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2020/07/27

三州奇談續編卷之八 蛇氣の靈妖

 

    蛇氣の靈妖

 龍の上るといふを望めば、雲中ゆたかに下りたる物あり。大小長短時として異なり。紅毛人は

「水柱なり」

と云ひて、

「『佛狼機(イシビヤ)』を發して打倒せば、降りかゝりたる空も晴天に直る」

と云ふ。「生物にあらず」と云ふ說もあり。然れども是必ず龍氣なること眞然たり。滑川水橋の邊りは、時として數疋登る。誰彼是を望むことなり。實(げ)にもあたりの風荒きには似ず。甚だ鈍き物なり。折には雲を呼ぶに遲き時やありけん、頭を跡へ下(おろ)す時あり。爰に於ては顯(あら)はに見ゆるとなり。細く四角にして髭あり。繪に書く雨龍(あまりやう)と云ふものに似り。或は橫にも落つ。

「甚だぬるきものなり」

と、人々證を立てゝ咄せし。

「雲も波もすさまじく上る物なり」

と云ふ。扨は龍なることは決せり。上る時初めは蛇なりとぞ。

[やぶちゃん注:本格的な巨大な竜巻から時に見かける旋毛風(つむじかぜ)或いは雲の形の変形するのを擬えて誤認したものと採れる。

「佛狼機(イシビヤ)」「石火矢」「石火箭」で、原義は石・鉄・鉛などを飛ばして城攻めに用いた兵器を指すが、ここは「紅毛人」の言うとあるから、近世初期に西洋から伝来した大砲のことである。

「滑川水橋」既出の現在の富山湾沿岸の富山市水橋町(グーグル・マップ・データ)であろう。東で僅かに滑川に接する。

「雨龍」龍の一種螭龍(ちりゅう)を指すともされ、雨乞いの対象となったり、家紋となったりしている。グーグル画像検索「雨龍」をリンクさせておく。]

 

 安永八年三月の頃、這槻川(はひつきがは)の際(きは)に川越(かはごえ)を以て世を渡る忠右衞と云ふ者ありき。兄は三ケ村(さんがむら)の長右衞門と云ふ、[やぶちゃん注:読点はママ。]此長右衞門の門(かど)に大松ありき。先年願ひて是を伐る。此根蟠(わだかま)りて大きくありしを、頃日(けいじつ)此根を掘廻しけるに、最早引越(ひきこさ)さん[やぶちゃん注:引き抜こう。]とする時、松の根の底に蛇あり。三尺許と見ゆ。常の蛇とは見えながら、何となく怖ろし。手傳ひの人長右衞門に向ひ、

「何とやら此蛇は主らしき顏つきに候まゝ、又土を掛けて埋(うづ)むべし」

なんど云ふを、長右衞門聞かず。

「かゝることは打捨つるに若かず」

とて、杖を入れてはね出(いだ)す。

 初めは動く如く、後(のち)には重うして出難(いでがた)し。漸く十人許り寄り、鐡捧など入れて刎出(はねいだ)したるに、土の上へ出せば五六尺ばかりの蛇となる。則ち是をろばし[やぶちゃん注:転がして。]、濱表へ捨てたるに、水に入ると其儘眞直(まつすぐ)に立ちて、長右衞門を追かくる。凡そ一丈餘の丈(たけ)に見ゆ。長右衞門逸足(いちあし)出して逃げゝるに、幸ひ川越忠右衞門家は側(かたは)らに掘切あれば、橫に飛び堅に走りて家に駈入るに、蛇は只直ぐに馳せ過ぎ、又掘出したる松の根に入りしとも云ふ。又何國(いづこ)へや行けん見えず。

 是より長右衞門煩(わづろ)うて人心地なし。

 魚津の法華山長慶寺は旦那寺と云ひ、に名高きことなれぱ、人を遣はし此趣を申して賴みけるに、

「是は蛇氣のかゝれるものなり。必ず物に狂ふことあるものぞ。用心せよ」

と申越(まうしこ)す。

 實(げ)にも其如く、其夜より長右衞門亂心の躰(てい)となり、橫に倒れて這廻る。又大(おほい)なる石を寢ながら打返す。凡(およそ)十人許の力を寄せたるが如し。

 弟忠右衞門甚だ驚き、大勢を賴みて縛りからげて家の柱につなぎ置く。されども業(げふ)[やぶちゃん注:それぞれの仕事。]あれば皆々外へ出る其跡へ、近付きの馬士(ばし)[やぶちゃん注:馬子(まご)。]寄りしに、人は居らず、長右衞門縛られてありしかば、

「是は如何に」

と問ふ。長右衞門云ふ。

「我れ弟に縛られたり、この縛り解きてくれよ」

と賴む。馬士いぶかりければ、

「さらばそこに生ひたる草を一つかみ我が口ヘ入れてくれ」

と云ふ。馬士不便(ふびん)に思ひ、指圖の草を與へければ、暫くして繩を

「ぶつぶつ」

押切りて、手を打振り立出づる。

 馬士驚き、駈け行きて弟忠右衞門に語る。忠右衞門大に驚き、

「夫(それ)にては定めて往來の人の障りを仕出(しいだ)さん」

と、馬士を初め近鄕の人三四十人をやとひかけ返り見れば、長右衞門は大童(おほわらは)になり、あたるを幸ひに石礫(いちづぶて)を打ち、往來の人々通ることを得ず。

 忠右衞門氣の毒がり、馬士に恨(うらみ)を云ふ程に、馬士連(れん)は是非なく押かゝり、大勢にて捕へしが、力市ばい手強(てごは)く當り打伏せし故にや、縛り置くうちに其夜長右衞門は死したり。

 是に依りて只今騷動にならんやと詮議最中なり。然れども蛇のつきたるには證據多けれぱ、下にて濟むべき沙汰なり。

[やぶちゃん注:蛇が特殊な草を食って威力を示すというのは、各地の伝承にあり、メジャーなものでは上方落語の古典「蛇含草(じゃがんそう)」、それを江戸落語でインスパイアした「そば清」(「蕎麦の羽織」「羽織の蕎麦」とも)が知られる。但し、それは消化効果のある草である。

「安永八年」一七七八年。堀麦水は天明三(一七八三)年没であるから、後の「頃日」(近頃)の用字が腑に落ちる。

「這槻川(はひつきがは)」前にも出てきたが、私は上市川の異名か、当時の分流のようには私は読めるように感じている。上市川の河口付近の左岸が前段に出た水橋地区に近い(一部は接している)からでもある。なお、後のロケーションからは「忠右衞」の家は下流の河口付近にあったと私には読める。【2020年7月27日追記】何時も情報を戴くT氏よりメールを頂戴した。「這槻川」は「万葉集」巻第十七巻の四〇二四番の大伴家持の一首、

  新川郡の延槻河(はひつきがは)を渡りし時に作れる歌一首

 立山(たちやま)の雪し消(く)らしも延槻(はひつき)の

    川の渡瀨(わたりぜ)鐙(あぶみ)漬(つ)かすも

で「延槻河(川)」 は現在の早月川であるとされ、「大日本地誌大系」第二十八巻「三州地理誌稿」(昭和六(一九三一)年蘆田伊人編・富田景周著)に(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの当該ページ画像)、

早月川【萬葉集】作延槻川、其源小又北又之二水出立山麓、西北數十町至折戶村、北轉小早川自東入焉、右升方村、左大島新村、而達于海

とあるとのことであった。私も「早月川」と音が酷似することが気になっていたが、前の「水橋」との地理上の位置に拘り過ぎた。]


   *

「川越」人馬や物資を川渡しする生業であろう。

「三ケ村」不詳。近い地名で中新川郡上市町三日市がある。「今昔マップ」を見ると、現在の上市町の上市川左岸の現在よりももっと広い地域を「三日市」と呼んでいたことが判る。但し、ここから上市川河口(海岸)までは六キロ弱はあり、蛇を転がして行くには長過ぎるので違う。もっと河口近くになくてはおかしいが、見当たらない。【2020年7月27日削除・追記】前記のT氏より、現在の富山県魚津市三ケ(さんが)であるとの御指摘を頂戴した。ここである。注意されたいのは、片貝川の内陸山岳部と、早月川の河口右岸という約九キロメートル以上も離れた飛び地を持つことである。こうした現象は山間部が専ら河川運送に頼り、周囲と隔絶したケースでまま見られる(和歌山県飛び地がその最も良い例である)。ただ、片貝川と早月川は丘陵を隔てて六キロ以上離れおり、実際に如何なる理由でこの飛び地が形成されているのかは、厳密には判らない。しかし、この早月川右岸の「三ケ」地区がこの話柄の場所と考えると、蛇を転がすというシーンが腑に落ちる。さすれば、忠右衛門は現在の早月川河口右岸で早月川の渡し業を営んでいたと理解出来る。いつも乍ら、T氏に感謝申し上げるものである。

「三尺許」(九十一センチ)が「土の上へ出せば五六尺」(約一・五二~一・八二メートル)というのは、最初は蜷局(とぐろ)を巻いていたために誤認したのである。

「一丈餘」三メートル越え。

「法華山長慶寺」不詳。現在の魚津にはこの寺はない。富山県内にもこの山号を持つ長慶寺はない(但し、長慶寺は富山市にはある)。]

 

 されば蛇の變はさまざまに聞ゆ。

 富山の金草山と云ふは、片貝谷の上なり。然るに滑川の木樵の人到りしに、八九尺許なる蛇の逃げ走る躰(てい)を見る。

『如何に』

と思ふに。暫くして猿とや云はん、狒々(ひひ)とやせん、三尺許の人躰(ひとてい)のもの、續きて追掛け行く。樵者(きこり)其跡を見るに、早うして風の如し。家に歸りて人に問ふに、

「夫は『狒々王』と云ふものなり。能く蛇を喰ふ」

と云ふ。

 又同じ片貝谷にて蛇の追ひし獸あり。猫か鼬(いたち)かと覺ゆ。追詰められて松の穴へ入り、空へ逃げて梢より飛ぶ所を、樵夫(きこり)鍬(くわ)にて打殺しけるに、匂ひ堪へ難く、着物にもいつ迄か其香殘りしと云ふ。其香を問へば

「反魂丹(はんごんたん)の匂ひなり」

と云ふ。山人なれば外の香を知らで斯く云ふにや。

「麝香(じやかう)の屬(たぐ)ひならん」

と人々惜(をし)む。

 されば越中の東は信・飛に接すれば、獸蛇(じうだ)の異甚だ多くして筆にあまれり。

[やぶちゃん注:「金草山」不詳。但し、「片貝谷」は片貝川のこの付近(グーグル・マップ・データ航空写真。但し、非常に広域である)であるから、その何れかのピークではあろう。

「狒々」ここは実見した対象は大型の猿の謂いととっておいてよかろう。妖怪のそれにしては、やや小さめだからである。

「狒々王」ここはもう妖獣としてのそれである。ウィキの「狒々」によれば、『日本に伝わる妖怪。サルを大型化したような姿をしており、老いたサルがこの妖怪になるともいう』。『山中に棲んでおり、怪力を有し、よく人間の女性を攫うとされる』。『柳田國男の著書『妖怪談義』によると、狒々は獰猛だが、人間を見ると大笑いし、唇が捲れて目まで覆ってしまう。そこで、狒々を笑わせて、唇が目を覆ったときに、唇の上から額を錐で突き刺せば、捕らえることができるという』。『狒々の名はこの笑い声が由来といわれる』。『また同書では』、天和三(一六八三)年に越後国で、正徳四(一七一四)年には『伊豆で狒々が実際に捕らえられたとあり、前者は体長』四尺八寸、後者は七尺八寸あったという。『北アルプスの黒部谷に伝わる話では、滑川伊折りの源助という荒っぽい杣頭(樵の親方)がおり、素手で猿や狸を打ち殺し、山刀一つで熊と格闘する剛の者であったという。あるとき』、『源助が井戸菊の谷を伐採しようと入ったとき、風雲が巻き起こり人が飛ばされてしまい、谷へ入れないので離れようとした途端、同行の若い樵(作兵衛)が物の怪に取り憑かれて気を失い、狒狒のような怪獣が樵を宙に引き上げ引き裂き殺そうとしたという。源助は狒狒と引っ張り合いになり、しばらく続いたが、作兵衛を殺したらお前たちも残らず殺すと言うと放し立ち去った。源助は作兵衛を背負って血まみれになり、夜明け近くになり仲間が助けたという(肯搆泉達録、黒部山中の事)。この話では狒狒は風雲を起こしてその中を飛び回り、人を投げたり引き裂く妖怪とされる』(以上の話は「三州奇談卷之五 異獸似ㇾ鬼」にも出ている。「肯搆泉達録」は越中通史の先駆けとなった記録で、文化一二(一八一五)年)の完成。富山藩御前物書役野崎伝助の書いた「喚起泉達録」を孫で藩校広徳館の学正を勤めた野崎雅明が書き継いだもの。当該原本の話は明二五(一八九二)年の活字本があり、国立国会図書館デジタルコレクションのここで読める)。『もとは中国の妖怪であり、『爾雅』釈獣に「狒狒は人に似て、ざんばら髪で走るのが速く、人を食う」という。郭璞の注には「梟陽のことである。『山海経』に「その姿は人の顔で唇が長く、体は黒くて毛が生えており、かかとが曲がっている。人を見ると笑う」という。交州・広州・南康郡の山中にもいて、大きいものは背丈が1丈あまりある。俗に「山都」と呼ぶ。」といっている』。『江戸時代の百科事典『和漢三才図会』には西南夷(中国西南部)に棲息するとして、『本草綱目』からの引用で、身長は大型のもので一丈』(三・〇三メートル)『あまり、体は黒い毛で覆われ、人を襲って食べるとある。また、人の言葉を話し、人の生死を予知することもできるともいう。長い髪はかつらの原料になるともいう。実際には『本草綱目』のものはゴリラやチンパンジーを指すものであり、当時の日本にはこれらの類人猿は存在しなかったことから、異常に発育したサル類に『本草綱目』の記述を当てはめたもの、とする説がある』。『知能も高く、人と会話でき、覚のように人の心を読み取るともいう。血は緋色の染料となるといい、この血で着物を染めると退色することがないという。また、人がこの血を飲むと、鬼を見る能力を得るともいう』私の寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の「狒狒」も是非、参照されたい。

「能く蛇を喰ふ」好んで食うとは思われないが、ニホンザルは雑食性で動物の肉も食う。

「反魂丹」一般には「越中富山の反魂丹」で知られる、胃痛・腹痛などに効能がある丸薬。本邦の中世よりの家庭用医薬品として知られる。ウィキの「反魂丹」によれば、元々、『「反魂」は、死者の魂を呼び戻す、つまり死者を蘇生させるという意味であり、「反魂丹」は、もとは中国の説話等に登場する霊薬の呼び名である(説話中に登場する類似のものに、焚くと死んだ者の姿が現れる香・反魂香がある)』。『室町時代、堺の商人・万代掃部助(もず かもんのすけ)が中国人から処方を学び、家内で代々伝えてきた。万代家(後に読みを「もず」から「まんだい」に変更)は』第三『代目の時に岡山藩に移り住み、医業を生業とし』、第八『代目の頃には岡山藩主・池田忠雄のお抱え医となるに至った』。『越中富山藩』第二代藩主『前田正甫』(まさとし)『が腹痛を起こした際、万代の反魂丹が効いたことから、正甫』が、天和三(1683)年にその万代家第十一代目の『万代常閑(まんだい じょうかん)を富山に呼び寄せ、処方のレクチャーを受けた。それ以降、正甫は独自に調合させた「反魂丹」を印籠に入れて常時携帯した』という。元禄三(一六九〇)年のこと、『江戸城内において、三春藩主・秋田輝季が激しい腹痛を訴えたため、その場に居合わせた前田正甫が携帯していた反魂丹を服用させたところ、すぐに腹痛は治まった。これを見ていた諸大名がこの薬効に驚き、自分たちの藩内での販売を頼んだ。正甫は薬種商の松井屋源右衛門に反魂丹を製造させ、諸国に行商させた。この松井屋による行商が、富山の売薬に代表される医薬品の配置販売業のもととなった』とある。『江戸時代の反魂丹の特徴は龍脳が配合されていることであり、またその他』二十『数種の生薬・鉱物成分が配合された処方であったことが過去の文献にみられ』、『一例は以下のようなものである』として、『龍脳、牽牛子、枳実、枳殻、胡黄連、丁子(丁香)、木香、黄芩、連翹、黄連、縮砂、乳香、陳皮、青皮、大黄、鶴虱、三稜、甘草、赤小豆、蕎麦、小麦、麝香、熊香、白丁香、雄黄、辰砂』を挙げてある。私は所謂、鼻を撲(う)つ感じの薬臭い外郎(ういろう)臭のことを言っているものと思う。

「麝香」私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 麝(じやかう)(ジャコウジカ)」の注を読まれたい。

「信・飛」信濃・飛驒。越後を外さんといてぇな!]

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