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2020/07/24

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 丈艸 一

[やぶちゃん注:内藤丈草(寛文二(一六六二)年~元禄一七(一七〇四)年)は通称、林右衛門。名は本常。別号に仏幻庵・懶窩(らんか)・無懐・無辺・一風・太忘軒(たいぼうけん)など。元尾張犬山藩士の嫡子として生まれたが、早々に実母を失い、弟は皆、異腹であり、この体験や親族間のごたごたが彼の生活史や人格形成に大きな影響を与えたと考えられる。十四の時出仕し、青年時には漢詩を学び、黄檗宗の玉堂和尚について参禅したりしたが、貞享五(一六八八)年八月、二十七の若さで病気を理由に致仕し、遁世した(貞享五年は九月三十日に元禄に改元された)。中村史邦を頼って上洛し、彼の紹介で元禄二(一六八九)年の冬、落柿舎にて芭蕉に入門した。二年後に出た「猿蓑」では早くも跋文を任され、発句十二句が入集している。元禄六(一六九三)年には近江に移って無名庵に住し、翌年、芭蕉終焉の枕頭にも侍し、師逝去後は三年の喪に服すことを決意、木曽塚無名庵(むみょうあん)に籠り、「寝ころび草」を記し、次いで元禄九年からは義仲寺近くの龍ヶ岡に仏幻庵(現在の膳所駅南西直近にある龍ヶ岡俳人墓地跡」が跡地。グーグル・マップ・データ)を結んで、清閑と孤独を愛した。元禄一三(一七〇〇)年には一時、郷里に帰省したが、帰庵後は病がちとなり、閉関の誓いを立て、師追福の「法華経」千部の読誦・一字一石の経塚建立を発願、これを果たし、翌元禄十七年春二月二十四日に没した(元禄十七年は三月十三日に宝永に改元された)。享年四十三。前半生の部分については、伊藤洋氏の「芭蕉DB」の「内藤丈草」に、『尾張犬山藩士内藤源左衛門の長子として生まれる。幼くして母に死別し、継母にはたくさんの子供が産まれ、丈草に注がれるべき両親の愛情は薄かった。このトラウマは、丈草の生涯つきまとうこととなる』。『そもそも、内藤源左衛門は、元来は越前福井の貧乏武士だったのだが、源左衛門の妹、丈草の叔母が』、『犬山藩江戸屋敷に奉公中に藩主成瀬正虎のお手がついて一子をもうけ、この縁で、特に功も無いまま』に『犬山藩に取り立てられたものであ』った。『このタナボタ的幸運は長続きせず、藩主の代替わりと叔母・松壽院の死によって瓦解』してしまう。『丈草の従兄弟に当たる松壽院の一子直龍は尾張徳川家に養子に出されたが』、『狂疾を口実に蟄居させられ』、『失脚するに及んで内藤家も没落』、悪いことに『丈草は、この直龍に仕えていたので、この悲劇をまともに受けることになった。こういう度重なる不運に人生のはかなさを知った丈草は』、結局、『武士を捨てて遁世、近江松本に棲』むこととなったと記されている。さても。私は丈草の句が好きでたまらない人間である。]

 

      丈  艸

 

       

 芥川龍之介氏が蕉門の作家の中で最も推重していたのは内藤丈艸であった。大正の末頃に『俳壇文芸』という雑誌が出た時、第一号の第一頁に芥川氏の短い文章が載っており、その中に「丈艸の事」という一条があったと記憶する。全集についてその文を引用すれば左の如きものである。

[やぶちゃん注:以下、短い宵曲の付記を挟んで、引用は底本では全体が二字下げである。孰れも前後を一行空けた。以下は、芥川龍之介の「澄江堂雜記」(大正一四(一九二五)年一月発行の雑誌『俳壇文藝』所収)に掲載されたもので、後に『梅・馬・鶯』に「澄江堂雜記」集成版で「二十五 丈艸」と番号を付して所収された。初出では『續「とても」』とのカップリングである。当該初出の「澄江堂雜記」(正字正仮名)は私のサイトの古い電子化を見られたい。]

 

蕉門に竜象(りゅうぞう)の多いことは言うを待たない。しかし誰が最も的々(てきてき)と芭蕉の衣鉢を伝えたかと言えば恐らくは内藤丈艸であろう。少くとも発句は蕉門中、誰もこの俳諧の新発意(しんぼち)ほど芭蕉の寂びを捉えたものはない。近頃野田別天楼氏の編した『丈艸集』を一読し、殊にこの感を深うした。

[やぶちゃん注:「竜象」徳の高い僧を竜と象に譬えた語で、一般に僧を敬っていう語である。

「新発意」発心 (ほっしん) して僧になったばかりの人。

「野田別天楼」(明治二(一八六九)年~昭和一九(一九四四)年)は俳人。備前国邑久(おく)郡磯上(いそかみ)村(現在の岡山県瀬戸内市長船町磯)生まれ。本名は要吉。明治三〇(一八九七)年から正岡子規の指導を受け、『ホトトギス』などに投句、教職にあって報徳商業学校(現在の報徳学園中学校・高等学校)校長を務めた。「京阪満月会」では幹事を務め、松瀬青々の『倦鳥』(けんちょう)同人となって関西俳壇で活躍した。昭和九(一九三四)年には『足日木』(あしびき)を、翌年には『雁来紅』(がんらいこう)を創刊・主宰した。俳諧史の研究では潁原退蔵と親交があった。

「丈艸集」野田別天楼編で大正一二(一九二三)年雁来紅社刊。]

 

 しかして丈艸の句十余を挙げ、

 

これらの句は啻(ただ)に寂びを得たと言うばかりではない。一句一句変化に富んでいることは作家たる力量を示すものである。几董(きとう)輩の丈艸を嗤(わら)っているのは僣越もまた甚しいと思う。

[やぶちゃん注:「几董」蕪村の高弟高井几董(たかいきとう 寛保元(一七四一)年~寛政元(一七八九)年)。複数回既出既注であるが、ここは必要があると判断するので再掲しておく。京の俳諧師高井几圭の次男として生まれた。父に師事して俳諧を学んだが、特に宝井其角に深く私淑していた。明和七(一七七〇)年三十歳で与謝蕪村に入門、当初より頭角を現し、蕪村を補佐して一門を束ねるまでに至った。安永七(一七七九)年には蕪村と同行して大坂・摂津・播磨・瀬戸内方面に吟行の旅に出た。温厚な性格で、蕪村の門人全てと分け隔て無く親交を持った。門人以外では松岡青蘿・大島蓼太・久村暁台といった名俳と親交を持った。天明三(一七八四)年に蕪村が没すると、直ちに「蕪村句集」を編むなど、俳句の中興に尽力した。京都を活動の中心に据えていたが、天明五(一七八五)年、蕪村が師であった早野巴人の「一夜松」に倣い、「続一夜松」を比野聖廟に奉納しようとしたが叶わなかった経緯から、その遺志を継いで関東に赴いた。この際に出家し、僧号を詐善居士と名乗った。天明六(一七八六)年に巴人・蕪村に次いで第三世夜半亭を継ぎ、この年に「続一夜松」を刊行している(以上は概ねウィキの「高井几董」に拠った)。]

 

と結んでいる。几董輩云々とあるのは『続晋明集(ぞくしんめいしゅう)』中の記載を指すのであろう。この事は「続晋明集読後」なる文章に記されている。これは「丈艸の事」ほど短くないから、全文を引くには便宜でないが、問題は几董が丈艸を評した「僧丈草ナル者ハ蕉門十哲之一人也。而シテ句々不ㇾ見秀逸。蓋テハ斯序文ㇾ謂ㇾ出ヅトㇾ群矣。不ㇾ及支考許六者也」[やぶちゃん注:「僧の丈艸なる者は蕉門十哲の一人なり。而して、句々、秀逸を見ず。蓋(けだ)し斯(この)序文に於ては群を出づと謂ふべし。支考・許六に及ばざる者なり」。]という数語に存するのである。芥川氏はこの文章についてこういっている。

[やぶちゃん注:同前で同前の仕儀を施した。原文全文は電子化されたものがネットにないので、この電子化のために、急遽、ブログで作成した。こちらである。芥川龍之介の『「續晉明集」讀後』は大正一三(一九二四)年七月二十二日附『東京日日新聞』の「ブックレヴィユー」欄に、「几董と丈艸と――『「續晉明集」讀後』を讀みて」と題して掲載されたもので(龍之介満三十二歳)、後の作品集『梅・馬・鶯』に表記の代で所収されたものである。本文に出る通り、同年七月十日に古今書院より刊行された「續晉明集」の書評である。しかし、一読、判るが、最後の段落の推薦はこれまた頗る形式上のもので、寧ろ、私には強烈なアイロニーに富んだ「侏儒の言葉」と同じものを感じ、思わず、ニンマリしてしまうのである。是非、全文を読まれたい。先の「丈艸の事」の半年前のものである。]

 

僕はこの文章に逢著した時、発見の感をなしたといった。なしたのは必ずしも偶然ではない。几董は其角を崇拝した余り、晋明と号した俳人である。几董の面目はそれだけでも彷彿するのに苦まない[やぶちゃん注:「くるしまない」。]であろう。が、丈艸を軽蔑していたことは一層その面目を明らかにするものといわなげればならぬ。

 

 この文章は表面的には必ずしも蔑意を以て書かれていない。しかも芥川氏が丈艸を推重する態度の朋(あきらか)である以上、敬意を以て書かれたものでないことは勿論である。芥川氏は次いで許六の言を引き、

[やぶちゃん注:以下二箇所、同前の仕儀を行った。]

 

 尤も許六も丈艸を軽蔑していたわけではない。「丈艸が器よし。花実ともに大方相応せり」とは「同門評」の言である。しかし支考を「器もつともよし」といい、其角を「器きはめてよし」といったのを思うと、甚だ重んじなかったといわなげればならぬ。けれども丈艸の句を検すれば[やぶちゃん注:「けみすれば」。]、その如何にも澄徹[やぶちゃん注:「ちょうてつ」。澄んで透き通っていること。]した句境ば其角の大才と比べて見ても、おのずから別乾坤を打開している。

 

といい、丈卿の句十余を挙げて、

 

手当り次第に抜いて見ても丈艸の句はこういう風に波瀾老成の妙を得ている。たとえば「木枕の垢や伊吹にのこる雪」を見よ。この残雪の美しさは誰か丈艸の外に捉え得たであろう? けれども几董は悠々と「句々秀逸を見ず」と称している。更にまた「支考許六に及ばざる者なり」と称している。

 

 芥川氏はここでもまた表面的に几董の言を否定していない。但丈艸の句を揚げることによって、逆に几董の言に多大の疑問を投げかけているのである。

 尤もこの問題の中心になっている几董の意見なるものは、丈艸評というほど改ったものではない。『流川集』に序した丈艸の一文に書添えた程度のもので、固より著書として公にしたわけでもない。「句々秀逸を見ず」という総評も、「蓋この序文においては群を出づといふべし」という限定的批評も、「支考許六に及ばざる者なり」という比較論も、その間に一貫したものがないように思われる。支考、許六に及ばぬというのも、句の上において然るのか、文章の上において然るのか、支考、許六共に文章の雄であるだけに、多少の疑なきを得ぬ。もし句の上においてもまた丈艸を以て二子の下に置くというならば、悠々たる几董の批評は達に解せざる者の悠々である。几董がよく衣鉢を伝えたはずの蕪村は、支麦(しばく)と称して支考、乙由(おつゆう)を軽んじた。几董と共に蕪村の高弟であった召波は、極端にこの説を奉じ、蕪村が「麦林支考其調(そのしらべ)賤しといへども、工みに人情世態を尽す、さればまゝ支麦の句法に倣ふも、又工案の一助ならざるにあらず、詩家に李杜を貴ぶに論なし、猶元白[やぶちゃん注:「げんぱく」。]をすてざるが如くせよ」という折衷説を持出しても、「叟(そう)我をあざむきて野狐禅(やこぜん)に引くことなかれ、画家に呉張を画魔とす、支麦は則ち俳魔ならくのみ」といって肯(がえん)ぜず、ますます支麦を罵って他を顧みなかったと伝えられている。几董が支考を丈艸の上に置くということが、句の評価の上にも及ぶならば、几董は師説に徹すること、召波の如くなり得なかったというべきであろう。

[やぶちゃん注:「流川集」(ながれがわしゅう)露川編。丈草序。元禄六(一六九三)年刊。

「乙由」中川乙由(延宝三(一六七五)年~元文四(一七三九)年)は伊勢の人。別号は麦林舎。材木商から後に御師(おんし:伊勢神宮の下級神職。参拝の案内・祈祷及び宿の手配や提供をし、併せて信仰を広める活動もした。伊勢神宮の者のみを「おんし」と読み、全国的な社寺のそれは「おし」と読む)。俳諧は、初め、支考に学び、後に岩田涼菟(りょうと)に従った。涼菟没後は〈伊勢風〉の中心となったが、その一派は平俗な作風で似通った支考の〈美濃派〉とともに、通俗に堕した句柄として「田舎蕉門」とか「支麦(しばく)の徒」と卑称された。

「元白」は「げんぱく」で中唐の名詩人元稹(げんしん)と白居易を、或いは彼らを中心とした詩風を指す。二人には唱和の作が多く、孰れも平易な口語を取り入れており、「元和体」として当時、流行した。

「呉張」明代の画家呉偉と張路。呉偉(一四五九年~一五〇八年)は明の浙派 (せっぱ) の画家。江夏 (湖北省) の人で、多く金陵 (南京) に寓居した。成化・弘治年間(一四六五年~一五〇五年に画院に入り、天子に愛重された。絵は浙派の祖戴進に学んだと伝えられるが,、北宗画の画法を学んで山水・人物画を描き、粗放な筆墨法は戴進以上に増幅され、南宗を尊んで北宗をけなす「貶北論」を生む原因となった。張路(一四六四年?~一五三八年?)は同じく浙派の画家。号の平山で知られる。河南省開封の人で、かつて太学に学んだが仕官せず、一生を在野の画家として過ごした。浙派後期に属し、呉偉を学んで山水・人物を多く描いたが、筆墨が粗放に過ぎるとして、後の文人批評家からは「狂態邪学」と貶(けな)された。即ち、呉も張も北宋画派浙派の代表者にして奔放自在な画風で知られ、積極的に南画を誹謗したことなどから、南画を正統視する立場からは異端視、魔とされたというのである。

『蕪村が「麦林支考其調賤しといへども、工みに人情世態を尽す、さればまゝ支麦の句法に倣ふも、又工案の一助ならざるにあらず、詩家に李杜を貴ぶに論なし、猶元白をすてざるが如くせよ」という折衷説を持出しても、「叟我をあざむきて野狐禅に引くことなかれ、画家に呉張を画魔とす、支麦は則ち俳魔ならくのみ」といって肯(がえん)ぜず、ますます支麦を罵って他を顧みなかった』これは「春泥句集」(黒柳召波の俳諧集。召波の没後に遺稿を子の維駒 (これこま) が纏めたもの。春泥は春泥舍で召波の別号)の蕪村の序(安永六年十二月七日(既に一七七七年)クレジット)に出るもの。昭和二(一九二七)年有朋堂書店刊「名家俳句集」で藤井紫影校訂。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで当該部分(六一八ページから六一九ページにかけて)が読める。]

 

 几董は其角を尊敬した。晋明と号し、『新雑談集(しんぞうだんしゅう)』を著し、筆蹟までこれに模したあたり、心酔したという方が当っているかも知れない。其角を崇拝するが故に丈艸を軽蔑するということは、芥川氏のいうが如く「一層その面目を明らかにするもの」であるにせよ、公平な批評でないことは勿論である。香川景樹(かがわかげき)は『新学異見』において「鎌倉のが右府(うふ)の歌は志気ある人決して見るべきものにあらず」といい、「右府の歌の如くことごとく古調を踏襲め[やぶちゃん注:「かすめ」。]古言を割裂[やぶちゃん注:「とり」。]たらんには」といって実朝の歌を貶(けな)した。この批評は真淵に反対する立場から、自己の信条に忠実なるものかも知れぬが、竟(つい)に公平を以て許し難いのと一般である。

[やぶちゃん注:「新雑談集」天明五(一七八五)年刊の几董晩年の句文集。書名自体が其角の「雑談集」へのオード。

「香川景樹」(明和五(一七六八)年~天保一四(一八四三)年)は江戸後期の歌人。因幡出身。本姓は荒井。初名は純徳。二条派の香川景柄(かげもと)の養子。小沢蘆庵の影響を強く受け、後に養家を去り、「桂園派」を起こした。「調べの説」を唱え、先の賀茂真淵(元禄一〇(一六九七)年~明和六(一七六九)年)らの復古主義歌学を否定した。

「新学異見」香川景樹の歌論書。一巻。文化八(一八一一)年成立で同十二年に刊行された。真淵の「新学」に対して「古今和歌集」を擁護し、「現代主義」を主張した。国立国会図書館デジタルコレクションで明二五(一八九二)年しきしま発行所刊の活字本で読める(本歌論は短い)。当該部はここ(左ページ後ろから五行目から)。本文に附した読みはこれに拠った。

「踏襲め」そのままに新たな創意もなく奪い取り。]

 

 几董の丈艸評なるものは、実をいうとそれほど重きを置くに足るものではない。芥川氏が問題にしたから、本文に入るに先(さきだ)って少しく低徊して見たまでの話である。その芥川氏が已に「几董輩の丈艸を嗤っているのは僣越もまた甚しい」と打止めている以上、とかくの言説は無用の沙汰であろう。強いて蛇足を加えるならば、古人に対する後人の批判なるものが、往々にして几董の丈艸評に堕するのではないか、ということがあるに過ぎぬ。

 丈艸は芭蕉の傘下における沙門の一人である。彼が犬山の武士から、一擲(いってき)して方外(ほうがい)の人となったのは、指に痛[やぶちゃん注:「いたみ」。]があって刀の柄が握れぬからだともいい、かねてその弟に家禄を譲る志があったので、病に托したのだともいう。「多年負ヒシㇾ屋一蝸牛。化シテ蛞蝓タリ自由。火宅最涎沫キルヲ。追-法雨ヲ林丘」[やぶちゃん注:「多年、屋(をく)を負ひし一蝸牛(いちくわぎう)。化(け)して蛞蝓(かつゆ)と倣(な)り、自由を得たり。火宅、最も惶(おそ)る涎沫(せんばつ)の盡きるを。法雨(はうう)を追尋(つひじん)し、林丘(りんきう)に入る」。]という偈(げ)によってもわかるように、彼はたよりなき風雲に身をせめられたのではない。仕(し)を辞すると共に正面から「仏籬祖室(ぶつりそしつ)の扉(とぼそ)」に入ったのである。

[やぶちゃん注:「方外の人」俗世の外に身を置く人。広く僧・画家・医師などを指したが、ここは武士身分を捨てて僧となったことを言う。

「蛞蝓(かつゆ)」ナメクジ。

「涎沫(せんばつ)」泡のようなよだれ。ナメクジの粘液のこと。ここは儚い生への執着のシンボル。

「仏籬祖室」仏陀の籬 (まがき) と祖師達磨の部屋。転じて仏教と禅門のこと。]

 

 両刀を棄てて緇衣(しえ)を身に纏った丈艸は、どういう機縁で芭蕉に近づくようになったか。

[やぶちゃん注:「緇衣」「緇」は「黒い」の意で、墨染めの僧衣。]

 

   ばせを翁に文通の奥に

 招けども届かぬ空や天津鴈       丈艸

という句は相見(そうけん)以前のものと思うが、はっきりした年代はわからない。去来の書いた「丈艸誄(るい)」に「其後洛の史邦にゆかり、五雨亭に仮寐し、先師にま見え初られし」とあるのを見れば、史邦の因(ちなみ)によったものらしい。芭蕉は逸早(いちはや)くその本質を洞見して、「此僧此道にすゝみ学ばゞ、人の上にたゝむ事、月を越べからず」といったけれども、丈艸は強いて句作に力(つと)めるという風でもなかった。この事は「丈艸誄」にも「性くるしみ学ぶ事を好まず、感ありて吟じ、人ありて談じ、常は此事打わすれたるが如し」とあり、許六も「同門評判」の中で「釈氏(しゃくし)の風雅たるによつて、一筋に身をなげうちたる所見えず、たとへば興に乗じて来たり、興つきて帰ると言へるがごとし」と評している。超然たる丈艸の面目は、これらの評語の裏にも自ら窺うことが出来る。

[やぶちゃん注:掲句の、

 招けども屆かぬ空や天津鴈(あまつかり)

は、季題は「天津鴈」で秋。松尾勝郎氏編著「蝸牛 俳句文庫17 内藤丈草」(一九九五年蝸牛社刊)によれば、「龍ケ岡」(馬州編・宝暦三(一七五三)年自序)からで、前書は「丈草句集」にあるものとし、『「天津鴈」は空を飛ぶ鴈。あなたに師事したいと思う願いは、届きそうもない。江戸につながる空を自在に飛ぶ鴈を、ただ羨むばかり。二十五歳の貞享三年』(一六八六年)、『無懐の俳号で書き送ったと伝わる句』とある。]

 

 丈艸は其角や嵐雪のように、元禄度の俳諧の変選に際会していない。彼は蕉門らの礎(いしずえ)が殆ど確立してから出現した作者だけに、去未が経験したほどの俳風の変化も、身に感じなかったろうと思われる。彼の句が早く一家の風を具えていたことは、『猿蓑』所載の句が已にこれを明にしている。

 幾人かしぐれかけぬく瀬田の橋     丈艸

[やぶちゃん注:上五は「いくたりか」。まるで歌川広重の傑作「名所江戸百景 大はしあたけの夕立」か、葛飾北斎のどれこれを見るような、俯瞰のスカルプティング・イン・タイムである。「瀬田夕照」が定番なのに、そこに敢えて冬の昼間の時雨を持って来てしかも、かっちりとしたフレームの中に雨のと走る行人をすこぶる動的に撮った、まことに映像的なダイナミックな名句と言える。言わずもがなであるが、彼らの実際の卓抜した酷似する浮世絵群はこれから百年も後に描かれたものなのである。]

 

   貧交

 まじはりは紙子の切を譲りけり     丈艸

[やぶちゃん注:「紙子」は「かみこ」、「切」は「きれ」。「紙子」は紙子紙 (かみこがみ) で作った衣服のこと。当初は律宗の僧が用い始め、後に一般に使用されるようになった着衣。軽く保温性に優れ、胴着や袖無しの羽織に作ることが多い。近世以降、安価なところから貧しい人々の間で用いられたことから、「みすぼらしい姿・惨めな境遇」の形容ともなったことをも無論、踏まえた選語である。前書に見る通り、杜甫の楽府「貧交行(ひんこうかう)」のネガティヴな感懐をもとに、それをアウフヘーベンして自身と友(不詳)の清貧の交わりの「直きこと」「まこと」を表わしている。

   *

 貧交行

翻手作雲覆手雨

紛紛輕薄何須數

君不見管鮑貧時交

此道今人棄如土

  貧交行

 手を翻(ひるがへ)せば雲と作(な)り

 手を 覆(くつがへ)せば雨

 紛紛たる輕薄 何ぞ數ふるを須(もち)ひん

 君見ずや 管鮑(くわんんぱう)貧時の交はりを

 此の道 今人(こんじん) 棄つること 土のごとし

   *]

 

 背門口の入江にのぼる千鳥かな     同

[やぶちゃん注:「背門口」は「せどぐち」。一九八九年岩波文庫刊の堀切実氏の編注になる「蕉門名家句選(下)」の評釈によれば、『琵琶湖の岸に接した旅宿の裏口からの眺めであろう湖上にまだ明るみの残る時分、千鳥が狭い入江へ水面に浮上したままやってくる情景に感興を発したのである。冬の湖辺の閑寂な情趣がよくあらわされている。一句、昼の景か夜の景か、また千鳥は飛翔しているのか、浮上しているのか、諸説の分かれるところであるが、「入江にのぼる」という言い方からみて、千鳥の水面に浮上する姿を中心とした情景を想い浮かべるのが自然であろうと考えられる』とされ、さらに『この句、おそらく、丈草が湖南の地へ移住する以前、京にあって、湖畔に旅したときの吟とみられる』とされる。「千鳥」チドリ目チドリ亜目チドリ科 Charadriidae。博物誌や本邦の種群については「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鴴(ちどり)」を参照されたい。冬の季題である。但し、堀切氏の評釈には私はやや疑問が残る。それは『千鳥の水面に浮上する姿を中心とした情景を想い浮かべるのが自然であろう』というところで、種によってはチドリの中には有意な深さの水面に浮いているものもおり、中には水中に潜ることの出来る種もいるかとは思うが、一般的な認識から言えば(当時も今もである)、千鳥は水辺のごく浅い水辺や潟をせっせと歩いて摂餌行動をとるものである。寧ろ、この句の新味は、そうした千鳥足の元となった彼らの平面上の水平移動の映像を手前への動きとして捉え、あたかも湖から「のぼ」って来るように見た「見立て」のパースペクティヴにこそあるように私は思う。それはまさに、同書で堀切氏が並べて引く同じ丈草の、

 水底を見て來た㒵(かほ)の小鴨(こがも)哉

が、同じような逆方向へのモーメントとして詠まれているのと相応するように思われるのである。

 

 しづかさを数珠もおもはず網代守    同

[やぶちゃん注:「網代守」は「あじろもり」。堀切氏の前掲経書では、『川瀬の音のみがひびく冬の夜――この静寂境にあれば誰でも仏心を起こし、数珠を手にすることを想い起こしそうなものなのに、あの網代守はただ一心に簀』(すのこ)『に入った水魚をすくい捕って殺生を重ねていることだ、というのである。そうした救われない網代守の行為を憐んでいるようでもあり、またその無皆無分別の悠然たる姿を羨望しているようでもある』と評され、『「を」は逆接の意の接続助詞』、『「網代」は川瀬の両岸から、たくさんの杭をV宇形に打ち込み、その先端のところに簀を設けて、魚を誘い入れて捕る漁法。その網代の番人が「網代守」で、簀の側に簡単な床と屋根をしつらえ、夜間は篝火をたいて、網で魚を掬いとる。山城(京)の宇治川や近江(滋賀)の田上の氷魚』(ひお:鮎の稚魚。二~三センチメートル程で体は殆んど半透明。秋から冬にかけて琵琶湖で獲れるものが知られる)『を捕る網代がよく知られている。ここは琵琶湖のものか。冬の季題』とあり、更に「猿蓑さがし」(稺柯坊(さいかぼう)空然著になる「猿蓑」の最古の全評釈書「猿みのさがし」(文政一一(一八二八)年刊)『には謡曲『鵜飼』で、鵜使の仕方話として出る「面白の有様や、面白の有様や、底にも見ゆる篝火(かがりび)に、驚く魚を追ひ回(まわ)し、潜(かず)き上げ掬(すく)ひ上げ、隙(ひま)なく魚を食ふ時は、罪も報ひも後の世も、忘れ果(は)てて面白や」の場面を背景にしたものと説いている』とある。この最後のそれは原拠の当否は別として、句解の裾野がぐっと広がってきて面白い。]

 

 一月は我に米かせはちたゝき      同

[やぶちゃん注:「一月」は「ひとつき」。堀切氏前掲書に、『毎晩洛中を物乞いに歩きまわっている鉢叩きよ、もう喜捨の米も大分たまったことだろうから、どうか貧しいわたくしのためにひと月分ほど融通してほしい、というのである。鉢叩きに心の中で呼びかけているのであるが、物を乞うのが鉢叩きなのに、これを逆手にとって、鉢叩きに物を乞うとしたところが、俳諧らしいユーモアである。貧なる境涯にあって、このようにおどけたしぐさをみせるところに丈草の洒脱な境地がくみとれる』とある。「はちたゝき」は「去来 二」で既出既注。]

 

 ほとゝぎす滝よりかみのわたりかな   同

[やぶちゃん注:堀切氏前掲書に、『若葉のころの山中の趣深い情景である。滝になって流れ落ちているところより、さらに上流の山深い谷川の渡し場を、冷たい水に漬って徒渉(かちわた)りしていると、突然、周囲の静寂を破って、時鳥が一声鳴き過ぎた、というのであろう。樵夫などの通うような道がおのずと渓流の渡しにさしかかったところなのであろう。下流の方が滝になって轟々と流れ落ちているのが眺められるのである』とされ、「渡り」は『渡し場の意』。但し、『一説に「あたり」と解して、滝の落ちるところからさらに上方あたりに時鳥が鳴き過ぎたとみる』ものもある、とある。別解は景色全体が不分明となり、私は好かない。]

 

 隙明や蚤の出て行耳の穴        同

[やぶちゃん注:上五は「ひまあくや」とルビする。中七は「のみのでてゆく」であろう。「蚤」は夏の季題。堀切氏は「隙明や」を「ひまあきや」と読まれ(中七は「のみのでてゆく」)、『蚤もどうやら隙をもてあましたらしく、わが耳の穴を出てゆくことだ、というのである。隙をもてあます蚤に、おのれの懶惰(らんだ)なる境涯を重ねているのであり、そこに洒脱でユーモラスな味わいがある』と評しておられるが、語注で、「隙明」は『暇明。なすことがなくなって暇になること。閑暇の時。一説に「ひまあくや」また「ひまあけや」とも読み、語意も、戸や壁の隙間(すきま)から光がさし込んで夜が明けてゆくこと、あるいは「蚤の出て行く隙明(ヒマアキ)」(『猿蓑さがし』)で通路発見のこととするなど諸説がある』とある。想像の諧謔句として孤独を莞爾としてそのまま受けとめている丈草の人柄が淋しい笑いを誘う一句である。]

 

 京筑紫去年の月とふ僧中間       同

[やぶちゃん注:「去年」は「こぞ」、「中間」は「なかま」で仲間に同じい。堀切氏の評釈。『京の僧と筑紫から帰った憎とが、月見の座に同席して、互いに別れ別れに見た去年の名月のことを尋ね合いながら月見をしているのであろう。「去年の筑紫の月はいかがでしたか」、「留守にしていた京の月はどんな風情でしたか」と語り合うのである。「僧仲間」は四、五人とも考えられるが、ここでは二人の対座とみておいた。おそらくひとりは京住の丈草自身とみてよかろう。去年の月のことを話題にして、今年の月見の様子をとらえているのが趣向である。「京」「筑紫」といった古雅な地名を出したのも、月見にふさわしい』とあり、注で『「筑紫」は筑前と筑後の古称。いまの福岡県をさすが、広義には九州一円をいう。「京」と「筑紫」は都と鄙との対照をなす』とされ、「僧中間」には、『この相手の僧については不明であるが、一説には、これを脱俗の心をもった去来のこととみる。なお、この句をそれぞれ各地に修業に出かけてきた四、五人の僧たちが集まった場面とみる解も多い』とする。私は対座で相手を去来(彼は長崎出身である)する説に賛成する。]

 

 行秋の四五日よわるすゝきかな     同

[やぶちゃん注:私の偏愛の一句である。]

 

 我事と鰌のにげし根芹かな       同

[やぶちゃん注:上五は「わがことと」、「鰌」は「どじやう」、「根芹」は「ねぜり」。]

 

 真先に見し枝ならんちる桜       同

[やぶちゃん注:上五「まつさきに」。

 なお、以上の「幾人か」以下の総ての句は「猿蓑」所収である。まさに「引っ提げてやってきたな」の観が私にはする。]

 

 これらの句は何方(どちら)から見ても危気[やぶちゃん注:「あぶなげ」。]のない、堂々たる作品である。許六のいわゆる「釈氏の風雅」たるにかかわらず、御悟(おさと)り臭い、観念的なものが見当らぬのは、けだしその道に入ることの深きがためであろう。「京筑紫」の一句は僧の姿を句中に現しているが、その僧同士も去年見た月のことを語り合っているので、格別坊主臭いところはない。「隙明や」の句、「我事と」の句などに、ほのかな滑稽趣味が漂っているのは、丈艸の句の世界を考える上において、看過すべからざるものであろうと思う。

 丈艸は『猿蓑』のために漢文の跋を草している。「維𠰏元禄四稔辛未仲夏。余掛於洛陽旅亭偶会兆来吟席。見ㇾ需シテ此事センコトヲ書尾。卒ㇾ毫不ㇾ揣ㇾ拙[やぶちゃん注:後注を必ず参照のこと。]とあるに従えば、京都で凡兆、去来に頼まれたものの如くであるが、それにはどうしても頼まれるだけのものがなければならぬ。『猿蓑』は芭蕉監督の下に成った有力な撰集であり、殊に序文の方は蕉門第一の高足たる其角が筆を執っているのだから、いい加減に跋を書かせたものとも思われない。人は『猿蓑』における彗星的作家として凡兆を挙げる。けれども凡兆は『猿蓑』を以てはじめて出現した作家ではない。『曠野(あらの)』その他二、三の集にその片鱗を示していることは、かつて記した通りである。丈艸の作品が句々老成の趣を示しているのは、その天稟(てんぴん)に出ずるものとしても差支ない。ただ超然として「常は此事打わすれたるが如」く、「興に乗じて来たり興つきて帰ると言へるがごと」き丈艸が、一面において『猿蓑』の跋を草するほど重きをなしていたということは、慥(たしか)に注目に値する。当時の丈艸は漸く三十になったばかりだったのである。

[やぶちゃん注:「維𠰏元禄四稔辛未仲夏。余掛錫於洛陽旅亭偶会兆来吟席。見ㇾ需シテ此事センコトヲ書尾。卒ㇾ毫不ㇾ揣ㇾ拙この「𠰏」であるが、これは諸本や原本(「早稲田大学図書館」公式サイト内の「古典総合データベース」の当該部)を見ても、特殊な「※」(「日」+「之」)という字体となっている(Unicodeその他でも表示不能)。しかしこれは調べた限りでは「時」の異体字であり、それであってこそ文意が通じる(底本も「とき」とルビはする。今までもそうだが、底本の漢文訓読部分は読みのルビは省略している。表示が出来ない以外にもそのルビが歴史的仮名遣になっていないのが厭だからである)。されば、この「𠰏」は誤字である。宵曲のそれか、底本編者のそれかは分からぬ(宵曲の原本が読めないので)。ともかくも以下に訓読するが、「※」はいやなので「時」で示す。

   *

維(こ)れ時に元祿四稔(ねん)辛未(かのとひつじ/しんび)仲夏。余、錫を洛陽の旅亭掛(かけ)て偶(たまたま)兆・來の吟席に會(くわい)す。此事(このこと)を記して書尾に題せんことを需(もと)めらる。卒(にはか)に毫(がう)を援(とり)て拙(せつ)を揣(はか)らず。

   *

「元祿四稔辛未」一六九一年。「稔」は「年」の言祝ぎの代字。「毫」は筆(ふで)。「揣らず」は「よく考えもせず」の意。

「高足」(こうそく)は門人や弟子の中で特に優秀な者。高弟。]

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