三州奇談續編卷之八 妙年の河伯
妙年の河伯
新川郡(にひかはのこほり)滑川(なめりかは)は大鄕にして、其稱する滑川を知らず。
「若しや靑砥左衞門が付けしか」
と是を尋ぬるに、滑川は古名にて、元來川あり。今は海入り來て、其水源なる中河原村の小淸水に近し。纔(わづ)かに湧出づる水なり。昔は「小濱松」と云ひしより寺家(じけい)・神家(じんけ)と川を隔(へだ)て、兩側ありしよし。今は町名に殘れり。濱表は伏木と云ふ。伏鬼千軒の號殘れり。賑はしき湊のよし。
「今の放生津(はうじやうづ)のあなたへ引きし伏木と云ふは爰(ここ)なり」
とにや。今の地は辰尾にして、小川滑川の號(な)うつり來ると見ゆ。町の東に櫟原(いちはら)の神社あり。式内の神なり。辰尾の古名は「刀尾(タチヲ)」とにや。是等の號皆々變じて、小名(こな)の滑川を總名となすも又因緣と覺ゆ。西に「水橋の渡り」あり。是は常願寺川の末(すゑ)にして甚だ深く、水所々より落合ふといへども、「あまが瀨」と云ふ渡りあり。義經奧州下りの頃、畑等(ハタケラ)右衞門尉といふもの、此渡り瀨を敎へしとて、今に畑等淸兵衞とて百姓の中に其後孫あり。今も飛脚など、此家に渡りを習ひて打渡り、舟の隙入(ひまいり)を免かるゝとかや。世には飛鳥(あすか)の川もあるに、數百年の今日迄淵・瀨替らざるも又妙なり。扨は水中靈あること怪しむに足らんや。湘靈鼓瑟(こひつ)の事を聞けば、舜(しゆん)の二女(にぢよ)猶水底に瑟を鳴らせるとかや。左(さ)もあるべし。越中は大川多き所なり。俗諺あり。折々は深淵に鈴の音(ね)あり、小兒の踊る時に袂に鈴ありて鳴るに似たること多し。究むべき道もあらねば、誰(たれ)見とむる者もなし。
[やぶちゃん注:標題は「みやうねんのかはく(みょうねんのかはく)」と読んでおく。「妙年」は「妙齢」と使う如く、「妙」は「若い」の意で「若い年頃」。先例に徴して「かはく」と読んだが、「近世奇談全集」の本文ルビは『かつぱ』である。しかし、以下の叙述は明らかに中国起原の記載となっているので、従わなかった。河伯は本来は中国の河川に棲息する異獣で、本邦の河童とは形態の一部がやや類似してはいるものの、中国のそれは爬虫類を思わせる異なる架空の水棲動物であって河童とは異なる。河童はあくまで日本固有の妖怪である。
「新川郡滑川」現在の富山県滑川市(グーグル・マップ・データ)。
「其稱する滑川を知らず」「今、この地に滑川という川は存在しない」の意。
「若しや靑砥左衞門が付けしか」鎌倉後期の武士青砥藤綱。私の「『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 滑川」及びそこにもリンクさせた私の「耳囊 卷之四 靑砥左衞門加增を斷りし事」を読まれたい。麦水がかく言ったのは、その有名な錢探しのエピソードが鎌倉の滑川(グーグル・マップ・データ。以下同じ)であることに拠る。現在の鎌倉市浄明寺のここに「青砥藤綱邸舊蹟碑」があり、エピソードのロケーションとされる「青砥橋」があるが、実際のロケーションはずっと下流の現在の「東勝寺橋」附近ともされる。しかし、実はこの人物自身、実在が疑わしい。
「其水源なる」「なる」は存在を意味する用法で「というのは」の謂い。
「中河原村の小淸水」不詳。位置的に見ると、滑川市清水町が相応しいか。
「小濱松」不詳。
「寺家(じけい)」滑川市寺家町(じけいまち)。読みは現在の行政地名に従った。
「神家(じんか)」滑川市神家町(じんかまち)。同前。
「川」早月川水系と思われる。
「濱表は伏木と云ふ」不詳。現存しない。「今の放生津(はうじやうづ)のあなたへ引きし伏木と云ふは爰(ここ)なり」と後に出るから、高岡市伏木へと移転したというのか? こんな話は伏木に六年いたが、聴いたことがない。ともかくも滑川の「伏木」の地名は早い時期に消失してしまったものと見える。しかし、この辺り、記載の意味がよく判らない。
「伏鬼千軒」不詳。
「賑はしき湊のよし」滑川漁港のことか。
「辰尾」富山市辰尾があるが、「小川滑川の號(な)うつり來ると見ゆ」『辰尾の古名は「刀尾(タチヲ)」とにや』もどこを指し、叙述で何を意味したいかがよく判らぬ。
「櫟原(いちはら)の神社」ここ(滑川市神明町)。現在の呼称でルビした。「近世奇談全集」では『いちゐばら』とルビする。創建は大宝元(七〇一)年とも、また、人皇第十三代成務天皇の御宇の勧請で、文武天皇大宝年間の再興とも言う。ともかくも往時は相当な大社であったらしい。
「式内の神なり」「延喜式」の「神名帳上下」(延喜式神名帳)に記載がある。
「小名(こな)」村や町を小分けした小字 (こあざ) のこと。しかし、ここも何故、小字を「滑川」と称したかが、明らかとなっていない。それが分からなかったことが麦水をしてこのよく判らない叙述となってしまったような気もする。
「水橋の渡り」富山市水橋町。常願寺川の河口の近く(東)で滑川市に東方部分が僅かに接している。
『「あまが瀨」と云ふ渡り』「富山市立水橋西部小学校」公式サイトの校長の談話の中に、自校の生徒を『天瀬っ子』と呼んでいるのを見つけた。場所は不明。
「畑等(ハタケラ)右衞門尉」富山市水橋畠等(みずはしはたけら)という地名を見出せた。しかも、これを調べるうちに、内藤浩誉氏の論文「川を渡る静御前」(PDF)を発見、そこで詳細を尽くして、ここの義経伝説が載る。是非、読まれたいが、それによれば、常願寺川を古くは海士瀬川と呼んだとある。流域は恐らく変化していると思われるが、「あまが瀨」という水深の浅いそれは原常願寺川にあったものと判った。
「習ひて」場所を教えて貰って。
「隙入(ひまいり)」手間どること。時間がかかること。用事に時間をとられること。
「飛鳥の川」奈良県中西部を流れる大和川水系の川。奈良盆地西部を多く北流する大和川の支流の一つで、「明日香川」とも綴る。流域は古代より開けた地で、古歌にもしばしば詠まれた(ウィキの「飛鳥川(奈良県)」に拠る)。ここ。
「湘靈鼓瑟」「湘靈 瑟を鼓(こ)す」で「楚辞」の屈原作と伝える「遠遊」の一句(第八段の中)の「使湘靈鼓瑟」(湘靈(しやうれい)をして瑟(しつ)を鼓(こ)せしめ)。「湘水の神である湘君に大型の琴(二十五弦の琴)を弾かせる」の意。湘君は楚の民の信仰の厚かった洞庭湖一帯の水神。以下にある通り、伝説によれば、伝説の聖王堯(ぎょう)の二人の娘であった娥皇(がこう)と女英(じょえい)は、堯を継いだ舜が、悪神三苗(さんびょう)を征伐するために、沅・湘(洞庭湖の南方一帯)の辺りに至った際、そこの蒼梧(そうご)の地で崩じたと聴いて、悲しんで自ら入水して水神となつたとされる。ここはその詩によれば、祝融(南方の火の神)が彼女たちにその水底で瑟を弾かせた、というのである。原文でよければ、「維基文庫」のこちらに全文がある。]
然るに安永四年八月の事なりし。滑川の南有金(ありかね)村の傍(かたはら)に今井川と云ふあり。是(これ)這槻川(はひつきがは)の枝川(しせん/えだがは)なり。高月村專福寺は弓の庄(しやう)柿澤(かきざは)の圓光寺の二男なり。早朝用事ありて柿澤より專福寺へ歸ることありしが、此今井川に臨む。
朝六半時(むつはんどき)頃の事なり。川に來りて向ひを見れば、岸に一人の小女(こをんな)ありて顏を見合(みあは)す。其顏色白きこと雲の如く、光ありて甚だ美麗、只(ただ)雛の如し。長(た)け二尺餘り。髮のかざりは常の如く、簪(かんざし)をはさむ。ゆるく步みて立てり。衣服を見るに五彩ありて見事なり。人間(じんかん)中の織物とは見えず。兩脚甚だ露(あら)はれ、着物は腰の廻(まは)りと覺ゆ。白き膝あらはに出でたり。手元・袖口のあたり網の如き物下り居(をり)て、手も又甚だ白し。人間(にんげん)に相異(あひことな)ることなく、只甚だ低し。
專福寺と顏を見合すこと度々なり。笑(ゑみ)を含めるけしきにも覺ゆ。
依りて專福寺總身汗出で、戰慄止(と)め難し。
暫くして岸を來る商人(あきんど)二・三人連(づれ)なるものあり。
此妖物(えうぶつ)人音(ひとおと)を忌みけん、暫く川緣(かはふち)によるよと見えしが、楊株(やなぎかぶ)の間(あひだ)より水に入るに、音もなく消ゆるに似て、又再び見えず。
專福寺は暫く立去りかねしが、漸(やうや)く迎(むかへ)を待ちて、川を渡り過ぎて寺に歸る。
下人顏色の異(い)なるに驚き、色々藥を調(ととの)へ養生をなさしむ。
數日(すじつ)にして本復に至るとなり。
是れを櫟原(いちはら)の神主(かんぬし)なる人に尋ねしに、答へて、
「是は必ず河伯(かはく)ならん」
となり。
いろいろ聞き合(あは)するに、良々(やや)河伯に決定(けつじやう)す。
思ふに是(これ)河伯水靈の類(たぐひ)にしては、甚だ幼童なるものと覺ゆ。
湘靈の瑟を鼓するを思へば、是等は小女(こをんな)にして踊り遊ぶらんも計るべからず。
扨は淵底やゝもすれば鈴音を聞きしも、若しや是等の河伯遊びむれて唄ふ折(をり)ならんか。
郡(こほり)の名の新川(にひかは)に比して見れば、河伯も又新川の名を免かれざるも又理(ことは)りと云はんか。
[やぶちゃん注:「安永四年」一七七五年。
「有金(ありかね)村」滑川市有金。
「今井川」不詳。有金は上市川の右岸であるが、同地区を少なくとも四つの細い川が現認出来る。或いはこれらの孰れかかも知れない。後の「這槻川の枝川なり」の「這槻川」が上市川のようには読めるように感ずる。
「高月村」滑川市高月町。上市川の河口右岸。
「專福寺」文脈上は人の名であるが、以下で「專福寺へ歸ることありし」とあるから、やはり寺の名である。因みに、富山市内には専福寺という同名の浄土真宗の寺が二ヶ寺、存在する。一つは富山市南田町に、今一つは富山市米田にある。孰れかは不詳。
「弓の庄柿澤の圓光寺」富山県中新川郡上市町柿沢にある浄土真宗大悟山円光寺。
の二男なり。早朝用事ありて柿澤よりが、此今井川に臨む。
「朝六半時頃」午前七時頃。
「下人」専福寺の寺男。
「良々(やや)」ほぼ。概ね。(よくよく)河伯に決定す。
「郡の名の新川に比して見れば、河伯も又新川の名を免かれざるも又理りと云はんか」私が馬鹿なのか、ちっとも理屈に合っているとは思われない、というか、どこが符合するというのかも判らぬ。]