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2020/07/16

梅崎春生 砂時計 19

 

      19

 

 黒須院長と在院者代表との会見は、ようやく終りに近づく兆候を見せていた。

 しかしこれは、提出された議題が次々にばたばたと解決されて行ったからでなく、一座にみなぎる倦怠と疲労と睡気、ひとえにそのせいであった。それは老人側においてとくに顕著であった。黒須院長もたえざる緊張のために、相当に疲労を感じてはいたけれども、なにぶん齢は四十代だし、さきほど鰻(うなぎ)の大串を何本もたいらげたせいもあり、まだまだ充分な元気と精気を保有して、ぎろりぎろりと一座を睨(ね)め廻していた。これに反して老人たちの側は、ニラ爺のように頭のネジのゆるみかかったものや、しきりに眼をしょぼしょぼさせているもの、連続的に小さな欠伸(あくび)をしているものなど、総体的に消耗の色が濃くただよい始めていた。

 院長はこの情況を待っていたのだ。敵が疲労してくればもうこっちのものだ。リール竿にかかった魚も同然だ。あとは糸を伸ばしたり縮めたり、ゆるめたり引きしめたりするだけでこと足りる。

「よろしい。リヤカー代弁償の件は、わたしの責任において、撤回することにしよう」院長は満面に笑みをたたえ、恩きせがましい口調で、ぐるりと一座を見回した。「しかし、撤回すると言ってもだ、リヤカーは院内備品であるからして、補充しないというわけには行かない。いかにしてこれを補充すべきや――」

「経営者に金を出させりゃいいじゃないかよ」比較的元気な松木爺が口をはさんだ。「公務で破損したんだから、当然の話だ」

「かんたんに考えて下さるな!」院長は松木爺をきめつけた。「そうかんたんにことが運ぶなら、わたしも苦労はしない。いいですか。当養老院は在院者百名を擁する大世帯ですぞ。そういう大世帯になれば、会計制度もちゃんと確立しなけりゃならん。たとえば予算だな。備品補充費というものも、年度がわりにおいて、ちゃんと計上されている。計上されてはいるがだ、それは一年間にわたって使用されるべき金額だ。な、あんた方も子供じゃないんだから判るだろ。ここで一挙に一万二千円も支出すれば、あとはどうなるか。たとえばだな、二万円の月給取りが、月給を貰ったとたんに二万円のカメラを買えば、あとはどうなるかというのと同じことだ。あと三十日を、まるまる飲まず食わずで働かねばならんな。わっはっはあ」

「じゃどうしようと言うんだ」笑い飛ばされて松木爺は憤然となった。「まさかその一万二千円を、我々九十九名に割当てようと言うんじゃあるまいな。そういう振替えは絶対に認めんぞ」

「不肖(ふしょう)黒須玄一は、そんなケチな振替えはやりません」黒須院長は眉をぐいと上げて、大見得を切った。「諸君のふところをあてにするような、そんなしみったれた考えはいささかも持っておりません。リヤカー代は一応わたしが出す。わたしの責任においてわたしが支出することにする。そんなら諸君も文句はなかろう。すなわちわたしはわたしのポケットマネーをさいて、リヤカーを買入れることにします」

「ポケ、ポケット、とは何や」ニラ爺がそっと松木爺に質問した。

「へ、へそくり、という意味だ」松木爺が耳打ちし返した。「へそくりの英語だよ」

「一万二千円。一万二千円という金額は、もちろんわたしにも痛い。痛いけれどもだ」黒須院長は得意げに鼻翼をふくらませ、おもむろに一座を見渡し、そして視線をニラ爺の面上に止めた。「それによってニラ爺さんが幸福になると思えば、わたしも辛抱出来るのだ。同甘同苦。な、ニラ爺さん。もうくよくよすることはないよ。くよくよしないで元気よく、軽はずみをつつしみ、与えられた任務に、いそしんで貰いたい。判ったね」

「与えられた任務とは何だ?」滝川爺がいぶかしげに口をはさんだ。「何か任務でも与えたのか?」

「わたしが与えたのではない」院長は口のすべりをうまくごまかした。「与えられた任務というのはだな、清らかにして正しい余生を送るということだ。つまり神様から与えられた任務のことだね。これはニラ爺さんだけでなく、その任務は諸君全部に課せられているわけなのだ。わたしは諸君のその補佐役に過ぎない」

「さっき院長は」遊佐爺が発言した。「リヤカー代は一応自分が出す、と言ったようだが、一応とはどういう意味だ。暫定的にという意味か?」

「一応は一応だ。一々言葉尻をとらえて下さるな」院長は舞扇で卓をピシリと叩いた。「こうしてわたしは身銭を切ってまでして、諸君に誠意を示している。だから諸君もその誠意にこたえてはどうか、それが同甘同苦というものだ。たとえば先刻保留になっていた調理場開放の件だな、あれなんかは早速諸君の方から、自発的に取下げることを勧告する。この誠意あふるるわたしが、諸君に不利益な調理方法をとるわけがないではないか。ましていわんや、わたしをヌキにして直接経営者と話し合おうなんて、もってのほかだと思わないか。なあ、遊佐爺さん。わたしを信用しなさい。そして調理場開放の件は取下げなさい。そうでないと、折角わたしがポケットマネーをさこうにも、さけなくなってしまうじゃないか。これはわたしにも不幸だが、ニラ爺さんにとってもたいへんに不幸なことだ」

「じゃあ、取下げることにしよう」遊佐爺はニラ爺を横目でにらみながら不承々々(ふしょうぶしょう)に言った。そしてあわててつけ足した。「一応取下げるということにしよう」

「ことのついでに部屋割りのことも」院長は得たりとばかりかさにかかった。「あれもわたしに委(まか)せてくれ。悪いようにはしないから」

「委してくれというのは、くじ引きの期日のことか?」

「くじ引きの期日もそうだが、くじ引きそのものだ」院長は傲然と老人たちを見回した。「くじ引きなんてものは、諸君が集まってやっても、わたしがひとりでやっても、同じようなものだとすれば、なにも諸君の手をわずらわすこともない。わたしひとりでやる。そしてその結果だけを、諸君に発表することにしよう」

「そんなバカなことがあるか」滝川爺がたまりかねたように大声を発した。その大声で、睡気をもよおしていた他の爺さんたちも、ハッと眼を見開いた。「そんな論理の立て方があるものか。それならわしも言おう。どちらがくじ引きしても同じなら、なにも院長の手をわずらわすことはない。わしたちがやる!」

「そうだ。そうだ」

「しきたりを破るな」

「伝統を尊重せよ」

 睡気からさめた爺さんたちは、こもごも口を尖(とが)らせて発言した。

「どうしてそんなに一々わたしの言葉にこだわるのか」院長はやや情なさそうな声を出して舌打ちをした。自分の発言がたちまち一座を刺戟し、あたかも覚醒剤の如き役目を果たしたことに、院長は内心むかむかしていたのだ。「部屋なんかどこだって大体同じじゃないか。広さは一律に六畳だし、目当りもおおむね同じだし、どうして諸君はそんなに部屋割りにこだわるのかね」

「同じじゃないぞ」遊佐爺が一座を制して、代表して発言した。「部屋によっていろいろ条件が違うぞ。住み良い部屋と、住みにくい部屋。たとえば便所ひとつを考えても判るじゃないか。わしたち老人は、年齢の関係上、どうしても便所が近い。夜中に二度も三度も起きることがある。便所に遠い部屋に割当てられたら、冬なんかはまったく難渋するぞ。寒い廊下を往復するだけで、身体のしんまで冷えてしまう。その間の事情が院長には判らないのか」

「便所のことだけじゃない」と松木爺。「たとえば二階と階下では、大いに条件が違う。院長には判るまいが、俺たちの年頃になると、階段の登り降りすらが実に身体にこたえるのだ。そちらでくじ引きをやると言うのなら、そのかわりに各棟にエレベーターかエスカレーターをとりつけろ。それを俺たちは要求する」

「エスカレーター?」院長は眼玉をぎょろりと光らせた。

「何たることをおっしゃるか。ここは百貨店ではありませんぞ。ばかばかしい。黙って聞いておれば、そのうちに、屋上遊園地をつくれと言い出すんだろう」

「屋上遊園地をつくっても当然だ」滝川爺は手を上げて、窓外の闇をキッと指差した。「院長は俺たちの遊び場だった庭を、全部掘りくりかえして、すっかり野菜畠にしてしまったじゃないか。俺たちは一体どこで遊べばいいのか。院長の所存をうけたまわろう」

「爺さんになっても、まだ遊びたいのか」院長も負けずに窓外を差しながら、大声で怒鳴り返した。「大体遊ぶということはだな、子供のやることだ。ここは幼稚園でもなければ、小学校でもない。れっきとした養老院だ。遊び場なんかつくる必要は認めない。それに滝川爺さんは野菜畠に反感を持っておられるようだが、飛んでもない心得違いですぞ。近頃の諸君の健康の一因は、かの新鮮な野菜の摂取にある。採りたての野菜からビタミンA、B、C、D、カロチン、葉緑素、カルシューム……」

「われわれは院長に栄養学の講義を聞いているのじゃない」うるさ型の柿本爺がたまりかねたように割込んだ。

「院長はエレベーター設置を、冗談として聞き流したようだが、それこそ飛んでもない心得違いだ。二階か階下かということは、これはたいへん重要なことだ。これはたんに階段の登り降りだけの間題でない。いいですか。もし万一この夕陽養老院が火事にでもなってみなさい。階上に部屋を割当てられたものは、階下のそれにくらべて、焼死の危険率がぐんと増大する。二階と階下と通じる路としては、中央階段とどんづまりの小階段、それ二つしかない。これじゃあ火事になって両方からはさみうちになった場合、どうすればいいのか。中央部にエレベーターを設置せよ」

「そうだ。全くそうだ」遊佐爺が憂わしげにうなずいた。「わしも日頃からそのことを心配していた。第一にこの建物は非常に古い。山川病院時代を加算すると、この建物はもう三十年以上も経っているわけだ。わしの七十八年の経験によると、建物というやつは老朽すればするほど、火の回りが早いようだ。しかもわしらは老齢で、どうしても行動の敏活を欠く。こういう状況で階下から火が出たら、階上のわれわれは集団的に焼け死んでしまうだろう。大体養老院に二階をつくるなんてことは、常識外(はず)れの暴挙だと言っていいことだぞ」

「屋上庭園をつくれと言うかと思えば、二階をやめろと言う。諸君の主張は全然支離滅裂だ」院長は顎鬚をしごき、わざとらしい軽蔑的な表情をつくった。「火災予防に関しては、当方もいろいろ手も打ってある。諸君さえ火に注意すれば、当院においては絶対に火災は起きない。すなわちだな、寝床の中で煙草を吸うとか――」

「煙草だけが火災の原因じゃないぞ。漏電なんかもある」

「もちろんそうだ。漏電にしてもだ、諸君がわたしの眼をぬすんで、電熱器などを使用しなければ、漏電なんかするわけがない。要は諸君の自覚ひとつだ」

「飛び火ということもある」遊佐爺はあくまで食い下った。「中央階段はまあいいとして、あのどんづまりの階段は古ぼけてガタガタして、また非常に狭い。二人やっと並んで通れる程度だ。もし火災が発生し、中央階段の方から火が回ってきたとすれば、わしらはいきおいその狭い階段に殺到し、ひしめき合い、つまずいて折り重なり、目も当てられないことになるだろう。それを思うとわしは慄然(りつぜん)として、夜もおちおち眠れないぞ」

「なにも狭い階段に逃げ出さなくても」と院長は声をはげました。「二階の各部屋には、命綱の設備があるではないか。あれを利用して、ぶら下って降りればよろしい」

「あの命綱なんか役に立つか」と松木爺。「あの命綱は終戦直後にとりつけたものだ。あの頃の綱はお粗末なもので、マニラロープじゃなくて、代用品だ。それに十年近く経っているから、もうボロボロになっている。あれにぶら下れということは、落っこちろと言うのと同じことだ」

「松木爺さんの言う通り、命綱はダメだ。それにわしらは老齢のため、腕の力も弱っている。エレベーターまでは行かずとも、命綱にかわる安全な脱出路を、早急につくって貰いたい」

「すべり台をつくったらどうや」ニラ爺が頓狂な声で発言し、自分のその発言に感心したように掌をパチパチとたたいた。「すべり台はいいぜ。火事になっても、スーッと辷って逃げられる」

「す、すべり台」院長はびっくりして眼をぱちくりさせた。「すべり台だと?」

「そうだよ。二階から庭へすべり台。みんなよろこぶぜ」

「そんなすべり台なんかを設置したら」院長は腹立たしげに顎鬚をぐいと引っぱった。「皆はすべり台で遊んでばかりいて、院内作業や畠仕事に精を出さなくなるだろう。それじゃ困る。院内の規律が保てない」

「いや、すべり台とは思いつきだ。ニラ爺さんにしては上出来だったぞ」遊佐爺が感心したように、奥歯をかみしめながら発言した。ニラ爺はほめられて、にこにこと相好をくずしながら一座を見回した。「すべり台なら、エレベーターほど費用もかからないし、操作もかんたんだ。乗っかりさえすれば、あとは地球の引力で、自然に下まで行きつくんだからな。すべり台で遊んでばかりいるだろうと院長は言うが、それは遊びではなく、火災時の退避訓練だと思えばいいじゃないか。なあ、海坊、いや黒須院長。梅雨があけたら直ちに、各寮にひとつずつ、すべり台設置の工事を始めて貰いたい。すべり台さえ出来れば、わしも夜安心して眠れる。費用も一本五万円ぐらいで上るだろう」

「五万円で出来るものか。十万円はかかるぞ」

 院長ははき出すように言って腕を組み、居並ぶ爺さんたちの顔をぐるりと見渡した。そして院長は一瞬胸の中で、これらの爺たちが折り重なってわめいているさまを想像し、つづいて寮の二階から不格好にニュッと突き出たすべり台の形を想像した。想像の中で、爺さんたちは次々に窓からすべり台に乗り、つるつると下へ辷(すべ)ってゆく。辷りそこねて途中から転落し、悲鳴を上げているのもいるのだ。(そうだな。つくってもいいな)院長は顎鬚をまさぐりながら考えた。(すべり台遊びで、ころがり落ちたり追突したり、それで怪我をしたり死んだりするやつが出るかも知れん。そうすれば在院者の回転率が早くなり、わしの成績も上ることになる。ひとつ設置してみるか。なるべく急傾斜で、幅のせまい、ころがり落ちやすいやつを!)

「金額の問題ではない。わしらの生命の問題だ」遊佐爺は膝を乗り出して、扇で卓の端をひっぱたいた。「先ほどわしらは、調理場開放において、一応の譲歩をした。院長もそこを考えて呉れ。こういうことは、我を張ってばかりいてはダメだ。お互いに歩み寄る精神を持たねばいかんぞ」

「そうだな。遊佐爺さんの言も一理があるな」手巾(ハンカチ)で禿頭を拭きながら、院長は苦しげな笑顔になった。「まあよろしい、すべり台設置の件は考慮して置こう。経営者会議にはかって、実現に努力します」

「断っておくが――」柿本爺が傍から釘をさした。「ペラペラの張り板のようなのでは困るぞ。ちゃんとした頑丈な材木で、幅は、そうだな、二人並んで辷れるぐらいにして呉れ。そうでないと、火急の場合には危険だからな」

「予算とにらみ合わせて、なるべく希望にそいたい」

「手すりもちゃんとつくるんだよ、手すりも」柿本爺がたたみかけた。「手すりがないと、辷り方によっては、すってんころりんと横にころがり落ちるからな。俺たちも怪我をしたり死んだりするのはイヤだよ」

「いろいろと気がつく爺さんだね、あんたは」院長はいまいましげに舌打ちをして、柿本爺さんをにらみつけた。「あんたの言う通りのやつをつくれば、一本二十万円では足りないだろう。そんな予算は当院にはない。まあ出来るだけ諸君の希望にそいたいとは思うが、手すりの件までは請負えないぞ」

「滝川爺さん」重ねて発言しようとする柿本爺を手で制して、遊佐爺が呼びかけた。会見が長びくと、体力の関係上、こちらが不利になると悟(さと)ったからだ。「すべり台の件はそのくらいとして、次の問題に進もう。滝川爺さん、メモをちょっと調べて呉れや」

 

「しようがねえな、こいつ!」

 牛島康之は乃木七郎の額に二本の指をあて、にくにくしげにぐいとこづいた。乃木七郎は虚脱した表情で、されるがままになり、やがてぼんやりした声で言った。

「ここはどこですか。僕はどうして、ここにいるんですか」

「ふりをしているんでもなさそうだよ、これは」

 栗山佐介はそう言いながら土間に降りた。乃木七郎は泥まみれになったまま、茫然と土間の中央に佇(た)っている。その乃木七郎のうしろに回って、佐介はあちこちに視線を動かした。

「そら、ここに大きなコブが出来ている」佐介は乃木七郎の後頭部に触れた。乃木七郎は瞬間痛そうに肩をびくっとすくめ、右掌を自分の頭に持って行った。「ここをしたたか殴られたもんだから、記憶が呆(ぼ)けたんだよ。僕も中学校の柔道の時間にここを打って、一昼夜ばかり呆けたことがある」

「どうしてここに」乃木七郎はいぶかしげにつぶやいた。「コブが出来てるんだろうな」

「そうよ。あたし力まかせに殴ってやったのよ」土間の入口で曽我ランコが言った。彼女のその口調には喜悦とも憎悪ともつかぬ強い響きがこめられていた。彼女はまだ机の脚を右手にぶら提げていた。そのままで彼女は短いヒステリックな笑い声を立てた。そして言った。

「あたし、三つも殴ってやったの。三つもよ!」

 台風一過という感じで、部屋の中は平静にもどりつつあった。ソバカスは箒で電球の破片をはき集めていた。丸首シャツは投げこまれた石ころの整理に当っていた。イガグリは雑巾で床や壁の泥を拭いていた。建物の裏手でギッコンギッコンと音がするのは、窓から飛び出して反撃におもむいた連中が、身体の汚れを落すためにポンプを使用しているのだろう。

「君も洗っておいでよ」佐介は曽我ランコの方を見た。「足やスラックスが泥だらけだよ。早く洗わないと、しみになってしまうよ」

「いいのよ」ランコは深呼吸をして胸を張り、左掌を胸部の痛む個所にあてた。掌の下でランコの乳房は大きく脈打った。「最初に投げ込まれた石だったわ。それがここに命中したのよ。痛くって痛くって、呼吸がウッと詰ったわ。ほんとに卑怯な奴らねえ、飛道具を使うなんて!」

「今日の会合は、不測の妨害が入ったために、一応これで閉会とします」と戸袋の傍に立ってジャンパーがぼそぼそ声で宜言した。「明日午後六時、皆さんはも一度ここに集まって下さい。今夜の敵方の悪質な妨害と挑発、それについて協議したいと思います」

「その捕虜はどうするんだ」イガグリが雑巾をぶら下げて立ち上りながら言った。部屋中の視線が一斉に土間に集中した。その視線のまっただ中に、乃木七郎は気抜けした顔で、棒杭(ぼうくい)のようにつっ立っていた。その乃木七郎の服の裾を、牛島の右手がぎゅっと摑(つか)んでいた。牛島はまだ乃木七郎の記憶喪失を、芝居ではないかと疑っていたのだ。「まだ呆けている様子か?」

「まだ呆けてるらしいわ」曽我ランコが得意げに答えた。「逃亡する気力もないようよ」

「警察に連絡して」丸首シャツが提案した。「身柄を一応留置して貰ったらどうですか。記憶を回復するまで」

「あたしは反対です」赤スカートがきんきん声で叫んだ。「修羅吉のことですから、警察にもわたりをつけてるに違いないわ。ですから、貴重な捕虜を警察に預けるのは、絶対反対です」

「どなたかこの男の身柄を」ジャンパーが響きの悪い声で言った。「記憶回復まで預かって呉れる人はありませんか?」

「僕が預かりましょう」ふしぎな力が栗山佐介の内部で働いて、彼は右手を挙げ、思わずそう叫んでいた。皆の眼が乃木七郎をはなれ、佐介の顔にあつまった。佐介は手を挙げたまま、へどもどとあかくなった。佐介の内部でそう発言させたものは、この投石男に対する憎しみでなく、むしろその反対のものであった。佐介は挙げた手を不器用におろしながらどもった。「ぼ、ぼくが引受けましょう」

 

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