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2020/07/14

梅崎春生 砂時計 15

 

     15

 

 ニラ爺は首を鬱々(うつうつ)とうなだれ、手すりにすがりつくようにして、一歩々々階段を降りた。西寮の廊下に動く人影をちらと眺め、そして東寮の廊下を歩み入った。廊下を踏む足は、ニラ爺の現在置かれた状況を反映して、自(おのずか)ら忍び足になっている。ニラ爺は肩を丸くして、墨汁の一合も呑んだような気持になり、どん詰りの部屋の入口に足を踏み入れた。部屋中の視線がいっせいにニラ爺に集中した。

「どうだった?」

「どうだった?」

「へえ」ニラ爺はさらに肩を丸くして、畳にへたへたとうずくまった。「くたびれた」

「くたびれた、じゃ判らん!」さっきからイライラしていた松木爺が、険のある口調できめつけた。「三十分以上もかかったぞ。一体何を話していたんだ!」

「まあまあ」と遊佐爺がとりなした。「くたびれるのも無理はない。なにしろ相手は海坊主ときてるからな。よしよし、お駄賃にピースを三本上げる。で、どうだった。海坊主は会見を承諾したか?」

「へえ、それが――」ニラ爺は三本の巻煙草を軽くおしいただいた。「栗山書記が来てから、会議をやると――」

「なに、栗山書記が来てから?」松木爺が早飲み込みをして憤然とつっかかった。「三十何分もかかって、そんな返答を貰ってきたのか。何ということだ。子供の使いじゃあるまいし!」

「まだ全部言ってないやないか」さすがにニラ爺もむっとして、語気をやや荒くした。しかしその表情は、憤怒というよりも、踏みつぶされた蟹(かに)に似ていた。「文句を言うなら、全部を聞いてからにして貰おう。途中で一々口を出されたら、おれ、何もしゃべれんやないか」

「判った。判った」滝川爺がニラ爺をなだめた。「これは松爺さんが悪い、松爺さんはあやまれ」

 松木爺はふくれっ面で、不承々々(ふしょうぶしょう)頭をぺこりと下げた。見張り爺たちも窓辺から離れ、ニラ爺を中心として、おのずからなる車座をかたちづくった。その時中庭のかなた、二階の院長室の曇りガラスの窓が一寸ばかり開かれて、そこから黒須院長の双のぎょろぎょろ眼が、こちらをじっと見おろした。院長は呟(つぶや)いた。

「ふん。ニラ爺が戻ったらしいな。影の具合で見ると、取巻いて坐っているらしい。ニラ爺のやつ、ヘマを言って、見破られなければいいが」

「だ、だから俺は頑張ったのや」ニラ爺は痩せ肩をぐっとそびやかした。「そんな返事では皆のところに戻れんと、タンカを切ってやったんや」

「ほう。それはニラ爺さんにしては上出来だったな。よく頑張って呉れました」遊佐爺がニラ爺の肩をやさしく叩いた。「栗山が来ないと会見はしない、そんな筋違いがあるものか。あんなうすのろ書記が来ようと来まいと、わたしたちは会見に押しかけるぞ」

「俺もそう言ってやったんや。あんなうすのろ書記」ニラ爺は遊佐爺の言葉にうまくおんぶした。「そこで俺と院長の間に、はげしい押問答が始まった」

「それで三十分もかかったのか」松木爺が性こりもなく、疑わしげな口をはさんだ。「おや、ニラ爺さん、お前慄(ふる)えているな。なんで慄えているんだ?」

「慄えてるんやない。貧乏ゆすりや」ニラ爺は額をあおくして言い返した。そして慄えを止めようとしたが止まらなかった。「貧乏ゆすりぐらいしたって、いいじゃないか。俺の自由や」

「松爺さんはちょっと口数が多過ぎるぞ」見兼ねたらしく柿本爺がたしなめた。「他人の自由は認めてやらなければいけん」

「それで結局のところ」遊佐爺が言った。「海坊主は会見を承諾したか?」

 黒須院長は猿(ましら)の如く階段をかけ降りていた。そして左右の廊下をするどく見回し、玄関脇の掲示板の前に立った。イタズラの赤インク文字をとどめた告示を勢いこめて引き剝ぐと、素早くくるくる丸め、それを小脇にかかえた。院長の巨軀はふたたび猛烈な勢いで、階段をいっぺんに三段ずつ、ピョンピョンとかけ上った。院長室の扉をしめると、丸めた告示文を大急ぎで書類棚にかくし、また窓辺にかけ寄って、細い隙間から中庭をぎょろりと見おろした。猛烈な運動のために、院長の胸は大きく動悸(どうき)を打っていた。東寮どん詰りの部屋の窓に、その時いくつかの影がばらばらと立ち上った。院長はあわてて窓をおろし、背をかがめて回転椅子に戻った。

「さあ、出かけるとするか」遊佐爺が部屋中を見回した。立ち上らないのはニラ爺だけであった。そのニラ爺の禿げ頭を遊佐爺はいぶかしげに見おろした。「さあ、ニラ爺さん、元気を出して出かけよう」

「俺、ここに残ってる」

「残る?」

「俺、くたびれた」ニラ爺はなさけない声を出した。ニラ爺の顔は恥じと自責で惨(みじ)めに歪んでいた。「ほんとに、俺、くたびれたんや」

「ムリに連れて行かなくてもいいじゃないか」さっきから黙っていた滝川爺が、初めて口を出した。「当人もくたびれたと言っているし、気が進まない様子だから」

「ニラ爺さん」遊佐爺はおごそかに呼びかけた。「お前さんの退所問題も、今夜の議題にのぼるんだよ。もしかすると、お前さんの余生がどうなるか、今夜そっくりきまってしまうかも知れないのだ。いわばお前さんの生命の瀬戸際だ。立ちなさい!」

「出かけたくない何か事情でもあるのか」松木爺が皮肉な口を入れた。

「出るよ」ニラ爺はむっとして松木爺を睨みつけ、のろのろと立ち上った。「出りゃいいんだろう、出りゃ」

「出りゃいいんだよ」遊佐爺が重々しくうなずいた。「出て、自分の言いたいことを、堂々と言うんだよ。なに、海坊主なんか、おそるるに足らんよ。滝爺さん。メモはちゃんとしてるな」

 遊佐爺を先頭にして、一行はぞろぞろと廊下にあゆみ出た。廊下には人影がなかった、かくれんぼ爺さんたちも、もはや遊び倦(あ)きて、めいめいの部屋に引込み、同室の爺さんと雑談をしたり、日記をつけたり、あるいは眠っていたりした。人気(ひとけ)のない廊下を一行は声もなく、粛々(しゅくしゅく)として行進した。黒須院長は回転椅子にきちんと腰をおろし、一行の到着を待っていた。じりじりとして待っていた。こういう緊張した時間というものは、案外に長く感じられるものだが、その緊張の長さに耐えかねて、院長の手は硯箱の蓋を無意味に外したりかぶせたり、机の引出しをあけて書類綴りの耳をつまんだり、揚句の果て引出しの一番底から、ごそごそとなにか写真を引っぱり出した。それは一カ月ほど前院長がしまい忘れていた、一葉の猥写真であった。これは先月の経営者会議の時、経営者の一人の食堂経営者が、ヒヒヒと笑いながら黒須院長に呉れたものだ。(こんなところにしまい込んでいたのか) 院長の眼は一瞬あやしく光って、その手ずれのした写真にじっと見入った。白人の若い女と黒人の若い者が、厚ぼったい絨毯(じゅうたん)の上で、裸身のまましらじらとからみ合っている。遊佐爺一行を待つことのじりじりと、写真の姿態のなまなましさがかさなって、やがて黒須院長の額にべっとりと汗が滲み出てきた。足音がざわざわと階段を登ってきた。院長は写真を急いで書類の間につっこみ、引出しをがしゃりと押し込んで姿勢を正した。(栗山書記のやつ、一体何をしてやがるんだろう)院長は掌を下腹にあてて、大きく深呼吸をした。(早く来院しないと、役に立たないではないか。あのウスノロ書記!)扉が外からこつこつと叩かれた。院長は荘重な声を出した。

「はいれ」

 扉がしずかに開かれた。遊佐爺を先頭に、一行はぞろぞろと院長室に入ってきた。黒須院長は眼をかっと見開き、素早く爺さんたちの数を目算した。(七名だな)そう院長が思ったとたんに、ニラ爺が廊下からちょこちょことすべり込み、扉をしずかにしめた。総勢はニラ爺を交えて八人であった。(ニラ爺を別とすれば、院内のアカ爺は、この七人だな。よし、恫喝(どうかつ)と懐柔。この両面作戦と行こう!)

「院長」立ったまま遊佐爺が呼びかけた。「俺たちは会見に来たぞ」

「まあ掛けなさい」黒須院長は壁の方を顎でしゃくった。そこには折畳み式の椅子がずらずらと立てかけてあった。

「ことわって置きますが――」院長卓をさしはさみ、各自椅子に腰をおろしたのを見定め、院長は相手方をいらだたせる戦術に出た。「諸君の話はうけたまわるが、これは正式の会談ではありませんぞ」

「なに。正式の会見でない」滝川爺が声をたかぶらせた。「それは何故だ?」

「何故かと言うと――」院長は落着いた声で言った。「諸君は八人だが、わたしは一人だ。立会人もいなければ記録者もいない。わたしの発言を、諸君がどうにでも解釈するおそれがある。それではわたしの立場はないではないか。だからこれは正式の会談でなく、予備会談ということにする」

「そんな言い分があるか」滝川爺がいきり立った。「俺があんたに会見を申し込んだのは、昼間ことだ。何故立会人の手配をして置かなかったんだ」

「手配はした」黒須院長はますます落着きはらった。「栗山書記に電報を打った。が、まだやって来ない」

「栗山書記でなくとも、立会人は誰でもよかろう」遊佐爺が長老の威厳をこめて発言した。「階下の事務局員でも――」

「事務局員は全部帰宅した」院長は顎鬚を悠然と撫でた。「院内に残っているのは、わたしひとりだ」

 遊佐爺は何か言い返そうとしたが、思い直して、味方をぐるりと見回した。

「院内にはもう誰もいなかったか。誰か見かけなかったか?」

「炊事係の木見婆さんがいたよ」ニラ爺がとんきょうな声を立てた。「さっき、院長室から戻る時、西寮の廊下の方にいたようだった」

「そうか」喜色が遊佐爺の頰を走った。「ニラ爺さん、ひとっ走りして、木見婆さんをつかまえてきて呉れや」

 黒須院長は、余計なことを、といった表情で、じろりとニラ爺をにらみつけた。ニラ爺はその視線に射すくめられて、身体が一回り小さくなった。そのニラ爺の脇腹を、松木爺の拳骨がごくんとこづいた。

「早く行かんか。早くしないと、木見婆さんは帰ってしまうぞ」

「へへえ」

 ニラ爺はつながれた犬みたいに、上目使いに院長をおそるおそる見た。院長は眼をパチパチさせて、顎をぐいとしゃくった。院長のつもりでは、それは木見婆さんを探すふりして、適当な時刻に手ぶらで帰ってこい、という意味だったが、ニラ爺はそれを、早く探して来い、という意味に受取ったのだ。ニラ爺の顔はやや活気づいた。「早く行きなさい」遊佐爺がはげました。

「へえ」

 綱から放された犬のように元気づいて、ニラ爺は立ち上った。そろそろとあとしざりして扉に突き当り、身をひるがえして廊下に出た。その足音が遠ざかるのを待って、遊佐爺は院長の方に開き直った。

「先ず聞きたい。部屋割りくじ引きの期日が、例年より一カ月も遅れている。毎年の例では、梅雨に入る前、すなわち春季大掃除の翌日に、くじ引きが在院者代表によって行われた。それが一体今年はどうなったのか。院長の怠慢ではないのか」

 

 木見婆は夕陽養老院における唯一人の女性であった。九十九人の爺さんに対して一人の婆さんであったにもかかわらず、さしてチヤホヤされることもなく、近頃はむしろ憎まれている傾向すらあった。憎まれている原因は、彼女が炊事婦であるということと、たいへんに肥っているということの二つであった。前者は近頃の院内食事の不味(まず)さにむすびついていたし、後者は彼女が旨いものばかり食っているに違いないという嫉妬にむすびついていた。

(木見婆さんのことを言っちゃあいけなかったのかな。院長が俺をグイとにらんだが)その木見婆の姿を探し求めて、西寮の廊下をふらふらと歩きながら、ニラ爺は考え、

た。(だって、いるものはいるんだから仕方がない。なんぼ沖、横川でも、いるものはいるし、いないものはいないのだ。しかしそれを口に出したのは、まずかったなあ。おかげでまた木見婆探しのお使いには出されるし――)

 木見婆の姿は西寮のどこにも見当らなかった。ニラ爺はまたくたびれた足をとぼとぼと引きずって戻ってきた。そして食堂の調理場の入口に立ち止った。扉に耳をあてて内部の様子をそっとうかがった。内部には電燈がついて、何かコトコトと音が聞えてくる。

「木見婆さん。木見婆さん」

 ニラ爺はそう呼びかけながら、肩で扉をギイと押した。扉には鍵がかけてなかったのだ。すると調理場のすみの薄暗いところから、何かぶわぶわとふくらんだものが、おそろしい勢いで飛んできて、ニラ爺の身体にぶっつかった。ニラ爺はよろめいた。

「駄目、駄目。駄目だってばさ!」木見婆は両手で懸命にニラ爺の肩を突っ張り、外に押し出そうとした。「爺さんたちは調理場に絶対入っていけない決めになってるんじゃないか。早く出なさいってば。院長先生に言いつけるよっ!」

「へっ、へへっ」ニラ爺も両手をあげ、同じく突っ張りをもって応じながら、厭がらせの笑い声を立てた。いつもはカンの鈍いニラ爺が、調理場のすみの状況から、珍しく早くカンを働かせたのだ。「一体、あんたは、こんな遅く、何をしてるんやね」

 調理場の一隅の巨大な米櫃のそばに、袋がひとつ置かれていた。袋は半分ばかり米が充たされ、その横に一升桝(いっしょうます)がころがり、床に米粒がしらじらと散乱している。米櫃から布袋に米をうつす途中、ニラ爺に呼びかけられ、大狼狽したさまが歴然であった。

「ヘヘっ」ニラ爺はなおも突っ張りをつづけながら、笑いを洩(も)らした。相手が木見婆にせよ、とにかく女性ともみ合うことは十何年来のことで、それがニラ爺をその意味で結構たのしませていた。「院長先生に言いつけるなら、言いつけたらいいやないか。こちらは何も困りゃせん。困るのはあんたの方だろう」

 木見婆は突然突っ張りをやめた。ニラ爺を外に突き出しても、現場をすでに見られた以上は、無駄な話であった。

木見婆はせっぱつまって両掌で顔をパッとかくした。肥満して幅の広い顔は両掌にあまった。彼女はそのまま肩をふるわせて、涙をしぼり出そうとしたが、それはうまい具合に行かなかった。一方ニラ爺は立入禁止の調理場の光景を、さも珍しげにニコニコしながら眺め回していた。木見婆は指の間から片目をのぞかせ、ニラ爺の様子をうかがった。そしてまた指を閉じて、声をしぼり出した。

「オウ、オウ、オオウ」

「一人あたり二畳という広さで、一体人間が生活出来ると思っているのか!」遊佐爺は院長卓をばたんと叩いた。「二畳とはたった一坪だ。いくら我々が老人で、しなびているとはいえども、たった一坪では手足も伸ばせないではないか」

「二畳あれば充分だ」院長もすこし声を荒くした。「わたしは一週間前、板橋の養育院に視察に行ってきた。あの施設の良好な都立養育院ですら、一人当り何畳であるか。わずか一・一畳ですぞ。保護課長の談話では、せめて一人当り一・五畳を、さしあたりの理想としているとのことだった。それを、なんですか、あんたがたは。一人当り二畳も占領して、まだ不平を言うなんて!」

「オウ、オオウ、オウ」

 木見婆は涙は出さず、泣き声だけを立てていた。ニラ爺はニコニコと頰をゆるめて、調理場の中をあちこち歩き回っていた。禁断の場所を大っぴらに歩き回るのは、なんといい気持のものだろう。とがめる者はとがめる力を失い、むしろ逆にこちらがとがめる立場に立っているのだ。今日の昼以来さんざんこき使われた恨みも、仲間を裏切った悩みも、これでいっぺんに晴れてしまって、ニラ爺は軽快にスッスッと歩き回った。戸棚の前に立ち止り、砂糖壺から大きな白砂糖のかたまりをつまみ上げ、口の中にぽいとほうり込んだ。純良な甘味がニラ爺の口の中にじわじわとひろがり、舌の根に沁み込んだ。

「旨(うま)いなあ」ニラ爺は舌を鳴らして木見婆の方に振り向いた。「木見婆さん。泣かなくてもいいやないか。特別のはからいで、海坊主には黙っといてやるよ。そのかわり、時には皆にないしょで、俺に砂糖だのカンヅメだの――」

 そしてまたニラ爺は砂糖のかたまりを口の中に投げ込んだ。木見婆は安堵したように啼泣(ていりゅう)を中止して、調理場のすみに行き、大急ぎでこぼれた米粒を拾い始めた。三つ目のかたまりを口に入れ、しゃがみこんだ木見婆を見おろしながら、ニラ爺が言った。

「早く拾い集めるんだよ。早く行かないとまた叱られるからなあ」

「どこに行くの?」木見婆は顔をあげて、乾いた声で言った。

「院長室さ」ニラ爺は指先に付着した砂糖をべろべろと砥(な)め回した。

「今、遊佐爺さんたちと院長とが、会議をやってんのや。それであんたが立会人になるんだよ」

「立会人?」木見婆が不安げに発言した。「立会人って一体なにさ。あたしゃイヤだよ、そんなヘンテコリンな役目」

「そんなヘンテコリンな論理があるか」滝川爺がとげとげしい声を出した。「都立養育院はタダじゃないか。入院費は不要じゃないか。しかるに俺たちは、入院するに当って、ちゃんと入院費というものを支払っている。いっしょにされてたまるか。三畳確保は最初からの約束だ」

「三畳確保は戦前の約束だ」黒須院長は怒鳴り返した。そして引出しから在院者名簿を引っぱり出して、勢いこんでぺらぺらとめくった。

「ええ、ええと、タの部か。滝川十三郎と。滝川十三郎、昭和十七年入月入院か。滝爺さん、あんたは昭和十七年入院で、入院費はその時八百円だ。あの八百円当時の約束が、今でも継続していると思っているのか。常識でもって考えても判る筈だ。ね、その間に日本は負けたんですぞ。日本は四つの島にちぢんだんですぞ。日本がちぢめば、自然とあんた等の住居の広さもちぢんでくる。当然の話ではないか。他のものがすべてちぢんだのに、自分だけ元のままでいようというのは、虫がよすぎるよ。そういう利己心はこの際、一切捨てて貰おう。そうでないとわたしは、あんたがたとお話しは出来ません!」

 [やぶちゃん注:「沖、横山」「13」に出た帝国陸軍のスパイ。]

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