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2020/07/13

梅崎春生 砂時計 14

 

     14

 

 牛島は茶碗を手にしたまま、大きなくしゃみを続けざまに二つした。茶碗はその度に上下に揺れ、ウィスキーの相当量を畳にふり落した。足の裏でそれを拭きながら、彼は忌々(いまいま)しげにつぶやいた。

「畜生め。誰かどこかで俺さまの悪口を言ってやがるな」

「悪口のせいじゃないよ」佐介は不機嫌な手付きで窓の方を指差した。「カレー粉だよ。カレー粉のせいなんだ」

「あっ、そうか。カレー粉か。なるほどな」牛島は合点合点して窓を見上げ、小指を鼻孔につっこみ、カレー粉をかき出すようにしながら、鼻声になった。「うん。こんなところに住んでいると、ハナクソが黄色になるだろうなあ。だから早く引越すんだな」

「ハナクソだけじゃないよ。ハナクソだけにとどまるものか。カレー粉は鼻の穴を通過して、咽喉(のど)に行く。咽喉からさらに肺の方にくだって行く。また咽喉から胃に落ちて行く場合も考えられるね。なにしろ空気といっしょだからな、肺も胃もすっかり黄色になっちまう」佐介の口調はすこしずつ熱を帯びてきた。牛島はきょとんとした顔つきで聞いている。「あんな強い刺戟物が、たとえ微量にせよ、毎日々々肺や胃に入って行く。そして臓器の細胞を刺戟する。刺戟した揚句に吸収される。吸収されると肝臓に回る。紙巻煙草の煙ですら、長い間には肺癌(がん)をひきおこすのだ。それより強い刺戟物が、毎日々々遠慮もなく入ってくる。そうすれば一体僕らの身体はどうなるか。ほったらかしてもいいものであるか――」

「そりゃ放っとけないだろな」牛島は電熱器から焼けたパンをつまみ上げ、引裂いて自分の口に投げこんだ。「で、それはやはり、工場の設備が悪いのかね?」

「そうなんだ」佐介はうなずいた。「原料の草根木皮、これを砕くのはウスとキネの器械なんだが、それを混ぜ合わせる作業と小壜(こびん)に詰め込む作業は、これは器械じゃない。手でやるんだ。つまり手工業なんだ」

「じゃ従業員たちもつらいだろう」

「勿論つらいさ。そこで彼等は全員マスクをかけて仕事する。しかしマスクをかけても、カレー粉はやはり侵入するんだな。仕事が終っても咽喉がヒリヒリするそうだ。仕事が終ると、彼等は工場内につくられた風呂に入る。その大きな浴槽の新湯(さらゆ)が、十人も入るとすっかり黄色になってしまうんだ。たいへんなものだよ。そして風呂に入ってゴシゴシこすっても、身体からカレー粉がすっかりなくなるわけじゃない。風呂から上って帰途につく。その途中で汗が出るな。その汗をハンカチで拭くと、ハンカチがやはり黄色に染まるんだよ。つまりこれは、カレー粉が皮膚の表面だけでなく内部にまで浸透している証拠だね」

「たいへんだな」牛島は初めて共感の色を見せた。「そんなところでよく働く気になるな」

「従業員のことはあととして――」佐介は胸ポケットから小さな皮手帳を出して、頁をそそくさとめくった。「その混ぜ合わせ、詰め込みの作業場の窓から、カレー粉が外に流れ出る。ふわふわと流れ出る。もっともカレー粉の全部が流れ出るわけじゃない。成分の中の軽いやつだけだ」

「軽いやつと言うと?」

「一番軽いやつは」佐介は手帳の頁に眼を近づけた。「コショウだ。こいつは一粒五十六ミリグラムしかない。このオッチョコチョイが真先に立って流れ出る。流れ出ては風に乗り、あちこちただよい、他人の家に無断で忍び込み、現にあんたの鼻の穴にまでもぐり込んで、大きなくしゃみを二つもさせた。そういうわけなんだよ」

「ふてえやつだな」牛島は鼻を撫でながら、彼方ガシャガシャ音の方向をにらみつけた。「それにしても、コショウがそんなにオッチョコチョイ野郎だとは初耳だったな。いい学問をした。で、それからどうした。相手の大将と交渉したか。なんならおれが一肌ぬいで、ゆすぶってやろうか」

「駄目、駄目」佐介は忙しく掌をふった。「敵の大将なるものは、そんなカンタンな奴じゃない。修羅吉五郎と言って、ここら一帯のちょいとしたボスなんだ。しなびたような小男なんだけどね。相当の悪者で、前科も三犯か四犯ぐらいはあるらしい。あんたなんかが行っても、逆にゆすぶられちゃうだけだよ」

「あんたなんか、とは何だ!」牛島が聞きとがめて語気を荒くした。「なんか、とは軽蔑の言葉だぞ!」

「失礼しました」佐介は素直にぺこりと頭を下げた。「そして僕らは集まって相談し、代表を選出した。作業場の窓をとざせ。塀を高くしろ。そんないくつかの条項を記した決議文を、工場内の応接間で修羅吉五郎に手渡したんだ」

 佐介は言葉を切って、コップをとり上げた。佐介の顔もすっかりあかくなって、先ほどの疲労の色もほとんど消えている。舌をタンと鳴らしてウィスキーを飲み干した。牛島もそれにつられて茶碗をとり上げながら、話のつづきを催促した。

「それで、断られたか?」

「ううん」佐介は肯定とも否定ともつかぬあいまいな返事をした。

「粉が四散するのは、混ぜ合わせ、詰め込みの作業が手工業のせいなんだ。これを機械で一貫作業にすれば、粉が外に流れ出ることはない。そう吉五郎が言うんだ。そこでこちらは、じゃ、早くその機械を据えつけろと要求した。すると吉五郎の答えは――」佐介はまた手帳の頁をぺらぺらとめくった。「うん。ここだ。ドイツのリッカーマン社の充填機(じゅうてんき)、これを買い込む予定になっていて、これさえあれば飛び散るうれいはない、と言うんだ。何時頃買うんだと質問したら、それが何時か判らんと言うんだよ」

「へえ。そいつはムチャな言い草だな」

「ムチャだろう。だから僕らもカンカンになって、何故判らんのかと、詰問したんだ。すると吉五郎は、これは外国の機械であるからして、通産省に輸入申請しなけりゃならん。ところが輸入申請をするにはしたが、いまだに許可が下りないという返事だ。木で鼻をくくるような答え方なんだ。なんなら君たちの方で、早く許可が下りるように、通産省にかけ合ったらどうだ、などとぬかしゃがる」

「窓をしめろ、という件はどうなった?」

「窓を閉鎖したら、従業員が窒息するからイヤだと言うんだ」

「塀は?」

「塀を高くするには金がかかるし、塀が完成したとたんに充填機が到着したら、工事費が全然ムダになる。その時の保証はどうして呉れると、逆に居直られた」

「うん。なるほどなあ」牛島は感心して首をかたむけた。「向う様にもいろいろと仕事のやりくりの都合があるんだろうなあ」

「そうだ。向うの頭にあるのは、仕事のやりくりの都合だけなんだ」佐介は声を高くした。「ところがこちらは、毎日々々、現実にカレー粉を吸い込まされているわけだろう。任意に吸い込んでいるんじゃなくて、強制的に吸い込まされているのだ。現にあれがカレー工場になって以来、ここら一帯に喘息(ぜんそく)や肝臓病が激増した」

「ふん。じゃ、警察に訴えたらどうだい」警察、という言葉を発音する時、やはり牛島は神経質に眉をひそめ、おどおどと周囲を見回した。「この世に弱味なき人間なし!」

「相手のすべての退路を絶て!」被害者意識から一瞬加害者意識に立ち戻って、佐介も今週の標語を唱和した。「ところがねえ、牛さん、警察は筋違いなんだよ。こういういざこざは、区役所の建築係か、都の建築局設備課、そういうところで処理するんだ。もちろん僕らはそちらにも手を打った。ところが相手はお役人だろう。手続きは煩雑だし、仕事はのろのろしているし、陳情したって一向にらちがあかないんだ。お役所というところは、白川研究所以上にナマケモノぞろいだ」

「何を言ってる。研究所でナマケモノはお前さんだけだ」牛島はきめつけた。「しかしまあ、役人がナマケモノぞろいというのは、俺もまったく同感だな。俺は、昔、子供の頃、都庁、いや、その頃は東京市役所だ、そこで給仕を三年ばかり勤めたことがある。だから役人がナマケモノぞろいだということは、身に沁(し)みて知ってるよ」

「へえ、あんたは給仕をやってたのかい」佐介はもの珍しげに牛島の顔をじろじろと眺めた。「さぞかし可愛い給仕だったろうねえ」

「ああ、実に可愛いもんだった」

 その時佐介はあわててポケットから塵紙を取出し、顎(あご)をだらしなく下げて、大きなくしゃみをした。すると牛島も大急ぎで茶碗を畳に置き、それに唱和した。くしゃみが終ると、牛島はまた窓のかなたをにらみつけた。

「ひでえもんだな。ほっとく手はねえやな、あんなの。取締る法律はないのかい?」

 「そんな法律は、残念ながら、今のところはないのだ」佐介はふたたび皮手帳をつまみ上げて、頁をひらいた。顔を近づけた。「現在、鉱業に対する鉱山法、河川汚染に対する河川法、騒音では各府県の条例なんかがあるにはあるんだが、そいつはみんな散在してるような具合でね、それらの公害を体系づけた法律はまだないんだ。今のところ、被害者が民事訴訟であらそう他はないんだな」

「お前さんの手帳には――」膝を乗り出しながら牛島が呆れたような声を出した。「また実にいろいろなことが書き込んであるんだなあ」

「そうだよ。書いとかないと、忘れてしまうからね。あんたは手帳やメモは使わないのかい?」

「使わないな。使わねえ主義だ」牛島はさげすむように手帳の方を顎でしゃくった。「俺は全部を頭の中にたたきこむ方針なんだ。手帳やメモにたよるから弱くなる。行動的じゃなくなるんだ。お前さんもそんなにせインテリ趣味は早く止めにした方がいいぞ。メモはメモだけに終って、メモ自身からは何もうまれっこないんだぜ。現にお前さんはさっきから、その手帳ばかりいじくって、ここから退いてはいけないなどと力んではいるが、つまるところ力んでるだけの話じゃないか。それにくらべるとこの俺は、さっきからくしゃみを三つしただけで、もうそろそろ本式に腹を立てているんだぞ」

「それはそれとして――」痛いところをつかれて狼狽(ろうばい)しながら、佐介は話をごまかした。「次の国会に、公害法という法案が、あるいは上程されるかも知れないんだ。そういう情報もあるにはあるんだけれどね。それが通れば修羅印カレー工場は、早速その法律に触れることにはなる。もちろんそれまで僕らは手を束ねて待つわけじゃないが――」

「公害法?」

「そうだ。公害法。騒音だの空気の汚染に対する法令だね」

「井戸水の汚れも入るか?」

「もちろんだね。それから放射能汚染。いずれ日本にも原子炉が出来るかも知れないからね」

「もうその手帳はいい加減にひっこめろよ」牛島はうんざりした声を出した。「お前さんが手帳だの脅迫状などを持ち回っているやり方が、俺はほんとに気に食わねえんだ。ついでにそいつも電熱器に乗せて燃しちゃえ」

「飛んでもない」佐介は手帳を閉じて、大急ぎで内ポケットにしまいこんだ。「これを燃しちゃうと大変だ。カレー粉工場の従業員から、苦労して聞き出したメモもあるんだから」

「従業員にも会ったのか」

「そうだよ」佐介は軽くうなずいて、牛島の手首をひょいとのぞき込んだ。「まだ一時間経たないのかね」

「経つわけがあるか」牛島はパッと手首を裏返しにして、腕時計を見せないようにした。「すこし腰を落着けろ。そわそわするな!」

 それから二人は顔を見合わせ、少時(しばらく)黙りこみ、騒音と刺戟臭のただよう部屋の中で、しきりに手や口を動かし、ウィスキーを含んだり、ハムをつまんだり、トマトを齧(かじ)ったり、パンの耳を引裂いて口に押し込んだりした。忙しくその作業に没頭することによって、時間の遅れを取り戻そうとするかのように。――雨は相変らずトタンの屋根を濡らしていた。入口の釘にぶら下げた牛島のレインコートから、土間の空罐に、まだ水滴がチピ、チピと音を立てて落ちている。電熱器のうずまきニクロム線はあかあかと灼け、そこらに電報の白っぽい燃えかすがこびりついている。

(今晩在院者と会見す、とはどういうことだろう?)さっきの電報の内容のことを佐介はちらと思案した。(何か事件でも突発したのかな。会見。黒須院長が会見を中し出たのか、在院者が中し込んだのか。院長の方からだったら、しかし会見とは言わずに、訓示とか引見とかそんな表現をする筈だ。するとやはりこれは在院者が申し込んだものだろう。爺さんたちにも相当に不平家がいるからな。もしかすると在院者たちに、残飯のことが発覚したんじゃあるまいか。そうだとすると、これはちとうるさいぞ)

「で、修羅印カレーの従業員たちは」手近のものをすっかり平らげ、両掌で胃の上を撫でおろしながら、牛島が言った。「そんなイヤな職場で、そんな不健康な場所で、一体どういう気持で働いているんだい?」

「気持?」

「うん。気持だ」牛島の眼は酔いと好奇心のためにキラリと光った。「今時分までガシャガシャやってるところを見ると、奴さんたち、残業をやっているんだろう。定時労働だけでも黄色い汁、いや、黄色い汗が出るというのに、何を好んで残業までする気持になるんだろうな。ライスカレーを三杯食べて、更に二杯詰め込むようなものじゃないか」

「気持じゃないよ。気持だけで仕事なんか出来るものか。わけは簡単だよ。残業手当が多いからだよ」

「いくら残業手当が多いからって――」

「本給がそのかわりに、べらぼうに少いんだよ。若い女工員なんかには、月二千五百円か三千円程度の給料しか支払っていないんだ」佐介は内ポケットに手をやり、無意識裡に手帳をひっぱり出そうとして、あわてて元に押し込んだ。牛島がじろりとにらみつけたからだ。「ええと、労働基準法によるとだね、時間外労働には、定時給のたしか二十五パーセント以上を支給しなけりゃならないことになっている。ところがこの修羅工場では、その倍の五十八パーセントぐらいを払っているんだ。五十パーセントの手当で残業を釣るわけだね。だから従業員たちは、本給だけでは食えないから、自発的に残業をするということになる。無理な残業をして、顔や手足は言うまでもなく、鼻や咽喉や内臓まで黄色になって、まるで人間の形をしたタクアンになって、それでやがては働けなくなり、工場からおっぽり出されてしまう。一人がおっぽり出されれば、また新しく別のが入ってくる。今失業者はうようよしてるからねえ」

「それで、修羅工場の製品は、よく売れてるのかね?」

「うん。相当に出てるようだ。カレー粉なんてものは、料理に使って安上りなものだから、不景気になればなるほど、よく出るものらしいんだ。月給取りだって、シケたやつほどカレーライスをよく食べるものね」

「おい。お前は俺を侮辱する気か」と牛島は口をとがらせた。「俺のことをあてつけて言ってるな」

「いや、そういうわけじゃない」佐介は掌をひらひらと振った。「僕だって、こんなとこに住んでなきゃ、今日の昼飯に富岳軒のカレーライスを食べているよ。富岳軒も修羅印カレーを使っているんだ。この間料理場をのぞいたら、棚の上に修躍印の特大罐が乗っかっていたよ。それを見ただけで、僕は胸がムカムカした」

 くぐり戸をくぐってひとつの足音が、小屋の入口にしのびやかに近づいてきたが、それはガシャガシャ音に紛(まぎ)れて、二人の耳には入らなかった。足音は入口に立ちどまり、少時(しばらく)小屋の内部をじっとうかがっていた。やがて板扉がコツコツと叩かれた。牛島はぎょっとして入口の方をふりむき、片膝を立てて身構えた。身構えたと言うより、遁走(とんそう)準備の姿勢をとったという方に近かった。

「どなた?」と佐介が声をかけた。「どなたさんですか?」

「あたしよ。曽我よ」女の声が戻ってきた。風邪でもひいたようなしゃがれ声だ。「連絡係の曽我ランコよ。入ってもいいですか」

 たてつけの悪い板扉ががたごとと開かれて、若い女の顔が戸外の闇を背景として、しろじろとうかび上った。曽我ランコは紺色のスラックスとチェックのブラウスをつけ、それに番傘を手にしていた。番傘からは雫がぽたぽたと垂れていた。

「ああ、曽我君か」佐介は酔いであからんだ顔色をごまかすように、掌で頰をしきりに撫で回した。牛島はまだ片膝を立て、警戒の色を解かず、曽我ランコの一挙一動を見守っている。曽我ランコはその視線を黙殺して、番傘を板壁の遊んでいる釘につるし、草履を脱いで部屋に上ってきた。穿(は)いていたのは男ものの板裏草履だ。濡れた白い素足がそのまま畳をやわらかく踏んだ。

「会議には欠席するんですか?」

 小机の横にごそごそと膝を折って坐りながら、曽我ランコはしゃがれ声で言った。牛島は警戒の色をややゆるめ、膝を横に寝かせ、また茶碗をとり上げながら、新人者のスラックスの腰の線を横目で眺めていた。スラックスの地は薄く、肉体の線をしなやかに浮き立たしている。牛島はそこから視線をムリに引き剝(は)がして、耐えがたきを耐えるような表情になり、茶碗の中のものをやけにぐっと飲み干した。曽我ランコはよく動く瞳で、そこらのウィスキーや竹の皮や電熱器などを見回した。佐介が口を開いた。

「いや、そろそろ出かけようかと、思っていたところだよ」

「今夜の会合は、昨晩以上にてんやわんやになりそうですよ」曽我ランコはむしろそのことが楽しいらしく、そそのかすような口調になった。「もしかすると今晩、殴り込みということになるかも知れないのよ」

「風邪でもひいたのかい、声ががさがさしているようだが――」佐介はちょこちょこと立ち上り、湯呑みを持って戻ってきて、それに瓶の残りを注ぎ込んだ。曽我ランコの膝の前に押しやった。「梅雨時の風邪はなおらないと言うから、用心したがいいよ」

「殴り込みとは面白いな」牛島が傍でわざとらしくひとりごとを言った。無視されたことも面白くなかったし、佐介がウィスキーを見知らぬ女についでやったことも面白くなかった。(なんだい。もともと俺が買ってきたウィスキーじゃないか)

「風邪の気味もあるけれど」曽我ランコは首をやや傾け、平気で湯呑みをとり上げて唇に持って行った。「今日のお昼、代表の人たちといっしょに、修羅吉五郎に会いに行ったんですよ。だから声が嗄(か)れちゃった」

「なんだい。君もしゃべったのか」

「しゃべったのよ。しゃべらずにはいられないわ。吉五郎の奴、とても図々しいんですもの」ウィスキーが咽喉(のど)にしみたらしく、曽我ランコは軽くせきこんだ。「それにあの応接間でしょう。ここらの空気よりも、カレー粉の含有量がずっと多いのよ。それですっかり咽喉をいためちゃった」

「連中は元気で働いてたかね?」

「ええ。割に元気に働いていた。吉五郎が窓から工場の方を指差して、あんな風(ふう)に工員たちは元気で働いている。今までにうちの従業員でカレー粉で死んだものもいなければ、重病になったのもいない。それだのに塀の外であんた方が大騒ぎするのは筋違いじゃないか、なんて言い出してきたのよ。カレー粉が毒なら、インド人は全部死んでしまう筈だ、なんて言うのよ」

「ムチャを言うなあ。あの工場は、キャラメル工場から転身して、まだ半年しか経っていない。病人や死亡者が出来るのは、今後のことだ」

「そうよ。吉五郎の言い草ったら、そりゃカレー粉を多量に吸い込めば、病気にもなろうし、死にもしよう。でもそれは水なんかと同じで、水だっていっぺんに一斗も飲めば、力道山だって死んでしまう。それと同じことだと言うのよ。そこで許容量という問題になって、吉五郎とあたしたちとずいぶん言い争ったの」

「それでどうなった?」

「なにしろこちらも向うも、カレー粉の許容量については、ハッキリした医学的根拠はないでしょう。だから結局は水掛け論ね。向うでは、印度のタルミ族なんか、三度三度カレーをごしごし食べているが、弱るどころかとても元気だと言うの。写真を持ってきたわ。タルミ族がカレー飯を手づかみでむしゃむしゃ食べている写真よ。こんなに元気で頑丈だと言うんだけれどね、あたしたちが見ると、それほど頑丈には見えないの。やせこけて、肋骨なんかが出ていて、タルミ族の名前通りすっかりたるんでいるんですよ。それを吉五郎に詰間したら、そりゃ見解の相違だって言うのよ。吉五郎の言い分では、この程度に瘦せてるのが本当の健康体で、これ以上肥ったらそれは高血器体質と言って、不健康体だと言うのよ。そして自分の腕をまくり上げて、自分はこんなに瘦せてるけれど、シモの病いをのぞけば、生れてから病気という病気を一度もやったことがない、と自慢をしたわ。そのしなびた腕の上の方に、小さなイレズミが見えたわ。とってもイヤな形のイレズミ!」曽我ランコは顔をやや染めて、眼付きをするどくした。「男ってほんとに下劣ねえ。自分の腕にあんなものを彫りつけるなんて!」

「男にもよりますよ」ウィスキーもなくなって手持無沙汰をかこっていた牛島が、ここぞとばかり口を出した。「下劣な男もいるが、その半面、高尚な男もいる」

「あなた、どなた?」曽我ランコは顔をねじ向けて、牛島をまっすぐ見た。

「これは僕の親類」

「俺は彼のイトコ」

 佐介と牛島は、瞬間に白川研究所員の習性と地金を出して、同時に同じようなウソを言った。曽我ランコは眼をぱちぱちさせた。

「イトコのくせにあまり似ていらっしゃらないようね。あなたの顔は四角だし、栗山さんの顔は南京豆型だし」曽我ランコは視線を佐介に戻した。「どこまでお話したかしら」

「イヤな形のイレズミだよ」佐介が答えた。「ランコさんの口を封じるために、吉五郎はそんなイレズミを見せびらかしたんじゃないかな。あいつのやりそうなことだよ」

「憎いわ、あの男」曽我ランコは騒がしい器械音の方角を見据(す)えた。「そう言い争っているところに、お待ち遠さまという声がして、社員の一人が大皿のカレーライスをささげ持って、しずしずと応接間に入ってきたの。そしてそれを吉五郎の前に置いたのよ。すると吉五郎は、お腹がすいたから失礼いたします、なんてバカ丁寧なあいさつをして、それをむしゃむしゃと食い始めたんですよ。あたしたち、もううんざりしちゃって、そのまま立ち上って帰ってきたの。どうも吉五郎の奸策にひっかかったらしいわ」

「そうらしいね」佐介は手刀で頸(くび)筋をたたきながら、大あくびをした。「昨夜ほとんど寝てないから、実にねむい。でも会議に出なくちゃいけないな。殴り込みなんかになるとたいへんだ。殴り込みはいけないね。ねえ、牛さん、つき合いはこれくらいでいいだろう」

「そうだな」牛島はとろんとした眼で腕時計を見た。「もう許してやることにしよう。そして俺も会議に出席させて貰うぜ」

「まだくっついてくるのか」佐介は嘆息した。「これは、ここらへんの住民だけの問題だから――」

「いや、イトコの問題は、同時に俺の問題だよ」牛島は頑張りの気配を見せた。自分が何をやりたいかという方途を失ったことにおいて、牛島はあきらかに頽廃していた。

「それに俺は昔から、殴り込みなどということは、大好きなんだ。放って置くわけには行かない。それに、何かネタがころがっているかも知れないし」

「この方、新聞記者?」曽我ランコが聞きとがめた。

「いや、そんなんじゃないよ」佐介は急いで口をさしはさみ、電熱器のスイッチを切って立ち上った。「ランコさんは人を憎むと、とたんに生き生きとしてくるようだね。ふしぎだね」

「あたし、生れつきそうなのよ」

 曽我ランコも立ち上った。曽我ランコは佐介と同じくらいの背丈があった。スラックスに包まれた腰から脚は、女猛獣使いのそれのように、たくましくしなやかであった。牛島はまぶしくそれを見上げながら、つづいてごそごそと立ち上った。

「考えてみると、あたし、いつも誰かを憎んでるの。誰かを憎んでないと、気ぬけがして、ぼんやりなっちまうんです。へんなのねえ」

[やぶちゃん注:「12」の続きであるが、そのエンディングの牛島の「A金庫の鍵型をとった犯人は、」「鍵型をとった謎の人物は、いいか、性根を据えて答えるんだよ、あれは、お前さんだろう。お前さんだな!」という詰問に対する佐介の応答がない形で始まっている。談話の様態から佐介は否認したと読めるが、ちょっと読者にとっては不親切で不満である。

「ドイツのリッカーマン社の充填機」薬剤充填機や食品包装機を製造する産業機械メーカーとして実在する。一八九二年創業。綴りは「Rieckermann」か。

「公害を体系づけた法律はまだないんだ」日本の四大公害病である水俣病・第二水俣病(新潟水俣病)・四日市ぜんそく・イタイイタイ病の発生を受けて制定された公害対策(当該法では「公害」を大気汚染・水質汚濁・土壌汚染・騒音・振動・地盤沈下・悪臭の七つを「公害」と規定していた)に関する日本の基本法である「公害対策基本法」は昭和四二(一九六七)年八月三日に公布されて同日施行した。後の平成五(一九九三)年十一月十九日の「環境基本法」施行に伴い、統合されて廃止された(「環境基本法」では「公害」の定義を『環境の保全上の支障のうち、事業活動その他の人の活動に伴って生ずる相当範囲にわたる大気の汚染、水質の汚濁(水質以外の水の状態又は水底の底質が悪化することを含む)、土壌の汚染、騒音、振動、地盤の沈下(鉱物の掘採のための土地の掘削によるものを除く)及び悪臭によって、人の健康又は生活環境(人の生活に密接な関係のある財産並びに人の生活に密接な関係のある動植物及びその生育環境を含む)に係る被害が生ずること』を指したが、福島第一原子力発電所事故による広範な放射能汚染を契機として、平成二四(二〇一二)年九月十九日に本「環境基本法」が改正施行されて、それまで適用除外とされていた放射性物質を公害物質と位置づけることとなっている)。ウィキの「公害対策基本法」他に拠る)。佐介は「次の国会に、公害法という法案が上程されるかも知れない」と言っているが、本作の初出は昭和二九(一九五四)年八月で、「公害対策基本法」十三年後のことであり、「放射能汚染」とも佐介は挙げているが、それが公害と規定されたのは実に五十一年後となった。

「竹の皮」見かけることが少なくなったが、筍(たけのこ)の外側を鱗片状に包んでいる皮で、表が斑模様になっており、食べ物などを包むのに用いる。「11」で佐介は肉屋に寄っているが、肉屋で嘗ては今もよく使われている。

「高血器体質」ママ。誤植とか誤字ではなく、高血圧器質体質の略のつもりであろう。

「シモの病い」性病の淋病であろう。]

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