柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 去来 五 / 去来~了
五
去来とその郷貫(きょうかん)たる長崎とについては自(おのづか)ら専門研究家の手に俟たねばならぬものが多い。長崎帰省の如きも何度かあったことと思うが、句の上においてそれが著しく目につくのは元禄十二年[やぶちゃん注:一六九九年。]以後である。
長崎立春
幼ころ此浦を出四十の後春をむかへて
みやこを古郷となす
うぶすなにあまへて旅ぞ花の春 去来(小弓誹諧)
[やぶちゃん注:「郷貫」「貫」は「本貫地(ほんがんち)」などと使うように「戸籍」の意。本籍或いは郷里のこと。
「幼ころ」は「をさなきころ」、「出」は「いで」、「後」は「のち」、「古郷」は「ふるさと」。「うぶすな」ここは生まれた土地の守り神の意の「産土神(うぶすながみ)」を通わせながら、「その人の生まれた土地・生地」の意。「小弓誹諧」「小弓誹諧集」。東鷲編。元禄十二年刊。]
長崎にて
浦人を寐せて海見る月夜かな 去来(誹諧曾我)
[やぶちゃん注:「寐せて」「ねせて」であろう。「ねかせて」では字余りの弛みが厭だ。「誹諧曾我」白雪編。元禄十二年自序。]
崎陽に旅寝の比
故郷も今はかり寝や渡鳥 同(けふの昔)
[やぶちゃん注:「崎陽」は「きよう」で長崎の異名。「比」は「ころ」。]
長崎のうらに旅ねせし年
とし波のくゞりて行や足のした 同(青蓮)
[やぶちゃん注:上五は寄る年波を匂わせた諧謔。当時(元禄十二年で)、去来数え四十九。]
長崎にて
海を見る目つきも出ず花の空 同
[やぶちゃん注:花の春の駘蕩たる空(陸)景色の方にどうしても目移りがしてしまい、故郷の懐かしい海本来の美景に目が向かぬというのであろう。]
この帰省は恐らく元禄十一年、即ち『梟日記』に支考との応酬があった時であろう。秋の句の多いことから推して、「この人は父母の墓ありて此秋の玉祭(たままつり)せむとおもへるなるべし」という支考の言葉は首肯出来るが、同じく諸書に散見する九州方面の句も、やはりこの時の作と思われる。
[やぶちゃん注:「梟日記」は各務支考が元禄一一(一六九八)年四月二十日に難波津を門出した西国旅行の俳文。長崎七月九日に着き、二日後の十一日に、思わずも京から下向してきた去来に逢う。「四」に以下の条が概ね出ているのであるが、どうも新字が気に入らない。今回は国立国会図書館デジタルコレクションの大正一五(一九二六)年蕉門珍書百種刊行会刊「蕉門珍書百種 第十編」の当該部を視認して二日分のそれを正字で電子化しておく(踊り字は「〱」は「々」に代えた。字配りは再現していない。句読点と濁点を補った)。
*
十一日
此日、洛の去來、きたる。人々、おどろく。この人は父母の墓ありて、此秋の玉祭せむとおもへるなるべし。此日こゝに會して、おもひがけぬ事のいとめづらしければ、
萩咲て便あたらしみやこ人
牡年・魯町は骨肉の間にして、卯七・素行はそのゆかりの人にてぞおはしける。この外の人も入つどひて、丈草はいかに髮や長からん。正秀はいかにたちつけ着る秋やきぬらん。野明はいかに野童はいかに、爲有が梅ぼしの花は野夫にして野ならず。落柿舍の秋は腰張へげて、月影いるゝ槇の戶にやあらんと、是をとひ、かれをいぶかしむほどに
そくさいの數にとはれむ嵯峨の柿 去來
返し
柿ぬしの野分かゝえて旅ねかな 支考
十二日
牡年亭夜話
卯七曰、「今宵は先師の忌日にして、此會、此こゝろ、さらにもとめがたからん。たかく蕉門の筋骨を論し、風雅の褒貶をきかむ。そもそも先師一生の名句といふはいかに。」。答曰、「さだめがたし。時にあひ、をりにふれては、いづれかよろしく、いすれかあしからん。世に名人と上手とのふたつあるべし。名句は無念無想の間より浮て先師も我もあり、人々も又あるべし。名句のなきに有念相の人なればならし。たとへ俳諧しらぬ人も、いはゞ名句はあるべし。上手といふは霧屑をとりあつめて料理せむに、よしとあしきとのさかひありては、しめて、上手・下手の名をわくるならん。吾ともがら、先師のむねをさだめねば、名句の事はしらず。
卯七曰、「公等(キンラ)自讃の句ありや。」。曰、「自讃の句はしらず。自性の句あるべし。」。
應々といへどたゝくや雪の門
去來
有明にふりむきがたき寒さかな
評曰、「始の雪の門は、應とこたへて起ぬも、答をきゝてたゝくも推敲の二字、ふたゝび、世にありて、夜の雪の情つきたりといふべし。次の有明はその情幽遠にして、その姿をばいふべからず。」。
膓に秋のしみたる熟柿かな
支考
梢まで來てゐる秋のあつさかな
評曰、「始の熟柿は西瓜に似て、西瓜にあらず。西瓜は物を染て薄く、熟柿は物をそめて濃ならん。漸寒の情つきたりといふべし。次の殘暑はその情幽遠にして、その姿をばいふべからず。
されば、秋ふたつ冬ふたつ、そのさま、眞草の變化に似たれば、ならべてかく論じたる也。自讃の句は、吾、しらず。是を自性の句といふべし。先師生前の句は、お月、その光におほはれあれども、あるにはあらざらん。筋骨褒貶は沒後の論なるべし。
素行曰、「『八九間空で雨降柳哉』といふ句は、そのよそほひはしりぬ。落所、たしかならず。」。西華坊曰、「この句に物語あり。」。去來曰、「我も有。」。坊曰、「吾、まづあり。木曾塚の舊草にありて、ある人、此句をとふ。曰、『見難し。この柳は白壁の土藏の間か、檜皮ぶきのそりより、片枝うたれてさし出たるが、八、九間もそらにひろごりて、春雨の降ふらぬけしきならん』と申たれば、翁は『障子のあなたよりこなたを見おこして、さりや、大佛のあたりにて、かゝる柳を見をきたる』と申されしが、「續猿蓑」に、「春の烏の畠ほる聲」といふ脇にて、春雨の降ふらぬけしきとは、ましてさだめたる也。」。去來曰、「我はその秋の事なるべし。我別墅におはして、『此春柳の句みつあり、いづれかましたらん』とありしを、『八九間の柳、さる風情はいづこにか見侍しか』と申たれば、『そよ大佛のあたりならずや、げに』と申、翁も『そこなり』とて、わらひ給へり。」。[やぶちゃん注:以下続くが、長いのでここまでとする。リンク先で読まれたい。]
*]
園木の宿にて小姫のまだらぶしうたふを
きゝて
月かげに裾を染たよ浦の秋 去来(小柑子・青莚)
[やぶちゃん注:中七は「すそをそめたよ」。
「園木」は「そのぎ」であるが、不詳。或いは旧彼杵(そのぎ)宿(長崎街道宿場町)のことか。現在の長崎県東彼杵郡東彼杵町彼杵宿郷(そのぎしゅくごう)を中心とした付近か(グーグル・マップ・データ)。但し、「彼杵」を「園木」と書いたという記載は見当たらなかった。
「小姫」少女の親しみを込めた呼称。門付の唄女(うたいめ)か。
「まだらぶし」「まだら」日本海沿岸の港町に多く見られる古い民謡。瀬賀章代氏の論文『石川県輪島崎における古民謡 「まだら」の伝承について』(『歴史地理学』一九九三年九月発行・PDF)によれば(コンマを読点に代えた)、『九州佐賀県の唐津と壱岐にはさまれた壱岐水道に、馬渡(まだら)島がある』(ここ(グーグル・マップ・データ))。『「まだら」とは、この小さな島が発生の地とされる古民謡である。「まだら」はもともと船乗り唄であり、海唄であったが,起舟』(注に『船を起こす祝いの日であり、ふつうは』一月十一日に『行われる。漁師にとっては最も大切な日の一つである。この日を過ぎると漁師は初漁に出てもよいこととなる』とある)『・造船式のみならず、現在では結婚式・「建ちまい(建前)」の際にも唄われ、祝儀唄としての性格がかなり強くなっている』。『「まだら」は海上のルートによって九州から日本海沿岸を北上したと推測され、やや曲節(節まわし)が変化しているものの、明らかに「まだら」と思われる唄が、主に日本海側の各地に散在している。これらの唄を総称して、系統的に「まだら」と呼んでいる』。『「まだら」は、「めでためでたの若松様よ 枝もさかえる葉も茂る」を元唄とする。産み字』(注に『一音の母韻を引いて語るときのその音。たとえば「こそ」を「こそお」と引いて言う「お」の類』とある)『をたくさん持ち、嫋嫋(じょうじょう)とした長い節まわしが特徴であり、書けばわずかこれだけの文句を延々と唄いつなぐ。この長い節まわしが、「まだら」であるかどうかを判定する際の大きな指標となっている。あまりに長い節まわしのため、田んぼで農作業していた農民が「まだら」を唄いはじめ、牛をひいて我が家に帰り、再び田んぼへ戻り、二度目に我が家へ帰着したら、ようやく唄い終わったというエピソードもあるほどである』とある。詳しくは同論文を読まれたい。
「小柑子」「小柑子集(しょうこうじしゅう)」は野紅編。元禄十六年自跋。
「青莚」(あおむしろ)は除風編。元禄十三年刊。]
筑前直方にて
行秋や花にふくるゝ旅衣 同(はつたより)
[やぶちゃん注:現在の福岡県直方(のおがた)市(グーグル・マップ・データ)。]
宰府奉納
幾秋の白毛も神のひかりかな 同(そこの花)
[やぶちゃん注:「宰府」大宰府。「白毛」は「しらが」。「そこの花」は万子編。元禄十四年刊。]
小倉にて七夕のひる
七夕をよけてやたゝが舟躍り 同(泊船集)
[やぶちゃん注:「やたゝ」は「矢楯(やたて)」の音の交替形「やたた」か。軍陣の矢や鉄砲の攻撃を防ぐための防御具で、ここは船端にかける小楯であろう。七夕の日の歴史絵巻の軍船のショーがあったものか。]
七夕は黒崎沙明にて
うちつけに星待顔や浦の宿 同
[やぶちゃん注:「黒崎」(くろさき)「沙明」(さめい)黒崎は黒崎宿で、現在の福岡県北九州市八幡西区黒崎。洞海湾の南岸。当時の洞海湾はもっと広かった。当時、この宿の商人富田屋(関屋)沙明(富田甚左ヱ門。砂明とも)が蕉門俳人として知られていた。中七は「ほしまつかほや」。]
田上といふ山家にて
山家にて魚喰ふ上に早稲の飯 同
[やぶちゃん注:「田上」現在の滋賀県大津市の田上(たなかみ)地区(グーグル・マップ・データ航空写真。非常に広域で、「田上」を持つ地名が複数ある。山間部である)であろうか。]
田上の名月
名月や田上にせまる旅心 同(けふの昔)
[やぶちゃん注:「けふの昔」朱拙編。元禄十二(一六九九)年刊。]
はかたにて
五里の浜月を抱て旅寐かな 同(当座払)
[やぶちゃん注:「抱て」は「かかへて」。「当座払」(とうざはらひ)は千山編。元禄十六年自序。]
福岡にて
福岡や千賀もあら津も雁鱸 同(菊の道)
[やぶちゃん注:「千賀」は「ちが」、座五は「かり/すずき」。
「千賀」は「値嘉(ちが)の浦」のこと。現在の福岡県の海の古称とも、長崎県及び五島列島周辺の海の古称ともされる。
「あら津」福岡県福岡市中央区荒津(グーグル・マップ・データ)。福岡湾東南の湾奥の突先に位置する。
「雁」は「かり」と読んでいよう。広義のガン(「鴈」「雁」)は鳥綱Carinatae 亜綱Neornithes 下綱Neognathae 小綱カモ目カモ科ガン亜科 Anserinae の水鳥の中で、カモ(カモ目カモ亜目カモ科 Anatidae の仲間、或いはカモ科マガモ属 Anas)より大きく、ハクチョウ(カモ科Anserinae 亜科 Cygnus 属の六種及び Coscoroba 属の一種の全七種)より小さい種群を総称する。詳しくは私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鴈(かり・がん)〔ガン〕」を参照されたい。
「鱸」は淡水魚である条鰭綱棘鰭上目スズキ目スズキ亜目スズキ科スズキ属スズキ Lateolabrax japonicus。淡水魚と私が書くのを不審に思われる方は、私の「大和本草卷之十三 魚之上 鱸 (スズキ)」の注を読まれたい。
「菊の道」紫白女(しはくじょ 生没年未詳)編。元禄一三(一七〇〇)年京都井筒屋刊。本邦初の女性による俳諧撰集として知られる。江戸前期から中期の俳人で肥前田代(佐賀県)の人。夫の寺崎一波とともに蕉門の坂本朱拙に学び、のち志太野坡に師事した。初号は糸白で、女を付けず紫白とも号する。]
黒崎にて探題
気づかうて渡る灘女や鱸釣 去来(旅袋集)
[やぶちゃん注:「探題」詩歌の会に於いて幾つかの題の中から籖引きのようにして取った題で詩歌を作ることを言う。座五は「すずきつり」。
「灘女」「なだめ」で海の浅瀬を歩いて渡って行く女性。海女と限定する必要はなく、海藻や貝などを漁っていると限定するのも要らぬお世話だ。まあ、漁師の妻か娘ではあろうが、何か必要があって、服をたくし上げて、一心に力強く、海歩く女を点景させるのが、私はよいと思う。というか座五こそ要らぬお世話で、私は鼻白む。
「旅袋集」「旅袋」。路健編。元禄十二年序。]
筑前博多にて
菊の香にもまれてねばや浜庇 同(そこの花)
[やぶちゃん注:座五は「はまびさし」。言わずもがなであるが、「新古今和歌集」(巻第四 秋歌上)の藤原定家の歌で、「三夕の歌」の一首として知られる(三六三番)、
西行法師すゝめて百首歌よませ
侍りけるに
見わたせば花も紅葉もなかりけり
浦のとまやの秋の夕暮
のインスパイアである。]
宝永元年に至り、去来は甥の卯七と協力して『渡鳥集』を上梓した。巻の最初に芭蕉の「日にかゝる雲やしばしのわたりどり」を置き、続いて十九人の渡鳥の句を掲げてあるが、「渡鳥」の名の由って来るところは、長崎に帰った去来の心境、「故郷も今はかり寝や渡鳥」の一句にあるのではないかと想像する。
『渡鳥集』の中には去来の書いた「入二長崎一記」[やぶちゃん注:「長崎に入るの記」。]がある。「長途に垢つける衣装の上に腰刀よこたへ、あぶつけといふ物鞍坪にくゝり付、笠まぶかに両足ふらめかし」て、「漸く弟の家にたどり入」った去来が、長崎の様子を略叙したもので、「折ふしの盆会に照り渡りたる燈籠の火影(ほかげ)」を見ては、
見し人も孫子になりて墓参 去来
[やぶちゃん注:「孫子」「まご・こ」。座五は無論、「はかまゐり」。]
の感を深うせざるを得なかった。短いながらも引締った文章であるが、この末に「故郷も今はかり寝」の一句あるによって、元禄十一年帰省の際のものたることは明である。
[やぶちゃん注:「宝永元年」一七〇四年。
「渡鳥集」は写本が早稲田大学図書館古典総合データベースのここで読め(全篇一括のPDFはこちら)、その冒頭に「入長崎記」がある。非常に綺麗な写本で読むに苦労がない。是非、見られたい。
「あぶつけ」「鐙付」あぶみつけ)」の変化した語か。乗掛馬(のりかけうま)の両脇に付けた荷物。]
去来はこの時かなり長く郷里に滞在していたらしい。前に挙げた「とし波」の句、「うぶすな」の句は、その年をここに送った消息を物語っている。「海を見る目つきも出ず花の空」の前書に「田上尼の前栽の花見にまねかれて」とあるのを見れば、花の咲く時分までとどまっていたものであろうか。『渡鳥集』にはなおいくつも収穫を存している。
[やぶちゃん注:「田上尼」(たがみのあま ?~享保四(一七一九)年)は長崎の人。箕田勝(みのだ かつ)。去来の縁者で、夫の没後、長崎近郊の田上に隠居を構えて住んでいたことから、この名がある。去来の弟牡年は彼女の養子であり、卯七は彼女の実家の甥に当たる。発句もものしており、「猿蓑」・「有磯海」などに入集している。]
立山下魯町がもとにて
山本や鳥入来る星迎へ 去来
[やぶちゃん注:「やまもとやとりいりきたるほしむかへ」。
「立山下」(たてやました)長崎県長崎市立山はここで、丘陵部が多い。その下方に去来の弟で牡年の兄の向井魯町(?~享保一二(一七二七)年:儒学者で長崎聖堂の大学頭や江戸幕府長崎奉行所の書物改役も務めた)は居を構えていたらしい。]
先放をあくの浦に訪
八月や潮のさはぎの山かづら 同
[やぶちゃん注:「先放」は「せんぱう(せんぽう)」で去来の友人で長崎の人。生没年未詳で詳細事蹟も不詳。「訪」は「とふ」。
「あくの浦」長崎県長崎市飽(あく)の浦町(うらまち)(グーグル・マップ・データ)。]
牡年亭にて
海山を覚えて後の月見かな 同
[やぶちゃん注:月夜となったが、昼の間にそこに見た海山をモノクロームの画面の中に想起しているというのであろう。]
影照院は崎陽の辰巳に有。
入江みぎりに廻り、小嶋山
向に横たふ。吟友支考が
「蕎麦にまた染かはりけん
山畠」と聞えしは秋の比に
や来りけん、其年の名残惜
まんと人に誘れて
山畑や青み残して冬構 同
[やぶちゃん注:「冬構」は「ふゆがまへ」。
「影照院」現存しない。ここは現存する長崎県長崎市鍛冶屋町にある浄土宗正覚山中道院大音寺の末庵であった影照院で、寛永一七(一六四〇)年開創であったとされる。現在、その旧影照院の煉瓦造のアーチ型山門(明治元(一八六八)年頃の制作とされる)が残っているだけである(恐らくこれ。グーグル・マップ・データのサイド・パネルの画像)。但し、ということは少なくとも明治前期までは影照院は存在したということが判る。
「辰巳」南東。
「入江みぎりに廻り」当時は長崎湾の東部分がこの辺りまで貫入していたものか。
「小嶋山」「今昔マップ」で見ると、南正面に「小嶋」(現在は複数の「小島」を含む地区に分割されている)の地名と丘陵部を見出せる(現在は宅地化が進んで、山のようには見えない)。この付近を指すと採っておく。]
先放が別墅
朝々の葉の働きや杜若 去来
[やぶちゃん注:「別墅」は「べつしよ(べっしょ)」別宅。別荘。「杜若」は「かきつばた」。]
風叩が春の気色見んと
舟さし寄けるに乗て
鶯が人の真似るか梅ケ崎 同
[やぶちゃん注:この句、意味が今一つ腑に落ちない。「風叩」は「ふうこう」去来の俳句仲間と思われるが、不詳。「気色」は「けしき」、「寄けるに乗て」は「よせけるにのりて」。
「梅ケ崎」長崎県長崎市梅香崎町(うめがさきまち)であろう。現在は、内陸地区だが、やはりここにも長崎湾は完全にここまで貫入していたのであろう。]
いずれにしてもこの長崎行は去来晩年の大きな出来事であり、『渡鳥集』一巻は注目すべきものたるを失わぬ。
元禄の末から宝永の初へかけての数年ほど、蕉門の有力者が相次いで世を去ったことはあるまい。『有磯海』以来、去来とは因縁の深かった浪化上人が元禄十六年に先ず逝き、翌宝永元年には丈艸も世を去った。浪化追悼の句としては
悼浪化君
その時や空に花ふる野べの雪 去来
[やぶちゃん注:浪化は三十二の若さで遷化した。彼は浄土真宗の僧で、父は東本願寺十四世法主琢如であったから、花は蓮華の花に相違ない。]
の一句が伝わっているのみであるが、丈艸の訃に接しては悵然(ちょうぜん)として「丈艸ガ誄(るい)」一篇を草している。去来が丈艸に逢ったのは、元禄十五年の十月が最後であった。「丈艸誄」の末段にはこうある。
[やぶちゃん注:「悵然」悲しみ嘆くさま。がっかりして打ちひしがれるさま。
「丈艸ガ誄」「風俗文選(ふうぞくもんぜん)」(森川許六編の俳文選集。全十巻五冊。宝永三(一七〇六)年刊。松尾芭蕉及び蕉門俳人二十八人の俳文百十六編を集め、作者列伝を加えてある。「本朝文選」とも呼ぶ)所収。「誄」は死者の生前の功徳を讃え、哀悼の意を表することを指す語。
以下、引用は底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。]
人は山を下らざるの誓ひあり。予は世にたゞよふの役ありて、久しく逢坂の関(せき)越(こゆ)る道もしらず。去々年[やぶちゃん注:「きよきよねん」。]の神無月(かんなづき)、一夜の閑をぬすみ、草庵にやどりて、さむき夜や、おもひつくれば山の上と申て[やぶちゃん注:「まうして」。]、こよひの芳話に、よろづを忘れけりと、其喜びも斜(ななめ)ならず。更行(ふけゆく)まゝに雷鳴地にひゞき、吹(ふく)風扉をはなちければ、虚室欲ㇾ夸ㇾ閑是宝。満山雷雨震二寒更一[やぶちゃん注:返り点のみ示した。底本の訓点を参考にしつつ、私流に訓読すると、「虛室(きよしつ)閑(しづ)かに夸(ほこ)らんと欲す 是れ 寶(たから)/滿山の雷雨 寒更に震(ふる)ふ」。]と、興し出(いで)られ、笑ひ明してわかれぬ。身の上を啼(なく)からす哉(かな)ときこえし、雪気(ゆきげ)の空もふたゝび行[やぶちゃん注:「ゆき」。]めぐり、今むなしき名のみ残りける。凡(およそ)十年のわらひは、三年のうらみに化し、其恨(うらみ)は百年のかなしみを生ず。をしみても猶名残をしく、此一句を手向(たむけ)て、来(こ)しかた行末を語り侍るのみ。
なき名きく春や三とせの生別(いきわか)れ
[やぶちゃん注:「人は山を下らざるの誓ひあり」丈草のそれを指す。彼は膳所近傍の龍ヶ岡に仏幻庵を結び、孤独の生涯を終えた。
「予は世にたゞよふの役ありて」私(去来自身)は世間に絡む仕事があって。しかし、具体に浪人になって後に何をしていたものか、不明。確かに親族から金銭的援助を受けて平然としているような男ではないから、何か、仕事をしていたのであろう。その仕事、何となく気になる。
「さむき夜や、おもひつくれば山の上」これは発句であるから読点はいらない。「おもひつくれば」は「考えて見れば」の意。この丈草殿の草庵は山の上にあるのだから、寒いのは当たり前という、駄句である。
「芳話」は「はうわ(ほうわ)」で「楽しい話」の意。
「虚室欲ㇾ夸ㇾ閑是宝。満山雷雨震二寒更一」「何もない部屋にいることが、これ、私の誇りであり(所謂、「無一物即無尽蔵」)、閑寂こそ、これ、私の宝である。一山総てに雷雨が襲って、寒い夜更けの全山を震わせている」の意。後半部は謂わば、禅の公案を模したものと私は読む。
「身の上を啼(なく)からす哉(かな)」丈草の句の一部。
雪曇り身の上を啼く烏かな
が正格。
「凡(およそ)十年のわらひは」小学館「日本古典文学全集 近世俳句俳文集」の松尾靖秋氏の注に、『丈草は元禄十七年二月二十四日四十三歳で没したのだから、去来と面会したのが落柿舎に芭蕉をたずねた元禄四年とすれば、それから死没の三年前(去々年の神無月)の歓談まではおよそ十年間となる』とある。
「三年のうらみに化し」同前で、『一昨年の十月から三年間会わなかったことをさす』とある。「うらみ」は言わずもがなであるが、丈草を訪ねようしないかった去来自身への去来の恨みである。
「其恨は百年のかなしみを生ず。をしみても猶名残をしく」白居易の「長恨歌」の最終シークエンスを意識したコーダであることは言うまでもなかろう。]
芭蕉歿後、去来が最も志を同じゅうしたのは丈艸であったろう。芭蕉に参する年代もやや遅く、年齢も去来よりは大分下であったが、「此僧此道にすゝみ学ばゝ、人の上にたゝむ事、月を越べからず」という芭蕉の眼識に誤はなかった。去来が丈艸を悼む情の強かったのは、単にその句が秀抜なるがためのみではない。その人物において、道を楽しむ態度において、いわゆる群雄と選を異にするものがあったからである。
[やぶちゃん注:「此僧此道にすゝみ学ばゝ、人の上にたゝむ事、月を越べからず」やはり去来の「丈艸ガ誄」の一節。
*
先師の言(ことば)に、「此僧此道にすゝみ學ばゞ、人の上にたゝむ事、月を越べからず」とのたまへり。其下地(したぢ)[やぶちゃん注:素質。]のうるはしき事、うらやむべし。然れども、性(しやう)くるしみ學ぶ事を好まず、感ありて吟じ、人ありて談じ、常は此事打わすれたるが如し。
*
「選を異にする」「せんをことにする」。別の部類に属する。]
丈艸が亡くなったのは二月の末である。涙を揮って斯人(しじん)のために誄(るい)を草した去来が、その年のうちにまた後を逐うて世を去ろうとは、固より彼自身も思いがけなかったに相違ない。蕉門の柱石は相次いで倒れた。剛復(ごうふく)なる許六をして「いかなる蕉門滅亡の月日にやありけむ、去年の冬は、中越(ちゆうえつ)の院家[やぶちゃん注:「ゐんげ」。]薨(こう)じ給ひぬ。ことし衣更著(きさらぎ)、丈艸卒(しゆつ)す。秋九月此(この)郎[やぶちゃん注:「らう」。]去(さつ)て、手もぎ足もぎの思ひをさせて、人の腸(はらわた)を断(たた)せけるぞや。猶生き残りたる十大弟子の中にも、世のたすけとなりがたきもあるべし。其人かの人と、かへまくほしと思ふ方も有べし。従来の因縁ふかきえにしありて、しかも同じ痢疾(りしつ)のやまひをうけて、共に終りをとげり」と浩歎(こうたん)せしめたのを見ても、如何に去来の死が蕉門に取って大きな損失であったかがわかる。享年は五十三であった。
[やぶちゃん注:以上の引用は「風俗文選」所収の森川許六自身の手になる「去來ガ誄」の一節。こちらのPDFがよい(全50コマの内の「10」コマ目から。引用部は「11」コマ目から)。
「剛復」度量が大きく、こせこせしないこと。大胆でもの怖じしないこと。太っ腹。
「去年の冬は、中越の院家薨じ給ひぬ」は先に出た浪化の逝去を指す。彼は越中国井波瑞泉寺の住職であったが、京との間を頻りに往来した。「院家」はここでは単に「大きな寺院」の意。彼が没したのは元禄十六年十月九日(グレゴリオ暦一七〇三年十一月十七日)であった。翌元禄十七年は三月十三日に宝永に改元し、去来はその宝永元年九月十日(一七〇四年十月八日)に没した。なお、丈草は元禄十七年二月二十四日(一七〇四年三月二十九日)であった。
「此郎」去来を指す。「郞」は男性の意。
「痢疾」通常は赤痢を指す。ただ、俳人の死因というのは何を見ても、何故か載っていないことが多く、浪化・丈草・去来の死因も特定出来なかった。これが正しい(三人ともに赤痢が死因)とすれば、知られていない事実と言えよう。
「此郎」去来を指す。「郞」は男性の意。]
許六の文中にある「中越の院家」は即ち浪化である。「同じ痢疾のやまひ」というのは芭蕉と同病であったことを指すので、芭蕉の病が急であったように、去来の病も急だったのであろう。篤実なる去来は師翁と同じ病を獲て逝くという点に、浅からざる因を感じていたかも知れない。宝永元年には丈艸、去来が相次いで逝き、宝永四年には其角、嵐雪がまた相次いで世を去っている。こういう事実の迹を見ると、そこに偶然ならざる何者かがあるように思われてならぬ。
[やぶちゃん注:芭蕉の死因は諸説あるが、食中毒・赤痢・感染性腸炎・潰瘍性大腸炎辺りが推定されている。]
許六はまた去来の人物を評して「心ざし深くて、一とせ難波の変を聞て[やぶちゃん注:「ききて」。]、速[やぶちゃん注:「すみやか」。]にともづなを解[やぶちゃん注:「とき」。]、義仲寺の葬り[やぶちゃん注:「はうふり」。]にも、肩衣(かたぎぬ)に鋤鍬[やぶちゃん注:「すきくは」。]を携ふ。死後の城を堅ク守り、諸生をなづけ、初心をたすく。越の浪化にかはりて、有磯(ありそ)砥波(となみ)の書を選じ、崎の卯七をたすけて、渡り鳥を集む[やぶちゃん注:「あつむ」。]」といっている。悄然として鋤鍬を手にした去来の肩衣姿は目に見えるようである。去来は其角のように流通無碍(むげ)でなかったから、その俳諧における態度は正に「死後の城を堅ク守」るものであった。従ってその門葉は多くなかったが、道のために「諸生をなづけ、初心をたすく」るの労は敢て吝(おし)まなかったのであろう。芭蕉生前の『猿蓑』といい、歿後の『有磯海』『渡鳥集』といい、去来の関係した撰集がいずれも粒の揃ったものであるのは、最もよくこれを証している。去来は妄(みだり)に事を起すを好まぬ。いやしくも撰集に携わる以上は、並々ならぬ用意と苦心とを以て事に当ったものと思われる。
[やぶちゃん注:引用は、やはり許六の「去來ガ誄」の一節。
「崎」長崎。
「流通無碍」融通無碍に同じい。]
門弟に富まぬ去来の身辺には不思議に俳人が輩出した。魯町、牡年、卯七、素行に加うるに、可南女(かなじょ)、千子(ちね)、田上尼(たがみのあま)の三女性を以てすれば、一族一門だけでも侮るべからざる陣容である。俳句などに縁のなさそうな兄の震軒でさえ、芭蕉の訃(ふ)に接して「冬柳かれて名ばかり残りけり」と詠んでいる位だから、一門に対する去来の感化を想うべきであろう。妹の千子は貞享年中に去来と共に伊勢参宮の旅に上り、少数ながらすぐれた句をとどめたが、元禄元年五月「もえやすく又消やすき蛍かな」の一句を形見としてこの世を去った。「手のうへにかなしく消る去蛍かな」という去来の句は、この妹を悼んだものである。千子にして今少しくながらえたならば、去来一門のみならず、元禄女流のために気を吐くに足る作品を遺したことと思われる。
[やぶちゃん注:「可南女」向井去来の妻(生没年未詳)で「とみ」と「たみ」の二女をもうけた。夫の没後は尼となって「貞従」(或いは「貞松」とも)と称した。句は宝永二(一七〇五)年刊の去来追善集「誰身(たがみ)の秋」の他、蕉門の撰集に散見される。]
去来について記すべき事はなお少くない。彼の俳句観を窺うべき『去未抄』『旅寝論』その他をも一瞥するつもりであったが、あまり長くなるから他日を期するとして、今まで引用するに及ばなかった句を若干挙げて置く。
高潮や海より暮れて梅の花 去来
弟魯町故郷へ帰りけるに
手をはなつ中に落ちけり朧月 同
[やぶちゃん注:「中」は「うち」。一九八九年岩波文庫刊の堀切実氏の編注になる「蕉門名家句選(下)」の評釈によれば、『弟魯町がはるばる故郷長崎へ帰ってゆくのを、早暁見送ったときの吟である。いつまでも名残を惜しんで、ずっと互いに手を握り合っていたが、やっと思い切って手を放してみると、先刻まで出ていた朧月はいつのまにかもう山の端に落ちて消えてしまっていた、というのであろう。別離を惜しんでためらう心の揺れを詠んだものであろうが、時間の経過を示すのに朧月を用いたところ、やや作意が過ぎているともいえる』とやや苦言を呈しておられる。また、「中」の読みについては、『一説には「なか」と読み、別れてゆく二人の間に、の意と解するものもある』とする。さらに、「去来抄」の「先師評」に『よると、芭蕉が「この句悪きといふにはあらず。功者にて、ただいひまぎらされたるなり」と評したこと、去来が結局これを「意到りて句到らざる句」と認めたことが伝えられる。なお、この句』は『「朧月一足づゝもわかれかな」(『炭俵』)の初案ではないかとも考えられる』とある。「去来抄」のそれは以下。
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手をはなつ中に落ちけり朧月 去來
魯町に別るゝ句也。先師曰、此句惡きといふにはあらず。功者にてたゞ謂まぎらされたる句也。去來曰、いか樣にさしてなき事を、句上にてあやつりたる處有。しかれどいまだ十分に解せず。予が心中にハ一物侍れど、句上にあらハれずと見ゆ。いハゆる意到句不到也。
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「意到句不到也」読み下すなら、「意、到るも、句、到らざるなり」。]
花守や白き頭をつきあはせ 同
[やぶちゃん注:「頭」は「かしら」。堀切氏の前掲書で評釈されて、『美しく咲き匂う桜花の下で、花守の老人がふたり、白髪頭をつき合わせるようにして、ひそひそとなにか話し合っている情景である。桜の花の華麗さと、花の番をする老人の沈静した白髪のすがたとの対照に、不思議な調和がある。芭蕉がこの句を「さび色よくあらはれ、悦び候」(『去来抄』)と評したゆえんである。謡曲『嵐山』に登場する花守の老夫婦からの趣向であると思われるが、ここは「花守」をそのまま老夫婦と限定しなくてもよかろう』とされ、語注で、「花守」は『花の番人。謡曲『嵐山』の冒頭部で、勅使が、吉野千本の桜が移植された嵐山の桜を見に出かけると、花守の老夫婦が花に対して礼拝しているので、そのいわれを尋ねる場面に「シテサシこれはこの嵐山の花を守る、夫婦の者にて候なり」、また「シテさん候これは嵐山の花守にて候。(下略)」とみえる。その他、謡曲『田村』にも「花守」が出てくるし、芭蕉にも「一里はみな花守の子孫かや」(『猿蓑』)の用例がある。春の季題』とあり、さらに、「去来抄」の「修行教」の『「さび」を説く条に例示されるほか、元禄六年十二月十七日付塵生宛去来書簡・同七年五月十四日付芭蕉宛去来書簡にも報じられ、さらに同八年一月二十九日付許六宛去来書簡にも「古翁の評に、さび色よくあらハれ珎重のよし、被二仰下一候。(下略)」と報じられている』。『なお、復本二郎氏は『芭蕉における「さび」の構造』において、先の謡曲『嵐山』をこの句の典拠として示した上で、一句は、これを一段すり上げて作したものであるとし、花守の老夫婦が白髪頭を「つき合せ」ているところに、「さび色」があらわれているのだと説いている』とある。「被二仰下一候」は「おほせくだされさふらふ」と読む。「去来抄」のそれは以下。
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野明曰、「句のさびはいかなるものにや。」。去來曰、「さびは句の色也。閑寂なるをいふにあらず。たとへば老人の甲冑を帶し、戰場にはたらき、錦繡をかざり御宴に侍りても老の姿有るがごとし。賑かなる句にも、靜(しづか)なる句にもあるもの也。今一句をあぐ。」。
花守や白き頭をつき合せ 去來
先師曰、「寂色よく顯はれ、悅べる」と也。
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小袖ほす尼なつかしや窓の花 同
熊野路に知人もちぬ桐の花 同
雲とりの峠にて
五月雨に沈むや紀伊の八庄司 同
[やぶちゃん注:「雲とりの峠」熊野那智大社(和歌山県東牟婁郡那智勝浦町)と熊野本宮大社(和歌山県田辺市本宮町本宮)とを結ぶ参詣道の途中にある「大雲取越え」「小雲取越え」の孰れかと思われる。現行では「石倉峠」「越前峠」がある。この付近と推定する(グーグル・マップ・データ航空写真。)
「八庄司」熊野八庄司(はっしょうじ)。ウィキの「熊野八庄司」によれば、『紀伊熊野の八つの庄の庄司。荘園領主の命によって雑務を掌ったが、多くは土豪として部族化した。代々「鈴木庄司」を称した藤白鈴木氏、「湯河庄司」を称した湯川氏、「野長瀬庄司」を称した野長瀬氏らが記録に見える』が、『八つの庄については諸説ある』とある。諸説はリンク先を参照されたい。]
青柴を蚊帳にも釣るや八瀬大原 同
[やぶちゃん注:「八瀬大原」は「やせおはら」。「大原女(おおはらめ)」で知られた京都府京都市左京区北東部にある地名。比叡山の北西麓、高野川上流部に位置する。大原盆地は四方を山に囲まれており、高野川に沿って若狭街道が通っている。かつて大原村は山城国愛宕郡に属し、南隣の八瀬と併せて「八瀬大原」とも称された。古くは「おはら」と読まれ、小原とも表記された(以上はウィキの「大原(京都市)」に拠る)。この中央の南北部分の広域(グーグル・マップ・データ)。拡大すると、町名に「大原」及び「八瀬」の名を現認出来る。]
石も木も眼に光るあつさかな 同
[やぶちゃん注:「眼」は「まなこ」。この句、私は珍しく佳句と思う。]
数十里を一日に過て
打たゝく駒のかしらや天の川 同
長崎丸山にて
いなづまやどの傾城とかり枕 同
[やぶちゃん注:「丸山」は江戸時代から長崎の花街として栄えた遊廓。現在の長崎県長崎市丸山町・寄合町(グーグル・マップ・データ)のこと。当初は鎖国令により、オランダ商館と同様、平戸の丸山から移設されたものである。堀切氏前掲書評釈に、『一瞬、ぴかりと稲妻が光った。いったいあの稲妻はどの遊女と枕をかわし、仮りの契りを結ぶのであろうか、というのである』。前書を受けて、『遊廓丸山の遊女の身の上――その夜毎に相手を変えてゆかねばならぬ愛のはかなさを、瞬時に消えてしまう稲妻のはかなさに託して詠んだものである』とある。]
仲秋の望猶子を送葬して
かゝる夜の月も見にけり野辺送 同
[やぶちゃん注:「望」は「もち」。座五は「のべおくり」。「仲秋」とあるから旧暦八月十五日。「猶子」本来は兄弟や親族の子などを自分の子として迎え入れた養子のことであるが、ここは広義にそれを転じた甥の子の意。堀切氏の前掲書の本句の注に、『元禄三年八月十四日に没した向井俊素のことで、翌十五日に詠まれた追悼句である』とある。]
浅茅生やまくり手おろす虫の声 同
[やぶちゃん注:「浅茅生」は「あさぢふ」(現代仮名遣「あさじう」。珍しく底本では歴史的仮名遣で振られてある)。疎らに或いは丈低く生えた茅(ちがや:単子葉植物綱イネ目イネ科チガヤ属チガヤ Imperata cylindrica)。文学作品では荒涼とした風景を表わすことが多い。虫取りの句。鳴き声を目当てに、虫を捕まえようと、茅の中に腕捲りをし、そっと手を下したその情景を切り取ったものであろう。]
啼鹿を椎の木間に見付たり 同
[やぶちゃん注:「なくしかをしひのこのまにみつけたり」。]
雁がねの竿になる時尚さびし 同
[やぶちゃん注:この句も私は何か惹かれる。]
墨染に眉の毛ながし冬籠り 同
一しぐれしぐれてあかし辻行燈 同
[やぶちゃん注:座五は「つじあんど」。堀切氏前掲書語注に、『辻番所などの前の街路に備えてあった木製で灯籠形の行灯』とあり、別な撰集では座五を「辻燈籠」とするとある。]
句の年代も内容も一様ではない。しかし去来らしい気稟(きひん)の高さは、どの句をも貫いている。容易に足取の乱れぬ点において、去来は最も完成された作家の一人というを憚らぬ。
[やぶちゃん注:以上、やはり、私は去来には惹かれる句が有意に少ないことが、今回、はっきりと判った。]