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2020/07/20

先生「御孃さんと一所に出たのか」――K「左右ではない。眞砂町で偶然出會つたから連れ立つて歸つて來たのだ」……お孃さん「何處へ行つたか中(あ)てゝ見ろ」(笑いながら)



 「私はKに向つて御孃さんと一所に出たのかと聞きました。Kは左右ではないと答へました。眞砂町で偶然出會つたから連れ立つて歸つて來たのだと說明しました。私はそれ以上に立ち入つた質問を控へなければなりませんでした。然し食事(しよくし)の時、又御孃さんに向つて、同じ問を掛けたくなりました。すると御孃さんは私の嫌ひな例の笑ひ方をするのです。さうして何處へ行つたか中(あ)てゝ見ろと仕舞に云ふのです。其頃の私はまだ癇癪持でしたから、さう不眞面目に若い女から取り扱はれると腹が立ちました。所が其處に氣の付くのは、同じ食卓に着いてゐるものゝうちで奥さん一人だつたのです。Kは寧ろ平氣でした。御孃さんの態度になると、知つてわざと遣るのか、知らないで無邪氣に遣るのか、其處の區別が一寸(ちよつと)判然(はんせん)しない點がありました。若い女として御孃さんは思慮に富んだ方でしたけれども、其若い女に共通な私の嫌(きらひ)な所も、あると思へば思へなくもなかつたのです。さうして其嫌な所は、Kが宅へ來てから、始めて私の眼に着き出したのです。

   *

 私はそれ迄躊躇してゐた自分の心を、一思ひに相手の胸へ擲(たゝ)き付けやうかと考へ出しました。私の相手といふのは御孃さんではありません、奥さんの事です。奥さんに御孃さんを吳れろと明白な談判(だんぱん)を開かうかと考へたのです。然しさう決心しながら、一日(にち)/\と私は斷行の日を延ばして行つたのです。さういふと私はいかにも優柔な男のやうに見えます、又見えても構ひませんが、實際私の進みかねたのは、意志の力に不足があつた爲ではありません。Kの來ないうちは、他の手に乘るのが厭だといふ我慢が私を抑へ付けて、一步も動けないやうにしてゐました。Kの來た後(のち)は、もしかすると御孃さんがKの方に意があるのではなからうかといふ疑念が絕えず私を制するやうになつたのです。果して御孃さんが私よりもKに心を傾むけてゐるならば、此戀は口へ云ひ出す價値のないものと私は決心してゐたのです。恥を搔かせられるのが辛いなどゝ云ふのとは少し譯が違ひます。此方(こつち)でいくら思つても、向ふが内心他の人に愛の眼(まなこ)を注いでゐるならば、私はそんな女と一所になるのは厭なのです。世の中では否應なしに自分の好(す)いた女を嫁に貰つて嬉しがつてゐる人もありますが、それは私達より餘つ程世間ずれのした男か、さもなければ愛の心理がよく呑み込めない鈍物のする事と、當時の私は考へてゐたのです。一度貰つて仕舞へば何うか斯(か)うか落ち付くものだ位(くらゐ)の哲理では、承知する事が出來ない位私は熱してゐました。つまり私は極めて高尙な愛の理論家だつたのです。同時に尤も迂遠な愛の實際家だつたのです。


『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月20日(月曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第八十八回より)

今一度、以下の事実を思い出してみ給え。

   *

 「十一月の寒い雨の降る日の事でした。私は外套を濡らして例の通り蒟蒻閻魔(こんにやくえんま)を拔けて細い坂路を上(あが)つて宅へ歸りました。Kの室は空虛(がらんど)うでしたけれども、火鉢(ひはち)には繼ぎたての火が暖かさうに燃えてゐました。私も冷たい手を早く赤い炭の上に翳(かざ)さうと思つて、急いで自分の室の仕切を開けました。すると私の火鉢には冷たい灰が白く殘つてゐる丈で、火種(ひたね)さへ盡きてゐるのです。私は急に不愉快になりました。
 其時私の足音を聞いて出て來たのは、奥さんでした。奥さんは默つて室の眞中に立つてゐる私を見て、氣の毒さうに外套を脫がせて吳れたり、日本服を着せて吳れたりしました。それから私が寒いといふのを聞いて、すぐ次の間からKの火鉢(ひはち)を持つて來て吳れました。私がKはもう歸つたのかと聞きましたら、奥さんは歸つて又出たと答へました。其日もKは私より後れて歸る時間割だつたのですから、私は何うした譯かと思ひました。奥さん大方用事でも出來たのだらうと云つてゐました。

『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月19日(日曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第八十七回より。太字・下線は私が附した)

   *

前の――富坂下が泥々になるような「寒い雨の降」っているとんでもない天候の時間帯に――お嬢さんは一体――何の用があって――何処に行ったのだろう?――そうしてその行先は――読者である我々だけではない――親しいはずの先生にさえ――当てられない場所――なのだ……

翻って見よ――またしても其日もKは私より後れて歸る時間割だつた」のに先に帰っていたである――Kの部屋の火鉢は「繼ぎたての火が暖かさうに燃えてゐ」た――そうだ――Kが授業を端折って「歸つて」来ながら、雨の中を「又出た」のは先生が帰宅した、ついさっきなのだ――Kは一体何の用があって――こんな雨の中を――何処へ行ったのだろう?――先生の心落ち着かない書見などは短かい時間だったと考えるのが自然だ――但し、雨は止んでいた――そうして――先生は散歩に出、西富坂を下って東富坂の上りのとば口で二人連れの彼らに遭遇したのだ――

これらの〈事実としての不審の恐るべき堆積〉は、よく考えて見れば、誰が見てたって海中にそそり立つ牡蠣群のそれのように〈不審の忌まわしくも屹立する山〉と言えるではないか――

 

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