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2020/07/16

梅崎春生 砂時計 18

 

     18

 

 雨は小止みになったと言うのに、夕陽養老院東南方約三粁[やぶちゃん注:「キロ」。キロメートル。]の空あいで、突然雷がはたはたと鳴りわたった。それは重々しい鳴動を引きずりながら、養老院院長室の屋根にもかぶさってきた。激烈な会談は一瞬途絶えた。黒須院長は大きなハンカチで禿頭や額をごしごし拭きながら、むっと口をつぐんで耐えていた。実を言うと院長は雷が大嫌いであったが、自尊心や体面の関係上、爺さんたちの前で、嫌悪恐怖の色を示すわけには行かなかったのだ。爺さんたちもそこで一息入れて、莨(たばこ)を吸いつけたり、せきばらいをしたり、雷の余響に耳を傾けたりしていた。

 鈍重な雷鳴の余韻(よいん)は、椅子にもたれてうとうとと居眠りしているニラ爺の夢の中にも、じわじわと忍び入っていた。夢の中でニラ爺は、リヤカーを引っぱって懸命に走っていた。走っていたと言うより、走ろうと努力していた。その必死の努力にもかかわらず、足がもつれてうまく走れない。そのニラ爺の背後から、青黒色の大型電車が雷のような音を立てて、ごうごうと追っかけてくるのだ。夢の中でニラ爺は汗みどろになり、手足をばたつかせて絶叫していた。〈そんなに追っかけて来ては、リヤカーにぶつかるやないか。リヤカーがこわれたら、おれ、養老院から追い出されるやないか!〉絶吽の果てニラ爺の意識は、泥沼の底よりポツンと浮き上る水泡のように、ふっと現実に浮き上ってきた。ニラ爺は眼を見開いた。そのニラ爺の眼の前に、卓をへだてて、黒須院長がテカテカ光りの頭をハンカチで傲然と撫で回している。夢の続きからまだ抜け切らない、半睡半覚の状態で、ニラ爺は思わず口走った。

「リ、リヤカーがこわれる。お、おれを追い出す気か!」

 黒須院長の視線も爺さんたちの視線も、一斉にさっとニラ爺にあつまった。ニラ爺の語調があまりに悲しく、せっぱつまっていたからだ。しかし皆から一斉に見詰められたことによって、ニラ爺の意識はとたんに鮮明に復帰した。ニラ爺はきまりが悪くなり、また寝言を発したことについての非難叱責をおそれて、ぎゅっと体を固くした。それがまた一座に対して別の効果をあたえた。断続していた雷鳴がやっとその時に収まった。

「よく言った」松木爺がにこにこしながらニラ爺に耳打ちをした。

「頑張れよ。死んでも退くな!」

「ニラ爺退所の件もそうだ」機敏に議題をとらえて遊佐爺が院長に向き直った。「備品を破損したから退院を命ずるなどと、あまりにも一方的な措置じゃないか。一体そんな権限が院長にあるのか」

「そうだ。そうだ」一同はこもごも唱和した。「リヤカーをこわしたぐらいで、退院とはひどすぎるぞ」

「退院せよとは誰も言っておりません」

 雷鳴が終ったので黒須院長はふたたび元気を取り戻し、悠然と一座を見回した。(ニラ爺のやつ、うまい時にうまい八百長質問をしたな。感心、感心)院長は心の中で、ニラ爺の件は予定通り一応譲歩してもいい、と考えていたのだ。ニラ爺をふくめた爺さんたちに、院長はゆったりした老獪(ろうかい)な笑顔を見せた。

「そういう掲示を出したではないか」滝川爺が我慢ならぬという風(ふう)に詰め寄った。「盗人(ぬすっと)たけだけしいとは院長のことだ!」

「盗人とは何ですか。言葉をつつしみなさい!」さすがに院長は色をなして、滝川爺を叱りつけた。「退所せよとはわたしは言っていない。リヤカー代を弁償せよと言っているだけだ」

「ニラ爺に弁償能力がないのは、判り切った話じゃないか。それに弁償せよと要求するのは、出て行けということと同じことだ」

「それでは、ニラ爺さんがリヤカーを破損した時の状況や条件を、お互いにじっくりと考えてみようではないか」遊佐爺は扇子を取り出して顔をあおぎながら、語調をややゆるやかにした。「韮山(にらやま)伝七爺さんが如何なる状況において、リヤカーを破損したか。それは院内栽培のトマトの行商に出かけ、その帰途に奇禍に出合って。つまりリヤカーがこわれたわけだ。そうだな、院長」

「そうだ」

「するとこれは公務遂行中におきた事件だと言えるな。公務遂行中だから、これはもちろん――」

「待て。待て」そして黒須院長も遊佐爺の向うを張って、引出しの中から大きな舞扇をとり出し、バ々バタと顔をあおぎ立てた。「トマト行商が公務であるかどうか、その点わたしは――」

「なに。公務でないとでも言うのか」遊佐爺は言葉するどく切りこんだ。「これが公務でないとすれば、院長は公務外の仕事に、院内備品の使用を命じたことになるぞ。公私を混同してもいいのか?」

「全然公務でないとは言っておりません」院長は少しひるんで、そのひるみをごまかすために、扇の動きを更に大きくした。「遊佐爺さんが公務と主張するなら、あんたの顔を立てて、一応公務として置きましょう」

「一応も何も、公務は公務だ。公務遂行中の奇禍に対して、弁償を要求するなんて、われわれはそんな無道なことは絶対に許せないぞ!」

「そうだ。そうだ」松木爺が口をはさんだ。「院長はニラ爺に行商を命じながら、その行商手当をまだ払ってないじゃないか。なあ、ニラ爺さん。まだ貰っていないな」

「貰ってない」ニラ爺はこの時とばかり掌をひろげて院長の方にぐっと突き出した。「早く呉れえ、七十円」

 黒須院長は何か言い返そうとしたが、ここで話をもつらせてはこと面倒になると考え直し、ハンドバッグほどもある大きな財布を渋々ポケットから引っぱり出した。十円紙幣七枚をつまみ出すと、ニラ爺のしなびた掌の上に乗せた。ニラ爺の掌は紙幣をつかみ、取返されるのをおそれるかの如く、素早くスッと引込んだ。

「これで支払いましたよ」院長は強(し)いて頰の筋肉をゆるめながら、爺さんたちをひとまわり見回し、木見婆の方に振り向いた。「支払いを確認したね。木見婆さん」

 ニラ爺にかわって居眠りをしていた木見婆は、その声ではっと目が覚め、わけも判らないままあわてて合点々々をした。

「行商手当のことはこれで片がついたと」財布をポケットにしまいながら院長が言った。「さきほど、奇禍という発言があったが、奇禍というのは意外の災難ということだ。リヤカー破損が意外の災難であることはわたしも認めるが、その奇禍が不可抗力によるものか、本人の不注意によるちのか、そこはハッキリさせねばならんとわたしは思う。そのどちらかによって、取扱いもおのずから違ってくるわけだ」

「ニラ爺の奇禍は、当人の不注意だというのか?」沈黙していた柿本爺が発言した。「院長は現場に立ち合っていもしないのに、どうしてそんな断定が出来るのだ?」

「いかにもわたしは立ち合っていなかった」相手方にどんどん点数をかせがれるので、院長は内心大いにあせっていた。「しかし諸君だって、誰も立ち合っていなかったではないか。立ち合ってもいないくせに、不可抗力とは言わせませんぞ」「なにもわしは不可抗力と断定しているわけではない」と柿本爺。「院長はどういう根拠で、当人の不注意だと断定するのか」

「きっぱり断定するわけではないが――」

「断定したではないか。掲示文において!」と遊佐爺が声を高くした。「これひとえに本人の不注意に因するものなるによって、と掲示文にあった。わしはチャンと覚えているぞ。齢はとってもわしの記憶に間違いはない。なんなら階下の掲示文を引っ剝がして持って来ようか」

「掲示文はさっき見たら」と滝川爺が遊佐爺の袖を引いてささやいた。「すでに引き剝がされていたよ」

「わたしはあの翌日、直ちにQ電鉄におもむき、さらに現場に急行して調査した」院長は扇をたたんでパシリと卓を叩いた。「Q電鉄側の言い分では、運転手には何等の落ち度はないとのことだ。向うの手落ちでないとすれば、それはこちらの手落ちというわけになる。つまり当方の過失だな。それに、こう申してはなんだが、ニラ爺さんはあまりにも齢をとり過ぎたため、頭脳の働きが完全という状態ではなくなっている。いささか欠くるところなきにしもあらず、という状態になっている。もちろんこれは当人の責任でなく、年齢というものの責任であって、人間というものは宿命的に、齢をとればとるほど頭のネジがゆるんで――」

「齢をとればバカになると言うのか!」たまりかねたように遊佐爺も扇で卓をパチンと叩いた。「ニラ爺の頭が完全でないとすれば、それより五つ年長のわしはどうなるのだ。わしの頭のネジもゆるんでいるというのか。これは聞き捨てならんことだぞ」

「海坊主がお前のことをバカだと言ったぞ」松木爺が声を極度に低くして、ニラ爺に催促がましく耳打ちをした。

「何とか発言せえ!」

「院長。おれは。ハカか?」そそのかされるままニラ爺はなかば無意識に声を出した。疲労と倦怠のために、ニラ爺の頭は本式にネジがゆるみかかっていた。言おうとしている事柄の軽重も考えず、ニラ爺は頭にうかぶままを反射的に言葉にした。「この俺がバカか。バカとすれば、バカに仕事のつとまるわけがないやないか。沖禎介、横川省三――」

「ニラ爺!」院長は毛虫のような眉をキリキリと吊り上げ、卓を叩いて大喝した。

「ニラ爺!」ほとんどそれと同時に遊佐爺も大声で叱りつけた。何だかわけの判らない人名などを出して、ネジのゆるみを気取(けど)られたら、院長に格好の言質(げんち)をあたえてしまう。遊佐爺はその懸念から叱りつけたのだ。そして遊佐爺と院長は、同時に同質の大声を出したことにおいてびっくりして、お互いに顔を見合わせて眼をパチパチさせた。

「俺はバカやないぞ」ニラ爺はおめず屈せず叫び続けた。「取消せ。俺のバカを取消せ。早く取消さないと、俺にも覚悟があるぞ!」

「取消す。取消すよ。それ以上叫ばないで呉れ!」院長はついにたまりかねて、頭をぺこりと下げた。これ以上ニラ爺に発言を許しては、どんなことをしゃべり出すか判らない。院長はひたすら頭を下げた。「今のわたしの発言は取消します」

「きっと取消すか」

「取消すとも」院長はやっと頭を上げた。「ニラ爺さんの頭のネジがゆるんでいるなんて、諸君の代表者であるわたしにも似合わない重大な失言だった。つつしんで取消します」

「本心から取消すのか」柿本爺がうたがわしそうに眼を光らせた。「ペテンじゃあるまいな」

「本心です」ニラ爺に関してはらわたが煮えくり返っていたけれども、院長は感情をぐっと押し殺しておとなしく答えた。「さきほども言ったように、諸君とわたしとは同甘同苦。ニラ爺さんの頭がゆるんでいるとすれば、当然わたしの頭もゆるんでいることになる。まったくわたしの失言だった。キッパリと取消す」

「取消すか」ニラ爺は言い分が通って、にこにこ顔になりながら、更に強気に出た。「失言を取消したついでに、俺の退院も取消して呉れ。どうせことのついでやないか。取消さないと、俺にも考えがあるよ。へ、へ、へ」

 

 自分がどういう動き方をしているのか、栗山佐介はほとんど判らなかった。ただ反射的にむちゃくちゃに手足を動かしていた。庭の闇から石が次々に飛んでくる。それが天変地異でなく、人為的なものであることだけは、佐介にもはっきり判っていた。石塊(いしころ)が飛んでくる直前に、口笛のような響きと、突撃、という声をたしかに耳にしたのだから。立ち上るもの、伏せるもの、横に動くもの、手と手、足と足とが触れ合い、身体と身体がぶつかり合う。荒い呼吸や声やうめきが部屋中にたちまち入り乱れた。

「総員、庭へ。庭へ飛び出して下さい」懸命にジャンパーが叫んでいた。「敵は庭から石を投げ込んでいる。庭に飛び出してそいつらをとっつかまえて下さい!」

「電燈を消せ!」古机の下にもぐり込んだまま、牛島康之が苦しげに声を張り上げた。「電燈を早く消せ。目標になるぞ!」

 闇の中で乃木七郎はポケットから、四個目の石をつかみ出していた。前の三個が失敗して、ことごとく電燈を外れたために、彼はひどくあせっていた。一方部屋側の方でも、最初の混乱からやや立ち直って、逆に戸外に向って灰皿が飛んできたり、また勇敢に飛び出してくる人影もあった。

「しっかり投げえ!」

 チョビ鬚が叫んだ。チョビ鬚の声も亢奮のため乱れていた。乃木七郎はぬかるみを踏みしめて、四度目の投石の姿勢をとった。わなわなと慄える胸を押ししずめ、ねらいを定めて腕を前方に振った。石塊は掌をはなれ、空気を切って飛んだ。電球がパリンと破裂して散乱した。次の瞬間四周(あたり)はほとんど闇黒と化した。

「当ったぞっ」乃木七郎は獣じみた声を出して飛び上った。盲目的な闘争心が彼の胸にむらむらと湧きおこってきた。五個目の石をつかみ出しながら、彼はふたたびやけくそな声で叫んだ。「命中したぞ!」

「庭へ飛び出せ」ジャンパーは叫びつづけていた。「一部は道路に回れ。はさみうちにして、そいつらを打ちのめせ。一人でも二人でも生けどれ」

「誰か走って行って、電話にとりつけ。百十番を呼び出せえ」机の下から牛島が怒鳴った。その瞬間、曽我ランコがくらやみにつまずいて、よろよろとその机の上にたおれかかった。いい加減くたびれていたその古机は、その衝撃と重量だけでもろくも斜めに歪(ゆが)み、ぐしゃりと横だおしにつぶれた。机と板の間に頭をはさまれ、ぎりぎりと押しつけられて、牛島はけたたましい悲鳴を上げた。「い、いたいよ。百十番。いてててて!」

 曽我ランコの右手はぶったおれたとたんに、何か固いものをつかんでいた。それは横だおしにつぶれた机の脚であった。曽我ランコは小鹿のように敏捷(びんしょう)にはね起きた。力まかせにつかんだ机の脚をベリペリと剝ぎとった。彼女はすでに胸部に投石の被害を受けていた。憤怒の憎悪が彼女の動作をきびきびとさせていた。左掌で疼(うず)く胸部をおさえ、右手で机の脚を打ちふりながら、曽我ランコは窓の方に突進した。眼はやや闇に慣れて、窓はすでにかすかな四角のほの明りであった。闘うことの苦しさよりも、闘うことのたのしさとでも言ったものが、曽我ランコの身のこなしを軽くしていた。油断なく投石に身構えながら、曽我ランコはスラックスの脚を窓のわくにかけ、勢いこめて一挙に身体を窓の外に投げ出した。

「や、やったな!」頭にかぶさったこわれ机をばりばりと突き離しながら、牛島康之は傷ついた牛のようなうなり声を立てた。手も足も出ないような状態で、蟹(かに)のように惨(みじ)めにつぶされたことにおいて、牛島はかんかんになり、自制力を失いかけていた。あたり一面の闇にうごめくすべてのものが、もはや牛島の敵であった。牛島ははずみをつけてはね起き、手足を風車のようにふり回しながら、くらがりの中で荒れ狂った。「こうなりゃ俺が相手をしてやるぞ。おとなしくしてりゃつけ上りゃがって。もうかんべん出来ねえ。矢でも鉄砲でも原爆でも持ってこい。ひとをバカにしやがって!」

 乃木七郎のポケットには、もう石塊は二つしか残っていなかった。彼の手はその二つをいちどきにつかみ出した。もうすでに十個を投げ終えたのか、仲間の一人がぬかるみを蹴って逃げ出してゆく。つづいて一人、彼の肩を突き飛ばすようにして道路にかけて行ったのは、たしかにチョビ鬚であった。家の方から声が上った。

「逃げて行くぞ。あいつらは退却し始めたぞ。追っかけてぶちのめせ!」

 乃木七郎も亢奮のあまりに、正確な判断力を失いかけていた。早くこの二個を投げつけて、逃走にうつらねばならぬ。そのあせりが彼の行動をかえってぎごちなくしていた。鼻の底がむずむずする。くしゃみがいくつも出かかっているのだが、忙しくて出す暇がないのだ。くしゃみはあと回しにして、乃木七郎はあわただしく九度目の投石の姿勢をとろうとした。その瞬間、眉毛からするりと流れた雨滴が、彼の右の眼にすべり込んだ。乃木七郎は左手で眼をおおった。地下足袋がぬかるみにスリップし、彼はとたんによろよろとよろめいた。

「退――散!」

 道路上を猛速度で遁走(とんそう)しながら、チョビ鬚が最後の号令を張り上げた。

 栗山佐介は部屋の入口のところで、背後から腰をぐんと蹴り上げられた。弱い右膝をかばうようにして、佐介は不器用に板の間にころがった。右膝の弱味をかばうのは、あの陸橋から飛び降りて以来の、彼の身についた本能みたいなものであった。そのころがった佐介の体に、四角なごつごつした感じの肉体が、がっしとかぶさってきた。

「畜生め。ふざけやがって!」

 その肉体はふいごのような荒い呼吸と共に、その両手が伸びて佐介の丸刈りの頭をはさみつけ、板の間にゴツンゴツンとぶっつけた。佐介も夢中で両手を伸ばし、そこらの闇をひっかき回した。佐介の手のやみくもな動きが、ぐしゃぐしゃしたものにからまった。それは相手の頭髪であった。佐介は十本の指に憤怒をこめ、髪をきりきりとつかみ、力まかせに横ざまに引きたおした。相手はググッというような声を出して、もろくも引きずりたおされた。今度は佐介が上からがっしと組み伏せた。

「こ、このカレー粉野郎め!」佐介は唇から泡をふきながら、両手をピストンのように動かして、相手の顔面とおぼしきあたりをつづけさまに殴りつけた。「カレー粉を吸わせた返礼に、この拳固でも食いやがれ!」

 曽我ランコもぬかるみに足をとられて、二三度は転びそうになった。素足だからなおのことすべりやすいのだ。しかし彼女はひるまず突進した。突進することが今の瞬間、彼女の生の全部であった。すぐ前方のうすくらがりの中に、輪郭の不確かな人影がひとつ立ちはだかっていた。それは投石の姿勢をとっていた。曽我ランコは本能的にななめに飛び、その人影の頭をねらって、すばやく机の脚をふりおろした。鈍いひびきが掌に伝わって、その人影は姿勢をとたんに崩してよろめいた。膝をついて低くなった。彼女はふたたび机の脚を宙にふり上げ、力まかせにふりおろした。声にならない声を立てて、乃木七郎はそのぬかるみにへたへたとうずくまった。曽我ランコは無我夢中でまた机の脚をふり上げた。憎悪とも苦痛とも歓喜ともつかぬ復雑な衝動が、瞬間曽我ランコの全身をはしりぬけた。曽我ランコは瀆(けが)れた。

 

 丸首シャツがどこからか蠟燭(ろうそく)を探し出し、イガグリが忙しくマッチをすった。板の間の入口では、まだ佐介と牛島がどたばたと組打ちを続行していた。あまりにも格闘に熱中していたので、蠟燭がともされても、両人がお互いに相手を味方同士だと認識するのに、三十秒あまりかかった。相手を認識し合ったあとも、格闘はまだ三十秒ほどつづいた。行き足がついているので、そう簡単にはストップ出来なかったのだ。どたばたはこの一ヵ所だけで、他はおおむね平静に戻りつつあった。襲撃者たちは、乃木七郎をのぞいて、投石完了の後みんな遁走してしまった。ジャンパーの懸命の指揮にもかかわらず、戦果としては乃木七郎の捕獲のみであった。すっかりあたりが静まり、新しい電球がはめられ、新しい光を取り戻した時になって、ジャンパーと赤スカートは初めて戸袋のかげから姿をあらわした。そこは投石から完全に遮蔽(しゃへい)された、安全にして格好の臨時指揮所であった。板の間には拳(こぶし)大の石があちこちにころがり、電燈の笠と球の破片が散乱し、器物はこわれ、壁にはところどころ凹(くぼ)みが生じていた。ソバカスが庭の方に気の抜けたような声で呼びかけた。[やぶちゃん注:「行き足」通常は船などが勢いを維持して走ることを言う。]

「おおい。つかまえた奴を、ここに引立てて来い」

 佐介と牛島はむっとした不機嫌な表情で、お互いに横眼でにらみ合いながら、各自の服の乱れを正し、かつ痛む個所をさすったり揉(も)んだりしていた。乃木七郎が泥まみれのまま、殉教者(じゅんきょうしゃ)の如く引立てられてきた。引立てられながら乃木七郎は、今まで蓄(た)めていたくしゃみを、つづけざまに七つも八つも発散させた。鼻の下から泥が飛び散った。

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