも出てきたが、私は上市川の異名か、当時の分流のようには私は読めるように感じている。上市川の河口付近の左岸が前段に出た水橋地区に近い(一部は接している)からでもある。なお、後のロケーションからは「忠右衞」の家は下流の河口付近にあったと私には読める。【2020年7月27日追記】何時も情報を戴くT氏よりメールを頂戴した。「這槻川」は「万葉集」巻第十七巻の四〇二四番の大伴家持の一首、

  新川郡の延槻河(はひつきがは)を渡りし時に作れる歌一首

 立山(たちやま)の雪し消(く)らしも延槻(はひつき)の

    川の渡瀨(わたりぜ)鐙(あぶみ)漬(つ)かすも

で「延槻河(川)」 は現在の早月川であるとされ、「大日本地誌大系」第二十八巻「三州地理誌稿」(昭和六(一九三一)年蘆田伊人編・富田景周著)に(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの当該ページ画像)、

早月川【萬葉集】作延槻川、其源小又北又之二水出立山麓、西北數十町至折戶村、北轉小早川自東入焉、右升方村、左大島新村、而達于海

とあるとのことであった。私も「早月川」と音が酷似することが気になっていたが、前の「水橋」との地理上の位置に拘り過ぎた。]


   *

「川越」人馬や物資を川渡しする生業であろう。

「三ケ村」不詳。近い地名で中新川郡上市町三日市がある。「今昔マップ」を見ると、現在の上市町の上市川左岸の現在よりももっと広い地域を「三日市」と呼んでいたことが判る。但し、ここから上市川河口(海岸)までは六キロ弱はあり、蛇を転がして行くには長過ぎるので違う。もっと河口近くになくてはおかしいが、見当たらない。【2020年7月27日削除・追記】前記のT氏より、現在の富山県魚津市三ケ(さんが)であるとの御指摘を頂戴した。ここである。注意されたいのは、片貝川の内陸山岳部と、早月川の河口右岸という約九キロメートル以上も離れた飛び地を持つことである。こうした現象は山間部が専ら河川運送に頼り、周囲と隔絶したケースでまま見られる(和歌山県飛び地がその最も良い例である)。ただ、片貝川と早月川は丘陵を隔てて六キロ以上離れおり、実際に如何なる理由でこの飛び地が形成されているのかは、厳密には判らない。しかし、この早月川右岸の「三ケ」地区がこの話柄の場所と考えると、蛇を転がすというシーンが腑に落ちる。さすれば、忠右衛門は現在の早月川河口右岸で早月川の渡し業を営んでいたと理解出来る。いつも乍ら、T氏に感謝申し上げるものである。

「三尺許」(九十一センチ)が「土の上へ出せば五六尺」(約一・五二~一・八二メートル)というのは、最初は蜷局(とぐろ)を巻いていたために誤認したのである。

「一丈餘」三メートル越え。

「法華山長慶寺」不詳。現在の魚津にはこの寺はない。富山県内にもこの山号を持つ長慶寺はない(但し、長慶寺は富山市にはある)。]

 

 されば蛇の變はさまざまに聞ゆ。

 富山の金草山と云ふは、片貝谷の上なり。然るに滑川の木樵の人到りしに、八九尺許なる蛇の逃げ走る躰(てい)を見る。

『如何に』

と思ふに。暫くして猿とや云はん、狒々(ひひ)とやせん、三尺許の人躰(ひとてい)のもの、續きて追掛け行く。樵者(きこり)其跡を見るに、早うして風の如し。家に歸りて人に問ふに、

「夫は『狒々王』と云ふものなり。能く蛇を喰ふ」

と云ふ。

 又同じ片貝谷にて蛇の追ひし獸あり。猫か鼬(いたち)かと覺ゆ。追詰められて松の穴へ入り、空へ逃げて梢より飛ぶ所を、樵夫(きこり)鍬(くわ)にて打殺しけるに、匂ひ堪へ難く、着物にもいつ迄か其香殘りしと云ふ。其香を問へば

「反魂丹(はんごんたん)の匂ひなり」

と云ふ。山人なれば外の香を知らで斯く云ふにや。

「麝香(じやかう)の屬(たぐ)ひならん」

と人々惜(をし)む。

 されば越中の東は信・飛に接すれば、獸蛇(じうだ)の異甚だ多くして筆にあまれり。

[やぶちゃん注:「金草山」不詳。但し、「片貝谷」は片貝川のこの付近(グーグル・マップ・データ航空写真。但し、非常に広域である)であるから、その何れかのピークではあろう。

「狒々」ここは実見した対象は大型の猿の謂いととっておいてよかろう。妖怪のそれにしては、やや小さめだからである。

「狒々王」ここはもう妖獣としてのそれである。ウィキの「狒々」によれば、『日本に伝わる妖怪。サルを大型化したような姿をしており、老いたサルがこの妖怪になるともいう』。『山中に棲んでおり、怪力を有し、よく人間の女性を攫うとされる』。『柳田國男の著書『妖怪談義』によると、狒々は獰猛だが、人間を見ると大笑いし、唇が捲れて目まで覆ってしまう。そこで、狒々を笑わせて、唇が目を覆ったときに、唇の上から額を錐で突き刺せば、捕らえることができるという』。『狒々の名はこの笑い声が由来といわれる』。『また同書では』、天和三(一六八三)年に越後国で、正徳四(一七一四)年には『伊豆で狒々が実際に捕らえられたとあり、前者は体長』四尺八寸、後者は七尺八寸あったという。『北アルプスの黒部谷に伝わる話では、滑川伊折りの源助という荒っぽい杣頭(樵の親方)がおり、素手で猿や狸を打ち殺し、山刀一つで熊と格闘する剛の者であったという。あるとき』、『源助が井戸菊の谷を伐採しようと入ったとき、風雲が巻き起こり人が飛ばされてしまい、谷へ入れないので離れようとした途端、同行の若い樵(作兵衛)が物の怪に取り憑かれて気を失い、狒狒のような怪獣が樵を宙に引き上げ引き裂き殺そうとしたという。源助は狒狒と引っ張り合いになり、しばらく続いたが、作兵衛を殺したらお前たちも残らず殺すと言うと放し立ち去った。源助は作兵衛を背負って血まみれになり、夜明け近くになり仲間が助けたという(肯搆泉達録、黒部山中の事)。この話では狒狒は風雲を起こしてその中を飛び回り、人を投げたり引き裂く妖怪とされる』(以上の話は「三州奇談卷之五 異獸似ㇾ鬼」にも出ている。「肯搆泉達録」は越中通史の先駆けとなった記録で、文化一二(一八一五)年)の完成。富山藩御前物書役野崎伝助の書いた「喚起泉達録」を孫で藩校広徳館の学正を勤めた野崎雅明が書き継いだもの。当該原本の話は明二五(一八九二)年の活字本があり、国立国会図書館デジタルコレクションのここで読める)。『もとは中国の妖怪であり、『爾雅』釈獣に「狒狒は人に似て、ざんばら髪で走るのが速く、人を食う」という。郭璞の注には「梟陽のことである。『山海経』に「その姿は人の顔で唇が長く、体は黒くて毛が生えており、かかとが曲がっている。人を見ると笑う」という。交州・広州・南康郡の山中にもいて、大きいものは背丈が1丈あまりある。俗に「山都」と呼ぶ。」といっている』。『江戸時代の百科事典『和漢三才図会』には西南夷(中国西南部)に棲息するとして、『本草綱目』からの引用で、身長は大型のもので一丈』(三・〇三メートル)『あまり、体は黒い毛で覆われ、人を襲って食べるとある。また、人の言葉を話し、人の生死を予知することもできるともいう。長い髪はかつらの原料になるともいう。実際には『本草綱目』のものはゴリラやチンパンジーを指すものであり、当時の日本にはこれらの類人猿は存在しなかったことから、異常に発育したサル類に『本草綱目』の記述を当てはめたもの、とする説がある』。『知能も高く、人と会話でき、覚のように人の心を読み取るともいう。血は緋色の染料となるといい、この血で着物を染めると退色することがないという。また、人がこの血を飲むと、鬼を見る能力を得るともいう』私の寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の「狒狒」も是非、参照されたい。

「能く蛇を喰ふ」好んで食うとは思われないが、ニホンザルは雑食性で動物の肉も食う。

「反魂丹」一般には「越中富山の反魂丹」で知られる、胃痛・腹痛などに効能がある丸薬。本邦の中世よりの家庭用医薬品として知られる。ウィキの「反魂丹」によれば、元々、『「反魂」は、死者の魂を呼び戻す、つまり死者を蘇生させるという意味であり、「反魂丹」は、もとは中国の説話等に登場する霊薬の呼び名である(説話中に登場する類似のものに、焚くと死んだ者の姿が現れる香・反魂香がある)』。『室町時代、堺の商人・万代掃部助(もず かもんのすけ)が中国人から処方を学び、家内で代々伝えてきた。万代家(後に読みを「もず」から「まんだい」に変更)は』第三『代目の時に岡山藩に移り住み、医業を生業とし』、第八『代目の頃には岡山藩主・池田忠雄のお抱え医となるに至った』。『越中富山藩』第二代藩主『前田正甫』(まさとし)『が腹痛を起こした際、万代の反魂丹が効いたことから、正甫』が、天和三(1683)年にその万代家第十一代目の『万代常閑(まんだい じょうかん)を富山に呼び寄せ、処方のレクチャーを受けた。それ以降、正甫は独自に調合させた「反魂丹」を印籠に入れて常時携帯した』という。元禄三(一六九〇)年のこと、『江戸城内において、三春藩主・秋田輝季が激しい腹痛を訴えたため、その場に居合わせた前田正甫が携帯していた反魂丹を服用させたところ、すぐに腹痛は治まった。これを見ていた諸大名がこの薬効に驚き、自分たちの藩内での販売を頼んだ。正甫は薬種商の松井屋源右衛門に反魂丹を製造させ、諸国に行商させた。この松井屋による行商が、富山の売薬に代表される医薬品の配置販売業のもととなった』とある。『江戸時代の反魂丹の特徴は龍脳が配合されていることであり、またその他』二十『数種の生薬・鉱物成分が配合された処方であったことが過去の文献にみられ』、『一例は以下のようなものである』として、『龍脳、牽牛子、枳実、枳殻、胡黄連、丁子(丁香)、木香、黄芩、連翹、黄連、縮砂、乳香、陳皮、青皮、大黄、鶴虱、三稜、甘草、赤小豆、蕎麦、小麦、麝香、熊香、白丁香、雄黄、辰砂』を挙げてある。私は所謂、鼻を撲(う)つ感じの薬臭い外郎(ういろう)臭のことを言っているものと思う。

「麝香」私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 麝(じやかう)(ジャコウジカ)」の注を読まれたい。

「信・飛」信濃・飛驒。越後を外さんといてぇな!]

今日、先生は、おぞましい最終兵器を起動させてしまう――

○上野公園。

K 「……どう思う?」

先生「何がだ?」

K 「……今の俺を、どう思う?……お前は、どんな眼で俺を見ている?……」

先生「この際、何んで私の批評が必要なんだ?」

 K、何時にない悄然とした口調で。

K 「……自分の……弱い人間であるのが……実際、恥ずかしい……」

 先生、Kを見ず一緒に歩む。先生、黙っている。

K 「……迷ってる……だから……自分で自分が、分らなくなってしまった……だから……お前に公平な批評を求めるより……外に仕方がない……」

 先生、Kの台詞を食って。

先生「迷う?」

K 「……進んでいいか……退ぞいていいか……それに迷うのだ……」

 先生、ゆっくりと落ち着いて。

先生「……退ぞこうと思へば…………退ぞけるのか?」

 K、立ち止まる。黙っている。
 先生、少し行って止まる。しかし、Kの方は振り返らない。暫くして。

K 「…………苦しい……」

 先生、振り返る。
 K、のピクピクと動く口元のアップ。
 先生の右の眼鏡アップ。表面に映るKの小さな姿。

   *

實際彼の表情には苦しさうな所があり/\と見えてゐました。もし相手が御孃さんでなかつたならば、私は何んなに彼に都合の好い返事を、その渇き切つた顏の上に慈雨の如く注いで遣つたか分りません。私はその位の美くしい同情を有つて生れて來た人間と自分ながら信じてゐます。然し其時の私は違つてゐました。

(『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月26日(日曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第九十四回よりシナリオ化と末尾引用)

   *

○上野公園。(続き)

 振り返った先生の右の眼鏡アップ。表面に映るKの小さな姿(そのままの画面で)。

先生「精神的に向上心のないものは馬鹿だ。」

 K、微かにびくっとする。間。ゆっくりと先生の方へ歩み始めるK(バスト・ショット。僅かに高速度撮影で、散る枯葉を掠めさせる)。

 カット・バックで先生(バスト・ショット、Kよりも大きめ。僅かにフレーム・アップさせながら)。

先生「精神的に向上心のないものは、馬鹿だ――。」

 Kの後頭部(やや上から魚眼レンズの俯瞰ショット。僅かに高速度撮影)。間。

K 「馬鹿だ……(間)……僕は馬鹿だ……」

 K、ぴたりとそこで立ち止まる。K、うな垂れて地面を見詰めているのが分かるように背後から俯瞰ショット。

 先生の横顔(アップ)。ぎょっとして顔を上げる。何時の間にか先生の前にKの姿はない。カメラ、ゆっくりと回る。先生がさっきの進行方向を向くと、Kの後姿。のろのろとフランケンシュタインの怪物のように歩むK。

『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月27日(月曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第九十五回をもとにシナリオ化)

 

2020/07/26

三州奇談續編卷之八 山王の愛兒

 

    山王の愛兒

 滑川西口瀨羽(せは)町と云ふに、山王の神社あり。祭禮には神輿出で、人崇め、神靈あること限りなし。目のあたり神靈種々を見る、算(かぞ)へ盡すべからず。

[やぶちゃん注:「滑川西口瀨羽町」現在の滑川市瀬羽町附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。当時は、宿場や物資の集産地としての宿方と、漁業や物資の船積みの浦方に分かれており、北陸街道沿いに西から東へとメイン・ストリートが形成されて非常に栄えていたという。

「山王の神社」滑川市加島町にある加積雪嶋神社(かずみゆきしまじんじゃ)の江戸時代の呼称。創建は不詳。古くは社域も広大で社家・社僧が奉祀した大社であったとされる。先に出た同じ滑川の櫟原(いちはら)神社(ここ。滑川市神明町)を「東の宮」と呼称するのに対して、当社を「西の宮」と通称する。国司として越中に赴任した大友家持も度々当社に参詣し、源義経が奥州へ下る際には武運を祈願して拝殿に沓を残したという。江戸時代も山王社と称して前田家の崇敬も篤く、幣帛・諸器物などの寄進を受けている。]

 

 然るに明和七年六月廿九日と七月朔日の兩夜、不思議の神燈ありき。此社は拜殿の奧に障子あり。此外は石階にして、六尺許去りて本殿の階ヘ上る。然るに夜五時頃に至り、朗(ほがら)かなる灯火ありて、障子の内にかくる立合せの二間(にけん)前なる所に、三角に照り輝く。拜殿中の備へ物。高麗狗(こまいぬ)甚だ明かに見え、繪馬も見分くベき程なり。夜九つ頃に灯沈みて見えず。如斯(かくのごとき)の事兩夜なり。

[やぶちゃん注:「明和七年六月廿九日と七月朔日」この記載は或いは麦水の記載ミスかも知れない。何故なら、この年は六月が閏月で閏六月があるからで、普通は閏を外しては表現しないからである。但し、閏が落ちただけだとすると、怪異出来が連続した二日に亙って発生したことになって話としては腑への落ち具合がすっきりする。明和七年閏六月は小の月で二十九日で終わり、翌日が七月一日だからである。明和七年閏六月二十九日はグレゴリオ暦一七七〇年八月二十日で、同七月一日は八月二十一日に相当する。

「二間」三メートル六十四センチ弱。

「夜九つ」午前零時。]

 

 諸人怪しみ、

「此火は何なるぞ」

と打擧(うちこぞ)り見る。役人某なる人來り窺ひ、若しくは

「隣家の灯火の漏れ來(きた)るにや」

と、近隣を制し火を消さしむるに、灯明(とうみやう)變ること更になし。

 火は西の方より來りかゝり、暫くして下へ引入り消ゆ。初めは竹の子の如く四五寸許なり。暫くして二三寸許となり、一時許にして一寸許となり、將棊(しやうぎ)の駒の如くになれば、下ヘ落ちてなし。又暫くして西の方よりかゝり來ること前の如し。

 此役人なる人怪みて後ろへ廻(まは)り窺ふに、闇(くら)うして火光(くわくわう)なし。前に廻れば又本(もと)の如く、障子に移りて明らかにかゝれり。

 二夜にして近隣神靈を恐れ、又火災を恐れて、櫟原(いちはら)の神主吉尾(よしを)氏を招じて、幣(ぬさ)を捧げて神樂(かぐら)を奏す。爰に納受ありけん、火消えて再び出でず。

 神主も役人も予が親友なれば、悉く聞けり。此靈火何と云ふ事を知らず。尤も此通は鬼火多し。眼目山立川寺(がんもくざんりゆうせんじ)へは龍女が献ずる灯、必ず七月の間に、此邊(このあたり)加茂川を上る。

[やぶちゃん注:プラズマや雷球ではこのようにはなるまい。しかも二日続けてである。されば、この怪火現象は私には説明がつかない。

「吉尾氏」不詳。

「眼目山立川寺」富山県中新川郡上市町眼目にある曹洞宗の名刹

「加茂川」富山県魚津市を流れる鴨川(地図中央を西に流れる川。別名「神明川」、古くは河口付近では「鬼江川(おんねがわ)」とも呼ばれていた)があるが、立川寺と位置が全く合わない。同寺直近を下るのは上市川であるから、その誤りではなろうか?]

 

 又近き頃蓬澤(よもぎざは)と云ふ所に、山缺(か)けたりしに、缺口(かけぐち)に夜々火光あり。光り二三十步を照すべし。每夜の事なれば、見に集(あつま)る人多し。奉行所へ聞えなぱ里の費(つひ)へならんと、里民談じて夜中火光の所へ印しに竹をさし置き、翌日に至りて掘出(ほりいだ)し見るに、三尺計なる丸き石なり。靑紫にして斑紋あり。火光の出づべき樣(やう)なし。打破りて捨て、後再ぴ火光なしと聞えし。

[やぶちゃん注:「蓬澤」中新川郡上市町蓬沢であろう(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「奉行所へ聞えなぱ里の費へならん」このような山間部の不審火は大きな山火事となる可能性が頗る高いから、当然、早急に藩に届け出なくてはならない。しかし、そうすれば、以前に述べた通り、大変な手間(常時監視と現場保全)や検使の尋問や世話(宿所や食事は総て村が負担する)が面倒だからである。例えば、私のオリジナルな高校古文教材の授業案である「やぶちゃんと行く江戸のトワイライト・ゾーン」の第一話『【第一夜】「うつろ舟の異人の女」~円盤型ヴィークルの中にエイリアンの女性を発見!』の曲亭馬琴編の「兎園小説」中の琴嶺舎(滝沢興継。馬琴の子息。但し、馬琴の代筆と考えてよい)の「うつろ舟の蠻女」(リンク先は高校生向けなので新字体)を読まれれば、このめんどくさい事実が腑に落ちるはずである。なお、この怪光(石)現象は私は原因を想起出来ない。所謂、地殻内の圧力によるプラズマ発生ともされる地震光かとも考えたが、ここでは実際にその光が二、三十歩を照らすほどの明るさであるというのはそれと附合しないと思う。識者の御教授を乞う。]

 

 されば

「此等の内にや」

と、色々宮殿の火をためすに、中々さにも非ず。火の色は黃にして常の灯なり。靑き妖火の類(たぐひ)とは見えず。只神靈の然らしむることゝ覺ゆ。此神の靈は度々(たびたび)にして常の如し。堂再建の時も、近所の老人の枕上に立ちて、再興を乞ひ給ふこと幾人もありし。夢裡(ゆめうち)の裝束(さうぞく)かたり合ひて見るに、皆同じ事なり。再興終りて拜殿の屋根をこけらに葺(ふ)く。然るに誤ちて屋根より落つる大工ありし。然るに恙なし。屋根より落ちなば、本殿の石の階(きざはし)に打たれて甚だ痛むべきなるに、此大工落ちたる時、下に赤衣(しやくえ)の袴着て烏帽子(えぼし)召したる人出で、抱きて社殿の内に入れらるゝと覺ゆ。故に痛まず。何ぞ屋根より落つるとて、四五間[やぶちゃん注:七・二七~九・〇九メートル。]も違ふ拜殿の中へ臥するの理(ことわり)あらん。眞に冥慮とぞ見えし。【大工には非ず、手傳(てつだひ)の息子なり。越前屋惣五郞と云ふ者の子なり。】故に大工の親一跡(いつせき)を賣りて、御戶帳(みとちやう)を拵へ、其日に寄進すと聞ゆ。

[やぶちゃん注:この割注は注目すべきところで、父の手伝いにきたうら若い青年或いはちょっと年嵩の少年(父の正式な弟子になっていないから若いと考えるべき)なのである。本話の以下の神霊の愛童の性質の本筋と繋がるのである。

「越前屋惣五郞」不詳。

「一跡」後継ぎに譲るべき全財産。身代。まあ、ここは、その時に実際に持っていた金を総て、といった謂いであろう。

「御戶帳」「御斗帳」とも書く。仏像などを安置する厨子などの上に懸ける覆い。金襴・錦など美しい高級な布で作られる物が多い。斗(ます)を伏せたような形をしていることからかく呼ぶ。]

 

 又其後漁人の夢に告げて、

「鮹(たこ)の頭を備ヘよ」

となり。其頃鮹來(きた)ることなし。然れども告げに任せ、鰯網(いはしあみ)をかへて鮹網を入るゝに、大(おほい)に鮹を得たり。

 早速此頭(あたま)に米を添へて献供(けんぐ)すと聞ゆ。

 安永の頃も、神輿又一つ新しく出來(しゆつたい)せしに、此人足(にんそく)の内に親(おや)死して十日許なる者交(まぢは)り出でしに、神輿の棒倒れて額に當り、大(おほい)に疵(きず)付きしことあり。靈罰も又いちじるし。

 小兒を愛し給ふこと、諸社にすぐれて甚し。不思議にも小兒集り、此拜殿を荒し遊ぶこと、いかなる雨風(あめかぜ)の日といへども絕えず。雪二三丈に及ぶ日も、小兒二三人は必ず來り遊ぶなり。然して戶の鍵をはづし、神供をあらす。然れども是を叱れば、叱る人に祟りて、小兒には咎めなし。故に役人なる人は格別、下僕などは小兒を追ふことならず。只大いに一威を恐る。一年(ひととせ)小兒御神躰を盜み出(いだ)し、大皷(たいこ)をたゝき、つれ、杖に荷ひて跳り廻(まは)る。近隣の人大いに恐れ、小兒を叱り御神躰を本(もと)の所へ納む。其夜の夢に、

「汝等いかなれば構ふこと斯(かく)の如きぞや。神慮終日小兒と遊びて樂(たのし)むに、汝が爲に興(きよう)盡きたり。然れども是本(も)と神忠に出づ、故に祟りをなさず。重ねて如斯(かくのごとき)の事あらぱ大(おほい)に罰せん」

とありし。小兒へは一向咎(とがめ)なし。御本躰の失ひたるも多し。小兒の業(わざ)なる時は咎めなし。御本躰は一尺許の木像なり。【一說に、弘法大師作正觀音(しやうくわんのん)共(とも)云ふ。然れ共衣冠正しく見ゆ。神躰實(じつ)なり。】初めは二十一躰ありしよし。今は八躰ならではなし。然れども賞罰同じ事なり。

 此(この)靈威にして此和柔(なごやか)なるの理(ことわり)計り難し。實(げ)に小兒を好き給ふと見ゆ。布袋和尙は川渡りにもあたまをいたゞき、地藏菩薩は賽(さい)の河原に石積みて鬼に詑び給ふも、慈悲計りにはあらじ。元來天性(てんせい)小兒好きより事發(おこ)ると覺ゆ。

 菅相丞(くわんしやうじやう)は小兒の遊びを見て、

「此心末(すゑ)通らば人程有難きものはあらじ」

と宣ひ、貞德法師はふり袖着て交り、長頭丸(ちやうづまる)の童(わら)べ好(ず)き聞えし。

 然るに儒者先生殿のみ小兒の遊びを叱り廻(まは)し、作り馴れたる澁面(じふめん)にかたいぢなるを仕似(しに)せとす。是れ此門の「店(たな)の出しそこなひ」にて、不はやり思ひ知らるゝなり。只々此神の和光、人近き咄(はな)しを聞くに付けて、尊(たつと)さ優(まさ)りし心地して、予が唐好(からずき)の癖も、少しは薄らぎ覺えしも又神思(しんし)にや。

[やぶちゃん注:「備へよ」はママ。「供へよ」。

「安永」一七七二年~一七八一年。

「親死して十日許なる者交り出でしに、神輿の棒倒れて額に當り、大に疵付きしことあり。靈罰も又いちじるし」ここは単に死穢を嫌ったもの。

「一年小兒御神躰を盜み出し、大皷をたゝき、つれ、杖に荷ひて跳り廻(まは)る」底本は「大皷をたゝきつれ、」であるが、どうもおかしいのでかく読点を特異的に挿入した。「つれ」はその悪童の「連れ」の意で採ったのである。一貫して小児は複数形ではないが、複数でやったほが賑やかでよいではないか。太鼓を担うのも杖で二人の方が叩き易かろう。

「神躰實(じつ)なり」二行割注のため、よく見えない。「寳」のように見える。但し、「近世奇談全集」は『實』であり、神体が宝なのは当たり前だから、ここは御神体が鏡などのシンボルではなく、実際の像であることを言っていると採った。

「布袋和尚は川渡りにもあたまをいたゞき」よく意味が判らぬ。子どもらを面白がらせるために蛸坊主のようにしてという意味か。伝説の仏僧布袋和尚(唐末から五代時代にかけて明州(現在の中国浙江省寧波市)に実在したとされ、本邦では専ら七福神の一人として知られる)は、沢山の子ども(十八人とも)を引き連れていたと言われており、小難しい説法をせず、笑顔で子どもたちと遊んだとも伝えるので、ここに例として出すのは腑には落ちはする。

「菅相丞」菅原道真。(くわんしやうじやう)は小兒の遊びを見て、

「此心末通らば人程有難きものはあらじ」出典未詳。

「貞德法師」江戸前期の俳人・歌人・歌学者であった松永貞徳。彼は別号にここに出る「長頭丸(ちょうずまる)」や保童坊があり、子供好きであったとされる。

「仕似(しに)せとす」必ずそれをトレード・マークとする。

「此門」儒家。

「店の出しそこなひ」当然あるべき態度としては誤った行為であること。

「不はやり」「不流行(ふばや)り」か。「評判が悪い悪しき姿勢」であることを言うのであろう。只々

「和光」「和光同塵」の略。元は「老子」の第四章にある「和其光、同其塵」からで、「光をやわらげて塵(ちり)に交わる」の意にして、「自分の学徳・才能を包み隠して俗世間と普通に交わること」を言う。仏語に転じて、仏・菩薩 が本来の威光を和らげ、塵に穢(けが)れた現世に仮の身を現わし、衆生を救うことをも指す。

「人近き」民に親しむ。

「予が唐好(からずき)の癖」麦水は和学より漢文学がお好き。

「神思」本邦の神の御心を無意識のうちに受けた精神の在り様(よう)。 ]

 

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 丈艸 二

 

       

 

 元禄四年芭蕉が去来の落柿舎に滞在した時は、丈艸も訪問者の一人であった『嵯峨日記』四月二十六日の条に「史邦丈艸見ㇾ問」とあり、次の詩及(および)句が記してある。

[やぶちゃん注:「元禄四年」一六九一年。

「四月二十六日」二十五日の誤り。

「史邦丈艸見ㇾ問」「史邦・丈艸、問(と)はる」。]

 

   題落柿舎           丈艸

 深対峨峰伴鳥魚

 就荒喜似野人居

 枝頭今欠赤虬卵

 青葉分題堪学書

 

   尋小督墳

 強攪怨情出深宮

 一輪秋月野村風

 昔季僅得求琴韵

 何処孤墳竹樹中

 

 芽出しより二葉に茂る柿の実     丈艸

 

[やぶちゃん注:漢詩・発句の間は一行空けた。漢詩は実は訓点附き(ここでは各句末に句点まで打たれてある)であるが、向後は白文で示す。五月蠅くなるだけで、しかも一部で記される読みが現代仮名遣という気持ちの悪いもので、凡そ完全には電子化する気が起きないものだからである。今まで通り、以下に正字正仮名で一応本文のそれに概ね沿いながら訓読文を附す。但し、恣意的に正字とし、歴史的仮名遣を用い、句点は排除し、一部に字空けを施す。

 

  落柹舍に題す           丈艸

深く峨峰(がほう)に對し 鳥魚(てうぎよ)を伴ふ

荒(くわう)に就き 野人の居に似たるを喜ぶ

枝頭(しとう) 今 缺く 赤虬(せききう)の卵(らん)

靑葉(せいえふ) 題を分かちて 書を學ぶに堪(た)へたり

 

  小督(こがう)の墳(つか)を尋ぬ

强(た)つて怨情(ゑんじやう)を攪(みだ)して 深宮を出づ

一輪の秋月(しうげつ) 野村(やそん)の風

昔季(せきねん) 僅かに琴韵(きんいん)を求め得たり

何處(いづこ)ぞ 孤墳(こふん) 竹樹(ちくじゆ)の中(うち)

 

芽出(めだ)しより二葉(ふたば)に茂る柹の實(さね) 丈艸

 

「落柹舍に題す」の語注。

・「峨峰」嵯峨の峰々。

・「鳥魚を伴ふ」鳥が楽しく囀り鳴き、魚が気儘に泳ぎ回っている。

・「荒」落柿舎への野道は荒れるに任せて。

・「野人」野夫(やぶ)。田舎の農夫。本来なら持ち主の去来を形容するが、ここはそれを芭蕉に置き換えている。

・「枝頭 今 缺く 赤虬の卵」枝先に今は柿の実はなっていないけれど。「赤虬」「虬」(きゅう)は「虯」(きゅう)の俗字で、本来は蛟(みづち=龍)の子の中で二本の角のある虯龍のこと。「赤い虯龍の卵」から転じて「赤く熟した柿の実」の異名である。]

・「靑葉 題を分かちて 書を學ぶに堪へたり」青々としたその若葉は、種々の詩歌を詠んで書きつけるに相応しい。木の葉に詩歌を記す故事は多い。

 

「小督の墳を尋ぬ」の語注。

・「小督」「平家物語」で知られる高倉天皇の寵姫小督(保元二(一一五七)年~?)が平清盛のために宮中から退けられて嵐山嵯峨野に隠棲し、そこに果てたと伝え、当時、既に複数の「小督塚」と伝えるものがあった。それは「去来 三」で詳しく考証して注したので見られたい。

・「强つて」已む無く。無理矢理。「出づ」を修飾する語。清盛の横暴によって帝への慕情を「已む無く」断ち切って身を引いたことを言う。

・「一輪の秋月 野村の風」隠棲した嵯峨野の荒涼寂寞をシンボライズする。

・「昔季 僅かに琴韵を求め得たり」「琴韵」は琴の調べで、ここは「平家物語」で、源仲国が高倉天皇の命で小督の隠居所を尋ねたとされるエピソードを受けた、謡曲「小督」に基づくもので、琴の音を頼りに仲国が小督を探し当てて対面する部分を裁ち入れたもの。]

 

丈草の句、

 芽出しより二葉に茂る柹の實

「二葉」は実際の柿の実から芽を出した小さな二葉を以って「茂る」と見立て、秋の赤き実の壮観を匂わせたもの。タルコフスキイの「惑星ソラリス」の終わり近くの印象的な窓辺の容器からの発芽のシーンを私は図らずも想起した。]

 

 本によってはこの「芽出しより」の句を史邦の作とし、「途中の吟」という前書のある「ほとゝぎすなくや榎[やぶちゃん注:「えのき」。]も梅さくら」の句を丈艸としているそうである。「ほとゝぎす」の句は『己(おの)が光』にも丈艸として出ているから、あるいはその方が正しいのかも知れぬ。同時に来た二人の訪問者の句が、記さるるに当って混雑するなどということは、決してあるまじき次第ではない。同じく二十六日の条には「芽出しより」の句を発句として五句の附合(つけあい)あり、四句目に丈艸の「人のくむうち釣瓶(つるべ)まつなり」というのがある。誰も一句しかないところに丈艸だけ二度出るのは妙だから、発句を史邦とすれば工合がいいようであるが、『一葉集』の方で見ると、「人のくむうち」は凡兆になっている。いよいよ出でてわからない。『丈艸発句集』には「芽出しより」も「ほとゝぎす」も両方入っているが、前者を『嵯峨日記』に拠り、後者を『己が光』に拠ったとすれば、それまでの話である。『去来発句集』の前書には「芽立より二葉にしげる柿の実と丈艸申されしも」云、ということが見えるから、丈艸としても差支ないかと思う。但いずれにしてもこの両句は丈艸のために重きをなすほどのものではない。

[やぶちゃん注:「己が光」車庸編。元禄五(一六九二)年刊。

「同じく」「嵯峨日記」『二十六日の条には「芽出しより」の句を発句として五句の附合あり』

「一葉集」「俳諧一葉集」。仏兮(ぶっけい)・湖中編に成り、文政一〇(一八二七)年刊。言わば、松尾芭蕉の最初の全集で、芭蕉の句を実に千八十三句収録し、知られる俳文・紀行類・書簡・言行断簡(存疑の部なども含む)をも所収する優れものである。大正一四(一九二五)年紅玉堂書店刊の活字本の国立国会図書館デジタルコレクションのここと次のここで確かに丈草とする。以下に五句附合部分を電子化しておく。

   *

廿六日

 

芽出しより二葉に茂る柿の實      丈草

 はたけの塵にかゝる卯の花      芭蕉

蝸牛たのもしげなき角ふりて      去來

 人のくむうちを釣瓶まつなり     丈草

有明に三度飛脚の行やらん       乙州

 

   *]

 

 丈艸の漢詩は相当作品があるらしいが、この二首の如きも嵯峨を背景としているだけに、特に看過しがたいものがある。小督の塚は芭蕉も落柿舎へ来た翌日に弔っている。「墓は三軒屋の鄰、藪の中にあり。しるしに桜を植たり。かしこくも錦繡綾羅の上に起ふして、終に藪中の塵芥となれり。昭君村の柳、巫女廟の花のむかしもおもひやらる」といい、「うきふしや竹の子となる人の果」と詠んだのが、「昔季僅得求琴豹。何処孤墳竹樹中」に当るわけである。

[やぶちゃん注:以上は「去来 三」の私の注を参照されたい。]

 

 芭蕉の遺語として伝えられたものの中に、次のようなことがあった。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。]

 

正秀(まさひで)問[やぶちゃん注:「とふ」。]、古今集に空にしられぬ雪ぞ降ける、人にしられぬ花や咲らん、春にしられぬ花ぞ咲なる、一集に此三首を撰す、一集一作者にかやうの事例(ためし)あるにや、翁曰[やぶちゃん注:「いはく」。]貫之の好(このめ)ることばと見えたり、かやうの事は今の人はきらふべきを、昔はきらはずと見えたり、もろこしの詩にも左様の例あるにや、いつぞや丈艸の物語に、杜子美(としび)に専ら其(その)事あり、近き詩人の于鱗(うりん)とやらんの詩におほく有事とて、其詩も聞つれどわすれたり。

或禅僧詩の事を尋られしに、翁曰、詩の事は隠士素堂と云ふもの此道に深きすきものにて、人も名をしれるなり。かれ常に云、詩は隠者の詩、風雅にてよろしとなり。

[やぶちゃん注:「俳諧一葉集」(大正一四(一九二五)年紅玉堂書店刊)を国立国会図書館デジタルコレクションで調べたところ、「遺語之部」のここに前者が(左の「541」ページ後ろから七行目)、ここに後者があった(左の「605」ページの前から四行目)。

「古今集に空にしられぬ雪ぞ降ける、人にしられぬ花や咲らん、春にしられぬ花ぞ咲なる、一集に此三首を撰す」正秀の謂いには誤りがあり、最初のそれは、

   亭子院歌合に

 櫻散る木(こ)の下(した)風は寒からで

     空に知られぬ雪ぞ降りける

で貫之の歌ではあるが、「古今和歌集」ではなく、「拾遺和歌集」の「巻第一 春」に所収するものである(六四番)。以下は「古今和歌集」。

   春の歌とて、よめる      貫之

 三輪山をしかも隱すか春霞

     人に知られぬ花や咲くらむ

        (「巻第二 春歌下」・九四番)

   冬の歌とて、よめる    紀 貫之

 雪降れば冬ごもりせる草も木も

     春に知られぬ花ぞ咲きける

        (「巻第六 冬歌」・三二三番)

因みに、この遺語は芥川龍之介が「芭蕉雜記」の「十一 海彼岸の文學」に順序を逆にして引いている。その解析は驚くべく緻密なものである。リンク先の私の古い電子テクストを是非読まれたい。宵曲は或いはそれを知っていて、しかもやや嫉妬染みて紹介しなかったものかも知れない。]

 

 元禄人の漢詩に対する造詣は、固より今人の揣摩(しま)を許さぬ。杜詩を愛して最後まで頭陀(ずだ)に入れていたという芭蕉が、特に二人の説を挙げて答えているのは、頗る注目に値する。元禄の俳諧はその初期に当り、漢詩によって新生面を開いたと見るべき点がある。素堂は『虚栗』以前からの作家であり、漢詩趣味の人として自他共に許しているのみならず、芭蕉よりやや年長であるから、その説を引くのに不思議はない。年少の門下たる丈艸の説を特に引いているのは、漢詩に対する造詣の自ら他に異るものがあったためであろう。丈艸は俳諧に志すことが遅かったから、其角以下の諸作家の如く、形の上に現れた漢詩趣味はむしろ稀薄であるが、それは前に述べた禅臭の乏しいのと同じく、造詣の露出せざる点において、丈艸の風格の重厚なる所以を語るものでなければならぬ。

[やぶちゃん注:「揣摩」「揣」も「摩」もともに「おしはかる」の意で、他人のことなどをあれこれと推量すること。]

 

 『猿蓑』以後における丈艸の句にはどんなものがあるか、少しく諸書から抄出して見ることにする。

 はね釣瓶蛇の行衛や杜若      丈艸

[やぶちゃん注:「はねつるべへびのゆくへやかきつばた」。カット・バックで面白いが、ちょっと贅沢に対象を詰め込み過ぎていて、感興を引き出すのが「行衛や」だけで今一つパンチに乏しくなってしまった憾みがある。]

 辻堂に梟立込月夜かな       同

[やぶちゃん注:中七は「ふくろたちこむ」。月皓々たる中に、それを避けて梟が辻堂にぎっしりと籠っているのである。明暗を逆手にとった佳句である。]

 草庵の火燵の下や古狸       同

[やぶちゃん注:「火燵」は「こたつ」。一九八九年岩波文庫刊の堀切実氏の編注になる「蕉門名家句選(下)」で、『貞享五』(一六八八)『年八月、丈草が病気を理由に遁世したあと、参禅の師玉堂和尚に所縁を求めて居を定めた京都深草の庵でのことであろう』と注されておられる。]

 しら浜や犬吠かゝるけふの月    同

[やぶちゃん注:松尾勝郎氏編著「蝸牛 俳句文庫17 内藤丈草」(一九九五年蝸牛社刊)によれば、『元禄六』(一六九三)『年の、仲秋』『八月十五夜の月』(「けふの月」でその日を特に指すことが出来る)を『惟然・洒堂たちと淀川に』『賞した折の句』とある。]

 藁焚ば灰によごるゝ竈馬かな    同

[やぶちゃん注:上五は「わらたけば」、「竈馬」は「いとど」。これはもう真正の直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目カマドウマ上科カマドウマ科カマドウマ亜科カマドウマ Diestrammena apicalis でなくてはならない。かすかな赤いグラーデションが見える。好きな句である。]

 くろみ立沖の時雨や幾所      同

[やぶちゃん注:上五は「くろみだつ」、座五は「いくところ」。広角レンズで琵琶湖の沖を撮る。よく見ると、そこにところどころ黝(くろ)ずんだところが、幽かにぼやけるように動いて見える。それが動いてゆく時雨の驟雨のそれなのだ、というランドマークにダイナミズムを与えた丈草の名句に一つである。宵曲も後で述べるように、この「藤の実」所収の句形が素晴らしい。「炭俵」の「黒みけり沖の時雨の行(ゆき)どころ」ではレンズが望遠で画面中の動的対象が一つに絞られて、完全に興が殺がれる。]

 朝霜や聾の門の鉢ひらき      同

[やぶちゃん注:中七は「つんぼのかどの」。「鉢ひらき」は「鉢開き」で「鉢坊主」のこと。所謂、托鉢して金品を乞い歩く僧を言う。]

 ほそぼそと塵焚門の燕かな     同

[やぶちゃん注:中七は「ちりたくかどの」。モノクロームに焚く火のたまさかに燃え上がる赤と、ツバメの喉と額の紅がさっとかすめて、部分彩色される。素敵な句だ。]

 野馬のゆすり起すや盲蛇      同

[やぶちゃん注:「野馬」は「かげろふ」と読む。座五は「めくらへび」。「陽炎」を「野馬」と表記するのは「荘子」の「逍遙遊篇」に基づくもの。岩波文庫(一九七〇年刊)の金屋治訳注の注によれば、『郭注に「野馬とは游気なり」とあり、成玄英の疏』『は「青春の時、陽気発動し、遙かに藪沢の中を望めばなおなお奔馬の如し。故に野馬という。」と説明する』とある。「盲蛇」は未だ寝坊の、冬眠から覚めぬ地中の蛇を言ったものであろう。「野馬」という当て字が非常に上手く機能して心理上の画像を豊かにしている。]

 うかうかと来ては花見の留守居かな 同

 人事の句が少いのは『猿蓑』已に然りであった。その後においてもこの傾向に変りはない。「うかうかと来ては」の句がその点でやや珍しいものであるが、花見そのものでなしに、「花見の留守居」であるところはやはり丈艸である。この句には丈艸一流の滑稽趣味の存することを見逃し難い。

[やぶちゃん注:堀切実氏の前掲書では、『春の日和につられて、うかうかと親しい人の家を訪ねたら、ちょうど一家そろって花見に出かけようとするところ、つい留守居を頼まれて引き受けてしまい、そのまま一日中その家に過ごすことになってしまったというのである。これはしくじったという気持もあろうが、まあ、これも一興よと留守居を楽しむ気分が中心であろう。隠棲の身とて、家族もなく、俗用もない気楽な丈草の立場が軽妙で剽逸な味わいとなって表われている』とされた上で、「留守居」について語注され、『留守番をすること。①花見に出かけたあとの留守番、②花見をしながらの留守番、の両解があり、西村真砂子氏は、江戸幕府職名の一「留守居役」にひっかけて、気取った言い方をしたもので、②の解がふさわしいとする』とある。私も花も何もない留守居では淋しい。一本(ひともと)の小さな桜の木を留守居宅の庭に配したい。さればこそ、「花見の留守居かな」がモノクロームから天然色に代わる。]

 

 ほそぼそと芥を焚く門の燕も悪くない。藁灰に汚れる竈馬に目をとめた点にも、その微細な観察を窺い得るが、就中(なかんずく)元禄俳諧の骨髄を捉えたものは、「くろみ立沖の時雨」の一句であろう。眺めやる沖の方は時雨が降っているために、幾所も黒み立っている。空も波も暗い。そういう海上の光景がひしひしと身に迫って来る。去来にも「いそがしや沖の時雨の真帆片帆」という句があり、句としては働いているけれども、この丈艸の句のような蒼勁(そうけい)な力がない。自然に迫るものを欠いている点で竟(つい)に一籌(いっちゅう)を輸(ゆ)さねばなるまいと思う。『炭俵』には「黒みけり沖の時雨の行(ゆき)どころ」となっているが、「くろみ立」の方が調子が強い。「行どころ」は「幾所」に如かぬようである。

[やぶちゃん注:宵曲の、去来の句との比較も含めて、全面的に支持するものである。

「蒼勁」筆跡や文章が枯れていて、しかも力強いさま。

「一籌(いっちゅう)を輸(ゆ)」すは「一段階、劣る」「一歩、譲る」の意。「籌」は実務や占術に於いて数を数えるのに用いた木の串(くし)で、「輸する」の「輸」には「致す・運ぶ・移す」以外に「負ける・負け」の意があり、ここはそれ。もともとは宋の陸游の詩「九月六夜夢中作笑詩覺而忘之明日戲追補一首」の最終句「道得老夫輸一籌」に基づくという。]

 

 大はらや蝶の出てまふ朧月     丈艸

[やぶちゃん注:堀切氏は前掲書で、「北の山」(句空編・元禄五(一六九二)年刊)の句形、

 大はらや蝶のでゝまふ朧月

で本句を示され、『朧月の夜、大原の里を逍遥していると、ほのかな明かりの中に白い蝶がひらひらと舞っているのが眼に映った、というのである。洛北の大原は『平家物語』や謡曲の『大原御幸』で知られる歴史的由緒のあるところ、朧夜に浮かび出た蝶は、あるいはこの地に隠棲した建礼門院の精霊の幻覚であるのかもしれない。「でゝ舞ふ」には、あたかも能舞台にシテが登場してくるときのような趣も感にられよう。句は、そうしたよ〝実〟と〝虚〟の入り交じった夢幻的な世界を一幅の画のようにとらえているのである。そニに作者の詩情が見事に形象化されているわけである。蝶は夜飛ばないものとされるが、作者の眼には確かにそれが蝶と映ったのであろう』と評釈され、語注されて、「大はら」は『洛北(京那府愛宕郡)の大原の地名とみる説と洛西(同乙訓郡)の大原(大原野)とみる説がある。前者は『平家物語』濯頂巻の「大原御幸」や謡曲『大原御幸』で知られ、建礼門院の庵室であった寂光院や三千院がある。また後者とみる説は地形的な点を考慮に入れた見解である。両者ともに「朧の清水」なる名所をもっている』とあり、「蝶」には、『春の季題。蝶は夜間飛ばないものという非難があるが、たとえ蛾などの虫であったにしても、作者はそれを蝶として詠んだものとすれば、それはそれで差し支えあるまい』とされる(「朧月」も春の季題である)。さらに、『出典とした『北の山』以外は中七「出て」とあり、これを「イデテ」と読む説もあるが、『北の山』の句形に従って、「デテ」と読むべきである。また去来の「丈草が誄」(『本朝文選』巻六・『幻の庵』所収)によれば、去来が知友の句を集めて深川の芭蕉に送ったところ、芭蕉が丈草のこの句について「この僧なつかしといへ」と返書に記して寄こしたと伝えられる。なお、出典としてあげた『幻の庵』』(魯九編・宝永元(一七〇四)年自跋)『では、去来の追悼詞(「丈草誄」と同文)中に出ている句である。元禄四年春、加賀から上洛した句空とともに大原に遊吟した折の作と推定される』とある。なお、夕刻陽が陰ってからでも飛翔する蝶はいる。渡りをする蝶は早朝暗い時間から飛び始める。実際、摂餌もパートナー探し(紫外線が必要)も出来ず、夜行性の他の動物に捕食されるリスクも高まるから、夜に蝶が飛んでメリットはないから、殆どの蝶は飛ばないことは事実である。しかし、文芸、特に和歌や発句に博物学的な正確さを要求するようになるのは、実際には近代以降の喧騒に過ぎず、堀切氏の言うように、丈草には見えたのだという〈詩的幻想〉で何ら問題ない。寧ろ、「これはあり得ない」と切り捨てる馬鹿に付き合ったり、これこれの種が朧月夜のこの時間帯なら飛ぶのでその種であると学名を記して鼻白ませる者を相手にする必要など、ない。但し、私はこれを以って丈草の代表句の一つに数えるのには、やや躊躇するものである。]

 

 雨乞の雨気こはがるかり著かな   同

[やぶちゃん注:「あまごひの あまけこはがる かりぎかな」。堀切氏は前掲書で、『それぞれに装いをした村人たちがそろって神社に集まり、雨乞いの祈願をしているが、その中には衣裳が借着であるために、黒雲が出てきて雨の降りそうな空に内心気が気でない者もいるようだ、というのである。人情のかかしみを道破したところに、俳意が働いている』と評釈しておられる。]

 

 蘆の穂や顔撫揚る夢ごゝろ     同

[やぶちゃん注:中七は「かほなぜあぐる」。堀切氏の前掲書評釈には、『舟旅をしているときのことであろう。舟が芦間を分けて進むとき、風にそよぐ岸辺の芦が舟端に仮睡していた自分の顔をすっと撫で上げたのを、半睡半醒の夢ごこちのうちに感じたというのである。前書がなく、表現が不十分なのが欠点であるが、いかにも世を捨てて自在な境地にあった丈草らしい一句といえよう』とある。]

 

 水風呂の下や案山子の身の終    同

[やぶちゃん注:「水風呂」は「すいふろ」。茶の湯の道具である「水風炉 (すいふろ) 」に構造が似るところから、桶 の下に竈(かまど)が取り付けてあって浴槽の水を沸かして入る風呂。「据(す)ゑ風呂」とも言う。「案山子」は「かがし」と濁っている(語源・表記については江副水城氏のブログ「日本語の語源〜目から鱗の語源ブログ〜」の「【かかし】の語源」が目から鱗、必読!)。座五は「みのをはり」。]

 

 榾の火やあかつき方の五六尺    同

[やぶちゃん注:「榾」は「ほだ」。囲炉裏や竈で焚く薪(たきぎ)。掘り起こした木の根や樹木の切れ端。「ほた」と清音でも発音する。堀切氏前掲書に、『山家などに旅寝でもした折の吟であろう。暁方の寒さに起き出して炉に投げ入れた榾の火が、暁闇の中でぱあっと五、六尺の高さにも燃え上がったという光景である。冷え込んだ室内の空気の中に、勢いよく真っ赤に上がる榾の炎が強烈な印象で眼に映じたのである』とされ、『草庵独居の炉辺のさまとみる説もある』とある。]

 

 「大はら」の句は丈艸の句として人口に膾炙したものの一である。去来の「丈草誄」の中に「先師深川に帰り給ふ比、此辺の句ども、書あつめまいらせけるうち、大原や蝶の出て舞ふおぼろ月などいへる句、二つ三つ書入侍りしに、風雅のやゝ上達せる事を評し、此僧なつかしといへとは、我方への伝へなり」とあるのを見れば、当時から評判だったものに相違ない。後世のものではあるが『俳諧白雄夜話』はこの句について次のような話を伝えている。

[やぶちゃん注:『去来の「丈草誄」』榛原守一氏のサイト「小さな資料室」のこちらで全文が正字正仮名で電子化されてある(因みに、このサイトには源義経の「腰越狀」芥川龍之介の詩「相聞」など、私のサイトへのリンクが附されたものがある)。

「俳諧白雄夜話」天保四(一八三三)年刊。ここ(「国文学研究資料館」の画像データベース。左頁の後ろから三行目「一大はらのおほろ月」と次のページにかけて)。

 以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。]

 

  大原や蝶の出てまふ朧月

丈艸の句也、蕉翁の曰、蝶の舞さまいかゞあらんやと聞給ひしに、さく夜大原を通りてまさに此姿を見侍りぬと、翁曰、しかるうへは秀逸たるべし、誠に大原なるべしとぞ頌歎[やぶちゃん注:「しようたん」。]浅からずありしと。

 

 蝶が果して夜飛ぶか否かについては、芭蕉も先ず疑ったが、丈艸が実際そういう景色を見たというのを聞いて、それならよろしい、といったのである。丈艸は譃をいうような人とも思われぬ。近代科学の洗礼を受けた人たちは勿論、芭蕉以上にこの蝶の実在性を疑っている。夜飛ぶとすれば蛾に相違ないというのであるが、朧月夜に蛾の飛ぶというのも、何だか少しそぐわぬところがある。丈艸は『白雄夜話』にある通り、実際大原においてこういう光景に接し、特殊な興味を感じてこの句を作ったのではあるまいか。近代人の一人たる北原白秋氏の歌集にも、月夜の蝶を詠じたものがあるからである。

   ふと見つけて寂しかりけり月の夜の光に白き蝶の舞うてゐる

   現(うつつ)なき月夜の蝶の翅(はね)たゝき藤豆の花の上に揺れてをる

 この二首は丈艸の句よりも遥に写生的であるだけに、自然観察における実在性を疑う余地はあるまいと思う。自然界の現象の中にぱ、われわれのような見聞の乏しい者の速断を許さぬものがしばしばある。月夜を飛ぶ蝶にも何か理由があるのかもわからない。

[やぶちゃん注:以上の白秋の二首は詩歌集「雀の卵」(大正一〇(一九二一)年アルス刊)の中の「月下の蝶」と標題した二首(のみ)であるが、

 ふと見つけて寂しかりけり月の夜の光に白き蝶の舞うてゐる

 現うつつなき月夜の蝶の翅たたき藤豆の花の上に搖れてをる

とある。しかし、残念なことに、同詩歌集の序の中で一部の決定稿の推敲過程を並べて見せている中に、前者の原作として、

 ふと見つけて淚こぼるる月讀の光に白い蛾が飛んでゐる

を示してしまっている。即ち、白秋の見た実景は「蝶」ではなく、「蛾」であったことが明らかとなっているのである。さすれば、二首目それも実は蛾である可能性がいやさかに高くなるのである。まんまと宵曲は騙されたわけであった。

 

 但この「大はら」の句は、古来有名な割に、丈艸としては最高峰に立つ作ではないようである。人口に膾炙する所以はその辺にあるのであろうが、美しい代りに迫力には乏しい。蝶が夜飛ぶという特色ある景色も、大原に対する詠歎的な気持に覆われた憾(うらみ)がある。

 「雨乞」の句、「水風呂」の句にはまた例の滑稽趣味がある。滑稽としてはあくどいものではないが、いささか理が詰んでいるため、上乗のものとは目し難い。この点ではむしろ前にあった「草庵の火燵の下や古狸」の句を推すべきであろう。これらの句は見方によっては滑稽ではないかも知れない。但丈艸の滑稽趣味ということを念頭に置いて見る時、これらの句も一応留目する必要がありそうに思う。それほど彼の滑稽は淡いのである。

 「榾の火」の句は佳作とするに躊躇せぬ。「くろみ立」の句とは多少種類を異にするけれども、元禄俳諧の骨髄を捉えている点に変りはない。こういう句の人に迫る力を、文字で説明するのは困難である。「大はらや」の句などと併せ誦すれば、丈艸の面目の彼にあらずしてこれに存することは何人も認めざるを得ぬであろう。芥川氏は丈艸を説くに当って、二度とも「大はらや」及「榾の火」の二句を挙げていた。丈艸の句の幅を示すためには、固より両者を示さなければなるまい。ただ丈艸の真骨頂は、有名なる「大はら」よりも、比較的有名ならざる「榾の火」によく現れていることを語れば足るのである。

[やぶちゃん注:「一」で述べた芥川龍之介の『「續晉明集」讀後』(正確には初出は『几董と丈艸と――「續晉明集」を讀みて』)と「澄江堂雜記」の「丈草の事」を指す。]

三州奇談續編卷之八 妙年の河伯

 

    妙年の河伯

 新川郡(にひかはのこほり)滑川(なめりかは)は大鄕にして、其稱する滑川を知らず。

「若しや靑砥左衞門が付けしか」

と是を尋ぬるに、滑川は古名にて、元來川あり。今は海入り來て、其水源なる中河原村の小淸水に近し。纔(わづ)かに湧出づる水なり。昔は「小濱松」と云ひしより寺家(じけい)・神家(じんけ)と川を隔(へだ)て、兩側ありしよし。今は町名に殘れり。濱表は伏木と云ふ。伏鬼千軒の號殘れり。賑はしき湊のよし。

「今の放生津(はうじやうづ)のあなたへ引きし伏木と云ふは爰(ここ)なり」

とにや。今の地は辰尾にして、小川滑川の號(な)うつり來ると見ゆ。町の東に櫟原(いちはら)の神社あり。式内の神なり。辰尾の古名は「刀尾(タチヲ)」とにや。是等の號皆々變じて、小名(こな)の滑川を總名となすも又因緣と覺ゆ。西に「水橋の渡り」あり。是は常願寺川の末(すゑ)にして甚だ深く、水所々より落合ふといへども、「あまが瀨」と云ふ渡りあり。義經奧州下りの頃、畑等(ハタケラ)右衞門尉といふもの、此渡り瀨を敎へしとて、今に畑等淸兵衞とて百姓の中に其後孫あり。今も飛脚など、此家に渡りを習ひて打渡り、舟の隙入(ひまいり)を免かるゝとかや。世には飛鳥(あすか)の川もあるに、數百年の今日迄淵・瀨替らざるも又妙なり。扨は水中靈あること怪しむに足らんや。湘靈鼓瑟(こひつ)の事を聞けば、舜(しゆん)の二女(にぢよ)猶水底に瑟を鳴らせるとかや。左(さ)もあるべし。越中は大川多き所なり。俗諺あり。折々は深淵に鈴の音(ね)あり、小兒の踊る時に袂に鈴ありて鳴るに似たること多し。究むべき道もあらねば、誰(たれ)見とむる者もなし。

[やぶちゃん注:標題は「みやうねんのかはく(みょうねんのかはく)」と読んでおく。「妙年」は「妙齢」と使う如く、「妙」は「若い」の意で「若い年頃」。先例に徴して「かはく」と読んだが、「近世奇談全集」の本文ルビは『かつぱ』である。しかし、以下の叙述は明らかに中国起原の記載となっているので、従わなかった。河伯は本来は中国の河川に棲息する異獣で、本邦の河童とは形態の一部がやや類似してはいるものの、中国のそれは爬虫類を思わせる異なる架空の水棲動物であって河童とは異なる。河童はあくまで日本固有の妖怪である。

「新川郡滑川」現在の富山県滑川市(グーグル・マップ・データ)。

「其稱する滑川を知らず」「今、この地に滑川という川は存在しない」の意。

「若しや靑砥左衞門が付けしか」鎌倉後期の武士青砥藤綱。私の「『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 滑川」及びそこにもリンクさせた私の「耳囊 卷之四 靑砥左衞門加增を斷りし事」を読まれたい。麦水がかく言ったのは、その有名な錢探しのエピソードが鎌倉の滑川(グーグル・マップ・データ。以下同じ)であることに拠る。現在の鎌倉市浄明寺のここに「青砥藤綱邸舊蹟碑」があり、エピソードのロケーションとされる「青砥橋」があるが、実際のロケーションはずっと下流の現在の「東勝寺橋」附近ともされる。しかし、実はこの人物自身、実在が疑わしい。

「其水源なる」「なる」は存在を意味する用法で「というのは」の謂い。

「中河原村の小淸水」不詳。位置的に見ると、滑川市清水町が相応しいか。

「小濱松」不詳。

「寺家(じけい)」滑川市寺家町(じけいまち)。読みは現在の行政地名に従った。

「神家(じんか)」滑川市神家町(じんかまち)。同前。

「川」早月川水系と思われる。

「濱表は伏木と云ふ」不詳。現存しない。「今の放生津(はうじやうづ)のあなたへ引きし伏木と云ふは爰(ここ)なり」と後に出るから、高岡市伏木へと移転したというのか? こんな話は伏木に六年いたが、聴いたことがない。ともかくも滑川の「伏木」の地名は早い時期に消失してしまったものと見える。しかし、この辺り、記載の意味がよく判らない。

「伏鬼千軒」不詳。

「賑はしき湊のよし」滑川漁港のことか。

「辰尾」富山市辰尾があるが、「小川滑川の號(な)うつり來ると見ゆ」『辰尾の古名は「刀尾(タチヲ)」とにや』もどこを指し、叙述で何を意味したいかがよく判らぬ。

「櫟原(いちはら)の神社」ここ(滑川市神明町)。現在の呼称でルビした。「近世奇談全集」では『いちゐばら』とルビする。創建は大宝元(七〇一)年とも、また、人皇第十三代成務天皇の御宇の勧請で、文武天皇大宝年間の再興とも言う。ともかくも往時は相当な大社であったらしい。

「式内の神なり」「延喜式」の「神名帳上下」(延喜式神名帳)に記載がある。

「小名(こな)」村や町を小分けした小字 (こあざ) のこと。しかし、ここも何故、小字を「滑川」と称したかが、明らかとなっていない。それが分からなかったことが麦水をしてこのよく判らない叙述となってしまったような気もする。

「水橋の渡り」富山市水橋町。常願寺川の河口の近く(東)で滑川市に東方部分が僅かに接している。

『「あまが瀨」と云ふ渡り』「富山市立水橋西部小学校」公式サイトの校長の談話の中に、自校の生徒を『天瀬っ子』と呼んでいるのを見つけた。場所は不明。

「畑等(ハタケラ)右衞門尉」富山市水橋畠等(みずはしはたけら)という地名を見出せた。しかも、これを調べるうちに、内藤浩誉氏の論文「川を渡る静御前」PDF)を発見、そこで詳細を尽くして、ここの義経伝説が載る。是非、読まれたいが、それによれば、常願寺川を古くは海士瀬川と呼んだとある。流域は恐らく変化していると思われるが、「あまが瀨」という水深の浅いそれは原常願寺川にあったものと判った。

「習ひて」場所を教えて貰って。

「隙入(ひまいり)」手間どること。時間がかかること。用事に時間をとられること。

「飛鳥の川」奈良県中西部を流れる大和川水系の川。奈良盆地西部を多く北流する大和川の支流の一つで、「明日香川」とも綴る。流域は古代より開けた地で、古歌にもしばしば詠まれた(ウィキの「飛鳥川(奈良県)」に拠る)。ここ

「湘靈鼓瑟」「湘靈 瑟を鼓(こ)す」で「楚辞」の屈原作と伝える「遠遊」の一句(第八段の中)の「使湘靈鼓瑟」(湘靈(しやうれい)をして瑟(しつ)を鼓(こ)せしめ)。「湘水の神である湘君に大型の琴(二十五弦の琴)を弾かせる」の意。湘君は楚の民の信仰の厚かった洞庭湖一帯の水神。以下にある通り、伝説によれば、伝説の聖王堯(ぎょう)の二人の娘であった娥皇(がこう)と女英(じょえい)は、堯を継いだ舜が、悪神三苗(さんびょう)を征伐するために、沅・湘(洞庭湖の南方一帯)の辺りに至った際、そこの蒼梧(そうご)の地で崩じたと聴いて、悲しんで自ら入水して水神となつたとされる。ここはその詩によれば、祝融(南方の火の神)が彼女たちにその水底で瑟を弾かせた、というのである。原文でよければ、「維基文庫」のこちらに全文がある。]

 

 然るに安永四年八月の事なりし。滑川の南有金(ありかね)村の傍(かたはら)に今井川と云ふあり。是(これ)這槻川(はひつきがは)の枝川(しせん/えだがは)なり。高月村專福寺は弓の庄(しやう)柿澤(かきざは)の圓光寺の二男なり。早朝用事ありて柿澤より專福寺へ歸ることありしが、此今井川に臨む。

 朝六半時(むつはんどき)頃の事なり。川に來りて向ひを見れば、岸に一人の小女(こをんな)ありて顏を見合(みあは)す。其顏色白きこと雲の如く、光ありて甚だ美麗、只(ただ)雛の如し。長(た)け二尺餘り。髮のかざりは常の如く、簪(かんざし)をはさむ。ゆるく步みて立てり。衣服を見るに五彩ありて見事なり。人間(じんかん)中の織物とは見えず。兩脚甚だ露(あら)はれ、着物は腰の廻(まは)りと覺ゆ。白き膝あらはに出でたり。手元・袖口のあたり網の如き物下り居(をり)て、手も又甚だ白し。人間(にんげん)に相異(あひことな)ることなく、只甚だ低し。

 專福寺と顏を見合すこと度々なり。笑(ゑみ)を含めるけしきにも覺ゆ。

 依りて專福寺總身汗出で、戰慄止(と)め難し。

 暫くして岸を來る商人(あきんど)二・三人連(づれ)なるものあり。

 此妖物(えうぶつ)人音(ひとおと)を忌みけん、暫く川緣(かはふち)によるよと見えしが、楊株(やなぎかぶ)の間(あひだ)より水に入るに、音もなく消ゆるに似て、又再び見えず。

 專福寺は暫く立去りかねしが、漸(やうや)く迎(むかへ)を待ちて、川を渡り過ぎて寺に歸る。

 下人顏色の異(い)なるに驚き、色々藥を調(ととの)へ養生をなさしむ。

 數日(すじつ)にして本復に至るとなり。

 是れを櫟原(いちはら)の神主(かんぬし)なる人に尋ねしに、答へて、

「是は必ず河伯(かはく)ならん」

となり。

 いろいろ聞き合(あは)するに、良々(やや)河伯に決定(けつじやう)す。

 思ふに是(これ)河伯水靈の類(たぐひ)にしては、甚だ幼童なるものと覺ゆ。

 湘靈の瑟を鼓するを思へば、是等は小女(こをんな)にして踊り遊ぶらんも計るべからず。

 扨は淵底やゝもすれば鈴音を聞きしも、若しや是等の河伯遊びむれて唄ふ折(をり)ならんか。

 郡(こほり)の名の新川(にひかは)に比して見れば、河伯も又新川の名を免かれざるも又理(ことは)りと云はんか。

[やぶちゃん注:「安永四年」一七七五年。

「有金(ありかね)村」滑川市有金

「今井川」不詳。有金は上市川の右岸であるが、同地区を少なくとも四つの細い川が現認出来る。或いはこれらの孰れかかも知れない。後の「這槻川の枝川なり」の「這槻川」が上市川のようには読めるように感ずる。

「高月村」滑川市高月町。上市川の河口右岸。

「專福寺」文脈上は人の名であるが、以下で「專福寺へ歸ることありし」とあるから、やはり寺の名である。因みに、富山市内には専福寺という同名の浄土真宗の寺が二ヶ寺、存在する。一つは富山市南田町に、今一つは富山市米田にある。孰れかは不詳。

「弓の庄柿澤の圓光寺」富山県中新川郡上市町柿沢にある浄土真宗大悟山円光寺

の二男なり。早朝用事ありて柿澤よりが、此今井川に臨む。

「朝六半時頃」午前七時頃。

「下人」専福寺の寺男。

「良々(やや)」ほぼ。概ね。(よくよく)河伯に決定す。

「郡の名の新川に比して見れば、河伯も又新川の名を免かれざるも又理りと云はんか」私が馬鹿なのか、ちっとも理屈に合っているとは思われない、というか、どこが符合するというのかも判らぬ。]

2020/07/25

三州奇談續編卷之八 唐島の異觀

 

    唐島の異觀

 氷見の唐島は、萬葉の頃は聞かずと雖も、國君を始め奉り、風騷の人の秀歌あまた聞ゆ。事多ければ略す。地は氷見の川口を離(はな)るゝ事十二町[やぶちゃん注:一キロ三〇九メートル。]、海中に孤立せり。遠望愛すべく、島に上(あが)りて又驚くに堪へたり。凡(およそ)竹生島(ちくぶしま)・江の島に類(たぐひ)す。元(も)と坤輪(こんりん)より岩を疊みて涌出(ゆうしゆつ)せる物なれば、風景豈(あに)俗物ならんや。大躰は前段に記す如く、遠くは佐渡を望み、近くは能越の嶺嶽累々と廻(めぐ)らし、海深く、蒼濱白砂(さうひんはくさ)、舟の行違(ゆきちが)ふものは浪に敷くに似たり。既に渡舟(わたしぶね)岸に至れば、石を飛び岩を這ひて上る。坂中(さかなか)鳥居あり。大巖(おほいは)には必ず六道能化(のうげ)の兄息子を彫む。本堂は辨財天、三間四面許(ばかり)莊嚴(しやうごん)せり。四方欄干の緣を廻る。大凡(おほよそ)堂景備前の島「あぶとの觀音」に類(るゐ)す。爰も向うの海中の飛島(とびしま)を「あぶが崎」と云ふ。能州にも「あぶや」の號あり。思ふに「あぶ」は蠻音(ばんおん)ならん。水を「あぶ」などいふ如く、舟路には蠻語の入交(いりまぢ)るものにこそ。扨(さて)堂の後ろの下り坂、岩をくぐり石に迫りて、刀頭(たちがしら)に蟹這ひ履下(りか)に蜷(にな)を踏む。甚だ江の島の奧の院金龜山(きんきさん)より「兒(ちご)が淵(ふち)」に下る邊(あたり)に似たり。「胎内くぐり」と云ふ岩を出で、波かゝる平岩に飛移れば、此岩橫に臥すこと二十丈許、又一路あるに似て銀漢にや續くらんと疑はる。此岩の五六町[やぶちゃん注:五四六~六五四メートル半。]波路を隔て「牛島」あり。又「机が島」あり。其形(かた)ち相似たれば號(なづ)く。牛は臥牛にして生けるが如し。海荒き日は牛頭の波數丈に打上り、唬々吼々(がうがうこうこう)として聲あるが如し。三所の龍灯は、必ず爰の波底より出づと云ふ。都(やが)て唐島の岩は洲入りて捉ふるに易く、能く傳へば此島を一周するに危ぶからず。岩間々々土自らありて、草樹色々生ひたり。近年大樹大松枯れてなし。是れ遊人多く火を焚きて慰み、或は岩穴に火藥をつめて大鳥銃の術をまねびなどして、巖半ば死(しに)枯るゝ如くなりし故ともいふ。鳥居の邊(あたり)には淸水の出づる大石あり。「義經の水乞石(みずこひいし)」と號(な)づく。一年(ひととせ)開帳のありし時は、爰に判官渡り住みて日を重ねられしことなど、詞(ことば)をかざる僧ありしと聞く。必ず虛ならん。石穴には辛螺(にし)・蛸など群り住みて、遊人肴(さかな)に不足なし。釣竿を下せば黑鯛といふ物かゝりて、又々一興をなす。此山を廻(めぐ)るに、必ず和國になき面影を見ることあり。草木石貝に限らず。折々怪しきものを得るといふ。名(な)空(むな)しからず。友文鵝(ぶんが)なる男興じて咄す。

「里諺に此堂の緣にうつむきになり、股の間より海畔を望めば、必ず異國の人家か蠻界の人家を見ると云ふ。故に多く『唐(もろこし)を見ん』とて、内股の間に首を入れて興ず。人家或時はふしぎにも見え、又見馴れざる所の見ゆることもあり。先年開帳の時は、麓の岩間に荼店を設けて、岩間を直(ぢか)に生洲(いけす)となして鯛・蛸の類(たぐひ)を放し置き、酒を賣りしに、人々多く押合ひて食するに、其頃我も渡りて酒に興じ、打倒れて夢も半(なかば)の頃、早や人大方歸り盡きて淋しくなりし頃、不圖(ふと)目覺めて彼(かの)俗諺を思ひ出して、股より覗き見しに、山上より來る一人あり。唐裝束(からしやうぞく)を着し、髮は女の如く唐子髷(からこまげ)にして、手に大旗を持來(もちきた)る。大いに怪しみ、

『不思議不思議』

と感ずる間に、異人(いじん)間近(まぢか)く來り、

『ハンメリハンメリ』

といふ。驚きて手に持つ旗を見れば、

『ハシリカンフラ』

と書き付けあり。扨は藥賣殿(くすりうりどの)にてありしと初めて知りしが、時しも此内股より覗く所へ來かゝりしは、渠(かれ)も又應(わう)の遁(のが)れざることありしにやと、をかしく歸りしぞ。今日も岩間岩間探し給へ、異物あるべし」

とて終日遊ぶ。

[やぶちゃん注:「唐島」は既出既注であるが、メインだから再掲する。氷見漁港から三百メートル沖合にあり、濃い緑に包まれている小さな島。県指定の天然記念物に指定されました。氷見漁港の守り神を一度は見ておきたいものです。にある小島の無人島で、氷見市丸の内にある曹洞宗海慧山海慧山光禅寺(グーグル・マップ・データ。漫画家藤子不二雄A氏の生家。昨年の三月に友人らと訪れた)が全島を所有し、唐島は同寺の境内とされており、島内には弁天堂・観音堂・「火ともし地蔵」・「弁慶の足跡」・「夫婦岩」などがあり、昔から地元の信仰を集めている。光禅寺を創建した明峰素哲が唐の大火を消し鎮め、その返礼に唐から島を贈られたという言い伝えから、「唐島」と呼ばれる。地質学的には石灰質砂岩から成る。遠い昔、十九の頃、演劇部の後輩の女性と、他の連中が泳いでいる間、何か訳あって泳がずに寂しそうにしていたので、誘って船で行ったことがあった。

「萬葉の頃は聞かずと雖も、國君を始め奉り、風騷の人の秀歌あまた聞ゆ」「万葉集」巻第十九の四二三二番歌に出る「雪の島」を唐島とする説は、既に「多湖老狐」で否定した。「國君」は加賀藩第三代藩主前田光高。既出既注だが、再掲すると、徳川光圀撰の「新百人一首」の第二十四番に、「加越能少將光高」として、

 なごの海やうら山かけてながむれば

    やまとにはあらぬ波のからしま

とある。万葉で売らんかなの氷見ならば、唐島の和歌を集成したページを誰か作っていようと調べたが、見当たらない。調べる気も起らない。悪しからず。

「竹生島」言わずもがな、琵琶湖北部に位置する島。現在は全域が滋賀県長浜市早崎町に属する(グーグル・マップ・データ。左のサイド・パネルの写真がよかろう)。正直、小さな唐島と比較するのはどうかなと思う。

「江の島」言わずもがな、私の思い出だらけでくしゃくしゃになった神奈川県藤沢市江の島(グーグル・マップ・データ。同じく左のサイド・パネルの写真がよかろう)。比較は同前。

「坤輪」「乾坤(けんこん)」で判る通り、「坤」は易学に於いて「天」を意味する「乾」とともに万物を生成する「地」の表象であり、単純にこの大地は「坤輪」という地軸によって支えられていると考えられた。

「能越」能登国と越中国。

「蒼濱」「蒼」は海の色。

「六道能化(のうげ)の兄息子」「六道能化」六道の巷 (ちまた) に現われて衆生を教化し救う地蔵菩薩のこと。「兄息子」は「一番年上の息子」や「年かさな息子」を指すが、意味が判らぬ。或いは「兄・息子」で大きい地蔵や小さい地蔵のことか。そう読んでおく。

「三間四面」五メートル四十五センチ四方。

『備前の島「あぶとの觀音」』広島県福山市沼隈町能登原にある臨済宗海潮山磐台寺(ばんだいじ)の本尊十一面観音。瀬戸内海に面した阿伏兎(あぶと)岬(先端の高所)にあるので「阿伏兎観音」とも呼ばれる。私は「阿伏兎観音」を見たことはないが、写真を見るにロケーションは唐島の比ではなく、悪いけれど、記憶の中の唐島のそれは如何にもしょぼかった。グーグル画像検索「阿伏兎観音」もリンクさせておく。

『向うの海中の飛島を「あぶが崎」と云ふ』「牛島」「机が島」グーグル・マップ・データ航空写真を見ると、唐島から東北沖合三百メートル圏内に三つの岩礁を現認出来る。海図を見ても同じ方向に六つほどの岩礁或いは暗礁に近いものを認める。これらのうちの孰れかであろう。スタンフォード大学の「參謀本部」の「邑知潟(オウチガタ)」(明治四二(一九〇九)年作図・昭和九(一九三四)年修正)を見ても、同じ東北沖に明らかに三つの岩礁を認める。地元も漁師の方に聴けば、総ての岩礁や岩根に名があるはずだが。何方かお調べ戴けまいか?

『能州にも「あぶや」の號あり』西能登であるが、石川県羽咋郡志賀町安部屋(グーグル・マップ・データ)があり、その海岸も安部屋海岸と呼ぶ。しかし、だいだい、ここで言うなら、唐島の北北東八キロ半の位置にある虻ガ島(グーグル・マップ・データ)をこそ言うべきであろう。

『思ふに「あぶ」は蠻音(ばんおん)ならん。水を「あぶ」などいふ如く、舟路には蠻語の入交(いりまぢ)るものにこそ』この「蠻音」「蠻語」は外来語・外国語の意。仏教用語で仏に供える水を「閼伽(あか)」と呼ぶが、これはサンスクリット語由来の「アルガ」(ラテン文字転写「argha」)の漢音写であり、一説にラテン語の「水」を意味する「aqua」(アクア)もそれが語源だという話を聴いたことがある。

「刀頭」麦水は御用商人の次男であるから帯刀していないので、単に頭の上の方の謂い。

「蜷」腹足類。巻貝。

「江の島の奧の院金龜山」伝承によれば、弘仁五(八一四)年に弘法大師空海が金窟(現在の江の島の南にある「お岩屋」)に参拝し、国土守護・万民救済を祈願して社殿(岩屋本宮)を創建し、神仏習合によって金亀山与願寺(よがんじ)という寺院になったとする。詳しくは私の「新編鎌倉志卷之六」或いは「鎌倉攬勝考卷之十一附錄」をどうぞ。

「兒が淵」江の島の最西端(グーグル・マップ・データ航空写真。サイド・パネルの写真を見られたい)。由来となった若衆道の悲話は同前の「新編鎌倉志卷之六」の「兒淵(チゴガフチ)」の条を見られたい。麦水はそこに「下る邊に似たり」(爼岩のことと思う)などと言っているが、唐島は凡そ及ばない。

「二十丈」約六〇メートル六〇センチ。唐島の現在の裏手(東北の富山湾側)は四十五メートルもない。但し、当時とはかなり島の形も潮下線も異なると考えられるので、これは信じてよかろう。

「銀漢」銀河。天の川。

「唬々吼々(がうがうこうこう)」読みは「近世奇談全集」に従った。後半を「くく」と読んだのでは迫力を欠くように思われる。「唬」は「脅(おど)す・脅(おびや)かす・驚かせる」の意があり、「吼」は獅子吼(ししく)で知られる通り、「獣がほえる・わめく・どなる」の意。そうした意味と、激しい波濤の立てる音のオノマトペイアと考えてよい。因みに、十六小地獄(八大地獄の周囲に付属する小規模な地獄)の一つに「吼々処」(くくしょ)と呼ばれる地獄がある。ここには恩を仇で返した者や自分を信頼してくれる古くからの友人に対して嘘をついた者が落ち、獄卒が罪人の顎に穴をあけて舌を引き出し、それに毒の泥を塗って焼け爛れたところに、さらに毒虫がたかる、という苦痛を繰り返すという。

「三所の龍灯は、必ず爰」(牛島)「の波底より出づと云ふ」「朝日の石玉」の本文及び私の注を参照。朝日山上日寺にある「龍灯の松」に「大晦日の夜、三ヶ所一團となりて牛島より來りかゝると云ふ」とある、それ、でである。なお、そこに同寺の背後にある山を泰澄が牛に駕してやってきたとあるから、或いはこの「牛島」は、単に形のシミュラクラではなく、その泰澄が跨った牛が最後に化したというような伝承があるのかも知れない。

「洲入りて」砂州が島の周囲に形成されて。

「大鳥銃」不詳。「近世奇談全集」では「鳥銃」の部分に『てつぱう』とルビする。ということは大銃(おおづつ)・大砲のことではなかろうか。とすれば、ここも「おほづつ」と読む方がいいし、躓かずにすんなり読めるではないか。

「義經の水乞石」不詳。現存しないか。日本海から東北果ては北海道にまで無数にある義経伝説の一つとして理解は出来る。すぐ近くの雨晴海岸にある義経岩(グーグル・マップ・データ)もそれで、こちらは風雨に見舞われ、弁慶が岩を押し上げて穴を作って雨宿りしたという古跡があり、その時の「弁慶の足跡」もちゃんとあったやに記憶している。雨晴海岸は私の青春のアンニュイの海岸である。

「一年開帳のありし時は、爰に判官渡り住みて日を重ねられし」彼の生涯にそんな平穏な日々はなかったことは馬鹿でも判る。

「辛螺(にし)」外套腔から出す粘液が辛い味を持っている食用の腹足(巻貝)類の総称であるが、辛くない巻貝にも有意に当てられている。テングニシ(軟体動物門腹足綱前鰓亜綱新腹足目アクキガイ超科テングニシ科テングニシ属テングニシ Hemifusus ternatanus:肉もワタも美味い)・アカニシ(アクキガイ超科アクガイ上科アクキガイ科チリメンボラ亜科チリメンボラ属アカニシ Rapana venosa:刺身が美味い。「薙刀鬼灯」はこの種の卵囊である)などがあるが、ナガニシ(アクキガイ超科イトマキボラ科ナガニシ亜科ナガニシ属ナガニシ Fusinus perplexus:身が美味いが、身を出すのに殻割しかないのが面倒)・イボニシ(アクキガイ科レイシガイ亜科レイシガイ属イボニシ Thais clavigera:塩ゆでの辛みがなんとも言えず美味い)はとくに辛い。

「黑鯛」スズキ目タイ科ヘダイ亜科クロダイ属クロダイ Acanthopagrus schlegelii

「文鵝」不詳。麦水の友人でこの名となれば、俳句仲間であろう。

(ぶんが)なる男興じて咄す。

「里諺に此堂の緣にうつむきになり、股の間より海畔を望めば、必ず異國の人家か蠻界の人家を見ると云ふ」股覗きはせずとも、富山湾名物蜃気楼であろう。それともファタ・モルガーナか?(イタリア語:Fata Morgana:モーガン・ル・フェイ(Morgan le Fay)のイタリア語の呼び名。「アーサー王物語」に登場する女でアーサー王の異父姉にして魔女とされる。イタリアでは彼女がメッシナ海峡に蜃気楼を作り出し、船乗りを惑わして船を座礁させてしまうという伝説が残されており、一説に死に至る真の悲しみに沈んだ者にのみ見えるともされる) 無論、ここでの「股覗き」とは異界を覗くための非日常的行動としての呪的な意味を持っているものではあるが、ただ「股覗き」というのはここの場合、視線が海水面に非常に近づくため、或いは温度・湿度・屈折率が通常の目の高さとは異なることから(その時の太陽の位置も関係してくる)、蜃気楼或いは浮島現象等が見えやすくなるのかも知れないなどと私は夢想した。

「人家或時はふしぎにも見え」というのはまさに蜃気楼である。私も六年間伏木いた内で、数度、見たことがある。一度は巨大なタンカーが沖を航行しているかと思ったのだがが、よく見ると、それは自分の立っている背後の海端の石油タンク群なのであった。

「麓の岩間に荼店を設けて、岩間を直に生洲となして鯛・蛸の類を放し置き、酒を賣りし」江の島の稚児が淵から爼岩や「お岩屋」にかけての岩礁帯で、近代まで、ほぼ同じようなことが行われていた。酒客の出す金銭に応じて、海に入り、鮑などの魚介を採って供するのである。実際には予め海中に網で生け簀を沈めてあったものかとも思われる。私の「『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 江島」の文章(記者が酒に酔って岩場で転倒して怪我をするシーンがある)や挿絵、同じく『山本松谷「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」挿絵 江の島お岩屋(龍窟)の図』を見られたい。また、芥川龍之介の「大導寺信輔の半生――或精神的風景畫――」(リンク先は私の古い電子テクスト)の「六 友だち」を読まれたい。江の島の「潜り」の少年や海女に主人公(芥川龍之介自身)の友人である男爵の長男が硬貨を海に投げ入れて獲らせるという差別的なシークエンスが描かれている。彼らは実はまさにそうしたことを生業としていた者たちなのである。ロケーションは江ノ島、時は旧制高校時代の四月であるから、明治四四(一九一一)年四月及び翌年の四月或いは大正二(一九一三)年四月となる。

「山上より來る一人あり」酔っているから、向きも判らず、海を見ずに島の方を見てしまっているのである。滑稽の極みで、面白い。

「唐裝束(からしやうぞく)を着し」彩色豊かな、妙ちきりんな服だったのをかく見違えたのである。

「唐子髷」中世から近世へかけての、元服前の子供の髪の結い方の一つ。唐子(中国風の服装や髪形をした子供)のように、髻 (もとどり) から上を二つに分け、頭の上で二つの輪に作ったもの。近世には女性の髪形となった。

「ハンメリハンメリ」不詳。個人ブログ「秋残り」のこちらに、『ハンメルという、音をめる、という。半音を上げ下げるハンメリという。メリヤッセという』とある。大阪弁らしいが、このブログ記事全体が、失礼乍ら、何を書いておられるのか、よく判らぬ。観賞用多肉植物に単子葉植物綱キジカクシ目ススキノキ科ハオルシア属Haworthia の中に、Haworthia mirabilis 'hammeri'(アオルシア・ミラビリス・ハンメリ)という名の種がいるようだ。現代の日本人には愛好家が多いらしく、オークションや栽培記載に、この名が掛かってはくる。英文サイトのこちらに同種の記載と写真が載る。それによれば、南アフリカの喜望峰の東のスウェレンダム(Swellendam)というところが原産地らしい。ドイツ語に「hummel」という語がある(発音は「ヒュンメル」だが、文字列だけを見ていると「ハンメリ」と読みそうになる)がこれは「マルハナバチ」(膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目ツバチ上科ミツバチ科ミツバチ亜科又はマルハナバチ亜科マルハナバチ族マルハナバチ属 Bombus)を表わすという。どれもピンとこない。小学館「日本国語大辞典」にも載らない。判らぬ。オランダ語か、ポルトガル語か。識者の御教授を乞う。或いは酩酊した人物が、股覗きで頭に血が上って聴いているのだから、当てにならぬので、聴き違いをそのままに妖しい外国語のように記しただけのことかも知れぬ。

「ハシリカンフラ」「近世奇談全集」は『バシリカンフラ』とする。やはり孰れでも不詳。小学館「日本国語大辞典」にも似たものさえも載らぬ。しかし、酩酊している文鵝はこの言葉を聴いて相手が異界の異人ではなく、当たり前の薬売りであったことを認知している以上、これには意味がなくてはおかしい。当時の失われた富山弁なのであろうか? 同じく識者の御教授を乞う。

「藥賣」所持する三谷一馬氏の「江戸商売図絵」(一九九五年中公文庫刊)の「薬」のパートの絵図を見るに、しっくりくるような姿の者はいない。その冒頭にはまさに越中富山の「反魂香売り」が載るが、それは大きな縦長の箱を天秤棒で前後に担いで行商する形である。旗を持っているのは同書では一人だけで、それは「石見銀山鼠取受合」の文字を青地に白く染め出した旗であったとあり、幟(のぼり)は縦五尺で、『大体貧乏そうな服装が多い』とあるし、そもそもがちっぽけな唐島に石見銀山を売りに来るのもヘンだから違う。お手上げ。相応しい薬売りの姿を見つけられた方がおられたら、是非、御一報を!

 本篇は「三州奇談」の中では疑似奇談で可笑しく面白いエンディングという点でも特異点と言える。なお、「学校の怪談」や口裂け女の追跡でブレイクした民俗学者常光徹氏の「異界をのぞく呪的なしぐさ」PDF)に珍しくこの「三州奇談續編」の本篇の一部が活字化されているのであるが、惜しいことに『著者の麦水自身も関心があったようでご開帳で島に渡った際に見ている。そのとき見えた唐装束の異人は実は旗を持って歩いてきた薬売りだったとオチがついている』と読みを間違えている。これが素人なら何も言わない。都市伝説(アーバン・レジェンド)研究の騎手たる常光氏だからこそゆゆしき問題なのである。私がこの章の電子化をしない限り、私がここで常光氏の誤読を指摘しない限り――「三州奇談」(そもそも厳密には「三州奇談続編」でなくてはいけない)に麦水がそれを経験したと載っているという誤認が、これからずっと一人歩きして行ったであろうからである。そうした致命的な誤りが真実扱いされるというのが噂話=都市伝説の病理だからである。常光氏は自らそうした噂話形成の病的なミスを犯してしまっている――からなのである。

先生のおぞましい索敵が始まる

Kの告白のあった日の晩飯の席と、それに続くその夜のシークエンス――

 奥さんは私に
「何うかしたのか」
と聞きました。私は
「少し心持が惡い」
と答へました。實際私は心持が惡かつたのです。
 すると今度は御孃さんがKに同じ問を掛けました。Kは私のやうに「心持が惡い」とは答へません。
「たゞ口が利きたくないからだ」
と云ひました。御孃さんは
「何故口が利きたくないのか」
と追窮しました。
 私は其時ふと重たい瞼を上げてKの顏を見ました。私には『Kが何と答へるだらうか』といふ好奇心があつたのです。
 Kの唇は例のやうに少し顫へてゐました。それが知らない人から見ると、丸で返事に迷つてゐるとしか思はれないのです。
 御孃さんは笑ひながら
「又何か六づかしい事を考へてゐるのだらう」
と云ひました。
 Kの顏は心持薄赤くなりました。

 其晩私は何時もより早く床へ入りました。
 私が食事の時氣分が惡いと云つたのを氣にして、奥さんは十時頃蕎麥湯を持つて來て吳れました。然し私の室はもう眞暗でした。奥さんは
「おやおや」
と云つて、仕切りの襖を細目に開けました。洋燈(ランプ)の光がKの机から斜にぼんやりと私の室に差し込みました。Kはまだ起きてゐたものと見えます。
 奥さんは枕元に坐つて、
「大方風邪を引いたのだらうから身體を暖ためるが可(い)い」
と云つて、湯呑を顏の傍へ突き付けるのです。私は已を得ず、どろ/\した蕎麥湯を奥さんの見てゐる前で飮んだのです。

 私は遲くなる迄暗いなかで考へてゐました。無論一つ問題をぐる/\廻轉させる丈で、外に何の效力もなかつたのです。
 私は突然
『Kが今隣りの室で何をしてゐるだらう』
と思ひ出しました。私は半ば無意識に
「おい」と聲を掛けました。
すると向ふでも
「おい」
と返事をしました。Kもまだ起きてゐたのです。私は
「まだ寢ないのか」
と襖ごしに聞きました。
「もう寐る」
といふ簡單な挨拶がありました。
「何をしてゐるのだ」
と私は重ねて問ひました。
 今度はKの答がありません。
 其代り五六分經つたと思ふ頃に、押入を「がらり」と開けて、床を延べる音が手に取るやうに聞こえました。
 私は
「もう何時か」
と又尋ねました。Kは
「一時二十分(ふん)だ」
と答へました。
 やがて洋燈をふつと吹き消す音がして、家中(うちぢゆう)が眞暗なうちに、しんと靜まりました。

 然し私の眼は其暗いなかで愈冴えて來るばかりです。私はまた半ば無意識な狀態で、
「おい」
とKに聲を掛けました。Kも以前と同じやうな調子で、
「おい」
と答へました。私は
「今朝彼から聞いた事に就いて、もつと詳しい話をしたいが、彼の都合は何うだ」
と、とう/\此方(こつち)から切り出しました。私は無論襖越にそんな談話を交換する氣はなかつたのですが、Kの返答だけは卽坐に得られる事と考へたのです。所がKは先刻(さつき)から二度「おい」と呼ばれて、二度「おい」と答へたやうな素直な調子で、今度は應じません。
「左右だなあ」
と低い聲で澁つてゐます。私は又『はつ』
と思はせられました。

『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月24日(金曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第九十二回からであるが、太字下線は私が附し、また、鍵括弧や改行を用いて場面を想起し易く加工した。以下も同じ仕儀を施した

   *

 Kの生返事は翌日になつても、其翌日になつても、彼の態度によく現はれてゐました。彼は自分から進んで例の問題に觸れようとする氣色を決して見せませんでした。
 尤も機會もなかつたのです。奥さんと御孃さんが揃つて一日宅を空けでもしなければ、二人はゆつくり落付いて、左右いふ事を話し合ふ譯にも行かないのですから。私はそれを能く心得てゐました。心得てゐながら、變にいら/\し出すのです。
 其結果始めは向ふから來るのを待つ積で、暗に用意をしてゐた私が、折があつたら此方で口を切らうと決心するやうになつたのです。

 同時に私は默つて家のものゝ樣子を觀察して見ました。
 然し奥さんの態度にも御孃さんの素振にも、別に平生と變つた點はありませんでした。

 Kの自白以前と自白以後とで、彼等の擧動に是といふ差違が生じないならば、彼の自白は單に私丈に限られた自白で、肝心の本人にも、又其監督者たる奥さんにも、まだ通じてゐないのは慥(たしか)でした。
 さう考へた時私は少し安心しました。
 それで
『無理に機會を拵えて、わざとらしく話を持ち出すよりは、自然の與へて吳れるものを取り逃さないやうにする方が好からう』
と思つて、例の問題にはしばらく手を着けずにそつとして置く事にしました。

 斯う云つて仕舞へば大變簡單に聞こえますが、さうした心の經過には、潮の滿干(みちひ)と同じやうに、色々の高低(たかひく)があつたのです。
 私はKの動かない樣子を見て、それにさまざまの意味を付け加へました。
 奥さんと御孃さんの言語動作を觀察して、
『二人の心が果して其處に現はれてゐる通なのだらうか』
と疑つても見ました。
 さうして
『人間の胸の中に裝置された複雜な器械が、時計の針のやうに、明瞭に僞りなく、盤上の數字を指し得るものだらうか』
と考へました。要するに私は同じ事を斯うも取り、彼(あ)あも取りした揚句、漸く此處に落ち付いたものと思つて下さい。更に六づかしく云へば、「落ち付く」などゝいふ言葉は此際決して使はれた義理でなかつたのかも知れません。

 其内學校がまた始まりました。
 私達は時間の同じ日には連れ立つて宅を出ます。都合が可ければ歸る時にも矢張り一所に歸りました。
 外部から見たKと私は、何にも前と違つた所がないやうに親しくなつたのです。
 けれども腹の中では、各自(てんでん)に各自の事を勝手に考へてゐたに違ひありません。
 ある日私は突然往來でKに肉薄しました。
 私が第一に聞いたのは、此間の自白が私丈に限られてゐるか、又は奥さんや御孃さんにも通じてゐるかの點にあつたのです。
『私の是から取るべき態度は、此問に對する彼の答次第で極めなければならない』
と、私は思つたのです。
 すると彼は
「外の人にはまだ誰にも打ち明けてゐない」
と明言しました。
 私は事情が自分の推察通りだつたので、内心嬉しがりました。
 私はKの私より橫着なのを能く知つてゐました。彼の度胸にも敵(かな)はないといふ自覺があつたのです。
 けれども一方では又妙に彼を信じてゐました
 學資の事で養家(やうか)を三年も欺むいてゐた彼ですけれども、彼の信用は私に對して少しも損はれてゐなかつたのです。私はそれがために却て彼を信じ出した位です。
 だからいくら疑ひ深い私でも、明白な彼の答を腹の中で否定する氣は起りやうがなかつたのです。

 私は又彼に向つて、
「彼の戀を何う取り扱かふ積か」
と尋ねました。
「それが單なる自白に過ぎないのか、又は其自白についで、實際的の效果をも收める氣なのか」
と問ふたのです。
 然るに彼は其處になると、何にも答へません。
 默つて下を向いて步き出します。
 私は彼に
「隱し立をして吳れるな、凡て思つた通りを話して吳れ」
と賴みました。
 彼は
「何もお前に隱す必要はない」[やぶちゃん注:「お前」は原文では「私」。]
と判然(はつきり)斷言しました。
 然し私の知らうとする點には、一言の返事も與へないのです。
 私も往來だからわざ/\立ち留まつて底迄突ま留める譯に行きません。ついそれなりに爲(し)てしまひました。

『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月25日(土曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第九十三回全)

   *

緻密な観察に見えるそれが強迫神経症漱石の投影で関係妄想的に手もなく不安増殖してゆくさまが見て取れる。

この冷酷無惨な索敵行動の言い訳(言い訳にならない言い訳)の中で最も私が「酷(むご)い」と感ずるのは、

『彼の信用は私に對して少しも損はれてゐなかつたのです。私はそれがために却て彼を信じ出した位です。だからいくら疑ひ深い私でも、明白な彼の答を腹の中で否定する氣は起りやうがなかつたのです。』

という先生の述懐である。

自分に全幅の信頼を置いている相手を――それを当方は完全なる敵として認知している以上――抹殺することは――頗る容易である――

   *

なお、本作の中で時間が細かく分まで示されるのはここだけである。私は漱石の病跡学的観点から見て、Kが自殺した時刻を漱石はこの――午前一時二十分であったと睨んでいる――

2020/07/24

人を莫迦にするな

私の母はALSで亡くなったのだ!!!

「聖子テレジアは天国に召されました 直史ルカ記」

 

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 丈艸 一

[やぶちゃん注:内藤丈草(寛文二(一六六二)年~元禄一七(一七〇四)年)は通称、林右衛門。名は本常。別号に仏幻庵・懶窩(らんか)・無懐・無辺・一風・太忘軒(たいぼうけん)など。元尾張犬山藩士の嫡子として生まれたが、早々に実母を失い、弟は皆、異腹であり、この体験や親族間のごたごたが彼の生活史や人格形成に大きな影響を与えたと考えられる。十四の時出仕し、青年時には漢詩を学び、黄檗宗の玉堂和尚について参禅したりしたが、貞享五(一六八八)年八月、二十七の若さで病気を理由に致仕し、遁世した(貞享五年は九月三十日に元禄に改元された)。中村史邦を頼って上洛し、彼の紹介で元禄二(一六八九)年の冬、落柿舎にて芭蕉に入門した。二年後に出た「猿蓑」では早くも跋文を任され、発句十二句が入集している。元禄六(一六九三)年には近江に移って無名庵に住し、翌年、芭蕉終焉の枕頭にも侍し、師逝去後は三年の喪に服すことを決意、木曽塚無名庵(むみょうあん)に籠り、「寝ころび草」を記し、次いで元禄九年からは義仲寺近くの龍ヶ岡に仏幻庵(現在の膳所駅南西直近にある龍ヶ岡俳人墓地跡」が跡地。グーグル・マップ・データ)を結んで、清閑と孤独を愛した。元禄一三(一七〇〇)年には一時、郷里に帰省したが、帰庵後は病がちとなり、閉関の誓いを立て、師追福の「法華経」千部の読誦・一字一石の経塚建立を発願、これを果たし、翌元禄十七年春二月二十四日に没した(元禄十七年は三月十三日に宝永に改元された)。享年四十三。前半生の部分については、伊藤洋氏の「芭蕉DB」の「内藤丈草」に、『尾張犬山藩士内藤源左衛門の長子として生まれる。幼くして母に死別し、継母にはたくさんの子供が産まれ、丈草に注がれるべき両親の愛情は薄かった。このトラウマは、丈草の生涯つきまとうこととなる』。『そもそも、内藤源左衛門は、元来は越前福井の貧乏武士だったのだが、源左衛門の妹、丈草の叔母が』、『犬山藩江戸屋敷に奉公中に藩主成瀬正虎のお手がついて一子をもうけ、この縁で、特に功も無いまま』に『犬山藩に取り立てられたものであ』った。『このタナボタ的幸運は長続きせず、藩主の代替わりと叔母・松壽院の死によって瓦解』してしまう。『丈草の従兄弟に当たる松壽院の一子直龍は尾張徳川家に養子に出されたが』、『狂疾を口実に蟄居させられ』、『失脚するに及んで内藤家も没落』、悪いことに『丈草は、この直龍に仕えていたので、この悲劇をまともに受けることになった。こういう度重なる不運に人生のはかなさを知った丈草は』、結局、『武士を捨てて遁世、近江松本に棲』むこととなったと記されている。さても。私は丈草の句が好きでたまらない人間である。]

 

      丈  艸

 

       

 芥川龍之介氏が蕉門の作家の中で最も推重していたのは内藤丈艸であった。大正の末頃に『俳壇文芸』という雑誌が出た時、第一号の第一頁に芥川氏の短い文章が載っており、その中に「丈艸の事」という一条があったと記憶する。全集についてその文を引用すれば左の如きものである。

[やぶちゃん注:以下、短い宵曲の付記を挟んで、引用は底本では全体が二字下げである。孰れも前後を一行空けた。以下は、芥川龍之介の「澄江堂雜記」(大正一四(一九二五)年一月発行の雑誌『俳壇文藝』所収)に掲載されたもので、後に『梅・馬・鶯』に「澄江堂雜記」集成版で「二十五 丈艸」と番号を付して所収された。初出では『續「とても」』とのカップリングである。当該初出の「澄江堂雜記」(正字正仮名)は私のサイトの古い電子化を見られたい。]

 

蕉門に竜象(りゅうぞう)の多いことは言うを待たない。しかし誰が最も的々(てきてき)と芭蕉の衣鉢を伝えたかと言えば恐らくは内藤丈艸であろう。少くとも発句は蕉門中、誰もこの俳諧の新発意(しんぼち)ほど芭蕉の寂びを捉えたものはない。近頃野田別天楼氏の編した『丈艸集』を一読し、殊にこの感を深うした。

[やぶちゃん注:「竜象」徳の高い僧を竜と象に譬えた語で、一般に僧を敬っていう語である。

「新発意」発心 (ほっしん) して僧になったばかりの人。

「野田別天楼」(明治二(一八六九)年~昭和一九(一九四四)年)は俳人。備前国邑久(おく)郡磯上(いそかみ)村(現在の岡山県瀬戸内市長船町磯)生まれ。本名は要吉。明治三〇(一八九七)年から正岡子規の指導を受け、『ホトトギス』などに投句、教職にあって報徳商業学校(現在の報徳学園中学校・高等学校)校長を務めた。「京阪満月会」では幹事を務め、松瀬青々の『倦鳥』(けんちょう)同人となって関西俳壇で活躍した。昭和九(一九三四)年には『足日木』(あしびき)を、翌年には『雁来紅』(がんらいこう)を創刊・主宰した。俳諧史の研究では潁原退蔵と親交があった。

「丈艸集」野田別天楼編で大正一二(一九二三)年雁来紅社刊。]

 

 しかして丈艸の句十余を挙げ、

 

これらの句は啻(ただ)に寂びを得たと言うばかりではない。一句一句変化に富んでいることは作家たる力量を示すものである。几董(きとう)輩の丈艸を嗤(わら)っているのは僣越もまた甚しいと思う。

[やぶちゃん注:「几董」蕪村の高弟高井几董(たかいきとう 寛保元(一七四一)年~寛政元(一七八九)年)。複数回既出既注であるが、ここは必要があると判断するので再掲しておく。京の俳諧師高井几圭の次男として生まれた。父に師事して俳諧を学んだが、特に宝井其角に深く私淑していた。明和七(一七七〇)年三十歳で与謝蕪村に入門、当初より頭角を現し、蕪村を補佐して一門を束ねるまでに至った。安永七(一七七九)年には蕪村と同行して大坂・摂津・播磨・瀬戸内方面に吟行の旅に出た。温厚な性格で、蕪村の門人全てと分け隔て無く親交を持った。門人以外では松岡青蘿・大島蓼太・久村暁台といった名俳と親交を持った。天明三(一七八四)年に蕪村が没すると、直ちに「蕪村句集」を編むなど、俳句の中興に尽力した。京都を活動の中心に据えていたが、天明五(一七八五)年、蕪村が師であった早野巴人の「一夜松」に倣い、「続一夜松」を比野聖廟に奉納しようとしたが叶わなかった経緯から、その遺志を継いで関東に赴いた。この際に出家し、僧号を詐善居士と名乗った。天明六(一七八六)年に巴人・蕪村に次いで第三世夜半亭を継ぎ、この年に「続一夜松」を刊行している(以上は概ねウィキの「高井几董」に拠った)。]

 

と結んでいる。几董輩云々とあるのは『続晋明集(ぞくしんめいしゅう)』中の記載を指すのであろう。この事は「続晋明集読後」なる文章に記されている。これは「丈艸の事」ほど短くないから、全文を引くには便宜でないが、問題は几董が丈艸を評した「僧丈草ナル者ハ蕉門十哲之一人也。而シテ句々不ㇾ見秀逸。蓋テハ斯序文ㇾ謂ㇾ出ヅトㇾ群矣。不ㇾ及支考許六者也」[やぶちゃん注:「僧の丈艸なる者は蕉門十哲の一人なり。而して、句々、秀逸を見ず。蓋(けだ)し斯(この)序文に於ては群を出づと謂ふべし。支考・許六に及ばざる者なり」。]という数語に存するのである。芥川氏はこの文章についてこういっている。

[やぶちゃん注:同前で同前の仕儀を施した。原文全文は電子化されたものがネットにないので、この電子化のために、急遽、ブログで作成した。こちらである。芥川龍之介の『「續晉明集」讀後』は大正一三(一九二四)年七月二十二日附『東京日日新聞』の「ブックレヴィユー」欄に、「几董と丈艸と――『「續晉明集」讀後』を讀みて」と題して掲載されたもので(龍之介満三十二歳)、後の作品集『梅・馬・鶯』に表記の代で所収されたものである。本文に出る通り、同年七月十日に古今書院より刊行された「續晉明集」の書評である。しかし、一読、判るが、最後の段落の推薦はこれまた頗る形式上のもので、寧ろ、私には強烈なアイロニーに富んだ「侏儒の言葉」と同じものを感じ、思わず、ニンマリしてしまうのである。是非、全文を読まれたい。先の「丈艸の事」の半年前のものである。]

 

僕はこの文章に逢著した時、発見の感をなしたといった。なしたのは必ずしも偶然ではない。几董は其角を崇拝した余り、晋明と号した俳人である。几董の面目はそれだけでも彷彿するのに苦まない[やぶちゃん注:「くるしまない」。]であろう。が、丈艸を軽蔑していたことは一層その面目を明らかにするものといわなげればならぬ。

 

 この文章は表面的には必ずしも蔑意を以て書かれていない。しかも芥川氏が丈艸を推重する態度の朋(あきらか)である以上、敬意を以て書かれたものでないことは勿論である。芥川氏は次いで許六の言を引き、

[やぶちゃん注:以下二箇所、同前の仕儀を行った。]

 

 尤も許六も丈艸を軽蔑していたわけではない。「丈艸が器よし。花実ともに大方相応せり」とは「同門評」の言である。しかし支考を「器もつともよし」といい、其角を「器きはめてよし」といったのを思うと、甚だ重んじなかったといわなげればならぬ。けれども丈艸の句を検すれば[やぶちゃん注:「けみすれば」。]、その如何にも澄徹[やぶちゃん注:「ちょうてつ」。澄んで透き通っていること。]した句境ば其角の大才と比べて見ても、おのずから別乾坤を打開している。

 

といい、丈卿の句十余を挙げて、

 

手当り次第に抜いて見ても丈艸の句はこういう風に波瀾老成の妙を得ている。たとえば「木枕の垢や伊吹にのこる雪」を見よ。この残雪の美しさは誰か丈艸の外に捉え得たであろう? けれども几董は悠々と「句々秀逸を見ず」と称している。更にまた「支考許六に及ばざる者なり」と称している。

 

 芥川氏はここでもまた表面的に几董の言を否定していない。但丈艸の句を揚げることによって、逆に几董の言に多大の疑問を投げかけているのである。

 尤もこの問題の中心になっている几董の意見なるものは、丈艸評というほど改ったものではない。『流川集』に序した丈艸の一文に書添えた程度のもので、固より著書として公にしたわけでもない。「句々秀逸を見ず」という総評も、「蓋この序文においては群を出づといふべし」という限定的批評も、「支考許六に及ばざる者なり」という比較論も、その間に一貫したものがないように思われる。支考、許六に及ばぬというのも、句の上において然るのか、文章の上において然るのか、支考、許六共に文章の雄であるだけに、多少の疑なきを得ぬ。もし句の上においてもまた丈艸を以て二子の下に置くというならば、悠々たる几董の批評は達に解せざる者の悠々である。几董がよく衣鉢を伝えたはずの蕪村は、支麦(しばく)と称して支考、乙由(おつゆう)を軽んじた。几董と共に蕪村の高弟であった召波は、極端にこの説を奉じ、蕪村が「麦林支考其調(そのしらべ)賤しといへども、工みに人情世態を尽す、さればまゝ支麦の句法に倣ふも、又工案の一助ならざるにあらず、詩家に李杜を貴ぶに論なし、猶元白[やぶちゃん注:「げんぱく」。]をすてざるが如くせよ」という折衷説を持出しても、「叟(そう)我をあざむきて野狐禅(やこぜん)に引くことなかれ、画家に呉張を画魔とす、支麦は則ち俳魔ならくのみ」といって肯(がえん)ぜず、ますます支麦を罵って他を顧みなかったと伝えられている。几董が支考を丈艸の上に置くということが、句の評価の上にも及ぶならば、几董は師説に徹すること、召波の如くなり得なかったというべきであろう。

[やぶちゃん注:「流川集」(ながれがわしゅう)露川編。丈草序。元禄六(一六九三)年刊。

「乙由」中川乙由(延宝三(一六七五)年~元文四(一七三九)年)は伊勢の人。別号は麦林舎。材木商から後に御師(おんし:伊勢神宮の下級神職。参拝の案内・祈祷及び宿の手配や提供をし、併せて信仰を広める活動もした。伊勢神宮の者のみを「おんし」と読み、全国的な社寺のそれは「おし」と読む)。俳諧は、初め、支考に学び、後に岩田涼菟(りょうと)に従った。涼菟没後は〈伊勢風〉の中心となったが、その一派は平俗な作風で似通った支考の〈美濃派〉とともに、通俗に堕した句柄として「田舎蕉門」とか「支麦(しばく)の徒」と卑称された。

「元白」は「げんぱく」で中唐の名詩人元稹(げんしん)と白居易を、或いは彼らを中心とした詩風を指す。二人には唱和の作が多く、孰れも平易な口語を取り入れており、「元和体」として当時、流行した。

「呉張」明代の画家呉偉と張路。呉偉(一四五九年~一五〇八年)は明の浙派 (せっぱ) の画家。江夏 (湖北省) の人で、多く金陵 (南京) に寓居した。成化・弘治年間(一四六五年~一五〇五年に画院に入り、天子に愛重された。絵は浙派の祖戴進に学んだと伝えられるが,、北宗画の画法を学んで山水・人物画を描き、粗放な筆墨法は戴進以上に増幅され、南宗を尊んで北宗をけなす「貶北論」を生む原因となった。張路(一四六四年?~一五三八年?)は同じく浙派の画家。号の平山で知られる。河南省開封の人で、かつて太学に学んだが仕官せず、一生を在野の画家として過ごした。浙派後期に属し、呉偉を学んで山水・人物を多く描いたが、筆墨が粗放に過ぎるとして、後の文人批評家からは「狂態邪学」と貶(けな)された。即ち、呉も張も北宋画派浙派の代表者にして奔放自在な画風で知られ、積極的に南画を誹謗したことなどから、南画を正統視する立場からは異端視、魔とされたというのである。

『蕪村が「麦林支考其調賤しといへども、工みに人情世態を尽す、さればまゝ支麦の句法に倣ふも、又工案の一助ならざるにあらず、詩家に李杜を貴ぶに論なし、猶元白をすてざるが如くせよ」という折衷説を持出しても、「叟我をあざむきて野狐禅に引くことなかれ、画家に呉張を画魔とす、支麦は則ち俳魔ならくのみ」といって肯(がえん)ぜず、ますます支麦を罵って他を顧みなかった』これは「春泥句集」(黒柳召波の俳諧集。召波の没後に遺稿を子の維駒 (これこま) が纏めたもの。春泥は春泥舍で召波の別号)の蕪村の序(安永六年十二月七日(既に一七七七年)クレジット)に出るもの。昭和二(一九二七)年有朋堂書店刊「名家俳句集」で藤井紫影校訂。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで当該部分(六一八ページから六一九ページにかけて)が読める。]

 

 几董は其角を尊敬した。晋明と号し、『新雑談集(しんぞうだんしゅう)』を著し、筆蹟までこれに模したあたり、心酔したという方が当っているかも知れない。其角を崇拝するが故に丈艸を軽蔑するということは、芥川氏のいうが如く「一層その面目を明らかにするもの」であるにせよ、公平な批評でないことは勿論である。香川景樹(かがわかげき)は『新学異見』において「鎌倉のが右府(うふ)の歌は志気ある人決して見るべきものにあらず」といい、「右府の歌の如くことごとく古調を踏襲め[やぶちゃん注:「かすめ」。]古言を割裂[やぶちゃん注:「とり」。]たらんには」といって実朝の歌を貶(けな)した。この批評は真淵に反対する立場から、自己の信条に忠実なるものかも知れぬが、竟(つい)に公平を以て許し難いのと一般である。

[やぶちゃん注:「新雑談集」天明五(一七八五)年刊の几董晩年の句文集。書名自体が其角の「雑談集」へのオード。

「香川景樹」(明和五(一七六八)年~天保一四(一八四三)年)は江戸後期の歌人。因幡出身。本姓は荒井。初名は純徳。二条派の香川景柄(かげもと)の養子。小沢蘆庵の影響を強く受け、後に養家を去り、「桂園派」を起こした。「調べの説」を唱え、先の賀茂真淵(元禄一〇(一六九七)年~明和六(一七六九)年)らの復古主義歌学を否定した。

「新学異見」香川景樹の歌論書。一巻。文化八(一八一一)年成立で同十二年に刊行された。真淵の「新学」に対して「古今和歌集」を擁護し、「現代主義」を主張した。国立国会図書館デジタルコレクションで明二五(一八九二)年しきしま発行所刊の活字本で読める(本歌論は短い)。当該部はここ(左ページ後ろから五行目から)。本文に附した読みはこれに拠った。

「踏襲め」そのままに新たな創意もなく奪い取り。]

 

 几董の丈艸評なるものは、実をいうとそれほど重きを置くに足るものではない。芥川氏が問題にしたから、本文に入るに先(さきだ)って少しく低徊して見たまでの話である。その芥川氏が已に「几董輩の丈艸を嗤っているのは僣越もまた甚しい」と打止めている以上、とかくの言説は無用の沙汰であろう。強いて蛇足を加えるならば、古人に対する後人の批判なるものが、往々にして几董の丈艸評に堕するのではないか、ということがあるに過ぎぬ。

 丈艸は芭蕉の傘下における沙門の一人である。彼が犬山の武士から、一擲(いってき)して方外(ほうがい)の人となったのは、指に痛[やぶちゃん注:「いたみ」。]があって刀の柄が握れぬからだともいい、かねてその弟に家禄を譲る志があったので、病に托したのだともいう。「多年負ヒシㇾ屋一蝸牛。化シテ蛞蝓タリ自由。火宅最涎沫キルヲ。追-法雨ヲ林丘」[やぶちゃん注:「多年、屋(をく)を負ひし一蝸牛(いちくわぎう)。化(け)して蛞蝓(かつゆ)と倣(な)り、自由を得たり。火宅、最も惶(おそ)る涎沫(せんばつ)の盡きるを。法雨(はうう)を追尋(つひじん)し、林丘(りんきう)に入る」。]という偈(げ)によってもわかるように、彼はたよりなき風雲に身をせめられたのではない。仕(し)を辞すると共に正面から「仏籬祖室(ぶつりそしつ)の扉(とぼそ)」に入ったのである。

[やぶちゃん注:「方外の人」俗世の外に身を置く人。広く僧・画家・医師などを指したが、ここは武士身分を捨てて僧となったことを言う。

「蛞蝓(かつゆ)」ナメクジ。

「涎沫(せんばつ)」泡のようなよだれ。ナメクジの粘液のこと。ここは儚い生への執着のシンボル。

「仏籬祖室」仏陀の籬 (まがき) と祖師達磨の部屋。転じて仏教と禅門のこと。]

 

 両刀を棄てて緇衣(しえ)を身に纏った丈艸は、どういう機縁で芭蕉に近づくようになったか。

[やぶちゃん注:「緇衣」「緇」は「黒い」の意で、墨染めの僧衣。]

 

   ばせを翁に文通の奥に

 招けども届かぬ空や天津鴈       丈艸

という句は相見(そうけん)以前のものと思うが、はっきりした年代はわからない。去来の書いた「丈艸誄(るい)」に「其後洛の史邦にゆかり、五雨亭に仮寐し、先師にま見え初られし」とあるのを見れば、史邦の因(ちなみ)によったものらしい。芭蕉は逸早(いちはや)くその本質を洞見して、「此僧此道にすゝみ学ばゞ、人の上にたゝむ事、月を越べからず」といったけれども、丈艸は強いて句作に力(つと)めるという風でもなかった。この事は「丈艸誄」にも「性くるしみ学ぶ事を好まず、感ありて吟じ、人ありて談じ、常は此事打わすれたるが如し」とあり、許六も「同門評判」の中で「釈氏(しゃくし)の風雅たるによつて、一筋に身をなげうちたる所見えず、たとへば興に乗じて来たり、興つきて帰ると言へるがごとし」と評している。超然たる丈艸の面目は、これらの評語の裏にも自ら窺うことが出来る。

[やぶちゃん注:掲句の、

 招けども屆かぬ空や天津鴈(あまつかり)

は、季題は「天津鴈」で秋。松尾勝郎氏編著「蝸牛 俳句文庫17 内藤丈草」(一九九五年蝸牛社刊)によれば、「龍ケ岡」(馬州編・宝暦三(一七五三)年自序)からで、前書は「丈草句集」にあるものとし、『「天津鴈」は空を飛ぶ鴈。あなたに師事したいと思う願いは、届きそうもない。江戸につながる空を自在に飛ぶ鴈を、ただ羨むばかり。二十五歳の貞享三年』(一六八六年)、『無懐の俳号で書き送ったと伝わる句』とある。]

 

 丈艸は其角や嵐雪のように、元禄度の俳諧の変選に際会していない。彼は蕉門らの礎(いしずえ)が殆ど確立してから出現した作者だけに、去未が経験したほどの俳風の変化も、身に感じなかったろうと思われる。彼の句が早く一家の風を具えていたことは、『猿蓑』所載の句が已にこれを明にしている。

 幾人かしぐれかけぬく瀬田の橋     丈艸

[やぶちゃん注:上五は「いくたりか」。まるで歌川広重の傑作「名所江戸百景 大はしあたけの夕立」か、葛飾北斎のどれこれを見るような、俯瞰のスカルプティング・イン・タイムである。「瀬田夕照」が定番なのに、そこに敢えて冬の昼間の時雨を持って来てしかも、かっちりとしたフレームの中に雨のと走る行人をすこぶる動的に撮った、まことに映像的なダイナミックな名句と言える。言わずもがなであるが、彼らの実際の卓抜した酷似する浮世絵群はこれから百年も後に描かれたものなのである。]

 

   貧交

 まじはりは紙子の切を譲りけり     丈艸

[やぶちゃん注:「紙子」は「かみこ」、「切」は「きれ」。「紙子」は紙子紙 (かみこがみ) で作った衣服のこと。当初は律宗の僧が用い始め、後に一般に使用されるようになった着衣。軽く保温性に優れ、胴着や袖無しの羽織に作ることが多い。近世以降、安価なところから貧しい人々の間で用いられたことから、「みすぼらしい姿・惨めな境遇」の形容ともなったことをも無論、踏まえた選語である。前書に見る通り、杜甫の楽府「貧交行(ひんこうかう)」のネガティヴな感懐をもとに、それをアウフヘーベンして自身と友(不詳)の清貧の交わりの「直きこと」「まこと」を表わしている。

   *

 貧交行

翻手作雲覆手雨

紛紛輕薄何須數

君不見管鮑貧時交

此道今人棄如土

  貧交行

 手を翻(ひるがへ)せば雲と作(な)り

 手を 覆(くつがへ)せば雨

 紛紛たる輕薄 何ぞ數ふるを須(もち)ひん

 君見ずや 管鮑(くわんんぱう)貧時の交はりを

 此の道 今人(こんじん) 棄つること 土のごとし

   *]

 

 背門口の入江にのぼる千鳥かな     同

[やぶちゃん注:「背門口」は「せどぐち」。一九八九年岩波文庫刊の堀切実氏の編注になる「蕉門名家句選(下)」の評釈によれば、『琵琶湖の岸に接した旅宿の裏口からの眺めであろう湖上にまだ明るみの残る時分、千鳥が狭い入江へ水面に浮上したままやってくる情景に感興を発したのである。冬の湖辺の閑寂な情趣がよくあらわされている。一句、昼の景か夜の景か、また千鳥は飛翔しているのか、浮上しているのか、諸説の分かれるところであるが、「入江にのぼる」という言い方からみて、千鳥の水面に浮上する姿を中心とした情景を想い浮かべるのが自然であろうと考えられる』とされ、さらに『この句、おそらく、丈草が湖南の地へ移住する以前、京にあって、湖畔に旅したときの吟とみられる』とされる。「千鳥」チドリ目チドリ亜目チドリ科 Charadriidae。博物誌や本邦の種群については「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鴴(ちどり)」を参照されたい。冬の季題である。但し、堀切氏の評釈には私はやや疑問が残る。それは『千鳥の水面に浮上する姿を中心とした情景を想い浮かべるのが自然であろう』というところで、種によってはチドリの中には有意な深さの水面に浮いているものもおり、中には水中に潜ることの出来る種もいるかとは思うが、一般的な認識から言えば(当時も今もである)、千鳥は水辺のごく浅い水辺や潟をせっせと歩いて摂餌行動をとるものである。寧ろ、この句の新味は、そうした千鳥足の元となった彼らの平面上の水平移動の映像を手前への動きとして捉え、あたかも湖から「のぼ」って来るように見た「見立て」のパースペクティヴにこそあるように私は思う。それはまさに、同書で堀切氏が並べて引く同じ丈草の、

 水底を見て來た㒵(かほ)の小鴨(こがも)哉

が、同じような逆方向へのモーメントとして詠まれているのと相応するように思われるのである。

 

 しづかさを数珠もおもはず網代守    同

[やぶちゃん注:「網代守」は「あじろもり」。堀切氏の前掲経書では、『川瀬の音のみがひびく冬の夜――この静寂境にあれば誰でも仏心を起こし、数珠を手にすることを想い起こしそうなものなのに、あの網代守はただ一心に簀』(すのこ)『に入った水魚をすくい捕って殺生を重ねていることだ、というのである。そうした救われない網代守の行為を憐んでいるようでもあり、またその無皆無分別の悠然たる姿を羨望しているようでもある』と評され、『「を」は逆接の意の接続助詞』、『「網代」は川瀬の両岸から、たくさんの杭をV宇形に打ち込み、その先端のところに簀を設けて、魚を誘い入れて捕る漁法。その網代の番人が「網代守」で、簀の側に簡単な床と屋根をしつらえ、夜間は篝火をたいて、網で魚を掬いとる。山城(京)の宇治川や近江(滋賀)の田上の氷魚』(ひお:鮎の稚魚。二~三センチメートル程で体は殆んど半透明。秋から冬にかけて琵琶湖で獲れるものが知られる)『を捕る網代がよく知られている。ここは琵琶湖のものか。冬の季題』とあり、更に「猿蓑さがし」(稺柯坊(さいかぼう)空然著になる「猿蓑」の最古の全評釈書「猿みのさがし」(文政一一(一八二八)年刊)『には謡曲『鵜飼』で、鵜使の仕方話として出る「面白の有様や、面白の有様や、底にも見ゆる篝火(かがりび)に、驚く魚を追ひ回(まわ)し、潜(かず)き上げ掬(すく)ひ上げ、隙(ひま)なく魚を食ふ時は、罪も報ひも後の世も、忘れ果(は)てて面白や」の場面を背景にしたものと説いている』とある。この最後のそれは原拠の当否は別として、句解の裾野がぐっと広がってきて面白い。]

 

 一月は我に米かせはちたゝき      同

[やぶちゃん注:「一月」は「ひとつき」。堀切氏前掲書に、『毎晩洛中を物乞いに歩きまわっている鉢叩きよ、もう喜捨の米も大分たまったことだろうから、どうか貧しいわたくしのためにひと月分ほど融通してほしい、というのである。鉢叩きに心の中で呼びかけているのであるが、物を乞うのが鉢叩きなのに、これを逆手にとって、鉢叩きに物を乞うとしたところが、俳諧らしいユーモアである。貧なる境涯にあって、このようにおどけたしぐさをみせるところに丈草の洒脱な境地がくみとれる』とある。「はちたゝき」は「去来 二」で既出既注。]

 

 ほとゝぎす滝よりかみのわたりかな   同

[やぶちゃん注:堀切氏前掲書に、『若葉のころの山中の趣深い情景である。滝になって流れ落ちているところより、さらに上流の山深い谷川の渡し場を、冷たい水に漬って徒渉(かちわた)りしていると、突然、周囲の静寂を破って、時鳥が一声鳴き過ぎた、というのであろう。樵夫などの通うような道がおのずと渓流の渡しにさしかかったところなのであろう。下流の方が滝になって轟々と流れ落ちているのが眺められるのである』とされ、「渡り」は『渡し場の意』。但し、『一説に「あたり」と解して、滝の落ちるところからさらに上方あたりに時鳥が鳴き過ぎたとみる』ものもある、とある。別解は景色全体が不分明となり、私は好かない。]

 

 隙明や蚤の出て行耳の穴        同

[やぶちゃん注:上五は「ひまあくや」とルビする。中七は「のみのでてゆく」であろう。「蚤」は夏の季題。堀切氏は「隙明や」を「ひまあきや」と読まれ(中七は「のみのでてゆく」)、『蚤もどうやら隙をもてあましたらしく、わが耳の穴を出てゆくことだ、というのである。隙をもてあます蚤に、おのれの懶惰(らんだ)なる境涯を重ねているのであり、そこに洒脱でユーモラスな味わいがある』と評しておられるが、語注で、「隙明」は『暇明。なすことがなくなって暇になること。閑暇の時。一説に「ひまあくや」また「ひまあけや」とも読み、語意も、戸や壁の隙間(すきま)から光がさし込んで夜が明けてゆくこと、あるいは「蚤の出て行く隙明(ヒマアキ)」(『猿蓑さがし』)で通路発見のこととするなど諸説がある』とある。想像の諧謔句として孤独を莞爾としてそのまま受けとめている丈草の人柄が淋しい笑いを誘う一句である。]

 

 京筑紫去年の月とふ僧中間       同

[やぶちゃん注:「去年」は「こぞ」、「中間」は「なかま」で仲間に同じい。堀切氏の評釈。『京の僧と筑紫から帰った憎とが、月見の座に同席して、互いに別れ別れに見た去年の名月のことを尋ね合いながら月見をしているのであろう。「去年の筑紫の月はいかがでしたか」、「留守にしていた京の月はどんな風情でしたか」と語り合うのである。「僧仲間」は四、五人とも考えられるが、ここでは二人の対座とみておいた。おそらくひとりは京住の丈草自身とみてよかろう。去年の月のことを話題にして、今年の月見の様子をとらえているのが趣向である。「京」「筑紫」といった古雅な地名を出したのも、月見にふさわしい』とあり、注で『「筑紫」は筑前と筑後の古称。いまの福岡県をさすが、広義には九州一円をいう。「京」と「筑紫」は都と鄙との対照をなす』とされ、「僧中間」には、『この相手の僧については不明であるが、一説には、これを脱俗の心をもった去来のこととみる。なお、この句をそれぞれ各地に修業に出かけてきた四、五人の僧たちが集まった場面とみる解も多い』とする。私は対座で相手を去来(彼は長崎出身である)する説に賛成する。]

 

 行秋の四五日よわるすゝきかな     同

[やぶちゃん注:私の偏愛の一句である。]

 

 我事と鰌のにげし根芹かな       同

[やぶちゃん注:上五は「わがことと」、「鰌」は「どじやう」、「根芹」は「ねぜり」。]

 

 真先に見し枝ならんちる桜       同

[やぶちゃん注:上五「まつさきに」。

 なお、以上の「幾人か」以下の総ての句は「猿蓑」所収である。まさに「引っ提げてやってきたな」の観が私にはする。]

 

 これらの句は何方(どちら)から見ても危気[やぶちゃん注:「あぶなげ」。]のない、堂々たる作品である。許六のいわゆる「釈氏の風雅」たるにかかわらず、御悟(おさと)り臭い、観念的なものが見当らぬのは、けだしその道に入ることの深きがためであろう。「京筑紫」の一句は僧の姿を句中に現しているが、その僧同士も去年見た月のことを語り合っているので、格別坊主臭いところはない。「隙明や」の句、「我事と」の句などに、ほのかな滑稽趣味が漂っているのは、丈艸の句の世界を考える上において、看過すべからざるものであろうと思う。

 丈艸は『猿蓑』のために漢文の跋を草している。「維𠰏元禄四稔辛未仲夏。余掛於洛陽旅亭偶会兆来吟席。見ㇾ需シテ此事センコトヲ書尾。卒ㇾ毫不ㇾ揣ㇾ拙[やぶちゃん注:後注を必ず参照のこと。]とあるに従えば、京都で凡兆、去来に頼まれたものの如くであるが、それにはどうしても頼まれるだけのものがなければならぬ。『猿蓑』は芭蕉監督の下に成った有力な撰集であり、殊に序文の方は蕉門第一の高足たる其角が筆を執っているのだから、いい加減に跋を書かせたものとも思われない。人は『猿蓑』における彗星的作家として凡兆を挙げる。けれども凡兆は『猿蓑』を以てはじめて出現した作家ではない。『曠野(あらの)』その他二、三の集にその片鱗を示していることは、かつて記した通りである。丈艸の作品が句々老成の趣を示しているのは、その天稟(てんぴん)に出ずるものとしても差支ない。ただ超然として「常は此事打わすれたるが如」く、「興に乗じて来たり興つきて帰ると言へるがごと」き丈艸が、一面において『猿蓑』の跋を草するほど重きをなしていたということは、慥(たしか)に注目に値する。当時の丈艸は漸く三十になったばかりだったのである。

[やぶちゃん注:「維𠰏元禄四稔辛未仲夏。余掛錫於洛陽旅亭偶会兆来吟席。見ㇾ需シテ此事センコトヲ書尾。卒ㇾ毫不ㇾ揣ㇾ拙この「𠰏」であるが、これは諸本や原本(「早稲田大学図書館」公式サイト内の「古典総合データベース」の当該部)を見ても、特殊な「※」(「日」+「之」)という字体となっている(Unicodeその他でも表示不能)。しかしこれは調べた限りでは「時」の異体字であり、それであってこそ文意が通じる(底本も「とき」とルビはする。今までもそうだが、底本の漢文訓読部分は読みのルビは省略している。表示が出来ない以外にもそのルビが歴史的仮名遣になっていないのが厭だからである)。されば、この「𠰏」は誤字である。宵曲のそれか、底本編者のそれかは分からぬ(宵曲の原本が読めないので)。ともかくも以下に訓読するが、「※」はいやなので「時」で示す。

   *

維(こ)れ時に元祿四稔(ねん)辛未(かのとひつじ/しんび)仲夏。余、錫を洛陽の旅亭掛(かけ)て偶(たまたま)兆・來の吟席に會(くわい)す。此事(このこと)を記して書尾に題せんことを需(もと)めらる。卒(にはか)に毫(がう)を援(とり)て拙(せつ)を揣(はか)らず。

   *

「元祿四稔辛未」一六九一年。「稔」は「年」の言祝ぎの代字。「毫」は筆(ふで)。「揣らず」は「よく考えもせず」の意。

「高足」(こうそく)は門人や弟子の中で特に優秀な者。高弟。]

梅崎春生 長編 砂時計 電子化注一括縦書PDFサイト版 公開

こちらで分割公開した梅崎春生の長編「砂時計」の全電子化注をサイトでPDF縦書一括版として公開した。どうぞ、御ゆるりとお読みあれかし。

2020/07/23

三州奇談續編卷之八 阿尾の石劍

[やぶちゃん注:遂に最終巻に突入する。]

 

 三州奇談後編 卷 八

 

    阿尾の石劍

 氷見の西北阿尾(あを)の古城は、往昔菊池伊豆守住館(ぢゆうかん)の地にして、海岸猶今殘壘(ざんるい)巍然(ぎぜん)たり。左は灘(なだ)に折れ、右は間島(ましま)になだれて、後ろに藪波(やぶなみ)の里あり。彼(か)の「萬葉集」にも詠ずる所となり、海中阿武島(あぶがしま)・唐島(からしま)左右に見ゆ。唐島は國君光高(みつたか)公の、「大和にはあらぬ唐島」と讀ませ給ひし高詠あり。本より有磯の浦波(うらなみ)萬里(ばんり)の遠きを狹(せば)めて、佐渡が島宮崎の端よりあら波のよせ來(きた)れば、眺望詞(ことば)も及ばず。眼涯(がんがい)豈(あに)極まりあらんや。此磯は本(も)と「萬葉集」に葛かづらをよみ寄せたりし「有磯の渡り」にして、「大崎」や「有磯の渡り」と云ひし。「大崎(おほさき)」とは「阿尾渡(あをのわたり)」の轉語、今は「尾ヶ崎」といふ。渡りは此地とて、猶海中に石路(いしのみち)髣髴と見ゆ。今も猶血氣の人、勇める馬を試みに打渡すに、輙(たやす)く唐島に行き渡る。其間一里許ならん。海苔(のり)生ひ海雲(もづく)亂れて、左右の深さ千仭(せんじん)とにや。近頃も二丈に及ぶ海松(みる)を引上げたり。是「千年木(せんねんぼく)」と云ふものゝよし、根莖(ねくき)十(とお)かゝへなり。今其木を切りて姿(すがた)といふ村に殘れり。菊池の古城は海を肱折(ひぢを)りてさし出(いだ)し、切岸(きりぎし)絕壁眼(め)くるめきて見上(みあ)ぐべからず。上を少し下りて石上(せきしやう)に松あり。稀に鷹の巢をなすことありとかや。急なる所(ところ)繩を下(おろ)して量るに、十六丈餘となり。

[やぶちゃん注:「阿尾」富山県氷見市阿尾(グーグル・マップ・データ航空写真)。私の好きな場所。高校時代、ここから通う綺麗な女の子がいたのをふっと思い出した。

「古城」富山湾に面した独立丘陵の岬である城ケ崎に築かれた戦国時代の山城。ウィキの「阿尾城」によれば、『能登へ向かう街道と海上交通をおさえる要衝に位置し、戦国末期の城主として肥後菊池氏の末裔である菊池武勝・安信親子が知られる』。『菊池武勝は上杉謙信に従った後、織田信長と結び、越中入りした佐々成政配下として活躍した。信長死後は成政と対立した前田利家方につき、佐々成政に攻められるも前田勢の加勢により撃退している』。『菊池氏は前田方についた後も阿尾城への居城と知行』一『万石を安堵されたものの』、慶長元(一五九六)年に『当主が没すると』、『阿尾城もまもなく廃城となった』。『なお、菊池氏が前田方についた』天正一三(一五八五)年に『阿尾城に入った前田方の武将のひとりが傾奇者』(かぶきもの)『として知られる前田慶次郎である。城主だったとする見方もあるものの、実際に城にとどまったのは』五月から七月頃までの僅か三ヶ月ほどだ『と考えられている』。また、『氷見市教育委員会が行った発掘調査の結果』では、『明確な城郭遺構は確認されなかった。ただし、伝二の丸・伝三の丸地区で』十五世紀から十六世紀の『遺物が出土しており、ここを中心に城として機能していたと』は『考えられている』とある。より詳しくは、写真も豊富なこちらをお薦めする。

「往昔」今までも何度も(全十二箇所)も出てくる語句であるが、読みは確定し難い。音は「わうじやく(おうじゃく)」であるが、当て訓で「そのかみ」或いは「むかし」とも読めるからである。私は一貫して「そのかみ」と読むことにしている。

「菊池伊豆守」前注に出た菊池武勝(享禄三(一五三〇)年~慶長一一(一六〇六)年)。肥後菊池氏の末裔。越中国射水郡阿尾城主。ウィキの「菊池武勝」によれば(先とダブるが、ほぼそのまま引いた)、『別氏は屋代(八代)。通称は右衛門尉、入道後は右衛門入道。別名は義勝。官位は伊豆守(自称)。子は安信。また陸奥国は糠部郡・鶴ヶ崎順法寺城、田名部館城主だった菊池正義は弟』。永禄四(一五六一)年頃、『阿尾城主として上杉謙信に仕える。謙信の死後は織田信長に属し』、天正八(一五八〇)年三月十六日には、『信長より屋代十郎左衛門尉・菊池右衛門入道宛てに知行を安堵する朱印状が与えられて』おり、翌年二月、『信長は征服途中にあった越中の一職支配権を佐々成政に与え、武勝はその与力と』なっている。「本能寺の変」後、『佐々成政が』、『羽柴秀吉や同じ信長子飼いでありながら秀吉と同調姿勢を取るようになった前田利家と不仲になると、武勝は秀吉・利家側に付くことを選択』、天正十三年五月には、『前田勢を阿尾城に迎え入れた。この際、入城した前田勢の』一『人に傾奇者として知られる前田慶次がいた』。その後の同年七月には『阿尾城への居城と知行』一『万石を安堵されたものの、ほどなく武勝は山城国柴野へ退去し、嫡子安信も』慶長元(一五九六)年に『没すると、その子大学が相続したものの』、『代って新知』千五百石に代えられ、『以降、菊池氏は代々加賀藩に仕えた』、また、『阿尾城は安信が亡くなってほどなく廃城となったものと考えられる』とある。

「壘」外敵を防ぐために築造した構造物。

「巍然」山や構造物が高く聳え立っているさま。

「灘」ここは波や潮流の荒い水域の謂いではなく、沿岸水域面を指している。

「間島」島嶼名ではなく、地名。氷見市間島(グーグル・マップ・データ)。

「藪波の里」現在の氷見市薮田(グーグル・マップ・データ)の旧地名と推定される。阿尾城北の後背地で、北西に延び、南東部分は海岸に接している。

『「萬葉集」にも詠ずる所となり』巻第十八の大伴家持の一首(四一三八番)、

   墾田(こんでん)の地を檢察する事に
   緣りて、礪波郡(となみのこほり)の
   主帳(しゆつやう)多治比部北里(た
   ぢひべのきたさと)が家に宿る。時に、
   忽ちに風雨起こりて、辭去するを得ず
   して作れる歌一首

 荊波(やぶなみ)の里に宿借り春雨に

    隱(こも)り障(つつ)むと

          妹(いも)に告げつや

  二月(きさらぎ)十八日、
  守(かみ)大伴宿禰(おほ
  とものすくね)家持の作。

前書の「墾田の地」は口分田(「大化の改新」後に「班田収授法」によって人民に正式に支給された規定の田畑)以外に開墾を許可した地区のこと。国守の采配でそれを設けることが許されていた。「主帳」郡官職の四等官で書記役。一首は同行した男たちに戯れに言ったもの。後書のそれは天平勝宝二年二月十八日。但し、この「荊波(やぶなみ)」(「藪波」でもよい)の地の比定は、この阿尾の「藪波の里」(現在の薮田)以外に、富山県小矢部市浅地薮波(グーグル・マップ・データ)をも比定候補地とする。しかし、主帳の名の中の「北里」や、「忽ちに風雨起こりて、辞去するを得ず」というのは、藪田の地がよりロケーションとしては相応しいように私は思う。

「阿武島」現在の虻ガ島(あぶがしま:グーグル・マップ・データ)。阿尾からは直線で七キロ以上離れる島嶼。富山県最大の島で無人島。氷見市姿の東の沖合い一・八キロ沖合にある。海産無脊椎動物が非常に多く見られ、また、寒流と暖流の影響を受けるため、冷帯系植物と温帯系植物が共生植生し、固有種もいる。私は残念ながら機会(高校時代の生物部の採集合宿で行く機会があったが、私は演劇部と掛け持ちしており、合宿が重なったことから参加しなかった)を逸して渡ったことがない。

「唐島」複数回、既出既注。氷見市街直近の島。

「光高公」加賀藩第三代藩主前田光高(元和元(一六一六)年~正保二(一六四五)年)。第二代藩主利常の長男。母は第二代将軍徳川秀忠の娘珠姫(天徳院)。正室は第三代将軍徳川家光の養女で水戸藩主徳川頼房の娘大姫。徳川家康・浅井長政・お市の方の外曾孫であり、藩祖前田利家の嫡孫。満二十九歳で急死したが、これは、その才能や人物を恐れた幕府による毒殺説や、近臣らによる毒殺などの噂もあったとされる。

「大和にはあらぬ唐島」は徳川光圀撰の「新百人一首」の第二十四番に、「加越能少將光高」として、

 なごの海やうら山かけてながむれば

    やまとにはあらぬ波のからしま

とある。

「佐渡が島宮崎」不詳。私は佐渡が好きで三度も行き、全島を周回しているが、「宮崎」という地名・岬名は知らない。小佐渡の最南端の沢崎(グーグル・マップ・データ)の誤りではないろうか。

『「萬葉集」に葛かづらをよみ寄せたりし』不詳。一つは、巻十八の「京(みやこ)に向かはむ時に、貴人(うまひと)を見、及(また)、美人(うまひと)に相(あ)ひて飮宴(うたげ)する日の爲に、懷(おもひ)を述べて、儲(ま)けて作れる歌二首」と前書する天平感宝元(七四九)年閏五月二十八日に詠まれたものの第一首(四一二〇番)、

 見まく欲(ほ)り

    思ひしなへに

   蘰(かづら)懸け

     かぐはし君を

      相ひ見つるかも

であるが、これは上京のための、事前作成歌であって、阿尾のロケーションとは関係がないから違う。今一つは、巻十七の天平一九(七四七)年四月二十六日に大伴家持が詠んだ賦を真似た長歌(三九九一番)、

   *

  布勢の水海(みづうみ)に遊覽せる賦一首

    この海は射水郡の舊江(ふるえ)に
    あり

物部(もののふ)の 八十伴(やそともの)の緖(を)の 思ふどち 心遣(や)らむと 馬並(な)めて うちくちぶりの 白波の 荒磯(ありそ)に寄する 澁谿(しぶたに)の 崎(さき)徘徊(たもとほ)り 松田江の 長濱過ぎて 宇奈比川(うなひかは) 淸き瀨ごとに 鵜川(うかは)立ち か行きかく行き 見つれども そこも飽(あ)かにと 布勢(ふせ)の海に 舟浮(う)け据ゑて 沖邊(おきへ)漕ぎ 邊(へ)に漕ぎ見れば 渚(なぎさ)には あぢ群騷(むらさは)き 島𢌞(しまま)には 木末(こぬれ)花咲き 許多(ここばく)も 見の淸(さや)けきか 玉匣(たまくしげ) 二上山(ふたがみやま)に 延(は)ふ蔦(つた)の 行きは別れず あり通ひ いや每年(としのは)に 思ふどち かくし遊ばむ 今も見るごと

の「延ふ蔦の」である。ここは一日、原十二町潟に遊んだ折りの詠であるから、阿尾には近い。但し、「延ふ蔦の」は比喩であって実景ではない(「二上山にいやさかに這い伸びて決して切れぬ蔦葛(つたかづら)の如く、これから先もずっと別れることなく、かくもここに通い続けて、毎年、ここで遊ぼうではないか」)。しかも「蔦」であって「葛かづら」ではない。しかし、そもそもが「蔦」「葛」「蘰」は「かづら」と同訓するように総て「つるくさ」であって一緒である。私はこの長歌を指しているのではないかと思う。他に適切な一首があるとせば、是非、御教授あられたい。

「大崎」確認出来ない。なお、虻ガ島の近くの海岸に大境(おおざかい:グーグル・マップ・データ)がある。六つもの文化層を持つ縄文中期から中世にかけての複合遺跡である大境洞窟住居跡で知られる。ここも私のとても好きな場所である。

『「大崎(おほさき)」とは「阿尾渡(あをのわたり)」の轉語』信じ難い。「あおのわたり」が「おーさき」に音転訛するとは思えない。いや、こんなものは簡単に阿尾のある岬が有意に「大」きく三「崎」として突き出ているという形状からの異名としてよいではないか?

『今は「尾ヶ崎」といふ』確認出来ない。今も「阿尾」は「阿尾」である。私はこの地名が好きだ。

「唐島に行き渡る。其間一里許ならん」阿尾から直線で唐島は一・六キロメートルしかない。ということは、この起点は阿尾のもっと北の藪田か小杉ということになる。しかし、この場合は直線渡渉ではなく、海岸線を渡って行くのでなければ騎馬では実際には絶対に無理である。そこで旧海岸線(現在の氷見市街の北西部は埋め立てで有意に張り出している)を想定して浜辺を実測してみると、確かに阿尾の先端から唐島までは確かに一里ほどになるのである。

「海苔(のり)」狭義には、岩海苔(いわのり/いのり)とも呼ばれ、分類学上では紅色植物門紅藻亜門ウシケノリ綱ウシケノリ目ウシケノリ科アマノリ属 Porphyra に属するグループに属する一群の総称。板海苔に加工されるものが殆んどである。但し、この言葉は古くは今少し広義の食用海藻類にも使われていた形跡もあるので、緑色植物門緑藻亜門アオサ藻綱アオサ目アオサ科のアオサ属 Ulva やアオノリ属 Enteromorpha、また、かつてアオサ目に分類され、アオサの別名とさえされていた「海苔の佃煮」の原料にするアオサ藻綱ヒビミドロ目ヒトエグサ Monostroma nitidum 等も含めて考えてよい。前者は冬から春に生育し、概ね食用となるが、中には処理を誤って生食すると有毒な種もあるので注意が必要である。詳しい博物誌は寺島良安「和漢三才圖會 卷第九十七 水草 藻類 苔類」の「うみのも 海藻」の項及び私の注を参照されたい。有毒性のそれはその「おごのり 於期菜」の項で私が注してあるので、気になる方は、是非、読まれたい。既に死亡例があるのである。

「海雲」褐藻綱ナガマツモ目 Chordariales のモズク科 Spermatochnaceae やナガマツモ科Chordariaceae に属する海藻類の総称であるが、本邦で食用として流通している「モズク」はナガマツモ科に属するオキナワモズク Cladosiphon okamuranus とイシモズク Sphaerotrichia divaricata が九割以上を占めている。しかし、私にとっては一九八〇年代までは正しくモズク科の標準和名モズク Nemacystus decipiens が「モズク」であったように思われ、当時、今はなき大船の沖縄料理店「むんじゅる」でオキナワモズクを初めて食した際には、私は『このモズクでないモズクに少し似た太い別種の海藻を、食品名としてこのように命名したのか』と、長く思い込んでいたものである。また、これほどオキナワモズクが「モズク」として席捲するとも思っていなかった(私は沖縄を愛すること、人後に落ちないつもりである。が、モズクに関して言えば、あのオキナワモズクを「モズク」と呼称することについては、私の味覚や食感記憶が今でも強い違和感を覚えさせるのである)。イシモズクもいやに黒々して歯応えも硬過ぎる気がして、やはり「モズク」と呼称したくないのが、正直な気持ちである。但し、現在、沖縄に於いて、全国への流通量が少なくなっていた真正のモズク Nemacystus decipiens(奇異なことに「オキナワムズク」を「モズク」と呼称するようになってしまい、本来の真正モズクであるこちらはイトモズクとかキヌモズクとか呼ばれるようになってしまったのは著しく不当である!)の養殖が行われており、商品として沖縄産でありながら『おや? これはオキナワモズクではないぞ? 「モズク」だぞ!』と感じさせるものが出回るようになったのは嬉しい限りである(それがまた沖縄産であることも快哉を叫びたい)。一般にはモズク Nemacystus decipiens 等が同じ褐藻綱のホンダワラ(ヒバマタ目ホンダワラ Sargassum fulvellum)等に付着することから「藻に付く」となって語源となったされるが、実は我々の知る上記のオキナワモズク・イシモズクは他の藻に絡みつかず、岩石に着生する。なお、他にモズク科フトモズク Tinocladia crassa やニセモズク科ニセモズク Acrothrix pacifica 等が類似種としてある。なお、モズク Nemacystus decipiens の学名の属名は、ギリシャ語の「Nema」(「糸」の意)と「cystus」(「嚢」)の合成で、種小名「decipiens」は「虚偽の・欺瞞の」という意味である。言い得て妙ではある。但し、麦水がモズクをちゃんと種として認識していたかどうかは怪しい。広義の潮下帯以下に植生する海藻の異名としてこの「海雲」を使用した可能性の方が高いと考える。

「千仭」単位としての一仭は八尺或いは七尺から、二千百二十メートルから二千四百二十四メートルとなるが、ここは無論、非常に深い意である。因みに、通常の大陸棚は海岸から水深が約二百メートルのところを指すが、富山湾ではこの大陸棚の幅が狭く、少し沖合に出ただけで急激に深くなる。沖合二~三キロメートルで既に水深が八百メートルほどになり、最深部では千二百メートルにも達する。但し、海図を調べたところ、阿尾の半島周辺部分は深くても二十メートルから五十メートル前後である。

「二丈」六メートル六センチ。

「海松」現行はこれや「水松」は、緑藻植物門アオサ藻綱イワズタ目ミル科ミル属ミル Codium fragile を指すが、無論、これは小さなミル(それでも成体個体は四十センチメートルにはなる)ではあり得ず、既に想像されている通り、これは所謂、広義の「珊瑚」類のことを指している。恐らくは

通称総称でウミマツ(海松)と現在も呼ばれるところの刺胞動物門花虫綱六放サンゴ亜綱ツノサンゴ(黒珊瑚)目Antipathariaの仲間

ではないかと考えられる。当初は樹木状で有意に長いという点から、

ツノサンゴ目ウミカラマツ科ムチカラマツ Cirripathes anguina

を同定候補としようと思ったが、いっかな、「二丈」で「根莖十かゝへ」は、これ、大き過ぎて話にならない。まあ、孰れも今までもありがちだった誇張表現として許せば、ムチカラマツの群れが生えている場合は、その仮根の塊り部分は相応に大きくはなる。しかし、沢山、枝状になっているという記載がない以上、そう解釈するのにはやや無理があるようにも読める。それでもこれが最有力候補としてよいし、後に出る麦水の実見した「石劔」はまさにこれであると私は思っている。

他に

斧足(二枚貝)綱翼形亜綱カキ目イタボガキ亜目カキ上科 Ostreoidea に属するカキの仲間

には、驚くほど管状に生育して直立する個体があることは知っているが、こんなに大きなものはいない。

次に、海中に形成された牡蠣群の死骸の殻で出来た驚くべき大きさ(数十メートルでもあり得る)の山を「蠔山」(ごうざん:蠔は牡蠣(カキ)に同じい)と呼ぶが、こんな高木状には、まず、ならない。但し、その蠔山の一部が損壊してそのような感じで崩れたとなれば、こうなるかも知れぬ。が、しかし、蠔山は想像を絶するほどに非常に堅固なもので、そんなに簡単に都合よい形に外れたりは、恐らく、しない。

或いは大型のクジラやサメ類或いはイルカ類の死骸のその脊椎骨

などをも考えたが、それらの場合、海中に一度落ちて、何らかの生物が表面に繁殖でもしない限り、それらはバラバラになってしまって、樹木状にはならない。

翻って、或いは

それらの肋骨や顎骨ならあり得るかも知れぬ

が、しかし、老練の漁師ならばそれと必ず見抜けるはずであるから不審である。

まず以ってこの奇体な「千年木」に対する私の推理はここまでである。もっと相応しい比定物があるとせば、是非、御教授戴きたい。

「姿(すがた)といふ村」富山県氷見市姿(グーグル・マップ・データ)。虻ガ島が沖に位置する。

「菊池の古城」阿尾城のこと。グーグル・マップ・データ航空写真を見ると、「海を肱折(ひぢを)りてさし出(いだ)し」というのが、腑に落ちる。

「十六丈餘」約四十八メートル半。阿尾城跡の現在の最高標高は四十メートルほどである。]

 

 安永八の今年、此所に網して石劍を得たり。漁人役所に訟(うつた)ふることを憚りて、他の海へ投捨(なげす)つるに、又かゝり來(きた)ること三度なり。因(ちな)みありて菊池の古城を慕ふに似たり。依りて終(つひ)に鄕首(がうしゆ)加納(かなう)某へ持來(もちきた)る。則ち此主(このあるじ)予に示さる。是を見るに長さ一尺ばかり、鍔(つば)・鞘(さや)石間(いしのあひだ)に顯はれたり。石・貝色々に廻(めぐ)り、刀を包みて又一箇の劍(つるぎ)の如く、又亂木(らんぼく)にも類(るゐ)せり。かたヘの人いふ。

「此刀眞(まこと)に鬼を追ふに宜(よろ)しきなるべし」

と。實(げ)にも左(さ)に覺ゆる。いかなる時にか海中に入りけん。

「首かききりし勢ひ目(ま)のあたりなり」

といふ人もあり。何の緣にか今歸り來(きた)るや。元弘の頃伊勢より寳劔を捧(ささ)ぐるに事よく似て、人の用ひざるも又(また)時(とき)なり。今(いま)靜平上(せいへいじやう)に一箇の紛失物なし。何れへ向ひ誰を皷動(こどう)して奇特(きどく)を求むべき道なく、慾僧邪士(よくそうじやし)も思ひを止(や)めて、石は石となりて無用の寳(たから)を尊(たつと)むことなし。我れ爰に於て濱邊を見んと過ぐるに、灰俵(はひだはら)に感ずることありし。黑魚の大いなるを裂きて、四子魚のをどるに對してなり。是は別卷に記す。時を思うて止まず。無用の石劔何ぞそれ來るや何ぞそれ來るや。

[やぶちゃん注:最後の部分は底本では「無用の石劔何ぞそれ來るや」に踊り字「〱」で、セオリー通りならば、動詞のみを繰り返して、「無用の石劔何ぞそれ來るや來るや」となるのだが、どうもパンチがない。敢えてかくした。

「安永八の今年」一七八〇年。これはすこぶる興味深い叙述である。堀麦水は享保三(一七一八)年金沢生まれで、天明三(一七八三)年没であることが判っている。正編のみを載せる所持する堤邦彦・杉本好伸編「近世民間異聞怪談集成」(「江戸怪異綺想文芸大系」高田衛監修・第五巻)には「三州奇談」完成は宝暦・明和(一七五一年~一七七二年)頃と推定されるとするが、これは正編のそれであろう。即ち、麦水は「三州奇談」正編完成後、実に八年以上をかけて、本続編を書き継いできたことが判る。他にも実録物をガンガン書いているのだから、相当なパワーである。まあ、この年で二十九だから、やる気満々だったわけだな。でも三年後には亡くなっているのだな。老少不定。南無阿彌陀佛、南無阿彌陀佛……

「石劍を得たり。漁人役所に訟ふることを憚りて、他の海へ投捨つ」実際の刀剣類であるなら、実際には使用不能であったとしても、武家のものである可能性があるわけで、これは当然、漁師が持っていてはいけないし、藩に届けなくてはならない。そうすれば、大変な手間(保護保存)や検使の尋問や世話(宿所や食事は総て村が負担する)が面倒だからである。例えば、私のオリジナルな高校古文教材の授業案である「やぶちゃんと行く江戸のトワイライト・ゾーン」の第一話『【第一夜】「うつろ舟の異人の女」~円盤型ヴィークルの中にエイリアンの女性を発見!』の曲亭馬琴編の「兎園小説」中の琴嶺舎(滝沢興継。馬琴の子息。但し、馬琴の代筆と考えてよい)の「うつろ舟の蠻女」(リンク先は高校生向けなので新字体)を読まれれば、このめんどくさい事実が腑に落ちるはずである。

「鄕首」恐らくは複数の村を束ねる郷(ごう)の代表者のことであろう。

「加納某」これは無論、人の姓であるが、例えば、阿尾から南に接する間島の内陸に接して、現在、富山県氷見市加納(グーグル・マップ・データ)がある。

「鬼」「き」と読んでおきたい。邪鬼。

『「首かききりし勢ひ目(ま)のあたりなり」といふ人もあり』とわざわざ記しているのは、麦水にはとてもそんな風には見えなかったという示唆である。

「元弘の頃伊勢より寳劔を捧(ささ)ぐる」三種の神器(他に「八咫鏡」・「八尺瓊勾玉」)の一つで天皇の持つ武力の象徴とされる、素戔嗚が八岐大蛇を退治した際に大蛇の尾から見出だした天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ:別名倭武尊の東征での窮地を救ったエピソードから「草薙剣」とも呼ぶ)は、素戔嗚によって高天原の天照大神に献上された後、天孫降臨に際して他の神器とともに瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に託され、地上に降った。崇神天皇の御代に、草薙剣の形代(かたしろ:レプリカ)が造られ、形代は宮中に残され、本来の神剣は笠縫宮を経由して伊勢神宮に移されたとされる。景行天皇の御代、伊勢神宮の倭姫命(やまとひめのみこと)は東征する倭武尊にこの神剣を託すが、彼の死後、本剣は神宮に戻ることなく、宮簀媛(みやずひめ:倭武尊の妻)と尾張氏が尾張国で祀り続けたとされ、これが熱田神宮の起源となり、現在も同宮の御神体として秘物として祀られている。一方、形代の方の剣は「壇ノ浦の戦い」における安徳天皇入水により関門海峡に沈み、失われてしまう。結局、後鳥羽天皇は三種の神器がないままに即位している。平氏滅亡によって神鏡と勾玉は確保されたが、神剣は欠損したままとなったのである。その後、朝廷は伊勢神宮から朝廷に献上された剣を「草薙剣」と措定し、南北朝時代には北朝陣営・南朝陣営ともに神剣を含む三種の神器の所持を主張して正統性を争うこととなり、この混乱は後小松天皇に於ける「南北朝合一」(「明徳の和約」)まで続いた。なお現在、形代として措定された神剣は宮中に祭られている(以上はウィキの「天叢雲剣」他に拠った)。この最後の部分を言っているのであろう。

「又時なり」時間と人とその対象物との不可知の関係性からの巡り合わせである。

「靜平上」太平であるこの地上。

「一箇の紛失物なし」ただの一つも必要であるべき一箇のこの剣に相当する対象物が紛失しているという事実はどこにもない。

「何れへ向ひ誰を皷動して奇特を求むべき道なく」何処の誰と言って突き動かして音を立て有難い恵みをこの剣に求めるという正道を述べる教えや遺言(いげん)もなく。

「慾僧邪士も思ひを止めて」法を外れた売僧(まいす)や邪悪な道術を使う輩も誰(た)れ一人としてそれを求めんとする希求(けぐ)をやめてしまっており。

「灰俵(はひだはら)に感ずることありし。黑魚の大いなるを裂きて、四子魚のをどるに對してなり」ここ、全く意味が判らない。識者の御教授を乞う。「灰俵」は灰を詰め込んだ俵で、見掛け倒しの中身のない、或いは、価値のないものの謂いか? 「黑魚」はメジナ(棘鰭上目スズキ目スズキ亜目メジナ科メジナ属メジナ Girella punctata)か。その大きなメジナ(成魚では四十センチメートルを超える)の腹を裂いて、その胃の中にある四匹の「子魚」が出てくることか。しかし、メジナは魚食性ではないから違う。「クロウオ」の異名を現在持つものに、超巨大(最大二メートル)になる深海魚の棘鰭上目カサゴ目ギンダラ亜目ギンダラ科アブラボウズ属アブラボウズ Erilepis zonifer がおり、彼は肉食性で小魚を捕食するのでぴったりだが、残念なことに日本海側には棲息しないようだ。とすれば、悪食で知られ小魚も食い、老成すると、巨大(最大七十センチメートル)になるだけでなく、横縞がぼけて全体に黒ずんで見えるところのスズキ目タイ科ヘダイ亜科クロダイ属クロダイ Acanthopagrus schlegelii ととってよかろう。

「是は別卷に記す」「三州奇談續編」は本巻を以って終わっている。麦水の「三州奇談續編」は未完成で終わったものか。没年とさっきの「安永八の今年」が逆に不吉に作用してしまった。]

今日、先生は明確にKを靜攻略のために――絶対必殺の仇敵・魔物・祟りを齎す強力な魔人――と意識することに注意せよ!

(以下、引用は私の『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月23日(木曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第九十一回から。太字・下線・記号番号は私が附した)

   *

 「二人は各自(めい/\)の室に引き取つたぎり顏を合はせませんでした。Kの靜かな事は朝と同じでした。私も凝と考へ込んでゐました。

 私は當然自分の心をKに打ち明けるべき筈だと思ひました。然し①それにはもう時機が後れてしまつたといふ氣も起りました。何故先刻(さつき)Kの言葉を遮つて、此方(こつち)から②逆襲しなかつたのか、其處が③非常な手落(てぬか)りのやうに見えて來ました。責(せ)めてKの後に續いて、自分は自分の思ふ通りを其塲で話して仕舞つたら、まだ好かつたらうにとも考へました。③Kの自白に一段落が付いた今となつて、此方(こつち)から又同じ事を切り出すのは、何う思案しても變でした。私は此不自然に打ち勝つ方法を知らなかつたのです。私の頭は悔恨に搖られてぐら/\しました。

 ④私はKが再び仕切の襖を開けて向ふから突進してきて吳れゝば好(い)いと思ひました。私に云はせれば、先刻(さつき)は丸で不意擊(ふいうち)に會つたも同じでした。私にはKに應ずる準備も何もなかつたのです。私は午前に失つたものを、今度は取り戾さうといふ下心を持つてゐました。それで時々眼を上げて、襖を眺めました。然し➄其は何時迄經つても開きません。さうしてKは永久になのです。

   *

①Kに先陣の先駆けを奪われた先生

   +

②Kを靜争奪戦の一騎打ちに於ける絶対必殺の敵と意識する先生

   +

③Kに先陣先駆けを奪われた致命的失策を後悔する先生

   +

④無策の内――未だに自分を信頼しきっているKが手ぶらで自分のところに馬鹿正直に再び無手ぶらで進み出てきて(「突進」はKを先生が敵として形容したそれに過ぎないことに注意)、先に食らった不意打ちによって失った最重要拠点の奪還を何としてもせねばならぬという激しい焦燥に駆られる先生

   ↓

「然し」前線の逆茂木「は何時迄經つても開」かず《開いたままになるのは何時かを考えて見よ》、「さうして」仇敵「Kは永久に靜」なものである

   *

私はわざとKの室を回避するやうにして、斯んな風に自分を往來の眞中に見出したのです。

   *

★ここでK(の部屋)を中心とした円運動で先生が往来へ出るということに注意。

   *

 私には第一に彼が解しがたい男のやうに見えました。何うしてあんな事を突然私に打ち明けたのか、又何うして打ち明けなければゐられない程に、彼の戀が募つて來たのか、さうして平生(へいせい)の彼は何處に吹き飛ばされてしまつたのか凡て私には解しにくい問題でした私は彼の强い事を知つてゐました。又彼の眞面目な事を知つてゐました私は是から私の取るべき態度を決する前に、彼について聞かなければならない多くを有つてゐると信じました。同時に是からさき彼を相手にするのが變に氣味が惡かつたのです。私は夢中に町の中を步きながら、自分の室に凝と坐つてゐる彼の容貌を始終眼の前に描き出しました。しかもいくら私が步いても彼を動かす事は到底出來ないのだといふ聲が何處かで聞こえるのです。つまり私には彼が一種の魔物のやうに思へたからでせう。私は永久彼に祟られたのではなからうかといふ氣さへしました。

   *

★Kを明確な強力にして真面目な恐るべき攻略し難い敵・魔物・永久の祟りを齎すまがまがしき存在と認知してしまう先生

★当然のこととして索敵行動に出ることを自覚表明する先生(遺書を読む学生の「私」に対してである)

この白々しい自己正当化の表現に気をつけるべきである。既にして先生はKを排除すること以外には考えていない、そんな余裕はないのは以上で明らかであり、ここにはK排除計画の策定とその結果が齎す既成事実を先送りしつつ、当時の自己合理化を――遺書を読む学生の「私」に対して――行っているという事実を忘れてはいけない。

「こゝろ」の「読み」の難しさは、読者が遺書を読む学生の「私」と一体になって読み進む立場を忘れないようにしながらも、全くの「現代の一読者」として自己の人生観・恋愛観に比してそれを批判的視点から読むという、読み手側の二重構造があることにある。しかも、面倒なことには、作者漱石はそれを意識しては書いてはいないという点である。漱石にしてみれば、遺書以前の部分で読者である「あなた」は、作中の学生「私」なのだと決めつけているものと考えてよい。無論、当時は、それでよかった、と私は思う。しかし、先生とKがもくもくと歩いた房州の景色が既に今や幻しとなってしまったように(少なくとも今の房州ではあのシークエンス全体をロケすることは不可能である)、その作者の無言の要請は私は現代に於いてはほぼ無化されると思うのである。少なくとも、肝心なシークエンスでは、我々は――学生の「私」――から離れて――今の「あなた」として読まねばならない箇所が必要だ――と私は切に思うのである。

2020/07/22

芥川龍之介 「續晉明集」讀後 《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版)

[やぶちゃん注:本篇は大正一三(一九二四)年七月二十二日附『東京日日新聞』の「ブックレヴィユー」欄に、『几董と丈艸と――「續晉明集」を讀みて』と題して掲載されたもので、後の作品集『梅・馬・鶯』に表記の題で所収されたものである。本文に出る通り、同年七月十日に古今書院より刊行された「續晉明集」の書評である。しかし、一読、判るが、最後の段落の推薦はこれまた頗る形式上のもので、寧ろ、私には強烈なアイロニーに富んだ「侏儒の言葉」と同じものを感じ、思わず、ニンマリしてしまうのである。同書の解説者勝峯晉風(しんぷう)氏も校訂者遠藤蓼花(れうくわ(りょうか))氏も跋文らしきものを記した河東碧梧桐氏さえも、これには微苦笑せざを得なかったに相違あるまい。いや、それが実に、いい、のである。

 底本は岩波書店版旧全集第七巻(一九七八年刊)を用いた。発句や前書部分はブラウザでの不具合を考え、底本よりずっと上に引き上げてある。

 なお、これは現在、ブログで進行中の柴田宵曲の「俳諧随筆 蕉門の人々」の現在準備中の「丈草」の章の注のために、これ、どうしても必要となったため、急遽、電子化したものである。されば、語注等は附していない。一箇所だけ注しておくなら、「五老井主人」(ごらうせいしゆじん(ごろうせいしゅじん))は森川許六の別号である。将来的には注を追記として附したいとは思っている。]

 

  「續晉明集」讀後

 

 「續晉明集」一卷は勝峯晉風氏の解說と遠藤蓼花氏の校訂とを加へた几董句稿の第二編である。(古今書院出版)僕はこの書を讀んでゐるうちにかういふ文章を發見した。發見といふのは大袈裟かも知れない。現に勝峯氏も解說のうちにちやんとその件を引用してゐるが僕の心もちからいへば、正に發見にちがひなかつた。

 『僧丈草は蕉門十哲の一人なり。而して句々秀逸を見ず。蓋この序文においては群を出づといふべし。支考許六に及ばざるものなり。』(原文は漢文である。)

 僕はこの文章に逢著した時、發見の感をなしたといつた。なしたのは必ずしも偶然ではない。几董は其角を崇拜した餘り、晉明と號した俳人である。几董の面目はそれだけでも彷彿するのに苦まないであらう。が、丈艸を輕蔑してゐたことは一層その面目を明らかにするものといはなければならぬ。

 許六はその「自得發明の辨」にかう云ふ大氣焰を吐いてゐる――「第二年の追善、深川はせを庵に述べたり。予自畫の像を書せたる故に、その前書をして、

  鬢の霜無言の時の姿かな

とせし也。(中略)誰一人秀たる句も見えず。さてさてはかなきこころざしにてあはれなり。

  なき人の裾をつかめば納豆かな  嵐 雪

 師の追善にかやうのたわけを盡くす嵐雪が俳諧も世におこなはれて口すぎをする、世上面白からぬことなり。」(下略)

 これは大氣焰にも何にもせよ、正に許六の言の通りである。しかし五老井主人以外に、誰も先師を憶ふの句に光焰を放つたものはなかつたのであらうか? 第二年の追善かどうかはしばらく問はず、下にかかげる丈艸の句は確にその種類の尤なるものである。いや、僕の所信によれば、寧ろ許六の悼亡よりも深處の生命を捉へたものである。

   芭蕉翁の墳にまうでてわが病身をおもふ。

  陽炎や墓よりそとにすむばかり

 尤も許六も丈艸を輕蔑してゐたわけではない。

 「丈艸が器よし。花實ともに大方相應せり。」

とは「同門評」の言である。しかし支考を「器もつともよし」といひ、其角を「器きはめてよし」といつたのを思ふと、甚だ重んじなかつたといはなければならぬ。けれども丈艸の句を檢すれば、その如何にも澄徹した句境は其角の大才と比べて見ても、おのづから別乾坤を打開してゐる。

  大原や蝶の出て舞ふおぼろ月

  春雨やぬけ出たままの夜着の穴

  木枕の垢や伊吹にのこる雪(前書略)

  谷風や靑田を𢌞る庵の客

  町中の山や五月の上り雲(美濃の關にて)

  小屛風に山里すずし腹の上

  夜明まで雨吹く中や二つ星

  蜻蛉の來ては蠅とる笠の中(旅中)

  病人と撞木に寢たる夜寒かな

  鷄頭の晝をうつすやぬり枕

  屋根葺の海をふりむく時雨かな

  榾の火や曉がたの五六尺

 手當り次第に拔いて見ても丈艸の句はかういふ風に波瀾老成の妙を得てゐる。たとへば「木枕の垢や伊吹にのこる雪」を見よ。この殘雪の美しさは誰か丈艸の外に捉へ得たであらう? けれども几董は悠々と「句々秀逸を見ず」と稱してゐる。更にまた「支考許六に及ばざる者なり」と稱してゐる。

 「續晉明集」の俳諧史料上の價値は既にこの書の本文の終に河東碧梧桐氏もいひ及んでゐる。しかしそれは俳諧史家以外に或は興味を與へないかも知れない。が、几董の面目――天明の俳人の多い中にも正に蕪村の衣鉢を傳へた一人の藝術家の面目は歷々とこの書に露はれてゐる。これは僕等俳諧を愛し俳諧を作るものにとつては會心の事といはなければならぬ。卽ち「續晉明集」を同好の士にすすめる所以である。 (一三・七・一四)

 

梅崎春生 砂時計 29 / 砂時計~了

 

     29

 

 駅から夕陽養老院にいたる石ころ道を、栗山佐介は鞄と卓上ピアノを胸に抱き、びっこを引きながら歩いていた。空は明るく平和と栄光に満ち、樹立ちはあおあおと天を指して伸びていた。道ばたに簇生(そうせい)した雑草の花々に蝶や蜂が群れ、中空を時折つばめがしなやかに身をひるがえして飛翔(ひしょう)する。卓上ピアノは佐介のびっこの足並にしたがって、ぐるるんぐるるんと不機嫌な音を立てた。昨日よりもずっと音色がわるい。靴で蹴飛ばされ、堤の斜面をころがり落ちたせいで、木質部の接合がゆるみ、釘の頭さえ出ていたし、形そのものが総体的にすこし歪(ゆが)んでいた。音階も狂っているらしい。[やぶちゃん注:「簇生」「叢生」とも書く。草木などが群がり生えること。]

(堤をころがり落ちたくらいで、こんなにガタガタになるなんて)卓上ピアノを持ち換えながら佐介は思った。(だから日本品は駄目なんだ。世界の市場からボイコットを食うんだ)

 日の位置は正午をぐっと越していた。遠くで牛の鳴き声が聞え、また近くの林の中から、犬が何匹も厭な声で鳴き立てながら、街道を横切って走って行った。さっき上水路に辷り落ちそうになったことも忘れて、佐介はのんびりと口笛を吹いていた。口笛のつもりでも、唇の形が悪いので、それは音となっては出ない。やがて夕陽養老院の鉄の正門が近づいてきた。

「お腹(なか)がすいたな」口笛を中止して佐介は呟(つぶ)いた。「そうだ。今日は経営者会議だったな。木見婆さんが俺のために、御馳走の残りを取って置いてくれるといいんだがな。しかしあの婆、ふくぶくしい格好はしているが、見かけによらず全然親切げのない婆さんだからなあ。あの木見婆さん」

「木見婆さん」

 調理室の半開きの扉から、松木第五郎爺の顔がそっとあらわれて、押し殺したような声で呼びかけた。焼き終えた鰻(うなぎ)を折りに詰めつつあった木見婆は、ぎょっとそちらに振り向いた。松木爺の顔が歯の抜けた口をひらいてにやにやわらっている。「入ってもいいか」

 木見婆は折詰めの作業を継続しながら、入ってもいい、という身振りを黙ってしてみせた。松木爺はすばやく調理室に飛び込んで、用心深く扉をしめた。そして調理台に近づいた。

「ふん。ウナギか」松木爺は見下げ果てたような高慢ちきな声を出した。「折詰めと来たな。ふん、そうか。お土産か」

「ねえ、ニラ爺さんはどこにかくれている?」作業の手を休めないまま、木見婆は哀願的な声を出した。「もう見付かったの?」

「知らないね」松木爺は鰻に向って鼻翼を動かした。「まだだろう」

「ねえ、ニラ爺はどんなことをしゃべったのさ」木見婆は肥った軀(からだ)を切なげにくねらした。「そして、聞いたのはあんただけ?」

「ずいぶん御心配だね」松木爺ははぐらかした。「心配することはないよ。おれたち、黙っててやるからな」

「おれたち?」木見婆は顔色を変えた。「あんたひとりにしゃべったんじゃないんだね。あのニラの糞爺!」

「昨夜の会議が遅かっただろう。だからおれたちは寝不足で、とても疲労している」松木爺はおもむろに本題に入った。「疲労回復には糖分摂取が第一だな。おれたちはこの数ヵ月というものは、汁粉という名の食物を一度も口にしたことがない。婆さんもこしらえたことがないだろう」

「院長先生がニラ爺さんを呼んで来いとおっしゃるんだよ」木見婆は苦しそうにばたばたと足踏みをした。「もう何か院長先生の耳に届いたんじゃないかしら。だからそれを確かめるために、ニラ爺を呼んで来いとおっしゃったんじゃないかしら」

「なに。院長がニラ爺を?」松木爺はいぶかしげに木見婆を見た。「そりゃおかしいな。聞き捨てにならんぞ。何時のことだ」

「何時だったかしら」今度は木見婆が質問をはぐらかした。院長から口止めされていることをふっと思い出したのだ。「な、なにを食べたいと言うの。汁粉という名の食物をかい?」

「おい!」松木爺は猿臂(えんぴ)を伸ばして、木見婆の肩をぎゅっとつかんだ。「ニラ爺を呼べと院長が言ったのは、会議の席上でか。それともそれ以外の場所でか?」[やぶちゃん注:「猿臂」猿の腕。転じて、そのように長い腕。]

「痛いよ!」木見婆は顔をしかめ、勢いを込めて松木爺の掌を肩から振り放した。「痛いじゃないか。いきなり人の肩をつかんだりしてさ。助平!」

「助平?」松木爺は失笑した。「そんなせりふは若い娘が言うことだ。六十にもなって、うぬぼれもはなはだしいよ。それよりも院長は、ニラ爺のことを何と言ってた?」

「うぬぼれで悪かったね。イイだ」木見婆は顎(あご)を憎々しげに突き出して、両掌をパンパンと打ち合わせた。折詰め製作をすっかり完了してしまったのだ。「そんなこと、教えてやらないよ。こちらが何か訊ねると、はぐらかしてろくすっぽ教えないくせに、自分の都合となると、しつこく聞きたがる。何て身勝手な爺さんだろう」

「そ、そんなことを言っていいのか、お前」

「お前?」木見婆はその呼称で自尊心をぐっと傷つけられたらしく、顔色を変えた。「お前。お前とは何だよ。お前呼ばわりされる覚えはあたしにゃないよ。あたしゃあね、これでも自分で働き、自分の力で食ってんだよ。養老院に放り込まれ、お情けで食わして貰っているヨタヨタ爺とは違うんだ」

「なに。ヨタヨタ爺とは何だ!」松木爺はたまりかねたように拳固をかためて振り上げた。「お情けで食わせて貰ってるとは、何という言い種(ぐさ)だ。よし、お前がそういう気持なら、おれにも考えがある。おれは今直ぐにでもお前のことを、あらいざらい院長に……」

 木見婆は身構えたまま、松木爺は拳固を振り上げたまま、はたと絶句した。調理室の扉が外からコツコツと叩かれたからだ。二人は一斉に扉を見、そして黙って顔を見合わせた。そして松木爺はふり上げた拳固をへなへなとおろし、かくれ場所を求めるように忙がしく視線を動かした。ノブがぎぎっと回された。木見婆がするどく叫んだ。

「誰?」

「なんだ。鍵がかかってないのか」扉が開かれて声がはっきり飛び込んできた。「僕だよ。栗山だよ。ああ、おなかがすいた」

 栗山佐介は皮鞄と卓上ピアノを窮屈そうに抱きかかえ、びっこを引きながら調理室に入ってきた。ふと立ち止って、不審げな視線を松木爺に向けた。松木爺はすっかり困惑して、あざらしのように顔をあてどなく左右に動かした。木見婆は頰をふくらませて手早く折詰めを五つ積み重ねた。

「木見婆さん。何か食べるものないかね」佐介は荷物を米櫃(こめびつ)の上に置きながら言った。「僕はおなかが。ヘコペコだよ」

「何もないよ。お茶漬けでも食べな」木見婆はつっけんどんに答えた。腹立ちがまだ続いていたし、それに彼女はこの栗山書記をあまり高くは買っていなかった。「それは何だい。そのごろりんしゃん」

「卓上ピアノだよ」佐介は丼をとり大釜の方に歩きながら答えた。「もう会議は始まってるのかい?」

「もう終りかかってるよ。あんたの来ようが遅いんで、院長先生カンカンになってるわよ」

「だって僕、膝をネンザしたんだよ」飯をよそう手を休めて、佐介は不審げに松木爺の顔を見た。「はて、ここは在院者の立入禁止地区じゃなかったかな」

「そうなんだよ」木見婆は両手で折詰めをかかえ上げ、とげとげしく言った。「立入禁止だと言うのに、この爺さん、無理矢理に押し入って来たんだよ。図々しい」

「入ってもいいと言ったじゃないか」松木爺はふたたび勃然(ぼつぜん)といきどおって、両方の掌が自然に拳固の形になった。[やぶちゃん注:「勃然」突然に起こり立つさま。或いは、顔色を変えて怒るさま。むっとするさま。]

「入っていいという格好をしたから、俺はよんどころなく入って来たんだ。図々しいとはどちらのことか」

「まあまあ」両方の剣幕が意外にもはげしいので、佐介はびっくりしてとりなした。「まあそれはどちらでもいいよ。僕は別段とがめてやしないんだ。でも、院長に見付かるとまずいから、松木爺さんも早いとこ出て行った方がいいな」

「出ればいいんだろう、出れば」松木爺はくるりと背を向けた。「木見婆。ニラ爺の件で後悔するなよ!」

 松木爺は捨ぜりふを残し、扉をパンと開き放したまま、肩をいからせて廊下に出て行った。

「ニラ爺さんがどうかしたのかね?」佐介はきょとんとした顔で木見婆に訊ねた。ニラ爺の件とは何だろう。リヤカーのことか?」

「ニラ爺さんの姿が今朝から見えないんだよ」木見婆はとぼけてごまかした。「悪者にでもさらわれたんじゃないかしら」

「そうかも知れないね。とっ拍子もない爺さんだからね」佐介は丼飯に茶をざぶざぶとかけ、木椅子にちょこなんと腰をおろして冗談めかした口をきいた。「悪者どもにかどわかされ、押入れか何かに幽閉され、今頃は嘆き悲しんでるかも知れないな」

 しかしニラ爺は、幽閉されてはいたものの、嘆き悲しんではいなかった。悲しむかわりに怒っていた。その怒りはニラ爺の置かれた位置において、発散されることなく、刻刻と蓄積されつつあった。煙爺も同様であった。ぐしょぐしょにしめった古書類の上にあぐらをかき、両老人は耳を猟犬のようにそばだて、眼をきらきらと光らせて怒っていた。板戸ひとつ隔てた院長室では、さきほどからの論議の中心であった院長の責任割当が、やっと妥協点に到達していたのだ。二瓶のウィスキーはすっかり空になり、それらは分散されて六人の男女の腹中に入り、各人の額や頰や顎をあかく染めていた。菓子屋の眼はとろけかかっていたし、女金貸の動作はじだらくになっていたし、黒須院長にいたってはさながら赤インクをすっぽり浴びた巨大な海坊主であった。その赤い海坊主は咽喉(のど)までのぞけるほどの大口をあけて、ここちよげに哄笑(こうしょう)した。

「やっと折り合いましたな」笑いを収めて院長は会議録を開いた。「毎月二人宛か。これじゃわたしもたいへんだな。よっぽど努力しなくちゃ責任額が達せられないぞ」

「その代り二人以上殺したら」と女金貸がくねくねと身体をよじらせた。「一人当り二万円の手当がつくんじゃないの。いい身分ねえ。あたしが院長になりたいくらいだわ」

「そのかわりに二人に達しない場合には」院長は会議録にゴシゴシ書きつけながら答えた。「一人当り二万円ずつの割合で、月給から差引かれるんですからな。一人も死ななきゃ、わたしはその月は手弁当で働くということになる。大へんなサービスだ」

「だから今までみたいな行き当りばったりな方針をやめて」教授がずり落ちかかった鼻眼鏡の位置を正し、重々しく訓戒した。「組織的、かつ計画的に運営して行かねばならんよ。それが院長の幸福であり、ひいては我々の幸福となるんだ。こんな狭い国土ではだね、誰かが幸福になるためには、その分だけ誰かが不幸にならざるを得ない。他人の不幸をこいねがうことは、とりもなおさず自分の幸福をこいねがうことになるのだ。老いたる物質に不幸が皺(しわ)寄せになるのは、まあ止むを得ないことだし、当然のことでもある。しっかりやるんだな、院長」

 扉がことことと叩かれて、折詰めをかかえた木見婆がえっさえっさと入ってきた。教授は口をつぐんだ。木見婆は折詰めを卓上に、各自の前に並べ始めた。

「ニラ爺さんはまだか」院長が訊ねた。「何をしているんだね?」

「どこにいるのか見当らないのです」そして木見婆は思い余ったように院長に反問した。「一体ニラ爺さんに、どんな用事がおありになるのでしょうか?」

「ちょっと訊ねたいことがあるのだ」院長は自分のあから顔を掌でぶるんとこすった。「当院にはたいへん悪い奴がいる。それについて聞きたいのだ」

「悪い奴?」

 木見婆はぎくっと肩を慄わせて院長の顔を見た。院長の眼はとろんと好色的にうるんで、女金貸のふくよかな二の腕にそそがれていた。その腕も酔いのために桃色に染まっているのだ。そのままの姿勢で院長は大きくうなずいた。「そうだ。悪がしこい奴だ」

 木見婆の心臓はどきんと波打った。彼女はそのまま二三歩後退し、丁寧に頭を下げながらやっとのことで言った。

「もう用事はございませんか」

「もう用事はない」院長が掌を振った。「下ってもよろしい」

 何気ない院長のその言葉は、最後の宣告のように木見婆に響いた。木見婆はぶったおれそうな気分になり、扉を排して廊下に出た。よたよたと階段を降り始めた。教授が待ちかねたように口を開いた。

「在院者の回転率を高めるためにはだね、タイル張りのような物理的方法より、やはり化学的方法に重点を置くべきだと僕は思う。たとえば先ほどの黄変米の件だがね、あれを飯にたきこんで、一律に皆に食べさせるのは、あまり効果的な方法ではない」

「と申しますと?」

「たとえばだね、黄変米の中で、イスランジャ黄変米というやつは、これは人間の肝臓をおかす」教授は自分の肝臓の上を掌で押えた。「だから当院でも、肝臓の悪い人を集めて、これを食べさせるようにしたがよかろう。それからタイ国黄変米、これはもっぱら心臓や腎臓の障害をおこさせるな。だからこれは、心臓や腎臓の弱まった在院者にあてがうと効果的だ。そういう風に、黄変米と言っても、いろんな種類があるのだから、その種類に応じて医学的臨床的に使用することが大切だ。そうしないと、月二人は無理かも知れないよ。院長。当院在院者の健康診断簿はととのっているか」

「一応ととのってはいますが」院長は禿頭を押えて恐縮した。「なにしろ俵君は犬猫専門で、人間の方は専門ではありませんので」

「やはり人間専門の医者に変えるべきだねえ」食堂主が主張した。「獣医じゃ仕方がないし、それにあの俵医師はあまり当院に熱心でないようだからさ」

 木見婆は力無く肩をおとして、ふらふらと調理室に戻ってきた。二杯目の茶漬をかっこんでいる栗山佐介に眼もくれず、調理室のすみの戸棚の前に立ち、引出しから私物の大きな風呂敷をとり出して、そそくさとエプロンを外した。

「どうしたんだね」佐介はいぶかしく訊ねた。「顔色が悪いよ。病気じゃないのか」

「あたしゃもうここで働くのがイヤになったよ」木見婆は投げ出すように答えた。「もう辞(や)めちまおうかしら」

「辞めちまいなよ」佐介は冷淡に答えて、茶漬の残りをざぶざぶとかきこみ、ぎくしゃくと立ち上った。「さあ、院長室に出勤するかな」

「部屋割り変更の件ですが」院長は空瓶を卓の下に片付けながら説明した。「当院では年に一回部屋替えを行う。それもくじ引きによってです。今年はその期日は過ぎているのですが、わたしはわたしの考えがあって、わざとそれを引延ばしているのです」

「それは好都合だったな」と運送屋が言った。「じゃ先生の提案のような具合にして、部屋替えをやればいいな」

「先ず人間の医者を雇って来ることね」と女金貸。「そして早急に全員の綿密な健康診断をやることね。近頃、人間ドック入りというのが、あちこちで流行しているらしいわよ」

「そう、そう」食堂主が相槌を打った。「わたしも近いうちにそれに入ろうかと考えているんだ」

「しかし在院者にそれを感づかれてはまずいよ」教授が言った。「肝臓の悪い者は悪い者同士、心臓は心臓、胃腸は胃腸、卒中体質は卒中体質と、各グループにわけて部屋割りを行うんだ。そして、各グループによって、食事の種類をかえる。たとえば卒中体質グループなどには、酒煙草の特別支給を考慮してもいいな。肝臓グループにはイスランジャ黄変米のヤキ飯などだ。なに、政府が大がかりでまた大ざっぱにやっていることを、僕たちはこぢんまりと計画的にやってみるだけの話さ。ははは」

「誰だ。はいれ」黒須院長が大声を出した。扉がまたコツコツと鳴ったのだ。「韮山爺さんか?」

「僕です」扉のすき間から佐介がぽっこりと顔を出した。

「栗山書記です。いささか遅刻しました」

「なにがいささかだ!」院長は眉を吊り上げて、不興気にはき出した。「いささかということは、ちょっとと言うことだ。見ろ、会議は終りかけてるじゃないか」

「膝にネンザが起きたので、接骨医に行ってたのです」鞄と卓上ピアノをかかえて、佐介は恐縮した表情でびっこを引き引き入ってきた。「診断書をお見せしましょうか」

「診断書なんかいらん!」院長は怒鳴った。「もう君には、何も要求しないよ」

「まあまあ、おだやかに」と女金貸がなまめかしくとりなした。「ネンザなら仕方がないじゃないの。ねえ、書記さん。どうしたの。ころんだの?」

「ええ。犬に追っかけられて」佐介は習慣的なうそをついた。「僕は、もともところびやすく出来ているもんですから」

「そうでしょうねえ」女金貸は同情した。「書記さんはまったく頭でっかちだものねえ」

「ころびやすいのはまとめて」運送屋が本題に戻った。「二階の部屋に割当てるといいね。階段の登り降りということがあるから」

「水爆マグロなんか惜しいことをしましたな」食堂主が膝を叩いて口惜しがった。「魚河岸(うおがし)にわたしの従弟が勤めていてね、そいつに頼めばガイガーカウンターで調べる前のマグロを、都合して呉れたかも知れない。そしてそれを当院用に回せたのになあ」

「水燥マグロは、今は入荷してないのかい?」

「入荷してるかも知れないが」と食堂主。「昨年暮で政府は検査を中止してしまったんだ。だからどれが水爆マグロで、どれがふつうのマグロだか、見分けがつかないんだよ、険呑(けんのん)なことだ」

「どういう体質や病気に」教授がまたしても腕時計をのぞいた。「どういう食物が悪いか。その精密な一覧表を、来月の会議までに、院長は人間医者と相談して作成して呉れ。部屋割りとか、具体的な食事給与の方法については、どうしますか。今日ここでやりますか。それとも来月に――」

「来月だ」

「来月だ」

「来月ね」

「では、時間も来たようだし、今日の月例会議はこれで終ります」と教授が宣言した。「とにかくこういう事業を運営するには、人の和ということが大切です。われわれ経営者はもちろんのこと、院長との連絡、院長と部下、職員や書記や調理人にいたるまで、緊密に団結してことに当らねばならん。そうしないととても九十九名を相手として運営しては行けない。院長。部下の統率掌握という点には、ぬかりはないだろうな」

「そ、それは大丈夫です」院長は大げさに胸をどんと叩いた。「調理人の末々にいたるまでわたしにすっかり心服しています」

「木見婆さんが辞めたいと言っていましたよ」書記卓から佐介がうっかりと口を辷らした。「どういうわけですか、もうこんなところはイヤだって」

「なに?」院長は朱面をかり立てて佐介をにらみつけた。「いらざることに口を出すな。何も知らないくせに!」

「さあ、出かけるか」食堂主が立ち上りながら、居眠りをしている菓子屋をはげしく揺り起した。「おい、会議は終ったんだよ」

「え、なに、ああ、そうか」菓子屋は眼をぱちぱちさせながら口の端のよだれを拭いた。「僕のウナギはどれだ?」

 経営者たちはそれぞれ立ち上り、上着を着け、おのおの折詰めをぶら下げた。院長はすばやく入口の方にかけて行き、侍従のようにうやうやしく扉を押し開いた。教授を先頭に、五人の男女はぞろぞろと廊下に流れ出た。院長もそのあとにくっついて、階段を三四段降りかけたが、たちまち飛鳥のように階段をかけ登り、勢い込んで院長室にまい戻ってきた。書記卓の栗山佐介の前にいきなり立ちふさがった。

「もう君は今日限り、当院に出勤して来なくてよろしい。私物をまとめて帰って呉れたまえ」

「え。クビですか?」佐介はびっくりして院長の顔を見た。

「でも、僕がいないと、いろいろ当院の事務に支障……」

「後釜には女秘書がやってくることになっている」院長は怒りを押えて無理ににやりとわらった。「電報を打っても出て来ないし、出て来たと思うと、いらざることに口を出すし」

「昨晩は僕の方にも都合がありまして――」

 院長はその弁解を聞かず、くるりと身をひるがえして、経営者たちのあとを追って階段をどどどどとかけ降りた。経営者たちの群はおのおの折詰めをぶら下げ、すでに玄関を出て、陽光の玉砂利道を正門の方にゆるゆると進みつつあった。彼等の後ろ姿を見送るべく院長は笑いで頰を引きつらせながら、玄関の石畳のとば口に立ち止った。(今日はきゃつ等にも相当点数をかせがれたな)と院長は考えた。(ウィスキー戦術もあるいは逆効果だったかも知れないぞ)院長の頭上、バルコニーの端をかすめて、つばめが一羽すばらしい速度で飛んだ。その時院長室の書類戸棚が内側からがたごとと開かれて、煙爺とニラ爺がごそごそと這い出してきた。栗山佐介はぎょっとして書記卓の前に棒立ちになった。両老人の顔は憤怒と疲労と空腹のために、険(けわ)しい色にくまどられ、眼はにじみ出た涙や目やにのためにきらきらとかがやいていた。うしろめたい緊迫感と驚愕が佐介の身体を棒立ちのまま動けなくした。

「ど、どうして、そ、そんなところに」佐介の舌はもつれた。「這入ってたんです?」

「聞いたぞ」煙爺が腰をさすりながら低い声で言った。

「何もかも聞いたぞ?」

「お前たちの相談を」ニラ爺はかすれた声でわらった。

「すっかり聞いてやったぞ。ヒ、ヒ、ヒ」

「ぼ、ぼくは今来たばかりなんだ」弁解にならぬ弁解を佐介はした。「来たとたんにクビになってさ。何が何だかさっぱり判らないんだ」

 両老人はじりじりと書記卓に近づいてきた。長時間戸棚の中にちぢこまっていたので、二人とも足がしびれているらしく、その動作は緩慢であった。佐介は身体を固くして二人の動きをじっと見守っていた。しかし二老人はただ無意味に動いているだけで、どうしたら自分の感情を動きに移せるか、判っていないように見えた。ニラ爺の手が偶然に書記卓の卓上ピアノに触れ、さげすむような声を出した。

「なんや。これ、オルガンか?」

「ピアノだよ」佐介はおとなしく答えた。「あんたに上げるよ。そのつもりで持って来たんだ」

「またこれにも、たくらみがあるんじゃなかろうな」煙爺が佐介をきっとにらんだ。「全く油断もすきもないからな。強化米だとばかり思っていたら、黄変米だと来やがる。ニラ爺さんにそれを弾かせて、皆を神経衰弱にしようという仕組みだろう」

「そ、そんなことはないよ」

 ニラ爺は卓上ピアノから手を放したが、また直ぐに抱き上げて、何を思ったかふらふらとバルコニーの方に動き出した。開かれた窓からさわやかな空気が流れ入ってきた。煙爺は両手を上げて深呼吸をしながら、いらだたしげな足どりでそのあとにつづいた。バルコニーの上からは、あおあおと茂った院内菜園が見え、鈍(にび)色の鉄の正門が見え、かなた駅に至る一筋の石ころ道が見えた。その石ころ道を経営者たちの一行が小さく歩いていた。その右手にあたる雑木林の中から、大小数匹のよごれた犬がのそのそと這い出し、いやな声で啼き立てながら、こもごも入り乱れて石ころ道に走って来た。最初に悲鳴をあげたのは、一行の最後尾を歩いていた女金貸であった。

「犬が!」彼女は走り出そうとしたが、石ころにハイヒールの踵(かかと)をとられてよろめいた。「あっ、たすけてえ!」

 四人の男はぎょっとして振り向いた。よろめいた女金貸の折詰めを、大きな灰色の犬が濡れた鼻先を近づけてくんくんと嗅いだ。脚の短い小さな犬は金貸の背後に回り、そのふくよかな腰のあたりをくんくんと嗅ぎ回った。教授が叱咜するように言った。

「悲鳴を上げるんじゃない。そんな声を出すと、ますます犬からバカにされるんだ!」

 女金貸は大急ぎで眼の色をかえて起き上った。犬たちは二三歩後退した。眼の色を変えているのは彼女だけでなく、四人の男たちもすっかり変っていた。なかんずく恐怖で眼を青くしていた食堂主は、その肥った躰[やぶちゃん注:「からだ」。]にはずみをつけて、いきなりかけ出そうとした。教授が大声で叱りつけた。

「走るな! 走るとガブリと嚙みつかれるぞ。ふつうの歩調で歩くんだ」

「自分のことばかりを考えるな!」運送屋が必死に怒鳴った。しかしその運送屋も声がうわずって、足どりもすこし早くなっていた。「落着け。落着いて、かたまって歩け。犬になめられるな!」

「アレエ!」

 女金貸はふたたび絶叫して、鰻(うなぎ)の折詰めを手から放した。灰色犬がガブリと折詰めを嚙んで引っぱったのだ。犬たちはたちまち折詰めにたかり、押し合いへし合い、低くうなり合って牙を鳴らした。折詰めはただちにばらばらに分解され、犬たちは舌を鳴らして鰻の白焼きをむさぼり食い始めた。女金貸は小走りで一行に追い付いた。

「落着いて、ゆっくり歩け!」運送屋がふたたびうわずった声で注意した。「俺もビルマ俄線で野犬に後追いされたが、走っちゃダメだぞ。走ったとたんに飛びかかられるぞ。粛々(しゅくしゅく)と歩け!」

「狂犬じゃないかしら」女金貸が半分泣き声で言った。「狂犬だったらどうしましょう」

「不吉なことを言うな」菓子屋が慄えながら歩を早めた。

「ああ、神様!」

「ははは、犬にたかられてるな」玄関のとば口で背伸びしながら、院長がたのしげにひとりごとを言った。「二人や三人嚙みつかれた方がいいよ。だいたい経営者にはウルサ型が多過ぎるからな」

「折詰めなんかぶら下げてるもんだから」バルコニーの上で小手をかざしたまま、佐介はにこにことニラ爺をかえりみた。「犬から、うようよたかられているよ」

 ニラ爺は沈黙していた。沈黙したまま、バルコニーから半身乗り出して、真下をじっと見おろしていた。その真下には、開き切った向日葵(ひまわり)の花のような形で、黒須院長の禿頭があった。ニラ爺は手にした卓上ピアノを、ねらいをつけて、バルコニーからぐっと差し出した。そのまま手を放した。風圧を鍵盤(キイ)に受けて、卓上ピアノは微妙なメロディを奏しながら、まっすぐに大地めがけて落下し、院長の肩をわずかかすめて、めちゃめちゃな音響と共に石畳の角にぶつかった。声にならない声を立てて本能的に腰を曲げた院長の禿頭に、一本の小さな釘をともなった木質部の破片が、まるでねらいをつけたかのようにするどく飛びかかった。釘は禿頭にぐさりと突きささり、木の破片は釘にとめられてそのまま額にぶら下った。院長は頭を押えて、大声でわめいた。

「ああ、誰か、誰か来てくれ!」

 院長は玄関に逃げこみながら力をこめて釘を引き抜いた。引き抜かれた穴から、アルコール分を若干含有した鮮血がどくどくと流れ出て、院長の掌やこめかみや頰をべっとりと濡らした。院長は顔色を変えた。電球のガラスの針で脳天を突き刺し、そして死んでしまった父親のことを、パッと思い出したのだ。院長は追いつめられた鼠のような顔になり、忙しく左右を見回し、あえぐような声を出した。

「ああ、誰か来て呉れ。俵医師、いや俵じゃダメだ。木見婆さん。木見婆さん!」

 木見婆は私物や米やカンヅメを大風呂敷に包みこみ、すでに夕陽養老院の建物を離れ、小走りで裏門の方にかけていた。行きがけの駄賃に、米やカンヅメ類を欲張って押し込んだので、その風呂敷包みの重みで、木見婆の走り方はまるで泥酔者のそれであった。ニラ爺はバルコニーから院長室へかけこみ、廊下に飛び出して階段を大急ぎでかけ降りた。どこに行くというあてもなく、ニラ爺は顔中を汗と涙だらけにしながら、大声を上げて階下の廊下を走っていた。煙爺もあてもなくそれにつづいて走った。院長はふたたび玉砂利道に飛び出し、頭を両掌で押え、玉砂利を蹴散らしながら、鼠花火のようにそこらを無目的にかけ回っていた。経営者たちはてんでに折詰めを道ばたに投げ捨て、走るな、走るな、とお互いを牽制(けんせい)し合いながら、競歩の選手のように足を突張って駅に急いでいた。競歩と言うにはそれは規約を無視し過ぎていて、やはりそれは一種の疾走であった。犬たちは折詰めにたかってはそれを食べ尽し、また疾走する経営者たちのあとを追って走った。走ったりよろめいたりかけ回ったりしている人間や犬たちに、晩春の陽光はうらうらとさしわたり、さわやかな大気を切って紫黒色のつばめが飛んだ。つばめの尻尾は翅(はね)とともに長く、しゃれた形に分岐していて、それを自在に操作しながら方向を変えた。人間はとてもこういう具合に身軽には行かない。

 

[やぶちゃん注:以上を以って本篇「砂時計」は終わっている。]

梅崎春生 砂時計 28

 

     28

 

 東寮階下のどんづまりの部屋では、各爺さんがそれぞれ昼食を済ませ、それぞれ食後のいこいをとっていた。長老の遊佐爺は肱(ひじ)まくらでかるい午睡をとっていたし、滝川爺と柿本爺は手製の将棋盤で将棋をさしていた。松木爺は輪番制の畠仕事をさぼって、鋏(はさみ)でチョキチョキと足の爪を切っていた。午後の陽光はこの部屋にもななめに射し入っている。やがて松木爺は爪をすっかり切り終え、鋏を投げ出して大きな欠伸(あくび)をした。

「さて」欠伸を閉じて松木爺はひとりごとめかして言った。「も一度ニラ爺でも探しに出かけるかな」

 誰もそれに返事をしなかった。松木爺はふらふらと立ち上った。

 木見婆は空の岡持を提(さ)げて、ふらふらと中央大階段を降りてきた。すると廊下の向うからふらふらと歩いてくる甲斐爺、森爺の姿を認めたので、木見婆はぎくっと身体を緊張させ、急ぎ足になってその両爺に近づいて行った。

「まだ見付からないのかい?」木見婆は早口で訊ねた。

「まだ?」

「まだなんだよ」甲斐爺がしょんぼりと答えた。一体どこにかくれやがったのか。木見婆さんは心当りないか」

「あるわけないよ」そして木見婆は声を強めた。「もし見付けたらね、何はさしおいてもあたしのとこに飛んで来るようにと、そう伝言してお呉れよ。ほんとに大事な用事があるんだからさ。きっとよ」

「わかったよ」と森爺が答えた。「そのかわり、あんたが見付けたら、直ぐに知らしとくれよな。その岡持は何だい?」

「院長室で今会議をやってんだよ。それに料理を運ぶのさ」

「どんな料理?」と両爺は眼をかがやかせ唾をのみこみながら訊ねた。

「それは焼魚とか、きんとんとか」と、木見婆は答えた。「茶碗むしとか、いろいろさ」

「残飯費運搬費の値下げ、院内菜園のことなんかは、経営の本筋から言えば、末の末のことだ」気取った手付きで茶碗むしの蓋を取りながら教授が重々しく言った。「経営方法の大宗は、在院者を次々回転させるにある。電車会社の経営と同じだ。降りる人があってこそ、次々に人が乗ってくるのだ。乗りっぱなしにされては、経営が成り立たないよ。だから我々も枝葉末節を論ずることをやめて、大宗を論じなくてはならん。近時の当院の不振も、死ぬべき人が死んで呉れないという点に最大の原因がある。如何にして在院者の回転率を高めるべきか」[やぶちゃん注:「大宗」は「たいそう」は「物事の初め・おおもと」或いは「大部分・おおかた」の意。]

「そうだ。そうだ」と食堂主が賛意を表した。「わたしんちでも、卓に坐りっぱなしで、一日中かかってゆっくり食べられては、やり切れんものな」

「どうして近頃」と運送屋が小首をかたむけた。「皆死ななくなったんだろうなあ」

「やり方も悪いんだよ」と菓子屋。「院長の怠慢だ」

「いっそのこと」女金貸が手を上げて言った。「院長の責任制ということにしたらどう?」

「責任制?」

「割当制のことよ」女金貸は院長の方に向き直った。「今在院者は、九十九人、だったわね」

「そうです」

「すると、一ヵ月に三人死ぬ」と女金貸は指を折って数えた。「全部入れ替わるのに、三十三ヵ月、すなわち二年と九ヵ月かかるわけね。四人だと、ええ、約二十五ヵ月か」

「そう」教授がうなずいた。「二年と一月だ。商売柄だけあって、計算は正確だね」

「一ヵ月三人というところでどう?」女金貸は一座を見回した。「一ヵ月三人を院長の責任額にするのよ。三人に足りない場合は、院長の月給から比例して相当額を差し引く。三人以上死んだ場合は、もちろんその分だけ院長に手当を出す。そうすれば院長も仕事に励みが出るでしょう」

「それはいい考えだ」と運送屋が卓をたたいて賛成した。

「三人死ぬと、新入りが三人で三十万円か。適当なところだね。院長、一月に三人殺すのは、わけないだろうね」

「飛んでもない」院長はまっかになり、眉をびくびく動かして掌を振った。「一月三人もわたしが殺すなんて、そんな無茶な、非常識な――」

「殺すというから具合が悪い」教授がたしなめた。「死なしめて上げるんだよ。さっきも院長は言ったではないか。老人は死ぬために生きているって。つまり老朽物質を、無に帰させるわけだね」

「そ、それはそうですが――」

「死なしめて上げるって、精神的にこいねがっているだけではダメだ」教授はあかくなった額をゴシゴシと搔(か)いた。「こういうことは組織的に、計画的にやらんといけないな。行き当りばったりじゃ困る」

「そうよ」女金貸が勢い込んだ声を出した。「この間の風呂のタイル張りの件だって、行き当りばったりよ。辷って死んだのは、たった一人じゃないの。あのタイルの張り替えはいくらかかったの?」

「六万円です」と院長が帳簿を開きながら答えた。「そして直ちに林爺さんが辷って死んで呉れたので新入者が十万円持って入ってきました。すなわち差引き四万円……」

「ちょいと待った」運送屋が口を入れた。「その算術はおかしいぞ。死んだ林爺さんは満八十歳だったな。するとタイルで辷らないでも、いずれ何かの原因で遠からず死ぬべき状態にあったわけだ。それをかんたんに引き算で片付けようなんて――」

「しかし」院長は禿頭をふり立てて抗弁した。「今までのところは一人ですが、これから先、タイルが張ってある限り、何人もが辷って後頭部を打つでしょう。それをこいねがってわたしは、石鹸だけは爺さんたちに潤沢(じゅんたく)に配給してある」

「そう都合よく行くものか。鼠だって捕鼠器に一匹かかれば、あとは用心してかからなくなるよ。ましてこれは人間だ」

「六万円とは金をかけ過ぎたよ」と菓子屋。「ひっくりかえすには、廊下や階段に臘(ろう)[やぶちゃん注:漢字はママ。「蠟」の誤字か誤植。後も同じ。]を塗りたくった方が、はるかに安上りで効果的だったんじゃないか」

「しかし院長たるわたくしが、深夜ごそごそと床に臘を塗り回っている現場を、爺さんたちに見られたら具合が悪いですよ」と院長は言った。「それに廊下や階段に塗りたくって、爺さんたちでなく、あなた方が引っくり返ったらどうします?」

「そいつはごめんだ。桑原、桑原」食堂主は首をちぢめた。「わたしや近頃血圧が高いんだよ。頭を打ったらそれっきりだ」

「そうでしょう」院長は鼻翼をふくらませた。「わたしだって辷り転びたくない」

「黄変米の方はどうなってる?」教授が質問した。「継続して投与しているかね?」

「僕が毎月納入していますよ」と、菓子屋が引き取った。「菓子製造の加工用原料として払い下げを受けたやつの、その相当量を当院用に回しています」

「回ってきた分を、院長はチャンと飯にたき込んでいるか?」

「たき込んではいますがね」院長は瓶をとり上げ、各自のグラスに次々に充たしてやった。「あんまり多量に混入すると、ぼそぼそ飯になって、在院者は食べ残すし、それに黄色く色が染まるんでねえ。強化米などとごまかしてはいますが」

「その程度じゃ在院者に大した実害は与えないな」教授が軽蔑したような声を出した。「その程度なら一般国民も食べているよ。すでに現政府は、黄変米騒ぎのほとぼりがさめたのを見はからって、こっそりと毒米を配給ルートに乗せ始めてるよ。僕んとこの大学の消費生活協同組合が、配給外米をだね、どうもおかしいてんで専門家に頼んで検査して貰ったんだ。するとそれからイスランジャ菌がうじゃうじゃと検出されたんだ」

「その組合って、何をするところです?」

「学内食堂を経営しているんだよ」教授はグラスを手にした。「学生、職員の数干名がそこを利用しているんだぜ」

「ひどいな」

「ひどいもんですねえ」

「ひどいわね」

 面々は異口同音に、政府のやり方に対して、怨嗟(えんさ)の声を上げた。

「だから僕の家では」と教授は落着きはらった。「外米配給は一切辞退しているんだ」

「外米はまだ相当滞貨しているんですか?」

「相当あるようだね」と教授。「せんだって食糧衛生局長が、非公開の会議の席上でだがね、現在外米の滞貨は二十万トンに達しているが、なんとか早く配給ルートにのせて片付けてしまいたいと、語ったそうだ。二十万トンとは相当な量だよ」

「僕んとこにも毎月一定量」と菓子屋が説明した。「加工用原料として配給がある」

「全部を加工用原料に払い下げればいいのにね」

「加工用原料としての払い下げ価格は、たいへん安いんだよ」と教授。「全部を加工用に払い下げれば、食糧管理特別会計にたちまち五十億円の穴があくんだ。それじゃあ配給操作にもさしつかえるしねえ。だから政府は国民の目をごまかして、毒米を配給ルートに乗せたがっているし、また実際に乗せているんだよ」

「あんたその払い下げ米を」女金貸が菓子屋に顔を向けた。「タダで当院に納入してるの?」

「タダじゃないさ」菓子屋は困感したように見る見る渋面をつくった。「僕も商売人だがね。でも当院納入の分には、利益はほとんど見ていないです」

「いかほどで買ってるの」女金貸は院長に顔をねじ向けた。

「支払いは金じゃなくて、物々交換です」院長は帳簿を開いた。「ええと、払い下げ米三升につき、配給内地米一升という割です」

「それは暴利だ」食堂主と運送屋が一斉に叫んだので、菓子屋はいささか狼狽した。「払い下げ米はタダ同様だろ?」

「タダ同様じゃありませんよ」菓子屋は顔をぱっとあかくして必死に弁解した。「ちゃんとしかるべき値段を払っていますよ。しかし、諸君がそうおっしゃるなら、交換比率を改定してもよろしい。その用意はあります」

「あたりまえだよ」食堂主がきめつけた。「今までにあんたは相当儲(もう)けたな」

「儲けやしないよ」菓子屋はひらひらと掌を振った。「あんたんちの残飯と同じ程度だよ」

「皆さんがそんなに自分のことだけしかお考えにならないから」と院長は女金貸の方を掌で指した。「こちらから融資を受けねばならんということになり、また実際に融資を受けている。嘆かわしいことですな」

「金利はいくらだ」と運送屋が訊ねた。「まさか十一(トイチ)じゃあるまいな」

「おほほほほ」女金貸は手の甲で后をおおい、途方もなくいい声でわらった。「十一だなんて、そんなにわたしがむさぼるわけがないじゃないの。もう内輪揉(も)めは止しましょうよ。そんなこと、枝葉末節だわよ。ねえ先生」

「今日俵医師は出席しないのか」女金貸のながしめを受けとめて、教授が話題を転じた。「在院者の回転方法に関して、僕は俵医師の意見を聞きたいと思っていたのだが」

「先ほど申しました通り、当区の狂犬予防週間で」と院長が答えた。「そちらの仕事をやっているのです」

「今日のような大切な会議には」と運送屋が言った。「欠席されては困りますねえ。獣医だからそういうことになる。この際俵医師をクビにして、まっとうな人間の医者を雇うことにしたらどうですか」

「そうだよ」と食堂主が賛成した。「獣医は雇い賃が安い。しかし、安かろう悪かろうでは、かえって当院の損になる」

「俵医師を雇ったのは僕だがね」と教授がきらりと眼を光らせた。「獣医をえらんだのは、単に費用が安く上るからではない。君たちは人間医と獣医の心構えの差異を知っているか。人間医は人間の命を最高価値のものとして取りあつかう。ところが獣医はだね。たとえばここに一匹千円の犬がいて、それが病気になったとする。その病気を治すのに、千五百円の注射が必要だとする。その場合、獣医は決してその千五百円の注射液を使用しないものだよ。判るかね」

「なるほどねえ」と女金貸が相槌(あいづち)を打った。「注射液の方がその犬よりも、五百円がた高価な物質ってわけね」

「そうだ。まったく当院向きだ」教授は莞爾(かんじ)としてうなずいた。「それにしても俵医師の本日欠席はけしからんな」

「当区はとても狂犬が多いのです。都内随一の狂犬発生区なのです」と院長が説明した。「さきほど駅から当院までの道ばたに、犬が何匹もうろうろしていたでしょう。あれが全部野犬なのですよ」

『そいつはいけねえ』菓子屋が言った。「野放し犬が一番恐いんだ」

「在院者で誰か嚙まれた?」と女金貸。

「いや、まだ誰も」と院長。「どういうわけか当区の野犬は、爺さんには嚙みつかないようですな。旨くないからでしょう。嚙みつかれるのはたいてい働き盛りの男女です」

「もし嚙みづかれて、それが狂犬だったら、どうなるの?」

「発病したらもうたすからんね」と教授が説明した。「狂犬の唾液の中の狂犬病ビールスが、かみ傷から人体に入り、神経にとりついて脳の中に入りこみ、どんどん殖えて脳の細胞をメチャメチャに食い荒してしまう。それでかんたんに一巻の終りだ」

「怖いわねえ」女金貸はぞっと身を慄わせた。「帰りが怖いわ」

「狂犬のことはそれくらいにして」と教授は腕時計をちらと見た。「さっきの院長の責任制の間題だね、一ヵ月三人を割当てるという説が出たが、皆さんどうですか?」

「三人なんか飛んでもない!」院長は大声を立てて中腰になった。「三人なんか無茶ですよ。そんなに死ぬもんですか。当院の今までの歴史をしらべても、終戦前後の食糧悪事情の頃をのぞいては、月三人ということは絶対にありませんでしたよ」

「終戦前後はぞろぞろ死んだんだろ」と運送屋。「では、今にしても、やり方ひとつによっては、殺せない筈はない」

「そんなことをおっしゃるくらいなら」院長は興奮して卓をどんと叩いた。「当院に火をつけて、九十九名の爺さんもろとも、まる焼きにしたらどうですか。建物が古いから、火の回りは早いですよ。ただし、その炎上の責任はわたしは負いませんぞ」

「そりゃ無茶だよ。建物まで燃しては元も子もない。燃やしたいのは中身だけだよ」と運送屋が言い返した。「それにおれたちは、九十九人をいっぺんに死んで貰いたいとは言っていない。いっぺんにではなくて、順々に死んで貰いたいんだ。院長。一ヵ月三人。じたばたせずに引き受けたらどうだね」

「三人は無理です」院長は頑張った。「どうしても三人を押しつけるなら、わたしとしても辞職の他はない。辞めさせていただきます」

「じゃあ辞めて貰って」と運送屋は一座を見回した。「他に後釜を探しますか」

「どうぞお勝手に」院長はおどすように声をするどくした。「わたしが辞めると、後任の院長が来る。しかし世の中にはそうそう人物のいるわけがないから、今まで通りうまく行くと思ったら大間違いですよ。それに、ふつうの人間なら、院長と名がつけば、在院者の方を大切に考えるでしょうからねえ。わたしはいつでも院長の椅子を投げ出して、よろこんで後任と交替します。後悔なさらないように。黒須玄一みたいに都合のいい院長はいなかった。そうあとで考えても、もう遅いですよ」

「よし判った」教授がうなずき、にやりと笑った。「なかなかやるもんだねえ。どこかの首相みたいだ」

「わたしは信念をもってやっているのです」

「それじゃ院長さん」女金貸が院長にやわらかく言った。

「院長さんは一ヵ月に何人なら引き受けると言うの?」

「ええ、それはですねえ」院長は腕を組んで禿頭をかたむけた。「ええ、一ヵ月に一人というとこで、どうでしょう?」

「一人?」食堂主が眼を剝(う)いた。「するとこんな大きな所帯で、月々の収入がわずか十万円か」

「正式にはそうですが」院長は答えた。「他に羽根運動からの援助もありますし、菜園収穫物売却などの別途収入もありますので、最低の運営には差支えないと思います」

「一T人とは言いも言ったもんだ」運送屋が舌打ちをした。「全部入れ替わるのに、九十九ヵ月か。ああ、おれは気が遠くなる」

「一人を責任額にして、実はそれ以上毎月殺して、手当をごっそり稼ぐつもりだろう」と菓子屋。「ずるいぞ」

「あたしたちだって、ずいぶん犠牲をはらってるのにねえ」と女金貸。「院長だけがいい目を見るという法はないわ」

「院長」きんとんをもぐもぐ嚙みながら教授が言った。

「いくらかけ引きとは言え、皆の発言の通り、一ヵ月一人は無茶だよ。承服出来ないよ。では、我々もいくらか譲歩するから、君も大幅に歩み寄れ。な、一ヵ月二人半ではどうだね。そこらで妥協して手を打とうじゃないか」

[やぶちゃん注:「黄変米」ウィキの「黄変米」より引く(一部、私が補足した)。『黄変米(おうへんまい)とは、人体に有害な毒素を生成するカビが繁殖して黄色や橙色に変色した米のこと』。主に菌界子嚢菌門ユーロチウム菌綱 Eurotiomycetes ユーロチウム目 Eurotiales マユハキタケ科属アオカビ(ペニシリウム)属 (Penicillium) の『カビが原因となる。カビ自体は有害なわけではないが、カビが作り出す生成物が肝機能障害や腎臓障害を引き起こす毒素となる。カビ毒をマイコトキシン』(Mycotoxin)『と総称するが、総じて高温に強く』、『分解が困難なため』、『加熱殺菌によりカビ自体を死滅させても』、『毒素は無毒化されずに残存してしまう。黄変米はカビの拡散を防ぐためと毒素分解の必要性から高温で焼却して廃棄するのが最善の処理方法である』(とあるが、多くのアオカビ(ペニシリウム)属の種はマイコトキシンを産生しないため、これらが直接に重篤な食中毒の原因になることは殆どない。但し、アオカビが生えた食品では、他の有害なカビの増殖も進んでいると考えるべきではある。例外は次注参照)。『日本では戦後の食糧難の時代に外国から大量の米が輸入され、国民への配給が行われていた』が、昭和二六(一九五一)年十二月にビルマ(現在のミャンマー)より『輸入された6,700トンの米を横浜検疫所が調査したところ』、翌年の一月に約三分の一が『黄変米である事が判明し、倉庫からの移動禁止処分が取られた』。『すぐに厚生省(現厚生労働省)の食品衛生調査会で審議され、黄変米が1%以上混入している輸入米は配給には回さない事が決められた。基準を超えた米はやむを得ず倉庫内に保管されたが、その後も輸入米から続々と黄変米が見つかり』、『在庫が増え続けた。配給米の管理を行っていた農林省(現農林水産省)は処分に困り、黄変米の危険性は科学的に解明されていないという詭弁を用いて、当初の1%未満という基準を3%未満に緩和し』、『配給に回す計画を立てた。この計画が外部に漏れ、朝日新聞が』昭和二九(一九五四)年七月に『スクープしたことで世論の批判がおき、黄変米の配給停止を求める市民運動などが活発化することになる。在野の研究者も黄変米の危険性を指摘したが、政府は配給を強行し、配給に回されなかった米についても味噌、醤油、酒、煎餅などの加工材料として倉庫から出荷しようとした』。『この直後に厚生省の主導で黄変米特別研究会が組織され、農林省食料研究所の角田廣博士、東京大学医学部の浦口健二助教授などが黄変米の研究を開始した。研究会では、角田や浦口などの努力により極めて短期間に黄変米の高い毒性が解明される事になった』。『研究会の成果と、世論の強い反発のため』、『黄変米の配給は継続できなくなり、同年の』十『月には黄変米の配給が断念された。このため、黄変米の在庫は増え続ける一方となり、窮地に陥った政府は』昭和三一(一九五六)年二月、『明確な安全性の根拠が無いまま、黄変米を再精米し、表面のカビを削り落として配給を行う政策を再度発表』した。『だが、黄変米の在庫は減る事が無く』、『長期にわたって倉庫に保管され続けることになり、結局は再精米の上で家畜の飼料など食用以外の用途として』実に十『年間に』亙って『処分されたといわれている』。『なお、特別研究会に参加した角田は黄変米が発見された当初より』、『職を辞する覚悟で農林省に強硬に抗議した事が知られており、はじめの時点で1%基準が策定されたのも彼の尽力によるものが大きい。彼の努力が無ければ』、『黄変米の配給問題は誰にも知られずに闇に葬られていた可能性が高いと言われている』。『第二次世界大戦の影響で若い男性はすべて戦争に駆り出され』、『農村の労働力は枯渇していた。また、肥料をはじめとする農業資材も極度に不足していた。この状況で、復員兵や満州などからの帰還者が大量に日本国内に流入したため未曾有の食糧不足が発生した。当時の状況においては外国からの輸入物資に頼るほかに道は無かったが、肝心の外貨は底を突き、度重なる空襲によって生産設備は灰燼に帰していたので外貨の獲得手段も無かった』。『政府は少ない外貨を効率的に使用し、食料と復興のための必要物資を調達しなければならなかった。このため、外国で米を調達する際には価格優先で低品質のものを選択する以外なく、輸送船も荷物を安く運べさえすれば良いという選択肢を取らざるを得なかった。結果的に、輸送中に米にカビが生え』、『黄変米となってしまった。貴重な外貨で手に入れた物資だっただけに捨てる事もできず、新たに輸入するにはまた外貨が必要となるので、何とかして当初の目的どおりに使用しようと考えた為に発生した事件であ』った、とある(太字下線は私が本篇に語られる内容が事実であることを示すために附した)

「イスランジャ菌」上のウィキの「黄変米」では、『黄変米の原因となる主要なカビ』として以下の菌界子嚢菌門ユーロチウム菌綱ユーロチウム目マユハキタケ科属アオカビ(ペニシリウム)属の三種が挙げられてある(一部に私が補足を加えた)。

・ペニシリウム・シトレオビライデ Penicillium citreo-viride(「シトレオビリデ」とも表記される。当初は「ペニシリウム・トキシカリウム」(Penicillium toxicariume)と名付けられていた。毒素としてマイコトキシンの一種シトレオビリジン Citreoviridin という神経毒を生成し、呼吸困難・痙攣を引き起こす

・ペニシリウム・シトリヌム Penicillium citrinum(「シトリナム」とも表記される。毒素としてマイコトキシンの一種シトリニン citrinin を生成し、腎機能障害・腎臓癌を引き起こす

・ペニシリウム・イスランディクム Penicillium islandicum(「イスランジウム」「イスランジクム」「イスランジカム」とも表記される。毒素として孰れもマイコトキシンの一種であるシクロクロロチン Cyclochlorotine(イスランジトキシン islanditoxin とも呼ぶ)・ルテオスカイリン Luteoskyrin を生成し、肝機能障害・肝硬変・肝臓癌を引き起こす

さても、この最後のペニシリウム・イスランディクム Penicillium islandicum こそが俗名を「イスランジア黄変米菌」と呼ぶのである。「株式会社リンクス」のサイト「食品の二次汚染対策相談室」(同社藤川氏担当)の「ペニシリウム(Penicillium)属」を参照されたい。さらに、『日本植物病理学会報』(第二十号・昭和三一(一九五六)年発行・PDF)の『昭和30年度関西部会 於 神戸大学姫路分校 昭和301016, 17日』とある中の、「139」ページ右の、堀道紀氏と山本功男氏の講演要旨『(46) Peuicillium tardum の寄生に因る黄変米について』の中に『イスランジヤ黄変米』という表記が見出せる。以上の記載には「日本マイコトキシン学会」公式サイトのこちらも参照して正確を期した。ある種の現代作家は平気でいい加減な架空の病気や、都市伝説染みた病原体・細菌・ウイルスをまともな文脈の中に登場させて平気な顔している無責任なケースがあるが、梅崎春生はちゃんと調べ上げて記していることが判る。

「十一(トイチ)」十日で一割という金利(利息)を取ることを指すが、現在では十日に二割や三割といった暴利を貪る高利貸全般を対象に「といち」または「といち金融」と呼んでいる。

「当区はとても狂犬が多いのです。都内随一の狂犬発生区なのです」これは何かの資料を調べれば、夕陽養老院及びその他のロケーションをかなり絞ることが出来るのだが、当時の東京都の行政区別の狂犬病発生数を見出すことは出来なかった。しかし「東京都福祉保健局」公式サイト内の「日本における狂犬病の発生状況」に載る「全国及び東京での犬の狂犬病発生数」を見ると、

昭和二八(一九五三)年 【全国】176頭 【東京都】128

昭和二九(一九五四)年 【全国】  98  【東京都】  47

昭和三〇(一九五五)年 【全国】  23  【東京都】    3

とある。なお、昭和三二(一九五七)年以降、ヒトでは全国的に発生はない(外地罹患帰国発症事例は除く)。

「狂犬病ビールス」狂犬病の病原体は第五群(一本鎖RNA -鎖)モノネガウイルス目 Mononegavirales ラブドウイルス科 Rhabdoviridae リッサウイルス属狂犬病ウイルス (Genotype 1Rabies virus を病原体とするウイルス性の人獣共通感染症で、ワクチン接種を受けずに発病した場合、ほぼ確実に死に至る。確立した治療法はない。咬傷部から侵入した狂犬病ウイルスは、神経系を介して脳神経組織に到達して発症する。その感染の速さは、日に数ミリから数十ミリと言われており、従って咬傷を受けた部位が脳や中枢神経系から遠位であれば、咬傷後のワクチン接種処置の時間が稼げると言える。脳組織に近い傷ほど潜伏期間は短く、二週間程度で、遠位部では時に数ヶ月以上、事例の中には二年後という記録もあるという(ここはウィキの「狂犬病」他に拠った)。]

梅崎春生 砂時計 27

 

     27

 

 流れは相変らず碾茶色(ひきちゃいろ)にねっとりと濁り、塵芥や木片をのせて、かなりの早さで下流へ下流へと動いていた。その上水路の堤の急斜面を、栗山佐介は腰をひくくかがめ、斜面の立木の枝や草をつかみながら、用心深く降り始めた。昨夜半まで降りつづいた雨のために、草や地面はまだ濡れていた。濡れて辷りやすくなっていた。靴が辷るので、いい足場をえらぶ必要があった。

「大丈夫?」堤の上から曽我ランコが声をかけた。「靴を脱いだらどうなの。辷るとまた膝をいためるわよ」

「大丈夫だよ」佐介は堤上を見上げてわらった。「軍隊じゃもっともっと、危いことをやった」

 曽我ランコから四五間[やぶちゃん注:約七・三〇~八・一〇メートル。]離れた場所に、乃木七郎は立っていた。小腰をかがめては石を拾い、ちょいと小首をかしげ、対岸に生えたアカシヤの木にねらいをつけた。石は乃木七郎の手を離れて勢いよく飛んだ。石はアカシヤの幹にあやまたずに命中し、急斜面を水路にむかってころころところがり落ちた。小さな水しぶきをあげて石はたちまち見えなくなった。

「ふん。何だっけなあ。ええ。何だったかなあ」

 乃木七郎は、ひどい頭痛をこらえるような表情になり、左手に抱いた卓上ピアノをいらだたしげにゆすぶった。石を握ってねらいをつける、その手や肩や身体全体の感じ、それがうしなわれた記憶の中から、しきりに彼に何かを呼びかけて来ようとするのだ。もう一歩踏み込むと何もかも判りそうなのだが、その一歩がどうしても踏み込めない。事実頭の芯もしんしんと痛み始めていた。乃木七郎は再び腰をかがめて石を拾い、双の眼玉を中心に寄せて、ふたたび対岸のアカシヤにねらいをつけた。栗山佐介はあぶなっかしい腰つきで、斜面の四分の一ほどを降りた。

「大丈夫? 辷るとたいへんよ」

 曽我ランコはそう言いながら、そこらから棒きれを拾い、板裏草履をぬいではだしになった。はだしのまま棒を支えにして、彼女自らも佐介を追って斜面をそろそろと降り始めた。乃木七郎の石がまた空気をするどく切って、対岸に飛んだ。石はアカシヤの幹に見事にぶっつかり、カーンといい音を立てた。草を摑(つか)んだ不安定な姿勢で栗山佐介は顔を上げ、アカシヤの方に視線をむけてつぶやいた。

「いいコントロールだな。あんな奴にねらわれちゃたまらない」

「辷りやすいわねえ」用心深くのろのろと下方に移動しながら、曽我ランコがあぶなげな声を出した。「はだしでもツルツルするんだから、靴穿(は)きは用心した方がいいわよ」

「靴よりはだしの方が辷るんだ」佐介はやや不機嫌な声を出し、曽我ランコを見上げた。用事もないのにあぶない斜面を降りてくるランコに、なにか忌々(いまいま)しさを感じたのだ。それに乃木七郎をひとりに放置しておくことの不用心さもあった。「ダメだよ。君は降りて来ちゃいけないったら。辷り落ちたらどうするんだ。ここに落っこちたら、もう絶対にたすからないよ」

「あたしは大丈夫よ」曽我ランコは不安定な姿勢でせせらわらった。「わたしは小さい頃から、冒険ごっこが大好きだったんだもの」

 石が又しても対岸へ飛んだ。五十米ほど上流にかかった木橋を、二人の男が急ぎ足で渡り終え、土堤上の小径(こみち)をこちらに近づきつつあった。一人の男はカメラを肩から提げていたが、もはや口にチューインガムは嚙んでいなかった。もう一人の男は小型胴乱を小脇にかかえ、どういうつもりか鳥打帽子を前後さかさまにかぶっていた。

 曽我ランコはさらに下方に移動して、栗山佐介の地点に近づいた。佐介はさっきと同じ姿勢で、しかし何かまぶしげな眼付きになって、そのランコの姿をぼんやり見上げていた。姿勢の不安定さのために、彼女の若々しい肉体の輸郭が、スラックスの線に露わに出ていたのだ。佐介のその視線に気付くと、曽我ランコは急にとがめる眼つきになった。

「何見てるの。接骨木(にわとこ)はとらないの?」

「とるよ。今一休みしているところだ」佐介はあわてて視線を水路の方に向けた。接骨木は佐介の地点から更に三米ばかり下方に、その枝をひろげていた。そこに至る斜面は、今まで降りてきた斜面より、ずっと急になっている。その急斜のかたむきを佐介は眼で計って見た。

「さあ。降りるとすればここからかな」

「ずいぶん急ね」佐介の地点まで降りてきた曽我ランコは、その急斜をたしかめて二の足を踏んだらしかった。

「あたし、ここにつかまって、この棒を出したげるから、それにつかまって降りたらどう?」

「そうしようかな」

 佐介は亀のように斜面に貼りついた。ランコは右掌で紅葉の細い根っこを握りしめ、左手につかんだ棒ぎれを佐介の方にぐっとさし伸ばした。佐介はその棒の端をつかみ、あぶなげな足どりを斜面に踏み入れた。靴がずるずると五寸ばかりすべった。佐介は棒をつかむ掌に、ぐっと力を入れた。曽我ランコも顔を紅潮させ、ふといぶかしげな顔になって、土堤道をななめにふり仰いだ。いそがしく乱れた足音が聞えたからだ。乃木七郎は悠然と五つ目の石を拾い上げた。その背に二人の男の足音が殺到した。

「さあ、逃げるんだ」

 カメラ男がはあはあと呼吸をはずませ、そう言いながら乃木七郎の右手に自分の腕をからませた。

「早く。早く。あいつらが登って来ないうちに!」

 胴乱男が乃木の左方に回って、同じく腕をからませようとした。ところが乃木の左腕は卓上ピアノを抱いているので、白い鍵盤はけたたましい音を立てて、ジャランジャランと鳴りわたった。斜面の中途で曽我ランコが金切声を立てた。

「何、何をしてるの!」

「はあ」

 乃木七郎は間の抜けた声で返事をして、きょとんとした顔で斜面を見おろし、そして二人の男の顔を見回した。自分にどんな事態が起りつつあるのか、もちろん彼に理解出来なかっかのだ。胴乱男はいらだたしげに乃木七郎の肩をこづいた。

「さあ、早く。そんなもの、捨てちまうんだ!」

 肩をこづいた手で、胴乱男はいきなり卓上ピアノを乃木の左腕からはたき落した。ピアノはガシャンと地面に落ちた。カメラ男の靴がそれを蹴飛ばした。ピアノは大小高低の音をさまざまに響かせながら、斜面をにぎにぎしくころがり落ちた。

「待てえ!」曽我ランコがありったけの声で叫んだ。「泥棒。泥――棒!」

 卓上ピアノはその曽我ランコをめがけて奔転(ほんてん)した。ランコは佐介をつないだ棒きれを突き離し、奔転するものを辛うじて受けとめた。受けとめたというより、身体全体でせきとめた。栗山佐介は離された棒きれと共に、一気に三米の急斜をすべり落ち、これも辛うじて目指す接骨木の幹に必死にしがみついた。佐介の眼は恐怖と衝動で青味を帯びてきらきら光り、毛穴からふき出した冷汗と脂で、顔中はべっとりと濡れていた。ねとねとと濁った水路の急流が、佐介の眼下を音もなくうねっている。

「ああ」佐介はかすれた声でうめいた。「ああ、おれはいつもこんな具合になっちまう。惨(みじ)めで貧乏たらしい役割を、いつもおれはこんな具合に引受けてしまう」

 曽我ランコはがむしゃらな勢いで、草をつかみ木の根をつかみ、斜面を這い登っていた。堤上の小径を、乃木七郎を中にして、二人の男は足をぴょんぴょんとはね上げて、彼方に遁走しつつあった。得体(えたい)の知れない二人男の熱意にくらべると、乃木七郎はそれほど疾走の意志を持たないので、歩調がちぐはぐで、見た目の割にはスピードは出ていなかった。小学校の秋季運動会の父兄有志の三人四脚みたいな具合に、この三人編成の一団はぎくしゃくと動いていた。それでも曽我ランコが堤上に這い登った時、彼等の姿はもはや現場から六七十米の彼方にあった。人気のない堤の上を、並木に見えかくれしながら、一団は不格好にがたぴしと遠ざかって行く。

「待てえっ!」

 曽我ランコは板裏草履をつっかけ、走り出そうとしたが、すでに及ばぬとあきらめたらしく、口惜しげにじだんだを踏んだ。板裏草腹の裏で砂利がぐりぐりと鳴った。その曽我ランコの姿を、水際の接骨木にしがみついたまま、栗山佐介は眼を大きく見開いて見上げていた。恐怖の一瞬が過ぎ、佐介の耳にはしゅんしゅんとはげしい耳鳴りが始まっていた。まっさおな空と目の光を背景にして、堤上にじだんだを踏む曽我ランコの黒い輪郭の動きは、なにか嘔(は)き出したくなるような醜悪な感じをただよわせていた。堤上の小径から横に切れたらしく、一団三人の後ろ姿はその時ふっとランコの視野から消滅した。ランコは足踏みを中止し、ブラウスの袖で瞼を拭いながら、栗山佐介を見おろした。天井にとりついた弱々しげな冬の蝉のように、佐介の身体はしなやかな接骨木の幹にとまっていた。そのたよりない姿を、曽我ランコは笑いに似た影を頰に貼りつかせ、しばらく見おろしていた。佐介も黙ってしがみついたまま、耳鳴りを耳に聞きながら、じっと身動きをしないでいた。

「上っておいで」

 やがて曽我ランコが、非常にやさしい、ほとんど猫撫で声にちかい声で呼びかけた。佐介はそれに応じるようにもぞもぞと左手を動かした。ランコは喜悦をこめた厭らしい声で繰り返した。

「ひとりで、上っておいで。ひとりでよ」

 

 気温はじりじりと上昇しつつあった。

 森爺と甲斐爺は相変らずつながって、巣を失った蟻のように、院内のあちこちにふらふらと歩いていた。ニラ爺たちが見当らぬので、昼飯を食う気にもならないのであった。調理室で木見婆はぶよぶよと肥った顔に汗を滲(にじ)ませて、何かぶつぶつと呟きながら、調理に手をつけたり、半開きの扉の方をじろりとにらんだりしていた。

 風通しの悪い湿った院長室の書類戸棚の中では、ニラ爺と煙爺が玉の汗を顔いっぱいに吹き出して、ぎゅっとちぢこまっていた。ニラ爺の玉の汗は、暑さのためというよりも、尿意をこらえる努力によるものであった。折しも節穴から黒須院長のがらがら声が流れ込んできた。

「今日は暑いですなあ。失礼して上衣を脱(と)らせていただきます」院長は五つの釦(ボタン)を外して、詰襟服をぐいと脱ぎ、ちぢみのシャツだけになった。そして仕舞扇で胸元をばたばたあおぎ立てながら、皆を見回した。「どうです。皆さんもお脱ぎになってはいかがですか。お互いに胸襟を開いて語り合いましょうや」

「そうだな、そうするか」

 と菓子屋がそそくさと上衣をとった。つづいてデブの食堂主。逞(たくま)しい運送屋。最後に女金貸がボレロを脱いだ。白い肉付きのいい女金貸の左腕には、大きな種痘のあとが三つずつ二列縦隊にならんでついている。上衣をとらないのは教授だけであった。教授は鼻眼鏡をかけ、蝶ネクタイをきちんとしめて澄ましこんでいた。暑いのは気温の上昇のためだけでなく、ウィスキーのせいもあったのだろう。六人が六人とも頰や額をあかく染め、中には眼がとろんとなりかかっているのもいた。オムレツ付け合わせのジャガ芋の最後の一片を、ぽいと口に放り込んで味わいながら、食堂主がひとりごとを言った。

「ふん。あのムクムク婆さん、なかなか料理が巧者なもんだな」

「そうですか」院長はいい気持で答えた。「そうでしょう」

「あの婆さん、古いのかね?」

「いや、勤め始めて二年ばかりですが、腕も確かだし、それに実直一点ばりで、わたしどもも大変重宝していますよ」

「わたしんちのコックよりもうまいかも知れんぞ」食堂主はフォークの背をべろりと嘗(な)めて、お世辞を使った。「ところでどうです。わたしんちの料理は、在院者たちに評判いいかね?」

「まあまあと言うところでしょうな」そして院長は憂わしげに眉をひそめた。「残飯そのものの味より別に、困ったことがあるんですよ」

「何だね?」

「一口に言えば、鮮度の問題です。冬の間はまだまだよろしいが、こんなに気候があたたかくなって来るとね」院長は手で空気を引っかき回すようにした。「食堂さんから朝の残飯残肴(ざんこう)が当院に運搬されてくる。それを翌目の朝まで保たしておくことは、もう気温が許さないのです。だからそれを夕食にあてる他はない。同じ事情で食堂さんの晩の残飯残看は、当院では翌朝の食卓にあらわれるということになる。それで昨日も在院者の一部が、わたしに不平を言ってきた。朝には朝飯らしい食事、夕には夕方らしい食事を食わせろってね」

「何と返事した?」

「うまくごまかして、突っぱねましたがね。すると昨朝に出したテンプラ、あれが揚げ立てじゃなかったとか、身が千切れていたとか、そんなことをてんでに言い出してきた」

「わたしんちのお客の食い残しだから仕方がない」食堂主が頰をぷうとふくらませた。「それは在院者として、ゼイタクというもんだ」

「残飯残肴を食わせられていることを、在院者たちがそろそろかんづいて来たんではないか」教授が口をはさんだ。「どういう搬入方法をとってるのかね?」

「それは俺んとこで請負(うけお)ってるんですよ」運送屋が引取った。「オート三輪で運ぶんですがね、荷台は完全被覆だから、内部は全然のぞけないようになっている」

「そのオート三輪は、直接調理場の中まで入れるようになっているんです」院長が説明を補足した。「調理室はわたしの命令で、在院者は一切オフ・リミットになっている。だから残看積みおろしの現場を、在院者は絶対に見ることは出来ない。積みおろしだけでなく調理の現状もです」

「積みおろしの現状を見ないでも、食事の内容によって、在院者がそろそろかんづくということもあり得るな」

「そうです。そうです」院長は大きくうなずいて、グラスをとり上げた。「そこがわたしの立場の辛いところです」

「院内の食事内容に」女金貸が訊ねた。「残飯残肴は何割ぐらい占めてるの?」

「約半分です。あとは院内菜園からの収穫と、若干の購入品です」そして院長は食堂主に顔をねじ向けた。「ところでこの席上で食堂さんに御相談があるのですが」

「何だね?」

「この二ヵ月、当院の財政運営の上において、残念ながら若干の赤字を出しておる。それをわたしだけの責任のように皆さんはおっしゃるが、心外なことだと思うのです。赤字打開にはこの際皆さんの協力をも是非懇請したい。まずさしあたって、食堂さんの残飯残肴の購入価格ですが――」

「高いとでもいうのか?」食堂主はきらりと眼を光らせた。「あれが相場なんだぜ」

「相場であるかも知れませんが」院長はぐっと丹田に力を入れた。「この危機を乗り切るために、も少し安くしていただきたいと思う。なにしろ食料費というものは、当院経常費の大きな部分をしめているのですから、ちょっと負けていただいただけで、ぐんと違うと思うのです。わたしはなにも在院者の味方をして、そう言っておるのではない。わたしは信念をもって言っている。食堂さん、あなたも経営者の一人でしょう。残飯を安く入れてそれで当院が黒字になれば、黒字になったことによってあなたもトクすることになるでしょう」

「それも道理だ」先ほどから眼をとろんとさせて聞いていた菓子屋が、卓をぽんと叩いた。「うまい手を考えたな」

 教授と女金貸は互いに顔を見合わせて、賛意を表する如くうなずきあった。その一座の空気を察知して、食堂主はややいきり立った。

「院長は、わ、わたしんちばかりに皺(しわ)寄せをしてくるが、そいじゃ運送屋はどうなんだ?」

「お、おれは全然実費だよ」いきなり飛び火してきたので運送屋は目を白黒させた。「おれなんか残飯運搬で、全然儲(もう)けていないんだよ。犠牲的サービスだ。ガソリン代に毛の生えた程度しか受取っていない」

「その生えた毛を剃(そ)り落していただきたいものですな」

 と院長は強気に出た。経営不振の責任を分散させることによってのみ、院長の地位は保たれる。黒須院長はとっさにそう判断したのだ。教授と女金貸はふたたび顔を見合わせ、うなずきあった。それを見て運送屋は頑張るは非と判断したらしく、直ぐに折れて出た。

「じゃいいよ。おれ、ガソリン代だけに負けとくよ。光栄ある夕陽養老院の仕事だものなあ」

 菓子屋が手をパチパチとたたいた。食堂主は渋い顔をつくり、むっと頰をふくらませた。女金貸がその食堂主にむかって、なぐさめるように言った。

「残飯なんかタダみたいなもんじゃないの。在院者たちが食べて呉れるおかげで、処理費がまるまるたすかる勘定じゃなくって?」

「そうでもねえですよ」食堂主は渋面のまま答えた。「歿飯残肴というと、豚のエサにしかならないように人は思っているが、なに、そんなもんじゃない。豚が食うのは塵芥です。わたしんちみたいな高級食堂の残りものは、豚なんかには勿体(もったい)ないし、また当院なんかにも勿体ないぐらいですよ。あたしんちの残肴で、もりもり栄養をとって長生きされては困る、という心配もあるほどだ」

「そのかわり鮮度が落ちていますからな」院長がわらいながら言った。「どんなに高級な料理でも、古くなると味が落ちるし、栄養もなくなる」

「そうだな。それでは暫定処置として」教授が重々しく勧告した。「今頃から夏場にわたって、値段を下げることにしたらどうだね。食堂さんも、栄養や味が落ちるとあれば、仕方ないだろう」

「そんなものですかね」食堂主は面白くなさそうに答えた。「じゃ暫定的にわたしが譲歩しましょう」

 院長は大急ぎで会議録を開き、喜色を面上にみなぎらせて、残肴購入費ならびに運搬費の値下げを書き込んだ。食堂主はその院長の手付きを横目で見ながら、はき出すように言った。

「おれたちも犠牲的協力に出たんだから、院長も今いっそう経済を引きしめてもらいたいもんだな」

「さっきの報告で」運送屋が口を出した。「備品のリヤカーが破損したとのことだったが、どうして破損したんだね。気がゆるんで粗略に取り扱ったんじゃないか」

「ええ、それは」と院長は口ごもった。

「リヤカーなんてものは、よっぽどのことがなけりゃ破損しないもんだよ。おれんとこのように仕事の激しい運送屋でも、そんなことはめったにない」

「破損というのは」と女金貸。「どの程度なの?」

「なんなら俺んとこで」と運送屋。「実費で修繕してやってもいいよ」

「全壊です」と院長は腹を据(す)えて答えた。「修繕の余地はありません」

「修繕の余地がない?」食堂主が険(けわ)しい声を出した。一体どうしたんだ」

「本当のことを申し上げますが、これはわたしの手落ちでした」院長は恐縮と謹慎の意をこめて、禿頭をちょっと下げた。「当院に、韮山(にらやま)伝七という、すこしばかり頭の呆けたバカ爺さんがおりまして……」

「おい、お前のことを話してるぞ」書類戸棚の中で煙爺が、ニラ爺の脇腹を小突いてささやいた。「院長の声だぞ」ニラ爺は返事をしなかった。眼をかっと見開き、緊張して節穴をにらみつけていた。オシッコはまさに出そうだし、自分のことが話題に上っているし、緊張せざるを得ないのであった。黒須院長の説明が滔々(とうとう)と続いている。その一句々々を耳に収めながら、ニラ爺の顔はあかくなったりあおくなったり、歯を食いしばったりこめかみをビクビクさせたり、いろんな変化をした。

「沖禎介、横川省三の名前を出して、わたしはついにニラ爺を説得した」院長は得々として面々を見回した。「ニラ爺は欣然(きんぜん)としてその役目を引き受けることになりました」

「頭の呆けたバカ爺さんだと言ったが」食堂主が質問した。「そのバカ爺さんに、そんな重大な役目がつとまるかね?」

「つとまらなきゃ、ちょんとクビです。何とか名目をつけて追い出すだけです」

「院長は先刻、園内の栽培物は結局在院者の口に入るんだ、と言明しましたな」運送屋が意地悪い口調で言った。「ところが今の説明では、外部に売り出してるじゃないか」

「院内需要を充たした残りですよ」

「売上代金はちゃんと会計に繰入(くりい)れてあるだろうね」

「ええ、そ、それはもちろん」院長はどもった。「そうするつもりです」

つもりだって?」運送屋が声を高くした。「じゃ、まだやっていないのか、まさか自分のふところに……」

 その時扉が外側からほとほとと叩かれたので、運送屋は口をつぐんだ。院長が大声を出した。

「誰だ、はいれ」

 扉が開かれて、岡持を提げた木見婆がのそのそと入ってきた。彼女は無表情に卓に近づき、岡持の蓋(ふた)をあけ、皿小鉢のたぐいを並べ始めた。院長が声をかけた。

「木見婆さん。あんたの料理は皆さんのお賞(ほ)めにあずかったよ」

「うん。なかなか旨(うま)かった」

「鰻(うなぎ)なんか」と女金貸が言った。「とくに旨かったわよ。本職はだしだわ」

「ありがとうございます」と木見婆は白髪頭を下げた。

「鰻はまだ残ってるかね?」院長が訊ねた。「残ってたら、白焼きにして五人分、折詰めを頼むよ」

「かしこまりました」

「それからちょっと」と院長は声をすこし低くした。「ニラ爺さんにちょっと院長室に来るように伝えて呉れ」

「ニラ爺さん?」木見婆はぎくりとして、手にした小鉢を取り落しそうになった。

「そうだ。ニラ爺さんだ。ちょっと訊ねたいことがあるのだ」木見婆の態度に気付かず院長はつづけた。「他の爺さんに気取られないように、そっとだよ。そっと耳打ちするんだよ」

「お前のことを呼んでるぜ」煙爺がじゃけんにニラ爺の脇腹をこづき、とげとげしくささやいた。「お前、スパイだったのか?」

「スパイやない!」ニラ爺は顔を蒼白にしてささやきかえした。「院長が勝手に決めてるだけや」

「ほんとか?」

 ニラ爺は唇を嚙んだまま返事をしなかった。皿小鉢を並べ終って空の岡持をとり上げた木見婆に、院長は重ねて念を押した。

「いいか。そっとだよ。ことに遊佐爺や滝爺に気付かれないようにするんだよ。おや、木見婆さん、顔色がすこし悪いようだな。寝不足か」

「寝不足でございます」木見婆は答えた。「他に用事はございませんか」

「お前、出ないでいいのか?」煙爺がふたたびささやいた。「お前、呼び出されているんだぞ」

「出ない!」ニラ爺はささやき返した。「おれ、ここでおしっこをする。もう我慢出来ん」

「ちょっと待て!」

 煙爺はあわててごそごそと身体を動かして、ニラ爺との間隔を拡げた。ニラ爺は眼を据(す)えた。

[やぶちゃん注:「アカシヤ」これは真正のマメ目マメ科ネムノキ亜科アカシア属 Acacia ではなく(真正のアカシア類は温暖な気候でないと生育が難しく、本邦では関東以北では栽培が困難であるものが多いからである)、所謂、「ニセアカシア」、マメ科マメ亜科ハリエンジュ属ハリエンジュ Robinia pseudoacacia であると思われる。「ニセアカシア」=ハリエンジュは北アメリカ原産であるが、本邦には明治六(一八七三)年に移入され、街路樹・公園樹や砂防・土止めに植栽されているが、広範に野生化もしており、しかも面倒なことに輸入された「ハリエンジュ」(ニセアカシア)を当時は「アカシア」と称していたことから、現在でも根強く混同されているからである。例えば、「アカシアはちみつ」として販売されている蜂蜜は「ニセアカシア」(ハリエンジュ)の蜜なのである(以上は主にウィキの「ニセアカシア」に拠った)。]

梅崎春生 砂時計 26

 

     26

 

 大きな調理台を前にして、午餐会の料理をあれこれ調製しながらも、木見婆の気持はいっこうに落着いていなかった。塩をつかもうとして砂糖壺に手をつっこんだり、つまみ食いのつもりで陶器の箸置きをガリッと嚙み、あわててはき出してみたり、そんなことばかりしているので、調製はなかなかはかどらない。調理場にいるのは、木見婆ひとりであった。戸外はうらうらと天気がいいのに、調理場は完全な北向きだから、陽光のひとかけらもここには射し入って来ない。そのうすぐらい調理室で、木見婆は時折すっかり手元を留守にして、隅の米櫃(こめびつ)を横目でにらんだり、扉の方に素早い視線を走らせたりした。調理室の扉は、平常はかたく閉ざされているのに、今日ばかりはわざとなかば開かれているのだ。廊下に足音がする度に、木見婆はぽったりした瞼を引っぱり上げ、眼球をその方に、じろりと動かした。それは巣のすみにかくれて獲物を待つ蜘蛛(くも)の動作にも似ていた。扉を半開きにしてあるのは、ニラ爺が廊下を通りかかるのをつかまえるためであった。

「ほんとに、韮山(にらやま)伝七の糞爺!」

 たびたび塩と間違うので、砂糖壺をかかえて手荒く戸棚に押し込みながら、木見婆は腹立たしげにつぶやいた。

「さんざんあたしからゆすって行ったくせに、それをまた他人にべらべらとしゃべるなんて!」

 さっきの松木爺との会話以来、木見婆の気分はささくれ立ち、不安げに波打っていた。一体ニラ爺がどの程度までしゃべったのか、松木爺だけにしゃべったのか、松木爺以外の者にもしゃべったのか。それらの疑問が木見婆のいらいらに拍車をかけていた。ニラ爺が何もかもしゃべったとすれば、たちまちその噂は全寮に拡がるだろう。拡がったからには、それらはやがて院側の職員の耳にも入り、更(さら)に黒須院長の耳にも届くだろう。すると黒須院長はまっかになって激怒し、木見婆を呼びつけて大声叱咜(しった)するだろう。その想像だけでも木見婆はぞっと身慄いが出る。三十も歳下の院長を、木見婆はひどく怖がっていたのだ。[やぶちゃん注:「大声叱咜」「たいせいしった」。]

「ほんとにニラ爺の奴!」胡瓜(きゅうり)を束にしてゴシゴシ刻みながら、木見婆はふたたび押え切れずにつぶやいた。「早くとっつかまえて、きゅうきゅう絞り上げて、口止めしなくっちゃ。べらべらしゃべり回られては、あたしの身の破滅じゃないか。院長がかんかんに怒って巡査を呼んで来たら、あたしはどうしたらいいんだろう」

 木見婆は庖丁(ほうちょう)の手をハッと止め、顔を扉の方にぐいと振り向けた。廊下の方で忍びやかな足音が聞えたからだ。そして半開きの扉の間に、二つの皺(しわ)だらけの顔がぬっとあらわれた。それは木見婆の予期待望したニラ爺の顔でなく、西寮の森爺と甲斐爺の顔であった。その顔のひとつが猫撫で声で口を開いた。

「木見婆さん。入ってもいいかい?」

「入らせとくれよ」も一つの顔が言葉をそえた。「ちょっとでいいからさ」

「何の用事があるんだい」木見婆はつっけんどんに答えて、庖丁の背でまな板をとんと叩いた。「ここは院長先生の命令で、立入禁止、オフ・リミットになってんだよ。知ってるだろ」

「そりゃ知ってるけどさ」と森爺がやや哀願的に言った。「ちょっとでいいから、頼みますよ」

「立入りを禁止するなんて、水臭いじゃないか」と甲斐爺。「先代の院長の時分は、俺たち、ここに自由に出入り出来たよ。木見婆さんだって、知ってる筈じゃないか。それを今更、立入禁止だなんて――」

「何言ってんだよ。富士のお山だって、立入禁止になる世の中だよ。第一男が、用事もないのに調理室に出入りするなんて、間違いの元だよ。それとも何か用事でもあると言うのかい」

 森爺と甲斐爺は顔をつき合わせて、何かこそこそと相談をした。そして森爺が二人を代表して、手を揉(も)みながら口を切った。

「実はね、ニラ爺のことだけどね、まさか木見婆さんは……」

「ああ。ニラ爺!」

 木見婆はとたんに絶望して、両手を宙に上げ、傍の小椅子にくたくたと腰をおろした。小椅子はその重さに耐えかねて、ギギッときしんだ。木見婆は両掌で顔をおおい、ふてくされた声を出した。

「入りたけりゃ入んな。ほんとにいけすかない爺たちだよ!」

 森爺と甲斐爺はびっくりしたように、顔を見合わせた。木見婆の態度があまりにも急変したからだ。次の瞬間、森爺はにやりと顔をほころばせ、甲斐爺の耳に口を近づけた。「やはり、ニラ爺、ここにかくれてたんだよ。木見婆さんの態度で判るよ」

「こんなところにかくれるなんて、ずるいねえ」甲斐爺はささやき返した。「さあ、探そうか」

 二老人は爪さき立って、そろそろと調理室に歩み入った。甲斐爺が扉をしめた。それから二人は調理室のあちこちを歩き回り、棚をあけたり、調理台の下をのぞき込んだり、いろいろなことをした。しかしニラ爺の姿はどこにも見当らなかった。小椅子に腰かけた木見婆は、顔をおおった両掌の指の股から、二老人の動作をじろじろと観察していた。しかし木見婆の予期に反して、二老人は棚や引出しをゴトゴトとあけたりしめたりするだけで、つまみ食いをしたり食物をポケットにくすねたり、そんなことは一切やらないようなので、木見婆はついに掌を顔から引き剝がし、いぶかしげな声を出した。

「あんたたち、一体なにをしてんだね?」

「探してるんだよ」

「探してるって、何をさ」

「ニラ爺さんだよ」甲斐爺が腰を伸ばして、不審そうに木見婆を見た。一体あの爺さんたちをどこにかくしたんだい?」

「ニラ爺さんたち?」木見婆は思わず大声を出した。「どこにかくしただって?」

「そうだよ」森爺も腰を伸ばして、天井を見上げた。「まさか、天井裏にもぐり込んでやしないだろうな」

「何故ニラ爺さんたちが、天井にもぐり込むわけがあるの?」木見婆は椅子をギイと鳴らして立ち上った。「大掃除はもう一ヵ月も前に済んだじゃないか」

「誰が大掃除だと言った」甲斐爺は失笑した。「大掃除なんかであるものか。かくれんぼだよ」

「かくれんぼ?」木見婆はふたたび大声を出した。「あんたたちは、かくれんぼをやってんのかい」

「そうだよ。かくれんぼをやっては悪いのか?」

「ニラ爺さんたちがここにかくれるわけがないじゃないか!」すっかり事情が判ったので、木見婆は元気を取り戻し、かつ大いに立腹してじだんだを踏んだ。「いい歳をして、かくれんぼだなんて。粋狂(すいきょう)も休み休みにして頂戴よ!」

「でも、一時間内に探し出さねば、百円とられるんだよ」甲斐爺が口をとがらせた。一時間を過ぎると、二十分毎に五十円ずつ加算されるんだ。たまった話か」

「かくれんぼをやりたかったら、外でやっとくれ!」木見婆はなおもつづけてじだんだを踏み、その振動で胡瓜(きゅうり)が一本、調理台からころころと床にころげ落ちた。「ここは立入禁止だよ。院長先生に言いつけるわよ。こんなところにニラ爺さんをかくすわけが、あたしにあるとでも言うの」

「だって、さっきニラ爺さんの名を出したら」森爺がなおもうたがわしげな声を出した。「とたんにあんたはへたヘたと、元気がなくなったじゃないか。だからニラ爺がいると、わしらは思ったんだ」

「そうだ。そうだ」甲斐爺が冷蔵庫の把手(とって)に手をかけた。「この中かも知れないな」

「そこはムリだろう」と森爺が手で制した。「いくらニラ爺の身体が小さくても、そこには這入れないよ。第一そこだったら、ニラに煙はたちまち冷凍人間になっちまう」

「へたへたとなろうと、むくむくとなろうと、あたしの勝手だよ」木見婆は憤然ときめつけて、床(ゆか)から胡瓜を拾い上げた。「あたしもちょっとニラ爺さんに用事があるんだよ。ニラ爺さんを見付けたら、そう言っときな。あたしがカンカンになってるってね。あのおしゃべり爺!」

「ここにもいないのか」未練そうに冷蔵庫の把手から手を放しながら、甲斐爺は吐息をついた。「ここにもいないとすれば、あいつら、どこにもぐり込んでいやがるのか。メーターがどんどん上るじゃないか。困った。困ったなあ」

「困ったなあ」書類戸棚の中で、ニラ爺が何度目かの切なげな嘆息をもらした。「ほんとに進退谷(きわ)まった」

 煙爺はそれに答えず、黙然と膝を抱き、頭をしょんぼりと垂れていた。戸棚の中で、戸板の隙間や節穴から入る光線は、縞(しま)や筒となり、内部をぼうと明るくしていた。そこに一尺ほどの高さにしきつめられているのは、よれよれの古記録や古書類のたぐいであった。それから蒸れたようなかびのにおいが立ちのぼり、紙魚(しみ)かがちょろちょろと這い回っている。ニラ爺に煙爺は、それらの堆積を座蒲団がわりにして、木乃伊(みいら)の如くちょこなんとちぢこまり、苦しそうにまた憂鬱そうに眉根を寄せていた。扉の外から隙間や節穴を通して、器物のカチャカチャ触れる音や咀嚼(そしゃく)音、旨そうなものの匂いなどが、遠慮なく侵入してくるのだ。煙爺の下腹がグルルと音を立てた。

「栗山書記がまだ出て参りませんので、細部までは行き届きませんでしたが、以上が大体の今月の報告です」黒須院長は帳簿をぱたりと閉じ、一座をにこやかに見回しながら、グラスに手を伸ばした。「今月だけで見ると、あまり成績が上らないように思われるかも知れませんが、まあ当院のような事業は、いわば継続事業とでも称すべきものですから、経営者側におかれましても、長い目で見ていただきたいと思いますな」

 沈黙が来た。院長卓をかこんだ六人の男女は、そのしばらくの沈黙を、しきりと箸を動かし、またグラスを口に持って行ったりした。報告を検討するというより、咀嚼や玩味(がんみ)の方に忙がしい風なので、院長はほっとした表情でグラスを卓へ戻し、大きなハンカチを取り出してごしごしと額の汗を拭いた。陽光の加減で、室内の温度もかなり上昇していたのだ。

「これ、ピチピチしていて、おいしいわね」女高利貸がオムレツにつけ合わせた桃色トマトの一片を箸でつまみ上げた。「これ、当院で採れたの?」

「そうです」院長は莞爾(かんじ)としてうなずいた。「畠にしてみて初めて判ったんですが、ここらは実に地味(ちみ)が肥えていましてねえ、野菜栽培(さいばい)にはまったく好適の土地でしたよ」

「一年前の院長の英断が当ったというわけだね」酔いで額をうすあかくした食堂主が、同じくトマトをつまみながら口を入れた。「芝生を畠に一挙に改変するなんて、なかなかいい着眼だったよ。引っ剝(ぱ)がしたあの芝生は、いくらで売れたっけ」

「あれは上質の高麗芝(こうらいしば)でしたから」院長は帳簿をぺらぺらとめくった。フ兄えと、一坪当り百八十円でした。収入はちゃんと別途会計に繰り入れてあります」

「芝屋に売らないで、直接需要者に売ったら、もっと高値でさばけただろうねえ」運送屋が残念そうに言った。「今高麗芝の上等は、二百五十円から三百円してるよ」

「売り惜しむと時期外(はず)れになるんでねえ」と院長は弁解した。「芝生も植込みの時期があるんですよ。そこを外すと、値段もぐんとたたかれるんだ」

「で、在院者たちは」菓子屋が言った。「畠仕事に喜んで精を出しているかね。不平不満の向きも少しはあると聞いたが」

「まあどうにかやっています」院長もトマトをつまんで、べろりと口中に放り込んだ。「輪番制ですから、大した負担にはならないんですよ。しかし一部には、働いただけの報酬をよこせという声もありますが」

「今のところは無報酬というわけだね」

「そうです。園内の栽培物は、結局在院者の口に入るんですからな。それにわたしはかねがね、在院者に向って、適当な労働は長寿の秘訣だと言い聞かしてある。まったく畠仕事というやつは健康なものですからねえ」

「長寿の秘訣もいいけれど」教授がグラスを乾して口を出した。「皆が長寿を保ったら、当院としては困るじゃないか。さっきの報告によれば、今月も先月も死亡者は一人も出ていない。二ヵ月間一人も死なないなんて、当院始まってのことだよ。こんなに回転率が悪くては、とても経営は成り立たないぜ」

「そのこともわたしはいろいろ考えておりますが」院長はごまかすようにパセリをつまんでがしがしと嚙んだ。「近頃老人がなかなか死なないということは、当院だけのことでなく、世界一般、日本人全般のことでして、現に戦前にくらべると、日本人の平均寿命はぐんと伸びている。これひとえに、予防医学の発達普及、栄養剤の進歩、抗生物質の発見、生活水準の復帰、その他のいろんな原因によって、寿命がぐんぐんと伸びました。だから当院だけを問題にされると、院長の立場としても困るんですがね」

「しかし経営が成立しなきゃ、元も子もないじゃないか。僕らは慈善事業をやっているんじゃないからね」教授は気取った手付きで、鼻眼鏡の位置を正した。「どうにかしてそこを調整する必要がある。そうでないと僕は経営から手を引かざるを得ない」

「わたしも」

「おれも」

「僕も」

「わたしもよ」

 残る四人が異口同音に唱和したので、黒須院長はいささか狼狽の気配を示し、またハンカチで額をごしごし拭った。

「入所の資格年齢を、すこし引き上げてはどうですか」肥った食堂主がオムレツを引っくり返しながら提案した。「入所年齢が六十歳、払込金額が十万円。これで七十も八十も生き延びられては、とてもやっては行けませんやね。どうです。入所年齢を六十五歳ぐらいに引き上げては?」

「いっそのこと、七十歳に引き上げたらどうだね」と菓子屋。

「いや七十歳だと集まりが悪くなるだろう」と運送屋。

「空き人員に対して、入所希望者数が下回ることは、経営上面白くないよ」

「婆さんの入所を許可したら」と菓子屋。「希望者数が下回ることはないだろう」

「婆さんはダメだよ」と食堂主がむちむちと肥った手を振った。「婆さんの入所を許可すると、爺さんたちが張り切って、ボルモン分泌の機能を回復して、ますます長生きになってしまうよ。折角生命力が尽き果てる方向にむかっているのに、そんな刺戟を与えて逆行させる手はないよ」

「爺さんだけのことでなく、婆さんという奴はまったく長生きするよ」と運送屋。「女は男よりたしかに十年は長生きする。女って奴は図々しいからな」

「図々しくってお気の毒さま」女金貸が身体をくねくねさせて拗(す)ねた。「どうせ女は図々しいわよ」

「ごめん。ごめん」運送屋は頭に手をやってあやまった。「おれ、一般的な開題として発言したんだよ。気に障ったらあやまるよ」

「ではやはり中(なか)をとって、暫定的に六十五歳にしますか」

教授がぐるぐると一座を見回した。「異存ございませんね。では満場一致で、入所資格年齢の規約改正が成立しました」

 黒須院長は大急ぎで会議録を開き、規約改正の件を記入した。

「今、在院者は何人でしたかね」女金貸が院長に訊ねた。

「ええ。九十九名です」

「九十九名。半端(はんぱ)な数なのね。もうすこし詰まらないの?」

「ええ、それはとても!」院長は、大げさに掌を振った。

「わたしが着任した時は総数六十六名。つまり一部屋に二名宛でしたが、それを無理して三人一部屋にこぎつけた。人員の五割増しですな。在院者の猛反対を押し切って、わたしがこの企画を敢行し成功したことは、皆さんの記憶にも新しいことと思います」

 院長は鼻翼をうごめかして、得意げに一座を見回した。

「そういう経緯(いきさつ)でありますからして、この際一部屋の収容人員を殖やすことは、現在の段附では先ず無理でしょうな。強行すると、かえって在院者の気持を刺戟して、まずいことになるでしょう。現に在院者の一部から、寮舎増築の要求も出ています」

「寮舎増築?」菓子屋が眼を剝(む)いた。「そんな無茶な!」

「だからわたしが押えてあるのです」

「一部屋三人というと、一人当り二畳ね」と女金貸が言った。「二畳あれば充分じゃない? 爺さんはしなびているから、体積や表面積が小さいし、二畳でも広過ぎるくらいだわ。都立の養老院ではどうなってるの?」

「板橋養老院では、目下のところ、一・一畳です」院長は言いにくそうに発言した。「もっとも将来は、一・五畳にまで拡げる予定だとのことですが」

「じゃ、うちも一・五畳にしたらどう?」女金貸は食い下った。「二畳なんてぜいたく千万よ」

「将来は知らず、現在の段階では無理です」院長は頑張った。女金貸の言い分を入れて、増員を断行する自信が院長になかったのだ。「折角今のところ、一部の不良老年をのぞいて在院者の大部分は、わたしをすっかり信頼し、かつ心服している。これは大切なことですからな。院内行政は在院者の信頼なくしては出来ません。わたしが在院者の信頼をなくすと、かえってあなた方の損になりますよ。わたしの立場にもなってみて下さい」

「それもそうだな」教授がグラスをなめながら、ややおだやかな口を利いた。「院長としては、あくまで在院者の味方だというゼスチュアを見せて置く必要があるだろうな」「そうです。そうです」院長は理解者を得て、喜ばしげに合点々々をした。「そこらのかね合いややりくりが、とてもむつかしいのです」

「我が国の総理大臣、今の総理や先代の総理大臣、あの人たちのやり口を二匿徹底的に研究してみるんだな。なあ、院長」そして教授が空のグラスをにゅっと差出したので、院長はそれにウィスキーをどくどくと注いでやった。「ことに先代の総理大臣は、すっかり国民の代表であり味方であるようなふりをしながら、実に巧みに外国にまるまる奉仕したからな。あの巧妙な手口を是非院長も学ばんけりゃならんよ」

「そうです。そうします」

 総理大臣になぞらえられて、院長はすっかりいい気持になり、にこにこしながら自分もグラスを唇に持って行った。教授は続けた。

「とにかく何かをやろうとする場合、考えたりためらったりすることなく、先ず事実をつくってしまうんだ。それが肝要だ。いわゆる既成事実というやつだね。既成事実さえ出来れば、理屈や弁解はあとからどうにでもつくもんだ。自衛隊なんかがその一等好い例だね。その点において、一部屋三人の既成事実を強引(ごういん)につくったのは、これはまったく院長の手腕であり功績だった」

「それなら更(さら)に進めて」と女金貸。「一部屋四人の既成事実をつくったらどう?」

「それはやはりかえってまずい」と食堂主が院長の肩を持った。「そうすれば、院長は在院者の味方でなく、我々の手先だということが、ばれてしまいはしませんか」

「そうです。そうです」院長はますますにこにこしながら、自分のグラスに液体を充たした。「在院者たちは実に敏感で、猜疑(さいぎ)の念に富んでいますからねえ。うっかりしたことは出来ませんよ」

「と言って、在院者たちに感傷的な同情を持ってはいけないよ。事業に感傷は禁物だ」教授が、釘をさした。「近来学問の発達によって、有機物と無機物の差がだんだんなくなって来た。科学は有機物をも合成出来る方向に進みつつある。生命だって蛋白質(たんぱくしつ)の配列によることが判ってきたのだ。だから遠からず生命も合成されるようになるだろう。すなわち現今にあっては人間は物質だ。爺さんというのは、老朽した物質にほかならん。つまり老朽物質以外のものとして老人を考えてはならないのだ。その点において、院長はまだ若いから、老人に対して甘い考えを持っているんじゃないかね。あいつらは単に朽ち果てて行く物質に過ぎないのだよ。人間だと考えるからいけない。人間なんていう特別のものは、もはやこの宇宙には存在しないんだ」

「そう、そうです」院長はへどもどしながら答えた。「わ、わたしも大体そういう風(ふう)に、考えてはいるんですが――」

「老人は老朽物質だ。と同時に、我々は現在生動しているところの動物だ」教授の口調はだんだん講義風になってきた。「我々自身が物質であるという認識の上に立ってのみ、我々は老人を老朽物質として眺め得る。これが原子時代における新しい視角であり理念なのだ。夕陽養老院の経営もその理念の上に立てられるべきだ。いいかね、院長。僕も物質だが、君も物質だよ。物質以外の何ものでもないよ」

「わたしもだ」

「おれも」

「僕も」

「あたしも物質よ」

 面々は遅れじとそれぞれ宣言した。そして院長を含む六人の物質は、お互いに顔を見合わせ、何となくにやりと笑み交し、何となくそろってグラスを取り上げた。書類戸棚の中でニラ爺が煙爺にささやきかけた。

「むつかしい話をしてるねえ。まだ終らんのかなあ」

 空腹に比例して、耳が冴えてくるのだ。聴覚のみならず視覚や触覚や嗅覚も、しだいにするどくなってくる傾向にあった。二老人はひしとちぢこまったまま、外界の気配に感覚をとぎ澄ましていた。節穴からグラスのカチリと触れ合う音と共に、面々の声が流れ入ってきた。

「乾杯」

「乾杯」

「乾杯」

「只今の人開物質説には感服しましたな」運送屋が童顔をほころばせて教授に言った。「物質。まったくそうですな。眼からウロコが落ちたような気がしましたよ」

「わたしも昨日、街で飯を食いながら、そんなことを考えましたな」二本目のウィスキー角瓶の栓を抜きながら、院長が言った。「小さな鰻(うなぎ)屋でしたが、その調理場の傍の小部屋に、小柄な婆さんが縫物か何かしていた。その後ろ姿を見て、ああこの婆さんは死ぬために生きている、そういう感じがわたしの胸を強く打ったのです。だから我々壮者は、あらゆる手を尽して、老いたる者を死なしめて上げなくてはならない。死ぬということが彼等の生の目的ですからね。そうすることが、わたしたち壮者の責務であり、義務というものです。そうわたしは考える」

「老人というものは」と菓子屋。「死ぬために生きているのか?」

「そうです」院長は得々として大きくうなずいた。「子供は何のために生きているか。若者になるために生きている。その若者は大人になるために生きている。それと同じことですよ」

「その論法で行くと――」運送屋が面白くなさそうに、口をもごもごさせて言った。「おれたちは、爺さんになるために、生きているのかね?」

「するとあたしは」女金貸も不快そうに口を入れた。「婆さんになるために生きてるとでもいうの?」

「いや、それは」論理の盲点をつかれ、院長はへどもどして、ウィスキーの小量を卓にこぼした。「わ、わたしたちは違う。違うような気がする。わたしはただ、鰻屋の婆さんを見た時、そんなことを感じたと申し上げたかっただけです。実際あそこの鰻はおいしゅうござんしたなあ。アッハッハア」

「抽象的な話はそれくらいにして」教授は忙しげに袖をまくり、腕時計を一瞥(いちべつ)した。「今後の経営の具体的方針に、そろそろ入ろうではありませんか。今の状態では、財政はジリ貧になる一方だ。強力な政策によって、打開策を講じなくてはならないと僕は思う」

「そうです。そうです」

「お互いに忙しい身体であるからして」教授は重々しく言った。「進行もてきぱきと願いましょう。院長。もう一杯、ウィスキーを呉れえ」

[やぶちゃん注:「富士のお山だって、立入禁止になる世の中だよ」種々調べて見たが、本作初出(『群像』昭和二九(一九五四)年八月号から翌年七月号連載)以前に富士山が全面入山禁止となった事実は見当たらない。充分な計画や装備がされていない夏山期間以外の富士登山は禁止とされている(但し、法的規制ではない)。但し、この頃から、恐らくは、富士の登山に最適な夏山期間(一般的に本邦の登山総体には夏季登山という認識があり、概ね七月上旬から九月上旬を指す)外の、高高度であるために登山用の重装備と熟練した登山技術を持たないと極めて危険な厳冬期(富士の場合は概ね十二月後半から三月一杯)は、仮に経験者であってさえも山頂は目指すべきではないと山屋の間でも常識として認識されており(昨年二〇一九年十二月一日からは十二月一日から三月三十一日までの期間の富士山の三千メートル以上の登山では登山届が義務化されている)、そうした保全認識や入山規制及び立入禁止区域の指定などを、木見婆さんは山登りという境界や占有利権者がいないはずの自然の日本一の「富士のお山だって」「立入禁止」という謂いとなったものであろう。富士演習場の米軍摂取は場所が場所で、それを謂っているというのは無理がある。

「じだんだを踏んだ」「地団太」の意味は怒ったり悔しがったりして、激しく足を踏み鳴らすこと。「地団太」「地団駄」などと漢字を当てるが、本来は、鍛冶に用いる足で踏んで送風する方式の大きな鞴(ふいご)を指す「地蹈鞴(じたたら)」の音変化で、転じて、怒ったり悔しがったりして、足で地を何回も踏みつけることを言うようになった。

「進退谷(きわ)まった」この「谷」は動詞で「窮(きわ)まる・行き詰まる」の意で、流れを遡って谷にぶつかってしまえば、それ以上進めずに窮まってしまうことから、後へも先へも行けぬ意となったもの。原拠は「詩経」の「大雅」に所収する「桑柔」という治世の乱れを嘆く詩篇の一節、「人亦有言 進退維谷」(人 亦た言へること有り/進退 維(こ)れ 谷(きは)まれり)に基づく。

「先代の総理大臣」吉田茂。第五次吉田内閣は昭和二八(一九五三)年五月二十一日から昭和二九(一九五四)年十二月十日であるが、第一次(昭和二三(一九四八)年十月十五日就任)から連続しており、通算二千六百十六日も在任した。本章の初出は既に昭和三〇(一九五五)年になってからのものと推定される。

「自衛隊なんかがその一等好い例だね」昭和二九(一九五四)年七月一日、吉田茂は保安庁と保安隊を防衛庁と自衛隊に改組させ、野党が自衛隊は軍隊であるとして違憲と追及した際には彼は「軍隊という定義にもよりますが、これにいわゆる戦力がないことは明らかであります」と答弁している(「自衛隊法」及び「防衛庁設置法」の公布は同年六月九日で、七月一日は両法の施行日)。]

今日――Kはお嬢さんへの切ない恋情を先生に告白する――

 其内年が暮れて春になりました。ある日奥さんがKに歌留多(かるた)を遣るから誰か友達を連れて來ないかと云つた事があります。するとKはすぐ友達なぞは一人もないと答へたので、奥さんは驚ろいてしまひました。成程Kに友達といふ程の友達は一人もなかつたのです。往來で會つた時挨拶をする位(くらゐ)のものは多少ありましたが、それ等だつて決して歌留多などを取る柄ではなかつたのです。奥さんはそれぢや私の知つたものでも呼んで來たら何うかと云ひ直しましたが、私も生憎そんな陽氣な遊びをする心持になれないので、好(よ)い加減な生返事をしたなり、打ち遣つて置きました。所が晩になつてKと私はとう/\御孃さんに引つ張り出されてしまひました。客も誰も來ないのに、内々(うちうぢ)の小人數(こにんず)丈で取らうといふ歌留多ですから頗る靜なものでした。其上斯ういふ遊技を遣り付けないKは、丸で懷手をしてゐる人と同樣でした。私はKに一體百人一首の歌を知つてゐるのかと尋ねました。Kは能く知らないと答へました。私の言葉を聞いた御孃さんは、大方Kを輕蔑するとでも取つたのでせう。それから眼に立つやうにKの加勢をし出しました。仕舞には二人が殆ど組になつて私に當るといふ有樣になつて來ました。私は相手次第では喧嘩を始めたかも知れなかつたのです。幸ひにKの態度は少しも最初と變りませんでした。彼の何處にも得意らしい樣子を認めなかつた私は、無事に其塲を切り上げる事が出來ました。

 それから二三日經つた後(のち)の事でしたらう、奥さんと御孃さんは朝から市ケ谷にゐる親類の所へ行くと云つて宅を出ました。Kも私もまだ學校の始まらない頃でしたから、留守居同樣あとに殘つてゐました。私は書物を讀むのも散步に出るのも厭だつたので、たゞ漠然と火鉢(ひはち)の緣に肱(ひじ)を載せて凝(じつ)と顋(あご)を支へたなり考へてゐました。隣の室にゐるKも一向音を立てませんでした。双方とも居るのだか居ないのだか分らない位靜でした。尤も斯ういふ事は、二人の間柄として別に珍らしくも何ともなかつたのですから、私は別段それを氣にも留めませんでした。

 十時頃になつて、Kは不意に仕切の襖を開けて私と顏を見合せました。彼は敷居の上に立つた儘、私に何を考へてゐると聞きました。私はもとより何も考へてゐなかつたのです。もし考へてゐたとすれば、何時もの通り御孃さんが問題だつたかも知れません。其御孃さんには無論奥さんも食付(くつつ)いてゐますが、近頃ではK自身が切り離すべからざる人のやうに、私の頭の中をぐるぐる回つて、此問題を複雜にしてゐるのです。Kと顏を見合せた私は、今迄朧氣(おぼろげ)に彼を一種の邪魔ものゝ如く意識してゐながら、明らかに左右と答へる譯に行かなかつたのです。私は依然として彼の顏を見て默つてゐました。するとKの方からつか/\と私の座敷へ入つて來て、私のあたつてゐる火鉢(ひはち)の前に坐りました。私はすぐ兩肱(りやうびず)を火鉢(ひはち)の縁から取り除けて、心持それをKの方へ押し遣るやうにしました。

 Kは何時もに似合はない話を始めました。奥さんと御孃さんは市ケ谷の何處へ行つたのだらうと云ふのです。私は大方叔母さんの所だらうと答へました。Kは其叔母さんは何だと又聞きます。私は矢張り軍人の細君だと敎へて遣りました。すると女の年始は大抵十五日過だのに、何故そんなに早く出掛けたのだらうと質問するのです。私は何故だか知らないと挨拶するより外に仕方がありませんでした。

(以上、『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月21日(火曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第八十九回より。太字は私が附した)

 「Kは中々奥さんと御孃さんの話を己(や)めませんでした。仕舞には私も答へられないやうな立ち入つた事迄聞くのです。私は面倒(めんたう)よりも不思議の感に打たれました。以前私の方から二人を問題にして話しかけた時の彼を思ひ出すと、私は何うしても彼の調子の變つてゐる所に氣が付かずにはゐられないのです。私はとう/\何故今日に限つてそんな事ばかり云ふのかと彼に尋ねました。其時彼は突然默りました。然し私は彼の結んだ口元の肉が顫(ふる)へるやうに動いてゐるのを注視しました。彼は元來無口な男でした。平生(へいせい)から何か云はうとすると、云ふ前に能く口のあたりをもぐ/\させる癖がありました。彼の唇がわざと彼の意志に反抗するやうに容易(たやす)く開(あ)かない所に、彼の言葉の重みも籠つてゐたのでせう。一旦聲が口を破つて出るとなると、其聲には普通の人よりも倍の强い力がありました。

 彼の口元を一寸眺めた時、私はまた何か出て來るなとすぐ疳付(かんづ)いたのですが、それが果して何の準備なのか、私の豫覺は丸でなかつたのです。だから驚ろいたのです。彼の重々しい口から、彼の御孃さんに對する切ない戀を打ち明けられた時の私を想像して見て下さい。私は彼の魔法棒(まほふぼう)のために一度に化石されたやうなものです。口をもぐ/\させる働さへ、私にはなくなつて仕舞つたのです。

 其時の私は恐ろしさの塊りと云ひませうか、又は苦しさの塊りと云ひませうか、何しろ一つの塊りでした。石か鐵のやうに頭から足の先までが急に固くなつたのです。呼吸をする彈力性さへ失はれた位(くらゐ)に堅くなつたのです。幸ひな事に其狀態は長く續きませんでした。私は一瞬間の後(のち)に、また人間らしい氣分を取り戻しました。さうして、すぐ失策(しま)つたと思ひました。先(せん)を越されたなと思ひました。

 然し其先を何うしやうといふ分別は丸で起りません。恐らく起る丈の餘裕がなかつたのでせう。私は腋の下から出る氣味のわるい汗が襯衣(しやつ)に滲み透るのを凝と我慢して動かずにゐました。Kは其間何時もの通り重い口を切つては、ぽつり/\と自分の心を打ち明けて行きます。私は苦しくつて堪りませんでした。恐らく其苦しさは、大きな廣告のやうに、私の顏の上に判然りした字で貼り付けられてあつたらうと私は思ふのです。いくらKでも其處に氣の付かない筈はないのですが、彼は又彼で、自分の事に一切を集中してゐるから、私の表情などに注意する暇(ひま)がなかつたのでせう。彼の自白は最初から最後まで同じ調子で貫ぬいてゐました。重くて鈍い代りに、とても容易な事では動かせないといふ感じを私に與へたのです。私の心は半分其自白を聞いてゐながら、半分何うしやう/\といふ念に絕えず搔き亂されてゐましたから、細かい點になると殆ど耳へ入らないと同樣でしたが、それでも彼の口に出す言葉の調子だけは强く胸に響きました。そのために私は前いつた苦痛ばかりでなく、ときには一種の恐ろしさを感ずるやうになつたのです。つまり相手は自分より强いのだといふ恐怖の念が萌し始めたのです。

 Kの話が一通り濟んだ時、私は何とも云ふ事が出來ませんでした。此方も彼の前に同じ意味の自白をしたものだらうか、夫とも打ち明けずにゐる方が得策だらうか、私はそんな利害を考へて默つてゐたのではありません。たゞ何事も云へなかつたのです。又云ふ氣にもならなかつたのです。

 午食(ひるめし)の時、Kと私は向ひ合せに席を占めました。下女に給仕をして貰つて、私はいつにない不味い飯を濟ませました。二人は食事中も殆ど口を利きませんでした。奥さんと御孃さんは何時歸るのだか分りませんでした。

『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月22日(水曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第九十回の総て。太字下線は私が附した)

   *

私は、意外なことに、若き日に読んだ折り、この最後の最後の上辺だけの日常のシークエンスを脳裡に再現して、そこに激しい強い衝撃を受けたことを思い出す。この昼飯のシーンのカット・バックに、私は、名状しがたい痛烈な悲しみを感じたのである……

2020/07/21

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 去来 五 / 去来~了

 

        

 

 去来とその郷貫(きょうかん)たる長崎とについては自(おのづか)ら専門研究家の手に俟たねばならぬものが多い。長崎帰省の如きも何度かあったことと思うが、句の上においてそれが著しく目につくのは元禄十二年[やぶちゃん注:一六九九年。]以後である。

   長崎立春
    幼ころ此浦を出四十の後春をむかへて
    みやこを古郷となす

 うぶすなにあまへて旅ぞ花の春 去来(小弓誹諧)

[やぶちゃん注:「郷貫」「貫」は「本貫地(ほんがんち)」などと使うように「戸籍」の意。本籍或いは郷里のこと。

「幼ころ」は「をさなきころ」、「出」は「いで」、「後」は「のち」、「古郷」は「ふるさと」。「うぶすな」ここは生まれた土地の守り神の意の「産土神(うぶすながみ)」を通わせながら、「その人の生まれた土地・生地」の意。「小弓誹諧」「小弓誹諧集」。東鷲編。元禄十二年刊。]

   長崎にて

 浦人を寐せて海見る月夜かな  去来(誹諧曾我)

[やぶちゃん注:「寐せて」「ねせて」であろう。「ねかせて」では字余りの弛みが厭だ。「誹諧曾我」白雪編。元禄十二年自序。]

   崎陽に旅寝の比

 故郷も今はかり寝や渡鳥    同(けふの昔)

[やぶちゃん注:「崎陽」は「きよう」で長崎の異名。「比」は「ころ」。]

   長崎のうらに旅ねせし年

 とし波のくゞりて行や足のした 同(青蓮)

[やぶちゃん注:上五は寄る年波を匂わせた諧謔。当時(元禄十二年で)、去来数え四十九。]

   長崎にて

 海を見る目つきも出ず花の空  同

[やぶちゃん注:花の春の駘蕩たる空(陸)景色の方にどうしても目移りがしてしまい、故郷の懐かしい海本来の美景に目が向かぬというのであろう。]

 この帰省は恐らく元禄十一年、即ち『梟日記』に支考との応酬があった時であろう。秋の句の多いことから推して、「この人は父母の墓ありて此秋の玉祭(たままつり)せむとおもへるなるべし」という支考の言葉は首肯出来るが、同じく諸書に散見する九州方面の句も、やはりこの時の作と思われる。

[やぶちゃん注:「梟日記」は各務支考が元禄一一(一六九八)年四月二十日に難波津を門出した西国旅行の俳文。長崎七月九日に着き、二日後の十一日に、思わずも京から下向してきた去来に逢う。「四」に以下の条が概ね出ているのであるが、どうも新字が気に入らない。今回は国立国会図書館デジタルコレクションの大正一五(一九二六)年蕉門珍書百種刊行会刊「蕉門珍書百種 第十編」の当該部を視認して二日分のそれを正字で電子化しておく(踊り字は「〱」は「々」に代えた。字配りは再現していない。句読点と濁点を補った)。

   *

十一日

此日、洛の去來、きたる。人々、おどろく。この人は父母の墓ありて、此秋の玉祭せむとおもへるなるべし。此日こゝに會して、おもひがけぬ事のいとめづらしければ、

 萩咲て便あたらしみやこ人

牡年・魯町は骨肉の間にして、卯七・素行はそのゆかりの人にてぞおはしける。この外の人も入つどひて、丈草はいかに髮や長からん。正秀はいかにたちつけ着る秋やきぬらん。野明はいかに野童はいかに、爲有が梅ぼしの花は野夫にして野ならず。落柿舍の秋は腰張へげて、月影いるゝ槇の戶にやあらんと、是をとひ、かれをいぶかしむほどに

 そくさいの數にとはれむ嵯峨の柿   去來

   返し

 柿ぬしの野分かゝえて旅ねかな    支考

 

十二日

  牡年亭夜話

卯七曰、「今宵は先師の忌日にして、此會、此こゝろ、さらにもとめがたからん。たかく蕉門の筋骨を論し、風雅の褒貶をきかむ。そもそも先師一生の名句といふはいかに。」。答曰、「さだめがたし。時にあひ、をりにふれては、いづれかよろしく、いすれかあしからん。世に名人と上手とのふたつあるべし。名句は無念無想の間より浮て先師も我もあり、人々も又あるべし。名句のなきに有念相の人なればならし。たとへ俳諧しらぬ人も、いはゞ名句はあるべし。上手といふは霧屑をとりあつめて料理せむに、よしとあしきとのさかひありては、しめて、上手・下手の名をわくるならん。吾ともがら、先師のむねをさだめねば、名句の事はしらず。

卯七曰、「公等(キンラ)自讃の句ありや。」。曰、「自讃の句はしらず。自性の句あるべし。」。

 應々といへどたゝくや雪の門

去來

 有明にふりむきがたき寒さかな

評曰、「始の雪の門は、應とこたへて起ぬも、答をきゝてたゝくも推敲の二字、ふたゝび、世にありて、夜の雪の情つきたりといふべし。次の有明はその情幽遠にして、その姿をばいふべからず。」。

 膓に秋のしみたる熟柿かな

                      支考

 梢まで來てゐる秋のあつさかな

評曰、「始の熟柿は西瓜に似て、西瓜にあらず。西瓜は物を染て薄く、熟柿は物をそめて濃ならん。漸寒の情つきたりといふべし。次の殘暑はその情幽遠にして、その姿をばいふべからず。

されば、秋ふたつ冬ふたつ、そのさま、眞草の變化に似たれば、ならべてかく論じたる也。自讃の句は、吾、しらず。是を自性の句といふべし。先師生前の句は、お月、その光におほはれあれども、あるにはあらざらん。筋骨褒貶は沒後の論なるべし。

素行曰、「『八九間空で雨降柳哉』といふ句は、そのよそほひはしりぬ。落所、たしかならず。」。西華坊曰、「この句に物語あり。」。去來曰、「我も有。」。坊曰、「吾、まづあり。木曾塚の舊草にありて、ある人、此句をとふ。曰、『見難し。この柳は白壁の土藏の間か、檜皮ぶきのそりより、片枝うたれてさし出たるが、八、九間もそらにひろごりて、春雨の降ふらぬけしきならん』と申たれば、翁は『障子のあなたよりこなたを見おこして、さりや、大佛のあたりにて、かゝる柳を見をきたる』と申されしが、「續猿蓑」に、「春の烏の畠ほる聲」といふ脇にて、春雨の降ふらぬけしきとは、ましてさだめたる也。」。去來曰、「我はその秋の事なるべし。我別墅におはして、『此春柳の句みつあり、いづれかましたらん』とありしを、『八九間の柳、さる風情はいづこにか見侍しか』と申たれば、『そよ大佛のあたりならずや、げに』と申、翁も『そこなり』とて、わらひ給へり。」。[やぶちゃん注:以下続くが、長いのでここまでとする。リンク先で読まれたい。]

   *]

 

   園木の宿にて小姫のまだらぶしうたふを
   きゝて

 月かげに裾を染たよ浦の秋  去来(小柑子・青莚)

[やぶちゃん注:中七は「すそをそめたよ」。

「園木」は「そのぎ」であるが、不詳。或いは旧彼杵(そのぎ)宿(長崎街道宿場町)のことか。現在の長崎県東彼杵郡東彼杵町彼杵宿郷(そのぎしゅくごう)を中心とした付近か(グーグル・マップ・データ)。但し、「彼杵」を「園木」と書いたという記載は見当たらなかった。

「小姫」少女の親しみを込めた呼称。門付の唄女(うたいめ)か。

「まだらぶし」「まだら」日本海沿岸の港町に多く見られる古い民謡。瀬賀章代氏の論文『石川県輪島崎における古民謡 「まだら」の伝承について』(『歴史地理学』一九九三年九月発行・PDF)によれば(コンマを読点に代えた)、『九州佐賀県の唐津と壱岐にはさまれた壱岐水道に、馬渡(まだら)島がある』(ここ(グーグル・マップ・データ))。『「まだら」とは、この小さな島が発生の地とされる古民謡である。「まだら」はもともと船乗り唄であり、海唄であったが,起舟』(注に『船を起こす祝いの日であり、ふつうは』一月十一日に『行われる。漁師にとっては最も大切な日の一つである。この日を過ぎると漁師は初漁に出てもよいこととなる』とある)『・造船式のみならず、現在では結婚式・「建ちまい(建前)」の際にも唄われ、祝儀唄としての性格がかなり強くなっている』。『「まだら」は海上のルートによって九州から日本海沿岸を北上したと推測され、やや曲節(節まわし)が変化しているものの、明らかに「まだら」と思われる唄が、主に日本海側の各地に散在している。これらの唄を総称して、系統的に「まだら」と呼んでいる』。『「まだら」は、「めでためでたの若松様よ 枝もさかえる葉も茂る」を元唄とする。産み字』(注に『一音の母韻を引いて語るときのその音。たとえば「こそ」を「こそお」と引いて言う「お」の類』とある)『をたくさん持ち、嫋嫋(じょうじょう)とした長い節まわしが特徴であり、書けばわずかこれだけの文句を延々と唄いつなぐ。この長い節まわしが、「まだら」であるかどうかを判定する際の大きな指標となっている。あまりに長い節まわしのため、田んぼで農作業していた農民が「まだら」を唄いはじめ、牛をひいて我が家に帰り、再び田んぼへ戻り、二度目に我が家へ帰着したら、ようやく唄い終わったというエピソードもあるほどである』とある。詳しくは同論文を読まれたい。

「小柑子」「小柑子集(しょうこうじしゅう)」は野紅編。元禄十六年自跋。

「青莚」(あおむしろ)は除風編。元禄十三年刊。]

   筑前直方にて

 行秋や花にふくるゝ旅衣   同(はつたより)

[やぶちゃん注:現在の福岡県直方(のおがた)市(グーグル・マップ・データ)。]

   宰府奉納

 幾秋の白毛も神のひかりかな 同(そこの花)

[やぶちゃん注:「宰府」大宰府。「白毛」は「しらが」。「そこの花」は万子編。元禄十四年刊。]

   小倉にて七夕のひる

 七夕をよけてやたゝが舟躍り 同(泊船集)

[やぶちゃん注:「やたゝ」は「矢楯(やたて)」の音の交替形「やたた」か。軍陣の矢や鉄砲の攻撃を防ぐための防御具で、ここは船端にかける小楯であろう。七夕の日の歴史絵巻の軍船のショーがあったものか。]

   七夕は黒崎沙明にて

 うちつけに星待顔や浦の宿  同

[やぶちゃん注:「黒崎」(くろさき)「沙明」(さめい)黒崎は黒崎宿で、現在の福岡県北九州市八幡西区黒崎。洞海湾の南岸。当時の洞海湾はもっと広かった。当時、この宿の商人富田屋(関屋)沙明(富田甚左ヱ門。砂明とも)が蕉門俳人として知られていた。中七は「ほしまつかほや」。]

   田上といふ山家にて

 山家にて魚喰ふ上に早稲の飯 同

[やぶちゃん注:「田上」現在の滋賀県大津市の田上(たなかみ)地区(グーグル・マップ・データ航空写真。非常に広域で、「田上」を持つ地名が複数ある。山間部である)であろうか。]

   田上の名月

 名月や田上にせまる旅心   同(けふの昔)

[やぶちゃん注:「けふの昔」朱拙編。元禄十二(一六九九)年刊。]

   はかたにて

 五里の浜月を抱て旅寐かな  同(当座払)

[やぶちゃん注:「抱て」は「かかへて」。「当座払」(とうざはらひ)は千山編。元禄十六年自序。]

   福岡にて

 福岡や千賀もあら津も雁鱸  同(菊の道)

[やぶちゃん注:「千賀」は「ちが」、座五は「かり/すずき」。

「千賀」は「値嘉(ちが)の浦」のこと。現在の福岡県の海の古称とも、長崎県及び五島列島周辺の海の古称ともされる。

「あら津」福岡県福岡市中央区荒津(グーグル・マップ・データ)。福岡湾東南の湾奥の突先に位置する。

「雁」は「かり」と読んでいよう。広義のガン(「鴈」「雁」)は鳥綱Carinatae 亜綱Neornithes 下綱Neognathae 小綱カモ目カモ科ガン亜科 Anserinae の水鳥の中で、カモ(カモ目カモ亜目カモ科 Anatidae の仲間、或いはカモ科マガモ属 Anasより大きく、ハクチョウ(カモ科Anserinae 亜科 Cygnus 属の六種及び Coscoroba  属の一種の全七種)より小さい種群を総称する。詳しくは私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鴈(かり・がん)〔ガン〕」を参照されたい。

「鱸」は淡水魚である条鰭綱棘鰭上目スズキ目スズキ亜目スズキ科スズキ属スズキ Lateolabrax japonicus。淡水魚と私が書くのを不審に思われる方は、私の「大和本草卷之十三 魚之上 鱸 (スズキ)」の注を読まれたい。

「菊の道」紫白女(しはくじょ 生没年未詳)編。元禄一三(一七〇〇)年京都井筒屋刊。本邦初の女性による俳諧撰集として知られる。江戸前期から中期の俳人で肥前田代(佐賀県)の人。夫の寺崎一波とともに蕉門の坂本朱拙に学び、のち志太野坡に師事した。初号は糸白で、女を付けず紫白とも号する。]

   黒崎にて探題

 気づかうて渡る灘女や鱸釣  去来(旅袋集)

[やぶちゃん注:「探題」詩歌の会に於いて幾つかの題の中から籖引きのようにして取った題で詩歌を作ることを言う。座五は「すずきつり」。

「灘女」「なだめ」で海の浅瀬を歩いて渡って行く女性。海女と限定する必要はなく、海藻や貝などを漁っていると限定するのも要らぬお世話だ。まあ、漁師の妻か娘ではあろうが、何か必要があって、服をたくし上げて、一心に力強く、海歩く女を点景させるのが、私はよいと思う。というか座五こそ要らぬお世話で、私は鼻白む。

「旅袋集」「旅袋」。路健編。元禄十二年序。]

   筑前博多にて

 菊の香にもまれてねばや浜庇 同(そこの花)

[やぶちゃん注:座五は「はまびさし」。言わずもがなであるが、「新古今和歌集」(巻第四 秋歌上)の藤原定家の歌で、「三夕の歌」の一首として知られる(三六三番)、

   西行法師すゝめて百首歌よませ
   侍りけるに

 見わたせば花も紅葉もなかりけり

         浦のとまやの秋の夕暮

のインスパイアである。]

 

 宝永元年に至り、去来は甥の卯七と協力して『渡鳥集』を上梓した。巻の最初に芭蕉の「日にかゝる雲やしばしのわたりどり」を置き、続いて十九人の渡鳥の句を掲げてあるが、「渡鳥」の名の由って来るところは、長崎に帰った去来の心境、「故郷も今はかり寝や渡鳥」の一句にあるのではないかと想像する。

 『渡鳥集』の中には去来の書いた「入長崎記」[やぶちゃん注:「長崎に入るの記」。]がある。「長途に垢つける衣装の上に腰刀よこたへ、あぶつけといふ物鞍坪にくゝり付、笠まぶかに両足ふらめかし」て、「漸く弟の家にたどり入」った去来が、長崎の様子を略叙したもので、「折ふしの盆会に照り渡りたる燈籠の火影(ほかげ)」を見ては、

 見し人も孫子になりて墓参      去来

[やぶちゃん注:「孫子」「まご・こ」。座五は無論、「はかまゐり」。]

の感を深うせざるを得なかった。短いながらも引締った文章であるが、この末に「故郷も今はかり寝」の一句あるによって、元禄十一年帰省の際のものたることは明である。

[やぶちゃん注:「宝永元年」一七〇四年。

「渡鳥集」は写本が早稲田大学図書館古典総合データベースのここで読め(全篇一括のPDFはこちら)、その冒頭に「入長崎記」がある。非常に綺麗な写本で読むに苦労がない。是非、見られたい。

「あぶつけ」「鐙付」あぶみつけ)」の変化した語か。乗掛馬(のりかけうま)の両脇に付けた荷物。]

 

 去来はこの時かなり長く郷里に滞在していたらしい。前に挙げた「とし波」の句、「うぶすな」の句は、その年をここに送った消息を物語っている。「海を見る目つきも出ず花の空」の前書に「田上尼の前栽の花見にまねかれて」とあるのを見れば、花の咲く時分までとどまっていたものであろうか。『渡鳥集』にはなおいくつも収穫を存している。

[やぶちゃん注:「田上尼」(たがみのあま ?~享保四(一七一九)年)は長崎の人。箕田勝(みのだ かつ)。去来の縁者で、夫の没後、長崎近郊の田上に隠居を構えて住んでいたことから、この名がある。去来の弟牡年は彼女の養子であり、卯七は彼女の実家の甥に当たる。発句もものしており、「猿蓑」・「有磯海」などに入集している。]

 

   立山下魯町がもとにて

 山本や鳥入来る星迎へ        去来

[やぶちゃん注:「やまもとやとりいりきたるほしむかへ」。

「立山下」(たてやました)長崎県長崎市立山はここで、丘陵部が多い。その下方に去来の弟で牡年の兄の向井魯町(?~享保一二(一七二七)年:儒学者で長崎聖堂の大学頭や江戸幕府長崎奉行所の書物改役も務めた)は居を構えていたらしい。]

   先放をあくの浦に訪

 八月や潮のさはぎの山かづら     同

[やぶちゃん注:「先放」は「せんぱう(せんぽう)」で去来の友人で長崎の人。生没年未詳で詳細事蹟も不詳。「訪」は「とふ」。

「あくの浦」長崎県長崎市飽(あく)の浦町(うらまち)(グーグル・マップ・データ)。]

   牡年亭にて

 海山を覚えて後の月見かな      同

[やぶちゃん注:月夜となったが、昼の間にそこに見た海山をモノクロームの画面の中に想起しているというのであろう。]

   影照院は崎陽の辰巳に有。
   入江みぎりに廻り、小嶋山
   向に横たふ。吟友支考が
   「蕎麦にまた染かはりけん
   山畠」と聞えしは秋の比に
   や来りけん、其年の名残惜
   まんと人に誘れて

 山畑や青み残して冬構        同

[やぶちゃん注:「冬構」は「ふゆがまへ」。

「影照院」現存しない。ここは現存する長崎県長崎市鍛冶屋町にある浄土宗正覚山中道院大音寺の末庵であった影照院で、寛永一七(一六四〇)年開創であったとされる。現在、その旧影照院の煉瓦造のアーチ型山門(明治元(一八六八)年頃の制作とされる)が残っているだけである(恐らくこれ。グーグル・マップ・データのサイド・パネルの画像)。但し、ということは少なくとも明治前期までは影照院は存在したということが判る。

「辰巳」南東。

「入江みぎりに廻り」当時は長崎湾の東部分がこの辺りまで貫入していたものか。

「小嶋山」「今昔マップ」で見ると、南正面に「小嶋」(現在は複数の「小島」を含む地区に分割されている)の地名と丘陵部を見出せる(現在は宅地化が進んで、山のようには見えない)。この付近を指すと採っておく。]

   先放が別墅

 朝々の葉の働きや杜若        去来

[やぶちゃん注:「別墅」は「べつしよ(べっしょ)」別宅。別荘。「杜若」は「かきつばた」。]

   風叩が春の気色見んと
   舟さし寄けるに乗て

 鶯が人の真似るか梅ケ崎       同

[やぶちゃん注:この句、意味が今一つ腑に落ちない。「風叩」は「ふうこう」去来の俳句仲間と思われるが、不詳。「気色」は「けしき」、「寄けるに乗て」は「よせけるにのりて」。

「梅ケ崎」長崎県長崎市梅香崎町(うめがさきまち)であろう。現在は、内陸地区だが、やはりここにも長崎湾は完全にここまで貫入していたのであろう。]

 いずれにしてもこの長崎行は去来晩年の大きな出来事であり、『渡鳥集』一巻は注目すべきものたるを失わぬ。

 元禄の末から宝永の初へかけての数年ほど、蕉門の有力者が相次いで世を去ったことはあるまい。『有磯海』以来、去来とは因縁の深かった浪化上人が元禄十六年に先ず逝き、翌宝永元年には丈艸も世を去った。浪化追悼の句としては

   悼浪化君

 その時や空に花ふる野べの雪     去来

[やぶちゃん注:浪化は三十二の若さで遷化した。彼は浄土真宗の僧で、父は東本願寺十四世法主琢如であったから、花は蓮華の花に相違ない。]

の一句が伝わっているのみであるが、丈艸の訃に接しては悵然(ちょうぜん)として「丈艸誄(るい)」一篇を草している。去来が丈艸に逢ったのは、元禄十五年の十月が最後であった。「丈艸誄」の末段にはこうある。

[やぶちゃん注:「悵然」悲しみ嘆くさま。がっかりして打ちひしがれるさま。

「丈艸誄」「風俗文選(ふうぞくもんぜん)」(森川許六編の俳文選集。全十巻五冊。宝永三(一七〇六)年刊。松尾芭蕉及び蕉門俳人二十八人の俳文百十六編を集め、作者列伝を加えてある。「本朝文選」とも呼ぶ)所収。「誄」は死者の生前の功徳を讃え、哀悼の意を表することを指す語。

 以下、引用は底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。]

 

人は山を下らざるの誓ひあり。予は世にたゞよふの役ありて、久しく逢坂の関(せき)越(こゆ)る道もしらず。去々年[やぶちゃん注:「きよきよねん」。]の神無月(かんなづき)、一夜の閑をぬすみ、草庵にやどりて、さむき夜や、おもひつくれば山の上と申て[やぶちゃん注:「まうして」。]、こよひの芳話に、よろづを忘れけりと、其喜びも斜(ななめ)ならず。更行(ふけゆく)まゝに雷鳴地にひゞき、吹(ふく)風扉をはなちければ、虚室欲ㇾ夸ㇾ閑是宝。満山雷雨震寒更[やぶちゃん注:返り点のみ示した。底本の訓点を参考にしつつ、私流に訓読すると、「虛室(きよしつ)閑(しづ)かに夸(ほこ)らんと欲す 是れ 寶(たから)/滿山の雷雨 寒更に震(ふる)ふ」。]と、興し出(いで)られ、笑ひ明してわかれぬ。身の上を啼(なく)からす哉(かな)ときこえし、雪気(ゆきげ)の空もふたゝび行[やぶちゃん注:「ゆき」。]めぐり、今むなしき名のみ残りける。凡(およそ)十年のわらひは、三年のうらみに化し、其恨(うらみ)は百年のかなしみを生ず。をしみても猶名残をしく、此一句を手向(たむけ)て、来(こ)しかた行末を語り侍るのみ。

  なき名きく春や三とせの生別(いきわか)れ

[やぶちゃん注:「人は山を下らざるの誓ひあり」丈草のそれを指す。彼は膳所近傍の龍ヶ岡に仏幻庵を結び、孤独の生涯を終えた。

「予は世にたゞよふの役ありて」私(去来自身)は世間に絡む仕事があって。しかし、具体に浪人になって後に何をしていたものか、不明。確かに親族から金銭的援助を受けて平然としているような男ではないから、何か、仕事をしていたのであろう。その仕事、何となく気になる。

「さむき夜や、おもひつくれば山の上」これは発句であるから読点はいらない。「おもひつくれば」は「考えて見れば」の意。この丈草殿の草庵は山の上にあるのだから、寒いのは当たり前という、駄句である。

「芳話」は「はうわ(ほうわ)」で「楽しい話」の意。

「虚室欲ㇾ夸ㇾ閑是宝。満山雷雨震寒更」「何もない部屋にいることが、これ、私の誇りであり(所謂、「無一物即無尽蔵」)、閑寂こそ、これ、私の宝である。一山総てに雷雨が襲って、寒い夜更けの全山を震わせている」の意。後半部は謂わば、禅の公案を模したものと私は読む。

「身の上を啼(なく)からす哉(かな)」丈草の句の一部。

 雪曇り身の上を啼く烏かな

が正格。

「凡(およそ)十年のわらひは」小学館「日本古典文学全集 近世俳句俳文集」の松尾靖秋氏の注に、『丈草は元禄十七年二月二十四日四十三歳で没したのだから、去来と面会したのが落柿舎に芭蕉をたずねた元禄四年とすれば、それから死没の三年前(去々年の神無月)の歓談まではおよそ十年間となる』とある。

「三年のうらみに化し」同前で、『一昨年の十月から三年間会わなかったことをさす』とある。「うらみ」は言わずもがなであるが、丈草を訪ねようしないかった去来自身への去来の恨みである。

「其恨は百年のかなしみを生ず。をしみても猶名残をしく」白居易の「長恨歌」の最終シークエンスを意識したコーダであることは言うまでもなかろう。]

 

 芭蕉歿後、去来が最も志を同じゅうしたのは丈艸であったろう。芭蕉に参する年代もやや遅く、年齢も去来よりは大分下であったが、「此僧此道にすゝみ学ばゝ、人の上にたゝむ事、月を越べからず」という芭蕉の眼識に誤はなかった。去来が丈艸を悼む情の強かったのは、単にその句が秀抜なるがためのみではない。その人物において、道を楽しむ態度において、いわゆる群雄と選を異にするものがあったからである。

[やぶちゃん注:「此僧此道にすゝみ学ばゝ、人の上にたゝむ事、月を越べからず」やはり去来の「丈艸誄」の一節。

   *

先師の言(ことば)に、「此僧此道にすゝみ學ばゞ、人の上にたゝむ事、月を越べからず」とのたまへり。其下地(したぢ)[やぶちゃん注:素質。]のうるはしき事、うらやむべし。然れども、性(しやう)くるしみ學ぶ事を好まず、感ありて吟じ、人ありて談じ、常は此事打わすれたるが如し。

   *

「選を異にする」「せんをことにする」。別の部類に属する。]

 

 丈艸が亡くなったのは二月の末である。涙を揮って斯人(しじん)のために誄(るい)を草した去来が、その年のうちにまた後を逐うて世を去ろうとは、固より彼自身も思いがけなかったに相違ない。蕉門の柱石は相次いで倒れた。剛復(ごうふく)なる許六をして「いかなる蕉門滅亡の月日にやありけむ、去年の冬は、中越(ちゆうえつ)の院家[やぶちゃん注:「ゐんげ」。]薨(こう)じ給ひぬ。ことし衣更著(きさらぎ)、丈艸卒(しゆつ)す。秋九月此(この)郎[やぶちゃん注:「らう」。]去(さつ)て、手もぎ足もぎの思ひをさせて、人の腸(はらわた)を断(たた)せけるぞや。猶生き残りたる十大弟子の中にも、世のたすけとなりがたきもあるべし。其人かの人と、かへまくほしと思ふ方も有べし。従来の因縁ふかきえにしありて、しかも同じ痢疾(りしつ)のやまひをうけて、共に終りをとげり」と浩歎(こうたん)せしめたのを見ても、如何に去来の死が蕉門に取って大きな損失であったかがわかる。享年は五十三であった。

[やぶちゃん注:以上の引用は「風俗文選」所収の森川許六自身の手になる「去來誄」の一節。こちらのPDFがよい(全50コマの内の「10」コマ目から。引用部は「11」コマ目から)。

「剛復」度量が大きく、こせこせしないこと。大胆でもの怖じしないこと。太っ腹。

「去年の冬は、中越の院家薨じ給ひぬ」は先に出た浪化の逝去を指す。彼は越中国井波瑞泉寺の住職であったが、京との間を頻りに往来した。「院家」はここでは単に「大きな寺院」の意。彼が没したのは元禄十六年十月九日(グレゴリオ暦一七〇三年十一月十七日)であった。翌元禄十七年は三月十三日に宝永に改元し、去来はその宝永元年九月十日(一七〇四年十月八日)に没した。なお、丈草は元禄十七年二月二十四日(一七〇四年三月二十九日)であった。

「此郎」去来を指す。「郞」は男性の意。

「痢疾」通常は赤痢を指す。ただ、俳人の死因というのは何を見ても、何故か載っていないことが多く、浪化・丈草・去来の死因も特定出来なかった。これが正しい(三人ともに赤痢が死因)とすれば、知られていない事実と言えよう。

「此郎」去来を指す。「郞」は男性の意。]

 

 許六の文中にある「中越の院家」は即ち浪化である。「同じ痢疾のやまひ」というのは芭蕉と同病であったことを指すので、芭蕉の病が急であったように、去来の病も急だったのであろう。篤実なる去来は師翁と同じ病を獲て逝くという点に、浅からざる因を感じていたかも知れない。宝永元年には丈艸、去来が相次いで逝き、宝永四年には其角、嵐雪がまた相次いで世を去っている。こういう事実の迹を見ると、そこに偶然ならざる何者かがあるように思われてならぬ。

[やぶちゃん注:芭蕉の死因は諸説あるが、食中毒・赤痢・感染性腸炎・潰瘍性大腸炎辺りが推定されている。]

 

 許六はまた去来の人物を評して「心ざし深くて、一とせ難波の変を聞て[やぶちゃん注:「ききて」。]、速[やぶちゃん注:「すみやか」。]にともづなを解[やぶちゃん注:「とき」。]、義仲寺の葬り[やぶちゃん注:「はうふり」。]にも、肩衣(かたぎぬ)に鋤鍬[やぶちゃん注:「すきくは」。]を携ふ。死後の城を堅ク守り、諸生をなづけ、初心をたすく。越の浪化にかはりて、有磯(ありそ)砥波(となみ)の書を選じ、崎の卯七をたすけて、渡り鳥を集む[やぶちゃん注:「あつむ」。]」といっている。悄然として鋤鍬を手にした去来の肩衣姿は目に見えるようである。去来は其角のように流通無碍(むげ)でなかったから、その俳諧における態度は正に「死後の城を堅ク守」るものであった。従ってその門葉は多くなかったが、道のために「諸生をなづけ、初心をたすく」るの労は敢て吝(おし)まなかったのであろう。芭蕉生前の『猿蓑』といい、歿後の『有磯海』『渡鳥集』といい、去来の関係した撰集がいずれも粒の揃ったものであるのは、最もよくこれを証している。去来は妄(みだり)に事を起すを好まぬ。いやしくも撰集に携わる以上は、並々ならぬ用意と苦心とを以て事に当ったものと思われる。

[やぶちゃん注:引用は、やはり許六の「去來ガ誄」の一節。

「崎」長崎。

「流通無碍」融通無碍に同じい。]

 

 門弟に富まぬ去来の身辺には不思議に俳人が輩出した。魯町、牡年、卯七、素行に加うるに、可南女(かなじょ)、千子(ちね)、田上尼(たがみのあま)の三女性を以てすれば、一族一門だけでも侮るべからざる陣容である。俳句などに縁のなさそうな兄の震軒でさえ、芭蕉の訃(ふ)に接して「冬柳かれて名ばかり残りけり」と詠んでいる位だから、一門に対する去来の感化を想うべきであろう。妹の千子は貞享年中に去来と共に伊勢参宮の旅に上り、少数ながらすぐれた句をとどめたが、元禄元年五月「もえやすく又消やすき蛍かな」の一句を形見としてこの世を去った。「手のうへにかなしく消る去蛍かな」という去来の句は、この妹を悼んだものである。千子にして今少しくながらえたならば、去来一門のみならず、元禄女流のために気を吐くに足る作品を遺したことと思われる。

[やぶちゃん注:「可南女」向井去来の妻(生没年未詳)で「とみ」と「たみ」の二女をもうけた。夫の没後は尼となって「貞従」(或いは「貞松」とも)と称した。句は宝永二(一七〇五)年刊の去来追善集「誰身(たがみ)の秋」の他、蕉門の撰集に散見される。]

 

 去来について記すべき事はなお少くない。彼の俳句観を窺うべき『去未抄』『旅寝論』その他をも一瞥するつもりであったが、あまり長くなるから他日を期するとして、今まで引用するに及ばなかった句を若干挙げて置く。

 高潮や海より暮れて梅の花     去来

   弟魯町故郷へ帰りけるに

 手をはなつ中に落ちけり朧月    同

[やぶちゃん注:「中」は「うち」。一九八九年岩波文庫刊の堀切実氏の編注になる「蕉門名家句選(下)」の評釈によれば、『弟魯町がはるばる故郷長崎へ帰ってゆくのを、早暁見送ったときの吟である。いつまでも名残を惜しんで、ずっと互いに手を握り合っていたが、やっと思い切って手を放してみると、先刻まで出ていた朧月はいつのまにかもう山の端に落ちて消えてしまっていた、というのであろう。別離を惜しんでためらう心の揺れを詠んだものであろうが、時間の経過を示すのに朧月を用いたところ、やや作意が過ぎているともいえる』とやや苦言を呈しておられる。また、「中」の読みについては、『一説には「なか」と読み、別れてゆく二人の間に、の意と解するものもある』とする。さらに、「去来抄」の「先師評」に『よると、芭蕉が「この句悪きといふにはあらず。功者にて、ただいひまぎらされたるなり」と評したこと、去来が結局これを「意到りて句到らざる句」と認めたことが伝えられる。なお、この句』は『「朧月一足づゝもわかれかな」(『炭俵』)の初案ではないかとも考えられる』とある。「去来抄」のそれは以下。

   *

  手をはなつ中に落ちけり朧月   去來

魯町に別るゝ句也。先師曰、此句惡きといふにはあらず。功者にてたゞ謂まぎらされたる句也。去來曰、いか樣にさしてなき事を、句上にてあやつりたる處有。しかれどいまだ十分に解せず。予が心中にハ一物侍れど、句上にあらハれずと見ゆ。いハゆる意到句不到也。

   *

「意到句不到也」読み下すなら、「意、到るも、句、到らざるなり」。]

 花守や白き頭をつきあはせ     同

[やぶちゃん注:「頭」は「かしら」。堀切氏の前掲書で評釈されて、『美しく咲き匂う桜花の下で、花守の老人がふたり、白髪頭をつき合わせるようにして、ひそひそとなにか話し合っている情景である。桜の花の華麗さと、花の番をする老人の沈静した白髪のすがたとの対照に、不思議な調和がある。芭蕉がこの句を「さび色よくあらはれ、悦び候」(『去来抄』)と評したゆえんである。謡曲『嵐山』に登場する花守の老夫婦からの趣向であると思われるが、ここは「花守」をそのまま老夫婦と限定しなくてもよかろう』とされ、語注で、「花守」は『花の番人。謡曲『嵐山』の冒頭部で、勅使が、吉野千本の桜が移植された嵐山の桜を見に出かけると、花守の老夫婦が花に対して礼拝しているので、そのいわれを尋ねる場面に「シテサシこれはこの嵐山の花を守る、夫婦の者にて候なり」、また「シテさん候これは嵐山の花守にて候。(下略)」とみえる。その他、謡曲『田村』にも「花守」が出てくるし、芭蕉にも「一里はみな花守の子孫かや」(『猿蓑』)の用例がある。春の季題』とあり、さらに、「去来抄」の「修行教」の『「さび」を説く条に例示されるほか、元禄六年十二月十七日付塵生宛去来書簡・同七年五月十四日付芭蕉宛去来書簡にも報じられ、さらに同八年一月二十九日付許六宛去来書簡にも「古翁の評に、さび色よくあらハれ珎重のよし、被仰下候。(下略)」と報じられている』。『なお、復本二郎氏は『芭蕉における「さび」の構造』において、先の謡曲『嵐山』をこの句の典拠として示した上で、一句は、これを一段すり上げて作したものであるとし、花守の老夫婦が白髪頭を「つき合せ」ているところに、「さび色」があらわれているのだと説いている』とある。「被仰下候」は「おほせくだされさふらふ」と読む。「去来抄」のそれは以下。

   *

野明曰、「句のさびはいかなるものにや。」。去來曰、「さびは句の色也。閑寂なるをいふにあらず。たとへば老人の甲冑を帶し、戰場にはたらき、錦繡をかざり御宴に侍りても老の姿有るがごとし。賑かなる句にも、靜(しづか)なる句にもあるもの也。今一句をあぐ。」。

  花守や白き頭をつき合せ     去來

先師曰、「寂色よく顯はれ、悅べる」と也。

   *]

 小袖ほす尼なつかしや窓の花    同

 熊野路に知人もちぬ桐の花     同

   雲とりの峠にて

 五月雨に沈むや紀伊の八庄司    同

[やぶちゃん注:「雲とりの峠」熊野那智大社(和歌山県東牟婁郡那智勝浦町)と熊野本宮大社(和歌山県田辺市本宮町本宮)とを結ぶ参詣道の途中にある「大雲取越え」「小雲取越え」の孰れかと思われる。現行では「石倉峠」「越前峠」がある。この付近と推定する(グーグル・マップ・データ航空写真。)

「八庄司」熊野八庄司(はっしょうじ)。ウィキの「熊野八庄司」によれば、『紀伊熊野の八つの庄の庄司。荘園領主の命によって雑務を掌ったが、多くは土豪として部族化した。代々「鈴木庄司」を称した藤白鈴木氏、「湯河庄司」を称した湯川氏、「野長瀬庄司」を称した野長瀬氏らが記録に見える』が、『八つの庄については諸説ある』とある。諸説はリンク先を参照されたい。]

 青柴を蚊帳にも釣るや八瀬大原   同

[やぶちゃん注:「八瀬大原」は「やせおはら」。「大原女(おおはらめ)」で知られた京都府京都市左京区北東部にある地名。比叡山の北西麓、高野川上流部に位置する。大原盆地は四方を山に囲まれており、高野川に沿って若狭街道が通っている。かつて大原村は山城国愛宕郡に属し、南隣の八瀬と併せて「八瀬大原」とも称された。古くは「おはら」と読まれ、小原とも表記された(以上はウィキの「大原(京都市)」に拠る)。この中央の南北部分の広域(グーグル・マップ・データ)。拡大すると、町名に「大原」及び「八瀬」の名を現認出来る。]

 石も木も眼に光るあつさかな    同

[やぶちゃん注:「眼」は「まなこ」。この句、私は珍しく佳句と思う。]

   数十里を一日に過て

 打たゝく駒のかしらや天の川    同

   長崎丸山にて

 いなづまやどの傾城とかり枕    同

[やぶちゃん注:「丸山」は江戸時代から長崎の花街として栄えた遊廓。現在の長崎県長崎市丸山町・寄合町(グーグル・マップ・データ)のこと。当初は鎖国令により、オランダ商館と同様、平戸の丸山から移設されたものである。堀切氏前掲書評釈に、『一瞬、ぴかりと稲妻が光った。いったいあの稲妻はどの遊女と枕をかわし、仮りの契りを結ぶのであろうか、というのである』。前書を受けて、『遊廓丸山の遊女の身の上――その夜毎に相手を変えてゆかねばならぬ愛のはかなさを、瞬時に消えてしまう稲妻のはかなさに託して詠んだものである』とある。]

   仲秋の望猶子を送葬して

 かゝる夜の月も見にけり野辺送   同

[やぶちゃん注:「望」は「もち」。座五は「のべおくり」。「仲秋」とあるから旧暦八月十五日。「猶子」本来は兄弟や親族の子などを自分の子として迎え入れた養子のことであるが、ここは広義にそれを転じた甥の子の意。堀切氏の前掲書の本句の注に、『元禄三年八月十四日に没した向井俊素のことで、翌十五日に詠まれた追悼句である』とある。]

 浅茅生やまくり手おろす虫の声   同

[やぶちゃん注:「浅茅生」は「あさぢふ」(現代仮名遣「あさじう」。珍しく底本では歴史的仮名遣で振られてある)。疎らに或いは丈低く生えた茅(ちがや:単子葉植物綱イネ目イネ科チガヤ属チガヤ Imperata cylindrica)。文学作品では荒涼とした風景を表わすことが多い。虫取りの句。鳴き声を目当てに、虫を捕まえようと、茅の中に腕捲りをし、そっと手を下したその情景を切り取ったものであろう。]

 啼鹿を椎の木間に見付たり     同

[やぶちゃん注:「なくしかをしひのこのまにみつけたり」。]

雁がねの竿になる時尚さびし     同

[やぶちゃん注:この句も私は何か惹かれる。]

墨染に眉の毛ながし冬籠り      同

一しぐれしぐれてあかし辻行燈    同

[やぶちゃん注:座五は「つじあんど」。堀切氏前掲書語注に、『辻番所などの前の街路に備えてあった木製で灯籠形の行灯』とあり、別な撰集では座五を「辻燈籠」とするとある。]

 句の年代も内容も一様ではない。しかし去来らしい気稟(きひん)の高さは、どの句をも貫いている。容易に足取の乱れぬ点において、去来は最も完成された作家の一人というを憚らぬ。

[やぶちゃん注:以上、やはり、私は去来には惹かれる句が有意に少ないことが、今回、はっきりと判った。]

梅崎春生 砂時計 24・25

 

     24

 

 二両連結の電車が、がたごとと小さな駅に入ってきて停止した。各扉からばらばらと人がはき出された。前の車両から四十がらみのでっぷり肥った食堂経営者、後の車両から色眼鏡をかけた三十四五の女高利貸がプラットホームに降り立ち、その二人は同時に相手を認め合って、あいさつを交した。

「久しぶりのいい天気ですな」

「ほんとに」女高利貸はちょっとしなをつくって答えた。

「ごみごみした町中に住んでると、時たまの郊外風景は、とても新鮮に感じられますわねえ」

 二人は並んで改札口を出た。

 五分経つと、次の電車が入ってきた。

 前の車両から四十四五の痩せた菓子製造業者が降り、後の車両から三十前後の体格のいい運送業者が降りてきた。

 運送屋が菓子製造業者を呼びとめて、にこにことあいさつをした。「やあ、いい天気だねえ」

 菓子製造業者が近くの林や樹立(こだ)ちを指差した。「どうだい。樹々の緑が眼に沁みわたるようじゃないか」

「まったくですな」運送屋が相槌を打った。「仕事でトラックで走り回ってる時は、郊外なんか道ががたがたで、なんだいと思うけれどもね」

「人生とはそんなものだよ」

 菓子製造業者が先に、それにつづいて運送屋が改札口を出た。

 五分経って、また次の電車が入ってきた。

 後尾の車両から、某大学教授と黒須院長がのそのそと、プラットホームに降りてきた。教授も院長に劣らず、つやつやと血色のいい顔をしていた。

「いつ来ても郊外はいいなあ」教授は院長をかえりみた。「人間も五十になると、自然の美しさがしみじみ判ってくるよ。君もなんだねえ、しょっちゅうこんな環境の中にいると、いくらか詩人的な心境にもなるだろう」

「そうでもありませんよ」院長は自分の頭をつるりと撫でた。「時たまやってくる人は、すぐに詩人になるらしいが、常住ここにいると、いろんなことがありましてねえ」

「そりゃそうかも知れないな」

 教授は鼻眼鏡をちょいとずり上げ、威儀を正して改札口を通り抜けた。院長がそれにつづいた。院長の切符を受取ると、若い改札係ははさみをカチャカチャ鳴らしながら、詰所に戻って行った。院長は細長くて四角な包みを左に持ち換え、教授に追いついて肩をならべた。教授が訊ねた。

「ええと、今月は何人死んだかね?」

「残念ながら一人も」黒須院長はひょいと首をすくめて、恐縮の風情(ふぜい)を見せた。「先々月八十歳の林爺さんが、風呂場のタイルで辷って死んで以来、まだ誰も死んで呉れないです。どういうわけですか。わたしとしても、いろいろ心を砕いてはいるんですが――」

「心を砕いたって仕方がない」教授は渋い顔になった。

「そういう精神主義ではダメだ。在院者の回転率を高めるには、高めるだけの具体的措置を取らねばならん。君も就任以来、割に成績を上げたが、近頃はすこしたるんで来たんじゃないか」

「たるんでいるわけじゃありませんが」院長は弱ったような声を出した。「それに関連して、先生に御相談したいことがありまして」

「なんだね?」

「ち、ちかごろ在院者の一部に」院長はぎょろぎょろ周囲を見回した。「不逞(ふてい)の思想を持った奴が発生しまして――」

「不逞の思想?」

「つ、つまり、この連中の言動を観察していると、アカじゃなかろうかと思われる節がある」院長はせかせかとウィスキーの箱入り包みを右に持ちかえた。「連中と言っても、まだ少数ですが、放って置くとこれがだんだん拡がって、取りかえしのつかぬようなことにもなりかねない。わたしとしても、今後いろいろ手を打ってみるつもりですが、なにしろアカの対策というのは初めてのことなので、何か有効な措置があれば、先生の御意見を伺いたいと思いまして」

「アカが発生した?」教授はますます渋い顔になり、はき出すように言った。「それは大変だ」

「わたしも思い悩んでいるのです」院長は教授に身をすり寄せた。そのとたんにウィスキー箱が、教授の脇腹をぐいとこづいたので、教授は思わずギュッというような声を立てた。院長はあわててあやまった。「どうも失礼」

「痛いじゃないか」教授は唇をへの字に曲げた。「その包みは何だね?」

「へへ、ウィスキーです」院長は包みをまた左へ持ちかえた。「今日の午餐会(ごさんかい)に出そうと思いまして」

「ウィスキーで僕たちをごまかそうとするんじゃあるまいな」教授は疑わしげに眼を光らせた。

「いや、いや、かりそめにもそんなこと」院長はたいこもち的な動作で、ふたたび右掌で自分の禿頭をつるりと撫で上げた。「そんなことをわたしがたくらむわけがないですよ。和(なご)やかな月例午餐会を持ちたい、その誠心誠意だけです」

「泥鰌(どじょう)を殺すには酒を用いるからな」教授は皮肉な口をきいた。「院長は近頃在院者に同情を持ち始めたんじゃないか」

「飛んでもない」院長はあわてて掌を振った。「とんでもないことですよ。先生」

 空は晴れていたけれども、赤土道はまだじとじととぬかるんでいた。ツバメが一羽、樹立ちの梢をかすめ、また道すれすれに飛んだ。その道の彼方に、やがて、夕陽養老院の屋根互やバルコニーが見えてきた。そ。のバルコニーにつづく院長室の扉のノブを、今しも食堂主の厚味のある掌が、ひねってぐいと押したところであった。

「おや。まだ誰も来ていない」食堂主はのっしのっしと院長室に足を踏み入れた。「するとわしたちが先着かな」

「黒須院長もいないのかしら」光線よけの色眼鏡を外(はず)しながら、女高利貸が言った。「バルコニーに出てみない?」

「甲斐爺たちじゃないようだよ」その院長室の書類戸棚の中で、双生の胎児のようにちぢこまってよりそっていた二人の中で、煙爺がすこしあおざめてニラ爺にささやいた。

「女の声だよ」

「弱ったなあ」くらがりの中で、額から冷汗を滲(にじ)ませながら、ニラ爺はささやき返した。「木見婆さんかな」

「木見婆じゃないよ。声が若いよ」煙爺がささやいた。

「思い切って、飛び出して逃げるか」

「ねえ。バルコニーに出てみない」女高利貸がふたたび言った。「いい眺めよ」

「わしはここでいいですよ」食堂主はソファーにどっかと腰をおろした。「近頃また肥ってきたもんだから、ちょっと歩くとすぐにくたびれる。それに、御婦人の前でなんだが、この季節にはとかく股(また)ずれの傾向がありましてねえ」

「院長の声でもないらしいよ」煙爺はささやいた。「どうする。飛び出すか」

「ここに入って」とニラ爺。「もう一時間経ったかねえ」

「まだ三十分ぐらいだよ」

「すると今飛び出すと、百円取られるぜ」

「そうだねえ。百円取られるのもシャクだねえ」

「ほんまに俺、近頃取られてばかりいるのや」ニラ爺は悲しげにささやいた。「甲斐爺にも、おれ、二百円からの借金があるのや」

「しかし、ここに止ってると、海坊主が戻って来るかも知れないよ」

「そうやねえ。弱ったねえ」

「進退谷(きわ)まったねえ。どうする?」

 その時、院長室の扉のノブが、ふたたびゴトゴトと鳴った。二人の爺さんは暗闇の中で、それぞれの姿勢でギュッと身体を固くした。扉が勢いよく開かれて、運送屋と菓子屋が入ってきた。そしてソファーの食堂主とあいさつを交した。

「やあ」

「やあ、やあ」

「また誰か入ってきたよ」煙爺が絶望的な声でささやいた。「二人のようだよ。困ったねえ」

「こんなとこに隠れたのはかるはずみやったねえ」ニラ爺は身体を小刻みに慄わせ、涙を瞼に滲ませていた。「どうしてこんなことを思い付いたか」

「思い付いたのはお前じゃないか」煙爺は小さな声できめつけた。「お前が思い付かなきゃ、こんなことになるわけないよ」

「お前だって賛成したやないか。あの時」ニラ爺もあおざめたまま小声で言い返した。「お前さえ反対すりゃ、こんなことにならん」

「ああ、院長と博士がやってくるわよ」バルコニーの上で女高利貸がかん高い声で叫んだ。「院長の禿頭が、日光の反射でピカピカと光っている。まるで新しい銅貨みたいよ」

「どれ、どれ」

 一番年若な運送屋が、元気のいい足どりでバルコニーに出て行った。野菜畠にはさまれた砂利道を、今院長と教授が何か語らいながら、玄関の方に歩いてくる。無帽の黒須院長の頭は、その角度によってキラリと日光を弾(はじ)き、またどんよりと曇ったりした。運送屋は両掌をメガホンの形にして、バルコニーから大声を出した。

「院長に博士。遅いぞう。かけ足イ!」

[やぶちゃん注:以下、一行空け。]

 

「さて」牛島康之がまぶしそうに空を見上げながら言った。「今日はどうしようかな。栗さん。お前はどうする。研究所に出勤するか?」

「しないよ」佐介も小手をかざして空を眺めた。「今日は養老院勤務だ」

「ああ、お前さんは隔日勤務だったな」牛島は忌々(いまいま)しげに爆音の方に顔を向けた。「じゃあ俺は、ロケ先に出かけることにするか。いい天気だからな。どうも今日の研究所出勤はヤバイような気がする」

 空にはヘリコプターが一台、地上百米の高度を、不恰好なかたちで、爆音を立ててのろのろと動いていた。曽我ランコも乃木七郎もそれを見上げていた。高度が低いので、操縦者のかおかたちも眺められた。乃木七郎は卓上ピアノを両手で胸にかかえていた。いや、かかえさせられていた。その乃木七郎が言った。

「あんなところから、地上の人間どもを見おろすと、さだめし愉快でしょうねえ」

「こいつはどうする?」牛島は乃木を顎でしゃくった。

「ロケ先に連れて行くわけにも行かないし」

「僕があずかるよ」佐介は答えた。「身柄を託されているのは僕だ。あんたじゃない」

[やぶちゃん注:以下、行空けが明らかに二行分ある。

 

 

 焼け残り地区の木造ペンキ塗りの二階建て。そのてっぺんの飾り屋根の中から、明るい空気をななめに切って、つばめがしきりに出たり入ったりしていた。階上の白川研究所に、今日出勤しているのは、熊井照子と玉虫老人だけであった。須貝も牛島も、佐介も鴨志田も、その姿を見せていなかった。だから熊井照子は『所報』原稿整理の仕事をほったらかして、ミッキー・スピレインの『裁くのは俺だ』に没頭していたし、玉虫老人もスクラップつくりをさぼって、入れ歯を外してそれの掃除に専念していた。陽光の惰気が部屋に満ちあふれていた。熊井照子はふっと頁から眼を放して、不安げに部屋中を見回した。

「どうしたのかしら」彼女はいぶかしげに玉虫老人に話しかけた。「もう十一時だというのに、誰も出てこないなんて、なにか凶(わる)いことでもおこったのかしら」

 王虫老人は返事をしなかった。老人は両眼をやや眇(すがめ)にして、義歯(いれば)の代赭色(たいしゃいろ)の人造歯ぐきを、小さなブラシでごしごしと熱心にみがいていた。熊井照子は腹立たしげに舌打ちをして呟(つぶ)いた。

「耳遠の爺さんにはかなわない。馬の耳に念仏だわ」

 その時、壁の鳩時計から鳩が飛び出して、調子のいい声でつづけざまに十一声啼いた。老人はふとブラシの手を休めて時計を見上げ、落着かぬげにきょときょとと周囲を見た。

「どうしたんですかな。熊井さん」老人は心配そうな声を出した。「十一時だというのに、まだ誰も出勤して来ませんな。はて、何か凶(わる)いことでもおこったのか」

 熊井照子はふんと言った顔付きで、返事をしなかった。そして机の下に手を入れて、ごそごそと靴下の具合を直した。スカートがめくれて、膝頭からすべすべした股のあたりまでがのぞけたので、玉虫老人の眼は急に一回り大きくなって、ものめずらしげに、熊井照子の手の動きや脚のかたちを眺め始めた。その視線に気付くと、彼女はあわててスカートをおろし、玉虫老人をにらみつけた。老人は首をすくめ、眼を元の大きさにして立ち上り、義歯掃除で汚れた水をとっ換えに、コップをささげ持ってとことこと部屋を出て行った。階段を降りる足音がした。階下の土地事務所ではソファーの上に、昨日と同じく中年の客が一人、紅茶をすすりながらしずかに煙草をくゆらしていた。玉虫老人の足音を聞きつけると、急に眼をするどくして、階段の方に顔を向けた。玉虫老人は無表情な顔で客の前を横切り、洗面所に水をあけ、ふたたびコップに新しい水を充たした。その背後からソファーの客が、低い押しつけるような声で、老人に話しかけた。

「爺さん。階上(うえ)の連中はどうしたんだね。今日はまだ姿を見せないようだが」

 老人は返事をしなかった。相変らず表情のない顔で、新しい水をささげ持ち、とことこと部屋を横切り、そしてその姿は階段の登り口に消えた。足音が階段を登って行った。

「あの爺。かなつんぼか」

 なんとなく得体(えたい)の知れないその客は、舌をタンと鳴らして立ち上った。ちょっと小首をかしげ、事務員たちの不審げな視線の中を、土地会社の赤塗り電話台の方へつかつかと歩み寄った。受話器をとり上げた。

[やぶちゃん注:ここで以前に須貝が疑った如く、階下の客の男は、実は白川研究所を見張っていることが判然とする。

 次は一行空け。]

 

 なんとなく得体の知れない人物たちは、ここだけでなく、あちこちの部屋の中にも、街頭にも、映両館にも、パチンコ屋にもいた。何と得体の知れない人物が近頃殖えてきたことだろう。きっとなにかが狂っているせいにちがいない。そいつらはうじょうじょと、駅の待合室にも、競輪場にも、公園の花壇にも、上水路の堤にも動いていた。上水の堤のは二人連れで、両者とも一見紳士風で、片方の紳士は胸に二眼のカメラを提(さ)げ、口にはチューインガムをしきりに嚙んでいたし、も一人の紳士は鳥打帽子をかぶり、小型の胴乱を肩にかけていた。二人は肩をならべて、至極緩慢に歩いていた。胴乱紳士は時に小腰をかがめて、ありふれた雑草の葉をむしって、胴乱の中に大事そうに収めたりした。カメラ紳士の方は蓋をあけてファインダーをのぞき込み、上水路や土堤の樹々を写す真似などをしていた。上水路の幅は十米ぐらいで、その両岸から急斜面に堤がせり上っていた。道は堤の上に、すなわち水路をはさんで平行していた。斜面にはところどころ立札が立ち、『この流れは都民の上水道になる水ですから塵埃(じんあい)その他を投げ込まないで下さい。水道局』と書いてある。流れは碾茶羊羹(ひきちゃようかん)の色のようにねっとりと濁り、木の葉や屑を乗せてかなりの早さで動いていた。対岸の三十米ほど前方を、三人の男女がぶらぶらと歩いていた。その一人の栗山佐介の眼は、斜面に生えたさまざまの灌木(かんぼく)の、葉の形や枝ぶりなどをうろうろと物色していた。曽我ランコは佐介と肩を並べ、乃木七郎はすこし先を歩いていた。乃木は卓上ピアノを脇に抱き、吟遊詩人のように胸を張って、意気揚々と漫歩していた。「あれが接骨木(にわとこ)かな。ストップ」佐介は号令をかけた。乃木七郎は立ち止った。佐介はポケットかられいのメモ用手帳を取り出した。対岸の後方でも二人の紳士が同時に立ち止り、それぞれ写真のファインダーをあけたり、雑草の葉っぱを採集したりした。佐介は手帳に眼を近づけた。渋川接骨院の薬用植物図鑑からのメモがそこにある。「ええと、葉は対生し羽状複葉と。小葉は披針形にして縁辺に鋸歯(のこぎりば)を有すか。どうもあれらしいな」

[やぶちゃん注:さても、この最後のロケーションの「上水路の堤」「この流れは都民の上水道になる水ですから塵埃その他を投げ込まないで下さい。水道局」の注意書きのあるところというのは、東京に詳しい方なら場所が比定出来るのではないかと思う(栗山佐介の住所のそばとなる)。識者の御教授を乞うものである。

「うじょうじょ」のオノマトペイアは「うじゃうじゃ」と同じ。

「碾茶羊羹の色」鶯色。

「灌木」低木。概ね、通常成人の背の高さよりも低いものを称する。

「披針形」(ひしんけい)は先の尖った平たく細長い形(笹の葉のようなもの)の植物の葉の形について言う語。]

 

     25

 

 木見婆は大きな岡持を重そうにぶら下げて、調理室から廊下に出た。中央階段に足をかけたとたん、背後から呼びかける声がした。松木爺が両手をだらりと垂らして、階段の脇に立っている。

「木見婆さん。ニラ爺はどこにいるか、あんた知らんかね」

「知らないよ」木見婆は眼をきらりと光らせ、つっかかるように答えた。「あたしゃニラ爺さんの番人じゃないよ」「そんなにつんけんしなくてもいいじゃないか」松木爺は気勢をそがれて、にやりと笑った。「なにもあんたを番人だとは言ってない。知ってるか、知ってないか、ちょいと訊ねてみただけだよ」

「だからあたしゃ、知らないと答えたんだよ」木見婆は不興げに水洟(みずばな)をしゅんとすすった。「あたしゃもう行くよ。忙しいんだから」

「ニラ爺のやつ、どこに雲隠れしたのかなあ」松木爺は横目で岡持の方を見た。「何だね、それ。おいしそうな匂いがするが」

「あんたと関係ないわ。これ院長先生の食事!」

「へえ。院長はいっぺんにそんなに沢山食べるのか。ちょいと拝見」

 松木爺は岡持へ手を伸ばそうとした。木見婆ははっと肥軀[やぶちゃん注:「ひく」。]をひいて、眼の色をたちまち険(けわ)しくした。

「よしてよ。ほんとに近頃の爺さんたちは、意地きたないったらありゃしない」

「なに。俺が意地きたない?」松木爺もむっとして眼を剝(む)いた。「なにもつまみ食いさせろとは、俺は言ってないぞ。見せろと言ってるだけだぞ」

「見せるのもおことわり!」

「何を言ってる!」松木爺は眼をつり上げた。「こう見えてもこの松木第五郎はだな、ニラ爺みたいな意地きたなとは違うぞ」

 木見婆はぎょっと身体を固くして、一歩二歩後退した。松木爺はおっかぶせるように言葉をついだ。

「昨晩あんたはニラ爺に、いろんな食べ物を呉れたらしいじゃないか。御奇特なことだ。へへ、俺は何もかも知ってるぞ」

 木見婆はぶよぶよした顔を硬化させたまま、黙って更(さら)に一歩後退した。それに応ずるように松木爺は大股に一歩踏み出した。

「俺はニラ爺とは違うから、何も呉れとは言わん!」松木爺は肩をそびやかして高圧的に出た。「その岡持の中を見せなさい!」

「厭らし!」

 木見婆はふてくされて、岡持をがたんと階段の上に置き、そっぽを向いて舌打ちをした。松木爺は手を伸ばして岡持のふたをがたがたとあけた。

「おや、四つ五つ六つ。ウナギが六人前に、オムレツが六人前」松木爺はじろりと木見婆をにらんだ。「吸物も六人前。いくら海坊主が大食いでも、吸物六人前も飲むわけがないぞ。うわばみじゃあるまいし」

「お客さんの分も一緒だよ」木見婆は上眼使いに松木爺を見て、切なげな声を出した。「ニラ爺さん、何をべらべらしゃべったの?」

「いや、べらべらというほどじゃないが」松木爺は語調をやや柔かにした。「お客というのは、誰だね。お客は五人か?」

「経営者の方たち。経営者会議なのよ」木見婆は声をひそめた。「このこと、誰にも言わないでね。院側の行事のことをあんたたちにしゃべると、あたしゃあとで院長先生からこっぴどく叱られるからさ。お願い!」

「ふん。経営者会議か」松木爺は満足げにうなずいた。

「なるほどな。今日が会議か」

「他人に絶対に言わないでよ」と、木見婆はねんを押した。「ねえ。ニラ爺さんは、どんなことをしゃべったの。どんなことをよ」

「早く二階に行かないと、料理がさめてしまうよ」松木爺は質問をはぐらかした。「ふん。ウナギにオムレッが六人前、か」

「ニラ爺がしゃべったのは、あんだにだけ?」木見婆は顔をくしゃくしゃにして、岡持の柄を握った。「あんたにだけでしょうね」

「うん。ううん」松木爺はあいまいに首を動かした。「それについては、後刻じっくりと相談しよう」

「あんただけでしょうね」木見婆はおどおどとくり返した。「あたし、夜の八時まで、調理室にいるわ。さっきのこと、ほんとに誰にもしゃべらないでね。きっとよ」

 木見婆はそして頰肉と額肉とを接近させ、眼を埋没させるような顔をして見せ、くるりとむこうを向き、手すりにすがりながら、力なく階段を登り始めた。力なげに見えたのは背後からだけで、木見婆は一歩ごとに歯ぎしりしながら、

「ニラ爺の奴。ニラ爺のやつ!」

 とにくにくしげに呟(つぶや)いていた。その後ろ姿が踊り場に消えると、松木爺は身をひるがえして廊下を小走りにあるき、東寮の曲り角まで来た。その曲り角で、松木爺は向うから曲ってきた森爺と、あやうく正面から鉢あわせをするところであった。

「あぶないじゃないか」森爺がたたらを踏みながら口をとがらせてなじった。ニラ爺たちの姿をまだ発見出来ないものだから、森爺は少しいらだっていたのだ。「廊下の角を曲る時は走っちゃいけないと、かねがね注意されてることじゃないか」

「ごめん、ごめん」常に似合わず松木爺は素直にあやまった。「つい気が急(せ)いていたもんで」

「松爺さん」傍から甲斐爺が思いあまったように口を入れた。「ニラ爺さんの所在を知らないか」

「ニラ爺?」松木爺は二人の顔をじろじろと見くらべた。

「ニラ爺じゃなければ、煙爺でもいいんだ」森爺が言葉をそえた。一体あいつら、どこに隠れやがったのか。影も形も見当らぬ」

「かくれんぼをやってるのか」松木爺はすっかり呆れ果て、かつ腹も立てた。「何たることだ。ニラ爺のやつ!」

「まったく、何たることだ」

 おしっこを怺(こら)える小児のように、森爺は両足で忙しく地だんだを踏んだ。

 木見婆は岡持を両手で提(さ)げ、院長室の扉を脚でほとほとノックした。室内から黒須院長の声がした。

「はいれ!」

 木見婆は岡持を床に置き、扉のノブを回した。院長卓を囲んで、食堂主、高利貸、菓子屋、教授、運送屋が、順々に、それぞれの姿勢で椅子に腰をおろしていた。院長はわざとらしく機嫌のいい声を出した。

「グラス六つ、持って来たか?」

「持って参りました」木見婆は岡持を卓のそばに運んだ。「料理は半分だけで、あとは直ぐ持って参ります」

「あとはゆっくりでいいよ」と院長はやさしく答えた。「料理は念入りにこさえたろうね」

「まさかあたしん店の残飯じゃあるまいな」食堂主が冗談を飛ばした。「わたしんちのなら、食い飽きてるよ」

「あれはみんな在院者に回してありますよ」一座の笑い声の中で、黒須院長は自分の額をポンと叩いた。「これは木見婆さんが腕によりをかけた、当院特別製の料理ですよ。木見婆さん。ウナギも焼いたね」

「はい」

 木見婆は皿や椀を次々に卓上に並べ始めた。その器物のカチャカチャ音が、板戸のすき間を通して、書類戸棚の中にも入ってきた。ごちゃごちゃに積まれた古書類や記録の束の中に、埃をかぶってちぢこまっている煙爺が、そっとニラ爺の耳たぶに口を寄せてささやいた。

「ウナギだってよ」

「そうらしいねえ」ニラ爺の腹がグルグルと鳴った。「おれ、おなかがすこし空いてきた」

「おれもだ」

 そして二老人はくらがりの中で、鼻をぴこぴことうごかした。板戸のすき間や節穴から、おいしそうな食べ物の匂いが、埃くさい空気の中に流れ入ってきたのだ。皿を並べ終ると、木見婆は院長の指示通りウィスキーの栓をぬいて、各自のグラスを充たして回りながら、柄にもない愛想を言った。

「こんなお婆さんのお酌ではお気に召しますまいがねえ」

「そりゃやはり若い女の方がいいね」運送屋が真面目な顔でグラスに后をつけた。「第一酒の味がちがうやね」

「じゃ若い女性でも雇い入れますかな」院長もグラスを手にしながら、すかさず口を入れた。「高峰秀子か島崎雪子みたいな美しいのをね。おい、木見婆さん。栗山書記はどこにいる?」

「栗山さんはまだ出勤して来られません」

「なに。まだ出勤して来ない?」院長の眉根がぐいとふくらんだ。「昨夜の呼出電報にも応じないし、今日も大切な会議だというのに、まだ出て来ない。一体何をしているんだろう。勤労意欲がないのかな。もしそうだとすれば、あいつはクビにするより他はないぞ」

「栗山書記って、あの頭の大きい、おかしげな男?」女高利貸がウナギをもごもご頰張りながら訊ねた。

「そうです。あんなのを雇い入れたのは、全くわたしの失敗だった」院長は演技的な大きな舌打ちをした。「いっそあれをクビにして、若い女秘書を雇い入れたいもんですな。皆さん、如何(いかが)でしょうか。女秘書は、隔日勤務でなく、常勤ですが、なにしろ女子のことですから、人件費という点では、あまり変りがないと思いますが」

「まあそれも、こちらでよく考えてみよう」と教授が渋い声で言った。「今日は俵医師はどうした?」

「只今当区は狂犬予防週間で」院長が答えた。「どうしても手が外(はず)せないと言って来ました」

「狂犬週間なら本業だから仕方がないが」菓子屋もグラスを舐(な)めた。「副業のこちらもあまりおろそかにして貰いたくないな」

「良く言い聞かせて置きましょう」そして院長は木見婆に目くばせをした。「木見婆さん。あの書棚から、会議録綴りを持ってきなさい。そしてあんたはもう下ってよろしい。適当な頃に次の料理を持ってくるように」

『書棚』という言葉が発音された時、書類戸棚の中の二老人はぎくっと身体をふるわせ、お互いを楯(たて)とするようにひしひしと寄りそい合った。しかし幸いにもそれは別の書棚のことであった。その書棚から会議録綴りをとり出し、院長の前に置くと、木見婆はぼたりと一礼して院長室を出て行った。

「なるほど。あの婆さんじゃ色気が全くないな」足音が遠のくと、食堂主が肥った身体をゆるがせて、にやにやと笑った。「院長もまだ独身だし、若い女秘書を欲しがる気持もよく判るよ。時に、この間の写真はどうしたい?」

「へ、へ、へ」と院長は照れくさげに笑った。「あれはちゃんとしまってありますよ」

「さあ、食べながらでもいいから、そろそろ会議を始めてはどうだね」教授が腕時計をちらと見て発言した。「僕は午後人に逢う予定があるんだ」

「ではそうしますか」院長はグラスを置いて、うかがうように一座を見回した。「では、今日の会議は、愉快に飲み食い、談笑裡にすすめたいと思います。栗山書記未参のため、記録はわたしがとることにしましょう。願わくは次回の経営者会議は、美しい女秘書によって記録される、そういうことになりたいもんですなあ。わっはっはあ」

[やぶちゃん注:ここで俵医師は老人たちが疑った通り、驚くべきことに医師ではなく、獣医であったことが明かされる。

「ぼたり」のオノマトペイアはママ。]

 

「なに。経営者たちが集まっている?」滝川爺がぐいと膝を乗り出した。「院長室にか。どうしてそれが判った?」「木見婆をつかまえたんだ、階段のところで」松木爺は得意げに一座を見回した。「あの婆、大きな岡持ぶら提げてやがった。そこをつかまえて、俺はうまいこと誘導尋問をしてやったんだ」

「何人集まっている?」柿本爺が訊ねた。

「院長も入れて六人らしい。実際に見たわけじゃないが、岡持の中の料理は六人前だったから。いくら経営者でも、一人で二人前食べることはなかろう」

 滝川爺はごそごそと立ち上って窓辺に行き、院長室のガラス窓を見上げた。いい天気だというのにその窓は固くとざされていた。

「会議は会議として」長老の遊佐爺が発言した。「ニラ爺はどうした。どこにいた?」

「それが見付からないんだよ」松木爺は面目なさそうに頭を垂れた。「ニラ爺は、煙爺、甲斐爺、森爺たちと、かくれんぼをやっているらしいんだ。オニの森爺と甲斐爺が、嘆いていたよ。影もかたちも見えないって」

「なに。かくれんぼだと?」遊佐爺は常にない犬声を立てて、白い眉毛をびくびく動かした。「昨晩あんなに言い聞かせてやったのに、もうかくれんぼだなんて、全く仕方のない爺さんだな。もすこし性根があるとにらんでいたが、わしの見込み違いだったかな。朽木は雕(ほ)るべからず。糞土の牆(かき)はぬるべからず。ニラ爺はついに糞土の牆であったかな」

「一体どこにもぐり込んだか」ニラ爺を発見出来なかった責めをごまかすように、松木爺は聞えよがしにひとりごとを言った。「森爺の話では、風呂場、便所にもいないし、豚小屋までしらべたけれど、いなかったらしい。平常はもそもそしてるくせに、かくれんぼなんかになると、うまく立ち回る。なにしろ困った爺さんだ」

「ふん。会議をやっているか」うるさ型の柿本爺が奥歯をかみしめながら、考え深そうに発言した。「遊佐爺さん。経営者が集会しているということだが、昨夜のあんたの発言のように、いろいろ山積した諸問題を、院長を抜きにして、いきなり経営者にぶっつけてみたらどうか。案外その方が解決が早いかも知れんぞ」

「いや、いや。それは問題だぞ」遊佐爺が答えた。「院長を抜きにして直接経営者と談合するということは、院長の懇請によって、こちらは一応撤回した。そういうことになっている。そのバランスを一挙にぶちこわすのは、まずいとわしは思う。やはりこういうことはフェアプレイで行こう」

「フェアプレイと言ったって」柿本爺が唇を曲げて抗議した。「それは両方とも紳士である場合にこそ成立するものだ。院長が果たして紳士であるかどうか――」

「判らんぞ」と窓辺の滝川爺が引き取った。「院長はおれたちにはうまいことを言うが、かげでは何を企んでいるか、判ったものではないぞ」

「そりゃそうかも知れないが」遊佐爺は一座を手で制した。「しかし一応相手を信頼しないことには、会見だの交渉だのは成立しない。だから今日、それをいっぺんにぶちこわしては、むしろわしらは不利な立場におち入ることになると思う。それにだな、いきなり経営者にぶつかっても、経営者たちがどんなことを考えているか、わしたちは判っていないから、やはり慎重に、一歩々々やっていく方がいい。せいてはことを仕損ずるとはこのことだ」

「あそこで今どんな話をしているか」滝川爺が窓から院長室の方を指差した。「そっと聞いてみたいもんだな。そうすれば、連中が何を考えているか、ハッキリ判るんだがな」

「遊佐爺さん。わしはあんたの考え方は、どうしても甘いと思う」柿本爺は直言した。「長老のあんたがそんなに甘いから、ニラ爺のような脱落者が出てくるんだ。一体ニラ爺はどこに行きゃがったんだろう」

「ほんまに弱ったねえ」

 書類戸棚の中に窮屈に閉じこめられ、身動きも出来ない状態で、ニラ爺が悲しげにささやいた。「この連中、しばらくこの部屋から、出て行きそうにもないねえ。おれ、泣きたくなってきた」

「泣いたら外に聞えるぞ」煙爺があわててニラ爺の股をつねった。「泣きたくなっただって。おれの方がよっぽど泣き出したいよ。お前のおかげで、こんなところに閉じこめられてさ」

「おれ、オシッコもしたくなったのや」ニラ爺は音を立てないように手を動かして、下腹を押えた。「どこかに便所ないか」

「戸棚の中に便所があってたまるか」煙爺が小さな声で叱りつけた。「オシッコなんてものは、その気になれば、一時間や二時間我慢出来ないわけはない。お互いに日本男児じゃないか。頼むから、辛抱してくれ。な、頼む」

[やぶちゃん注:「朽木は雕(ほ)るべからず。糞土の牆(かき)はぬるべからず」「朽木糞牆(きゅうぼくふんしょう)」「朽木糞土」「朽木之材(きゅうぼくのざい)」などと四字熟語でも言う。怠け者の譬え。手の施しようのない対象や、役に立たない無用な物を比喩するもの。掲げられたそれは逐語的には「腐った木には、到底、彫刻出来ないし、腐って崩れた土塀は、最早、上塗りが不能であるように、怠け者は教育し難いことを謂う。「朽木」は「枯れて腐った木」、「糞土の牆」は「腐ってぼろぼろになった土塀」の意。出典は「論語」の「公冶長(こうやちょう)」の以下である。

   *

宰予晝寢、子曰、朽木不可雕也、糞土之牆、不可杇也、於予與何誅、子曰、始吾於人也、聽其言而信其行、今吾於人也、聽其言而觀其行、於予與改是。

(宰予(さいよ)、晝、寝(い)ぬ。子曰く、「朽木(きうぼく)は雕(ゑ)るべからず、糞土の牆(かき)は杇(ぬ)るべからず。予に於いてか何ぞ誅(せ)めん。」と。子曰く、「始め吾(われ)人に於けるや、其の言を聽きて其の行(かう)を信ず。今、吾人に於けるや、其の言を聴きて其の行を觀る。予に於てか是れ改たむ」と。)

   *

少し語注すると、「宰予」は宰我(予は名、我は字(あざな))。魯の生まれで孔門十哲の一人として弁舌が巧みであったが、ここで見るように「論語」ではたびたび孔子から叱責を受けているトリック・スターである。「晝寢ぬ」は勉強をせずに昼寝をしていたのである。「誅めん」反語。「朽木糞牆たるお前に対しては何を叱って意味があろうか、いや、処置なしだ」の意。それ以下は畳みかけて言ったもので、そういう宰予の為体(ていたらく)を例に「当初、私は人の言説を聴いて素直にその行動もそれに従うものと信じたものだった。しかし今は、他者の言説を聞いた時には、同時にその行動を観察するようになった。それはまさに宰予、お前のお蔭でかく改めたのである」の意。二重の叱咤がきつい。]

2020/07/20

梅崎春生 砂時計 23

 

     23

 

 渋川接骨院は、駅の踏切から線路沿いにしばらく歩き、小さな自動車修繕屋から右に折れ、その小路の数えて六軒目にあった。

 普通のしもたや風(ふう)のつくりで、門をくぐって玄関の前に立つと、ガラス扉に『ほねつぎ』という字が浮き出ている。その字も古びて、周囲から黄色く褪(あ)せかけている。そのそばに大きな表札がかかっていて、『柔道整復師』『漢方和方薬師』この二つの肩書をつけた渋川丈助の名が、筆太に記されてあった。ガラス扉をあけると、とっつきの部屋が待合室になり、それにつづいた十畳敷の部屋が診療室という具合だ。煎(せん)じ薬や練り薬のにおいが何時もそこらいっぱいにただよっていた。

 午前十時、渋川丈助はその診療室にきちんと正坐し、相対した女客の足首に指を触れていた。かるく揉(も)むようにして、筋の具合をたしかめながら、重々しい声を出した。

「お名前は?」

 女客は自分の名を答えて、痛そうに自分の脚を両掌で抑えた。渋川丈助は指をおもむろに離して、悠然と顎鬚(あごひげ)をしごいた。

「かるいネンザをおこしておりまするな」

 渋川丈助の顎鬚は、長さが一尺に余る。齢のせいでもう真白になっている。この老人が町を歩くと、通行人が振り返るほど見事な鬚だ。もちろん老人は朝夕この鬚に、卵の白身など使って、丹念な手入れを怠らない。彼がこんな立派な鬚を仕立てたのは、趣味やおしゃれというよりも、職業上の要求からであった。接骨医だの漢方医などという商売は、相手を威圧し、信頼感をおこさせる必要がある。軽軽しく見られては繁昌しないのだ。それには尺余の白鬚などは、打ってつけの装置であることを彼は知っていた。渋川丈助は顔を左右に振って、その白鬚をゆさゆさと波打たせた。

「腰の筋の弱まりが、とかく足首にやってくる」渋川丈助は重々しく口を開いた。この重々しい口ぶりは職業上のものであった。その証拠にこの老人は、孫と遊ぶ時などになると、ずっとかるい若々しい声を出すのだ。「転びでもなされたかな?」

「はい」女客は神妙に答えた。「悪者にあとをつけられ、暗い夜道を走ろうとして転びまして――」

 待合室に坐って番を待つ男たちの眼が、きらりと光って女客を見た。渋川丈助は右手を伸ばし、傍の戸棚から薬箱と黒い薬壺をとりおろした。女客は膝を押えたまま、まぶしそうに顔を上げて、出窓の方に顔を向けた。午前十時の陽光が、その出窓からさんさんと射し入ってくるのだ。久しぶりの日射しだが、この天気もすぐに崩れて、曇天や雨天に立ち戻ることだろう。渋川丈助は黒壺の蓋をとりながら、女客の足首に視線を据えた。足首には足首の表情があった。足首はその形のまま羞恥と痛みを訴えていた。手当は直ぐに終った。

「いかほど?」裾をととのえながら女客は甘い声で訊ねた。

「百五十円」

 布で指を拭きながら、渋川丈助は柱の方を顎でしゃくった。鬚がしろじろと前後に揺れた。柱には郵便受けみたいな木箱がとりつけられ、診療費は患者がめいめい自分でそれに納入する仕組みになっているのだ。女客は不自由そうに立ち上り、それに百五十円を入れ、小腰をかがめ、すこしびっこを引きながら、玄関の方に出て行った。渋川丈助は待合室の方をみた。待合室の壁には貼紙がしてあり、それにはこう書いてある。『日曜祭日は休診。平日は先着十五名に限り診療。主人敬白』渋川丈助はゆったりと腕を組み、今朝診療した患者の数を胸の中で勘定してみた。先着十五名に限るというのは、老齢でそれ以上診療出来ないというわけでなく、これももっぱら職業上の効果をねらったものであった。事実、一年ほど前から十五名に制限して以来、渋川接骨院には急に来院者の数が増加したようだ。それまでは来院者は平均日に十人ぐらいだったのに、この定めを貼り出して以来、時には二十人ぐらいも押しかけてくる日がある。二十人だと五人があぶれる勘定になる。渋川老人はこのやり方を、戦争中の配給制度から考えついた。配給が制限されると、人間は急にガツガツしてくる。診療の配給制度だって同じことだ。老人は腕組みをしずかに解き、職業用の重々しい声を出した。

「次の方」

 待合室の連中はちょっと顔を見合わせ、その一人がのそのそと立ち上り、右足を引きずるようにして診療室に入ってきた。渋川丈助の前に腰をおろすと、慣れた風(ふう)にズボンをまくり上げ、そそくさと右膝を露出した。そのなま白い膝頭の格好や表情で、丈助はその膝の持主の名を直ぐに思い出した。この患者は以前にも時々やってきたことがある。右膝に弱味を持った若い男だ。

「栗山佐介さんじゃったな」渋川老人は確かめるように上目を使って、じろりとその男客の顔を見た。「また膝をやられたのかね」

「ええ」栗山佐介は膝頭を大切そうに撫で回しながら答えた。「またネンザをおこしたようです」

「あんたの右膝はもともと弱いんじゃから」渋川は両掌を伸ばしてその膝蓋をはさみつけるようにした。「せいぜい可愛がって、いたわらんけりゃならん。そうですな。ふん、やはりネンザをおこしておるようだ」

渋川丈助は指で患部をあちこち確かめるように押した。佐介は唇を嚙み、眉をぴくぴくと動かして、その痛みをこらえた。

「い、いたわってはいるんですが、昨晩、つい取組み合いの格闘をやりまして」

「取組み合い?」老人はじろりと佐介を睨み上げた。「格闘なんか、膝のためにはもっともよろしくないですな。で、相手は? 相手はどんな悪者でしたじゃ?」

 待合室の空火鉢のそばで、抜きかけていた鼻毛の手を休め、牛島康之がぎろりと眼を光らせた。佐介は待合室をちらと振り返り、直ぐに顔を元に戻して、困った顔で困った声を出した。「ワ、ワルモノというほどの奴、いや、ほどの男じゃありませんが、なにしろ力の強い人物で――」

「悪者という奴は、とかく御婦人のあとをつけたり、飛びかかったりするものじゃ」ふたたび棚から別の練り薬の容器を取りおろしながら、老人はもったいらしく言い聞かせた。「だから近頃このあたりでも、ネンザや打ち身の患者が急に増加しましたな。用心せんけりゃならん」

 齢の割にはつやつやした渋川老人の指が容器の蓋を取った。蓋を取った瞬間その練り薬から、薄荷(はっか)、樟脳(しょうのう)、蕃椒(とうがらし)などの入り混った、刺戟性のにおいがゆらゆらと発散した。渋川は竹のへらを使って、それを器用に和紙に伸ばし、いきなりべたりと佐介の膝に貼りつけた。佐介はびくっと神経的に脚を慄わせ、かすかな咽喉(のど)音を立てた。つめたかったのだ。渋川老人はそれを無視して、慣れた手付きでその上に繃帯(ほうたい)をぐるぐると巻き始めた。(やはり夕陽養老院の爺さんたちとは違うようだな)渋川の自信ありげな物腰や動作を観察しながら佐介は考えた。(やはり自分の力で生きて行くやつと、そうでないやつとは、たいへんに違うものだ)佐介は老人の手さばきから視線をはなし、明るい出窓の方に移しながら、ぼんやりした声で訊ねた。

「自宅療法としては、どうするのが一番いいでしょう?」

「湿布じゃな」巻き上げた繃帯に小さな留め金をかけながら老人は答えた。「アオキ、忍冬(すいかずら)、接骨木(にわとこ)、この三つの枝や実や葉を煎(せん)じて湿布する。これが一番ですな」

「アオキ?」

「そら、庭木によくあるじゃろう。赤い楕円形(だえんけい)の実のなるやつ」老人は非現をしごいた。「忍冬、接骨木は上水路の堤にいくらでも生えている。あの堤は水道局のものだが、少少なら折り取ってもかまわんじゃろう。さあ、次の方」

 待合室の三人はちょっと顔を見合わせ、曽我ランコが立ち上って、爪先立って診療室に入ってきた。じゅうたんがよごれてくろずんでいたからだ。曽我ランコは佐介と入れ替わりに座蒲団に坐り込み、かるい声で言った。

「あたし、打ち身よ。なおせて」

「打ち身はわたしの得意ですじゃ」

 学をひけらかすことにおいて得意になっていた老人は、曽我ランコのその言葉に自尊心を傷つけられ、たちまちむっとなった。

「打ち身にもいろんな種類がある。大体十六種類ぐらいに分類出来る。あなたのはどれに該当(がいとう)するか、ひとつしらべて進ぜよう。出して見せなさい?」

 曽我ランコは眼をぱちぱちさせて、ブラウスの胸部に両掌をあてた。そして待合室の方をきっと振り返った。空火鉢を囲んだ三人の男の眼が、好奇のかがやきを帯びて、曽我ランコに集中していた。彼女はややきつい口調で言った。

「こちらを見ちゃダメよ!」

 佐介と牛島は直ちにがたがたと膝を動かして向うむきになった。乃木七郎は牛島から耳たぶを引っぱられ、暴力的に向きを変えさせられた。その三人の背中を確認して、曽我ランコは顔を元に戻した。そしてブラウスが開かれた。壁に面坐した乃木七郎の指が、所在なさそうに動いで、畳の上の卓上ピアノの鍵盤(キイ)をポンと弾いた。牛島がいらだたしげに叱りつけた。

「余計な音を立てるな!」

[やぶちゃん注:「薄荷」本邦産種はシソ目シソ科ハッカ属ハッカ変種ニホンハッカ Mentha canadensis var. piperascens。精油成分には大脳皮質や延髄を興奮させる作用があり、発汗・血液循環促進効果があり、外用すると、局所的に血管を拡張させる作用によって筋肉の緊張や痛みを和らげる働きをする。現在は化学合成されたメントールにとって代わられた。

「樟脳」クスノキ目クスノキ科ニッケイ属クスノキ Cinnamomum camphora の精油の主成分である分子式 C10H16で表される二環性モノテルペンケトン(monoterpene ketone)の一種。クスノキ片を水蒸気蒸留して得られる(現在では主にピネンから化学合成で作られている)。特異香のある昇華性の無色透明の板状結晶で、セルロイドの原料であった他、医療剤(カンフル(ドイツ語:Kampfer)と呼ぶ)・防虫剤・香料などに使用されている。

「アオキ」ガリア目ガリア科アオキ属アオキ変種アオキ Aucuba japonica var. japonica。生葉には配糖体オークビンなどが含まれ、排膿・消炎・抗菌作用があり、古くから民間療法で腫れ物・火傷・切り傷・おできなどの保護や消炎に用いられてきた。

「忍冬」マツムシソウ目スイカズラ科スイカズラ属スイカズラ Lonicera japonica。漢方の生薬としてよく知られる。

「接骨木」マツムシソウ目レンプクソウ科ニワトコ属ニワトコ亜種ニワトコ Sambucus sieboldiana var. pinnatisecta。和名の漢字表記は枝や幹を煎じて水飴状にしたものを、骨折の治療の際の湿布剤に用いたためとされ、現在も民間薬として筋骨挫傷に薬効があるとされる。

 以下、底本も一行空け。]

 

 久しぶりの晴天で、夕陽養老院もここしばらくの暗鬱(あんうつ)の風情(ふぜい)をはらいおとし、生き生きとよみがえったように見えた。

 ねぎ、茄子(なす)、いんげん、胡瓜(きゅうり)、トマトの各畠では、さんさんたる陽光を浴びて、当番の爺さんたちが、虫をつまんで潰したり、病葉(わくらば)をチョキチョキと摘み切ったりしていた。豚舎に残飯を運ぶ爺さん、洗濯場でいそいそと洗濯にいそしむ爺さんたちの姿も見られた。屋根瓦やバルコニーからはさかんに水蒸気が立ちのぼっている。朝食後黒須院長が外出したので、院内には更にゆったりした空気がただよっていた。木見婆は調理室の椅子にもたれて、朝っぱらからうとうとと居眠りを始めていた。東寮階下のどん詰まりの部屋では、昨日の面々が集まって、また何かひそひそと密議を凝らしていた。その一人の滝川爺がふと不審げに頭を上げて、一座をぐるぐると見回した。

「おや、どうも人数がすくないと思ったら、ニラ爺がいないではないか」

「ニラ爺の奴、朝飯を食ったきり、姿を見せないんだ」松木爺が応じた。「一体どこに行ってやがるんだろう。大切な会議だと言うのに」

「実際仕方のない爺さんだ」柿本爺が嘆息した。「我々にかくれて木見婆をゆするし、それで改心したかと思えば会議には欠席するし、あんな頼りない爺、在院者代表から除名したらどうだ」

「いや、いや、除名は性急に過ぎる。わしたちは長い目で見てやらねばならん」遊佐爺がゆったりと発音した。「松爺さん。お前行って、ニラ爺を探して来なさい」

「あそこで今朝も会議をやってるのや」西寮二階の廊下の窓から、ニラ爺は顔を半分だけのぞかせ、東寮階下を指差しながら、甲斐爺と煙爺と森爺に説明した。この三人の爺さんは、かくれんぼや追っかけごっこにおけるニラ爺の常連の相棒であった。「それを知ってるから、俺は朝からあの部屋に寄りつかないのや。会議なんかほんとにくさくさするぜ。かくれんぼの方がなんぼ面白いか」[やぶちゃん注:「煙爺」初出の人物である。すぐ後で本名が「煙田六郎右衛門」と出てくるのだが、恐らくこの「煙田」という姓は「たばた」と読むのであろうと思う。しかし「煙爺」はこれ、私は「けむじい」と読んでおくことにする。]

「そうだ。そうだ」と森爺が相槌を打った。「会議とかくれんぼとじゃ、土台くらべものにはならん」

「おや、誰か立ち上ったぞ。松爺さんらしい」甲斐爺が注意をうながした。「お前を探しに来るんじゃないか」

「便所に立ったんだろう。松爺は割かた便所が近いからな」と煙爺。

「それよか早くジャンケンをやろうよ。今日俺はニラ爺さんと組むよ。何時もの通り、一時間以内に探し出せねば、百円だよ」

「よし。やろう」

 四人の爺さんは二組に別れ、代表を出して勢いよくジャンケンをした。ジャンケンは二三合の後、韮山(にらやま)伝七、煙田六郎右衛門の組の勝ちとなった。煙爺は勝ち誇った声で宣言した。

「いいか、お前さんたちはここで目をつむって、二百数えるんだぜ。それから俺たちを探しに来い。なに、一時間やそこら、きっと隠れおおせて見せるわい」

「大きな口を叩くな」甲斐爺と森爺も闘志をたかぶらせ異口(いく)同音に叫んだ。「一時間はおろか、三十分で探し出して見せるぞ!」

 そして甲斐爺と森爺は両掌を眼にあて、壁を向いて、声たかだかと数え始めた。ニラ爺と煙爺は手をつないで廊下を走り出した。走り出したとは言え、老齢で足が遅いから、やはり二百という数が必要なのであった。ニラ爺組は呼吸をはずませながら廊下を曲った。

「今日は皆が、び、びっくりするようなとこに隠れようやないか」ニラ爺がせわしい呼吸のあい聞に提案した。「ふ、ふつうのとこやったら、直ぐに見付かってしまうぜ」

「そうだねえ。たいていのところには隠れてしまったからねえ。風呂場の風呂桶の中も隠れたし」煙爺は疲労のために速度を落した。「天(あめ)が下には隠れがもなし、か」

「いいとこがある」突然ニラ爺が眼をかがやかして立ち止った。「院長室はどうや。院長室の書類戸棚。今海坊主は外出してるし、丁度好都合やないか。あそこなら一時間かかっても見付かる心配はないぜ」

「院長室とは考えたねえ」

 二人の爺さんは立ち止り、はあはあ言いながら顔を見合わせた。

「やって見るか、思い切って」

「なにしろ百円の問題やからなあ」

 鈎の手廊下の彼方で、今しも森爺と甲斐爺が数を読み終ったらしく、

「もういいかい」

 という声が聞えてきた。煙爺とニラ爺はふたたびハッと顔を見合わせ、無言でうなずき合い、廊下を横っ飛びに飛んで、院長室の前に立ち止った。ニラ爺のかさかさ掌が扉のノブをつかんだ。廊下の彼方から、二人の鬼の声がしだいに近づいてくる。

「もう、いい、かい」

「もう、いい、かい」

 

「もう、いいわよ」

 曽我ランコはブラウスの釦(ボタン)をとめながら、顔だけ待合室の方を振り返った。むっとした表情で壁に面していた三人男は、ごそごそと膝を動かしてこちらに向き直った。渋川丈助はタオルで指を拭きとりながら、もったいぶったせきばらいと共に言った。

「さあ。次の方」

「お前が先だ」牛島が乃木七郎の腰骨をぐいとこづいた。

「お前を待合室に残しとくわけにはいかない」

 乃木七郎はふらふらと立ち上って、診察室に足を踏み入れた。それでも心配なのか、牛島もごそごそと立ち上って、乃木のあとにつづいた。佐介もつられて腰を浮かせた。待合室はそれで空になり、診察室は人だらけになった。渋川丈助はとがめるような眼付きで皆を見回し、やや険しい声で言った。

「そうどやどやと入ってきてはいけませんぞ。患者はどなたじゃ?」

「この男です」

 佐介が乃木七郎を指した。曽我ランコが立ち退(の)いた座蒲団の上に、乃木七郎は悠然と坐り込み、渋川老人ににこにこと笑顔を見せた。老人はむっとしたまま笑いを返さなかった。

「この男は、頭にも打撲傷を負ったんですが」佐介が乃木の傍に坐り込みながら説明した。膝に繃帯(ほうたい)を巻きつけているので、右脚だけは立て膝だ。「その、頭を殴られたのが原因で、なんだか頭のネジがすこし狂ってしまったらしいんです。つまり、記憶がすっかりなくなって、何も憶い出せない。頭のコブもなんですが、この方もひとつ――」「コブの方は治療しなくてもいいぞ」牛島がつっけんどんに口をはさんだ。「コブなんかは手当しないでも、自然に引っこむ。治療費がもったいないよ。先生。その頭ボケの方だけは何とかして貰いたいですな」

 渋川丈助は不機嫌そうに顎を引き、鬚をがさがさと動かした。先ほどの曽我ランコのあいさつ、総員そろってどやどやと診療室に入ってきたこと、それにこの無遠慮な言い方に、老人は少からず感情を害していた。老人は顎を引いたまま、じろりと四人を見回した。

「治療代が惜しいとおっしゃるなら、コブはそのままにしときましょう」老人は薬棚の引出しをガタゴトとあけて、サックの中から天眼鏡を取り出した。「頭のネジの狂い方にも、いろんな種類がある。大別すれば八通り、細別すれば三十二通りもある。わしが今調べて進ぜるから、素人(しろうと)がはたから口を出さないでもらいたいじゃ」

 老人は天眼鏡を乃木七郎の面前にかざし、じっとのぞき込んだ。乃木七郎も相変らず頰をゆるめて、かざされた天眼鏡を通じて、逆に老人の瞳をのぞき上げた。天眼鏡を間にして、両者の瞳はしばらくお互いを眺め合っていた。やがて老人はかるく舌打ちをして、天眼鏡をおさめた。

「これは当分治らないな」威厳を保つために老人は横柄な声を出した。「この仁(じん)の瞳は、黄瞳(おうどう)と言って、一面に黄味がかかっておる。脳漿(のうしょう)が溷濁(こんだく)している証拠じゃ。記憶が戻るには、先ず一ヵ月はかかろう」

「一ヵ月?」牛島がうなった。「とてもそれまでは待ち切れん。薬はないんですか?」

「バカにつける薬はありませんじゃ」老人はそっけない答え方をした。「はい。あなたがた三人で、八百円いただきます」

「八百円?」乃木七郎はとんきょうな声で復唱して、小首をかしげた。もやもやと溷濁した記憶の中に、その『八百円』という言葉が、破片のようにキラッと光ったからだ。

「八百円。ええ、何だったっけ」

「なにか憶い出したか?」牛島がたたみかけた。

「ええ、八百円」乃木七郎は眼をキョトキョトさせた。

「わたしは、八百円、貰う権利がある。あるような気がする」

「何を言ってんだ」牛島は失笑した。「たわごと言わないで、そこをのけ。今度は俺が診療して貰うんだ」

「あんたも頭のネジの方か」老人はつめたく言って、すっくと立ち上った。「残念ながらこの仁で、十五人になる。あんたは明日やっておいで」

「明日?」牛島はぽかんとした顔付きになった。

「ここの規定なんだよ」佐介が牛島の袖を引き、待合室の貼紙を指差した。「診療は一日十五人に限定されているんだ」

 渋川丈助はそのすきに皆の間を通り抜け、すっすっと奥の部屋に引込んで行った。牛島が規定を読み終えた時、老人の姿はもう見えなくなっていた。

 

「ばかにしてやがる!」牛島は奥の間に向って拳固をふり上げた。「なんだい。もったいぶりゃがって。あのヒゲ爺!」

「さあ、帰りましょうよ」曽我ランコは立ち上った。「十五人ときまっているなら、仕方がないじゃないの。でも、あのヒゲ爺さん、案外ヤブね。一ヵ月なんて、あたしも待ち切れないわ」

「わたくしだって待ち切れません」乃木七郎はにこやかに三人を見回した。「わたしは金を持たないんですが、わたしの診察費、どなたか立替えて置いて下さい」

 

先生「御孃さんと一所に出たのか」――K「左右ではない。眞砂町で偶然出會つたから連れ立つて歸つて來たのだ」……お孃さん「何處へ行つたか中(あ)てゝ見ろ」(笑いながら)



 「私はKに向つて御孃さんと一所に出たのかと聞きました。Kは左右ではないと答へました。眞砂町で偶然出會つたから連れ立つて歸つて來たのだと說明しました。私はそれ以上に立ち入つた質問を控へなければなりませんでした。然し食事(しよくし)の時、又御孃さんに向つて、同じ問を掛けたくなりました。すると御孃さんは私の嫌ひな例の笑ひ方をするのです。さうして何處へ行つたか中(あ)てゝ見ろと仕舞に云ふのです。其頃の私はまだ癇癪持でしたから、さう不眞面目に若い女から取り扱はれると腹が立ちました。所が其處に氣の付くのは、同じ食卓に着いてゐるものゝうちで奥さん一人だつたのです。Kは寧ろ平氣でした。御孃さんの態度になると、知つてわざと遣るのか、知らないで無邪氣に遣るのか、其處の區別が一寸(ちよつと)判然(はんせん)しない點がありました。若い女として御孃さんは思慮に富んだ方でしたけれども、其若い女に共通な私の嫌(きらひ)な所も、あると思へば思へなくもなかつたのです。さうして其嫌な所は、Kが宅へ來てから、始めて私の眼に着き出したのです。

   *

 私はそれ迄躊躇してゐた自分の心を、一思ひに相手の胸へ擲(たゝ)き付けやうかと考へ出しました。私の相手といふのは御孃さんではありません、奥さんの事です。奥さんに御孃さんを吳れろと明白な談判(だんぱん)を開かうかと考へたのです。然しさう決心しながら、一日(にち)/\と私は斷行の日を延ばして行つたのです。さういふと私はいかにも優柔な男のやうに見えます、又見えても構ひませんが、實際私の進みかねたのは、意志の力に不足があつた爲ではありません。Kの來ないうちは、他の手に乘るのが厭だといふ我慢が私を抑へ付けて、一步も動けないやうにしてゐました。Kの來た後(のち)は、もしかすると御孃さんがKの方に意があるのではなからうかといふ疑念が絕えず私を制するやうになつたのです。果して御孃さんが私よりもKに心を傾むけてゐるならば、此戀は口へ云ひ出す價値のないものと私は決心してゐたのです。恥を搔かせられるのが辛いなどゝ云ふのとは少し譯が違ひます。此方(こつち)でいくら思つても、向ふが内心他の人に愛の眼(まなこ)を注いでゐるならば、私はそんな女と一所になるのは厭なのです。世の中では否應なしに自分の好(す)いた女を嫁に貰つて嬉しがつてゐる人もありますが、それは私達より餘つ程世間ずれのした男か、さもなければ愛の心理がよく呑み込めない鈍物のする事と、當時の私は考へてゐたのです。一度貰つて仕舞へば何うか斯(か)うか落ち付くものだ位(くらゐ)の哲理では、承知する事が出來ない位私は熱してゐました。つまり私は極めて高尙な愛の理論家だつたのです。同時に尤も迂遠な愛の實際家だつたのです。


『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月20日(月曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第八十八回より)

今一度、以下の事実を思い出してみ給え。

   *

 「十一月の寒い雨の降る日の事でした。私は外套を濡らして例の通り蒟蒻閻魔(こんにやくえんま)を拔けて細い坂路を上(あが)つて宅へ歸りました。Kの室は空虛(がらんど)うでしたけれども、火鉢(ひはち)には繼ぎたての火が暖かさうに燃えてゐました。私も冷たい手を早く赤い炭の上に翳(かざ)さうと思つて、急いで自分の室の仕切を開けました。すると私の火鉢には冷たい灰が白く殘つてゐる丈で、火種(ひたね)さへ盡きてゐるのです。私は急に不愉快になりました。
 其時私の足音を聞いて出て來たのは、奥さんでした。奥さんは默つて室の眞中に立つてゐる私を見て、氣の毒さうに外套を脫がせて吳れたり、日本服を着せて吳れたりしました。それから私が寒いといふのを聞いて、すぐ次の間からKの火鉢(ひはち)を持つて來て吳れました。私がKはもう歸つたのかと聞きましたら、奥さんは歸つて又出たと答へました。其日もKは私より後れて歸る時間割だつたのですから、私は何うした譯かと思ひました。奥さん大方用事でも出來たのだらうと云つてゐました。

『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月19日(日曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第八十七回より。太字・下線は私が附した)

   *

前の――富坂下が泥々になるような「寒い雨の降」っているとんでもない天候の時間帯に――お嬢さんは一体――何の用があって――何処に行ったのだろう?――そうしてその行先は――読者である我々だけではない――親しいはずの先生にさえ――当てられない場所――なのだ……

翻って見よ――またしても其日もKは私より後れて歸る時間割だつた」のに先に帰っていたである――Kの部屋の火鉢は「繼ぎたての火が暖かさうに燃えてゐ」た――そうだ――Kが授業を端折って「歸つて」来ながら、雨の中を「又出た」のは先生が帰宅した、ついさっきなのだ――Kは一体何の用があって――こんな雨の中を――何処へ行ったのだろう?――先生の心落ち着かない書見などは短かい時間だったと考えるのが自然だ――但し、雨は止んでいた――そうして――先生は散歩に出、西富坂を下って東富坂の上りのとば口で二人連れの彼らに遭遇したのだ――

これらの〈事実としての不審の恐るべき堆積〉は、よく考えて見れば、誰が見てたって海中にそそり立つ牡蠣群のそれのように〈不審の忌まわしくも屹立する山〉と言えるではないか――

 

2020/07/19

三州奇談續編卷之七 朝日の石玉 / 三州奇談續編卷之七~了

 

     朝日の石玉

 朝日山上日寺(じやうにちじ)に登る。此地や風潔く水淸し。元來有磯・奈湖の海を眸中(ばうちゆう)に盡(つく)し、立岳(りふがく)・寳嶺(はうれい)に目を極むれば、景は云ふべきにも非ず。寺は莊嚴(しやうごん)物さび、「龍灯の松」あり。是は大晦日の夜、三ヶ所一團となりて牛島より來りかゝると云ふ。上の山を「牛潜(うしもぐ)り」と云ふ。越の大德泰澄の牛に駕(が)して、山路を通ひ給ふよし物語るを聞きしが、略す。寺院は白鳳年中に開かれし山なれども、中興我が國君の歸依により、芳春尼公の佛忠懇志(こんし)より起るよし。大和の法師、慶長十八年に緣起を殘す。本尊は觀世音一寸八分の尊像にして、石玉(せきぎよく)に乘じて太田の濱に上(あが)り給ふよし。御佛(みほとけ)は後に、鳥佛師(とりぶつし)が作の五尺の木像の頭上(とうじやう)に納(をさま)り給ひて、拜見し難し。其乘り給ふ石を「兩曜石(りやうえうせき)」と號す。寺號・山號も爰に起るとにや。親しく手に移し戴くに、掌中濕(うるほ)ひ石に汗を發す。此石大(おほい)さ三寸ばかり、蓮花(れんくわ)一葩(ひとひら)の形に似て、兩面に日月(じつげつ)の紋あり。色黃にして不思議殊(こと)に多しとなり。既に太田濱に上り給ふ時も、石ありて損ぜんことを恐れ、百餘間の石を退(の)け給ふとて、岩崎は石甚だ多けれども、太田濱には今に小粒なる石だにもなしとにや。能く能く其兩曜石を愛(めで)し給ふと見ゆ。依りてつくづく拜し奉るに、是咋嗒(さたう)の類(たぐひ)にして、靈鹿(れいろく)・妙兎(めうと)の類(たぐひ)、是を捧げたるならんと思ふ。

[やぶちゃん注:「朝日山上日寺」富山県氷見市朝日本町にある真言宗朝日山上日寺(グーグル・マップ・データ)。本尊は一寸八分(約五・五センチメートル)の千手観世音菩薩。創建は天武天皇一〇(六八一)年、開基は法道上人と伝える。嘗ては七堂伽藍が完備し、十八坊を有した大寺であったが、数度の火災により、現在は江戸時代の本坊銀杏精舎(いちょうしょうじゃ)、観音堂など数宇を残すのみである。毎年四月十七日と十八日の観音縁日に行われる祭礼「ごんごん祭り」は、寛文四(一六六四)年の大干魃の際に雨乞いをして待望の慈雨を得たことへの感謝のために始められた祭りと伝え、現在も盛大に行われて参詣者は鐘を打ち鳴らして厄除け・諸願成就を祈る。境内の大銀杏は樹齢千三百年、周囲十二メートルに及ぶ大樹で、乳(ちち)授けの霊木とされて、国の天然記念物である(小学館「日本大百科全書」に拠る)。ここである(グーグル・マップ・データ航空写真)。……ああっ!……何んということか!?!……ここは……私にとって秘密の場所である……遠い昔の……若き日の私の心臓の高鳴りが……聴こえる!…………

「立岳」立山の異名。

「寳嶺」立山連峰の他の霊峰の峰々。

「大晦日の夜、三ヶ所一團となりて牛島より來りかゝると云ふ」「日文研」の「怪異・妖怪伝承データベース」のこちらに、「龍燈」として、小倉学氏の「北陸の龍燈伝説」(『加能民俗研究』通巻十七号・平成元(一九八九)年「加能民俗の会」官発行所収)に「誹諧草庵集」・及び本書を出典として、この氷見市『朝日山の山腹にある観音堂の前の松に、毎年正月朔日と六月十七日の夜龍燈がかかる。本尊の観音様が太田浜から上がったものだが、龍燈は三ヶ所一団となって牛島から飛来する』とある。「牛島」は後の最終巻「三州奇談續編卷之八」の「唐島の異觀」によって、唐島から五、六百メートル離れた岩礁の名前と出る。

「越の大德泰澄」(たいちょう 天武天皇一一(六八二)年~神護景雲元(七六七)年)は奈良時代の修験道の僧で、当時の越前国の白山を開山したと伝えられ、「越(こし)の大徳」と称された。既出既注であるが、再掲しておく。越前国麻生津(現在の福井市南部)で豪族三神安角(みかみのやすずみ)の次男として生まれ、十四歳で出家し、法澄と名乗った。近くの越智山に登って、十一面観音を念じて修行を積んだ。大宝二(七〇二)年、文武天皇から鎮護国家の法師に任ぜられ、豊原寺(越前国坂井郡(現在の福井県坂井市丸岡町豊原)にあった天台宗寺院。白山信仰の有力な拠点であったが、現存しない)を建立した。その後、養老元(七一七)年、越前国の白山に登り、妙理大菩薩を感得した。同年には白山信仰の本拠地の一つである平泉寺を建立した。養老三年からは越前国を離れ、各地にて仏教の布教活動を行ったが、養老六年、元正天皇の病気平癒を祈願し、その功により神融禅師(じんゆうぜんじ)の号を賜っている。天平九(七三七)年に流行した疱瘡を収束させた功により、孝謙仙洞の重祚で称徳天皇に即位の折り、正一位大僧正位を賜り、泰澄に改名したと伝えられる(以上はウィキの「泰澄」に拠った)。

「白鳳年中」寺社の縁起や地方の地誌や歴史書等に多数散見される私年号(逸年号とも呼ぶ。「日本書紀」に現れない元号を指す)の一つで、通説では元号の白雉(六五〇年〜六五四年)の別称・美称であるともされている。他に六六一年から六八三年とも、中世以降の寺社縁起等では六七二年から六八五年の期間を指すものもあるという。なお、「続日本紀」の神亀元(七二四年)年冬十月の条には『白鳳より以來、朱雀以前、年代玄遠にして、尋問明め難し』という記載がみられる(ここはウィキの「白鳳」に拠った)。

「中興我が國君の歸依により、芳春尼公」前田利家の正室まつ(天文一六(一五四七)年~元和三(一六一七)年)の戒名。上日寺は江戸時代は前田家の祈願所となった。

「慶長十八年」一六一三年。

「太田の濱」現在の太田地区の海浜で、松田枝(まつだえ)浜及び島尾にかけての広域呼称(グーグル・マップ・データ航空写真)と考えられる。私の好きな美しい海岸である。

「鳥佛師」鞍作止利(くらつくりのとり 生没年不詳)のこと。飛鳥時代の仏師。「鳥仏師」とも書くが、これは「司馬鞍作部首止利仏師(しばのくらつくりべのおびととりぶっし)」の通称。中国の南梁からの渡来人司馬達等(しばたっと)の孫とされるが、司馬一族自体が四世紀頃に渡来した「鞍作村主(すぐり)」なる人物の子孫とする説もある。聖徳太子や当時の権力者蘇我氏に重用され、「日本書紀」によれば、推古天皇一四(六〇六)年に飛鳥寺の釈迦如来坐像(飛鳥大仏)を造像したとされ(但し、彼の作仏を否定する説もある)、六二三年には、聖徳太子と母后・妃の菩提を弔うため、法隆寺金堂の釈迦如来及び両脇侍像を完成している。先の「飛鳥大仏」が後世の補修が多いのに比べ、この三尊像は殆んど完全に残っており、光背裏の刻銘から、彼の確実な作品と知られる貴重な仏像である。作風は中国北魏竜門系の様式を取り入れながら、独自な造形感覚で日本的に整斉された「止利様式」を確立しており、単純な形の大きく張った目、両端が釣り上がってアルカイック・スマイルと称される不思議な微笑を感じさせる唇、板を重ねたように堅く直線的な衣の襞など、象徴的で力強く、威厳に満ちており、名実ともに七世紀前半の彫刻界を代表する作家であったことを示している(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「兩曜石」日月石のこと。全国的な非常に古い岩石信仰として、太陽と月を象徴するとする磐座(いわくら)によくつく名前であるが、時に晴雨や潮の干満を司る石ともされ、豊穣のシンボルとして陰陽石との関連も認められる。ここでは、海浜に漂着したものである点や、風雨を支配する龍との絡みから、そうしたニュアンスが匂う。実際に「親しく手に移し戴くに、掌中濕ひ石に汗を發す」という辺りはそうした水を司る水石とも読める。但し、ネットで検索する限りでは、同寺には現存しないようである。

「百餘間」百間は約一八二メートル。

「岩崎」伏木の東、国分浜の先の岩崎ノ鼻から雨晴海岸の東に至る岩礁地帯。ここも私にはとても懐かしい場所である。跋渉もし、釣り(甚だ岩掛かりしたものである)もした。

「太田濱……」確かに現在も穏やかな美しい砂浜海岸である。

「能く能く其兩曜石を愛し給ふと見ゆ」主語は流れ着いた本尊観世音菩薩(像)である。

「咋嗒(さたう)」これは各種獣類の胎内結石或いは悪性・良性の腫瘍や免疫システムが形成した異物等を称するもので、普通は「鮓答」と書き、「さとう」と読む。「牛の玉(たま)」とか「犬の玉」という風にも呼ぶ。「詳しくは私の「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 鮓荅(へいさらばさら・へいたらばさら)(獣類の体内の結石)」の私の注を参照されたい。

「靈鹿・妙兎」ただの鹿や兎ではない神霊神仏の使者や眷属であるそれら。]

 

 されば氷見は海畔也。又遙か二里奧なる蒲田・神代(こうじろ)の間にさへ鹽井(しほゐ)を出(いだ)す。【粥(かゆを燒(たく)に甚だよしとなり。他村へ汲めば水となるといふ。】海近き此邊(このあたり)、水潔(きよ)きこと近鄕の例すべきに非ず。妙智力能く靈淸水(れいせいすい)を御手洗(みたらひ)となし給ふ故となり。緣起の中にも、此御佛の施主芳春院殿と稱して、天竺震旦(てんぢくしつたん)稀有の女才(ぢよさい)と崇(あが)め奉る。然共善には惡添ひ、幸ひには害隨ひて、功德は黑闇女(こくあんによ)と須臾(しゆゆ)も相離れず。又々此女才を侵(おか)す女才ありて、北海に少し怨(うらみ)をなすこと「中外傳」中にも記す。其後も海氣(かいき)の押して登るを、銀杏の大樹能く支へ、或は人家火災起り、御手洗の麗水(れいすい)數日(すじつ)留(とま)る事抔(など)聞えし。近年も靈風起り、末院山王の堂を吹潰(ふきつぶ)し、其再興勸化(くわんげ)より氷見の人々論起りて騷(さはが)しき迄に及ぶ。是は年近ければ記さず。

[やぶちゃん注:「蒲田」富山県氷見市蒲田(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「神代」蒲田の西及び北に接する富山県氷見市神代(こうじろ)(同前)。ここの北の末端でも海岸線から四・二キロ内陸で、南部分は山間地である。

「鹽井」塩水の井戸。

「此御佛の施主芳春院殿と稱して、天竺震旦(てんぢくしつたん)稀有の女才(ぢよさい)と崇(あが)め奉る」思うに「と稱して」の「と」は「を」の誤判読か、誤写ではなかろうか。後半は本邦(や中国)どころか、インド・チベット中にあって稀有の才女という謂いであろう。利家の正室芳春院まつは、学問や武芸に通じた女性として頓に知られる才媛であった。

「黑闇女」吉祥天の妹であるが、容貌醜く、人に災いを与える女神とされる。密教では閻魔大王の妃とする。「胎蔵界曼荼羅」の「外金剛部」に属す。像は肉色で、左手に人頭の杖を持つ。

『此女才を侵(おか)す女才ありて、北海に少し怨(うらみ)をなすこと「中外傳」中にも記す』既に何度も注した通り、自己宣伝。正しい書名は「慶長中外傳」で本「三州奇談」の筆写堀麦水の実録物。「加能郷土辞彙」によれば、本体は『豐臣氏の事蹟を詳記して、元和元年大坂落城に及ぶ。文飾を加へて面白く記され、後の繪本太閤記も之によつて作られたのだといはれる』とある。同書を読むことが出来ないので、上記の内容は不詳。

「末院山王の堂」「末院」とあるので上日寺の僧坊と思われるが、現存しない。山王権現は神道系であるから、「其再興勸化より氷見の人々論起りて騷しき迄に及ぶ」というのは、或いは本寺側や一部の信者が再興にあまり乗り気でなかったのかも知れない。]

 

 扨濱表(はまおもて)に下りて見渡すに、本(も)と是(これ)古戰の地なり。町はづれの「三本松」と云ふ地下には「首數(しゆすう)何百の内」と云ふ札を掘出(ほりいだ)せし話も聞えたり。

[やぶちゃん注:上杉謙信や佐々成政の侵攻の際にこの辺りは戦場となっている。

『町はづれの「三本松」』不詳。「町はづれ」で、以下続けて「柳田」を経てとあるのだから、氷見市柳田(グーグル・マップ・データ)の市街地との境に比定は出来ようか。]

 

 是より柳田を過ぎて彼(かの)の太田濱なり。此濱實(げ)にも小石迚(とて)もなし。眞(まこと)に梵力(ぼんりき)能く泥沙にも及ぶこと驚くに堪へたり。此邊大鳥(おほとり)の死する物多し。人に尋ぬるに「是れ信天翁(あはうどり)」となり。得て人の喰ふべき肉なければ、打殺して捨つとかや。多くは狗(いぬ)の取り、小兒の戲れにて撲(たた)き殺したるなり。

「大悲の誓ひの濱なるに無用の殺生哉(かな)、鳥も又逃(にげ)よかし」

と委しく尋ぬれば、和莊平(わさうへい)なる人ありて敎へて曰く、

「此邊(このあたり)を『贅鳥(アホウドリ)』と云ふは、人のあまり肉の如く無用より號(なづ)く。元來此鳥目耳(みみ)用をなさず。然るに小魚を投ぐるに寄り來(きた)るは、氣(かざ)を以て相求むるなり。

『こうこう』

と呼ぶに來(きた)るも、氣(かざ)の氣(き)に對するなり。目見えず耳なき故、呼びよせて捕へ得るに甚だ易し。形ちは鴈(かり)に似てまた大いなり。毛は必ず白し、而していやしき黑毛を交(まぢ)ゆ。口嘴(くちばし)黃にして大なり、曲珠(まがたま)の形ちをなす。かゝる巨躰(きよたい)を、何を喰ひてか生涯を送るらんと見るに、纔(わづ)かに鷗の取落したる小魚を喰(くら)ひ、網を遁れ出でたる細鱗(さいりん)を甞(な)めて世の樂(たのし)みとす。然るに此中(このうち)小賢(こざか)しき贅鳥(ぜいてう)ありて、彼(か)の觀音の佛力にすがり、

『我にも目を明けさせて景淸(かげきよ)の昔をなさしめ給へ』

と、此濱に願ひし鳥あり。功力(くりき)豈(あに)魚鳥(ぎよてう)に至らざらんや。忽ち眼(まなこ)明きたる鳥となりしに、數日(すじつ)にして瘦せ衰へ、既に死せんとす。則ち同類の信天翁(あはうどり)に氣(き)を以て示して曰く、

『汝等今の身を樂みて別願を起すことなかれ。我が眼明きて甚だ樂しからんと思ひしに、却りて大害爰に來(きた)る。憂ひて今死せんとす。元來我曹(われら)は死せんとする時鳴くこと悲し。是(これ)人の善言(ぜんげん)と同事(おなじこと)なり。能く聞き置くべし。先づ眼見ゆると物を恐るゝ事甚だ發す。人にも心ひかれ。大魚にも退(しりぞ)け去らんとす。扨(さて)他の鳶(とび)・鴉の多く食を得るを見て、羨みてねたみ、又怒ること燃ゆるが如し。頻りに奔走するに餌(ゑさ)小鳥程も得がたし。故に心痛して悲瘦骨(こつ)に至る。高く飛ぶ鴻鶴(こうかく)を見ては羽の及ばざることを恨み、水に潜る鸕鷀を見ては身の重きを歎く。只日々に物に恐るゝと怨むとの爲に苦しみ多くして、彼(か)の耳なく目なく氣の餌(ゑ)を求むるの思ひにて、人の側(かたはら)とも大魚の眼(まなこ)とも知らず走り行き、鰯一つ得る時、「天地の間此樂みの上なし」と思ひしを思へば、今悔(くや)しきこと限りなし。若し經說に云ふ、「盲龜(まうき)の浮木(うきぎ)」、暫く日を重ねなば、肩たゆみ目埃(ほこり)入りて其悲しみ云ふべからず。願ひたることは初め叶ひたる一時(いつとき)のみにして早(はや)苦し。汝達(なんぢたち)天性のまゝ樂みて、願ひ求(もとむ)ることあるべからず』

と遺言しき。此故に此鳥死に及びても、又樂しさを知る。大悲の誓ひにはこり果てたる鳥ぞや。死鳥(してう)にあたらしき感慨を必ず起し給ふな」

と、杖をかゞめかして去りし。

[やぶちゃん注:「柳田」氷見市柳田(グーグル・マップ・データ)。

「信天翁(あはうどり)」ミズナギドリ目アホウドリ科アホウドリ属アホウドリ Phoebastria albatrus。私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鶚(みさご)(ミサゴ/〔附録〕信天翁(アホウドリ))」を参照されたい。なお、ごく近年の学術調査による「DNAメタバーコーディング」と呼ばれる手法によってアホウドリが摂餌した生物を糞から特定した結果、彼らが特異的に好んでクラゲを摂餌していることが判明している。

「得て人の喰ふべき肉なければ」というわけではない。食用にはなるが、あまり美味いものではないというネット記載をやっと見つけた。しかしヒトはただ捨ててはいない。本邦では専ら羽毛を採取する目的で撲殺し(和名はヒトが近づいても地表での動きが緩慢で、捕殺が容易であったことに由来する)、乱獲が続いて絶滅しかかった。

「大悲の誓ひの濱」この浜に漂着した観世音菩薩は、「世」の人々の「音」声を「観」じて、その苦悩から救済する菩薩の謂いで、人々の姿に応じて「大」慈「悲」を行ずることを「誓」われたところから、千変万化の相となると称し、その姿は六観音・三十三観音などに多様に表わされる。

「和莊平」不詳。何か、怪しい名前だね(後述)。

「此邊(このあたり)を『贅鳥(アホウドリ)』と云ふ」太田浜の異称を「あほうどり」言うというのである。後の結果は「信天翁」も裏切られる。

「人のあまり肉の如く無用より號く」前の地名の漢字を見ると、「贅鳥」で「贅肉」のそれで、「人のあまり肉」(余分な肉)の意である。これは恐らく先行する――「人」がその「肉」を不味いとして「あまり」食わず、殺してもその肉は「あまり肉」として捨てるように「無用」な鳥のいるところ――という意味にも通じているのであろう。

「こうこう」これはヒトがアホウドリを遊びで打ち殺すために呼び寄せる時の声のオノマトペイア。因みに、アホウドリの鳴き声は「サントリーの愛鳥活動」のこちらでどうぞ。

「氣(かざ)」臭い。

「氣(かざ)の氣(き)に對するなり」「臭いの気(き)の流れに応じているのである」の意で採るためにかく読んだ。

「鴈(かり)」「がん」と読んでもよい。広義のガン(「鴈」「雁」)は鳥綱Carinatae 亜綱Neornithes 下綱Neognathae 小綱カモ目カモ科ガン亜科 Anserinae の水鳥の中で、カモ(カモ目カモ亜目カモ科 Anatidae の仲間、或いはカモ科マガモ属 Anasより大きく、ハクチョウ(カモ科Anserinae 亜科 Cygnus 属の六種及び Coscoroba  属の一種の全七種)より小さい種群を総称する。詳しくは私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鴈(かり・がん)〔ガン〕」を参照されたい。

「此中小賢しき贅鳥(ぜいてう)ありて」以下、どうも二重に「贅鳥」を掛けているところ、これ、諧謔に過ぎた話で、如何にも作り物臭い、鼻白む展開である。目が見えなかった時の方が幸福、目が見えるようになって恐怖や憤懣に満ちるようになって不幸になったという、如何にもな感官による煩悩を戒める説教のようなところが、どうにも厭な感じだ(「ジョン・M・シング(John Millington Synge)著 松村みね子訳 聖者の泉(三幕):The Well of the Saintsの方が遙かに面白い。リンク先は私の電子テクスト)。麦水の見え透いた創作のような気さえしてくる。もし、現地のこの伝承があるとならば、是非、お教え戴きたい。

「景淸の昔」藤原悪七兵衛景清(?~建久七(一一九六)年?)は、平安末期の平氏に属した武士。平氏と俗称されるものの、藤原秀郷の子孫伊勢藤原氏(伊藤氏)の出。平家一門の西走に従って一ノ谷・屋島・壇ノ浦と転戦奮戦した。「平家物語」巻十一「弓流(ゆみながし)」で、源氏方の美尾屋十郎の錣(しころ)を素手で引き千切ったという「錣引き」で知られる勇猛果敢な荒武者(「悪」は「強い」の意)。壇ノ浦から逃れたとされるが、その後の動静は不明。幕府方に降って後に出家したとも、伊賀に赴き、建久年間に挙兵したとも伝わる。後、謡曲「景清」や近松の「出世景清」等で脚色されて伝説化した。この謡曲「景清」では、落魄して盲人となった彼と、一人娘人丸との再会悲話仕立てで、後者は平家滅亡後も頼朝の命を狙う荒事で、鎌倉には捕らわれた景清が入れられたという「景清の牢」跡なるものがあるが、信じ難い。私の「鎌倉攬勝考卷之九」の「景淸牢跡」を参照されたい。

「善言」人のよき言葉、後の者たちへの戒めとなる言葉。

「鴻鶴」ここは大きな鳥のこと。アホウドリは確かに高高度を飛ぶことは出来ない。但し、「空を飛ぶのは苦手」などとしばしばネット記載されているのは大変な誤りで、飛ぶのに長い滑走距離を必要とするに過ぎない。そもそもが彼らは渡り鳥であるから、実は気流に乗って滑空をしながら、一度も羽ばたきをせずに、驚くべき長距離をも飛ぶことが出来るのである。

「鸕鷀(ろじ)」鵜(う)の異名。ここは海浜なので、カツオドリ目ウ科ウ属ウミウ Phalacrocorax capillatus。なお、事実、本邦産のアホウドリは海中に潜ることは出来ない。

「盲龜(まうき)の浮木(うきぎ)」広い海の上に一ヶ所だけ穴が空いている一本の木が浮かんでおり、この海に住んでいる百年に一度だけ海面に浮かんできて頭を出す一匹の目の見えない亀が、その木の穴に頭を突っ込むことは非常に難しい。人が人としてこの世に生まれ出ずることは、この盲亀が浮木に頭を入れることよりも難しい想像を絶することなのであるという譬え話。釈迦が阿難に諭したそれとされる。

 さても。この話のエンディング、信天翁(あほうどり)はその目や耳の不自由故に「無為自然」の中に自(おのず)とその「分」(ぶん)を知って生き死にしてゆくのであればこそ、「此故に此鳥死に及びても、又樂しさを知る」というのだ。仏説のありがたい観世音菩薩なんぞの「大悲の誓ひには」すっかり「こり果て」てしまっていると言うのだ。さればこそ――そうした「死鳥」に「あたらしき」皮相的な勝手な「感慨」なんぞは、これ、決して起こされぬが身のためじゃ――と言って悠然と杖を突いて去ってゆく「和莊平」という男の後ろ姿は、「漁父之辭」の道家的人物として描かれる漁父のラスト・シーンの映像とよく合致しているではないか! 則ち、この男は「和」(倭・日本)の「莊」子的な在野の真人としての「平」民であることが判るのである。ますます麦水の作り話の可能性が高くなってくるように私は思うね。しかし、これはこれで、いい。老荘好きの私としては。

 以上で「三州奇談續編卷之七」は終わっている。]

梅崎春生 砂時計 22

 

     22

 

 深夜の廊下をニラ爺は足音をぬすんで、東寮の方に曲り込んだ。身体よりは大き目の薄地のカーキ色の上衣、その双のポケットはずっしりとふくらみ、襯衣(シャツ)の中にも何か押し込んでいると見え、上衣の腹のあたりがむっくりとかさばっていた。

(追い出される心配はなくなったし、木見婆の弱味はおさえたし、今日は何という佳い日だろう)

 さっき木見婆からせびり上げた、コップ一杯の味付用の味醂(みりん)、その酔いがほのぼのと身体中に回り、かつニラ爺の気持を浮き浮きと高揚させていた。味醂(みりん)にしろ何にしろ、酒精(アルコール)分の飲料を口にしたことは、ここ久しぶりのことであった。ニラ爺はふくらんだ上衣の腹を、たしかめるように両掌で押えて見た。

(もうあれから相当時間が経ったから、爺さんたちはとっくに解散して、それぞれ部屋に引き取り、ぐうぐう眠ってるだろう。松木爺さんたちも眠っているといいな。眠っているとこの獲物を見付けられずに済む。もし起きておれば、分け前をよこせと、あの爺さんたちは言うだろう。実際当院の爺さんたちは、意地きたないのが多いからな)

 自分の意地きたなさをすっかり棚にあげて、ニラ爺はそんなことを考えた。しかしニラ爺のその考えは、たいへんに情況を甘く見過ぎたうらみがあった。松木爺はおろか、七老人はいまだ解散することなく、どんづまりの部屋に車座をつくっていたのだ。車座の中央には当院禁制の電熱器が置かれ、その上に薬罐(やかん)がしゅんしゅんと湯気をふき上げていた。爺さんたちはお茶を入れて飲んでいた。茶は松木爺の提供によるもので、割かた上質の煎茶(せんちゃ)であった。

「さあ、夜も遅いから、今日はこれで解散することにしよう」遊佐爺は舌を鳴らしながら残りの茶を飲みほし、重々しげに一座を見回した。「今日の会見は皆の努力によって、一応終了したが、必ずしも成功だとはいえなかった。残念ながら海坊主にも相当点数を稼がれた。しかし会見は今日一ぺんこっきりというわけではないからして、ますますわしたちは団結して、ことに当らねばならん。いや、みんな御苦労さんでした」

「御苦労さんでした」

「御苦労さんでした」

 爺さんたちがこもごも唱和し、めいめい腰を浮かしかけた時、たてつけの悪い入口の扉がガタゴトと押し開かれた。皆の視線は一斉にそこに集まった。扉のすき間からニラ爺の禿頭がぬっとのぞいた。ニラ爺はたちまちどぎまぎして、顔をさっとあかくし、思わず逃げ腰となった。松木爺が怒鳴った。

「ニラ爺!」

 ニラ爺はますますへどもどしながら、扉にすがるようにして、尻を後方に引いた。腰を曲げることによって、上衣のふくらみを皆の眼からかくそうとしたのだ。松木爺がふたたび叱声を上げた。

「ニラ爺。今まで、どこに行ってたんだ!」

 ニラ爺はそのままの姿勢で黙っていた。顔のあかさは急に引いて、額はむしろ蒼味を帯びてきた。松木爺は三度たたみかけた。

「どこに行ってたんだと言うのに!」

「便所や!」ニラ爺はせっぱつまって言い返した。「便所に行くのは俺の自由や」

「便所だけにそんな時間がかかるのか」松木爺はかさにかかった。「お前さん、痔(じ)でも悪いのか。俺はお前さんとこの一年同室したが、そんな話はついぞ聞かなかったぞ!」

「ニラ爺さん」遊佐爺が松木爺を制して、重々しくニラ爺をさしまねいた。「ここに上って来なさい」

 ニラ爺は本当にせっぱ詰まった。扉にすがった双の手がぶるぶるとふるえ出した。道佐爺が重ねて命令した。

「上って来なさい!」

「上るよ」ニラ爺はとたんにふて腐れて、腰をすっくと伸ばした。そしてのそのそと部屋に上って来た。「上ればいいんだろう。ここはおれの部屋や」

「ニラ爺さん。お前、ポケットに何を入れてるんだ」滝川爺が疑わしげに眼を光らせた。電燈の真下でポケットのふくらみはかくすべくもなかったのだ。「出して見い」

「こ、これは私物や」ニラ爺はどもって、きょときょとと一座を不安げに見回した。「私物にまで他人の干渉は受けん」

「お前、便所に行ったと言ってたが」松木爺がまた口を出した。「便所に私物をかくしてたのか」

 ニラ爺は額をあおくして松木爺をにらみつけた。返事はしなかった。それがますます一座の疑惑を深めた。道佐爺はたまりかねたようにごそごそと乗り出し、自分の膝をニラ爺の膝にぴったりとくっつけた。おごそかな声で言った。

「ニラ爺さん。わしの顔を見なさい。まっすぐにわしを見なさい」

 ニラ爺はいよいよふて腐れて、遊佐爺に向って顎(あご)を突き出した。

「おや?」遊佐爺は語気をするどくした。「何かアルコール性のにおいがするぞ。お前、酒を飲んだな」

「酒じゃない。味醂や」ニラ爺は度胸を定めて居直った。

「味醂(みりん)を飲んじゃあかんのか?」

「飲んでいけないとは、わしは言いません。飲んでもいいがだ、どこでその味琳を手に入れたのか」遊佐爺は教えさとす口調になった。「お前さんはさっきわしを指圧した時、近頃煙草銭にもこと欠いてると言ったではないか。煙草銭にもこと欠いてるお前さんが、味醂(みりん)を買えるわけがないではないか。お前さんの行動は疑惑に包まれている。この際一切を開陳して、みんなの疑惑を晴らせ。先ずそのポケットのものを出して見せなさい」

 ニラ爺はポケットのものを出すかわりに、降伏する兵士のように、眼をつむって黙って両手をさし上げた。遊佐爺は自ら手を下すことなぐ、松木爺の方を向いて命令した。

「松爺さん。お前が引っぱり出しなさい」

 松木爺はいそいそと膝行(しっこう)して、ニラ爺の背後に回った。ポケットから次々に紙包みやセロハン包みを引っぱり出した。それらは皆食べ物であった。煮豆。味醂干し。南京豆。せんべい。ニッケ玉。ジャムの瓶詰。それにセロハン包みのカンピョウなどが、最後に引っぱり出された。ニラ爺は観念したように両手を上げたまま、微動だにしなかった。一座の視線は疑惑と驚異にみちて、畳に並べられた品々にそそがれた。遊佐爺が言った。

「それだけか」

「ポケットはこれだけのようだ」

 松木爺はニラ爺のポケットを両側からぱんぱんと叩いた。ニラ爺は眼を開いて両手を静かにおろした。そのニラ爺の挙動をにらんでいた柿本爺が、語気するどく発言した。

「ヘソのあたりが妙にふくれ上っているぞ」

 ニラ爺はとたんに絶望落胆して、ふたたび両手をたかだかとさし上げた。松木爺の手がニラ爺の上衣をまくり、シャツの釦(ボタン)を外した。そこからも紙袋が二つ引っぱり出された。松木爺はその口をのぞいた。

「これは白砂糖。こっちの方は、黒砂糖だ」松木爺は誇らしげに一座に報告し、ニラ爺を横あいからにらみつけた。

「便所に行ったなんて言いやがって、一体どこからこれをくすねて来た」

「くすねて来たんじゃない!」ニラ爺はやけっぱちになって怒鳴り返した。「人聞きの悪いことを言うな!」

「では、どこから手に入れたんだ?」

 ニラ爺は歯を食いしばり、発言を拒否する気配を見せた。その様子を見ていた道佐爺がしずかに発言した。

「松爺さんも、柿爺さんもしばらく黙っていなさい」そして遊佐爺はニラ爺の肩にやさしく手をかけた。「なあ、ニラ爺さん。あんたがその品々を持っていることを、わしたちは責めているんじゃない。物を所有するということは、各人の自由だ。その自由は尊ばれねばならん。しかしだな、ニラ爺さん、現在わしたちは在院者代表として、院内改革の闘いに立ち上っているのだ。あんたも光栄ある代表者の一人だ。代表者であるからには、公私両面において、その進退をハッキリさせて置く義務がある。な、そうだろう。あんたがこれらの品々を持つのはいいが、どこから手に入れたかということは、一応説明する義務があるだろう。そうしないと自(おのずか)ら、くすねて来たんじゃないか、という疑惑も生じるわけだ。それじゃあんたも困るだろう」

「くすねて来たんじゃない」ニラ爺は力なく言った。「貰ったんや」

「誰から貰った?」

 ニラ爺はふたたび歯を食いしばった。松木爺がたまりかねたように、横あいから口を出した。

「まさか海坊主から貰ったんじゃあるまいな」

 ニラ爺はギクリと身体を慄わせ、眼の色をかえて、松木爺をにらみつけた。

「う、海坊主から貰うわけないやないか。松爺はおれの人格を侮辱するつもりか!」

「そう、そう、海坊主から貰うわけがない。松木爺はすこし口を慎(つつし)みなさい」道佐爺はやさしくニラ爺の肩をゆすぶった。「誰から貰った?」

 ニラ爺は口をもごもごさせた。言おうか言うまいか、瞬間ニラ爺の心は千々(ちぢ)に乱れた。その瞬間をとらえて、遊佐爺がおびやかすような声を出した。

「言わないと、くすねたものと断定するぞ!」

「木、木見婆や」ニラ爺は悲痛な声でどもった。「木見婆さんがおれに呉れたんや」

「なに、木見婆?」道佐爺はニラ爺をきっと見据(す)え、検事みたいな声を出した。「いかなるいきさつで、木見婆はこれらの品々を、お前に呉れたのか。ニラ爺はこれを説明せよ!」

 

「僕が何故死のうと思ったのか、そこだけが僕の記憶からポッカリと脱落しているんだ。今でも判らない」

 積み夜具に背をふかぶかともたせかけ、栗山佐介は沈痛な声で言った。

「何故僕は死ぬつもりになったんだろう」

 牛島康之は座蒲団を枕にし、毛布を抱きしめるようにして、大きないびきを立てていた。乃木七郎は顎まで夏蒲団を引き上げ、あおむけに行儀よく眠っていた。乃木七郎の左足首は帯でくくられ、その帯のもひとつの端には赤い卓上ピアノがくくりつけてあった。曽我ランコは板壁によりかかり、腕を組んで、その二人の寝姿を眺めていた。スラックスに包まれた両脚は、きちんとそろって、畳の上にまっすぐ伸びていた。佐介は眼を伏せて、スラックスからはみ出たランコの白い足の甲や、つちふまずや足指を、ぼんやりと見ていた。

「僕は東京を食い詰めた。しかし食い詰めたこと自体は、自殺の原因にはならない。だって僕は若いんだもの。若ささえあれば、どんなにやってでも生きて行ける」

「そうね」曽我ランコが相槌(あいづち)を打った。

「食い詰めて僕は田舎落ちすることになった。田舎に別にあてはなかったけれども、僕の友人がいてね、困ったらやってこい、半月や一月は食わせてやる、そう言って呉れてたもんだから、僕は行く決心になった。僕は駅を降りてそいつの家にとことこと歩いて行った。北小路、とそいつの名は言うんだが、北小路家はその地方の豪家で、庭も広く、梅の木や栗の木がたくさん生えていた。門をくぐって玄関まで、五十米以上もあったような気がするね。そこが石で畳んだ坂道でね、そこをえっちらおっちら登りながら、僕は突然イヤな予感がした。北小路のやつ、ああは言ったが、僕の顔を見たとたんに、イヤな顔をするんじゃないか、半月はおろか、一日だって泊めるのを迷惑がるんじゃないか。ちらとそんな予感がしたんだ。予感というより、確信と言った方が近いかも知れない」

 そして佐介は黙った。曽我ランコは自分の足を佐介から眺められていることを意識して、足指をピコピコと動かした。足指は肉体から独立して、なまめかしく動いた。

「それで、やっぱり迷惑がられたの?」

「いや、そうでもなかった。が、僕の方でへんに遠慮しちゃったんだ。北小路は僕に、上れ上れ、としきりにすすめたが、僕はへんにひねくれて、かたくなになって、玄関先で帰ると言い張ったんだ。ほんとは一月ばかり厄介になるつもりだったんだがね、ふしぎな力が僕を駆(か)って、僕を玄関先だけで辞退させた。今直ぐ東京に戻るんだと、僕はもう喧嘩腰で言い張ったような気がする。そこで北小路も負けて、弁当をつくって呉れた。大急ぎでつくったもんだから、かんたんな弁当だね。赤ん坊の頭ほどもある塩味の握り飯、それにタクアンの五六片だ。僕はそれを貰い、そそくさと駅に引き返した。待合室でポケットウィスキーを飲み、その握り飯を食べた。食べ終ると待合室を出、線路沿いの土堤をあるいて、陸橋まで来たのだ。間もなく二十一時五十九分着の普通列車がやってくる。僕はそれをあらかじめ知っていた。それをじっと待っていた――。やがてかなたの闇に、突然ギラギラとヘッドライトが現われた。僕はもう夢中で陸橋にぶらりとぶら下り、そしてそのまま手を離した。僕は線路に落ちたのだ」

「轢(ひ)かれたの?」

「轢かれたら、僕が今君の前にいるわけがない」と佐介は真面目な顔で言った。「轢かれなかったのだ。なにかの手違いで、汽車は僕の身体の上を通過しなかった。僕は枕木に膝を打ちつけただけで、それでおめおめと土堤を這い上ったんだ」

 佐介は手を伸ばして、ズボンをたくし上げ、右膝を露出した。青白い膝蓋[やぶちゃん注:「しつがい」。]を撫でさすった。

「その時から、この膝の具合があまり良くない。僕の身体の中でここが唯一の弱味となったな。この世に弱味なき人間なし。今夜の格闘でも、牛島からここを蹴上げられた。敵というやつは、必ず弱味をねらって来るものだ」

「それで」曽我ランコはちょっとうんざりした。「死にそこなったわけね」

 佐介はうなずいた。

「僕は当日のことを、ほとんど何でも覚えている。北小路家のたたずまい、待合室にいた人々の顔やその会話の内容、陸橋を渡ってきた牛車の音、牛の眼の色、何でもありありと頭にこびりついている。ところが、自分が何故死のうと思ったのか、死のうと決心したのか、そこだけが僕の記憶から完全に脱落しているんだ。自殺を試みたからには、その理由がなくちゃいけないだろう。その理由が、今いくら記憶をひっかき回しても、出て来ないんだ」

「変なのねえ」曽我ランコは眉をひそめた。「そんなこと、あるかしら」

「あるんだね」佐介はまたランコの足指に視線をうつした。「イヤなもの、腐敗したものをたべると、胃はどうするか。嘔吐(おうと)というやり方で、これを排除してしまう。目にゴミが入ったら、目はどうするか。涙をさかんに出すことによって、異物を流し出してしまう。そんな具合に僕の死のうとした気持や動機が、あまりにも耐えられないものだったために、僕の記憶が自動的にそれを排除し、追放してしまったんじゃないかしら、傷口から膿(うみ)と共にトゲを排出するようにさ。近頃そんなことも考えるんだ。しかし、記憶に耐え切れないような、どんな切ない動機や原因が、その時の僕にあったんだろう。その耐え切れないやつを、記憶からしめ出すことによって、その日からやっと僕は生きてきた。死にそこなって、生きて来た。いや、死にそこなったというより、僕はその時やはり死んだのだ。死んだと言っていいだろう。人を自殺におもむかせるほどの重大な素因を、すっかり排除し脱落させてしまったんだからね。生きてると自慢するだけの資格は僕にないよ。つまり人として感動する権利を、僕はなにものかによってすっかり取り上げられてしまった。取り上げられたというより、返上したと言った方がいい。時に君の足指は、よく動くもんだね。白雪姫の小人みたいだ」

「イヤな眼!」曽我ランコはすばやく足を引っこめた。「眼がかさかさに乾いているのね。まるで今にも残酷なことをやり出すみたい」

「疲れてるんだ」見るものがなくなったものだから、佐介は小さなあくびをして、視線をうろうろさせた。「ああ、僕はずい分長い間疲れている」

「自殺の気持の記憶は」足先を掌でつつみ込むようにしながら、ランコは訊ねた。「今全然ないというわけね」

「そうだね。あるとすれば、漠然とした憎悪の感じだけだ。それが膜のように僕の記憶にかぶさっている。それも、僕が誰かを憎んでるのか、誰かが僕を憎んでいるのか、全然ハッキリしないんだ。ただそこらの中核に、憎しみみたいなものがあったということだけが、漠然と残っているんだが、それだけじゃ仕様がないやね」佐介は乃木七郎の寝姿を顎でさした。「このおっさんは、いつ記憶が回復するか知らないが、あるいは僕も、ある日のある時、ふっとそれが戻ってくるかも知れない。戻ってくるかも知れないし永久に戻って来ないかも知れない。そのどちらが僕に有利なのか、幸福なのか、判らないけれどもね、その点はこのおっさんも同じだ」

「金魚をつかまえろ」その時牛島が寝言を言いながら、ごろりと寝返りをうった。佐介とランコは顔を見合わせた。「金魚を三匹だぞ」

「ノメクタ。ニエコヨ」夕陽養老院院長室備えつけの大型ソファーの上で、黒須院長は突然大声でハッキリと寝言を言った。院長は肱(ひじ)掛けを枕とし、くの字型の窮屈な姿勢で眠っていた。よだれが顎鬚を一筋光らせ、詰襟服の第一ボタンでとまっていた。院長は小学校時代の習字の夢をみていた。彼は右手をふわふわと宙に浮かせ、くにゃくにゃと動かしながら、寝言を続行した。「レルキヤ。ヒセハホ。……」

「ふ、ふ、ふ」寝床の中でニラ爺は低く笑っていた。ニラ爺も覚めているのではなく、眠っていた。眠りながらニラ爺はわらっていた。木見婆からの折角の獲物を、道佐爺たちによって全部没収され、以後かくの如き不正を働かないと誓わされ、ふんだりけったりの目に合わされたにも拘らず、ニラ爺は無邪気に眠り笑いをしていた。眠っている時のニラ爺の顔は、起きている時のそれにくらべて、五つ六つ若返って見えた。ニラ爺のとなりには松木爺が、松木爺のとなりには滝川爺が、それぞれの寝床にぐっすり眠っていた。その東寮どんづまりの六畳間に、ニラ爺の含み笑いの声だけが陰にこもって響いた。「ふ、ふ、ふ」

「ああ、疲れた。昨夜もほとんど眠っていないんだ」佐介は首をうしろに曲げて、音のないあくびをした。一層積み夜具にぐんなりと背をもたせながら、ふかぶかと眼を閉じた。「それに膝も痛い。明朝、骨接(ほねつ)ぎに行こう。曽我君。君もいっしょに行かないか。サクラ通りをずっと行ったところに、上手な接骨医がいるんだ。爺さんだけれどもね、骨折だけじゃなく、ネンザや打ち身、そんなやつをうまくなおすんだよ。僕はいつも右膝の具合が悪くなると、そこにかけつける。曽我君、オッパイの具合はどうだね?」

「ずきずき痛いわ」曽我ランコは佐介を横目で見ながら、左掌で乳房を押えた。「その骨接ぎ、こんなのもやって呉れるの?」

「やって呉れるさ、打ち身だもの」佐介は眼を閉じたまま物憂(ものう)げに言った。「僕はどうもあいつ等が怪しいと思うんだ。こんなX君なんか、ほんとは問題じゃないよ」

「あいつ等?」

「ほら、あのジャンパーを着た男さ、それに赤スカートの」佐介の語調はしだいに舌たるく、あいまいになってきた。「あいつ等、対策協議会をリードしているようだが、どうもそのリードの仕方が怪しいな。今日の投石騒動だって、あいつ等は戸袋のかげにかくれて、初めから安全地帯にいて、何も傷つかなかった。偶然にしては出来過ぎている。何かあるんじゃないか」

「何が?」

 佐介は返事をしなかった。そのままの姿勢で一瞬の間に、佐介は眠りの世界に入っていた。やがて曽我ランコは板壁から背を引き離し、音のしないようにそっと立ち上った。土間へ降りた。

「あたし、もう帰るわ」

 少数のものを除いて、夜はほとんどの人間、ほとんどの物体を眠らせつつあった。その少数のもののひとつに、カレー工場の器械があった。数多(あまた)のウスとキネとをそなえたその大きな器械は、永遠の刑罰を受けた巨人のように、悲しげな音を立てながら、ガッシャ、ガッシャ、ガッシャと動いていた。寝しずまった周囲の中で、その周囲から憎悪されることによって、その音は孤独に自暴自棄に響きわたった。

[やぶちゃん注:「味醂」にルビがあったり、なかったりはママ。

「ノメクタ。ニエコヨ」「院長は小学校時代の習字の夢をみていた。彼は右手をふわふわと宙に浮かせ、くにゃくにゃと動かしながら、寝言を続行した」「レルキヤ。ヒセハホ」国立国会図書館デジタルコレクションの大塚治六著「硬毛兩様 書方の指導書 尋一」(大正一五(一九二六)年東洋図書刊)の「敎材解說並に指導法」の中に「第一 ノメクタ」「第二 ニエコヨ」「第三 フラソツ」「第四 レルキヤ」「第五 ヒセハホ」「第六 アカイモミヂ」等とある。ここに出るそれぞれは、「ノメクタ」が『斜畫の用筆法と右向の點の打方との二つを授ける』とあり、以下、「ニエコヨ」は『橫畫の用筆法とコとヨの曲り角の用筆法を授く』、「レルキヤ」は『勾』(かぎ)『と竪畫との用筆法を授ける』、「ヒセハホ」は『ヒセの第二畫の曲り角の用筆法を會得させる』とあった。なるほど! と一人合点した。

「一層積み夜具」消波ブロックの施工で「一層積み」「多層積み」があるが、私は蒲団にこうした謂い方をしたことがないのでちょっと不審で、何らかの誤記か誤植かと思ったが、既に牛島と乃木に使い、一枚しかない一つの蒲団を一度(「一層」)折りたたんだ(でないと「背をもたせ」られない)ものを指していると読んでおく。]

東西(とざい)東西(とーざい)――このところご覧に入れまするは「心 東富坂下の段」――東西(とーざい)東(とー)…………

 「十一月の寒い雨の降る日の事でした。私は外套を濡らして例の通り蒟蒻閻魔(こんにやくえんま)を拔けて細い坂路を上(あが)つて宅へ歸りました。Kの室は空虛(がらんど)うでしたけれども、火鉢(ひはち)には繼ぎたての火が暖かさうに燃えてゐました。私も冷たい手を早く赤い炭の上に翳(かざ)さうと思つて、急いで自分の室の仕切を開けました。すると私の火鉢には冷たい灰が白く殘つてゐる丈で、火種(ひたね)さへ盡きてゐるのです。私は急に不愉快になりました。

   *

 私はしばらく其處に坐つたまゝ書見をしました。宅の中がしんと靜まつて、誰の話し聲も聞こえないうちに、初冬の寒さと佗びしさとが、私の身體に食ひ込むやうな感じがしました。私はすぐ書物を伏せて立ち上りました。私は不圖賑やかな所へ行きたくなつたのです。雨はやつと歇(あが)つたやうですが、空はまだ冷たい鉛のやうに重く見えたので、私は用心のため、蛇の目を肩に擔いで、砲兵工廠の裏手の土塀について東へ坂を下りました。其時分はまだ道路の改正が出來ない頃なので、坂の勾配(こうはい)が今よりもずつと急でした。道幅も狹くて、あゝ眞直ではなかつたのです。其上あの谷へ下りると、南が高い建物で塞がつてゐるのと、放水(みづはき)がよくないのとで、往來はどろどろでした。ことに細い石橋を渡つて柳町(やなぎちやう)の通りへ出る間が非道(ひど)かつたのです。足駄(あした)でも長靴でも無暗に步く譯には行きません。誰でも路の眞中に自然と細長く泥が搔き分けられた所を、後生大事に辿つて行かなければなりません。其幅は僅か一二尺しかないのですから、手もなく往來に敷いてある帶の上を踏んで向へ越すのと同じ事です。行く人はみんな一列になつてそろ/\通り拔けます。私は此細帶の上で、はたりとKに出合ひました。足の方にばかり氣を取られてゐた私は、彼と向き合ふ迄、彼の存在に丸で氣が付かずにゐたのです。私は不意に自分の前が塞がつたので偶然眼を上げた時、始めて其處に立つてゐるKを認めたのです。私はKに何處へ行つたのかと聞きました。Kは一寸其處迄と云つたぎりでした。彼の答へは何時もの通りふんといふ調子でした。Kと私は細い帶の上で身體を替せました。するとKのすぐ後に一人の若い女が立つてゐるのが見えました。近眼の私には、今迄それが能く分らなかつたのですが、Kを遣り越した後で、其女の顏を見ると、それが宅の御孃さんだつたので、私は少からず驚ろきました。御孃さんは心持薄赤い顏をして、私に挨拶をしました。其時分の束髪は今と違つて廂が出てゐないのです、さうして頭の眞中に蛇のやうにぐる/\卷きつけてあつたものです。私はぼんやり御孃さんの頭を見てゐましたが、次の瞬間に、何方(どつち)か路を讓らなければならないのだといふ事に氣が付きました。私は思ひ切つてどろ/\の中へ片足踏(ふ)ん込(ご)みました。さうして比較的通り易い所を空けて、御孃さんを渡して遣りました。

 私は柳町の通りへ出ました。然し何處へ行つて好(い)いか自分にも分らなくなりました。何處へ行つても面白くないやうな心持がしました。私は飛泥(はね)の上がるのも構はずに、糠(ぬか)る海(み)の中を自暴(やけ)にどし/\步きました。それから直ぐ宅へ歸つて來ました。

『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月19日(日曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第八十七回より。太字は私が附した)

   *

私はリンク先で施した地理学的注のオリジナル性には今も強い自信を持っている。未読の方は、是非読まれたい。

 

 

2020/07/18

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 去来 四

 

       

 

 元禄十年の夏、去来は「贈晋渉川先生書」なる一文を草して其角に贈った。其角はこれを自己の撰集たる『末若葉(うらわかば)』の巻尾に掲げたが、去来の説に対しては何も答えなかった。しかるに風国(ふうこく)が『末若葉』と同年に出した『菊の香』を見ると、「贈晋渉川先生書」の外に「贈其角先生書」を録し、後者を「去来が正文」と称している。両者の趣意はほぼ同じものであるが、「贈其角先生書」の方が長くもあり、委曲を尽してもいるように思う。文末の日付は『末若葉』にある方が後になっているから、先ず風国のいわゆる正文を草し、これによって「贈晋渉川先生書」を作ったのかも知れない。

[やぶちゃん注:「元禄十年」一六九七年。

「贈晋渉川先生書」「晋渉川(しようせん)先生に贈るの書」。「渉川」は其角の号の一つ。

「末若葉」同年刊。「早稲田大学古典総合データベース」のこちらで原本を見ることができ、去来のそれはここここ但し、其角はこの原書簡にかなりの手を加えて、上手く自身の発句集の跋文に仕立て上げてしまっているのである。其角はやはり一癖二癖ある千両役者である。

「風国」伊藤風国(?~元禄一四(一七〇一)年)は蕉門俳人で京の医師。通称、玄恕(げんじょ)。俳諧選集「初蟬(はつせみ)」を元禄九年九月に出版したが、これが杜撰だと許六に非難されたことがある。芭蕉の作品集の最初の書である元禄十一年刊の「泊船集」の編者として蕉風の伝承に貢献した功労者でもある(伊藤洋氏の「芭蕉DB」の「芭蕉関係人名集」の彼の記載を参考にさせて戴いた)。

「菊の香」前注で出た先行して刊行した「初蟬」の誤りを訂正したもの。同年の九月の自序である。許六の批判に応じたものであろう。

「贈其角先生書」今泉準一氏の論文「芭蕉の其角評価」(『明治大学教養論集』第二五一号所収・PDF)の第四章で、同文の『去来が生前の芭蕉に其角の作風が芭蕉の作風と異なることを芭蕉に質問し、芭蕉がこれに答えた言が載っている』とされ、その当該部分が活字化されているので参照されたい。また、以前に紹介した、藤井美保子氏の論文「去来・其角・許六それぞれの不易流行――芭蕉没後の俳論のゆくえ「答許子問難弁」まで――」(『成蹊国文』二〇一二年三月発行・PDF)も大いに参考になる。特に「三 其角――不易を知る人――」では、「贈晋渉川先生書」と「贈其角先生書」とを比較して示されている部分は必読である。]

 

 去来は芭蕉が『奥の細道』の旅を了(お)えて洛に入った頃を以て、蕉門の俳諧一変の機と見ている。『ひさご』『猿蓑』の時代がそれで、去来自身もこの際に当って「笈(きゅう)を幻住庵に荷ひ、棒を落柿舎に受け」ほぼその趣を得た。その後に起った新風は即ち『炭俵』『続猿蓑』である。――去来はこれを冒頭にして、俳諧の不易流行の必ずしも二致あるにあらざるを論じ、「不易の句を知ざれば本立がたく、流行の句を学び[やぶちゃん注:ママ。]ざれば風あらたならず。能(よく)不易をしる人は往としておしうつらずといふ事なし。たまたま一時の流行に秀たるものは、たゞ己が口質(こうしつ)の時に逢(あう)のみにて、他日流行の場にいたりて一歩もあゆむ事あたはず」という見解を述べた。去来が其角の句に慊焉(けんえん)たる所以のものは、不易の句をよくせざるがためではない、むしろ流行の句において近来趣を失っている点にある、というのである。

[やぶちゃん注:「笈(きゅう)を幻住庵に荷ひ、棒を落柿舎に受け」去来の「贈晋子其角書」の冒頭部分(但し、「末若葉」では其角によって省略されている)。幸い、先の藤井美保子氏の論文に載るので、漢字を正字化して示すと(読みは私が振った)、

   *

故翁奥羽の行脚より都へ越(こし)給ひける比(ころ)、當門の俳諧一變す。我が輩、笈を幻住庵に荷ひ、棒を落柹舍に受けて、略(ほぼ)そのおもむきを得たり。『ひさご』『さるみの』是也。其後又一つの新風を起こさる。『炭俵』『続猿』是也。

   *

「不易の句を知ざれば本立がたく、流行の句を学びざれば風あらたならず。能(よく)不易をしる人は往としておしうつらずといふ事なし」これも「贈晋子其角書」の以上の冒頭に直に続く部分(但し、「末若葉」では其角によって大幅に省略されている。先の原本画像と比較されたい)。同じく藤井氏のそれを参考に、同前の仕儀で示す。踊り字「〱」は正字化した。

   *

去来問曰(とひていはく)、「師の風雅見及(みおよぶ)處、『次韻』にあらたまり、『みなし栗』にうつりてこのかた、しばしば変じて門人、その流行に浴せん事を思へり。我是を聞けり、句に千載不易のすがた有(あり)、一時流行のすがた兩端有(あり)。此(これ)を兩端におしへ[やぶちゃん注:ママ。]給へども、その本(もと)一なり。一なるは共に風雅の誠をとればなり。不易の句を知らざれば本立(たち)がたく流行の句を學び[やぶちゃん注:ママ。]ざれば風あらたならず。能(よく)不易を知る人は、往(ゆ)くとしておしうつらずといふ事なし。

   *

なお、藤井氏は「次韻」の箇所に注されて、『延宝九年』(一六八一年)『一月に京都信徳らの『七百五十韻』を継いで千句万尾させたもの』で、『連中は芭蕉・其角・才麿・揚水。俳諧革新をすすめた高い評価の選集。のちの蕉風には遠いが「贈晋子其角書」に「師の風雅見及ぶところ次韻にあらたまり」とある』とある。

「口質」くちぐせ。

「慊焉」「慊」には「満足」と「不満足」との二様の意があるため、「あきたらず思うさま。不満足なさま」と、正反対の(但し、多くは多く下に打消の語を伴って結果して前者同様の意に用いる)「満足に思うさま」の意がある。ここは無論、最初の意でよい。]

 

 其角はこれに答えなかったが、許六が横から出て「贈落柿舎去来書」を草し、其角のために弁ずると同時に、許六一流の俳論を持出した。去来は直に「答許子問難弁」を作り、つぶさに許六の説くところに答えている。これも元禄十年中の事である。その論旨に至っては一々ここに引用している遑(いとま)がないが、芭蕉歿後四年足らずにして、已に有力なる蕉門作家の間にかくの如き意見の対立を見たのであった。

[やぶちゃん注:「贈落柿舎去来書」(「落柿舍去來に贈るの書」)とと「答許子問難弁」(「許子が問難に答ふるの辯」)は既出既注の俳諧論書「許六・去来 俳諧問答」の中の一篇として載る。早稲田大学図書館古典総合データベースのここで読める。メインの一部の現代語訳が橘佐為氏のブログのこちらにある。]

 

 子規居士はこの問題に関し、「俳諧無門関」において次のように述べたことがある。

[やぶちゃん注:以下は底本では全体が一字下げ。前後を一行空けた。「俳諧無門関」は正岡子規の俳句研究の一篇だが、私は未見。執筆年も不明。]

 

蕉門の迦葉(かしょう)、舎利弗(しゃりほつ)、道に入るいづれか深く、説をなすいづれか正しき。正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)涅槃妙心実相無相微妙の法門は芭蕉これを去来に付嘱する時、其角別に変幻自在縦横無尽非雅非俗奇妙の俳門を立てて一世を風靡す。去来より見る、其角は外道(げどう)なり。其角より見る、去来は我見に執す。去来は不易に得て東に進む、其角は流行に得て西に走る。いよいよ進みいよいよ走り、しかして顧れば他の我を距る[やぶちゃん注:「へだつる」。]こといよいよ遠きを見る。かつ道(い)へ、那辺(なへん)かこれ風馬牛(ふうばぎゅう)相会する処[やぶちゃん注:「あいかいするところ」。]。

[やぶちゃん注:「風馬牛」本来は「馬や牛の雌雄が、互いに慕い合っても、会うことができないほど遠く隔たっていること」を謂い、転じて「互いに無関係であること。また、そういう態度をとること」を言う出典は「春秋左伝」僖公(きこう)四年の『風馬牛相 (あひ) 及ばず』に拠る。「風」は「発情して雌雄が相手を求める」の意である。]

 

 其角と去来とはその立場を異にし、また進路を異にする。所詮合致すべきものではない。これを同一の傘下に包容するのは、芭蕉の如き大人物の力を俟(ま)たなければならぬ。道を信ずること篤き去来が断々乎として「角の才の大なるを以て論ぜば、我かれを頭上にいたゞかん。角が句のいやしきをもつて論ぜば、我かれを脚下に見ん」といい放つ以上、両者手を携えて進むことは困難である。芭蕉歿後の俳諧は、外観的には必ずしも衰退を示さなかったかも知れない。ただ芭蕉在時の如き幅を失ったことは、この其角、去来対立の一事を以て見ても、容易に推察し得べき事柄である。

[やぶちゃん注:「角の才の大なるを以て論ぜば、我かれを頭上にいたゞかん。角が句のいやしきをもつて論ぜば、我かれを脚下に見ん」調べたところ、やはり許六の「俳諧問答」の中の「答許子問難辨」の、その「四」の一節である。私の所持する橫澤三郞校注岩波文庫版(一九五四年刊)は当時発見された善本である「專宗寺本」底本で、少し異なる。【 】は二行割注。

   *

來書曰、かれに及ぶ又門弟も見えず。
去來曰、是おそらく阿兄の過論ならんか。
 角が才の大なるを以て論ぜば、我かれを頭上
 にいたゞかん。角が句のひきゝを以て論ぜバ、
 我かれを脚下に見ん。况や俊哲の人をや。【予
 亢(アヤマツ)て此ㇾをいふにあらず。同門
 の句における、おそるべき者五六輩有。阿兄
 もその一人なり。】

   *

編者による頭注があり、「ひきゝ」の部分は従来、同書の底本に用いられていた寛政一二(一八〇〇)年冬十二月板行の蕪村の門の月居序の五冊本では、『いやしき』となっているとある。]

 

 当世の俳諧に慊焉たるだけ、去来の芭蕉に対する思慕の情は一層切なるものがあったに相違ない。

   翁の身まかり給ひし明る年の春
   義仲寺(ぎちゅうじ)へ詣て

 石塔もはや苔づくや春の雨       去来

というのは元禄八年の事であろう。

   芭蕉翁の奥の細道を拝してその
   書写の奥に書付けける

 ぬれつ干つ旅やつもりて袖の露     去来

[やぶちゃん注:「干つ」は「ほしつ」。]

 これは何時(いつ)の句か明(あきらか)でないが、「袖の露」の一語にはやはり追慕の情が籠っているように思われる。

   三回忌

 夢うつゝ三度は袖のしぐれかな     去来

   木曾塚にて

 船馬にまた泣よるや神無月       同

 「船馬」の句は元禄十六年の『幾人水主(いくたりかこ)』に出ている。芭蕉歿後年を重ねた門弟たちが、十月十二日となればあるいは馬に乗り、あるいは船によって栗津の義仲寺に集って来る、その情想いやるべきものがある。「はや苔つく」と去来の歎じた石塔も、更に古びを加えたことであろう。「船馬に」の上五字も、「また泣よるや」の中七字も、重々しいところに去来の面目が現れている。

   故翁の霊を祭りて

 里人も一門なみや魂まつり       去来

[やぶちゃん注:座五は「たままつり」。]

 この句は元禄十一年の『続有磯海』にある。毎年の忌日は固より、盂蘭盆(うらぼん)の来るごとに師翁の霊を祭ったものと見える。句作らぬ里人をも、一門の俳人並にして霊祭をするというのは、去来の去来たる所以であろう。

 芭蕉と去来との間に最も忘れがたい形見をとどめた嵯峨の落柿舎はどうなったか。元禄八年の『笈日記』に

   落柿舎

 放すかと問るゝ家や冬ごもり      去来

[やぶちゃん注:中七は「とはるるいへや」。「笈日記」(おひにつき(おいにっき))は支考編。]

という句があり、同九年の『小文庫(こぶんこ)』には、

   芽立より二葉にしげる柿の実と申侍りしは
   いつの年にや有けむ彼落柿舎もうちこぼす
   よし発句に聞えたり

 やがて散る柿の紅葉も寐間の跡     去来

[やぶちゃん注:「芽立」は「めだち」、座五「柿の実」は「かきのさね」と読む。「彼」は「かの」。]

ともある。「放すか」は手放すかの意であろう。師翁仮寐の迹であるから、永久にこれを存したいというのも一面の人情であるが、その人已に亡し、何を以てかこれをとどめむ、というのもまた一面の人情である。去来のような性格の人にあっては、あるいはこの思出の地に住するに堪えなかったかも知れない。

 「芽立より二葉にしげる」というのは丈艸の句である。従ってここに「うちこぼすよし」を発句で告げ来った者は丈艸であろうと思う。『丈艸発句集』に

   落柿舎すたれける頃

 渋柿はかみのかたさよ明屋敷      丈艸

とあるのがそれに当るのであろうか。かつて師翁もとどまり、自分も起臥した寝間の跡に、やがて散るべき柿の紅葉を想像する。そこに無限の感慨を蔵している。この前書の文章から考えると、落柿舎はこの時已に去来の有でなかったに相違ない。

 元禄十一年の『梟日記(ふくろうにっき)』に支考が長崎で去来に逢ったことを記して、

[やぶちゃん注:以下引用は全体が二字下げ。前後を一行空けた。「梟日記」は支考編。但し、宵曲は「元禄十一年」とするが、元禄十二年刊の誤り。]

 

牡年(ぼねん)魯町(ろちょう)は骨肉の間にして卯七(うしち)素行(そこう)はそのゆかりの人にてぞおはしける、この外の人も人つどひて丈艸はいかに髪や長からん、正秀(まさひで)はいかにたちつけ著る秋やきぬらん、野明(やめい)はいかに、野童(やどう)はいかに、為有(ためあり)が梅ぼしの花は野夫にして野ならず、落柿舎の秋は腰張(こしばり)へげて月影いるゝ槙(まき)の戸にやあらんと是をとひかれをいぶかしむほどに

[やぶちゃん注:「牡年」久米牡年(くめぼねん 明暦四・万治元(一六五八)年~享保一二(一七二七)年)肥前長崎の人。去来や以下の魯町の実弟。通称は七郎左衛門。長崎町年寄。「有磯海」以前は「暮年」、それ以後は「牡年」の号を用いた。「あら野」・「有磯海」・「韻塞」・「渡鳥集」などに入句する(以下、概ね伊藤洋氏の「芭蕉DB」の「芭蕉関係人名集」に拠った)。

「魯町」向井魯町(?~享保一二(一七二七)年)。肥前長崎の人。去来の弟で牡年の兄。通称は小源太。儒学者で長崎聖堂の大学頭(だいがくのかみ)であり、また江戸幕府長崎奉行所の書物改役(あらためやく)も務めた。「有磯海」・「猿蓑」・「己が光」などに入句。去来との兄弟愛は去来の作品にもよく表われている。

「卯七」箕田卯七(みのだうしち ?~享保一二(一七二七)年)。肥前長崎の人。通称は八平次。去来の義理の従兄弟。江戸幕府の唐人屋敷頭(とうじんやしきがしら)を勤めた。去来の追善集「十日菊」を編纂、「有磯海」などに入集する。去来との共著「渡鳥集」がある。

「素行」久米素行(くめそこう ?~享保一七(一七三二)年)。長崎の人。久米調内。去来の門人で長崎為替取次役人であった。

「丈艸」内藤丈草(寛文二(一六六二)年~元禄一七(一七〇四)年)。蕉門十哲の一人。尾張犬山藩士内藤源左衛門の長子として生まれたが、内藤家は没落し、彼は武士を捨てて遁世、近江松本に棲んだ。元禄二年、元犬山藩士でもあった仙洞御所に勤める史邦(ふみくに:本「去来」の次の次で独立して語られる)を通じて去来経由で蕉門に入ったものと考えられている。 後に膳所義仲寺境内の無名庵に住み、芭蕉の近江滞在中は芭蕉の身辺で充実した時を過ごした。詩禅一致の道をひた向きに求めながらも、芭蕉の死後、自らの死までの十年の間、ひたすら、師の追善に生涯を捧げて世を去った。享年四十三。本「去来」の次に独立して語られる。

「正秀」水田正秀(みずたまさひで ?~享保八(一七二三)年)。近江生まれで大津膳所の湖南蕉門の有力な一人。通称、孫右衛門。藩士或いは町人であったとも言われ、後に医者となった。初めは尚白に師事したが、元禄三年秋に蕉門に入った。彼は膳所義仲寺に於ける芭蕉のパトロンでもあった。

「たちつけ」「裁ち着け」で袴の一種。膝から下の部分を脚絆のように仕立てたもので、旅行の際などに用いる。「たっつけばかま」のこと。

「野明」坂井野明(?~正徳三(一七一三)年)。博多黒田家の浪人。姓は奥西とも。去来と親交が深く、嵯峨野に住んだ。野明の俳号は芭蕉が与えたもので、「鳳仭(ほうじん)」とも称した。

「野童」(~元禄一四(一七〇一)年)。仙洞御所の役人。京都蕉門の一人。元禄十四年の夏、御所で落雷に打たれて亡くなった。「猿蓑」・「有磯海」などに入集。

「為有(ためあり)が梅ぼしの花」意味不詳。「為有」という人物も判らぬ。識者の御教授を乞う。

「野夫」「やぶ」。匹夫野人。

「野ならず」「やならず」と読んでおく。肝心の前部分が判らぬので、ここも意味が判らぬ。

「落柿舎の秋は腰張(こしばり)へげて月影いるゝ槙(まき)の戸にやあらん」「枕草子」に引かれて人口に膾炙する白居易の知られた七律「香爐峰下新卜山居草堂初成偶題東壁」(香爐峰下、新たに山居を卜(ぼく)し、草堂初めて成り、偶(たまたま)東壁に題す)の第四句「香爐峰雪撥簾看」(香爐峰の雪は簾を撥(かか)げて看る)を諧謔したもの。建物の「腰」とは壁の中間部分から下を指し、壁の下の部分に、上とは異なる仕上げ材を張ることを「腰張り」と称する。「槙」は「真木」で、ここは「良質の木」、木材として優れた杉や檜の類い。「落柿舎の秋は、障子を閉めて、壁の腰張りだけを剝ぎ取って、そこから月の光を室内に通わせる、槇(まき)で出来た扉(とぼそ)も閉じて感じるもの」の謂いであろう。月本体は見ぬのを風雅とするのである。]

 

といい、

 そくさいの数にとはれむ嵯峨の柿    去来

   返し

 柿ぬしの野分かゝへて旅ねかな     支考

という応酬を録している。これではまだ落柿舎は依然たるもののようであるが、その間の消息はよくわからない。去来自身も「嵯峨にひとつのふる家侍る」といい、芭蕉も「処々頽破す」と認めている位だから、落柿舎なるものは早晩何とかせねばならぬ頽齢にあったものかとも考えられる。

[やぶちゃん注:去来と芭蕉の引用はとっくに既出既注。

「そくさい」息災。

「野分」(のわき)は「野の草を風が強く吹き分ける」の意で、秋から冬にかけて吹く暴風。特に二百十日・二百二十日前後に吹く大風。]

 

 去来の句にはまた順礼の途に上ったらしいものが散見する。『笈日記』に

   此夏回国の時みのにて申侍る

 夏かけて真瓜も見えず暑かな      去来

[やぶちゃん注:「真瓜」は「まくは」でスミレ目ウリ科キュウリ属メロン変種マクワウリ Cucumis melo var. makuwa のこと。座五は「あつさかな」。]

とあるのが最も早いようであるが、三年後の『猿舞師(さるまわし)』には「所々順礼して美濃の国に至る」とあり、句も「美濃かけて真桑も見えず暑かな」と改められている。『猿舞師』と同年の『淡路嶋(あわじしま)』

 卯の花に笈弦さむし初瀬山       去来

[やぶちゃん注:「笈弦」は「おひずる」であるが、漢字表記は「笈摺」が正しい。巡礼が着物の上に着る単(ひとえ)の袖なしを指す。羽織に似ており、笈によって背が擦(す)れるのを防ぐために着るものとされるが、構成が左・右・中の三つの部分から成っており、両親のある者は左右が赤地で中央は白地、親のない者は左右が白地で中央に赤地の布を用いるという習慣があった。「おゆずる」とも呼ぶ。

「初瀬山」(はつせやま)は現在の奈良県桜井市初瀬(はせ)にある山(五四八メートル。グーグル・マップ・データ航空写真)。長谷寺の北西。歌枕。古くは「はつせ」と読んだ。

「猿舞師」種文編。元禄十一年刊。

「淡路嶋」諷竹編。]

 

とあり、元禄十四年の『そこの花』にも

 順礼も仕舞ふや襟に鮓の飯       去来

[やぶちゃん注:「襟」は「えり」。「鮓」は「すし」。

「そこの花」万子編。元禄十四年刊。]

というのがある。こういう撰集に取入れられる句は、必ずしもその年のものに限られているわけではないから、この順礼は思うに同一の場合であろう。『喪(も)の名残(なごり)』(元禄十年)にある

   美濃近江の堺寐物語の茶店にて

 夏の日にねものがたりや棒まくら    去来

という句もあるいは同じ時の作であるかも知れない。去来順礼の事は専門研究家に俟つより仕方がないが、とにかくこういう事実のあったことだけは、如上(じょじょう)の句によって立証することが出来る。もし『笈日記』の出た元禄八年の事と仮定するならば、芭蕉を喪(うしな)った翌年であることに注意すべきであろう。

[やぶちゃん注:「喪の名残」北枝編。

「堺」さかい。国境(くざかい)。

「寐物語」「ねものがたり」。ここ明らかに「美濃」と「近江」の国「堺」の「茶店」に泊まった夜の寝物語という設定であるが、当時は宿駅以外の宿泊は禁じられており、しかも街道の茶店などは人を泊めることは禁ぜられていた。しかし、当然の如く、よんどころない理由で茶店などに一泊を求め、内々にそうしたことを茶店などが許したケースが頻繁にあったようである。例えば、私の「耳囊 卷之九 不思議の尼懺解(さんげ)物語の事」を読まれたい。

「棒まくら」「竹夫人(ちくふじん)」のことであろう。竹で作られた筒状の抱き枕のこと。]

 

 元禄十四年七月、風国が亡くなった。

   悼風国

 朝夕に語らふものを袖の露       去来

という句が『そこの花』にある。去来の俳壇における地位は押しも押されもせぬものであったが、自家勢力の扶植(ふしょく)につとめなかった彼は、門葉を擁する一事になると、其角は勿論、嵐雪にも遠く及ばなかった。風国は去来の甥の一人であるが、同時に有力な俳諧の弟子でもある。最初の芭蕉句集である『泊船集』を編んだ外に、『初蟬』『菊の香』等の撰者として、風国の名は去来門下の随一に算えらるべきであろう。芭蕉が難波で最後の病牀に就いた時、北野の南に一軒の家を借り、養生所に宛てるつもりで心構[やぶちゃん注:「こころがまえ」。]したのは風国であった。「朝夕に」の句は句として大したものでなく、かつて嵐蘭を悼んだ

 千貫のつるぎ埋けり苔の露       去来

[やぶちゃん注:「埋けり」は「うめけり」。]

の如き力は発揮されていないけれども、それだけにまた風国に対する親しさが現れている。朝夕に語らうべき風国を喪ったことは、去来に取って大なる寂寞(せきばく)であったに相違ない。

[やぶちゃん注:「扶植」勢力などを、植えつけ、拡大すること。

「北野」京都の汎称地名。北野天満宮や、現在も北野を冠した町名が多くある。この付近(グーグル・マップ・データ)。]

梅崎春生 砂時計 21

 

     21

 

 夜更(ふ)けの夕陽養老院の中央階段を、在院者代表の八老人は二列縦隊となり、両側の手すりにすがりながら、黙々として降りて来た。階段の上り降りは年齢の関係上、手すりにすがってやるのが、当院一般のしきたりになっている。だから手すりには長年の老人たちの脂(あぶら)がしみ込んで、ねとねとと黝(くろ)ずんでいた。降り切った一行は、言葉を発するのももの憂いらしく、お互いに眼くばせのようなことをし合ったまま、ぞろぞろと東寮のどんづまりの部屋の方に歩き出した。歩き出さないのはニラ爺だけであった。ニラ爺は皆の眼を盗み、階段のかげにちょこちょこと隠れ込んだ。

「くたびれたあ、ほんとにへとへとや」廊下を遠ざかってゆく七老人の後ろ姿を、情なさそうに見送りながらニラ爺はつぶやいた。「院長も院長だが、あの爺さんたちも爺さんたちや。実際みんな詰まらんことによく頑張るなあ。仲間に入れられて、おれ、ほんとに迷惑するわ」

「ほんとに迷惑だったなあ」院長室で黒須院長は鰻(うなぎ)のマッチで一服つけながら、回転椅子をギイと鳴らして木見婆の方に向き直った。「もっともこんなに遅くなったのは、まるまるわたしの責任じゃない。爺さんたちがあまりにもワカラズヤだもんだから、ついついこんなに会見が長引いた。わたしもくたびれたが、立会いのあんたも相当にくたびれただろう。まったくもの判りの悪いあの爺たちには、流石(さすが)のわたしも手を焼いたよ。はっはっはあ」

 木見婆は籐椅子にもたれたまま、別に笑いに和することもせず、ぶわぶわ顔をかすかに動かしただけであった。木見婆はくたびれてもいたけれども、会見の長談義に退屈してすっかり眠気をもよおしていたのだ。(もう話し合いも終ったんだから、早く戻してくれればいいのに)と木見婆は考えた。

「明日は月例の経営者会議の日だ」木見婆のそんな気持を察することなく、黒須院長は、ゆうゆうと足を組み、大きな煙の輪をふき上げた。「だから、いつものように、特別献立(こんだて)を六食分、用意して呉れ。あの連中ときたら口は奢(おご)っているし、それにそろってうるさ型と来ているから、材料や味つけに手抜かりなく、しかるべく頼むよ」

「はい」木見婆はぽたりとうなずいた。

「わたしは今日ウナギを食ったが、割に旨(うま)かった。明日の特別食にもウナギを一串(ひとくし)つけるといいな。いや、御苦労だった。それじゃ今夜はこれで引取ってよろしい。今夜の仕事は特別だし、それに臨時だったから、夜勤料は特別に二倍につけて上げる」院長は老獪(ろうかい)に眼を細め、恩着せがましい声を出した。「今日あんたが立会人をやらせられたのも、原因はあの栗山佐介書記が怠慢したからだ。電報がとっくについている時刻なのに、まだもって登院して来ない。明かに栗山の怠慢だ。だからあんたの特別夜勤料は、栗山の日給から差引くことにしよう。そうすればこの院長たるわたしは、全然ふところが痛まず損得なしと言うことになる。わっはっはあ」

「御用はそれだけでございますか」籐椅子をギイと鳴らして木見婆は立ち上った。「それではこれで帰らしていただきます」

「夜は更(ふ)けたし、それに夜道は辷るから、用心するんだよ」黒須院長ものそりと立ち上り、窓ぎわに歩み寄って外部の様子をうかがった。「雨はもう止んだようだな」

「止んだようでございます」

 木見婆は院長の幅広い背中に一礼して、扉の外にそっと辷り出た。院長は曇りガラスの窓を音のしないように押しあけた。コの字型の建物の屋根の稜線(りょうせん)のかなたに暗い空がひろがり、時折音響を伴なわぬ稲妻が、かなたのかなたで小さくひらめいては消滅した。院長は頭をめぐらせて今度は中庭を見おろした。中庭も鬱然たる闇に沈み、それをめぐる部屋々々の燈も消えていたが、ただ一部屋だけ、東寮どんづまりのれいの部屋だけが燈をあかあかともし、その光は窓ガラスを通して、中庭の一部をぼうと明るく浮き出していた。院長の眉の根はとたんにぐいとふくらみ、眼もふたたびあのたけだけしい光を取り戻した。その窓ガラスにその時ちらと動くひとつの人影が見えた。院長はあわてて院長室の窓を閉じた。

(うん。懐柔と恫喝(どうかつ)。今日わしは確乎たる信念をもってやったつもりだが、思いのほか成果は上らなかったようだ)

 奥歯をぎりぎりと嚙み合わせながら、院長は室を斜めに横切り、隅の大きなソファーにごろりと横になった。憤怒と悔恨が院長の分厚い胸の中で波立ち騒いだ。

(残念ながら今夜は、あいつ等にも相当点数を稼がれた。今度からは細心に計画を立てて、敵に乗ずる隙をあたえないようにしよう。たしかにあいつらはアカの戦術を用いている。歴史ある当養老院に赤色分子が入りこむなんて、言語道断だ。芽のうちに摘み取らねば、どういうことになるか判らんぞ。よし。ニラ爺を督励(とくれい)して、きゃつ等一人々々の思想傾向、読書傾向を調査させよう。しかし、ニラ爺にそれが勤まるかどうか、実際あの爺はたよりないからなあ。勤まらなきゃ、やはりリヤカー破損の名目で、追い出すより他はないなあ)

 木見婆も手すりにすがり、中央階段をぼとりぼとりと降りていた。丁度(ちょうど)降り切ったところを、横あいからいきなりぐいと腕を摑(つか)まれ、木見婆はびっくりして棒立ちとなり、ヒイッと呼吸(いき)を引いた。腕を摑んだのはニラ爺であった。木見婆をびっくりさせたことに満足したらしく、ニラ爺は眼を細めてにやにやと笑っていた。

「びっくりさせるじゃないか」木見婆はつっけんどんに言って腕を振り離そうとした。しかしニラ爺の握力は案外に強く、振り離すことが出来なかった。「なんだい。あたしに何の用事があるんだい」

「お互いに今夜は辛かったねえ」ニラ爺は顔を皺(しわ)だらけにした。「つまらん会議で、おれ、ほんとに退屈したよ、おれもちょっと居眠りしたが、木見婆さんも盛んに居眠りしてたねえ」

「つまらないことを言わないでよ」木見婆は腕を振り離すことはあきらめ、ニラ爺の顔を正面から見詰めた。「あたし、もう家に帰らなきゃ。夜遅いんだよ。一体何の用事だい」

「おれ、さっきからここに隠れて、あんたが降りてくるのを待ってたのや」ニラ爺は木見婆の腕を摑んだまま廊下を歩き出した。「おれ、実を言うと、お腹がすっかり空いたのや。それにくたびれたもんで、甘いものが滅法欲しくなった」「甘いもの?」引きずられるようにして歩きながら木見婆が言った。「甘いものなら先刻、しこたま食べたじゃないか。白砂糖をどっさりさ」

「あれだけじゃ足らん」

「足りないことないよ。あたしが見てたら、つまんでは砥め、つまんでは砥め、一合ぐらいは砥めてしまったじゃないか」

「なんや、あんたはあの時、泣き真似をしてたのか。達者な婆さんやなあ」ニラ爺はふたたびにやにやと頰をゆるめた。「あんたが呉れんと言うのなら、おれ海坊主に直接かけ合ってくる。かけ合いの次第によっては、おれ、何をしゃべり出すかわからんぜ」

「あたしをおどすつもりなの?」

「何もおどすつもりじゃないが、なりゆきではそんなことになるかも知れんと言うことや」まわりくどい言い方をしながら、ニラ爺は手の握力を強めたり弱めたりした。そして二人は食堂の調理場の扉の前で立ち止った。

「魚心あれば水心あり。古人はほんまにええことを言うたなあ」

「厭らし!」

 木見婆は口の中でつぶやき、諦めたように調理場の扉の鍵をはずした。ニラ爺は摑んだ掌を離して、あたりを油断なく見回し、木見婆のあとにつづいて、すばやく調理場の中に飛び込んだ。そして扉をそっとしめた。

「おとなしそうに見せかけて、あんたという爺さんは、ほんとに悪だね」かるく舌打ちして木見婆が言った。「あたしみたいなか弱い女性を脅迫して、なにが面白いのさ」

「か弱い女性だなんて、可愛いことを言うねえ」

 ニラ爺は相好(そうごう)をくずして、人差指で木見婆の頰をチョイとつついた。木見婆の頰はぶよぶよだし、ニラ爺の指は筋張って脂がぬけているので、その動作や接触も、若い日の如くにはスムーズに行かなかった。しかしとにかくそうしたことによって、二人のすでに硬化した情緒はいくらかほぐれ、かすかに揺れ動いたかのように見えた。

「あんたがか弱い女性なら、おれだってか弱い男性や。か弱い女性とか弱い男性。か弱い同士で団結しようじゃないか。団結すればこの世に恐いものはないぜ」

「一体何が欲しいのさ」

「そうだねえ」ニラ爺は唇のはしに唾をためながら、調理場をぐるぐると見回した。目移りがするらしく、ニラ爺の視線はきょときょとと落着かなかった。「そうやなあ。何から食べようかなあ。おれ、ほんとに迷ってしまうなあ」

「早くしなさいってば!」木見婆はいらだたしげに言った。「迷うことなんか、ないじゃないの。ほんとに食い意地が張ってんのねえ。さっさと食べたいものを言えばいいじゃないの。夜も遅いんだよ。あたし、早く家に帰らなくちゃ困るんだよ。さあ。何が食べたいのさ。さっさと言わなきゃ、あたしもう帰っちゃうよ!」

 

「俺、今晩、泊めて貰うぜ」ぐったりと畳の上に腹這いになりながら、牛島康之は怒ったような声を出した。「こんなにくたびれて、これ以上歩けるか」

 しかし牛島は怒っているのではなく、疲れ果てているのであった。さんざん歩き回り、デパートでは木馬に乗り、駅では待たせられ、協議会では組打ちをやり、またせっせとくすぐり、今や牛島は完全にくたびれていた。乃木七郎も牛島の真似をして畳に腹這いになった。彼も大笑いに笑った挙句、すっかりくたくたに笑い疲れていたのだ。佐介は板壁に背をもたせ、両足を投げ出していた。彼ももちろん睡眠不足や組打ちなどのために徹底的にくたびれていた。疲労が彼の顔をうすぐろく隈(くま)どっていた。元気なのは曽我ランコだけであった。曽我ランコの顔は、夜が更(ふ)けるにしたがって、ますます生き生きと冴えてきた。

「ほんとに笑いくたびれました」乃木七郎は頰杖をついたまま、佐介の顔を上目で見た。「わたしも今晩、ここに泊らせていただきます」

「あたり前だ」牛島がきめつけた。「帰ろうたってお前、帰る家も覚えてないじゃないか。一人前の口をきくな!」

 佐介はのろのろと立ち上った。納屋の隅に積まれた夜具の中から、毛布を一枚ひっぱり出し、それを牛島の背に投げてやった。牛島は座蒲団に手を伸ばし、ぐるぐると丸めて枕の形にして、頭をごろりとあてがった。そして大きなあくびをした。乃木も真似をしてごろんと横になった。

「このままこの二人を、野放しで寝かせるつもり?」曽我ランコが言った。「このままじゃあぶないわよ。皆が眠ってしまったら、その隙に逃げ出すかも知れないもの」

「大丈夫だろう」佐介は小さくあくびをした。「たいてい大丈夫だよ。僕も牛さんもくたびれているから、不寝番に立つ気力はない。それとも曽我君が立って呉れるかい」

「イヤよ!」曽我ランコはそっけなく拒絶した。「いい方法があるわ。このX氏に催眠薬をむりやりに服(の)ませたらどう? そうしたら明朝まで眠りつづけると思うんだけど」

「催眠薬、あったかな?」佐介は小机の方に蟹(かに)のように横這いをした。引出しをごそごそと探した。「あった、あった。少し残っていた。服用させてみるか。しかしもし、X君が服みたくないと言えば、ムリに服ませるわけにも行かないだろうな。基本的人権というものがあるし」

「あんた、服む?」曽我ランコは乃木七郎を上からきっと見据え、猫撫で声で言った。「眠り薬よ。これを服むと天国に行ったみたいにぐっすり眠れるのよ」

「服ませていただきましょう」ためらうことなく乃木七郎は答えた。「粒ですか。粉ですか? わたしは天国が大好きです」

「服んで呉れるか」と佐介がほっとしたように言った。「君の保管は僕の責任になっているんだ。曽我君。水をコップに頼む」

 曽我ランコはコップを手にして、いそいそと納屋を出て行った。佐介は積み夜具から蒲団を一枚引っぱり出した。ランコはいそいそと戻ってきた。蒲団を投げてやるはずみに、佐介の足が行李に触れ、行李の上の赤い卓上ピアノは乱雑な鳴動音を立てながら、畳の上にころがり落ちた。乃木七郎はびっくりしたように首を立てた。牛島は微動だにしなかった。彼はすでにかすかにいびきをかき、完全なる眠りに入っていた。

「もう眠ったのかい」佐介は卓上ピアノを拾い上げた。

「早いもんだね。まったく健康児童だ」

「はい。水」

 皆我ランコは乃木にコップを手渡した。佐介は片手でピアノを摑み、片手に薬を持って、乃本の枕もとにあぐらをかいた。乃木はごそごそと身体を起した。

「薬を服む前にだね」佐介は言った。「このピアノをひいてみなさい」

 乃木は佐介の顔を見た。そして指を鍵盤に近づけたが、指はそのまま困ったように宙にためらった。佐介はその指の動きをじっと眺めていた。

「もう、いいよ」佐介はピアノを引っこめた。「さあ、催眠薬」

「何なの、それ?」曽我ランコが訊ねた。「何の真似?」

「いや、この人が過去において、音楽に関係があったかどうか、ちょっとためしてみたんだ」

「止しなさいよ。バカバカしい」曽我ランコは失笑した。

「それよりかその卓上ピアノを、この人の足にくくりつけとくのよ。そうすれば万一催眠薬が覚めて、逃げ出そうとしても、音がするでしょう。すぐに感づかれて、逃げ出せ

なくなるわ」

「それもいい考えだ」佐介は乃木七郎の掌の上に、白い錠剤を二粒乗せてやった。「嚙まない方がいいよ。嚙むとにがいよ」

「いただきます」

 乃木七郎は錠剤をひょいと口の中に放り込み、ゴクゴクと水と共に呑み込んだ。そしてけろりとした表情で頭を下げ、そのままごろりと横になった。佐介の手がかけ蒲団の具合を直してやった。

「おやすみなさい」

 乃木七郎は眼をつむった。

 佐介と曽我ランコは、その乃木の顔をじっと監視していた。沈黙のまま、五分間ほど経った。乃木七郎の呼吸はようやく深く、緩慢となり、眠りの翳(かげ)が顔一面にじわじわとひろがってきた。二人は顔を見合わせた。曽我ランコは卓上ピアノを手元にそっと引寄せながら、ささやくような声で言った。

「厄介な人間の身柄を引き受けたもんね。あなた、あの時、率先(そっせん)して手を挙げたけれど、どういう気持だったの。好きこのんでこんな貧乏くじを引かなくてもいいじゃないの。それとも、この男がそれほど僧かった?」

「憎かったんじゃない」佐介はどもった。「に、にくいんじゃない。なにか興味があったんだよ。興味が」

 

今日、先生の不審の致命的な再燃が始まる――

 たしか十月の中頃と思ひます、私は寢坊をした結果、日本服の儘急いで學校へ出た事があります。穿物(はきもの)も編上などを結んでゐる時間が惜しいので、草履を突つかけたなり飛び出したのです。其日は時間割からいふと、Kよりも私の方が先へ歸る筈になつてゐました。私は戾つて來ると、其積で玄關の格子をがらりと開けたのです。すると居ないと思つてゐたKの聲がひよいと聞こえました。同時に御孃さんの笑ひ聲が私の耳に響きました。私は何時ものやうに手數のかゝる靴を穿いてゐないから、すぐ玄關に上がつて仕切の襖を開けました。私は例の通り机の前に坐つてゐるKを見ました。然し御孃さんはもう其處にはゐなかつたのです。私は恰もKの室から逃れ出るやうに去る其後姿をちらりと認めた丈でした。私はKに何うして早く歸つたのかと問ひました。Kは心持が惡いから休んだのだと答へました。私が自分の室に這入つて其儘坐つてゐると、間もなく御孃さんが茶を持つて來て吳れました。其時御孃さんは始めて御歸りといつて私に挨拶をしました。私は笑ひながらさつきは何故逃げたんですと聞けるやうな捌けた男ではありません。それでゐて腹の中では何だか其事が氣にかゝるやうな人間だつたのです。御孃さんはすぐ座を立つて緣側傳ひに向ふへ行つてしまひました。然しKの室の前に立ち留まつて、二言三言内と外とで話しをしてゐました。それは先刻の續きらしかつたのですが、前を聞かない私には丸で解りませんでした。

 そのうち御孃さんの態度がだん/\平氣になつて來ました。Kと私が一所に宅にゐる時でも、よくKの室の緣側へ來て彼の名を呼びました。さうして其處へ入つて、ゆつくりしてゐました。無論郵便を持つて來る事もあるし、洗濯物を置いて行く事もあるのですから、其位の交通は同じ宅にゐる二人の關係上、當然と見なければならないのでせうが、是非御孃さんを專有したいといふ强烈な一念に動かされてゐる私には、何うしてもそれが當然以上に見えたのです。ある時は御孃さんがわざ/\私の室へ來るのを回避して、Kの方ばかり行くやうに思はれる事さへあつた位です。それなら何故Kに宅を出て貰はないのかと貴方は聞くでせう。然しさうすれば私がKを無理に引張つて來た主意が立たなくなる丈です。私にはそれが出來ないのです。

『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月18日(土曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第八十六回より。太字下線は私が附した)

   *

「心持が惡いから休んだ」とは――後に――誰かさん――が自身のエゴイズム実行のためにつくおぞましい偽りの行動――と外見上は全く同じである。それは全くの偶然だろうか? 偶然だとしても、この時――先生の中で一つのスイッチがオンになってしまったこの瞬間のKの台詞と一致する――ということは、激しく気になることではある(最下部参照)。

   *

最後の太字下線部分は明らかに作者漱石の罹患体験に由来する先生の強迫神経症的認識部分と言える。

   *

 一週間の後(のち)私はとう/\堪へ切れなくなつて、假病を遣ひました。奥さんからも御孃さんからも、K自身からも、起きろといふ催促を受けた私は、生返事をした丈で、十時頃迄蒲團を被つて寐てゐました。私はKも御孃さんもゐなくなつて、家の内がひつそり靜まつた頃を見計つて寢床を出ました。私の顏を見た奥さんは、すぐ何處が惡いかと尋ねました。食物(たべもの)は枕元へ運んでやるから、もつと寐てゐたら可からうと忠告しても吳れました。身體(からだ)に異狀のない私は、とても寐る氣にはなれません。顏を洗つて何時もの通り茶の間で飯を食ひました。其時奥さんは長火鉢の向側から給仕をして吳れたのです。私は朝飯とも午飯とも片付かない茶椀を手に持つた儘、何んな風に問題を切り出したものだらうかと、そればかり屈託してゐたから、外觀からは實際氣分の好くない病人らしく見えただらうと思ひます。

『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月30日(木曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第九十八回より)

 

2020/07/17

三州奇談續編卷之七 布施の白龍

 

    布施の白龍

 氷見は古(いにしへ)の大郡(だいぐん)の名、今に國府をし「氷見の庄古國府(ふるこふ)」と書く。上古は「火見」と云ひし。海上火光の靈あるに依りしと聞きしが、中頃火災に忌むことありて、「氷見」と改むと云ふ。尙又「郡内」の稱あり。古き山人は今に氷見に出づるを「郡内(ぐんない)へ行く」と稱(とな)ふ。されば有磯海(ありそうみ)を前に抱へ、布勢の湖(うみ)を後ろに湛ふ。布勢湖(ふせのうみ)は、凡一二里丸山と云ふに、中納言家持の勝遊の樓の跡と云ふあり。今は式内の神布施明神ましくて、宮柱古び、藁のやね纔(わづか)に舊(きう)を思ふ媒(なかだち)となれり。里俗云ひ傳へて、

「爰にて栗三本を見れば下に金(かね)を埋(うづ)めあり」

と云ふ。一說には此宮を「御影(みかげ)の神社」と云ひ、布施の神社は地(ち)沒して定かならずとも云ふ。向ひに「三社が崎」あり。扨は古代神主爰に多かりしと知る。古墳も又多し。「十三塚」・「十三入江」とも云ふ。其古墳雅(みやび)なるを知らず。「萬葉」布施の詠歌多し、算(かぞ)へ云ふベからず。「雪島」と云ふに撫子(なでしこ)をよみ合せたるも見ゆ。今や世人唐島(からしま)をさして「雪の島」とすれども、是れは非ならん。思ふに「いくぼ」・「ゆやまの池」及び三社の端(はし)などのうちと思はる。今は布施の湖、多く桑田となり減じて、其景悉く失して國用の富饒(ふぜう)の地となる。故に景秀でたるに非ず。依りて今唐島の絕景なるに付すれども、必ずさにあらじ。けふ此丸山に登りて遠望するに、氷見の地橫たはり、濱松は左右に連(つらな)り、此上を蜑(あま)の釣舟或は沖の白帆など打越えて見ゆるさま、繪も及ぶべからず。况や目の下の靑田悉く布施の湖ならんには望景絕勝ならざらんや。或人云ふ、

「中頃飯久保(いくぼ)に狩野中務(かのうなかつかさ)が籠りし頃は海なり。飯久保大手先を「南條(なんぜう)の浮橋(うきはし)」と云ひ、今(いま)田となれども、大雨洪水の折は浮(うき)ありくと云ふ。猶又近く此百年以前迄、此山入悉く湖なりしと云ふ。されば千年以前の家持卿、國府に在住ながら、此丸山に遊覽の別莊を置きて、都より美人下向の事ども「萬葉集」に委し。絕景察すべし。

[やぶちゃん注:「氷見の庄古國府(ふるこふ)」現在、富山県高岡市伏木古国府(グーグル・マップ・データ)がある。因みに、江戸時代以前に「射水郡」を二つに分けて「中郡」と「氷見郡」と俗称したが、江戸初期の加賀藩政下に於いて「射水郡」から一度、「氷見郡」として分離されたものの、延宝二(一六七三)年には再び「氷見郡」は「射水郡」に吸収されている。本書の成立は宝暦・明和(一七五一年~一七七二年)頃であるから、加賀藩の行政上は「射水郡」であるものの、旧来の「氷見郡」時代の土地呼称を人々は使っていたに違いない。さすれば、「氷見の庄」は腑に落ちるのである。因みに、この「かたかご幼稚園」を北に下った伏木小学校前の向かいの東角のボロ屋に私は鎌倉から移って一年ほど暮らした(当時、中学一年)。グーグル・ストリートビューのこの車庫と化している建物と空地の後ろ部分である。その後、そこから東に少し行った「赤坂光泉」(ここは当時は銭湯だった)を古国府側に入ったところの三棟合わせて建てられた住宅の一番奥(現存していた。グーグル・マップ・データ航空写真)に移り、それから二年弱で前に述べた二上山麓の矢田新町に建てた新居に移ったのだった。なお、私の一番の親友は今もこの古国府に住んでいる……ああ……ひどく哀しく懐かしい……

『上古は「火見」と云ひし』氷見市観光協会と氷見市観光交流課の作成になる「きときと ひみどつとこむ」の氷見市の公式見解に、諸説あるが、として、
・古代、蝦夷防備の狼煙を監視する場所で、狼煙の火を見るところだから火見と言った。
・海をへだてて、立山連峰の万年雪が見えるところだから氷見と言った。
・海の漁り火が見えるところだから火見と言った。
・海が干し上がって、陸地になったところだから干海 (ひみ)と読んだ。
を挙げてある。ちなみに「きときと」とは富山弁で新鮮なことを意味する。

「丸山」、前の「多湖老狐」に注したが、再掲しておくと、「水土里ネット氷見」の「十二町潟を拓く」PDF)の裏表紙には、十二町潟には一つぽつんと島があった、として「布施の丸山」の写真が載る。ここ(グーグル・マップ・データ航空写真)。但し、「中納言家持の勝遊の樓の跡」というのはどうか? ここは当時、十二町潟の中の孤島であったはずである。そこに別荘を建てたというのは、私は少し眉唾であるように思われる。但し、ここに「式内の神布施明神ましくて」とある通り、布勢神社(グーグル・マップ・データ航空写真)がある。サイト「玄松子の記録」の同神社に、『古文献によると、当社に関する社名は、布勢社、諏訪社、御影社などの相違が見られる。現在、御影社は、境内社として大伴家持を祀り、本社では、大彦命を祀る。ともに、当地へ赴任してきた開拓者としての立場。諏訪社に関しても、出雲から信濃への途上に当地へやって来たものだろう』と分析され、以下に出る「御影(みかげ)の神社」についても、『境内社の御影社は、本殿の後方に鎮座。大伴家持は、越中国守に赴任し、当地「布勢の水海」を愛したという』。昭和六〇(一九八五)年の「大伴家持千二百年祭」の折りに、『御影社は新築され、旧社殿は、右端に残されている。御影社は、文献によっては見影社、水影社とも書かれるが、「水影社」という表記は、布勢の水海にちなんだものだろうか』と述べておられる。麦水が布勢神社と御影社を混同しているのは、この当時、既に後者が廃頽していたことを意味するように思われる。さらに、「社頭案内」の電子化に「布勢の円山」は『今から約』千三百『年前は、ここから見える田園一帯は「布勢水海」と呼ばれる大きな水海でした。大伴家持は』七四六年から七五一年まで『越中の国守として越中国府(現在の伏木)に住んでいました。大伴家持は、布勢水海をこよなく愛し、遠く都から訪ねてきた友人らと舟遊びをし、美しい風景を数多く歌に詠んでいます』。

 布勢の海の沖つ白波あり通(がよ)ひ

    いや每年(としのは)に

      見つつ偲(しの)はむ

(以上は「万葉集」巻第十七の長い賦(三九九一番。こばやしてつ氏のサイト「ゆかりの地☆探訪 ~すさまじきもの~」の「布勢の海(富山県氷見市)」を参照されたい)に添えた短歌(三九九二番)

『(布勢の水海の沖に立ちさわぐ白波の美しい景色を、 こうしていつも通ってきて、毎年眺めることとしよう)』とあり、「境内案内」の「布勢の円山」の電子化には、『布勢の円山は、水田の中に島のように盛り上がっているので、どこから見ても丸く見える。周囲約三百メートル、高さ約二十メートル、そこから の眺めはありし日の布勢水海を思いめぐらすのに最適である』。『祭神は、四道将軍の一人として北陸道の鎮撫にあたったという大彦命で、布勢一族が祖先神をまつったものと伝えられている』。『この社の後ろに境内社として「御影社」があり』、『大伴家持をまつっている』。『布勢神社境内にある石碑は万葉にかかわる碑として、県内最古のものといわれる享和二年(一八〇二)の古碑(山本有香撰文)と明治三十三年、大伴家持の千百年祭が行われ、地元の有志によって建てられた大伴家持卿之碑(重野安繹撰文)が向かい合っている』とあり、同じく「万葉の歌碑と御影社」には、

 明日の日の布勢の浦みの藤波に

    けだし來鳴かず散らしてむかも

(巻第十八の四〇四三番。一本には初句を「ほととぎす」とする)

『この歌は、天平二十年(七四八)三月二十四日、奈良の都から使者として越中に来た田辺福麿の歓迎宴の席上、国守大伴家持が「明日はまず越中の名所布勢の水海へ案内しましょう」と福麿を誘ったのに対して、福麿との間にとりかわされた歌のなかの一首』で、『福麿が』、

 藤波の咲き行く見ればほととぎす

       鳴くべき時に近づきにけり

(同四〇四二番。五首詠んだうちの最後のもの)

『とよんだのに対して家持が「明日眺めようという布勢の海べの波のように咲き匂う藤の花に、ほととぎすが来て鳴かないで、せっかくの花をむなしく散らしてしまうのではなかろうかと気がかりです」と答えたもの』で、『藤波とほととぎすによって布勢の水海の季節感を美しく歌いあげている』とある。これらの歌は国府の館での詠。先の古国府の勝興寺附近にあったのである。

「爰にて栗三本を見れば下に金(かね)を埋(うづ)めあり」以下に古墳が多いことが記されてあり、埋蔵金伝説には古墳がつきものであるから腑に落ちる。

「三社が崎」不詳。原十二町潟の奥の岬か。

「古墳も又多し」「北村さんちの遺跡めぐり」のマップ参照。サイト「北村さんちの遺跡めぐり」にはここから五回に亙って詳細に氷見市の古墳の解説がある。但し、氷見市上田子の北の柳田の知られた柳田布尾山古墳を除いて、殆どは十二町潟の北或いは北西に展開している。原十二町潟の範囲を考えると腑に落ちる。

「十三塚」現在、脇方(わきがた)十三塚古墳群があり、この氷見市脇方には旧地名に「十三塚」がある。

「十三入江」不詳。個人サイト「万葉のふるさと氷見」の「氷見の遺跡・古墳」を見ると、万尾川(もおがわ)及び仏生寺川流域にある広域の古墳群を総称するのに「十三谷」という呼称が存在するようである。

「雅(みやび)なるを知らず」豪華なものは知らない、の謂いか。

『「萬葉」布施の詠歌多し、算(かぞ)へ云ふベからず』中西進氏の講談社文庫「万葉集事典」(昭和六〇(一九八五)年刊)によれば、「布勢」で、題を含めると十五を数え、歌に詠まれたものは九首を数える。

『「雪島」と云ふに撫子(なでしこ)をよみ合せたるも見ゆ。今や世人唐島(からしま)をさして「雪の島」とすれども、是れは非ならん』既出既注。前の「多湖老狐」の「雪の島」の私の注を参照。唐島説は私も否定する。というより、そこで述べた通り、これは島の固有名詞ではない。従って以下の麦水の同定考証も無効である。

「いくぼ」富山県氷見市飯久保(いくぼ)。ここは原十二町潟の最奥部に当たる。

「ゆやまの池」不詳。富山県氷見市森寺には湯山城跡があるが、ここ(グーグル・マップ・データ)は内陸の山間部で阿尾(あお)から海が貫入していたとしても、十二町潟とは有意に離れており、おかしい。

「三社の端(はし)」不詳。先の「三社が崎」の端という謂いではあろう。

「富饒(ふぜう)」現代仮名遣「ふじょう」。富んで豊かなこと。特に本邦では米をはじめとした穀類や農作物に対して言う。

「故に景秀でたるに非ず」麦水はしかし、ここでは、なかなか正鵠を射ている。確かに今の景色は絵にかいたように素晴らしいけれども、かつて、ここに広大な幻の十二町潟が広がっていた万葉の時代を想起するがよい、でなくては万葉人たちのしみじみとした感懐は、これ、到底、味わえぬと示唆しているものと私は読む。

「狩野中務(かのうなかつかさ)」先の飯久保には飯久保城跡がある(グーグル・マップ・データ航空写真)。ウィキの「飯久保城」によれば(そこでは「いいくぼ」と読んでいるが、現在の地名でも「いくぼ」である)、『富山県氷見市南部を支配していた狩野氏の居城。越中国鞍骨山城、越中国惣領砦も狩野氏の持ち城だったと云われており、以前は鞍骨山城が狩野氏の居城であったとされていたが、近年ではその立地から飯久保城が居城であり鞍骨山城はその詰城だったのではないかと考えられている。もしくは当初は山間部の鞍骨山城に拠っていたが、勢力を強めて徐々に平野部へと進出した過程で飯久保城が築かれ、これを拠点としたとも考えられよう。また戦国時代の一時期には越中国池田城城主三善一守が拠っていたと云うが、正確な時期は不明』。『狩野氏は元々は加賀国の在地領主であった。鎌倉時代には加賀国大聖寺城を築いてこれに拠っており、中先代の乱では宮方として活躍している。その後は加賀国守護富樫氏の家臣であったが』、長享二(一四八八)年に『発生した加賀一向一揆によって当主の富樫政親が敗死。加賀国の支配権は富樫氏から一向一揆勢力へと移行した。狩野氏はこの難を避けて越中国氷見へと落ち延びて定住したと云う。飯久保城の正確な築城年代は不明だが、これ以降であろう』。『狩野氏は越中国守護代神保氏の配下であった様だが、その動向を窺うべき史料は少なく、不明な点が多い』。永禄年間(一五五八年~一五六九年)には狩野中務丞良政の名が見え、『良政は富山城主神保長職に人質を差し出して臣従していたことが知られる』。永禄四(一五六一)年には『一族の宣久が飯久保城の近くに在る光久寺に対して寺領を寄進し』、『租税を免除している(『光久寺古文書』)。また上杉謙信や佐々成政に仕えている事から、神保氏の中でも越中国守山城主神保氏重、氏張系統の家臣団に組み込まれていた様である。狩野右京入道道州は、神保家没落後上杉家に臣従し、子の狩野秀治は上杉景勝に仕え重用されている』。天正一三(一五八五)年八月に『豊臣秀吉が越中へと攻め込んで成政が降伏した(富山の役)後、狩野氏は没落して飯久保城を離れたと云う。その後飯久保城の名が史料から見えなくなり、また前田氏が領する事でその戦略的利用価値を失ったと考えられる事から、さほど時を置かずして廃城になったと思われる』とある。

「大手先」本丸の正面出入り口「大手口」に当たる部分。パソコンの会社組織の作成に成る「史跡 飯久保城跡」にある「枡形虎口」(写真豊富で解説も詳しい。但し、一番上の現地案内板の左の図は南北が逆になっているので注意)から降りた平地附近であろう。現在も田圃で北を仏生寺川が流れるが、往古は原十二町潟の入り江がここまで伸びていたものと思われ、北の丘陵部にかけて以下の浮橋があったものと考えられる。

「南條(なんぜう)の浮橋」「浮橋」水上に筏や多くの舟を浮かべ、その上に板を渡した橋で、江戸時代までは特異なものではなく、各地で見られた。舟橋(ふなはし)。とも呼ぶ。「神通巨川」の「舟橋川」の注に出した、「六十余州名所図会『越中 冨山船橋』」を見られたい。「南條」という地名は見出せない。

「家持卿、國府に在住ながら、此丸山に遊覽の別莊を置きて」麦水はよほどこの孤島の丸山に家持の別荘を建てずんば止まずである。されば、少なくとも「万葉集」所収のその十五の前書出現の歌や賦及び詠み込まれた九首総てを読み、解釈したが、それらは布勢(後の十二町潟)の水際に遊んだ、遊ぼう、舟を浮かべた、浮かべよう、そこの美景を見ずにはおられない、という内容ばかりであって、どこにも「布勢の海」「布勢の浦」「布勢」に島があるとは記されておらず、当然の如く「丸山」などという地名も出現しない。狭い孤島「丸山」島に別荘を作ったなどとも、そこに人々を招待したなどとも一言も書いてないし、それを匂わせる部分もない。この拘りは何? って感じ。或いは彼は既にただの干拓地になってしまっていた田舎さびたポンコツの歌枕の地を「万葉」の名所にして売り出そうとでもどっかの誰かさんみたように思ったものか? とすれば、今も昔も変わらんわい、という気はしてくるのである。

 

 其後のことにやあらん。「白女(シラメ)」と聞えし遊君の歌人下向のことありしに、此地の何某いかなる宿緣にや、一夜(ひとよ)相見えん約ありけるに、いつしか事間違ひて、人の誘ふことありて、遊女白女頓(やが)て都に登りしを、此人望(のぞみ)を失ふ事限りなく、明暮恨みて伸び上りのびあがり是を望むに、自(おのづか)ら長竿郞(ながかんらう)の如し。終に人の交りを絕し、此湖に入りて、執念凝りて白龍と化すと、古き物語に聞えし。其地は今や岡野に變し、布勢の湖も十が一にも狹まりたれば、何れの土中か測り難し。然れども地下は必ず龍窟と覺えて、雪島と指すべきあたり龍氣あること顯然たり。近く安永の初め、此續き「六渡寺(ろくどじ)の渡し」と云ふ通りに、白く長きもの住みて久しく去らず。折々川口にも遡(さかのぼ)り遊びし躰(てい)なり。渡(わたし)の舟より是を見るに、水底(みなそこ)に居る時は水悉く白し。折々は脊を顯す、白く丸く只雪の如し。脊のみ見えて首尾を出(いだ)さず。或人稀に首を見るに「四角なりし」と云ふ。浦傳ひに遊泳して日を經て隱る。然るに誰云ふともなく、

「白男(しらを)白男」

とよぶ。思ふに是(これ)白女か[やぶちゃん注:「が」か。]夫にして、雪島の地下の主(ぬし)是ならん。湖中狹まりたりといへども、國恩撫育(ぶいく)民(たみ)に濕(うるほ)へば、猥(みだ)りに地を沒し作毛を損ひ難(がた)く、折々近き海畔(かいはん)に遊泳して、又雪の島の地中に歸り住むこと眞然(しんぜん)たり。誰が名付くともなく、世人の「白男」と云たるは、誠に天然の妙と覺えたり。されば「六渡寺の渡り」と云ふは、則ち伏木の浦口にして、雪解(ゆきげ)の流(ながれ)の頃は、「シガ」と云ふ物張りて舟を塞(ふさ)ぐ。是又氣あるが如し。慶長の年、「靈鬼」なる男此渡りを通りて、龍氣を閲(けみ)せしこと「中外傳」に見えたり。思ひ合すに是ならん。古へは「伏木」を「伏鬼」と書くと聞く。又故ありと覺ゆ。是等の事など問合(とひあは)せて、舟を氷見に還しぬ。

[やぶちゃん注:「白女(シラメ)」不詳。珍しい底本のルビ。

「遊君の歌人」歌を詠み、気が向けば体も鬻(ひさ)いだであろう女性芸能者。恐らくはこの伝説は、前の「多湖老狐」に出た「万葉集」巻第十九の四二三二番を詠んだ「遊行女婦(うかれめ)蒲生娘子(かまふのをとめ)」がルーツであろう。しかし、「一夜(ひとよ)相見えん約ありけるに、いつしか事間違ひて、人の誘ふことありて、遊女白女頓(やが)て都に登りしを、此人望(のぞみ)を失ふ事限りなく」って何よ? 端折り過ぎいーの、圧縮し過ぎいーの、解凍不能のカチンコチンやないけ?

「長竿郞(ながかんらう)」憧(あくが)れ出ずる魂が長々と伸ばした釣り竿のような状態になった情けない野郎の意か。全然、同情が湧かぬわい。

「雪島と指すべきあたり」だからね! そんな島は、ない、ちが!!

「安永の初め」一七七二年が元年。一七八一年までの十年。

『此續き「六渡寺(ろくどじ)の渡し」と云ふ通り』既注既注。射水市庄西町(しょうせいまち)地区(グーグル・マップ・データ)の旧称。現地の駅名標などでは「ろくどうじ」(現代仮名遣)が正しい。伏木の小矢部川対岸の庄川河口である。但し、「此續き」と言っているが、続きっちゃ続きだけど、氷見市街からだって実測十キロメートルは離れてますからね。元の十二町潟だった干拓地の下に埋まった白龍が何だってわざわざ十キロ以上も離れた、無関係なこんな場所まで出張って来てまで、姿を現わさにゃならんがいね? わけわからんちが!

「渡(わたし)」こここそ、実は何を隠そう、かの有名な「勧進帳」の原型、「義経記」の「如意の渡し」ぞ!

「眞然たり」とは全く思いません!

「シガ」河氷の一種。厳冬期に気温と川の水温が適度に低くなると、水面に無数のシャーベット状の氷が現われ、その氷が、そのまま川の流れに乗って流れる現象をかく呼ぶ。河川の流下断面積を減少させるため、用水路の取水障害を発生させることがある。日本での発生地域として、福島県と茨城県を流れる久慈川上流部の矢祭町から大子町袋田付近にかけての約十五キロメートルの区間が挙げられるが、これは世界的に見ても、比較的、低緯度の地域で発生する流氷現象である。学術的には「晶氷」「氷晶」と表現する。なお、「氷花」或いは「氷華」と表記する例も見られるが、これらは漢字の当て字である。古来には川底の石の表面に氷ができ、それが浮かび上がる現象と言われてきたが、これは発生原因を正しく表したものではない。発生の初期段階においては、川の水温が摂氏零度近くまで下がると、水面付近にある厚さ数ミリメートルの熱境界水層で水が局所的に冷却されて氷となり、川面を流れ始める。その状態がさらに進むと、川全体が過冷却となり、水面から露出する石の周囲や川岸・川底に氷が形成されることもあるが、大半は水面由来のものである。また、北海道などの寒冷地では水面上への降雪によって生じる。この降雪によって生じた晶氷は比較的柔らかい(以上はウィキの「シガ」に拠った)。なお、小学館「日本国語大辞典」にも方言として載るが、語源は記されていない。

「是又氣あるが如し」「この現象もまた、白龍の気が、かく不思議なことを成しているかのようにも見える」と言うのであろう。

「慶長の年」一五九三年から一六一五年。

「靈鬼」「れいき」か「りやうき」か。分からん。こないな名前、附けよるは、偏奇なやっちゃな、知らんわ、もう。

「中外傳」既出既注であるが、再掲しておく。さりげない自著の宣伝。「慶長中外傳」は本「三州奇談」の筆者堀麦水の実録物。「加能郷土辞彙」によれば、本体は『豐臣氏の事蹟を詳記して、元和元年大坂落城に及ぶ。文飾を加へて面白く記され、後の繪本太閤記も之によつて作られたのだといはれる』とある。

『古へは「伏木」を「伏鬼」と書くと聞く』伏木に六年いたが、こないないくそるような話は聴いたことがないっちゃ!

「白男」はあ……大量発生したミズクラゲ(鉢虫綱旗口クラゲ目ミズクラゲ科ミズクラゲ属ミズクラゲ Aurelia aurita)でないの?……

ブログ1,390,000アクセス突破記念 芥川龍之介「Karl Schatzmeyer と自分」(未定稿)/「ERNST MÜLERと自分」(未定稿) / ■《参考》葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」所収「Karl Schatzmeyer と自分」後半部 附・藪野直史注

 

[やぶちゃん注:以下は、新全集第二十二巻の「未定稿」(一九九七年刊)の山梨県立文学館編「芥川龍之介資料集・図版1・2」(一九九三年刊。写真版。私は現物を見たことがない)を底本とした「Karl Schatzmeyer と自分」を基礎底本としつつ、一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の載る「Karl Schatzmeyer と自分」の漢字正字表記を参考にして正字化したものである。実は、後者は、その「編者註」で葛巻氏が冒頭、

   《部分引用開始》

『これは「Karl Schatzmeyer と自分」、「Ernst Müllerと自分」と云う二つの原稿を、編者の手で編集し直したものである。その二つの原稿は、何処かへ発表するつもりであったのか、「芥川龍之介」と云う署名がされて、二つとも、「カル シヤマイエル」、「エルンスト ミー」と、その横文字の名前のわきに、わざわざ振り仮名までふられている原稿である。が、その内容はほとんど同じであり、また絶たれた部分もほとんど回じで、――これらの先後して、(いずれかが書き直しのつもりで)書かれた原稿のいずれが「清書」とも、また最初のものとも、筆蹟その他等からも、一切わからない。(編者は唯比較的に読みやすく書かれた方の原稿「カル シヤマイエルと自分」の方を採って、絶えず「エルンスト ミーと自分」と引合せながら、編者独自の採択を行った。――それらの両原稿ともに、これだけの範囲内でも、いずれも完全なかたちとして残されていなく、欠けた部分を他で補わなければならなかったが、いまは一々それらを註しなかった。それらはどこまでも編者の編と云う点に拠った。しかし、句読点その他の一切の加筆や削滅は行わなかった。ただこれらの原稿は或時代の彼の原稿の書き方のため、読点を用いない一字アケの非常に多い文章で、――他との均合い上、如何かとは思われたが、編者はそれらの原型を敢て保存することにした。』[やぶちゃん注:以下略。この『編者註』はかなりの分量があり、葛巻氏による原稿が書かれた経緯や内容への推理・考察が記されてある。それでも不充分であったものか、末尾にもさらに追記風に『編者註』が加えられてもいる。その考察の中には非常に興味深いもの(後の芥川龍之介の晩年に書かれた私の偏愛する「彼 第二」(芥川が参加した第四次『新思潮』同人らと親密な関係にあり、龍之介とも友人となり、非常に親しかったアイルランド人新聞記者トーマス・ジョーンズ(Thomas Jones 一八九〇年~一九二三年:芥川が彼と知り合ったのは、まさに本未定稿が書かれたと推定される大正五年の年初前後と推定されている)を主人公とするもの。リンク先の私の電子化の注を参照されたい。彼のことは他にも「上海游記」の「二 第一瞥(上)」「三 第一瞥(中)」や、「北京日記抄」の「二 辜鴻銘先生」にも出、芥川龍之介の大正八(一八一九)年の日記「我鬼窟日錄」でも二人の緊密さがよく判る(孰れも私のオリジナル全電子化注。特に最初の注では教え子が上海の彼の墓を探索して呉れた結果が必見である))との強い連関性である。私もそれ――即ち、ドイツ人 Karl Schatzmeyer 或いは Ernst Müller とは、このアイルランド人 Thomas Jones がモデルではないかという示唆――を支持するものである。そもそもこの時期に芥川龍之介がドイツ人青年と親しかった事実は少しも見当たらないのである)も含まれてある。紹介したいところだが、葛巻氏の著作権は存続しているので、詳しくは葛巻氏の原本を読まれたい。]

   《部分引用終了》

述べおられるところの、甚だ復元とは言えない不審点を多く感ずる〈作品断片〉なのである。以上の葛巻氏の謂いからお判り戴けるものと思うが、「Ernst Müller」或いは「エルンスト ミー」或いは「エルンスト」或いは「ミユラアー」の名は葛巻氏のそれには一切出現しない。即ち、葛巻氏は「Ernst Müllerと自分」という未定稿原稿の《Ernst Müller》なる人物を《Karl Schatzmeyer》に置き換えて両原稿を恣意的にカップリングした、しかも『欠けた部分を他』の原稿断片らしきもので『補』い、しかもその補った『他』の正体を一切『註しな』い状態でそれを行った、と述べておられるわけで、まさにそれは葛巻氏自身が図らずも述べてられる通り、『それらはどこまでも編者の編』、則ち、芥川龍之介原作を用いた葛巻氏の手になる、葛巻氏のみの確信犯で作り上げられた、にも拘わらず「芥川龍之介未定稿」の一つと名打った結合改作物であると言うことになるのである。しかも、基礎底本とした新全集第二十二巻の「未定稿」には、本篇とは別に「芥川龍之介資料集・図版1・2」底本の「ERNST MÜLLERと自分」という別な未定稿がちゃんと載るのである。

 その「ERNST MÜLLERと自分」(当該新全集の「後記」では、推測で、「ERNST MÜLERと自分」の方は『中に「欧州の大戦乱が勃発」と記されていることなどから』、大正五(一九一六)年頃に執筆されたものであろうとし、「Karl Schatzmeyer と自分」よりも十三篇も前(同巻は編年構成である)に配されてある)は同様の仕儀で、故あって、この最後に電子化する。最初に言っておくが、少なくとも「新全集」の「Karl Schatzmeyer と自分」と「ERNST MÜLLERと自分」を読み比べても、またそれぞれの「後記」を読んでみても、現存する両原稿のそれは葛巻氏の言うような『内容はほとんど同じであり、また絶たれた部分もほとんど同じ』ものなどではないのである。

 立ち戻って、当該新全集の「後記」によれば、この「Karl Schatzmeyer と自分」の方は推定で大正五~六年頃に執筆されたものであろうとある。大正五~六年は東京帝国大学卒業から海軍機関学校嘱託教官時代である。

 本文冒頭の「Karl Schatzmeyer」へのルビは基礎底本でも「芥川龍之介未定稿集」でも「カルル シヤツマイエル」であるが、ここは葛巻氏の『註』にある表記法をそのままに用いた。読点なしの字空けは散在するのは基礎底本のママである。

 適宜、当該語句を含む各段落末に注を挿入した。

 なお、本電子化は2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来(このブログ「Blog鬼火~日々の迷走」開始自体はその前年の200576日)、本ブログが1,390,000アクセスを突破した記念として公開する【2020717日 藪野直史】]

 

   Karl Schatzmeyer と自分

 

 成瀨が自分を Karl Schatzmeyer(カル シヤマイエル)に紹介してからもう三年になる。何でも成瀨の伯父さんが伯林にゐた時、この男の親父(おやぢ)に世話になつたとか何んとか云ふので、先、伯父さんが成瀨に紹介し、それから又 成瀨が自分に紹介してくれたのである。

[やぶちゃん注:「伯林」ベルリン。]

 自分の記憶に誤がないとすれば、始めて遇つたのは十一月の末である。成瀨から電話で 今夜シヤマイエルと云ふ男が遊びに來るが遇つて見ないかと云つて來た。勿論 こつちの獨乙語は人並みに遇つて見ようなどと云へた義理のものではない。しかし自分は前から、その男が浮世繪の蒐集をしてゐるとか、源氏物語の插繪を自分で描(か)きたがつてゐるとか云ふやうな事を、ちよいちよい耳にはさんでゐた。さう云ふ人間なら、天氣と基督敎の事ばかり話してゐる宣敎師などとは違つて、話の種に困るやうな事は先 なからう。それに一人だと いくら何でも 聊たぢろぐが 成瀨の二人なら高等學校の時に習つた獨乙會話篇の文句を代り代り饒舌つても どうにか胡麻化せるに違ひない。自分はかう考へたから 早速承知の旨を答へてやつた。

[やぶちゃん注:「たぢろぐ」室町時代まではかく表記したので誤りではない。]

 日が暮れてから 成瀨の家へ行つて見ると先方はもう餘程 前から來てゐるものと見えて、暖爐(カミン)の前へ椅子を据ゑながら 和漢名畫選を膝の上にひろげて、友の落ちさうになる紙卷を口に啣ヘたり指にはさんだり 大に持てあつかつてゐる。成瀨は又 ひとりで太刀打ちをつづけるのに内心可成辟易してゐたらしい。それは自分が扉をあけてはいると、さも助かつたやうな顏をして 急に元氣よく語尾變化の怪しい獨乙語で 自分を紹介してくれたのでも、知れるのである。シヤツマイエルは自分の顏を見ると、紙卷を灰皿の中へ抛りこんで 勢よく椅子から立ち上りながら、[やぶちゃん注:参考底本にはここに『七字欠』とあり、葛巻編の「未定稿集」では『数字分欠』とある。]とか何とか云つて 手をのばした。

[やぶちゃん注:「暖爐(カミン)」Kamin。ドイツ語で「壁に取り付けた暖炉」のことを指す。

「大に」「おほいに」。]

 自分も仕方がないから 學校で敎はつた通り、

 「お目にかかれて大變愉快です」と云ひながら、向うの手を握つた。雀斑のある 大きな白い手である。自分はその時 はじめてこの男をよく見る事が出來た。

[やぶちゃん注:「雀斑」「そばかす」。]

 先第一に眼を惹くのは この男の鼻である。華奢な鼻柱が始はまつすぐに上から下りて來たが 途中で 氣が變つて ちよいと又元來た上の方を顧眄したとでも形容したらよからう。先の方が抓んで持上げたやうに上を向いてゐる。かう云ふ鼻は いくら西洋人でも 到庭滑稽の感を免れない。自分は之を見ると、昔讀本(リイダア)か何かで讀んだ事のある ナポレオンが鼻の上を向いた男ばかり集めて近衞兵にしたと云ふ話を思ひ出した。シヤツマイエルは正にこの近衞兵になる資格のある男である。しかし遺憾ながら 體格が餘りよくない。尤も 背だけは普通の日本人よりも少し高いが 胸が狹くつて、瘦せてゐる所が 自分によく似てゐる。自分は椅子をひきよせて腰をかけながら私の同病相憐れんだ。シヤツマイエルは 瘦せてゐる癖に 昂然と頭をあげて 自分と成瀨とを等分に見比べながら 例の雀斑のある手をもみ合せてゐるのである。

[やぶちゃん注:「顧眄」(こべん)は振り返って見ること。「眄」は「見回す」・「横目で見る」の意。]

 

 それからぽつぽつ會話をやりはじめた。それも「あなたは麥酒が好きですか」と云ふやうな事から 話し出すより外に仕方がない。元來自分は西洋人と話をする時には その前に必とつときの文句を拵へて置く。さうして話をする時には それを小出しの金のやうに少しづつ出して使ふのである。だから一時間位は、どうにでも融通をつける事が出來る。――しばらくして自分はそのとつときの文句の中から、シユウインドの畫はどうだと云ふやうな事を云つた。

[やぶちゃん注:「シユウインド」葛巻版では『シンド』。不詳。ドイツ・ロマン主義時代の画家となると、カール・シュピッツヴェーク(Carl Spitzweg 一八〇八年~一八八五年)臭い感じはするが、彼はロマン主義ではなく、小市民的日常の観察に立った「ビーダーマイヤー」(Biedermeier)時代を代表する作家である。]

 すると、シヤシヤツマイエルは 上を向いた鼻を一層上を向けて 何か大に辯じ出した。卓勵風發と云ふ語は こんな時に使ふにちがひない。それも始めの中こそ シュウィンドの浪漫主義はオオベルレンデルに比べてどうとかだから 好箇の並行線をどうとかすると云ふやうな事だと思つたが、少し經つともう誰の事を何と云つてゐるのだか一向判然しなくなつた。シユウインド Oberlaender Stuck Klinger などと云ふ名が無暗に出る。自分と成瀨とは わかつたやうな顏をして、首をふりながら聞いてゐた。勿論 話の大部分はわからないが、どうもシユウインドの惡口を云つてゐるらしい。そこでシヤツマイエルが口をつぐむと、自分は「至極同感に思ふ シユウインドの畫は自分も好まない」と云つた。すると先方は人が好ささうに笑ひながら Ja と云つて、何度も合點をして見せる。自分は反つて 恐縮した。

[やぶちゃん注:「卓勵風發」正しくは「踔厲風發」で「たくれいふうはつ」と読む。議論などが他に優れて鋭く、風が吹くように勢いよく口から出ることを指す。「踔厲」は「卓絕嚴厲」の略。

「オオベルレンデル」次のアダム・アドルフ・オーベルレンダーのことであろうか。

Oberlaender」葛巻版では『Oberländer』。これはドイツの風刺漫画作家・イラストレーターのアダム・アドルフ・オーベルレンダー(Adam Adolf Oberländer 一八四五年~一九二三年) と考えてよい。

Stuck」ドイツの画家・版画家・彫刻家・建築家のフランツ・フォン・シュトゥック(Franz von Stuck 一八六三年~一九二八年)。一八九五年からミュンヘン美術院の教授となり、教え子にはパウル・クレーやワシリー・カンディンスキーがいる。

Klinger」ドイツの画家・版画家・彫刻家で、独特の幻想的な作風で知られ、シュルレアリスムの先駆者とも言われるマックス・クリンガー(Max Klinger 一八五七年~一九二〇年)。私の好きな作家である。

Ja」ドイツ語で「はい」「yes」に当たる「ヤー」。]

 所が自分のこの答は大に成瀨を發奮させたと見えて、今度は成瀨の方から突然千萬人と雖も我往かんと云ふ調子で「エドガア・アラン・ポオの作品を君はどう思ふ」と訊(き)き出した。シユウインドとポオとどう云ふ關係があるのか それは成瀨に訊いて見なければわからない。シヤッツマイエルも聊 話題の急變したのに勝手が違つたやうであつたが、すぐにまあ卓勵風發をやり出した。今度は Kubin と云ふ名が時々出る。すると成瀨は大に景氣づいて、自分のやうに首をふつて聞いてゐるばかりでなく 何とか短い返事を加へ出した。尤も成瀨の獨乙語はシヤッツマイエルのよりも自分にわからない これはその時ちよいと感心したが 後で聞いて見たら その前の目にカビンの插畫を入れた Aurelia と云ふ本の獨譯が成瀨の所へ屆いてゐたので、それでどうにか話を合せて行けたのである。

[やぶちゃん注:「Kubin」「カビン」葛巻版では後者は『クビン』。ボヘミア生れのオーストリアの画家アルフレード・レオポルド・イジドール・クービン(Alfred Leopold Isidor Kubin 一八七七年~一九五九年)。マックス・クリンガー、ゴヤ、ビアズリーの影響を受け、独自の幻想的世界を描いた。ポー・ホフマン・ネルヴァル・カフカ・トラークルなどの錚錚たる幻想作家の作品の挿絵を描いた。キリコやクレーに影響を与えた。やはり私の好きな作家で、彼自身が書いた “Die andere SeiteEin phantastischer Roman (一九〇八年発表。私は法政大学出版一九七一年刊の野村太郎氏訳「対極 デーモンの幻想」で読んだ)は私が殊の外偏愛する幻想怪奇小説(無論、挿絵も彼)である。

Aurelia」フランスのロマン主義詩人ジェラール・ド・ネルヴァル(Gérard de Nerval 一八〇八~一八五五年)の遺作の幻想小説。原題は“Aurélia ou le rêve et la vie” (「オーレリア、或いは夢と人生」。一八五五年作)。クービンのイラスト入りのドイツ語訳は一九一〇年刊。

 以上で参考底本の新全集の「Karl Schatzmeyer と自分」は終わっている。冒頭からここまでは葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「Karl Schatzmeyer と自分」とは一部の助詞の違いや表記の違い、空白部に読点がより打たれてあることなどの外は、有意な異同は認められない。ところが、葛巻版は――この後が――行空けもなく――普通に改行して佗上記の「新全集」版「Karl Schatzmeyer と自分」の分量の二倍以上も続いている――のである。

 前注で示したように、葛巻氏は「ERNST MÜLLERと自分」と「Karl Schatzmeyer と自分」とを、カップリングして辻褄の合うように恣意的に操作を加えていることは間違いない。

 しかし、これが――単なる恣意的な葛巻氏の掟破りの自分勝手な断片合成或いは葛巻氏の創作挿入でないとするなら――或いは、現在は既に失われた芥川龍之介の今一つの幻の未定稿の余香を残すものであるとするなら――これを無視する訳には当然、行かない。しかもこれは「芥川龍之介未定稿集」に芥川龍之介のそれらと同資格で以って所収・並置されているものなのであって、葛巻義敏の作ではない(編したのは自分であるとおっしゃってはいるが、それを葛巻の著作権や編集権が発生するものとするには明らかに無理がある)。

 そこで、現存する「Karl Schatzmeyer と自分」は以上に示したので、以下では、参考として葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「Karl Schatzmeyer と自分」の、上記部分に続いている箇所を総て示しておくこととする。なお、これが葛巻の編集権(連結したという断片素材の実物を示さず、また、恣意的に繋げたにも拘わらず、「芥川龍之介未定稿」の一つとする場合には、それは最早「編集」とは言えず、「改竄」である)なるものを侵すとするなら、それ以前に葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」自体が芥川龍之介の未定稿集を詐称して改竄したものを出版した点をこそ、まず問題とせねばならぬこととなる。

 

    *   *   *

 

■《参考》葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「新全集」版「Karl Schatzmeyer と自分」の上記パートに続く後半部分

[やぶちゃん注:以上のような経緯のある非常に問題のあるものであるので、少し迷ったが、同じように注を附した。なお、葛巻氏は本篇末の註で、『この時代の』芥川龍之介の『原稿の書き方――読点なしに、一枡を一字分だけあけることを含んでいる。――に就いては既に前』(当該書の別な前の作品での註を指す)『に註したが、その他の用字や用語についても、この時代にはまだ、「訳」(「訣」字でなく)、「可成(かなり)」、「不思儀」、「小供」、「之(これ)」、「饒舌る」、「はひる」、その他等々後年の彼の表現とは違うものを混用していることも、一言註して置きたい。(それらは、一つの例として、強いてここでは改めなかった。草稿であり、一未定稿と云う意味からも。)』と述べておられる。そのままに以下に電子化し、ママ注記も一部の除いて打たなかった。なお、底本のルビは総て採った。これは、底本凡例に於いて『本文のルビは総て芥川が附けたものである』と述べているからである(但し、実は私はこの断言にやや疑問を抱いてはいる)。]

 

 それから 一週間ほど後に成瀨と二人で 始めて 彼を訪問した。その時の事は 比較的よく覺えてゐる。彼はその頃 四谷北伊賀町の或しもた家の二階に 下宿してゐた。八疊と四疊半と二間つづきで 兩方とも床の間はない。安普請ではあるが、新しいだけが取柄であらう。その八疊のまん中に 大きな机を据ゑて 机の前に輪轉椅子が一つ置いてある。あと外(ほか)には豐國や國芳の役者繪を一々ピンで叮嚀にとめた 銀色の黑く燒けた、二枚折りの古屛風が一つ、――黃大津の壁側にならべてある、籐の肘掛椅子が二つに 背の低い書棚が三つばかり ――外には、何の裝飾もない。

[やぶちゃん注:「四谷北伊賀町」現在の新宿区四谷三栄町(よつやさんえいちょう)(グーグル・マップ・データ)。

「黃大津」「きおほつ」。壁土の一種。黄色の埴(へなつち)に牡蠣灰(かきばい)と籾莎(もみすさ:稲藁を二センチメートル程度の大きさに刻んで揉み解したもの)を混ぜたもので、上塗りに用いる。]

 

 シヤツマイエルは、何時も この八疊に陣取つてゐる。

 その時も 自分たちがはいつて來るのを見ると、人が善ささうに 鼻の先へ皺をよせて笑ひながら 何でも「Guten Morgen」位な事を云つて 少しきまりが惡さうに手を出した。雀斑のある、大きな白い手である。

[やぶちゃん注:「Guten Morgen」「グーテン・モルゲン」。ドイツ語で(以下略す)「おはよう」。]

 

 自分たちは この手を握りながら 高等學校で習つた、日獨會話篇のとほり Wie geht's Ilhnen, Herr Schatzmeyer ? とか何とか云つて 出たらめな 挨拶をした。

[やぶちゃん注:「Wie geht's Ilhnen, Herr Schatzmeyer ?」「ヴィ・ゲーツ・イーネン、ヘェアァ・シャッツマイヤー?」。「シャッツマイヤーさん、お元気ですか?」。]

 

 それから 籐椅子に腰を下して 所謂會話を始めた。――この男が、浮世繪の蒐集をしてゐる事は 前にも書いたが、この時、はじめて 彼が日本に來てから 蒐集した 浮世繪を 見せてもらつた。

 日本へ來てゐる西洋人で、浮世繪を難有がらない者はないが、それは 御多分に洩れず、――廣重の江戶名所が 六七枚に、國芳の、「見立提灯藏」が揃つてゐる外には 皆、碌なものではなかつた。

[やぶちゃん注:「見立提灯藏」「みたてちやうちんぐら」。歌川国芳の大判錦絵で十一枚揃い。弘化4(一八四七)年から翌嘉永元年にかけて制作された、様々な美人の姿を「仮名手本忠臣蔵」の各段の著名な場面に見立てたもの。参照した「立命館大学所蔵貴重書アーカイブ」のこちらを見られたい。]

 

 中には、六圓で買つたと云ふ北齋は、新しい複製でさへ あつた。それにもかかはらず 彼は、この不二がどうだとか、この海の藍がどうだとか さも感心したらしい 批評をつけ加へた。

 特に、その批評の中で 刀をさしたり 上下(かみしも)をつけたりしてゐる人物が出て來ると、彼は 必 Heldenと云ふ語(ことば)をつかふ。無理もない 事には、――ちがひなかつたが、團七九郞兵衞と左平次との二人立ちを Zwei kämpfende Helden(二人の鬪へる英雄)と呼んだ時には 到頭、自分は たまらなくなつて、吹き出してしまつた。彼が 妙な顏をして、吃りながら「何が可笑しい」と云つたのを思ひ出すと、自分は 今でも 恐縮する位である。

[やぶちゃん注:「Helden」「Zwei kämpfende Helden」「ツァイ・カンプフンダ・ヘルデン」。

「團七九郞兵衞と左平次」「夏祭浪花鑑(なつまつりなにわかがみ:延享二(一七四五)年大坂竹本座初演。作者は初代並木千柳・三好松洛・初代竹田小出雲の合作)」の「七段目「長町裏」(通称「泥場」)の段であろうが、「左平次」は「義平次」の誤り。団七九郎兵衛が義父義平次を惨殺する下りである。詳しくはウィキの「夏祭浪花鑑」を参照されたい。]

 

 しかし、彼の浮世繪評は 曖味であつたが、その知識と云ふ點になると、日本にゐて日本の事を知らない自分たちよりは 遙かに、確な所があつた。國貞が生れたのは千八百何年で 死んだのが何年だから、豐國を襲名した何年は、丁度 何歲の時だらうなどと云ふ。さうかと思ふと、寫樂は能役者だつたとか 豐國は道樂をしたとか云ふ。その時も 歌川といふ名の系譜のやうな事を 根氣よく述べ立てた。かう云ふと、さも 衒學的な人間のやうに聞えるが、それは 決してさうではな[やぶちゃん注:ここには葛巻氏が脱字と判断して補った『〔く〕』が入っている。]、この男が喋るのは ただ神經質で、話と話との間がとぎれるのを ひどく氣にするのである。

 その上、どうかすると 彼には時々 吃るくせがあつた。現に成瀨の所で 獨乙の繪の話か何かになつて Kubin がどうとかしたと云つてゐる中に KKKK-と吃り始めた。そのクビンが一つうまく云へると 後は今まで吃つて遲れた時間を 取返す氣なのかと思ふ程 早口で辯じつづけた。さうなると 獨乙語の未熟な人間なのだから 愈 何が何だかわからなくなる。自分は 例の上を向いた鼻の下で 薄い唇が痙攣的に動くのを眺めながら 今更のやうに南蠻鴃舌と云ふ成語を思ひ出した。

[やぶちゃん注:「南蛮鴃舌」「なんばんげきぜつ」と読む。五月蠅いだけで意味の通じない外国語を卑しめて言った卑称語。「孟子」の「滕文公(とうぶんこう)上」による。「鴃舌」は鳥のモズの鳴き声を指す。]

 

 神經的な自分は 今でも その吃る時小供のやうに赤い顏をするのを見て 妙にこの男を氣の毒に思つた事を覺えてゐる。もしこの男にかう云ふ癖がなかつたら 自分との交情はもつと疎遠になつたのにちがひない。――

 德川時代の寂びた色彩を眺めながら その絵の說明を獨乙語で聞かされた時の不思儀な心もちを 今でもはつきり 自分は覺えてゐる。洋服の膝の上へ 自分たちは 過去の空氣の中に 何十年を寂びつくした江戸錦繪をひろげながらそれらを聞いてゐたのである。

 かうやつて 怪しい會話をつづけてゐる間にやがて晝飯の時刻になつた。食事は階下の六疊でするのである。

 二階を下りて見ると もう ちやぶ臺の上に茶碗と箸とが自分たちを待つてゐる。そのまん中には 赤と金とによい程の時代がついた九谷燒の德利さへあつた。これはシヤツマイエルが 古道具屋をあさつて買つて來たものだと云ふ。自分たちは その德利の酒をのみながら 膳の上の酢の物をつついた。伯林にゐた時から持つたとか云ふので 彼は箸が自由に使へる。坐るのには勿論 困らない。

「剌身と澤庵ととろろを除けば 何でも食べられる。」

 かう云ひながら 彼は得意さうに 例の上を向いた鼻を 一層上へむけて 自分たちの顏を見𢌞した。

「これからあなたの所へ日本の事を ききに來ませうか」 かう云つて自分たちは 笑つた。

「ええ 來て下さい。その代り獨乙の事はあなた方の方がよく知つてゐませう。私は獨乙の事をききます。獨乙の今の作家の事を。知らなくとも 私よりあなた方の方が 彼等に同情のある事はたしかでせう。……」

 その日の訪問は こんな事で完つた。それから一月ばかりたつて 今度は自分一人で行つて見ると この獨乙人は――銘仙の綿入れに 大嶋の羽織と云ふ出立ちで 朱羅宇の煙管で煙草をふかしながら 端然とその輪轉椅子に腰を落着けてゐたのだから 奇拔である。さう云ふ異樣ななりをしながら その朱羅宇の煙草を持ちかへて 自分に 雀斑のある 犬きな白い手をひろげて出す。勿論 握手をしろと云ふ合圖である。

[やぶちゃん注:「完つた」「おはつた」。

「朱羅宇」「しゆらう」。朱色をした、煙管(キセル)の火皿(ざら)と吸い口とを繋ぐ竹の管のこと。古くラオス産の竹を使ったことから「羅宇」と当てて書く。]

 

 この時 彼がはいてゐる黑繻子の足袋が十三文半で 特別にあつらへなければ 何處にもないと云ふ話も 着物も一反では足りない 二反かかつたと云ふ事も聞いた。見ると成程、唯でさヘ一反では覺束ない所を その裾が又 べらぼうに長く出來てゐる。話を よく聞いて見ると 之(これ)は浮世繪の中に出て來る悠長な人間の眞似をするつもりで 日本へ來ると間もなく 特別 彼が仕立てさせたものであつた。

[やぶちゃん注:「黑繻子」「くろしゆす(くろしゅす)」。「繻子」は精錬した絹糸を使った繻子織(しゅすおり)の織物。経糸(たていと)・緯糸(よこいと)それぞれ五本以上から構成され、経・緯どちらかの糸の浮きが非常に少なく、経糸又は緯糸のみが表に表れているように見える織り方で、密度が高く、地は厚いが、柔軟性に長け、光沢が強い。但し、摩擦や引っ掻きには弱い。

「十三文半」凡そ三十センチメートル前後か。]

 

 その日も又、この男の口から 獨乙語で浮世繪の說明を 刻み煙草の煙りと一しよに 長々と聞かせられた。自分は 理由のない輕蔑から それらの說明を輕蔑してゐたが 併し亦 妙な興味もあつた。彼はその時 浮世繪の裝飾的特質と云ふ事を しきりに說明してゐたが さて 實際に、浮世繪を 室内の裝飾に使ふと云ふ段になると 少からず當惑した。どうも額へ入れて 壁ヘつるすのは 不調和だと云ふやうな議論だつたと思ふ。自分は勿論、日本間へ輪轉椅子を置いてその上へ銘仙のお引きずりを前で 腰をかけてゐる彼に 調和不調和の問題を論ずる資格など あるまいと(不法にも)その時は 思つてゐた。さうして 豐國や國芳の役者繪を一一ピンで 叮嚀に この色の變つた 銀の古屛風に 貼りつけてあるのも、その調和不調和の考へから 來てゐるのだらうと思つた。――さうして 亦、この古屛風を後(うしろ)にして 輸轉椅子に お引きずりの銘仙の 綿入れを着て 早口に喋りつづけてゐる この異樣ななりをした外國人と――不思儀にも、自分がこんなにも早く(何時の間にか、)親しくならうと云ふ事などは 夢にも考へなかつた。――しかし 不思儀にも 間もなく シヤツマイエルと自分とは 親しい間がらとなつて行つた。――この日は 歸りにハムズンの獨譯を二三册 借りて歸つた。

[やぶちゃん注:太字「不法」は底本では傍点「ヽ」。

「お引きずり」「御引き摺り」。着物の裾を引きずるように着ること

「ハムズン」ノルウェーの小説家クヌート・ハムスン(Knut Hamsun 一八五九年~一九五二年)のことか。後の一九二〇年、作品「土の恵み」でノーベル文学賞を受賞したが、ナチスを支持し続けたため、戦後、名誉は失墜した。]

 

 四度目には――さう一一 會つた時の事を 全部 書立てなくとも善い。唯 自分はこの男と自分との交涉を 多少 ここに小說めかしく 書きつければ 好いと思つてゐる。

 彼と自分とは又、東京中を 當てもなしに 足にまかせて 步き𢌞つた。――淺草の觀音堂のまはりを鳩に豆をやりながら 根氣よく半日ばかり 散步した事もある。[やぶちゃん注:ここに葛巻氏の註『〔二字分缺〕』が入る。]から電車で 永代まで行つて 永代から一錢蒸氣で吾妻橋へ來て 吾妻橋から步いて向島へ行つて 長命寺の櫻餅を、晝飯代りに食つた事もある。中でも一番 記憶に殘つてゐるのは、一しよに銀座の松下へ行つた歸りに 何かの道順で 白粉の匂のする 狹い 裏通りを拔けた時のことである。

[やぶちゃん注:「永代」永代橋(えいたいばし)(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「吾妻橋」ここ

「長命寺」現在の東京都墨田区向島にある天台宗宝寿山遍照院長命寺。「長命寺桜もち」で知られる。

「銀座の松下」後述からは料理店らしいが、不詳。識者の御教授を乞う。]

 

 狹い往來の兩側には、みがきこんだ格子戶の中に 御神燈がぶら下つてゐたり、水を打つた三和土(たたき)の上に盛鹽がしてあつたり 白い菊の花が活けてあつたりした。すると シヤツマイエルがこれを見つけて、この町にはどんな階級の人間が往んでゐるかと訊(き)くから、自分は無造作に藝者だと敎へてやつた。所が この答がシヤツマイエルの好奇心を動かしたと見えて、彼はそれ以來 女さへ通れば 自分に「あれは藝者か?」と 尋ねた。勿論 獨乙語で尋ねるのだから、彼は先方の女には 何を云つてゐるのだかわからないと思つたのにちがひない。そこで まだその女が通りすぎない内から 大きな聲で 「藝者か?」ときく。それには 自分は、少からず 弱らされた。――彼は亦 何かの話の序から Madame Chrysanthèmeを思だすとも云つた。それはその「お菊さん」のやうな人を、紹介してくれと云つたのか どうか知らないが――自分は、いま以て 白い菊の花と、ロティと、この獨乙人とが、一しよになつて 思ひ出される。……

[やぶちゃん注:「Madame Chrysanthème」「マダーム・クリザンテーム」。フランス海軍士官で、世界各地を航海して訪れた土地を題材にした小説や紀行文をものした作家ピエール・ロティ(Pierre Loti:本名ルイ・マリー=ジュリアン・ヴィオー Louis Marie-Julien Viaud 一八五〇年~一九二三年)が一八八七年に発表した小説。邦訳は専ら「お菊さん」。]

 

 彼を訪ねると、机の上に 妙な火入れ見たいなものが 出してある。元來は 杯洗か何か[やぶちゃん注:ここに葛巻氏の欠字註『〔に〕』が入る。]使はれたものに[やぶちゃん注:ここに葛巻氏の註『〔ちがひ〕』が入る。]ない。彼は机の抽匡から 鼈甲羅宇の煙管を出して こちらへよこして、日本語で、「ドウダ?」と云つて、すすめてくれる。それから 銘仙の襟を、かき合せて 今度は獨乙語で、「大學は 面白いか?」とくる。この二つは 前の手を出すのと 一般で 天氣の如何にかかはらず、やらない事はない。さうして、自分が「日本の大學位 退屈な所はなからう」と答ヘると、「獨乙の大學も同じだ」と こたへる。さもなければ「大學で退屈でないのは 獨乙だけだ」と云ふ。どつちがほんたうなのか 未(いまだ)に わからない。

[やぶちゃん注:「杯洗」(はいせん)は酒席で一つの盃を複数で使い回す際に用いる、盃を洗うためのやや大振りの器。

「抽匡」「抽斗」或いは「抽筐」の芥川龍之介の誤字であろう。「ひきだし」。]

 

 彼の所へ行くのは 唯、漫然と饒舌(しやべ)りに行つた事もあれば、本のわからない所を聞きに行つた事もあつた。どちらか と云へば、大抵 前の場合の方が多い。後の場合でも、自體が根氣のいい男だから、彼は 繰返し 繰返し 敎へてくれるが、その親切氣には 今でも感謝してゐるが その繰返す度に せき込んで來て、無暗と口が早くなるには 何よりも閉口した。第一 こつちは 落着いて話してゐても、碌に向うの云ふ事が判然しない程 獨乙語の未熟な人間なのだから、さうなつて來ると 愈 何を云つてゐるのだか わからなくなつてしまふ。唯、神經的に唇の動いてゐるのを、見つめてゐるしかない。また、こつちから、喋るにも 中々骨が折れた。何しろ 高等學校の時に習つた日獨會話篇を應用するより 仕方がないのだから、第一 噓をつく事になる。ほんたうの事を云はうとすると、その語(ことば)さへも、なかなか 見つからない。話題は 重に 文學の話とか、美術の話とかであつたが、一度 ケスの話か何かをした序(ついで)に 彼と戰爭論をはじめてしまつたのも、元をただせば、全く これに祟られた お蔭らしい。――

[やぶちゃん注:「ケス」不詳。後で示す「ERNST MÜLLERと自分」のこれと類似した箇所では『ケルネル』とある。これは或いは、ドイツの劇作家で詩人であったカール・テオドール・ケルナー(Karl Theodor Körner 一七九一年~一八一三年)のことではないかと考える。戯曲「ツリニー」(Zriny :一八一二年) により文名を確立し、対ナポレオン解放戦争の愛国詩人として活躍、義勇軍に加わって戦死した。死後、父親の手によって編纂された詩集「琴と剣」(Leyer und Schwert :一八一四年刊) は熱狂的に迎えられた、と「ブリタニカ国際大百科事典」にある人物である。]

 

 獨乙人と云へば、必ず 麥酒よりも 人と喧嘩をする事の方が それ以上に好きだと思つてゐた自分には、このシヤツマイエルと云ふ男が、獨乙帝國の カイゼルの臣民の 一人だと思ふと、どうも 少し 矛盾が感ぜられて ならなかつた。――何しろ 喋り出すと、加速度で口の早くなる男だから、その喋つてゐる事の全部が全部 わかつた譯ではないが――シヤツマイエルは 元来 戰爭と云ふものが嫌ひらしく、例の 朱羅宇の煙管で 自分の膝をたたきながら むきになつて 辯じ出した。(この時の事は 可成、はつきりと覺えてゐる。)元來、戰爭と云ふものが 嫌ひらしく、戰爭と云ふ言葉を聞くと 顏をしかめて 例の鼻を上へ向けて、「トルストイが云つてゐる通り」と云つて、「自分もさう思ふ」と 答へる。それから、さも 人を莫迦にしたやうに 鼻を一層、上へ向けて「死ニタイカ アナタハ?」と 來る。自分が nein とこたへたのは 勿論である。すると、彼は「私モ死ニタクナイ」と云つて それから 妙な身ぶりをした。遺憾ながら自分は、之(これ)を妙な身ぶりと云ふより外に仕方がない。强ひて說明すれば 兩足を少し前へ出してちよいと首をちぢめて 兩手をさげたまま開いて 小供のすましたやうな顏をして――要するに やはり妙な身ぶりである。自分はその時 よせばいいのに 國民としての義務がどうだとか云つて シヤツマイエルの非戰論に反對した。すると、彼は 急に むきになつて 何度も「トルストイが云つてゐる通り 自分もさう思ふ」を繰返しながら、あの朱羅宇の煙管を、恰も「さう思ふ」の代表者であるかの如く 自分の服の前へつきつけると 二三囘ふりまはして見せて、滔々と 自說を 辯じ出した。今も云つた通り 加速度に口が早くなつて行くのだから 何を云つてゐるのだか その全部はわからないが 戰爭の惡口と徵兵制度の惡口とを 一度に、並べ立て出したのは 確かであるらしい。正直な所 自分が戰爭論を始めたのは 別にこれと云つて 大した主張がある訳でも 何でもないのだから 自分は かう彼に娓々として辯じられると 一も二もなく 參つてしまつた。それを見て 彼が例の鼻を 意地惡く 自分の顏の側へ持つて來て、「主戰論者が さう容易に 降參していいのか?」と云つたのを思出すと 今で心 少し忌々しい。…… それから 暫くして、歐洲の犬戰亂が 勃發してしまつたから つまり われわれの戰爭論が 惡讖に なつてしまつたのである。――あの開戰の號外の出た日 自分は彼に誘はれて、松下へ食事をしに行つて その歸りに あの狹い裏通りを通つた事は 既に 書いた通りである。

[やぶちゃん注:「nein」「ナイン」。「いいえ」。

「娓々」「びび」と読み、飽きずに続けるさま、くどくどしいさまを言う。

「惡讖」「あくしん」と読み、「悪い不吉な予言」の意。

 なお、この後は底本自体が一行空けになっているので、ここでは二行空けておく。]

 

 彼と自分との關係は、日本と獨乙とが 戰爭をはじめるやうになつてから 或緊張したものになつた。或日、突然やつて來て、「暇かね?」と云ふから、「うん 少ししかけた仕事があるけれど、まあ 上つて行くさ」と云ふと「なに 又來てもいい」と 彼は云つた。

「いや 手がはなせないやうな仕事なら 僕の事だから さう云つて斷るが、さうではないから上つて話してゆき給へと云ふのだ。」

 これには 噓があつた。實際 仕事は手をはなしたくない性質のものだつた。が 何か 何時ものやうに ぶつきらぼうに 斷はる氣になれなかつたのである。

[やぶちゃん注:「斷はる」はママ。なお、末尾には『・・・』が打たれてあるが、これは葛巻氏が底本の他の断片でよくやる癖なので除去した。]

 

    *   *   *

 

[やぶちゃん注:以下は、先の「Karl Schatzmeyer と自分」と同じく新全集第二十二巻の「未定稿」(一九九七年刊)の山梨県立文学館編「芥川龍之介資料集・図版1・2」を底本とした「ERNST MÜLLERと自分」を基礎底本としつつ、一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の載る「Karl Schatzmeyer と自分」の漢字正字表記等を参考にして正字化したものである。字空けに就いては葛巻版に照らして変更を加えた箇所があり、そこは注記してある。

 各仕儀は以上の電子化注に従ったが、前に注したものは省略した。表記違いでも、前の参考文で比較して示したものもダブらせることはしていない。なお、本文冒頭の「Erst Muller」のルビを示した読み表記部分は、基礎底本では「エルンスト ミユラア」であるが、ここのみは葛巻氏の註にあるそれを用いた。]

 

    ERNST MÜLLERと自分

 

 自分が Erst Muller(エルンスト ミー)と近づきになつてから もう四年になる 始は 成瀨の紹介で會つた。その時 どんな事を話したか 今ではまるで覺えてゐない。二度目に會つたのは 自分が始めてこの獨乙人の下宿を訪問した時である。たしか半日ばかり話して 歸りに獨譯のハムスンを二三册借りて來たかと思ふ。三度目は――さう一一 會つた時の事を 書き立てる必要はない。自分は唯 この男と自分との交情を 幾分か小說らしく話しさへすればいいのである。

 ミユラアは その頃 上野櫻木町の或しもた家に下宿してゐた。六疊と四疊半と二間つづきで 安普請ながら 家は可成新しい。六疊のまん中には 大きな机があつて 机の前に輪轉倚子が一つ置いてある。あとは銀の色が黑く燒けた二枚折の古屛風と 籐の肘掛倚子が二つあるばかりで 外に別段これと云ふ裝飾もない。屛風には 過去の空氣の中から堀り出された豐國や國芳の役者繪が 一一に叮嚀にピンでとめてある。これは 額緣に入れて 壁へぶらさげるのが不調和だと云ふ考からであらう――ミユラアは何時でもこの屛風を後にして 端然と尻をセセツシオン式の輪轉倚子の上に落着けてゐた。

[やぶちゃん注:「上野櫻木町の或しもた家」「上野櫻木町」は現在の桜木町ではないので注意。寛永寺を中心とした、現在の上野桜木地区である。ところが、先に示した葛巻版「Karl Schatzmeyer と自分」では、ここが『四谷北伊賀町の或しもた家』と、南西に五・八キロメートルも離れた方向違いの地名になっているのである。これは「新全集」が拠った原稿(画像)以外にそう記した葛巻が見た全く別の原稿の存在を強く感じさせるものである。葛巻が統合編集するに当たって地所を変更するの必要性が全く存在しないからである(私は例えばモデルかも知れぬトマス・ジョーンズとの絡みでそうした可能性を考えて調べたが、ジョーンズの住んだ幾つかの場所とは一致しないから、その線はないと思う)。

 

 それも唯 落着けてゐるだけなら 特筆する必要は少しもない。所がこの男は 秩父銘仙の綿入れに 大島の羽織と云ふ出立ちで 朱羅宇の煙管を口に啣へながら 右の膝の上へ左の膝をのせて大納りに納つてゐるのだから奇拔である。始めてたづねた時に 自分は彼のはいてゐる黑繻子の足袋が 十三文半で 特別にあつらへなければ 何處にもないと云ふ話を聞いた。それから 着物も一反では足りなくつて 二反かかつたと云ふから 見ると成程 唯でさヘ一反では覺束ないと思ふ所へ 裾が又べらぼうに長く出來上つてゐる。よくよく聞いて見ると 之は浮世繪の中へ出て來る悠長な人間の眞似をするつもりで 日本へ來ると間もなく特別に彼が仕立てさせたものであつた。

 ミユラアは かう云ふ異樣ななりをしながら 自分が行くと 必その朱羅宇の煙艸を持ちかへて[やぶちゃん注:ここに底本では新全集編者により『〔五字欠〕』と入っている。]とか何とか 世にも不精な挨拶をする。さうして それと同時に 自分の眼の前へ 雀斑(そばかす)のある 細い手をひろげて出す 勿論 握手をしろと云ふ合圖である が 自分は面倒臭いから 未嘗 一度握つた[やぶちゃん注:ママ。]事はない それでも 行きさへすれば 必ひろげて出す。自分が握らないと云ふ事を考へるより 手の出る方が先なのであらう。

 行くと 自分は何時でも 籐の肘掛倚子にかけさせられた。机の上には の[やぶちゃん注:字空けママ。]妙な火入れが出てゐる。何でも元來は杯洗か何かにちがひない。ミユラアは机の抽匡から 鼈甲羅宇の煙管を出してその火入れと一しよに 日本語で「ドウダ」と云ひながら すすめてくれる。それから 秩父銘仙の襟をかき合せて 今度は獨乙語で「大學は面白いか」と來る。この二つも 前の手を出すのと一般で 天氣模樣に變らず やらない事はない。さうして 自分が「日本の大學位 退屈な(ラングワイリヒ)所はなからう」と云ふと 「獨乙の大學も退屈だ」と云ふ。さもなければ 「大學で退屈でないのは 獨乙だけだ」と云ふ どつちがほんとうなのだか 未にわからない。

[やぶちゃん注:「退屈な(ラングワイリヒ)」三文字に対するルビ。Langweilig。]

 

 話題には 一番文學上の問題が上つた。ミユラアは自體根氣のいい男だから 自分が何か質問でもすると 繰返し繰返し敎へてくれる。その親切氣には 今でも感謝してゐるが 繰返す度に せきこんで來て 無暗に口が早くなるのには 何よりも閉口した。第一 こつちは 落ついて話してゐても 碌に向ふの云ふ事が判然しない程 獨乙語の未熟な人間なのだから さうなつて來ると 愈 誰の事を何と云つてゐるのだか それさへもわからない。自分は ミユラアの唇がめまぐるしく動き出すと 何時でも南蠻𩾷舌と云ふ成語を 今更のやうに思ひ出しながら あつけにとられて 唯この男の鼻ばかり眺めてゐた。

[やぶちゃん注:「さうなつて來ると 愈」底本では「さうなつて來ると」で行末で「愈」が次行一字目であるが、違和感があるので、葛巻版に従い、一字空けた。

「あつけにとられて 唯この男の鼻ばかり眺めてゐた」も「あつけにとられて」で行末で次行が頭から「唯……」とあるのだが、どうも生理的におかしい感じがするので、特異的に一字空けた。]

 

 鼻と云へば この男の鼻は 實際 人が眺めるばかりでなく、當人が眺めるのにも 甚都合よく出來上つてゐた。華奢(きやしや)な鼻柱が 始は素直に上から下りて來たが 途中で不意に氣が變つて 又元來た上の方を 眄一眄したとでも 形容したらいいのだらう。先の方が まるで抓(つま)んで持上げたやうに 上を向いてゐる。いくら西洋人でもかう云ふ鼻は 餘り上品に見えるものではない。自分はこの鼻を見てゐると よく ナポレオンか誰かが 鼻の上を向いた男ばかり集めて 近衞兵にしたと云ふ話を思ひ出した 兎に角 三十何才かの獨乙人にしては 氣の毒な鼻である。

 ミユラアは 鼻こそ近衞兵になる資格があるが 體格は甚振はない 瘦せてゐて 胸の狹い所が自分によく似てゐる 獨乙人と云へば 必麥酒がすきで 人と喧嘩をする事が それより猶すきな人間のやうに思つてゐた自分は この男が獨乙帝國の臣民だと思ふと どうも矛盾の感があつた。――自分がケルネルの話か何かした序(ついで)に ミユラアと戰爭論をはじめたのも 元をただせば 全くこの矛盾の感に祟られたおかげである。

 その時の事は 今でも可成覺えてゐる ミユラアは 戰爭と云ふと さも人を莫迦にしたやうな顏をして 例の鼻を一層上へむけながら 日本語で「死ニタイカ アナタハ」は來た。自分が nein と答へたのは 勿論である。すると 彼は 「私モ死ニタクナイ」と云つて それから妙な身ぶりをした。遺憾ながら 自分は 之を妙な身ぶりと云ふより仕方が外にない。强いて說明すれば 兩足を少し前へ出して ちよいと首をちぢめて 兩手をさげたまま開いて 小供のすましたやうな顏をして――要するに やはり妙な身ぶりである。自分はその時 よせばいいのに 國民としての義務がどうだとかと云つて ミユラアの非戰論に反對した。すると 彼は急にむきになつて何度も[やぶちゃん注:ここに底本では新全集編者により『〔六字欠〕』と入っている。葛巻版では『「トルストイが云つてゐる通り 自分もそう思ふ」』となっている。]を繰返しながら あの朱羅宇の煙管を恰も[やぶちゃん注:ここに底本では新全集編者により『〔三字欠〕』と入っている。葛巻版では『「そう思ふ」』となっている。]の代表者であるかの如く 自分の眼の前へつきつけて 滔々と自說を辯じ出した。何しろ殆 加速度で口が早くなつて行くのだから 詳しい事はわからないが 戰爭の惡口と徵兵制度の惡口とを 一度に並べ立てた事だけは確である。正直な所 自分が戰爭論を始めたのは 今も云つた通りミユラアの體格が獨乙帝國の臣民たるべく餘りに貧弱な所から起つたので 別にこれと云つて大した主張がある訳でも何でもない。だから自分は かう彼に娓々として辯じられると 一も二もなく參つてしまつた。それを見て ミユラアが例の鼻を意氣惡く 自分の顏の側へ持つて來ながら 主戰論者がさう容易に 降參してもいいのか と云つたのを思ひ出すと 今でも少し忌々しい……

 それから 暫くして 歐洲の大戰亂が勃發した。つまり 戰爭論が 惡讖になつたのである。――あの開戰の號外が出た日 自分はミユラアに誘はれて 松下へ食事をしに行つた さうしてその歸りに 二人で 銀座の裏通りを散步した。狹い往來の兩側には みがきこんだ格子戶の中に御神燈がぶら下つてゐたり 水を打つた三和土の上に盛鹽がしてあつたりする。するとミユラアがそれを見て この町にはどんな階級の人間が住んでゐると訊(き)くから 自分は無造作に藝者だと敎ヘてやつた。所がこの答がミユラアの好奇心を動かしたと見えて 彼はそれ以來 女さへ通れば 自分にあれは藝者かと尋ねる 勿論 獨乙語で尋ねるのだから 彼は先方の女には何を云つてゐるのだかわからないと思つたのにちがひない。そこで まだその女が通りすぎない内から 大きな聲で「藝者か」と云ふ 自分は少からず弱らされた。――ミユラ

[やぶちゃん注:以上で底本は断ち切れている。

「强いて說明すれば 兩足を少し前へ出して」同前改行で葛巻版に従って字空けを施した。

「別にこれと云つて大した主張がある訳でも何でもない」の「訳」の字体は葛巻版の当該相当部に従った。

「降參してもいいのか」の後の字空けは読み易さから補った。]

 

梅崎春生 砂時計 20

 

     20

 

 栗山佐介他三名の一行が、カレー粉対策協議会場を離れ、佐介の納屋住宅に到着したのは、もう午後十一時を過ぎていた。

 協議会場から納屋までの暗い道、牛島康之は暗闇からの再度の襲撃をおそれ、眼を皿にして四辺に気をくばり、背丈をぬすんでこそこそと歩いた。彼の右手は相変らず乃木七郎の服の裾をしっかりとつかんでいた。それは乃木の逃亡をおそれるというよりは、不明者の襲撃にそなえて人楯(ひとだて)とするつもりであったらしい。その証拠に牛島は、乃木七郎の服をつかむだけでなく、身体をぴったりと七郎にくっつけ、背を押すようにして歩いていたのだ。背中をぐんぐん押され、地下足袋をぬかるみにピチャピチャ鳴らしながら、乃木七郎は迷惑そうにつぶやいた。

「どうしてこの人はこんなに俺を押しまくるんだろうなあ……ほんとに頭が痛いや……一体ここは何処なんだろう」

 小さなくぐり戸をくぐる時、乃木七郎は頭を鴨居にぶっつけて、ヒヤッと言うような悲鳴を立てた。乃木七郎の頭は、先ほど皆我ランコに机の脚で三つ殴られ、捕えられたあとも三つ四つ殴られ、一面コブだらけになっていた。その乃木七郎を牛島が不機嫌に叱りつけた。

「へんな声を出すんじゃねえ。首をしめられた鶏じゃあるまいし」

 曽我ランコが最後にくぐって、くぐり戸の扉をしめた。佐介はびっこをひきながら納屋に上り、手探りで電燈のスイッチをひねった。夜が遅いので電圧が正常に復し、その燈も夕刻よりぐんと明るい光を放った。入口からはみ出た黄色い光の輪の中で、牛島は眼をパチクリさせながら、まだ乃木七郎の上衣の裾をぎりぎりと握りしめていた。佐介はそれを見た。

「まだ摑んでいるのかい」電熱器やコップのたぐいを、足で隅の方に片寄せながら、佐介は呆れたような声を出した。コップや茶碗の耳をつまむことにおいて、佐介の足指は実に器用に働いた。「牛さんは実際なにかを摑みたがるんだな。摑んでいないと不安なのかな、さっきは僕の肱(ひじ)を摑み通しだったしさ。もういい加減放してやんなさいよ」

「そうよ。放したって逃げやしないわよ」土間の板壁の釘から雑巾をとり、それで脚を拭きながら曽我ランコが口をそえた。「逃げるきづかいはないわ。だってあたし、力いっぱい、殴ってやったんだもの」

 乃木七郎はぼんやりと淀んだ眼で、その曽我ランコの顔を見た。牛島は不承々々上衣から掌を外(はず)し、乃木七郎の背中をどんと突いた。乃木七郎はふらふらと前のめりになって、土間に足を踏み入れた。

「さあ、地下足袋を脱ぐんだ。その泥ズボンもだ」牛島は忌々(いまいま)しげに命令した。「逃げようなんて不心得を起したら、ほんとに承知しねえぞ!」

 曽我ランコは部屋に上った。つづいて乃木七郎。最後に牛島康之が仏頂面(ぶっちょうづら)で、肩を交互にぎくしゃくとひねりながら、のそのそと上って来た。

「栗さん。お前はやせっぽちのくせに、案外力(りき)があるな」

 牛島は自分の四角な顎に手をかけて、左右にがくがくと動かしながら佐介を見た。「横っ面ぶんなぐられて、あぶなく顎が外(はず)れるところだったぜ」

「僕だってひどい目にあったよ」佐介はズボンをたくし上げて右膝を露出した。そのあおじろい膝頭の部分々々を、彼は痛そうに指の先で次々に押して行った。「くらがりの中で、ここをあんたに手荒く蹴り上げられたんだ。また軽いネンザを起したらしい」

 乃木七郎は泥だらけのズボンを、地下足袋といっしょに入口で脱がせられたので、下着だけの素足となり、その裸の膝をきちんと揃え、供待ちの従者のように畳の上にかしこまっていた。乃木の脚は佐介のそれとちがって、北海産の毛蟹(けがに)みたいに一面剛毛が密生していた。佐介はそれを見ると、あわてて自分のズボンをずりおろした。乃木七郎はきょとんと顔を上げ、首をかたむけた。

「あ、あの音は何でございましょうか」

 自分が囚われの身であることだけはおぼろげながら判ってきたらしく、乃木七郎の語調はていねいとなり、ものやさしくなった。道ひとつ隔てた板塀のかなたで、金属と金属とぶつかり合うガシャガシャ音が、永遠の業苦(ごうく)の如く響いている。

「しらばっくれるな!」

 牛島が背後から怒鳴りつけた。乃木七郎は反射的に頸(くび)をちぢめた。曽我ランコは窓框(まどかまち)によりかかり、失望したようなつめたい視線で、乃木の顔や脚をじっと見おろしていた。畳に坐らないのは、泥だらけのスラックスのせいであった。彼女は乾いた声になって言った。[やぶちゃん注:「窓框」この場合は窓枠の下の部分。下框(したかまち)のこと。]

「男って、案外だらしないのね。三つ四つ殴っただけで、もうへなへなになってしまうんだ。がっかりしちゃうわ」

「かんたんに片づけなさんな」曽我ランコの腰のあたりを牛島はにらみつけた。「だらしないのも時たまいるが、そうじゃないのも沢山いる!」

「ねえ君」佐介は乃木七郎と膝を突き合わせて坐り、その顔をのぞきこんだ。「あのガシャガシャ音、何の音か忘れたのかい。憶い出してごらん。よく考えると、憶い出せるよ。そら、もう頭の入口まで来てるだろう。それに、この匂い!」

「はあ、何かにおいますな」乃木七郎はにぶい表情で首をかしげ、鼻翼をピコピコと動かした。「はて、これは何のにおいだったかな。とにかくおいしそうなにおいですね」

 朦朧(もうろう)たる記憶を手探りするかのように、乃木七郎は右掌を頭に持って行った。しかし頭に触れるやいなや、彼は痛そうに顔をしかめて掌を元に戻した。佐介は乃木の頭を見た。

「なるほど。ずいぶん凸凹になっているな。痛いだろう」佐介は部屋のあちこちを見回した。「なにか油薬でも――」

「バターでも塗ってやれ」牛島は乃木のそばに大あぐらをかいた。「それともカレー粉でもつけてやるか。ひりひりして、コブなんかたちまち蒸発するだろう」

「冷やすといいのよ。冷やすと記憶が戻ってくるかも知れないわ」曽我ランコは佐介の方に掌をつき出した。「タオルない? あたしが濡らしてきて上げる」

「へえ。ご親切なことだね」

「ついでにあたし、身体を拭いてくるわ。スラックスの泥も」曽我ランコはタオルを受取って肩にかけた。「その他にも、記憶を取り戻す方法を、いろいろ研究するといいと思うのよ。早いとここの男の、このX氏の頭のネジを元に戻して、修羅吉の首根っこを押えつけなきゃ、胸が収まらないわ。そうでしょ。井戸はどこ?」

「入口を出て直ぐ右っ側だ」佐介は乃木に向き直った。「ふん。X氏か。一体君は何という名前だね?」

 乃木七郎はふたたび首を斜めにして、唇をかすかに動かした。が、それは声にはならなかった。曽我ランコはそれを尻目にかけて、納屋を出て行った。やがて井戸のポンプを押す音がした。

「自分の名前まで忘れたんじゃあ仕方がないな」牛島が舌打ちをした。「これじゃ全然使いものにもなりゃしない。一体これは治るかね?」

「さあ、僕にもよく判らないが」佐介が答えた。「多分一時的なもんだと思う。しかし本などを読むと、十年も二十年も記憶を取り戻せないで、そのまま別の人物として生活していた例もあるらしいね。このX氏がどちらに該当するか」

 乃木七郎は無感動な表情でそれを聞いている。佐介はつづけた。

「僕の勤め先にもね。少々呆(ぼ)けたのがいる。これはちょっと治らない」

「白川研究所にか」牛島が語気荒くさえぎった。「一体お前さんは誰のことを言っているんだ――」

「ごめん、ごめん。あんたのことを指してるわけじゃないんだよ。勤め先がちがうんだ。別口の方のやつだよ。養老院の方なんだ。やはり齢をとると、呆けてくるのがいるんだねえ。まあこういうのは極く自然な呆け方なんだけどね」

「水を一杯下さい」乃木七郎がぽつんと言った。「咽喉が乾きました」

「水ぐらい自分で行って飲め!」そして牛島は直ぐに思い直した。「いや、俺が汲んできてやろう。夜陰にまぎれて逃走されてはかなわんからな。そのコップをよこせ」

 電熱器のそばにころがった合成樹脂のコップを、佐介は牛島にひょいと手渡した。牛島は受取って立ち上り、そそくさと土間に降りた。土間に降り立ったまま、牛島は動かなくなった。視線もひとところに固定して動かなくなった。井戸端の石畳の上に、曽我ランコは上半身を裸にして立っていた。濡れたタオルを右の乳房の上にあてて立っていた。納屋からの直接の光は届かなかったが、間接の光が彼女の胸や肩の輪郭を、ほの白く浮き立たせていた。曽我ランコは突然納屋の方に顔をねじ向け、するどい声で言った。

「誰?」

 牛島はあわてて首をひっこめ、足音を忍ばせて元に戻ってきた。困ったような笑い方をしながらささやいた。

「今、裸になってるからダメだ」そして声を更にひそめて、「あの女、いったい何者だね。お前さんの何かか?」

「そんなんじゃない」佐介はそっけなく首を振った。「僕もよく知らない。カレー粉会議で顔を合わせるだけだよ。僕は調査係だし、彼女は連絡係だ」

「そうか。どうも俺はあんな女が苦手だな。熊井照子の方がよっぽど俺の趣味に合う。第一荒っぽ過ぎらあね。男の頭を棒でぶん殴ったりしてさ。俺はああいう型の女は、ほんとに大嫌いだよ」

「わたしも嫌いでございます」乃木七郎が賛意を表した。

「つけ上るな!」牛島が乃木を即座にきめつけた。「誰もお前の意見なんか聞いてやしねえ」

「この人がぶん殴られた当人だから、意見を表明する権利ぐらいはあるよ。嫌いになるのも無理はない」佐介がとりなした。「つまりこの人はね、記憶を喪失したことによって、すべての責任から解放されたんだよ。いくらこのX君を責めたってムダなんだ。彼は責められる地点からはるか離れてしまった。もう別の地点に移ってしまったんだ。前場所から持ち越したのは、頭のコブだけさ。もっともこの人が移動出来たのは、自分によってじゃない。他力だね。殴打という物理的原因によって、この人は前場所の絆(きずな)から、完全に解放されたんだ。その解放が何時まで続くか、僕にも判らないけれどもさ」

「ありがとうございます」乃木七郎はにこにこしながら頭を下げた。「感謝いたします」

「しょうがねえなあ」牛島は怒るかわりに嘆息した。「ぬけぬけとお礼なんか言ってやがる。箸にも棒にもかからねえ。こんな奴が出て来ると、まったくはた迷惑だ」

「何が迷惑だね?」

「だってさ、俺たちはお互い同土で、ちゃんと一応のつながりだの連絡だのがあるだろう。因果関係やそんなものに結ばれている。そのまんなかに、こういう何も持たない奴がヌッと現われたんじゃあ、折角の連絡がそこらでズタズタに途切れたり、結滞したりしちゃうじゃねえかよ。こいつのおかげで、何かがバラバラになってしまった。人騒がせな奴だ。もっともそれはこいつのせいじゃなく、あの竹づっぽの責任かも知れないが」

「竹づっぽ?」

「そら、あの女のことさ。身体がすぽっとして、ちょいと竹の筒みたいだろう」戸外のポンプの方向を、牛島は小指で差しながら声を低めた。「でも、裸を見たら、案外いい胸の形をしていたな」

「全然の裸体か?」佐介はちょっと膝を乗り出すようにして聞いた。「はっきり見えた?」

「腰から上だけだ。そう膝を乗り出すんじゃない」牛島がたしなめた。「もう今はズボンも脱いだかも知れねえけどな。さっきは胸だけだったよ。ああいうのをさし乳というんだろうな。いい型のオッパイだった」

 ポンプが外でギイコギイコ鳴った。三人の男性は何となく一斉にそちらに顔を向けた。ちょっとした沈黙が来た。その瞬間、佐介は自分の眼が、牛島の眼になるのを感じた。牛島の眼が佐介を代行して、くらがりの曽我ランコの裸の皮膚をじっと見詰めている。ある刺戟が佐介の背筋をはしり抜けた。彼はかるく身慄(みぶる)いをしながら、顔を元に戻した。乃木七郎がかすれた声で言った。

「わたしは咽喉(のど)がカラカラです」

「でもね、僕たちはお互い同士できっちりと結び合ってるというけどもね」佐介は乃木の訴えを黙殺して、牛島に話しかけた。「そうでもないと僕は思うんだよ。つながっていると思い込んでいるだけで、つながっているという証拠はない。だって、つなぎ合わせるための釘やカスガイ、そんなものを僕たちは見ることは出来ないもの。たとえばあんたと僕の間にもさ。つまり僕たちはだ、自分たち全体が木造建築やブロック建築のつもりでいて、実のところは積木のお城じゃないのかねえ。ちょっとゆすぶると、床の上にくずれてバラバラになってしまう。そういう点でさ、健康なのはこのX君で、X君以外の人間がむしろ不健康なんだよ」

「また理屈をこね始めたな」牛島は不機嫌に言った。「すると気違いの方が俺たちより正常だと言うのか」

「この人は広大無辺の空白に入ったおかげで、そういうもろもろの錯覚から、一挙に逃れることが出来たんだ。おのずから逃れてしまったわけだね。非常に健全な状態だよ」

「水!」乃木七郎は右手で咽喉をかきむしった。「いくら広大無辺なブランクでも、水ぐらい飲ませないと可哀そうだね」佐介は思い切ったように立ち上りながら乃木をうながした。「さあ、井戸端に連れてってやるよ」

「俺も行こう」牛島もごそごそと立ち上って、言い訳がましく言った。「逃げられると元も子もなくなるからな」

 つづいて立ち上った乃木七郎の上衣を、牛島の手がふたたび摑(つか)んだ。佐介もつられて乃木の上衣を摑んだ。二台の貨車を率(ひ)き従えた機関車のように、乃木七郎はのろのろと畳の上を行進して土間に降りた。その足音で井戸端から曽我ランコがきっと顔を振り向けた。彼女はすでにブラウスを着け、髪を紐(ひも)できりりと束ねていた。入口の黄色い光線の輪の中に、三人の男の顔が突然ずらずらと現われ出た。その顔は三つとも光を背にしているくせに、どういう訳か、そろってまぶしそうな眼付きをしていた。その顔のひとつがやがてがっかりしたような声を出した。

「こいつが水を飲みたいと言うんでね」

「ついでに頭に水をザアザアかけて、冷やしてやるといいわよ」曽我ランコはタオルをしぼりながら、にくにくしげに言った。「痛い痛いと思ったら、あたしの胸、痣(あざ)が出来てたのよ。憎いわねえ」

「その石を投げたのは、あるいはこいつかも知れねえぞ」牛島は乃木の頸(くび)を背後から押えて、ポンプの流出孔に顔をあてがった。そして佐介がポンプをギイコギイコと押した。「さあ、飲みたいだけ飲みな」

 水が束になってほとばしり出て、乃木七郎の顔を水だらけにした。乃木七郎の口は底の抜けた瓶のように、際限なく水を吸い込み、そののどぼとけは不規則に、また嬉しげに、ごくごくと上下した。いい加減のところで牛島は手を伸ばし、乃木の顔の向きをねじ曲げたので、今度は水の束は乃木の頭髪に殺到した。水は髪の泥をふくんで濁りながら、石畳にざあざあと流れ落ちた。

「さあ、もういいだろう」牛島が乃木の襟首を引っぱった。濡れた頭に曽我ランコがタオルをふわりとかぶせた。乃木は眼をぱちぱちさせながら、タオルでそこら一帯を拭き回した。牛島が訊(たず)ねた。「どうだ。何か憶い出したか?」

 乃木七郎はタオルの手をちょっと休め、首を静かにふった。牛島は激しく舌打ちをした。

「もうこのおっさんはダメだな」

「なにかショックを与えると回復するかも知れないわね」ぞろぞろと納屋に戻ってきた時、曽我ランコが乃木を見ながら発言した。「なにかそんな注射薬か何かがあるんじゃない?」

「注射もあるし、電気ショックもある」佐介が答えた。

「分裂症なんかに効果があるらしいよ」

「ここでやれないか?」と牛島。

「やれないね。注射器もないし、電気器具もないもの。でも、牛さんは先刻から、しきりにこいつを回復させようとあせっているが、この人の記憶が元に戻ったって、そして修羅吉五郎の陰謀がバクロされたって、それはあんたと何の関係もないじゃないか。もともとあんたは局外者なんだからさ。それによってあんたは別に得をするわけでもあるまい」

「そりゃそうだが」牛島はちょっと言葉につまった。「でもこいつが記憶をなくして、ポカンとなっているのを、俺は放って置けないんだ。それは天の理、人の理に反することだからな。折り目正しい俺の性格からして、どうしても黙って放って置くわけには行かない」

 牛島は乃木をにらみつけるようにした。乃木七郎はきちんと正坐し、裸の膝に両掌をのせ、頰をゆるめてにこにこと笑っていた。空気の如く透明にわらっていた。それはこの納屋にいる誰よりも充足し、幸福そうに見えたのだ。嫉妬に似たいらだたしさが瞬間牛島をおそった。牛島はいきなり立ち上り、足音荒く乃木の背に回った。乃木七郎は笑いを消さないまま、反射的に首をすくめた。

「注射も電気も出来ないなら」牛島は声を押えつけた。

「思い切りゆすぶってやったらどうだろう」

 そして彼は両掌を乃木の両耳にぴたりとあてがった。そしてカクテルシェーカーでも振るように、乃木の頭を前後左右にやや乱暴に、またリズミカルにゆすぶり始めた。佐介と曽我ランコは興味ありげに乃木の顔に視線を集めた。乃木の濡れた頭髪は、そのゆさぶりにしたがって、細かい水滴を前後左右に弾(はじ)き飛ばした。その微細な飛沫の中で、乃木七郎は相変らずにこにこと笑っていた。曽我ランコが思い詰めたような声を出した。

「まだ笑ってるわ」

 牛島はゆさぶりの手を休め、腕を二三度屈伸させた。少少くたびれてきたのだ。乃木七郎はここちよげに顔を掌でぶるんとこすり上げ、おもむろに牛島をふり返った。

「ありがとうございました。おかげさまで、さっぱり致しました」

「何か憶い出したか」牛島がたたみかけた。「何を憶い出した?」

「いいえ。なんにも」

「ああ、何ということだ」牛島はすっかり絶望して、両方の拳固で自分の頭を強く連打した。「まるでのれんに腕押しじゃねえか。ダメだ。こいつはもうおしまいだ」

「おしまいじゃなかろう。始まりなんだ」佐介が訂正した。

「この人にとっては、これがおそらく始まりなんだよ」

「今度はくすぐってみたらどう?」曽我ランコが提案した。「殴られて記憶がなくなったんだから、くすぐると元に戻るかも知れないわよ」

「やってみるか」牛島は掌にぎしぎしと唾をつけた。「じゃ、君たち二人で、こいつの手をしっかり押えて呉れ。そうすればくすぐり易い」

 乃木七郎はあおむけに寝かされ、右手は佐介に、左手は曽我ランコに、それぞれ畳の上にぴたりと押えつけられた。その姿勢になるまでに、乃木はいささかの抵抗や反抗の気配も示さなかった。牛島は乃木の胴体に馬乗りになり、両手の指をトレーニングとして忙しく屈伸させた。乃木七郎はあおむけのままにこにこしていた。

「いいか。やるぞ!」

 牛島の両手はパッと動き、乃木七郎の両腋(りょうわき)の下に飛びついた。牛島の両手の指は、乃木の腋(わき)の下のくぼんだところから肋骨(ろっこつ)にかけて、縦横無尽に躍り回った。乃木七郎は大きな声を立ててわらい出した。しかし佐介も曽我ランコも、乃木の両腕を押えるのに、力をこめる必要はまったくなかった。乃木が腕をもがこうとは全然しなかったからだ。――乃木七郎は両手両足をゆるやかに伸ばし、腋の下をすっかり開放して、牛島のくすぐりたいままに任せながら、大笑いに笑っていた。天上の神々の如くに明るく、ここちよげに笑っていた。やがて牛島の額から汗がべっとりと滲(にじ)み出てきた。陰鬱なカレー器械のガシャガシャ音と、くったくなげな健康な乃木七郎の笑い声は、しばらく狭い納屋の中で入り乱れて響き合った。突然その笑いが佐介に伝染した。佐介は乃木の腕から掌を離し、自らの腹を押えるようにして、声を忍んでクックッと笑い始めた。

[やぶちゃん注:「ぎしぎしと唾をつけた」という表現がやや不思議に感じられ、方言ではないかと調べて見たが、見当たらない。「ぎしぎし」の意味の内で「隙間のないほど詰まっていくさま」の意を採ったものであろうか。]

さぁて――先生とKの「人間らしさ」の議論 / 二人の房州旅行からの帰還

 「其時私はしきりに人間らしいといふ言葉を使ひました。Kは此人間らしいといふ言葉のうちに、私が自分の弱點の凡てを隱してゐると云ふのです。成程後から考へれば、Kのいふ通りでした。然し人間らしくない意味をKに納得させるために其言葉を使ひ出した私には、出立點が既に反抗的でしたから、それを反省するやうな餘裕はありません。私は猶の事自說を主張しました。するとKが彼の何處をつらまえて人間らしくないと云ふのかと私に聞くのです。私は彼に告げました。―君は人間らしいのだ。或は人間らし過ぎるかも知れないのだ。けれども口の先丈では人間らしくないやうな事を云ふのだ。又人間らしくないやうに振舞はうとするのだ。

 私が斯う云つた時、彼はたゞ自分の修養が足りないから、他(ひと)にはさう見えるかも知れないと答へた丈で、一向私を反駁(はんばく)しやうとしませんでした。私は張合が拔けたといふよりも、却つて氣の毒になりました。私はすぐ議論を其處で切り上げました。彼の調子もだん/\沈んで來ました。もし私が彼の知つてゐる通り昔の人を知るならば、そんな攻擊はしないだらうと云つて悵然(ちやうぜん)としてゐました。Kの口にした昔の人とは、無論英雄でもなければ豪傑でもないのです。靈のために肉を虐げたり、道のために體を鞭つたりした所謂難行苦行の人を指すのです。Kは私に、彼がどの位(くらゐ)そのために苦しんでゐるか解らないのが、如何にも殘念だと明言しました。

『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月17日(金曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第八十五回より。太字下線は私が附した)

  *

私も先生なら――その致命的な誤謬に――やはり……気づかない…………

2020/07/16

三州奇談續編卷之七 多湖老狐

 

    多湖老狐

 越中「多湖(たこ)」は、「萬葉集」に多く聞えたる「藤波(ふじなみ)」の名所なり。謠(うたひ)にも又聞えたり。今日(こんにち)爰に至りて見るに、片岸(かたぎし)の岡山にして小村(こむら)田野靑し。往昔(そのかみ)の景は見えず。舊跡は寺となり、白藤山光照寺と云ふ。門の側に一つの古藤(ふるふぢ)あり。檜の木に纒ひて半ば上る藤根蟠(わだかま)りて臼の大さなるべし。實(げ)に千古の一物猶あり。是れ家持卿の再遊の地、爰にも鳥石(てうせき)の斑紋よきを寺に納む。其昔は海水爰に浸(ひた)して、波濤岸(きし)を打つと覺えたり。今十餘町[やぶちゃん注:六掛けで一キロ半近く。]海退(しりぞ)き、「布勢(ふせ)の海」も側(かたはら)により、田畑に狹(せば)められて、此あたり皆澤國(たくこく)の美田(びでん)と變ず。扨は「雪の島」と聞えし景も何(いづ)れやらん。

「今の西田國泰寺(こくたいじ)の前山の尾にや」

と、好事の人は云ふ。然れども「唐島(からしま)」をさすとも云ふ。論猶後條に記す。

[やぶちゃん注:「多湖」古くは「多祜」。富山県氷見市上田子(かみだこ)・下田子(しもだこ)一帯(国土地理院図)の旧地名。「布勢の水海(みづうみ)」「布勢(ふせ)の海」(後の原形の「十二町潟」。地盤の隆起・仏生寺川水系による土砂の堆積・近世以降の干拓事業などによって次第に湖面が縮小してしまい、現在の十二町潟は万尾川(もおがわ)に沿った(左岸。初めは万尾川は直接に十二町潟に流入していたが、現在は万尾川とは堤防を隔てた形で流路変更されている)長さ約一・五キロメートル、幅百メートルばかりの一条の水路様の池沼となってしまった)の沿岸であった。原十二町潟の範囲は、こばやしてつ氏のサイト「ゆかりの地☆探訪 ~すさまじきもの~」の「布勢の海(富山県氷見市)」に載る案内板(平安時代の十二町潟)がよい。写真も載るが、凡そ家持の時代を偲ぶ便(よすが)にはならない状態にある。リンク先にはこの「布勢の水海」を詠んだ家持の歌も載るので、必見。同サイトの「多胡の浦(富山県氷見市)」も見逃すまじ! 十二町潟の縄文時代以来の詳しい沿革はサイト「水土里ネット氷見」の「十二町潟を拓く」PDF)がお薦めである。なお、実測距離の十二町は一キロ三〇九メートルである。]

「藤波(ふじなみ)」「万葉集」巻第十九の以下の大伴家持の歌(四一九九番。四首に第一)に基づく。

    十二日に、布勢の水海(みづうみ)に
    遊覽し、多祜(たこ)の灣(うら)に
    船泊(ふなは)てして、月と藤の花を
    望み見、各〻(おのがじし)懷(おも
    ひ)を述べて作れる歌四首

 藤波の影なす海の底淸(きよ)み

    沈(しづ)く石(いし)をも

        珠(たま)とぞわが見る

この下田子地区には藤の古木が多い。田子浦藤波(たこうらふじなみ)神社(グーグル・マップ・データ。八世紀末頃に創建されたと伝わる古社で、しかも大伴家持の部下が家持に授かった太刀を祀ったのが始まりとされる家持所縁の神社である)のそれが推定樹齢二百年で、幹周り一メートル八センチ、根周り囲二メートル七十七センチ、樹高二十八メートルもある巨大な藤の木(山藤(マメ目マメ科マメ亜科フジ連フジ属ヤマフジ Wisteria brachybotrys)系)である。参照した「氷見市」公式サイト内の「大伴家持がこよなく愛でた氷見のフジ」を見られたい。

「謠(うたひ)にも又聞えたり」謡曲「藤」作者不詳(江戸初期の作か)で、江戸中期の十五世観世宗家観世元章(もとあきら)が改作したもの。まさにこの「多祜の浦」が舞台で藤の花の精を扱った複式夢幻能である。解説と詞章は小原隆夫氏のサイト内のこちらがよい。

「往昔(そのかみ)」は私の当て訓。雰囲気を大事にしたいと思い、選んだ。

「白藤山光照寺」浄土真宗本願寺派。富山県氷見市朝日本町のここ(グーグル・マップ・データ)。開基は慶信(加賀国守護冨樫泰家の弟冨樫武道の次男武行)で、正応元(一二八八)年、本願寺如信上人に帰依して発心出家し、正応三(一二九〇)年に加賀国木越(きごし)村(現在の石川県金沢市木越)に一宇を建立して光照寺の号を上人より賜わった。後年、この旧田子村に移転し、更に安永九(一七八〇)年に慶岸が現在地に移転したもの。藤棚はあるが、山門のそばでないし、この当時のものではない。因みに山号をどう読むか、かなり執拗に調べたが、遂に判らぬ。「はくとうさん」と読んでおく。

「鳥石」前話「二上の鳥石」参照。

「今十餘町海退(しりぞ)き」六掛けで一キロ余りとなるが、現在の海岸線からこの寺までは五百メートル余りしかない。但し、原十二町潟の最奥部は現在の海岸線から四キロメートル以上貫入していた。多くの資料は縄文後期頃には海と分離し、淡水化したとするが、現行のような潮止水門のようなものがあったとは思われないので、広義の汽水でいいのではなかろうかという気はする。

「澤國(たくこく)」沼沢の多い湿潤な国。

「雪の島」「万葉集」巻第十九の天平勝宝三年正月三日(ユリウス暦七五一年二月七日)に雪の降りの激しい日、家持の館で催された宴での、歌謡を詠む芸能者の女性が詠んだ(四二三二番)、

   遊行女婦(うかれめ)蒲生娘子(かまふ
   のをとめ)の歌一首

 雪の嶋巖(いは)に植ゑたるなでしこは

    千世(ちよ)に咲かぬか

        君が挿頭(かざし)に

であるが、この「島」は本当の島ではない。前の四二三一番歌の前書に、宴席の余興に家持邸の庭に雪を積み上げて重畳する岩の形を創り上げ、そこに巧みに草木の花を彩りとして飾ったものなのである。されば、この同定自体が実は無効なのである。しかし、これについて個人サイト「万葉のふるさと氷見」の「氷見弁で読む万葉集(巻19)」の本歌の解説に、「氷見市史」第四巻の付録にある「憲令要略」に、この「雪の島」とは「唐島」らしい、と書かれているとある。「唐島」は氷見市沖にある小島の無人島で、氷見市丸の内にある光禅寺が全島を所有し、弁天堂や観音堂がある。光禅寺を創建した明峰素哲が唐の大火を消し鎮め、その返礼に唐から島を贈られたという言い伝えから、「唐島」と呼ばれる。地質的には石灰質砂岩から成る(ここはウィキの「唐島」に拠った)。シチュエーションからも、歌柄からも、正直、それはないよと言いたい。なお、「水土里ネット氷見」の「十二町潟を拓く」PDF)の裏表紙には、十二町潟には一つぽつんと島があった、として「布施の丸山」の写真が載る。ここ(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「西田國泰寺の前山の尾」「西田」は不審。高岡市太田にある臨済宗摩頂山国泰寺。但し、この中央附近の丘陵となるものの、ここは縄文海進まで遡らないと、十二町潟ではないから、どう考えても、誤りである。

「後條」次の「布施の白龍」以下、「卷之八」でもこの辺りが語られることを指す。]

 

 されば奇說を求めて、春日(しゆんじつ)も旭光西山に隱るゝ迄徘徊するに、半說をも得ず。昏(ひぐれ)に及びて歸るに、金澤の城下に通ふ商人(あきんど)四五輩、棒(あふこ)の端重たげに休らひ居たるに、杖の下を狐過行(すぎゆ)きしを、

「あれやいかに」

と云ふに、氷見(ひみ)の商人更に驚かず、

「此邊(このあたり)は狐多くして狗(いぬ)に類(るゐ)す。何共(なんとも)せざる事なり」

と云ふ程に、

「いかにや委しく語り給へ」

と、破籠(わりこ)の殘酒など打廻(うちめぐ)らして懇ろに問ふに、

「さらば息休めに長物語(ながものがたり)一つ申さん」

とて、一人の老夫語りしは、

[やぶちゃん注:「半說」聴きかじりの話の断片。

「棒(あふこ)」「近世奇談全集」に『おゝこ』とルビするのを参考にしてかく読んだ。「近世奇談全集」は一部にルビが振られていて重宝するのだが、残念ながら、歴史的仮名遣の誤りが甚だ多いという難点があるのである(因みに、同書の編校訂者は何んとまあ、田山花袋と柳田國男なんだけどね)。「あふこ」は現代仮名遣「おうこ」で、漢字は「枴」、天秤棒のことである。彼らは「ぼてぶり」(棒手売)なのである。

「何共せざる事なり」どうってことはない日常的なことさ。

「いかにや委しく語り給へ」この台詞は麦水。

「破籠」弁当。]

 

「田子(たご)村の與藏が後ろの山の穴に、久しく住みたる老狐あり。近き頃の事なり。近隣の惡若者ども、いかにしてか此老狐を引捕(ひきとら)へて、棒を以て打つ。老狐既に死に至(いたら)んとするに、與藏傍に見るに哀れ堪へ難く、走り寄りて命を詑(わ)び、棒を押(おさ)へて狐を迯(にげ)さしむ。漸(やうや)くに老狐穴に入ることを得たり。與藏猶痛(いた)はり、我が喰(くら)ふ食(しよく)を分ちて穴の中に投げ入れ、憐むこと大(おほい)に過ぎたり。あたりの人與藏を諫めて、

『何とて心弱きことをするぞ。狐は必ず弱みに付く物なれば、打擲(ちやうちやく)したる若者には付かずして必ず汝に付くべし。早く心を正しくせよ。早(はや)何(なん)とやら目付き惡しく、足の根に爪たてる樣(やう)に見ゆるぞ』

と云へば、與藏淚を流し、

『我れも其咄しは聞き知りたることなれど、狐の痛めらるゝを身にかへて不便(ふびん)に思ふ故(ゆゑ)斯(かく)の如し。是も早や野狐(やこ)の所爲(しわざ)にや、心うかうかとする樣(やう)なり。手つき足つき能く試みられよ』

と、友達に見て貰ふなど、甚だ心にかけけれども、さして本氣を失ひしとも思はれず。翌日に至りければ、馬の糞(くそ)を紙に包み、手に載せて見れども、矢張馬の糞にして喰ふべき心も起らず。されども與藏、邊りの人におどされて心中常ならず。所用もやめて、野狐の付きたる氣になりて、一間所(ひとまところ)へ入り、自ら戶を閉ぢなどして心を定む。いか樣(さま)此頃津幡(つばた)の驛の人足、早打籠(はやうちかご)舁(か)きし戾りの六人連れ、野鍛冶(のかぢ)が狸の皮を脊に懸けて戾るを、

『妖物(ばけもの)よ』

と打擲して、今は騷動に及び居(を)ると聞えたり。

『是等(これら)人の方(はう)强ければ、狐の方指扣(さしひか)へることにや』

と、朝夕狐の付かんことを侍居(まちをり)けるに、三日目の夜、雨しめやかに灯(ともしび)も細く、亥の刻過ぐる頃[やぶちゃん注:午後十時過ぎ。]、

『しらしら』

と老狐家に飛入(とびい)りしかば、與藏大聲揚げて、

『よれや人々今狐が付くぞや』

と申しけるに、彼の狐靜めて申すは、

『必ず大聲して人を呼び給ふな。我れ餘り其元(そこもと)の用心し給ふ故「付かぬ」と申す云譯(いひわけ)に來りたり。靜(しづか)に聞き給へ』

とて、夢ともなく現(うつつ)ともなく語りけるは、

『此邊の狐は化けることに不自由なり。我れ能々(よくよく)の老狐なればこそ現に來(きたり)て詞(ことば)を出だすなり。其許(そこもと)の恩を受けながら、其許の餘り用心して世用(せよう)をも捨て給ふが痛はしさに告げ申すなり。狐の付くことはあることながら、夫(それ)は多く氣(き)やみのうち、又は病氣より自ら迎ふる類(たぐひ)なり。畢竟(ひつきやう)付く方(はう)われらが損なり。抑(そもそ)も我等が類ひは人に付くの存念(ぞんねん)更になし。人に付けば又狗にも取らるゝなり。自然(しぜん)と狗は人の爲(ため)をなす天性(てんしやう)なり。人に付かねば狗見付けて追ふといへども、暫く退(しりぞ)けば犬の心たゆみて戾る。强ひて追ひ極めず。此邊の狐とても犬と同じことに人家の食を喰ひ申せば、自(みづか)ら人に仇(あだ)する心止みて、化け樣(やう)も忘れたる如し。一躰(いつたい)昔は人の精を吸ひて美女にも變じ、天子攝家の高位にも近づきしと聞きしが、今は中々人魂(じんこん)薄うして、精を吸ひても、狐の方に德あることなし。民間にては良々(やや)もすれば惡疾(あくしつ)・下疳(げかん)の精を吸ひて苦しむこと甚だ多し。依りて我等は初めより化け樣を忘れて、常獸(つねのけもの)と同じことに暮すなり。罰・利生(りしやう)あるの狐は狐のみに非ず、物の狐に依りたるなり。此邊の狐何の罰・利生をかなさん。穴賢(あなかしこ)捨置(すてお)きて、前の如く常の所用をなし給へ』

と云ひしが、忽ち見えず。夢覺(ゆめさめ)たるが如し。

 與藏是より心慥(たしか)にて、常の事を勤めしとぞ。

 今宵(こよひ)氷見に宿り給はゞ、軒下・屋の棟に狐住むなるべし。必ず驚き給ふな」

と一椀の酒の恩にめでゝ懇に物語せしなり。

[やぶちゃん注:「田子(たご)村の與藏が後ろの山」この中央附近の田子地区の西側の丘陵であろう(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「命を詑(わ)び」命乞いをして彼らに狐に代わって詫びを入れ。但し、この漢字は誤りで、「詫」「侘」でなくてはおかしい。「詑」は「欺く・偽る」の意である。

「付く」憑く。

「足の根に爪たてる樣に見ゆるぞ」狐のように獣っぽく関節を曲げて爪を地面に立てるように見えるぞ!

「狐の痛めらるゝを身にかへて不便に思ふ故斯の如し。是も早や野狐の所爲(しわざ)にや」「哀れに思って、施しを与えてやるといった行動をとったこと自体が、既に野狐に誑かされていたのかも知れない」と自覚しているのである。

「心うかうかとする」気がゆるんで注意が行き届かない。何となくぼんやりする。気分が妙に浮き立ってしまって心が落ち着かぬさま。

「矢張馬の糞にして喰ふべき心も起らず」狐狸に騙されて馬糞を饅頭だと思って食う話は定番。

「所用」用事。用件。

「津幡」石川県河北郡津幡町(グーグル・マップ・データ)。

「早打籠舁きし戾りの六人連れ」早く籠で人を目的地に送るために、交替要員或いは前引きのための六人組み。

「野鍛冶が狸の皮」野鍛冶とは、包丁や・農具・山林仕事などに用いる刃物などの製作や修理を担ってきた渡りの鍛冶屋。ここはそうした野鍛冶がよく背に着けている狸革を駕籠舁きたちが身に着けていたというのであろう。何となく彼らの粗野なアウトロー感がよく出る。

「『妖物(ばけもの)よ』と打擲して、今は騷動に及び居ると聞えたり」ここがちょっと不審。私はそうした連中が与蔵に狐が憑いているかも知れぬという話を聴いて、彼の家に押し入り、暴行を加えたという意味で採っている。ただそれだと、「今は騷動に及び居ると聞えたり」という部分がなんとなくいらない感じがする。「騷動に及びけりとも聞えたり」(騒動となったようだとも聴いたりした)ぐらいならいいか。

「是等人の方强ければ、狐の方指扣へることにや」前の暴行事件を受けてのこと(どうせなら狐が本当に憑いたなら、そうした連中をも退散させ得るであろうというニュアンス)と私は採っている。何か別な解釈があると思われる方は、是非、御教授あられたい。

「しらしら」白くその狐の形がはっきり見えるさま。

「世用」ここは渡世の仕事の意。

「氣(き)やみ」気病みで、精神病のこと。

「病氣」心因性でない内因性・外因性疾患のこと。

「人に付けば又狗にも取らるゝなり」。狐が人間に憑依すると、基本、人間に忠実で、敏感なる犬は、必ずそれを知って襲ってくるものである。人間は逃げ足が遅いから、すぐ捕まってしまう。狐のままならさっと逃げられるという含みがあって以下の「人に付かねば狗見付けて追ふといへども、暫く退けば犬の心たゆみて戾る」に続いているのであろう。

「强ひて追ひ極めず」主語は犬。

「昔は人の精を吸ひて美女にも變じ、天子攝家の高位にも近づきし」鳥羽上皇の寵を得たという伝説上の美女で、その正体は異国(天竺・中国)で悪行を重ねて遂に日本に飛来したとされる金毛九尾の狐。陰陽師に見破られて那須の殺生石になったとする、九尾狐「玉藻の前」のことを念頭に置いて述べている。

「人魂(じんこん)」崇高にして強力な精力・精神力。

「下疳(げかん)」性病(性感染症)の一種。性行為で伝染する伝染性潰瘍を形成する症状を指す。通常、潰瘍は陰部に生じる。原因病原体により「軟性下疳」・「硬性下疳」=「梅毒」・両者の混合による「混合下疳」に分ける。

「物の狐」よく判らぬ。物の怪としての狐の意か。]

梅崎春生 砂時計 19

 

      19

 

 黒須院長と在院者代表との会見は、ようやく終りに近づく兆候を見せていた。

 しかしこれは、提出された議題が次々にばたばたと解決されて行ったからでなく、一座にみなぎる倦怠と疲労と睡気、ひとえにそのせいであった。それは老人側においてとくに顕著であった。黒須院長もたえざる緊張のために、相当に疲労を感じてはいたけれども、なにぶん齢は四十代だし、さきほど鰻(うなぎ)の大串を何本もたいらげたせいもあり、まだまだ充分な元気と精気を保有して、ぎろりぎろりと一座を睨(ね)め廻していた。これに反して老人たちの側は、ニラ爺のように頭のネジのゆるみかかったものや、しきりに眼をしょぼしょぼさせているもの、連続的に小さな欠伸(あくび)をしているものなど、総体的に消耗の色が濃くただよい始めていた。

 院長はこの情況を待っていたのだ。敵が疲労してくればもうこっちのものだ。リール竿にかかった魚も同然だ。あとは糸を伸ばしたり縮めたり、ゆるめたり引きしめたりするだけでこと足りる。

「よろしい。リヤカー代弁償の件は、わたしの責任において、撤回することにしよう」院長は満面に笑みをたたえ、恩きせがましい口調で、ぐるりと一座を見回した。「しかし、撤回すると言ってもだ、リヤカーは院内備品であるからして、補充しないというわけには行かない。いかにしてこれを補充すべきや――」

「経営者に金を出させりゃいいじゃないかよ」比較的元気な松木爺が口をはさんだ。「公務で破損したんだから、当然の話だ」

「かんたんに考えて下さるな!」院長は松木爺をきめつけた。「そうかんたんにことが運ぶなら、わたしも苦労はしない。いいですか。当養老院は在院者百名を擁する大世帯ですぞ。そういう大世帯になれば、会計制度もちゃんと確立しなけりゃならん。たとえば予算だな。備品補充費というものも、年度がわりにおいて、ちゃんと計上されている。計上されてはいるがだ、それは一年間にわたって使用されるべき金額だ。な、あんた方も子供じゃないんだから判るだろ。ここで一挙に一万二千円も支出すれば、あとはどうなるか。たとえばだな、二万円の月給取りが、月給を貰ったとたんに二万円のカメラを買えば、あとはどうなるかというのと同じことだ。あと三十日を、まるまる飲まず食わずで働かねばならんな。わっはっはあ」

「じゃどうしようと言うんだ」笑い飛ばされて松木爺は憤然となった。「まさかその一万二千円を、我々九十九名に割当てようと言うんじゃあるまいな。そういう振替えは絶対に認めんぞ」

「不肖(ふしょう)黒須玄一は、そんなケチな振替えはやりません」黒須院長は眉をぐいと上げて、大見得を切った。「諸君のふところをあてにするような、そんなしみったれた考えはいささかも持っておりません。リヤカー代は一応わたしが出す。わたしの責任においてわたしが支出することにする。そんなら諸君も文句はなかろう。すなわちわたしはわたしのポケットマネーをさいて、リヤカーを買入れることにします」

「ポケ、ポケット、とは何や」ニラ爺がそっと松木爺に質問した。

「へ、へそくり、という意味だ」松木爺が耳打ちし返した。「へそくりの英語だよ」

「一万二千円。一万二千円という金額は、もちろんわたしにも痛い。痛いけれどもだ」黒須院長は得意げに鼻翼をふくらませ、おもむろに一座を見渡し、そして視線をニラ爺の面上に止めた。「それによってニラ爺さんが幸福になると思えば、わたしも辛抱出来るのだ。同甘同苦。な、ニラ爺さん。もうくよくよすることはないよ。くよくよしないで元気よく、軽はずみをつつしみ、与えられた任務に、いそしんで貰いたい。判ったね」

「与えられた任務とは何だ?」滝川爺がいぶかしげに口をはさんだ。「何か任務でも与えたのか?」

「わたしが与えたのではない」院長は口のすべりをうまくごまかした。「与えられた任務というのはだな、清らかにして正しい余生を送るということだ。つまり神様から与えられた任務のことだね。これはニラ爺さんだけでなく、その任務は諸君全部に課せられているわけなのだ。わたしは諸君のその補佐役に過ぎない」

「さっき院長は」遊佐爺が発言した。「リヤカー代は一応自分が出す、と言ったようだが、一応とはどういう意味だ。暫定的にという意味か?」

「一応は一応だ。一々言葉尻をとらえて下さるな」院長は舞扇で卓をピシリと叩いた。「こうしてわたしは身銭を切ってまでして、諸君に誠意を示している。だから諸君もその誠意にこたえてはどうか、それが同甘同苦というものだ。たとえば先刻保留になっていた調理場開放の件だな、あれなんかは早速諸君の方から、自発的に取下げることを勧告する。この誠意あふるるわたしが、諸君に不利益な調理方法をとるわけがないではないか。ましていわんや、わたしをヌキにして直接経営者と話し合おうなんて、もってのほかだと思わないか。なあ、遊佐爺さん。わたしを信用しなさい。そして調理場開放の件は取下げなさい。そうでないと、折角わたしがポケットマネーをさこうにも、さけなくなってしまうじゃないか。これはわたしにも不幸だが、ニラ爺さんにとってもたいへんに不幸なことだ」

「じゃあ、取下げることにしよう」遊佐爺はニラ爺を横目でにらみながら不承々々(ふしょうぶしょう)に言った。そしてあわててつけ足した。「一応取下げるということにしよう」

「ことのついでに部屋割りのことも」院長は得たりとばかりかさにかかった。「あれもわたしに委(まか)せてくれ。悪いようにはしないから」

「委してくれというのは、くじ引きの期日のことか?」

「くじ引きの期日もそうだが、くじ引きそのものだ」院長は傲然と老人たちを見回した。「くじ引きなんてものは、諸君が集まってやっても、わたしがひとりでやっても、同じようなものだとすれば、なにも諸君の手をわずらわすこともない。わたしひとりでやる。そしてその結果だけを、諸君に発表することにしよう」

「そんなバカなことがあるか」滝川爺がたまりかねたように大声を発した。その大声で、睡気をもよおしていた他の爺さんたちも、ハッと眼を見開いた。「そんな論理の立て方があるものか。それならわしも言おう。どちらがくじ引きしても同じなら、なにも院長の手をわずらわすことはない。わしたちがやる!」

「そうだ。そうだ」

「しきたりを破るな」

「伝統を尊重せよ」

 睡気からさめた爺さんたちは、こもごも口を尖(とが)らせて発言した。

「どうしてそんなに一々わたしの言葉にこだわるのか」院長はやや情なさそうな声を出して舌打ちをした。自分の発言がたちまち一座を刺戟し、あたかも覚醒剤の如き役目を果たしたことに、院長は内心むかむかしていたのだ。「部屋なんかどこだって大体同じじゃないか。広さは一律に六畳だし、目当りもおおむね同じだし、どうして諸君はそんなに部屋割りにこだわるのかね」

「同じじゃないぞ」遊佐爺が一座を制して、代表して発言した。「部屋によっていろいろ条件が違うぞ。住み良い部屋と、住みにくい部屋。たとえば便所ひとつを考えても判るじゃないか。わしたち老人は、年齢の関係上、どうしても便所が近い。夜中に二度も三度も起きることがある。便所に遠い部屋に割当てられたら、冬なんかはまったく難渋するぞ。寒い廊下を往復するだけで、身体のしんまで冷えてしまう。その間の事情が院長には判らないのか」

「便所のことだけじゃない」と松木爺。「たとえば二階と階下では、大いに条件が違う。院長には判るまいが、俺たちの年頃になると、階段の登り降りすらが実に身体にこたえるのだ。そちらでくじ引きをやると言うのなら、そのかわりに各棟にエレベーターかエスカレーターをとりつけろ。それを俺たちは要求する」

「エスカレーター?」院長は眼玉をぎょろりと光らせた。

「何たることをおっしゃるか。ここは百貨店ではありませんぞ。ばかばかしい。黙って聞いておれば、そのうちに、屋上遊園地をつくれと言い出すんだろう」

「屋上遊園地をつくっても当然だ」滝川爺は手を上げて、窓外の闇をキッと指差した。「院長は俺たちの遊び場だった庭を、全部掘りくりかえして、すっかり野菜畠にしてしまったじゃないか。俺たちは一体どこで遊べばいいのか。院長の所存をうけたまわろう」

「爺さんになっても、まだ遊びたいのか」院長も負けずに窓外を差しながら、大声で怒鳴り返した。「大体遊ぶということはだな、子供のやることだ。ここは幼稚園でもなければ、小学校でもない。れっきとした養老院だ。遊び場なんかつくる必要は認めない。それに滝川爺さんは野菜畠に反感を持っておられるようだが、飛んでもない心得違いですぞ。近頃の諸君の健康の一因は、かの新鮮な野菜の摂取にある。採りたての野菜からビタミンA、B、C、D、カロチン、葉緑素、カルシューム……」

「われわれは院長に栄養学の講義を聞いているのじゃない」うるさ型の柿本爺がたまりかねたように割込んだ。

「院長はエレベーター設置を、冗談として聞き流したようだが、それこそ飛んでもない心得違いだ。二階か階下かということは、これはたいへん重要なことだ。これはたんに階段の登り降りだけの間題でない。いいですか。もし万一この夕陽養老院が火事にでもなってみなさい。階上に部屋を割当てられたものは、階下のそれにくらべて、焼死の危険率がぐんと増大する。二階と階下と通じる路としては、中央階段とどんづまりの小階段、それ二つしかない。これじゃあ火事になって両方からはさみうちになった場合、どうすればいいのか。中央部にエレベーターを設置せよ」

「そうだ。全くそうだ」遊佐爺が憂わしげにうなずいた。「わしも日頃からそのことを心配していた。第一にこの建物は非常に古い。山川病院時代を加算すると、この建物はもう三十年以上も経っているわけだ。わしの七十八年の経験によると、建物というやつは老朽すればするほど、火の回りが早いようだ。しかもわしらは老齢で、どうしても行動の敏活を欠く。こういう状況で階下から火が出たら、階上のわれわれは集団的に焼け死んでしまうだろう。大体養老院に二階をつくるなんてことは、常識外(はず)れの暴挙だと言っていいことだぞ」

「屋上庭園をつくれと言うかと思えば、二階をやめろと言う。諸君の主張は全然支離滅裂だ」院長は顎鬚をしごき、わざとらしい軽蔑的な表情をつくった。「火災予防に関しては、当方もいろいろ手も打ってある。諸君さえ火に注意すれば、当院においては絶対に火災は起きない。すなわちだな、寝床の中で煙草を吸うとか――」

「煙草だけが火災の原因じゃないぞ。漏電なんかもある」

「もちろんそうだ。漏電にしてもだ、諸君がわたしの眼をぬすんで、電熱器などを使用しなければ、漏電なんかするわけがない。要は諸君の自覚ひとつだ」

「飛び火ということもある」遊佐爺はあくまで食い下った。「中央階段はまあいいとして、あのどんづまりの階段は古ぼけてガタガタして、また非常に狭い。二人やっと並んで通れる程度だ。もし火災が発生し、中央階段の方から火が回ってきたとすれば、わしらはいきおいその狭い階段に殺到し、ひしめき合い、つまずいて折り重なり、目も当てられないことになるだろう。それを思うとわしは慄然(りつぜん)として、夜もおちおち眠れないぞ」

「なにも狭い階段に逃げ出さなくても」と院長は声をはげました。「二階の各部屋には、命綱の設備があるではないか。あれを利用して、ぶら下って降りればよろしい」

「あの命綱なんか役に立つか」と松木爺。「あの命綱は終戦直後にとりつけたものだ。あの頃の綱はお粗末なもので、マニラロープじゃなくて、代用品だ。それに十年近く経っているから、もうボロボロになっている。あれにぶら下れということは、落っこちろと言うのと同じことだ」

「松木爺さんの言う通り、命綱はダメだ。それにわしらは老齢のため、腕の力も弱っている。エレベーターまでは行かずとも、命綱にかわる安全な脱出路を、早急につくって貰いたい」

「すべり台をつくったらどうや」ニラ爺が頓狂な声で発言し、自分のその発言に感心したように掌をパチパチとたたいた。「すべり台はいいぜ。火事になっても、スーッと辷って逃げられる」

「す、すべり台」院長はびっくりして眼をぱちくりさせた。「すべり台だと?」

「そうだよ。二階から庭へすべり台。みんなよろこぶぜ」

「そんなすべり台なんかを設置したら」院長は腹立たしげに顎鬚をぐいと引っぱった。「皆はすべり台で遊んでばかりいて、院内作業や畠仕事に精を出さなくなるだろう。それじゃ困る。院内の規律が保てない」

「いや、すべり台とは思いつきだ。ニラ爺さんにしては上出来だったぞ」遊佐爺が感心したように、奥歯をかみしめながら発言した。ニラ爺はほめられて、にこにこと相好をくずしながら一座を見回した。「すべり台なら、エレベーターほど費用もかからないし、操作もかんたんだ。乗っかりさえすれば、あとは地球の引力で、自然に下まで行きつくんだからな。すべり台で遊んでばかりいるだろうと院長は言うが、それは遊びではなく、火災時の退避訓練だと思えばいいじゃないか。なあ、海坊、いや黒須院長。梅雨があけたら直ちに、各寮にひとつずつ、すべり台設置の工事を始めて貰いたい。すべり台さえ出来れば、わしも夜安心して眠れる。費用も一本五万円ぐらいで上るだろう」

「五万円で出来るものか。十万円はかかるぞ」

 院長ははき出すように言って腕を組み、居並ぶ爺さんたちの顔をぐるりと見渡した。そして院長は一瞬胸の中で、これらの爺たちが折り重なってわめいているさまを想像し、つづいて寮の二階から不格好にニュッと突き出たすべり台の形を想像した。想像の中で、爺さんたちは次々に窓からすべり台に乗り、つるつると下へ辷(すべ)ってゆく。辷りそこねて途中から転落し、悲鳴を上げているのもいるのだ。(そうだな。つくってもいいな)院長は顎鬚をまさぐりながら考えた。(すべり台遊びで、ころがり落ちたり追突したり、それで怪我をしたり死んだりするやつが出るかも知れん。そうすれば在院者の回転率が早くなり、わしの成績も上ることになる。ひとつ設置してみるか。なるべく急傾斜で、幅のせまい、ころがり落ちやすいやつを!)

「金額の問題ではない。わしらの生命の問題だ」遊佐爺は膝を乗り出して、扇で卓の端をひっぱたいた。「先ほどわしらは、調理場開放において、一応の譲歩をした。院長もそこを考えて呉れ。こういうことは、我を張ってばかりいてはダメだ。お互いに歩み寄る精神を持たねばいかんぞ」

「そうだな。遊佐爺さんの言も一理があるな」手巾(ハンカチ)で禿頭を拭きながら、院長は苦しげな笑顔になった。「まあよろしい、すべり台設置の件は考慮して置こう。経営者会議にはかって、実現に努力します」

「断っておくが――」柿本爺が傍から釘をさした。「ペラペラの張り板のようなのでは困るぞ。ちゃんとした頑丈な材木で、幅は、そうだな、二人並んで辷れるぐらいにして呉れ。そうでないと、火急の場合には危険だからな」

「予算とにらみ合わせて、なるべく希望にそいたい」

「手すりもちゃんとつくるんだよ、手すりも」柿本爺がたたみかけた。「手すりがないと、辷り方によっては、すってんころりんと横にころがり落ちるからな。俺たちも怪我をしたり死んだりするのはイヤだよ」

「いろいろと気がつく爺さんだね、あんたは」院長はいまいましげに舌打ちをして、柿本爺さんをにらみつけた。「あんたの言う通りのやつをつくれば、一本二十万円では足りないだろう。そんな予算は当院にはない。まあ出来るだけ諸君の希望にそいたいとは思うが、手すりの件までは請負えないぞ」

「滝川爺さん」重ねて発言しようとする柿本爺を手で制して、遊佐爺が呼びかけた。会見が長びくと、体力の関係上、こちらが不利になると悟(さと)ったからだ。「すべり台の件はそのくらいとして、次の問題に進もう。滝川爺さん、メモをちょっと調べて呉れや」

 

「しようがねえな、こいつ!」

 牛島康之は乃木七郎の額に二本の指をあて、にくにくしげにぐいとこづいた。乃木七郎は虚脱した表情で、されるがままになり、やがてぼんやりした声で言った。

「ここはどこですか。僕はどうして、ここにいるんですか」

「ふりをしているんでもなさそうだよ、これは」

 栗山佐介はそう言いながら土間に降りた。乃木七郎は泥まみれになったまま、茫然と土間の中央に佇(た)っている。その乃木七郎のうしろに回って、佐介はあちこちに視線を動かした。

「そら、ここに大きなコブが出来ている」佐介は乃木七郎の後頭部に触れた。乃木七郎は瞬間痛そうに肩をびくっとすくめ、右掌を自分の頭に持って行った。「ここをしたたか殴られたもんだから、記憶が呆(ぼ)けたんだよ。僕も中学校の柔道の時間にここを打って、一昼夜ばかり呆けたことがある」

「どうしてここに」乃木七郎はいぶかしげにつぶやいた。「コブが出来てるんだろうな」

「そうよ。あたし力まかせに殴ってやったのよ」土間の入口で曽我ランコが言った。彼女のその口調には喜悦とも憎悪ともつかぬ強い響きがこめられていた。彼女はまだ机の脚を右手にぶら提げていた。そのままで彼女は短いヒステリックな笑い声を立てた。そして言った。

「あたし、三つも殴ってやったの。三つもよ!」

 台風一過という感じで、部屋の中は平静にもどりつつあった。ソバカスは箒で電球の破片をはき集めていた。丸首シャツは投げこまれた石ころの整理に当っていた。イガグリは雑巾で床や壁の泥を拭いていた。建物の裏手でギッコンギッコンと音がするのは、窓から飛び出して反撃におもむいた連中が、身体の汚れを落すためにポンプを使用しているのだろう。

「君も洗っておいでよ」佐介は曽我ランコの方を見た。「足やスラックスが泥だらけだよ。早く洗わないと、しみになってしまうよ」

「いいのよ」ランコは深呼吸をして胸を張り、左掌を胸部の痛む個所にあてた。掌の下でランコの乳房は大きく脈打った。「最初に投げ込まれた石だったわ。それがここに命中したのよ。痛くって痛くって、呼吸がウッと詰ったわ。ほんとに卑怯な奴らねえ、飛道具を使うなんて!」

「今日の会合は、不測の妨害が入ったために、一応これで閉会とします」と戸袋の傍に立ってジャンパーがぼそぼそ声で宜言した。「明日午後六時、皆さんはも一度ここに集まって下さい。今夜の敵方の悪質な妨害と挑発、それについて協議したいと思います」

「その捕虜はどうするんだ」イガグリが雑巾をぶら下げて立ち上りながら言った。部屋中の視線が一斉に土間に集中した。その視線のまっただ中に、乃木七郎は気抜けした顔で、棒杭(ぼうくい)のようにつっ立っていた。その乃木七郎の服の裾を、牛島の右手がぎゅっと摑(つか)んでいた。牛島はまだ乃木七郎の記憶喪失を、芝居ではないかと疑っていたのだ。「まだ呆けている様子か?」

「まだ呆けてるらしいわ」曽我ランコが得意げに答えた。「逃亡する気力もないようよ」

「警察に連絡して」丸首シャツが提案した。「身柄を一応留置して貰ったらどうですか。記憶を回復するまで」

「あたしは反対です」赤スカートがきんきん声で叫んだ。「修羅吉のことですから、警察にもわたりをつけてるに違いないわ。ですから、貴重な捕虜を警察に預けるのは、絶対反対です」

「どなたかこの男の身柄を」ジャンパーが響きの悪い声で言った。「記憶回復まで預かって呉れる人はありませんか?」

「僕が預かりましょう」ふしぎな力が栗山佐介の内部で働いて、彼は右手を挙げ、思わずそう叫んでいた。皆の眼が乃木七郎をはなれ、佐介の顔にあつまった。佐介は手を挙げたまま、へどもどとあかくなった。佐介の内部でそう発言させたものは、この投石男に対する憎しみでなく、むしろその反対のものであった。佐介は挙げた手を不器用におろしながらどもった。「ぼ、ぼくが引受けましょう」

 

梅崎春生 砂時計 18

 

     18

 

 雨は小止みになったと言うのに、夕陽養老院東南方約三粁[やぶちゃん注:「キロ」。キロメートル。]の空あいで、突然雷がはたはたと鳴りわたった。それは重々しい鳴動を引きずりながら、養老院院長室の屋根にもかぶさってきた。激烈な会談は一瞬途絶えた。黒須院長は大きなハンカチで禿頭や額をごしごし拭きながら、むっと口をつぐんで耐えていた。実を言うと院長は雷が大嫌いであったが、自尊心や体面の関係上、爺さんたちの前で、嫌悪恐怖の色を示すわけには行かなかったのだ。爺さんたちもそこで一息入れて、莨(たばこ)を吸いつけたり、せきばらいをしたり、雷の余響に耳を傾けたりしていた。

 鈍重な雷鳴の余韻(よいん)は、椅子にもたれてうとうとと居眠りしているニラ爺の夢の中にも、じわじわと忍び入っていた。夢の中でニラ爺は、リヤカーを引っぱって懸命に走っていた。走っていたと言うより、走ろうと努力していた。その必死の努力にもかかわらず、足がもつれてうまく走れない。そのニラ爺の背後から、青黒色の大型電車が雷のような音を立てて、ごうごうと追っかけてくるのだ。夢の中でニラ爺は汗みどろになり、手足をばたつかせて絶叫していた。〈そんなに追っかけて来ては、リヤカーにぶつかるやないか。リヤカーがこわれたら、おれ、養老院から追い出されるやないか!〉絶吽の果てニラ爺の意識は、泥沼の底よりポツンと浮き上る水泡のように、ふっと現実に浮き上ってきた。ニラ爺は眼を見開いた。そのニラ爺の眼の前に、卓をへだてて、黒須院長がテカテカ光りの頭をハンカチで傲然と撫で回している。夢の続きからまだ抜け切らない、半睡半覚の状態で、ニラ爺は思わず口走った。

「リ、リヤカーがこわれる。お、おれを追い出す気か!」

 黒須院長の視線も爺さんたちの視線も、一斉にさっとニラ爺にあつまった。ニラ爺の語調があまりに悲しく、せっぱつまっていたからだ。しかし皆から一斉に見詰められたことによって、ニラ爺の意識はとたんに鮮明に復帰した。ニラ爺はきまりが悪くなり、また寝言を発したことについての非難叱責をおそれて、ぎゅっと体を固くした。それがまた一座に対して別の効果をあたえた。断続していた雷鳴がやっとその時に収まった。

「よく言った」松木爺がにこにこしながらニラ爺に耳打ちをした。

「頑張れよ。死んでも退くな!」

「ニラ爺退所の件もそうだ」機敏に議題をとらえて遊佐爺が院長に向き直った。「備品を破損したから退院を命ずるなどと、あまりにも一方的な措置じゃないか。一体そんな権限が院長にあるのか」

「そうだ。そうだ」一同はこもごも唱和した。「リヤカーをこわしたぐらいで、退院とはひどすぎるぞ」

「退院せよとは誰も言っておりません」

 雷鳴が終ったので黒須院長はふたたび元気を取り戻し、悠然と一座を見回した。(ニラ爺のやつ、うまい時にうまい八百長質問をしたな。感心、感心)院長は心の中で、ニラ爺の件は予定通り一応譲歩してもいい、と考えていたのだ。ニラ爺をふくめた爺さんたちに、院長はゆったりした老獪(ろうかい)な笑顔を見せた。

「そういう掲示を出したではないか」滝川爺が我慢ならぬという風(ふう)に詰め寄った。「盗人(ぬすっと)たけだけしいとは院長のことだ!」

「盗人とは何ですか。言葉をつつしみなさい!」さすがに院長は色をなして、滝川爺を叱りつけた。「退所せよとはわたしは言っていない。リヤカー代を弁償せよと言っているだけだ」

「ニラ爺に弁償能力がないのは、判り切った話じゃないか。それに弁償せよと要求するのは、出て行けということと同じことだ」

「それでは、ニラ爺さんがリヤカーを破損した時の状況や条件を、お互いにじっくりと考えてみようではないか」遊佐爺は扇子を取り出して顔をあおぎながら、語調をややゆるやかにした。「韮山(にらやま)伝七爺さんが如何なる状況において、リヤカーを破損したか。それは院内栽培のトマトの行商に出かけ、その帰途に奇禍に出合って。つまりリヤカーがこわれたわけだ。そうだな、院長」

「そうだ」

「するとこれは公務遂行中におきた事件だと言えるな。公務遂行中だから、これはもちろん――」

「待て。待て」そして黒須院長も遊佐爺の向うを張って、引出しの中から大きな舞扇をとり出し、バ々バタと顔をあおぎ立てた。「トマト行商が公務であるかどうか、その点わたしは――」

「なに。公務でないとでも言うのか」遊佐爺は言葉するどく切りこんだ。「これが公務でないとすれば、院長は公務外の仕事に、院内備品の使用を命じたことになるぞ。公私を混同してもいいのか?」

「全然公務でないとは言っておりません」院長は少しひるんで、そのひるみをごまかすために、扇の動きを更に大きくした。「遊佐爺さんが公務と主張するなら、あんたの顔を立てて、一応公務として置きましょう」

「一応も何も、公務は公務だ。公務遂行中の奇禍に対して、弁償を要求するなんて、われわれはそんな無道なことは絶対に許せないぞ!」

「そうだ。そうだ」松木爺が口をはさんだ。「院長はニラ爺に行商を命じながら、その行商手当をまだ払ってないじゃないか。なあ、ニラ爺さん。まだ貰っていないな」

「貰ってない」ニラ爺はこの時とばかり掌をひろげて院長の方にぐっと突き出した。「早く呉れえ、七十円」

 黒須院長は何か言い返そうとしたが、ここで話をもつらせてはこと面倒になると考え直し、ハンドバッグほどもある大きな財布を渋々ポケットから引っぱり出した。十円紙幣七枚をつまみ出すと、ニラ爺のしなびた掌の上に乗せた。ニラ爺の掌は紙幣をつかみ、取返されるのをおそれるかの如く、素早くスッと引込んだ。

「これで支払いましたよ」院長は強(し)いて頰の筋肉をゆるめながら、爺さんたちをひとまわり見回し、木見婆の方に振り向いた。「支払いを確認したね。木見婆さん」

 ニラ爺にかわって居眠りをしていた木見婆は、その声ではっと目が覚め、わけも判らないままあわてて合点々々をした。

「行商手当のことはこれで片がついたと」財布をポケットにしまいながら院長が言った。「さきほど、奇禍という発言があったが、奇禍というのは意外の災難ということだ。リヤカー破損が意外の災難であることはわたしも認めるが、その奇禍が不可抗力によるものか、本人の不注意によるちのか、そこはハッキリさせねばならんとわたしは思う。そのどちらかによって、取扱いもおのずから違ってくるわけだ」

「ニラ爺の奇禍は、当人の不注意だというのか?」沈黙していた柿本爺が発言した。「院長は現場に立ち合っていもしないのに、どうしてそんな断定が出来るのだ?」

「いかにもわたしは立ち合っていなかった」相手方にどんどん点数をかせがれるので、院長は内心大いにあせっていた。「しかし諸君だって、誰も立ち合っていなかったではないか。立ち合ってもいないくせに、不可抗力とは言わせませんぞ」「なにもわしは不可抗力と断定しているわけではない」と柿本爺。「院長はどういう根拠で、当人の不注意だと断定するのか」

「きっぱり断定するわけではないが――」

「断定したではないか。掲示文において!」と遊佐爺が声を高くした。「これひとえに本人の不注意に因するものなるによって、と掲示文にあった。わしはチャンと覚えているぞ。齢はとってもわしの記憶に間違いはない。なんなら階下の掲示文を引っ剝がして持って来ようか」

「掲示文はさっき見たら」と滝川爺が遊佐爺の袖を引いてささやいた。「すでに引き剝がされていたよ」

「わたしはあの翌日、直ちにQ電鉄におもむき、さらに現場に急行して調査した」院長は扇をたたんでパシリと卓を叩いた。「Q電鉄側の言い分では、運転手には何等の落ち度はないとのことだ。向うの手落ちでないとすれば、それはこちらの手落ちというわけになる。つまり当方の過失だな。それに、こう申してはなんだが、ニラ爺さんはあまりにも齢をとり過ぎたため、頭脳の働きが完全という状態ではなくなっている。いささか欠くるところなきにしもあらず、という状態になっている。もちろんこれは当人の責任でなく、年齢というものの責任であって、人間というものは宿命的に、齢をとればとるほど頭のネジがゆるんで――」

「齢をとればバカになると言うのか!」たまりかねたように遊佐爺も扇で卓をパチンと叩いた。「ニラ爺の頭が完全でないとすれば、それより五つ年長のわしはどうなるのだ。わしの頭のネジもゆるんでいるというのか。これは聞き捨てならんことだぞ」

「海坊主がお前のことをバカだと言ったぞ」松木爺が声を極度に低くして、ニラ爺に催促がましく耳打ちをした。

「何とか発言せえ!」

「院長。おれは。ハカか?」そそのかされるままニラ爺はなかば無意識に声を出した。疲労と倦怠のために、ニラ爺の頭は本式にネジがゆるみかかっていた。言おうとしている事柄の軽重も考えず、ニラ爺は頭にうかぶままを反射的に言葉にした。「この俺がバカか。バカとすれば、バカに仕事のつとまるわけがないやないか。沖禎介、横川省三――」

「ニラ爺!」院長は毛虫のような眉をキリキリと吊り上げ、卓を叩いて大喝した。

「ニラ爺!」ほとんどそれと同時に遊佐爺も大声で叱りつけた。何だかわけの判らない人名などを出して、ネジのゆるみを気取(けど)られたら、院長に格好の言質(げんち)をあたえてしまう。遊佐爺はその懸念から叱りつけたのだ。そして遊佐爺と院長は、同時に同質の大声を出したことにおいてびっくりして、お互いに顔を見合わせて眼をパチパチさせた。

「俺はバカやないぞ」ニラ爺はおめず屈せず叫び続けた。「取消せ。俺のバカを取消せ。早く取消さないと、俺にも覚悟があるぞ!」

「取消す。取消すよ。それ以上叫ばないで呉れ!」院長はついにたまりかねて、頭をぺこりと下げた。これ以上ニラ爺に発言を許しては、どんなことをしゃべり出すか判らない。院長はひたすら頭を下げた。「今のわたしの発言は取消します」

「きっと取消すか」

「取消すとも」院長はやっと頭を上げた。「ニラ爺さんの頭のネジがゆるんでいるなんて、諸君の代表者であるわたしにも似合わない重大な失言だった。つつしんで取消します」

「本心から取消すのか」柿本爺がうたがわしそうに眼を光らせた。「ペテンじゃあるまいな」

「本心です」ニラ爺に関してはらわたが煮えくり返っていたけれども、院長は感情をぐっと押し殺しておとなしく答えた。「さきほども言ったように、諸君とわたしとは同甘同苦。ニラ爺さんの頭がゆるんでいるとすれば、当然わたしの頭もゆるんでいることになる。まったくわたしの失言だった。キッパリと取消す」

「取消すか」ニラ爺は言い分が通って、にこにこ顔になりながら、更に強気に出た。「失言を取消したついでに、俺の退院も取消して呉れ。どうせことのついでやないか。取消さないと、俺にも考えがあるよ。へ、へ、へ」

 

 自分がどういう動き方をしているのか、栗山佐介はほとんど判らなかった。ただ反射的にむちゃくちゃに手足を動かしていた。庭の闇から石が次々に飛んでくる。それが天変地異でなく、人為的なものであることだけは、佐介にもはっきり判っていた。石塊(いしころ)が飛んでくる直前に、口笛のような響きと、突撃、という声をたしかに耳にしたのだから。立ち上るもの、伏せるもの、横に動くもの、手と手、足と足とが触れ合い、身体と身体がぶつかり合う。荒い呼吸や声やうめきが部屋中にたちまち入り乱れた。

「総員、庭へ。庭へ飛び出して下さい」懸命にジャンパーが叫んでいた。「敵は庭から石を投げ込んでいる。庭に飛び出してそいつらをとっつかまえて下さい!」

「電燈を消せ!」古机の下にもぐり込んだまま、牛島康之が苦しげに声を張り上げた。「電燈を早く消せ。目標になるぞ!」

 闇の中で乃木七郎はポケットから、四個目の石をつかみ出していた。前の三個が失敗して、ことごとく電燈を外れたために、彼はひどくあせっていた。一方部屋側の方でも、最初の混乱からやや立ち直って、逆に戸外に向って灰皿が飛んできたり、また勇敢に飛び出してくる人影もあった。

「しっかり投げえ!」

 チョビ鬚が叫んだ。チョビ鬚の声も亢奮のため乱れていた。乃木七郎はぬかるみを踏みしめて、四度目の投石の姿勢をとった。わなわなと慄える胸を押ししずめ、ねらいを定めて腕を前方に振った。石塊は掌をはなれ、空気を切って飛んだ。電球がパリンと破裂して散乱した。次の瞬間四周(あたり)はほとんど闇黒と化した。

「当ったぞっ」乃木七郎は獣じみた声を出して飛び上った。盲目的な闘争心が彼の胸にむらむらと湧きおこってきた。五個目の石をつかみ出しながら、彼はふたたびやけくそな声で叫んだ。「命中したぞ!」

「庭へ飛び出せ」ジャンパーは叫びつづけていた。「一部は道路に回れ。はさみうちにして、そいつらを打ちのめせ。一人でも二人でも生けどれ」

「誰か走って行って、電話にとりつけ。百十番を呼び出せえ」机の下から牛島が怒鳴った。その瞬間、曽我ランコがくらやみにつまずいて、よろよろとその机の上にたおれかかった。いい加減くたびれていたその古机は、その衝撃と重量だけでもろくも斜めに歪(ゆが)み、ぐしゃりと横だおしにつぶれた。机と板の間に頭をはさまれ、ぎりぎりと押しつけられて、牛島はけたたましい悲鳴を上げた。「い、いたいよ。百十番。いてててて!」

 曽我ランコの右手はぶったおれたとたんに、何か固いものをつかんでいた。それは横だおしにつぶれた机の脚であった。曽我ランコは小鹿のように敏捷(びんしょう)にはね起きた。力まかせにつかんだ机の脚をベリペリと剝ぎとった。彼女はすでに胸部に投石の被害を受けていた。憤怒の憎悪が彼女の動作をきびきびとさせていた。左掌で疼(うず)く胸部をおさえ、右手で机の脚を打ちふりながら、曽我ランコは窓の方に突進した。眼はやや闇に慣れて、窓はすでにかすかな四角のほの明りであった。闘うことの苦しさよりも、闘うことのたのしさとでも言ったものが、曽我ランコの身のこなしを軽くしていた。油断なく投石に身構えながら、曽我ランコはスラックスの脚を窓のわくにかけ、勢いこめて一挙に身体を窓の外に投げ出した。

「や、やったな!」頭にかぶさったこわれ机をばりばりと突き離しながら、牛島康之は傷ついた牛のようなうなり声を立てた。手も足も出ないような状態で、蟹(かに)のように惨(みじ)めにつぶされたことにおいて、牛島はかんかんになり、自制力を失いかけていた。あたり一面の闇にうごめくすべてのものが、もはや牛島の敵であった。牛島ははずみをつけてはね起き、手足を風車のようにふり回しながら、くらがりの中で荒れ狂った。「こうなりゃ俺が相手をしてやるぞ。おとなしくしてりゃつけ上りゃがって。もうかんべん出来ねえ。矢でも鉄砲でも原爆でも持ってこい。ひとをバカにしやがって!」

 乃木七郎のポケットには、もう石塊は二つしか残っていなかった。彼の手はその二つをいちどきにつかみ出した。もうすでに十個を投げ終えたのか、仲間の一人がぬかるみを蹴って逃げ出してゆく。つづいて一人、彼の肩を突き飛ばすようにして道路にかけて行ったのは、たしかにチョビ鬚であった。家の方から声が上った。

「逃げて行くぞ。あいつらは退却し始めたぞ。追っかけてぶちのめせ!」

 乃木七郎も亢奮のあまりに、正確な判断力を失いかけていた。早くこの二個を投げつけて、逃走にうつらねばならぬ。そのあせりが彼の行動をかえってぎごちなくしていた。鼻の底がむずむずする。くしゃみがいくつも出かかっているのだが、忙しくて出す暇がないのだ。くしゃみはあと回しにして、乃木七郎はあわただしく九度目の投石の姿勢をとろうとした。その瞬間、眉毛からするりと流れた雨滴が、彼の右の眼にすべり込んだ。乃木七郎は左手で眼をおおった。地下足袋がぬかるみにスリップし、彼はとたんによろよろとよろめいた。

「退――散!」

 道路上を猛速度で遁走(とんそう)しながら、チョビ鬚が最後の号令を張り上げた。

 栗山佐介は部屋の入口のところで、背後から腰をぐんと蹴り上げられた。弱い右膝をかばうようにして、佐介は不器用に板の間にころがった。右膝の弱味をかばうのは、あの陸橋から飛び降りて以来の、彼の身についた本能みたいなものであった。そのころがった佐介の体に、四角なごつごつした感じの肉体が、がっしとかぶさってきた。

「畜生め。ふざけやがって!」

 その肉体はふいごのような荒い呼吸と共に、その両手が伸びて佐介の丸刈りの頭をはさみつけ、板の間にゴツンゴツンとぶっつけた。佐介も夢中で両手を伸ばし、そこらの闇をひっかき回した。佐介の手のやみくもな動きが、ぐしゃぐしゃしたものにからまった。それは相手の頭髪であった。佐介は十本の指に憤怒をこめ、髪をきりきりとつかみ、力まかせに横ざまに引きたおした。相手はググッというような声を出して、もろくも引きずりたおされた。今度は佐介が上からがっしと組み伏せた。

「こ、このカレー粉野郎め!」佐介は唇から泡をふきながら、両手をピストンのように動かして、相手の顔面とおぼしきあたりをつづけさまに殴りつけた。「カレー粉を吸わせた返礼に、この拳固でも食いやがれ!」

 曽我ランコもぬかるみに足をとられて、二三度は転びそうになった。素足だからなおのことすべりやすいのだ。しかし彼女はひるまず突進した。突進することが今の瞬間、彼女の生の全部であった。すぐ前方のうすくらがりの中に、輪郭の不確かな人影がひとつ立ちはだかっていた。それは投石の姿勢をとっていた。曽我ランコは本能的にななめに飛び、その人影の頭をねらって、すばやく机の脚をふりおろした。鈍いひびきが掌に伝わって、その人影は姿勢をとたんに崩してよろめいた。膝をついて低くなった。彼女はふたたび机の脚を宙にふり上げ、力まかせにふりおろした。声にならない声を立てて、乃木七郎はそのぬかるみにへたへたとうずくまった。曽我ランコは無我夢中でまた机の脚をふり上げた。憎悪とも苦痛とも歓喜ともつかぬ復雑な衝動が、瞬間曽我ランコの全身をはしりぬけた。曽我ランコは瀆(けが)れた。

 

 丸首シャツがどこからか蠟燭(ろうそく)を探し出し、イガグリが忙しくマッチをすった。板の間の入口では、まだ佐介と牛島がどたばたと組打ちを続行していた。あまりにも格闘に熱中していたので、蠟燭がともされても、両人がお互いに相手を味方同士だと認識するのに、三十秒あまりかかった。相手を認識し合ったあとも、格闘はまだ三十秒ほどつづいた。行き足がついているので、そう簡単にはストップ出来なかったのだ。どたばたはこの一ヵ所だけで、他はおおむね平静に戻りつつあった。襲撃者たちは、乃木七郎をのぞいて、投石完了の後みんな遁走してしまった。ジャンパーの懸命の指揮にもかかわらず、戦果としては乃木七郎の捕獲のみであった。すっかりあたりが静まり、新しい電球がはめられ、新しい光を取り戻した時になって、ジャンパーと赤スカートは初めて戸袋のかげから姿をあらわした。そこは投石から完全に遮蔽(しゃへい)された、安全にして格好の臨時指揮所であった。板の間には拳(こぶし)大の石があちこちにころがり、電燈の笠と球の破片が散乱し、器物はこわれ、壁にはところどころ凹(くぼ)みが生じていた。ソバカスが庭の方に気の抜けたような声で呼びかけた。[やぶちゃん注:「行き足」通常は船などが勢いを維持して走ることを言う。]

「おおい。つかまえた奴を、ここに引立てて来い」

 佐介と牛島はむっとした不機嫌な表情で、お互いに横眼でにらみ合いながら、各自の服の乱れを正し、かつ痛む個所をさすったり揉(も)んだりしていた。乃木七郎が泥まみれのまま、殉教者(じゅんきょうしゃ)の如く引立てられてきた。引立てられながら乃木七郎は、今まで蓄(た)めていたくしゃみを、つづけざまに七つも八つも発散させた。鼻の下から泥が飛び散った。

梅崎春生 砂時計 17

 

      17

 

 雨はすこしずつ上りつつあった。場所によっては、雲の切れ間さえ見え始めていた。

 ニラ爺はまだうとうとと、悪夢のつづきを見ていた。躰がちいさいのと、居眠りの技術が巧妙なために、周囲の爺さんたちはまだ誰もそれに気がついていなかった。みんな黒須院長との対決に没頭し、かんかんに熱中していた。その烈しいやりとりの嵐の眼の位置で、ニラ爺は唇のはしから透明なよだれを垂らしながら、しずかに眠りつづけていた。院長室の窓ガラスを打つ雨の音が、その頃からようやく衰えを見せてきた。

 栗山佐介の小屋のトタン屋根でも、雨声はまばらになりつつあった。小屋の中は、さっき三人が立ち去ったそのままの状況で、湯呑みやコップや竹の皮などが雑然と散らばっていた。その竹の皮のひとつに付着したハムの切れっぱしを、一匹の小さな泥棒猫が油断なく周囲に気をくばりながら、ぺろぺろと嘗(な)めていた。猫の毛並みは真黒で、眼だけが金色にらんらんと光っていた。身体の角度を変えたとたんに、後肢がコップに触れ、かたりと音を立てた。泥棒猫はぎょっとして頭を上げ、黒い尻尾をぶうとふくらませた。カレー工場のガシャガシャ音は、相変らず正確なリズムで、夜気をゆるがせている。

 雨は乃木七郎の服を濡らし、シャツを通り抜けて、すでに肌にまで沁(し)みこんでいた。これまで濡れた以上は、雨が小止みになり、あるいは全然止んだとしても、さほど意味はなかった。ずぶ濡れになったことによって、乃木七郎の鼻や咽喉(のど)は、すでにカタル症状をおこしかけていた。水洟(みずばな)がしきりに流れ出たし、咽喉もいがらっぽかった。肌にべとつくシャツの感触が気味が悪い。やがてそれは風邪特有の悪寒(おかん)に変って行く予感があったのだ。

(来なきゃよかったな)得体の知れない仕事をうかうかと引き受けたことについて、乃木七郎は何度目かの後悔をした。日当が高いのでつい引き受ける気になったのだが、カンタンな仕事だというだけで、仕事の内容はほとんど知らされていないのだ。あまり面白くない。と言って、仕事を放棄して自分の家に帰る、というわけにも行かない。そうすればぐしょ濡れになっただけソンになるのだ。その上風邪でもひどくなれば、目もあてられないではないか。チョビ鬚(ひげ)の男の指示通り仕事を果たして、八百円の日当を受取る以外に、手はないのだ。(雨が降ってても、傘を持って来ちゃいけないと言う。おかげでこんなにびしょ濡れになったじゃないか。どんな仕事か知らないが、雨降りに傘なしで歩くなんて、犬や牛じゃあるまいし!)

 地面はぐちゃぐちゃにぬかるんでいた。地下足袋のあわせ目から、泥水はようしゃなく足に入ってくる。くらがりの中でチョビ鬚が腰をかがめたまま、うしろ手をふって、集まって来い、という合図をした。乃木七郎も中腰のまま、ぬかるみから足を引き抜くようにして、チョビ鬚の方に近寄って行った。

「みんな石を十個ずつ、持ってきただろうな」集まってきた六つの黒い人影を見回しながら、チョビ鬚が押しつけるような低い声を出した。「忘れた奴はいないだろうな!」

 六つの人影はそれぞれの姿勢で、うなずいたり、低声で返事をしたりした。乃木七郎はそっと上衣のポケットを上から押えてみた。右のポケットに五個、左のポケットに五個、手頃の石が入っている。そのごろごろの感触をたしかめながら、乃木七郎は大きなくしゃみをした。

「シッー」チョビ垠が顔をねじ向けて、乃木七郎を叱った。

「こんなところでくしゃみをする奴があるか。向うに気取られたらどうするんだ!」

「だって」乃木七郎は蚊(か)のなくような声で抗弁した。「風邪をひいたらしいんで」

「風邪をひこうとひくまいと、俺の知ったことか」チョビ鬚が押し殺した声を出した。「くしゃみが出そうになったらだな、拳固を口の中に押し込め!」

 そしてチョビ鬚は前方十二三米ほどのアトリエ風の建物を指差した。高い天井から百ワットの電燈がひとつぶら下っている。その下の板の間で、十四五人の男女が車座をつくって、何かしきりに話し合っている様子で、きれぎれの言葉が乃木七郎の耳まで届いてくる。そちらを指差したまま、チョビ鬚はみんなに振り返った。すご味のきいた声を出した。

「いいか。今からお前たちの仕事というのを説明する!」

「しかしだね、君が説明する通り殴り込みをかけるとしても、成功率はすくないと思うんだ」板の間の車座の一隅から、ソバカスの中年男が手を上げて発言した。「なにしろ向うは操業中だ。交代制で、四六時中器械が動き、従業員がせっせっと働いている。そこへ殴り込みをかけて、カレー原料に砂をぶっかけるとか、器械をぶっこわすとか、そんなことがやすやすと成功するとは思われない。その前に向うの反撃を食うだろう。成功率がすくない上に、先に暴力をふるったという点で、こちらは不利な立場に追い込まれる。その点で私は不賛成です」

「じゃ、手を束ねて、今まで通り、カレー粉を吸い込むつもりですか」ジャンパーの若者がぼそぼそと言い返した。[やぶちゃん注:「束(つか)ねて」ただ両手を組んだままに手出しせず傍観する。なにもしないで見ている。「拱(こまね)く」「拱(こまぬ)く」に同じい。]

「そういう考え方は敗北主義というものです。それで恥かしくはありませんか」

「まあ、まあ」イガグリ頭がとりなした。

「殴り込みは殴り込みとして、署名簿の方はどうなったんですか?」丸首シャツが発言した。「修羅印工場の騒音ならびに悪臭反対の署名は、現在のところ、どのくらい集まったのか。それを知りたい。これの係は誰でしたかしら。栗山佐介君ですか」

「ぼ、ぼくは調査の方の係です」佐介はきょとんと顔を上げ、目をぱちぱちさせて言った。

「あたしがその係です」連絡係の曽我ランコがしゃがれ声で発言した。「署名者は今のところー―」

「署名なんか意味ないわ。無力です」ジャンパーの隣に坐っている赤スカートの女がさえぎった。「署名をつきつけたって、ひるむような修羅吉五郎ですか」

「いいか」くらがりの空地で、チョビ鬚は声をするどくした。「あの部屋の中に、各自持っている石を投げつけるんだ。力いっぱい叩き込め!」

 六人の人影に、一瞬ざわざわと動揺がおこった。

「も、もしあの人たちに当ったら、ど、どういうことになるんです」乃木七郎は中腰のまま、どもりながら質問した。「ケ、ケガでもさせたら――」

「バカ! ねらいをつけて、あいつらにぶち当てるんだ!」

チョビ鬚は肩をいからせて、乃木七郎をにらみつけた。

「ただ投げ込んで一体何になる。あの悪者どもにぶち当てて、ケガをさせてこそ、こらしめになるんだ!」

「でも――」

 乃木七郎はくらがりの中で、もそもそと尻ごみをした。その乃木の肩を、チョビ鬚の頑丈な掌ががっしと摑(つか)んだ。

「お前は電燈をねらえ」乃木の肩胛骨(けんこうこつ)をチョビ鬚はぐりぐりとしめ上げた。「昼間のキャッチボールの要領で、コントロールよく投げるんだぞ。電燈をぶち割れば、あいつらはますます泡を食うだろう」

「どうもやはり庭の方で、変な奴がうろうろしているようだよ」鼠男の牛島康之が腰を浮かせて、不安げに佐介の耳にささやいた。「デカじゃなかろうか」

「デカが来るわけないよ」佐介はささやき返した。「この会合は、別にデカにねらわれるような会じゃない。気のせいだよ」

「でも、なんだかイヤな予感がするぞ」牛島は逃げ途(みち)を探すように、落着きなく上り口を眺めたり、窓を見上げたりした。「おれ、もうそろそろ帰らして貰うよ」

「も一度従業員説得の工作をこころみたらどうだね」中年のソバカスが提案した。「一度当って失敗したからとて、それで諦(あきら)めてしまうのは性急に過ぎる。わたしたちと従業員たちとは、もともと同一の利害関係にあるのだ。係を他の人に変えて、も一度説得をこころみることを、私は提案する」

「対従業員係としての僕は、不適格というわけですか?」

 ジャンパーはむっとしたように口をとがらせた。「つまりこの僕を信任しないというわけか?」

「俺が、突撃、という司令をかける」チョビ鬚は自分もポケットから石を三つ四つ摑み出した。「そうしたら一斉に石を投げるんだぞ。沈着に、着実に、ねらいをつけて投石する。十個全部、かならず最後まで投げるんだ!」

「そして、そのあとは?」緊張したふるえ声で誰かが質問した。

「あとはお前らの勝手にせい。逃げるなり、つかまるなり、どうなりとしろ。そのかわり、つかまったら、あいつらから半殺しにされることだけは覚悟して置けよ」そしてチョビ鬚は背を更(さら)にかがめて、ひたひたと建物の方に迫って行った。残る六人もおどおどと、あるいは無理に勇み立って、チョビ鬚と同一の姿勢で、ひたひたとそのあとにつづいた。足音がぬかるみにぐちゃぐちゃと鳴り乱れた。

 車座の中から、その時牛島康之が脅(おび)えと不安の色を顔にみなぎらせ、戸外の闇を凝視しながら、ごそごそと立ち上りつつあった。

 チョビ鬚は立ち止り、投石の姿勢をとり、六人を見回しながら、低いするどい声で号令をかけた。「突撃!」

 雨に濡れた顔に更に汗をいっぱいふき出しながら、乃木七郎は無我夢中でポケットの石をつかんだ。天井からぶら下った百ワットの電球めがけて、力まかせに投げつけた。石は電球に当らず、コードをかすめて壁にぶつかり、空しくぼとりと畳に落ちた。他の六つの掌の石も、空気を切って飛んだ。カレー粉対策協議場はたちまちにして総立ちとなり、大混乱におちいった。男の怒声と女の悲鳴が入り乱れた。乃木七郎のふるえる指が二個目の石をつかみ出した。

[やぶちゃん注:この章は非常に短い点で特異点であるだけでなく、遂に唯一、不詳のままであった「2」のシークエンスが本篇に絡んで明らかになり、無名だったその「男」にも姓名が与えられるという構成上の特異点でもある。底本の解説で中村真一郎氏は本作のシークエンス(というよりもマルチ・カメラによるモンタージュというか、カット・バック)ついて、『ここには作者の推理小説趣味も働いている。働いているといっただけでは言い足りないような、大胆な、殆んど乱暴と言ってもいい程の冒険を作者は試みている。推理小説の読者ならば「アンフェア」だと文句をつけたくなるくらいである』。『それは第二章で、火事の夢を見ていた「男」という無名の人物の十七章での唐突な再登場で、私はそこに図らずも梅崎の「人の悪さ」を見出して、怒るべきか笑うべきかに迷ったくらいである』と評しておられる。]

今日――出現する――Kの「精神的に向上心がないものは馬鹿だ」という言葉――

 たしかその翌る晩の事だと思ひますが、二人は宿へ着いて飯を食つて、もう寢やうといふ少し前になつてから、急に六づかしい問題を論じ合ひ出しました。Kは昨日自分の方から話しかけた日蓮の事に就いて、私が取り合はなかつたのを、快よく思つてゐなかつたのです。精神的に向上心がないものは馬鹿だと云つて、何だか私をさも輕薄ものゝやうに遣り込めるのです。ところが私の胸には御孃さんの事が蟠(わだか)まつてゐますから、彼の侮蔑に近い言葉をただ笑つて受け取る譯に行きません。私は私で辯解を始めたのです。

『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月16日(木曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第八十四回より。太字は私が附した)

この時、既にKの中にお嬢さんへの恋情が蠢いていたと私は思う。それを強く否定するアンビバレンツの限定された絶対的でなくてはならぬ「精神」側が断固として絶対真理命題としてKに語らせた――語らせてしまった――この「精神的に向上心がないものは馬鹿だ」というKの絶対の言葉が、遂にKの命を奪う先生が使用してしまった――使用すべきでなかった――最終兵器となる――

2020/07/15

梅崎春生 砂時計 16

 

     16

 

 カレー粉対策協議場は、修羅印カレー粉工場の裏門から乾の方角にあたる、一見アトリエ風の建物であった。悪路に歩きなやみながら、栗山佐介と牛島と曽我ランコがそこに着いた時、板の間にはすでに十四、五人の男女があつまって、こもごも発言したり、手をあげたりしていた。このアトリエ風の建物が、この一座のどの人物のものであるか、佐介は知らなかった。また知る必要もなかった。垣根がないから、三人は道路からじかに庭に足を踏み入れ、そこで穿(は)きものを脱いで板の間に上った。庭や道路は暗かった。道路にひとつ街燈がある筈だったが、その日何者かの手によって電球がとり外されていた。三人が上り込むと、一座の会話がちょっと途切れた。三人はちょっと具合の悪い感じで、ことに牛島は一座の視線をちくちくと全身に感じて、とにかくそれぞれの位置に坐り込んだ。三人を坐り込ませるために、皆は少しずつ腰を浮かしたり、膝をずらしたりした。原粉を砕くガシャガシャ音は、佐介の部屋ほどひどくないにしても、ここの夜気をも重苦しく押しつけがましく震動させていた。

「従業員は箝口令(かんこうれい)をしかれているんです」ざわめきのおさまるのを待って、ジャンパーを着けた若者が発言した。ヘんに響きの悪い沈んだような声であった。「労働基準監督署から、監督官が二人、修罹工場に派遣されてきたのです。なぜ監督官が派遣されてきたか。なんでも修羅工場の内部の事情について、監督署へ投書が何度か行ったらしい。誰が投書したのか、工場内部の者か外部の者か、これは今のところ不明ですが、まあ不明でもよろしい、投書があったということは事実で、そこで監督官がやってきた。若いのと年とったのの二人です」

「説明は簡潔に」隅で立て膝をしているイガグリ頭の男が口を入れた。「それはいつのことですか?」

 ジャンパーはイガグリをじろりと見た。ジャンパーの傍に坐っている赤いスカートの女が質問を引取った。

「一ヵ月ほど前ですわ」

「監督官は若い方ののが職務熱心でした」ジャンパーが歯切れの悪い声でつづけた。「たとえば壜詰(びんづ)め作業の年少女工員が、一日百円程度の低賃金で働かせられていること、そしてそれによって時間外労働、深夜業、休日労働が事実上強制されていること、その他のことを、それらは多分投書に記されていたのだろうと推定出来るんですが、若い監督官は修羅吉五郎や現場の係長に、かなりくわしく突込んだようです」

「年寄りの方は何をしたんだね」ソバカスのある中年男が言った。「年寄りはその場に立ち会わなかったのかい」

「居合わせたわけでないから、僕も判らんです。多分立ち会っていたんでしょう。他に行くわけもないんだから」

「簡潔に!」とイガグリが言った。

「残業をしないものに対してわざと給料を遅配させている。そういう事実があるか、と監督官が修羅吉五郎につっこんだ。修羅吉五郎はそれを否定した」ジャンパーは小さなくしゃみをした。赤スカートがそれにならった。「そして従業員が一人々々呼ばれたのです。いや、全部ではない。何人かです。参考人としてですね。修羅吉五郎の言の如くであるか、投書に記された如くであるか、そのどちらかということについて」

「簡略に願います」丸首シャツの男が発言した。

「従業員の一人々々のそのどれもが、修罹吉の言の如くであると証言した」ジャンパーはぼそぼそと顔を上げて一座を見回した。「我々は修羅吉にサクシュされていない。家族的待遇を受けている。時間外休日労働、深夜業の強要の事実はない、彼等は異口同音にそう申告しました。彼等は修羅吉をおそれている。修羅吉そのものをおそれ、修羅吉による馘首(かくしゅ)をおそれている。修羅吉は物心両面において従業員に箝口令をしいている。彼等は犬のように口かせをはめられ、違法の労働を強制され、黙々としてカレー粉を生産し、それを空気中にふりまき、そして我々付近住民の健康を脅(おび)やかしている。我々の常住坐臥を脅やかしている」

「簡潔に!」とイガグリが注意した。「それで君の役目は失敗したのか?」

「そうです」ジャンパーはうなずいた。「従業員を一人一人つかまえて、今夜のこの会に出席して呉れ、と僕は要請した。しかし皆言を左右にして、忙しいとか、用事があるとか、会合はニガ手だとか、何とか彼とか、僕の要請に一人として応じて呉れなかった。厳重な箝口令をしかれている以上、彼等をここに出席させることは無意味です」

 一座はざわざわとざわめいた。丸首シャツが手を上げた。

「質問。それで監督官はむなしく戻って行ったのですか?」

「監督官はやむなく従業員の証言をあきらめ、工場設備の視察などをした。そして機械の安全装置、衛生装備などにいくつかの不備な点を発見しました。監督官は修羅吉五郎にそれらを指摘した。以後必ず改善すると、修羅吉五郎は誓約書を書きました。写しをここに持っています。そして監督官は二ヵ月後の再審査を申し渡しました。写しをお回ししましょうか?」

「カレー粉が工場の外にただよい流れ、我々に害を与えること」ソバカスが発言した。「それと器械の騒音が付近住民に及ぼす害について、監督官は修羅吉に何か注意をあたえたのか?」

「それは監督官の役目の外です」ジャンパーは答弁した。

「監督官は労働基準法が守られているかどうか、それをしらべるだけで、つまり雇用主と従業員のことだけに限られていて、僕たち付近住民のことまで言及する権限は持っていないのです。だから今となっては、カレー原料に砂をぶっかけるとか、器械をぶっこわすとか、そういう強硬策の他に手段は残っていない、と僕は思う。昨夜通り、僕はそれを主張する!」

 一座は少時(しばらく)がやがやと混乱した。暗い道路の、電球をとり外(はず)された街燈柱のあたりから、五つか六つの黒い人影が足音を忍ばせ、背丈を低くかがめて、庭の中に入ってきた。足音を忍ばせると言っても、地下足袋にぬかるみだから、どうしてもピチャピチャと音が鳴る。しかしかなたのガシャガシャ音がその音を吸収してしまうのだ。黒い人影は板の間の内部をうかがい、顔を寄せてなにかささやき合った。その影のようなものの動きを、牛島の眼がふととらえた。牛島は眼をこすり、パチパチと瞼を合わせ、佐介の脇腹を肱(ひじ)でこづいて耳打ちをした。

「庭に誰かがうろちょろしてるようだぜ。気のせいかな?」

 佐介も庭を見た。慢性的なビタミンA不足のために、佐介の眼は一面の闇を見ただけであった。

「そうかね。何も見えないようだが」

「カレー粉臭ならびに騒音は、あれはあきらかに一方的な暴力です」ジャンパーがぼそぼそとつづけた。「一方的に押しつけられた暴力的秩序を、僕たちは放って行くわけには行かない。それを放置するということは、慢性的自殺をすることであり、それは頽廃というものです。そういう頽廃の中に自分を置くことを、僕は僕に許さない」

 

 院長卓の横っちょの籐椅子(とういす)に、立会人の木見婆は無表情に腰をおろした。籐椅子はその重さに耐えかねたように、ギイ、ギギッと鳴った。木見婆の顔はもともと無表情であった。あんまり肥っているので、表情のはいりこむ隙がなかったのだ。その無表情なまんまる顔に、院長は声をかけた。

「いいかね。あんたは立会人だよ。立会人というのは、立ち会うだけでいいのだ。質問されても何も答える必要はないのだよ」と院長は釘をさした。木見婆にうっかりしたことをしゃべられては、元も子もなくなるのだ。「判ったね」

 木見婆は返事の代りに、ぽたりとうなずいた。

「これで正式の会談らしくなったな」忌々(いまいま)しさを包みかくして、院長は老獪(ろうかい)にも柔和な笑顔で遊佐爺たちに向き直った。「正式の会談に先立ち、ひとこと諸君に申し上げたいことがある」

「何だ?」だまされないぞという表情で遊佐爺が問い返した。

「それは何であるかと言うと、先ずわたしが諸君の味方であるということだ」院長は満面に笑みをたたえて一座を見回した。「諸君の味方であると言うよりも、諸君の代表者だと言った方が正しい。すなわち諸君の代表者として、経営者たちに対し、諸君の利益や権益を守るのが、院長たるわたしの任務だ。わたしと諸君は同甘同苦だ。わたしはしばしば板ばさみとなる。板ばさみになるけれども、その度に強い信念をもって、経営者の言い分をはね返し、諸君の利益を守ってきた。その点を認めてほしいのだ。たとえばこの間の浴室の問題にしてもだ、経営者たちが金を出し渋るのを、わたしは敢然と叱りつけて、総タイル張りに改造させた。そのために浴室の衛生状態は見違えるほど良好となり、諸君の入り心地もぐんと快適になった筈だ」[やぶちゃん注:「同甘同苦」は通常は「同甘共苦」。「苦しいことも楽しいことも分かち合うこと」の意。「甘を同じくし、苦を共にす」とも読み、「戦国策」の「燕」が出典。]

「しかしその為に最長老の林爺さんは」松木爺が口をとがらした。「タイルで辷(すべ)って頭を打ち、死んじまったじゃないか」

「林爺さんのことは、わしもほんとにお気の毒に感じている」

 タイルよりは板張りがいいぞ」松木爺はなおも頑張った。「あれ以来、みんなは戦々競々(きょうきょう)として、風呂場の中では鶏みたいにオドオドと歩いているぞ。わしもこの間すってんころりんと転んで、腰の骨を打った」

「タイルはタイルとして――」形勢不利と見て院長は話題を転じた。松木爺なんかひっくりかえってクタバってしまえ、と胸中に念じながら、院長はなおも表情だけはにこやかに崩していた。「近頃になって諸君の平均寿命がぐんと伸びた。これひとえに当院の――」

「ちょっと待って呉れ」遊佐爺が空気を押えつけるような手付きをした。「寿命が伸びたのは、わしたちばかりではない。日本人全般のことだ。問題をすりかえられては困るぞ」

「そうだ。日本人一般だ。その一般の中にあんた方も入っている」院長は言い逃れた。「厚生省の発表によると、日本人の平均寿命の伸びた原因として、四つを上げている。第一には予防医学の発達普及だ。これは当院もたいへん力を入れていて、俵(たわら)医師を専任者に依嘱(いしょく)し、月一回健康診断を励行していることは、諸君も御承知の通りだ」

「俵医師は――」滝川爺がたまりかねたように口を出した。「まさか本物の……」

「滝爺!」遊佐爺があわてて滝爺を叱りつけた。滝川爺は発言を中止して、首をすくめた。

「第二には、栄養補給の強壮剤、ビタミン、アミノ酸系統の強壮剤だな、それが大量に市販されてきた。当院においても、飯に強化米を炊き込み、且つミネラルも加えて、諸君に食べて頂いている。諸君の長寿をこいねがうわたしの努力の一端だ。御飯の中に黄色い米粒が入っているだろう。あれがそれだ」そして院長は木見婆の方を向き、目くばせをして賛成を求めた。[やぶちゃん注:「強化米」白米の栄養的な欠陥を補うためにビタミン B1B2を主として、各種栄養素を濃厚に添加した特殊米粒を混入させたもの。普通、白米と特殊米の比率は200:1ぐらいの割合に混ぜられている。市販米の慣用名であって厳密な規準はない。特殊米は洗米による流失を防ぐために水に難溶な仕上げが行われているが、ビタミンB2 の色素で着色していることが多い。]

「な、あれは強化米だな。黄変米じゃないな」[やぶちゃん注:「黄変米」展開の関係上、「28」で詳注した。]

 木見婆は顔をあいまいに動かして、非常に怪しげなうなずき方をした。

「御飯に砂がよく混っているが」松木爺がまた切り込んだ。「院長の言うミネラルとは、砂のことか?」

「第三に原因療法剤としての抗生物質だ」院長はとり合わずに先をいそいだ。「ベニシリン、ストマイなどのことだ。こういう薬が出て来たために、諸君はたとえば肺炎にかかってもなかなか死なない。逝去せられない。またこれまではこれにかかったら最後と思われた脳出血、肝臓障害、ガンなどにも、良い薬が続々出来てきた。ますますもって諸君は逝去せられない。ガンにはザルコマイシン」[やぶちゃん注:「ザルコマイシン」は和製外国語。「sarkomycin」で、これはドイツ語の「肉腫」の意の「Sarkom」に、英語の「菌類から生じた抗生物質」を意味する接尾語「-mycin」を合成したもの。日本で最初に発見された制癌性抗生物質の一つ。梅沢浜夫らが昭和二六(一九五一)年に鎌倉で採取した土壌中の放線菌の一種から分離したもので、以前は制癌剤として臨床に用いられ、乳癌・子宮癌・胃癌などに若干の効果が認められたものの、現在殆んど用いられていない。]

「院長は俺たちが逝去するのを待っているのか?」と柿本爺。

「待ってはおりません」院長は切口上で言い返した。「第四に、生活水準が戦前なみにたち戻ったことが上げられる。衣料も潤沢(じゅんたく)になったし、食料事情も良くなった。当院の食事は都立養育院よりずっと良好だ。すなわち都立養育院においては、一日平均一人あたり一、九〇〇カロリー、蛋白質七〇ダラム、脂肪二〇グラムだが、当院においては一人あたり二、一〇〇カロリー、蛋白質八〇グラム、脂肪四〇グラム、という計算になっている。見渡したところ、都立養育院の爺さん婆さんたちよりも、諸君の方がずっと血色がよろしいようだ。これはすなわち――」

「そのカロリー計算は誰がしたんだ」と滝川爺がさえぎった。

「俵医師だ」院長は滝川爺をにらみつけた。「俵医師の計算だから、間違いはない」

「わしは俵医師のその計算を信用しないぞ」遊佐爺が長老らしくするどく切り込んだ。「たとえば今日の夕食の献立ては何であったか。盛り切りの丼飯に、キャベツの味噌汁と海苔(のり)のつくだ煮、それにトマトと潰物だけじゃないか。脂肪四〇グラムとはどこから割り出した?」

「そうだ。そうだ」

「この献立ては、まるで朝飯じゃないか。これじゃ栄養は摂れんぞ」

「そうだ。現にわしはもうお腹が空いている」

 爺さんたちはこもごも発言した。何も発言しないのは、ニラ爺だけであった。松木爺はニラ爺の脇腹を肱でぐんとこづいて、小声で叱りつけた。

「ニラ爺さん。お前も何とか発言せんか?」

 土ラ爺は困惑したように松木爺を見て、口をもごもごと動かした。黒須院長はいきり立った空気に肩すかしを食わせるために、悠々と煙草をつまみ上げて、マッチで火をつけた。遊佐爺の眼はするどくその広告マッチのレッテルをとらえた。鰻(うなぎ)が三匹にょろにょろと這(は)い回っている図柄だ。

「我々には夕食に飯としなびたような野菜をあてがっておいて」そして遊佐爺は大きくヤマをかけた。「院長はひとりで外出してウナギなんかを食べたではないか。それで同廿同苦などと言えるのか。わしたちにもウナギをくわせろ!」「な、なに!」黒須院長ははげしい狼狽(ろうばい)を感じて舌をもつらした。院長は煙草を持つ指を慄(ふる)わせながら、遊佐爺をきっとにらみつけた。どうしてウナギのことを知られたのか、院長は見当がつかなかったのだ。院長はいささか昏迷した。「ウナギ。ウナギだって?」

「ウナギを食べたじゃないか」院長の狼狽ぶりからヤマの適中を知った遊佐爺は、更(さら)に皮肉をこめて切り込んだ。「ウナギを食ったと、ちゃんとその顔に書いてあるぞ」

「ウ、ウナギを食べて悪いのか!」院長は居直った。「いかにもわたしは今夕、ウナギを食べた。もちろん自分の財布でだ。なぜ食べたかと言うと、もすこし栄養を摂(と)れと、俵医師から勧告されたからだ。諸君も知っているように、近頃院内事務は多忙を極めている。そのおかげで、わたしはたいへん消耗した。ウナギなどを食べないと、身体がつづかないのだ」

「わしたちだって同じだ」

「老者と壮者とは、身体の組立てが違う」と院長は声をはげました。「何故諸君は、わたしがウナギを食ったことを知っているのか。さてはなんだな、諸君もスパイ戦術を用いているな!」

「諸君、とは何だ」柿本爺が言葉尻をとらえた。「院長はスパイ戦術をとっているのか?」

 院長はふたたび狼狽した。同時にニラ爺も狼狽した。松木爺の肱がニラ爺の脇腹をふたたびこづいた。

「ニラ爺、なんとか発言せえ」

「院長」ニラ爺はおろおろ声を立てた。ここで黙っていると、皆から疑ぐられるおそれがあったからだ。「院長。俺たちにあんな不味(まず)い食事をあてがって、あれじゃあ全然食欲が出ないぞ。今晩も半分ぐらい残したぞ。院長は俺たちを煮干しにするつもりか」

「煮干し?」院長がいぶかしげに反問した。

「煮干しじゃない」松木爺が耳打ちをした。「干乾しだよ」

「煮干しじゃない。干乾しだ」ニラ爺は訂正した。

「干乾しになるわけがあるか」院長は目を吊り上げた。

「老人はあれだけ食べればたくさん。皆満腹している筈だ」

「満腹してない」ニラ爺は言い返した。「皆がつがつして、チナマコになってるぜ」

「チナマコじゃない」松木爺が叱った。「チマナコだ」

「夕食だけ問題にするから話がおかしくなる」院長はやっと陣容を立て直した。「一日の食事は、朝昼晩の三回だ。それを総合して、カロリーや脂肪を計算するのだ。今朝の朝飯には何が出た。ニラ爺さん。言ってみなさい」

「朝?」ニラ爺はきょとんとした。「朝、朝はテンプラが出たよ。イカのテンプラ」

「そら、見なさい」院長は得意げに一附を見回した。「朝はテンプラ、そして昼にはごった煮を出した筈だ。朝からテンプラが食えるような身分の人は、世の中にたくさんはいませんぞ。まさしく諸君は王侯の生活をしているのだ。不平不満の出るわけがない」

「今朝のテンプラは揚げ立てじゃなかったぞ」

「においも変だったぞ」

「俺のは身が千切れてたぞ」

 がやがやと爺さんたちは発言した。遊佐爺が手で一同を制した。

「朝からテンプラを出して、院長は得意がっているようだが」遊佐爺は正面からまじまじと院長を見詰めた。「今の皆の発言のように、鮮度が悪いし、身も千切れている。誰かの食い余しじゃあるまいかと思われるようなのさえあった。あれは一体当院で揚げたものか。いかなる方法で揚げると、あんな不揃いなテンプラが出来上るのか。木見婆さん、あんたに訊ねるけれども、あれは一体何時揚げたんだね。今朝じゃなかろう。昨夜かね?」

「答えるな!」黒須院長は大あわてして、手をにゅっと木見婆の方に伸ばした。「答えちゃいかんよ。立会人は立ち会っておるだけでよろしい」

「何故答えさせないのか」遊佐爺は詰め寄った。「朝にテンプラを出すかと思うと、夕方は野菜だけだ。一体院長はどういう方針で、我々に給食しているのか。所存のほどをうけたまわろう」

「それは諸君の健康を配慮してのことだ」院長は詰襟服のポケットから、風呂敷ほどもある大きなハンカチを引っぱり出して、ごしごしと額をぬぐった。院長の額はウナギのアブラと脂汗のために、てかてかに光っていた。「当院の在院者は、年齢の関係上、早寝早起きの人が多い。夕食を食べると直ぐに寝てしまう人さえいる。だから夕食は、なるだけ淡泊な、消化のいいものを出すように心がけているのだ。晩に豚カツだのウナギだのを出せば、それだけ諸君の胃腸に負担をかけ、胃腸障害をおこさせ、かつ血圧を高める。御馳走を出したいのはやまやまだが、譜君の健康をそこなうのはわたしの本意でない」

 院長はぐるぐると一同を見回した。

「ところが朝はどうであるか。朝は早い人は三時半頃から起きている。朝は一日の初めだからして、胃腸の機能も活発だ。だから脂肪分、蛋白質をたくさん摂取しても、完全に消化され、血と肉となるのだ。近頃諸君はあまり病気もしないし、死ぬ奴も、いや死ぬお方もほとんどいない。その原因のひとつは、こういう当院の給食方針によるのだ」

「わしたちは単に、カロリーだの脂訪だのを摂ればいいというのじゃない。わしたちは機械でもなければ、レグホンでもない。ちゃんとした人間だ。ちゃんとした老齢者だ」遊佐爺が言った。「人間として、日本人として、ちゃんとした食事を要求する。老人には老人の嗜好があるんだ。朝には朝らしい食事、たとえば味噌汁に焼海苔(やきのり)に半熟卵。夕方には夕方らしい食事、豚カツでもウナギでもよろしい。そういう食事を要求するのだ。院長はわしらの嗜好を完全に無視している!」

「健康をそこなってもいいのか?」院長は怒鳴った。「諸君の長寿を願えばこそ、わたしはこの給食方針をとっている。この方針の変更は、わたしの院長としての良心が許さない」

「調理場を俺たちに開放しろ!」柿本爺がすご味を利かせた。「一体どんな調理の仕方をしているのか、俺たちはそれを知る権利がある」

「開放だけでなく、材料仕入れや調理に、俺たちを参加させろ」松木爺が言った。「俺たちだって、料理ぐらいは出来るぞ」

「なんと言う情ないことをおっしゃるか」院長は禿頭に手をやって、大げさに嘆息して見せた。「君子は庖厨(ほうちゅう)に近づかずということがある。男が台所に近づくのは、恥とされているのだ。台所に入りたがるのは匹夫野人のたぐいだ。諸君は匹夫野人になりたいのか」

「匹夫野人でもいい。調理場を開放しろ」

「そういうわけには参りません」院長も必死に頑張った。「わたしは在院者に対して、健康な生活を送らせる責任を持っている。その責任に加えて、道徳的責任をも負わされているのだよ。諸君が悪い行為をしないように、悪い思想を持たないようにと、わたしの道徳的責任は重いのだ。もっともっと高邁(こうまい)な志を持って、ここで高潔な余生を送って貰いたいというのが、わたしの諸君に対する念願だ。そういうわたしに免じて、台所に入りたいなどと、恥かしいことをこれ以上言わないで貰いたい。調理や給食については、わたしが全責任を持つ!」

「その全責任を信用出来ないのだ」遊佐爺がつめたい口調で言った。「われわれは院長をヌキにして、直接経営者たちと話し合う用意もあるんだぞ。それでもいいか」

 ニラ爺は折畳み椅子の背にもたれて、昼間からの疲れで、うとうとと居眠りをしていた。夢を見ていた。スカートと女のストッキングをむりやりに穿(は)かされ、人混みの街角に立たされて、困感し切っている夢であった。

[やぶちゃん注:「ビタミンA」 日本人には「ビタミン無批判崇拝教徒」が多いが、ビタミンAは過剰摂取すると、下痢などの食中毒様症状から、倦怠感を経て、全身の皮膚剥離などの重篤な皮膚障害などを引き起こし、また、多量の体内蓄積は催奇形性リスクが非常に高くなるとされることを申し述べておく。酸素と同様、強毒性の劇薬なのである。] 

三州奇談續編卷之七 二上の鳥石

 

[やぶちゃん注:本章は途中に「万葉集」から万葉仮名とその右にカタカナでルビが振られてある一首が出る。そこだけは前後を一行空けて特殊な電子化とした。その際、底本の一部のルビが不審なため、現行の「万葉集」の読み及び「近世奇談全集」のルビを参考にし、一部を補ってある。]

 

    二上の鳥石

 二上山(ふたがみさん)養老寺は、古へ三千坊と云ふ地なり。今纔(わづか)に三院を殘す。されば寺古く山秀で、眞に殊勝の靈場なり。

[やぶちゃん注:標題は「ふたがみのてうせき」と読んでおく。

「二上山養老寺」「二上山」(ふたがみやま)は富山県高岡市と氷見市に跨がる標高二七四メートルの山(グーグル・マップ・データ。以下、無表示リンクは同じ。国土地理院図でピーク確認)で、この山自体が本来は御神体である。「二上山養老寺」は養老元(七一七)年に行基の開基と伝えられる(歴史学的には疑問がある)古刹で、射水(いみず)神社(現在の二上山南麓にある二神射水神社(射水神社元宮)。本社射水神社は神仏分離令を受けて現在地である高岡城本丸跡に射水神社として明治八(一八七五)年の遷座した)の別当寺として往時は講堂・鐘楼・堂塔他、四十九院など、寺数は実に三千八百坊もあったとも伝えられている。戦国時代に一度荒廃し、天正年間(ユリウス暦一五七三年~グレゴリオ暦一五九三年)にも社殿が焼失したが、江戸時代に入って加賀藩の祈祷所として復興した。ウィキの「射水神社」によれば、慶長一五(一六一〇)年、旧射水神社に『加賀藩初代藩主前田利長により御供田が寄進され、同時に越中』四郡からの知識米(初穂米)の『徴収が許された。この徴収には二上山所属の山伏があたり、大国様のように袋を担いだ彼らは「ガンマンブロ」と通称されて、泣く子も黙るほど民衆に恐れられた、と』いう。なお、『この徴収制度はかなり古くからあった慣習を、加賀藩が復活させたものと考えられている』とする研究者がいる。明治期になると、明治元(一八六八)年の国教政策により、『神仏分離令が出され』、『金沢藩においては』、明治二(一八六九)年七月に『二上山養老寺の知識米取立て指止め令が出された。但し、これは、『この年が大凶作であったため』、『貧農の難渋を少しでも和らげるため』に『発せられたもので、寺院の抑圧を直接の目的とはしていなかったが、神仏分離令により僧徒が神社へ関与することを禁じていたため、これを機に江戸時代初期から続いていた知識米の』『徴収は自然消滅し、山伏の大部分は四散して壮大を誇った別当寺は見る影も無く荒廃』し、『養老寺は金光院と慈尊院の』二『坊が細々と法燈を継ぐ状況となったと言う。この様な状況の中で二上山大権現は射水神社と改称し、社僧は還俗して神職となった』。後に金光院・慈尊院も廃れた。慈尊院の現本堂庫裡はつい最近の平成二〇(二〇〇八)年の再建である。因みに、私はこの山の東の麓の伏木で中学(伏木中学校)・高校(伏木高校)時代を過ごし、その内の後半は二上山南東山裾の伏木矢田新町に居住したため、二上山は私の生物探勝のフィールド・ワークの場でもあり、よく道なき道を探索したものである。自然の中のモリアオガエルの泡状の卵塊や、サンショウウオの白い二球の卵塊を見たのもここの「矢田の堤」(グーグル・マップ・データ航空写真)であった(国土地理院図では池があるが、グーグル・アースで見ても現在は干上がって消失している模様である)。懐かしい思い出の地である。なお、二上山については、より詳しくは高岡市の二上山公式ガイドブックPDF)がよい。]

 

 每歲祭禮には二上權現の神輿(しんよ)神杉(しんさん)に向ふ。此時社僧出迎ひて御輿(みこし)に挨拶あり。其躰(てい)古雅甚だし。

「實(げ)に千年の往事を見る」

と云ふ。

[やぶちゃん注:「神杉」サイト「玄松子の記録」の「二神射水神社」に、「境内案内」が電子化されており、そこに富山県指定無形民俗文化財『二上射水神社の築山行事』とあり、『古代信仰では、神は天上にあり、祭に際して降臨を願うものとされた。この行事は毎年四月二十三日二上射水神社の春祭に行なわれる。境内の三本杉と呼ばれる大杉の前に、社殿に向って築かれる臨時の祭壇は、幅四間、奥行三間、上下二段になっており、上段中央に唐破風の簡素な祠が置かれ、その前に日吉、二上大神、院内社三神の御霊代である御幣が立てられる。屋根の上には斧をかざした天狗が立ち下段には甲冑に身を固めた四天王の藁人形が置かれ、祭壇のまわりは造花で飾られる』。『祭礼の前日の夕刻、頭屋にあたる山森氏(御幣ドン)と神主が二上山頂にある奥の御前の日吉社から御幣に神を迎える。一夜自宅でお護りし』、『翌日築山に移す。院内社は祭の当日迎えられる』。『祭儀は、午後二時から行なわれ』、『社殿で例大祭の儀式が済むと三基の神輿が巡行する。ゲンダイジンを露払いに、御幣ドン、神主が続き』、『その後』、『院内社、二上大神、日吉社の神輿が続く、途中で院内社の神輿だけが一旦鳥居の外に出て、戻って二上大神と日吉社の間に割って入る。これを「院内わりこみ」という。その後、築山の前と天の真名井の前で祝詞が奏上され、本殿の前に戻って儀式が終る。祭儀が終ると築山はただちに解体され片付けられる。遅れると神様が荒れるという』。『この行事は、天上から臨時の祭壇に神を迎える古代信仰を本義を良く残している。又動かぬ築山がやがて動く曳山へと発展していったと考えられており 高岡御車山の原初形態を知る上でも貴重である。又社殿の神事と古代信仰の築山神事の二重の神事を同日に行なっている点も興味深い』とあり、この『境内の三本杉と呼ばれる大杉』がそれであろう。グーグル・マップ・データのサイド・パネルのこの写真がその祭壇である(背後に杉も見える)。私は残念ながら、この祭事は見たことがない。]

 

 奥の院は一里ばかり上にあり。道(みち)手を立てたる如く、二の腰に惡王子(あくわうじ)の社あり。此社には人身御供(ひとみごくう)舊例なりしを、一僧是を鎭めて代りに施米を以てす。今に射水郡は人代(ひとしろ)として是れを納む。山僧來り、

「カンマンホロ」

と號(とな)へて器を家に投げ込むに、家々此器に米を滿(みた)しめて出(いだ)す。是れ常例なり。此王子其昔はいかなる神靈やありけん、いぶかし。

[やぶちゃん注:「奥の院」不詳。現在の二上山山頂の日吉社のことであろう。ここの手前にある以下に出る「惡王子の社」は別名を「奥の御前」と称するからである。

「二の腰」山を登る際に乗っ越して行く手前のピークの謂いであろう。

「惡王子の社」先に示した高岡市の二上山公式ガイドブックPDF)の「悪王子伝説 封じ込められた荒神」によれば、『昔、二上山には悪神が住み、人々を支配していた。ふもとのまないた橋の上に、毎月、18132328日の5回、15歳以上の娘を人身御供として差し出さねばならなかった。これを怠ったら、二上の神の分身である悪王子が、五穀を大凶作にしてしまう』。『天皇がこれを聞き、僧の行基を遣わした。行基は、二上山の山中にこもり、一心に法華経を唱えた。ついに、妖怪は大蛇の姿をあらわ』し、『行基は、これを悪王子の宮に封じ込め、神として祀った。そして、これまでの人身御供に代えて、初穂知識をお供えしることとした』。『悪王子社は、前の御前と呼ばれる地にあり、今でもその回りを7回半は知り抜けると、大蛇が姿を見せるという』とある。「まないた橋」を探ってみると、何んと、Mistic氏のブログ「It is there. ~ スピチュアル大好き ~」の「二上射水神社 悪王子社の荒神が求めた人身御供の受け渡し場所 俎板橋(まないた橋)」によって、その橋の一部(石片)が富山県高岡市荻布(おぎの)にある天満宮の中に保存されていることが判った。そこで電子化されている「俎板(まないた)橋の由来」を引用させて戴く。『昔、二上山には悪神が住み人々を支配していた。神は越中の各地から一年に六十人にのぼる若い娘を求めた。この哀れな娘達を人身御供として奉置したのがこの俎(まないた)橋である。神はその見返りとして順調な天候と五穀の豊穣を約束したという。この悪神は今二上山・前の御前「悪王子社」に封じ込められている』。『さて、この石橋は明治以前までは高岡と伏木、新湊を結ぶ旧街道の荻布地内』の『通称「がめ田川」に架けられていたが、後に荻布天満社の前の川に移設され、更に昭和四十年当社新築の際ここに移し、永く郷土伝説の遺産として保存するものである』とある。この記載から、現在の小矢部川と庄川の中間を流れていた川に架橋されていたものと読める。

「カンマンホロ」先の「二上山養老寺」の注の引用の「ガンマンブロ」であろう。語源は不詳。「ブロ」は「ふくろ」で「干満囊」或いは「願萬囊」辺りか。]

 

 本社の駒犬を見るに、木朽ち面(おもて)缺けて、實(げ)にも千年以上の木工と見ゆ。

[やぶちゃん注:遷座した射水神社にも同社は明治三三(一九〇〇)年の高岡大火で類焼しているから残っていないか。]

 且つ望中又限なし。能登の岬を遙に望み、越の立山を屛風の如く引廻したる如くに望む。折節は富士も見ゆると云ふ。海色深蒼、眼をいたむ迄なり。

[やぶちゃん注:二上山からは、天気が良ければ、能登半島の先端も立山連峰もよく見えるが、いや、いくら何でも富士山は見えんちゃ、麦水さん!]

 此二山の本社は高嶺(たかね)竹多し。他山は木曾て無く石只亂々たり。續いて古城あり、是又樹なし。谷々(たにだに)石多く鳥の像かたち)に似たり。觜(くちばし)のあるもあり。𤲿紋(ぐわもん)なるもあり。

[やぶちゃん注:「此二山の本社」日吉社と悪王子社のことか。しかし「本社」という謂いは悪王子社にはちょっと使わないとも思うのだが。

「古城」現在の二上山公園内にある守山城。旧越中国射水郡守山、現在の富山県高岡市東海老坂(ひがしえびさか)にあった山城。ウィキの「守山城(越中国)」によれば、『守山城はまた、二上城、海老坂城ともいう。越中平野を一望に見下ろし、山高く道険しく前方は小矢部川、後方は氷見の湖水に挟まれた要害であり、築城時期は明らかではないが』、「南北朝末期の建徳二/応安四(一三七一)年、『南党の桃井直常が石動山天平寺の宗徒と示し合わせて、越中守護・斯波義将の本城・守山を攻め落とした」と書かれているため』、『相当古いと考えられる』。『斯波氏が越中守護の頃、この城を拠点(守護所)として反抗勢力と対していた。斯波氏と桃井氏がこの城を奪いまた奪い返されるなどの抗争を繰り広げた。のち、越中守護職は畠山氏に移るが、畠山氏もこの城を拠点とし、守護代の神保氏が城を支配した。神保氏の居城であった放生津城の詰城としての役割があった』。永正一六(一五一九)年、『越後国の長尾為景が越中に侵攻した際に、神保慶宗はこの城に籠って対抗した』。永禄一一(一五六八)年三月には、『越後国の上杉謙信(長尾為景の子)は大軍を率いて越中へ侵攻し、守山城を攻撃している。当時の守山城主で織田家と婚姻関係にある神保氏張』(じんぼううじはる)『は、謙信に降伏して配下となっていた神保氏当主の神保長職』(ながもと)『と対立していた。この時は謙信の本国・越後で本庄繁長の乱が起きたため、謙信は守山城攻めを中止し、引き上げている』。『この後、神保氏張もまた上杉氏の配下となったが、謙信没後の』「御館の乱」(おたてのらん:天正六(一五七八)年)三月十三日の上杉謙信急死後、上杉家の家督の後継を巡って、ともに謙信の養子であった上杉景勝(長尾政景の実子)と上杉景虎(北条氏康の実子)との間で起こった越後のお家騒動。景勝が勝利し、謙信の後継者として上杉家の当主となり、後に米沢藩の初代藩主となった。景虎及び景虎に加担した山内上杉家元当主上杉憲政らは敗死した)による『混乱で、上杉氏は越中での勢力を大幅に失って』、『代わって織田信長の勢力が及んだ。神保氏張も再度織田の傘下となり、織田家臣で越中を任された佐々成政の与力として仕え、子息の婚姻関係により佐々氏の一門格となった』。天正一三(一五八五)年、』『豊臣秀吉と対立した佐々成政に対し、秀吉に属す前田利家の軍勢が、上杉景勝と呼応し』、『東西から越中に来襲した。氏張も佐々方として転戦した。阿尾城の菊池武勝が豊臣方(前田方)に寝返ったため、氏張はこれを攻めるために出陣したが、その隙に守山城で家臣が謀反を起こし、留守を守っていた父の神保氏重が討たれて城は乗っ取られた。氏張は軍を返して鎮圧したため、城は再び佐々方のものとなったが、前田軍が来襲し、守山城は攻め落とされた。敗北した佐々氏が没落すると』、『佐々一門扱いの神保氏張も連座して領地を失い、守山城を含む越中三郡(礪波・射水・婦負)は前田氏のものとなった』。『豊臣秀吉は先の城攻めを賞賛し、利家の嫡子である前田利長に守山城を与えた』。文禄四(一五九五)年には「蒲生騒動」(文禄四年から慶長三(一五九八)年まで続いた会津若松九十二万石の領主蒲生家のお家騒動)に伴う領地替えによって、『残る一郡(新川)も前田領とされ、上杉家の越中衆(土肥氏・舟見氏・吉江氏など)から青山吉次らが諸城を受け取』った。慶長三(一五九八)年、『家督と加賀を譲られた利長は尾山城(金沢城)に移』り、『前田家家臣(一族)の前田長種が守将となったが』、『前田家二代目(嫡男)と一家臣(城代)ではその家臣の数も違ったのであろう、守山城下は寂れたとも伝わる』「関ヶ原の戦い」の後、『富山城も再建され、守山にあった寺などが移』っている、とある。なお、実は二上山とはツイン・ピークスの意である。ところが、一方の峰を削って守山城が作られたために、現在ではそうは見えなくなっているということを言い添えておこう。]

 

 此城國君一年移して關野へ引き給ふ、今の高岡なり。

[やぶちゃん注:「關野」「今の高岡なり」個人ブログ「赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!」の「【吉田神道高岡関野神社】によって歪曲された高岡市の歴史⇒【財政破綻】に繋がる高岡市の偏向した歴史観!!」に、加賀藩記録「三壺聞書」(加賀藩士山田四郎右衛門が三つの壺に書き貯めた記録を纏めたものとされる)に、『豊臣秀吉から聚楽第を拝領して江戸に差し廻されていた聚楽第の解体材料を金沢に運び、尾山城の築城に利用した様に記載されており、その城が火災で焼けた為に富山城に移ったが、慶長』一四(一六〇九)年三月十八日に『富山城も焼けた為に、越中関野に城を建てる為に一時期、魚津に移り、その間に金沢の【愛宕波着寺】の僧「空照」を招聘して地鎮祭を行って「関野」を【高岡】と命名し、慶長』十四年八月十六日に『竣工の祝いを盛大に行ったと云う』とあり、また、『「高岡市」の元の名前が平安時代の地誌の「和名類聚抄巻 二」に記載されており、古くは「越中国第百 射水郡」の内に、【塞口】と在り、「越登賀三州史」には』「關野ヶ原 在射水郡關野、又、志貴野とも舊記にあり今の舊號成り」とし、「越中旧記」には「今ノ高岡ハ塞野 狹野 サルヲ關野ト書キタルハ壽永ノ頃ナリ 其ノ後 上關(カミセキ) 下關(シモセキ) 狹野ト分レタリ 塞野ト云ハ此邊ハ『和名抄』ニ出タル塞口ノ鄕ニアル野ナル故 名ツケタル者也」と『記す。又、旧記には』「關野を高岳と被改 後改 高岡」と『在り、当初は「高岳」と称したと云う』とあった。「和名類聚抄」は原本(国立国会図書館デジタルコレクション)に当たったところ、巻七の「國郡部第十二 越中國第百」の「射水郡」の最後に「塞口」として「セキクチ」とルビが振られてある。]

 

 近年軍學に名ある者來りて、此山嶺を踏遍(たふへん)して[やぶちゃん注:あまねく踏破して。]醫家【民五なる人】に尋ねて曰く、

「此二上山高岡の城に近くして要害よからずと云ふ說あり。然れば國君利長卿名將の御名ある事明(あき)らけし。又命ぜられたる長如庵(ちやうのじよあん)・高山南坊(みなみのはう)、是れ此器の秀才の人と聞けり。然るに此沙汰は如何。」

 軍學士答へて曰く。

「皆謂れあり。尤も此山上、高岡の城に近くして害ならざるには非ず。然れ共是れ茶臼山と稱すべき地なり。茶臼山とは、『御引なさる』と云ふ隱し詞にして、故に城邊の要地を何國にても斯く號(とな)ふ。是敵に取切らるべきの地に非ず。味方の山なり。城落ちて此山に籠るとも、山落ちて城に籠るべからず。殊に山氣必ず城中を助くる者を籠められたるならん。守護の神主(しんしゆ)あり」

と云ひし。

[やぶちゃん注:「踏遍して」遍(あまね)く踏破して。

「民五」「黑川の婆子」に既出の人物である。そこでも『高岡の醫師』とあった。

「長如庵」複数回既出既注の、戦国から江戸初期にかけての武将で、織田家の家臣、後に前田家の家臣となった長連龍(ちょうのつらたつ 天文一五(一五四六)年~元和五(一六一九)年)のこと。「如庵」は彼の戒名。ウィキの「長連龍」を見られたい。

「高山南坊」戦国時代のキリシタン大名高山右近(天文二一(一五五二)年:摂津~慶長一九(一六一四)年:マニラ)の茶人としての号。「怪飜銷ㇾ怪」で既注。

「高岡の城」旧越中国射水郡関野、現在の富山県高岡市古城にあった平城の高岡城。守山城の南南東四キロメートル半。ウィキの「高岡城」によれば、慶長一〇(一六〇五)年六月二十八日、富山城に隠居した初代加賀藩主前田利長は、その四年後の慶長十四年に、『富山城下の町人地から出火した火災の類焼により城内の建築物の大半』が焼失してしまい、『利長は魚津城に移り、大御所徳川家康と将軍徳川秀忠に火災の報告と、関野』(現在の高岡の旧名、前注参照)『に築城の許可を貰』った。『利長は築城の方針に伴うため、資材調達を小塚秀正ら、現地奉行を神尾之直らに命じ、魚津城から築城の指揮を取り、同時に城下町の造成も始めた。縄張(設計)は当時の前田家の客将だった高山右近とされている』。同年九月十三日、『利長は「関野」を「高岡」と改め、未完成の高岡城に入城した。殿閣は先代利家が豊臣秀吉から賜った豊臣秀次失脚に伴』って『破却された伏見城秀次邸の良材を使って建てられたとも伝えられる。しかし』、慶長一九(一六一四)年五月二十日、利長は死去(享年五十三)し、『隠居城として使われたのはごく短期間であった。その翌年の』元和元(一六一五)年には『一国一城令により』、「大坂夏の陣」からの利常の『凱旋を待って』、『高岡城は廃城となった』。『その代わり』、『加賀国に小松城を築くことが』許されている。但し、廃城時期についてはもっと後の寛永一五(一六三八)年と『する異説もある』。『しかしながら、廃城後も高岡町奉行所の管理下で、加賀藩の米蔵・塩蔵・火薬蔵・番所などが置かれ、軍事拠点としての機能は密かに維持された。これは加賀藩の越中における東の拠点であった魚津城も同様であった。街道の付け替えの際には、濠塁がそのまま残る城址を街道から見透かされるのを避けるため』、『町屋(定塚町)を移転して目隠しにしたといわれる。また、廃城後に利長の菩提を弔うために建立された瑞龍寺や』、『周囲に堀を備える利長の墓所自体も』、『高岡城の南方の防御拠点としての機能を併せ持つものとして配置されたと考えられている。なお、江戸時代の古図の中には城址を「古御城」の名称で記しているものがある』(「ふるおしろ」と読む。「高岡市立博物館」公式サイト内で「高岡古御城之図」(裏書「高岡古御城之圖 文政四年高岡火災之節御城之御塩藏夲少し燒失に付爲見分相添たるの圖取いたし候由之津田宇兵衞より内々借り寫し置文政四年冬寫之」(「高岡古御城の圖」。文政四(一八二一)年、高岡火災の節、御城の御塩藏(おしほぐら)等、少し燒失に付き、見分爲(な)し相ひ添へたるの圖、取りいたし候。之の由(よし)津田宇兵衞より内々借り寫し置く。文政四年冬、之れを寫す)が見られる。当該ページに『このホームページ内の内容、画像の二次利用は固くお断りします』とあるのに憤然としたので、判読はリンク先の解説を参考しながらも全く独自に判読した)。『城内におかれた米蔵等は』、文政四(一八二一)年の「高岡大火」の『際にほぼ全焼したが、その後』、『再建され』、『明治に射水郡議事堂が建設されるまであったという』とある。

「荼臼山とは、『御引なさる』と云ふ隱し詞」「茶を臼(うす)で挽(ひ)く」に本城を攻め追い立てられた際に臨時に「お引きなさる」、一時的に退(ひ)いて移る「山」城に掛けたもの。]

 

 されば高岡の知己井波屋某にして、櫻を彫りたる硯箱を見き。某曰く、

『是先年金澤へ行きし「一の谷の硯箱」と同樣にして、後(うしろ)藤(ふじ)の浮彫、本(も)と國君の城中より出(いで)し器なり』

と云ふ。

[やぶちゃん注:MOA美術館の「岩佐又兵衛 浄瑠璃物語絵巻 出品目録」PDF)の中に「一の谷蒔絵嵌装硯箱」(江戸時代 十七〜十八世紀)と記すものが載っている。]

 

 爰に一話あり。

 文祿・慶長[やぶちゃん注:一五九三年から一六一五年。]の程の頃ならん。此山に城猶殘りて、二上養老寺別院も所々荒れながら殘りし頃とにや。

 高岡邊に武道具を好むの商人(あきんど)ありしが、折々二上の山中より小柄・小刀・鐙(あぶみ)・金具など拾ひ來りて、少しの價に賣る山人(さんじん)多かりしかば、此商人も欲心に迷ひ、一日(いちじつ)山上して爰彼所(ここかしこ)尋ねしに、鹿を追ふ獵師の山を見ざるが如く、終(つひ)に道を忘れて谷々に入る。

 遙(はるか)に遠く尋ね入りて、打仰向(うちあふむ)きて側(かたはら)を見れば、石上(いしがみ)に一人の異人臥居(ふしゐ)たりしが、

「むつく」

と起きて叱(しつ)して云ふ。

「汝何者なれば領地を侵し來(きた)る。早々に去れ」

と云ふ。

 此商人是を見るに、靑き素袍(すはう)髮伸びて女の如く、杖にすがりし有樣なり。

[やぶちゃん注:「素袍」「素襖」(すあを(すおう))に同じ。日本男性の伝統的衣服の一種で、室町時代に発生した単 (ひとえ) 仕立ての直垂(ひたたれ)。庶民が着用したが、江戸時代には平士・陪臣の礼服になった。しかし、この男、奈良時代の霊のくせに当時の現代服を着てるっうのは、おかしかないかい?]

 

 商人怪みて、

「爰は誰殿(だれどの)の領地にて候や、あなたは何と申す御方に候や」

と云ふ。異人曰く、

「爰は則ち越中守家持(やかもち)卿の領地なり。斯く申す我は家臣澁田惠美惡(しぶたのえみさか)と云ふ者なり。鷲を養ひて羽を取りて國用に充つ。其外世替れども武器を守護す。汝早く去らずんば鷲に追はしむべし」

と云ふ。

 其人猶怪みてあたりを見るに、彼異人杖を揮(ふる)ひて

「ホウホウ」

と號(よ)ぶに、邊りの石中草間(せきちゆうさうかん)に悉く鷲・熊鷹ども顯れて引裂(ひきさか)んず勢ひなり。

 此商人大(おほい)に恐れ、

「曾て聞く、同國立山には『善知鳥(うとう)』の謠(うたひ)にかゝる事を聞きし。夫(それ)は鳥獸を殺せし報いのよし。我は更に殺生せし覺えもなきに。俄(にはか)に山の狹(せば)む躰(てい)、若(も)し爰は衆合地獄に候か」

と問ふに、元來惡鳥どもなれぱ更に聞入れず、愈々群(むらが)り出で飛掛(とびかか)り、黑金・赤金と云ひつべきの觜を鳴らし、金めつきの羽(はね)叩き、赤銅(しやくどう)の爪を硏立(とぎた)て、眼(まなこ)を摑(つか)み肉を食はんと、すさまじき躰(てい)なれば、彼の道具好(だうぐずき)の親仁(おやぢ)大に恐れ、迯(にげ)んとすれど立得ず。叫ばんとすれども聲枯れながら、

「鴛鴦(をしどり)の殺せし罪はなきにや」

と、漸(やうや)く谷をころび落ちて麓の村に迯來(にげきた)り、爾々(しかじか)の躰(てい)咄(はな)しければ、村の者ども驚きて、夜明ければ此親仁を先に立て、再び山上して谷々を探しけるに、夫(それ)と思ふ所へも出でず、又異人もなし。

 然共亂石は皆鳥の形(かた)ちにて、何れも觜出來(いでき)て、斑紋必ず鳥なりしと云ふ。

 今も多く鳥形(とりがた)の石あり。

 思ふに「萬葉集」十六越中守中納言家持。

 

 渋溪乃二上山爾鷲曾子產蹟云指利爾毛

 君之御爲爾鷲曾子產跡云

  渋溪乃(シブタニノ)

  二上山爾(フタガミヤマニ)

  鷲曾子產蹟云(ワシソコムトイフ)

  指利爾毛(サシハニモ)

  君之御爲爾(キミガミタメニ)

  鷲曾子產跡云(ワシソコムトイフ)

 

かゝる歌も見え侍れば所以あるにや。澁谷も今は崩れて、澁田と云ふと聞く。

 蝦坂(ゑびざか)と云ふ地にも知る人ありて悉く聞くに、蝦坂先五兵衞の頃逞しき狗(いぬ)を飼ひしに、山畔(やまくろ)の畠ヘ行く下人と連立(つれだ)ち行きしに、鷲來りて三十間許(ばかり)宙に引立(ひつたて)て行く。

 家來ども大いに恐れ、

「主人祕藏の犬なり、免(ゆる)し下されよ」

と詑びければ、鷲捨て去り、犬も恙なかりき。

 其外

「鷲に異あること數多(あまた)なり」

と聞えしかば、我も此物語り床(ゆか)しくて、圖なるもの、觜のある像のもの二石を懷にして下山し、家づとゝなし、彼の谷を思ひ出すなり。

[やぶちゃん注:「越中守家持」大伴家持(養老二(七一八)年頃~延暦四(七八五)年)万葉末期の代表歌人で官人。大伴旅人(たびと)の子。少年時の神亀四(七二七)年頃、父に伴われて大宰府で生活し、天平二(七三〇)年に帰京した。七三七年頃に内舎人(うどねり)となり、天平一七(七四五)年には従五位下を受けた。翌年三月、宮内少輔(くないのしょうふ)となり、同七月、越中守となって赴任した。天平勝宝三(七五一)年、少納言となり、帰京。七五四年、兵部少輔。さらに兵部大輔・右中弁を歴任したが、天平宝字二(七五八)年に因幡守に降格された。以後、信部大輔(しんぶたいふ)・薩摩守・大宰少弐などを歴任。長い地方生活を経て、宝亀元(七七〇)年六月、民部少輔、同九月に左中弁兼中務(ちゅうむ)大輔、同十月には二十一年振りに正五位下に昇叙した。諸官を歴任して天応元(七八一)年四月、右京大夫兼春宮(とうぐう)大夫となり、延暦四(七八五)年四月、中納言従三位兼春宮大夫陸奥按察使(みちのくのあんさつし)鎮守府将軍と記されて、同年八月に没している。没時も恐らく任地であった多賀城(現在の宮城県多賀城市)にあったものと思われている。享年は六十八または六十九とも言われる。名門大伴家の家名を挽回しようとしたが、却って政争に巻き込まれることが多く、官人としては晩年に至るまで不遇であり、死後も謀反事件に連座して大同元(八〇六)年まで官籍から除名されていた。作品は「万葉集」中最も多く、長歌四十六首、短歌四百二十五首(合作一首を含む)、旋頭歌一首の計四百七十二首に上る。ほかに漢詩一首と詩の序文形式の書簡文などがある。作歌活動は、天平四(七三二)年頃から因幡守として赴任した翌年の七五九年までの二十八年間に亙るが、現行では三期に区分されている。第一期は七四六年に越中守となるまでの習作時代で、恋愛歌や自然詠が中心をなす。のちに妻となった坂上大嬢(さかのうえのおおいらつめ)を始め、笠女郎(かさのいらつめ)・紀女郎(きのいらつめ)らとの多彩な女性関係と、早くも後年の優美繊細な自然把握が見られる。第二期は越中守時代の五年間で、期間は短いものの、望郷の念を底に秘めつつ、異境の風物に接し、下僚大伴池主(いけぬし)との親密な交遊を通して、さらには国守としての自覚に立って、精神的に最も充実した多作の時代であった。第三期は帰京後から因幡守となるまでで、作品数は少なく、宴歌が多いが、万葉の叙情の深まった極致ともいうべき独自の歌境を樹立している。「万葉集」編纂に大きく関与し、第三期の兵部少輔時代の防人歌(さきもりうた)の収集も彼の功績である。長い万葉和歌史を自覚的に受け止めて学ぶとともに、これを進め、比類のない優美にして繊細な歌境を開拓した。この美意識及び自然観照の態度などが、平安時代の和歌の先駆を成す点が少なくない(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「澁田惠美惡(しぶたのえみさか)」読みは「近世奇談全集」に従った。但し、不詳。少なくとも当該ロケーションの二上山麓の家持所縁の地に六年間も住み、中高に国語や古文の授業でも家持がしばしば取り上げられたのであるが、こんな奇談も、こんな家持の家臣の話も全く聴いたことがない。ネット検索でも掛かってこない。識者の御教授を乞うものである。

「鷲」タカ目タカ亜目タカ上科タカ科 Accipitridae に属する種群の中でも比較的大きめの種を指す総体通称。本邦産ではオジロワシ(タカ科オジロワシ属オジロワシ Haliaeetus albicilla)・オオワシ(オジロワシ属オオワシ Haliaeetus pelagicus・イヌワシ(タカ科イヌワシ属イヌワシ Aquila chrysaetos)などに該当する。

「熊鷹」タカ科クマタカ属クマタカ Nisaetus nipalensis。日本はクマタカの最北の分布域であり、北海道から九州に留鳥として棲息し、森林生態系の頂点にいる。そのことから、「森の王者」とも呼ばれる。

「立山には『善知鳥』の謠にかゝる事を聞きし」ウィキの「善知鳥」によれば、謡曲「善知鳥」は『能の演目のひとつ。ウトウという鳥を殺して生計を立てていた猟師が死後亡霊となり、生前の殺生を悔い、そうしなくては生きていけなかったわが身の悲しさを嘆く話。人生の悲哀と地獄の苦しみを描き出す哀しく激しい作品となっている。四番目物(五番立てと呼ばれる正式な演能の際に四番目に上演される曲で、亡霊などが主役になるもの)で、喜多流では「烏頭」と呼ばれる。また、地唄にもこの能を基にした曲があり、地唄舞の演目としても知られる』。『旅の僧侶が立山にさしかかったとき、猟師の亡霊が現れ、現世に残した妻と子のところに蓑笠を届けて、仏壇にあげるように頼む。僧侶は承諾するが、この話を妻子に信用させるために何か証拠の品を渡すように言い、猟師は生前着ていた着物の片袖を渡す。僧侶が陸奥国の外の浜にある猟師の家を訪ね、妻子に片袖を見せると二人はただ泣くばかり。僧侶が蓑笠を仏壇にあげて経を唱えると、猟師の亡霊が現れ、地獄の辛さを話し、殺生をしたことや、そうしなくては食べていけなかった自分の哀しい人生を嘆く。ウトウは、親が「うとう」と鳴くと、子が「やすかた」と応えるので、猟師はそれを利用して声真似をして雛鳥を捕獲していたため、地獄で鬼と化したウトウに苦しめられ続けていると話し、僧侶に助けを求める』。『立山は古くから山岳信仰の場として修験者を集め、その荒々しい地形を地獄に見立てた立山信仰で有名だった。これが「立山地獄説話」として語られ、平安時代末期には貴族社会にも知れ渡り』、十二『世紀の『地獄草紙』などに見られる「鶏地獄」』(とりじごく/けいじごく:「起世経」の「地獄品(じごくぼん)」が説く十六小地獄の一つ。鳥獣を虐(いじ)め、爭いを好んだ者が死後に堕ちるとされる。猛き炎が身に満ちた大きな鶏(にわとり)がおり、亡者はこれに追われて蹴り踏み潰され、その体はずたずたに切り裂かれて耐え難い苦痛を味わうとされる。「地獄草紙」では、異様に巨大な鶏が、炎の翼を広げて火炎を吐き出すさまがシンボリックに描かれてある)『のモチーフや津軽地方の「珍鳥説話」、「片袖幽霊譚」などを組み合わせて、室町時代に「善知鳥」という演目が作られた』。『また、ウトウという海鳥は、親鳥が「うとう」と鳴くと、茂みに隠れていた子の鳥が「やすかた」と鳴いて居場所を知らせると言われ、それを利用して猟師が雛鳥を捕獲すると、親鳥は血の雨のような涙を流していつまでも飛びまわるという言い伝えがあり、そのために捕獲の際には蓑笠が必要とされた』。『富山県立山の地獄谷が発祥地といわれ、長野県塩尻市に善知鳥峠、青森県青森市に善知鳥神社がある。出羽国でも仙北郡美郷町千屋、秋田市(旧雄和町)平尾鳥などにも「善知鳥」の地名がある』とある。「善知鳥安方(うとうやすかた)」とは昔、奥州外ケ浜(現在の青森県内)、特に津軽郡安潟浦にいたと伝えられる妖鳥の名。一説に允恭天皇の時、罪を得て奥州卒都が浜(外ケ浜)に下った中納言烏頭安潟と、その子の霊の化した鳥とも伝える。能の「善知鳥」の詳しい詞章と解説は小原隆夫氏のサイト内のこちらがよい。なお、「善知鳥」は実在するチドリ目ウミスズメ科ウトウ属ウトウ Cerorhinca monocerata の標準和名である。ウィキの「ウトウ」によれば、「鵜(う)」(カツオドリ目ウ科 Phalacrocoracidae のウ類でウミウ Phalacrocorax capillatusやカワウ halacrocorax carbo)とは全く無関係で、『アイヌ語で「突起」という意味がある』。なお、「うとう」は『「ウト・ウ」ではなく「ウトー」と発音する』。『北日本沿岸からカリフォルニア州までの北太平洋沿岸に広く分布する。日本でも北海道の天売島、大黒島、渡島小島、岩手県の椿島、宮城県の足島などで繁殖する。天売島は』約百万羽が『繁殖するといわれ、世界最大の繁殖地となっている。足島は日本での繁殖地の南限とされ』、『「陸前江ノ島のウミネコおよびウトウ繁殖地」として、「天売島海鳥繁殖地」とともに国の天然記念物に指定されている』。『体長は』三十八センチメートル『ほどで、ハトよりも大きい』。『頭から胸、背にかけて灰黒色の羽毛に覆われるが、腹は白い。くちばしはやや大きく橙色である。夏羽では上のくちばしのつけ根に突起ができ、目とくちばしの後ろにも眉毛とひげのような白い飾り羽が現れて独特の風貌となるが、冬羽ではくちばしの突起と飾り羽がなくなる』とある。

「衆合地獄」八大地獄の第三。殺生・偸盗・邪淫を犯した者の落ちる所。牛頭(ごず)・馬頭(めず)に追い立てられて、罪人が山に入ると、山や大石が両側から迫って押し潰されるなどの苦を受けるという地獄。「石割(いしわり)地獄」とも呼ぶ。

「鴛鴦(をしどり)の殺せし罪はなきにや」「鴛鴦(をしどり)の殺せし罪」は「小泉八雲 をしどり (田部隆次訳) 附・原拠及び類話二種」でお判り戴けるはずである。そこの注では私が原拠を詳しく複数挙げて電子化してあるので、是非、見られたい。ここで、この商人は、「雄のオシドリの殺生だけでなく、思いもかけぬ雌のオシドリの自死をも齎した救い難い業(ごう)は毫(ごう)も私にはありませぬに!!!」と叫んでいるのである。即ち、ここは特に後の、オシドリの雌の自害という――不可抗力の間接的な――殺生の罪さえも私にはないと弁解しているのである。まあ、本当にそうかは判らぬが、彼が二上山に狩猟目的で入ったのではないことは確かだから、まあ、許してやろう(と渋田恵美悪も思ったのであろう)。

「鳥形の石」「亂石は皆鳥の形(かた)ちにて、何れも觜出來て、斑紋必ず鳥なりしと云ふ」「今も多くあり」恐らくは以下に出る「万葉集」の歌に掛けているのであろう。二上山には鷲鷹石(しゅうようせき)というのがあると、「北日本新聞社」公式サイト内の「とやまおはなし蔵」にはあるようだ(有料会員手続きをとらない読めない)が、どうも雰囲気からして、本篇をもとにしているようである。が、しかし、私はまさにその谷の近くに数年住み、その谷も最奥まで詰めて、二上山山頂を徒歩で極めたことさえもあった(半日かかった)が、そんな鳥型の石や鳥の嘴形の石や鷹の羽のような斑(まだら)模様を持った石がゴマンとあると言う話なんざ、見たことも聴いたこともないがいぜ!?!

『「萬葉集」十六越中守中納言家持……』は「万葉集」巻第十六の「越中國(こしのみなかのくに)の歌四首の二つ目にある旋頭歌(三八八二番。旋頭歌は奈良時代に於ける和歌の一形式の一つで「古事記」・「日本書紀」・「万葉集」などに見られ、五・七・七を二度繰り返した六句からなり、上三句と下三句とで詠み手の立場が異なる歌が多い。呼称は頭句(第一句)を再び旋(めぐ)らすことに由来する。元は五七七の「片歌」を二人で唱和又は問答・相聞したことから発生したと考えられている)で、講談社文庫の中西進氏の「万葉集(四)」では『二上山麓の民謡』とされる。

   *

 澁谿(しぶたに)の

  二上山(ふたがみやま)に

   鷲(わし)そ子産(こむ)といふ

 翳(さしは)にも

  君がみために

   鷲そ子産といふ

   *

中西氏の通釈は『澁谿の二上山に鷲が子を産むという。翳になりと使って下さいと、君の御ために鷲は子を産むという』とされ、「澁谿」には『富山県高岡。その西部に二上山』とされるのだが、これはおかしい。この「澁谿」というのは当時の有磯海の、現在の岩崎の鼻を越えた、雨晴(あまはらし)の海岸から細く二上山方向へ入り込んだ谷である、現在の高岡市渋谷(しぶや)辺りの旧名であろうと私は思う。因みに後に出る本書執筆当時の地名「澁田」では見当たらない。「翳」は『貴人にかざす長柄のうちわ』とある。「さしば」とも呼び、鳥の羽や絹を張った団扇形のものに長い柄をつけた遮蔽具。貴人の外出時や天皇が即位・朝賀などで高御座(たかみくら)に出る際に従者が差し出して顔をお隠し申し上げるのに用いたものである。

「蝦坂」現在の富山県高岡市東海老坂(とうかいえびざか)

「蝦坂先五兵衞の頃」どうもおかしい。村の有力者が村名を名乗るのはまあいいとしても、どうも「蝦坂先五兵衞(えびざかせんごへゑ)」は如何にも言い難いじゃあないか(実は「近世奇談全集」では『えびざかせん』とルビが振ってはあるのだが)。これは「蝦坂」の「先」(さき)の「五兵衞」の代の謂いであろう。本文も「えびざかのさきのごへゑ」と読んでおきたい。

「山畔(やまくろ)」山麓の少し小高くなった所。先の地図でお判りの通り、東海老坂地区は二上山の西方部で、西の丘陵部の山間にある氷見に抜ける間道沿い(現在は国道一六〇号が貫通)の山村である。

「三十間」約五十四メートル半。

「床(ゆか)しくて」「ゆかし」は動詞「行く」の形容詞化したもので、本来は「心が惹かれ、そこに行ってみたい」が原義。「床」は当て字である。ここは「奥深さがあって心が惹きつけられる感じがして」の意味である。

「圖なるもの、觜のある像のもの二石を懷にして下山し、家づとゝなし、彼の谷を思ひ出すなり」「ゆかしくて」も含め、珍しく麦水はいたく感傷的なことを言っている。「圖なるもの」というのは石の模様が描いた図のようなものということか。ともかくも、旅の記念に模様のある石と鳥の嘴の突き出たような石を土産に持って帰ったというのだから、やっぱり二上山にはそんな石がごろごろしているということか。もう、きっと行くことはないだろうが、万一、行ったら、二上山で探してみたい、誰か、探してみてくれないか?…………]

2020/07/14

梅崎春生 砂時計 15

 

     15

 

 ニラ爺は首を鬱々(うつうつ)とうなだれ、手すりにすがりつくようにして、一歩々々階段を降りた。西寮の廊下に動く人影をちらと眺め、そして東寮の廊下を歩み入った。廊下を踏む足は、ニラ爺の現在置かれた状況を反映して、自(おのずか)ら忍び足になっている。ニラ爺は肩を丸くして、墨汁の一合も呑んだような気持になり、どん詰りの部屋の入口に足を踏み入れた。部屋中の視線がいっせいにニラ爺に集中した。

「どうだった?」

「どうだった?」

「へえ」ニラ爺はさらに肩を丸くして、畳にへたへたとうずくまった。「くたびれた」

「くたびれた、じゃ判らん!」さっきからイライラしていた松木爺が、険のある口調できめつけた。「三十分以上もかかったぞ。一体何を話していたんだ!」

「まあまあ」と遊佐爺がとりなした。「くたびれるのも無理はない。なにしろ相手は海坊主ときてるからな。よしよし、お駄賃にピースを三本上げる。で、どうだった。海坊主は会見を承諾したか?」

「へえ、それが――」ニラ爺は三本の巻煙草を軽くおしいただいた。「栗山書記が来てから、会議をやると――」

「なに、栗山書記が来てから?」松木爺が早飲み込みをして憤然とつっかかった。「三十何分もかかって、そんな返答を貰ってきたのか。何ということだ。子供の使いじゃあるまいし!」

「まだ全部言ってないやないか」さすがにニラ爺もむっとして、語気をやや荒くした。しかしその表情は、憤怒というよりも、踏みつぶされた蟹(かに)に似ていた。「文句を言うなら、全部を聞いてからにして貰おう。途中で一々口を出されたら、おれ、何もしゃべれんやないか」

「判った。判った」滝川爺がニラ爺をなだめた。「これは松爺さんが悪い、松爺さんはあやまれ」

 松木爺はふくれっ面で、不承々々(ふしょうぶしょう)頭をぺこりと下げた。見張り爺たちも窓辺から離れ、ニラ爺を中心として、おのずからなる車座をかたちづくった。その時中庭のかなた、二階の院長室の曇りガラスの窓が一寸ばかり開かれて、そこから黒須院長の双のぎょろぎょろ眼が、こちらをじっと見おろした。院長は呟(つぶや)いた。

「ふん。ニラ爺が戻ったらしいな。影の具合で見ると、取巻いて坐っているらしい。ニラ爺のやつ、ヘマを言って、見破られなければいいが」

「だ、だから俺は頑張ったのや」ニラ爺は痩せ肩をぐっとそびやかした。「そんな返事では皆のところに戻れんと、タンカを切ってやったんや」

「ほう。それはニラ爺さんにしては上出来だったな。よく頑張って呉れました」遊佐爺がニラ爺の肩をやさしく叩いた。「栗山が来ないと会見はしない、そんな筋違いがあるものか。あんなうすのろ書記が来ようと来まいと、わたしたちは会見に押しかけるぞ」

「俺もそう言ってやったんや。あんなうすのろ書記」ニラ爺は遊佐爺の言葉にうまくおんぶした。「そこで俺と院長の間に、はげしい押問答が始まった」

「それで三十分もかかったのか」松木爺が性こりもなく、疑わしげな口をはさんだ。「おや、ニラ爺さん、お前慄(ふる)えているな。なんで慄えているんだ?」

「慄えてるんやない。貧乏ゆすりや」ニラ爺は額をあおくして言い返した。そして慄えを止めようとしたが止まらなかった。「貧乏ゆすりぐらいしたって、いいじゃないか。俺の自由や」

「松爺さんはちょっと口数が多過ぎるぞ」見兼ねたらしく柿本爺がたしなめた。「他人の自由は認めてやらなければいけん」

「それで結局のところ」遊佐爺が言った。「海坊主は会見を承諾したか?」

 黒須院長は猿(ましら)の如く階段をかけ降りていた。そして左右の廊下をするどく見回し、玄関脇の掲示板の前に立った。イタズラの赤インク文字をとどめた告示を勢いこめて引き剝ぐと、素早くくるくる丸め、それを小脇にかかえた。院長の巨軀はふたたび猛烈な勢いで、階段をいっぺんに三段ずつ、ピョンピョンとかけ上った。院長室の扉をしめると、丸めた告示文を大急ぎで書類棚にかくし、また窓辺にかけ寄って、細い隙間から中庭をぎょろりと見おろした。猛烈な運動のために、院長の胸は大きく動悸(どうき)を打っていた。東寮どん詰りの部屋の窓に、その時いくつかの影がばらばらと立ち上った。院長はあわてて窓をおろし、背をかがめて回転椅子に戻った。

「さあ、出かけるとするか」遊佐爺が部屋中を見回した。立ち上らないのはニラ爺だけであった。そのニラ爺の禿げ頭を遊佐爺はいぶかしげに見おろした。「さあ、ニラ爺さん、元気を出して出かけよう」

「俺、ここに残ってる」

「残る?」

「俺、くたびれた」ニラ爺はなさけない声を出した。ニラ爺の顔は恥じと自責で惨(みじ)めに歪んでいた。「ほんとに、俺、くたびれたんや」

「ムリに連れて行かなくてもいいじゃないか」さっきから黙っていた滝川爺が、初めて口を出した。「当人もくたびれたと言っているし、気が進まない様子だから」

「ニラ爺さん」遊佐爺はおごそかに呼びかけた。「お前さんの退所問題も、今夜の議題にのぼるんだよ。もしかすると、お前さんの余生がどうなるか、今夜そっくりきまってしまうかも知れないのだ。いわばお前さんの生命の瀬戸際だ。立ちなさい!」

「出かけたくない何か事情でもあるのか」松木爺が皮肉な口を入れた。

「出るよ」ニラ爺はむっとして松木爺を睨みつけ、のろのろと立ち上った。「出りゃいいんだろう、出りゃ」

「出りゃいいんだよ」遊佐爺が重々しくうなずいた。「出て、自分の言いたいことを、堂々と言うんだよ。なに、海坊主なんか、おそるるに足らんよ。滝爺さん。メモはちゃんとしてるな」

 遊佐爺を先頭にして、一行はぞろぞろと廊下にあゆみ出た。廊下には人影がなかった、かくれんぼ爺さんたちも、もはや遊び倦(あ)きて、めいめいの部屋に引込み、同室の爺さんと雑談をしたり、日記をつけたり、あるいは眠っていたりした。人気(ひとけ)のない廊下を一行は声もなく、粛々(しゅくしゅく)として行進した。黒須院長は回転椅子にきちんと腰をおろし、一行の到着を待っていた。じりじりとして待っていた。こういう緊張した時間というものは、案外に長く感じられるものだが、その緊張の長さに耐えかねて、院長の手は硯箱の蓋を無意味に外したりかぶせたり、机の引出しをあけて書類綴りの耳をつまんだり、揚句の果て引出しの一番底から、ごそごそとなにか写真を引っぱり出した。それは一カ月ほど前院長がしまい忘れていた、一葉の猥写真であった。これは先月の経営者会議の時、経営者の一人の食堂経営者が、ヒヒヒと笑いながら黒須院長に呉れたものだ。(こんなところにしまい込んでいたのか) 院長の眼は一瞬あやしく光って、その手ずれのした写真にじっと見入った。白人の若い女と黒人の若い者が、厚ぼったい絨毯(じゅうたん)の上で、裸身のまましらじらとからみ合っている。遊佐爺一行を待つことのじりじりと、写真の姿態のなまなましさがかさなって、やがて黒須院長の額にべっとりと汗が滲み出てきた。足音がざわざわと階段を登ってきた。院長は写真を急いで書類の間につっこみ、引出しをがしゃりと押し込んで姿勢を正した。(栗山書記のやつ、一体何をしてやがるんだろう)院長は掌を下腹にあてて、大きく深呼吸をした。(早く来院しないと、役に立たないではないか。あのウスノロ書記!)扉が外からこつこつと叩かれた。院長は荘重な声を出した。

「はいれ」

 扉がしずかに開かれた。遊佐爺を先頭に、一行はぞろぞろと院長室に入ってきた。黒須院長は眼をかっと見開き、素早く爺さんたちの数を目算した。(七名だな)そう院長が思ったとたんに、ニラ爺が廊下からちょこちょことすべり込み、扉をしずかにしめた。総勢はニラ爺を交えて八人であった。(ニラ爺を別とすれば、院内のアカ爺は、この七人だな。よし、恫喝(どうかつ)と懐柔。この両面作戦と行こう!)

「院長」立ったまま遊佐爺が呼びかけた。「俺たちは会見に来たぞ」

「まあ掛けなさい」黒須院長は壁の方を顎でしゃくった。そこには折畳み式の椅子がずらずらと立てかけてあった。

「ことわって置きますが――」院長卓をさしはさみ、各自椅子に腰をおろしたのを見定め、院長は相手方をいらだたせる戦術に出た。「諸君の話はうけたまわるが、これは正式の会談ではありませんぞ」

「なに。正式の会見でない」滝川爺が声をたかぶらせた。「それは何故だ?」

「何故かと言うと――」院長は落着いた声で言った。「諸君は八人だが、わたしは一人だ。立会人もいなければ記録者もいない。わたしの発言を、諸君がどうにでも解釈するおそれがある。それではわたしの立場はないではないか。だからこれは正式の会談でなく、予備会談ということにする」

「そんな言い分があるか」滝川爺がいきり立った。「俺があんたに会見を申し込んだのは、昼間ことだ。何故立会人の手配をして置かなかったんだ」

「手配はした」黒須院長はますます落着きはらった。「栗山書記に電報を打った。が、まだやって来ない」

「栗山書記でなくとも、立会人は誰でもよかろう」遊佐爺が長老の威厳をこめて発言した。「階下の事務局員でも――」

「事務局員は全部帰宅した」院長は顎鬚を悠然と撫でた。「院内に残っているのは、わたしひとりだ」

 遊佐爺は何か言い返そうとしたが、思い直して、味方をぐるりと見回した。

「院内にはもう誰もいなかったか。誰か見かけなかったか?」

「炊事係の木見婆さんがいたよ」ニラ爺がとんきょうな声を立てた。「さっき、院長室から戻る時、西寮の廊下の方にいたようだった」

「そうか」喜色が遊佐爺の頰を走った。「ニラ爺さん、ひとっ走りして、木見婆さんをつかまえてきて呉れや」

 黒須院長は、余計なことを、といった表情で、じろりとニラ爺をにらみつけた。ニラ爺はその視線に射すくめられて、身体が一回り小さくなった。そのニラ爺の脇腹を、松木爺の拳骨がごくんとこづいた。

「早く行かんか。早くしないと、木見婆さんは帰ってしまうぞ」

「へへえ」

 ニラ爺はつながれた犬みたいに、上目使いに院長をおそるおそる見た。院長は眼をパチパチさせて、顎をぐいとしゃくった。院長のつもりでは、それは木見婆さんを探すふりして、適当な時刻に手ぶらで帰ってこい、という意味だったが、ニラ爺はそれを、早く探して来い、という意味に受取ったのだ。ニラ爺の顔はやや活気づいた。「早く行きなさい」遊佐爺がはげました。

「へえ」

 綱から放された犬のように元気づいて、ニラ爺は立ち上った。そろそろとあとしざりして扉に突き当り、身をひるがえして廊下に出た。その足音が遠ざかるのを待って、遊佐爺は院長の方に開き直った。

「先ず聞きたい。部屋割りくじ引きの期日が、例年より一カ月も遅れている。毎年の例では、梅雨に入る前、すなわち春季大掃除の翌日に、くじ引きが在院者代表によって行われた。それが一体今年はどうなったのか。院長の怠慢ではないのか」

 

 木見婆は夕陽養老院における唯一人の女性であった。九十九人の爺さんに対して一人の婆さんであったにもかかわらず、さしてチヤホヤされることもなく、近頃はむしろ憎まれている傾向すらあった。憎まれている原因は、彼女が炊事婦であるということと、たいへんに肥っているということの二つであった。前者は近頃の院内食事の不味(まず)さにむすびついていたし、後者は彼女が旨いものばかり食っているに違いないという嫉妬にむすびついていた。

(木見婆さんのことを言っちゃあいけなかったのかな。院長が俺をグイとにらんだが)その木見婆の姿を探し求めて、西寮の廊下をふらふらと歩きながら、ニラ爺は考え、

た。(だって、いるものはいるんだから仕方がない。なんぼ沖、横川でも、いるものはいるし、いないものはいないのだ。しかしそれを口に出したのは、まずかったなあ。おかげでまた木見婆探しのお使いには出されるし――)

 木見婆の姿は西寮のどこにも見当らなかった。ニラ爺はまたくたびれた足をとぼとぼと引きずって戻ってきた。そして食堂の調理場の入口に立ち止った。扉に耳をあてて内部の様子をそっとうかがった。内部には電燈がついて、何かコトコトと音が聞えてくる。

「木見婆さん。木見婆さん」

 ニラ爺はそう呼びかけながら、肩で扉をギイと押した。扉には鍵がかけてなかったのだ。すると調理場のすみの薄暗いところから、何かぶわぶわとふくらんだものが、おそろしい勢いで飛んできて、ニラ爺の身体にぶっつかった。ニラ爺はよろめいた。

「駄目、駄目。駄目だってばさ!」木見婆は両手で懸命にニラ爺の肩を突っ張り、外に押し出そうとした。「爺さんたちは調理場に絶対入っていけない決めになってるんじゃないか。早く出なさいってば。院長先生に言いつけるよっ!」

「へっ、へへっ」ニラ爺も両手をあげ、同じく突っ張りをもって応じながら、厭がらせの笑い声を立てた。いつもはカンの鈍いニラ爺が、調理場のすみの状況から、珍しく早くカンを働かせたのだ。「一体、あんたは、こんな遅く、何をしてるんやね」

 調理場の一隅の巨大な米櫃のそばに、袋がひとつ置かれていた。袋は半分ばかり米が充たされ、その横に一升桝(いっしょうます)がころがり、床に米粒がしらじらと散乱している。米櫃から布袋に米をうつす途中、ニラ爺に呼びかけられ、大狼狽したさまが歴然であった。

「ヘヘっ」ニラ爺はなおも突っ張りをつづけながら、笑いを洩(も)らした。相手が木見婆にせよ、とにかく女性ともみ合うことは十何年来のことで、それがニラ爺をその意味で結構たのしませていた。「院長先生に言いつけるなら、言いつけたらいいやないか。こちらは何も困りゃせん。困るのはあんたの方だろう」

 木見婆は突然突っ張りをやめた。ニラ爺を外に突き出しても、現場をすでに見られた以上は、無駄な話であった。

木見婆はせっぱつまって両掌で顔をパッとかくした。肥満して幅の広い顔は両掌にあまった。彼女はそのまま肩をふるわせて、涙をしぼり出そうとしたが、それはうまい具合に行かなかった。一方ニラ爺は立入禁止の調理場の光景を、さも珍しげにニコニコしながら眺め回していた。木見婆は指の間から片目をのぞかせ、ニラ爺の様子をうかがった。そしてまた指を閉じて、声をしぼり出した。

「オウ、オウ、オオウ」

「一人あたり二畳という広さで、一体人間が生活出来ると思っているのか!」遊佐爺は院長卓をばたんと叩いた。「二畳とはたった一坪だ。いくら我々が老人で、しなびているとはいえども、たった一坪では手足も伸ばせないではないか」

「二畳あれば充分だ」院長もすこし声を荒くした。「わたしは一週間前、板橋の養育院に視察に行ってきた。あの施設の良好な都立養育院ですら、一人当り何畳であるか。わずか一・一畳ですぞ。保護課長の談話では、せめて一人当り一・五畳を、さしあたりの理想としているとのことだった。それを、なんですか、あんたがたは。一人当り二畳も占領して、まだ不平を言うなんて!」

「オウ、オオウ、オウ」

 木見婆は涙は出さず、泣き声だけを立てていた。ニラ爺はニコニコと頰をゆるめて、調理場の中をあちこち歩き回っていた。禁断の場所を大っぴらに歩き回るのは、なんといい気持のものだろう。とがめる者はとがめる力を失い、むしろ逆にこちらがとがめる立場に立っているのだ。今日の昼以来さんざんこき使われた恨みも、仲間を裏切った悩みも、これでいっぺんに晴れてしまって、ニラ爺は軽快にスッスッと歩き回った。戸棚の前に立ち止り、砂糖壺から大きな白砂糖のかたまりをつまみ上げ、口の中にぽいとほうり込んだ。純良な甘味がニラ爺の口の中にじわじわとひろがり、舌の根に沁み込んだ。

「旨(うま)いなあ」ニラ爺は舌を鳴らして木見婆の方に振り向いた。「木見婆さん。泣かなくてもいいやないか。特別のはからいで、海坊主には黙っといてやるよ。そのかわり、時には皆にないしょで、俺に砂糖だのカンヅメだの――」

 そしてまたニラ爺は砂糖のかたまりを口の中に投げ込んだ。木見婆は安堵したように啼泣(ていりゅう)を中止して、調理場のすみに行き、大急ぎでこぼれた米粒を拾い始めた。三つ目のかたまりを口に入れ、しゃがみこんだ木見婆を見おろしながら、ニラ爺が言った。

「早く拾い集めるんだよ。早く行かないとまた叱られるからなあ」

「どこに行くの?」木見婆は顔をあげて、乾いた声で言った。

「院長室さ」ニラ爺は指先に付着した砂糖をべろべろと砥(な)め回した。

「今、遊佐爺さんたちと院長とが、会議をやってんのや。それであんたが立会人になるんだよ」

「立会人?」木見婆が不安げに発言した。「立会人って一体なにさ。あたしゃイヤだよ、そんなヘンテコリンな役目」

「そんなヘンテコリンな論理があるか」滝川爺がとげとげしい声を出した。「都立養育院はタダじゃないか。入院費は不要じゃないか。しかるに俺たちは、入院するに当って、ちゃんと入院費というものを支払っている。いっしょにされてたまるか。三畳確保は最初からの約束だ」

「三畳確保は戦前の約束だ」黒須院長は怒鳴り返した。そして引出しから在院者名簿を引っぱり出して、勢いこんでぺらぺらとめくった。

「ええ、ええと、タの部か。滝川十三郎と。滝川十三郎、昭和十七年入月入院か。滝爺さん、あんたは昭和十七年入院で、入院費はその時八百円だ。あの八百円当時の約束が、今でも継続していると思っているのか。常識でもって考えても判る筈だ。ね、その間に日本は負けたんですぞ。日本は四つの島にちぢんだんですぞ。日本がちぢめば、自然とあんた等の住居の広さもちぢんでくる。当然の話ではないか。他のものがすべてちぢんだのに、自分だけ元のままでいようというのは、虫がよすぎるよ。そういう利己心はこの際、一切捨てて貰おう。そうでないとわたしは、あんたがたとお話しは出来ません!」

 [やぶちゃん注:「沖、横山」「13」に出た帝国陸軍のスパイ。]

今日、先生はKと房州旅行に出る――「斯うして海の中へ突き落したら何うする」――「丁度好い、遣つて吳れ」――

Kと私は能く海岸の岩の上に坐つて、遠い海の色や、近い水の底を眺めました。岩の上から見下す水は、又特別に綺麗なものでした。赤い色だの藍の色だの、普通市塲(しぢやう)に上らないやうな色をした小魚が、透き通る波の中をあちらこちらと泳いでゐるのが鮮やかに指さゝれました。

 私は其處に坐つて、よく書物をひろげました。Kは何もせずに默つてゐる方が多かつたのです。私にはそれが考へに耽つてゐるのか、景色に見惚(みと)れてゐるのか、若しくは好きな想像を描いてゐるのか、全く解らなかつたのです。私は時々眼を上げて、Kに何をしてゐるのだと聞きました。Kは何もしてゐないと一口答へる丈でした。私は自分の傍(そば)に斯うぢつとして坐つてゐるものが、Kでなくつて、御孃さんだつたら嘸(さぞ)愉快だらうと思ふ事が能くありました。それ丈ならまだ可(い)いのですが、時にはKの方でも私と同じやうな希望を抱いて岩の上に坐つてゐるのではないかしらと忽然疑ひ出すのです。すると落ち付いて其處に書物をひろげてゐるのが急に厭になります。私は不意に立ち上ります。さうして遠慮のない大きな聲を出して怒鳴ります。纏まつた詩だの歌だのを面白さうに吟ずるやうな手緩(てぬる)い事は出來ないのです。只野蠻人の如くにわめくのです。ある時私は突然彼の襟頸を後(うしろ)からぐいと攫(つか)みました。斯うして海の中へ突き落したら何うすると云つてKに聞きました。Kは動きませんでした。後向(うしろむき)の儘、丁度好い、遣つて吳れと答へました。私はすぐ首筋を抑へた手を放しました。

『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月14日(火曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第八十二回より。太字下線は私が附した)

   *

漱石は論理をこねくる傾向が強く、概して視覚的映像的描出が甚だ上手くないのであるが、このシークエンスは「こゝろ」の中で最も忘れ難い現地ロケの白眉である。

2020/07/13

梅崎春生 砂時計 14

 

     14

 

 牛島は茶碗を手にしたまま、大きなくしゃみを続けざまに二つした。茶碗はその度に上下に揺れ、ウィスキーの相当量を畳にふり落した。足の裏でそれを拭きながら、彼は忌々(いまいま)しげにつぶやいた。

「畜生め。誰かどこかで俺さまの悪口を言ってやがるな」

「悪口のせいじゃないよ」佐介は不機嫌な手付きで窓の方を指差した。「カレー粉だよ。カレー粉のせいなんだ」

「あっ、そうか。カレー粉か。なるほどな」牛島は合点合点して窓を見上げ、小指を鼻孔につっこみ、カレー粉をかき出すようにしながら、鼻声になった。「うん。こんなところに住んでいると、ハナクソが黄色になるだろうなあ。だから早く引越すんだな」

「ハナクソだけじゃないよ。ハナクソだけにとどまるものか。カレー粉は鼻の穴を通過して、咽喉(のど)に行く。咽喉からさらに肺の方にくだって行く。また咽喉から胃に落ちて行く場合も考えられるね。なにしろ空気といっしょだからな、肺も胃もすっかり黄色になっちまう」佐介の口調はすこしずつ熱を帯びてきた。牛島はきょとんとした顔つきで聞いている。「あんな強い刺戟物が、たとえ微量にせよ、毎日々々肺や胃に入って行く。そして臓器の細胞を刺戟する。刺戟した揚句に吸収される。吸収されると肝臓に回る。紙巻煙草の煙ですら、長い間には肺癌(がん)をひきおこすのだ。それより強い刺戟物が、毎日々々遠慮もなく入ってくる。そうすれば一体僕らの身体はどうなるか。ほったらかしてもいいものであるか――」

「そりゃ放っとけないだろな」牛島は電熱器から焼けたパンをつまみ上げ、引裂いて自分の口に投げこんだ。「で、それはやはり、工場の設備が悪いのかね?」

「そうなんだ」佐介はうなずいた。「原料の草根木皮、これを砕くのはウスとキネの器械なんだが、それを混ぜ合わせる作業と小壜(こびん)に詰め込む作業は、これは器械じゃない。手でやるんだ。つまり手工業なんだ」

「じゃ従業員たちもつらいだろう」

「勿論つらいさ。そこで彼等は全員マスクをかけて仕事する。しかしマスクをかけても、カレー粉はやはり侵入するんだな。仕事が終っても咽喉がヒリヒリするそうだ。仕事が終ると、彼等は工場内につくられた風呂に入る。その大きな浴槽の新湯(さらゆ)が、十人も入るとすっかり黄色になってしまうんだ。たいへんなものだよ。そして風呂に入ってゴシゴシこすっても、身体からカレー粉がすっかりなくなるわけじゃない。風呂から上って帰途につく。その途中で汗が出るな。その汗をハンカチで拭くと、ハンカチがやはり黄色に染まるんだよ。つまりこれは、カレー粉が皮膚の表面だけでなく内部にまで浸透している証拠だね」

「たいへんだな」牛島は初めて共感の色を見せた。「そんなところでよく働く気になるな」

「従業員のことはあととして――」佐介は胸ポケットから小さな皮手帳を出して、頁をそそくさとめくった。「その混ぜ合わせ、詰め込みの作業場の窓から、カレー粉が外に流れ出る。ふわふわと流れ出る。もっともカレー粉の全部が流れ出るわけじゃない。成分の中の軽いやつだけだ」

「軽いやつと言うと?」

「一番軽いやつは」佐介は手帳の頁に眼を近づけた。「コショウだ。こいつは一粒五十六ミリグラムしかない。このオッチョコチョイが真先に立って流れ出る。流れ出ては風に乗り、あちこちただよい、他人の家に無断で忍び込み、現にあんたの鼻の穴にまでもぐり込んで、大きなくしゃみを二つもさせた。そういうわけなんだよ」

「ふてえやつだな」牛島は鼻を撫でながら、彼方ガシャガシャ音の方向をにらみつけた。「それにしても、コショウがそんなにオッチョコチョイ野郎だとは初耳だったな。いい学問をした。で、それからどうした。相手の大将と交渉したか。なんならおれが一肌ぬいで、ゆすぶってやろうか」

「駄目、駄目」佐介は忙しく掌をふった。「敵の大将なるものは、そんなカンタンな奴じゃない。修羅吉五郎と言って、ここら一帯のちょいとしたボスなんだ。しなびたような小男なんだけどね。相当の悪者で、前科も三犯か四犯ぐらいはあるらしい。あんたなんかが行っても、逆にゆすぶられちゃうだけだよ」

「あんたなんか、とは何だ!」牛島が聞きとがめて語気を荒くした。「なんか、とは軽蔑の言葉だぞ!」

「失礼しました」佐介は素直にぺこりと頭を下げた。「そして僕らは集まって相談し、代表を選出した。作業場の窓をとざせ。塀を高くしろ。そんないくつかの条項を記した決議文を、工場内の応接間で修羅吉五郎に手渡したんだ」

 佐介は言葉を切って、コップをとり上げた。佐介の顔もすっかりあかくなって、先ほどの疲労の色もほとんど消えている。舌をタンと鳴らしてウィスキーを飲み干した。牛島もそれにつられて茶碗をとり上げながら、話のつづきを催促した。

「それで、断られたか?」

「ううん」佐介は肯定とも否定ともつかぬあいまいな返事をした。

「粉が四散するのは、混ぜ合わせ、詰め込みの作業が手工業のせいなんだ。これを機械で一貫作業にすれば、粉が外に流れ出ることはない。そう吉五郎が言うんだ。そこでこちらは、じゃ、早くその機械を据えつけろと要求した。すると吉五郎の答えは――」佐介はまた手帳の頁をぺらぺらとめくった。「うん。ここだ。ドイツのリッカーマン社の充填機(じゅうてんき)、これを買い込む予定になっていて、これさえあれば飛び散るうれいはない、と言うんだ。何時頃買うんだと質問したら、それが何時か判らんと言うんだよ」

「へえ。そいつはムチャな言い草だな」

「ムチャだろう。だから僕らもカンカンになって、何故判らんのかと、詰問したんだ。すると吉五郎は、これは外国の機械であるからして、通産省に輸入申請しなけりゃならん。ところが輸入申請をするにはしたが、いまだに許可が下りないという返事だ。木で鼻をくくるような答え方なんだ。なんなら君たちの方で、早く許可が下りるように、通産省にかけ合ったらどうだ、などとぬかしゃがる」

「窓をしめろ、という件はどうなった?」

「窓を閉鎖したら、従業員が窒息するからイヤだと言うんだ」

「塀は?」

「塀を高くするには金がかかるし、塀が完成したとたんに充填機が到着したら、工事費が全然ムダになる。その時の保証はどうして呉れると、逆に居直られた」

「うん。なるほどなあ」牛島は感心して首をかたむけた。「向う様にもいろいろと仕事のやりくりの都合があるんだろうなあ」

「そうだ。向うの頭にあるのは、仕事のやりくりの都合だけなんだ」佐介は声を高くした。「ところがこちらは、毎日々々、現実にカレー粉を吸い込まされているわけだろう。任意に吸い込んでいるんじゃなくて、強制的に吸い込まされているのだ。現にあれがカレー工場になって以来、ここら一帯に喘息(ぜんそく)や肝臓病が激増した」

「ふん。じゃ、警察に訴えたらどうだい」警察、という言葉を発音する時、やはり牛島は神経質に眉をひそめ、おどおどと周囲を見回した。「この世に弱味なき人間なし!」

「相手のすべての退路を絶て!」被害者意識から一瞬加害者意識に立ち戻って、佐介も今週の標語を唱和した。「ところがねえ、牛さん、警察は筋違いなんだよ。こういういざこざは、区役所の建築係か、都の建築局設備課、そういうところで処理するんだ。もちろん僕らはそちらにも手を打った。ところが相手はお役人だろう。手続きは煩雑だし、仕事はのろのろしているし、陳情したって一向にらちがあかないんだ。お役所というところは、白川研究所以上にナマケモノぞろいだ」

「何を言ってる。研究所でナマケモノはお前さんだけだ」牛島はきめつけた。「しかしまあ、役人がナマケモノぞろいというのは、俺もまったく同感だな。俺は、昔、子供の頃、都庁、いや、その頃は東京市役所だ、そこで給仕を三年ばかり勤めたことがある。だから役人がナマケモノぞろいだということは、身に沁(し)みて知ってるよ」

「へえ、あんたは給仕をやってたのかい」佐介はもの珍しげに牛島の顔をじろじろと眺めた。「さぞかし可愛い給仕だったろうねえ」

「ああ、実に可愛いもんだった」

 その時佐介はあわててポケットから塵紙を取出し、顎(あご)をだらしなく下げて、大きなくしゃみをした。すると牛島も大急ぎで茶碗を畳に置き、それに唱和した。くしゃみが終ると、牛島はまた窓のかなたをにらみつけた。

「ひでえもんだな。ほっとく手はねえやな、あんなの。取締る法律はないのかい?」

 「そんな法律は、残念ながら、今のところはないのだ」佐介はふたたび皮手帳をつまみ上げて、頁をひらいた。顔を近づけた。「現在、鉱業に対する鉱山法、河川汚染に対する河川法、騒音では各府県の条例なんかがあるにはあるんだが、そいつはみんな散在してるような具合でね、それらの公害を体系づけた法律はまだないんだ。今のところ、被害者が民事訴訟であらそう他はないんだな」

「お前さんの手帳には――」膝を乗り出しながら牛島が呆れたような声を出した。「また実にいろいろなことが書き込んであるんだなあ」

「そうだよ。書いとかないと、忘れてしまうからね。あんたは手帳やメモは使わないのかい?」

「使わないな。使わねえ主義だ」牛島はさげすむように手帳の方を顎でしゃくった。「俺は全部を頭の中にたたきこむ方針なんだ。手帳やメモにたよるから弱くなる。行動的じゃなくなるんだ。お前さんもそんなにせインテリ趣味は早く止めにした方がいいぞ。メモはメモだけに終って、メモ自身からは何もうまれっこないんだぜ。現にお前さんはさっきから、その手帳ばかりいじくって、ここから退いてはいけないなどと力んではいるが、つまるところ力んでるだけの話じゃないか。それにくらべるとこの俺は、さっきからくしゃみを三つしただけで、もうそろそろ本式に腹を立てているんだぞ」

「それはそれとして――」痛いところをつかれて狼狽(ろうばい)しながら、佐介は話をごまかした。「次の国会に、公害法という法案が、あるいは上程されるかも知れないんだ。そういう情報もあるにはあるんだけれどね。それが通れば修羅印カレー工場は、早速その法律に触れることにはなる。もちろんそれまで僕らは手を束ねて待つわけじゃないが――」

「公害法?」

「そうだ。公害法。騒音だの空気の汚染に対する法令だね」

「井戸水の汚れも入るか?」

「もちろんだね。それから放射能汚染。いずれ日本にも原子炉が出来るかも知れないからね」

「もうその手帳はいい加減にひっこめろよ」牛島はうんざりした声を出した。「お前さんが手帳だの脅迫状などを持ち回っているやり方が、俺はほんとに気に食わねえんだ。ついでにそいつも電熱器に乗せて燃しちゃえ」

「飛んでもない」佐介は手帳を閉じて、大急ぎで内ポケットにしまいこんだ。「これを燃しちゃうと大変だ。カレー粉工場の従業員から、苦労して聞き出したメモもあるんだから」

「従業員にも会ったのか」

「そうだよ」佐介は軽くうなずいて、牛島の手首をひょいとのぞき込んだ。「まだ一時間経たないのかね」

「経つわけがあるか」牛島はパッと手首を裏返しにして、腕時計を見せないようにした。「すこし腰を落着けろ。そわそわするな!」

 それから二人は顔を見合わせ、少時(しばらく)黙りこみ、騒音と刺戟臭のただよう部屋の中で、しきりに手や口を動かし、ウィスキーを含んだり、ハムをつまんだり、トマトを齧(かじ)ったり、パンの耳を引裂いて口に押し込んだりした。忙しくその作業に没頭することによって、時間の遅れを取り戻そうとするかのように。――雨は相変らずトタンの屋根を濡らしていた。入口の釘にぶら下げた牛島のレインコートから、土間の空罐に、まだ水滴がチピ、チピと音を立てて落ちている。電熱器のうずまきニクロム線はあかあかと灼け、そこらに電報の白っぽい燃えかすがこびりついている。

(今晩在院者と会見す、とはどういうことだろう?)さっきの電報の内容のことを佐介はちらと思案した。(何か事件でも突発したのかな。会見。黒須院長が会見を中し出たのか、在院者が中し込んだのか。院長の方からだったら、しかし会見とは言わずに、訓示とか引見とかそんな表現をする筈だ。するとやはりこれは在院者が申し込んだものだろう。爺さんたちにも相当に不平家がいるからな。もしかすると在院者たちに、残飯のことが発覚したんじゃあるまいか。そうだとすると、これはちとうるさいぞ)

「で、修羅印カレーの従業員たちは」手近のものをすっかり平らげ、両掌で胃の上を撫でおろしながら、牛島が言った。「そんなイヤな職場で、そんな不健康な場所で、一体どういう気持で働いているんだい?」

「気持?」

「うん。気持だ」牛島の眼は酔いと好奇心のためにキラリと光った。「今時分までガシャガシャやってるところを見ると、奴さんたち、残業をやっているんだろう。定時労働だけでも黄色い汁、いや、黄色い汗が出るというのに、何を好んで残業までする気持になるんだろうな。ライスカレーを三杯食べて、更に二杯詰め込むようなものじゃないか」

「気持じゃないよ。気持だけで仕事なんか出来るものか。わけは簡単だよ。残業手当が多いからだよ」

「いくら残業手当が多いからって――」

「本給がそのかわりに、べらぼうに少いんだよ。若い女工員なんかには、月二千五百円か三千円程度の給料しか支払っていないんだ」佐介は内ポケットに手をやり、無意識裡に手帳をひっぱり出そうとして、あわてて元に押し込んだ。牛島がじろりとにらみつけたからだ。「ええと、労働基準法によるとだね、時間外労働には、定時給のたしか二十五パーセント以上を支給しなけりゃならないことになっている。ところがこの修羅工場では、その倍の五十八パーセントぐらいを払っているんだ。五十パーセントの手当で残業を釣るわけだね。だから従業員たちは、本給だけでは食えないから、自発的に残業をするということになる。無理な残業をして、顔や手足は言うまでもなく、鼻や咽喉や内臓まで黄色になって、まるで人間の形をしたタクアンになって、それでやがては働けなくなり、工場からおっぽり出されてしまう。一人がおっぽり出されれば、また新しく別のが入ってくる。今失業者はうようよしてるからねえ」

「それで、修羅工場の製品は、よく売れてるのかね?」

「うん。相当に出てるようだ。カレー粉なんてものは、料理に使って安上りなものだから、不景気になればなるほど、よく出るものらしいんだ。月給取りだって、シケたやつほどカレーライスをよく食べるものね」

「おい。お前は俺を侮辱する気か」と牛島は口をとがらせた。「俺のことをあてつけて言ってるな」

「いや、そういうわけじゃない」佐介は掌をひらひらと振った。「僕だって、こんなとこに住んでなきゃ、今日の昼飯に富岳軒のカレーライスを食べているよ。富岳軒も修羅印カレーを使っているんだ。この間料理場をのぞいたら、棚の上に修躍印の特大罐が乗っかっていたよ。それを見ただけで、僕は胸がムカムカした」

 くぐり戸をくぐってひとつの足音が、小屋の入口にしのびやかに近づいてきたが、それはガシャガシャ音に紛(まぎ)れて、二人の耳には入らなかった。足音は入口に立ちどまり、少時(しばらく)小屋の内部をじっとうかがっていた。やがて板扉がコツコツと叩かれた。牛島はぎょっとして入口の方をふりむき、片膝を立てて身構えた。身構えたと言うより、遁走(とんそう)準備の姿勢をとったという方に近かった。

「どなた?」と佐介が声をかけた。「どなたさんですか?」

「あたしよ。曽我よ」女の声が戻ってきた。風邪でもひいたようなしゃがれ声だ。「連絡係の曽我ランコよ。入ってもいいですか」

 たてつけの悪い板扉ががたごとと開かれて、若い女の顔が戸外の闇を背景として、しろじろとうかび上った。曽我ランコは紺色のスラックスとチェックのブラウスをつけ、それに番傘を手にしていた。番傘からは雫がぽたぽたと垂れていた。

「ああ、曽我君か」佐介は酔いであからんだ顔色をごまかすように、掌で頰をしきりに撫で回した。牛島はまだ片膝を立て、警戒の色を解かず、曽我ランコの一挙一動を見守っている。曽我ランコはその視線を黙殺して、番傘を板壁の遊んでいる釘につるし、草履を脱いで部屋に上ってきた。穿(は)いていたのは男ものの板裏草履だ。濡れた白い素足がそのまま畳をやわらかく踏んだ。

「会議には欠席するんですか?」

 小机の横にごそごそと膝を折って坐りながら、曽我ランコはしゃがれ声で言った。牛島は警戒の色をややゆるめ、膝を横に寝かせ、また茶碗をとり上げながら、新人者のスラックスの腰の線を横目で眺めていた。スラックスの地は薄く、肉体の線をしなやかに浮き立たしている。牛島はそこから視線をムリに引き剝(は)がして、耐えがたきを耐えるような表情になり、茶碗の中のものをやけにぐっと飲み干した。曽我ランコはよく動く瞳で、そこらのウィスキーや竹の皮や電熱器などを見回した。佐介が口を開いた。

「いや、そろそろ出かけようかと、思っていたところだよ」

「今夜の会合は、昨晩以上にてんやわんやになりそうですよ」曽我ランコはむしろそのことが楽しいらしく、そそのかすような口調になった。「もしかすると今晩、殴り込みということになるかも知れないのよ」

「風邪でもひいたのかい、声ががさがさしているようだが――」佐介はちょこちょこと立ち上り、湯呑みを持って戻ってきて、それに瓶の残りを注ぎ込んだ。曽我ランコの膝の前に押しやった。「梅雨時の風邪はなおらないと言うから、用心したがいいよ」

「殴り込みとは面白いな」牛島が傍でわざとらしくひとりごとを言った。無視されたことも面白くなかったし、佐介がウィスキーを見知らぬ女についでやったことも面白くなかった。(なんだい。もともと俺が買ってきたウィスキーじゃないか)

「風邪の気味もあるけれど」曽我ランコは首をやや傾け、平気で湯呑みをとり上げて唇に持って行った。「今日のお昼、代表の人たちといっしょに、修羅吉五郎に会いに行ったんですよ。だから声が嗄(か)れちゃった」

「なんだい。君もしゃべったのか」

「しゃべったのよ。しゃべらずにはいられないわ。吉五郎の奴、とても図々しいんですもの」ウィスキーが咽喉(のど)にしみたらしく、曽我ランコは軽くせきこんだ。「それにあの応接間でしょう。ここらの空気よりも、カレー粉の含有量がずっと多いのよ。それですっかり咽喉をいためちゃった」

「連中は元気で働いてたかね?」

「ええ。割に元気に働いていた。吉五郎が窓から工場の方を指差して、あんな風(ふう)に工員たちは元気で働いている。今までにうちの従業員でカレー粉で死んだものもいなければ、重病になったのもいない。それだのに塀の外であんた方が大騒ぎするのは筋違いじゃないか、なんて言い出してきたのよ。カレー粉が毒なら、インド人は全部死んでしまう筈だ、なんて言うのよ」

「ムチャを言うなあ。あの工場は、キャラメル工場から転身して、まだ半年しか経っていない。病人や死亡者が出来るのは、今後のことだ」

「そうよ。吉五郎の言い草ったら、そりゃカレー粉を多量に吸い込めば、病気にもなろうし、死にもしよう。でもそれは水なんかと同じで、水だっていっぺんに一斗も飲めば、力道山だって死んでしまう。それと同じことだと言うのよ。そこで許容量という問題になって、吉五郎とあたしたちとずいぶん言い争ったの」

「それでどうなった?」

「なにしろこちらも向うも、カレー粉の許容量については、ハッキリした医学的根拠はないでしょう。だから結局は水掛け論ね。向うでは、印度のタルミ族なんか、三度三度カレーをごしごし食べているが、弱るどころかとても元気だと言うの。写真を持ってきたわ。タルミ族がカレー飯を手づかみでむしゃむしゃ食べている写真よ。こんなに元気で頑丈だと言うんだけれどね、あたしたちが見ると、それほど頑丈には見えないの。やせこけて、肋骨なんかが出ていて、タルミ族の名前通りすっかりたるんでいるんですよ。それを吉五郎に詰間したら、そりゃ見解の相違だって言うのよ。吉五郎の言い分では、この程度に瘦せてるのが本当の健康体で、これ以上肥ったらそれは高血器体質と言って、不健康体だと言うのよ。そして自分の腕をまくり上げて、自分はこんなに瘦せてるけれど、シモの病いをのぞけば、生れてから病気という病気を一度もやったことがない、と自慢をしたわ。そのしなびた腕の上の方に、小さなイレズミが見えたわ。とってもイヤな形のイレズミ!」曽我ランコは顔をやや染めて、眼付きをするどくした。「男ってほんとに下劣ねえ。自分の腕にあんなものを彫りつけるなんて!」

「男にもよりますよ」ウィスキーもなくなって手持無沙汰をかこっていた牛島が、ここぞとばかり口を出した。「下劣な男もいるが、その半面、高尚な男もいる」

「あなた、どなた?」曽我ランコは顔をねじ向けて、牛島をまっすぐ見た。

「これは僕の親類」

「俺は彼のイトコ」

 佐介と牛島は、瞬間に白川研究所員の習性と地金を出して、同時に同じようなウソを言った。曽我ランコは眼をぱちぱちさせた。

「イトコのくせにあまり似ていらっしゃらないようね。あなたの顔は四角だし、栗山さんの顔は南京豆型だし」曽我ランコは視線を佐介に戻した。「どこまでお話したかしら」

「イヤな形のイレズミだよ」佐介が答えた。「ランコさんの口を封じるために、吉五郎はそんなイレズミを見せびらかしたんじゃないかな。あいつのやりそうなことだよ」

「憎いわ、あの男」曽我ランコは騒がしい器械音の方角を見据(す)えた。「そう言い争っているところに、お待ち遠さまという声がして、社員の一人が大皿のカレーライスをささげ持って、しずしずと応接間に入ってきたの。そしてそれを吉五郎の前に置いたのよ。すると吉五郎は、お腹がすいたから失礼いたします、なんてバカ丁寧なあいさつをして、それをむしゃむしゃと食い始めたんですよ。あたしたち、もううんざりしちゃって、そのまま立ち上って帰ってきたの。どうも吉五郎の奸策にひっかかったらしいわ」

「そうらしいね」佐介は手刀で頸(くび)筋をたたきながら、大あくびをした。「昨夜ほとんど寝てないから、実にねむい。でも会議に出なくちゃいけないな。殴り込みなんかになるとたいへんだ。殴り込みはいけないね。ねえ、牛さん、つき合いはこれくらいでいいだろう」

「そうだな」牛島はとろんとした眼で腕時計を見た。「もう許してやることにしよう。そして俺も会議に出席させて貰うぜ」

「まだくっついてくるのか」佐介は嘆息した。「これは、ここらへんの住民だけの問題だから――」

「いや、イトコの問題は、同時に俺の問題だよ」牛島は頑張りの気配を見せた。自分が何をやりたいかという方途を失ったことにおいて、牛島はあきらかに頽廃していた。

「それに俺は昔から、殴り込みなどということは、大好きなんだ。放って置くわけには行かない。それに、何かネタがころがっているかも知れないし」

「この方、新聞記者?」曽我ランコが聞きとがめた。

「いや、そんなんじゃないよ」佐介は急いで口をさしはさみ、電熱器のスイッチを切って立ち上った。「ランコさんは人を憎むと、とたんに生き生きとしてくるようだね。ふしぎだね」

「あたし、生れつきそうなのよ」

 曽我ランコも立ち上った。曽我ランコは佐介と同じくらいの背丈があった。スラックスに包まれた腰から脚は、女猛獣使いのそれのように、たくましくしなやかであった。牛島はまぶしくそれを見上げながら、つづいてごそごそと立ち上った。

「考えてみると、あたし、いつも誰かを憎んでるの。誰かを憎んでないと、気ぬけがして、ぼんやりなっちまうんです。へんなのねえ」

[やぶちゃん注:「12」の続きであるが、そのエンディングの牛島の「A金庫の鍵型をとった犯人は、」「鍵型をとった謎の人物は、いいか、性根を据えて答えるんだよ、あれは、お前さんだろう。お前さんだな!」という詰問に対する佐介の応答がない形で始まっている。談話の様態から佐介は否認したと読めるが、ちょっと読者にとっては不親切で不満である。

「ドイツのリッカーマン社の充填機」薬剤充填機や食品包装機を製造する産業機械メーカーとして実在する。一八九二年創業。綴りは「Rieckermann」か。

「公害を体系づけた法律はまだないんだ」日本の四大公害病である水俣病・第二水俣病(新潟水俣病)・四日市ぜんそく・イタイイタイ病の発生を受けて制定された公害対策(当該法では「公害」を大気汚染・水質汚濁・土壌汚染・騒音・振動・地盤沈下・悪臭の七つを「公害」と規定していた)に関する日本の基本法である「公害対策基本法」は昭和四二(一九六七)年八月三日に公布されて同日施行した。後の平成五(一九九三)年十一月十九日の「環境基本法」施行に伴い、統合されて廃止された(「環境基本法」では「公害」の定義を『環境の保全上の支障のうち、事業活動その他の人の活動に伴って生ずる相当範囲にわたる大気の汚染、水質の汚濁(水質以外の水の状態又は水底の底質が悪化することを含む)、土壌の汚染、騒音、振動、地盤の沈下(鉱物の掘採のための土地の掘削によるものを除く)及び悪臭によって、人の健康又は生活環境(人の生活に密接な関係のある財産並びに人の生活に密接な関係のある動植物及びその生育環境を含む)に係る被害が生ずること』を指したが、福島第一原子力発電所事故による広範な放射能汚染を契機として、平成二四(二〇一二)年九月十九日に本「環境基本法」が改正施行されて、それまで適用除外とされていた放射性物質を公害物質と位置づけることとなっている)。ウィキの「公害対策基本法」他に拠る)。佐介は「次の国会に、公害法という法案が上程されるかも知れない」と言っているが、本作の初出は昭和二九(一九五四)年八月で、「公害対策基本法」十三年後のことであり、「放射能汚染」とも佐介は挙げているが、それが公害と規定されたのは実に五十一年後となった。

「竹の皮」見かけることが少なくなったが、筍(たけのこ)の外側を鱗片状に包んでいる皮で、表が斑模様になっており、食べ物などを包むのに用いる。「11」で佐介は肉屋に寄っているが、肉屋で嘗ては今もよく使われている。

「高血器体質」ママ。誤植とか誤字ではなく、高血圧器質体質の略のつもりであろう。

「シモの病い」性病の淋病であろう。]

梅崎春生 砂時計 13

 

     13

 

 東寮のどん詰りの部屋で、ニラ爺の指圧の親指が、遊佐爺の背中に最後の一押しを加えた時、階上の院長室では、黒須院長が告示文の筆をおき、巨大なハンコをぺたりと押し終えたところであった。

 楷書の各字のはしばしが躍るようにはね上っているのは、黒須院長の胸の怒りであり、感情の乱れのゆえであった。ハンコを投じ、じっと自分の字に見入った院長ののど元に、やがてにがい侮いと恥じがじわじわとこみあげてきた。

「ああ、こんなに書体が乱れるとは、まだまだわしも精神修養が足りない」回転椅子をぎいと鳴らしながら院長はつぶやいた。「この告示文は、とても人前には出せん。書き直すとするか」

「ああ、いい気持だった」遊佐爺はがさがさと起き直り、衣服の乱れをととのえた。「今夜の指圧は、とてもよく利(き)いた。これで元気が出てきたぞ。ニラ爺さん。指圧代はツケにしといてくれや」

「この前の分も、前々の分もまだ貰ってないで」ニラ爺は疲れたような情ない声を出した。「煙草代にも不自由――」

「今ここに持ち合わせがない。部屋に戻ったら払う!」そして遊佐爺は、窓ぎわに立つ見張り爺に声をかけた。「院長室はどうだね」

「異状なし」

「動き回る気配なし」

 見張り爺の声が、直ちに戻ってきた。

「よし。それではそろそろ、行動を開始するかな」遊佐爺は重々しくしわぶいて、部屋の中をぐるりと見回した。「いきなり会見に出かけるよりも、先ず使者を一人出して、通告させた方が、重みがついてよかろうと思うが、どうだな」

「うん。それがいいな」滝川爺が同感の意を表した。「俺が行こうか」

「いや、滝爺さんよりも――」遊佐爺の視線はふたたび部屋中をひと回りした。なにごとかを予感したかのように、ニラ爺は肩をすくめて躰(からだ)を小さくした。その動作がかえってニラ爺の存在を遊佐爺に教えたようなものであった。遊佐爺は言葉をついだ。「ニラ爺さんの方がよかろう。かんたんな仕事だから、ニラ爺さんにも結構つとまるだろう」

「へっ」ニラ爺は更(さら)に身体を縮めた。

「ニラ爺さん」と遊佐爺は呼びかけた。「たびたび御苦労だが、院長室におもむいて、今から一同会見したいと思うが、都合はどうだと、海坊主に訊(たず)ねてくれ。そら、お駄賃に、煙草を一本やる。ピースだぞ」

「へっ」ニラ爺は煙草を受取り、火をつけて旨(うま)そうに吸い込んだ。

「都合はどうだ、などとはなまぬるい」部屋のすみからウルサ型の柿本爺が異議をとなえた。「会見に行くから用意をととのえておけ、そう言うのが本筋だ」

「そうだ。そうだ」松木爺が賛成した。「茶菓の用意ぐらい、向うにととのえさせるべきだ。なにしろ重要会談だからな」

「海坊主は相当なしたたか者だから、会見日時の変更を申し出るかも知れない」そして柿本爺はニラ爺を見据えるようにした。「ニラ爺さん。会見の目取りを明日にしてくれとか何とか、海坊主が言い出したら、絶対にダメだと答えるんだよ。即刻会見だ。判ったな。向うにそれを承知させるまでは、戻って来てはいけないぞ。さ、元気を出して、直ぐ出かけなさい。なに、相手を海坊主と思うから怕(こわ)いような気分になるんだ。影法師だと思えば何でもない。影法師と思うんだよ、影法師と!」

「へえ、影法師」

「そうだ。影法師だ」遊佐爺が口をそえた。「影法師で、でくの棒だ。恐れずひるまず、堂々と出かけなさい」

「へっ」ニラ爺は煙草をごしごしともみ消し、吸いがらを耳に大切そうにはさんだ。困惑したような立ち上り方をした。

「しっかりやってくるんだよ。首尾よく使命を果たしたら、またピースを一本上げるからな」

「へえ」入口のところでニラ爺は立ちどまり、一同をふり返って、何か言おうとしたが、そのまま諦(あきら)めたように顔をゆがめて、その姿は廊下に消えた。

「使う。使う」廊下をぼとぼとと足をひきずって歩きながらニラ爺はつぶやいた。「偵察には出されるし、使者には出されるし、ついでに指圧もさせられて、そのお代はツケとくるしなあ。もしこの俺が雑巾だとすれば、とっくの昔にすり切れてるわ」

「どうもニラ爺の奴はたよりないなあ」足音がすっかり遠ざかって消えた時、滝川爺が嘆息して言った。「一体あいつは何を考えているんだろう。俺たちが動かなきゃ、あいつは追い出されてしまうのになあ」

「ほんとにたよりない」松木爺が相槌(あいづち)を打った。「筋金というものが全然入っていない。まるで人生の落伍者だ」

「今夜の交渉委員にニラ爺を加えるのは」と滝川爺。「わしは反対だ。あんなのを加えたって、何の役にも立たんぞ」

「まあ、いいさ」と遊佐爺がなだめ役に回った。「だんだんやっているうちに、少しずつシャンとしてくるさ。交渉委員にも入れて、空気に馴れさせた方がいい。おい、見張り爺さん、まだ院長室に到着した気配はないか」

 ニラ爺は手すりにすがって、階段を力なく登っていた。疲れのせいでもあったが、黒須院長に会って話すことを考えると、とたんに足から力が抜けてしまう。手すりは湿気と脂(あぶら)でじとじとしていた。ニラ爺はそれにすがって、やっと二階の床面を踏んだ。遊佐爺が見張りにまた声をかけた。

「まだか」

 黒須院長は院長卓に頰杖をつき、視線を宙にぼんやりと浮かせていた。さっき大串の鰻(うなぎ)を詰めこみ過ぎたので、その満腹感がしきりにねむけを誘ってくるようであった。告示文を書き直すのも面倒くさかった。その時、扉をコツコツと叩く音がしたので、黒須院長はハツと頰杖を外し、大急ぎで威儀をととのえた。

「栗山書記か?」と院長はいかめしい声を出した。「電報を見たか。入れ」

 扉の外からぼそぼその答えが聞えた。それは栗山佐介書記の声ではなかった。院長はさらに声を大きくした。

「誰だ。入れ」

 ノブがゆっくりと回り、扉が半開きにされて、そこからニュッとニラ爺の顔がのぞきこんだ。ニラ爺は顔だけのぞかせて、身体の方はおどおどと逃げ腰のかまえになっている。

「なんだ。ニラ爺さんか」拍子が抜けたように院長は言った。「何か用事か。入っておいで」

 ニラ爺は身を横にして部屋に入り、扉をしずかにしめた。扉をしめたとたんに、ニラ爺の度胸はやや定まった。扉をしめた以上は、使命を果たさねば東寮に戻れない。ニラ爺は勇気を出してつかつかと院長卓まで歩いた。椅子にちょこんと腰をおろし、卓をはさんで院長とむかい合った。東寮の階下の部屋で、見張り爺が叫んだ。

「今入って行ったらしい。窓に影が動いたぞ」

「院長室まで行くのに」松木爺がにがにがしげにはき出した。「一体何分(なんぷん)かかるんだ。這って行くんじゃあるまいし」

 ニラ爺は耳からピースの吸いさしを外し、気持をはげますために口の中で、影法師、影法師、とつぶやいてみた。そのニラ爺の一挙一動を、黒壕院長は眼をするどくして、黙って観察している。ニラ爺は勇気をふるって、わざと乱暴な言葉使いをした。

「院長。マッチを貸して呉れ」

(怒るな。怒るな。怒ると失敗するぞ)黒須院長は心の中で念じながら、唇を真一文字に閉じ、手元のマッチをぽいと放り投げた。それはさっきの鰻屋の広告マッチで、鰻が三匹にょろにょろ這(は)っている絵が印刷してあった。(ニラ爺はきゃつ等の手先だ。慎重に、慎重に!)

 ニラ爺はマッチを手にして、吸いさしに点火した。緊張のため手がふるえている。ゆたゆたと煙をはきながら、院長と同じやり方で、ニラ爺はぽいとマッチを投げ戻した。そしてその時初めて、ニラ爺は卓上に拡げられた告示文を見た。そのはねおどるような文字の羅列と朱色の院長印を見た時、ニラ爺はもう目がくらくらして、思わず大声を出した。

「院長!」ニラ爺は防禦と威嚇(いかく)をかねて、やせた肩をぐいとそびやかした。「院長はどうあっても、この俺を、ここから追い出すつもりか」

 告示文をさしはさんで、巨軀魁偉(きょくかいい)の黒須院長と小軀矮身(わいしん)のニラ爺は、一瞬緊張してじっとにらみ合った。

「そのつもりでない」三十秒ばかりの沈黙の後、黒須院長は意識的にすご味をきかせて、ゆっくりと発言した。「わたしの要求するところはリヤカー弁償金の支払いだ。一万二千円さえ納めてくれれば、誰も出て行けとは言わないのだ」

「一万二千円!」ニラ爺の声はふるえて、そのまま絶句した。

「そうだ」黒須院長は重々しくうなずいた。「一万二千円だ」

 ニラ爺の無理にそびやかした肩が、見る見るうちになだらかになり、膝に乗せた双の掌がぶるぶるふるえ出した。悲哀と絶望がニラ爺をうちのめした。ニラ爺の眼にあふれてくる粘密度のうすい涙の色を黒須院長は冷静な視線で観察していた。涙はとうとう筋になって、皺(しわ)くちゃの頰をすべり落ちた。

「用事はそれだけかね?」院長もやや心を動かされたらしく、語調をやわらかにした。

 その声でニラ爺ははっと本来の使命を思い出し、掌でごしごしと頰の涙をぬぐいとった。

「今直ぐに、遊佐爺さんたちが、ここに会見にやってくるよ。用意をととのえなさい」

「なに?」院長はちょっと戸惑った。「ニラ爺さんはそれをわざわざ注進に来たのかね?」

「そうだよ」

「そりゃ有難う」黒須院長はそれを、ニラ爺の親切心とかんちがいして、ニコニコしながら声を更(さら)にやさしくした。

「用意はあらかたととのっているよ。あとは栗山書記の到来だけだ」

「お茶にお菓子、そんなものを用意しとけって、松木爺さんが言っとったよ」

「なに?」いったんゆるめた頰の筋肉を黒須院長はぐっと引きしめた。「お前さんはあいつらのお使いでやって来たのか?」

「そうだよ」ニラ爺は手にしたピースの吸いさしを、巨大な灰皿の中に投げこんだ。吸いさしはさっきの涙で濡れ、火もすっかり消えて、吸えなくなっていた。

 黒須院長は牛のようなうなり声を発した。そして探るようなきびしい視線でニラ爺を見た。ニラ爺も影法師、影法師と念じながら、勇気を出して見返した。やがて院長が口を開いた。それは堅い、押しつけるような声であった。

「栗山書記が来てから、会談を開く。それまでは会談に応じられないと、そう皆につたえておけ」

「それじゃあ困るのや」押されてはならじと、ニラ爺はなだらかな肩を、テコでも入れたようにぐっとそびやかした。「それでは俺はみんなのところに戻れん」

 そのままの姿勢で一分間ほど、大きな壮者と小さな老者は、黙ってお互いの顔を見詰め合っていた。その一分の間に、黒須院長の胸の中で、あるたくらみがハッキリと結実した。院長の表情はとたんに老獪(ろうかい)なゆるみ方をした。

「なあ、ニラ爺さん」

 院長は猫撫で声で呼びかけ、詰襟服のポケットから煙草を出し、身ぶりでそれをニラ爺にすすめた。ニラ爺は手を出さず、警戒の色をとかなかった。やむなく院長は一本引き抜き、自分でそれを吸いつけた。

「ここを追い出されたくないというあんたの気持は、わたしにも良く判っている。それにリヤカー破壊は、あんたの悪意ではなく、過失じゃな」

「そうだよ」

「その点においてだね」院長はわざとらしく目尻を細くした。「情状酌量の余地があるということを、わたしは明日の経営者会議において、経営者たちに力説しようかと思っているんだ。幸いにその説が通ったならば、あんたは退院しないですむわけだ」

 ニラ爺さんはきょとんとした顔で院長を見た。

「この告示文も――」院長は告示文をがさがさと畳みながら「それまでは掲示しないことにしよう。そして階下の告示文は破り捨てることにする」

「へえ」ニラ爺はわけも判らないまま、かすかに頭を下げた。

「さっき見たが――」院長の声はますますやさしくなった。「階下の掲示に、小学生みたいないたずら書きのあとがあったな。無邪気な爺さんもあればあったものだ。はっはっはあ」

 院長は高笑いをしながら、ふたたび煙草の箱をぬっと突き出した。ニラ爺はつられたように一本引抜き、ちょっと押しいただいた。院長は素早くマッチをすり、腰を浮かせてニラ爺の方にさし出した。

「年をとると、皆童心にかえる。大へんいいことだなあ」ますます好機嫌な表情に院長はなった。「時に訊ねるが、あの、海坊主、というのはどういう意味だね?」

「へえ」ニラ爺の顔はとたんに困惑の色をたたえた。「ヘヘ、ヘヘヘ」

「な、どういう意味か、あんた知っとるだろう」

「そ、そこにいるやないか」

「どこに?」ぎょっとしたように院長はあたりを見回した。

「そ、そこだよ」ニラ爺は院長を真正面から指差した。「そこに坐ってるやないか」

「わ、わたしのことか!」

 院長のこめかみの血管がたちまち怒張した。しかし院長の表情は、おどろくべき自制力によって、依然たるやわらぎを保持していたのだ。青筋を立てたまま院長はニコニコ笑っていたのだ。

「そうか。わたしのことか。なるほどな、海坊主とはよく

言ったもんだ。ハ、ハ、ハ」

「ヒ、ヒ、ヒ」とニラ爺も笑いの合唱に加わった。

「ついでに聞くが、書いたのは誰だね?」

 ニラ爺は突然笑いをおさめて、ふたたび警戒の色を取り戻した。そして煙草をごしごしともみ消した。沈黙が来た。

「ニラ爺さんは、沖禎介――」すこし経ってやや沈痛な調子で院長が切り出した。「沖禎介、横川省三という人を知っているだろう」

「ロシヤ軍に、殺された、人だろう」ニラ爺は記憶を探りながら、とぎれとぎれに答えた。「わしはその頃、たしか小学生、だった」

「そうだ」院長は大きくうなずいた。「このおふた方は日本帝国のために、ロシヤ軍の後方に潜入して敵情を探られたのだ。その結果、チチハル付近にて不幸にもとらえられ、明治三十七年二月、ハルビンにおいて銃殺をうけられた。自分をむなしくして国に殉死(じゅんし)せられた、まことに立派な人たちだ」

「へえ」

「もし今も生きていられれば、是非ともこの夕陽養老院に御入院下さいと、お願いしたくなるような見事な人たちだ」そして院長は急に声をひそめた。「この夕陽養老院にも、ごく少数ではあるが、たとえばパルチザンみたいな悪い考えをもった爺さんがいる。わたしが追い出したく思っているのは、あんたみたいな善良な爺さんではなくて、むしろこの人たちなのだ。判るね」

「へえ」怪訝(けげん)そうにニラ爺は顔を上げた。

「だからこそわたしは、明日の会議において、あんたの無罪を主張するつもりなのだ。わたしに任せなさい」院長は自分の厚い胸をどんとたたいた。胸板はたのもしげな音を立てて鳴った。「そのかわりにあんたは、夕陽養老院のために挺身して、沖、横川になって貰いたいのだ。なってくれれば、もちろん在院は保証するし、毎日の煙草代ぐらいは支給するよ」

「まだ動く気配はないか」松木爺がいらいらした声で言った。

「まだそのままだ」と見張り爺。

「一体何をしてやがるんだろう」

「うまくまるめこまれてるんじゃなかろうか」

「きっと頑張っているんじゃよ」遊佐爺が弁護役に回った。「承知させるまでは戻ってきちゃいかんと、柿本さんが釘をさしただろう。だからニラ爺さん、必死に頑張っているんだろう。人間というものは、わしの七十八年の経験によると、その気になればシャンと性根が入るものだ。どれどれ、わしが今度は見張りに立とう」

 遊佐爺は立ち上ってウンと腰を伸ばし、窓ぎわに歩み寄った。しとしとと降る雨のかなたに、院長室の曇りガラスの窓が煙っている。その乳色の窓に、動くものの影はなかった。

「へえ……オキ……ヨコガワ」

 ニラ爺はとぎれとぎれにつぶやいた。そのニラ爺の顔を、犬の調練士のような緊張した視線で、黒須院長は見守っていた。

「そうだ。沖、横川だ。正義殉国の士だ」院長はそそのかすように語調を強めた。「あの、海坊主、と落書きしたのは、誰だね」

「へえ」苦悶と昏迷の影がニラ爺の顔を一瞬よぎった。

「へえ、あ、あれは、松木、爺さん」

「もひとつの、なんとか横暴、というやつは?」と院長はたたみかけた。

「遊、遊佐爺さんです」

「よろしい」莞爾(かんじ)たる微笑がほのぼのと院長の面(おもて)にのぼってきた。院長は満足げに顎鬚をしごき、声を低くした。「今から情報蒐集(しゅうしゅう)、秘密探知の要領、それをこちらに伝達する要領を教えて上げよう。椅子を持って、こちらに回ってきなさい。くれぐれもこのことは秘密にしておかねばいけないよ」

 ニラ爺さんの顔は、仲間を裏切ることの緊張のために、一面に汗の玉がふき出ていた。言われた通り椅子をかかえて、大きな院長卓をよたよたと回った。幸いに回ったのは窓ぎわの方ではなかったので、曇りガラスに影をうつさずにすんだのだ。

「まだそのままか?」待ちくたびれて柿本爺がうんざりした声を出した。「ニラに任して置いたら果てしがない。そろそろ勢ぞろいして出かけようじゃないか」

「まあ待ちなさい」窓ガラスに頰を押しつけたまま遊佐爺が言った。「これはニラ爺さんの初の大仕事だぞ。大仕事であるだけに、わしは完遂させてやりたいと思う。完遂するのとそうでないのとは、今後のニラ爺の仕事の自信にも、大いに関係してくるからな。もう少し待ってやろうじゃないか」

 院長室では院長とニラ爺が、大きな顔と小さな顔、脂(あぶら)ぎった顔としなびた顔を突き合わせるようにして、しきりに密談にふけっていた。もっともしゃべっているのは院長の方だけで、ニラ爺はほとんど口をきいていなかった。ニラ爺は苦しそうに、また迷惑そうに、しきりに貧乏ゆすりをしながら、放心した視線をあちこちに動かしていた。

[やぶちゃん注:「沖禎介」(おきていすけ 明治七(一八七四)年~明治三七(一九〇四)年)は明治期の諜報活動家(スパイ)。長崎県平戸市出身。東京専門学校(現在の早稲田大学)中退後、横浜で貿易業に従事していたが、明治三四(一九〇一)年に中国に渡り、北京の日本語学校東文学社の教師となり、明治三六(一九〇三)年には自ら文明学社を設立した。明治三七(一九〇四)年、日露戦争開戦に際しては民間人ながら陸軍の特務機関に協力し、ロシア軍の輸送路破壊工作に従事する。横川省三とともにラマ僧に変装して満州に潜伏しているところをロシア兵に捕獲され、ハルピン郊外で処刑された。処刑に際して当初は絞首刑が予定されていたが、彼らの態度が立派だったため、現地の司令官がロシア皇帝ニコライⅡ世に請願して銃殺刑に変更されたとされている(以上は概ねウィキの「沖禎介」に拠った)。

「横川省三」(よこかわしょうぞう 元治二(一八六五)年~明治三七(一九〇四)年)は明治期の新聞記者・スパイ。南部盛岡藩出身。初名は勇治で、勇次のペン・ネームで活動することもあった。旧姓は三田村・山田(兵役逃れの目的で「徴兵養子」となったため)。若い頃には自由民権運動に加わり、「加波山事件」(明治一七(一八八四)年九月に発覚した、民権運動を厳しく弾圧した栃木県令三島通庸らに対する爆殺暗殺未遂事件。事前に発覚)により投獄された。また、明治二〇(一八八七)年には「保安条例」施行に伴い、自由民権運動家伊東圭介(後に衆議院議員)とともに皇居周囲三里以内からの追放を命ぜられている。その後、『朝日新聞』記者として、海軍軍人郡司成忠の千島列島探検隊に同行した特派員や、日清戦争の従軍記者などで活動をしたが、その後は記者を辞め、アメリカでの農園経営やハワイ移民の斡旋などに携わった。日露戦争開戦に際しては、北京公使館の内田康哉(やすや)清国公使に招かれ、青木宣純陸軍大佐率いる特別任務班のメンバーとなり、沖禎介とともに特殊工作に従事した。ロシア軍の東清鉄道(ロシア帝国が満洲に建設した鉄道路線。満洲里からハルビンを経て綏芬河(すいふんが)へと続く本線及びハルビンから南下して大連・旅順へと続く支線からなる。ロシアは先の日清戦争直後の日本による遼東半島領有を三国干渉で阻止した見返りとして一八九六年に清の李鴻章から満洲北部の鉄道敷設権を得ることに成功していた)爆破任務のため沖とともにラマ僧に変装して満州に潜伏したが、チチハルにて捕縛され、ハルピンで沖とともに銃殺刑に処された(以上も概ねウィキの「横川省三」に拠った)。]

2020/07/12

梅崎春生 砂時計 12

 

     12

 

 小さなくくり戸を窮屈にくぐり、まっくろに湿った地面を四五歩あるくと、そこにその家の離れの入口があった。離れといっても、納屋(なや)を改造して畳を敷いただけのもので、床を低く、屋根はトタンで葺(ふ)かれていた。雨声がそのトタンの上でかすかに鳴っている。手さぐりでその入口まで来た時、牛島はやっと佐介の肱(ひじ)を自分の掌から解放した。

「暗いな」

 放した掌の各指をいたわるように屈伸させ、牛島は顔を左右に動かして、分厚(ぶあつ)な闇を嗅ぐようにした。たてつけの悪い扉を、佐介は力をこめてガタピシと押しあけた。

「いま電燈をつけるよ」

 佐介は土間に靴を脱ぎ、ふたたび手探りで部屋の中に入って行った。牛島は表の闇に棒杭のように立ち、まだ闇にむかって鼻翼をびくびくうごめかしていた。そして呟(つぶ)いた。

「うん。相当ににおうもんだな」

 ねっとりとただよい流れるものは、まさしくカレー粉のにおいであった。道ひとつ隔てた向うの板塀のかなたから、湿った空気をゆるがして、ガシャ、ガシャ、ガシャと金属と金属がぶつかり合う音が、間断なくひびいてくる。それも一つや二つの金属ではなく、何十という固いものが一斉に衝突し合う音である。鉄の靴を穿(は)いた数十の人造人間が、大きな鉄板の上で早足行進をしている。そういう単純な幻想が、その時ふと牛島をとらえた。牛島はそれにおびえて二三歩闇の中をあとしざりした。スイッチをひねる音と同時に、電燈の光が納屋からサッと流れ出た。光に額をひっぱたかれて牛島は眼をパチパチさせた。

「まあ上れよ」部屋の中から佐介が言った。

 牛島は身ぶるいをひとつして土間に足を踏み入れ、おもむろにビニールの頰かむりを外(はず)し、次にレインコートを脱いで、粗(あら)い板壁の釘に並べてぶら下げた。裾からぼたぼたと滴が土間に落ちる。佐介はそれを気にして、罐詰の空き罐をそこに据えた。水滴はチピ、チピ、チピと罐の底にはねた。佐介の眼は、ぶら下げられたレインコートの、裾のかぎ裂きを見ていた。

「やはり――」身体を起しながら佐介はうす笑いと共に言った。「ロケーション先には行かなかったんだね」

「行かなかったよ。なぜ?」

「いや、なんでもない」

 牛島は靴を足から引き剝がし、ついでに濡れた双の靴下もべらべらと剝ぎ取った。裸の足の裏の皮膚は、一面になま白く、気味悪いようにふやけていた。牛島は忌々しげに舌打ちしながら、靴下を束ねて力まかせにしぼり上げた。青黒いしずくがそこからたらたらと土間に垂れ落ちた。しぼり上げた靴下はそのまま並んで釘にぶら下げられた。粗板壁にはパチンコ台みたいに無数に釘が打ちつけられていて、まだ遊んでいる釘もたくさんあった。

「あれが、その音かい?」

 ガシャガシャ音の方向を顎(あご)でしゃくりながら、牛島はのそのそと部屋に入ってきた。部屋といっても、柔道場で使用するような縁無し畳が六枚敷いてあるだけで、押入れもないから、壁際には寝具や行李(こうり)類がはだかのまま積み上げられている。部屋の真中には、小机が一つ置かれていた。机の上には小さく折り畳まれた紙片がぽつんと乗っていた。

「そうなんだよ。ここでは僕は被害者なんだ。大した被害者なんだよ」片づけようとした卓上ピアノを畳の上に戻し、佐介は不審そうに紙片をつまみ上げながら言った。

「研究所では一応、加害者の立場に立っているんだけどね」

「きっぱり加害者とも言えないぜ」牛島は机の前に大あぐらをかき、手刀で頸筋をトントンと叩いた。「加害者、加害者といい気になっているうちに、いつの間にか被害者の方に回っているかも知れないよ」

 つまみ上げた紙片は電報であった。佐介はそれをがさがさと拡げて読んだ。

 

 『コンバンザイインシヤトカイケンス」キロクノヒ
 ツヨウアリ」スグライシヨセヨ」クロスゲンイチ』

 

「ムリを言ってるよ」佐介は電報をぐしゃぐしゃに丸めながら呟いた。「隔日務という初めからの約束じゃないか。それをこんな雨の夜に、カレー粉会議もあるというのに――」

「何をぶつくさ言ってるんだ」牛島は佐介をじろりと見上げた。駅で侍ちぼうけを食わされた不機嫌な後味が、まだその牛島の頰骨に残っていた。「今丸めたのは、何だい。脅迫状か?」

「脅迫状じゃない。電報だよ」佐介はそっけなく答えた。

「あんたとは関係ないことだ」

「どれ」

 牛島の右手が突然カメレオンの舌のように素早く伸びて、次の瞬間電報は牛島の掌におさまっていた。佐介はあわててそれを取り返そうとしたが、牛島はそうさせないために、蟹(かに)のようにぐっと肩肱(ひじ)を張り、がさがさと拡げて大急ぎで黙読した。

(こいつも強引(ごういん)で身勝手だが――)電報を取り返すことをあきらめ、卓上ピアノを畳から行李の上に移しながら、佐介は考えた。(黒須玄一というのも、まったく強引で身勝手な人物だな。あれじゃ俺も爺さんたちに同情するよ。あそこでは俺は傍観者であろうと思っていたんだが、その立場もれいによってひっくり返るかなあ)

「何だい、一体、こりゃあ」電文の意味を判じかねるらしく、牛島は首をかたむけた。「クロスゲンイチてえのは、誰のことだい?」

「僕の別口(べつくち)の勤め先の大将だよ。それの呼出し電報だ」

「別口とはうめえ世渡りを考えたもんだな。二枚鑑札というわけか。で、今夜行くのか?」

「行かないよ。カレー粉対策協議会があるんだもの」佐介も疲れたように小机の前に横坐りになり、ふくらんだ皮鞄を引き寄せた。「さあ。早いとこ食事を済ませて、出かけなくちゃあ」

「そんな身勝手な言い草があるか」牛島は眉の根をぐっとふくらまし、ドスでも引っこ抜くような格好で、ポケットからウィスキーの瓶をぐいと引出した。「お前さんはおれと待ち合わせる約束をして、平気な顔で一時間も遅刻した。その上その俺を置きざりにして、カレー会議には定刻に出席するつもりか!」

「そういうわけじゃないけれど」佐介は困って鞄の上で指をもじもじ動かした。「会議というものは大切だからねえ」

「じゃあ俺との待ち合わせは、大切でないのか」牛島の眉の根はさらにふくらみ、かすかにくろずんだ。それは憤怒というよりも、善良なる魂の孤独、とでも言ったものを感じさせた。「それじゃあ俺の立つ瀬はないじゃないか。ちったあ人の身にもなって考えろ」

「ではどうすればいいんだね?」

「とにかくコップを二つ持ってこい」牛島はおごそかな声で命令した。「一切はそれからの話だ」

 佐介はちょっとためらい、そして立ち上った。部屋の隅の棚に行き、飯用の茶碗と合成樹脂のコップを持って、机の前に戻ってきた。コップの方にはところどころ白い練歯磨が付着している。それもかまわず牛島は両方の器(うつわ)にウィスキーをとくとくと注ぎ、茶碗の方を抜け目なく自分の前に引き寄せた。そして佐介の鞄を顎でしゃくった。素直に器を持ってきたことによって、牛島の怒りとやるせなさは、やや和(なご)んできたようであった。

「プレスハムとトマトを出せよ。ハム三十匁とはケチな買い方をしたもんだな。そんなことじゃとても大人物にはなれないぞ」そして牛島は茶碗を唇に持って行き、ごくりと一口飲んだ。「ついでにパンも切れや。とにかく俺はものすごく腹が減っているんだ。富岳軒のカレーライスは、まったく盛りが悪いからなあ。あれじゃあ夕方までは保たない」

「カレーライスは厭だよ」鞄の中から包みを引きずり出しながら佐介が答えた。「だから会議をやるんだ」

「なるほどな。これじゃ厭にもなるだろうな」牛島はあらためて鼻をびくびく動かし、かなたのガシャガシャ音に耳をかたむけた。「しかし俺なら会議などは開かずに、俺一人で部屋を引越すな。その方がカンタンだし、さっぱりするじゃないか。なにもこんな小屋に踏みとどまって、カレーライスが嫌いになる手はねえだろう」

「船のネズミらしいことを言うね」佐介もコップを后唇に持って行った。「引越しのことは僕も考えた。何度引越ししようと思ったか知れやしない。その度に僕は僕を叱りつけた。自分のひるむ心を叱りつけた。ここで逃げ出すくらいなら、人間を止めにした方がいいんだ。ここが僕のぎりぎりのところなんだ!」

「何がぎりぎりだね?」佐介の語気におどろいたように牛島は眼をパチパチさせた。「俺にゃさっぱり判らねえ。早く引越して、カレーライスが好きになった方が、トクだと思うがなあ。なんなら俺が良い部屋を世話してやろうか」

「いいよ。この小屋に踏みとどまるよ」佐介はそっけなくハムをつまんで口の中に投げ込んだ。牛島もその真似をした。佐介は電熱器のスイッチを入れた。うずまき状のニクロム線は見る見る赤く熱してきた。「踏みとどまって会議をひらき、カレー粉と戦うんだ。脅迫状が来たってひるまない」

「あっ、そうだ。脅迫状と言えば――」怒りが突然よみがえってきたらしく、牛島は茶碗をぐいとあおり、熟れたトマトにぐいと嚙みついた。「お前、電車の中で、堂々と、あの手紙をひろげて読んでたじゃないか。あれほど俺がこんこんと言い聞かせたのに、そんな無茶をする。早くあの手紙を出せ。そしてその電熱器で燃しちゃえ」

「しかしこれは」内ポケットから封筒を取り出しながら佐介は弁解した。「研究所関係じゃないかも知れないんだよ」

「何でもいいから、燃すんだ!」牛島はいきり立った。酔いが牛島の感情を過多にさせていた。「危険なものを平気で持ってあるくかと思えば、片方では人に待ちぼけをくわせてケロリとしている。一時間、ああ、一時間、どんな思いで俺が待っていたか、お前にゃ判らないだろう。よし。お前は俺としばらくつき合い、カレー会議には一時間遅刻しろ!」

「そんなムチャな――」

「ムチャでない!」牛島はまたウィスキーを茶碗に充たしながら叱咜(しった)した。「俺にはその権利がある。お前は先刻俺から、一時間という時間を、まんまと盗み取った。盗まれたものは盗み返す権利がある。今度は俺がお前から、まるまる一時間を強奪(ごうだつ)するぞ。いや、利息がついて、一時間二十分だ。針金でしばり上げても、俺はお前を一時間二十分遅刻させるんだ」

「ああ、判ったよ」

 佐介は情なさそうに封筒をひろげ、ふわりと電熱器の上に乗せた。それを見て牛島は反射的に、さっきの電報をその上にかぶせた。重ねられた紙片は黒く焦げて反(そ)りかえり、ボッと焰を放って燃え上った。

「あんたは他人のことになると、引越しゃいいだろうなんて、無責任なことを言うが、自分のことになるとヤケに頑張るんだね」割箸のさきで黒く焦げた紙片をはらい落しながら、佐介は低い声で言った。「僕だってここで、カレー工場主の修羅吉五郎から、カレーの旨(うま)さを盗み取られたんだよ。判るだろう」

「判るよ」牛島はにぶい眼付きでうなずいた。「だから引越せばいいではないか」

「そういうわけには行かないよ。引越しという手は、ちょっと見には本手のようだが、つきつめるとやはり筋違いの手なんだ。ねえ、このにおいをかぎ、あのガシャガシャ音に耳をかたむけてごらん」

 からっぽの胃袋にしみこんだウィスキーは、ひどく回りが早く、牛島の顔色は粘土色からもう赤土色に変化していた。言葉も舌たるくなっている。牛島は顔を上げ、大きく深呼吸をし、音の方向に耳をかたむけた。単調な金属性の反復音は、永久に止むことなき重さとねばっこさをもって、夜の空気をずしんずしんとゆるがしてくる。牛島の視線はその時、行李の上の卓上ピアノの赤さに偶然にとまっていた。

「ねえ。このにおいとこの音、いくら逃げ出したって、形を変えてかならず僕らを追っかけてくるよ。どこまでも、どこまでも」

「あの卓上ピアノな」牛島は行李の上を指してぼんやりした声を出した。「あれ、たしかハムがデパートで買ったやつだと思うんだが、どんないきさつでお前さんがそれをウロチョロと持ち歩いたんだい?」

「ゆずって貰ったんだ」

「なぜ? お前さんが叩くためにか」

「いや、楽しみのない爺さんたちに寄贈しようと思ったんだよ」

「爺さんたち?」牛島は、いぶかしげに眼をぎろりと光らせた。「それでハムは、直ぐに手放したのかね?」

 佐介はうなずいて見せた。酔いのために佐介もいくらかあかい顔色になっていた。

「畜生。やっぱりハムの奴は、俺のあとをつけて来たんだな。ピアノを買いに来たんだなぞと言いおって。これも須貝のさしがねにきまっている。よし、皆がそういう気持なら、俺にも俺の考えがあるぞ」そして牛島は手を上げて、佐介の顔をまっすぐ指差した。「お前もきゃつらと同腹か?」

「冗談じゃない」と佐介は掌をくにゃくにゃとふった。「僕だってあの時、一緒にハム嬢につけられたんだよ。ハム嬢につけられ、さっきはあんたにつけられてさ、そしてそんなことを言われたんじゃあ、僕も立つ瀬がない」

「そうか?」牛島はなおも疑わしげな眼で佐介を直視した。「お前さん、俺に関して、須貝から何か秘密命令でも受けてやしねえだろうな。U十八号とか何とかさ」

「ううん。飛んでもない。U十八号なんて、本当のところ全然初耳だ」

「そうか。それならいいが」牛島は少し安堵(あんど)の色を見せて、ふたたびトマトにかじりついた。液汁が畳にぼたぼたとしたたった。牛島はあぐらの片足を立て、蹠(あしうら)で不器用にそれを拭きながら、押しつけるような声を出した。「俺は今日の昼間、お前さんと別れ、ひとりになってデパートの屋上にのぼり、いろんなことを考えた。あらゆる角度から、現在の研究所の情勢、そこに置かれている俺たちの位置について、黙々と検討してみた。高層建築の屋上というやつは、たしかに人間の神経をするどくし、思考力を増進させるもんだな。思考力だけでなく、推理力もだ」

「推理力だけでなく、カンもだろう」

「そうだ。カンも大いに働いた」牛島はあぐらの両足を擢(かい)のようにこいで、身体をぐいぐいと前に乗り出し、キラリと眼を光らせた。「その俺のするどい推理力とカンに賭けて言うが、A金庫の鍵型をとった犯人は、いや、犯人と言うとカドが立つな、鍵型をとった謎の人物は、いいか、性根を据えて答えるんだよ、あれは、お前さんだろう。お前さんだな!」

 

梅崎春生 砂時計 11

 

     11

 

 黒須院長が玉砂利をぎしぎしと踏み、夕陽養老院の門を入ってきた時、あたりはもうすっかり暗くなっていた。両側の野菜畠におちる雨声は、したしく院長の耳をくすぐり、院長は胸を張って勢いよく玄関に歩を進めた。二階建ての寮舎の窓々にはすでに燈が入り、それが自分の帰来を歓迎しているかの如く、院長には感じられた。久しぶりで旨(うま)いものに満腹したせいもあって、院長の気持は平穏に和(なご)み、幸福ですらあった。院長は傘をたたんで水を切り、はずみをつけて玄関に飛び上った。

 しかし院長の気持の平穏は、玄関に足を踏み入れたとたんに、がしゃがしゃにかき乱されたのだ。玄関脇の掲示板の院長告示の上に、誰が書いたのか赤インクの筆太文字で、

『院長横暴!』

『海坊主!』

 と、なぐり書きがしてあったからだ。それを見た瞬間、黒須院長の太い眉毛は見る見るつり上った。多量の憤怒と少量の困惑を顔いっぱいにみなぎらせ、院長はその文字にむかって仁王立ちになり、威嚇(いかく)的に双のこぶしをふり上げた。洋傘の尖端も宙を切って、雫を遠くまではね飛ばした。

「ああ、何たる不祥事(ふしょうじ)だ!」院長は告示にむかってかみつくように怒鳴った。「こんな悪質なイタズラをやったのは、一体何奴だ!」

 その時、かなたの東寮の廊下の曲り角からのぞいていた二つの首が、その怒声におびえたようにスッと引っ込み、そして足音が乱れてばたばたと遠ざかって行く。黒須院長はぎょっとしたようにそちらに顔をふり向けたが、もちろんその時は廊下は素通しで、天井からうすぐらい電燈がぶら下っているだけで、何者の姿も認められなかった。曲り角まで疾走して足音の主を確かめたい衝動が、一瞬黒須院長をそそのかしたが、院長の威厳ということを考えて、彼はやっと踏みとどまった。

「東寮のやつらだな」院長はふりあげたこぶしをおろしながら、腹立たしげに呟(つぶ)いた。「東寮にはタチの悪い奴が多い。あの不逞(ふてい)のやから奴!」

 足音は東寮の廊下をかけ抜け、どんづまりの部屋に一気にかけこんだ。その部屋には十人ばかりの爺さんたちが、坐ったり寝そべったり、それぞれの姿勢で屯(たむ)ろしていたが、かけこんだ二人の見張り爺に一斉に視線をふり向けた。見張り爺は二人とも呼吸をぜいぜいはずませて亢奮していた。

「帰って来たか?」

「戻って来たか?」

 異口同音の質問に、見張り爺はそれぞれあえぎながら口早やに報告した。

「今戻って来たぞ」

「告示を見て、えらく怒っとったぞ」

「大きな声を出してゲンコツを振り上げたぞ」

「振り上げたとたんに、傘なんかすっ飛んでしまったぞ」

 見張り爺たちは院長の手振り身振りを真似しながら、口角から泡をとばして説明をつづけた。

「よし。もう判った」

 部屋のまんなかに寝そべっていた遊佐爺が、掌をふって重々しく発言を制した。今まで手を休めていたニラ爺が、我にかえったように遊佐爺の背に指をあて、ぐいぐいと指圧を再開した。ニラ爺は指圧が上手で、一回四十円の料金で院内営業をやっている。遊佐爺なんかもその上得意の一人であった。

「院長が激怒したということはよく判った。御苦労だったな」遊佐爺は気持よさそうに指圧療法を受けながら、見張り爺たちの労をねぎらった。「先ず作戦は当った。怒らせて気持を動揺させることに、先ず我々は成功したようだな。向うは気持が大いに乱れ、こちらはしごく平静な気持とくれば、今夜の会談は戦わずしてもう半分はこちらが勝ったようなものだ。そうか。海坊主は頭をふり立てて怒ったか」

「愉快。愉快」松木爺が掌をパチパチたたいて叫んだ。

「俺たちは先ず先取得点をあげたぞ!」

「まだよろこぶのは早い」うるさ型の柿本爺が松木爺をじろりとにらんで、にがにがしげにたしなめた。「今頃から有頂天になると、それこそ向うの思う壺だ。そんな単純な、一筋繩で行くような相手か!」

 玄関脇の掲示板の前で、今や黒須院長は眼を閉じ、下腹に両掌をあてて、しきりに腹式呼吸をこころみていた。空気が束になって大きく鼻孔に吸い込まれ、また束になって大きくはき出される。院長の身体はさながら巨大な一個のふいごとなり、ふいごになることによって院長は怒りをしずめ、気持の平衡を取り戻そうと努力していた。黒須院長かっと眼を見開いた。

「これは同一人の字ではないな」『院長横暴!』と『海坊主!』の字体をしさいに見くらべながら、黒須院長はつぶやいた。憤怒はしだいにおさまり、闘志に変りつつあった。そう言えば二つの文言の字体は同じではなかった。院長はさらに眼を告示に近づけた。「ふん。同一人でないとすれば、このイタズラは二人以上の人間によってなされたことになる。これが一人ならば、発作的な行動と考えられるが、二人以上とくればこれは明かに計画的だ。院長に対する挑戦と考える他はない」

 黒須院長はがっしりと腕を組んだ。そして素早く首を動かして東寮廊下の方をふり向いたが、やはり廊下はがらんとして、誰の姿も見当らなかった。院長はそこでまた顔を元に戻して、ふたたび告示をにらみつけた。

「このイタズラの犯人は、赤インクを持ち筆を持っている。抜き打ちの室内検査をやれば、きっと犯人はあがるだろうが、それには人手が足りないな。それにしても犯人は一体何奴(なにやつ)か?」腕をとき顎鬚(あごひげ)をしごきながら、黒須院長は首をかたむけた。「院長横暴、というのは意味は判るが、この、海坊主、というのはどういう意味だろう?」

 剛(こわ)い顎鬚をざらざらしごき、黒須院長はしばらく考え込んでいたが、とうとう判らなかったらしく、あきらめたように廊下のすみに行き、洋傘をひろい上げた。そして急に眼をするどくして、左右の廊下を見回し、また掲示板の前に戻ってきた。この告示をこのままにして置くか、それとも引き剝ぐか、黒須院長は迷っていた。そのままにして置くことはイタズラの容認を示し、引き剝ぐことはある意味では敗北を意味するわけであった。院長は手を掲示板へ伸ばそうとして、また引っ込め、あらためて告示の末尾に眼をむけた。

 

  『以後本院の建物備品を、故意と不注意たるを問わ
  ず破損破壊せるものは、この事例に即して処分する
  ものとす。              院長㊞』

 

(こんなイタズラをしたやつも、もちろん破損破壊の条項に適合する)傘を床にぎりぎりと突き立てながら黒須院長は考えた。(そうすればこのイタズラの犯人は、ニラ爺の例に即して、退院処分にしなけりゃならん。もちろんこの犯人は、滝爺松爺一味にきまっているが、どうやってその証拠をおさめたものか)

 院長は傘を脇差しのように腰にかまえ、のっしのっしと階段をのぼり始めた。(こういうことはあまりやりたくないけれども、万(ばん)やむを得ないなら、在院老人の中から素姓(すじょう)や素質のいいのを二三選んで、秘密スパイに任命するか。そうすれば犯人は直ぐに挙がるだろう)

 階段を登り切ると、黒須院長は院長室の扉を押し、電燈のスイッチを上げた。大きな電気スタンドに燈がともった。院長はすぐに回転椅子に腰をおろさず、動物園の熊のように室の中を行ったり来たりし始めた。かなた東寮廊下のどんづまりの部屋のガラス窓から、見張り爺の顔がこちらを見上げていた。

「そら。院長室に燈がついたぞ」見張り爺が一座に報告をした。「海坊主はしきりに部屋の中を歩き回っているらしい」

 指圧師ニラ爺と指圧されている遊佐爺をのぞく全員は、たちまちどやどやと立ち上って、窓辺にそれぞれ取りついた。院長室の窓は曇りガラスだが、その乳色にうるむ窓の光を、ひとつの影が規則正しくさえぎって動いていた。それはその輪郭からしても院長の影にちがいなかった。腹這いになったまま遊佐爺が鎌首をもたげて聞いた。

「歩き回っているか?」

「歩き回っている。歩き回っている」と松木爺が答えた。

「よっぽどムシャクシャしているらしいぞ。愉快。愉快」

 窓辺にとりついた全員は、頭微鏡をのぞく生物学者の熱情と、女湯をのぞく痴漢の好奇心をあわせもち、胸をどきどきさせながら、院長室の窓を見上げていた。その時影は突然大きく不規則に動き、そしてふっと曇りガラスの面から消え去ってしまった。松木爺が遊佐爺に報告した。

「動き回るのを止めたぞ」

 黒須院長は動き回ることをやめ、大戸棚の上から硯箱をおろして、回転椅子にふかぶかと腰をおろした。卓上に紙をのべ、眼を閉じて深呼吸を開始した。あのムナクソの悪い告示文を剝(は)ぎ取り、ふたたび同文の告示文を貼りつけるつもりである。閉じた院長の瞼の裡(うち)に、父親の影像がぼんやりうかび上ってきた。父親の顔はきびしく、院長を叱りつけるようであった。

「お父さん。……お父さん」院長はお祈りでもするように呟いた。「お父さんの遺言のまま、僕は信念をもって生きています」

 黒須院長は眼をかっと見開いた。そしておもむろに硯箱のふたをとり、大きな墨をわしづかみにして、しずかにすり始めた。墨のにおいが院長の鼻もとにただよってきた。

 

梅崎春生 砂時計 10

 

    10

 

 追加の鰻大串一本と、そえものの奈良漬をすっかり食べ終ると、さすがに黒須院長も腹いっぱいになったらしく、大きくひとつ背伸びをし、それから熱い茶をすすりながら、満足げにあたりを見回した。せまい店内に、客は黒須院長だけであったが、外の小路には人通りが繁く、洋傘と洋傘はぶつかり合い、中にはのれんの隙間から店内をのぞきこみ、そのまま行き過ぎて行く男女などもあった。向いのパチンコ屋からはひっきりなしに、玉の弾ける音、ざらざらと流れ出る音が、にぎやかに聞えてくる。黒須院長は茶碗を持ちかえて、調理場の方におもむろに首を動かした。調理場の横に畳敷きの小部屋があって、そこに一人の小さな老婆が先刻から、向うむきにひっそりと坐っている。針仕事かなにかをしているらしい。表のにぎやかさにことさら背を向けた風情(ふぜい)で、そのかたくなに曲った背中を眺めながら、黒須院長はふと考えた。(つまり、老人というやつは、死ぬために生きているんだな)その着想は黒須院長をすっかり満足させた。院長はつま楊枝を横ぐわえにして、一瞬目を凝(こ)らし、老婆の背中にしげしげと見入った。(子供が生きているのは、大人になるためと同じ如くにだ。死ぬために生きているのなら、我々壮者は出来るだけ手を尽して、彼等を死なしめて上げるべく努力しなければならん。それが我々の責務であり、親切と言うものだ)院長は老婆の背中に、在院老人たちの顔をずらずらと思いうかべながら、重々しくうなずき、そして詰襟服のポケットを探って奥に声をかけた。

「代はここに置いとくよ」

卓の上に紙幣や硬貨をならべ終え、店名入りの広告マッチをポケットにしまうと、黒須院長は勢いよく立ち上った。のれんを禿げ頭でわけ、洋傘をぐいとひらいた。それをパチンコ屋から出てきたものとカン違いをした景品買いの女が、黒須院長によりそうように近づいてきたが、院長にひとにらみされて、あわてて軒下に退散した。院長が改札口の近くまでやって来た時、牛島康之は円柱の下に佇(た)っていなかった。その場所には小さな新聞売台が置かれ、頭髪を長くした青年が二人元気のいい声で『アカハタ』の呼び売りをしている。牛島康之は既にそこからずっと離れた別の柱のかげに移動し、時々顔をちらちらのぞかせて、改札目付近を監視していた。この敏感なネズミのような『侍ち男』は、佐介の遅刻になにか不吉な異変みたいなものを感じ、いくらかおどおどしているらしかった。電気時計は五時五分前を指している。牛島は柱のかげに頭をひっこめ、弱々しく舌打ちをして呟いた。

「畜生。五時までにやって来なけりゃ、もう待っててやらねえぞ」

 黒須院長は洋傘を小脇にかかえたまま、『アカハタ』売台に眼をとめ、雑踏の中でちょっと立ち止り、その方を見据えるようにした。青年たちはなおも声をからして熱心に叫んでいる。でも熱心に叫んでいる割合には、『アカハタ』の売れ行きは良くないようだったし、ただ叫ぶために叫んでいると見えなくもなかった。院長の大きな軀(からだ)は人波に押されて、再びゆるゆると動き出した。(ふん、『アカハタ』か)脚をのろのろと動かしながら、視線は『アカハタ』売台に固定させ、院長は舌なめずりしつつ考えていた。唇にはまだ鰻の味が残っていた。(あいつら、滝川や松木、それに道佐爺なども、ほんとにアカの一味かも知れんな。アカであったら、どうしたらよかろう?)院長はしかしアカに関しての知識はほとんど持っていなかった。書道教師の父親から、院長は少年時代に、アカは疫痢(えきり)やコレラより恐いものだと、呉々も教えこまれていた。院長はあざらしのようにぶるんと顔を振って、視線を『アカハタ』青年から引っ剝がし、肩をぐんとそびやかして恐怖を追っぱらった。そしてそのまま音もなく、改札口に吸い込まれた。改札係の両手は相変らず派手な動き方をして、あふれる人波を次々にさばいている。かなたの円柱のかげから、また牛島が形式的に顔を出して、背伸びをした。

「もう来ねえつもりかな?」しかし牛島の眼はとたんに緊張して、爪先立つだけでは足らず、両腕で柱を抱いてよじ登ろうとする格好になった。そして忌々(いまいま)しげにつぶやいた。「あの野郎、今頃になってのそのそと来やがる。まるまる一時間の遅刻じゃないか。それにありゃなんて格好だ。お上りさんじゃあるまいし」

『アカハタ』売台のすこし手前のところで、栗山佐介は立ち止り、あたりをきょろきょろ見回していた。卓上ピアノと鞄を重ねて胸に抱き、洋傘の曲り柄は二の腕に辛うじてかかり、不安定にふらふらとぶら下っていた。その窮屈な野暮ったい格好で、佐介はしきりに牛島康之を求めて四周(あたり)を見回していた。佐介のその視線を避けて、牛島はすばやく顔をひっこめ、柱のかげにしゃがみこんで莨(たばこ)に火をつけた。(どうもあいつはおかしいぞ)煙を吸い込みながら牛島はいつも考えることを考えた。(平気で人を待たせて、今頃きょろきょろしてやがる。ほんとにあいつはバカか、それとも何かたくらんでやがるのか――)莨はしめって味が悪かった。莨だけでなく、駅舎内部の空気は、乗降客の雨衣や傘からたちのぼる湿気で、むっと濁っていた。佐介は電気時計を見上げた。その瞬間鴨志田の洋傘は、たまりかねたように腕から外(はず)れて、コンクリートの床にぐしゃりと辷(すべ)り落ちた。佐介があわてて腰を曲げようとした時、包装紙がやぶれてほとんどむき出しになった卓上ピアノは、コロロンと不随意な鳴り方をした。

(もうどこかに行っちゃったんだろう。なにしろ一時間の遅刻だからな)今度は胸の荷物に洋傘をいっしょくたにかかえ込み、佐介はきょろきょろするのをやめ、のそのそと切符売場の方に歩き出した。研究所勤務に彼は定期券を使用していない。隔日の通勤だから、定期ではむしろ損になるのだ。牛島は莨をふみにじり、柱のかげから飛び出し、膝を曲げるような奇妙な歩き方で(背丈を低くして人波に顔を没するためにだ)そのあとを追った。そして佐介のすぐあとに並び、手もとをのぞき込みながら同じ方角の切符を買い求めたのに、佐介はそれに全然気がつかないでいた。気がつかないまま背中を押されるようにして、窮屈に改札口を通り技けた。改札を通過した群衆は、それぞれ目的の線のホームに、ひしめき合いながら大束になって分れてゆく。そのひとつの束の流れに乗り、五分後に佐介がやっとQ電鉄のホームに到着した。そのホームにも人はあふれ、スピーカーの鼻にかかった声が、高い天蓋に反響している。やがて二番線ホームに三両連結の準急電車が、しずしずと徐行しながら入ってきた。電車は反対の扉から少量の乗客をはき出し、それからこちら側の扉をひらいた。ホームの上の群衆は自然の法則にしたがって、下水溝に流れ入る塵埃のように、各扉にずるずると引っかかりながら次々吸い込まれて行く。その流れにまきこまれて、足を動かした覚えはないのに、まるでエスカレーターに乗ったかのように、佐介の体もいつの間にか電車の中に搬入されていた。ほとんど身動きも出来ない姿勢で、前後左右からしめつけられていた。発車のベルが鳴り、扉が一斉にギイとしまると、湿ったもののにおいがむっと高まってきた。ゴム引きのにおいや毛織物のにおい、皮革や金属の発するにおい、呼吸や滓(かす)や分泌物や、それらをひっくるめた人間という生きもののにおい……。

(とにかく、ここには、人間が多過ぎるんだ。ここだけでなく、どこもかしこも――)ピアノの角で肋骨(ろっこつ)をぎりぎり押されながら、佐介はぼんやりとそんなことを考えていた。ビールの酔いがまだ気持をだるくしていて、牛島のことなんかすっかり忘れ果てていた。(あまり多過ぎるということのために、人間は人間でなくなろうとしているのだ。人間以外のものになろうとしている。ただはめこまれるだけの木(もく)ネジになりかかっている。昔はよかった。昔は人がすくなかった。だから人間は完全人間として生きることが出来た。たとえば他人に対しても、自然に対しても、病気に対しても、人間は人間らしく生きていた。今はちがう。今は自然は人間にとってもう自然ではないし、病気ももう病気でなくなろうとしているのだ。自然は建物や乗物や爆弾にかわってしまった。いろんなものが人間をおきざりにして、変ったり進んだりしてしまったんだ。人間はたちまち遅れて、おろおろ立ち止って人間であることをやめてしまうか、オートマティックに部品として生き残るか、それ以外に手はなくなった。生き甲斐の『甲斐』が人間から失われてしまって、雑多な日常にダニのようにくっついていることだけで精いっぱいで、それで生きていると思い込んでいる。ダニも病んでいるし、吸いつくその本体も病んでいる。それに病んでいる自覚もないし、自分が不幸であることも知らないのだ)車体は速力を増して左右に動揺し始めた。佐介は人の頭の間から、窓外の景色をとぎれとぎれに眺めていた。(自分が幸福であることを知らない連中に、お前は幸福だと知らせてやることよりも、自分が不幸であることを知らない連中に、お前は本当は不幸なんだぞと知らせてやることの方が、よっぽどイミがあるのじゃなかろうか。つまり人を幸福にすることよりも、人を不幸にすることの方が……)車内にじとじととこもったもののにおいの中に、その瞬間佐介の鼻はふと微かなカレーのにおいをかぎ当てた。佐介は眉をひそめて思考を中止し、鼻をくんくんと鳴らしながら顔を動かした。カレーのにおいはたしかに直ぐ近くでただよい動いているようであった。(俺の洋服やレインコートの地にまでしみ込んだカレー粉が、前後左右から押しつけられて、じわじわと滲(にじ)み出て来るのかも知れないな)佐介は右手を混み合いの圧迫からスポッと引きぬき、袖口あたりをそっと嗅いでみた。それからその手を不自然に曲げて、少しずつ荷物と胸の間に差込んだ。その人差し指が胸の内ポケットの中のがさがさしたものに触れた。そこらで線路が大きく曲るらしく、乗客の重味が一斉に片側にかかり、佐介の右掌は卓上ピアノと胸の間にぐぐっと万力(まんりき)のようにしめつけられた。佐介は声にならない悲鳴を上げ、力のおもむくまま全身をうしろのものに押しつけた。

「イテテテ」

 佐介のすぐ背後にうまい具合にはさまっていた牛島康之は、佐介の肩で顔面をしたたか圧迫され、たえかねて小さな悲鳴を上げた。この実直な尾行者は、電車の内でも膝を半ば曲げ、背丈を四五寸ばかり倹約していたのだ。車内全部に声ある悲鳴、声なき悲鳴を充満させて、車体のひしぎはやっと正常に立ち戻った。人々は束の間を稼ぐように、大きく息を吸い、またいそがしく息をはき出した。牛島は憤然と足を伸ばし、本来の背丈になり、押しつけられた四角な顔を腹だたしそうに掌で撫で回した。佐介は内ポケットのがさがさをつまんで、右手をそこから一気に引っこ抜いた。つまみ上げたものはれいの無記名の脅迫状であった。佐介は窮屈そうにその裏表をしらべ、顔の前に持って行き、鼻を鳴らしてそのにおいをかいだ。牛島はそっと爪先立ち、肩越しにそれをのぞき込んだ。

(あれほど言って置いたのに、まだ平気で持ち回ってやがる!)牛島は眼を三角につり上げて、佐介の後頭部をにらみつけた。(万一この電車がテンプクして、乗客全員死亡ということになってみろ。貴様の屍体のポケットのその手紙から、貴様の仕事がばれ、ついでに白川研究所の仕事がばれ、そしてこの俺までが迷惑することになるじゃねえか。あ、そうか、全員死亡とすると、俺まで死んじまうわけになるか)もちろんこの声なき叱声は、佐介の耳には入らなかった。においを嗅ぎ終ると、佐介はちょっと首をかしげ、今度は封筒の下辺を口にぐわえ、指で中身の使僕を引っぱり出そうとこころみた。満員電車の中だから、なかなかその作業は難渋を極めた。

「えへ、えヘヘ」

 封筒の一端をくわえたまま、突然后の端からだらしない笑いを洩(も)らしながら、佐介はやっとペラペラの便箋を引っぱり出した。そんな危険な便箋を人前で引っぱり出させまいと、牛島が指を鈎の手に曲げて、背後から佐介の脇の下をこちょこちょとくすぐったのだ。

「えヘヘヘ」

 佐介は身もだえしながら、便箋をまた鼻の下に持って行った。そして宙でそれをがさがさと拡げた。佐介は笑いを収めた。くすぐりを牛島が中止したからだ。便箋をおおっぴらに拡げた以上、これ以上くすぐって佐介に気付かれると、周囲から同類と見なされる危険があったのだ。夕方の満員電車の乏しい光線の中で、佐介はふたたびその文言を、わざとらしい活字体のペン字の文章を黙読した。

 

 『今の調査を打ち切れ。打ち切らねばお前の身は危
 険である。右警告す』

 

 佐介と腹背を接して、牛島はむっとした表情で、太い頸(くび)を可能なだけ横にねじ向けていた。そっぽ向くことで無関係者の感じを出そうと試みていた。しかし牛島の配慮にかかわらず、佐介の周囲の乗客たちは、押し合いへし合いすることだけで手いっぱいで、誰ひとりとしてそのピラピラの便箋に関心を示してはいないようであった。佐介は読み終ると、またそれを鼻の頭に持って行った。さっきただよったカレーのにおいは至極かすかなものであったし、それに鼻が慣れてバカになったせいもあって、においの本体がこれかどうかもう見極めがつかなくなっていた。

(一体この手紙の発信者は――)便箋を苦労して封筒の中に戻しながら佐介は考えた。(白川研究所の事件の関係者かそれとも修羅印カレー粉関係か?)研究所気付で来たのだから、研究所関係とも考えられるが、しかしカレー粉問題も急迫していて、その方面からの警告かとも考えられる。さっきどこからともなくカレー粉のにおいがしたのも怪しい。この手紙から発したものとすれば、カレー粉関係だろうと推定出来るが、今のところはまだハッキリしない。しかしいずれにしても、彼の調査活動を封じようとしていることだけは、確かであった。佐介はふくらんだ封筒を二つに折り、車休の動揺の隙をねらって、やっと元の内ポケットに戻すことに成功した。そして佐介はまたぼんやりした眼付きになって、人の頭と頭の間から窓外に眼を放った。濡れた窓ガラスの向うに、黒い屋根や白い道が滲んだまま、うしろへうしろへかけ抜けてゆく。

(とにかくどこかに敵がいる。目に見えない敵がいるのだ)佐介はぎっしりと自分を取り巻く乗客の頭を見回しながら、やや悲壮な気持でそんなことをかんがえた。満員電車に乗ったりすし詰めの映画館に入ったりする時、いつも佐介は感傷的になり、孤独的になる傾向があった。準急電車はちょっとスピードをゆるめ、駅をひとつすっ飛ばし、また森々と速力を上げた。(目に見える敵、目に見えない敵から、じりじりと包囲されているようだ。そう思うこの俺も、他の誰かにとっては目に見えない敵であり、また別の誰かには目に見える敵になっている。俺たちがもしお互いにつながり合っているとすれば、そういう関係においてつながっているのだ)

 しきりに周囲を見回していた佐介の眼は(周囲と言っても背後までは首が回らなかったが)、突然こみ上げてくる憎悪と苦痛をふくんでキラリと光った。またしても車体が片側に傾いて、周囲からぎゅうとしめ上げられたのだ。胸にはさんだ卓上ピアノの木質部が、グリグリグリというような音を発したようなので、佐介は必死にそれをかばいながら、思わず小さくうめき声を立てた。(ああ、皆してこの俺を、俺と卓上ピアノを、不法にもぎゅうぎゅうしめつける)その佐介の背に接して、牛島は歯を食いしばり、額から汗をふき出しながら、声なき怒声を立てていた。(畜生め、皆でよってたかってこの俺を、ぎゅうぎゅうぎゅうとしめ上げる。俺をペチャンコに押しつぶす気か!)

 この二人だけでなく、車内のいたるところで、うめき声や悲鳴が不規則にあがっていた。乗客の一人々々が、周囲をぎゅうぎゅう押しまくることによって、周囲からぎゅうぎゅう押しまくられていた。すべての乗客は、被害者であると同時に、加害者でもあった。力学の法則によって彼等は余儀なく加害者となり、その結果としてお互いからぎゅうぎゅうしめ上げられていた。しめ上げられて呪詛(じゅそ)のうめきを発していた。準急電車はそれらの呪詛のうめきを満載して、雨の中をごうごうと走りつづけた。

 

 下車駅に近づいても、佐介はまだ牛島が同車していることに気がついていなかった。それは牛島のかくれ方が巧妙だったせいではなく、佐介がとかく他のことに気を取られて、窓外などをぼんやり眺めていたからだ。停車のたびに乗客の数はすこしずつ滅少し、人々は自分の周囲に空間を取り戻し、今やカーブにさしかかっても相䦧(あいせめ)ぐことなく、立ったものは吊皮とともに、腰かけたものは座席とともに、先ずはゆるやかに揺れていた。平安と言うより虚脱にちかいものが、そこらにうっすらとただよっている。電車は十三号踏切を越えてから徐行にうつり、駅に入ってがたぴしと停車した。佐介は扉から狭い歩廊に降り立った。天蓋のない歩廊には雨がしぶいていた。牛島は別の扉から降りた。空の暗さをうつしてあたりはややうす暗くなっている。駅員詰所の板壁の賃上闘争のポスターを横目で見ながら、佐介は改札口を通り抜けた。それから五六人つづき、すこし遅れて一番最後に牛島が通った。板裏草履をつっかけた改札係は、牛島の風貌や風体から私服刑事かなにかとカン違いしたらしく、ちょいと目礼みたいなことをし、切符を受取らないでとことこと詰所に入っていった。牛島はそのことでやや気をよくして、頰をにやにやとゆるめながら、軒下に立ち止って、鞄の中からビニールの布をとり出した。レインコートの釦(ボタン)をきちんとかけ、ビニールの布で頭を包むと、まるでそれは古下駄の台を頭にした案山子(かかし)みたいに見えた。その格好で牛島は佐介の方を見た。佐介はかなた踏切の遮断機(しゃだんき)の前に立ち止っている。洋傘をひろげて肩にかつぎ、持ちにくそうに大きな荷物を胸にかかえている。

「あれはたしかにハムに無理矢理に買わせた卓上ピアノのようだが――」佐介の姿を遠くから眺めながら、牛島はいぶかしげにつぶやいた。「一体それをどうして今あいつがかかえてるんだろう。少しへんだな。もしかするとあいつとハムは、俺なんかの目の届かないところで、情を通じ合っているのかも知れんぞ」

 筋違いの嫉妬が一瞬むらむらと牛島の胸を灼(や)いた。今日の昼、定規の角で、スカートの上から熊井の尻にいたずらをした。そのぶりぶりしたなやましい感触を牛島はありありと思い出していたのだ。その牛島のビニール布をあおって、そばの線路を準急電車が轟(ごう)と通り過ぎ、遮断機はするすると上った。ごちゃごちゃにたまっていた人間や自転車や小型自動車などが、両側から一斉に動き、線路上に入り乱れた。そこに混った佐介の姿を見定めて、牛島は駅の軒下から雨の中に足を踏み出した。雨滴がつめたく牛島の頰にあたった。

 踏切をわたったところから始まるサクラ商店街は、雨天にもかかわらず、まだ夕方の買物客が行ったり来たりしていた。佐介は肉屋に寄りプレスハムを三十匁[やぶちゃん注:百十二・五グラム。]、八百屋でトマトを三個、パン屋に立ち寄ってパンを一斤買い求めた。いつも買い慣れているらしく、佐介はてきぱきと品物を受取り、てきぱきと代金を支払った。最後のパン屋で、パンを直ぐ食べられるように切って貰う間、店の棚にずらずらと並べられた修羅印カレー粉の罐を、佐介はしばらく眼を吊り上げるようにしてにらみつけていた。佐介が店に立ち寄る度に、牛島もその店の五、六軒手前で立ち止り、電柱のかげや理髪店の看板のかげにかくれて、不機嫌な顔で佐介を監視していた。この奇妙な尾行男は、もう自分が何のために尾行しているのか、自分でもよく判らなくなっていた。尾行するために尾行する。尾行欲を満足させるために尾行する、そうとでも考える他はないようなやけっぱちな状態になっていたのだ。傘を持たないので雨はようしゃなくビニールの隙間から牛島の顔を濡らした。

「もういい加減にこの俺に気がついたらどうだ」オート三輪のかげから、パン屋の佐介をじっと監視しながら、牛島は情なさそうにぼやいて、鼻をくすんと鳴らした。「気がついてくれなきゃ、風邪をひいちまうじゃないか。こんな抜け作のあとをつける気をおこすなんて、少々俺もヤキが回ったな。よし、こうなれば、あいつ、六時から会合があると言いおったが、それが何の会合か、是が非でも突きとめてやるぞ!」

 牛島は職業的情熱をふるい起すように、力をこめて二三度足踏みをした。水のしみ入った靴の中で、濡れた靴下がその度にぐしゃぐしゃと音を立てた。やがて佐介はパンとトマトとハムを鞄の中にぎゅうぎゅう押し込み、パン屋をよちよちと出て来た。いろんなものを詰めこんだので、ぺしゃんこの皮鞄は見違えるようにふくらみ、しかも中身がやわらかい食料品なので、なおのこと持ちにくそうに見えた。持ちにくいことのために傘の方がおろそかになり、とかく通行人の傘とぶつかっては雫(しずく)を飛ばすので、まるで酔っぱらいかチンドン屋のように、佐介は右へ行ったり左に寄ったりして歩いた。(雨はイヤだな、膝は痛むし)傘のぶつかり合いに辛抱出来なくなったように、佐介は人気(ひとけ)のない横町に折れ込みながら考えた。(雨が降ると、カレー粉のにおいも強くなる。今頃は俺の部屋も、カレーのにおいがぷんぷんこもっていることだろう。あれはきっと、カレー粉が雨のために遠くまで行かず、近所にばかり沈澱(ちんでん)してしまうせいに違いない)佐介は昨夜のカレー粉対策協議会の会合のことを思いうかべた。昨夜は十五人ばかりの男女があつまり、午前二時頃まで話し合ったのだ。言説はさまざまにわかれた。工場に忍び入ってカレー原料に砂をぶっかけろ。ウスとキネをぶっこわせ。そんな最強硬派から準強硬派、中間派、軟弱派といろいろあったが、それは手段方法のちがいだけで、身辺からカレー粉を排除しようという点ではすべて一致していた。佐介はここでは灰色派ということになっていた。灰色派は佐介ひとりであった。(灰色派か)佐介は傘をかたむけてサクラ碁会所の前に立ち止った。サクラ碁会所は雨のためにガラス戸をたてていた。三組の客が盤をはさんでいる。道路に一番近い盤面を佐介はじっとのぞきこんだ。肥った席亭が大儀そうに頸(くび)を回して、その佐介の顔をガラス越しにじろりと見た。そして身ぶりで、上ってこないか、と誘った。佐介は首をふり、まだ夕食前だと知らせるなめに、ふくらんだ鞄を動かして見せた。席亭にはその仕草の意味が判らなかった。席亭はあいまいな顔付きになって盤面に視線を戻した。そして石をつまみ上げてパチリと打った。(碁はいいな)あちこちの石の形に見入りながら佐介は思った。(この世とちがって碁は平面だし、単純でいて変化があるし――)横町に折れる曲り角のゴミ箱のそばに、牛島は濡れそぼって立ち、うらめしげに佐介の方を眺めている。席亭の相手が石を置いた。佐介は首をかたむけ、すっかり石の形に心をうばわれていた。遠くから雷の音が聞えてきた。五分ほど時間が経った。牛島は低いうなり声を立てた。さすが辛抱づよいこの待ち男も、ついにたまりかねて顔を振り、ぶるんと雨滴をはらい、はずみをつけてつかつかと横町に踏み入ってきた。一心に盤面に見入っている佐介の肱(ひじ)を、うしろからがっしとつかんだ。佐介は頓狂な声を上げてふり返った。

[やぶちゃん注:ここで「Q電鉄」「準急」「十三号踏切」と出るので、鉄道ファンならこれが何線でどこの駅か瞬時に同定出来るのであろうが、不幸にして私はその任には当たれない。識者の御教授を乞うものである。

「席亭」碁会所の主人。]

三州奇談續編卷之七 黑川の婆子

 

    黑川の婆子

 越の黑川は射水郡(ゐみづのこほり)にして、往昔(むかし)太閤秀吉公佐々成政を征伐の時宿陣ありし地となり。今や松古(ふ)り杉老いて幽陰湖に似たり。橫十町長さ一里に及ぶと云ふ。いかなる故にや、「女堤(をんなつつみ)」と云ひて蛇の主(ぬし)ありと稱すること久し。

[やぶちゃん注:標題は「くろかはのばし」と読んでおく。「子」は単に「人」の意であろう。

「越の黑川」村名で射水郡内となると、「黑河」であろう。「ADEAC」の「西尾市岩瀬文庫」蔵の「射水郡黒川領三十三首塚図」に『内題の左に朱書附記「但享保八年マテハ砺波郡領之由ナリ」。別紙の左端に書写識語「文政十年亥春本家原元善ニ借受写置虫損依而天保六年未五月再写之/原長郷」』とあり、『越中射水郡黒河村(現・小杉町黒河)』とある。原絵図はこちら(左が東なので注意)で、村の南西(右上)に複数の「女池」を見出せ、その北(下方)には「鬼沢堤」というのも見出せる。一方、「今昔マップ」で明治末期のこの付近を見ると、この旧「女池」(群)が現在の県民公園太閤山の「中堤」に当たることが判る(ここも黒河地区内である。

「幽陰湖に似たり」奥深く隠れて、暗く静かな様子は、ただの池沼群ながら、あたかも幽邃な湖(みずうみ)のような感じである、という謂い。先の「射水郡黒川領三十三首塚図」を見るに、これらの池沼から黒河村に流れが下っており、広域のかなりの池沼群であることが判る。ここで「橫十町長さ一里」と、この池沼群の大まかな東西幅は一・〇九キロメートル、南北三・九キロにも及ぶとあるのも、強ち誇張でない事実であることも判る。

「太閤秀吉公佐々成政を征伐の時」ウィキの「佐々成政」にある、天正一三(一五八五)年に秀吉が「小牧・長久手の戦い」の後も未だに反抗を続ける佐々成政を討伐するため』に『自ら越中に乗り出し、富山城を』十『万の大軍で包囲し、成政は織田信雄の仲介により降伏した(富山の役)。秀吉の裁定により、一命は助けられたものの』、『越中東部の新川郡を除く全ての領土を没収された。ただし、引き続き郡内の諸城には、青山氏(前田家)・舟見氏(上杉家)らが遺臣の蜂起に備え駐留し』、『富山城も破却』され、『成政も在国を許されず』に『妻子と共に大坂に移住させられた。以後しばらくは御伽衆として秀吉に仕え』、天正一五(一五八七)年には『羽柴の名字を与えられている』という一件を指す。その前後はリンク先を参照されたい。]

 

 安永七年[やぶちゃん注:一七七八年。]の冬、此村に貧賤の家に老婆住みて、

「告(つげ)あり」

とて人の病を直す。人一度(ひとたび)此婆子に對して病を告ぐれぱ、婆子諾(だく)して側に入り、菰(こも)をかぶりて暫くして出で、

「一廻(ひとめぐ)りの藥を進ず」

と云ふに藥なし。只信心にして藥を吞むと思へば必ず功あり。

「七日に至りて功なくば又來(きた)るべし」

と云ふ。病者家に歸りて七曰藥を服する心となり、善性をなすと思ひ暮せば必ず驗(しるし)あり。未だ癒えざれば又往きて藥を乞ふに、多く病直れり。

 故に近鄕傳へ聞きて藥を貰ふ者群集す。價を取ることなし。米穀も又受けず。

 初めは村の者繩を張りて、三錢を取りて人を入れしに、此事小杉の奉行所より制して、今は其事なし。

 春に至りては十里廿里に聞き傳へて、藥を受くる者日每に何千人を以て算(かぞ)ふ。故に

「衆人紛(まぎら)はし」

とて、符紙[やぶちゃん注:「ふし」と読んでおく。御札の類。]を切りて與へ印しとす。

「『南無阿彌陀佛』と云(いふ)ことなり」

と沙汰すれども、其實(じつ)知れず。符を受くる人に乞ひて見れば、

「ム」・「ヿ」・「十」

等の字多し。一字づつ切りたるものにて。「ヿ」の字の札多し。何と讀むなることを知らず。稀に

「『シロ』などの字もあり」

と云ふ。

 一日(いちじつ)病の癒えたる人ありて、米貳斗五升を賜はる。使(つかひ)の者(もの)道にて一斗を盜みて、一斗五升を持參る。

 婆子の曰く、

「我は一粒も受けず、取去るべし。此米は一斗を道に預け來れり。貳斗五升として本人に戾せ」

と云ふ。

 彼の男大いに恐れ去る。

 又或家より病癒ゆる歡(よろこび)として、大いなる三重の重に赤飯を入れて贈る。婆子の曰く、

「志(こころざし)過分なり。受けたるに同じ」

とて、内一握り喰(く)ひて其重を返へす。使の者

「何卒爰に置きて又食(しよく)し給へ」

と云ふ。婆子肯(うけが)はず。使の者云ふ。

「左候はゞ遠方を來る人多し、其來(きた)る人に施したし。爰に殘し給へ。曰も暮に及べり」

とて、家の内に殘し去りしに、其夜盜人(ぬすびと)入りて重ながら盜み去る。

 婆子翌日是を聞けども、忘れたるが如く又咎めず。

 是何等の理(ことわり)ぞ。彼婆子平生(へいぜい)の食は、朝每に煎粉(いりこ)[やぶちゃん注:玄米・糯米・小麦などを粉にしたもの。]をなして、人と話の間も是を喰ふ。別に食なし。

 土地の人も評色々にして、妖とし又賣主(まいす)[やぶちゃん注:「賣僧」(売僧)と同じで、人を騙す者の蔑称。]とす。

 されども人の信じ來ること彌々(いよいよ)多し。

 只に「鮑君(はうくん)の母」か、「草鞋(さうあい)大王の妻」かと疑ふ。

[やぶちゃん注:「鮑君」鮑勛(ほうくん ?~226年)は後漢末期から三国時代の魏にかけての政治家。「鮑勲」とも表記される。前漢の司隷校尉鮑宣の九世の孫。ウィキの「鮑君」によれば、二一二年、『父の功績によって、曹操に召され』、『丞相掾』(じょうしょうじょう:君主を補佐する最高職の第三等官)『となった』。二一七年、『曹操の嫡子の曹丕が太子に立てられると、鮑勛は太子中庶子』(太子付きの侍従)『に任じられた。鮑勛は誰に対しても公正な態度で接したため、太子中庶子であった間は曹丕の思い通りにもならなかった。魏郡に赴任した際は、曹丕の正妻である郭夫人の弟が犯した死刑相当の罪を免除するよう、曹丕から懇願されても』、『独断で赦すことはしなかったため、恨みをもたれるようになったという』。二二〇年、『曹操が死去して曹丕が後を継ぐと、駙馬都尉・侍中を兼任した。曹丕(文帝)が即位した後は「狩猟などの遊びは後回しにされて、まずは内政を整えるべきであります」と常に上奏した。このため』、『曹丕は鮑勛を煙たがり、上奏文を即座に破り捨てることまでするようになったという』。二二三年、『司馬懿・陳羣の上奏によって御史中丞』(御史太夫の補佐役で官の不正を取り締まった)『に任命された』。二二五年、『曹丕が呉を討とうとすると、鮑勛は「呉と蜀は山川を頼みとしているため簡単に討つことはできません。今遠征を行ったとしても、敵の連中に利するだけに終わるでしょう」と諌めた。しかし曹丕はさらに腹を立て、鮑勛を左遷し』、『治書執法とした』。『曹丕が寿春から帰還したとき、鮑勛は陳留太守の孫邕』(そんよう)『が設営途中の陣営堡塁を横切った罪を見逃したことがあった。孫邕を追及しようとしていた軍営令史の劉曜が罪を犯すと、鮑勛は劉曜の免職を上奏した。すると劉曜は、鮑勛が孫邕の罪を見逃したことを密かに上奏したという。これに対し曹丕は、鮑勛を逮捕して廷尉に引き渡すよう命じた。廷尉の高柔は、鮑勛の罪は懲役』五『年との判断を示したが、三官は法律によれば罰金で済むことだと主張したという。しかし、曹丕は激怒し』、『三官以下を逮捕してしまった。その後も』、諸臣が『鮑勛の父の功績を持ち出し』て『弁護したが、曹丕は許そうとせず、ついに』『鮑勛を処刑させた』。『鮑勛は父と同様によく施しをしたため、彼が刑死した際には家に財産がほとんどなかった。また、鮑勛の死の』二十日後に『曹丕が病死したため、鮑勛を悼まない者はいなかったという』とある高潔な官僚であった。

「草鞋大王の妻」実は以前にも「三州奇談卷之一 敷地の馬塚」で出、そこでは「近世奇談全集」のルビや国書刊行会本とから「とひがみだいわう」と読んだが、今回の音読みも「近世奇談全集」のルビに従った。多様な読みがあるのを示したく思っただけである。なお、これはお馴染みの仁王門の左右に配される仁王のことを指す。祈願する人がその前に草鞋をぶら下げたところからの古い別名である。「とびがみ」の方は当て読みで「飛神」、即ち、他の地から飛来して新たにその土地で祀られるようなった神を指す語である。]

 

 爰に好事の者ありて、

「此婆子を七百兩に買ひて都會に出でん」

と云ふ。然れども郡方(こほりがた)の法令ありて、此事も止(とど)めり。

 二月の末に至りては評惡しといへども、病人日每に四五百人は必ず來(きた)る。評の惡しきは只食事なり。

「器に顏を入れて喰(くら)ふ。狸の入替(いれかは)りたるなり」

と云ふ。然れども其實知れず。婆子曰く、

「信ありて我(わが)詞(ことば)を用ひなば、海内(かいだい)いかな難病なり共(とも)癒さずと云ふことなし」

と云ふ。

 爰に高岡に一人の博徒あり。金盡きて詮方なし。依りて婆子に逢ひて曰く、

「我が手の中に虫ありて、今夜も賽(さい)を取らざれば臥すこと能はず。金銀錢殘らず虛(むな)し。是も又直る理あらんや。」

婆子曰く、

「信(しん)に依(よ)らん」[やぶちゃん注:信ずればこそ。]

と肯(うけが)ひて符を與ふ。

「七日に來るべし」

となり。

 彼の奕徒(ばくと)歸りて奕場(ばくちば)に向ふに、其夜より少し運(うん)利(き)きて少し利を得たり。七日の間皆少し宛(づつ)利を得たり。

 奕徒大いに勇みて、八日目に奕場に臨む。

 腕中(うでのうち)鬼(き)あるが如く、運間違ひて負けたり。

 怒りて其夜又出づるに、悉く打負けて空囊(くうなう)[やぶちゃん注:空(から)の財布。]本(もと)の如し。

 奕突徒大いに恐れて、又婆子が許に來りぬ。

 符を出(いだ)す。婆子叱(しつ)して曰く、

「吁(ああ)蕩子(たうし)、七日と約して來らず、三日を徒(いたづ)らに過ぐ。汝に何の益する者かあらん、速に去れ」

と。白髮立ちて眼光我(われ)を射る。爰(ここ)も黑川・黑塚相似たれば、「鬼一口」の勢(いきほひ)に、奕徒大いに恐れて足に任せて逃げ歸ると云ふ。此末如何(いかに)とかならん。

[やぶちゃん注:『黑川・黑塚相似たれば、「鬼一口」の勢に』黒川から黒塚を連想してその鬼婆をダブらせ、さらに「伊勢物語」の「芥川」の「鬼一口」をダメ押しで添え、この婆さんの眼光鋭きを見事に映像化した。さればぞ、絵図にあった「鬼沢堤」もここに響いてくるようではないか。]

 

 去れば高岡の醫師【民五と云人。】予に語りて云ふ。

「潜かに思ふに、此婆子は水都(すいづ)[やぶちゃん注:異界としての水界。]の者の助けを得。我能く人の云ふを聞くに、婆子一日(いちにち)に兩度

『垢離(こり)を取る』

と稱して、彼女(かのをんな)堤の水に入る。頭見えぬ程沈むこと度々なり。晝も病人數人(すにん)に對して後(のち)は、井水(ゐのみづ)を汲みて頭(かしら)を洗ふ。頭に水を備(そな)へざれば、病人を見難しと見ゆ。水獺(かはうそ)か、龍蛇か、必ず此池のことゝ覺えたり。曾て古入咄(はな)しすることあり。此三四十年も以前婆子に夫ありし時、或冬一人の尼來りて宿を乞ふ。夫の云ふ

『我貧なり。與ふべき米なし。』

尼の云ふ、

『貪分我にあり、苦しからず』

とて終(つひ)に宿る。洗濯をなし縫針をなす。我用(わがよう)自由を得、外人をも又助く。是より月每に來りて三四日居ては歸る。終に此夫密通すると沙汰ありき。然るに隣人此尼を咎めて所を追ふ。夫(その)隣人を責めて

『何故』

と問ふ。隣人の曰く。

『此尼出所慥(たしか)ならず。必ず歸りには此池へ入る妖物(ばけもの)なり。汝疑はゞ試みよ』

と云ふ故に、宿に歸りて是をためすに、何の替りたることなし。只一日の内に兩度程見えぬことあり。依りて

『遠方へ出づる』

と旅用意などして立出で、隣家の二階に上りて尼を能く窺ふに、此尼家を立出で步むに、二三町[やぶちゃん注:約二一八~三二七メートル。]步むは人なり。夫(それ)よりしては一道(ひとすぢ)の白氣(びやくき)となり、彼女(かのをんな)堤へ飛込む躰(てい)に見ゆ。是に依りて此夫大(おほい)に恐れ、近付(ちかづき)の佛寺へ賴みて祈禱をなし、經文・符文(ふもん)を取りて家に張る。是より尼再び來らず、終に面影もなかりしが、一兩年の内に夫は死せしと聞きし。今や三十餘年を經て、其家に此變を聞く。扨は婆子に屬(つ)く物は此池の主ならんか。後(のち)を見給へ。」

[やぶちゃん注:「我用(わがよう)自由を得、外人をも又助く」ちょっと前半の意味が判然としない。自分のしようとすることを実に自由にこなし、その他にも近隣の人々の手伝いなどもした、か。ただ、この部分、妻である現在の「婆子」の様子が全く語られていないのは、どうもこの昔話そのものが怪しげである。

「屬(つ)く」「近世奇談全集」のルビに拠った。「憑く」。

「後(のち)を見給へ」「油断ならぬから、今から後の婆さんにはよく注意して観察しておくがよろしかろう」というこの高岡の医師の忠告。]

梅崎春生 砂時計 9

 

     9

 

 熊井照子は窓枠(わく)にあやうく小鏡をもたせかけ、それをのぞき込みながら、いらいらした手つきで化粧の乱れをととのえていた。窓ガラスはこまかい雨滴をたくさんとどめて曇っている。栗山佐介は赤い卓上ピアノを包装紙でくるみ、それに紐(ひも)をかけようとしていた。鍵盤は紐でおされるたびに、グルルン、グルルンと不機嫌な音を立てた。熊井照子は指で眼の下をおさえ、いらだたしくつぶやいた。

「いやんなっちゃうわ。ここんとこに隈(くま)が出来てる」

 そして熊井は顔を半分ずらして、鏡面のなかの佐介の背中に話しかけた。

「ねえ。ビールでも飲みに行かない。頭がくさくさして、やり切れないのよ」

「主任にあんなことを言われたからか」佐介は紐にかけた手を休め、鳩時計をあおぎ見た。時計は三時十六分のところで、長針と短針がピタリと重なっていた。「さてね、実は四時に人と逢う約束があるんだ」

「逢う相手は牛島さんでしょ」熊井は小鏡をつかみ、それを乱暴に自分の机の引出しにしまい込んだ。「牛島さんなんか、すっぽかせばいいのよ」

 佐介はふり返って、かすれた声を出した。

「よく判るもんだね」

「そりゃ判るわよ。デパートで別れる時、打ち合わせたんでしょ。動作ですぐに判るわよ」

 佐介は紐を結び終え、レインコートの袖に手を通した。鞄と卓上ピアノを重ねて横抱きにした。そしてなにかためしてみるように軽く足踏みをした。

「すこし僕も疲れた」佐介は足踏みを中止して、今度は右足だけを屈伸した。「雨が降ると、右足がとても具合悪くなるんだ。そのせいで身休も疲れるし――」

「お爺さんみたいな口をきくのね。神経痛?」

「いや」佐介はものうげに壁に背をもたせ、熊井の帰り仕度をぼんやりと眺めていた。「高いところから、落っこちたんだ。それ以来、空気がしめってくると、右の膝がしくしくしてくる」

「軍隊で?」

「そんな昔のことじゃない。ずっと近くだ」

 そして佐介は首をうしろに曲げて、音のない欠伸(あくび)をした。その色艶のない口腔と舌の色を、熊井はすばやい視線で見た。熊井はレインコートのフードを頭に乗せながら、そこから視線をそむけた。

「そう言えばほんとにあなたは疲れているようね。見れば判るわ。顔かたちがすっかり変るんだもの」

「どう変る?」

「眼がだいいち変よ」

「どんなに変だ?」佐介は光のない眼で熊井を見据えるようにした。

「眼玉がかさかさに乾いてるわ。まるで干葡萄(ほしぶどう)みたい。あたし、あなたのそんな眼、嫌いよ」

 熊井はつけつけと口をきいた。彼女も同じく疲れていた。それにこの一室に、第三者がいず、熊井と佐介の二人だけのことは、今までに一度もなかったことだ。そのことが熊井から気がねを取り除き、慣れ慣れしい気持にさせたのだろう。そして熊井は指をまっすぐに立てて、佐介の顔を見た。「その表情よ。何かむごたらしいことでもやりそうな顔!」

「ずいぶんハッキリ言うもんだね」佐介は気がなさそうにまた小さな欠伸をした。「昨夜はサクラ碁会所で碁を打ち、それから近所のある会合に出席して、床に入ったのが午前二時。そして今朝、菅医師を訪間するために、五時に起きた。三時間しか眠っていないのだ」

「睡眠時間のことを言ってるんじゃありませんよ。あんたの顔のことよ」

「うん。だからさ、くたびれて来ると無理が利(き)かなくなるんだ。無理が利かないと、地(じ)の顔が出てくる。もっともムリをしているのは僕だけじゃなく、みんながムリをしている」

「どんなムり[やぶちゃん注:ママ。底本の誤植かも知れぬ。]よ?」

「そら、人と逢ったり、しゃべったりさ、人を眺めたり、眺められたりさ、そんなのがみんなムリなのさ。顔だってムリに笑ったりしかめたり、つまりお互いにつながって生きていることを懸命に証拠立てようとしている。ところが本当はつながってやしないんだな。皆なにか、かんちがいしているんだ。パズル絵みたいに組み合わさっているだけなんだ。ひっくり返せば、皆ばらばらになってしまう。そうなりゃ眼玉だってみんな干葡萄だね」

「へんなこと考えてんのね」熊井は眉をひそめて窓の方に眼をやった。雨はまだ止みそうな気配はなかった。「それじゃあ、あんただってムリをしてるわけじゃないの」

「そうだよ。ムリをしている。困ったものだよ。だからもうムリは止しにして、一番確実なところから、もう一度やり直そうかと思っているんだ」

「あたしは?」

「ハムさんも相当ムリをしているね」佐介はしごく投げやりな口のきき方をした。「人を尾行して喜んだりしてさ。自分の意志で、自分の力で、そして尾行に成功したと喜んでいるんだろう。はかないことだね」

「ふん」熊井は鼻でせせらわらった。「尾行されたから怒ってんのね」

「怒ってなんかいないよ」

 佐介は突然眼をやや大きく見開いて、熊井の全身をしげしげと眺めた。今までハムか何か、そんな物体に見えていた熊井の存在が、急に人間の女らしい感じをたたえてくるように見えたからだ。それはあるいはここが雨に降りこめられて、一種の密室になっているせいかも知れない。佐介は自分の中に、かすかに動く動物的な欲情を自覚した。それに感応したように熊井の体は一歩退いた。

「もう出かけましょう」熊井は白茶けたような顔で部屋中をぐるりと見回した。「どこかに鴨志田さんの傘がある筈よ。どうせ鴨さんはもう出て来ないんだから、貰ってってもいいわよ」

 洋傘はたくさんの埃をのせて、鴨志田の机の下の床にころがっていた。佐介が机の脚でそれをはたくと、薄ぐろい埃がパッパッとしめった空気の中に飛び散った。

「ねえ。ビール飲まない。あたし咽喉(のど)がからからなのよ」

 口内のねばりをそのまま感じさせる口調で熊井が言った。「ひとりでは、ちょっとビヤホールに入りにくいのよ」

「うん」傘を小さく開閉して埃をはらいながら、佐介は生返事をした。

「どうしても牛島さんと逢うの?」きめつけるように熊井は言った。「あんたは先刻、人間はお互いにつながってない、組み合わさってるだけだ、と言ったじゃないの。牛島さんとの組み合わせも、ついでに無視したらどう?」

「うん。でもね、うっかり組み合わせを無視したりずらしたりすると、そのズレが他の部分まで次々に波及して行くんだ。たかがパズル絵なんだけどね、そこんとこがむずかしいんだよ。僕はいっぺん、そこんところを計算間違いして」佐介はちょっと言葉を詰めた。「いや、計算間違いというより、つながっていると誤解したんだな。――」

 佐介はそれきりでふいに黙りこんだ。熊井が次をうながした。

「それで?」

「それで、ビール飲みに行くとするか」佐介は不器用に話を外(そ)らした。「四時に逢うと約束したけれども、あれから二時間半の間に、ずいぶん情勢が変ったからな。牛さんと逢う意味もなくなってきた」

「ふん、二人して何か陰謀をたくらむつもりだったのね」

「陰謀じゃないよ。組み合わさったままでは窮屈だから、そいつをすこし変えてやろうかと思ったんだ。それだけだよ」

「じゃやはり陰謀じゃないの」

「陰謀じゃないさ。陰謀というのは、二人か二人以上でやるものだろう。ところがこれは僕一人だ」

「あら、ずいぶん悪党ぶったせりふね」熊井はわざとらしいイヤな笑い声を立てた。「どうしてそんなことをたくらむのさ」

「興味があるからさ。それ以外に面白いことはないもの。どうせ僕ははみ出ているんだ。そこらをゆすぶって、もぐり込むより他に手はないんだ」佐介は洋傘の埃をすっかり払い落し、ふたたび鞄と卓上ピアノを横抱きにした。もう体内の欲望はすっかり消え去っていた。「さあ。出かけるか」

 佐介が先に立って扉を押し、附段を降り始めた。狭い階段なので卓上ピアノの角が壁にこすれてギチギチといやな音を立てた。熊井は鍵をかけるために少し遅れた。階下の土地事務所は客の姿はなく、事務員が三人ぼそぼそと私語していたが、佐介の足音でいっせいに顔をこちらに向けた。この階段を上り下りする度に、佐介は彼等の視線でしごかれるような気がする。どういう意味にしろ、眺められるということは、いい気持のものでなかった。無意識裡に佐介は鞄を前に回し、防禦的な姿勢をとりながら、この古い建物の軒に出た。雨がやわらかに佐介の頰にしぶいた。窮屈に傘をひろげかけた時、町並の彼方の白濁した空から、鈍重な遠雷のひびきがつたわってきた。それは初めは低く、それからしだいに重いものをころがすような響きとなり、そのまましばらく連続して鳴動した。それは佐介に突然、あの夜闇の中を陸橋に近づいてくる牛車のひびきを、まざまざと憶い出させた。にぶい戦慄が佐介の身内をつらぬいた。海藻を満載した幻の牛車は、白濁の空を押しわけて陰鬱な鳴動とともにじわじわとこちらに近づいてくる。……

「ああ」佐介は思わず低くうめいた。「おれはいつもここに戻ってくる。離れよう離れようと思っても、おれはいつの間にかここに引き戻されてしまう」

 遠雷がもたらす不快な空気の震動のなかで、佐介は瞼の裡にあの牛の顔をありありと思いうかべた。牛は意志も感情も持たない眼で、じっと前路の闇をむなしく見据えていた。その記憶が佐介の眼筋にひとつの刺戟としてつたわり、彼は眼を大きく見開いて、その焦点を雨に煙る町並の上に固定した。(こんな具合か)記憶に肩すかしをくわせるためには、これ以外の方法はなかったのだ。街は街自体の性格をすっかりうしない、無意味で雑多な堆積に見えてくる。しかし佐介の眼は彼の意に反して、外見的には牛の眼には全然似ていなかった。緊張によるかるい斜眼(すがめ)にかぶさって、瞼が神経的にぴりぴりと痙攣(けいれん)しているだけであった。佐介はぴくりと身体をふるわせて、背後をふりむいた。

「おまちどおさま」熊井がフードの加減を直しながらそこに佇(た)っていた。フードの中で熊井の顔はふだんよりもまん丸く見えた。「どうしたのさ、へんな顔をして」

「何でもないんだ」

 熊井は佐介の肩を押すようにして、傘の下に入ってきた。そのままよりそった形で、二人は濡れた街の風景のなかに歩み入った。

「何でもないんだ」佐介は同じ言葉をくりかえした。「疲れているだけの話なんだ。それにしても、君の顔はほんとにまん丸いんだね」

「そのピアノ、あたしが持ちましょか」殺風景な部屋を離れ、雨衣ごしに身体を接して歩くことだけで、熊井の感情は単純に生き生きと動いた。「持ちにくいでしょう」

「いいよ」

「このピアノね、千円でいいわ。考えてみると、あんたにまるまるおっかぶせては、気の毒だもの」

「四百円分だけ同情するのかね」佐介はそっけない口調で言った。「同情はごめんだね。同情というほどイヤな言葉はない」

「だってあんたも先刻、同情という言葉を使ったわ」

「あの時、ほんとにうっかりしてたんだ。取消すよ。僕は今疲れていて、他人に同情する余裕はない」傘の柄をにぎる佐介の右手に、熊井の左掌がかるく触れた。「実を言えば、これを君から買い取ったことも、今少々後悔してる位だ」

「あら、そんならムリに買い取って貰いたくないわ。デパートに持ってけば、引取ってくれるんだから」

 また西の方から遠雷の音がつたわってきた。それは前のよりはいくらか弱かった。

「さて」と佐介がつぶやいた。「牛さんのことはどうするかな」

「すっぽかしなさいよ。あんな助平」

「そう簡単にも行かないんだよ。これも仕事の一つだから」

「ああ、さっき主任が言ってたの、それね。L十三号」

「ふん。君はすこし気が付きすぎる。しかも、その気の付き方の根元にあるのは、好奇心だけだ。いつか君はきっと自分の好奇心から復讐されるよ」声をおとして、「もっとも女なんて、皆そんなものだけどね。好奇心なんて、生きて行くことのテコや、行動することのテコには、絶対にならないものだよ」

「バカにしてるわね」

 熊井の指がつと動いて、傘の柄の佐介の手の甲をきつくつねり上げた。佐介はかすかに悲鳴をあげて、卓上ピアノを取り落そうとした。

「それじゃ、あんたは、一体何で生きてるのよ。いつもふらふら、ふらふらしている癖に」

 

 午後四時、駅の改札口からすこし離れた柱の下に、牛島康之は立っていた。着ているビニールのレインコートは濡れて額にへばりついていた。ふだんなら外であきないする筈の新聞売子たちが、雨のため駅の構内にたむろしていて、そこら一面が人波でごちゃごちゃに混雑している。牛島康之は柱の下にじっと立っていた。人間にはいろんな型があるが、牛島の下駄に似た四角な風貌は、『待つ』という動作においていかにもピッタリと似合っていた。いかにも人を待っているという感じで、牛島康之は棒杭(ぼうぐい)のように佇(た)っていた。

 一杯のビールが、熊井照子の頰をぽっと赤くさせ、栗山佐介の顔をやや生き生きさせていた。もう眼玉も干葡萄の感じはなくなり、唇もわりによく動いていた。時刻外れなので、ビヤホールの中もそう混んでいない。二人はシュロの鉢植えのかげでなく、見通しのまんなかのテーブルに腰をおろしていた。ああいう職業に従事していると、かえって逆の心理がはたらいて、そんな席を選んでしまうものだ。全然他人から見られない場所か、あるいは全然見通しの場所。中途半端な場所はかえって具合が悪かった。素通しの盲点みたいな席に腰かけて、二人は一杯ずつのビールを飲みほした。二杯目の券を買いに熊井が立ったあと、佐介は顎杖をつき、しばらく時計をにらんでいた。時計の針は四時二分過ぎをさしていた。佐介の隣の椅子には、鞄と卓上ピアノの包み、それに洋傘がたてかけてある。洋傘からの水が床に不規則な水たまりになってひろがっていた。包装紙もすこし濡れて破れ、卓上ピアノの赤塗りの地肌がのぞいている。デパートヘ返品するという件も、うやむやになってしまったものらしい。店内のラジオが大きな音を立てて鳴っていたが、ビヤホールのまばらな客も給仕人も、誰もそれを聞いていなかった。趣味講座『猫の飼い方』。声は空気をひっかき回すだけの役割を果たしていた。熊井照子が席に戻ってきて、二杯のビールが運ばれた。

「戦後になって、外米がぞくぞくと入ってくるようになってきた」ビールの泡を舌で舐(な)めて、佐介が含み声でそう言った。「ところが外米は、品種や栽培法の関係上、バサバサしている。そこで料理に工夫をこらして味をおぎなうと言うことになるね。たとえばどんな料理が外米に適するか」

「カレーライスやヤキメシね」熊井が口をはさんだ。一杯のビールが熊井の発音を軽くしていた。料理は女の専門だという自負の感じもあった。

「そうだよ」佐介はうなずいた。「だから戦後カレー粉の需要がぐんとふえた。外米の関係と、それにカレーライスというやつは、家庭料理の中でも安上りの料理に属するな。だからカレー粉は夏でも冬でも需要が絶えない。需要がふえると、生産もふえる。今までのカレー工場は拡張するし、また新規の工場もあちこちに出来てきたんだ。つまり外米の輸入にともなって、カレー粉の原料も続々と輸入されるということになった」

「そうね。カレーの木は日本にはないものね」

「そう知ったかぶりをするんじゃない」佐介は軽くたしなめた。「カレーの木は日本にはないが、外国にもないんだ。世界中のどこにもそんな木はないんだ。あのカレー粉というやつは、たくさんの木根草皮[やぶちゃん注:「もっこんそうひ」と音読みしている模様である。]を粉にして混合したもんだよ」

「木根草皮ということはないでしょ」熊井が揚げ足をとった。「草根木皮なら判るけど」

「そうだ。言いそこないだ。たとえばどういうものが入っているかと言うと、辛味としてはコショウ、ショウガ、唐辛子、カルダモン。香料としてはウイキョウ、肉桂、クミン、フェネグリーク、ナツメッグ、月桂樹」佐介は胸のポケットから、そそくさと小さな皮手帳を取り出し、頁を開いた。「ここにいろいろ書いてあるだろう。着色にはターメリックだ。つまり鬱金(うこん)だね。これは印度産。オールスパイス、これも日本に出来ない。世界で出来るのはジャマイカ島だけだ。カレー粉の原料の九割までは外国産で、日本で出来るのはわずか一割というわけだ。上等のカレー粉になると、三十何種類という草根木皮が使われるが、近頃出来[やぶちゃん注:「しゅったい」。]の町工場などではそんなに使ってやしない。せいぜい十二、三種類だね」

「よく調べ上げたもんねえ」

 熊井は嘆声を発して、手帳の頁をのぞきこんだ。頁にはたくさんの片仮名の名前が、ずらずらと並んでいた。

「どうしてそんなに調べたの。町工場でも開くつもりなの?」

「それはあとで言う。もともとカレー粉というやつは、インド人種の中のタルミ族が使い始めたものなんだ。なにしろ印度は暑い。暑いから食欲がおとろえる。だから刺戟性のもので食欲を刺戟することになるんだ。カレー粉というものは、大へん刺戟の強いものだね。そこから問題が出て来たんだ」

 駅西口の改札口の近くで、『待ち男』の牛島康之は円柱にもたれ、二本目の莨(たばこ)をふかしていた。時計は四時十五分をさしていた。彼は少しずつじりじりし始めていた。改札口の改札係は、次々出てくる人波をさばくためにアクロバティックな手の動かし方をしていた。さばいてもさばいても、流れてくる人波は絶えなかった。その時駅の内からあふれてくる人波の中に、ひときわ背の高い禿(は)げ頭の男の姿が見えた。夕陽養老院の黒須院長であった。黒須院長は洋傘をわしづかみにして、もまれるように改札口を出てきた。院長の禿げ頭はじっとりと汗ばんでいた。

(さあ。何か旨(うま)いものでも食べよう)

電報を打ちに出たついでに、ふっと気が向いて、院長はこの盛り場に出る気持になったのだ。久しぶり街を歩く若い女も眺めたかったし(女秘書の空想で院長はかなり情緒を刺戟されていた)、今夜の会見にそなえて栄養物を摂っておく必要もあった。栄養を摂らなきゃ耐久力も出ない。それに相手は大勢なのだ。黒須院長はあたりをへいげいしながら、『待ち男』牛島のそばをのっしのっしと通り過ぎた。牛島は莨をぐいとふみ消しながら、またいらいらと電気時計を見上げた。

「その工場はだね、今年の初めまで、キャラメル工場だったんだ。ところがそいつが大資本に圧迫されて、とたんに潰れてしまった。そしてカレー粉工場になってしまったんだ」佐介は熊井を見詰めながら、熱心な口調になった。牛島のことはもう忘れてしまっていた。「キャラメル工場ならまあ我慢出来るけど、カレーは困るな。修羅印(しゅらじるし)カレーと言うんだが、なんだか名前からして辛味が利いてるようだろ。だから売行きもいいらしく、近頃では三部制か何かにして徹夜作業をやっているんだ。運び込んだ原料を粉にするのに、どういう方法をとるか、原料が原料であぶらっ濃いのが多いから、製粉機やミキサーは使えない。キネでつくんだ」

「お餅みたいにして?」

「いや、人力でつくわけじゃなく、機械は機械だけどね、やはり形式としてはウスとキネだ。何十というウスと何十というキネが、間断なく、ガシャ、ガシャ、ガシャと落下する。その音がたいへんなものだ。夜なんか一町[やぶちゃん注:約一〇九メートル。]四方にひびきわたるね」

「あんたの家、その工場の近くにあるの?」

「その工場が、僕の家の近くにあるんだ」と佐介は訂正した。「塀ひとつ隔てたと言っていいくらいの近さにあるんだ。音は音として、それでいいとしよう。こんどはにおいだ。工場の設備が悪いために、そこら中がカレー粉で汚染されている。風向き次第でその粉は遠くまで流れて行く。毎日々々カレー粉を吸わされている人間が、一体どうなるか。どういう変化をおこすか。僕が今目の昼飯の注文で、カレーライスがイヤだと言ったら、仲間はずれをすると君は非難がましい口をきいたね。これでイヤなわけが判っただろう。だからあまりお節介はやかない方がいいんだよ」

「お節介じゃないわ。親切心で言ったのよ」

「そして僕らは集まった。僕らというのは、工場近くに住んでる連中のことだ」酔いが饒舌にさせているのを意識しながら、佐介はその流れに任せていた。しゃべることはこころよくもあった。「集まっていろいろ相談した。そして工場主の修羅吉五郎に交渉を始めることになったのだ。僕の役割は各種の調査ということになった。だからいろいろ調べ上げたのさ」

 佐介は手帳をぽんと叩いて、ポケットにしまい込み、ジョッキの半分をごくごくと飲みほした。

「昨夜の会合というのもそうさ。そう須貝に報告したらいいだろう」

「ふん、なぜ?」

「あそこじゃあ原則的に、お互いがお互いを見張るという仕組みになってるんだ。人間の組み合わせとしては、一番単純な組み合わせだね。それであの須貝主任は、いっぱしうまくやってるつもりなんだ。もう彼も少しヤキが回ったね。L十三号だってそうさ。ああ、そうだ。牛さんはどうしたかな?」佐介はまた時計を見た。「もう三十分の遅刻だ」

「あたし、報告なんかしないわ」熊井は間接に監視の事実を認めた。「でも、研究所の仕事にはあまり熱心でないくせに、カレーのことになるとやけに熱心なのね」

「だってカレーのことは重大だもの。おかげで、カレーライスという旨い食べ物を僕は嫌いになったわけだろう。しかもそれは他力によってだよ。他の力によって、僕はカレーライスという快楽を奪い去られたんだ。奪われたものは奪い返さねばならない。そう僕は僕自身に、近頃くれぐれもそう言い聞かせているんだ」

 佐介は苦しそうな笑いをうかべ、本当に自分に言い聞かせるような含み声になった。

「そこを黙っていると、僕はまたダメになってしまう。ダメになったきり回復出来なくなってしまう。人間なんてそんなものだというところに落っこちてしまう。今だって半分落っこちているんだ」

「あなたなんか、研究所の仕事をやめるといいのよ」母性的な衝動が熊井を動かした。「あんな悪党仕事はあなたには向かないわ」

「ふふん」我に返ったように顔を上げて、佐介はつめたい声を出した。「悪党仕事? 君だって平気な顔で勤めてるじゃないか」

「あたしは直接仕事にタッチしてないもの。雑用だけだから」

「へえ。そいつはずいぶん都合のいい論理だね」佐介は頰にうす笑いをうかべた。それはあの須貝主任の悪党めかした笑い方にどことなく似ていた。「なにが悪で、なにが善か。そこをはっきりさせないと、君の忠告はなり立たないんだよ。よくそういうごまかしの場所に、安心して坐って居れるな」

「あんただって、ごまかしじゃないの。カレーライスが嫌いになったからって、カレー粉を分析して何になるのさ」

 熊井はいらだたしげに卓の下で足踏みをした。電気時計をまた見上げながら、牛島はいらいらと足踏みをしてつぶやいた。

「もう三十分以上待たせたな、これ以上待たせると、俺はほんとに怒り出すぞ。ほんとにあいつ、何をしてやがるんだろう」

 そしてこの辛抱強い待ち男は、せかせかと鞄をひらき、中から針と糸を出して、レインコートの裾をつまみ上げた。裾の一部分が、さっき木馬の釘にひっかけて、かぎ裂きになっていた。牛島は柱の下にしゃがみ込んで、そこをつくろい始めたが、地がビニールなので、どうもうまく行かないらしかった。佐介は残りのビールを一気に飲みほした。熊井のそれはすでに空になっていた。

「さあ、出かけるか」佐介は言った。「じゃあこの卓上ピアノの代金を払うよ」

「千円でいいわ」

「ムリしなくてもいいんだよ」

 そう言いながら佐介は千円札一枚を取り出し、卓の上に乗せた。卓にこぼれたビールにそれはきたならしくベタリと貼りついた。佐介はあわてて小指と親指でそれをつまみ上げた。

「千円でいいのかい?」

 つまんだ指を離して、惨めな表情で牛島は立ち上った。針と糸を鞄にしまい込み、かなたに見える横町の方を眺めながら呟いた。

「すこし腹もへってきたな、どうも富岳軒のライスカレーは盛りが悪い。二つぐらい食わないと、腹にこたえないな。嘆かわしいことだ」

 牛島が眺めているその食い物屋横町の三軒目の鰻(うなぎ)屋に、黒須院長はどっしりと腰をおろして、さっきから大串(おほぐし)の鰻をせっせと食べていた。鰻はしたたるばかりのあぶらを乗せ、院長の口腔の中をねとねとにした。黒須院長は飯を口に運び、そしてまた大串を横ぐわえにして、満足げに鰻の身をしごきとった。院長の居はねっとりと艶を持ち、その眼は単純なよろこびにあふれていた。少くともこの瞬間だけは、黒須院長は完全にニラ爺たちのことを忘れ果てていた。忘れ果てて鰻に没頭していた。

[やぶちゃん注:本章で遂に連関が不明であった「1」の自殺未遂のシークエンスがここで連結され、あの男が栗山佐介であったということが明らかにされる。また、唐突に映像的に黒須院長と牛島の街頭で行き違うカット・バックやモンタージュのシークエンスをことさらに挿入して描くところからも映像的面白さを狙った以外に、話柄中の別の関連性の可能性の示唆をも示しているのではないかという感じが濃厚に伝わってくるではないか。ここで、黒須が雇っている書記というのは実はこの佐介なのではあるまいかという推理が働くからである。週に三日しか出社義務がない佐介が、残りの日を「都内某団体の書記」をしているという自身の告知とが上手く当て嵌まってくるように見られるからである。

 なお、底本の解説で中村真一郎氏もこの最後の部分の面白さを、『フランスの現代作家たちが多く試みている「同時性」の手法なども、彼は面白がって、殆んどパロディー風に、あるいは漫画風に活用させてみせている』。『第九章の終りで、作者が「熊井はいらだたしげに卓の下で足踏みをした。電気時計をまた見上げながら、牛島はいらいらと足踏みをしてつぶやいた」と続けて書いているが、熊井という女はビヤホールでメートルをあげているのだし、彼女にからまれている佐介という男に待ちぼけをくわされて、牛島は駅の構内で苛立っているわけである。二つの異った場面が、その同時性によって、相つぐセンテンスに結合させられている。こういうやり方は養老院の騒動の場面になると、殆んど映画のカット・バックのように頻用されて、滑稽な効果をあげているのである』と特に挙げて評価しておられる。

「フェネグリーク」マメ目マメ科マメ亜科フェヌグリーク属Trigonella foenum-graecum。英語名「fenugreek」。ハーブ・香辛料の一種でもある、マメ亜科の一年草植物。地中海地方原産。古くから中近東・アフリカ・インドで栽培された。日本には享保年間に持ち込まれたことがあるが、農作物として栽培されることはなかった。英名の fenugreek は大雑把に言って古いラテン語「faenum graecum」(ギリシアの馬草(まぐさ))に由来し、この古語がやや変化して現在の種小名ともなっている。本邦では「フェネグリーク」の音写もよく使われる。詳しくは参照したウィキの「フェヌグリーク」を見られたい。

「タルミ族」これは「タミル族」のこと。主に南インドのタミル・ナードゥ州やスリランカの北部・東部に住み、タミル語を話すドラヴィダ系民族で、誤植や誤記ではなく、梅崎春生がわざと悪戯から、かくした可能性も排除出来ない(後で実際に洒落出る。そうした傾向は彼の中にある)。カレーの語源には諸説あるが、タミル語で「食事」を意味する「kaRi」という説が有力である。]

今日、先生の不審が始まる……そうして「お孃さん」の例の〈笑い〉の初登場の日でもある……

 ある日私は神田に用があつて、歸りが何時もよりずつと後れました。私は急ぎ足に門前迄來て、格子をがらりと開けました。それと同時に、私は御孃さんの聲を聞いたのです。聲は慥(たしか)にKの室から出たと思ひました。玄關から眞直に行けば、茶の間、御孃さんの部屋と二つ續いてゐて、それを左へ折れると、Kの室、私の室、といふ間取なのですから、何處で誰の聲がした位(くらゐ)は、久しく厄介になつてゐる私には能く分るのです。私はすぐ格子を締めました。すると御孃さんの聲もすぐ己(や)みました。私が靴を脫いでゐるうち、―私は其時分からハイカラで手數のかゝる編上を穿いてゐたのですが、―私がこゞんで其靴紐を解いてゐるうち、Kの部屋では誰の聲もしませんでした。私は變に思ひました。ことによると、私の疳違ひかも知れないと考へたのです。然し私がいつもの通りKの室を拔(ぬけ)やうとして、襖を開けると、其處に二人はちやんと坐つてゐました。Kは例の通り今歸つたかと云ひました。御孃さんも「御歸り」と坐つた儘で挨拶しました。私には氣の所爲(せゐ)か其簡單な挨拶が少し硬いやうに聞こえました。何處かで自然を踏み外してゐるやうな調子として、私の鼓膜に響いたのです。私は御孃さんに、奥さんはと尋ねました。私の質問には何の意味もありませんでした。家のうちが平常より何だかひつそりしてゐたから聞いて見た丈の事です。

 奥さんは果して留守でした。下女も奥さんと一所に出たのでした。だから家に殘つてゐるのは、Kと御孃さん丈だつたのです。私は一寸首を傾けました。今迄長い間世話になつてゐたけれども、奥さんが御孃さんと私だけを置き去りにして、宅を空けた例(ためし)はまだなかつたのですから。私は何か急用でも出來たのかと御孃さんに聞き返しました。御孃さんはたゞ笑つてゐるのです。私は斯んな時に笑ふ女が嫌でした。若い女に共通な點だと云へばそれ迄かも知れませんが、御孃さんも下らない事に能く笑ひたがる女でした。然し御孃さんは私の顏色を見て、すぐ不斷の表情に歸りました。急用ではないが、一寸用があつて出たのだと眞面目に答へました。下宿人の私にはそれ以上問ひ詰める權利はありません。私は沈默しました。

   *

 私は其卓上で奥さんから其日何時もの時刻に肴屋(さかなや)が來なかつたので、私達に食はせるものを買ひに町へ行かなければならなかつたのだといふ說明を聞かされました。成程客を置いてゐる以上、それも尤もな事だと私が考へた時、御孃さんは私の顏を見て又笑ひ出しました。然し今度は奥さんに叱られてすぐ己(や)めました。

   *

『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月12日(日曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第八十回より。「己(や)めました」の「己」は「已」の誤植。この誤りは初出では複数回存在する)

2020/07/11

梅崎春生 砂時計 8

 

     8

 

 夕陽養老院の建物は、二階建てでコの字の形をしていた。前身の病院時代には、ペンキも年に一回ぐらいは塗りかえられ、庭には芝生や花壇があり、鶏がそこらを歩いたりして、いかにも高級病舎らしい整頓ぶりを見せていたが、現在では鶏のかわりに豚が飼われ、芝生はすっかり畠となり、建物のペンキもぼろぼろに剝げ落ちて、折柄の雨にしっとりと錆色(さびいろ)に濡れている。バルコニーや院長室のある正面は、南向きでその幅もせまい。そこから後方に伸びる二棟の建物は、それぞれの位置によって、東寮、西寮と呼ばれている。韮山爺さんの居室は、その東寮の階下の一番どんづまりの位置にあった。つまりここを通り越すと、もうあとは便所と浴室しかないわけだ。あまり良い部屋ではなかったが、年に一回くじ引きで決めるのだから、文句は言えないのである。しかし、その年一回のくじ引きの期日を、もう一ヵ月も過ぎているのに、まだ院長側から何の音沙汰もないのだ。両三度かけあってみたのだが、近いうちにおこなう予定だという返事だけで、なにか黒須院長の態度はあいまいであった。

「そこがどうもおかしいと思うんだ」同室の松木爺さんが口をとがらせて、ぐるりと一座を見回した。うすぐらい六畳の部屋には、七八人の老人たちがそれぞれの姿勢で、壁に背中をへばりつかせて、車座をつくっていた。部屋の空気はこわばって、重苦しく緊張していた。

「去年までは毎年、チャンとした期日に、チャンと部屋替えのくじ引きがあったな。しかもそのくじは、俺たちの代表者がこしらえたんだから、不正も情実もなかった。つまり民主的に運営されていたわけだ。ところが今年はどうだ。あの海坊主(黒須院長はかげではこう呼ばれていた)は勝手に期日を引き延ばし、かけあってみてもごまかし口ばかりきく。きっとまた何かたくらんでやがると思うんだ」

「そうさな」長老の遊佐爺が白鬚を撫でながら発言した。「ひょっとするとくじ引きを廃止して、部屋割りの権限を自分の手に収めようとたくらんでるのかも知れんな。わしはそう見当をつけている。あいつがやりそうなことだ」

「そんなことになったら大変だ」小机を前にして臨時の書記役をつとめているどんぐり眼の滝川爺が、ペンの柄でこつんと机をたたいて、口を入れた。「そうすればあいつは部屋割りを、論功行賞風にやるに違いない。すると俺なんかは、平素からよく思われていないから、いつまでたってもどんづまりの部屋だぞ」

「俺も」

「俺もだ」

「わしも」

「わしもだ」

 一座の老人たちは、いっせいに眉を吊り上げて、異口同音にそう唱和した。とかく口がうるさく行動的であるために、この老人たちは院長側にはよく思われていなかったのだ。唱和しなかったのは、韮山爺だけだ。韮山爺は部屋のすみの一番うすぐらい場所に、きちんと膝を折ってうなだれていた。なにかそれは祈っているような姿勢に見えた。

「よし」遊佐爺が重々しくうなずいた。「じゃあ、滝爺さん、それも抗議の一条に加えてくれ」

 滝爺はペンを持ち直して、机上の紙に力をこめてガシガシと次のように書きつけた。

 

 『部屋割りくじ引きを早速行うこと。くじは例年通
 り在院者代表によって作製さるるものとす』

 

「それに拡張工事のことだな」遊佐[やぶちゃん注:ルビがない。通常は「ゆさ」「ゆざ」。前者で読む。]爺はぐるりと一座をにらみ回すようにした。遊佐爺は夕陽養老院きっての年長者で、満七十八歳になるが、まだ体力も頑丈だし、声音もはっきりとしている。せんだってまでは八十歳というのがいたが、浴室のタイルでつるりとすべり、後頭部を打って死んでしまった。そこで遊佐爺が長老格に昇進したわけだ。若い頃は船乗りだったということだから、潮風に身体をきたえ上げたのだろう。「居住区は一人三畳宛(あ)てという約束を無視し、ごまかしにごまかしを重ねて、海坊主はわしたちを二畳にまで追い込んだ。それはごまかされたわしたちもだらしがなかった。これ以上だらしがないと、だんだん二畳が一畳半、一畳半が一畳と、追いつめてくるに相違ないと、わしらはにらんでいる」

「その通りだ」

「と言って、元通りの三畳を確保するために、在院者の三分の一に出て行け、と言うことは出来ない。一度入院したものを放り出すことは絶対に出来ん!」そして遊佐爺は韮山爺の方をちらと見た。すこし声を張り上げたのは、韮山爺に元気をつけるためのゼスチュアだと知れた。

 しかし韮山爺はさっきと同じ姿勢で、うなだれたまま黙って窓ガラスの方に横目をつかっていた。ガラスの上には、どこから忍び入ったのか、一匹の大きなナメクジが鈍色(にびいろ)[やぶちゃん注:濃い灰色。]の筋を引いて、ひっそりと這い回っている。韮山爺の眼は放心したようにそれを見ていた。さきほど玄関の告示を見た時の衝撃が、まだ韮山爺の胸に残っていて、何も考える力もなく、また一座の会話もほとんど耳に入らない風であった。韮山爺はナメクジの胴体が微妙に蠕動(ぜんどう)するのを眺めながら、お念仏のようにつぶやいた。「一万二千円。ああ、一万二千円」

「そうだ!」別の爺さんが勢(きお)い立った声を出した。「追い出すことはでけん。寮舎増築を要求せよ!」

「滝爺さん。それも書いてくれ」遊佐爺は目くばせをした。「それから食事の問題だ」

 食事、という言葉を発音した時、一座の老人たちにかすかなどよめきが起った。院内生活において食事がどんなに重大な行事であるか、そのどよめきはそのことをハッキリ示していた。遊佐爺は効果を確かめるようにちょっと間を置いて、重々しく言葉をついだ。

「ひとことにして言えば、黒須院長が就任して以来、食事の質が低下したというわけではないが、たいへん不均衡になってきた傾向がある。それに以前とくらべて、鮮度も落ちてきたようだな。とにかくわしたちはカロリーさえ摂(と)ればいいのじゃない。老人には老人としての嗜好(しこう)があるんだ。朝には朝らしい食事、夕方には夕方らしい食事。わしらが欲しいのはそれだ。ところが海坊主は、わしらの嗜好を完全に無視しとる」

「そうだ。その通りだ」一座は異口同音に賛成した。「朝から刺身やテンプラを出すのはまあいいが、夕食に味噌汁一杯とタクアンだけとは、一体なにごとか」

「一昨日の朝のマグロ刺身は、たしかにあれは腐っていた」松木爺が口をとがらせた。「たしかにあいつは腐っておった。豚にやったら豚も食わなかったぞ」

「テンプラだって、身が半分千切れたようなのが出る」と別の声が言った。「第一これだけの大世帯に、栄養士が一人もいないなんて、違法じゃないか」

 朝からテンプラが出たり、夕方にろくなおかずが出なかったり、そんな変則な状態になってきたのは、つい三ヵ月ほど前からのことだ。野菜は院内の畠のやつを使うから新鮮だけれども、動物性食品になるとどうも鮮度が怪しいのだ。どうしてそんなことになるのか、在院者は調理場に立入禁止ということになっているので、さっぱりその原因がつかめないのだが、毎日の間題であるだけに、不平はようやく在院者全体に瀰漫(びまん)[やぶちゃん注:一面に広がり満ちること。蔓延(はびこ)ること。]しつつあった。

「よろしい」遊佐爺は断を下した。「調理場の一般開放。これを要求の一つに加えよう」

「いや。それじゃ手ぬるい」松木爺が膝を乗り出した。

「開放だけじゃなく、材料仕入れや調理方法に、こちらの発言権を認めさせた方がいいぞ。なんなら料理係をクビにして、俺たちが輪番制でやってもいいくらいだ」

一座はがやがやとどよめいて、松木爺の発言に対する検討が始まった。雨は相変らずしとしとと窓ガラスを濡らし、室内の空気をしめっぽくさせていた。韮山爺はさっきと同じ姿勢で、やはり横目でナメクジをにらんでいた。ナメクジはぬめぬめした筋をガラスに残して、じりじりと上方に移動していた。(ああ。一万二千円)韮山爺は泣くような気持で思った。(向う一ヵ月に一万二千円をつくらねば、俺はここから追い出される。追い出されたら、もう行くところはない。行くところがなければ、死ぬほかはない。しかし俺が死んでも、誰も悲しんではくれないだろう。死んだら死骸は無縁仏として埋められるだろう。無縁仏のお墓は、たいていじめじめしたところにあるものだから、大きなナメクジなんかが沢山這っているに違いない)韮山爺はぶるっと大きく身ぶるいをして、ナメクジから眼を放した。一座の談義はやっとまとまったところらしく、滝川爺がふたたびペンを握って、机上の紙に何か書き込んでいた。その時廊下の方から、小走りに走る乱れた足音が聞えた。つづいて小さな叫び声も。――滝川爺はペンを置き、中腰になって廊下に面する窓をあけ、大声で怒鳴りつけた。

「重大な会議をやっているんだから、遊びごとはよそでやってくれ。いい歳をしてなんだ。うるさいぞ!」

 足音はぱたりと鳴りをひそめ、そして脅(おび)えたようにぼとぼとと向うの方に遠ざかって行った。滝川爺は舌打ちをしながら、ぴしゃりと窓をしめた。

「ほんとにしようのない爺さんどもだ。暇さえあれば、鬼ごっこやかくれんぼばかりして、子供じゃあるまいし」

 一座の爺さんたちは顔を見合わせ、うなずき合いながら賛意を示した。その時の彼等の表情には、総じて優越の色があふれているように見えた。少くとも鬼ごっこよりも会議の方が高級だと言わんばかりに。

 夕陽養老院の在院者は、必ずしもこの一座の老人たちのように、口うるさいいっこく者ばかりではなかった。いろんな型の老人がいた。勝負ごとに凝(こ)って他のことには全然関心を示さない爺さんもいるし、新興宗教に帰依(きえ)しているのや、また食べることだけがたのしみというのもいた。またすっかり童心にかえって、子供のように無邪気に遊ぶ爺さんのグループもいた。その連中がさっきから廊下で鬼ごっこをやって、会議の邪魔をし、滝川爺さんのかんしゃく玉を破裂させたわけなのだ。

 韮山爺はその滝川爺の顔をそっとぬすみ見ながら思った。(ああ、ほんとのことを言えば、俺もこんなとげとげした会議より、鬼ごっこに仲間入りしたいんだがなあ)

「海坊主が就任して以来――」その時柿本爺がぎくしゃくと坐り直して口を切った。この爺さんはわりに無口な方だが、いったん口を開けば相当なうるさ型であった。「その感化を受けて、事務員や料理係の木見婆[やぶちゃん注:「きみばば」。「きみ」が姓。]までがわしらに横柄になってきた。これも何とかして貰わんけりゃならん」

「そうだ。それは元兇の海坊主に反省を求める必要がある」

「実際あの海坊主は、バカでかい小道具にかこまれて、威張りくさってやがるなあ。院長室のあの硯箱のでかいこと。まるでオマルみたいじゃないか」

「そう言えば、わしがこの間神経痛で寝たとき、俵(たわら)に診察して貰ったが、あの医者の聴診器もふつうのより一回り大きかったぞ。あれも海坊主の影響かな?」

 俵というのは、週に二回院外から通ってくる、小柄で中年の医者のことだ。診察もぞんざいだし、注射のしかたも下手だというわけで、ここではあまり評判がかんばしくなかった。

「うん。あの聴診器も全く大きい」と別の声が嘆息した。

「まるで牛か馬を聴診するみたいだなあ」

「もしかすると、あいつは人間の医者じゃなく、獣医じゃあるまいか」滝川爺が小机から上半身を乗り出し、たまりかねたように口を開いた。「この間おれが腹痛で寝た時、来診してきて、先ず最初に指でおれの鼻をさわったよ。このおれを、犬と間違えたんじゃないか。どうもそうらしいぞ」

 ぎょっとしたような沈黙が来た。滝川爺のただならぬ発言が、各自の胸にぐんとこたえたのらしい。皆は姿勢を硬くし、なにか探るような眼付きで、お互いの顔をじろじろと眺め合った。韮山爺も同様に惨めになり、犬か猫なみに下落したような気分になって、無意識裡に左手を妙な形に曲げ、伸びた爪で窓ガラスをガリガリと引っ搔いた。

「猫みたいなことをするんじゃない!」滝川爺がそれを聞きとがめて叱りつけた。「ふん。万一あいつが獣医だとすれば、この俺たちは人間並みに取り扱われていないということになるな」

「そう言えばわしもあの医者から、咽喉(のど)をくすぐられたことがある」

「それは重大な間題だ」遊佐爺も落着かぬ風(ふう)に顎鬚(あごひげ)つまんで引っぱった。「それは至急に調査する必要がある。もし俵医師が獣医だったら、これはもう人権の間題だな」

「それも抗議に加えるかね?」と滝川爺はペンを持ち直した。

「いや。それは待ちなさい」遊佐爺は長老らしく静かにそれを手で制した。「事実をはっきり確かめてからにしよう。うっかりしてホンモノの医者だったら、逆手をとられてしまうからな。しかしこんなに皆で話し合うと、いろんなことがはっきりしてくる。たいへんいいことだ。初めての会合としては、まず成功の部類だな」

「院長とはいつ会見するんだね」

「さっき玄関のところで俺は海坊主と会った。そして会見を申し込んだのだ」滝川爺はペンを置き、どんぐり眼で一座を見回して、一語々々はっきりと発言した。「すると海坊主が言うには、昼間は事務でいそがしいから、今夜なら逢おうと言う。それも三十分だけだと言うのだ」

「それは横柄に出たもんだな」松木爺が言った。「なんであいつが忙しいものか。ま、しかし、夜なら夜でもよろしい。わしたちは論理を正しくし、ごまかされないようにして、今夜こそ海坊主の首ねっこをしかと押えてやる必要がある」

「そうカンタンに行くかねえ」ややひるんだ声がすみでした。「なにしろ相手は、鉄の如き信念を持ってるそうだぞ」

「大丈夫だ。大休大丈夫だと思う」遊佐爺がかわって自信あり気(げ)におっかぶせた。「わしの七十八年の経験によると、ああいう男は案外に弱いものだ。たとえばあいつの眼を見ると、まるで人を咎(とが)めだてするみたいな眼だ。心の中にひどい弱味を持っていればこそ、そんな眼付きをするのだ。弱味がなければ、もっと平静な眼色になる筈だな。それにあの巨大な灰皿やハンコ」遊佐爺は手でその形をなぞって見せた。「あれもごまかしのハッタリだ。あいつの気持か身体の中に、なにか小さな、倭小(わいしょう)なものがあるに違いない。だからこそバカでかいものを持ち出して、そこらをごまかしてしまおうとしているんだ。今まではあいつが攻勢に出ていたから、さしてボロを出さずに済んだが、今度こちらが攻撃側に立てば、きっとボロを出すに違いないのだ」

「それはちょっと楽天的に過ぎないか」柿本爺が唇を歪(ゆが)めて異議をとなえた。「相手は海坊主個人ではない。海坊主の背後に、またもろもろの大坊主が立っている」

「だからわしらは徐々にやるんだ」

「海坊主があんな挑戦的な告示を出したのは、相当な成算があるからだと俺は思う」柿本爺も負けていなかった。

「これは相当に綿密な作戦計画を立てないと、ひどい目にあう公算が大きいぞ」

「だからわしらは、徐々に、確実にやって行くんだ」遊佐爺もやや声を荒くした。「一歩々々やって行くんだ。そうだ。滝爺さん。昼間はいそがしいと、あいつは言ったんだな。先ず手始めに、それがホントかウソか、ひとつ隠密(おんみつ)を出してみようじゃないか」そして遊佐爺は眼を上げて、一座の一人々々の顔をおもむろに眺め、やがてその視線は韮山爺のところでぴたりと止った。遊佐爺は声をやわらげて呼びかけた。「ニラ爺さん。御苦労でもちょっと二階に行って、院長が何をしているか、そっと見て来てくれんか。相手に気付かれないように、そっとだよ。お前さんは身体が小さいし、足音もあまり立てないから、丁度よかろう」

「へ。わしが?」韮山爺はきょとんと顔を上げた。「わしが何をやるんで?」

「院長の様子を探ってくるんだよ」滝川爺がいらだたしげに口をそえた。「今なにをやっているか、そっと見てくるんだ。しっかりせえよ、ほんとに」

「ヘヘ」

韮山爺は困ったような笑い方をして、それでもしぶしぶと立ち上った。長い間の正座で足がしびれたらしく、ひょこひょことびっこを引いて扉口まで歩いた。皆の表情はヘんにつめたくなって、その動作を眺めている。扉のところで韮山爺はまた照れたような無意味な笑い方をした。

「へ、ヘヘ」

韮山爺の姿が扉のむこうに消え、そして足音が廊下を遠ざかった時、遊佐爺は大きく呼吸をして口をひらいた。緊張した長談義のため、一座の面(おもて)にはかくし切れぬ疲労の色がただよっている。

「当然のことだがこの会議は、今回のニラ爺事件が中心になるべき筈だ。ところが当のニラ爺は、今わざと席を外(はず)して貰ったが、態度がぐずぐずしていて、何を考えているのか一向にハッキリしない。わしらと一緒に立ち上って戦う気持があるのかないのか。一体わしらはこういうニラ爺をどう取り扱うべきや――」

「こんなに重大な、自分に深い関係がある会議中、ニラ爺は何をしていたか」柿本爺が痛憤にたえぬという顔付きで、窓ガラスを指さした。「おれたちの話は全然聞かず、あの窓ガラスのナメクジばかりを眺めていたぞ!」

 みんなの視線のまっただなかで、ナメクジはのろのろとその針路を変えた。

 韮山爺は廊下を曲った。曲り角に置かれた大きな屑籠のかげに、さっき滝川爺から怒鳴りつけられた甲斐爺が、こっそりしゃがんでいた。韮山爺はそれを見て立ち止った。

「一体何をしてんだね、そんなところで?」

「しーっ」甲斐爺は唇に指を立てて、小さな声で言った。

「かくれんぼだよ」

 韮山爺は前後左右を見回して、自分も大急ぎで横っ飛びして甲斐爺のそばにしゃがみこんだ。そして同じく小さな声でささやきかけた。

「雨が降ると、外で遊べなくて、つまらないねえ」

「そうだねえ。天気の方がどれだけいいか判らないねえ」

「しんどい会議で、おれ、ほんとに、くさくさしたよ」

「皆集まって、一体何を話し合ってんだね」

「おれにもよく判らんけど、院長の悪口を皆して言ってたよ」

「そうかい。あっ、そうそう。あんた、この間のリヤカーのことで、何か大へんな掲示が出てんだってねえ」

「ああ。それでおれも弱ってるのや」韮山爺は泣き出しそうに顔をくしゃくしゃにした。「こんどの院長はごついねえ。先の院長はとても良かったけどなあ」

「ほんとにそうだねえ。こんどの院長になって、芝生の遊び場所もなくなったしねえ。で、もう会議は終ったのかい。会議が終ったんなら、おれ、あそこの風呂場の風呂桶の中にかくれてやろうと思っているんだ」

「まだやってるよ。滝爺さんも遊佐爺さんも、目を吊り上げて議論してるよ」

「ああ、あの爺さんたち、こわいねえ」甲斐爺は溜息をついた。「なんであんなにトゲトゲしく生きてるのかねえ。どうせ遠からず死ぬんだから、たのしく遊べばいいのにさ」

「ほんとにねえ。怒ってばかりいると、心臓にも悪いよ」

「心臓だけじゃなく、胃腸にも悪いよ。あんまり怒ると、消化が悪くなるってさ」

「そうだろうねえ。怒ってると言えば、院長の海坊主だって――」

「しーっ」甲斐爺は唇に指をあてて、ぎゅっと身体を小さくした。韮山爺も手足を極度に寄せてちぢこまった。二階から階段をおりてくる足音が聞えたのだ。古ぼけた階段は足音と共にぎいぎいと鳴った。韮山爺は甲斐爺の耳元にささやいた。

「鬼かな?」

それは鬼ではなかった。階段を降り切って廊下に姿をぬっとあらわしたのは、詰襟姿の黒須院長であった。黒須院長は右手に洋傘をわしづかみにし、左手には一枚の頼信紙をヒラヒラさせながら、まっすぐにこちらに歩いてくる。その頼信紙には

 

 『コンバンザイインシヤトカイケンス」キロクノヒ
 ツヨウアリ」スグライシヨセヨ」クロスゲンイチ』

 

と院長の筆跡で記されていたが、もちろん屑籠のかげの二老人の眼にそれが見える筈がない。黒須院長はいつもより眼をたけだけしく光らせ、なにものかに突っかかるような姿勢で、どしどしと廊下を踏んでくる。二人の爺さんはすっかり脅え、双生の胎児のようによりそって手足をちぢめ、ふるえ上った。屑籠のかげの二老人の存在についに気付かず、黒須院長はその前を通り過ぎた。

(今夜の会見に、あいつらは何人ぐらいで押しかけてくるか?)黒須院長は奥歯をかみしめて思った。(どのみち交渉は今夜だけでは片づくまい。何日も何日もかかるだろう。交渉の経過を記録して置き、そして相手の失言をつかまえて、ぎゅうぎゅうの目に合わせてやるぞ)

 手にした頼信紙は、近頃やとい入れた臨時の書記兼秘書の男にあてたものである。専任の秘書を持ちたいとは、院長年来の希望だったが、予算がどうしてもそれを許さず、やっと近頃中途はんぱな男を臨時にやとうとこまでこぎつけた。黒須院長の宿願はやっと半分達せられたわけだが、もちろん院長自身はそれに満足していなかった。黒須院長は玄関に立ちどまり、頼信紙を四角に折ってポケットに入れ、洋傘をおもむろにひらきながらつぶやいた。

「こんど退院制度を確立することが出来たら、専任秘書を一人要求することにしよう。秘書はやはり若い女がいいな。高峰秀子か島崎雪子みたいな美人を、どこからか探してくることにしよう」

 院長室において美人秘書にかしずかれている自分の姿を、黒須院長はうっとりと空想し、険悪な表情を大幅に和ませた。黒須院長は映画はほとんど見ない。しかし映画館前のスチールや街のポスターなどで、それらの女優の名や顔を覚え込んでいたのだ。玄関を踏み出した黒須院長の傘に、雨がじとじととかぶさってきた。玉砂利(じゃり)をしいた道の両側の菜園の、胡瓜(きゅうり)やいんげんの葉も青々と濡れている。院長は傘を前方にやや傾けるようにして、門に向ってとっとっとあるいた。玉砂利が靴の下でじゃりじゃりと音を立てた。廊下の曲り角から顔を半分ずつ出して、二人の爺さんがその院長の後ろ姿を見送っている。

[やぶちゃん注:「島崎雪子」(昭和六(一九三一)年~平成二六(二〇一四)年)は日本の元女優でシャンソン歌手。本名は土屋とし子。東京都出身。大田原高等女学校(現在の栃木県立大田原女子高等学校)卒業。判り易い言い方をすると、かの名作黒澤明の「七人の侍」(昭和二九(一九五四)年・東宝)で土屋嘉男演ずる百姓利吉(りきち)の、人身御供にされた女房(役名なし)役で出ている。――野武士の山寨(さんさい)を菊千代らが襲うシークエンスで、彼らが火を放った際、火に気づいて叫ぼうとするが、急に唇を嚙むとまたそっと座って、妙に引き攣った凄味のある笑みを浮かべて幽鬼のようにふらりと出てくる。と、眼前に現れた夫利吉を見て驚き、焼け崩れる山寨の中に走り戻って姿を消すのが――彼女である。出番シーンは非常に少なく台詞もないが、オープニング・タイトル・ロールの出演者のクレジットでは「七人の侍」のヒロインとも言うべき志乃役の津島恵子とともに、三船敏郎・志村喬の次いで、二番目に二人併記で示されてある。グーグル画像検索「島崎雪子」をリンクさせておく。]

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 去来 三

 

      

 『猿蓑』が出版された元禄四年も、芭蕉はなお多くの時を京洛(けいらく)附近の地に過しつつあった。特に四月十八日から五月四日まで、半月余の日子(にっし[やぶちゃん注:日数に同じい。])を落柿舎に送ったことは、芭蕉と去来との交渉を討(たず)ねる上において、最も重要な資料になっている。

 はじめ芭蕉が嵯峨に遊んで落柿舎に到った時は、凡兆も一緒であったが、日暮になって京ヘ帰った。「予は猶しばらくとゞむべきよしにて」というのは、けだし最初から去来の計画だったのであろう。舎中の一間を芭蕉の居間と定め、「机一、硯、文庫、白氏文集、本朝一人一首、世継物語、源氏物語、土佐日記、松葉集を置、唐の蒔絵書たる五重の器にさまざまの菓子をもり、名酒一壺盃そへたり」という心遣いを示した。加うるに「夜のふすま調菜の物ども京より持来てまづしからず」という有様であったから、芭蕉をして「我貧賤をわすれて清閑をたのしむ」の感あらしめたのも偶然ではなかったのである。

[やぶちゃん注:以上の引用は芭蕉の「嵯峨日記」の冒頭、元禄四(一六九一)年四月十八日の記載である。「予」は芭蕉であるので注意。正字で全文を示す(「新潮日本古典集成」の「芭蕉文集」を参考に漢字を恣意的に正字化して示した)。

   *

元祿四辛未(しんび)卯月十八日、嵯峨に遊びて去來が落柿舍に至る。凡兆、共に來たりて、暮に及びて京に歸る。予はなほ暫く留(とど)むべき由にて、障子つづくり、葎(むぐら)引きかなぐり[やぶちゃん注:雑草を引き抜いて。]、舍中の片隅一間(ひとま)なるところ、臥所(ふしど)と定む。机一つ、硯・文庫、「白氏文集(はくしもんじふ)」・「本朝一人一首」・「世繼物語」・「源氏物語」・「土佐日記」・「松葉集」を置く。ならびに唐(から)の蒔繪(まきゑ)書きたる五重の器にさまざまの菓子を盛り、名酒一壺(いつこ)、盃(さかづき)を添へたり。夜の衾(ふすま)・調菜(てうさい)[やぶちゃん注:副食品の素材材料。]の物ども、京より持ち來たりて乏しからず。わが貧賤をわすれて、淸閑に樂しむ。

   *

「本朝一人一首」は林鵞峰(はやしがほう)編の漢詩集で寛文五(一六六五)年跋で同年板行。「世繼物語」は「栄花物語」と「大鏡」の異名。「松葉集」は宗恵編で万治三(一六五八)年板行の「松葉名所和歌集」のこと。「菓子」は果物や餅菓子といったものを広く指す。]

 

 当時の落柿舎の模様については、去来は「嵯峨にひとつのふる家侍る」といったのみで、多くを語っておらぬが、芭蕉の記すところに従えば、「落柿舎はむかしのあるじの作れるまゝにして処々類破す。なかなかに作りみがゞれたる昔のさまよりも、今のあはれなるさまこそ心とゞまれ。彫せし梁[やぶちゃん注:「うつばり」。]画る[やぶちゃん注:「ゑがける」。]壁も風に破れ雨にぬれて、奇石怪松も葎(むぐら)の下にかくれたる」云々とあって、昔は相当立派なものだったことが想像される。そういう家の頽破に赴いた一間に、寂然として坐っているのは、幻住庵ともまた違った趣があって、いたく芭蕉の閑情に適したものであろう。来た翌日臨川寺に詣で、小督(こごう)やしきと称する処を訪ねたりとしたのと、曾良が訪ねて来た日、「大井川に舟をうかべて、嵐山にそうて戸難瀬(となせ)をのぼる」とある位のもので、余は全く落柿舎に籠って清閑の気分に浸っていたらしい。客もなく、去来も来ず、雨が降って寂しい日などは、芭蕉一流の含蓄の多い「むだ書」[やぶちゃん注:「むだがき」。]をして遊んだのであった。子規居士はこの嵯峨滞在当時の芭蕉を評して、「この頃の俳句を見るに、全く覇気を脱し円満老熟す。されば人を驚かすの意匠もなく、一通りの事を詠み出でたる如く見ゆれど、境[やぶちゃん注:「きやう」。]と合ひ分(ぶん)に安んずる芭蕉の心情は藹然(あいぜん)としてその中にあらはるるを覚ゆ」といっているが、『嵯峨日記』一巻を世にとどめたについては、芭蕉をして清閑を満喫せしめた去来の功を首(はじめ)に置かねばならぬ。但(ただし)去来の句は『嵯峨日記』には殆ど見えていない。僅に途上所見として語った

 つかみあふ子供のたけや麦ばたけ  去来

が録されているのみである。

[やぶちゃん注:「嵯峨にひとつのふる家侍る」は去来の書いた俳文「落柿舎の記」の冒頭。短いので全文電子化する。国立国会図書館デジタルコレクションの大正一三(一九二四)年第七高等学校国語科編「俳諧文選 附・俳句連句選」に載るものを視認した。読みは小学館「日本古典全集」の「近世俳句俳文集」所収のものを参考に歴史的仮名遣で添えた。「友どち」のみ、「近世俳句俳文集」で底本の『友だち』とあるのを訂した。句の「柿」はママ。

   *

    落柹舍             去來

嵯峨にひとつのふる家侍る。そのほとりに柹の木四十本あり。五とせ六とせ經ぬれど、このみも持ち來らず、代(しろ)がゆるわざもきかねば、もし雨風に落されなば、王祥(わうしやう)が志(こころざし)にもはぢよ、もし鳶(とび)烏(からす)にとられなば、天(あめ)の帝(みかど)のめぐみにもゝれなむと、屋敷もる人を、常はいどみのゝしりけり。ことし八月(はづき)の末、かしこにいたりぬ。折ふしみやこより、商人(あきうど)の來り、立木(たちき)に買ひ求めんと、一貫文さし出(いだ)し悅びかへりぬ。予は猶そこにとゞまりけるに、ころころと屋根はしる音、ひしひしと庭につぶるゝ聲、よすがら落ちもやまず。明くれば商人の見舞來たり、梢つくづくと打詠め、我(われ)むかふ髮(がみ)の比(ころ)より、白髮(しらが)生(お)ふるまで、此事を業(わざ)とし侍れど、かくばかり落ちぬる柹を見ず。きのふの價(あたひ)、かへしくれたびてんやとわぶ。いと便(びん)なければ、ゆるしやりぬ。此者のかへりに、友どちの許(もと)へ消息(せうそこ)送るとて、みづから落柹舍の去來と書はじめけり。

  柿ぬしや木ずゑはちかきあらし山

   *

元禄二(一六八九)年の稿。但し、去来が洛西の嵯峨にこの別荘の持ったのは貞享三(一六八六)年のことであった。少し語注する。

・「代(しろ)がゆる」「代」は「代金」の意で、「金に換える」の意。

・「このみ」「木の実」柿の実。それを留守居の者が収穫して私の所に持って来るということもしないというのである。

・「屋敷もる人」は「屋敷守る人」で留守居の管理人。

・「王祥が志」とは「晋書」(唐の房玄齢らの撰)の「巻三十三 列傳第三」の「王祥」に「有丹奈結實、母命守之、每風雨、祥輒抱樹而泣。其篤孝純至如此。」(丹奈(たんな)有り、實を結ぶ。母、命じて之れを守らしむ。風雨の每(ごと)に、祥、輒(すなは)ち樹を抱きて泣く。其の篤孝、純至なること、此くのごとし。)とある。「丹奈」は唐梨、紅林檎の類。

・「一貫文」一両の四分の一。

・「むかふ髮の頃」前髪にしていた幼少の頃。

・「侘ぶ」しょんぼりとしている。

・「便なければ」気の毒に感じたので。

・「ゆるしやりぬ」許して金を返してやった。

   *

「芭蕉の記すところに……」以下は「嵯峨日記」より。まず、元禄四(一六九一)年四月二十日。前に同じく「新潮日本古典集成」を参考に恣意的に漢字を正字化した。

   *

二十日 北嵯峨の祭見むと、羽紅尼(うこうに)來たる。

去來京より來たる。途中の吟とて語る。

 つかみあふ子共の長(たけ)や麥畠

落柿舍は、昔のあるじの作れるままにして、ところどころ頽破す。なかなかに、作みがかれたる昔のさまより、今のあはれなるさまこそ心とどまれ。彫り物せし梁(うつばり)、 畫(ゑが)ける壁も風に破れ、雨にぬれて、奇石・怪松も葎(むぐら)の下にかくれたるに、竹緣(たけえん)の前に柚(ゆ)の木一もと、花かんばしければ、

 柚の花や昔しのばん料理の間(ま)

 ほととぎす大竹藪をもる月夜

   尼羽紅

 又や來ん覆盆子(いちご)あからめさがの山

去來兄の室より、菓子・調菜の物など送らる。

今宵は羽紅夫婦をとどめて、蚊帳一はりに上下(かみしも)五人こぞり臥したれば、夜も寢(い)ねがたうて、夜半(よなか)過ぎよりおのおの起き出でて、晝の菓子・盃(さかづき)など取り出でて、曉近きまで話し明かす。去年(こぞ)の夏、凡兆が宅に臥したるに、二疊の蚊帳に四國の人臥たり。「思ふ事よつにして夢もまた四種(よぐさ)」と、書き捨てたる事どもなど、言ひ出だして笑ひぬ。明くれば羽紅・凡兆、京に歸る。去來、なほとどまる。

   *

・「羽紅尼」「凡兆」で見た通り、凡兆の妻。

・「昔のあるじ」元の持ち主は豪商であった。

・「尼羽紅」「又や來ん覆盆子(いちご)あからめさがの山」この前書は以下の句の作者であることを示すものであるので注意されたい。

・「去來兄の室」去来の長兄で医師であった向井元端(げんたん)の妻多賀(たが)。

より、菓子・調菜の物など送らる。

・「去年の夏」芭蕉は前年の元禄三年夏にも京に上っていた。

・「四國」「しこく」であるが、四つの別々な国の出の人の意。具体的には伊賀国の芭蕉・肥前国の去来・尾張国の丈草・加賀国の凡兆。

   *

「来た翌日臨川寺に詣で、小督(こごう)やしきと称する処を訪ねたりとした」「嵯峨日記」四月十九日の条。

   *

十九日 午(うま)の半ば、臨川寺(りんせんじ)に詣づ。大井川前に流て、嵐山(あらしやま)右高く、松の尾里に續けり。虛空藏(こくうぞう)に詣づる人行きかひ多し。松尾の竹の中に小督屋敷(こがうやしき)といふ有り。すべて上下(かみしも)の嵯峨に三ところ有り、いづれか確かならむ。かの仲國(なかくに)が駒をとめたる所とて、駒留(こまどめ)の橋といふ、こあたりにはべれば、しばらくこれによるべきにや。墓は三軒屋の隣、藪(やぶ)の内にあり。しるしに櫻を植たり。かしこくも錦繡綾羅(きんしうりようら)の上に起き臥して、 つひに藪中(そうちゆう)に塵芥(ちりあくた)となれり。昭君村(せうくんそん)の柳、巫女廟(ふぢよべう)の花の昔も思ひやらる。

 憂き節や竹の子となる人の果て

 嵐山藪の茂りや風の筋

斜日に及びて落柿舍に歸る。凡兆、京より來たり、去來、京に歸る。宵より臥す。

   *

・「牛の半ば」正午過ぎ頃。

・「臨川寺」亀山天皇の離宮を禅寺とした臨済宗霊亀山臨川寺。夢窓国師の開基で景勝の地。落柿舎の東南一キロメートルほどの位置(グーグル・マップ・データ。以下同じ)にある。

・「大井川」渡月橋付近での名。ここから上流は保津川、下流は桂川と呼ぶ。

・「松の尾の里」嵐山南麓の現在の松室北松尾(まつむろきたまつお)。

・「虛空藏」行基の開基と伝える真言宗智福山法輪寺の本尊。桂川の落柿舎の対岸にある。

・「小督屋敷」「平家物語」で知られる高倉天皇の寵姫小督(保元二(一一五七)年~?)が平清盛のために退けられて嵐山に隠棲した屋敷。この頃既に嵯峨中に三ヶ所もあったというほど、既に遺跡は定かではなかったのである。現在、法輪寺の対岸に「小督塚」があるが、そこがその一つ。但し、ここでの芭蕉のそれは先の松尾で違う。

・「仲國」源仲国。「平家物語」によれば、高倉天皇の命で小督の隠居所を尋ねたとされる。その際に馬を繋いだ場所が「駒留の橋」(渡月橋の下流直近にあった小橋とされるが、不詳。現在の小督塚とは渡月橋で対称位置の別な場所である。芭蕉の謂いから当時、既にこの橋はなかった模様である)。芭蕉はこの辺りが本当の小督屋敷跡らしい推察している。なお、仲国は宇多源氏で、源実朝と一緒に義時と誤認されて鶴岡八幡宮社頭で公暁に殺害された源仲章の兄である。

・「錦繡綾羅」錦の刺繡を施した織物と、高級な綾絹や薄絹で、高級で豪華な褥(しとね)のことであるが、ここは天皇に侍しての宮中の華麗なる生活を追懐したもの。

・「昭君村」「巫女廟」「白氏文集」の「峽中(けふちゆう)の石上(せきしやう)に題す」の詩の起・承句による。

   *

 題峽中石上     白居易

巫女廟花紅似粉

昭君村柳翠於眉

誠知老去風情少

見此爭無一句詩

 巫女廟(ふぢよべう)の花 紅きこと 粉(こ)に似て

 昭君村の柳 眉(まゆ)よりも翠(みどり)なり

 誠に知る 老い去れば 風情 少なけれど

 此れを見れば 爭(いかで)か 一句の詩 無からん

   *

・「巫女廟」楚の懐王が夢の中で見た巫山(ふざん)の女神を祀った廟。

・「昭君村」とは漢の悲劇の美女王昭君の生まれた村の意。彼女は紀元前三三年、元帝の命により、匈奴の呼韓邪単于 (こかんやぜんう) に嫁し、寧胡閼(ねいこえん)氏と称した。単于の没後、再嫁したが、漢土を慕いながら、遂に生涯を胡地に送った。

   *

『曾良が訪ねて来た日、「大井川に舟をうかべて、嵐山にそうて戸難瀬をのぼる」』「嵯峨日記」五月二日の条。

   *

二日

曾良來りてよし野の花を訪ねて、熊野に詣で侍る由(よし)。

武江(ぶかう)舊友・門人の話、彼かれこれ取りまぜて談ず。

 熊野路や分つつ入れば夏の海  曾良

 大峰(おほみね)やよしのの奧を花の果て

夕陽(せきやう)にかかりて、大井川に舟をうかべて、嵐山にそうて[やぶちゃん注:ママ。]戶難瀨(となせ)をのぼる。雨降り出でて、暮に及びて歸る。

   *

・「武江」武蔵国。江戸。

・「大峰」この句も曾良のもの。吉野の奥の修験道場のメッカ。

・「戶難瀨」渡月橋の上流の古地名。紅葉の名所で歌枕。

   *

「むだ書」「嵯峨日記」の四月二十二日の条前半に(後半は略したので注意)、

   *

二十二日

朝の間、雨、降る。今日は人もなく、さびしきままに、むだ書きしてあそぶ。その言葉、

[やぶちゃん注:以下、参考本では二字下げ。前後を一行空けた。]

 

喪に居る者は悲しみをあるじとし、酒を飮み者は樂しみをあるじとす。

「さびしさなくば憂(う)からまし」と西上人(さいしやうにん)[やぶちゃん注:西行。]のよみ侍るは、さびしさをあるじなるべし。

また、詠める、

 

  山里にこは又誰(たれ)を呼子鳥(よぶこどり)

     ひとり住まむと思ひしものを

 

ひとり住むほど、おもしろきはなし。

長嘯隱士の曰く、「客は半日の閑を得れば、あるじは半日の閑をうしなふ」と。素堂、此言葉を常にあはれぶ。予もまた、

 

  憂き我をさびしがらせよ閑古鳥(かんこどり)

 

とは、ある寺にひとり居て言ひし句なり。

   *

・「喪に居る者は悲しみをあるじとし、酒を飮み者は樂しみをあるじとす」「荘子」の「雑篇」の「漁父」篇に出る、「飮酒以樂爲主、處喪以哀爲主」(酒を飮むものは樂しみを以つて主(あるじ)と爲(し)、喪に處(よ)るものは哀しみを以つて主と爲(す))に基づく。

・「さびしさなくば憂からまし」西行の「山家集」の、

 とふひとも思ひ絕えたる山里の

    さびしさなくば住み憂からまし

を指す。

・「山里にこは又誰を呼子鳥ひとり住まむと思ひしものを」これは西行の「山家集」所収の、

 山里に誰をまたこは呼子鳥ひとりのみこそ住まむと思ふに

の記憶違い。

・「長嘯隱士」武将で俳人の木下勝俊(永禄一二(一五六九)年~慶安二(一六四九)年)の雅号「長嘯子」の略。「去来 二」に既出既注。以下の引用は彼の「挙白集」に、『やがてここを半日とす。客はそのしづかなることを得れば、我そのしづかなるを失ふに似たれど、思ふどちの語らひは、いかで空(むな)しからん』の前半の絶対性を示したもの。

・「憂き我をさびしがらせよ閑古鳥」「ある寺にひとり居て言ひし句なり」三重県長島町にある大智院で、元禄二年九月、「奥の細道」を終えて大垣から伊勢参宮に向かう途中で止宿した際の詠の意。但し、その時の初案は、

   伊勢の國長島大智院に信宿ス

 うきわれをさびしがらせよ秋の寺

で、この時、かく改案したものである。

   *

「境と合ひ分に安んずる」今の落柿舎での風致自然に完全に一体となり、自身の「分」(ぶん)を正確に摑み得て泰然自若としている。

「藹然(あいぜん)」気持ちが穏やかで和らいださま。]

 

 芭蕉が東武に帰った後の撰集にも、去来の名は大概見えているが、特に力を用いたと思われるほどのものはない。同じような状態が続いているうちに、元禄七年になって芭蕉は最後の大旅行の途に上った。伊賀から奈良を経て大阪へ出るまでの随行は支考、惟然等で、去来はあまり関係がなかったが、一たび難波(なにわ)に病むの報を得るや、直に馳せてこれに赴いた。

   芭蕉翁の難波にてやみ給ぬときゝて
   伏見より夜舟さし下す

 舟にねて荷物の影や冬ごもり    去来

の句はその際の実感である。去来が芭蕉の病床に侍したのは十月七日からで、暫時もその側を離れなかった。かつて芭蕉が去来を訪れた時、「誰れ誰れの人は吾を親のごとくし侍るに、吾老(おい)て子のごとくする事侍らず」といったのを聞いて、去来は少からず感激した。自分は世務(せいむ)に累せられて何ほどの事も出来ぬのに、この一言は深く胆に銘じて覚えたから、せめてこの度は御側を離れまいと思う、といったよしが支考の『笈日記』に見えている。これは去来の篤実なる性格を語ると共に、芭蕉との心契の尋常ならざるを窺うべきものであろう。

[やぶちゃん注:「世務に累せられて」世俗のあれやこれやの雑事の関わり合いを受けてしまって。この部分、原文が私の「笈日記」中の芭蕉終焉の前後を記した「前後日記」(PDF縦書版)の十月七日の条で読める。]

 

 芭蕉最後の病床における去来は、寔(まこと)に芭蕉のいわゆる俳諧の西国奉行たるに恥じぬものであった。

 凩の空見なほすや鶴の声     去来

と詠み、

 病中のあまりすゝるや冬ごもり  去来

と詠み、種々に心を砕いたが、芭蕉は「旅に病で夢は枯野をかけ廻(めぐ)る」の一句を形見として、天外に去ってしまった。

 『去来発句集』には「病中の」を改めて「白粥(しらがゆ)の」とし、「翁の病中」なる前書を置いているが、「病中のあまり」では何の事かわからぬ点もあるから、後に修正したのかも知れない。去来の句はもう一つ

 忘れ得ぬ空も十夜の泪(なみだ)かな 去来

というのが伝わっているが、師を喪(うしな)った大なる悲愁は、到底かかる句のよく悉(つく)す所ではなかったろうと思われる。

[やぶちゃん注:「凩の」の句は其角の「芭蕉翁終焉記」(リンク先は私のPDF縦書版)によれば、芭蕉が「旅に病んで夢は枯野をかけ𢌞る」と詠んだ元禄七(一六九四)年十月八日の後、「各(おのおの)はかなく覺えて」皆して詠んだ「賀會祈禱の句」の二句目に出る。

「病中の」の句は、一九八九年岩波文庫刊の堀切実氏の編注になる「蕉門名家句選(下)」の評釈によれば、『十月十一日夜――芭蕉が大坂南御堂前花屋仁左衛門方裏座敷で没する前夜』(芭蕉は翌十二日申の刻(午後四時頃)に亡くなった)『のことであるが、集まった門人たちに芭蕉が夜伽の句を要請したときの一句である。病床に臥す師翁の食べ残しを啜りながら、ひっそりと冬籠りをしていると、さまざまの思いにかられることだ、といった句意であろう。「あまりすゝるや」に師を案ずる心が十分に籠められている』とされ、さらに、「浪化日記」所載の『元禄七年十一月筆(十二月四日受)浪化宛去米書簡には上五「病人の」とある』とされ、宵曲の言うように「去来句集」には『「翁の病中」という前書があり、上五も「白粥の」となっている』とある。藤井紫影氏の校になる「名家俳句集」(昭和一〇(一九三五)年有朋堂刊)の「去來發句集」(国立国会図書館デジタルコレクションの当該ページ)を見られたい。

「忘れ得ぬ」の句は、前注リンク先では、

   傷亡師終焉

 わすれ得ぬ空も十夜の泪かな

と前書する。]

 

 芭蕉が亡くなった翌年、浪化の手によって『有磯海(ありそうみ)』『となみ山』が上梓された。浪化は元禄七年にはじめて芭蕉に面したので、場所は落柿舎であったというから、去来との交渉はその前からあったものであろう。浪化は芭蕉生前から撰集の志があり、芭蕉は『浪化集』という名にしたらよかろうといったとも伝えられている。『となみ山』は芭蕉追懐の情の著しいもので、『枯尾花』に漏れた追悼の発句、芭蕉に因ある歌仙の類を収めているが、特に其角の筆に成る『刀奈美山引』は、其角、嵐雪、桃鄙、去来の四人が落柿舎に一泊した模様を叙したものとして注目に値する。落柿舎の名がしばしば現れるのは、一面において去来の立場の有力なことを語るものに外ならぬ。

[やぶちゃん注:「刀奈美山引」は「となみやまのいん」と読み、元禄八年の春の初め頃に書かれたもので、浪化編に成る上記の二冊の撰集の板行を祝したものである。国立国会図書館デジタルコレクションの「芭蕉翁全集」(佐々醒雪・巌谷小波校。大正五(一九一六)年博文館刊)のここで「となみ山」とともに視認出来る。]

 『有磯海』『となみ山』は浪化の撰となっており、去来は

  ありそ海集撰たまひける時、入句ども
  書あつめまいらせけるにそへて祝ス

 鷲の子や野分にふとる有そ海    去来

  賀刀奈美山撰集

 凩や剱を振ふ礪波山        同

の両句を巻末に記しているまでのようであるが、実際は去来の斡旋に成ったものであること、疑うべくもない。其角が『となみ山』の中に

  元禄猪頭勇進之日   其角

   去来丈

    演説し給ヘ

と書いたのも、この意味において看過すべからざるものである。「猪頭勇進」は元禄八年の亥年にかけたまでであるが、芭蕉歿後の俳壇における去来の活動を期待しているらしい様子は、この短い文句からも想像出来る。

[やぶちゃん注:去来のそれは前注で示した「芭蕉翁全集」のここで、其角のそれはここ。「撰」は「えらび」、「賀刀奈美山撰集」は「『砺波山』撰集を賀す」、「元禄猪頭勇進之日」は「元禄猪頭(ちよとう)勇進(ゆうしん)の日」と読む。]

 

  『有磯海』『となみ山』にある去来の句は、さのみ多いというわけではないが、粒は揃っている。

 早稲干や人見え初る山のあし    去来

[やぶちゃん注:上五は「わせぼしや」、「初る」は「そむる」。]

 酒もりとなくて酒のむほしむかへ  同

 臥処かや小萩にもるゝ鹿の角    同

[やぶちゃん注:上五は「ふしどかや」。「小萩」は「こはぎ」。]

 明月や向への柿やでかさるゝ     去来

 しぐるゝやもみの小袖を吹かへし   同

 朝霜や人参つんで墓まゐり      同

 応々といへどたゝくや雪のかど    同

[やぶちゃん注:上五は「おうおうと」。家の中から十人は応えているのであるが、雪に吸い込まれてか、それは訪ねてきた人物の耳に入らず、相変わらずその人は戸を叩いているという情景である。「去来抄」の「同門評」に、

   *

 應々といへどたゝくや雪のかど  去來

丈艸曰、此句不易にして流行のたゞ中を得たり。支考曰、いかにしてかく安き筋より入らるゝや。正秀曰、たゞ先師の聞たまざるを恨るの。曲翠曰、句の善悪をいず、當時作ん人を覺えず。其角曰、眞雪門也。許六曰、尤好句也。いまだ十分ならず。露川曰、五文字妙也。去來曰、人々の評又おのおの其位よりいづ。此句先師遷化の冬の句也。その比同門の人々も難しと、おもへり。今自他ともに此場にとゞまらず。

   *

と全員がそれぞれに褒めている。しかし、ここまで言われると、それほどでもなかろうに、と言いたくなる私がいる。なお、以上からこの句の成立が芭蕉の亡くなった直後の、元禄七年冬であることが判る。なお、堀切氏の前掲書によれば、初案は、

 たゝかれてあくる間しれや雪の門

で、再案は、

 あくる間を扣(たた)きつゞけや雪の門

で、実はともに「小倉百人一首」で知られた右大将道綱母(藤原道綱の母)の一首で「拾遺和歌集」巻第十四の「恋」に載る、

 歎きつつひとりぬる夜の明くる間は

      いかに久しきものとかは知る

から『発想されたものであるが、成案』『では、その本歌の痕跡を全くとどめないまでに推敲されている』とあり、『元禄八年正月二十九日付許六宛去来書簡に』も『「此句のさびのつきたるやうにぞんじられて、此(これ)を自讃仕(つかまつり)候。」とも記している』とある。しかし、正直、推敲過程を知ると、ますます駄句じゃなかろうかと私などは思う。少なくとも「寂び」とする境地の根っこが甚だ浅い諧謔に過ぎなかったという底意が見えてしまうように私には思われるのである。]

 瘦はてゝ香にさく梅の思ひかな     同

 五六本よりてしだるゝ柳かな      同

 花見にもたゝせぬ里の犬の声      同

   元禄七年久しく絶たりける祭の
   おこなはれけるを拝て

 酔顔に葵こぼるゝ匂ひかな       同

[やぶちゃん注:「祭」賀茂祭(かものまつり)、所謂、「葵祭」のこと。かの祭りは、実は中世の戦乱期に中絶してしまっていた。その旧儀を再興しようとする朝廷と神社(賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ:通称・上賀茂神社)と賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ:通称・下鴨神社))側の動きを幕府が認めるところとなり、元禄七(一六九四)年四月、百数十年ぶりに祭りが行なわれたのであった。上五は「ゑひがほに」。]

 水札なくや懸浪したる岩の上      同

[やぶちゃん注:「水札」は「けり」で、チドリ目チドリ亜目チドリ科タゲリ属ケリ Vanellus cinereus。「計里」「鳧」とも書く。全長約三十五センチメートルで背面は灰褐色、腹は白色で、飛ぶと、翼と尾に鮮やかな黒白の模様が出る。擬傷行為が巧みなことで知られる。アジア東北部に分布し、本邦では近畿以北の限られた地域でのみ繁殖している。ここは河原、それもかなり流れの速い岩場の景である。姿と鳴き声はYouTubeのroido frow氏の「ケリの鳴き声」で視聴されたい。「懸浪」は「かけなみ」。]

   紀の藤代を通ける比、此処に三郎重家の
   末今にありと聞およびぬれば、道より少
   山ぞひに尋入侍しに、門ついぢ押廻シ飼
   たる馬みがきたる矢の根たてかざりてい
   みじきもののふ也、又庭にいにしヘの弓
   懸松とて古木など侍りけり

 藤代やこひしき門(も)に立すゞみ  同

[やぶちゃん注:座五は「たちすずみ」と読む。

「藤代」現在の和歌山県海南市藤白(グーグル・マップ・データ)。歌枕の宝庫。

「三郎重家」源義経に従って源平合戦の諸戦で活躍し、衣川館で義経と最期をともにした鈴木重家(久寿三(一一五六)年~文治五(一一八九)年)。ウィキの「鈴木重家」によれば、『紀州熊野の名門・藤白鈴木氏の当主である鈴木重家は、平治の乱で源義朝方について戦死した鈴木重倫の子。弟に弓の名手と伝わる亀井重清がいる。『義経記』には義経に最期まで従った主従のひとりとして登場するほか、『源平盛衰記』にも義経郎党として名が見られる。熊野に住していた源行家との関係から義経に従ったともいわれる』。『重家は、熊野往還の際に鈴木屋敷に滞在した幼少時代の源義経と交流があり、『続風土記』の「藤白浦旧家、地士鈴木三郎」によると弟の重清は佐々木秀義の六男で、義経の命で義兄弟の契りを交わしたとされる。その後、重家は義経が頼朝の軍に合流する際に請われて付き従ったとされ、治承・寿永の乱では義経に従って一ノ谷の戦い、屋島の戦いなどで軍功を立てて武名を馳せ、壇ノ浦の戦いでは熊野水軍を率いて源氏の勝利に貢献した。また、重家は義経から久国の太刀を賜ったとされる(穂積姓鈴木系譜)。平家滅亡後は源頼朝から甲斐国に領地を一所与えられて安泰を得ていた』。『しかし、後に義経が頼朝と対立して奥州に逃れた際、義経のことが気にかかり、所領を捨て』、『長年連れ添った妻子も熊野に残して、腹巻(鎧の一種)だけを持って弟の亀井重清、叔父の鈴木重善とともに奥州行きを決意し』、文治五(一一八九)年、『奥州に向かった。その奥州下りの途中に一度捕らえられて、頼朝の前に引かれた時には、頼朝に堂々と義経のぬれぎぬを弁明し』、『功を論じた』。『重家の妻・小森御前は、重家が奥州に向かう際は子を身ごもっていたために紀伊国に残されたが、夫を慕い』、『わずかな家来を連れて後を追った。しかし、平泉に向かう途中に志津川(現在の宮城県南三陸町)の地で夫が戦死したことを聞かされ、乳母とともに八幡川に身を投げて自害したとされる。その最期を哀れんだ村人たちが同地に祠を建てたと伝わり、現在でも小森御前社として祀られている』。『重家の次男・重次の直系は藤白鈴木氏として続いた。この一族からは雑賀党鈴木氏や、江梨鈴木氏などが出て各地で栄え、系譜は現在に続いている。伊予土居氏の祖・土居清行は重家の長男とされ、河野氏に預けられて土居氏を称したと伝わる。重家の子のひとりとされる鈴木小太郎重染は、父の仇を討つため故郷の紀伊国から陸奥国に入り、奥州江刺に到って義経・重家の追福のため鈴木山重染寺を建てたと云われる』。『重家は衣川館で自害せずに現在の秋田県羽後町に落ち延びたという伝承もある。その子孫とされる鈴木氏の住宅「鈴木家住宅」は国の重要文化財に指定されている。他に、平泉を脱した後、義経の命により岩手県宮古市にある横山八幡宮の宮司として残ったと記す古文書もある』とある。また、ウィキの「藤代鈴木氏」によれば、『鈴木重家の死後、紀伊国に残った次男・重次が跡を継いだ。重次は承久の乱で朝廷方として参加して』正嘉二(一二五八)年八月に六十四歳で『没し、南北朝時代には鈴木重恒が後醍醐天皇の南朝に属した』。明徳三(一三九二)年には『鈴木重義が山名義理』(やまなよしただ/よしまさ)『に従って大内義弘と戦い戦死し、戦国時代には石山合戦で顕如に味方し』、『神領を失った。大坂の陣では鈴木重興が徳川方として参戦して浅野氏から諸役免除を賜わり、後に浅野幸長から』六『石の寄進を受けた』。昭和一七(一九四二)年に『最後の当主・鈴木重吉が病気で急死し、藤白神社神主家の鈴木氏は断絶した』とある。]

 「朝霜」の句は丈艸の「朝霜や茶湯(ちやとう)の後のくすり鍋」の句に答えたものである。芭蕉の歿後、丈艸は無名庵におって、健康もすぐれぬような状態にあった。この応酬の間にも、去来と丈艸は自(おのずか)ら相通ずるものを持っている。

 「しぐるゝや」の句は、正秀(まさひで)が評して去来一生の句屑だといった。去来は自ら弁じて「しぐれもて来る嵐の路上に紅(もみ)の小袖吹かへしたるけしきは、紅葉吹おろす山おろしの風と詠(よみ)たるうへの俳諧なるべしと作し侍るまでなり」といっている。「紅葉吹おろす山おろしの風」は『新古今集』にある源信明の歌、「ほのぼのとあり明の月の月影に紅葉ふきおろす山おろしの風」である。同じく寂しい中に艶(えん)なところのある趣であるが、時雨の路上に紅の小袖の吹き返さるる様は、正に俳諧の擅場(せんじょう)であろう。人を描かずに小袖だけ描いた手法の巧よりも、われわれはこの種の句が持つ気稟(きひん)の高さに留意したい。

 「応々と」の句は去来の作として、最も人口に膾炙したものの一である。同門の人、もこれに対する賞讃の辞を惜まなかったらしい。一見大まかなようであって、しかも微妙なものを捉えている。「応々と」の一語に去来らしい響が籠っているのも、この句を重厚ならしむる一因であろう。

 「五六本」の句は眼前見たままの景色に過ぎぬ。ただ「よりてしだるゝ」の中七字に一種の力があって、庸人(ようじん)の企及を許さぬような感じがする。

[やぶちゃん注:「庸人」凡庸な人。一般の人。

「企及」肩を並べること。匹敵すること。]

 

 「酔顔に」の句はやはり気稟の高さを見るべきものである。久しく絶えていた葵祭が元禄七年に再興されたということは、いずれ何かに出ているのであろうが、手近の歳時記などには記されていない。京都の住人たる去来は、固より多大の感激を以てこの祭の復興を眺めたであろう。去来の句は其角の如く時代風俗に忠なるものではないが、時としてこういうものが介在している。この辺凡兆などとは大分違うようである。

 「藤代や」の句は前書がなかったら、多少曲解者を生ずる虞(おそれ)があるかも知れない。「家に譲りの太刀はかん」といい、「鎧著てつかれためさん」といい、「笋の時よりしるし弓の竹」といい、「しら木の弓に弦はらん」といい、「弓矢を捨て十余年」といい、「伏見の城の捨郭」というが如き去来の一面は、この藤代の句にも現れている。もう少し立入っていえば、句よりも前書の方に現れているのであるが、いずれにせよ「家に譲りの太刀はかん」以下の句の作者でなければ、三郎重家の裔(すえ)の住居を「こひしき門ごとして、そこに立涼むことはなかったに相違ない。

[やぶちゃん注:宵曲の「藤代や」の褒め方はあたかも御大層な画題を附したサルバドール・ダリの絵がどこかその画題に名前負けしている(ダリのタッチはキリコなどに比べたら遙かに繊細で見事ではあるが)感じとよく似ているように私は思う。]

梅崎春生 砂時計 7

 

     7

 

 午後便の午後配達手が赤い自転車をひいて、この古ぼけた一郭に入ってくるのは、大体午後三時前後であった。日曜日だけは郵便物の量が滅るから、それより一時間ばかり早目になるが、他の曜日はおおむねその時刻と見て差支えない。短靴、皮ゲートルで足がためした若い配達手は、いつもS土地建物会社の大きな壁時計を見て、三時を回っておれば心がせくし、まだ三時前だとゆっくりした気分になるのだ。今日配達手がこの古風な建物に足を踏み入れたのは、三時にまだ七八分はあったが、彼はいつもと違ってほっとした表情を見せなかった。うすにごった空から、今にも雨が落ちて来そうなので、ゆっくりとしてはおれないのである。ひとくくりの郵便物を階下の事務所に投げこむと、すぐに右手の狭い階段を身軽に二階までかけ上った。白川社会研究所宛ての郵便物は、うすっぺらな封書が一通きりであった。配達手はそれを顔のまんまるい女事務員に手渡し、ころがり落ちるようにして階段をかけ降りた。赤い自転車にまたがった彼の肩をかすめて、一羽のつばめが高速で飛翔(ひしょう)した。

 白川研究所須貝主任にかるい脳貧血を起させたのは、まさしく熊井嬢が受取ったその一通の封書であった。それまで須貝は相変らずだらしなく両脚を卓上に乗せ、気楽そうに口笛で『アロハオエ』をふいていたのだが、封を切って中からぺらぺらの美濃紙(みのがみ)を引っぱり出し、さらさらと一読したとたんに頭からさっと血が引いて、眼界がまっくらになったらしい。脚は卓上に乗せたまま、身体は回転椅子からすべり落ちて、尻がどしんと床にぶっつかった。須貝はその衝撃のために笛のような悲鳴を上げた。

 その物音にふりかえった熊井と栗山佐介は、事態を察してたちまち敏活に動き始めた。佐介は階段をかけ降りて車道をつっ切り、向いの薬屋からアンモニアと気付薬を買ってきたし、熊井は水に濡らしたハンカチで、ふたたび椅子にずり上げられた須貝の額や頰をかいがいしく冷やしてやった。アンモニアのにおいが強烈すぎたのか、須貝は顔をひどくしかめ、そしてやっと正気に戻った。

「ウ、ウィスキーをくれ」

 須貝は弱々しく呟(つぶや)き、自分の卓の引出しを指差した。そして佐介が注いでやった一杯のポケットウィスキーのおかげで、どうにか血が頭に戻ったらしく、あおざめた頰もしだいに元の色に復してきた。しかし椅子から手荒くずり落ちたために、櫛目の入った頭髪はくしゃくしゃに乱れ、ネクタイは惨めにゆがみ、ズボンも埃だらけになって、身だしなみも何もめちゃくちゃになってしまった。須貝は正気に戻った瞬間にもうそれを気にして、ズボンの埃をはたいたり、ネクタイに手をやったり、まごまごと櫛を探したりした。ネクタイの修正は熊井が手を貸してやった。

「今おれの鼻の先に持ってきたのは、一体ありゃ何だい?」

床にぶっつけた尻の個所を揉みほぐしながら、須貝は不機嫌に口をひらいた。皆の前で醜態を見せた自分に対して、あきらかに須貝は怒っていた。

「何だい。アンモニアか。ひでえものを嗅がせやがる」

 佐介はその須貝に横顔を向けて、卓上に拡がった美濃紙の文言に視線をおとしていた。それは同じくここの所員の鴨志田吾郎の辞表であった。字画が一糸乱れず整然としているのに、どこか品がないのは、代書屋にでも代筆させたものであろう。

 

  辞 表
 私こと鴨志田吾郎は今般一身上の都合により貴所を
 辞任致したく右お届けします。
  月 日          鴨志田 吾郎 ㊞
 白川社会研究所長殿

 

 このそっけない文章のあとの署名の下に押してある印は、正規のものでなく、拇印(ぼいん)であった。しかも使用されたのは印肉でなく、血液のようである。指紋をくっきりと浮き上らせたその人血は、すでにひからびて紫色になっていた。佐介は須貝の顔を見て、やや軽蔑的に言った。

「血判ですね」

 辞表が拡げ放しになっていることに、須貝は今やっと気付いたらしく、あわててそれを取り込もうとしたが、すでに佐介に読まれてしまった後だったから、あきらめたように手をだらりと下に垂らした。熊井もその辞表に眼をやった。ちょっと気まずいような沈黙がそこにきた。

「ふん」沈黙に耐え切れなくなったらしく、須貝は鼻を鳴らした。「君たちはおれがこの辞表を見て、それで気が遠くなったと思ってるんだろう。飛んでもない話だ。おれは今日はまったく寝不足なんだ。昨夜麻雀(マージャン)で徹夜したもんだから、その疲れが今一挙に出て来たんだ。何だい、こんな悪趣味な辞表!」

「まあ、血判なのね」熊井は顔をしかめてそこに近づけた。「なんて古風な。まるで赤穂浪土みたいだわ」

「うん。あいつは少年航空兵上りの、特攻隊くずれなんだ」須貝はすこし元気をとり戻して、手を伸ばしてウィスキーの小瓶をつかみ、ラッパ飲みに一口ごくんと飲んだ。

「特攻隊ってやつは、血判が大好きなんだ。なんとか一家などと称して、まったくやくざ気取りだ。栗山君。消印をちょっと調べてくれ。大阪になっているか」

 佐介は封筒をとり上げ、眼を近づけて見た。受付局のところはスタンプインキがずれていて、うまく判読出来なかった。佐介は窓辺に行き、眼を大きくして消印をにらんだ。

「やはりずれていて読めませんね。それに日付けのところも」

「あいつ、大阪に出張したっきり戻って来ないと思ったら」須貝は激しく舌打ちをした。「とんでもないアプレ野郎だ。辞表一つ出せば片がつくと思ってやがる。ここはただの役所や会社とは違うんだ。そんな勝手な真似はさせないぞ。草の根を分けても探し出して、徹応的にしごき上げてやる。あいつ、きっと大阪でまとまった金を摑(つか)んだもんだから、それでおれたちと縁を切る気になったんだな。きっとそうだ」

「大阪にはどんな用件で出張したんですか」

「そ、それは君と関係ない!」触るとサッと引込むイソギンチャクのように、この善良にして狡猾な恐喝主任はすばやく殼に立てこもった。「そういうことはお互い同士といえども、うかうかと口外出来ないのだ。壁に耳あり、障子に目あり」

 「人に口あり、魚にエラあり」熊井がそれに続けてふざけた口をきいた。辞表を見て失神したこのだらしない主任に対して、彼女ははっきりと軽蔑に似たものを感じたらしい。それが露骨に彼女の口調にあらわれていた。須貝はむっとして何か言おうとしたが、結局何も言わなかった。のっぺりした顔が平家蟹(へいけがに)みたいな惨めな表情になり、熊井をにらみつけた。

「おかしいな」窓のそばで封筒をかざしていた佐介が目をはさんだ。「この郵便の受付け時刻、どうも『前06』と読めるんだが、午前の零時から六時の間とは、変な時間に出したもんだな」

「そりゃ大金を握ったもんだから、酒を一晩飲み明かして、そして五時頃郵便局に行ったんだろう。きっと駅の郵便局だな。あいつの故郷はたしか九州だったから、ふん、九州にトンズラしやがったに違いない。どれ、ちょっとその封筒を寄越(よこ)しなよ」

 須貝は自分の整然たる推理にちょっといい気持になったらしく、鼻翼をふくらまして封筒を受取った。そして仔細らしく裏表をしらべ、においを嗅いでみたりした揚句、カチンとライターをつけ、灰皿の上で無造作に燃してしまった。あとの二人は黙って冷然とその須貝の動作を眺めていた。

「ま、これでよしと」須貝主任は先ほどからの気持の動揺をかくそうとして、不注意にもつぶやいた。「なんとこの事件を所長に報告したものかな。くたばりかけているということだから、いっそ頰かぶりの握りつぶしと行くか。もうこの研究所も終りだな。そろそろこちらも逃げ出しの準備と行くか」

「鴨志田君は逆に敵の術中におちて人質となり、そしてこの手紙を書くことを強制させられた、という仮説も成立するでしょうねえ」奥歯で嚙みしめるように佐介はゆっくりと発音した。須貝は呟きのぶつぶつをやめて、ぎょっとした顔を佐介に向けた。「第一にこの辞表は鴨志田君の字じゃない。代書屋か何かの筆跡でしょう。それがどうもおかしい」

「そうよ。血判なんて古風過ぎると思ったわ。あたし」熊井は探偵小説の愛好者らしく、やや飛躍した推理を持ち出した。「きっとカモさんは敵につかまって、生駒(いこま)山中かどこかの一軒家に監禁されたのよ。そしてそこでさんざん打たれたり叩かれたり、拷問(ごうもん)されたりして、その時出た血でむりやりに拇印を押さされたのよ。それに違いないわ。あたし、そんなのを、一度読んだことがあるんだもの」

「おい、おい。見て来たようなことを言うなよ」須貝は本当に脅(おび)えたふうな声を出した。須貝自身もそういう想像を持っていて、それを熊井にはっきり口に出されたものだから、それでなおのこと脅えたらしい。須貝はそしてあわててウィスキーを掴み、またごくりと一口飲みこんだ。「あまり僕をおどさないで呉れ。僕のデリケートな神経を、これ以上刺戟してくれるなよ。うん。そう言えばこれはカモの字じゃないようだな。あいつにこんな字が書けるわけがない。封筒の方の字はどうだい。おい。これの封筒はどこにやった?」

「封筒は今あなたが燃しました」

「燃した?」須貝は眼をうろうろさせて、やっと灰皿の燃えがらを見つけ、絶望的に拳固をかためて自分の頭をしたたかなぐりつけた。

「ああ、何と言うことだ。ずらかる奴がいるかと思うと、何かたくらんでいる奴もいる。変な電報が来るし、鍵型はとられるし、てんでわやくちゃだ。おい。ハム嬢。暦で今日という日を調べてくれ。きっと仏滅か何かに違いない」

 熊井は壁にぶら下げてある高島暦をはずして、ぱらぱらと頁をめくった。この古風な暦本は、その日の仕事の成否だという方角の是非を知るために、この研究所では大いに活用されていた。恐喝という古風な職業にふさわしい備品であった。

「大安、と出ているわ」熊井は感激のない口調で言って、ばたりと頁を閉じた。

「大安だと?」須貝は半白の頭髪をかきむしった。「暦までが僕を莫迦(ばか)にする。人がこんなに困っているのに、大安とはなにごとだ。よし、そんならこちらにも覚悟がある。今日は仕事はやめだ。僕は家へ戻る。戻って大安楽に酒でも飲むぞ。君たちももう帰ってよろしい。いや、栗山君はあのL十三号の仕事をやってくれ。判ってるだろうな。相手は相当のしたたか者だよ」

「判っています」

「手抜かりなくやってくれよ」須貝はそそくさと立ち上り、ふと気がついて、上衣の内ポケットのA金庫の鍵をたしかめた。そして熊井に顔を向けて猫撫で声を出した。

「ねえハムさん。気がむしゃくしゃするから、憂さばらしに映画でも見に行かないか。映画のあとで晩飯をおごってやるよ。うなぎの安い店を見つけたから」

「あたし、も少し居残るわ」

「残らなくてもいいんだよ」サイプリーツのスカートにおおわれた熊井の豊かな腰に、好色的な視線を這わせながら、須貝は一段と声をやさしくした。「今いい探偵映画をやってるんだよ。とてもスリルがあって面白いそうだ。『朝日』の〈純〉がそう賞めていたぜ。気張ってロマンスシートと行こう」

「おことわりするわ」熊井は意識的に佐介の方をちらと見た。「だって須貝さんは、映画の方はろくに見ないで、あたしの手を握ったり足にさわったり、そんなことばかりするんだもの。いやになっちゃうわ」

 須貝ののっぺりした顔が見る見るあかくなった。そして乱暴に卓上の鞄を引き寄せた。そのとたんに鞄が赤い卓上ピアノにふれて、白い鍵盤が人をからかうようにポロロンと鳴りひびいた。それでまた須貝は腹立ちをそそられたらしかった。

「はっきり言って置くけれども、この卓上ピアノの代金は研究所費から出すわけには行かないよ」須貝は鞄を小脇にかかえながら、うってかわった底意地のわるい声を出した。「第一にこんな卓上ピアノを、当研究所は必要としていない。この研究所に卓上ピアノとは笑わせやがる。めくらさんの家がテレビを買うようなもんだ。これは買った当人に支弁して貰うことにしよう。ざまあみろだ」

「なにさ、この帝銀!」熊井は小さな声でののしって肩を嚙んだ。

「でも」と佐介はたすけ舟を出した。「こんな仕事に卓上ピアノが不必要だとは、一概には言えないでしょう。仕事がうまく行かなくてイライラしてる時などに、このピアノで心を慰めたり――」

「僕にあてこすってるのか」須貝はせせら笑った。「卓上ピアノ如きでイライラがなおるなら、誰も苦労はしねえや。余計な口は出さずに、L十三号の手筈でもととのえて置け。今週中に第一回の報告をまとめて出すんだよ。じゃあ僕は帰る」

 須貝は鞄をかかえていない方の手を伸ばして、わざと荒荒しく鍵盤をひっかき回した。高低さまざまの音が出鱈目(でたらめ)に入り交って、湿った空気の中をころがり回った。須貝はせいせいしたという顔付きで、背筋をまっすぐに立て、気取った歩き方で部屋を出て行った。階段を降りて行くにぶい足音がした。

「あ。雨が降ってきたわ」

 どすぐろく濁った空が、もう持ち切れないように、ぽつりぽつりと雨をおとし始めた。故(ゆえ)もないけだるさを感じながら、佐介は窓の方へ足を動かした。熊井は主任卓に腰をおろし、膝を組んだままじっとしていた。佐介は窓から街を見おろしながら口をきいた。

「その卓上ピアノ、僕が買って上げようか」

「無理しないでもいいわ」さっきの怒りのためにまだ熊井の声はこわばっていた。「主任がああいうことを言うんなら、デパートに戻して来てもいいのよ。デパートだから受取ってくれるわ」

「いや、僕もひとつ欲しいと思っていたんだよ。いや、その言い方は間違っている。これを見たとたんにこれが欲しくなったんだ。さっき主任から歩合金の二千円を貰ったから、それで払うよ」

「家に持って帰るの?」好奇心をそそられたように熊井が言った。「そして自分の部屋で弾くの?」

「いや、そうじゃない。そんなへんてこな趣味は僕にない」

 おちて来る雨の粒がしだいに多くなってきた。この建物を出て十間[やぶちゃん注:約十八メートル。]ほど歩いた須貝がたまりかねたようにレインコートを頭からかぶり、あばれ馬のようにかけ出して行く姿が眺められた。雨が降って来たからとて、とことこ戻ってくるのは、彼の見識が許さなかったのであろう。頰にうす笑いをたたえて佐介はそれを眺めていた。熊井がふたたび訊ねた。

「じゃあどうするの?」

「贈り物にするんだよ」

「贈り物?」熊井は膝を組みかえて、食い入るような視線を佐介の横顔にそそいだ。佐介はまたわらっていた。「あんた、なにを笑ってるのよ」

 笑いを消して佐介はふりむいた。

「なにも笑っていないよ」

「笑ってた。あたしのことを笑ってたんでしょう」

「笑ってなんかいない。光線の具合でそう見えたんだろう」

「贈り物って、相手は女のひと?」と熊井は急に視線をするどくさせた。「女のひとでしょ」

「女じゃないよ」佐介は断言した。「そんなじゃらじゃらした相手じゃない。もっと気の毒な人々だよ。それに贈ろうと思うんだ」

「へえ。どんな心境で?」

「同情からだよ」

 佐介はそして放心したような眼を、窓の外に向けた。雨はますますはげしくなり、家並や街路は茫(ぼう)とけむっている。皆それぞれ雨宿りしたと見え、街路にはほとんど人影は見えない。窓の中にも細かい雨滴がさあっとしぶき入ってきた。そして佐介は突然熊井の方に向き直った。

「今、僕は、何と言った?」

 熊井はその佐介にいぶかしげに答えた。

「同情、って言ったわよ。なぜ?」

[やぶちゃん注:冒頭、日曜日に郵便が配達されているとあるが、依然は日曜日でも普通郵便を配達していた。しかし、労働組合の要望や休日手当のコスト削減などの関係から、日曜日の普通郵便の配達は廃止された。但し、書留・速達・配達時間帯指定郵便・配達日指定郵便代金引換・電子郵便(レタックス)・「ゆうパック」などは日曜でも配達される。あるネットの記載では日曜の普通郵便配達は昭和四五(一九七〇)年頃に廃止になったのではないかという記載があった。

 なお、ここいらで言っておくと、梅崎春生は総てではないものの、志賀直哉の「赤螺蠣太」の如く(主要な登場人物に海産・水産生物の名前が使用されている)、登場人物の名前に明らかに意識的に動植物を用いていることが判る。須山佐島・井・玉虫志田・「ヘビ」・山・などである。水に関係あるものも有意にある(山・白滝川)。一見、無関係に見える「黒須」もこの姓は地名由来で、「黒洲」や「畔」由来であるから、水に関係があるのである。さらに、水産動物を用いた固有名詞や比喩も多いように思われる。「わにざめ鰐鮫・「お歳暮のかなにかを連想させた」・「のフンドシにそっくり」・「触るとサッと引込むイソギンチャクのように」・「エラあり」・「平家蟹みたいな」などである。比喩は梅崎春生自身の好み(傾向)と言えば済まされるが、人名のそれは明らかに意図的である。海産生物フリークの私には非常に気になったので記しておく。

 また、本章の佐介と熊井のエンディング・パートなどはすこぶる映像的・映画的である。シナリオというより、ここを映画のカメラマンなら、こう撮るだろうといった書き振りがいかにも素敵だと思う。

「アロハオエ」YouTubeのИлья Агутин氏の「【和訳付き】アロハ・オエ(ハワイ民謡)"Aloha Oe" - カタカナ付き」で視聴出来る。ハワイ語で最も日常的な挨拶語として「こんにちは」・「さようなら」の意で、他にも「おはよう」・「おやすみ」・「ありがとう」・「愛しています」など多様な意を持つらしい。ここは鴨志田の辞表に引っ掛けた梅崎春生の別れの挨拶の皮肉の洒落であろう。

「アプレ野郎」アプレ・ゲール(フランス語:après-guerre)。「戦後派」の意。ウィキの「アプレゲール」によれば、本来は、『芸術・文学など文化面における新傾向を指す名称として、第一次世界大戦後のフランスやアメリカ合衆国等で用いられ、第二次世界大戦後の日本でも用いられた』が、『戦前の価値観・権威が完全に崩壊した時期であり』、『既存の道徳観を欠いた無軌道な若者による犯罪が頻発し、彼らが起こした犯罪は「アプレゲール犯罪」と呼ばれた。また徒党を組んで愚連隊を作り、治安を悪化させた。このような暗黒面も含めて、「アプレ」と呼ばれるようになった』とある通り、一部の若者たちの反道徳的傾向に対する批判的・軽蔑的呼称として専ら用いられた。]

2020/07/10

梅崎春生 砂時計 6

 

     6

 

 人間は何時なんどき、どういう急激な病気で、あるいはどういう不慮な事故で、死んでしまうか判らないものだ。判らないからこそ人間は安んじて生きている。しかし、じりじりと長い時間をかけて死んで行くのと、ぽっくりと頓死するのと、どちらが当人にとって幸福か。私などは今のところ、どちらかと言えば、後者の方が望ましいような気がするが、しかしこういうことはやはり当面して見ないと判らない。それでは、残される者にとってはどちらが望ましいか、これもその時の条件や環境、それらの復雑な組み合わせによって異なるのだろう。今から十数年も前のことになるが、東京の某郊外にある山川病院長山川医学博士は、友人に誘われて、生れて初めて海釣りに行き、一尺ほどの魚をやっと釣り上げたとたん、心臓麻痺をおこして舟中で急死した。六十三になっても、初めて魚を釣り上げたことは、相当にショックだったにちがいない。とかく初めての経験というやつは、新鮮で快適な半面に、非常におそろしいものを含んでいる。

 山川博士は腕は確かで人望もあり、病院も割に繁昌していたが、博士の派手好きと浪費癖のために、財産は遺族にほとんど残らなかったそうだ。二階建ての大きな病院も没後人手に渡ってしまった。そしてそれは病院ではなくなってたちまち養老院に変身した。現在も養老院で、正式には『夕陽(せきよう)養老院』と呼ばれている。老人だから夕陽というわけなのだろう。ここに入っている老人は、開院以来爺さんばかりである。婆さんは入所する資格がない。どうして婆さんを入れないか。婆さんだと長生きをする。統計上そうなっている。長生きをされると回転率が悪くなるからだ、という噂も一部には流布されている。院内の爺さんたちも大体そう思っているらしい。夕陽養老院は私立の養老院だから、もちろん無料ではない。入所の当初に金を払わねばならぬ。戦前にはその額が八百円だったが、戦後は物価の昂騰(こうとう)につれて、現在では十万円にまではね上った。十万円さえ払い込めば、あとは死ぬまでただで世話をしてくれるわけだ。そして入所の資格年齢は六十歳以上ということになっている。資格年齢を下げると、その分だけ生きられてかなわないからだろう。

 現在の夕陽養老院長は黒須玄一と言って、身の丈六尺近くもある壮漢だ。歳は四十五六だが、周囲の房毛だけのこして、てっぺんはすっかり禿げ上っている。色は浅黒く、眉毛がふとぶとと濃い。それに三寸ぐらいの長さの剛(こわ)い顎鬚(あごひげ)をたくわえている。眼光もけいけいとして、人を射すくめるような光を放つ。射すくめると言うより、咎めだてをするような、と言った方がいいかも知れない。いつも紺地の詰襟服を好んで着用し、院内をのっしのっしと巡視して回る。短軀にして倭小(わいしょう)なのが多い爺さんたちの中で、黒須院長の巨軀は大へんに目立つのだ。そして黒須院長は自らのことを『信念の人』と呼んでいる。時にはそれに『鉄の如き』という形容詞をつけることもある。そういう心臓ぶりが、院内のある種の爺さんたちの趣味にはなはだしく合わないのである。この逞(たくま)しい黒須玄一院長は、しかしこの養老院の経営者ではない。つまり彼は雇われ院長に過ぎないのだ。数名から成りたつ経営者団によって、一年ほど前黒須玄一はここの院長に任命された。そしてこの一年間彼は院内の改革(爺さんたちにとっては迷惑な話であったが)に努力して、かなりの成功をおさめた。そこで経営者たちからの覚えもめでたく、月給も初めにくらべると二倍になったという話だ。そんなことにおいても院長をこころよく思っていない向きが確かにある。黒須院長が咎めだてをするような眼相になったのも、そこに一因があるらしいのだ。

 今、夕陽養老院に収容されている爺さんの総数は九十九名である。九十九名が二階建てコの字型の建物の各部屋に、それぞれ分散して入っている。住居は一人あたり最低三畳を確保するという約束だったが、黒須院長が就任以来、何とかかとか口実をつけて、一人あたりを二畳に減らしてしまった。すなわち六畳間には三人というわけだ。収容人員も六十六名から九十九名に増加した。二畳というと一坪という勘定になるが、人一人が生きて行くのにたった一坪とは、いくらなんでも狭過ぎるだろう。爺さんたちが不平を言うのもムリはない。

 爺さんたちは皆、当初にまとまった金額を納入する能力を持っていたわけだから、世の並の放浪者や極貧者とはすこし違う。子供夫婦とそりが合わないとか、世の荒波にもみくちゃにされて生きて行くのがイヤになったとか、理由はそれぞれあるが、最後の平穏な生活を求めて入所してきたことにおいては、皆一致している。その平穏な生活の形式を、白蟻が材木をすこしずつ食い破るように、黒須院長が一年にわたってじりじりと食い破ってきたわけだ。爺さんたちがそれで黙っておさまる筈がない。

 こうして梅雨に入る前後から、爺さんたちの動静はすこしずつざわめき始め、黒須院長の眼はますますたけだけしい光を増して来た。そしてニラ爺の退院問題をきっかけとして、在院者と院長との衝突が始まったのだ。

 

 午後一時二十分。

 黒須院長は詰襟服のボタンをきちんとかけ、顎鬚をしごきながら、正面玄関のバルコニーの上に佇立(ちょりつ)し、空をじっと見上げていた。空の色はまるでポタージュのようにねっとりと重苦しい。今にも雨が降(お)ちて来そうだ。黒須院長はかねてからこのバルコニーに佇(た)って、悠然と空を眺めるのが大好きであった。こういう姿勢をとると、いかにも『信念の人』らしく見える。その点において彼はこの場所を愛好していた。しかし今日は単にポーズをとるためにここに立っているのでもなければ、空模様を心配しているのでもなかった。彼は空を眺めながら、ニラ爺の処分のことについてあれこれと考えていたのだ。午前中黒須院長は威儀を正し、街の自転車屋に出かけ、リヤカーの売値をたしかめてきた。自転車屋の主の言によると、新品で一台一万円から一万二千円ぐらいするという。それは黒須院長の予想より五割がた高かった。

「うん」やがて顎鬚をぐいとしごき、黒須院長は決然たる口調でひとりごとを言った。院長はバルコニーに出ると、とかくひとりごとを言う癖があった。「これはやっぱり韮山(にらやま)に負担させよう。もともとこれはあいつの過失だ。過失を放っておくと癖になる。おいぼれを増長させると全くきりがない。負担をこばめば、もちろん即時退院処分だ!」

 黒須院長は眼玉をぎろりと光らせ、空から地上に視線を移した。この建物の前庭は、黒須院長の就任当時は、一面の芝生と花壇で、爺さんたちの好い日向ぼこの場所になっていたが、今は彼の改革方策にしたがって芝は全部引っ剝がされ、掘りくりかえされてすっかり畠になっている。前庭のみならず、構内の空地という空地は残らず畠になってしまった。一千二百坪のこの夕陽養老院は、建物と畠からなっていると言っても過言ではない。トマト、胡瓜(きゅうり)、いんげん、茄子(なす)、さつま芋、ねぎ、さまざまの種類の野菜がところ狭しと生い繁っている。そのあぜに点々と、数名の爺さんがそれぞれの姿勢で、虫をつまんで潰(つぶ)したり、病葉(わくらば)などを摘み切ったり、いろいろと世話をやいている。その姿を今このバルコニーからも眺めることが出来る。もちろんこれは任意の労働でなく、黒須院長が発案した輪番制の強制労働だ。〈適当な労働は長寿の秘訣〉黒須院長は満足げに畠や爺さんたちを見おろしながら、またひとりごとを言った。

 「うん。初めてにしては割に良く出来たな。これもひとえに俺の企図が良かったせいだ。だからして、収穫の四分の一は俺が頂戴する権利があるな。いや、四分の一とは控え目すぎる。三分の一と行こう。それにしても、あの韮山爺のやつ!」

 太い眉をびくびくと動かして、黒須院長は腹立たしげに舌打ちをした。黒須院長をして舌打ちさせた事件は、数日前のことだ。その日の午後、早実りのトマトを総員労働で採取したところ、予想外の収穫高で、院内消費を差引いてもなおリヤカー一台分が余った。そこで黒須院長はこれを売却することに決定した。ただちに夕陽養老院備品のリヤカーに搭載(とうさい)し、五十円という報酬でこれを行商して回る希望者をつのって見ると、予想に反して誰も希望して出て来ない。報酬が少なすぎると言うのだ。黒須院長は内心腹を立てたが、面に出すわけにも行かず、止むなく今度は七十円に値上げしたところ、やっと韮山爺さんが一歩進み出て来たというわけだ。韮山爺さんは院内ではニラ爺と呼ばれ、年齢も満で七十三歳で、ここでは古顔の一人に数えられている。頭は禿げて腰も曲り、年齢のせいか頭もすこし

ぼけていて、とかく珍奇な振舞いが多い。訪ねてくる身よりもなく、おそらく煙草銭かせぎに希望して出たのであろう。黒須院長はちょっと心配して訊(たず)ねてみた。

「大丈夫か?」

「大丈夫でやんす」

 ニラ爺はもごもごと口の中でそう発音した。当人が大丈夫だということだし、他の爺にたのめば七十円ではイヤだと言うだろうし、結局ニラ爺行商の件を容認したのだが、それが黒須院長近来の大失敗だったわけだ。

 午後三時半、ニラ爺はトマト満載のリヤカーをえいえいと引っぱって、裏門から出発した。そして帰院して来たのは、もう夜中の二時過ぎで、ニラ爺は極度の疲労のために雑巾(ぞうきん)のようにしおたれていた。しかもリヤカーは引かずに手ぶらでだ。あんまり張り切りすぎて、遠くまで行商して歩いたので、ついに道に迷い、それでこんなに遅くなったのだと言う。いろいろ心配して(リヤカーやトマトのことなどを)寝ずに待っていた黒須院長は、半分怒鳴るようにして訊ねた。

「リヤカーはどうしたんだ」

「へえ」ニラ爺の体躯はおそれおののき、一回り小さくなったようであった。「電車の踏切りで、電車と衝突しまして」

「なに?」里一須院長はぎろりと目を剝(む)いた。「衝突だと。衝突と言うのはだな、大体同じ質量のものがぶつかり合うことだ。それを電車とリヤカーが衝突だなぞと――」

「へえ」ニラ爺は面目なさそうにますます小さくなった。

「そいじゃ、はね飛ばされましてん」

「なにい。はね飛ばされたあ?」黒須院長は椅子からすっくと立ち上った。「どの電車線の、どの踏切りだ」

「へえ。Q電鉄です。運転手のやつがカンカンに怒りまして――」

 ニラ爺はくどくどと弁解を始めたが、黒須院長はそれにほとんど耳をかさず、動物園の熊のように部屋をどしどしと歩き回ってばかりいた。そして夜が明けるのを待ちかねて早速Q電鉄にかけ合いに行ったが、電鉄側では、当方の手落ちではなくそちらの過失だ、と冷淡につっぱねる。一時間余りもねばってみたが、向うでは頑強にそう主張する。電鉄側には証人がいるらしいが、こちらはニラ爺の言葉だけで、それを裏づけるものが何もないのだ。しかもニラ爺は老齢で頭がぼけているし、正式に争っても勝ち目はなさそうであった。そこで黒須院長はかんかんにふくれて、とりあえず現場に急行した。問題のリヤカーは第十三号踏切りのそばの溝の中に泥まみれになり、横だおしにころがっていた。こわれて使用出来ないことは、さわってみるまでもなく、一目でわかった。

(リヤカーははね飛ばされて、ニラ爺には異状がないかわりに――)バルコニーから地上をにらみ回すようにしながら黒須院長は考えた。(ニラ爺がはね飛ばされて、リヤカーが無事であった方が、どんなに良かっただろう。そうすれば明目にでもニラ爺の後釜(あとがま)に新入院者が十万円持って入ってくる。今のままじゃリヤカーの損害だけでも一万二千円だ)

 そして黒須院長はくるりと回れ右をして、バルコニーにつづく院長室にのっしのっしと歩み入った。こめかみの血管が怒張して青くふくれ上っていた。

(それにあいつらは、リヤカーのことについては毫(ごう)も反省の色は見せず、行商手当の七十円を早く払えと言いやがる。今どきの老人は全くなっておらん。義務のことは忘れて、権利ばかり主張する。なんという嘆かわしいことか!)

 あいつらと言うのは、当のニラ爺と、ニラ爺と同室の松爺と滝爺の。ことであった。松爺と滝爺は、同室のニラ爺の窮状に同情して、そして黒須院長にたてつく気になったのだろう。黒須院長は部屋のすみの卓に行き、大やかんからコップに麦茶をなみなみとついだ。なまぬるい麦茶は一気に院長ののどを胃の方に流れ落ちた。濡れた顎鬚を詰襟服の袖口でぬぐいながら、黒須院長はまたひとりごとを言った。

「ひょっとかすると、あいつら、アカじゃなかろうか」

 思わず自ら発言した『アカ』という言葉のひびきに、黒須院長はぎょっと脅(おび)えた様子で、おどおどとあたりを見回した。しかしその脅えの色はすぐに顔から消えて、咎めだてするようなたけだけしい光が、ふたたび眼によみがえってきた。黒須院長は院長卓の頑丈な回転椅子にどっかと腰をおろし、宙をにらんでじっと眼を据(す)えた。

 このリノリューム張りの院長室は、山川医院時代は診察室だったという話だが、黒須が院長になって以来、彼はいろいろ新しく調度類を購人し、重厚にして威圧的な雰囲気をつくり上げることに成功した。だから院内の爺さんたちは、前の院長時代は気軽に院長室に出入り出来たが、今はお白洲(しらす)に出るみたいでどうも具合が悪い、とこぼす者が多い。黒須院長が購人した調度類は、並外(はず)れて巨大なものばかりなのだ。院長が使用する扇は仕舞用の舞扇だし、卓上の灰皿ときたら直径一尺にちかかった。これら巨大なものの組み合わせが、高圧的な雰囲気をかもし出すのに大いに役立っている。黒須院長はその大型の回転椅子の上で、厚味のある胸をぐいと反らした。

 (明目の午後は月例の経営者会議があることだし――)黒須院長は右掌で禿げた顱頂部(ろちょうぶ)をしずかに撫でさすりながら考えた。あたかも経営者たちの気持を撫でおさめるかのように。――院長にこわいものがあるとすれば、すなわちこの経営者会議がそれであった。雇われている閲係上、院長はどうしても彼等に頭が上らないわけであった。(それまでにどうしてもリヤカー事件を始末して置かねばならん。俺の黒星となると大変だからなあ)

 黒須院長はぬっと立ち上った。そして大戸棚の上から硯箱(すずりばこ)をおろして、また院長卓に戻ってきた。硯箱も大きくて、ちょいとしたスーツケースほどの体積をもっていた。黒須院長は卓上に紙をのべ、おもむろに硯箱のふたをとった。それから眼を閉じてふかぶかと深呼吸をした。筆で字を書く前にそうするのは、院長の少年時代からの習慣だ。その習慣は院長の父親から仕込まれたものであった。だから黒須院長は今でも、眼を閉じて深呼吸をする度に、あの厳格だった父親のことを思い出す。父親は地方の中学の書道の教師で、不遇の生涯をおくって死んだ。黒須院長は眼を閉じたまま、やや感傷的な声でつぶやいた。

「お父さん。……お父さん」

 父親は院長ほど大きな体軀は持っていなかった。むしろ目本人としては小さい部類に属していた。その小男から、どうしてこんな大男が生れたか、院長自身も知らない。父親は教師の故もあって大へん厳格な性格で、院長は少年時代毎朝四時にたたき起され、習字を徹底的にやらされた。黒須院長が現在能筆家であるのも、ひとえに幼少時代のこの訓練のためである。その頃、その地方の新聞社で、年に一回小学生の書道大会というのをやっていて、出来の良い順に、天、地、人、五客、秀逸、入選、という等級をつける。院長も父親に命じられて毎年これに出品するのだが、もしも、天、地、人、に入らないで、五客にでも落ちようものなら、父親はかんかんに怒って院長を荒繩でしばり上げ、物置に放り込んでしまうのだ。そしてその日一日は、泣いてもわめいても、飯ひとつぶも食べさして貰えなかったものだ。たしかにあのスパルタ式教育が、今の自分の土性骨(どしょうぼね)をつくり上げた、と眼をつぶったまま院長は考える。

「……お父さん」

 父親は背は低かったが、頭だけは今の院長と同じく、てっぺんがきれいに禿げ上っていた。ある夜すこし酔っぱらって、いきなり立ち上った瞬間、その禿頭を電燈の球に打ちあてたのだ。その頃の電球は今のと異って、その尖端に短いするどいガラスの針が突き出ていた。内部を真空にする技術が進歩していなかったから、電球製造中にどうしてもこういう針が出来てしまうのだ。不運にも父親の禿頭にそのガラスの針が突きささって、父親は大げさな悲鳴を上げた。そして禿頭には小さな孔があき、薄い血がそこから滲(にじ)み出てきた。電燈のあかりに照らされたその血の色を黒須院長は昨目のことのように思い出すことが出来る。そして院長の父親は、その傷口からバイキンが入り、バイキンはやがて全身に囲り、その頃はペニシリンもなかったから、二週間目にとうとう死んでしまったのだ。死ぬ前の日に父親は院長を枕もとに呼びよせ、『如何なる場合でも信念をもって生きよ』という遺言をのこした。それ以来黒須院長は、父親のその遺言を拳々服膺(けんけんふくよう)し、信念をもって今まで生き抜いて来た。もっとも近頃の黒須院長の『信念をもって生きる』ということは、『自分に都合よく生きる』ということとほとんど同義語になってしまってはいたが。――

「よし!」黒須院長は力強くつぶやいて、眼をかっと見開いた。そして筆にたっぷり墨を含ませて、紙におろした。さすがは能筆をほこるだけあって、墨痕りんり、筆は生けるものの如く自在に紙上をおどった。

 

 『告示
 院生韮山伝七は去る六月×目、本院備品のリヤカー
 を破損せしめ、使用不能にいたらしめたり。これひ
 とえに本人の不注意に因するものなるによって、向
 う一月以内に 事務局に 一万二千円を納入弁償すべ
 し。弁償不能の場合には、院長の権限をもって退院
 を命ずることあるべし。右告示す。
            夕陽養老院長 黒須玄一』

[やぶちゃん注:署名の「黒須」が底本では「黒頂」となっているが、誤植と断じ、訂した。]

 

 そして黒須院長は筆をとめ、ちょっと考え込む顔付きになった。ふたたび筆をとって余白につけ加えた。

 

 『以後本院の建物備品を、故意と不注意たるを問わ
 ず破損破壊せるものは、この事例に即して処分する
 ものとす。              院長㊞』

 

 黒須院長はしずかに筆を置き、院長卓の引出しから告示用の院長印を取り出した。これもれいによって途方もなく巨大なハンコで、電気アイロンぐらいの大きさがあった。それに朱肉をまぶし、自分の署名の下にべたりと押しつけた。そして院長は満足そうに顎鬚をしごきながらにやりと笑った。

「先ずは、これでよしと」

 リヤカー破損の件を明目の会議で披露することは、いと辛い限りであるが、しかし直ちにこういう処置をとったと報告すれば、経営者たちも不満には思うまい。いや、不満どころか、よろこぶに違いないのだ。経営者たちが望んでいるのは、在院老人の回転率の早さであり、すなわちそれによる入院料十万円の間断なき流入である。端的に言えば、爺さんたちが続々死亡してくれることを希望しているわけだ。爺さんが一人死ぬと、すぐ都内某大学付属病院に遺骸を持って行く。病院ではこれを解剖(かいぼう)の実習に使用し、あとは火葬してちゃんと骨壺に入れて戻して呉れる。それだけでなく、別に三千円という金までつけて呉れるのだ。それに都の方からも三千円という葬儀料がとどく。そういう副産物すらあるのだから、爺さんたちの死が待望されないわけがない。院内爺さんの誰かが死ぬと、この世に残された爺さん仲間は、それぞれのへそくりの中から香奠(こうでん)を出す。一人々々の額は少くても、数十人分とまとまると、ちょいとした金額になるのだ。この香奠は、夕陽養老院歴代院長のほまちになるという不文律があった。一人五十円出すとしても、総数九十何名だから、五千円近くになる。一月に平均四人死ぬとして、院長のほまちは月約二万円となるのだ。副収入としては相当な金額だ。そして香奠返しにはビスケット一袋ぐらいで済ませることになっている。――この度の退院処置というのは、前例にないことであるが、院内から消滅するという点では、退院も死亡の一種と見なしていいだろう。解剖料という副産物は入らないとしても、経営者たちがよろこばない筈がないのである。

「重畳(ちょうじょう)。重畳」

 黒須院長は書き上げた告示を手にして、回転椅子から勢いよく立ち上った。在院老人数を六十六名から九十九名と五割増しにすることによって、れいの羽根運動からの援助金も一躍五割増しになった。実を言うと、有料養老院は募金の補助を受ける資格はないのだが、そこはそれ渡りをつけて、うまくごまかしてあるのだ。その点においても、経営者たちの黒須院長に対する信任はあつい。今度の退院制度を確立することによって、ますます信任が深まって行くことであろう。

(しかし、こういう制度を確立することにおいて、あのおいぼれどもが黙っているかどうか)

 院長室の扉を押して廊下に出ようとする時、黒須院長の脳裡をちらとかすめた危惧(きぐ)はそのことであった。院長は唇をきっとむすび、眉をびくびく動かしながら、廊下をまっすぐ階段の方にあるいた。掲示板は階下玄関の右側にあるのである。院長はやや足音を荒くして、階段を降り始めた。

(うん。なんとか言って来ても、頑としてはねかえしてやる。あいつら、齢をくっているだけで本質的には烏合(うごう)の衆なのだ)古ぼけた階段は黒須院長の靴の下でぎいぎいとにぎやかに悲鳴を上げた。その複雑な摩擦音は、しかし黒須院長の心情を鼓舞し元気づけるというより、何故かむしろ気持をひるませ潰(つい)えさせたようであった。院長の足どりは急に弱くなった。(いや、やはり正面衝突するのはまずい。押しつめられてくると、あいつら何をやり出すか知れたもんじゃない。懐柔策をとる方がいいかも知れん。そうだ。やはり懐柔と恫喝(どうかつ)、その二本立てで行こう。両方をうまくあやなして行くなんて、院長商売もはたで見るほどラクじゃないな)

 階段を降り切ったところで、黒須院長はややぎょっとしたように立ち止り、手にした告示を背にかくすようにした。前方五米ばかりの場所に、瘦せた滝爺が立っていたからである。滝爺というのは本名を滝川十三郎と言って、以前は某新聞社の記者だったとのことだが、割に理屈っぽい口やかましい老人であった。滝爺は廊下にひっそりと立ち、どんぐり眼でじっと黒須院長を見詰めていた。告示を背に回した自らの弱味を恥じて、その反動で黒須院長は横柄な声を出した。

「何か用か?」

「院長」滝爺も押しつぶしたような声を出した。「おれたちは一度院長とじっくり話し合いたいことがあるんだ」

「何か用か?」黒須院長は同じ問いをくり返した。在院老人の大部分は黒須玄一のことを、院長さん、院長さま、あるいは院長先生と呼ぶ。この滝爺は黒須のことを、院長、と呼び捨てにする少数者の一人であった。「用というのはニラ爺のことか?」

「うん。それもある」滝爺は追い詰めるように一歩進み出た。「しかし、それだけじゃない。いろいろ問題があるんだ。今日、院長は時間が空いてるか?」

「うん」黒須院長は相手を咎めるように眼を険(けわ)しくさせた。「昼間は事務でいそがしい。夜分なら三十分ぐらい時間を割(さ)こう」

「夜分でもいいよ」

 そして滝爺は何かつけ加えようとしたらしいが、思い直したように口をつぐみ、回れ右をすると、肩をそびやかして玄関から前庭へ出て行った。黒須院長は滝爺の姿が見えなくなるのを待って、始めて掲示板に近づいた。

(おれ、と言わずに、おれたち、と復数で来たな)告示をがさがさと拡げ、鋲(びょう)でその四隅をとめながら院長は考えた。なにか不安な感情が湧いて来そうだったので、院長は直ちにうんと下腹に力を入れて、それを押しつぶした。鋲を親指でぎりぎりと押しながら、黒須院長は呪文(じゅもん)のように呟(つぶや)いた。

「懐柔と恫喝。懐柔と恫喝。ええい。なにくそっ!」

[やぶちゃん注:「仕舞用の扇」「仕舞」とは、能・芝居・舞踊などで、舞ったり、演技したりすること。或いは特に、能の略式演奏の一つで。囃子 (はやし) を伴わず、面も装束もつけず、シテ一人が紋服・袴 (はかま) ・扇だけで、謡だけを伴奏に能の特定の一部分を舞うものを指す。ここは後者ととっておく。

「顱頂」頭の頂(いただ)き。

「五客」「ごきゃく」と読み、俳句などの選に於いて、「天」・「地」・「人」の「三光」の次に位する五つの優れた作品を指す。

「その頃の電球は今のと異って、その尖端に短いするどいガラスの針が突き出ていた」takeshi_kanazaw氏のブログ「写録番外編」の「昔の電球の光はいい・・・」の下方の二枚の写真を見られたい。

「拳々服膺」心に銘記し、常に忘れないでいること。「礼記(らいき)」の「中庸」が原拠。「服膺」は「胸につけて離さない」の意。

ほまち」は「帆待ち」で、本来は、江戸時代に、運賃積み船の船乗りが契約以外の荷物の運送で内密の私的収入を得ることや、その収入金を言った。そこから転じて「外持」「私持」などとも当て字して、「臨時に入る個人的な収入」・「個人的に秘かに蓄えたへそくり」の意となったものである。

「れいの羽根運動」「赤い羽根共同募金運動」のこと。現行のその公式記載に、『共同募金及び共同募金会に関する基本的な事項が、社会福祉法に規定されて』おり、この『運動は、都道府県を単位にして行われ』、『各都道府県内で共同募金としてお寄せいただいたご寄付は、同じ都道府県内で、子どもたち、高齢者、障がい者などを支援するさまざまな福祉活動や、災害時支援に役立てられ』、『共同募金運動を推進するための組織として、都道府県ごとに、県内の各界を代表する役員で構成された共同募金会があり』、『都道府県共同募金会には、助成先を決定する「配分委員会」が市民参加により設置されており、助成団体や金額が決められ』ているとある。

「恫喝」「恫愒」とも書く。嚇(おど)して怯(おび)えさせること。]

2020/07/09

梅崎春生 砂時計 5

 

     5

 

 午後一時二十分。

 白川研究所主任格の須貝は、二階の窓ぎわに椅子を据え、それにまたがって道路をぼんやりと見おろしていた。嘱託名義の玉虫老人は自席で、小さな歯ブラシとコップの水で、外した入れ歯の掃除に専念している。入れ歯は老人の顔かたちからするとやや大き目に見えた。その入れ歯の人造歯ぐきは、肉色というよりも毒々しい代緒色(たいしゃいろ)で、須貝は時々横目でそれをにらみながら、いまいましげに、舌打ちをした。この玉虫老人の目課である入れ歯掃除を、須貝主任は好んでいなかった。(なにも勤務先で入れ歯掃除をしなくてもいいではないか)老人の机上のコップの水は、入れ歯の残滓(ざんし)でうす濁りしていた。女事務員の熊井はこの部屋にいなかった。部屋にいるのは須貝と玉虫だけであった。

 窓から見おろす五間道路は、やはり舗装ががたがたで、剝(は)げたり穴があいたりしていた。かなたの電信柱のわきにリヤカーが乱雑にならべ立ててある。そこらあたりに栗山佐介の姿が見えた。佐介は鞄を前に両腕で抱くようにして、ゆっくりゆっくりこちらへ近づいてくる。(ああ、やっと戻って来たな。それにしてもあの鞄の持ちかたはどうだ。まるで蟹(かに)のフンドシにそっくりじゃないか)須貝は舌打ちをするかわりに、歯の奥をチュウと吸った。(しかし、どうもあいつは得体の知れないところがあるな。一体あいつは何を考えてやがるんだろう)そして須貝は立ち上り、椅子をそこらにがたがたと片づけ、机の間をすりぬけるようにして自席へ戻ってきた。やがて玉虫老人は入れ歯掃除を完了し、口中にコクンと挿入した。こけていた頰が元通りふくらんで、老人は十歳ばかり若返った。コップの水を捨てに階下に降りる老人と、その時下からのぼってきた佐介とは、狭いリノリュームの階段でぶっつかった。

「た、だ、い、ま」

 佐介はそう声には出さず、口だけその形にして見せた。どうせ玉虫老人は耳が遠いのだから、声を出すだけ損だからであった。そして二人は、あやうくコップの水をこぼしそうになりながら、窮屈にすれちがった。佐介はそのまま重い足をはげますようにして、とんとんと階段をかけ上り、研守所に入ってきた。今度は声を出して言った。

「ただいま」

「やあ」須貝は何食わぬ顔で、机の上に両脚を投げ出して、回転椅子の背に安楽そうに頭をもたせていた。靴はぬいでいるので、派手な色柄の靴下が『司法研究』の上に乗っかっている。この研究所の男たちの中で、須貝はもっとも年長のくせに派手好きで、身だしなみも一番よかった。

「ねえ、君。その鞄の持ち方だけは止めたがいいね」

「なぜですか」佐介は丸抱きにした鞄を自分の机に放った。

「なぜかというと、そんなかかえ方をすると、よっぽど大切なものが、その鞄の中に入っているように見られるのだ。そうだろう?」須貝は机上の靴下の親指をぴょこぴょこと動かした。「どこに行ってたんだね?」

「デパートです」

「うん。デパートは広告攻勢でずいぶん賑わっているだろうな。おかげで中小商店は上ったりだ。誰かと一緒に行ったのかい?」

 佐介はあいまいに首を横にふった。そういう質問にはひとまず否定しておく方が安全だからだ。

「何を買ってきたんだね?」須貝は佐介の手にあるものを見た。

「本です」

「ああ、探偵小説か」

 須貝は片頰だけでにやりと笑った。その悪党らしい笑い方が須貝にはたいへん得意らしい。須貝にしても牛島にしても、もともとよろしくない職業に従事しているのだか、ことさらすごんだり秘密めかしたりする必要はないのに、時折こんな悪党的ポーズをとりたがるのは何故だろう。それは彼等が本質的には善良であり、お人好しだという証拠なのかも知れない。悪の職業に従事していても、その全部の人間が悪のかたまりというわけではなかろう。人は時に善意をもって悪事をはたらく。

「さっきはずいぶんハム嬢にしめ上げられたな。ムり[やぶちゃん注:ママ。]もないよ。探偵小説なんてものは、人生と同じで、終末に至るまでのたのしみなんだからな。途中を省略して、いきなり一巻の終りをつきつけられちゃあ、誰だって怒るよ」

「そうです」

「僕たちだって、自分が何時頃どういう死に方をするか、五年後に脳溢血で死ぬか、十年後に原爆でやられるか、あるいは一週間後に崖から落っこちてくたばるか、それが判ってしまえば、もう生きていることの意味がなくなってしまう。知らないうちが花なのよ、というわけだな。だから君の行為は、『殺人準備完了』において、ハム嬢の読むことの生命を絶ったというわけだ。残酷な所業というべきだよ。で、何を買って来た。ミッキー・スピレインか?」

 佐介はだまって須貝の顔を見た。

「そうか。スピレインか」

 卓上の電話のベルが鳴った。須貝は受話器をとり上げた。玉虫老人が歯ブラシをさしたからのコップをぶら下げて、とことこ入って来た。

「僕の前任者のヘビさんという人は」がちゃりと受話器をおろした須貝に佐介は問いかけた。「ホームから突き落されて死んだんですか?」

「そんなことも牛島が話したのか?」須貝は片頰で笑い、満足げに足の親指をピコピコと動かした。「君は今日昼過ぎ、外出した。するとつづいて、牛島も出た。牛島は角のべーカリーで君に追いついた。そこで君らは肩を並べて、デパートまでしきりに話しこみながら歩いたな」

 佐介は無感動な顔付きで聞いている。

「そして君らはデパートの入口のところで別れた。君は昇降機で三階にのぼり、書籍部でスピレインの『裁くのは俺だ』を買い、百五十円を支払った。そうだね?」

「そうです」

「それからまっすぐここに戻ってきたにしては、すこし時間がかかり過ぎた。どこかにちょっと寄り道したな。コーヒーでも飲んだか?」

「コーヒーは飲まなかったですね」そして佐介は鼻を鳴らした。「氷宇治です」

「氷宇治とはまたしゃれたものを!」須貝は気取った声を出した。「一方牛島は階段を一歩々々踏んで、屋上までのぼりつめた。屋上で二十分ばかりあちこちの景色を見回していたが、やがて子供の遊び場に行き、お金を出すとガチャガチャと動く木馬があるだろう。あの子供用のさ。それに大の男の牛島が十円はらってまたがり、年甲斐もなくガッチャガッチャガッチャと揺られた。よっぽど面白かったと見え、また三十円出して、三回分ガッチャガッチャガッチャと揺られた。それから木馬から降りるはずみに、レインコートの裾を釘にひっかけて、かぎ裂(ざ)きをつくった」

「あとをつけたのはハム嬢ですか?」

「そうだ」安楽な姿勢のまま須貝は得意そうに莨(たばこ)に火をつけた。「こんな仕事に今日初めて使ってみたが、なかなかしっかりしているな。電話での報告ぶりも要領を得ていた。あの女は使えるよ。ただし訓練すればの話だがね」

「今日は単に――」やや皮肉な口調で佐介は訊ねた。「訓練だけに使ったんですかね?」

「ふふん」あいまいに須貝は笑った。「どうだい。熊井嬢はどうやら君に気があるらしいな。あんなボーンレスハムみたいな女は、僕の数十年の経験からすると、むちむちと弾力があって、なかなか味がいいもんだよ。君なんか若いから判るまいが、結局女なんてものは、面相より実質だ。実質をねらった方がトクだよ」

 佐介はがさがさと包装をとき、小さなノシを貼りつけた小型本を乱暴にハムの机の上に放った。玉虫老人は小さな帳面をひろげ、それにかぶさるようにして何か書き込んでいる。外国人がやるように人差指を逆に曲げて、須貝がおいでおいでをした。佐介は須貝の卓に近づき、そこらの空いた椅子に腰をおろした。須貝はおもむろに尋開した。

「ヘビが突き落されたとはさっき牛島から聞いたんだね。そうだろう?」

「さて」佐介は小首をかたむけて答えをはぐらかした。

「ごまかしちゃいけないよ」老獪(ろうかい)な眼で須貝は佐介を見た。「さっき君は、僕にウソをついた。デパートに一人で行ったとウソをついた。ウソをつくことは大変いいことだ。ただしそれは外に対しての話だよ。仲間うちでウソをつくなんて、もっての外だと思わないか。デパートに行くまでの会話に、ヘビの話が出たんだろう?」

「そうです」

「ふん。牛島がヘビの話をしたとすれば、どんな関連においてそんな話が出たか、大体想像がつくな。ふふん」

「やはりヘビさんは突き落されたんですね」

「そりゃ僕にも判らん」須貝の眉はちょっと曇り、声も低くなった。「酔っぱらって誤って落っこちたのか。あのホームにはちゃんとした柵があって、誤って落っこちるわけはないと僕も思う。残るのは、自殺と、他殺だ。警察では自殺となったが、まあ僕には判らないけれども、自殺する原因はなかったと思う。現在の快楽に執着する方の型だったからな。残るのは他殺だ。すると誰がヘビを殺したか。僕に判るのは、ヘビを殺したのは僕でないということだけだ。つまり、僕以外の誰かだな」

 須貝は莨(たばこ)をごしごしともみ消した。

「それで当研究所はヘビ君の後任として君を雇った。たくさんの志望者から君をえらんだのは、別に君の手腕を買ったわけじゃない。面接だけでは手腕のほどは判らんからな。ただ僕は、人間に対する君の考え方が面白かったから、点を入れたんだ。しかし人間観だけでは仕事は出来ない。この研究所に来て、君はいくつ仕事を仕上げた?」

「今朝の菅医師を入れて、二件です」

「たった二件か」須貝はわざとらしく渋面(じゅうめん)をつくった。「もっとも近頃、当研究所の仕事は不活発になっている。惰気満々だ。末期的症状にちかい。だから君だけを責めるわけには行かないが」

「そうです」

「ヘビ君の死後、どうも調子が良くない。研究所内でもいろんな故障が出たのは、君も見た通りだ。二週間ほど前、小型計算器がいつの間にかなくなったが、あの犯人もまだ出て来ない。大損害だ。鴨志田も出張期間を三日も過ぎているのに、まだ関西から戻って来ない。これも何か間違いでもあったんじゃなかろうかと思う。またさっきも、A金庫の鍵型をとられたらしい形跡があった。誰かが殺されたり、何かが盗まれたり、型をとられたり、いろんなことが起きる。それぞれの事件が起るのは、それぞれの犯人がいるからだよ。やる奴がいるから、事件が起きるのだ。どこかに犯人がいる」

「そう。あなた以外にね」

「そうだ。君も時にはいいことを言うな。原則として僕以外の者を、誰一人として信用しない。しないことにしているんだ」須貝は机上から足をひっこめ、回転椅子をギイと鳴らして佐介の方に向き直った。「角のべーカリーからデパートまで、牛島はどんな話をした?」

 佐介は無表情に沈黙していた。二人は顔を見合わせたまま、一分開ほど過ぎた。とうとう須貝が根負けして口を開いた。

「言わないな。ここでは言えないようなことを話し合ったのか」

「いや、何を話し合ったのか、今考えていたところです。どうも近頃記憶力が悪くなって――」

「放射能のせいだとくるんだろう。わるい冗談だ。しかしまあ信用してやろう」須貝は椅子ごと一尺ばかりぐいと佐介に近づいた。「僕は君を当研究所に入れた責任者だ。だから君の身のふり方についても、最後まで責任をとるつもりだから、君も僕を信頼してほしい。判るね」

 佐介は表情をくずさず、うなずいた。

「まったく君の顔は埴輪(はにわ)の顔にそっくりだな。もすこし表情が動かせんのか」

「動かせるけれども、動かさないのです」

「なぜ?」

「その方がトクだし、それに僕もあなたと同じく、僕以外のものを原則的に――」

「信用しないか」須貝は今度は両頰でにやにやと笑った。佐介もつられて笑い出しそうになったが自制した。「まあ、それもよろしかろう。若いくせに見事な覚悟だ」

「ああ、そうだ」佐介はすこし大きな声を出した。「道ばたの犬に水をはきかけた子供がいたっけ」

 須貝はきょとんとした顔で佐介を見た。そして黒板の『今週の標語』の方を顎でしゃくった。

「そら、『この世に弱味なき人間なし』だ。僕にだって弱味はある。僕も弱いあわれな人間だ。そして弱味があるのは個人だけでなく、個人の集まり、団体、機関、みんなそれぞれ弱味を蔵しているな、当研究所も例外でない。ところで弱味というやつは、こちらが攻勢に出ている場合は割に気にならないが、守勢になってくるとひしひしと身にしみてくる。自分がまるで弱味だらけになったような気がしてくるものだ」

 そして須貝は警戒するように四周(あたり)を見回した。玉虫老人はさっきと同じ姿勢で手帳にかぶさっている。須貝は視線を佐介に戻して声をひそめた。

「一昨日書面で連絡があったが、白川所長の病気がまた悪くなった。もう長いことはなかろうと言うんだ。しかしまだこれは秘密だよ。誰にも言っちゃいけない」

「所長に万一のことがあると、ここはどうなるんです」

「そりゃもちろん解散だろうな」

 その時階段をこつこつのぼってくる足音がした。二人は入口の方を見た。

「ハムかな?」

 若い電報配達手が入口に姿をあらわした。佐介は椅子をはなれ、四つ折りの電報を受取った。研究所宛てになっている。須貝はそれを受取ってひらいた。須貝の眼は急に緊張して、同じところを三度四度いそがしく往復した。

「ふん」

 須貝は押しつぶされたような奇妙な表情になり、それを佐介に見せようか見せまいかとためらった揚句、結局手渡した。佐介は電文を読んだ。

 

 マツイマコトハジサツデナイゾ
 ワタシガチヤントシツテイル

 

 このふざけたような電文を、佐介は二度くり返して低く音読した。

「これはなんですか」佐介は眼をぱちぱちさせながら、電報を須貝に戻した。「マツイマコトというのは?」

「ヘビ君の本名だ」須貝はうたがわしそうな眼で佐介を見た。「君は自分の前任者の名前も知らないのか」

「知らないですね。関係ないから」

「一体どいつがこんな電報をよこしゃがったんだろう」[やぶちゃん注:「よこしゃがったんだろう」はママ。普通なら、「よこしやがったんだろう」である。]

 須貝はまた電文を読み直し、ひっくりかえして裏をしらべ、今度は窓の方にかざして透して見た。さしたる発見もなかったらしく、いきなりくしゃくしゃに丸めると、それを大型の灰皿の上に乗せた。佐介がマッチをすった。

「ヘビ君のことが話題に出たかと思ったら、もうこんな電報が到来した」須貝は若干恐怖にあおざめているようであった。「だから兇(わる)い昔話はしちゃいけないんだ。僕は小さい時よくお婆さんからそう言われた」

 くしゃくしゃの電報は灰皿の中でじりじりと煙をふき出し、それからパッと焰になって、やがてくろぐろと燃え尽きた。紙のときの形のままの黒い灰を、須貝は鉄の丸文鎮でおさえつけてコナゴナにした。

「ふん。ふふん」不快さをふりはらうように、須貝は唇を曲げてわらった。「マツイマコトハジサツデナイゾ、か。七七七五の都々逸(どどいつ)調と来やがる。三味線にも乗りゃしねえ。まったく悪質な厭がらせだな。こんなことをやるやつは、素人じゃない。きっと僕たちの同業者だろうな。職業道徳も地におちたもんだ。業者間でお互いの弱味をつくようになっちゃあ、もうおしまいだな」

「同業者だとすると、いずれこれをネタに恐喝に来るでしょう」

「来るかも知れん」須貝は憮然(ぶぜん)として腕を組んだ。「内憂外患こもごもいたるか。そろそろ第二会社の設計も必要となってきたな」

「第二会社?」

「そうだ」須貝は腕を解いて、背後のA金庫の扉をパンパンと叩いた。「所長がくたばっても、この金庫の中の資料は、まだまだ活用出来る。むざむざと散佚(さんいつ)させるのはもったいない話だ。ところがこれを活用出来るのは、僕たちだけだろう」

「そうです」

「須貝社会研究所、か」須貝は電報のことはすっかり忘れ果てたように、天井を向いて酔ったように瞳をかがやかせた。その表情は少年のように純真で無邪気であった。「ここの資料をそっくり無償でいただき、須貝研究所というのを設立する。場所もここでは困るな。もすこし都心に進出して、盛大なかまえとする。いや、あまり盛大にやると、目をつけられるおそれがあるから、やはりこぢんまりと行くか。所長用の自家用車、所員用の自動車、二台は欲しいもんだな。うん、いや、所員用には自転車がよかろう。自転車でたくさんだ。自転車は足の運動にもなるし」

「そうですな」

「なんだ」須員は夢からさめたように視線を佐介に戻した。「あ、君か。そうだ。さっき言ったように、君を当所に入れた責任者は僕だ。だから君の身のふり方についても、いろいろと考えている。どうだね。もし須貝研究所が設立されることになったら、君も所員にならないか。やはり少しでも気心が知れている方が、僕の方も都合がいいからな」

 佐介は黙って窓の方を眺めていた。壁の鳩時計から鳩が飛び出して、二声啼いた。二時だ。するととたんに玉虫老人がごそごそとあたりを片づけ、帰り仕度を始めた。老人はたいへん耳が遠い筈だが、時計の音だけは、はっきりと聞き分けるらしい。老人の勤務時間は午前十時から午後二時までということになっているのだ。道をはさんだかなたの屋根瓦(がわら)すれすれに、白い腹をこすりつけるようにしてつばめが飛ぶ。佐介の沈黙を須貝は拒否ととったらしく、すこし猫撫で声になった。

「いや。君の将来は僕が保証するよ。君はまだ二件しか成績を上げていない、それは目下の悪条件のためだと思う。須貝研究川においては、不自由はさせない」

「やはり」小さな虫でも眺める眼付きで佐介は言った。

「そこでも見習い所員ですか」

「うん、いや」須貝はちょっと狼狽した。「ええ。君をだな、今見習い扱いにしているのは、これはつまり僕の親心だよ。何故かというと、今研究所は君も知っている通り、あまりいい状態にない。そんなことはないと思うが、もし万一、総員サツにあげられた場合にはだね、所員でも見習いの方だと、罪がぐっと軽くなる。おそらく無罪だね。将来ある君の履歴にキズがついては気の毒だから、そこで見習いということにしてあるんだ。須貝研究所ではもちろん見習いでなく正式所員だ。勤務も隔日でなく、月火水木、いや月月火水木金金だ。猛勤務だぞ、君だって隔日勤務じゃはり合いがなかろう。月、水、金とここに勤め、あとの火、木、土は何をしているんだね。うちで寝ころがってでもいるのかい?」

「ほかの所で働いています」

「へえ、よくそんなハンパな仕事が都合よく見つかるもんだなあ。会社か?」

「いえ。都内某団体の書記です」

「へえ。都内某団体とは大きく出たな」須貝はきらりと眼を光らせた。「まさかうちと同業の団体じゃあるまいな」

「ちがいますよ」

「そうか。新研究所が出来たら、そこは辞めてしまうんだな。ああ、そうだ。ハム嬢も入れてやろう。あれは使えそうだ」

「へえ。お先にごめんなさい」

 帰り仕度をととのえた玉虫老人が、ぺこんと頭を下げて部屋を出て行った。それを見送りながら、佐介は訊(たず)ねた。

「牛島君は?」

「ありゃあダメだ」須貝は顔をしかめて掌をひらひらと振った。もうすっかり佐介に心を許したような態度だが、それが須貝の本音か演技かは、まだ佐介にはわからない。「あいつはだね、腕はあるが、惜しいかな徳がない。平気で仲間を裏切るやつだ。僕はせんからあいつのことをそう思っている」

 そして須貝はものものしく周囲に気をくばり、声を低めて言った。

「あいつ、先刻、鍵型をとったのは俺じゃねえと、妙な弁解のしかたをしおった。あれが第一怪しい。とらないのなら、あらためて弁解する必要はないじゃないか。ひょっとしたら、鍵型をとったのは、あいつかも知れん。いや、あいつに違いない。だからごまかすために、粘土粉をカビだなんぞと言いくるめたんだな。もうなにか蠢動(しゅうどう)し始めているぞ」

 須貝は回転椅子の上で姿勢を正し、無理にいかめしい表情をつくった。

「君に新しい任務を与える。いいか。牛島康之の身辺ならびに言動に対する監視。もちろんこれは秘密裡に行い、相手をして感づかしめてはならぬ。他の受持ちの仕事に出来るだけ優先して、これにかかって貰いたいな。ええと、この仕事をL十三号と名付けることにする」

「歩合は?」と佐介は即座に反問した。

 須貝がそれに答えようとした時、足音が階段をこつこつとのぼってきたので、二人は会話をやめて同時にそちらを見た。大きなつつみを重そうにかかえたハムが入口に姿をあらわした。

「なあんだ。ハム嬢か」気技けがしたように須貝が言った。「何だい。手にかかえたものは?」

「卓上ピアノよ」ハムはつつみを自分の席においた。そして机上の『裁くのは俺だ』をとり上げた。「まあ、嬉しい。ミッキー・スピレインね。前から読みたい読みたいと思ってたのよ。まあ、ちっちゃい可愛いノシまでつけて」

 ハムは手にした本に頰ずりしながら、佐介の方を見てしなをつくった。須貝がにがにがしそうに口を出した。

「もう栗山君には言っちまったよ。芝居はストップ」

「まあ、ひどい」ハムはしなを中止して口をとがらせた。

「その卓上ピアノはどうしたんだい。牛島はどうした?」

「牛島さんに見つかってしまったのよ」ハムはしょげた顔つきになった。「あれから牛さんが屋上から降り始めたのよ。だからあたしも尾行して行くと、七階から六階、六階から五階と、まるでお上(のぼ)りさんみたいに、一々陳列をぶらぶら見物して歩くのよ」

「牛島らしいや」と須貝が笑った。

「そして五階のピアノ売場の前に立って、大きなグランドピアノを五分間ぐらいにらんでいたの。今考えると、牛さんはもう尾行に気がついていて、ピアノの肌はピカピカしていて、よくうつるでしょう。だからそれを鏡がわりにして、背後の様子を探ってたんじゃないかと思うんだけど」

「そうかも知れんな。あいつも抜け目ないからな」

「あたし、遠くからそれを見張ってたんだけれど、牛さんがピアノ売場からひょいといなくなったの。あたし、びっくりしてさ、すぐそのグランドピアノまで飛んで行ったの。しかし牛さんの姿は見えない。まかれたかなと思って、あちこち見回していると、ピアノの下から手がにゅっと出て、あたしの足首をギュッとつかんだのよ。あたしびっくりして、キャッと飛び上ったわ。牛さんはピアノの下にもぐり込んでかくれてたのよ」

「ピアノの下とは考えたな」

「ごそごそ這い出して来て、怕(こわ)い顔で何しにここにきたんだと聞くから、ピアノ買おうかと思って来たと答えると、お前みたいな女にピアノを買う金がある筈はないと言うの。だから、金がないから、卓上ピアノにするって答えたら、卓上ピアノは玩具売場だと言うでしょう。そしてあたしの腕をつかんで、無理矢理に玩具売場にひっぱって行ったの。だから、あたし、仕方がないから、卓上ピアノをひとつ買ったのよ」

「いくらした?」須貝が心配そうに訊ねた。

「千四百円」ハムは涼しい顔でガサガサと包装紙を剝(む)きながら言った。「もちろんこれは研究所費から出るんでしょうね、仕事の上で買ったんだから」

「どれ、こちらに寄越しな」須貝は渋面をつくって、手を伸ばした。赤塗りの卓上ピアノはニスのにおいをただよわせながら、須貝の机の上に運ばれた。「千四百円とは高いもんだねえ。も少し安いのはなかったのかい」

「五百円ぐらいからあったけれど、そんな安物、いくらなんでも恥かしくって買えやしないわ」

 須貝はますます表情を渋くして、白いピアノの鍵のひとつを、中指で不器用にポン、ポンとたたいた。その音は佐介にふと鳩時計の鳩の音を連想させた。佐介は何気なく言った。

「玉虫老人は、あの人は耳が遠いということですが、実はよく聞えるんじゃないかしら」

 須貝はぎょっと眼を見開いて、佐介の方を見た。

「なぜ?」

「いや、何となくそういう感じがしたんです」

[やぶちゃん注:「放射能のせい」本篇は昭和二九(一九五四)年八月号から開始しているが、その五ヶ月前の同年三月一日、当時アメリカの信託統治領であったビキニ環礁でのアメリカ軍によって水爆実験「キャッスル作戦」(Operation Castle)の一つブラボー実験(Castle Bravo)が行われた。当時の和歌山県東牟婁郡古座町(現在の串本町)のカツオ漁船第五福龍丸はアメリカが設定した危険水域外で操業していたにも拘わらず、多量の放射性降下物(「死の灰」)を浴び、無線長だった久保山愛吉氏は約半年後の本篇始めの初出の翌月九月の二十三日に満四十歳で亡くなった。この時、船員とともに被曝したマグロが築地市場の地下三メートルに埋められたが、実は当時の厚生省が認めた被災船は第五福龍丸以外に実に八百五十六隻もあり(これも以外にもあった可能性が濃厚であるが、アメリカを憚って被害の実態は今も実はよくわかっていないのである)、全国で捨てられたマグロは四百五十七トンにも及んだという。まさに当時は築地界隈だけでなく、全国的に「被曝マグロ」の風評被害が起きる大騒動となっていたのである。本篇初出の前月である同年七月三日発行の『別冊文藝春秋』第四十号記念特別号に載った山之口貘の詩「鮪に鰯」(私の電子化)を読まれよ。

「須貝研究所というのを設立する。場所もここでは困るな。もすこし都心に進出して、盛大なかまえとする」とあるということは、白川研究所は都心にはないということが判る。ウィキの「都心」によれば、昭和三三(一九五八)年までは『千代田区、中央区、港区、新宿区、文京区、台東区を『都心6区』と呼んだ』とある。取り敢えずそれに従うと、その辺縁の豊島区・荒川区・墨田区・江東区・品川区・目黒区・渋谷区・中野区となる。単なる印象であるが渋谷区・目黒区・品川区辺りの可能性が強いか。]

梅崎春生 砂時計 4

 

     4

 

 ぺちゃんこの鞄を横抱きにして、栗山佐介はリノリュームの階段をぎしぎしと降りた。階下の土地事務所では、中年の客が一人ソファーに腰をおろし、事務員の一人と商談を交していたが、靴音を耳にして口をつぐみ、じろりと佐介の方を見た。卓には紅茶と洋菓子の皿が乗っている。その客の視線を受け流すようにして佐介は表に出た。(あいつ、売り手だな)そう思っただけだ。この建物に出入りし始めて、もう二ヵ月になるから、よその会社のことにしても、それくらいのことは判る。客の身なりや物腰などで判る。土地を持っているやつといないやつとの違い、売りたがっているやつと買いたがっているやつとの違い、それが身のこなしのどこかに出ている。生活の条件がじかに出てくるのだ。(おれにはそんなものはないだろう)佐介は歩道と車道の境をぶらぶらと歩きながら考えた。(第一おれには生活の条件なんてものはないのだから)しかしこの考えは佐介のうぬぼれに過ぎなかった。空は午前中よりも暗く、大気もねっとりとしてきた。また雨が近づいてくるらしい。

 角のベーカリーのところで、同僚の牛島康之が佐介にせかせかとうしろから追いついてきた。牛島はちゃんとビニールのレインコートの釦(ボタン)をかけ、額にうすく汗をにじませている。佐介はちょっと意外そうに牛島の顔を見て言った。

「なんだ。出かけるのかい?」

「うん。用事を思い出したんでね」牛島は形式的に空を見上げた。「こりゃ一雨来るかな。降るとちょっと困るんだがな」

「仕事がかね?」

「うん。仕事はロケーション先だ。雨が降りそうになったら、奴等は皆そこから引き上げるだろうしな」しかし牛島はそれほど困った口調でもなく、のろのろと佐介の歩調に自分のを合わせてきた。「クリさんはどこに行くんだい?」

「デパート」

「じゃおれもデパートに行こう。なんだかむしゃくしゃするんだ」牛島は肩を佐介に寄せてきた。並んで歩いていると、肩で押してきて道の端まで相手を押しつけてしまう。そんな歩き方をする男が時々いるが、牛島のもそれであった。「どうもうちの研究所は近頃面白くねえやな。クリさん、お前、面白いかい?」

 佐介は首を回して、顎が張って色が黒い、ちょっと下駄の形に似た牛島の顔をじっと見た。こんな顔の男の歳はわりに判りにくいものだが、三十五六にはなるのだろう。白川社会研究所にはもう一年近く勤めていて、だから佐介のような見習い所員でなく、れっきとした正式所員だ。いつも女事務員の熊井とふざけてばかりいて、怠けているように見えるが、それでもかげではちゃんと仕事はしているのだろう。もっとも恐喝なんて仕事は、生産的でもなければ労働的でもない、一種のゲームみたいなものだから、しょっちゅうイライラと忙しがっていては成立しないものだ。だからあの古風な建物の二階の連中は、須貝主任を初めとして、いつもごろごろと遊んでいる感じだ。それは面白いとか面白くないとか、そんな言葉で表現する筋合いのものでないように佐介には思われる。そこで彼は黙っていた。牛島はまた右肩をすり寄せてきて、いどむような口調で言った。

「近頃、どうもおかしいとは思わないかい?」

「おかしいと言うと?」

「うちはどこからかねらわれてるぜ。きっと誰からかねらわれているんだ」

「どうしてそれが判るんだね」

「そりゃ判るさ」牛島はあたりを見回してせかせかと早口でささやいた。「そらA金庫の鍵型だって、まんまとやられちゃったじゃねえか。まったくうちの連中は間が抜けているよ」

「だってあんたは先刻、ありゃ粘土の粉じゃない、カビだと――」

「ありゃあ、カビ、じゃなかった」行人とすれちがうたびに牛島は声をとぎらせた[やぶちゃん注:途中でやめること。]。盛り場に近づくにつれて、すこしずつ人通りが多くなってくる。「ありゃカビじゃない。おれも昔鍵型をとる仕事を少々やったことがあるんだ」

「そうかね」佐介もすこし警戒的な気分になって口をきいた。それは行人に対してだけでなく、そんなことを言い出してきた牛島に対してもだ。「やはりそれは粘土でやるんかね」

「いや、粘土を使うのは素人だ。ヅブの素人(しろうと)だね。粘土じゃどうしても型がずれちゃうんだ。だから専門家は他のものを使用するな」

「たとえば、どんなものを?」

「それはそうと、さっき出て来るとき」と牛島は佐介のその問いをはぐらかした。「階下(した)のソファーに男が一人腰かけてただろう。見たかね」

「見ない」

 佐介はウソをついた。底意の知れない問いには、肯定するより否定する方がまず無難だ。この二毛ヵ月でそのやり方をすっかり佐介は身につけていた。そして佐介は今のところ研究所の男たちとは、いわば触手だけの交際しか保っていない。ところがこの牛島康之は一週間ほど前から、しきりに佐介に近づいてきたがる気配があった。その態度にはなにか企みみたいなものがぼんやりと感じられた。牛島は怪談の語り手みたいに声を押し殺した。

「おれはだな、あいつの顔を、どこかで見たような気がするんだ。あいつはこの一週間、毎日階下に通ってきて、そして長い間ねばっている。知らないか」

「知らないね」

 牛島は自分でしゃべることで、だんだん脅(おび)え、また無理に力んでいるように見えた。ただしそれが牛島の本音(ほんね)なのか演技なのか、まだ佐介には見当がつかなかった。こちらも表情や応答を控え目にする必要があった。

「あいつは土地を売込みに来てるんじゃなかろう。売込みだけなら一週間もかかるわけがないからな。あいつはどうもあそこでおれたちの出入りを見張っているらしい。いや、確かに見張っている」

「それじゃあ警察関係というわけかな」

 歩きながら牛島はぎくりと肩を動かした。肩を接しているので、その動きはすぐに佐介につたわってきた。佐介は肩を引いた。

「いや、刑事か何か、今のところ判らんが、しかしとにかく、あいつはおれたちの味方じゃ絶対にない。あの眼は、やはり敵の眼だ。これは間違いないよ。用心しなくちゃ」

 やがて家並の向うに七層の百貨店の建物が見えてきた。うすよごれた梅雨空の色を。バックにして、その壁の色はヘんにどぎつい黄色で、一面べたっと濡れているように見えた。牛島の肩にじりじりと押され、とうとうデコボコの舗装路を端まで追い詰められ、佐介ははっと身をひるがえして牛島と入れ替った。すると今度は牛島はあたり前だと言わんばかりに左の肩を寄せてきた。

「そりゃあんたのカンかね」すこし経って佐介が訊ねた。

「論理的なものじゃないらしいね」

 牛島はむっとしたように頰をふくらませて佐介を見た。

「カンだって、ばかにしなさんなよ。おれはお前さんより五つ六つ年長だし、つまりお前さんよりたくさん、ずっとたくさん経験をつんで来たわけだぜ。終戦後だって、おれはいろんな仕事をしてきたんだ。しかしてへんでもドジを踏んだことはねえよ。あぶなくなりそうになると、いち早くおれは逃げ出してしまうんだ。それがおれのやり方だ。残った連中が皆ひっくくられたりペシャンコになってるのに、おれだけは悠々と次の仕事をやっているという寸法さ。君子あやうきに近寄らず、というのがおれのモットーだ。判るかね。いいか、おれはお前さんに教えてやっているつもりだよ」

「ふん」佐介は口の中で言った。「梁上(りょうじょう)の君子かな」

「おれは戦争中、船に乗っていた」牛島の声はさっきほど沈痛でなく、いくらか浮き浮きしてきた。「ネズミという動物は実にカンのいいやつで、この航海で船が沈没すると思えば、皆波止場にどんどん逃げ出して行きゃがるんだ。実に大したもんだよ。もっともあまりカンが働き過ぎて、沈まない船から逃げ出すこともあったがね。ある時おれが乗っている船艙(せんそう)にネズミが一匹もいなくなったことがあった。いつもの航海とちがって、どうも船室に寝ててもガリガリと音がしない。前の寄港地で仝部上陸したらしいんだな。こりゃ大変だ、本船は沈むに違いねえ。そう思って、もう船長以下総員びくびくものよ。今日沈むか、明目沈むかと、おれも実は半分観念してたんだが、さしたることもなく、無事船は次の港に入ったな。で、その日は総員上陸して、盛大に祝杯を上げたよ。ええと、おれは何の話をしてたんだったっけ」

「カンの話」

「ああ、そうだ。つまりおれは、そのネズミなんだ」

 道ばたの電信柱のかげに、子供が一人立っていた。子供はへんな顔をしていた。頰っぺたをいっぱいにふくらませ、そして身体全部が緊張していた。こみ上げてくる笑いをこらえている風(ふう)にも見えた。すこし向うの塵箱から、やせおとろえた白犬がゆっくりと子供の方に歩いてくる。その子供の口から瞬間水がほとばしって、白犬の耳から顔にかかった。白犬は大げさな啼(な)き声で飛びのき、濡れた顔をぶるっとふるって、路地の中に一目散に逃げて行った。子供は二人の顔を見上げながら、満足そうに歯を見せてわらった。

「おじさん。おれ、犬に、水をかけてやった!」

 その呼びかけを無視して、二人はのろのろと子供のそばを通過した。佐介は頰にうす笑いをうかべていたし、牛島は顔をややあおむけて顎(あご)をつき出していた。十米ほど過ぎて佐介が言った。

「あんたがネズミだということは判ったが、すると――」

「ネズミはネズミでも」と牛島が口をはさんだ。「ただのネズミじゃねえと言って貰いたいね。これでもおれはわりかた自尊心が強い方なんだ」

「あんたがただのネズミではないとして」佐介は面倒くさそうに復唱した。「そうすれば白川研究所は沈没船というわけかな」

「はっきり沈没したわけじゃないが、遠からず沈没するというきざしがあるな。お前さんが入所した頃から、研究所も急速に下り坂になってきた」

「そんな言い方だと、下り坂はまるで僕が原因のように聞えるね」

「うん。それは偶然の一致だろう、とおれは思ってるんだがね」そして牛島は横目でじろりと佐介を見た。「どうもあれ以来、皆の仕事の成績が上らなくなってきたな。半年がかりでかかっていた相手に自殺されたり、暗闇で誰かにひっぱたかれたり、脅かしに行って逆に脅されて帰ってきたりさ。なっちゃねえや。『この世に弱味なき人間なし』か。『相手のすべての退路を絶て』だってさ。まったく笑わせるよ。うかうかしてるとこちらの退路の方が絶たれてしまうぜ。なあ」

「ああ、そう言えば、僕のところにも今日手紙が来てたな」

 佐介は内ポケットから無造作に二つ折りの封筒をつまみ出した。牛島はびくりとして立ち止り、封筒を受取ってあたりを見回した。佐介も立ち止った。

「見てもいいのかい?」

「いいんだよ」

 二人は道の端に寄り、電柱のかげに向き合って立った。牛島は便箋をひろげ、眼をぐるぐる動かして、急がしく文面を読み終えた。ふたたび周囲をぎろりと見回して、封筒を佐介のポケットにそっとつっこんだ。その秘密めかした動作は、もし誰かが見ていたとすれば、かえって不審の念を抱かせたにちがいない。

「こういう手紙が来たらだな」少し経って牛島はものものしく訓戒した。「すぐ報告しなくちゃ駄目じゃないか。こちらにも都合があるんだ。しかしまさか、これがアリバイというわけじゃなかろうな」

「どういう意味だね、それは」

「いや」ちょっと狼狽の色を走らせ、そしてわざとらしく肩をゆすって牛島は歩き出した。「それで、この脅迫状、どこから来たのか、アテがあるのかね?」

「ないね。でも、大したことじゃなかろう」

「いや、いや、そこがお前さんの若いところさ。そういうことを放って置くと、ことによっては大変なことになる。小さな傷でも放って置くと、そこからバイキンが入るようなものだ」

「バイキン」佐介は短くわらった。「バイキンはむしろ僕らの方だろう」

「クリさん。お前の前任者だってそうだぜ。ヘビという綽名(あだな)があったほど腕っこきだったが、脅迫状を無視したばかりに、ある晩、京王線明大前のホームからまっさかさまに落ち、頭の鉢が割れて死んじまったんだ。だからおれたちも一同参考人として警察に呼ばれた。おれたちは口をそろえて、やっこさんは近頃イライラして神経衰弱気味でした、と述べ立てたんだな。そこでとうとうヘビさんは自殺ということになった。なんのヘビさんが自殺するような男かよ。誰かに突き落されたにきまってらあね。これが他殺ということになれば、サツじゃあ全力をあげて犯人を探し出すだろうさ。そうすりゃどうなる。犯人が自白すりゃ、ついでにおれたちの仕事の内容まで全部ばれちまうじゃないか。だからさ、お前さんもそんな手紙をかろがろしく持ち回っちゃいけねえんだ。もし誰かにうしろから不意にぐさりとやられたらどうする。お前の死体のポケットから、その手紙が発見されるだろう。するとお前さんは自分が死ぬという迷惑だけでなく、手紙を発見されることによっておれたちにも大迷惑をかけるわけだぜ。判ったかい。くれぐれも注意をしてくれ」

「うん。判った」佐介は素直に言った。

「それにだな」牛島は自分を制するように声を低くした。「それでヘビさんは死んでどうなったと思う。おれは告別式に行ったんだ。告別式なんていうセンチメンタルなものは大嫌いなんだが、とにかくおれは行った。杉並区東田町の奥まった小さな家だ。二間か三間しかないその古家に、未亡人と、小学校三年生を頭に五人の子供がいた。家財道具もあまりない。ヘビさんは腕ききだったから、相当な歩合(ぶあい)も入ってた筈だが、なにしろ大した酒好きの遊び好きだったからな。それに自分が直ぐ死ぬとは考えないから、ろくに貯蓄もしなかったんだろう。その日は雨がしとしと降っていて、貧乏たらしい告別式だったよ。横死したからって、白川研究所から見舞金も出なきゃ退職金も出ないのだ。それも仕方がない。雇傭(こよう)契約がそうなっているんだから。ヘビさんみたいに業務上で死んでも、びた一文出ないんだぜ」

「そんな時みんなで交渉してみたらどんなもんかな」

「お前さん。さっき、おれたちはバイキンだと言ったな」牛島は唇を曲げて笑った。「バイキンというやつは、原則的に群居はするが、団結はしないものなんだ。それにお前、所長々々と言うが、白川弥兵衛所長は病気と称して、一度も研究所に出て来ねえだろ。おれだってまだ一ぺんも所長の顔を見たことがねえんだ」

「僕だって」

 勤め始めて日が浅いし、それに一日おきのことだから、佐介にはまだ白川研究所の機構がよく呑みこめない。見習い所員として、須貝主任の手を経て資料や材料を与えられ、そして指示通りの行動をするだけだ。いろんな資料や材料がどんな具合にして集められるのか、ながらく病気だという白川所長から須貝主任にどんな連絡方法がとられているのか、佐介はほとんど関知しない。研究所には佐介をふくめた定員の他に、臨時的な連絡員や情報売込みの男、その他得体の知れない男女が随時出入りする。ここに勤め始めて以来、同業者や同業の会社が東京には意外に多いことを、佐介は知った。しかし白川研究所の特徴は、他の同業団体とちがって、会社などを相手にしない。つけまわす対象は個人だけだ。会社相手の恐喝は、同業者間の競争がはげしいし、それによほど巧妙な戦法と優秀なメンバーを具えていないと、たちまち会社側からはねかえされてしまう。個人相手というならば、白川研究所程度の弱体団体でもけっこう運営出来るのだ。しかも個人の方が自らの秘密を守ることが固いから、したがって警察に探知される率がすくないわけだ。それなのに近頃の研究所の成績は、牛島の説明によると、ガタ落ちだという。佐介にしても入所以来、成功した事件と言えば、今朝の菅医師の件をふくめて二件しかない。菅医師のが二万円、その前のが一万二千円、合わせて三万二千円だ。見習い期間中の歩合は一割というキメで、彼が今までに取得した歩合金は、計算してみると三千二百円に過ぎないのだ。

「あまりいい商売じゃないな」

 街はざわめいていた。広告塔の放送やラジオのひびき、自動車の警笛、その他のあらゆる雑音が、それらが全部ひっくるまってひとつの立体的な音響になるのではなく、ばらばらに

千切れたと思うと不規則につながり、十文字に重なっては折れ曲り、消えたと思うと別の音がかぶさってくる。そんなでたらめな音の動きと同じく、街を歩く人々は皆ばらばらで、肩をぶっつけ合ったり、押されて歩道をはみ出たり、ある種の虫の集団のように、全体としてはほとんど無意志な動き方をしていた。店々は乱雑な色彩でかざり立て、道ばたでは安物のハンドバッグを若者が大声上げて売りあおり、また中年の男が水を張った金だらいを前にして、セルロイドの小舟をうかべて売っていた。小舟は尻にとりつけた樟脳(しょうのう)の力によって、水面を自在にスイスイと動いている。雑踏の中にまぎれこんでから、牛島はしだいに無口になってきた。無口になるだけでなく、眼付きも少しずつするどくなってきたようだ。悪党であるためには、まず悪党らしくあらねばならぬ。その信条を実行しているらしかったが、それにしてもこんな巷(ちまた)の人ごみの中では、二人の格好や身のこなしは妙に田舎じみて見えた。あの古びた建物のある一郭では、あんなにもピッタリしていたのに。

「うん」

 牛島はあいまいにうなずいて見せた。しかし、あまりいい商売でないのは何か、二人の考えていることはお互いに食い違っていた。

「どこに行くんだね?」

 デパートのつるつるした入口にやっと足を踏み入れた時、牛島は額の汗をふきながら、佐介の顔を見て言った。レインコートにむされて、牛島の顔は一面あおぐろく汗に濡れていた。

「書籍部」

「そうか」牛島は視線を宙に浮かせた。「じゃ、おれは屋上にでも上ってみるかな。久しく高いところへ上ったことがないからな」

「突き落されないようにするんだね」と佐介はまじめな顔で言った。「七階から落ちるとなれば、まずは生命はないだろう」

「今晩、暇あるかね?」牛島は佐介のその言葉を黙殺して言った。「暇だったら、午後六時、駅の西口の改札付近で落ち合わないか。ちょっと相談したいこともあるんだ」

「相談って、僕にかい?」

「うん。そうだよ」しかしその瞬間の牛島の眼は、信頼というよりもむしろつよい疑いと困惑の色にみたされているように見えた。何故ともなく佐介は一歩あとずさりした。

「そうなんだよ。それとも相談には乗れねえと言うか?」

「今晩、僕はうちの近所の連中との会合があるんだ。だから六時は困る」

「何の会合だね?」

「そ、それはあんたと関係ないことだよ」

「もちろん関係ないさ」牛島は粘りつぐように言葉をついだ。「じゃ、午後四時はどうだね。もうロケーション行きはあきらめた。四時までおれはここの屋上で時間をつぶしてるよ。どうだい?」

「四時か」佐介は首を傾けた。「うん。四時ならいいだろう。改札付近だね」

 そうだと答えるかわりに牛島は掌(て)を上げ、そして背を向けて大階段の方に歩き出した。佐介はエレベーターの方角に歩を移しながら、その後ろ姿にしばらく眼をとめていた。透明な雨衣につつまれた牛島の格好は、ちょっとセロファンに包まれたお歳暮(せいぼ)の鮭(さけ)かなにかを連想させた。職業からくる孤独感のようなものが、その後ろ姿にただよっている。(あの男、屋上まで階段をトコトコ登って行くつもりかな?)佐介は鉄扉の前に立ちエレベーターを待ちながら考えた。(屋上に別に用事はないから、それで足で登るというわけかな。理屈にあってるような、あってないような――)満員のエレベーターは佐介の身体を三階まで運んだ。

 書籍売場は三階のすみにあった。佐介はあれこれ探して、ミッキー・スピレインの『裁くのは俺だ』という探偵小説を買った。自分が読むつもりではない。さっき『殺人準備完了』の犯人の名をばらしたばかりに、熊井の激怒を買い、代償として別の一冊を買って贈ることを約束させられたのだ。『裁くのは俺だ』を包装している女店員に佐介は声をかけた。

「それには、ノシをつけて呉れませんか」

「ノシ?」

「ええ。ノシ。小さなものでもいい。贈り物にするんだから」

 女店員は妙な表情をつくって佐介を見、そして本を持って向うに行ってしまった。ずらずら並んだ本の背にぼんやりと眼をさらしながら、佐介は犯人をばらした瞬間の感じを反芻(はんすう)していた。腕に貼りついた大きな絆創膏(ばんそうこう)を一気にひっぱがす快感、そんなものがその瞬間にはあったのだ。(しかしその代償として百五十円はすこし高いな)あのハムのような顔をした熊井は、佐介にある種の感情をもって対している。たんなる好意とはちがう、もっとべたついたお節介のやり方で、ハムは佐介にまつわりついてくるのだ。佐介に対して優越感みたいなものも感じているらしい。ハムは白川研究所に勤め始めて、五ヵ月になる。佐介よりも三ヵ月先任になるわけだ。仕事と言えば『研究所報』を刷ったり、使いに出たり、そんな雑用ばかりだが、研究所全体の仕事に直接関係はなくても、間接に片棒かついでいることは否めない。(なにしろ他人の幸福や秘密をゆすぶることによって生きようと言うんだからな)悪というものをたくさん積み込んで航行する大きな船、佐介は瞼(まぶた)の裡(うち)にそんなものを思い浮べた。その船からのおこぼれや排出物を追って、眼の色をかえて泳いでいる魚の群。不潔なものをいちはやく嗅ぎあて、むらがりとまるやくざな蠅。蠅の舌なめずり――。

[やぶちゃん注:本章で初めて舞台が「東京」であることが示される。「杉並区東田町」とも出るが、ここは昭和一七(一九三二)に町名が成立し、昭和四四(一九六九)年に廃止されて、現在は「梅里二」及び「成田東一」と同「三」から「五」が当該する。この付近である(グーグル・マップ・データ)。白河研究所から徒歩で行けるところに「七層の百貨店」があり、その「壁の色はヘんにどぎつい黄色」とあるところからロケーションが特定出来るはずだが、私は生憎、東京には疎い。識者の御教授を乞うものである。

「小舟は尻にとりつけた樟脳(しょうのう)の力によって、水面を自在にスイスイと動いている」「樟腦」クスノキ目クスノキ科ニッケイ属クスノキ Cinnamomum camphoraの精油の主成分である分子式 C10H16Oで表される二環性モノテルペン・ケトン(monoterpene ketone)の一種。思い出す――小さな時にやった「樟脳舟(しょうのうぶね)」だ。「協和界面科学株式会社」公式サイト内のこちらから引用しておく。『小さな模型舟の船尾にショウノウの塊を付けておくと、舟を水に浮かべたときに勝手に走り回る現象』だ。『「ショウノウ」というと防虫剤の匂いを思い出す方もいらっしゃるでしょうが、最近ではp(パラ)ジクロロベンゼンなどにその役目を奪われてしまいましたので、入手しにくいかもしれません』。『(なお、いずれも口に入れると有害ですので、食べないように。)』『こショウノウの分子は、水をはじく疎水基と、水になじむ親水基を持っています。舟の船尾に取り付けられたショウノウの塊が分解して、分子が水面に移ると、疎水基を上にして単分子の膜を形成します。舟の後方ではショウノウの単分子膜ができ、舟の前方には水面があります。物質は表面張力により、その面積を少なくしようとします。この場合、水の表面張力はショウノウよりも高いため、水面の面積の方がより小さくなろうとする力が強いのです。したがって、ショウノウと水の境目は水のほうへ引き寄せられます。そして、その境目にある舟も、一緒に引っ張られてしまうため動きます。また船尾のショウノウはどんどん溶け出していきますから、ますますショウノウの表面は広げられてしまいます』。『ショウノウにはじかれて動いているように見えますが、実際は水の表面張力によって引っ張られているわけです。しかしこの舟も、水面が完全にショウノウ分子で覆われてしまうと、動かなくなります』。

「ミッキー・スピレインの『裁くのは俺だ』」アメリカの小説家でハードボイルド探偵小説を得意とした“ミッキー”・フランク・モリスン・スピレイン(Frank Morrison "Mickey" Spillane 一九一八年~二〇〇六年)の「裁くのは俺だ」(I, the Jury)はスピレインの代表作であり、私立探偵マイク・ハマーを主人公とする「マイク・ハマー」シリーズの第一作で、金に困っていたスピレインが一九四七年に出版社に自ら原稿を持って売り込み、出版されたデビュー作でもある。邦訳は中田耕治訳で早川書房から単行本で、本「砂時計」発表の前年の昭和二八(一九五三)年に刊行されている。]

2020/07/08

梅崎春生の長篇「砂時計」の電子化始動する / 砂時計 1・2・3


[やぶちゃん注:本篇は雑誌『群像』に昭和二九(一九五四)年八月号より翌昭和三〇(一九五五)年七月号まで連載され、連載終了の同年九月に講談社から単行本「砂時計」(解説・福永武彦)として刊行された。恐らくは梅崎春生の小説の中でも最も長いものの一つである。

 底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集」第四巻を用いた。

 全二十九章。底本では一頁で一行二十六字詰二十三行の二段組で二百十四ページ分あるので、単純計算しても二十五万字余りはある。四百字詰原稿用紙に単純換算すると六百二十五枚相当である。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。

 毎日、最低でも一章分は必ず公開することとする。ストイックに注も入れる。初回は三章分を示す。

 但し、実際に読み始めると判るが、この小説は非常に変わった展開構成を持っており、それは一種、「ヌーベル・ヴァーグ」(Nouvelle Vague)風の突飛な映像で、複数のエピソードが痙攣的に一見、不連続に連結されてあるもので、これを初出誌で連載で読んだ読者は、かなり面食らったのではないかと思う。それをまた、味わってみるのもよかろう。

 特段、何かの記念に始めるわけではない。こうでもしないと彼の数少ない長い作品に手をつけるのが後回しになると思ったからである。【202078日始動 藪野直史】]

 

  砂 時 計
 

     1

 古ぼけた陸橋が線路をこえてかかっている。もしこれが昼間のことなら、それを渡ってしばらく行けば、貧弱な赤松の防風林となり、その向うに砂浜がゆるやかな勾配(こうばい)で海に傾いている。赤松は総じて潮風にいためつけられ、背丈も低く、枝や幹もねじくれて曲っている筈だ。陸橋から逆に引返せば、道の両側は畠となり、やがて小さな町の最後尾があらわれてくるだろう。

 夜、陸橋のたもとには街燈があった。

 しかしそれは緑のペンキを塗った一本の支柱と、裏を黒く塗ったブリキの笠だけで、電球はくっついていなかった。球の金具の部分だけが笠の中心にはめこまれ、そのままぎしぎしと錆(さ)びついていた。潮風の塩分のために、どうしても電球の寿命が短かかったし、一々電球を取替えるには、町の施設防犯協会は人手がすくなすぎた。防犯協会は来月の祭りの寄付集めにいそがしかった。だから陸橋の上は総体にうすぐらかった。空には星明りだけがあった。

 彼は駅の方から土堤(どて)沿いに、ひとりで歩いてきた。そしてその街燈の下に立ちどまり、うしろをふり返った。駅の燈が見えるだけで、土堤上に人影は見えないようである。しかし土堤の斜面は暗かった。彼は警戒的な姿勢でそこらを見詰めながら、上衣(うわぎ)をそろそろと脱いだ。脱ぐのには意味があった。身のこなしが軽くなるからだ。四つにたたんで街燈の柱の下に置き、それからちょっと考えてネクタイに手をかけた。ネクタイを解くにはひどく時間がかかった。しかもこれはそれほど意味のあることでもなかった。彼はそのネクタイを四つ折りの上衣にきりきりと巻きつけた。そして腕時計に眼を近づけたが、やはり星明りだけでは指針の位置は見えなかった。耳を寄せるとセコンドの音だけはかすかに聞える。彼はあきらめて立ち上った。そのまま彼はうすくらがりの中で、両手を前から横に振り、膝を屈伸し、徒手体操の真似ごとのようなことをした。手足を動かすだけで、かけ声は出さなかった。(これは海軍体操の基本型だ)動作の途中で彼はそう気付いた。彼は土堤の方を見ながら、こわばった頰をゆるめ、笑おうと努力していた。(こんな時に海軍体操をやってもイミがない)彼の背の方のずっとずっと遠くで、汽笛が弱々しく尾を引いて鳴った。彼は体操を中止して、いくらか芝居じみた身振りで闇に身構えた。

 陸橋は幅が十米ぐらいで、細い鉄のてすりが両側についている。土台が古朽している関係からか、手すりはいくぶんか外側に反っていて、鉄自身も虫が食ったようにデコボコになっている。夜だから今はそれは見えない。その手すりにそって、彼はふらふらと陸橋の中央まで歩いてきた。そして首を伸ばして下方を見おろした。

 眼下に数条の線路が陸橋と直角に走っている。線路はかすかに光を帯び、地面から浮き上って見えた。線路と線路の間は暗く、なぜかそこだけは軟かそうに感じられる。彼は視線を陸橋の真下から、その線路の光の帯にそって、ずっと遠くの方に移動させた。

 五十米ほどの彼方に、いくつかの燈がかたまって見える。そこが先刻までその待合室に彼がいた沿線の小駅だ。――待合室は狭い土間で、長い木椅子が二つ向き合っているだけであった。彼は先刻その一つのはしっこに腰をおろし、握り飯を食べていたのだ。握り飯は塩味だけで、しかも一つきりであった。その代りその大きさは赤ん坊の頭ほどもあった。オカズに沢庵(たくあん)が五片か六片ついていた。このお粗末な弁当は北小路がつくって呉れたのだが、それを受取ってからの後味はひどく悪かった。

 待合室には上(のぼ)り二十一時五十九分着の普通列車を待つ客が、彼の他に三人いた。一人は和服にはかまをつけた老人で、次はリュックサックを持った壮年の男だ。それから少し離れて農婦らしい中年の女がぽつんと坐っていた。下駄を二つそろえ、木の椅子の上に実直に坐りこんでいる。二人の男は顔見知りらしく、ぼそぼそと会話を交していた。彼はいらいらと大時計を見上げたり、居眠りしている駅員の姿をガラス越しに眺めたり、会話に何となく聞き耳を立てたりした。会話は二人の共通の知人のゴヘイという男のことらしく、やりとりの中で何度もゴヘイという言莱が発音されていた。

「それがよう、爺さん」男はごつごつした声を出した。「二年間に三寸もちぢむちゅうのは、一体何だねえ?」

「そういうこともあるもんだ」

 老人は仔細(しさい)らしく合点々々をした。ゴヘイという五尺九寸の漁師が、二年間に背丈が五尺六寸まで縮まったという話らしかった。リュックサックの男はしきりにそれを不思議がった。

「なあ、爺さん。いくらなんでもねえ」男は口をとがらせた。男の顔は彼もよく新聞などで見るある高名な将棋さしの顔によく似ていた。「ちぢむちゅうのはよくねえよ。不吉なことだね。瘦せるちゅうのなら先ず判りもするが」

「いやいや、そんなこともある」老人は確信ありげに掌を振ってさえぎった。「栄養がかたよるとやっぱしちぢむのじゃ。わしも今まで何人かそんなのを見て来た」

 彼はうつむいて沢庵を嚙んだ。沢庵は完全に乾されて漬けられたものと見え、よくひねこびて、微妙な甘味があった。旨かったにもかかわらず、オカズに沢庵しかつけてくれなかったということに、彼はまだへんなこだわりを感じていた。しかしもうこだわりを感じる自分も無意味であった。彼は沢庵をすっかり食べ尽し、握り飯は半分残して、がさがさと新聞紙に包みこんだ。そして大時計を見上げたが、まだ時間までに三十分もあった。椅子に坐った農婦はそのままの姿勢で、うつらうつらと居眠りを始めている。それを見た時彼は発作的にするどい眠気を感じた。それは同時に酔いの前兆でもあった。

「しかしそりゃ何かのタタリかも判らねえ。それにゴヘイどんは、なんでもかんでもジャンボが好きだからなあ」

「ジャンボとこれと関係があるか」老人は間の抜けた口でせせらわらった。「そりゃやっぱしデッコリじゃよ。背がちぢむということは背骨がちぢむことよ」

 ジャンボという言葉もデッコリという言葉も判らなかったし、この二人が何故他人の背丈ばかりを気にしているのか、それが先ず理解出来なかった。居眠りしている農婦にも二人の男に対しても、彼はさっきから漠然と軽蔑と不信の念を感じていた。彼は腰かけたままのろのろと上衣を脱ぎ、裏地の名前の縫取りに歯を当てた。これさえ破り取れば、もう彼が誰であるか判定するものは皆無となる。握り飯を食べながら考えついたことだ。しかしその縫取りは、服全体はくたびれているにも拘らず、案外に頑強であった。彼はついにいらだって、縫取りを含む三寸四方の裏地を、犬のようにばりばりと嚙み破った。そういう彼の動作にも、二人の男たちは全然関心を示さない風で、相変らずゴヘイどんの話をつづけていた。彼は窮屈な動きで上衣をつけ、唾に濡れたぐちょぐちょの布片を、丸めて長椅子の下に弾(はじ)き飛ばした。そのついでに握り飯の紙包みを、がさがさと椅子の下に放置した。もう北小路のことは彼の意識から去っていた。そして思った。

(何も考えることはない!)

 握り飯を食べる前に、一息に飲み干した一瓶のポケットウィスキーが、しだいに身内に回って、皮膚の内側からむっと熱くなり始めていた。もう意識と感官がかすかに乱れて来ている。それを自覚しながら、彼はポケットから莨(たばこ)を出して火をかけた。リュックサックの男が、その時向う側からふいに立ち上って、彼の方に近づいてきた。頑丈な男の軀(からだ)全体から魚臭がただよい動いた。男は膝までの長さの褐色の厚司(あつし)を着ていた。

「火をひとつ――」

 彼の前に立ちはだかるようにしてそう言った。火だけを必要としていて、俺を必要としているわけではないのだな。そんなことを誇えながら、彼は黙ってマッチを手渡した。男は一本目を点(つ)けそこない、二本目で点けて、ぽんとマッチを彼の膝に戻した。煙をふいて席に引返しながら、もう老人とゴヘイの話にもどっている。その冷淡さに、彼は怒りというよりも、むしろ奇妙な可笑(おか)しさを感じた。それから時間がじりじりと経(た)った。

 九時四十五分。彼は莨を床にすてて唾をはいた。静かに立ち上って、さりげなく待合室を出る。誰からか背中をじっと眺められている。その感じを引き剝(は)ぐようにして、彼は駅前の小広場に立った。街がそこからまっすぐ、一本の道をはさんで細長くつづいている。しかし家々のほとんどは燈を消して眠りに入っている。彼は一応そちらの気配をたしかめて、右へ折れてすたすたと歩き出した。線路沿いに土堤がつづいている。土堤上の乾いた小路を彼は追い立てられるように歩いた。陸橋まで来るまでに、彼は誰とも出会わなかった。月はまだ出ていなくて、空には星だけがあった。そして橋のたもとの街燈はひっそりと消えていた。――

 シャツだけになった彼の姿は、陸橋の中央に行って、駅舎の方に右手首をかざすようにした。さっきより幾分拡大した瞳孔が、やっと腕時計の針の位置をとらえた。長針は五十七分を指していた。それを確かめると、彼はゆっくりと身体を回し、陸橋を横断して反対側の手すりの前に立った。その方角から吹いてくる微風はたしかな潮のにおいがした。そちら側の陸橋の下は暗かったが、線路の列だけはうすうすと認められた。頭が二倍か三倍にふくれ上ったような気持で、彼はそれを見た。

 彼方三百米の地点で、それらの線路は一斉に大きく彎曲(わんきょく)している。その彎曲の外側に砂丘があり、海がひろがっている。その地勢の概略を彼は知っていた。あと二分も経てば、その彎曲点にいきなり列車の前燈があらわれて、こちら向きに驀進して来るだろう。彼はそれを待っていた。上り列車の線路はすでに確かめておいた。彼は今その線路の正確な上方に立っていた。陸橋の高さは、彼の背丈ではかれば、四倍乃至五倍ほどある。彼はふたたび暗い線路を見おろしながら、鉄の手すりの脚を両手でつかみ、その強度をためすために一寸ゆすぶってみた。

 その時前方でふたたび汽笛が鳴りわたった。夜空に反響しながら音は急速に近づいてきた。

 彼の全身の筋肉は突然、発作的に慄(ふる)え出した。同時に彼の意識や判断力は、ほとんど麻痺(まひ)したようにその働きを止めた。彼は棒立ちになり、これ以上には出来ないほど眼を大きく見開いた。汽笛は鳴りやんだ。そしてかなた前方の闇のまんなかに、いきなりまばゆい前燈がぬっとあらわれた。予定通りの時刻である。その前燈はあらわれて、驀進してくるという感じではなく、一瞬静止しているように見えた、強烈なその光は、陸橋のみならず、枕木や線路やそこらに散らばる小石までも、かっと照らし出した。

 彼は打ち倒されるように急いで腹這(ば)いになった。細い鉄の手すりの根元をきゅっと摑み、下半身を思い切り曲げて、手すりと、手すりの間に押し込んだ。そのままおそろしい空間に全身を投げ出した。しかし両掌がかたく手すりを握りしめているので、彼の身体は紐(ひも)のように無抵抗に陸橋にぶら下った。しかしこれは彼の予定した動作ではなかった。ほとんど無意識に身体だけが動いたのだ。陸橋があまりにも高過ぎるから、背丈の分だけでも、垂直距離を稼ごうとしたのか、いきなり飛び降りるには勇気を要するから、二重スイッチみたいなやり方で、一旦ぶらりとぶら下り、それから落ちようと試みたのか、とにかく彼はぶら下っていた。ぶら下ったまま彼は獣じみた大声を立てた。その声が走ってくる汽車の轟音と重なった。――彼は手すりから掌をもぎ放した。そして一個の物体として線路めがけて落下した。その落下の瞬間に彼は失神していた。

 

 三分後、彼の意識は回復した。彼は生きていた。陸橋の下の暗い線路上に、身体をうつぶせに平たく伸ばしたまま、彼の意識は突然昏迷からよみがえった。頰にあたるのが枕木であり、右膝にごりごり触れるのがレールであると知った時、彼はぎょっとして上半身をもたげた。陸橋の翳(かげ)が額を圧しつけた。彼は血走った眼で線路の彼方を見た。かの彎曲部の方角からせまりつつあった前燈は、もう見えなかった。二十一時五十九分着の上り普通列車は、二十二時三分通過の準急行列車をやり過ごすために、上りの本線をあけわたし、すでに待避線に入って停止していた。――上半身を支えてついた両掌に、砂利(じゃり)石の角がぎしぎしと食い込んでくる。全身的な悪感(おかん)と共に、突然つよい嘔気(はきけ)が来た。アルコールと胃液の混ったどろどろのかたまりが、咽喉(のど)にこみ上げて来た。彼はむせて嘔き、涙を流し、顔を上げてあえいだ。汽笛が鳴りわたった。そして前方の闇に、ふたたび前燈がぎらりとあらわれた。

 それは先刻のよりもひと回り大きく、彼の涙粒を通して、執拗(しつよう)な悪夢のようにギラギラと分裂した。彼は反射的に大声を上げ、レールの外にころがり出た。二三度つまずきながら必死に動き、三尺ほどの石垣に足をかけ、それにつづく土堤の斜面を大急ぎで這いのぼった。音は見る見る近づき、いきなり錯雑(さくざつ)した光の帯となって、陸橋の下を轟轟(ごうごう)と通過した。光の流れは十秒ほどつづいた。彼は草を摑み、顔だけをうしろに回してそれを見た。轟然たる流れはすっかり行き過ぎて尾燈だけになり、それは途方もない速さで、吸いこまれるようにかなたに遠ざかって行った。ふたたび陸橋にはしんかんと闇が戻って来た。

(ああ。あいつは急行なんだな)

 彼は大きく身慄いをして溜息をつき、そしてのろのろとポケットを探った。ハンカチはなかった。ハンカチは街燈の下の上衣のポケットの中にあった。彼は土堤の上に立ち、シャツの袖で口辺を拭いた。そのまま両掌で顔をおおってつぶやいた。呟きというよりそれは空気の擦過音に近かった。

「やりそこなったんだ」

 どこがどうなって失敗したのか、事情はまだ呑み込めなかった。しかし失敗したことだけは確かであった。彼は右足を引きずるようにして歩き出した。落ちた時レールにぶっつけたらしく、右の膝がぎくりと痛い。頭の働きも少々バカになっているようで、普通列車に轢(ひ)かれるのと急行に轢かれるのとどちらが痛いだろう、そんなことをぼんやり考えながら、彼は陸橋の中央まで来た。駅の待避線には普通列車が停っていた。感情のない眼で彼はそれを見た。(どうして線路が間違ったんだろう?)彼はびっこを引きながら、やっと街燈の下までたどりついた。渇きがはげしかった。彼は街燈の支柱に片手をもたせかけ、駅に到る土堤道をじっとすかして見た。

「誰かに見られたかな。それとも――」

 誰かに目撃されたとすれば、その誰かの急報によって、駅から駅員たちがやって来るかも知れない。しかし土堤の上には人影もなく、そういう気配も見えないようであった。風の音以外はしんとしていた。彼はぎくしゃくと腰を曲げ、柱の下の上衣からネクタイをつまみ上げた。そしてそれをシャツの襟に通した。全身は虚脱しているのに、指だけがそれ自身独立した生き物のようにしきりにびくびく動くので、結ぶ操作になるとうまく行かなかった。彼は舌打ちをして、それをかたわらの黒い草叢に投げ捨てた。誰も見ていなかったとすれば、と今度は上衣を拾い上げながら彼はそう考えた。そうすれば、誰も知らないところで俺は懸命にことを敢行し、そして誰知れず失敗してしまったことになる。ケシツブにでもなったような惨めさが彼を包んだ。失敗にしても、全然他人に知られないよりも、知られて笑いものにされた方が、まだしも救われる。しかし同時に、待合室の二人の男や居眠り農婦を思い浮べた時、そして彼等から眺められることを想像した時、彼は身もすくむような嫌悪と羞恥を感じた。

 汽笛が鳴った。待避線の汽車がにぶい音をひびかせて、ゆるゆると動き始めた。

 陸橋の向うから、それと同時にごとんごとんと鈍重な音が近づいてくる。

 彼は大急ぎで上衣の袖に手を通し、ハンカチで顔をぬぐい、ズボンの塵(ちり)をはたいた。ここにこんな時刻ぼんやりと佇(た)っている、それを見られるのはまずいという意識もあったが、同時に居直る気持もあった。彼は莨をとり出して口にくわえた。やはり指がしたたか慄えるので、マッチがなかなか点かない。それだけのことで彼は若干いらだった。

 陸橋をわたって近づいて来るのは、そのおぼろ気(げ)な輪郭からして、牛車らしかった。

 支柱によりかかって煙をはき出しながら、彼はそれを見詰めていた。近づいてくるのをむしろ待っていた。

 牛車の通過で小さな陸橋はかすかに振動した。

 牛を牽(ひ)く男は彼の前まで来て立ち止った。そしてのんびりと声をかけてきた。

「ちょっと、火をひとつ」

 それは疑いを持つ男の口調ではなかった。牛車の荷から強い潮のにおいがした。夜目の感じから言えば、海藻を沢山たばねて積んでいるらしい。こんな時刻にこんな多量の海藻をどこに運ぶのか。

 ここらあたりの連中は、概して誰もマッチを持っていないようだな。海藻のことよりは先ず彼はそう考えた。そしてポケットからマッチを取出して、やや不機嫌に手渡した。何故か莨の火を貸す気にはなれなかった。

 男は一すりで正確に火を点けた。男の武骨な顔が火の色に照らし出された。先のとがった麦わら帽子をかぶり、頰や顎には無精鬚(ぶしょうひげ)が密生している。口には短い煙管(きせる)を横ぐわえにしている。その男の顔の斜め下のところに、牛の顔があった。牛は意志も感情も持たない眼で、じっと闇を見据(す)えていた。マッチが燃え尽きる短い時間に、彼はその牛の眼を見た。ある感じが胸を通り抜けた。焰は消え、マッチの軸は一本の火線となって地に落ちた。火線は地面にあたり、ちょっと身をくねらせるようにして消えた。

「へえ」

 男はそう言った。低い声で掛け声をかけ、牛車はごとごとと動き出した。あの牛の眼のことを俺は案外あとあとまで覚えているかも知れない。ふと彼はそんなあまり意味のないことを考えた。そして事実その牛の眼の奇妙な印象を、彼は後になっても時にふれては鮮明に思い出したりしたのだが。――口もからからに乾いていたし、闇ですう莨(たばこ)はひどく不味(まず)かった。しかしそれを捨てることはしなかった。牛車のにぶい車輪の音がすっかり聞えなくなるまで、彼は支柱に背をもたせかけ、じっと動かないでいた。

[やぶちゃん注:「海軍体操」非常に詳しい解説が、「Web Magazine VITUP(ヴイタッフ)!」の「海軍体操を知っていますか? ①」から、とある。また、画像が悪いが、YouTube ReinaChannelに戦中のニュース映像の「海軍と体操」1及びで見られる。

「ジャンボ」不詳。北関東や新潟では葬式の方言ではある。

「デッコリ」不詳。東北では「肥大しているさま」を言う。]

 

     2

 

 午前九時。

 男は火事の夢を見ていた。逃げ出そうとするが、どうしても逃げ出せない。うんうんうなりながらもがいている中に、ぽっかりと眼を覚ました。障子に穴があいていて、そこから朝の光が小さな束になって射し入り、男の鼻に当っているのだ。火事の夢はそのせいだと知れた。

「ちくしょうめ!」

 男はがばと上半身を起し、鼻を撫でさすった。鼻は日の色を吸ってあたたかかった。

「へんなところに日が射して来るんだな。全くおどろかせやがる」

 男は枕もとのタオルでぶるんと顔をふき、そして寄り眼になり、片眼を閉じたり開いたりして、自分の鼻を眺めた。見おろした。

(日本人は得意になる時、鼻が高いという表現を使うが、外国人はどうかな)

 男は小学校の時のことを考えていた。男は少年の時は成績が良くて、たいてい一番か二番か、三番と下ったことはなかった。彼の母親は父兄会から戻って来ると、彼の頭を撫でながら、ほんとにあたしゃ鼻が高いよ、とほめて呉れた。そのことを男は思い出していたのである。

「英米人はあまり使わないようだな」

 彼はひとりごとを言いながら、どたんばたんと蒲団を折りたたみ、部屋の隅に押しやった。煙草を探したが、空箱だけなので、仕方なく灰皿の中の比較的長いのをつまみ上げた。今日失業保険が貰えるので、昨夜は焼酎で金を使い果たしてしまったのだ。

(つまり日本人は、他人からほめられると、伏目になる。伏目になると、自分の鼻が見える。そこで鼻が高くなったような錯覚を起すのだ)

 短い煙草を苦労して吸いながら、彼は考えた。

(そこにゆくと英米人は、ほめられてもうつむかない。得意になって空を見上げたりする。だから鼻が高いという発想が出て来ないんだ)

 その後彼は順調に学業をおさめたが、ある大学の英文科在学中に母親が死に、そこで何となく中途退学をしてしまった。いささか英語に学のあるのは、そのせいであった。中退をしたのは、学問に興味をうしなったせいではない。もっといいことがこの世にあるような気がしたからだ。もっといいこと? しかし実際にはいいことはなかった。雑誌社に勤め、そこが潰れたので、現在は失業中の身の上なのである。

「そろそろ出かけるとするか」

 彼はのろのろと立ち上り、寝巻を脱ぎ捨てる。すると廊下の方から、女の声がした。

「起きたの?」

「起きたよ」彼は答えた。「今から着換えして出かけるところだ」

「朝飯は?」

「まだだよ」

「うちで食べればいいじゃないの。おいしい味噌汁と目刺があってよ」

 このすがりつくような女の声を、彼は嫌いではないが、あまり好きでもなかった。彼が間借りしているこの家の娘で、母娘して彼を養子に迎えたがっている。養子になれば、物質的に彼は不自由はしない。それは彼にも判っていた。しかしこの世には、そんなところにおさまるより、まだまだいいことがあるんじゃないか。

「飯なんか要(い)らないよ」彼はいくらかつっけんどんに答えた。「今目は保険がおりるから、それで御馳走を食うんだ」

「まあ、意地悪!」

 彼は返事をしなかった。黙って部屋を出ようとすると、足音がばたばたと廊下を逃げて行った。娘の年齢は彼より二つ上になる。彼は玄関に出て、破れかかった靴を穿(は)こうとしたが、底から釘が出て足の裏を刺したので、彼はキャツと悲鳴を上げて、力まかせにその釘を引っこ抜いた。そして穿き直した。

 外に出ると、いつの間にか雲が出て、空がどんよりと曇っていた。さっきまでの日の光が嘘のようであった。

 午前十時。

 交通事故があった。五十がらみの労務者風(ふう)の男を、オート三輪が引っかけたのである。オート三輪はそのまま逃げてしまった。サイレンを鳴らしながら、救急車が近づいて来た。彼は道端の、被害者に一番近い場所に立って、一部始終を観察していた。被害者は足を痛めたらしく、立ち上れない。

「イヤだよ。イヤだよ。そんなのには乗れねえ」被害者は彼を見上げてわめいた。「たすけて呉れえ」

「だからこの車がたすけに来たんだよ」

「これがないから駄目なんだ。駄目なんだよう」

 被害者は左手を上げて、親指と人差指で輪をつくった。彼はそのそばにしゃがんだ。被害者は口から皮膚から、ぷんぷんと酒のにおいを発散させている。

「あれはタダなんだ。心配しなくてもいいんだよ」自分でもびっくりするくらいのやさしい声が、彼の口から出た。

「病院もタダで、ちゃんと飯も食べさせて呉れる。行ったら行ったで、きっといいことがあるよ」

 被害者は何か言おうとした。が、もう救急車が到着して、ばらばらと屈強の係員たちが飛び降り、被害者を担架の上に乗せた。そのあおりを食って、彼はころりんと地べたに尻餅をついた。係員たちはそれをたすけようとも、手を貸そうともしなかった。やがて救急車の音が遠ざかり弥次馬たちが立ち去ったあと、やっと彼は尻を上げて立った。そして呟いた。

「まったくてきぱきしたもんだな」

 どういうわけか、あの被害者が非常にうらやましい気分がする。彼は感動に似たものを感じながら、ばたばたとズボンの尻をたたいた。

 午前十一時。

 彼は職業安定所の、失業保険金の受取所にいた。それは二階の北側の部屋である。求人側は南向きの室で優遇されるが、保険金受領者は北側で冷遇されるのだ。なにしろ金をもぎ取って行くのだから、いい待遇を受ける筈がない。

 失業保険金受給資格証と失業認定申告書を窓口に差出し、あとは木製長椅子に腰をおろして待っているだけだ。この待っている間、彼はいつも強い希望と幸福を感じる。

(何で皆うらぶれたような、面白くない顔をしているんだろうな)

 彼はここを訪れる度にいぶかる。

(昨日まで貧乏していたのに、今日いくばくかの金が入る。貧乏している時にしけた顔をするのは当然だが、金が入るというのに何であんな表情をしているんだろう?)

 常にそうであった。ぶすっとふくれた顔、眉をしかめて憂鬱そうな顔、怒ったような顔、そんなのばかりだ。中には手で頭をかかえて、今にも死にそうなやつもいる。それがどうしても彼には理解出来ない。しかも働かなくて、それで金が入るのではないか。どこに愁い顔をする必要があるだろう。

 次々に名が呼ばれる。呼ばれた者は背を曲げるようにして、窓口に歩いて行く。たいていの場所は、同じ境遇にある者が集まると、一種の連帯感が生じるものだ。それがここにはまるでない。まるで国鉄の駅のように、お互いに関係がない風だ。駅には身分や貧富の差もあれば、幸不幸の差や行先の差もある。連帯感のないのは当然だ。ところがここでは身分や境遇が共通している。失職したという点で、皆は同じなのだ。それなのに、どうして連帯感が生れて来ないのだろう。何故背を丸め、眼をそむけ合うようにして、生きているのだろうか?

(猫背と失業という点では、皆はよく似ているな)

 失職と猫背について、あれこれ考えをめぐらしている中に、突然彼は名を呼ばれた。ヒエッというような頓狂な返事と共に、彼は立ち上って、窓口に歩いた。疣(いぼ)のついたゴム板の上に、受取るべき金が乗っている。彼はそれを取上げ、丁寧に二度数えた。

「これ」と彼は窓口の女に言った。「百五十円、多いんじゃないでしょうか?」

「百五十円?」瘦せて青白い中年の窓口女の眉が、きりりと上った。「多けりゃ困るんですか。これでもあたしの計算は確かなんですよ」

「確かじゃないとは言いませんよ」女の剣幕にびっくりして、彼はおそるおそる答えた。「でも、現実には、百五十円ほど多いような気がするんです」

「気がするのは、そちらの勝手です!」女は扇形に紙幣を開いて、ちゃっちゃっと数をかぞえた。「も一度数え直して下さい」

 こちらは貰う方で、向うは呉れる方の身分である。同じ境遇ではないが、仕事の上では関係がある。何か気持のつながりがあってもいいんじゃないか。これではまるで斧で繩を断ち切るようなものではないか。彼はちらと支払係の女の顔を眺め、も一度支給額を数え直した。やはり百五十円多かった。

(まさかおれが貧乏たらしい格好をしているので――)彼は内ポケットにそれをしまいながら考えた。(百五十円恵んでくれたんじゃあるまいな)

 しかしそれ以上言い出すのは面倒だったし、その必要もないような気がする。損をするわけではないのだから、これでよろしい。彼は胸を張って部屋を出て行く。

 午後零時。

 彼はカレーフイス屋にいた。

 安定所を出て、街角の店で煙草を一箱買った。腹は減っていた。すかすかに減っていた。そこで煙草の一服は、後頭部がしびれるほど身にしみた。彼は煙草を捨て、ふらふらと街を歩きながら、食堂を探す。

(何かうまくてどっしりしたものを食いたいなあ)

 しかし直ぐ食堂に飛び込むことはしない。腹が減った時の愉しみは、うまそうな店を探すこと、それから入って注文するまでであって、注文して品物が運ばれて来た時から、人間はだんだん不幸になって行く。期待や希望がなくなって行くのだ。しかし人間はうまさにまぎらわされて、そのことを知らない。食べ終った瞬間に、人間は食欲においてもう極度に不幸になっている。もうそれ以上食べることは出来ないからである。彼は経験でそのことを知っていた。

『カレーライス専門店わにざめ』

 しばらく歩いている中に、そんな店を見付けた。たちまち彼はその店が気に入った。というより空腹が極限にまで来ていたのである。

(鰐鮫(わにざめ)とは獰猛(どうもう)そうな名前だなあ。こちらが食うんじゃなく、まるで向うから食われるみたいだ)立ち止って彼は考えた。(しかも専門店と来ているからなあ。専門で、不味いわけがない)

 彼は決心をして、のれんを分けてつかつかと店に歩み入った。カレー屋のくせに、入口には繩のれんがかけてあった。店は混んでいた。辛うじて席を一つ見付けると、彼は指を立てて注文した。またたく間にカレーライス一丁が運ばれて来た。彼は一匙含んで口をもぐもぐ動かした。

 「うん。これはからくてうまい」

近頃彼はカレーのからさがなくなって来たような気がする。小学生の頃誕生日には、かならず母親がカレーライスをつくって呉れたものだ。その頃のカレーライスはからかった。水を飲みながら、ふうふう言いながら食べたものだ。今はそうでない。ワサビも唐辛子も、それほどからくなくなった。実際にから味が減ったのか、それとも大人になってからいという感覚が鈍麻したのか。彼は給仕女に思わず話しかけた。

「このカレー、からいね。うまいよ」

「そりゃそうでしょう」女給仕はちょっとしなを作って答えた。「修羅印カレー粉が、ふんだんに使ってあるのですもの」

「修羅印カレー?」彼は反問した。「あまり聞いたことがないような、あるような、カレー粉だね」

 そして彼は五分ぐらいで一皿をたいらげ、ちょいと首をかしげて水を飲んだ。

「もう一皿呉れえ」

 午後一時。

 彼は街角の小公園のべンチに腰をかけて、すいすいととびまわるツバメの姿を眺めていた。おなかがいっぱいになっている。そこで腹ごなしのつもりで公園の子供たちのキャッチボールの仲間に入れてもらい、球を投げたり受けたりした。その彼の姿を、大きな桜の木の下からチョビ髭(ひげ)の太った男がじっと見守っていた。チョビ髭はマドロスパイプをくわえ、だぶだぶのレインコートを着こんでいた。足には地下足袋をはき、ちょっと見には、請負師かなにかのようであった。空はどんよりと曇っていた。二十分ばかりで彼はキャッチボールをやめた。キャッチボールをやっても、くたびれるだけで、一文の得にもならなかったからだ。

「なかなかボール投げがうまいじゃあないか」ベンチのそばでタオルで汗をふいている彼の方に、チョビ髭がのそのそと近づいてきた。「そうとうに年季をいれた腕だね」

「ヘヘヘ」彼はわらった。「中学時代にすこしやったんでね」

「お前さん、仕事はあぶれかい?」

 チョビ髭は彼を見据(す)えるようにした。へんに威圧的な眼の色であった。

「そうですよ」いくらか当惑を感じながら、彼は返事をした。「よくわかるんだなあ」

「それがおれの商売だよ」チョビ髭はパイプでベンチの横木をこんこんと叩いた。「いい仕事があるんだが、やる気あるかね。夜の仕事だが、日当ははずむよ」

「いくら出してもらえるんです?」

「八百円だ」

 チョビ髭はぶっきらぼうに答えた。

「八百円?」彼はびっくりして聞いた。「まさか危い仕事ではないでしょうね」

「どん仕事にも危険はつきまとうよ」チョビ髭は白い歯を見せてにやりとわらった。「バラス積だって、道路工事だってさ。危くない仕事なんて、今時どこを探したってあるものか」

「しかし、危険にも程度があるんでね」

「たいしたことはないよ」チョビ髭はあたりを見回した。

「もし万一に、怪我でもした場合には、治療費はもちろんこちらで持つし、治療期間中は一日五百円の割で持つよ」

「へえ。そしてそれはどんな仕事です?」

「仕事の内容は、現場につくまでは教えられない」

「さあ、それは――」彼はちょっと渋った。「なにはともあれ、仕事の種類を教えてもらわないことには――」

「じゃよしな」

 チョビ髭はあっさりと言いすて、向うむきになって、さっさと歩きだした。彼はあわてて呼びとめた。なにかいいことがあるような気がしたからだ。

「親方、親方」親方という言葉が自然と口からでた。まさしく親方らしい風体であった。「ちょっと待って、おれ、その仕事をやるよ」

「そうか」チョビ髭はそれを予期したように、すたすたと立ち戻ってきた。そして再びにやりとわらった。「考え直したか」

 チョビ髭はそれから、仕事にかかるについての、かんたんな指示をした。待ち合わせ場所、Q線のP駅のホーム。待ち合わせ時間、午後八時。手頃の石を十個持参の事。服装はなるべく身軽にする事、などであった。質問は一切封じられているので、彼は黙って神妙な顔で、チョビ髭の言葉を聞いていた。最後にチョビ髭は、彼の頭から足の先まで見まわしながら、しゃがれた声でいった。

「靴か。靴じゃまずいな。お前、地下足袋は持ってねえのか」

「うちに帰りゃあるけれど――」そして彼はおそるおそる質問をこころみた。「靴じゃまずいんですか」

「うん」チョビ髭はうなずいた。「この仕事は、多分、走らねば、ならんことになるからな」

「走るんですか」彼はちょっと情なさそうな顔をした。彼は走ることにあまり自信がなかったのだ。「短距離ですか。長距離ですか?」

「まあ中距離だね」

「ええと、では、手頃の石といいますと、その大きさは?」

「このくらいだ」チョビ髭は彼の眼の前に、拳固をにゅっと突き出した。その頑丈な指に太めの金指環が二つも光っていた。「このくらいの大きさのを十個だ!」

 ――午後八時。

 彼はP駅のホームに立っていた。雨がしとしとと降っていたので、彼は番傘をさしていた。レインコートは質屋に入っていた。やがてチョビ髭が改札口からのそのそとやって来た。その姿をみとめて、ホームのあちこちから、五六人の男たちがぞろぞろと集まって来た。彼もその一人だ。彼はその男たちをじろじろと見回した。男たちはお互い同士をじろじろと眺めあい、その風体でもってお互いが同類であることを確認した。彼のようにポケットを石でふくらましているのもあれば、信玄袋につめこんでぶらさげている奴もいた。しかし、雨衣をつけず、のんびりと番傘をさしているのは、彼一人だけであった。その姿をチョビ髭が叱りつけた。

「仕事に出かけるというのに、番傘なんかさしている奴があるか!」

「でも――」

「でもじゃない。さっさと捨ててこい」チョビ髭は声を荒らげた。「でないと、つれてってやらねえぞ」

 彼はしぶしぶと番傘を捨てにいった。いや、捨てるのはもったいないので、駅員詰所の横にそっと立てかけ、足早に戻ってくるとチョビ髭が日当のことを皆に説明しているところであった。

「いいか。今、半金の四百円を渡す。残りの四百円は明日のこの時刻に、この場所で支払う。わかったな」チョビ髭の語調は、有無を言わせぬ強引さに充ちていた。「さあ、みんな掌を出せ!」

 つき出された六つの掌に、チョビ髭は手早くちょんちょんと四百円ずつをのせていった。のせられた順に掌は、一つずつひっこんだ。

「出発!」チョビ髭は低い声で号令をかけた。「仕事の指示は現場でおこなう!」

 チョビ髭を先頭に、一行七名は改札口を通りぬけ、夜の町に足を踏みいれた。

 チョビ髭はここらの地理にくわしいらしく、明るい街並をさけ暗い路地をずんずん歩いていった。六名も黙々とあとにつづいた。雨は少しずつあがりつつあった。場所によっては雲の切れめさえ見えつつあった。しかし雨は彼の服を濡らし、シャツを濡らし、ほとんど肌までとどいていた。迷路のような路地を曲ったり折れたりしているうちに、彼は空気の中に、なにか食欲をそそるような刺戟性の匂いを嗅ぎはじめていた。それはまさしく昼飯に食べたカレーのにおいであった。それと同時に、工場の単調な機械音が次第に彼に近づいてきた。……

[やぶちゃん注:「鰐鮫」「大鰐鮫」、軟骨魚綱板鰓亜綱ネズミザメ目オオワニザメ科オオワニザメ属オオワニザメ Odontaspis ferox という標準和名の鮫はいる(本邦近海にも分布)が、捕獲されたり、現認されたりすることがかなり稀れなサメである。

「修羅印カレー」梅崎春生の仮想設定。後の展開で出てくる。

「雨衣」「あまぎ」と読んでおく。]

 

     3

 

 その建物が最初建てられた時は撞球(どうきゅう)場だったそうだが、そのことを覚えている人は今はほとんどいないだろう。なんでもそれは明治の末期だということだ。しかしそう言われて見れば、二階の床(ゆか)もたいへん頑丈に出来ているし(撞球台の重さを支えるためにだ)、柱の数もすくないし(多いとキューの邪魔になる)、全体的にいかにも撞球場くさい家相を持っている。この一郭は戦時中この区でも奇蹟的に焼け残ったところなので、戦後の新しい町並を通ってここにたどりつくと、人によってはほっとした感じを持つだろうし、人によっては戸惑うような気持になるかも知れない。そういう特別の雰囲気がある。しっとりとくっついた生活の垢、あるいはカビ、そんなものがどことなく感じられるのだ。おかしなもので戦後立てられた電信柱にしても、この一郭のやつだけは、他の新しい町並のそれにくらべて、すっかり古びてしまっている。周囲に無理に同調したようにくろずんでいる。なにか風化作用みたいな力がここには働いているらしい。

 わずか焼け残っただけにここらの建物は戦後フルに活用されていて、またいろいろと代もかわった。たとえばこの建物について言えば、製本場だったこともあるし、海産物罐詰倉庫だった時期もあるし、階下がパチンコ上が喫茶室だったこともある。製本屋ならまだしも、パチンコだの喫茶だのはどうしてもこんな建物では具合が悪いらしく、客の入りも思わしくなくて、直ぐにつぶれてしまった。木造ペンキ塗りの二階建てだ。ペンキは緑色の筈だが、褪色(たいしょく)したり剝(は)げかかったりしている。屋根のてっぺんには変な形の飾り屋根がくっついていて、その下につばめが巣をつくっている。現在のところ階下はS土地建物会社で、階上が白川社会研究所ということになっていた。

 土地会社の方は近来一般の金詰りと地価騰貴(とうき)のせいで、この頃はあまり営業が活発ではないようだ。それに先般某大土地会社が農地法違反のうたがいで調べられたりしている。いずれその余波が群小土地会社にも及んでくることだろう。農地法を犯していない土地会社なんか先ず現今にはあり得ないからだ。だから階下の社員たち(と言っても、四、五人ぐらいしかいないが)は、去年あたりにくらべると顔色もすぐれず、笑い声もあまり立てなくなった。無理もない話だ。

 空はうっとうしく曇っていた。つばめが一羽しなやかに身をひるがえしてはしきりに飾り屋根の下に出入りしていた。

 白川研究所所員の栗山佐介は道の反対側に立ち、首をあおむけてつばめの動きを眼で追っていた。口を半開きにし、そして首をそんな角度に曲げると、佐介はふだんよりもっと頭でっかちに見える。佐介はつばめが好きだったし、またつばめが飛ぶ季節が好きであった。つばめはほとんど空気の抵抗を感じていないような飛び方をした。

「つまり」鞄をぶらぶらさせて道を横切りながら佐介はぶつぶつと呟(つぶや)いた。「あれなんだな。つまり、あれだ」

 佐介は建物の入口に入った。すぐ右手に二階に通じるリノリューム張りの階段がある。階下の事務室は客が一人もなく、がらんとしていた。『贈S土地建物会社』の金文字の入った途方もなく大きな壁時計が、十二時十五分前を指している。佐介はレインコートを脱ぎながら階段をぎしぎしとのぼった。この頃栄養が偏しているせいか、階段をのぼるたびに足が重い。

 階上は七坪か八坪ほどの広さで、机だの戸棚だのが雑然と配置されてある。印刷インキのにおいが鼻をうった。壁には大きな黒板がかかっていて、それに肉太な白いチョーク文字で、

 

  今週の標語

 この世に弱味なき人間なし

 相手のすべての退路を絶て

 

 そして各文字に赤チョークで圈点(けんてん)をつけてある。その黒板の前の小卓で女事務員の熊井がしきりにガリ版を刷っていた。熊井は二十五六歳で、顔が肥ってまんまるで、顔色もややまだらをなしていて、ボーンレスハムの切口を連想させた。だから熊井はハムとここでは呼ばれていた。その旧式の謄写器をばたんばたんと開閉するたびに、熊井のサイプリーツのスカートが微妙な動きを見せるので、同じ所員の牛島がうしろから定規(じょうぎ)の角でつついてからかっていた。定規は鼠をもてあそぶ猫の手のような動き方をした。ハムは身をくねらせ、声をはずませて叫んだ。

「よしてよ。インキが手にくっつくじゃないの、助平」

「クリさんが出て来たよ」

 牛島は定規のいたずらをやめ、逆にまたがった椅子の角度をずらして、入ってきた佐介の顔を見た。佐介はレインコートを自分の机にほうり、誰にともなくあいさつをした。

「こんにちは」

 彼はそのまま机や屑箱の間をすりぬけて歩いた。部屋の一番奥に、ここの主任格とでも言ったかたちで、須貝という中老の男の卓がある。佐介はその前に立ち止った。須貝は卓に両肱(ひじ)をつき、頭をかかえるようにして、厚味のある印刷物にじっと眼をおとしていた。その表紙には昭和五年司法省発行『司法研究』第十二輯(しゅう)と印刷してある。その白髪混りの頭に佐介は低い声で呼びかけた。

「菅医院に行ってきましたよ」

 須貝はびっくりしたように、片肱をがくんと卓から辷り落した。声をかけたのが佐介だと判ると、須貝は大急ぎで表情をとりつくろい、とがめるような眼付きをつくった。須貝は心臓が悪い。刺戟を受けると直ぐそんな表情になってしまうのだ。だからこれは意志的なものでなく、反射的な擬態と言った方がいいかも知れない。須貝は横柄に反問した。

「それでどうだった。菅に会えたのか?」

「会えました」

「金は出したか?」

「取りあえず二万円だけ貰ってきました」

「二万円?」須貝は上目使いしてちょっと口をとがらせた。「そりゃ少いじゃないか」

 佐介は立ったまま皮鞄をひらき、やや厚ぼったい封筒をとり出して、須貝に手渡した。

「少いと言っても、僕の月給はそれの四分の一です」

「そりゃ初めからの約束だよ」

「そうです。約束です」

「君は一週間のうち、月、水、金だけしか出勤して来ない。五千円で充分だ。それに歩合(ぶあい)もあるし――」須貝は前歯の抜けた歯ぐきを見せてちょっとわらった。「もっとも君は成功率が低いから、自然と歩合も少くなるが」

「まだ経験が浅いからですよ」牛島が定規をカチャカチャ言わせながら、はたから口を出した。「クリちゃんはそのうちにいい仕事師になるよ。筋がいいからな」

「筋がいいか」

 須貝は卓の引出しをあけて何か探そうとしたが、思い直して封筒を二つに折り、内ポケットにしまい込んだ。

「まあ、いろいろ勉強するんだね。詰将棋の勉強なんかが、この仕事に案外役に立つんだよ。これは一種の頭脳のプレーだからね」

「さっきの話ですが――」と佐介は真面目な顔で言った。

「週に三日しか出ないから五千円じゃなくて、五千円しか出さないから週に三日なんですよ。まあ、どっちでも同じようなことだが」

「そうだ。同じだ」須貝は大きくうなずいた。「それで、どう切り出したんだ。医師会に密告するとでも言ったのか?」

「まあ、そんなものです」

 佐介は今朝の菅医院での情況を思い出していた。時刻が早かったから、菅医師はまだ食事をすましていなかったらしい。菅は顔色も悪く終始なげやりな口のきき方をした。佐介が菅に面会を求めたのはこれが四度目だ。そして診察室での用談は十五分ほどで済んだ。菅は長身の背をやや曲げ、足を引きずるようにして薬局に引込み、三分後にはその封筒をぶら下げてあらわれて来た。菅はもう口はきかず、つよく侮蔑をこめた眼で佐介を見た。そういう眼付きにたじろぐことを佐介はしなかった。そうすることをずっと以前から彼はやめていた。

「どんな顔をしてたかい」

「乞食に呉れるみたいな顔でしたね。封筒をよこす時は」

「高慢ちきな顔だろう」

「そうです」

「金をしぼられるやつの、そうだな、五十八パーセントぐらいは、とかくそんな表情をつくるもんだ。覚えとくがいい。つまり卑屈のうらがえしだ」須貝は顔をあおむけ、顎(あご)をことさらに突き出し鼻翼をびくびくと動かして見せた。

「高慢ちきな顔って、ほら、こんなだろう」

 須貝は以前新聞記者だったが、某舞台俳優の情事をネタにゆすり、それが発覚してクビになったという話だ。のっぺりした顔をもっていて、数年前帝銀事件犯人のモンタージュ写真が市井(しせい)に配布された時、容疑者と見られて危く留置されそうになったことがある。当人はどういう了見かそれを自慢話のひとつにしている。佐介は動きのない表情でその須貝の顔をしばらく見おろしていた。

「そんな表情ではなかったですね」やがて佐介は断定するように言った。「あなたのその顔は、高慢というよりは滑稽です」

「そうか。滑稽か」

 須貝はもとの顔に戻って、興ざめた口調で言った。

「滑稽なのはお互いさまだよ。君のその五頭身だって、そっくりそのままお笑い草だ」

 刷り上げた紙をワクから外(はず)して揃えながら、ハムがくすっと笑い声をたてた。佐介はその方をふりむいた。須貝や栗山佐介だけではなく、この部屋にいるものは皆、牛島も、ハムも、窓辺の机にいる嘱託名義の玉虫老人も、普通人にくらべるとどことなく滑稽なところがあった。ハムは笑いやめて、刷り上ったものを戸棚に乗せた。このガリ版は『白川研究所報』で、一週に一度百刷(す)られ、そしてどこに配布されることもなく、やがて四つに裁断されて所員たちのメモ用紙になってしまうのだ。何のために『所報』が毎週刷られるのか、ハムもよく知らないようだし、疑いを持ったこともないらしい。彼女は自分の席に戻って、引出しから探偵小説を出して読み始めた。玉虫老人は朝刊の束から記事を切り抜いては、一枚ずつスクラップブックに丹念に貼りつける作業をつづけている。老人が無表情なのは耳が遠いからであった。佐介は首を元にもどして、皮鞄を閉じた。

「しかし、まあ、なんだな」須貝は莨(たばこ)にマッチを近づけながら、ひとりごとのように言った。「少いと言っても、二万円出したということは、一応自分の麻薬中毒を認めたということにもなるな。まんず成功の部類だ」

「そうです」

「それをネタにして、同業者の中毒患者の名を聞き出す手もあるな」牛島が定規で首筋をかきながら言った。「医者で中毒者というのが、都内にも相当にいるらしい。そいつを調べ上げるんだな。中毒者は何らかの形でお互いに連絡し合ってるに違いないもんな」

「そうだな。それも面白い」

「ハシタ金をしぼるより、その方が得でしょうな。当研究所としても」

「うん」須貝主任は考え深そうに眼をしばしばさせた。

「それが本筋かも知れんな。しかしそりゃ栗山君にちょっと無理だろう。もすこしベテランじゃないとねえ。鴨志田君にでもやってもらうか」

 鴨志田というのは栗山佐介と同年で、少年航空兵上りで、そしてここでは佐介よりずっと古顔で、腕利きということになっていた。関西方面に出張中で、今日はここにいない。佐介は自分の席に戻って、鞄をどさりと机上に投げ出した。別に不快なわけではなかった。机上に白い封書が一つ乗っている。栗山佐介宛のものだ。彼はそれを裏返して見た。発信人の名はなかった。彼は封を切った。

「なんなら俺がやってもいいですよ」

 と牛島がその佐介を横目で見ながら言った。その時壁の鳩時計から鳩が飛び出して、つづけさまに十二声啼いた。この可愛い声を出す精巧な鳩時計は、この殺風景な部屋にはしごく不似合いな備品であった。これは牛島が昨年あるバレリーナをゆすった時、記念品としてついでにカチ上げて来たものだ。

「あら、もうお昼だわ」とハムが時計を見上げた。「富岳軒になにか注文する?」

「僕はライスカレー」と須貝があたりを見回して言った。

「俺もライスカレー」と牛島が須貝を見て言った。

「あたしもライスカレー」とハムが玉虫老人へ近づきながら言った。

「わしはみんなといっしょ」

 肩をハムから叩かれて、きょとんとあたりを見ながら玉虫老人が言った。この研究所のそれぞれの人員の食欲は(いや、食欲だけにも限らないが)、たいへんに自主性がなくて、誰かがラーメンと言い出すと大体総員がラーメンだったし、ヤキメシだと皆がヤキメシだ。他人と異ったものを食べることを、おどおどとおそれるような傾向が多分にあった。まるでそれ以外の食物には毒でも入っているかのように。ハムは濃過ぎる口紅を舌でちろりとなめ、佐介を見た。

「あんたもライスカレー?」

「いや。僕はハムライス」

「あんたは近頃ライスカレーの時は、いつも仲間はずれをするのね」ハムは怨(えん)ずるような眼で、非難がましい口を利いた。「どうしてなの。なにか事情でもあるの?」

「そう」佐介はうなずいた。「家庭の事情」

「家庭の事情で、食べ物が好きになったり嫌いになったりするの。へえ、だ」とハムは下唇を突き出した。「それにあんたは独身で間借りの身分でしょ。家庭も何も持ってないじゃないの」

「独身者はその独身が家庭さ」

 佐介はそう答えながら、椅子に腰をおろした。そして拡げた一枚の便箋の文章をよみなおした。それにはわざとらしい活字体のペン字で、

 

  『今の調査を打ち切れ。打ち切らねばお前の身は危
  険である。右警告す』

 

 ただそれだけ書いてある。佐介は一瞬その文言(もんごん)を皆に披露したい誘惑にかられたが、思いとどまってそれをたたみ、封筒の中に戻した。披露したって仕方がないし、この身の危険が減じるわけでもない。佐介は現在任せられている件を頭の中で数えてみた。さっきの菅医師の件をのぞけば、役人2、大学教授1、高級指圧師1、バーマダム1、写真師1、以上の六件だ。むつかしい事件はまだ佐介のところに回って来ない。それだけの力量がないからだ。そして六件とも早急を要する性質のものでなく、今週の標語にあるように、向うの退路をじわじわと絶ち、徐々にその弱味をしめ上げて行くだけでいい。こっちが追いつめるというより、向うの方で追いつまってしまうのだ。だからそれはわりに単純にして持続的な仕事であった。この警告状もその六件のうちの誰かのらしいが、それが誰だかはちょっと佐介にも見当がつきかねた。佐介は封筒を二つ折りにしてポケットにしまい、ぼんやりと窓外を眺めた。ハムは富岳軒に電話のダイヤルを回しはじめた。茫々(ぼうぼう)とつらなる家並の上に、どんよりと白茶けて濁った梅雨時(つゆどき)の空がある。つばめの影がひらりと窓を横切って消えた。(おれは残念ながらカレーは厭だ)佐介は空をまじまじと眺めた。そしてまた考えた。(人間というものは、いくらじたばたしたって、その環境には勝てっこないものだ。とてもつばめのように身軽にはゆかない)佐介は自分が借りている部屋のことを思い、そして白茶けた空の色からウドンの茄(ゆ)で汁(じる)を連想した。二年ほど前、佐介はソバ屋で働いていたのだ。そのソバ屋は神田にあって、よくはやって忙しい店であった。朝は八時頃から粉をねって機械にかけ、先ずウドンとヒモカワをつくる。ウドンとヒモカワはのびる率がすくないからだ。それがすむと今度はソバ。配給の粉はアメリカ製で腰が弱く、さらさらして粘り気がない。だからソバと言っても、戦前のそれにくらべると、ソバ粉の含有量は半分ぐらいしかないのだ。それ以上ソバ粉をふやすと、汁の中できれぎれになってしまう。腹が空けば勝手に何でもつくって食べていいきめになっていて、初めのうちこそ喜んで月見ウドンだの肉ナンバンなどをこしらえては食べたが、半月も経たないうちに、そんなじゃらじゃらしたものは見るのも厭になってしまった。出来たてのウドンをつけ汁につけて、するするとすすり込む、せいぜいそれがせきのやまで、他には手を出す気もしない。つまり生(き)のウドンに直面してしまったわけだ。人間だってウドンだって同じようなものだろう。このソバ屋の主人は空気枕みたいな肥り方をしていて、そのくせ手足は細く、男色趣味を持っていた。人使いも荒くて、なにかと言うと自分の若い時の苦労を持ち出してくる。佐介はこの店にそれでも三ヵ月ほども働いた。三ヵ月もいると粉のこね方もうまくなる。そしてウドン粉をこねるのも、今の仕事、人間をこねかえすような仕事も、さして変りはない。同じことのように今の佐介には思える。またつばめが窓を横切った。

「これはおかしいな」

 須貝が机の引出しから鍵束をとり出し、その一つを眼に近づけながら言った。佐介はそちらに首を動かした。須貝がつまんでいる鍵は割に大型で復雑なギザギザがついているところから、ここの重要書類保管庫の鍵とわかった。金属製のその書類庫はA金庫と呼ばれ、須貝の席のうしろ、この室の一番奥まった場所に据えられている。ここの仕事にほんとに必要な資料は、ほとんどそこにしまわれていた。須貝の声にはへんな緊迫感があった。

「どうしたんです」と牛島が自席から訊ねた。

「いや」

 須貝は鍵を鼻にもって行って、くんくんと嗅(か)いだ。

「粘土かな。牛島君、ちょっと来て呉れや」

 牛島は須貝の卓のそばに立ち、鍵を光にかざしたり、またにおいを嗅いでみたりした。佐介も立ち上って、のろのろとそこへ近づいた。

 「粘土?」牛島はガチャリと鍵束を須貝の掌に戻した。

「まさかねえ。でも――」

「誰かが粘土を使ってこの鍵の型でもとったんじゃないか」須貝はやや表情をこわばらせて、じろじろとあたりを見回した。「乾いた粉みたいなものがへばりついてたよ。それにへんに油くさいような――」

「そりゃあんたの指の脂(あぶら)ですよ」牛島も同じように周囲を見回しながら、とってつけたように言った。「ここに働いてる者で、そんなことをやる奴はないよ」

「何も君たちを疑ってるわけじゃない。わけじゃないがだ――」

「他の鍵にはくっついていないんですか」と佐介は訊ねた。

 須貝は他の鍵もざらざらと掌にひろげて、そこに顔を近づけた。ちょっとの間白けた沈黙が来た。ハムは椅子にもたれて小説本を読みふけっているし、玉虫老人は手まめに記事を切り抜いている。須貝はぐふんとわざとらしいせきばらいをした。

「老眼鏡を忘れてきたから、よく判らん」須貝はあきらめたように眼をはなし、A金庫の鍵穴に鍵をがちゃりとさし込んだ。「まあ、お互いに用心することだな。ここにはいろんな連中が出入りすることだしな」

「型をとったのは俺じゃねえですよ」と牛島が低くささやくように言った。

「僕でもありませんよ」かぶせるように佐介も発言した。声は牛島のそれよりもちょっとばかり高かった。須貝はA金庫の錠をそろそろと開きながら、首だけを二人にむけた。その眼はむしろ打ちひしがれて、おどおどしたような光さえあった。

「もちろん僕でもないよ」須貝は内ポケットからさっきの二万円人りの封筒をとり出し、それをA金庫内に収めながら、奇妙な弁解の仕方をした。「鍵を管理しているのは僕だからな、その僕が型をとるわけがない」

「誰もあんただとは言ってねえですよ」と牛島が言った。

「まあ気のせいかな。粉だとおっしゃるが、こんな梅雨時の季節だから、カビが生えたんじゃなかろうか」

「カビか」

 須貝は金庫の錠をしめて、にやにやとつくり笑いをした。牛島も笑いながら、足音を忍ばせるようにして自席ヘ戻った。須貝はちょっと考えて鍵束を、卓の引出しにではなく、内ポケットにしまいこんで丁寧に釦(ボタン)をかけた。

「カレーはまだか。腹へった」

「何を読んでんだい?」牛島ははずみをつけて、ハムが読んでいる本をひょいと取り上げた。「なんだって『殺人準備完了』だって。女の子のくせにおっそろしい本を読むんだな」

「返してよ!」ハムは中腰になって両手を伸ばした。「何を読もうとあたしの勝手じゃないの。探偵小説よ。作者のアガサ・クリスティは女なのよ」

「うん」須貝が自席でうなずいた。「探偵小説も勉強になる。大いに読み給え」

「僕もその本を読みましたよ」佐介は半分須貝に、半分ハムに向けた風に口をひらいた。そしてふと霜柱を踏みしだくような酷薄な快感が彼をそそった。彼は押しつけた声を出して言った。「犯人はね、ネビル・ストレンジなんだよ。意外だろう。大した悪者なんだ」

「まあ、ひどい」ハムは両掌を拳固にして、まっかになって地団駄を踏んだ。

 佐介はうずくような気持でその顔を直視した。

「折角三分の二まで読んだのに、犯人の名を言ってしまうなんて。いいわ、きっと思い知らせてやるわよ。悪者!」

[やぶちゃん注:「リノリューム」リノリウム (linoleum)。亜麻仁油などの天然原料をもとに製造される建材で床材やインテリア素材として使われる。「linoleum」の語はラテン語の「linum」(「亜麻」)と、同じくラテン語「oleum」(「油」)を合成した混成語で、開発者のイギリスの発明家フレデリック・ウォルトン (Frederick Edward Walton 一八三四年~一九二八年)の命名で(一八六〇年特許取得)、発明当初は「カンプティコン」(Kampticon) と呼んでいたのを改名した。日本に於ける商標権はスイスのフォルボ・フィナンシャル・サービス社(Financial Services AG)が保有している。現在、亜麻仁油以外にジュートなどの植物繊維の他、ロジン(Rosin:マツ科 Pinaceae の植物の樹液である松脂等のバルサム類を集めてテレピン精油を蒸留した後に残る残留物)・粉状木材・石灰石・コルク粉などからも製造されている。

「サイプリーツのスカート」思うに「scye pleats」で、折り畳まれた形を開いてそれが襞状になっているスカートのことと思われる。但し、現行では「サイプリーツ」という言い方は、まず、しないようである(ネット検索に掛かってこないのである)。

「帝銀事件」の発生は昭和二三(一九四八)年一月二十六日。本作発表の七年前である。実は……「帝銀事件」は私にとって因縁の深い事件である。……私が二十代の頃に出遇った老人は私の「帝銀事件」に対する独自の推理を微笑しながらずっと黙って聴いておられたが、最後に「君の推察は概ね正しい。……私が死んだら、私の手帖をあげましょう。」と言った。そうして「あの頃、多くの謀略事件がありましたが、それに係わった人間は未だ生きており、私の知っているそれらの多くの真相を語ることは、それ故に許されません。……しかし……あの事件だけは……真実が語られなければいけません…………」と呟かれたのである――彼は敗戦前後の内務官僚であった人物であり、未だ生きておられるのである…………

「カチ上げて来たもの」「搗(か)ち上げ」は普通は、相撲の取り組みに於いて用いられる技の一つで、主に前腕を鍵の手に曲げ、胸に構えた体勢から、相手の胸にめがけてぶちかましを行うなどの形を取るものを言うが、ここは「賄賂としての戦利品」といったような意味で用いているのであろう。

「ヒモカワ」幅広の薄い「平打ち饂飩(うどん)」の別称。

「殺人準備完了」一九四四年にイギリスの小説家アガサ・クリスティが発表した長編推理小説「ゼロ時間へ」(Towards Zero)。彼女が読んでいるのは本作発表の三年前の昭和二六(一九五一)年早川書房刊の「世界傑作探偵小説シリーズ」の第九巻として「殺人準備完了」の邦題で三宅正太郎氏によって訳されたそれである。私は読んだことがないが、このネタバレ記載は、当時どころか今でも顰蹙を買うものであろう。なお、底本の解説は中村真一郎氏が担当しているが、その主たる部分は本篇に就いての評となっており、その中で本作の第九章の終わり方を評して、『ここには作者の推理小説趣味も働いている。働いているといっただけでは言い足りないような、大胆な、殆んど乱暴と言ってもいい程の冒険を作者は試みている。推理小説の読者ならば、「アンフェア」だと文句をつけたくなるくらいである』とある。というより、以上の通り、全体の構成自体が、読者が推理を重ねなければならぬ、かなり意地悪な構成となっているとも言えるのである。]

三州奇談續編卷之七 異蛇の長年

 

    異蛇の長年

 小矢部は大川なり。大橋の側を福町と云ふ、漁家多し。此邊(このあたり)に止宿して話を聞く。

[やぶちゃん注:現在の富山県小矢部市東福町(グーグル・マップ・データ)の地名に名残がある。小矢部川右岸。ここで対岸の今石動町とを結ぶ小矢部川に架橋する橋が、現在は「石動大橋」と称するので、「大橋」はそれと考えてよいか。

「漁家」川漁師である。]

 

 頃しも春寒猶あり。梅花亂落して櫻は徒(いたづら)に枯樹に似たりし霜深き朝(あした)、鳥の四五羽あざりたはぶるゝ中、一羽衆と異なるものあり。能く見るに、此鳥上觜(うははし)なくして、餌を得ては下觜を以て刎上(はねあげ)げて食ふ。又術あるが如し。是を此(ここの)主(あるじ)なるに尋ぬるに、

「是は此邊り富山屋【今は喜兵衞といふ。】なるなる人の先人(せんじん)、此鳥の物を盜み食ふを憎みて、密(ひそか)に罠を用ひて捕へ、魚を切る刀を取りて

「首を一打(ひとうち)に」

と打つに、はづれて上觜を切落す。鳥は羽叩き烈しく、終にわなを遁れて飛去る。さまで惡(にく)むべき程にもあらねぱ、其儘にして捨て置く。鳥も又さまで外(ほか)へも去らず。今は聲も替らずといへども、頭の振(ふり)怪しけれぱ、數百の中に居ても著(いちぢ)るし。其切りし人は死して今孫の世なり。八十餘年に至れども、鳥は其まゝ鳴音(なきね)も替らず、老いたるとも見えず。」

 古人の話に聞く、「三鹿(さんろく)斃(たふ)れて一松(いつしよう)枯れ、三松枯れて一鳥(いつてう)死す」と。是は長年(ちやうねん)の人にあらざればためすこと能はず。空言(そらごと)と思ひしに、今日ふしぎにも其證の端(はし)を見ることを得。

 又此家に、四五年先【安永三年[やぶちゃん注:一七七四年。]の事なり。】怪しき蛇ありき。一朝庭上寒く風怪し。人々立出で見るに一小蛇あり。庭の生垣を登り、楢の葉をねじて押へ、内を白眼(にら)む勢(いきほひ)あり。此氣のおして窓戶を射るにぞありき。其勢烈しくして正(まさ)しく、相向ひ見ること能はざりし。然共(しかれども)纔(わづか)に二尺の蛇なるに、人々前に廻り後ろによりて見るに、兩手足鳥の如く赤く、小き角二岐(ふたまた)なるが一寸許生出(おひい)で、面(つら)のかゝり彼(かの)般若面と云ふべき氣色(けしき)なり。邊りの人も

「あれを見よや」

と取騷ぐうち、一聲風起る如くしてかきくれて見えず。色々に探せども行く所を知らずとなり。

 是も又彼家の先人、此蛇あること久しく語られし。是を思ヘば、いか許り昔よりあらんも知れず。世話(よばなし)に「山に千年川に千年」と聞きし詞(ことば)も是にや。百年許先も二尺許りありしとか。是(これ)町を去るの宿因至らざる内にやあらん。彼の「龜を養ひて百年居るか試みん」と云ふ人の如く、論徒らになりぬ。

[やぶちゃん注:最後の怪蛇は手足があるとするので、先祖返りの奇形か、或いは蜥蜴なのかも知れぬ。]

三州奇談續編卷之七 異人投ㇾ金

 

    異人投ㇾ金

 佛緣眞(まこと)に世說(せせつ)を壓する大いなる哉(かな)。英氣(えいき)山を拔く項羽も、烏江(うかう)の草臥(くさぶし)に眞意の妄執(まうしふ)を歎き、忠魂潔烈(けつれつ)たる鐘馗(しようき)大臣も、「發起菩提心(ほつきぼだいしん)なるべし」と高らかに諷(うた)ふ。天下の大難の冥魂、及び熊坂(くまさか)が如きに至る迄、諸國一見の僧に歎き願はざる者なきは謠言(えうげん)の妙なり。

[やぶちゃん注:標題は「異人、金(きん)を投(とう)ず」と読んでおく。なお、一点、「妄執」は原文「忘執」とあるのを、特異的に訂した。「近世奇談全集」はそのままで「まうしふ」とルビするが、有り得ない。

「世說」世上の風説。世間の噂。

「烏江」「垓下の戦い」で劉邦との敗れた項羽が最期を迎えた長江の渡し場。但し、ここは知られた「史記」の史実に基づくものではなく、謡曲「項羽」(作者不詳。複式夢幻能で中入の夢の中では虞氏の霊も登場する)を踏まえた表現である。詳しくは「名古屋春栄会」公式サイトの「項羽」がよい。

「鐘馗」中国で疫病神を追い払って魔を除くとする神。目が大きく、顎髭が濃く、緑色の衣装に黒い冠、長い靴を履き、剣を抜いて疫病神を摑む姿に象(かたど)られる。玄宗の夢に現れて自らを「鍾馗」と名乗り、「嘗て進士の試験に落弟して自殺した者だが、もし自分を手厚く葬ってくれるならば、天下の害悪を除いてやろう」と誓約し皇帝の病気を治したという伝説に基づく。本邦では専ら端午の節句の幟にその像を描いて五月人形に作る。ここはやはり謡曲「鐘馗」(金春禅竹作とされる複式夢幻能)で、唐土終南山の麓に住む者が都に上るために旅に出ると、鐘馗の霊が現れ、鬼神を退治して国土を鎮めるという誓願を示すそれに基づく。終曲の後シテの台詞に「鍾馗及第の。鍾馗及第のみぎんにて。われと亡ぜし惡心を。翻へす一念發起菩提心なるべし」とある。詳しくは小原隆夫氏のサイト内の「鐘馗」がよい。

「天下の大難の冥魂」複式夢幻能の殆んどの後シテはそう言える。

「熊坂」熊坂長範(ちょうはん:義経伝説に登場する平安末期の大盗賊。美濃などに出没し、旅人を襲った。陸奥に下る京の富商橘次(きつじ)を美濃青墓(あおはか)の宿に襲ったが、却って牛若丸のために討たれたとも、金売吉次(かねうりきちじ)に伴われた牛若丸が美濃赤坂宿で熊坂を討ったとも言って一定しない)の霊をシテとした複式夢幻能(作者不詳)。旅の僧が美濃国赤坂の里を過ぎると、所の僧が呼びかけ、「さる者の命日を弔ってほしい」と庵室に誘う。そこには武具が多く備えられ、不審を述べる旅僧に、「物騒な里ゆえ往来の者の難儀を救うため」と語る。夜も更けると、僧の姿も庵室も消えている。松陰に夜を明かす旅僧の前に、熊坂長範の亡霊が現れ、大長刀(なぎなた)を振るい牛若丸と戦った末の無念の死を語り、回向(えこう)を願って消え失せる。現在能「烏帽子折(えぼしおり)」の一件を旅僧の幻想として夢幻能の形で描いたもので、同装の僧が対座する前段は他の能にない特色であり、哀愁と豪快さの対比との同居が見事な佳作である(ここは小学館「日本大百科全書」に拠った)。詳しくは小原隆夫氏のサイト内の「熊坂」がよい。

 

 安永七年の夏の事とにや。加州森下村(もりもとむら)の片邊りに住める敎任坊と云ふ道場坊ありき。其身未だ衣を纏ふ官なしといへども、辯よく一向の安心を說く。

[やぶちゃん注:「安永七年」一七七八年。

「森下村(もりもとむら)」私は現在の石川県金沢市南森本町(グーグル・マップ・データ)を中心とした一帯と踏む。スタンフォード大学の「國土地理院圖」の「金澤」(明治四二(一九〇九)年作図・昭和六(一九三一)年修正)で同じ位置を見ると、そこに大きく『森本村』と縦に書いた、その北西の鉄道と「北陸道」との間に同じく縦書きで『森下』とあるからである。旧「森下村」が「もりもとむら」と読むことは、ウィキの「森本村」で確認出来、そこに旧「森本村」は現在の『北陸本線森本駅周辺にあた』り、『当初は河北郡役所が置かれていた』とあるから、相応に人口を持った村であったことが判る。以下に出る森下川(もりもとがわ)もそこを流れているのが判る。

「其身未だ衣を纏ふ官なしといへども」正規の僧職の位を得ているわけではなかったが。

「一向」一向宗(浄土真宗)。]

 

 此故に村々の知音(ちいん)を「御談講」と稱し、隙日(ひまび)なく廻りけるに、或日森下川(もりもとがは)の橋の上にて、獵師の如き人に逢ふ。曾て面(つら)を見覺えたる人に非ず。終にかたへの茶店に腰掛けて、天氣の晴るゝを語る。茶話(さわ)過ぎて彼(かの)人敎任に申すは、

「貴坊は能く佛意を辨(わきま)へ人々を悟さるゝと聞く。我輩も中年過ぎて候に、佛法とて聞分けたる事なし。願はくは悉く化度(けど)し給へ。」

 坊曰く、

「是は事々(ことごと)しき御尋(おたづね)かな。我等何と佛經を辨へ申すべき。されども御聞きと候へぱ、同行中(だうぎやうちゆう)に語りたる事ども御聞きと覺えたり。隱し申すべき事にもなし。存じたる分は申すべし。併(しか)し爰は往來喧(かまびす)しき街なり。我が庵(いほり)に直(なほ)り給へ。十四五町[やぶちゃん注:一キロ半から同半強。]傍(そば)の村にて候」

と云ふ。彼人

「さらば」

と庵に伴ひ、委(くは)しき一向一心の安心の領解(りやうげ)を說きしが、彼の獵師躰(てい)の人尋ねて曰く、

「御敎化(ごきやうげ)大方吞込み候得ども、猶不審の御座候。金澤の町にて大會(たいゑ)の諷(ふう)[やぶちゃん注:「様子」の意であろう。]を聞きしに、此趣は天狗(てんぐ)鳶(とび)と化し、蜘(くも)の圍(ゐ)[やぶちゃん注:網。]にかゝりたるを、或僧助けしかば、此禮に靈山の大會をなして見せたる謠なり。事は物語りの虛談ならんながら、理(り)を云はゞ天狗先に僧に約して、『信を起し給ふな、信を起し給へば我身の爲に惡しく候』と、懇(ねんごろ)に斷りしを、僧背(そむ)きて信を起して、天狗にからき目見せたるとなり。是帝釋(たいしやく)のいかなる取捌(とりさば)きぞ。僧の方へも不念の事を咎めずしては叶はぬことなるを。僧は阿房(あはう)をも尊み、天狗をもぢり羽になすは不捌(ふさばき)千萬の事なり。」

[やぶちゃん注:以上の猟師の語る話は「十訓抄」が原話で、よく知られている。私の『柴田宵曲 續妖異博物館 「佛と魔」(その1)』で原話を示してあり、それを原拠とする「小泉八雲 天狗の話 (田部隆次訳)」(原文英文は前のリンクに示してある)も電子化注してあるので、是非、参照されたい。

「帝釋」梵天とともに仏法の守護神。十二天の一柱で東方を守る。須弥山(しゅみせん)頂の忉利天(とうりてん)の主神で喜見城に住む。ベーダ神話のインドラ神が仏教に取り入れられたもの。天帝釈。ここは単に正法(しょうぼう)の代表・象徴として示したもの。

「阿房」阿呆。愚か者。当て字。]

 

 坊曰く。

「是は我等が知らざることながら、佛法さへ信ずれぱ、なんでも帝釋の勝たさるゝこと、下界にての流儀と覺えたり。思ひ廻せば、我が宗門惡人を本(もと)として善人を次(つぎ)とす。佛法は惡人の爲に立て、其役に懸る薩陀(さつた)達は愚を助け煩惱をいたはる。理(ことわり)の大いなるものに至りては、世間の善惡は皆惡なり。かゝる小理に志を挫(くぢ)くべからず」

と云ふに、獵師合點の行くことや有りけん。

[やぶちゃん注:「我が宗門惡人を本として善人を次とす」言わずもがな、唯円の「歎異抄」に現われる「悪人正機」説。

「薩陀」「薩埵」が一般的。菩薩、則ち、修行者のこと。]

 

「其悅び御禮謝すべき物なし。御坊は定めて折節身の震(ふる)ふこと持病なるべし。是は肩の間に腫(はれもの)あり。爰に虫あり。是がなすことなり。虫大いなれば大病に至りてむづかし。早く去りて進ずべし。無事に長生(ちやうせい)し給へ」

と云ふ。

『付け込みて錢(ぜに)にても取る者か』

と思ひて、

「いやいや夫(それ)には及ばず無用なり」

と云ひけるを、彼(かの)者笑ひて、

「扨々心廻(こころまは)りの人かな、我ら實(げ)に申すを、世の賣藥の如く思ひ給ふか。先づ肩をぬぎ給ヘ」

とて、無理に肩ぬがせ、あたりにありし人に見するに、渠(かれ)が云ひし如く腫ありしかぱ、傍(そば)の人も少しく信とす。

[やぶちゃん注:「心廻り」ここは用心深く気を回して猜疑することを言っていよう。]

 

 此者髮剃(かみそり)を借りて皮をたち破るに、痛むことなし。

 彼人曰く、

「虫の上を斬るときは少ししくしくとすべし、痛む筈にはなし」

とて、靜かに一寸許りの虫三筋(すぢ)引出だして捨つ。

 其跡に藥を附くるに、暫くして疵癒えたり。

 扨申すは

「是にて息災長命なり、最早害なし」

と云ふ。此僧も爰に至りて驚き、少し謝儀せんと思ふ心付きけるを、彼者早く知りて、

「貴僧の一謝に及ぶべきや。我こそ一謝すべけれ、せめて是を參らせん」

と、懷より紙包の物取出だして投與へて立去る。

 是を見るに小判三兩あり。僧大に驚き、

「是は受くべき理(ことわり)に非ず」

と、頓(やが)て飛出で道かくるに行方なし。あたりの人に尋ぬれども知れず。是非なく歸りて小判を改むるに、「眞鍮(しんちう)」と打出しの銘ありて、則ち能く金を知る人に見するに、

「是れ金(きん)に非ず、又他の物に非ず、砂金と云ふべき山出しの儘の金なり。文字の打出し如何にも心得難し。突徒の用ふる物か」

と吟味すれども、夫(それ)にも異なり。不思議晴れやらず。

[やぶちゃん注:「眞鍮」銅と亜鉛の合金、或いは「鍮石」で自然銅の中でも優れたものを指す。しかし金(きん)ではないので、この鑑定人は「心得難し」と言っているのである。

「突徒」「とつと」であろうが、意味不詳。「突」には「犯す」の意があるから、無頼の徒の意か。]

 

 則ち郡方(ぐんがた)を廻る役人衆へ訴へけるに、此咄(はなし)を聞きて、金(かね)の事よりは先づ其醫術の妙藝なるに驚き、

「夫は逢度(あひた)きものなり。今暫く見合せられよ。重ねて來るか、又は何方にても行合ひなば早速知らせん」

と、方々へ命じ、

「色々尋ね度きこともあり」

とて、彼の坊を證人として、多く人を用ひて近鄕を探し𢌞るに、最早半年の餘(よ)に及ぶと云へども消息なしと。是いかなる異人ぞ。

[やぶちゃん注:「見合せられよ」事態を考慮して、何かのお裁きを求めるのは差し控えて様子を見るようにされるがよい。郡方の役人はその猟師の医術が藩主の気に入るに違いないと考えたのである。]

今日、先生はKの「前に跪まづく事を敢て」し、遂にKを「私の家」に連れて来てしまう――

Kはたゞ學問が自分の目的ではないと主張するのです。意志の力を養つて强い人になるのが自分の考だと云ふのです。それには成るべく窮屈な境遇にゐなくてはならないと結論するのです。普通の人から見れば、丸で醉狂です。其上窮屈な境遇にゐる彼の意志は、ちつとも强くなつてゐないのです。彼は寧ろ神經衰弱に罹つてゐる位(くらゐ)なのです。私は仕方がないから、彼に向つて至極同感であるやうな樣子を見せました。自分もさういふ點に向つて、人生を進む積だつたと遂には明言しました。(尤も是は私に取つてまんざら空虛な言葉でもなかつたのです。Kの說を聞いてゐると、段段さういふ所に釣り込まれて來る位、彼には力があつたのですから)。最後に私はKと一所に住んで、一所に向上の路を辿つて行きたいと發議(はつぎ)しました。私は彼の剛情を折り曲げるために、彼の前に跪まづく事を敢てしたのです。さうして漸(やつ)との事で彼を私の家に連れて來ました。

『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月8日(水曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第七十六回より。下線太字は私が附した)

   *

 「兎に角あまり私を信用しては不可ませんよ。今に後悔するから。さうして自分が欺むかれた返報に、殘酷な復讐をするやうになるものだから」

 「そりや何ういふ意味ですか」

 「かつては其人の膝の前に跪づいたといふ記憶が、今度は其人の頭の上に足を載せさせやうとするのです。私は未來の侮辱を受けないために、今の尊敬を斥ぞけたいと思ふのです。私は今より一層淋しい未來の私を我慢する代りに、淋しい今の私を我慢したいのです。自由と獨立と己(おの)れとに充ちた現代に生れた我々は、其犧牲としてみんな此(この)淋(さび)しみを味はわなくてはならないでせう」

 私はかういふ覺悟を有つてゐる先生に對して、云ふべき言葉を知らなかつた。

『東京朝日新聞』大正3(1914)年5月3日(日曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第十四回より。同前)

   *

先生は「私の家」と言っている。私(藪野)が先生ならせめても「私の下宿屋」へと書く。それが当然であり、普通である。このさりげない表現にから、下宿屋の主人である「奥さん」の「止せ」という制止を振り切ってまでKを連れ込んでしまうことが出来るのは、取りも直さず、先生が事実上の半ば意識的にも――この「家」と「奥さん」と「靜」の支配者になっているとどこかで自任してしまっている――ということに気づかねばなるまい。それは社会的自立者であることの無意識の自認であり、総ての事柄が自分の要求通りになる、通りにする、と先生が自己肥大を起こしているのだと私は思うのである。

2020/07/07

甲子夜話卷之六 13 京都公家流離の幷その和歌

 

6―13 京都公家流離のその和歌

林氏云。近年京より一奇人來りて和歌を唱へしに、忽人々風靡せられて、倍從するもの多かりしが、官より竊に沙汰あり、其人恐れて歸京しけり。實は武者小路家の子にて少將までに成し人とよ。年少豪邁放佚にて、三條とか五條とかの繁華の地にて、人を刃殺して廢嫡となりたるが、姓名を匿して東來せるとなん。銕山と號しける。唐伯虎、徐文長などの類にて、其人は兎も角も、文采はすぐれたることにて、其家に恥ざる才と思はる。惜しむべき人なり。傳へ聞し歌の中にて語記せるは、

   江鶉

 秋の日も入江の波は色くれて

      殘る尾花に鶉鳴なり

   冬杜

 木がらしの吹盡したるもりの中に

      なを枯のこるかしは手の聲

此二首などは近世の秀逸とも云べき詠なるべし。

■やぶちゃんの呟き

 私は和歌嫌いだが、この二首、静山が言う通り、なかなかいいと思う。特に後者は。因みに「なを」はママ。

「林氏」お馴染みの林述斎。

「竊に」「ひそかに」。

「武者小路家の子」「少將」「人を刃殺して廢嫡となりたる」「銕山」(てつざん)「と號しける」と並べられれば、調べようがあろうかと思うのだが、不詳。識者の御教授を乞う。

「唐伯虎」明代の文人にして畸人であった唐寅(とう いん 一四七〇年~一五二四年)。伯虎は字(あざな)、仏教に心を寄せたことから「六如」と号した。書画に巧みで「祝允明」・「文徴明」・「徐禎卿」と並んで「呉中の四才」と呼ばれたが、他の三人と異なり、生涯、官職に就くことが出来なかった。ウィキの「唐寅」によれば、父は『蘇州呉県の繁華街で営業していた肉屋』(或いは酒屋・飲食業)であったが、『幼少から利発であったため』。『教育を受けることができた。絵を沈周に学び、早熟型でもあったため』、『人々の注目を集めた』。十六歳で『蘇州府学に入学、生員となった。ここで、同年の文徴明と親友となった。文徴明は、享楽型の唐寅とは対称的な真面目人間であったが、それ故にウマがあって』『親友となった。文徴明の父、文林も唐寅の才能を認めており、自分のネットワークを通じて唐寅の名を宣伝してくれた。名門の子であった祝允明は、飲む打つ買うの道楽者で、突飛な奇行で知られた人物で』十『歳年上だったが、生涯に渡る親友となった』。『青年期になって、科挙受験のため勉学に励むが』生来の『享楽者故にまったく身が入らなかった。この状況を見るに見かねた祝允明の説教によって一念発起、遊びにも目をくれず』、『一心不乱に勉学に励んだ結果』、一四九八年二十九歳の『時、南京で行われた郷試にトップで合格。郷試をトップで合格した者は解元と呼ばれるため』、彼には『唐解元という呼び名も』ある。『科挙に落第し続けた祝允明や文徴明とは違い、高級官僚への道が開けたように見えたが』、『思わぬ落とし穴が待ち受けていた、会試でのカンニング事件に連座して投獄、その結果、科挙の受験資格を失ってしまうのである。一説には、実は会試の首席合格が決まっており、発表前にその事を知った同郷で同じ受験生の都穆』(とぼく)『という人物が、嫉妬の余り』、『関係筋に讒言した事が原因という話もあって、事実はさだかではないが、唐寅は都穆という人物を終生嫌いぬいた。誰かがお節介にも』二『人の間を修復しようと顔を合わせる機会を作ったが、唐寅は都穆の顔を見るなり』、『建物の』二『階から飛び降り』、『そのまま帰ってしまった』『という』。但し、温厚な『紳士で知られた親友の文徴明でさえも、都穆の話になると嫌悪感を露わにしたという』から、余程、毛虫のような厭な奴だったに違いない。『官僚になる機会を奪われた唐寅であったが、幸いなことに時代が味方してくれた。彼の生きた明代中期というのは経済が発展した時代であり、官吏や定職に就かなくても生きていけた。蘇州という都市は大都市であると同時に、元末は張士誠の根拠地として明の覇業に最後まで抵抗した』ことから、『明成立後に弾圧を受けたが、経済都市として昔に勝る反映を遂げたという歴史を持つだけに、反権力的であり、落第者に対しても優しい空気を持っていた。そんな気風の中で、唐寅は自作の絵や書を売りながら生計を立てていく。蘇州の人々には書画を買って楽しめる経済的余力が充分にあり、加えて技術や自由奔放な人物ぶりから』、『唐寅の名声は高く、彼の書画は飛ぶように売れたという』。『唐寅は、はじめ沈周の画法で描いたが』、一五〇〇年頃から『周臣から学んだ李唐風を採用した。唐寅の人物画は、周臣の影響とともに、呉偉・杜菫からの影響が明らかである』という。一五一二年に『日本人商人・彦九郎に自作の詩を自署して贈っ』た「贈彥九郞詩」(京都国立博物館)が現存する』。一五一四『年に寧王の厚い招聘に応じて廬山やパン陽湖に遊びつつ』、『南昌に至った』が、『寧王と肌の合わないことを知り、素っ裸で寧王の使者の前に現れるという奇策で南昌を脱出』、一五一五年秋頃に『蘇州に帰った』。『その後は書画家・文人として、平穏な世界の中、市中に漂白して自由人として生き』、五十四歳で『その生涯を閉じた。経済的には貧困にあえいでいたかもしれないが、何物にも囚われることなく自由に生きられた人生は幸福だったといえるだろう』とある。

「徐文長」明代の文人で畸人の徐渭(じょ い 一五二一年~一五九三年)。書・画・詩・詞・戯曲・散文など多様なジャンルで天才性を発揮し、その作風は後世に大きな影響を与えたが、その一方で精神を病み、妻を殺害するなど、破滅的で不遇な生涯を送った。ウィキの「徐渭によれば、『字』は当初は『文清、のちに文長と改めた』。『浙江省山陰県大雲坊』で、『現在の紹興市』『の生まれ』。『父徐鏓(じょそう)は四川夔州府(きしゅうふ)の知事をつとめ』、『徐渭はこの父の召使いとの間に生まれた庶子であった。正妻の子である二人の兄徐淮(じょわい)と徐潞(じょろ)がいたが、徐渭が生まれたときは既にこの正妻は亡くなって』おり、『生後百日目で父が病死。後妻だった苗氏が嫡母となって徐渭を育てた』。六『歳からエリート教育を受け、経学をはじめ八股文・古琴・琴曲・剣術などを学んだ』。十四『歳のときに嫡母が没し』、『精神的な支柱を失う』。二十歳の時、『ようやく童試に合格し秀才となる。その後』二十年間に八度も『郷試に臨』んだものの、『及第に至ることはなかったが、その間に多くの師友・学友を得て郷里では「越中十子」と称されたという。この中には画家の陳鶴や泰州知事にのぼった朱公節などがいる』。二十代始め頃、『潘氏の婿となり長男徐枚をもうけた』。二十五『歳のときに兄徐淮が急死。そのすぐ後に十九歳の『若妻が亡くなるという不幸が重な』った。『科挙に受からず』、『役人になることはできなかったため、やむなく家塾を営んだが』、『生活は貧窮した』。『友人を頼って各地を転々とするうち』、三十二歳の時、『紹興に侵入した倭寇の討伐軍に剣術の師である彭應時』『や友人呂光升』『らと参加』し、『戦果を挙げたことで胡宗憲など高級官僚から幕客(私設秘書)として迎えられた。この頃、名将として名高い戚継光や兪大猷に彼らを讃える詩を贈っている。胡宗憲は徐渭の文才を見抜き』、『様々な文章の代筆を依頼した。殊に』一五六〇『年に制作した「鎮海楼記」が高く評価され』、『褒賞を得る。これを元手に』四十『歳にして自宅となる酬字堂を建』てたが、二年後、『胡宗憲が不正事件』『に連座し』て『失脚』してしまう。『徐渭自身は罪に問われなかったとはいえ、有力な後ろ盾を失い』、『生活は困窮』し、次第に『精神が不安定になっていく。一旦は北京に職を見つけるが』、『すぐに辞め』、『紹興に戻った』。その後、『自ら「墓志銘」を書き』、僅か二年の間に九回もの『自殺未遂を重ねた』。一五六六年のこと、『狂気から』当時の『妻である張氏を殺害』、七『年の獄中生活を送』ることとなった。その間、『知人』にして『パトロンで』も『あった張天復・元汴(げんべん)父子』が『減刑や釈放に奔走し』、『親身になって徐渭の救出を試みている』。『釈放』『後、紹興近くの名勝五泄山に友人らと滞在し「遊五泄記」』『を著し、その後に杭州、南京、宣府(河北省)など中国各地を遊歴。多くの人物と交遊』して『盛んに詩や画の制作、文筆を行った。北京では武将の李如松と面識を得て後に任地の馬水口(河北省)に賓客として厚遇された』。一五八二年、病いが『進行し』、『帰郷する』も、『家庭内不和で後妻・長男と別居となり』、『次男徐枳(じょき)と暮らす。門戸を閉ざし』、『誰とも会おうとはせず』、『遠出もすることはなかったが、制作意欲は旺盛で「西渓湖記」など多くの傑作を残した』。一五八七年、『再び、李如松に招かれたため』、『北京へ赴く途次、徐州で発病』、『やむなく自宅に戻る。徐枳のみが赴き』、『幕客となっている。後にこのとき徐枳が得た報酬を充てて徐渭の詩文集を編纂した』。一五九三年、『徐枳の岳父の屋敷に仮寓』し、自伝「畸譜」を『書き上げると、その年に没した。享年』七十三であった。『当時の文学界では華美で大仰な「台閣体」に対して古文復興運動の機運が高まり、李攀竜や王世貞ら古文辞派が唱える擬古主義が台頭しはじめていた。しかし、徐渭は古文辞派を批判し、自らの素直な気持ちを表現すべきであると主張。袁宏道は徐渭を敬愛し』、「徐文長伝」を『著している』。また、『劇曲家で古文辞派批判の急先鋒の湯顕祖も、彼の「四声猿」を『高く評価した』。「四声猿」は『異色作として後進に大きな影響を及ぼした』。『書は蘇軾・米芾・黄庭堅などの宋代の書に師法し、行書・草書に秀でた。袁宏道が「八法の散聖、字林の侠客」と評したように』、『自由奔放な書風を確立した。清の八大山人・石濤・揚州八怪らは徐渭の書風を強く敬慕し』ている。『画は牧谿など宋・元の花卉図を模範とし、やはり自由奔放で大胆な画風であった。陳淳とともに写意画派の代表とされる。徐渭は好んで水墨の花卉雑画』『を画き、自作の題詩を書き込んでいる。山水図はあまり画かなかった。その画風は』『後の大家に強い影響を与えた』とある。

「類」「たぐひ」。

「江鶉」「えのうづら」と訓じておく。

「冬杜」「ふゆのもり」。

三州奇談續編卷之七 竹の橋の猪塚

 

 三州奇談後編 卷 七

 

    竹の橋の猪塚

 天心豈測り知らんや。安永三四年の頃は、北越の嶺々野猪多く渡り來て田畑を損ふ。山畔(やまばた)の土民甚だ憂(うれひ)とす。是に依りて國君村々に猪を狩らせらる。

「一頭を得る者は幾何(いくか)の米を與へん」

と命令ありて、早く猪を捕へ盡さんとす。幸哉(さひはひかな)天も是に荷擔ありけん。同五年六年大雪降りて、此猪ども居を失ひ、路を誤ちて里民の爲に悉く得られて、終に一疋の殘るものなく、此害を消したり。此事を司どる人數人、仰(おほせ)を承りて是を吟味ありしに、

「遠路(えんろ)より猪を運ぶに人力の勞(らう)あり」

とて、尾のみを斬りて是を證とし、褒美の米を渡さる。里民悅び貪り、人々競ひて數日に數千の野猪を捕り盡して、一時(いつとき)に奉行所に積重(つみかさね)ぬ。扨(さて)事終りて、其尾數千を燒きて塚となし、梵字を彫りて石碑を立て、一杯の土をかき寄せて、塚印の石を壺の形(かた)ちとし、橫に奉行數人の名を刻む。其中に何の金平と云ふ人あり。この人武門に秀名有ればにや、其邊の里民

「金平塚金平塚」

と呼ぶ。功の一人に歸するや、人の號(とな)へはあやしきものなり。其地は「竹の橋」の前なる山、東方の路邊にあり。戲れに或人この塚を沙汰して曰く、

「何の金平なる人は武藝聖學(せいがく)の人と聞けり。然るに猪塚に名を記せらる。曾て聞く、其鬼に非ずしては祭るべからずとは聖敎(せいけう)なり。况んや此獸國害をなす。斬りて民の害を去るに祭るは何事ぞや。思ふに此人々虎狼の一族にあらずんば、麋鹿(びろく)の緣者なるべし」

と云ふに、かたへの人答へて曰く、

「此塚を築く催し、全く名を後世に傳へんと欲す。是には佛緣を求(もとむ)るに若(し)くはなし。俵藤太(たはらのとうだ)秀鄕龍宮に功ありて、種々の賜(たまは)り物ありしに、卷物・米俵などは家用となるべきに、秀鄕分別(ふんべつ)して釣鐘を貰ひ來りて三井寺に寄進す。是無用に似たれども、反(かへ)りて此鐘の爲に俵藤太が手柄の千古に顯然たり。民間の人も能く聞き傳ふ。兎角佛緣に寄らずんば久しき名は得るに難し。又理(ことは)りなり」

と呵々(かか)。

[やぶちゃん注:標題「猪塚」は「ししづか」と訓じておく。

「安永三四年」一七七四年~一七七六年。

「國君」加賀藩第十代藩主前田治脩(はるなが)。

「金平塚」【202079日改稿】いつも情報を戴くT氏より、「石川県河北郡誌」の「第二十五章 笠谷村」の「〇名跡」の項に「猪塚」があり(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの当該ページ)、そこに河北郡笠谷村杉瀬に猪塚がある旨の記載と、「三州奇談」の本篇が引用されてあって、猪塚には「安永六年丁酉二月十五日金剛佛子沙彌□道書」と彫られているとあるとの御指摘を戴き、さらに現在の場所は石川県河北郡津幡町字杉瀬であり、塚が現存することを御教授戴いた。当該部を電子化しておく。

   *

猪塚。北陸本道なる杉瀨より、舊道を東に進むこと約四丁[やぶちゃん注:四百三十六メートル。]にして同字内に猪塚あり。高さ約四尺徑一尺三寸なる圓柱狀の碑を立つ。石の前面及び右方には梵字を刻し、左方には所修一切衆善業利益一切衆生故□□盡皆正廻□除正死冥菩提、安永六年丁酉二月十五日金剛佛子沙彌□道書とあり。碑は周圍約六間[やぶちゃん注:十一メートル弱。]の土饅頭上に立ち、前方九尺に二間[やぶちゃん注:約三メートル六十四センチメートル弱。]の空地あり。傳へいふ安永の頃此地野猪多くしえ作物を害すること甚し。土人之を狩り、其死屍をこ〻に瘞めし[やぶちゃん注:「うづめし」或いは「うめし」。]なりと。

   *

調べてみたところ、「津幡町役場」公式サイト内に「猪塚」があって、

   《引用開始》

 津幡運動公園に入る手前の小高い丘に、駆除したイノシシの供養碑「猪塚(ししづか)」が立っています。1774(安永3)年から翌々年にかけて大雪が続き、山奥でエサがないイノシシが多く出没し、山里の作物を食い荒らしました。そのため、藩では役人を派遣して大規模なイノシシ狩りが行われ、数千頭が殺されました。村人たちは証拠として尻尾を持っていくと、イノシシ1匹につき米1升の褒美(ほうび)がもらえました。その尾を集めて埋め、供養した石碑がこの猪塚です。

 石碑は高さ1.36メートル、直径0.39メートルの円柱状で、正面に梵字(ぼんじ=古代インドの文字)と建立の年(安永6215日)、銘文が刻まれています。

2011年(平成23年)51日 津幡町文化財(有形民俗文化財)指定

   《引用終了》

とあった。私の調べ落しで、いつも乍らT氏に感謝申し上げるものである。

「竹の橋」地名ならば、石川県河北郡津幡町字竹橋がある。ここは倶利伽羅峠越えの西の麓に当たり、越中富山との路辺でもあるから、候補地としてはすこぶる適格であるように私は思う。

「聖學」通常は特に儒学のことをかく言う。ここは深く儒学を学んだ者の謂い。

「麋鹿」大鹿と鹿。前の「虎狼」は猪の天敵であるから、こちらは鹿と餌で競合するからであろう。

「俵藤太秀鄕龍宮に功ありて……」藤原俵藤太秀郷(寛平三(八九一)年?~天徳二(九五八)年又は正暦二(九九一)年)。『小泉八雲 鮫人(さめびと)の感謝  (田部隆次訳) 附・原拠 曲亭馬琴「鮫人(かうじん)」』の私の「俵屋藤太郞」を参照。

「呵々」「かんらからから」と大声で笑うこと。]

三州奇談續編卷之六 怪飜銷ㇾ怪 / 三州奇談續編卷之六~了

 

    怪飜銷ㇾ怪

 七尾の大野氏なる人は、元祿の頃の主人を俳名長久といふ。「續虛栗」集を撰びし人なり。好事代々を傳ふ。

[やぶちゃん注:標題は「くわい、かへりて、くわいをけす」。意味は本文で明白。

「大野」「長久」「加能郷土辞彙」に、『オホノチヨウキュウ 大野長久 七尾の俳人。細流軒と號し、初め貞室の門から出で、後に晩山の風を慕ひ、元祿十三年』(一七〇〇年)『勤文と相携へて京に上つた。此の時長久年六十餘にして欅炭を刊行した。この外實虛栗の著があるとも傳へられる。元祿十五年正月二十日歿。追善集に三年草がある』とある。「欅炭」は「けやきずみ」であろう。しかし其角編「續虛栗(ぞくみなしぐり)」と同名の撰集を書いたというのはちょっと解せない。其角の知られたそれは貞享四(一六八七)年刊で、同時代に別派にあって同書名で集を出すであろうか? 「加能郷土辞彙」の記載は恐らく本篇によるもので、実際にそれが現存している書き方ではない。【202079日追記】いつもお世話になるT氏よりメールを頂戴し、そこで余談(以下の「麩屋町」の追記内容が主体)とされた上で、『「七尾の大野氏」が大野屋を名乗っていたならば、「石川県鹿島郡誌」の「七尾町」の〇町奉行と町年寄の項1093コマ~1116コマ)に、

・大野屋五郎右衛門【享保十八年~延享四年】

・大野屋平右衛門【明和九年~安永二年、天明二年~】、

とあり、また、「○所口町惣肝煎役」にも

・大野屋五郎右衛門【寛永二年より】

とあり、「〇東地子町肝煎役」に、

・大野屋八右衛門【弘化二年六月】

「〇所口各町肝煎」の名の項には「豆腐町肝煎」に、

・大野屋五郎右衛門【文化六、七年】

とあります。なお、同書の七尾町の「〇口碑等による町の由來(西部)」の「〇生駒町」には、

「元、豆腐町と稱し由來素封家の多き町なり。之れ町の中央なりし爲めならんか、鉾山祭禮には殷盛を極めしと云ふ」

とあります。されば、当主大野屋が代々「右衛門」を名乗って、「所口町の有力者の一人」であったと考えられます』と御教授戴いた。]

 

 去れば安永六年の秋の事とかや。此家居に怪しき灯出づる。或時は影の如き人躰(じんてい)の者不圖(ふと)出で、やしきを見るよし沙汰す。隣町の麩屋町といふに、傘を張りて世を渡る和倉屋某なるもの、密ひそか)に來り告げて曰く。

「御心得のため申候。怪しき灯をともしたる人(ひと)影の如く出で、屋敷の中を通ること慥に見うけ候、御氣を付けらるべし。兎角祈禱にても成され候か、御經にても讀(よま)せられ候が然るべく候はん」

と、懇ろに申して歸る。

[やぶちゃん注:「安永六年」一七七七年。

「麩屋町」不詳。「近世奇談全集」はここを『豆腐屋町』とするのであるが、こちらは前にも出たが、これも如何せん残念乍ら不詳である。【202079日削除・追記】いつもお世話になるT氏よりメールを頂戴した。それによれば、これは「豆腐町」で現在の七尾市生駒町(グーグル・マップ・データ)であるという御指摘であった。国立国会図書館デジタルコレクションの「石川県鹿島郡誌」の「第壹章 七尾町」の「七尾町區劃」に『生駒町(イコマチヨウ)(豆腐町(トウフマチ))』とあり、「ADEAC」の「西尾市岩瀬文庫」蔵の文政二(一八一九)年に描かれた「所口町繪圖」に(右下が北であるので注意)中央の川左手(左岸・北西)一帯総てが「豆腐町」と記されてある。]

 

 然りし後三四日して、宵の間の事とにや。此家の婢女脊戶庭の藏の前に行きしが、忽ち

「あつ」

と云ひて絕氣せり。此聲に驚き、家内の人々駈出で見たりしに、下女はうつぶきに倒れ臥して居る程に、呼生(よびい)けて藥など與へ、水注ぎ抔(など)して、漸く息出でければ、

「是は何事ぞ」

と云ふに、只

「甚だ恐し」

とて顏色(がんしよく)なし。

「先づ先づ積みたる薪の中を見給ふべし、未ださきに見たる妖物(ばけもの)はかゞみて居(を)るべし」

と申す程に、人々先づ

「何とありしぞ」

と問ふに、下女おづおづ申すは、

「慥(たしか)に四角なる提灯の如き火、土の上一尺計(ばかり)を行き申すと覺え申候と、顏の靑く四角なる人、より向き向きして此薪(たきぎ)積みたる中へ這入候。今も猶ちらちらと目に懸(かか)る樣なり」[やぶちゃん注:「覺え申候と、顏の靑く四角なる人」の部分は「と覺え申候。と、顏の靑く四角なる人」とした方が躓かない。]

と、聲かすり恐しげに申すにより、下仕(しもづか)への男ども積みたる薪を除(の)け、家内の隅々迄普(あま)ねく探し尋ぬるに、何れも目に障る物更になし。

 依りて皆々家に入りて休み、下女をも養生さする。

 是より大野氏の家、妖物屋敷と沙汰廣がり、いよいよ

「怪しき火出づるは一定(いちじやう)」

と、あたりの人々も恐れしに、其隣の楓居(ふうきよ)なる人來りて告げて曰く、

「此躰(このてい)にては傘張の異見にも隨はるべしと思へども、先づ無用なり。祈禱・經陀羅尼(だらに)は生きて居る内の用とも思はれず、必ず止めて然るべし。彼(かの)各(おのおの)其(その)望みあり。緣ありて住みたしと思ふものには住ましめてよからん。猶因(ちな)みうとく隔てがちにて彼にさからへばこそ、每夕は出(いづ)るなり。快く遊ばしめて、互に樂しみてこそおもしろけれ。思ふに此家居火災の後にして、古きものにてもなし。彼れが據る處少なかるべし。幸ひ近き山上に古城の古墳多ければ、石或は木古(ふ)りたる物を取寄せて、庭を木闇(こぐら)く陰氣を滿たしめて、彼を迎へて然るべし」

と敎へしに、あるじ大野氏も同心して、畠山古城の跡の石、十三塚の草木など、人を多く遣ひて引き寄せしに、先づ畠山の家老溫井備前が屋敷跡にありし大石を引きて水鉢とし、古木朽木、塚じるしの苔よき石など、滿てる迄庭に引取りて、隨分家居を古めかしけるに、是いかなる理(ことわり)にや叶ひけん、其後怪灯の出づること少しもなく、傘張等が目にも入らず、近隣にも安堵し、世上にも妖物屋鋪の沙汰はふつゝと云ひ止みてけり。

[やぶちゃん注:「畠山古城の跡」これは七尾城跡のことを指している。さすれば、ここの「近き山上に古城の古墳多ければ」と言っていることから、この大野の屋敷は七尾城跡に近いわけである。されば、「麩町」を含めてこの中央附近(グーグル・マップ・データ)の七尾城跡の麓の孰れかの町屋がロケーションであることが判明するのである。

「十三塚」不詳。

「溫井備前」七尾城主畠山氏家臣の温井実正(ぬくいさねまさ 生没年未詳)。天正一〇(一五八二)年六月の「本能寺の変」で信長が横死したことが能登石動山の衆徒らに伝わり、実正らがともに反乱を起こしたが、佐久間盛政と前田利家がこれを鎮圧している。]

 

 是又妖を防ぐの一奇術にこそ。尤も心高き哉(かな)。

 思ふに慶長の年、切支丹徒類の邪惡の家門悉く吟味の所、高山南坊(みなみのはう)・内藤飛驒守など、終(つひ)に改宗を肯(うけが)はず。彼(か)の南蠻國よりは手を種々に入れて日本を伺はんとし、或は漢人に變じ、僧徒に眞似(まね)びて、我國に惡種を殘さん、傾(かたぶ)けんと、日々に隙(すき)を伺ふ最中なり。

[やぶちゃん注:「慶長の年、切支丹徒類の邪惡の家門悉く吟味の所」所謂、「二十六聖人の殉教」、豊臣秀吉の命令によって二十六人のカトリック信者が長崎で磔の刑に処されたのは慶長元年十二月十九日(一五九七年二月五日)のことである。

「高山南坊」戦国時代のキリシタン大名高山右近(天文二一(一五五二)年:摂津~慶長一九(一六一四)年:マニラ)の茶人としての号。摂津高槻城主。名は長房又は友祥(ともよし)。洗礼名はジュスト。荒木村重の臣として織田信長に抗したが、イエズス会宣教師オルガンチノの勧めで降伏して信長の部将となった。「本能寺の変」後は秀吉に協力し、「山崎の戦い」で功をたて、明石に封じられた。天正一五(一五八七)年の禁教令発布の際、その信仰を理由に除封・追放された。その後、前田利家に招かれて三万石を与えられたが、慶長一九(一六一四)年の江戸幕府の禁教令に触れ、国外追放となり、マニラに流された。到着後ほどなくして没した。生前、千利休に師事し、茶人南坊 (みなみのほう) 等伯としても名高い(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「内藤飛驒守」キリシタン武将内藤如安(?~寛永三(一六二六)年)。松永久秀の弟甚介と丹波八木城主内藤氏の娘との間に生まれた内藤忠俊。永禄八(一五六五)年に京で受洗しジョアン(如安)と称した。足利義昭に仕えたが、その没落後は小西行長の家臣となり、小西如庵という名でも知られる。豊臣秀吉の朝鮮出兵に際して出陣、後に行長の命を受けて明国への講和使節に選ばれ、文禄三(一五九四)年から翌年にかけて北京に使いし、明と講和を交渉した。慶長五(一六〇〇)年の「関ケ原の戦い」で行長が処刑されると、浪人となったが、高山右近の援助で加賀前田氏の客将となった。しかし、同十九年、幕府のキリシタン禁制により、右近や妹の内藤ジュリアら家族とともにマニラに追放され、同地で病没した(ここは「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。]

 

 然るに關東如何(いかに)評議決しけん、自若として懼(おそ)れず。

「南洋歸法のもの、彼の國に因みあるなるべし」

とて、さしも日本にて知勇と稱せし、軍陣老練の彌(いよいよ)高き高山右近將監(しやうげん)長房入道南坊、强力(がうりき)勇英能く城門の柱をあげて其下の埃を快く掃くなど聞えし、奧州岩槻の城主内藤飛驒守、此兩人を先きとして、柴山・森等の者凡そ百八人、悉く舟に乘せて、間宮權兵衞をして切支丹屬國呂宋(るそん)の島ヘ送らしめて、惜(をし)む色も又恐るゝ色も見えず。尤も佛家の一方に身を減す程の人、理あるに似て物の用に立たず、見明(みあき)らめられし裁件(さいけん)にこそ。慶長十八年に長谷川氏を以て陸路を送り遣はされ、間宮權兵衞船路を承りて、同年九月の頃おくり屆けて歸帆せしとなり。

「是南洋の衆を增すにして、此者地の理を說かば、襲兵勇英するどくして、近きに日本に攻め入るの災ひとやならん」

と危ぶ者多かりし。

「暫くはまた日本も守禦(しゆぎよ)の勤めにや」

と云合ひしに、結句翌年大阪に亂を起さしめて、國變にかゝるほどの物騷(ものさはぎ)を發せしむるに至る。

 然るに怪しき哉、奇なる哉。此後其沙汰寂として鎭まり、切支丹のこと又云出(いひいだ)す者もなく、南洋再び日本を伺ふことを止めてけり。

 今日に至りて國の安全、論ぜずして億兆の人の見る所なり。妙々此理に良々(やや)合ふに似たりとせんや。

 其事は天地懸隔の大小といへども、又是述べずんば奇とすべからず。詩に云はずや。

 高山仰止、景行行止、雖ㇾ不ㇾ能ㇾ至、然心鄕往之。

[やぶちゃん注:「奧州岩槻の城主内藤飛驒守」不審。彼は岩槻城主であったことはない。

「柴山」柴山権兵衛。「加能郷土辞彙」に『加賀藩に仕へ、知行五百石。慶長十九年三月七日高山南坊・内藤徳庵』(如安の別号)『等と共に切支丹の徒たるを以て京師へ送られ、板倉伊賀守に遞し』(「ていし」。送られ)、『九月廿四日阿媽港』(マカオ)『に放逐された』とある。

「森」不詳。

「間宮權兵衞」高山右近らを途中から長崎まで護送した幕府使番間宮権左衛門伊治(「これはる」か)。

「裁件」決裁の一件。

「長谷川氏」徳川家康の側近の一人長谷川藤広(永禄一〇(一五六七)年~元和三(一六一七)年)。慶長一一(一六〇六)年に長崎奉行となり、キリシタン取締・外国貿易管理などに当たり、同十二年に家康がキリシタン禁制を打ち出すと肥前各地の取締りに当たり、同十四年、高山右近や宣教師を澳門(マカオ)・マニラに追放した。同年には有馬晴信とともにポルトガル船を攻撃して自爆させてもいる。同十九年、堺政所職と小豆島の代官も兼ねていた。次いで「大坂の陣」に従軍、翌年には堺代官を兼ね、戦火で荒廃した堺の復興と長崎と堺を結ぶ瀬戸内海輸送路の一元的掌握に努めた。

「高山仰止、景行行止、雖ㇾ不ㇾ能ㇾ至、然心鄕往之」「史記」の「孔子世家第十七」の末尾中にある。

   *

太史公曰、「「詩」有之、『高山仰止、景行行止。』。雖不能至、然心鄕往之。余讀孔氏書、想見其爲人。適魯、觀仲尼廟堂車服禮器、諸生以時習禮其家、余祗囘留之不能去云。天下君王至於賢人衆矣、當時則榮、沒則已焉。孔子布衣、傳十餘世、學者宗之。自天子王侯、中國言六藝者折中於夫子。可謂至聖矣。」。

(太史公曰く、「詩に之れ有り、『高き山を仰ぎ、景(おほひ)なる行(みち)を行く。』と。至ること能はずと雖も、然も、心、之れに鄕(むか)ひ往(ゆ)く。余、孔氏の書を讀み、其の人と爲(な)りを想ひ見る。魯に適(ゆ)き、仲尼の廟堂・車服・禮器を觀て、諸生が其の家で禮を時(つね)に習す。余、祗囘(ぎかい[やぶちゃん注:低回。])し、之れに留まり、去ること能はず。云ふ、天下の君王、賢人に至るは衆(おほ)く、當時、則ち、榮へども、没して、則ち、已(や)む。孔子は布衣(ほい)[やぶちゃん注:平民の着物。転じて「無位無官の者」を謂う。]にて、十餘世に傳ふ。學者これを宗(さう)とす。天子より王侯まで、中國六藝(りくげい)を言ふは、夫子(ふうし)に折中す[やぶちゃん注:照らし合わせる。]。『至聖』と謂ふべきなり。」と。

   *

 本篇を以って「三州奇談續編卷之六」は終わっている。]

今日、先生ばかりでなく、Kも同じく『故郷喪失者』となる――Kのプロフィル(Ⅱ)

『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月7日(火曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第七十五回

   *

◎Kのプロフィル(Ⅱ)

・Kは自尊心・自立心が強い

 →極めて自律的な存在としてのKに先生は何処かで自分にはないタイプの精神の「強さ」を見、羨ましさ(嫉妬)を抱いている

・Kが「剛情」であるのは継母(生母とは死別)に育てられた結果であろうという私の推測

 →Kには母性愛の欠損及び抑圧され変形したエディプス・コンプレクスがあると考えてよい(それは漱石の生活史と重なる)

 

2020/07/06

三州奇談續編卷之六 八幡の怪婚


    八幡の怪婚

 冠婚葬祭は人間の大禮なり。羨妬(せんと)は人情の常なれども、其情(じやう)を押(おさ)ゆる者は人間に禮義あればなり。狐の中には敎(をしへ)あらじ、故に情を盡して是をまねぶ。實(げ)にも官あがりは渠(かれ)が常にして、嫁入は雨の催す夜を時とす。喪禮は唐黍(たうきび)の鎗(やり)、卯の花の白無垢、麻木(あさき)の灯籠。折々に郊外の火屋(ほや)を說く。稀に廓中(くわくちゆう)にもありとなり。大谷刑部が屋敷の沙汰も聞ゆ。祭りは御頭(おかしら)らの稻荷殿に取られて、其沙汰は聞えず。去れども寫すに於ては、なんぞ爲し得ざるべき。是人中を羨み妬むの間、こころ擬疑の念より出づ。所口は元と在名なり。畠山某が城の山の尾七つに分れし、此所に都會して七尾町の號ありしに、畠山氏泯滅(びんめつ)して我が國祖の君この所ヘ七尾の町を移して、所口とも云ひ、七尾とも稱す。今に七尾・所口兩方に名目(めいもく)殘りて小村あり。この所の唱へも、七尾と云ひ所口とも稱す。折々替ると云ふ。是又擬疑なり。擬疑・狐疑相近し。殊に七尾の號は、九尾の官足らざる物の類(たぐひ)なれば、狐妖の人情に相交(あひまぢは)るも又圖るべからず。

[やぶちゃん注:妙に辛気臭い始まりである。一篇の終わりも如何にもな人生訓的なのも気に入らぬが、メインの話はすこぶる諧謔味に富んで面白いですぞ(ネタバレになるのでこれ以上は言わぬ)! なお、幾つかの人名・地名はもう既にさんざん注しているので、飽きたから、挙げない。悪しからず。前を読め!

「火屋」火葬場。

「廓中」城中。

「大谷刑部が屋敷の沙汰」「三州奇談卷之三 程乘の古宅」の不詳部分の一つの参考にはなる。

「去れども寫すに於ては、なんぞ爲し得ざるべき」稲荷社の祭儀に祭りは専ら取られてしまったが、しかしそれの真似を下級の妖狐がすることは、どうして出来ぬことがあろうか、いや、出来る。

「是人中を羨み妬むの間、こころ擬疑の念より出づ」意味不明。「擬疑」という語も不審。或いは、稲荷が人々にすこぶる崇敬されるのを(或いは人の風俗全般を)羨み妬む結果として、心に「俺だってお狐さまだぞ!?」という不満が投射されて稲荷(或いは人間)を真似て行われるものである、の意か。

「泯滅」「泯」も「ほろびる」の意で、滅んで無くなること。]

 

 此地に近年の話あり。安永四五年の頃とかや。時も尾花の夕そよぐ頃なりしに、七尾の二里訟り傍らに八幡(やはた)村と云ふ所あり。馬次郞とて公領の大庄屋ありしが、同役矢田村次郞左衞門方より嫁を迎ふ。此矢田村も七尾の西半道許傍らにして、七尾の町を通り行く邊筋なり。此二家は下人も多く遣ふ者なれば、七尾の町にも多く知音(ちいん)あり。奉公人などには親類の者も多し。されば、

「いづれの日は嫁入の通るぞ。」

とて、町外などには人も立出で見はやしける。其中に是を羨み妬む者もやありけん。又は狐狸のそゝのかしたるにやありけん。若き者ども何ぞ思ひ付きして慰さまんとなり。

「嫁取あればとて、二里餘の道を態々(わざわざ)石打(いしうち)に行くも煩らはし。」

と云ひ合せて、油に鍋炭(なべずみ)を濃く交ぜて、各(おのおの)手に塗りて是を侍つ。是も曠行(ハレユキ)の嫁入の附々(つきづき)には、「貌(かほ)洗うてやる」とて手を以て面(かほ)を撫(なづ)ること、此邊(このあたり)の仕馴(しなれ)の謔禮(ぎやくれい)とにや。

[やぶちゃん注:「安永四五年」一七七五年~一七七七年。

「八幡村」現在の七尾市八幡町(やわたまち:グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「公領」幕府領であるが、実際には加賀藩預地である。

「矢田村」七尾市矢田町(やたまち)。

「曠行(ハレユキ)」珍しく原文のルビ。この「曠」は不審(敢えて言うなら「遮るものがなくて明らか」の意しかしっくりこない)だが、泉鏡花の「錦染滝白糸――其一幕――」の冒頭の台詞に、『お曠衣(はれ)のように綺麗きれいですわ』とある。花嫁御寮の「晴」れ(遮るものとてない「ハレ」の場)の嫁入り「行」列の意であろう。

「附々」対応した定番の行い。

『「貌(かほ)洗うてやる」とて手を以て面(かほ)を撫(なづ)ること』運命共同体としての結束の強かった伝統的村社会にあっては、他の村へ嫁を出す場合、その嫁の村の人々が、形式上、その嫁入り行列や婚礼を邪魔するような行動(騒擾や悪口、先に出た石投げ、及び、天秤棒などで行列の行路を阻むなど)をとる習俗は古くは非常に多く見られた(私は嘗てこの習俗を調べたことがあるのである)。但し、後の展開を考えると、彼ら若造どもが以下でやったことは、先例がないことであったとしか思えない。ちょっと、やり過ぎたって感じだ。

「仕馴」極めて普通にそうした一般常識から外れた行動が行われることが、特定の行事の場合に限り、当たり前に一般化していること。

「謔禮」そのように戯れてふざけ、ちゃちゃを入れることが、諧謔的に許された、婚礼時のトンデモ慣習(謂わば礼式)となっていたことを指す。]

 

 去れば嫁入の行列、七尾の町に入りし頃は黃昏過ぐる頃なれば、物のあやめもしられず。

「幸(さいはひ)よし。」

と各(おのおの)立出で、

「『顏あらひ』の祝ひせん。」

とて、各(おのおの)手を以て供中(ともぢゆう)の顏を殘らず撫廻(なでまは)し、

「あやかり者よ羨し、能く能く醉(ゑひ)給へ。」

などゝ云ひ戯れて。供の者どもは、二里餘の道をかゝへ居れば、心急がれて何事も忘れ行く。

[やぶちゃん注:「二里餘」現在の矢田町と八幡町では実測で端と端でも六キロメートルもないが、恐らく、両家ともに知られた名士であればこそ、七尾の市街を遠回りして見せたのであろう。

「かゝへ」嫁入り行列での自分に課せられた役割としてその送りを担うの意であろう。]

 

 秋の日早く入り、「驛路の鈴の聲は夜山(よやま)を過ぐる」となん聞くに、是はさし荷(にな)ふ簞笥(たんす)の、

「くわんから くわんから」

と鳴りて、心、勇み、道照らす松明(たいまつ)に添ひては、只走りに走り着く。

[やぶちゃん注:「驛路の鈴の聲」「えきろのすずのこゑ」と読んでおく。「驛鈴」(えきれい)は本来は古代の律令制に於いて駅使や公用の使者に対し、下付されたもので、駅馬使用の許可証に相当し、それを振り鳴らして駅子・駅馬を徴発するのに用いたものであるが、ここはその古式を想起して洒落た表現を持ち出し、実際の嫁入り道具の簞笥のガッタンゴトンを諧謔しただけのことである。]

 

 然るに八幡の大庄屋方には、何くれとなく、

「今日は曰延びて明日來る筈。」

とやらん云ふ沙汰して、心たるみ氣怠りし所を、俄に此嫁入行列(よめいりぎやうれつ)正(ただ)して急ぎ入る。媒(なかうど)の何某(なにがし)先づ入りて、輿入(こしいれ)の趣(おもむき)を述べ、音物(いんもつ)の品々を飾り立つる。馬次郞方待受け居る者ども各(おのおの)出で、則ち供の者どもを別間へ通し、先づ三里許[やぶちゃん注:ママ。]の道を來(きたれ)る勞(つか)れを直し、衣紋をもつくろはす。其中に灯を點ずる者ども、不圖(ふと)心付きて此人を見るに、上下(かみしも)・袴の出立(いでたち)は人と見えながら、皆顏は黑斑(くろまだら)にして、其人(そのひと)其(それ)人とも見えず。何れを見ても怪しく油ぎり黑みて、目ばかり

「きよろきよろ」

と光りければ、待女郞(まちぢやらう)なども出見て、おきまどはせる白菊の、白きうへには白くすべき今宵なるに、

「此顏つきは何事ぞ。」

と恐る。

 家内の者ども、

「是は怪し。扨は此嫁御は例のお賓頭婁(おびんづる)どのにこそ。扨は我々斯く詰居(つめゐ)ては野狐には欺(あざむか)れしものを。」

と、先づ主人の馬次郞に告げて申しけるは、

「只今の嫁入の供の人々を見るに、上下・袴の出立は人ながら、顏は慥に狐狸の類(たぐひ)にて、例のことと覺えたり。迫付け尾を出し逃げ行くべし。」

とて、

「別間に居並ぶ者どもにぬかり給ふな。」

と云ふ。

 馬次郞打うなづき、驚きを押へて申さるるは、

「されども慥に仲人は相違なし、先づ陰ながら覗くべし。」

とて、一間に居並ぶ者どもを見渡しけるに、何れも服は常ながら、顏は各(おのおの)異類異形(いぎやう)の者なり。

 彼の相模入道の天王寺の曜靈星(いうれぼし)を舞はれし席に似たれば、人々彌々(いよいよ)妖怪とす。

 馬次郞腹を立て、

「是は必ず此(ここ)名高き近邊の『捨輿野(すてよの)の源次郞狐』などが所爲なるベし。汝等誑(たぶら)かさるゝことなかれ。我々も手傳ひて渠(かれ)をからめ取らん。倂(しか)し先づ靑松葉にてふすべ見るべし。」

と下知して、大庭に靑松葉を堆(うづたか)く焚き立て、其烟を別間の方へ煽(あふ)ぎ込み、三桝太夫流の辛き目を見するに、供の者ども大きに困り、貌(かほ)しがめ低臥(うつぶし)になり、あちら向き、各(おのおの)こらへ兼ねて見えけるにぞ。

「扨(さて)氣味よし大(おほい)に弱りたるぞ。袴腰のあたりに氣を付けよ。紐とは見えても尾なるべし。煽げや、煽げや。」

と云ふ所へ、媒の者、立出で、

「是はけしからぬふすべやうかな、先づ煙を外へやり給へ。」

と云ふに、其中に汗の貌(かほ)押ぬぐひたるありしが、是等(これら)常の人とも見えしかば、馬次郞方にも思案を付け、色々評議ありて、

「先づ風呂をたてゝ裸にして見るべし。狐は湯に入(いり)得ぬ物と聞く。試みよ。」

と下知するに、其趣を通じ、

「先づ先づ遠方を大儀なり、飯も出來たれども、先きに風呂より入らるべし。」

と云出だしければ、各(おのおの)煙を遁(のが)るゝを悅び、段々に湯に入りしに、顏の墨落ちて本(もと)の人間となる。昔の實盛は池水にて墨を流し、今は又風呂にて貌の墨を洗ひ流しゝは、天晴(あつぱれ)是も北國の古儀なるらん。

 扨人々出合ひ、愈々、

「尾は、なきか。」

と、衣服を柹の葉とくらべ見て、後大きに笑ひになり、其夜目出度く事濟みけり。

 されども聟殿などは油斷なく、翌日に至る迄嫁御の物云ひを伺ひ、詞のあどなきやうなるも心置きしが、三日めに舅來りてぞ安堵の思(おもひ)をなしたりと聞えし。

 一兩日は狐の沙汰に落ちて、所々より樣子も尋ねに來(きた)る。又音信進物も見合せし人も多かりしとなり。

 是尤もかやうに驚くべき事にあらざりしかども、彼(かの)賓頭婁のことありしより起りしといふ。

 此(この)ビンヅルの事は前年の事なり。

 七尾一本杉町茜屋【今の居は七尾の中小路町にて、小山屋吉兵衞というふ是なり。】と云ふ者の所に、嫁取の事ありしに、翌日に至り嫁御を起せども言語なし。怪みて能く能く見れば、木像の賓頭婁なり。

 是に依りて大いに驚く。

 然るに小島村の妙觀院には、

「其夜、佛間の賓頭婁、紛失せし。」

よしにて、大いに尋ね、漸々(やうやう)に聞合せて是を返す。

「此賓頭婁の貌(かほ)に、白粉(おしろい)ぬりてありし。」

とて、今に其白粉のまゝにて安置なり。

 人々拜みて、「嫁入の像」とて怪談の一ッとす。

 是を嫁御とて守護し來り、飮食を恣(ほしい)まゝにして立去りし供の者は、人にてやありけん、狐狸にてやありけん、其實否知れず。賓頭婁の殘りしより、妖怪の事には決せしとなり。其宴會を顧み思ふに、怪しき事共多し。賓頭婁も女聲にて物宜(もののたま)ひしよし沙汰あり。

 然れば狐怪か、人妖か、混(こん)じて一つの如し。虛ある時は是を實(じつ)にし、實ある時は是を虛にす。妖術修練の狐狸なる哉。

 世にはかゝる座敷の内より不圖見出されて、尾を顯はし逃げ行きしなど、噺(はなし)に多く聞えけるに、此七尾の狐妖形(かた)ちあらはれず。二談共に人か獸か、奇々妙々なり。是又一等を出でたる狐狸の所爲にやあらん。

「思ふに、狐心(こしん)の人世(ひとのよ)には多きものなり。分けて『尾』の字付きたる里、眞(まこと)に恐るべし。」

と云ひしに、答へて云ふ。

「あなかしこ、七尾のみを其所とな思ひ給ひそ。金澤とても『尾山』の別號あり。又『尾』の字なき所にも、狐(きつね)躰(てい)の人は多し。今の世ぞ油斷すべからず。」

と、此所に背の兀(ごつ)たる「合浦」といふ人の示しなり。

[やぶちゃん注:「何くれとなく」何だかんだ言っているうちに、の意か。思うに――この日がある種の占いではよくない日であるから、或いは――というようなことを言った者があったのかも知れぬ。そうでなければ、「今日は曰延びて明日來る」などということを言う奴はあるまいよ。

「音物(いんもつ)」贈答品。進物。

「待女郞」民俗社会で、婚礼の際に戸口で花嫁の到着を待ち受け、家内に導いて付き添って世話をする女。「待女房」「待上﨟」などとも呼ぶ。

「お賓頭婁(おびんづる)」漢字表記は「御賓頭盧」が普通。釈迦の弟子で、十六羅漢の一人。サンスクリット名「ピンドーラ・バーラドバージャ」の漢音写「賓頭盧頗羅堕闍(びんずるはらだじゃ)」の略。優陀延王(うだえんおう:生没年不詳)の大臣の子として生まれた。出家して、獅子吼(ししく)第一と称されたほどに人々を教化(きょうげ)して説得する能力が抜群であったとする。王は彼の法を聞いて深く仏教に帰依したともされる。後世、仏の教えを受けて末世の人に福を授ける役を担った人として受けとられ、法会には食事などを供養する風習が生じ、中国では彼の像をつくって食堂(じきどう)に安置した。一方、本邦では、専ら本堂の外陣(げじん)に彼の像を安置し、信者が自身の病んだ箇所と同じ部分を撫ぜると平癒するという「撫で仏(ぼとけ)」の風習が俗信として強く広がった。

「相模入道の天王寺の曜靈星(いうれぼし)を舞はれし席」「相模入道」鎌倉幕府の得宗最後の執権北条高時。「曜靈星」は「妖霊星」で彗星のこと。「太平記」巻第五に放埓する高時が芸能者を呼び寄せて遊ぶうち、「天王寺のや、ようれほしを見ばや」と囃子(はやし)すのを聴くも、彼らが消え失せる怪異が語られる。一方、それを聴いた京の藤原南家の儒者藤原仲範がこの星こそ亡国の予兆であると言ったことが記される。それは「天王寺」が聖徳太子の建立であり、まさに本邦で最初に仏法が根づいた霊地であって、この謎めいたフレーズこそが仏法による予言、とりもなおさず、鎌倉幕府滅亡のそれを示すと言う展開となっているのである。

「捨輿野の源次郞狐」不詳。「捨輿野」は地名と思われるが、判らぬ。

「三桝太夫」伝承と歌舞伎の外題や鷗外の小説「山椒大夫」で知られる「さんせう太夫」のこと。

「實盛」言わずもがな、斎藤実盛。以下が判らぬという凡夫は、私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 66 小松 あなむざんやな甲の下のきりぎりす』を見られるがよい!

「其夜目出度く事濟みけり」なのに、「されども聟殿などは油斷なく」となら、初夜はなかったと読むべきであろう。

「あどなき」子供っぽいような。あどけない感じに。

「心置きしが」人間ではないのではないかという疑義を持っていたが。

「狐の沙汰に落ちて」狐が化けて嫁入りしたという噂が瞬く間に広がって。

「音信」祝いの伺い。

「七尾一本杉町」七尾市一本杉町

「中小路町」不詳。

「小島村の妙觀院」七尾市小島町にある小嶋山妙観院。但し、現在、その賓頭盧像があるかどうかは不詳。残念乍ら、なさそう……(涙)

「今に其白粉のまゝにて安置なり」いいね♡

『人々拜みて、「嫁入の像」とて怪談の一ッとす』いいね♡

「一等を出でたる」ただの妖狐を抜きん出た。

「金澤とても『尾山』の別號あり」「尾山」とは「二つの川に挟まれた台地の先端の山の尾」という意で、金沢は実際に古くは「尾山」と呼ばれており、金沢城の別名は尾山城であった。

「兀たる」とび抜けて背の高い。頭が切れることを匂わせてもいよう。

『「合浦」といふ人』不詳。この名は如何にも俳号っぽく、麦水の俳人仲間であろう。]

今日の「心」に例の忘れ難い数珠のシークエンスが出る――

 最初の夏休みにKは國へ歸りませんでした。駒込のある寺の一間を借りて勉强するのだと云つてゐました。私が歸つて來たのは九月上旬でしたが、彼は果して大觀音(おほかんのん)の傍(そば)の汚ない寺の中に閉ぢ籠つてゐました。彼の座敷は本堂(ほんたう)のすぐ傍(そば)の狹い室でしたが、彼は其處で自分の思ふ通りに勉强が出來たのを喜こんでゐるらしく見えました。私は其時彼の生活の段々坊さんらしくなつて行くのを認めたやうに思ひます。彼は手頸に珠數(じゆず)を懸けてゐました。私がそれは何のためだと尋ねたら、彼は親指で一つ二つと勘定する眞似をして見せました。彼は斯うして日に何遍も珠數の輪を勘定するらしかつたのです。たゞし其意味は私には解りません。圓い輪になつてゐるものを一粒づゝ數へて行けば、何處迄數へて行つても終局はありません。Kはどんな所で何んな心持がして、爪繰(つまぐ)る手を留(と)めたでせう。詰らない事ですが、私はよくそれを思ふのです。

『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月6日(月曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第七十四回より)

   *

私は再三述べているが、この先生の述懐は遺書の中でも超弩級に重いものである。ここを深く鑿(うが)つことなしに「こゝろ」の核心には到底達し得ないと言えるのである――

2020/07/05

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 去来 二

 

         

 

 元禄元年、其角が二度目に京に遊んで翌年まで滞在した時、去来は無論これに逢っている。去来の句が其角の撰集に見えるのは貞享四年の『続虚栗』からであるが、その当時已に其角と多少の交渉があったか、単に京洛の一作者としてその句を収めたものか、それはわからぬ。貞享元年に其角が京へ上って、京の俳人と唱和した『蠧集(しみしゅう)』の中には、去來の名はまだ見えぬから、俳人としての去来はその後に及んで形を成したものに相違ない。

[やぶちゃん注:「元禄元年」一六八八年。

「貞享四年」一六八七年。

「続虚栗」其角編。貞享四(一六八七)年。

「貞享元年」一六八四年。

「蠧集(しみしゅう)」当時、二十四歳の其角が上京して春澄らの京都の俳人と座を同じくして同年に京都で板行した其角編の俳諧撰集。書名は同集に載る世吉(よよし:四十四句形式の連句)の「句を干(ほし)て世間の蠧(しみ)を拂ひけり」という友静の発句に由る。]

 元禄三年に其角が上梓した『新三百韻』及『いつを昔』は、二度目の上京の記念と見るべきもので、『新三百韻』には去来の名は見当らぬが、『いつを昔』の中にはやや注目すべきものがある。

 朝桜よし野深しや夕ざくら   去来

   ひろさは

 池のつら雲の氷るやあたご山  同

[やぶちゃん注:「ひろさは」嵯峨野の「廣澤の池」。「あたご山」愛宕山(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。広沢の池の北西六キロメートル半ほどの位置にある。「いつを昔」に元禄元年『十月廿日 嵯峨遊吟』(其角・凡兆と同行)とする内の一句。]

   臨川寺

 凩の地迄おとさぬしぐれかな  同

[やぶちゃん注:「臨川寺」嵯峨野渡月橋の左岸東北直近にある寺。これも前の句と同じ吟行中の一句であるが、後の「去来抄」に載るものは、

 凩の地にもおとさぬしぐれ哉

と改作している。一九八九年岩波文庫刊の堀切実氏の編注になる「蕉門名家句選(下)」の評釈によれば、「葛の松原」支考著・不玉編・元禄四年刊)に『よれば「されど、迄といへる文字は未練の叮嚀なれば、ただ地にも落さぬと有るべき」だという芭蕉の教えによって改案したものであり、『去来抄』にも、荷兮の「凩に二日の月のふきちるか」の句との比較の上で、「汝が句は何を以て作したるとも見えず、全体の好句也。たゞ地迄とかぎりたる、迄の字いやしとて直したまへり」と、同じく芭蕉の斧正があった旨を記している。「地迄」では、説明に堕し、天地の空間のひろがりが感じられないのである』とある。]

   大井里

 冬枯の木間のぞかん売屋敷   同

[やぶちゃん注:「大井里」は「おほゐのさと」。嵯峨の奥、保津川沿い。現在の京都府亀岡市のこの付近。「木間」は「このま」。「いつを昔」に前の「池のつら雲の氷るやあたご山」の句と並んで載るので、やはり同じ吟行の作と思われる。]

   続みなしぐりの撰びにもれ侍りしに
   首尾年ありて此集の人足にくはゝり
   侍る

 鴨啼や弓矢を捨て十余年    同

[やぶちゃん注:「此集」は「いつを昔」のことであるが、この前書は少し判り難い。堀切氏の前掲書の本句の注に、『この句は『いつを昔』に載る去来・嵐雪・其角の三吟歌仙の発句であるが、この句を詠んだ貞享三年冬当時は、この歌仙が未完成だったため、『続虚栗』には間に合わず、その後年を経て首尾したので、『いつを昔』に加えられることになったとの意である』とある。上五は「かもなくや」。「捨て」は「すてて」。堀切氏の評釈によれば、『鴨の鴫き声を聞いて、ふと己れの半生を述懐した句である。弓矢の修業の道を捨てて十余年――もはやすっかりに隠士の境涯にある自分は、いま鴨の淋しげな鳴き声を耳にすると、過ぎし曰のことをしみじみと思い返してしまうことだというのである。かつて剣術・柔術・馬術・兵法などあらゆる武芸の道を究めた去来も、仕官お志を断ってはや十余年、この年、貞享三年にはすでに三十六歳を迎えていたのであった。若き日の己の姿と現在の境涯とを比べて、深い感慨を催しているのである』と、句よりも素敵な解を記しておられる(私は本句に惹かれない)。さらに、其角編とされる「俳諧錦繡緞(きんしゅうだん)」(元禄一〇(一六九七)年刊。但し、近年疑義有り)には『「番匠(ばんしょう)の入口に『俳諧に力なき輩(ともがら)、かたく入(いる)べからず』と定めたるも」と前書。『句集』は下五「十五年」とする』とある。]

 弓になる笋は別のそだちかな  同

[やぶちゃん注:「笋」は「たけのこ」。]

   鉢たゝき聞にとて翁のやどり申されしに
   はちたきまいらざりければ

 箒こせまねても見せん鉢扣   同

[やぶちゃん注:「箒」は「はうき」。「鉢扣」は「はちたたき」。空也念仏(平安中期に空也が始めたと伝えられる念仏で、念仏の功徳により極楽往生が決定(けつじょう)した喜びを表現して瓢簞・鉢・鉦 (かね) などを叩きながら、節をつけて念仏や和讃を唱えて踊り歩くもの。「空也踊り」「踊り念仏」とも称した)を行いながら勧進することであるが、江戸時代には門付芸ともなった。特に京都の空也堂の行者が陰暦十一月十三日の空也忌から大晦日までの四十八日間に亙って鉦・瓢簞を叩きながら行うものが有名であった。堀切氏前掲書に、『元禄二年の師走二十四日、郷里伊賀から京へ出て、嵯峨の落柿舎(もしくは中長者町堀川の去来宅)に泊まった芭蕉は、鉢叩きがやってくるのを夜通し待ち詫びたが、ついに廻ってこなかった。そこで去来は、待ち詫びた師翁へのせめてもの慰めにしたいので、誰かはやく箒をよこしなさい――わたしが箒を手に持って鉢叩きの恰好をまねてみせましょう、と即興的に吟じたのである。もちろん、実際に鉢叩きの姿をしてみせたというのではなく、この句を献ずることで、慰めの志を示して、自ら興じたものとみてよかろう』とある。実は去来にはこのエピソードを素材にした俳文「鉢扣の辭」がある。宵曲は面倒として後で抄録するが、実際には短いし、去来嫌いの私にして、この一篇は非常に好きな小品なので、以下にフライングして電子化しておく。底本は昭和八(一九三三)年大倉広文堂刊藤井乙男校註「江戸文學新選」を国立国会図書館デジタルコレクションで視認した。読みは私が歴史的仮名遣で附した。一部に読み易く鍵括弧を附した。ロケーションは嵯峨の落柿舎である。

   *

   ○鉢扣の辭

 師走も二十四日、冬もかぎりなれば、鉢たゝき聞(きか)むと例の翁わたりましける。こよひは風はげしく雨そぼふりて、とみに來(きた)らねば、いかに待ち侘び給ひなむといぶかりおもひて

  箒こせ眞似ても見せむ

と灰吹(はひふき)の竹うちならしける。其聲妙(たへ)也。「火宅(くわたく)を出(いで)よ」と仄めしぬれど、猶あはれなるふしぶしの似るべくもあらず。かれが修行は瓢簞をならし、鉦打たゝき、二人三人つれてもうたひ、かけ合(あひ)ても諷(うた)ふ。其の唱歌は、空也の作也。かくて寒の中と、春秋の彼岸は、晝夜をわかず都の外(そと)七所(しちしよ)の三昧(さんまい)をめぐりぬ。無緣の手向(たむけ)のたふとければ、 かの湖春も、「わが家はづかし」とはいへり。常は杖のさきに茶筌(ちやせん)をさし、大路小路に出て、商ふ業(わざ)かはりぬれど、さま同じければ、「たゝかぬ時も鉢扣」とぞ曲翠は申されける。あるひはさかやきをすり、或は四方(しはう)にからげ、法師ならぬすがたの衣(ころも)引(ひき)かけたれど、それも墨染にはあらず、おほくは、萌黃(もえぎ)に鷹の羽(は)打ちがへたる紋をつけて着たれば、「月雪(つきゆき)に名は甚之亟(じんのじよう)」と越人も興じ侍る。されば其角法師が去年(こぞ)の冬、「ことごとく寢覺(ねざめ)はやらじ」と吟じけるも、ひとり聞くにやたへざりけむ。「うちとけて寢たらむは、かへり聞(きか)むも口をしかるべし。明(あか)してこそ」との給ひける。橫雲の影より、からびたる聲して出來(いできた)れり。「げに老ぼれ足よはきものは、友どちにもあゆみおくれて、獨り今にやなりぬらん」と、翁の

  長嘯(ちやうせう)の墓もめぐるか鉢たゝき

と聞え給ひけるは此のあかつきの事にてぞ侍りける。

   *

少し語釈しておく。

・「師走も二十四日」元禄二年十二月二十四日(グレゴリオ暦一六九〇年二月三日)。

・「冬もかぎりなれば」元禄二年は閏一月があったために年内立春となり、この日に寒が明けたのである。

・「とみに」すぐには。

・「灰吹」煙草の灰を入れる竹筒。

・「火宅を出よ」これは鉢叩きがよく詠ずる歌の知られた一節。

・「七所の三昧」当時の洛外七ヶ所の墓地。鳥部野(鳥辺山)・阿弥陀ヶ峰・(新)黒谷・船岡山(蓮台野)・西院(さいいん)・狐塚(栗栖野(くりすの))・金光寺(こんこうじ)。

・「湖春」は北村季吟の嫡男。本名は李重。その一句は「米やらぬわが家はづかし鉢敲き」である。

・「茶筌」鉢叩きの僧はこの時期以外は、茶筌を作って街路で売って身銭としていた。

・「曲翠」は大津膳所藩重臣菅沼外記定常(万治二(一六五九)年~享保二(一七一七)年)。近江蕉門の重鎮。「曲水」とも記す。晩年、不正を働いた家老曽我権太夫を槍で一突きにして殺し、自らも切腹した。墓所は義仲寺にある。芭蕉の「幻住庵の記」の幻住庵は曲水の叔父菅沼修理定知の草庵の号である。彼は膳所に於ける芭蕉の経済的支援をもした。高橋喜兵衛(怒誰)は弟。ここでのその一句は「おもしろやたゝかぬ時もはちたゝき」。

・「四方」総髪のこと。

・越人の一句は「鉢扣月雪に名は甚之亟」。修行者であるのに俗人名を名乗っていることを、少し洒落た衣の文様をも含めて、ちゃかして可笑しがったもの。

・其角の一句は「ことごとく寢覺めはやらじ鉢たゝき」。しみじみとした哀感を誘う鉢叩きではあるが、世俗の誰も彼もがそれに心打たれて目を覚ます、というわけでは、ないぜ、という捻りを入れた千両役者其角らしい句であり、去来は其角の字背の思いに徹して添えているのである。

・「橫雲」明け方の山の端にかかる雲。

・「長嘯」木下勝俊(永禄一二(一五六九)年~慶安二(一六四九)年)の雅号「長嘯子」の略。木下家定の長男。豊臣秀吉に仕え、文禄三(一五九四)年に若狭小浜城主、慶長一三(一六〇八)年には備中足守(あしもり)藩主木下家第一次第二代となったが、翌年、徳川家康の怒りに触れて所領没収となり、京都東山に隠棲した。和歌を細川幽斎に学び、清新自由な歌風で知られた。歌集に「挙白集」がある。長嘯の墓は京都東山高台寺にあり、長嘯の一首にも、

 鉢叩き曉方の一聲は冬の夜さへも鳴く郭公

がある。]

 そのふるき瓢簞見せよ鉢たゝき 同

 「ひろさは」「臨川寺」「大井里」の三つは、いずれも「十月廿日嵯峨遊吟」の作である。この時の同行者は其角、加生(凡兆)の両人であったらしく、各その句をとどめている。其角は元禄二年には江戸に帰っているから、この十月二十日は元年でなければならぬ。去来と凡兆とが当時已に相識であったことは、これによって知ることが出来る。

 「鴨啼や」の句は去来自身の述懐である。『続虚栗』の選に洩れたとあるから、多分貞享年代の作であろう。「十余年」という言葉も漠然たるを免れぬが、姑(しばら)く貞享四年から逆算するとして、去来が弓矢を捨てたのは延宝初年の勘定になるらしい。二十四、五歳と見ていいわけである。

 「弓になる」の句は「舎利講拝み侍りしに十如是(じゅうにょぜ)の心をおもひよせてこの心に叶ふべきを拾ひ出侍る」という十句の中の一で、頭書(かしらがき)に「因」とある。『曠野』に見えた「笹の時よりしるし弓の竹」と殆ど同じ意であるが、句としては数歩を譲らなければならぬであろう。『去来発句集』には「笋」の方のみを採り、「武士の子の生長をいはうて」という前書がついている。これは前書のあった方がよさそうに思う。「弓になる」は「笹」の初案だろうという説もあるが、俄に先後を定めることは困難である。同案として後者を優れりとする外はあるまい。

[やぶちゃん注:「舎利講」仏舎利を供養する法会。本邦では鑑真の渡来以来、唐招提寺を始めとして東寺・延暦寺・法隆寺・薬師寺などで行なわれるに至った。

「十如是」は「法華経」の「方便品」に説かれた因果律のことで、「十如」「諸法実相」とも称する。ウィキの「十如是」によれば、これは鳩摩羅什(くらまじゅう)が訳出した「法華経」に『のみ見られるもので、他の訳や梵文(サンスクリット語)原典には見当たらない』とある。また、『後に天台宗の教学の究極とまでいわれる「一念三千」を形成する発端とされており、重要な教理である』。十如是とは、相(そう:形相)・性(しょう:本質)・体(たい:形体)・力(りき:能力)・作(さ:作用)・因(直接的な原因)・縁(条件・間接的な関係)・果(因に対する結果)・報(報い・縁に対する間接的な結果)・本末究竟等相(ほんまつくきょうとう:以上の「相」から「報」に至るまでの九種の事柄が究極的に無差別平等であること)を指し、『諸法の実相、つまり存在の真実の在り方が、この』十『の事柄において知られる事をいう。わかりやすくいえば、この世のすべてのものが具わっている』十『の種類の存在の仕方、方法をいう』とある。]

 鉢敲の二句は元禄二年の作であろう。去来の書いた「鉢扣辞」に「されば其角法師が去来の冬。ことごとくね覚(ざめ)はやらじと吟じけるも。ひとり聞にやたへざりげむ」とあるのが、嵯峨遊吟のあった元禄元年の冬を指すものらしいからである。「鉢扣辞」はこの句を解する上からいっても、鉢敲の風俗を知る上からいっても、看過すべからざる文献であるが、全文を引くのは面倒だから、要点だけを記すと、十二月二十四日に例の翁(芭蕉)が去来のところへやって来た。

 「冬もかぎりなれば鉢たゝき聞む」というのだけれども、その晩は生憎「風はげしく、雨そぼふりて」というわけで、なかなか鉢敲が来ない。「いかに待詫び給ひなむといぶかりおもひて」詠んだのが「箒こせ真似ても見せむ」の句なのである。折角鉢敲を聞きに来た芭蕉のために、なかなか本物が登場しないのをもどかしく思って、箒を持って来い、鉢敲の真似をして御覧に入れよう、といったのは、如何にも去来らしい面目を現している。

[やぶちゃん注:以下、引用は底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。読点であるべきところが句点なのはママ。]

 

打とけて寝たらむは。かへり聞むも口おし[やぶちゃん注:ママ。]かるべし。明(あか)して社(こそ)との給ひける。横雲の影より。からびたる声して出来(いできた)れり。げに老ぼれ足よはきものは。友どちにもあゆみおくれて。ひとり今にはなりぬらんと。翁の

長嘯の墓もめぐるか鉢たゝきと。聞え給ひけるは。此のあかつきの事にてぞ侍りける。

 

 「鉢扣辞」の最後はこの数行を以て結んである。この一句を得て芭蕉も恐らく満足し、気を揉んだ去来も安堵したのであろう。この鉢敲の句は、句の価値以外に師弟の情の流露するものがあって面白い。

 当時芭蕉は『奥の細道』の大旅行を了(お)え、一たび郷里に帰って後、京畿の地に悠遊しつつあった。芭蕉、去来の交渉の文字に現れたものとしては、これが最初のようであるが、已によほど親しかったらしい様子は、この鉢敲の一条によっても十分に想像される。

 次いで其角の著した『華摘』にも、去来の句は、

 雞のおかしがるらん雉のひな    去来

[やぶちゃん注:「雞」は「にはとり」。]

 一昨はあの山越ツ花盛り      同

[やぶちゃん注:「をととひはあのやまこえつはなざかり」。堀切氏前掲書に、『旅の途上、ふと振り返ってみると、遥か後方の山なみには爛漫たる桜の花が雲のように白くたなびいているのが眺望できる。一昨日あの山を越えたときはまだそれほどの開花ではなかったのに、わずか二日の間にもうあれほどの花盛りになったのだなあ、と感慨深く眺め入っているのである。恐らく、吉野あたりを旅した折の吟であろう。明るい花の風景を望んで、浪漫的な世界を歌い上 げているのであるが、また一脈の旅愁も感じられる句である。なによりも、軽くさらっとした詠みぶりであるのがよい』と褒められ、以下(踊り字「〱」を「々」に代えた)、『『旅寝論』に、芭蕉が「此句今ハとる人も有(ある)まじ。猶(なお)二、三年はやかるべし」と評したこと、また「其後よしの行脚の帰(かえり)に立(たち)より給ひて、『日々汝があの山越つ花盛の句を吟行し侍りぬ』と語り給ふ」たことが伝えられる』。『なお、一句の成立は、先の『旅寝論』にもみえる貞享五年三月下旬の芭蕉の吉野行脚のときには、すでに詠まれていたことなどから推して、貞享五年春または同四年春と考えられる』と添えておられる。]

   甲陽軍鑑をよむ

 あらそばの信濃の武士はまぶしかな 同

[やぶちゃん注:「甲陽軍鑑」江戸初期に集成された軍学書。全二十巻。甲斐の武田晴信・勝頼二代の事績によって、甲州流軍法・武士道を説く。異本が多く、作者は諸説あるが、武田家老臣高坂弾正昌信の遺記をもとにして春日惣二郎・小幡(おばた)下野が書き継ぎ、小幡景憲が集大成したと考えられている。

「あらそば」は「荒岨」(切り立った崖(のような荒武者))に「荒蕎麥」を掛けて、「まぶし」も、まずは軍記のイメージから「射翳(まぶし)」(身を隠して獲物や相手が来るのを待ち伏せる所から転じて「待ち伏せすること」や、そうした「伏兵」を指す)がメインで、次に彼らのきっとした「目伏し」(目つき・まなざしの意)に、「眩し」もテンコ盛りに塗(まぶ)し加え、最後に次いでに蕎麦粉を「塗す」をも掛けてあるのかも知れない。]

等があり、俳文「鼠ノ賦(ふ)」一篇も収められているが、去来として特にいうに足るほどのものではない。去来最初の撰集たる『猿蓑』は、『いつを昔』や『華摘』に一年おくれて、元禄四年に上梓されたのであった。

[やぶちゃん注:「鼠ノ賦」昭和一六(一九四一)年芸艸堂刊金井紫雲編「芸術資料」のこちらで全文(と思われる)が読める。博物学的には面白いが、俳文としてはどうということはない。]

 俳壇における『猿蓑』の位置については今改めて説く必要はない。去来、凡兆が如何にこの書の撰に力を入れ、一句の取捨をも忽(ゆるがせ)しなかったかは、何よりもこの書の内容がこれを証している。

 他の手に成る『いつを昔』の巻頭にさえ

      定

   一 俳諧に力なき輩
     此集のうちへかたく
     入べからざるもの也
      月 日        去来校

という高札を掲げた去来が、自らの撰集に臨んで如何なる態度を持するかは、固より想像に難くない。

 いそがしや沖の時雨の真帆片帆  去 来

[やぶちゃん注:堀切氏の前掲書に、『大津あたりから琵琶湖上を遠望したものであろう』とある。]

 尾頭のこゝろもとなき海鼠かな  同

[やぶちゃん注:「尾頭」は「をかしら」。海鼠の句としても全く以ってつまらぬ。]

 あら磯やはしり馴たる友鵆    同

[やぶちゃん注:「馴たる」は「なれたる」。座五は「ともちどり」。]

 ひつかけて行や雪吹のてしまござ 同

[やぶちゃん注:「行や」は「ゆくや」。「てしまござ」で「豐島茣蓙」と書く。摂津国豊島(てしま)郡に産した藺 () 茣蓙。酒樽を包んだり、雨具に用いたりした。狭く粗い粗末なものであるが、旅人などが携帯するには手軽であった「てしまむしろ」「としまむしろ」とも呼ぶ。]

 うす壁の一重は何かとしの宿   同

[やぶちゃん注:この薄い茅屋の煤けた壁の向こうにある新しい年とは何だ? という観想的にして人生的な疑義であるが、どうもちっとも迫ってこない。あなたには合わないよ、こういうの。]

 くれて行年のまうけや伊勢くまの 同

 心なき代官殿やほとゝぎす    同

[やぶちゃん注:慣れない社会諷喩詩などに手を出すものではないと思うがね、去来さんよ。]

 たけの子や畠鄰に悪太郎     同

[やぶちゃん注:「悪太郎」悪戯小僧のこと。]

   大和紀伊のさかひはてなし坂にて
   往来の巡礼をとゞめて奉加すゝめ
   ければ料足つゝみたる紙のはしに
   書つけ侍る

 つゞくりもはてなし坂や五月雨  同

[やぶちゃん注:堀切氏の前掲書を引く。「はてなし坂」は『大和国(奈良県)紀伊国(和歌山県)の境、大和吉野郡南十津川村にある果無山に通ずる急坂が「はてなし坂」で、ここから熊野本宮まで三里という』。ここ(グーグル・マップ・データ)。『元禄二年夏、田上尼(たがみのあま)と共に熊野の巡礼に出たときの、はてなし坂での即興吟である。ここ「はてなし坂」にさしかかったところ、ちょうど道普請の最中であったが、折からの五月雨に道は泥濘そのもの、この様子では、まさに「はてなし坂」の地名のとおり、普請は果てしもなく、いつまでかかるかわからないように見受けられることだ、と詠んだのである。難儀をきわめる道普請に携わる人たちへの同情と感謝の気持を、地名にひっかけて巧みに示したのであろう。一説(森田蘭『猿蓑発句鑑賞』)には、「はてなし」を前書に出る「奉加」にもかかるものとし、巡礼の奉加もまたはてしなくまきあげられることだ、という諷刺をこめた笑いの句と解している』とある。]

 百姓も麦に取つく茶摘哥     同

   膳所曲水の楼にて

 蛍火や吹とばされて鳰のやみ   同

[やぶちゃん注:「鳰のやみ」琵琶湖の闇の意。「曲水」曲翠に同じ。元禄三(一六九〇)年五月の吟。]

 夕ぐれや屼並びたる雲のみね   同

[やぶちゃん注:「屼」は「はげ」。]

 はつ露や猪の臥芝の起あがり   同

[やぶちゃん注:「臥」は「ふす」。]

 みやこにも住まじりけり相撲取  同

   つくしよりかへりけるにひみといふ
   山にて卯七に別て

 君がてもまじる成べしはな薄   同

[やぶちゃん注:堀切氏前掲書に、『元禄二年中秋、郷里長崎から京へ戻るに際し、日見峠』(この付近。グーグル・マップ・データ)『まで見送ってくれた卯七』(『去来の血縁に当たる蕉門俳人。去来の甥とも義理の従弟ともいう)『と別れたときの吟である。秋も深まって、あたり一面には花薄が淋しく扉いている。もう君の姿を見ることはできないが、自分を招き返すかのように扉く、あの薄穂の群の中には、さだめし別れを惜しんで打ち振る君の手も交じっているにちがいない、というのである。まず「君」の姿が消え、次いで打ち振る手が消え、いまは茫漠とした薄原だけしか視界に入ってこないのであろう。巧みな表現の中に、熱い惜別の惜が伝わってくる離別吟である』とある。この句は、悪くない。]

 月見せん伏見の城の捨郭     去 来

[やぶちゃん注:座五は「すてぐるわ」。これは伏見城跡の本城の外に築かれた堀を廻らした郭跡である。]

 一戸や衣もやぶるゝこまむかへ  同

[やぶちゃん注:「一戸」は「いちのへ」で青森の一戸のこと。そこから遠く馬(「駒迎へ」とあるから献上馬である)を引いてきた人の姿を詠む。]

   自題落柿舎

 柿ぬしや梢はちかきあらし山   同

[やぶちゃん注:前書は「自(みづか)ら落柿舎に題す」。堀切氏前掲書の評釈に、『ある日、嵯峨野の別宅にやってきた柿商人に、庭の柿の実を売る約束をし、金まで受けとったが、その夜の大風でほとんど実が落ちてしまい、翌日柿商人に金をとり戻されてしまった――そこで以後、この別宅を「落柿舎」と名付けることにした、という意を含んだ前書である。毎年実が生(な)ることは生っても、嵐山からの風が吹けば、一夜のうちに落ちてしまう落柿舎の柿――それでもとにかく自分はその柿の持ち主であることに変わりはない――そんなように自得して柿の梢を仰ぎ眺めると、大きく延びた梢の先には、近々と嵐山が追って見える、この眺望だけで落柿舎は十分ではないか、といった句意であろう。「梢はちかき」で、すぐ間近にそびえるような嵐山の感じが巧みに描写されているが、その「嵐山」には、一夜で柿の実を吹き落としてしまうような嵐吹く山だから、といったことばの遊びも含まれているのであろう。実がすっかり落ちたため、梢の間の眺望が利くようになって、嵐山が間近に感じられるのだというところに、悠々とした自足の心境がうかがわれ、そこに俳諧らしいおかしみもある』とある。宵曲も語るエピソードをしっかり踏まえた上で鑑賞すると、こうした煽りの優れた映像が見えてくるのである。]

   上﨟の山荘にましましけるに
   候(こう)し奉りて

 梅が香や山路猟入ル犬のまね   同

[やぶちゃん注:「猟入ル」は「かりいる」。堀切氏前掲書の評釈に、『さる高貴な方が山荘に居られるところへ伺候し奉ったとき詠んだ挨拶の句である。どこからか漂ってくる梅の香をたよりに山路を辿ってきたのであるが、あたかもそれは獲物の臭いを追って山中に分け入ってゆく猟犬のようでもあることだ、というのである。山荘の在り処が、それほど山深いところであったことに軽く興じているのであろう。「梅が香」が上前その人の気高さを暗示していることはいうまでもない。なお、自らの行動を犬にたとえたのは、単なる卑下の意であるのか、それとも森川蘭氏が説くように、桃源境の故事をふまえ、そのユートピア幻想のシンボルとして出したものなのか、判然としない』とある。また、『「犬のまね」は、いかに身分制度の厳しい時代とはいえ、あまりに卑屈な言い方であることに疑問が出されている。森田蘭『猿蓑発句鑑賞』は、これを『和漢朗詠渠』巻下「仙家」に出る「奇火花に吠(ほ)ゆ 声紅桃の浦に流る」や陶淵明の名高い「桃花源ノ記」(『陶淵明渠』)中の「雞犬相聞こゆ」、あるいは同じく陶淵明の「園田の居に帰る(其一)(『古文真宝前渠』『陶淵明集』)にみえる「狗(いぬ)は深巷の中(うち)に吠え、鶏は桑樹の巓(いただき)に鴫く」なとがら着想されたもので、そこに桃源境的ユートピアの幻想を描くためのものであったとしている」とあるが、私は「犬のまね」の響きには凡そそのような幻想の透明感が全然感じられない。]

 ひとり寝も能宿とらん初子日   同

[やぶちゃん注:「能宿」は「よきやど」、「初子日」は「はつねのび」。堀切氏前掲書の評釈に、『旅中に新年の子の目を迎えることになった。今日は、本来なら共寝をする日だが、自分は「ひとり寝」をしなければならたい。だから、せめてきれいな宿をとって、ゆっくり寝ることにしよう、洒脱に興じたのである。初子の日を祝っての吟である』とされ、「初子日」については、『正月初めの子の日に、野外に出て小松を引いたり、若菜を摘んだりすること』を指し、『新年(春)の季題。「俳諧七部集大鏡」に『民家宜忌録』を引いて「正月は独寝をいむ月也。(中略)さればそのうへ初子の日とあれば、よき宿とらんと見へるならむ」と説き、『山の井』にも「子の日の遊びとて、いにしへ人々野辺に出で小松を引き、われ人ともに祝ひはべりしこととぞ。(中略)俳諧体に男は女松に腰をすり、女は松ふぐりに心引くなど、言ひなし侍る」とある。「初子日」は「初寝日」に通ずるからか』と目から鱗の解説をして下さっている。]

 鉢たゝきこぬ夜となれば朧なり  同

[やぶちゃん注:堀切氏は前掲書で『元禄三年春の吟か』とされる。]

 うき友にかまれてねこの空ながめ 同

[やぶちゃん注:堀切氏前掲書の評釈に、『恋の相手からつれなくされた上に、手など咬まれで、しょんぼり引き下がった牡猫が、ぼんやりと放心した貌つきで空を眺めている風情である。発情期に屋根の上などによくみかける光景であろう。恋に敗れた猫の、滑稽にして、しかも哀れなさまを、「うき友」「空ながめ」といったことばを用いて人間臭くとらえている』とある。この句は映像が浮かぶ佳句である。]

 振舞や下座になほる去年の雛   同

[やぶちゃん注:「ふるまひやしもざになほるこぞのひな」。堀切氏前掲書の評釈に、『桃の節句を迎えて、雛祭りの壇には人形や調度が並べられている。よく見ると、去年の古びた雛は、上座を新しい雛に譲って、つつましく下座の方に控えている――そうした古雛の身の処し方は、あたかも人の世の栄枯盛衰のさまを象徴しているかのようだ、というのである。雛を擬人化してとらえた観相の句である』とある。]

 知人にあはじあはじと花見かな  同

[やぶちゃん注:「知人」「しりびと」。]

 鳶の羽も刷ぬはつしぐれ     同

[やぶちゃん注:「羽」は「は」、「刷ぬ」は「かいつくろひぬ」。無論、ここは雨に降られて、自然、掻い繕ったように見えているのである。]

 雞もばらばら時か水雞なく    同

[やぶちゃん注:「雞」は「にはとり」、「時」は「どき」であろう。ニワトリが一斉にではなく、ばらばらに鶏鳴することを言う。「水雞」は「くひな」。鳥綱ツル目クイナ科クイナ属クイナ亜種クイナ Rallus aquaticus indicus。全長二十三~三十一センチメートルで、翼開長は三十八~四十五センチメートル。体重百~二百グラム。上面の羽衣は褐色や暗黄褐色で、羽軸に沿って黒い斑紋が入り、縦縞状に見える。顔から胸部にかけての羽衣は青灰色で、体側面や腹部の羽衣、尾羽基部の下面を被う羽毛は黒く、白い縞模様が入る。湿原・湖沼・水辺の竹藪・水田などに棲息するが、半夜行性であり、昼間は茂みの中で休んでいるから、その景であろう。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 水雞 (クイナ・ヒクイナ)」を参照されたい。なお、堀切氏前掲書によれば、近江幻住庵での明け方の吟とする。]

 凡兆の四十四句に比べれば及ばざること遠いが、『猿蓑』集中における有力なる作家というを憚らぬ。去来の句の一大特長たる気稟(きひん)の高さは、その第一歩たる『続虚栗』において十分に発揮されており、『曠野』において殆ど完成されたかの観がある。『猿蓑』にある去来の句には、更に何者かを加えたところがあるかも知れぬが、「あら磯や」の句、「はつ露や」の句、「月見せん」の句、「鳶の羽も」の句等の緊密な高い調子は、『曠野』にあった「秋風」の句、「湖の水まさりけり」の句の系統に属するもので、その間に著しい軒輊(けんち)を認めることは出来ない。凡兆の句が『猿蓑』に至ってはじめて豁然たる新天地を打開したような消息は、去来には見当らぬように思う。『猿蓑』における去来の作品が比較的多いのは、撰者の句を多く集に入れるという古例に則ったためもあるが、当時芭蕉の鉗鎚(けんつい)を受くる機会の多かった点も考慮すべきであろう。元禄三年は芭蕉が幻住庵に籠った年で、その他の月日も多くは近江と京とにおいて過された。京摂近江の俳人がしばしば幻住庵を訪れたらしいことは、『猿蓑』の「几右日記」にも見えている。「雛もばらばら時か」の一句は「几右(きゆう)日記」中のものである。

[やぶちゃん注:「軒輊」「軒」は「車の前が高い」こと、「輊」は「車の前が低い」ことを意味し、そこから「上がり下がり・高低」、転じて「優劣・軽重・大小」などの差があることを言う。

「鉗鎚」「鉗」は「金(かな)鋏み」、「鎚」は「金槌(かなづち)」の意で、特に禅宗にあって師僧が弟子を厳格に鍛え、教え導くことを譬えて言う。]

 純客観派の本尊たる凡兆は、滅多に自己の姿を句中に現さぬに反し、去来は右の二十六句中にもしばしば自己を示している。「つゞくりもはてなし坂」の句、「蛍火」の句、「君がてもまじる成べし」の句、「梅が香」の句等、いずれも前書によってその場合を推し得るが、最も興味あるのは「自題落柿舎」とある「柿ぬしや」の一句であろう。去来の自ら草した「落柿舎記」に従えば、その家の周囲には柿の木が四十本もあった。八月末の或日、京都の商人が来て、その木を欲しいといって一貫文置いて行った。しかるにその日から梢の柿が落ちはじめて、「ころころと屋根はしる音。ひしひしと庭につぶるゝ声。よすがら落もやまず」ということになった。翌日見に来た商人はこの有様を見て長歎し、自分はこの年まで商売にしているが、こんなに実の落ちる柿を見たことがない、これでは困るから昨日の代金を返してもらいたい、といい出した。いうままに返してやったが、その商人の帰る時、友達のところへ托してやった手紙に、自ら「落柿舎去来」と書いてやった、というのである。この逸話は去来の洒落な一面を窺うベきもので、同じような心持は自ら「柿ぬし」と称するこの句の中にも溢れている。四十本の柿の主として、梢に近き嵐山を望む去来の様子が目に浮んで来るような気がする。

[やぶちゃん注:「落柿舎記」は「らくししゃのき」(現代仮名遣)と読む。次の章でも言及されるので、そこで全文を電子化することとする。]

 

「血栓」のNHKのイントネーションは正しいか?

昨夜、役員会が終わって帰宅し、遅い夕食を妻ととったが、彼女が見ていたNHKの COVID-19 の教養番組(「NHKスペシャル タモリ×山中伸弥▽“人体VSウイルス”驚異の免疫ネットワーク」)の後半を非常に興味深く見た。それは同感染症(COVID-19 は今回の未知の新型コロナ・ウィルスによる感染症の疾患名である)の特異所見に有意に肺血栓症が見られるというもので、その機序を説明する下りで、「血栓」をNHKアナウンサーも、かの山中伸弥教授も、タモリを始め二人のコメンテーターも一律に「血栓」を

↗っせん

と発音していた。一貫して全員がそう発音していたのである。アナウンサー以外にあれだけのキャストが完璧に発音しているのは、ディレクターから指示されたからに間違いない。山中教授も普通にそれに従っているとすれば、研究現場や医療従事者の間でもそうなのかも知れない。

しかし、それは本当に正しいだろうか?

因みに、私の妻は完全ボランティアで視覚障碍者の音声訳組織の仕事を自宅で手掛けており、名古屋出身で発音に自信が持てない単語が多くある彼女から、ほぼ毎日のようにアクセントやイントネーションを尋ねられるのが日常的であるため、こういうことには私も甚だ気になるようになってしまっているのである。

まず、「栓」の音は短音でフラットの「セン」である。二字熟語になった際に前の後備の「つ」が拗音化すると、それは確かに↗ッ」と上がる傾向がある(そうならないものも有意にある。後掲する)。それに短音のフラット「セン」を単純に接続するなら、このイントネーションは問題ないよう一見、見える。

しかし、私は未だ嘗て「血栓」をそのように発音したことは、一度もない。私は

↗っせ⤵ん」

としか発音しない。熟語化されるとイントネーションが異動・変化するのは寧ろ日本語の常識であって、そのような機械的結合に拠る発音が機械合成音の甚だしい違和感となっていることは言うまでもない。因みに私は鎌倉生まれで(幼稚園と小学校一年の途中までは練馬区大泉学園にいた)、中高時代は富山で過ごしたが、その後は大学は東京、その後は鎌倉(大船)に住み続けて現在に至っている。私が完全標準語しか話さない訳ではないが、高校時代は演劇部で標準語発音には人一倍気を使ったし、就職してから高校国語教師という立場上からも、通常人より、遙かに方言・アクセント・イントネーションの問題には気をつけてきた人間である。

さて、こういう場合、「栓」を後部に含む熟語と発音を比較してみれば、よい。ところが、それが実は日常的には非常に少ないのである。そうしてそれが実はこのNHKの「↗っせん」に意義を感じる人が殆んどいない理由なのではなかろうか? と感じた。

しかし、どうだ、あまり使わぬ熟語だが、「風呂の水栓を抜く」を君は「↗いせん」と発音するか? それじゃ「自動水洗」(「じどうす↗いせん」・複合語化によるアクセント変化例)・「黄水仙」(「きず↗いせん」・同前)」や数学用語の「垂線」だろ? 「水栓」はどう見ても「す⤵いせん」である。「推薦」や単熟語の「水洗」「水仙」と同音と言えば判りが良かろう。

ワインのコルクを抜くことを「抜栓(ばっせん)」と言う。私はワイン好きでほぼ毎日のように飲むが、シェフやソムリエが「抜栓」を「↗っせん」と言ったのを私は聴いたことがない(因みに「ばっかん」と言う人はいるが、その場合も「ばっかん」で全フラットとなる)。「ば↗っせ⤵ん」である。

これらを並べて見れば、「↗っせん」が如何に特異点的に不自然であるかということが判る。拗音化完全同音の熟語である「決戦」も「決選」も「血戦」も、どれ一つとしてそんな発音はしない。発音して御覧なさい。どれも「↗っせ⤵ん」である。

されば、何故、「血栓」だけをそう発音しなくてはならないのかが疑問になってくる。

医療現場で同音で聞き違えるミスを考えるが、あり得そうなのは「血算」(けっさん:「けっさん」(完全フラット):全血球計算の略。緊急救命室などで頻繁に使用する重要な略語)だが、発音もアクセントも異なり、こちらは検査用語であって、シチュエーションを考えても「血栓」という疾患と誤りようがなく、聞き違えがあったとしても、文脈が意味不明になり、生命に関わる医療ミスにそれが繋がるとは私には凡そ思われないのである。

以上が――私の孤独な不審のである。識者の御教授を乞うものである。因みに、「発音辞書 Forvo」の「血栓」を聴かれよ。私と同じである。

【追記】

妻は以上のような理由から、複数冊のアクセント辞典を所持している。そこで、先程、その中の最新の2017年NHK出版刊「NHK 日本語発音アクセント新辞典」を借りて調べてみた。すると驚くべきことに、

『けっせん【血栓】 ケッセン

となっているじゃないか!?! これはそれ以下に載る「決戦」・「決選」と同じ、私の発音しているのと同じ「↗っせ⤵ん」 なのだ!

妻と私の不審に就いて聴いてみた。

「山中先生は京都だから、そう発音するのはおかしくないと思うよ」

という。

彼は大阪府枚岡市(現・東大阪市枚岡地区)に生まれで、東大阪市立枚岡東小学校から、転居で奈良市立青和小学校に転校、中学校は大阪教育大学附属天王寺中学校で、高校は大阪教育大学教育学部附属高等学校天王寺校舎へ進学、大学は神戸大学医学部医学科へ進学、卒業後は国立大阪病院整形外科に勤務後、大阪市立大学大学院に入学、後にカリフォルニア大学サンフランシスコ校グラッドストーン研究所へ博士研究員として留学、帰国して日本学術振興会特別研究員を経て、大阪市立大学薬理学教室助手に就任、その後、奈良先端科学技術大学院大学でiPS細胞の開発に成功し、京都大学へ移っている。現在、京都大学iPS細胞研究所所長で教授である。

以上から、彼は生粋の関西人であることが判る。だから、彼が日常的に関西のイントネーションで「けっ↗せん」と発音している可能性は頗る高いことになる。彼がラフに喋る場合、関西弁になることは以前から知っていた。しかし、昨日の番組では、「血栓」以外には関西弁は出なかった。彼はそれを方言のイントネーションだと理解していなかった可能性もあるから、山中教授のそれを取り立てて問題視する必要はない。

とすれば――大問題なのはアナウンサーや出演者が一律に「けっ↗せん」と発音していること自体の異様さ――ということになる。

例えば……番組前の打ち合わせで山中教授がそう発音したのに対して、ディレクターがNHKのイントネーション基準に反して無批判にアナウンサーや出演者全員に「先生のそれに従うように」と絶対的な指示を出していたとしたら……これは全く以って言語道断の公共放送にあるまじき仕儀である。

そんなことを考えていたら――憂鬱の完成している私は――ますます腹が立ってきたのである。 以上。

昨日――今年の最初の蜩の音を聴いた――

昨夜、町内会月例会(COVLD-19 騒ぎ以降、例会を行わず、組長への通知配布のみ)と役員会に出た際、午後七時前、偏愛する蜩の音(ね)を間近に聴いた――私は思う――蜩の鳴き声は生と死の儚い象徴に他ならない――と……

ブログ開設十五周年記念 梅崎春生 赤い駱駝

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和二三(一九四八)年十月号『世界』に発表され、翌年十月月曜書房刊の作品集「ルネタの市民兵」に収録された。

 底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集」第三巻を用いた。

 底本の傍点「ヽ」部分は太字とした。

 本文内でも注したが、少し先に纏めて注を施しておく。

 「特務士官」海軍の学歴至上主義のために大尉の位までに制限配置された後身の準階級で、叩き上げの優秀なエキスパートであっても、将校とはなれず、将校たる「士官」よりも下位とされた階級。兵曹長から昇進した者は海軍少尉ではなく、海軍特務少尉となった。

 「予備士官」商船学校や予備学生出身などの士官。梅崎春生は二度目の海軍の招集(昭和一九(一九四四)年六月。佐世保相ノ浦海兵団入団、暗号特技兵となった)後、翌年の敗戦の年の初めに即席の下士官教育を受け、五月に二等兵曹になっていた。但し、本文で「学校からすぐ海軍にひっぱられたおれたち」というのは春生の事績とは異なる。彼は昭和一五(一九四〇)年二十五歳で東京帝国大学文学部国文科を卒業(一年間、自己都合で留年している)、東京都教育局教育研究所に勤務し、昭和一七(一九四二)年一月に最初の召集を受けて対馬重砲隊に入隊したが、肺疾患のため、即日帰郷した。二度目の召集の三ヶ月前には召集を恐れて東京芝浦電気通信工業支社に転職していたが、願い空しく召集されたのであった。召集当時は既に二十九歳であった。なお、少しく読んでいくと、このロケーションが春生が敗戦を迎えた桜島海軍基地であることが判る。

 「海軍体操」非常に詳しい解説が、「Web Magazine VITUP(ヴイタッフ)!」の「海軍体操を知っていますか? ①」から、とある。また、画像が悪いが、YouTube ReinaChannelに戦中のニュース映像の「海軍と体操」1及びで見られる。

 なお、本電子化は私のブログの開設(開設月。仕事で右腕腕首を粉砕した惨澹たる経験を含む)から十五周年を記念して公開するものとする。もう忘れていたが、私はブログの第二投の記事(200578日)でなんとまあ、『「桜島」から「幻化」へ』というのをものしていたことに今更に気づいた。四十八の時か。今となっては羨ましい気負った若書きじゃないか。無邪気なこのネット世界への期待が背後に溢れているのも今となっては能天気で憐れな気がする。【202075日 藪野直史】]

 

   赤 い 駱 駝

 

 まだ部隊にいた時分、潜水艦勤務を五年もやったという古参の特務中尉がいて、それがおれたちにときどき話を聞かせてくれたが、そのなかでこんな話が今でも深く頭にのこっている。それは長時間海の底にもぐっていて、いよいよ浮上しようとする時の話なんだ。なにしろ潜水艦というふねは、水にもぐっている関係上、空気の補給がぜんぜん絶たれているだろう。空気はよごれ放題によごれ、吸ってもはいてもねとねとと息苦しいだけで、みんな顔には出さないけれども、死にかかった金魚のように、新しい空気にかつえているわけさ。だから浮上ということになると、皆わくわくしてフタのあく一瞬を待っている。海水を押しわけて、ぐっと浮上する。フタがぱっと開かれると、潮の香をふくんだ新鮮な空気が、さあっと降るようにハッチから流れこんでくるのだ。その時の話なんだが。

「ぐっと吸いこんで、どんなにか美味(うま)いだろうと思うだろ。ところがそうじゃないんだ。吸いこんだとたんに、げっと嘔気(はきけ)がこみあげて、油汗が流れるぞ。そりゃ手荒くいやな気持だぜ。てんで咽喉(のど)が新しい空気をうけつけないんだ。一分間ぐらいそれが続く。やっと咽喉や肺が慣れて、それからほんとに、空気というやつは美味(うま)いなあ、と判ってくるんだ。こいつはやはり経験した者じゃなければ、この味は判らないだろ」

 このちょび鬚(ひげ)を立てた特務中尉は、おれたちの顔を見廻しながら、すこしばかり得意そうな表情でこの話をむすんだ。この中尉は割に気のいい男で、おれは好きだった。中学校に行っている子供がいるという、邪気のない男だった。こんなのは特務士官にはめずらしい。ふつう海軍の特務土官は、みょうにひねくれたところがあって、おれたち一夜漬けの予備士官にへんな反感をもっていたもんだ。考えてみると、それも無理ないやね。こちらは一年やそこらの訓練だけで、実際にはろくな仕事も出来やしないのに、けっこう一人前の士官づらをしているんだ。十年も十五年もこの道でたたきあげた彼等にすれば、どんな点からも、腹が立って仕方がなしことばかりだろう。けちをつけたい気持もわかるよ。しかしおれは何も好きで海軍に入った訳でもなし、どのみち消耗品として死なねばならぬことは判っていたんだから、あまり気にもしなかった。つまりおれたちは小姑(こじゅうと)の多い家にきた嫁みたいなものよ。本気でいじめる気持がなくても、自然とあらさがしみたいになるんだ。だからおれたちの中でも、一番あらの多い奴がつらくあたられたんだ。その一番つらくあたられたのが、二見というおれと同期の予備少尉だったんだ。この二見少尉の話を、今からしようと思う。

 二見という男は、一言でいえば、全然軍人に適さない男だったんだ。軍人としての条件を、あれほど欠除した男もめずらしいだろう。その点で、同期の予備少尉にも、二見を馬鹿にしてるのが多かった位だ。しかし、これは言っておかねばならぬが、また二見ほど軍人らしくなりたいと努力した男も、まずめずらしかっただろう。そのために彼は血のにじむような苦痛を重ねていたのだ。(ことわっておくが、それは軍人として身を立てたいとか、軍隊が本好きだという意味じゃない。本当のところでは、あいつは正反対のものだった)そして軍人らしくなりたいという彼の努力が彼の場合、決定的に反対の結果になってあらわれることが多かったのだ。丁度バクチに負け運になった男が、懸命になればなるほど、いよいよ負けこむような具合だった。

 二見はおれたちより四つ五つの年長だった。学校からすぐ海軍にひっぱられたおれたちと違って、二見は一兵卒として召集され、そして海兵団かち、半ば強制的に予備士官を志願させられたんだ。二見は兵隊のままで残ってりゃよかったんだ。兵隊なら命令のままで動くだけで、そりゃ身体はきついだろうが、気持の責任というのはすくないだろう。ヘマをすればすぐなぐられるだけで、それで済むんだ。士官となれば、そうはゆかないからな。名誉ある帝国海軍の士官というわけで、うっかりヘマをやろうもんなら、手あらくうるさいのだ。ほんとに海軍というところは、一見豁達(かったつ)に見えて、おそろしくうるさ型の多いところだった。神経を氷のように張りつめて、二見はその中で生きてきたんだ。それはたいへんな努力だっただろうと思う。

[やぶちゃん注:「豁達」心が大きく、小さな物事に拘らないさま。度量の大きいさま。]

 二見の体格は、とくに貧弱というのではなかったが、なにか不具めいた印象をあたえた。どこか均勢がとれていないのだ。手足がすこし長い感じで、それで関節がすぽっと技けたような印象だ。女のような撫で肩で、それをおぎなうように薄い胸をぐっと反らしている。おれは思うのだが、二見は地方にいたときはきっと猫背だったに違いない。どこにつとめていたのか知らないが、軍隊に入って以来、軍人らしくなしとか、勇往邁進(まいしん)の気に欠けとるとか、文句をさんざん言われた揚句(あげく)、無理してあんなに胸を反らすようになったのだろう。だからその姿勢は、どこか不自然な感じがする。あの反らした胸を支えているのは、二見の背骨ではなくて、あいつの張かつめた神経だったんだ。撫で肩の上に首を正しく保ち、唇を嚙みしめるようにむすんで、眼をまっすぐむけて歩く。視線はまっすぐ前方をむいているが、いつも弱々しく怯(おび)えたような眼色だった。なにかを必死と守ろうとしているような。

[やぶちゃん注:「地方」軍隊に対する「娑婆」の意。]

  たとえば二見の歩き方だ。これが特務士官やまた時には兵士たちの、憫笑(びんしょう)のまとになっていたんだが、両足を前にふり出すようにして、勢よくバタバタとあるく。まる操(あやつ)り人形のように、両手を正しく振って、調子をつけたようにバタバタとすすんでゆく。二見の顔はしごく真面目で、綿密に配慮された努力感が、線のほそい感じの顔をどこか力(りき)ませているのだ。そして敬礼したり答礼したりするときは、足の踏み出しに合せて、右掌をひょいと顔にあげるのだが、紐(ひも)で連結された操り人形にそっくりだ。うまくはずみがついている。それがひどく滑稽(こっけい)な感じなんだ。

 こんなことがあるだろう。たとえばマネキン人形に、本物の毛を植えたり皮膚の色を本物らしくすればするほど、本物の人間の印象からますます離れてグロテスクになってゆくだろう。二見少尉の場合も、ちょっとそれに似ている。操典にあるような言葉だけで言えば、二見の挙止動作は、一点も非のうちどころがないんだ。ちゃんと胸は張っているし、両手は正しくふっているし、敬礼も初年兵のように規格が正しいし、どこと言ってくずれたところがないのだ。それだからこそ決定的に変なんだ。すぐ感じとして胸にくる。二見に答礼させて見たいばかりに、意地のわるい下士官などが、廻り道までして敬礼したもんだ。足に合せでひょいと掌をあげて、二見はそれに答礼する。そして足に合せてひょいと掌をおろす。弱々しい顔の表情をへんに力ませて。

[やぶちゃん注:「操典」(そうてん)日本の旧軍隊(本来は陸軍)の各兵種の教練及び戦闘に関する制式・法則を規定した典拠書。]

 もちろん二見は、そいつらがその為に敬礼していることも、ちゃんと知っていたのだろう。しかし二見にとっては、こんな姿勢動作を保つのがせい一ぱいなので、他の士官のように慣れてくずれる訳にゆかなかったんだ。くずれて自分の生地を出せば、ほんとに軍人らしくなくなることを、彼は一年あまりの軍隊生活で骨の髄(ずい)まで知っていたんだ。はずみをつけねば正当な敬礼ができないとすれば、誰だってこれ以外にはできないだろう。笑われたって、それでやり通す他はないだろう。あれほど運動神経の欠除した二見が、士官としての自分を保つのに費やした神経の量を思うと、おれはいつも暗然となる。あいつは軍隊の一年間に、ふつうの二十年分ほども生きたのだ、士官教育のときから一緒だったから、おれは二見がそうなるまでの経過をよく知っている。あいつほどヘマをやり、そして叱られた同期生はいやしない。そしてあいつほどむきになって、自分を軍隊式にねじまげようとした男は。

 しかしその努力が、さっきも言ったように、彼には正反対の結果としてあらわれてくることが多かったのだ。たとえばあまりの緊張のあまり、「かしら右」と言うところを「右へならえ!」と叫んでみたりするんだ。そして隊長から眼玉の飛びでるほど叱られたり、下士官兵の笑いを買ったりするのだ。仕事の上ででも、そんなヘマをしばしばやるから、兵曹長などがやってきて、ツケツケと文句を言ったりする。そうすると二見は、直立不動の姿勢でその文句を聞くのだ。そうするのが当然の義務のような、緊張した表情で。少尉の二見が、兵曹長の前でだよ。おそらく兵隊が文句をつけにきても、二見は直立不動の姿勢で聞いたかも知れない。軍隊の、下階級は上階級に絶対服従だという考えなりシステムなりを、もちろんあいつはよく知っていたにちがいないが、自分のそとのものとしか感じられなかったんだ。自分をその中に正しく置くということが出来なかったのだ。あいつにとって軍隊という世界は、あいつに服従を強要する重圧としてのみあったんだ。だから二見が軍人らしくありたいという努力は、ふつうの者がそう思うのと違うのだ。この世界に自分がぜんぜん適さないことを知っていて、そのマイナスから来る屈辱を、どうにか糊塗(こと)して行きたかったのだ。二見というのはそんな男だったんだ。悪い方でだめだったことを、あいつは病的におそれた。屈辱にたいして、あいつは病的な敏感さをもっていたんだ。そいつはヘマをやった時の二見の表情でもわかる。

 たとえば号令のかけちがいをやったような場合、彼はいきなり真蒼になる。まるで盗み食いを見つけられた幼児の顔にそっくりなんだ。周囲の声なき嘲笑をかんじるから、自分も照れかくしに笑おうとするんだが、それも出来ないのだ。頰がかたく痙攣(けいれん)するだけだ。そんなときのあいつの表情を、おれは今でも忘れることができない。あいつはぶるぶる慄えながら、屈辱にまみれた時間が早く流れ去ってしまうのを待っているんだ。どうも海軍というところは不思議なところで、一旦あの世界に入ってしまうと、他人の失敗を同情したり弁護したりする神経がだんだんすりへって、それをとがめたり嘲笑したりする気分の方が強くなってくるもんだ。おれだってそうだ。あんなに団結ということが必要な軍隊で、この現象は何だったのだろう。そしてその中で、二見少尉のような男がどんな位置におかれるか、言わないでも判るだろうな。

 二見の運動神経のなさについて、おれはさっきも言ったが、海軍には海軍体操というのがあるんだ。ちょっと複雑な体操だが、それでもそんなむずかしいもんじゃない。慣れりゃ誰にだってできるんだ。この体操を二見は最後までできなかったのだ。あいつに出来るのは「遊動振」ぐらいなもので、「遊動振手ヲ前ヨリ廻シ横デ止メ体ノ前屈身四回宛」などかけられると、どうしていいのか判らないのだ。いや、判っていても、身体がうまく動いてくれない風なのだ。士官ともなれば時には台上にたって、号令をかけて体操やらねばならんのだが、この部隊でも、あいつはこれだけはとうとうやらずに頑張り通した。ちゃんと自分で知っていたんだ。意地のわるい特務士官らが、二見を台上に立たせようと強要したりはしたけれども。

[やぶちゃん注:とある記事に海軍体操は『当節のエアロビックス流に、始まれば終わりまで静止することなく跳躍と腕を振る動作が続けられる』もので、この『遊動振に始まり』、『遊動振に終わる』ものであったとあった。]

 この部隊は海岸にあった。内地は内地だったが、沖繩が陥(お)ちてからは、グラマンなどが毎日のようにやってくるので、崖の腹にいくつも洞窟をうがって、その中で将兵とも生活していた訳だ。いずれ本土上陸ということになれば、さしずめここらが真先に戦場となるわけだった。しかし洞窟生活は憂欝だったな。湿気は多いし、ことに七八月ともなれば手荒くむし暑いしさ。一日中気がいらいらして、落着かない。頭をぐっと押しつげられているような気がする。士官室にいても(もちろん洞窟のなかの)ふつうの話し声も険を帯びてきて、時には罪もない従兵がひっぱたかれたりするんだ。こういう気分になると、人間は自分のこと以外はあまり考えなくなるようだな。自分を他人とむすびつけているものが、なにか贋物(にせもの)みたいに見えてくるんだ。この部隊で、おれたちはこんな具合にくらしていた。いつ敵が上陸して、ここが戦場になるのかなどと、考えてみたり、忘れようとしてみたりしながら。

 しかしあそこは、夕焼がひどくきれいな海岸だったなあ。夕食がすむとおれはときどき海岸に出て、夕焼をながめたりしたもんだ。空の央(なか)ばをおおう、言いようもなく微妙で華麗な色の饗宴が、海に照り映えて、すこしずつ色合いをかえてゆく。それを眺めていると、自分がどこからか脱けだして、遙(はる)かな遠いところへ行くような気がするんだ。しかしその時間も、十分間ぐらいなものだ。夕焼が灰色に沈んでしまうと、狐がおちたような気持になって、おれは洞窟の方に戻って行ったもんだが。

 二見が応召する前、趣味で童話をかいていたということを、おれにもらしたのも、そんな夕焼の海岸でだった。二見も夕焼をながめに出てきたのかどうか、おれは知らない。海岸で何となく一緒になって、夕焼を見ながら、ちょっと立話をしたんだ。ふだん二見は、士官室でもあまり口を利かず、黙りこくっていたような男だったから、そんな自分の思い出を話す気になったのも、ふと夕焼の魔術にかかったのかも知れない。その日も南の方にむくむくと積乱雲が立っていて、それが夕焼にあかく染っていたのだ。二見の弱々しく澄んだ眼にも、その色がうつっていた。

「あんな雲を見ると、おれもう一度童話をかいてみたい気持になるんだ」

 二見はつぶやくようにそう言った。そしてあわてたように視線をもどして、妙な笑いを浮べたのだ。そしてつけたすように、また呟(つぶや)いた。

「もちろん、もう書けもしないけれども」

「帰りたいだろうな。お前も」

 何という気持でもなく、おれはそう答えた。すると二見はぎょっとしたように身体を硬くしたようだった。でもあいつは何も言わず、直ぐ視線を外(そ)らして、またしばらく夕焼の方をながめていた。夕焼雲はなにか動物の背中みたいにまるくふくれ上っていた。二見の姿は立ったまま「休め」の形をしているんだが、こんなときでも規定通り両掌を両ももにあてていた。夕焼を背にしてその姿は黒く浮きあがり、撫で肩の不均勢な輪郭が、ふとおれの眼に灼(や)きついた。それは言いようもなく孤独の感じだった。そのままの姿勢で、二見は低い声で言った。

「敵さん、はやくのぼって来ないかな。待ち遠しいよ」

「いさましく斬死(きりじに)にするつもりかい」

「いや」二見は頭を反らして惨(みじ)めな感じの笑い方をした。

「面白いだろうと思ってよ」

 おれは二見の笑いをあまり見たことがなかったから、変な感じがした。その笑いは妙に年齢の差というものをおれに感じさせた。いつもは力んでいるくせにヘマばかりやる同年者の感じだったが、その時だけは、異質の場所にいる二見という人間をおれは感じたんだ。それが本当はあたり前の感じなんだが、軍隊にいるとそんな神経は鈍くなってしまうもんだ。夕焼が終ると、あいつはその笑いを頰から消して、だまっておれから離れ、唇を嚙みしめるように結んで、れいのバタバタした歩き方で洞窟へ戻って行った。何でもないことだが、この夕方のことだけは、ふしぎにおれの記憶につよく残っている。思えばあいつと二人だけで、軍務以外の話をしたのも、この時だけだったせいなんだろう。またいつもギクシャク張りつめて、生地をかくしているあいつの、素顔をふとのぞいた気がしたためかも知れない。それもしかし、おれの夕焼の感傷だったのかも判らないのだが。

 それから十日ほども経った頃かしら。突然俄争が終ったのは。

 正午のラジオの天皇の声は、があがあ割れるばかりでうまく聞きとれなかったが、通信士がその軍用電報の写しをもって士官室に知らせにきた時は、おれたちはそれぞれ烈しい衝動をうけた。そこに居合せたものは皆、しばらくしんとなった。あんな張りつめた沈黙にあうことは、生涯にも屢々(しばしば)はないことだろうな。今思うとその衝動も、各人によって少しずつ異っていただろうが、おれはと言えば、強い風に逆らって歩いていて、いきなりぱたっと風が止み、肩すかしを食ってよろめくような、そしておそろしく不安定な気持がした。そしてその瞬間がすぎると、自分を押えつけていたものがすべて、こなごなに砕け散った解放感が、やがておれにも起ってきた。その感じが途方もなく拡がってゆくもんだから、おれ自身がそれについてふくれ上ってゆくのに、足もとのふらつくような不安な感じが、突然おれをしめつけてきた。そして軍隊ですごした一年余の歳月が、おそろしく長い時間としておれに感じられてきた。そんな風な沈黙が、一分間もつづいた。そうしておれの横にいたあのちょび鬚を立てた特務中尉の声で、「そうすると、敗けたというんか。ええ。この日本がよ」

 通信士が下手くそな字の電報写しを、ふわりと卓に投げてよこした。その横を、洞窟の壁に身体をすらせながら、二見が士官室をでて行くところだった。両手を正しく振ったいつもの歩き方だった。しかし脣をいつもよりぎゅっと固く嚙んで、何だか歪んだような表情に見えたが、バタバタという跫音(あしおと)をのこして、二見はだまって室を出て行った。あいつの歩き方はただひとつの型しかないので、表情というものが全然ないんだ。だから後姿をみると、まるで二見が平気であるいているように見えた。

 「へっ。あたり前みたいな面(つら)してやがる」

 その後姿をみながら、掌気象長か誰かが、はきだすように呟いた。そしてばらばらとそれに誘われるように立ち上るのもいたし、卓に倚(よ)ってじっと眼を閉じているのもいた。立ち上ったものも、自分が何のために立ち上ったか、はっきりしたあては無かっただろうし、眼を閉じていたものも何を考えているか、自分でつかめなかったのだろうと思う。

 しかし人間というものは現金なもんだな。それから三日も経つと、部隊解散の用意だというんで、部隊中はおそろしく生き生きと活気づいていた。ここの隊長というのが、横柄な顔をしているくせに気の小さい男で、早いとこ解散しないと危いと速断したのだろう。三日目頃には、部隊全体ががたがたにゆるんだところでざわめき立った感じだった。主計科では取り分だけ取ると、あとはどっと物資を放出したから、一日中、何分隊罐詰とりに来たれ、とか略靴分配するから代表者来たれ、とか、次から次へ叫び声が伝達され、それに応じて人が動き、何しろ大騒ぎさ。洞窟の通路は兵の居住区をもかねているのだが、そこでは分配された物資を衣囊(いのう)につめたり出したり、なるたけ余計もってゆこうというので、キャンバスをもってきて新しく衣囊をつくってる奴もいるしさ。日課も何もなくなって、雑然たる集団になってしまった。士官や下士官もそれを統率するめどを失って、やはり自分の取り前を確保することだけで日が終ってしまうのだ。あんな時の心理状態はとくべつだろうな。今から先の生活はどうなるか判らないのに、とにかく持てるだけ持とうというので、何に使うつもりか、通信用の発電機を荷づくりしている下士官もいるしさ。組織というものがなくなると、人間と人間を結びつけるものは何もなくなってしまったんだ。皆自分のことだけで手いっぱいで、他のことなどには無関心なふうだった。

 おれはといえば、段々自分をとりもどしてきて、配給された物資を整理したり、海岸に出て海を眺めたり、一日ぼんやりそんなことさ。戦争に敗けたということが、まだはっきり頭に落着かず、また船便があり次第、対岸へわたって故郷にかえるということが、いっこう現実感がなかった。だからと言って今の雑然たる状態が、いやだとも快(こころよ)いとも感じなかった。なにか隔てたように、ぼんやりしていた。おれもやはり、まだ少しうわずっていた訳だろう。

 二見少尉の様子がどうも変だ、と二見の従兵がおれのところに来たのは、たしか三日目のことだったと思う。どうしたんだと聞いたら、従兵はすこし気味悪そうな顔をして、どうということはないが何となく変だ、と答えた。

「あの日からほとんどお眠りにならないのです」

 今日も昨日も、二見少尉は一日中、例のバタバタバタの歩き方で、洞窟のなかや海岸をあるき廻っていた。それはおれも見ていたんだ。あいつの歩き方は遠くから見てもすぐ判るから、おれも気がついていた訳だ。奴さんも喜んでるだろうなと、その度ふと頭をかすめるだけで、とくべつに気にも止めなかった。だっておれもおれのことで一ぱいだったし、組織が解体すれば皆一律に同じ状態になったわけだから、特別に二見に関心をはらうわけもなかったのだ。しかし従兵からそんな話をきくと、おれは直ぐ、敗戦の日に士官室から出て行くときの二見の顔を思い出した。それは何かを懸命に怺(こら)えているような、歪んだ顔付だった。しかしあの時は、皆おなじような顔付をしていたのかも知れないのだが。

 二見の居室は洞窟を横に掘りこんだ袋小路みたいな場所だった。従兵に案内されてそこに入ると、二見は粗末な椅子に腰かけて、腕組みをしていた。あたりはきちんと片付いていて、他の居住区のように雑然としたところは全然なかった。おれが驚かされたのは、二見の顔がげっそり衰えていることだった。おれを見上げた二見の眼は、いつもの弱々しく怯えた感じではなくて、なにか灼けつくようなするどい眼の色をしていた。

「わかったぞ。おい。わかったぞ」

 おれの顔を見るなり、二見がそう言った。語調はしっかりしていて乱れている風はなかった。

「何がわかったんだい」

 しかし二見は返答しないで、とつぜん立ち上ると、胸を反らせて部屋のなかを歩きだした。頰になにか気味わるい笑いの影をうかべているようだった。そしておれにあいさつもせず、ふいに出口から通路の方に出て行った。追っかけようとしておれは踏みとどまった。そして心配そうな顔をしている若い従兵をつかまえて、いろいろ様子を聞いた。

 それによると、二見はあの終戦の夜、頭をかかえて椅子にかけたり、部屋をぐるぐる歩き廻ったりして、一睡もしなかったということだった。その翌目から、すこし変だと思ったら、突然にこにこと笑いだしたり、分配の物資をもって行っても、相手にせず、部屋にいるかと思うと、もう通路の方に出て行くという風らしかった。話をきくまでもなく、ある錯乱が二見の上におちているのは明瞭だった。何か変ったことが起きたら知らせに来い、と言いおいて、おれは士官室に戻ってきた。一時的なものだろうと思ったが、それにしても暗い影がおれの心にさした。看護科に連絡するとしても、こんなごった返しで、ろくな診察もして呉れないだろう。わかったぞ、とあいつは言ったが、ほんとに何が判ったのだろう。そして一時的なものにせよ、何故あんな錯乱にあいつがおちたのかと考えると、あの一年あまりの二見の軍人生活が、ばらばらな印象としてではなく、身近なものとして弾くようにおれを貫いてきた。士官教育のときから同じ分隊で、偶然にも一緒にここにやって来たわけだが、その時はヘマな奴と一緒じゃ辛いな、と考えたくらいなもんで、別に親近を感じるほどでもなかった。狂ったということで、あいつが一挙におれに近づいたことが、おれにはなにか耐え難い気がした。二見の変調がまだ他の士官に知られていないらしいのは、みんなが自分自分でいっぱいだからで、そしてそれを知っているのがおれだけだという気持が、おれに重苦しくかかってきた。出来るだけはらいのけようと、おれは努めていたのだけれども。

 翌日も騒然たる朝から始まった。二見少尉は朝早くから部屋を出ては、あちこちをしきりに歩き廻るらしかった。頰は蒼白く肉が落ちたくせに、歩きぶりはますます勢をつけ、調子正しく両手を振って、バタバタと靴をふみならして歩いた。時々立ちどまって衣囊をつめこむ兵をじっと眺めたり、呼びとめて何か質問して、その答えを手帳に書きこんだりしているようだった。昨夜もほとんど眠らないらしく、眼が充血して、その中から黒瞳(くろめ)がきらきらと光っていた。もう誰が見ても、二見の様子は常態ではなかった。すれちがってもこちらを認めない風で、なにかひやりとするような感じを身体中から発散させていた。

「あいつはすこし変だぜ。どうしたんだ」

あの特務中尉がちょび鬚の辺を手巾(ハンカチ)でふきふき、士官室に入ってきながらそう言った。

「二見少尉よ。暑いんで逆上したんか」

 そのとき士官室のすみで考えごとをしていたおれは、その言葉で急に心配になって、駆られるように通路へとびだした。通路を探しながらとおり抜け、表へ出た。そこでぱったりと二見に出会ったんだ。二見はぐっと胸を反らし、ほとんど大袈裟(おおげさ)に見えるほど、両手を交互に勢よく振りながら、調子をつけて歩いているところだった。

「二見。どうしたんだ」

 おれは呼びとめた。すこし呼吸をはずませながら。二見は立ち止っておれを見たが、じっと見ているだけで、暫く何も言わなかった。そして突然手をのばしておれの腕をつかんだ。

「赤い駱駝(らくだ)だ」

 静かで確かな声であいつはそう言った。あいつの眼は瞳孔が無気味にひろがって、おれの肩越しに何かを見詰めているんだ。ぞっとしておれは振りかえった。それは夕焼の時刻だった。水平線から紅色の夕焼が立ちのぼり、それが海面にうつって朱を流したようだった。積乱雲が層をなして南の方に連なって、そこも薄紅色に美しく染っていた。あいつの眼はそれを見ていたんだ。それは見ようによっては、駱駝の背中に似ていないことはなかった。おれは二見が、あんな雲を見ていると童話をかきたくなると言ったことを、その時微かな戦慄とともに思い出した。

 おれはそれから引っぱるようにして、二見を看護科へ連れて行った。看護兵らが薬品類を衣囊にぎしぎしつめこんでいる中を、おれたちは入って行った。空箱や薬瓶が散乱して足のふみ場もなかった。

 しかしこんな状態では、はっきりした診断が出来るわけもなかった。軍医長の心も浮足立っていたし、患者よりも薬品の処理の方に心をうばわれている風なんで、結局鎮静剤を呉れただけで、便(びん)がありしだい故郷に帰すがよかろうと言うだけだった。それからまた二見をひっぱって、あいつの居室へひっぱって行こうとしたら、あいつは何を思ったのか、かなり烈しく抵抗した。しかし部屋まで連れてくると、あいつは急におとなしくなった。そして椅子にかけて、従兵がもってきた水でだまって鎮静剤をのんだ。おれも椅子にかけてあいつの顔をながめていると、あいつはゆっくり立ち上って、おれの前に立ちふさがった。

「貴様。まだ何かかくしてるな」

 二見は低いしゃがれた声でそう言った。視線は定まらぬように動揺しているが、眉はくらく翳(かげ)っていた。

「何もかくしていない」

 逆らわないように、おとなしくおれは答えた。すると二見はうなずいて、部屋のすみにゆき、寝合の縁に腰をおろして、頭をかかえた。暫(しばら)くそれを見とどけて、おれは自分の居室にもどってきた。

 翌日の晩方、おれは二見の従兵に烈しくゆり起されたんだ。おれはぎょっとして眼覚めた。

「出撃の時刻はいつか、そう聞いてこいと、しつこく言われますので――」

「出撃?」

 おれはなにか不吉なものを感じて起き直った。そして急いで服をつけた。

「二見は昨夜ねむったのか?」

「あの薬はあまり利かなかったようです」

 人気のない暗い通路をおれたちは急いだ。しかしそれは間に合わなかったんだ。二見は卓でうつぶせになって、そこら中血だらけになっていた。短剣が床におちていて、傷は咽喉(のど)のところだった。まだ呼吸がわずか残っているようにも思えたが、軍医長がきたときは、すっかりこときれていた。

 その日の昼すぎ、二見の死体は埋められた。それを命ぜられた二三のものをのぞいて、たれも二見の死には冷淡だった。船便がやってきたからだ。埋め終ったころ、最初の大発が海岸から出発した。おれたちは二見を埋めた丘の上から、それを眺めていた。大発のなかの兵たちは、こちらに向ってもしきりに手を振った。

[やぶちゃん注:「大発」大日本帝国陸軍の上陸用舟艇である大発動艇の略称。陸軍の技術協力によって相当数の大発を運用した海軍では「十四米(メートル)特型運貨船」の名称が使用されていた。参照したウィキの「大発動艇」を参照されたい(写真有り)。]

 二見の話はこれでおしまいよ。

 二見の遺品も全部処分したが、手帳だけはおれがあずかった。この手帳には、住所書きとかいろいろ文字が書いてあって、後になるほど乱れて判読できなくなっている。錯乱して後の手蹟だろう。まだ正気のときらしい文字のなかに、「赤い駱駝」とい四字が一頁に書かれてある。今思うんだが、ひょっとするとあいつは、そんな童話を書こうと思いついて、心覚えに書きとめておいたのかも知れない。それも敗戦前のことか、敗戦後のことかは判らない。しかしこの言葉はいずれにしても、奇妙にあの夕焼をあざやかにおれの胸に再現させる。そしてそこに立っていた黒い二見の姿を。撫で肩の、手足がすこし長い、関節のぬけたような、不具めいた孤独者のすがたを。

 張りつめた弦は、僅かの刺戟ですぐに断ち切れてしまう。おそらく二見の張りつめた神経も、そんな具合に狂ったのだろう。潜水艦乗りが、待ちのぞんだ新しい空気をも、咽喉や肺が受けつけず、烈しく嘔吐をもよおすように、二見の心も、いきなり降ってきた自由には耐えきれなかったのだろう。その二つの世界の落差は、今ここで想像してみても、やはり慄然とするものがあるようだ。

 

 

今日遂にKが登場する――

 

 私は其友達の名を此處にKと呼んで置きます。

『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月5日(日曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第七十三回冒頭)

   *

以下と比較せよ――

   *

 私(わたし)は其人を常に先生と呼んでゐた。だから此處でもたゞ先生と書く丈で本名を打ち明けない。是は世間を憚かる遠慮といふよりも、其方が私に取つて自然だからである。私は其人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」と云ひたくなる。筆を執つても心持は同じ事である。餘所々々(よそ/\)しい頭文字抔(など)はとても使ふ氣にならない。

『東京朝日新聞』大正3(1914)年4月20日(月曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第一回冒頭)

   *

 Kの養子先も可なりな財產家でした。Kは其處から學資を貰つて東京へ出て來たのです。出て來たのは私と一所でなかつたけれども、東京へ着いてからは、すぐ同じ下宿に入りました。其時分は一つ室によく二人も三人も机を並べて寐起したものです。Kと私も二人で同じ間(ま)にゐました。山で生捕られた動物が、檻の中で抱き合ひながら、外を睨(にら)めるやうなものでしたらう。二人は東京と東京の人を畏れました。それでゐて六疊の間の中(なか)では、天下を睥睨(へいげい)するやうな事を云つてゐたのです。

   *

「檻の中で抱き合ひながら」という同性愛的(プラトンの「パイドロス」に拠れば、男女の愛は賤しく、男同士のそれこそが至高の愛の形である)比喩を忘れてはならない!――

「K」とは何者か?

実はこれは先生のトリック・スターではないか?

「我輩は猫である」の先生は「苦沙彌先生」でK、「坊つちやん」の「清」もK、そして漱石の本名も夏目金之助で「K」である。

   *

 以下、懐かしい私の板書。

   *

◎Kのプロフィル(Ⅰ)

・同郷(新潟)の幼馴染みで浄土真宗の僧侶の次男

 →実家は(先生と同じく)財産家。

・医者の家に養子に行く

 →当然のこととして養家の跡継ぎとして医者にならねばならない。

・Kは「強い」

 →我々は二人とも「真面目」であったが彼は私より遙かに「強い」。

・Kは常に「精進」という言葉を使用

 →寺に生れたからでもあるが、Kは実際の僧よりも遙かに僧らしい性格であった。

・Kは実生活に於いてもその「精進」を完全実践

 →私はそんなKを内心畏敬していた。

・Kは中学時代から宗教・哲学を好んで語った

 →そうした関心の主因が僧である父の直接の影響なのか、それとももっと血脈的な彼の属した寺という家系に属すものであるかは定かではないが、兎も角私には難しい問題ばかりで困らせられた。

・Kは「道のためなら」養父母を欺いても構わないと公言

 →医師になる気は全くない。「道のため」の学問を自律的に選び取る覚悟を持つ。

   *

2020/07/04

三州奇談續編卷之六 赤浦の似鯉

 

    赤浦の似鯉

 彼の四十三社の内「赤倉の神社」と云ふは、所口より二里餘り西にして、田鶴濱の山入にありて、神樹重々(ちやうぢやう)として靈嵐(れいらん)颯々(さつさつ)たり。此方(こなた)の山風景尤もよし。眼下に入海を見る、これを「赤浦」と云ふ。「松百(まつとう)の橋」の水源とかや。漁獵の舟多く釣竿もまた數多(あまた)見ゆ。所口の間に岸(きし)缺け出でたる所あり、「薄着崎(うすぎざき)」と云ふ。山頭は岡野にして、菊花多く咲く。【「薄霧崎(うすきりざき)」の略語と云へ共、爰は「若葉の君」遊び處と見ゆるなり。】又此盤石(ばんじやく)に瀧のありし跡多し。今は岩崩れて水纔かなり、潜りて流れ出づ。百年許前迄は四五百瀧となりて落ちし。四五十年先迄も、二三間の瀧はありし由、古き人の語れり。

[やぶちゃん注:「赤浦の似鯉」「あかうらのにごひ」。

「赤浦」石川県七尾市赤浦町(グーグル・マップ・データ)。七尾市街の北西直近で、七尾湾に繋がっている現在の赤浦潟の西部南部沿岸に当たる。但し、本篇当時は叙述から見て、入海状態にあった広大な七尾湾の入江であったように読める。この赤浦潟は縄文の時代から入り江から潟・海跡湖・汽水湖・入江を何度も繰り返してきたようで、昭和の初めまでは概ね海との出入りがあった汽水湖で海産魚介類が豊富に棲息していた。現在は海との間に水門が設けられて(グーグル・マップ・データ航空写真)純淡水湖となっている。

「似鯉」魚類に暗い方のために言い添えておくと、本邦にはズバり、「似鯉」と書く、日本固有種の条鰭綱コイ目コイ科カマツカ亜科ニゴイ属ニゴイ Hemibarbus barbus がいる。注意しなくてはいけないのは、ニゴイとコイは同科異亜科の別種であることである。ウィキの「ニゴイ」によれば、『急流でない川や湖沼などに生息する日本の固有種の淡水魚。塩分耐性を有し』、『海水中での生息も可能である』。『体長は最大』六〇センチメートルに『達する。成魚の体色は緑褐色で』一『対のひげを持つなど』、『和名』通り、コイ(コイ科コイ亜科コイ属コイ Cyprinus carpio中央アジア原産)に『似るが、口吻が長く突出し』、『口は下向きにつく』。『体型は細長い流線型を示し、より流水に適する形態を示す』。『背鰭はコイのような前後に長い不等脚台形ではなく、小さく三角形』を成し、『尾びれは二又が深い』。『日本では本州、四国、九州北部に分布する。このうち』、『中部地方以北の本州と九州北部のものがニゴイで、本州西部と四国のものは近縁種』コウライニゴイ Hemibarbus labeo で『あるとされている。コウライニゴイ』の方は『朝鮮半島から中国、台湾まで分布する』。『川の中流から下流、大小の湖沼と、淡水域の極めて広範囲に生息する。水の汚れにも比較的強いが、低酸素への耐性は高くない。汽水域にも生息できるが海水耐性は無く、塩分濃度 0.2%以下の水域に多く、塩分濃度 1.5%以上の水域では捕獲されなかった』。『小石や砂底がある水域を好むが、それ以外でも生息している。また、低層を泳いでいることが多いが、止水を好むコイ、フナよりも流水への適応性が高い。産卵期は水温の高い地域ほど早く』四~七月で、直径三ミリメートルほどの『粘着性の卵を産む。稚魚は体側に黒い斑点が』十『個前後並んでいるが、成長すると斑点が消える。繁殖期のオス個体には、「追星」と呼ばれる白色の瘤状小突起物が出現する』。一九八〇『年代後半に筑後川で行われた調査によれば、生後』一『年から』三『年程度を感潮域で過ごし、以降は』二十キロメートル『以上上流の産卵域のある浅瀬周辺に移動する』。『雑食性であるが』、『餌は季節毎に変化し、生息水域で利用しやすいものを餌としている』。『体長』四センチメートル『程度までの稚魚期はプランクトン、成長すると小魚、水生生物、藻類、小型二枚貝などを食べる』。『また、成長するにつれて顕著な魚食性を示し』、『大型個体はルアーでも釣れるようになる』。『なお、発達した咽頭骨と咽頭歯を備えており、摂食した餌はそこで噛み砕かれて消化管に送られる』。『ニゴイを目当てに漁獲することは少ないが、栃木県などではサイタタキ漁』『と呼ばれる専門の漁が行われる。コイやフナ、ウグイ、ウナギなどの大型淡水魚と一緒に漁獲(混獲)されることがある』『一方、商品価値が低く』、『大型に育ち』、『膨大な数に繁殖する雑魚であり、シラスウナギ』(ウナギの稚魚)『やモクズガニなども捕食することから、地域の漁協によっては駆除目的の漁獲も実施される』。『小骨が多いが、白身の上品な肉質で』、『食味は良好な魚であり』、『唐揚げなどで食べられ』、『旬は春とされている』。『味は良いが』、『骨が多く』、『食べにくい雑魚として扱われ、蒲鉾や天ぷらの材料として使われてきた』とある。但し、本文に出る「似鯉」が本種か、はたまたモデルか、全くの異種かは、本文を読んで、ご自分で判断されたい。但し、途中で私の見解は示す。

「四十三社」既出既注だが、再掲しておく。「延喜式」の神名帳には能登国には大社一座一社(名神大社。現在の石川県羽咋市寺家町にある能登国一宮の気多神社に比定される)及び小社四十二座四十二社を記載する。

「赤倉の神社」石川県七尾市三引町にある赤倉神社(グーグル・マップ・データ)。七尾市中心部の所口町からは西北西に当たり、直線で確かに八キロメートル弱に相当し、「田鶴濱」現在の石川県七尾市田鶴浜町の海浜から二キロメートル弱の「山入」の位置にある。同神社のグーグル・マップ・データのサイド・パネルの写真を見ると、今以って「神樹重々として靈嵐颯々たり。此方の山風景尤もよし。」という雰囲気であることが判る。

「眼下に入海を見る」これは少し言い方がおかしい。赤倉神社のから現在の赤浦潟を見ても(グーグル・マップ・データ航空写真)、五キロメートルも離れている上に、途中には有意な丘陵があり、眼下に赤浦を見下ろすことは当時でも不可能であると思われる。今までも何度か感じたが、麦水は訪ねた地を安直に繋げてしまい、あたかも両者がごく近いかのように記してしまう悪い癖がある。ここもそれと思われる。

「松百(まつとう)の橋」既出既注であるが、再掲し、補足する。現在、七尾市松百町(まっとうまち)がある。岩屋町からは三キロメートルほど北西で、赤浦潟から流れ出る川が七尾湾に注いでいて、そこに現在四基の橋が架かり、赤浦潟にも一基ある。この内、グーグル・ストリートビューで確認すると、この橋が「松百本橋」と橋名板にある。ここから河口までは二百メートルほどである。河口に架かる橋は「松百大橋」(同じく橋名板で確認した)であるが、江戸時代にここに架橋されてあった可能性は、「松百本橋」より低い気がする。今回、『広報 ななお』(二〇〇六年二月号・第十七号・PDF)を閲覧、その二ページ目で、この赤浦潟の詳しい解説が読め(必見)、そこに昭和三(一九二八)年刊の「鹿島郡誌」に、赤浦潟を名名跡として紹介しており、『松百橋(河口の水門あたりにあったといわれる橋)』『からの情景、特に夕映えの美しさは言い表すことができないほどと記されいる』とあることから、以上の私の推理が正しかったことが証明された形となった。

『所口の間に岸缺け出でたる所あり、「薄着崎」と云ふ』この名は現存しない。しかし、位置的に見て、七尾市市街所口の北西に、七尾湾に突き出る岬があり、ここには国土地理院図を見ると、「大杉崎」とある。「おほすぎざき」と「うすぎざき」の音の一致や、「山頭は岡野にして」というのとも現在の地形が一致するから、ここであろう。

「若葉の君」不詳。流れから言って前田利政の幼名(愛称)かとも思ったが、如何にもな名でもあり、当然、見当たらない。後の「公子行」の言葉から考えると、単に特定されない貴公子の一般名詞で使っている可能性もあるか。

「百年許前」本「三州奇談續編 卷 六」の冒頭「雷餘の風怪」には「安永七年五月七日は予が所口に寄宿せし間」の出来事と確述している。続編は既に見てきた通り、確信犯で各話柄が完全に連続性を持っていることがはっきり判る。されば、この安永七(一七七八)年を起算年として全く問題なく、百年前(数え)は延宝七(一六七九)年である。第四代徳川家綱の治世(翌年死去して綱吉となる)である。

「四五十年先」同前で享保一四(一七二九)年から元文四(一七三九)年で第八代徳川吉宗の治世。

「二三間」三・六四~五・四五メートル。]

 

 此谷入の地を、「俣赤濱の谷」と云ひ、爰に住む魚を「赤濱の御放し魚」と呼ぶ。文字とても慥ならず。其魚は鰡(ぼら)に非ず、鯉にあらず、他所(よそ)にある魚には少し替れり。此名の付きし初めを尋ね聞くに、里叟(りさう)云へり。

「中頃の事にや、國の守(かみ)なる人來り住給ひ、此入江に逍遙し、花を植ゑ鳥を放つ日々なりしなり。何事にかありけん、此魚を多く網に得て爰に放ちし。此四五間の瀧の下にをどらせて、

『何卒此瀧に登れよ、龍にしてとらせん。予が望みの事ぞ。此瀧を越えよ、飛龍になる事ぞや』

と、多く魚を寄せて是にさとされしに、其中には聞入れて瀧に向ひて躍り飛びし魚もありしかど、終に瀧に上り得ずして其態(そのさま)も劣りしが徒(いたづ)らに此(これ)『赤濱の似鯉』となりて、今に多き」

由語れり。

[やぶちゃん注:「俣赤濱の谷」不詳。七尾市津向町内(グーグル・マップ・データ航空写真)に当たるが、それらしい地名等は見当たらず、一般の人家も非常に少ない。或いは、麦水の悪癖の場所があっちゃこっちゃしている可能性と、表題が「赤浦の似鯉」なのにはここでは「赤濱の似鯉」となっている激しい不審からも、赤浦地区の山入(この辺り。同前)の可能性も視野に入れなくてはならない気が私はする。

「中頃」その時制から見て、あまり遠くない時代を指すので、ここはせいぜい室町から織豊時代を指すか。

「四五間」七・二七~九・〇九メートル。

「終に瀧に上り得ずして其態(そのさま)も劣りしが徒らに此『赤濱の似鯉』となりて、今に多き」「態」を「近世奇談全集」は『わざ』と訓じているが、これでは瀧登りの技が劣っているという屋上屋になるので私は従えない。寧ろ――龍に成りそこなって、鯉(登龍門で御存じの如く、中国で古くから鯉は瀧を遡って龍と成ると信じられた)に似ているが、鯉ではない姿形をしている――という、まさに種としてのニゴイを私は指しているように思えてならない。普通のコイがデブデブして鈍重な印象を与えるのに対して、ニゴイは口吻が尖り、体幹全体がスマートな流線形を呈し、「コイと比べてどっちが龍っぽいか」を考えると、繁殖期の♂の吻部上部に現れる白色の瘤状の小突起(追星)の奇態さなどを含めて、遙かにニゴイの方が龍っぽいし、登龍門の絵にも描きたい気がするのである。則ち、私は「似鯉」を現在のニゴイと同一種と採りたいのである。]

 

 是(これ)其(その)誰ならんことを知らずと云へども、薄着崎花園の逍遙を思へば、公子行(こうしかう)の類(たぐひ)とは思はるれ[やぶちゃん注:ママ。]。則ち魚を集めて宜命(せんみやう)ある屬(たぐ)ひ、又望みある人に似たり。若しくは瀧は能登の公子の訛言にや。「俣赤濱」は「又若樣」に似たり。「若樣魚」と聞く時は、彼(かの)侍從の隨龍の意是等に及ぶ事もあるか。俚言の其實(そのじつ)となることは所々多し。梁の王彥章(わうびんしやう)、勇武天下第一たり。唐の世を亡して梁の朱民を起す。好みて鐡柄(てつつか)の鎗を使ふ故に、世人異名して「王鐡鎗(わうてつさう)」と云ふ。一日(いちじつ)運盡きて後唐の爲に戰ひ死す。里民其名を仰ぎ、骨を集めて塚となし、折々是に詣づ。後年終に一寺となれり。則(すなはち)鐡鎗寺と云ふ山、「五代史」に見ゆ。然れば方言又證據とすることも著(しる)し。然れば利政公の御幼名又若樣の口實、稍々(やや)あるに似たり。また龍氣を索(もと)められしかのことにも及ぶか。

[やぶちゃん注:「公子行」貴公子の逍遙・散策或いは旅。

「宜命(せんみやう)」天皇の命令を伝える文書の様式の一つ。漢文体を用いる「詔」・「勅」に対し、宣命書き(宣命・祝詞 (のりと) などに用いた漢字による本邦の文章表記の形式の一つ。体言や用言の語幹などは大きく書き、助詞・助動詞・用言の活用語尾などは一字一音の万葉仮名で小さく記した)で記されたもの。

「瀧は能登の公子の訛言にや」意味不明。識者の御教授を乞う。

『「俣赤濱」は「又若樣」に似たり』先の不審があるので、無効。

「侍從の隨龍の意」皇帝・天子は「龍」に比されるから、それに「隨」ふ「侍從」という意で、公子と侍従の関係性が透けて見えると言っているのであろう。

「俚言の其實となることは所々多し」と言うのだったら、まず、歴史を遡って七尾のこの辺りにやって来た天皇の子弟らを捜し当ててからにしろよ! 麦水!

「梁の王彥章」五代十国(九〇七年~九六〇年)の後梁(九〇七年~九二三年)]王彦章(おうびんしょう 八六三年~九二三年)の軍人政治家。字は賢明。鄆(うん)州寿長の人。幼い頃から軍卒となり、朱全忠(八五二年~九一二年:唐王朝を滅ぼした後梁の初代太祖)に従った。戦いの度に先鋒で勇戦し、「王鉄槍」の異名を取った。後梁が建国されると、濮(ぼく)・澶(せん)州刺史や汝(じょ)・鄭(てい)州防御使、許・滑州節度使などを歴任し、開国侯に封ぜられた。、五代後唐の初代皇帝李存勗(りそんきょく)は彼を恐れて、彼の妻子を捕らえて誘ったが、使者を斬って拒んだ。九二三年、後梁が鄆州を失って危地に陥ると、彼は北面招討使となり、百余戦して後唐の侵攻を阻み続けた。兗(えん)と鄆の境で李嗣源(りしげん)に敗れ、退却するも、再び敗れ、捕らえられた。李存勗は彼を助けようとしたが、「梁に朝事しておきながら、晋に暮事できようか」「豹は死して皮を留め、人は死して名を留む」と言って拒否し、斬られた(以上はサイト「中国史人物事典」のこちらにある解説を加工データに使用させて戴いた)。

「朱民」「近世奇談全集」は『朱子』とある。それでもいいが、私は底本の表記に拘る。而してこれは――「氏」の崩し字の判読ミスではなかろうか?――と考えた。「子」では誤りようがないが、「氏」と「民」は崩し字が似てくるからである

「鐡鎗寺」德昌著「衛輝府志」巻四十五に、この寺の名とここに記された由来も書かれてあるのを確認は出来た。但し、位置不詳で、現存もしないであろう。

「五代史」北宋の薛(せつ)居正らの撰になる歴史書で「二十四史」の一つ。原名は「梁唐晋漢周書」。後梁の九〇七年から後周の九六〇年に北宋が後周に代わって建つまでが記されてある。全百五十巻。中文サイトで同書のテクストを調べてみたが、以上の記載には辿り着けなかった。

「然れば方言又證據とすることも著し」と何故、麦水が言えるのか、私には一向、判らぬ。

「口實」ここは「普通によく言う言い方」の意。

「龍氣を索(もと)められしかのことにも及ぶか」「近世奇談全集」では『龍氣を索(もと)められし。かのことにも及ぶが』(「が」はママ)とする。しかし、どっちも意味不明である。]

 

 爰に一話を聞けり。

 所口一本杉町藤橋屋彌左衞門と云ふ人、去る寳曆七八年の頃の事とかや、時は五月雨の晴上りたる頃しも、家廻りを掃除する。此家腰は則ち利政公の御構へ小麿山(こまろやま)の外堀なり。水深からずとは云へども、泥二尺許も入りて渡るべからず。竹竿を入れて芥(あくた)をかき流しかき流して[やぶちゃん注:ママ。踊り字「〱」であるが、ここは「て」ではなく「して」と続くべきところ。]廻りけるに、泥中に一物あり。赤濱鯉の死したるやうなるにも見え、又はへちまに泥のまとひ付きたるとも覺えて、尾頭(をかしら)も見えず。

「ぬらぬら」

と流れもやらで沈み居る故に、彌左衞門彼(かの)竹竿にて刎ね返し刎ね返して[やぶちゃん注:同前。]、流の末の方へ送りやりし。四五間程は打返し打返しして送りけるが、最早外堀の地を放(はな)るゝ頃になり、何とか渠(かれ)が肉にもや障(さは)りてありけん。又『地の程の行くまじ』と思ふ所にやありけん。此物

「むつく」

と起きて怒る躰(てい)に見えしが、眞直に立ちて彌左衞門を追懸くる。

 風聲(ふうせい)雨雲(あまぐも)を帶(おぶ)るやうにて勢(いきおひ)あり。

 彌左衞門存じ寄らざることなれば肝を失ひ、

「是は生きたる物にてありしや、あら恐しや」

と、竿も打捨逸足(いちあし)出して家に迯込(にげこ)みけり。

 慥に十四五間も追ふ躰に覺えし。龍躰(りゆうてい)の事には覺えしが、爾(しか)と見定めず。

 又元の水に入りて見えず。

 其後は此邊り溝の際(きは)に、竹垣を結びて人にも障らせずと聞えし。

 覺束なき事ながら、少し證するにも足らんか。

[やぶちゃん注:「所口一本杉町」七尾市一本杉町(グーグル・マップ・データ)。 現在の所口町の北の小丸山城址公園の直近。驚くべきサイトがある。「能登・七尾市・一本杉通り」である! 必見!

「藤橋屋彌左衞門」不詳。

「寳曆七八年」一七五七~一七五九年。

「家腰」下方。

「渠」ここは、その正体不明のものを指示する三人称。

「地の程の行くまじ」ここから先の場所には行かぬ、行くまい。

「逸足」速足。

「十四五間」二十五メートル半から二十七メートル強。

 最後に登場した怪奇物は正体不詳。淡水で糸瓜(へちま)みたような形で、水上に立ち上がって、非常なスピードで人を追い掛けるというのは、如何なる生物も想起し得ない。大鰻でも屹立することは出来ない。何かパイプ状のものに獣か魚が頭部を突っ込んだケースぐらいしか浮かばぬが、何かは指名出来ない。]

今日、遂に遺書に初めてKのことが語られる――(「もう一人」の「男」・「其男」として末尾に登場する)

……『奥さんは急に改たまつた調子になつて、私に何う思ふかと聞くのです。その聞き方は何をどう思ふのかと反問しなければ解らない程不意でした。それが御孃さんを早く片付けた方が得策だらうかといふ意味だと判然(はつきり)した時、私は成るべく緩(ゆつ)くらな方が可(い)いだらうと答へました。奥さんは自分もさう思ふと云ひました。

 奥さんと御孃さんと私の關係が斯うなつてゐる所へ、もう一人男が入り込まなければならない事になりました。其男が此家庭の一員となつた結果は、私の運命に非常な變化を來してゐます。もし其男が私の生活の行路を橫切らなかつたならば、恐らくかういふ長いものを貴方に書き殘す必要も起らなかつたでせう。私は手もなく、魔の通る前に立つて、其瞬間の影に一生を薄暗くされて氣が付かずにゐたのと同じ事です。自白すると、私は自分で其男を宅へ引張つて來たのです。無論奥さんの許諾も必要ですから、私は最初何もかも隱さず打ち明けて、奥さんに賴んだのです。所が奥さんは止せと云ひました。私には連れて來なければ濟まない事情が充分あるのに、止せといふ奥さんの方には、筋の立つ理窟は丸でなかつたのです。だから私は私の善(い)いと思ふ所を强ひて斷行してしまひました。

『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月4日(土曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第七十二回より。太字は私が施した)

   *

「ければならない事にな」ったという先生、

「其男が此家庭の一員となつた結果は、私の運命に非常な變化を來してゐ」ると、現在形で述懐する先生、

しかも「もし其男が私の生活の行路を橫切らなかつたならば、恐らくかういふ長いものを貴方に書き殘す必要も起らなかつた」という先生、

そうして悍(おぞ)ましくも

「私は手もなく、魔の通る前に立つて、其瞬間の影に一生を薄暗くされて氣が付かずにゐたのと同じ」だ

と言い放つ先生を見よ!

「手もなく」「其瞬間の影に一生を薄暗くされて氣が付かずにゐたのと同じ 」というどこか自己責任回避としか思えない弁解にならない弁解は何だ?!

「魔」とは何か?! いやさ、誰か?!

私は「こゝろ」の先生の遺書の中で唯一、今も甚だしい不快感を持たずには読めない数少ない箇所であることを「自白」する――

   *

なお、「自白」という言葉は、現在、我々の知り得る遺書の中では三度目の出現である。最初は後の「先生と遺書」冒頭部分の『然し自白すると、私はあなたの依賴に對して、丸で努力をしなかつたのです』(『東京朝日新聞』大正3(1914)年6月16日(火曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第五十五回)で、次は故郷を永遠に去った直後の金の話で、『自白すると、私の財產は自分が懷にして家を出た若干の公債と、後から此友人に送つて貰つた金丈なのです』である。

遺書を読む学生が君だったら、どう感じるか考えて見給え。

遺書はのっぴきならない絶対の告白書であり、自白書である。されば、学生は「自白」という言葉に甚だ敏感に反応するはずである。

しかし、この三つを並べて見た時、どうか?

先生の考え方から、第一のそれには、先生が生死の問題を常に意識している土壇場にあったことを除外して考えれば、

「世間的手蔓を求める君の依頼なんぞは私にはそれだけでも実は努力に値いしないものであることは判っていましょう」

という例の調子の含みが「自白」されているに過ぎないことは、後を読まずとも、直ちに判ることだ。

二つ目はどうだ? 高等遊民の癖に、

「金の話ですが、まあ、この程度の小金持ちに過ぎなかったのですよ」

という軽い「いなし」の「自白」でしかないではないか。

そうした「自白」項目の三番目が、これだ。

ここに「先生」の、いやさ、作者漱石自身の社会認識の偏頗性と哀れな自己合理化のそれが見え透いてくる。それこそが、例えば、私のこの箇所の文々(もんもん)に対する激しい生理的嫌悪感の正体であるように思うのである。

 

2020/07/03

甲子夜話卷之六 11 御留守居役依田豐前守の事蹟 / 12 同

 

6-11 御留守居役依田豐前守の事蹟

依田豐前守は名高き人なり。町奉行勤役中の事等、世人の口碑に傳る所多し。晚年に御留守居となれり。常に親戚に語るには、我等やがて老耄すらん。其時は早く告聞せよ。是ぞ親類の好みなるべしと諄々言けり。先朝の時、松島と云へる大年寄、權威を後房に振ひ、誰有て咎る者も無りし頃、素人狂言する者等を、女乘物に載せて大奧に入れて、劇場の眞似をさせて常の樂とせり。老女の斷ある女乘物は、御廣敷御門の出入たやすき例なりしかば、一日、松島續合の女なりと稱して、彼狂言する輩を載たる乘物二十挺、御廣敷の門を入れんとす。その日豐州當直なりしが、番の頭を呼び、松島の親類書持出べしとなり。番の頭、其書付を持出れば、開き見て、松島の從弟までの續ある女は三人のみなり。女乘物三挺は通すべし。其餘は追返すべしと苦々しく指圖したれば、十七挺の乘物御門に入ることを得ず。其日の催し空しく成しとなり。又老職田沼氏の妾の、御内證の方【津田氏。後蓮光院と號】へ御實否を候ずるとて出ること有しとき、田氏に阿附せる輩、その取扱を上通にせんとす。そのとき豐州堅く執て肯ぜず。これ等の事より内外の首尾よからぬやうになり行き、遂に同僚より内沙汰にて、老病を以て辭職すべしと云事になりしとき、豐州近親を招き、かねがね我等老耄せば早く告られよと賴置しに、左は無くして、果して老耄を以て罪を得んとす。親族の甲斐も無き事よとて、歎息したるまでにて、己を擧たることを生涯云はざりしとなり。

 

6-12 同

此豐州の近親、ある日早朝に急用ありて、豐州の宅に至り謁を乞ふ。直に奧に通るべしとの答により、寢間の次まで來れば、豐州古き白小袖を着て、出て對面す。用談畢りて其人云ふ。常に白無垢を着せられ候や。豐州の答に、夜中は火事その佗いかなる急忙の事あらんも量られず。白小袖着すれば、夫らの時に雜人に混ぜざる爲なりと云。其氣象の高きも亦かくの如くなりし。

 

■やぶちゃんの呟き

6-11

「依田豐前守」江戸中期の旗本依田政次(元禄一六(一七〇三)年~天明三(一七八三)年)。書院番依田政有の嫡男として生まれた。享保元(一七一六)年十四歳の時に第八代将軍徳川吉宗に拝謁、享保一〇(一七二五)年に小姓組に入り、小納戸・徒士頭と昇進して目付となった。そこから作事奉行を経て、能勢頼一の後任として宝暦三(一七五三)年に北町奉行に就任、明和六(一七六九)年まで務めた後、さらに大目付へと栄進し、同時に加増されて千百石の知行を得た。晩年は留守居役となり、大奥の監督に尽力したが、大奥の女中たちと反目し、天明二(一七八二)年に老齢を理由に致仕、翌年、享年八十一で逝去した。北町奉行在任中には、山県大弐・藤井直明・竹内敬持らが策動したとされる「明和事件」(幕府による尊王論者弾圧事件)の解決に手腕を振るい、彼らに死罪・獄門・遠島などの処分を下している。他にも札差と旗本の間で生じた対立が激しくなった際に仲介を務め、一方で踏み倒しや不正な取立てを行う者に対しては徹底した調査を行って厳罰に処し、不正の横行を抑止することに尽力している。以上はウィキの「依田政次」に拠ったが、講談社「日本人名大辞典」には、将軍徳川吉宗の食事を試食する膳奉行となったが、医師が「問題なし」とした献上品の鶴を「新鮮ではない」といって食膳に出さなかったところ、この話に感心した吉宗に重用されたという事蹟が載る。ちょっと不審なのであるが、彼は実際には「和泉守」であるのに、諸史料や関連記載では確かにそこら中で「豊前守」とする点である。識者の御教授を乞うものである。【2020年7月4日追記】いつもお世話になっているT氏より以下のメールを頂戴した。

   《引用開始》

依田平次郎政次については、以下で事蹟が判ります。それを見ると。

叙任時の名乗りは和泉守で、その後に豊前守に改めていることが判る。
「寛政重脩諸家譜 第二輯」(514コマ)

叙任は宝暦二(一七五二)年十二月『二十一日依田平次郞政次作事奉行となる』(右下後ろから九行目)に連動して、同十二月二十四日『作事奉行依田平次郞政次從五位下に叙し和泉守と稱す』(左上五~六行目)
「国史大系」第十四巻「惇信院殿御實紀卷十六」(316コマ)(惇信院殿は徳川家重の戒名)

次いで、翌宝暦二(一七五三)年四月『作事奉行依田平次郞政次七日町奉行とな』るとあって(右上二行)、そこでの名乗りは「和泉守」になっている。

同「国史大系」第十四巻「惇信院殿御實紀卷十六」(320コマ)

明和三年(一七六四)二月十一日に『町奉行依田豐前守政次』『三百石加秩』(加秩(かちつ)は加増に同じ)とあり(左上本文後ろから七~八行目)、この時の名乗りは『豐前守』となっている。
同「国史大系」第十五巻「浚明院殿御實紀」(107コマ)(浚明院殿は徳川家治の戒名)

以後、天明二(一七八一)年十一月十一日致仕(『十一日留守居依田豐前守政次老免し寄合となる』)まで『豐前守』となっている。

同「国史大系」第十五巻「浚明院殿御實紀」(351コマ)

という事で、町奉行在任中に名乗りを変更したようです。

   《引用終了》

『老免』は「老耄を理由に辞職することを願い出てそれを許す」の意であろうか。さても、そこで「名乗り」について調べてみたところ、「江戸東京博物館」公式サイト内の「レファレンス事例集」の『大岡越前守忠相の官職名「越前守」などにみられる「○○守」という名称はどのようにつけられたのか?(2007年)』に、

   《引用開始》

  大岡越前守忠相、吉良上野介義央、などに見られる「○○守」「○○介」のことを「受領名」「官職名」などといいます。もともとは7世紀半ば以降の律令制において成立した国司の職名でしたが、室町時代以降は名前ばかりの官位として、公家や武士の身分、栄誉の表示にすぎなくなり、明治維新まで続きました。江戸時代においては、徳川家康が慶長11年(1606)に武家の官位執奏権を手に入れ、以降は将軍が朝廷に奏請する権利を持ちました(『徳川幕府事典』他より)。
 官職名は領地とは関係のない場合が多く、「近世武家官位の叙任手続きについて」(『日本歴史』第586号)によれば「家の慣例や“好み”により選択して申請し、それを幕府が許可するという仕組み」で、「贈答儀礼として、将軍に官位御礼を行い、朝廷に官金(物)が納められ」ました。
 『近世武家官位の研究』では「幕府より諸大夫を仰せ付けられると、即日に希望の名乗りを「伺書」という形で幕府に差し出し、決定された」例を挙げ、「同姓同名とならないか、老中など然るべき役職にある者の名前に抵触しないかなどを吟味し、支障がなければ当人が伺出た名乗りをそのまま認めたのであろう」としています。伊達家や島津家が代々名乗ることの多い「陸奥」や「薩摩」、また幕府の所在地である「武蔵」などは名乗ることを憚られていたようです。

   《引用終了》

とあることから推測すると、当初の「豊前守」が同僚かそれ以上の上司或いは当時彼から見ると憚られる大名などの高位の人物の名乗りと同じであることから、政次がそうした理由で変更願いを出し、それが許されて名乗りが変わったもののように思われた。T氏に心より御礼申し上げる。

「勤役」「きんえき」。

「傳る」「つたふる」。

「告聞せよ」「つげきかせよ」。

「好み」「よしみ」。

「諄々」「じゆんじゆん」。よく分かるように丁寧に言い含め聞かせるさま。

「先朝」彼が大目付となった明和七(一七七〇)年は光格天皇の御代。「甲子夜話」は文政四(一八二一)年十一月甲子(きのえね)の夜の起稿で、次代の仁孝天皇の代である。これを将軍家の先代家治の意でとっても、齟齬はないが、普通、先の将軍を「先朝」とは言わぬだろう。

「松島」松島局(生没年未詳)は江戸幕府第十代将軍徳川家治の乳母であり、大奥の御年寄。本名は不詳。ウィキの「松島局によれば、元文二(一七三七)年、第九代将軍徳川家重の嫡男竹千代(後の家治)の乳母として召し出され、江戸城西の丸御殿へ入り、宝暦一〇(一七六〇)年に家治が第十代将軍に就任するに『伴って本丸御殿へ移り、将軍付き御年寄として大奥を取り仕切った』。『家治の将軍就任同年から』明和九(一七七二)年まで『長らく筆頭御年寄の地位に君臨し』、『絶大な権力を振るっていたが』、安永三(一七七四)年からは同じく将軍付き御年寄であった高岳が筆頭となっており、松島局は忽然と表舞台から姿を消した。生没年、墓碑なども明らかとなっていない』。『前将軍・家重の御次として仕えていたお知保の方を老中・田沼意次と共謀して家治の側室に推薦したと言われている。その後、大奥の女中であったお品の方を自分の養女にし、同様に側室に推薦したとされる。このお品は、家治の御台所』五十宮倫子(いそのみやともこ)『が京都から江戸へ下向する際に随行した女中であり、松島局・田沼派の権力拡大を危惧した御台所付き上臈御年寄・広橋が、その威光をはばかり、あえて於品を松島局の養女としてから側室に差し出したという説もある』とある。

「後房」大奥。

「誰有て」「たれありて」。

「咎る」「とがむる」。

「無りし」「なかり」。

「樂」「たのしみ」

「斷ある」「ことわりある」。事前に申し出て許可を得てある。

「御廣敷御門」「おひろしきごもん」。平川門から入った位置にあった大奥と外部にある唯一の入り口で、常時、厳しい警備が行われていた。

「續合」「つづきあひ」。直系の近親親族。

「載たる」「のせたる」。

「番の頭」「ばんのかしら」。

「親類書」「しんるいがき」。近親親族であることを記した証明書。

「持出べし」「もちいづべし」。

「田沼」田沼意次。

「妾」「しやう」。側室。

「御内證の方【津田氏。後蓮光院と號】」「號」は「ごうす」。蓮光院(元文弐(一七三七)年~寛政三(一七九一)年)は将軍徳川家治の側室。徳川家基の生母。俗名は知保、智保。父は津田宇右衛門信成。養父は伊奈忠宥。寛延二(一七四九)年より、大御所徳川家重の御次として仕え、宝暦一一(一七六一)年に家治付の中﨟となった。宝暦一二(一七六二)年に長男竹千代(後の家基)を出産するが、家治の正室倫子女王に子がいなかったため、大奥の松島局の勧めもあり、倫子の養子として育てられた。しかし、明和八(一七七一)年に倫子が死去して以降は、お知保の方は御部屋様(男子を生んだ正式な側室扱い)となり、家基とともに暮らしたが、その家基も安永八(一七七九)年に十八歳の若さで急死するという不孝に見舞われた。享年五十五で亡くなり、文政一一(一八二八)年には従三位を追贈されているが、これは御台所及び将軍生母以外の大奥の女性が叙位された珍しい例である(以上はウィキの「蓮光院」に拠った)。

「御實否を候ずる」何らかの仕儀について受諾を得ることか。

「出る」「いづる」。不審。大奥へ入るの意であろうが?

「田氏」田沼意次。

「阿附」「あふ」。相手の機嫌をとり、気に入られようとして諂(へつら)うこと。

「上通」下の者の意思や事情が上の者に通ずるようにすること。ここは大目付より下位の役職の者らが、大目付以上の上級職が許諾するように阿(おもね)って上申することであろう。

「執て肯ぜず」「とりてがへんぜず」。

「内沙汰」内密の私的な慫慂。或いは「老耄を以て罪を得んとす」とまで言っているところを見ると、田沼や将軍家からのお叱りや詮議・処罰があるやも知れぬというようなことを匂わせる、半ば脅迫染みた耳打ちなどもあったのかも知れぬ。

「己を擧たることを生涯云はざりしとなり」意味不明。識者の御教授を乞う。職務に於いて自身が正しいと考えることを果敢に実行したことを一度も表明或いは自慢しなかった、ということか。「となり」とあるから静山の誉め言葉ではなく、政次の周辺の心ある人々のそれであり、静山もそれに賛同したのであろう。

6-12

「その佗」「そのた」。「その他」に同じい。

「氣象」「氣性」に同じい。

譚海 卷之三 烏丸光廣卿の事 古今傳 光廣卿住居の事

 

烏丸光廣卿の事 古今傳 光廣卿住居の事

○烏丸(からすまる)光廣卿又連歌などを好(このま)れ、玄旨法師の門弟となり、澤庵・江月などと云(いふ)大德寺の僧徒と往來密にして、漢和の百韻など度々興行有。光廣卿殊に禪學に入られけるゆゑ、詠歌其氣を帶(おび)てあらき作意也。其上連歌の餘執(よしふ)に引(ひか)れて、はいかい體(てい)にながれしゆゑ、詠歌半(なかば)はたゞごと歌になり、俗語をまじへよまれしまゝ、狂歌の風に落(おち)たり。玄旨法印の和歌も半は狂歌まじれり。若狹守長嘯子(わかさのかみちやうしやうし)・牡丹花老人(ぼたんくわろうじん)など右の窩窟(くわくつ)をまぬかれず、小堀遠州などの詠歌も同じやうのことなり。朝廷に和歌の道すたれしより、東野州(とうやしう)などと云(いふ)人專ら委任し、地下(ぢげ)の歌よみ盛(さかん)に成(なり)て、古今傳(こきんでん)などと云(いふ)事を私(わたくし)に考へ、二條流の說などをまじへて興行せしより、古今の讀(よみ)まちまちにわかれ、却て深祕不可說ある事の樣にとりはやしぬる事になりぬ。西三條家など雷同せられて、搢紳(しんしん)過半地下の歌よみになびきよられしかば、又一旦は和歌の道さかんの樣に見えぬれど、まつたく歌道亂世によりて地に落たる災(わざはひ)也と人のいへり。

○古今の傳と云(いふ)事は、二條家斷絕ののちは、上冷泉殿御家に傳へられたるのみ古來の正說とする事也。天子古今御傳受のとき、宗匠をめされて聽聞(ちやうもん)ある時は、そば聞(ぎき)と云(いひ)て、壹人(ひとり)昵近(ぢつこん)の公卿を許され、始終御傍にて承る事也。是を古今傳受せらるゝとはいはね共、自然其公卿の家に其說のこりとゞまりて、世にひろまる事とも成(なり)ぬるよし。

○光廣卿禪に入られける故にや、放蕩なる人にて、寐所(しんじよ)なども晝夜枕席(ちんせき)を收(をさむ)る事なく、眠(ねむり)來(きた)ればいつにても入(いり)て寐られけるとぞ。後陽成院禁裏の高どのより公卿の屋敷をえいらん有けるに、殊に破損して見苦敷(みぐるしき)家有(あり)、誰(た)が家ぞと勅問有(あり)、光廣卿の宅の由を申上(まうしあげ)ければ、餘り荒たるとて修覆仰付られけるとぞ。【但(ただし)光廣卿の集には勅使の事本集に付(つき)て見るべし】

[やぶちゃん注:「烏丸光廣」(天正七(一五七九)年~寛永一五(一六三八)年)「元和の比堂上之風儀惡敷事」に既出既注なので、参照されたい。江戸前期の公卿で准大臣烏丸光宣の長男で、官は正二位権大納言に至り、細川幽斎から古今伝授を受けて二条派歌学を究め、歌道の復興に力を注いだ人物で能書家としても知られるが、ここにある通り、私生活はトンデモ法外なる公卿である。

「玄旨法師」戦国から江戸前期の武将で歌人の細川藤孝(幽斎)(天文三(一五三四)年~慶長一五(一六一〇)年)。京生まれ。三淵晴員(みつぶちはるかず)の次男であったが、伯父細川元常の養子となった。細川忠興の父。足利義晴・義輝や織田信長に仕えて丹後田辺城主となり、後に豊臣秀吉・徳川家康に仕えた。和歌を三条西実枝(さねき)に学び、古今伝授を受けて二条家の正統を伝えた。有職故実・書道・茶道にも通じた。剃髪して幽斎玄旨と号した。著書に「百人一首抄」・歌集「衆妙集」等がある。

「澤庵」知られた安土桃山から江戸前期にかけての臨済僧沢庵宗彭(そうほう 天正元(一五七三)年~正保二(一六四六)年)。

「江月」(天正二(一五七四)年~寛永二〇(一六四三)年)は江戸初期の臨済僧で茶人。津田宗及(そうぎゅう:安土・桃山時代の堺生まれの豪商で茶人。信長・秀吉の茶頭となった)の子。名は宗玩(そうがん)。別号に欠伸子。和泉の人。大徳寺住持となり、皇室を始めとして上流階層の帰依を得、特に茶道を好み、父津田宗達及び小堀遠州について奥義を究めた。

「大德寺」京都市北区にある臨済宗大徳寺派大本山。山号は竜宝山。開創は正中元(一三二四)年、開山は宗峰妙超、開基は赤松則村。後醍醐天皇から勅額を賜り、五山の一となったが、後、その位を辞し、在野的寺格を保った。「応仁の乱」で焼失したが、堺の豪商の帰依を得て一休宗純が再建。多数の塔頭があり、有名な茶室・茶庭も多い。

「はいかい體(てい)」「俳諧」の「體」。「はいかいたい」でもよいが、私は批判がましい謂いであるところから「てい」と読んでおきたい。

「若狹守長嘯子」木下勝俊(永禄一二(一五六九)年~慶安二(一六四九)年)の雅号。木下家定の長男。豊臣秀吉に仕え、文禄三(一五九四)年に若狭小浜城主、慶長一三(一六〇八)年には備中足守(あしもり)藩主木下家第一次第二代となったが、翌年、徳川家康の怒りに触れて所領没収となり、京都東山に隠棲した。和歌を細川幽斎に学び、清新自由な歌風で知られた。

「牡丹花老人」(嘉吉三(一四四三)年~大永七(一五二七)年)は室町中期の連歌師・歌人で歌学者。准大臣中院通淳(なかのいんみちあつ)の号。京生まれ。若くして出家し、連歌師宗祇より伝授された「古今和歌集」・「源氏物語」の秘伝を、晩年に移住した堺の人々に伝え、「堺伝授」の祖となった。「古今和歌集古聞」など、講釈の聞書をもとにした注釈書が多い。連歌師としては宗祇・宗長と詠んだ「水無瀬三吟百韻」などが伝わる。「牡丹花」は「ぼたんげ」とも読むらしい。

「窩窟(くわくつ)」以下にも下卑て非難めいた謂いで、寧ろ、江戸の歌人としても名を馳せた筆者津村であるとは言え、こうした畳掛けが彼自身の嫌らしさを感じさせるところである。

「小堀遠州」(天正七(一五七九)年~正保四(一六四七)年)は江戸初期の茶人で遠州流の祖であり、また、江戸幕府の奉行として建築・土木・造園を手がけたことでも知られる。名は政一。近江国小堀村(現在の長浜市)生まれ。初め、豊臣秀吉に仕え、後、徳川家康に従い、父正次の死後は家を継ぎ、近江小室一万石を領して遠江守に任ぜられた。早くより古田織部に茶の湯を学び、品川御殿作事奉行の任にあった寛永一三(一六三六)年には同御殿で第三代将軍徳川家光に献茶し、ここから、所謂、将軍家茶道師範の称が起った。和歌・書・茶器鑑定にも優れ、陶芸も指導した。

「東野州」東常縁(とうのつねより 応永八(一四〇一)年?~文明一六(一四八四)年頃)は室町前期の武家の歌人。法名は素伝。従五位下下野守であったことから「東野州」と称せられた。東国の武門の名家千葉氏の支流の東益之(とうのますゆき)の子で美濃国郡上領主。宝徳元(一四四九)年から二条派の堯孝(ぎょうこう)、冷泉派の正徹に歌を学び、翌年、正式に堯孝に入門した。この頃の歌についての話を書き留めたものが「東野州聞書」である。幕府の命で東国に転戦し、晩年は美濃に帰った。篤学で古典に詳しく、文明三(一四七一)年には、かの宗祇に「古今和歌集」や「百人一首」などを講じている。特に「古今和歌集」の秘説を切紙(きりがみ)に記して伝えたが(次注参照)、これが「古今伝授」の初めとして、後世、重視された。但し、彼は実際には当時の歌壇では大物と目されてはおらず、その死後、宗祇が自身の権威附けのために宣伝して、著名になったと考えられている。なお、「伊勢物語」・「新古今和歌集」・「拾遺愚草」などの講説も現存する。

「古今傳」「古今伝授」。歌学用語で「古今伝受」とも書く。「古今和歌集」の解釈上の問題点を。師匠から弟子へ教授し。伝えていくことで、「三木三鳥」などと呼ばれる同集所見の植物や鳥についての解釈を秘説とし、これを短冊形の切り紙に書き、秘伝として特定の弟子に授ける、所謂、「切り紙伝授」が特に有名であるが、本来は同集全体についての講義を行うことで、証本を授与することもあったらしい。その萌芽は、藤原俊成が藤原基俊に入門し、「古今和歌集」についての教えを受けたことを本源とする。俊成は息子の定家にこれを伝え、定家は「僻案抄」ほかを著わして、若干の弟子にこれを教えている。伝授の形式は、基俊・俊成・定家以来の教えを伝えていると称する東常縁が宗祇に伝授した時から整えられた。宗祇以後、「御所伝授」(宗祇-三条西実隆-細川幽斎-智仁親王-後水尾院)、「堺伝授」(宗祇-肖柏-宗伯)、「奈良伝授」(肖柏-林宗二(りんそうじ))などの各流が派生した。本来は純然たる古典研究であったが、中世の神秘思想の影響を受けて、室町以降、空疎な内容や末梢的な事柄を秘事として尊信する形式主義に流れ、近世の国学者らから批判を受けたものの、文化史的な意義は見逃せない(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「二條流」中世に於ける和歌の流派である二条派。藤原北家御堂流の御子左家(みこひだりけ)は藤原俊成・定家・為家と和歌の家系としての地位を確立した。為家の子二条為氏は大覚寺統に近侍して歌壇を馳せていたが、為氏の庶弟為教(ためのり)・為相(ためすけ)と相続を巡って不和となり、為教は京極家に、為相は冷泉家に分家した。二条為氏の子為世(ためよ)、京極為教の子為兼の代になると、二条家嫡流の二条派は大覚寺統(後の南朝)と結んで保守的な家風を墨守し、一方の京極派は持明院統(後の北朝)と結んで破格・清新な歌風を唱えた。二条派と京極派は互いに激しく対立し、勅撰和歌集の撰者の地位を争った。二条派は「玉葉和歌集」「風雅和歌集」「新続古今和歌集」以外の勅撰和歌集を独占したが、二条派の実権は為世に師事していた僧頓阿に移っており、さらに二条家の嫡流は為世の玄孫の為衡の死によって断絶してしまった。その後、秘伝は、先に出た東氏を経て、三条西家(藤原氏で公家)に伝わり、明治を迎えた。世に言う「古今伝授」がこれである。また、三条西家高弟細川幽斎からは近世初頭の天皇家・宮家・堂上家・地下家にも広まったが、三条西家は、これ以降も、二条家嫡流の宗匠家としての権威を保ち続けた。中院家・烏丸家も二条派に属する(以上はウィキの「二条派」に拠った)。

「深祕不可說」禅宗で言う教外(きょうげ)別伝に引っ掛けたものであろう。

「西三條家」三条西家に同じ。藤原北家閑院(流嫡流の三条家の分家である現在の嵯峨家(正親町三条家)の、そのまた、分家。大臣家の家格を持つ公家。「西三条家」とした時期もある。前注に示した通り、室町から明治に至るまで、二条家正嫡流を伝承する三条西家が、定家の後継者として、歌壇の主流を占めていた。

「搢紳」官位が高く、身分のある人。「笏(しゃく)を紳(おおおび:大帯)に搢(はさ)む」の意から。

「上冷泉殿御家」ウィキの「冷泉家」の「室町時代 - 江戸時代の上冷泉家」によれば、『室町時代になると、御子左流においては、二条家は大覚寺統と濃い姻戚関係にあったため、大覚寺統が衰えると勢力は弱まった。それに伴い、京都においても、冷泉家が活動を始めた。しかし二条派が依然として主流派である事には変わりがなかった』。冷泉為尹(ためまさ)は応永二三(一四一六)年に次男持為(もちため)に『播磨国細川荘等を譲って分家させた。これによって、長男・為之を祖とする冷泉家と次男・持為を祖とする冷泉家に分かれた。二つの冷泉家を区別するため』、『為之の家系は上冷泉家、持為の家系は下冷泉家と呼ぶようになった』。『戦国時代には、上冷泉家は北陸地方の能登国守護・能登畠山氏や東海地方の駿河国守護今川氏を頼り』、『地方に下向しており、山城国(京都)にはいなかった。織田信長の時代には京都に戻ったが、豊臣秀吉が関白太政大臣に任命された』天正一四(一五八六)年には『為満が勅勘を蒙り、再び地方に下った。上冷泉家の家督は中山家から為親が新たに当主として迎えられ』、『冷泉為親を名乗る』。『しかし秀吉が亡くなった』慶長三(一五九八)年、徳川家康の執り成しに『よって前当主であった為満が都へ戻り』、『再び当主となることが出来たとされる』。『かつて秀吉は天皇が住む御所の周辺に公家達の屋敷を集め』、『公家町を形成したが、上冷泉家は公家町が完全に成立した後に許されて都に戻ったため、公家町内に屋敷を構える事ができなかった。旧公家町に隣接した現在の敷地は家康から贈られたものである』。『為満の復帰により』、『為親は上冷泉家の当主でなくなったが』、『別に新たに中山冷泉家を興せることとなり、その新たな堂上家の当主となった』。『江戸時代には上冷泉家は徳川将軍家に厚遇されて繁栄した。特に武蔵国江戸在住の旗本に高弟が多くいた。仙台藩主・伊達氏と姻戚でもあった』とある。

「枕席」寝具一式。

「後陽成院」後陽成天皇(元亀二(一五七一)年~元和三(一六一七)年/在位:天正一四(一五八六)年~慶長一六(一六一一)年)。以下の話は在位中の江戸時代、慶長一四(一六〇九)年七月に起きた「猪熊事件」(侍従猪熊教利による女官密通事件)に光広が連座して勅勘を下し(官停止・蟄居)、慶長一六(一六一一)年四月にそれを勅免して還任した後のことであろう。

「えいらん」「叡覽」。

「光廣卿の集には勅使の事本集に付(つき)て見るべし」この割注、意味が私にはよく判らない。識者の御教授を乞うと記したいが、実際には、私は判ろうとする気持ちが起こらないのである。この辺りの津村、正直、全く、面白くなく、ゲロが出るほど生理的に厭だからである。]

2020/07/02

越境して温泉に行く

結婚記念日は国や県の籠城指示下にあったので、妻と祝うことが出来なかった。昨日から一泊で網代の温泉に行き、真珠婚式を祝った。二月の私の誕生日の温泉以来、四ヶ月振りの県境越境であった。と言っても、私はこの七年余り、実際には、この神経症的な騒ぎの間の籠城と全く同じように、終始一貫して書斎に籠城してきたのであり、全く以って、この COVID-19 の出来なんぞは、私の生活に微塵も変化を与えはしなかったのだ。というより、多くの人々がこの短期の籠城で憂鬱になる以前に、とっくに私の憂鬱は私の固着し凝集した惨めな魂の核として完成していたのである。だから、この世間の騒擾など、実は、どうということは――ない――のである。

三州奇談續編卷之六 靈寺の霧船

 

    靈寺の霧船

 所口(ところぐち)一鄕を養ふ水は、藤橋村の「岩屋」と云へる所の淸水なり。郊外に逍遙するの日、爰に臨みて水を試むるに、淸潔例(たと)ふべきなし。良々(やや)洛陽加茂川の水に似たり。此所の古物語にも、先年志津摩(しづま)と云ふ大字(だいじ)を書く人、國主に大字を望まれて、硯水に洛陽の加茂川の水を求む。國主此水を汲みて與ふるに、

「池の水は筆すべからず、此窟(いはや)の水は殆ど加茂川の風情あり」

と稱せしと聞く。

[やぶちゃん注:「所口」複数回既出既注。現在の七尾市の中心部に当たる石川県七尾市所口町(ところぐちまち)(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「藤橋村」七尾市藤橋町(まち)

「岩屋」現在の七尾市藤橋町申に岩屋町(交差点・バス停)という旧地名を地図上に確認出来るが、この辺りか。この直近の西丘陵に「七尾市上水道管理センター」(グーグル・マップ・データ航空写真)があり、まさに謂いと一致するので、ここが旧水源の窟(いわや)である可能性が強いように思われる。

「志津摩」不詳。なお、少し古いが、寛文一一(一六一七)年の士帳に書物役として五十三歳の佐々木志津摩(「磨」とも記す)なる人物が『金澤古蹟志卷廿一』のこちらPDF・金沢市図書館公式サイト内)に出るから、この後裔かも知れぬ。]

 

 窟は門戶の如く開(ひら)けて、内に方丈の水を貯ふ。是を人數(にんず)百桶に汲み取るに減ること更になしとなり。此水の主は𩶅魚(ていぎよ)にして、此奧に住むと云ふ。實(げ)にも二三寸の小𩶅(しやうてい)の足元に浮びて見ゆ。怪しむべし。此石山根(いしやまね)をこゆると覺えたり。其末(すゑ)幾許(いかばかり)深からんや計り知り難し。「松百(まつとう)の橋」の下へ出(いづ)るとも俗說あり。

[やぶちゃん注:「𩶅魚」これは孰れも海水魚の「サバ」或いは「サワラ」、また「フグ」(中国には淡水フグがいるが、本邦には棲息しない)を意味する。麦水は「怪しむべし。此石山根(いしやまね)をこゆると覺えたり」と言っており、これはこの付近が現在の測定で、一・五キロメートルも離れており、間には築城半ばに建設が中止された小丸山城の丘陵もあることなどを指していると考えられ、純淡水であるにも拘わらずの意ととるなら、腑に落ちるし、次の「松百の橋」というのも理解出来る。

「松百の橋」七尾市松百町(まっとうまち)であろう。岩屋町からは三キロメートルほど北西で、赤浦潟から流れ出る川が七尾湾に注いでいて、そこに現在四基の橋が架かり、赤浦潟にも一基ある。この内、グーグル・ストリートビューで確認すると、この橋が「松百本橋」と橋名板にある。ここから河口までは二百メートルほどである。河口に架かる橋は「松百大橋」(同じく橋名板で確認した)であるが、江戸時代にここに架橋されてあった可能性は、「松百本橋」より低い気がする。]

 

 其水源を試むるに眞に大なり。能く十萬の人を養ふべき靈窟なり。此水を汲むことは、國祖亞相(あさう)公の御書ありて、所口の人のみこの淸水を我が物とす。

[やぶちゃん注:「國祖亞相公」前田利家。彼は権大納言で「亞相」はその唐名。]

 

 此序に遍路して傍らに古寺を探す。或寺の鎭守堂の奉納の中に、

  篠竹や萬船(ばんせん)の騷ぐ霧の海

と云ふ俳句ありき。例の俗流の誹作(はいさく)にやと詠(なが)め捨てゝ歸りしが、此地の俚諺を聞きて又聞き返し、考への爲に暫く記す。

 此向ひの小麿山(こまろやま)と云へるは、巨樹多き岡野なり。是則ち前田利家公の取立て玉ひし屋形城なるに、忽ち金澤の城御手に入りて明け捨て遷り給ふに、其後慶長四五年の頃、御二男利政卿再び取立て給ひて、「能登の侍從」と申しける間、暫く御座せし跡とにや。其尾を斷つて詰(つめ)の城のごときなり。右の小山(こやま)は則ち休岳山長齡寺と云ふ。此間へ窟の水流廻(めぐ)りて、一方は二俣川・紅葉川を分け添へて、所口西町口の神子橋と云ふに流る。小川溝の如し。大石二つを渡して橋とす。此石は石動山より崩れ出でたる石にて、裏面に經文を彫り付けたりと云ふ。今は此流れを町端に分けて、新川を掘り木橋を設(まう)く。是新田(しんでん)植出(うゑだ)しに利あらしむるなり。此新川を傳ひて上れば長齡寺なり。是國祖亞相公の御母於竹御前と云ひし御方の御法名なり。則ち長齡妙久大姊と云ひし御菩提所にして、御孫の又若と云ひし能登の侍從利政公も、御廟爰にあり。此利政公は御忌日七月十四日にて、福昌院怡伯宗悅大居士と云ふ。

[やぶちゃん注:「誹作」「俳作」に同じい。

「小麿山」「小丸山」の言い換えであろう。

「慶長四五年」一五九九~一六〇一年。

「御二男利政」(天正五(一五七八)年~寛永一〇(一六三三)年)。前田利家の次男で母はまつ。尾張国荒子城(現在の愛知県名古屋市)にて生まれた。父利家が豊臣氏に従い、加賀半国と越中三郡を加増されると、利政もこれに伴い、文禄二(一五九三)年に能登国七尾城の城主となり、同年には豊臣姓を下賜された。後、小丸山城に移り、従兄の前田利好が七尾城に詰めた。さらに文禄四(一五九五)年には羽柴氏を与えられている。慶長四(一五九九)年、父より能登に所領を分与されて大名となった。また、同年には大坂城の詰番衆ともなっている。利家死後の慶長五(一六〇〇)年、豊臣政権五奉行の石田三成らが毛利輝元を擁立して五大老の徳川家康に対して挙兵すると、兄利長とともに東軍に属し、関ヶ原に向かう途中、北陸の西軍方の大聖寺城の山口宗永を陥れたものの、その途上、突如、利長たちは金沢へ引き返した(一説には敦賀城主大谷吉継側の謀略によるとされる)。金沢城へ引き返した後、利長が再出陣するが、利政の方は動かなかった。その原因は、妻子が三成の人質となっていたためともいわれる(「象賢紀略」)。また、利政は家康に対する反発心から、石田三成方に気脈を通じていたとする指摘もある。一説に、利政は妻子の救出を図ろうとしたが、事態が急速に展開して利長が出陣したために、病気と偽り、出陣しなかったのではないかとして、石田方であったとするのを否定する説もある。また、「天寛日記」の一節を論拠に、利政が石田方についたと家康に訴え出たのは他ならぬ利長であったという指摘もある。ともかくも、「関ヶ原の戦い」の後、西軍が敗れたため、利政は能登の所領を没収され、それは兄に与えられた。その後、京都の嵯峨に隠棲して宗悦と号した。本阿弥光悦とも親交があったとされる。慶長一九(一六一四)年からの「大坂の陣」では、両陣営から誘いを受けたが、中立を守ったという。戦後、家康は西軍の誘いに乗らなかった利政の行動を気に入り、利政を十万石の大名として取り立てる打診をしたが、「自分は大野治長の指揮下に入りたくなかっただけで、関東方(徳川氏)への忠節を尽くす行動ではない」と辞退している。但し、利政の大名取り立てに実現しなかった背景には、母の芳春院(まつ)の働きかけにも関らず、家康が言を左右にしたという事情や「関ヶ原の戦い」の時の利政の行動を許せなかった兄利長が拒否し続けた事情があったとする指摘もある。京都の町人角倉与市邸(長女の婚家先)で死去した。享年五十五。墓所は京都府京都市北区の大徳寺にある。なお、利政の子直之は叔父の加賀藩主田利常に仕え、人持組頭(加賀八家)前田土佐守家を立てている(以上はウィキの「前田利政」に拠った)。

「能登の侍從」利政の最終官位は従四位下侍従で能登守であった。

「其尾を斷つて詰(つめ)の城のごときなり」その丘陵の尾根を断ち切って館が構築されてあること。「詰の城」とは本城が平地に建つ居館だった場合に、敵に攻められたら立て籠もるための城を本城の傍に築いたが、そうした支城を「詰の城」と呼んだ。

「休岳山長齡寺」石川県七尾市小島町に現存する曹洞宗休岳山長齢寺。前田利家が能登に建立した唯一の寺で、元は宝円寺と称した。後のこの山号と寺名は利家の父利春(休岳公)と母(長齢院)の法号に拠る。

「二俣川・紅葉川」御祓(みそぎ)川水系の支流と思われるが、不詳。

「所口西町口の神子橋」不詳。現在の同寺周辺には川が見えない。古地図があればいいのだが、この長齢寺が含まれるものを見出せなかった。

「侍從利政公も、御廟爰にあり」前注通り、墓は京都にある。但し、ここに位牌はあるとは思われる。後のグーグル・ストリートビューを見ると、寺への階段の下方に「前田家墳墓」と記された指示板があり、同寺のサイド・パネルでも前田利家の父休岳と母夫人の墓所を見ることが出来る。

「福昌院怡伯宗悅大居士」「大」は附かないようである。]

 

 左れば水江某の咄に、

「頃は今より七八十年も前のことにや。前川家に仕官せし寺田氏と云ふ人、所以ありて此所口に住みけるが、此長齡寺に詣でんと、朝まだきに宿を出づることありけり。其日は九月十五日なり。小鹿鳴く遠山里物哀れなる頃、猿の叫ぶさへ小麿山の巨樹にこたへて、朝霧も深かりしに立出で、町はづれなる新川の橋を渡るに、其頃はまだ小嶋村妙觀院の前入江にして、渺々たるのみなりしを、此新川の水引き用ひて新田を植出す初めの年なりけん、水も多かりし樣に覺ゆ。然るに此仕官を遁れたる寺田氏立ち出でゝ、此所に至る頃は心朦然たりし。此朝は殊に霧深く、咫尺(しせき)も見え分かず。只空程の雲棧(うんさん)を步める心ちして、彼の木橋を渡りけるに、下れば彌々心恍惚として、我ながら我を辨へず。徒に薄光(うすびか)り、空花のみ散りて夢の如し。

 忽ち橋の下より一艘の舟出で、河を棹さし上る。此船中多く人ありげに見ゆれども、霧深くして誰(たれ)なるを知らず。多少をも辨ぜず。人語は凡(およそ)數百人も寄りて密談する如し。

『此船の人に物問はん』

と、河添に隨ひ上るに、先きにも又一艘見え續きて、又々人音聞ゆ。霧裏(きりのうち)定かならずといへども、凡(およそ)二三艘も漕續(こぎつづ)きたるよと覺ゆ。

『こはいかに』

と走り寄り、爰を差覗かんとすれば、河ならぬ前にも又舟音して、左右前後に舟音人語交りたれば、

『先づあれに問はん、是に語らん』

と溝河(みぞかは)を上り行くに、覺えずして長齡寺の坂の側に至る。爰にては川とは逢かに隔たる所なり。梶の音・櫓の音・人音も猶耳元にあり。既に坂の石壇を登り果て、惣門の前「葷酒(くんしゆ)を禁ず」と石碑の前に至るに、猶舟の音櫂の音あり。

『怪しや』

と心付き、振返りて能く見るに、朝日霧隱れに朧々と照り、兩方の林樹修竹(しうちく)の間悉く舟となりて、競ひ合ひこぞり合ひて、霧の海雲の間に押ひたして、凡そ百艘にも及ぶべし。旗を振り幕を飜へして衆人の入違(いれちが)ふ躰(てい)、陣雷の響き山を衝(つ)き谷にこたへて夥(おびただ)し。

『こはふしぎなり。此舟共斯く間近く霧間(むかん)にあるべき筈もなし。いかなる奉行達、何國(いづこ)の郡主達の催しぞや。外海の海上にさへ、斯く寄り集るべき道理もなし。是は我眼氣(ねむけ)の故か、痰氣(たんき)の類(たぐひ)か』

と、目をこすり心を定むれども、彌々(いよいよ)舟を間近く繫げり。

『こはそも怪異の所爲にてあるべし。爰は山上なり、水の來り舟の寄らん樣(やう)なし』

と、急度(きつと)心を改むれども更に替らず。

 舟共の少し遠ざかりたる儘にて、猶ありありと日光うつりて彌々鮮(あざやか)なり。

『是や北方湖上に明公到ると聞きし、彼の蜃氣樓の類(たぐひ)にや。實(げ)にや今朝は西風東へ通り行かず、東風くだりに吹合ひて、兩方に風吹き戰(たたか)ひ、此邊(このあたり)は風止みて雲(くも)靄(もや)のみ厚く立ちたる靜(しづか)なる空なれば、必ず斯(かか)る日(ひ)蛤(はまぐり)の城は立つ物と常に聞きしが、扨は是故に物を近く縮めて見することにや』

と、工夫を付けて見るといへども、兎角に夫(それ)とも定め難し。

『怪しや怪しや』

と打守る所に、巳刻(みのこく)過ぐる許になりし程に、此御菩提寺長齡寺精舍の梵鐘、近く鐘樓より一聲おとづれければ、此華鯨(くわげい)能く吞舟(どんしう)の氣を含むことやありけん。數聲の響に泡の水上に消ゆるが如く啾々として聲あり、暫くの間に悉く消え失せて、忽ち四方の霧も晴れ渡りて、一望平日の樹林田地の形となりにけり。爰に於て得(とく)と海面を見めぐらすに、鹿渡島(かどじま)・島の地・ふで島・屛風崎を盡くして、漁舟に小艇の纔に渡るの外は、奉行衆の設けの舟躰の物一艘も見えす。又あるべき筈の事にもなし。

 彌々怪異に極まれり。

 後に能く尋ね聞くに、此怪異に大(おほ)やう似て、少し宛(づつ)相違せる類(たぐひ)の咄、此邊に多くあり。必ず日は七月十四日か、又は九月十五日の間なり。思ふに此九月十五日は、彼の關ケ原大軍(おほいくさ)の其日なれば、利政公に其舟艤(ふなよそほ)ひの沙汰ありしこと聞えしが、今も猶幽意あるか。國禁の話に至れば、此土(このど)の人といへども恐れ謹みて多くは言ひ出さず。人口にはひそひそと舟怪の趣を語り合ふこと所々なり」

とぞ。

 彼(かの)奉納の俳句、俗吟ながらも、斯ることや思ひ合せけん。自然に其意ありてかゝる吟や奉納しつらんと覺えてふしぎなり。

 此邊には前田五郞兵衞殿・前川播磨守殿の天正年中の事跡は折々殘れども、利政公の小麿山の屋形再び構へ給ひし慶長初年の事跡に於ては、俚諺にだにも殘らず。

 纔かの說も云傳へず、杳として跡なし。其行跡を思ひ計り見るに、一奇の妙境なり。猶强ひて深く求めて、二三里山入(やまいり)の村夫(そんぷ)の話まで尋ねて、左に少し記せり。

[やぶちゃん注:「水江某」不詳。

「頃は今より七八十年も前のこと」本「三州奇談續編 卷 六」の冒頭「雷餘の風怪」には「安永七年五月七日は予が所口に寄宿せし間」の出来事と確述している。続編は既に見てきた通り、確信犯で各話柄が完全に連続性を持っていることがはっきり判る。されば、この安永七(一七七八)年を起算年として全く問題ない。元禄一二(一六九九)年から宝永六(一七〇九)年の間の出来事と限定出来るのである。

「前川家」後の「前川播磨守」の後裔か。「加能郷土辞彙」に『マヘガハセンスケ 前川千佑 前田利家に仕へて百八十石を領した。その子小兵衞は狩野氏を冐し[やぶちゃん注:「おかし」。]、前田利政に仕へて八十石を領し、小兵衞の子與三兵衛は廣瀬氏を稱して利常に仕えた。子採相纏いで藩に仕へる』とあるが、「播磨守」が彼かどうかは確認出来なかった。識者の御教授を乞う。

「寺田氏」不詳。

「小嶋村妙觀院」七尾市小島町のここに現存。長齢寺の北北西五百メートル弱の位置。前が入江というのは腑に落ちる。何なら、スタンフォード大学の「國土地理院圖」(明治四三(一九一〇)年測図・昭和九(一九三四)年修正版)の「七尾」を見られたい。「七尾港」の東奥角の「小島」地区の記名の左上方、護岸堤防の外の海岸線直近に「卍」があるのが、この寺である。

「仕官を遁れたる」寺田某は何故か前川家から出て、浪人していたようである。

「心朦然」ぼうっとして、霧が一面に立ちこめているさまの意でとってはいけない。「心」が「朦然」なのである。則ち、ここに至るまでに既に寺川自身の意識が訳もなく、ぼんやり、うっとしていたのである。

「空程の雲棧」遙か高い空中にでもあるが如き、雲をぬって作られた目も眩む桟(かけはし)。

を步める心ちして、彼の木橋を渡りけるに、下れば彌々心恍惚として、我ながら我を辨へず。「多少をも辨ぜず」その話声が耳に入っているにも拘わらず、その船に乗る人々の人数がどれくらいなのかも認することが出来ない。

「長齡寺の坂の側に至る」長齢寺をグーグル・ストリートビューで見ると、この奥から確かに坂道になっている。中央をクリックして移動されたい。

「葷酒を禁ず」禅宗寺院でしばしば見られる「不許葷酒入山門」と彫った石柱(戒壇石)のこと。「葷(くん)・酒(しゆ)山門に入るを許さず」で、「葷」は精進料理でも使えない禅僧が口にしてはいけない野草(野菜)を指す。「五葷」「五辛(ごしん)」とも呼ばれ、五種の植物を指す。この五種は国や時代等によってやや異なるが、要は臭いが強く、味が濃い、世俗で精力がつくとされる野菜や香辛料を指し、代表的なものは御多分に漏れぬ「大蒜(にんにく)」「韮(にら)」「辣韭(らっきょう)」はまず入り、それに「葱(ねぎ)」「玉葱(たまねぎ)」或いは「生姜(しょうが)」「山椒」といったものである。

「修竹」長く伸びた竹のこと。

「陣雷」不詳。「雷鳴の陣」という語があり、これは、不吉なる雷鳴の際に、宮中に臨時に設けられる警固の陣で、近衛の将官が清涼殿の孫廂(まごびさし)に伺候し、魔を避けるための弓による弦打(つるうち)をして天皇を守ることを指すから、或いはここは船に乗っている武人らが、船中の貴人のために警護のために弓を鳴らす、その音のことを言っているのかも知れない。

「痰氣」漢方では、痰は物の鬱滞により起こるとされ、痰は体中を絶えず巡るのが良いのであるが、胸郭に水が集まって停滞すると、咳や嘔吐以外に眩暈や幻覚などの原因ともなるとされる。

「北方湖上に明公到る」出典不祥。「明公」は非常に地位の高い神人の尊称。或いは、中国の故事由来ではなく、「北方湖上」はこの長齢寺の北西一・五キロメートルにある赤浦潟のことを指すか。

「蛤(はまぐり)の城」「蜃氣樓」に同じい。

「巳刻」午前十時半過ぎ頃。

「華鯨」釣鐘或いはその鐘の音。一説に「華」は「飾りのある鏡」、「鯨」は「撞木(しゅもく)の意とする。鐘の音を「鯨音(げいおん)」とも呼ぶ。

「吞舟の氣」舟をのみ込むほどの鬼神の気。「荘子庚桑楚」に「呑舟の魚」という語があり、転じて「善悪を問わぬ存在や大人物」の意がある。

「啾々」啜(すす)り泣くさま、憂い泣くさまであるが、ここは鬼神の何とも言えぬ慄っとするような音声の謂いであろう。

「鹿渡島(かどじま)」崎山半島先端部に鹿渡島漁港があるので、この崎山半島を指すか。前者には近くに観音島があるが、半島の東に回り込んだ先にあり、長齢寺の位置からは見えない。能登島の旧異名かとも思ったが、見当たらない。

「島の地」不詳。識者の御教授を乞う。

「ふで島」同前。

「屛風崎」現在の能登島大橋が能登島に架橋されてあるが、この瀬戸を「屏風瀬戸」と言い、半島側の東に突き出た岬を屏風崎と呼ぶ。

「必ず日は七月十四日か、又は九月十五日の間なり」ここの東方の富山湾は蜃気楼が有名で、私も何度か見たことがあるが、まさに海上に都市が見える。但し、富山湾の蜃気楼の発生は春から初夏にかけて、三月下旬から六月上旬であって一致しない。

「九月十五日は、彼の關ケ原大軍の其日」「関ヶ原の戦い」は慶長五年九月十五日でグレゴリオ暦で一六〇〇年十月二十一日に当たる。

「利政公に其舟艤(ふなよそほ)ひの沙汰ありしこと聞えし」「舟艤(ふなよそほ)ひ」「艤舟(ぎしゅう)」という語は「船出の用意をすること」を指し、現在も進水後に完全に航行可能にするための全装備を装着させることを艤装と呼ぶ。ここは軍船を発せという指示か。既に利政の注で示した通り、家康軍へ加わった兄利長が彼に出陣を促したのは当然あったであろう。但し、そのような軍船による命令が兄から発せられたということは私は知らない。識者の御教授を乞う。まあ、船路の方が早く着けるから、合戦間近のことならば、あったとして不思議ではない。

「前田五郞兵衞」前田安勝(?~文禄三(一五九四)年)は前田利家の実兄で家臣。ウィキの「前田安勝」によれば、『尾張国荒子城主・前田利春の三男として誕生し』、永禄一二(一五六九)年に主君『織田信長の命で前田家の家督を継いでいた兄の前田利久が隠居し、弟の利家が家督を継ぐが、安勝が利家に仕えるのは利家が越前府中に城を構えてからであった。のちに七尾城代となり、知行』一万三千五百石を『有し、能登国支配を一任されるなど利家からの信頼は厚かった』。天正一〇(一五八二)年に能登棚木城(たなぎじょう)の『反乱鎮圧や石動山合戦に従軍し』、翌年には『能登小丸山城主とな』り、同十二年の「末森城の戦い」での『能登の守備などで戦功が著し』く、『利家が九州へ出陣の際には、物資の補給を担当した』。死後の『家督は子の利好が継』ぎ、引き続き、加賀藩家臣となった。

「天正年中」ユリウス暦一五七三年からグレゴリオ暦一五九三年(グレゴリオ暦は一五八二年十月十五から行用された)。

「慶長初年」文禄五年十月二十七日(グレゴリオ暦一五九六年十二月十六日)に慶長に改元しているので、ここは一五九六年一月三十日(改元されるとその年の元日まで戻って元年とするのが普通)から一五九七年二月十六日の間となる。

「猶强ひて深く求めて、二三里山入(やまいり)の村夫(そんぷ)の話まで尋ねて、左に少し記せり」「三州奇談續編」に入ってから顕著になった〈次話へ続く〉式の枕。

 さても、この手の話は本邦の怪奇談集に非常によく出現するものである。空中に人馬の姿をはっきりと見たケースもある。逆転層による、驚くべき遠く隔たった場所の音が聞こえることは非科学的なことではないし、気象学上の蜃気楼現象として説明もある程度、可能である。また、この寺田なる人物はそうした現実の自然現象としての可能性も射程に入れて考えており、浪人にしておくにはもったいない人物のように見える。彼の精神的或いは機能的疾患による幻視・幻聴と断ずるには、彼自身の見当識が有意なレベルで保たれていることから、私には出来ない。]

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