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2020/07/20

梅崎春生 砂時計 23

 

     23

 

 渋川接骨院は、駅の踏切から線路沿いにしばらく歩き、小さな自動車修繕屋から右に折れ、その小路の数えて六軒目にあった。

 普通のしもたや風(ふう)のつくりで、門をくぐって玄関の前に立つと、ガラス扉に『ほねつぎ』という字が浮き出ている。その字も古びて、周囲から黄色く褪(あ)せかけている。そのそばに大きな表札がかかっていて、『柔道整復師』『漢方和方薬師』この二つの肩書をつけた渋川丈助の名が、筆太に記されてあった。ガラス扉をあけると、とっつきの部屋が待合室になり、それにつづいた十畳敷の部屋が診療室という具合だ。煎(せん)じ薬や練り薬のにおいが何時もそこらいっぱいにただよっていた。

 午前十時、渋川丈助はその診療室にきちんと正坐し、相対した女客の足首に指を触れていた。かるく揉(も)むようにして、筋の具合をたしかめながら、重々しい声を出した。

「お名前は?」

 女客は自分の名を答えて、痛そうに自分の脚を両掌で抑えた。渋川丈助は指をおもむろに離して、悠然と顎鬚(あごひげ)をしごいた。

「かるいネンザをおこしておりまするな」

 渋川丈助の顎鬚は、長さが一尺に余る。齢のせいでもう真白になっている。この老人が町を歩くと、通行人が振り返るほど見事な鬚だ。もちろん老人は朝夕この鬚に、卵の白身など使って、丹念な手入れを怠らない。彼がこんな立派な鬚を仕立てたのは、趣味やおしゃれというよりも、職業上の要求からであった。接骨医だの漢方医などという商売は、相手を威圧し、信頼感をおこさせる必要がある。軽軽しく見られては繁昌しないのだ。それには尺余の白鬚などは、打ってつけの装置であることを彼は知っていた。渋川丈助は顔を左右に振って、その白鬚をゆさゆさと波打たせた。

「腰の筋の弱まりが、とかく足首にやってくる」渋川丈助は重々しく口を開いた。この重々しい口ぶりは職業上のものであった。その証拠にこの老人は、孫と遊ぶ時などになると、ずっとかるい若々しい声を出すのだ。「転びでもなされたかな?」

「はい」女客は神妙に答えた。「悪者にあとをつけられ、暗い夜道を走ろうとして転びまして――」

 待合室に坐って番を待つ男たちの眼が、きらりと光って女客を見た。渋川丈助は右手を伸ばし、傍の戸棚から薬箱と黒い薬壺をとりおろした。女客は膝を押えたまま、まぶしそうに顔を上げて、出窓の方に顔を向けた。午前十時の陽光が、その出窓からさんさんと射し入ってくるのだ。久しぶりの日射しだが、この天気もすぐに崩れて、曇天や雨天に立ち戻ることだろう。渋川丈助は黒壺の蓋をとりながら、女客の足首に視線を据えた。足首には足首の表情があった。足首はその形のまま羞恥と痛みを訴えていた。手当は直ぐに終った。

「いかほど?」裾をととのえながら女客は甘い声で訊ねた。

「百五十円」

 布で指を拭きながら、渋川丈助は柱の方を顎でしゃくった。鬚がしろじろと前後に揺れた。柱には郵便受けみたいな木箱がとりつけられ、診療費は患者がめいめい自分でそれに納入する仕組みになっているのだ。女客は不自由そうに立ち上り、それに百五十円を入れ、小腰をかがめ、すこしびっこを引きながら、玄関の方に出て行った。渋川丈助は待合室の方をみた。待合室の壁には貼紙がしてあり、それにはこう書いてある。『日曜祭日は休診。平日は先着十五名に限り診療。主人敬白』渋川丈助はゆったりと腕を組み、今朝診療した患者の数を胸の中で勘定してみた。先着十五名に限るというのは、老齢でそれ以上診療出来ないというわけでなく、これももっぱら職業上の効果をねらったものであった。事実、一年ほど前から十五名に制限して以来、渋川接骨院には急に来院者の数が増加したようだ。それまでは来院者は平均日に十人ぐらいだったのに、この定めを貼り出して以来、時には二十人ぐらいも押しかけてくる日がある。二十人だと五人があぶれる勘定になる。渋川老人はこのやり方を、戦争中の配給制度から考えついた。配給が制限されると、人間は急にガツガツしてくる。診療の配給制度だって同じことだ。老人は腕組みをしずかに解き、職業用の重々しい声を出した。

「次の方」

 待合室の連中はちょっと顔を見合わせ、その一人がのそのそと立ち上り、右足を引きずるようにして診療室に入ってきた。渋川丈助の前に腰をおろすと、慣れた風(ふう)にズボンをまくり上げ、そそくさと右膝を露出した。そのなま白い膝頭の格好や表情で、丈助はその膝の持主の名を直ぐに思い出した。この患者は以前にも時々やってきたことがある。右膝に弱味を持った若い男だ。

「栗山佐介さんじゃったな」渋川老人は確かめるように上目を使って、じろりとその男客の顔を見た。「また膝をやられたのかね」

「ええ」栗山佐介は膝頭を大切そうに撫で回しながら答えた。「またネンザをおこしたようです」

「あんたの右膝はもともと弱いんじゃから」渋川は両掌を伸ばしてその膝蓋をはさみつけるようにした。「せいぜい可愛がって、いたわらんけりゃならん。そうですな。ふん、やはりネンザをおこしておるようだ」

渋川丈助は指で患部をあちこち確かめるように押した。佐介は唇を嚙み、眉をぴくぴくと動かして、その痛みをこらえた。

「い、いたわってはいるんですが、昨晩、つい取組み合いの格闘をやりまして」

「取組み合い?」老人はじろりと佐介を睨み上げた。「格闘なんか、膝のためにはもっともよろしくないですな。で、相手は? 相手はどんな悪者でしたじゃ?」

 待合室の空火鉢のそばで、抜きかけていた鼻毛の手を休め、牛島康之がぎろりと眼を光らせた。佐介は待合室をちらと振り返り、直ぐに顔を元に戻して、困った顔で困った声を出した。「ワ、ワルモノというほどの奴、いや、ほどの男じゃありませんが、なにしろ力の強い人物で――」

「悪者という奴は、とかく御婦人のあとをつけたり、飛びかかったりするものじゃ」ふたたび棚から別の練り薬の容器を取りおろしながら、老人はもったいらしく言い聞かせた。「だから近頃このあたりでも、ネンザや打ち身の患者が急に増加しましたな。用心せんけりゃならん」

 齢の割にはつやつやした渋川老人の指が容器の蓋を取った。蓋を取った瞬間その練り薬から、薄荷(はっか)、樟脳(しょうのう)、蕃椒(とうがらし)などの入り混った、刺戟性のにおいがゆらゆらと発散した。渋川は竹のへらを使って、それを器用に和紙に伸ばし、いきなりべたりと佐介の膝に貼りつけた。佐介はびくっと神経的に脚を慄わせ、かすかな咽喉(のど)音を立てた。つめたかったのだ。渋川老人はそれを無視して、慣れた手付きでその上に繃帯(ほうたい)をぐるぐると巻き始めた。(やはり夕陽養老院の爺さんたちとは違うようだな)渋川の自信ありげな物腰や動作を観察しながら佐介は考えた。(やはり自分の力で生きて行くやつと、そうでないやつとは、たいへんに違うものだ)佐介は老人の手さばきから視線をはなし、明るい出窓の方に移しながら、ぼんやりした声で訊ねた。

「自宅療法としては、どうするのが一番いいでしょう?」

「湿布じゃな」巻き上げた繃帯に小さな留め金をかけながら老人は答えた。「アオキ、忍冬(すいかずら)、接骨木(にわとこ)、この三つの枝や実や葉を煎(せん)じて湿布する。これが一番ですな」

「アオキ?」

「そら、庭木によくあるじゃろう。赤い楕円形(だえんけい)の実のなるやつ」老人は非現をしごいた。「忍冬、接骨木は上水路の堤にいくらでも生えている。あの堤は水道局のものだが、少少なら折り取ってもかまわんじゃろう。さあ、次の方」

 待合室の三人はちょっと顔を見合わせ、曽我ランコが立ち上って、爪先立って診療室に入ってきた。じゅうたんがよごれてくろずんでいたからだ。曽我ランコは佐介と入れ替わりに座蒲団に坐り込み、かるい声で言った。

「あたし、打ち身よ。なおせて」

「打ち身はわたしの得意ですじゃ」

 学をひけらかすことにおいて得意になっていた老人は、曽我ランコのその言葉に自尊心を傷つけられ、たちまちむっとなった。

「打ち身にもいろんな種類がある。大体十六種類ぐらいに分類出来る。あなたのはどれに該当(がいとう)するか、ひとつしらべて進ぜよう。出して見せなさい?」

 曽我ランコは眼をぱちぱちさせて、ブラウスの胸部に両掌をあてた。そして待合室の方をきっと振り返った。空火鉢を囲んだ三人の男の眼が、好奇のかがやきを帯びて、曽我ランコに集中していた。彼女はややきつい口調で言った。

「こちらを見ちゃダメよ!」

 佐介と牛島は直ちにがたがたと膝を動かして向うむきになった。乃木七郎は牛島から耳たぶを引っぱられ、暴力的に向きを変えさせられた。その三人の背中を確認して、曽我ランコは顔を元に戻した。そしてブラウスが開かれた。壁に面坐した乃木七郎の指が、所在なさそうに動いで、畳の上の卓上ピアノの鍵盤(キイ)をポンと弾いた。牛島がいらだたしげに叱りつけた。

「余計な音を立てるな!」

[やぶちゃん注:「薄荷」本邦産種はシソ目シソ科ハッカ属ハッカ変種ニホンハッカ Mentha canadensis var. piperascens。精油成分には大脳皮質や延髄を興奮させる作用があり、発汗・血液循環促進効果があり、外用すると、局所的に血管を拡張させる作用によって筋肉の緊張や痛みを和らげる働きをする。現在は化学合成されたメントールにとって代わられた。

「樟脳」クスノキ目クスノキ科ニッケイ属クスノキ Cinnamomum camphora の精油の主成分である分子式 C10H16で表される二環性モノテルペンケトン(monoterpene ketone)の一種。クスノキ片を水蒸気蒸留して得られる(現在では主にピネンから化学合成で作られている)。特異香のある昇華性の無色透明の板状結晶で、セルロイドの原料であった他、医療剤(カンフル(ドイツ語:Kampfer)と呼ぶ)・防虫剤・香料などに使用されている。

「アオキ」ガリア目ガリア科アオキ属アオキ変種アオキ Aucuba japonica var. japonica。生葉には配糖体オークビンなどが含まれ、排膿・消炎・抗菌作用があり、古くから民間療法で腫れ物・火傷・切り傷・おできなどの保護や消炎に用いられてきた。

「忍冬」マツムシソウ目スイカズラ科スイカズラ属スイカズラ Lonicera japonica。漢方の生薬としてよく知られる。

「接骨木」マツムシソウ目レンプクソウ科ニワトコ属ニワトコ亜種ニワトコ Sambucus sieboldiana var. pinnatisecta。和名の漢字表記は枝や幹を煎じて水飴状にしたものを、骨折の治療の際の湿布剤に用いたためとされ、現在も民間薬として筋骨挫傷に薬効があるとされる。

 以下、底本も一行空け。]

 

 久しぶりの晴天で、夕陽養老院もここしばらくの暗鬱(あんうつ)の風情(ふぜい)をはらいおとし、生き生きとよみがえったように見えた。

 ねぎ、茄子(なす)、いんげん、胡瓜(きゅうり)、トマトの各畠では、さんさんたる陽光を浴びて、当番の爺さんたちが、虫をつまんで潰したり、病葉(わくらば)をチョキチョキと摘み切ったりしていた。豚舎に残飯を運ぶ爺さん、洗濯場でいそいそと洗濯にいそしむ爺さんたちの姿も見られた。屋根瓦やバルコニーからはさかんに水蒸気が立ちのぼっている。朝食後黒須院長が外出したので、院内には更にゆったりした空気がただよっていた。木見婆は調理室の椅子にもたれて、朝っぱらからうとうとと居眠りを始めていた。東寮階下のどん詰まりの部屋では、昨日の面々が集まって、また何かひそひそと密議を凝らしていた。その一人の滝川爺がふと不審げに頭を上げて、一座をぐるぐると見回した。

「おや、どうも人数がすくないと思ったら、ニラ爺がいないではないか」

「ニラ爺の奴、朝飯を食ったきり、姿を見せないんだ」松木爺が応じた。「一体どこに行ってやがるんだろう。大切な会議だと言うのに」

「実際仕方のない爺さんだ」柿本爺が嘆息した。「我々にかくれて木見婆をゆするし、それで改心したかと思えば会議には欠席するし、あんな頼りない爺、在院者代表から除名したらどうだ」

「いや、いや、除名は性急に過ぎる。わしたちは長い目で見てやらねばならん」遊佐爺がゆったりと発音した。「松爺さん。お前行って、ニラ爺を探して来なさい」

「あそこで今朝も会議をやってるのや」西寮二階の廊下の窓から、ニラ爺は顔を半分だけのぞかせ、東寮階下を指差しながら、甲斐爺と煙爺と森爺に説明した。この三人の爺さんは、かくれんぼや追っかけごっこにおけるニラ爺の常連の相棒であった。「それを知ってるから、俺は朝からあの部屋に寄りつかないのや。会議なんかほんとにくさくさするぜ。かくれんぼの方がなんぼ面白いか」[やぶちゃん注:「煙爺」初出の人物である。すぐ後で本名が「煙田六郎右衛門」と出てくるのだが、恐らくこの「煙田」という姓は「たばた」と読むのであろうと思う。しかし「煙爺」はこれ、私は「けむじい」と読んでおくことにする。]

「そうだ。そうだ」と森爺が相槌を打った。「会議とかくれんぼとじゃ、土台くらべものにはならん」

「おや、誰か立ち上ったぞ。松爺さんらしい」甲斐爺が注意をうながした。「お前を探しに来るんじゃないか」

「便所に立ったんだろう。松爺は割かた便所が近いからな」と煙爺。

「それよか早くジャンケンをやろうよ。今日俺はニラ爺さんと組むよ。何時もの通り、一時間以内に探し出せねば、百円だよ」

「よし。やろう」

 四人の爺さんは二組に別れ、代表を出して勢いよくジャンケンをした。ジャンケンは二三合の後、韮山(にらやま)伝七、煙田六郎右衛門の組の勝ちとなった。煙爺は勝ち誇った声で宣言した。

「いいか、お前さんたちはここで目をつむって、二百数えるんだぜ。それから俺たちを探しに来い。なに、一時間やそこら、きっと隠れおおせて見せるわい」

「大きな口を叩くな」甲斐爺と森爺も闘志をたかぶらせ異口(いく)同音に叫んだ。「一時間はおろか、三十分で探し出して見せるぞ!」

 そして甲斐爺と森爺は両掌を眼にあて、壁を向いて、声たかだかと数え始めた。ニラ爺と煙爺は手をつないで廊下を走り出した。走り出したとは言え、老齢で足が遅いから、やはり二百という数が必要なのであった。ニラ爺組は呼吸をはずませながら廊下を曲った。

「今日は皆が、び、びっくりするようなとこに隠れようやないか」ニラ爺がせわしい呼吸のあい聞に提案した。「ふ、ふつうのとこやったら、直ぐに見付かってしまうぜ」

「そうだねえ。たいていのところには隠れてしまったからねえ。風呂場の風呂桶の中も隠れたし」煙爺は疲労のために速度を落した。「天(あめ)が下には隠れがもなし、か」

「いいとこがある」突然ニラ爺が眼をかがやかして立ち止った。「院長室はどうや。院長室の書類戸棚。今海坊主は外出してるし、丁度好都合やないか。あそこなら一時間かかっても見付かる心配はないぜ」

「院長室とは考えたねえ」

 二人の爺さんは立ち止り、はあはあ言いながら顔を見合わせた。

「やって見るか、思い切って」

「なにしろ百円の問題やからなあ」

 鈎の手廊下の彼方で、今しも森爺と甲斐爺が数を読み終ったらしく、

「もういいかい」

 という声が聞えてきた。煙爺とニラ爺はふたたびハッと顔を見合わせ、無言でうなずき合い、廊下を横っ飛びに飛んで、院長室の前に立ち止った。ニラ爺のかさかさ掌が扉のノブをつかんだ。廊下の彼方から、二人の鬼の声がしだいに近づいてくる。

「もう、いい、かい」

「もう、いい、かい」

 

「もう、いいわよ」

 曽我ランコはブラウスの釦(ボタン)をとめながら、顔だけ待合室の方を振り返った。むっとした表情で壁に面していた三人男は、ごそごそと膝を動かしてこちらに向き直った。渋川丈助はタオルで指を拭きとりながら、もったいぶったせきばらいと共に言った。

「さあ。次の方」

「お前が先だ」牛島が乃木七郎の腰骨をぐいとこづいた。

「お前を待合室に残しとくわけにはいかない」

 乃木七郎はふらふらと立ち上って、診察室に足を踏み入れた。それでも心配なのか、牛島もごそごそと立ち上って、乃木のあとにつづいた。佐介もつられて腰を浮かせた。待合室はそれで空になり、診察室は人だらけになった。渋川丈助はとがめるような眼付きで皆を見回し、やや険しい声で言った。

「そうどやどやと入ってきてはいけませんぞ。患者はどなたじゃ?」

「この男です」

 佐介が乃木七郎を指した。曽我ランコが立ち退(の)いた座蒲団の上に、乃木七郎は悠然と坐り込み、渋川老人ににこにこと笑顔を見せた。老人はむっとしたまま笑いを返さなかった。

「この男は、頭にも打撲傷を負ったんですが」佐介が乃木の傍に坐り込みながら説明した。膝に繃帯(ほうたい)を巻きつけているので、右脚だけは立て膝だ。「その、頭を殴られたのが原因で、なんだか頭のネジがすこし狂ってしまったらしいんです。つまり、記憶がすっかりなくなって、何も憶い出せない。頭のコブもなんですが、この方もひとつ――」「コブの方は治療しなくてもいいぞ」牛島がつっけんどんに口をはさんだ。「コブなんかは手当しないでも、自然に引っこむ。治療費がもったいないよ。先生。その頭ボケの方だけは何とかして貰いたいですな」

 渋川丈助は不機嫌そうに顎を引き、鬚をがさがさと動かした。先ほどの曽我ランコのあいさつ、総員そろってどやどやと診療室に入ってきたこと、それにこの無遠慮な言い方に、老人は少からず感情を害していた。老人は顎を引いたまま、じろりと四人を見回した。

「治療代が惜しいとおっしゃるなら、コブはそのままにしときましょう」老人は薬棚の引出しをガタゴトとあけて、サックの中から天眼鏡を取り出した。「頭のネジの狂い方にも、いろんな種類がある。大別すれば八通り、細別すれば三十二通りもある。わしが今調べて進ぜるから、素人(しろうと)がはたから口を出さないでもらいたいじゃ」

 老人は天眼鏡を乃木七郎の面前にかざし、じっとのぞき込んだ。乃木七郎も相変らず頰をゆるめて、かざされた天眼鏡を通じて、逆に老人の瞳をのぞき上げた。天眼鏡を間にして、両者の瞳はしばらくお互いを眺め合っていた。やがて老人はかるく舌打ちをして、天眼鏡をおさめた。

「これは当分治らないな」威厳を保つために老人は横柄な声を出した。「この仁(じん)の瞳は、黄瞳(おうどう)と言って、一面に黄味がかかっておる。脳漿(のうしょう)が溷濁(こんだく)している証拠じゃ。記憶が戻るには、先ず一ヵ月はかかろう」

「一ヵ月?」牛島がうなった。「とてもそれまでは待ち切れん。薬はないんですか?」

「バカにつける薬はありませんじゃ」老人はそっけない答え方をした。「はい。あなたがた三人で、八百円いただきます」

「八百円?」乃木七郎はとんきょうな声で復唱して、小首をかしげた。もやもやと溷濁した記憶の中に、その『八百円』という言葉が、破片のようにキラッと光ったからだ。

「八百円。ええ、何だったっけ」

「なにか憶い出したか?」牛島がたたみかけた。

「ええ、八百円」乃木七郎は眼をキョトキョトさせた。

「わたしは、八百円、貰う権利がある。あるような気がする」

「何を言ってんだ」牛島は失笑した。「たわごと言わないで、そこをのけ。今度は俺が診療して貰うんだ」

「あんたも頭のネジの方か」老人はつめたく言って、すっくと立ち上った。「残念ながらこの仁で、十五人になる。あんたは明日やっておいで」

「明日?」牛島はぽかんとした顔付きになった。

「ここの規定なんだよ」佐介が牛島の袖を引き、待合室の貼紙を指差した。「診療は一日十五人に限定されているんだ」

 渋川丈助はそのすきに皆の間を通り抜け、すっすっと奥の部屋に引込んで行った。牛島が規定を読み終えた時、老人の姿はもう見えなくなっていた。

 

「ばかにしてやがる!」牛島は奥の間に向って拳固をふり上げた。「なんだい。もったいぶりゃがって。あのヒゲ爺!」

「さあ、帰りましょうよ」曽我ランコは立ち上った。「十五人ときまっているなら、仕方がないじゃないの。でも、あのヒゲ爺さん、案外ヤブね。一ヵ月なんて、あたしも待ち切れないわ」

「わたくしだって待ち切れません」乃木七郎はにこやかに三人を見回した。「わたしは金を持たないんですが、わたしの診察費、どなたか立替えて置いて下さい」

 

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