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2020/07/29

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 丈艸 三

 

       

 

 芭蕉が旅に病んで枯野の夢を見た難波の客舎(かくしゃ)には、丈艸も馳つけた一人であった。支考が『笈日記』に記したところを見ると、「膳所大津の間伊勢尾張のしたしき人、に文したゝめつかはす」とあるのが十月五日、正秀・去来・乙州・木節・丈艸・李由が報を聞いて馳せつけたのは一日置いた七日になっている。電報も速達も、汽車も自動車もない時代にあっては、江州と大坂との間で、これだけの時間を要したのである。

[やぶちゃん注:「原文が私の「笈日記」中の芭蕉終焉の前後を記した「前後日記」(PDF縦書版)で読めるので、是非、参照されたい。]

 芭蕉の病状がよくないので、之道が住吉の四所に参って延年を祈ることになった時、病牀に居合せたものだけで所願の句を作った。丈艸の句は

 峠こす鴨のさなりや諸きほひ    丈艸

であった。「凩の空見なほすや鶴の声」と詠んだ去来、「初雪にやがて手引ん佐太の宮」と詠んだ正秀、「足がろに竹の林やみそさゞい」と詠んだ惟然、「起さるゝ声も嬉しき湯婆(たんぽ)かな」と詠んだ支考――師を思う情は同じであるが、各人各様の面目は自らその句に発揮されているように思う。

 其角が馳せつけた十月十一日の晩、夜伽(よとぎ)の面々が句を作った時、丈艸の詠んだのは

 うづくまる薬の下の寒さかな    丈艸

[やぶちゃん注:「下」は「もと」。]

である。この句が芭蕉の賞讃を得たということは、『笈日記』にもなければ『枯尾花』にもない。ただ去来が「丈艸誄」の中に次のように記している。

[やぶちゃん注:掲句は「去来抄」(自筆稿本)では、

 うづくまるやくわんの下のさむさ哉 丈草

先師難波病床に人々に夜伽の句をすゝめて、今日より我が死期の句也。一字の相談を加ふべからずと也。さまざまの吟ども多く侍りけれど、たゞ此一句のみ丈草出來たりとの給ふ。かゝる時はかゝる情こそうごかめ。興を催し景をさぐるいとまあらじとは、此時こそおもひしり侍りける。

   *

という句形で出る。「やくわん」は「やかん」で「藥缶」、漢方の薬を煎じる鍋のことである。掲句の「藥」も意味は同じ。

 以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。]

 

又難波の病床、側に侍るもの共に、伽(とぎ)の発句をすゝめ、けふより我が死後の句なるべし、一字の相談を加ふべからずとの給ひければ、或は吹飯より鶴を招むと、折からの景物にかけてことぶきを述[やぶちゃん注:「のべ」。]、あるはしかられて次の間に出ると、たよりなき思ひにしほれ、又は病人の余りすゝるやと、むつましきかぎりを尽しける。其ふしぶしも等閑[やぶちゃん注:「なほざり」。]に見やり、たゞうづくまる寒さかなといへる一句のみぞ、丈艸出来たり[やぶちゃん注:「でかしたり」。]とは、感じ給ひける。実にかゝる折には、かゝる誠こそうごかめ、興を探り、作を求る[やぶちゃん注:「もとむる」。]いとまあらじとは、其時にこそ思ひ知侍りけれ[やぶちゃん注:「しりはべしけれ」。]。

 

 「吹井より鶴を招かん時雨かな」は其角、「しかられて次の間へ出る寒さかな」は支考、「病中のあまりすゝるや冬ごもり」は去来である。この時の作者はすべて八人、芭蕉としては生前に与える最後の批判、弟子たちとしては師に示す最後の発句であるだけに、平生とは気分の異るものがあったに相違ない。芭蕉の批評が他の一切に触れず、直に褒詞(ほうじ)となって丈艸の上に落ちたことは、弟子としての最後の面目であるのみならず、また永遠に忘れ得ぬ思出でもあったろう。丈艸のこの句には表面的に躍動するものはないけれども、再誦三誦するに及んで、真に奥底からにしみ出て来るような或者を感ぜずにはおられぬ。垂死の芭蕉はこれを感得して、佳(よ)しとしたものと思われる。

[やぶちゃん注:「吹飯より鶴を招む」では「ふけひ」で、宵曲が示した「吹井より鶴を招かん時雨かな」であれば「ふけゐ」となる。この其角の句は「新拾遺和歌集」(勅撰和歌集。二条為明(ためあき)撰。貞治二(一三六三)年に室町幕府第二代将軍足利義詮の執奏により後光厳天皇より綸旨が下って開始され、貞治三年十月の為明の死去後、頓阿が継いで、同年十二月に成った)の順徳天皇の一首(一七五〇番)、

 蘆邊より潮滿ちくらし天つ風吹飯(ふけひ)の浦に鶴(たづ)ぞ鳴くなる

を裁ち入れたもの。「吹飯の浦」は「万葉集」以来の歌枕で、現在の大阪府泉南郡岬町深日(ふけ)(グーグル・マップ・データ)の海岸とされる。古来、「風が吹く」の意や「夜が更ける」の意を込めて和歌に詠まれることが多かった。]

 

 芭蕉を悼んだ丈艸の句は『枯尾花』に

    暁の墓もゆるぐや千鳥数奇   丈艸

の一句がある。義仲寺における初七日(しょなぬか)及六七日(ろくしちにち)の追善俳諧の中にも丈艸の名は見えているが、芭蕉に対する追慕の情は必ずしも悉(つく)されているわけではない。丈艸の丈艸たる面目のよく現れたものは、そういう作品の上よりもむしろ芭蕉歿後における丈艸の態度である。この点に関し去来は「先師遷化(せんげ)の後は、膳所松本の誰かれ、たふとみなづきて、義仲寺の上の山に、草庵をむすびければ」云々と記しているに過ぎぬが、丈艸が亡師のために三年間、一石一字の法華経を書写したということは、特筆されねばならぬ事柄であろう。石経(せっきょう)のことは丈艸自身次のように記している。

[やぶちゃん注:掲句、

 曉(あかつき)の墓もゆるぐや千鳥數奇(ちどりすき)

は元禄七年十月十四日(芭蕉は元禄七年十月十二日(一六九四年十一月二十八日)没))の追悼吟である。芭蕉は、

 星崎の闇を見よとや啼千鳥

(貞享四年十一月七日の歌仙の発句。私の『「笈の小文」の旅シンクロニティ――星崎の闇を見よとや啼く千鳥 芭蕉』を参照)を意識しての、芭蕉の千鳥への偏愛をインスパイアしたもの。

 以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。]

 

国々の墓所も同じ墓所の霜にしらめる三年の喪は疎[やぶちゃん注:「まばら」。]ならぬ中に、湖上の木曾寺は其全き姿を収めて、人々のぬかづき寄る袖の泪[やぶちゃん注:「なみだ」。]も、一しほの時雨をすゝむる旧寺の夕べより朝をかけて梵筵(ぼんえん)吟席の勤[やぶちゃん注:「つとめ」。]ねもごろなり。然れども野衲は独り財なく病有る身なれば、なみなみの手向(たむけ)も心にまかせず、あたり近き谷川の小石かきあつめて蓮経の要品[やぶちゃん注:「えうぼん」。]を写し、その菩提を祈りその恩を謝せむ事を願へり、誠に今更の夢とのみ驚く心、喪のかぎりに筆を抛(なげう)ち手を拱して[やぶちゃん注:「きやうして」。]唯墓前の枯野を見るのみ。

 石経の墨を添へけり初時雨     丈艸

[やぶちゃん注:以上は「香語」(かうご(こうご):導師が香を焚き、仏前に語りかけること。「拈香(ねんこう)法語」の略。因みに特に葬儀の際のそれを引導と呼ぶ)と題した句文で、句自体は芭蕉の三回忌に当たる元禄九年十月十二日頃に詠まれた句であると、堀切氏の前掲書にある。この哀切々たるモノクロームの絶対の映像はあたかもアンドレイ・タルコフスキイの「アンドレイ・ルブリョフ」の無言の行に徹するルブリョフをさえ私は想起する。

「野衲」「やなう」。「衲」は衲衣(のうえ)の意で田舎の僧。転じて一人称の人称代名詞で僧が自身を遜(へりくだ)って言う語。愚僧。野僧。]

 

 何時(いつ)の世如何なる時代を問わず、一団の中心をなす大人物が亡くなった後には、必ず解体分離の作用が起る。その作用は外界より切崩されるものでなしに、一団の内部より生ずる性質のものである。元禄七年に芭蕉を喪(うしな)った後の俳壇にも、自らこの作用が現れた。今まで小異を棄てて大同についていた蕉門の作者たちも、各々自己の見地を主張して門戸を張ろうとする。其角、嵐雪以下の作者は、いずれも芭蕉の衣鉢を伝うるに足る高弟に相違ないが、その器局(ききょく)には自ら限度があり、芭蕉によって総括されていた俳諧の天地をそのまま継承するわけには行かない。この傾向に対して不満の意を表した去来の立場も、芭蕉に比して狭い自己の分野を語るに外ならなかった。丈艸は芭蕉の生前歿後を通じ、俳諧に関して議論らしいものを述べていない。門戸の見を有せぬことは勿論である。芭蕉を喪うと共に、永久に依るべきものを失った彼は、その菩提を祈りその恩を謝せむがために、一石一字の写経を怠らず、三年の喪に服したのであった。

[やぶちゃん注:「器局」才能と度量。器量。

「門戸の見」「もんこのけん」。他者と交流し、また外部の存在や見識を受け入れるために開かれるべき入り口。]

 

 以下少しく芭蕉歿後における丈艸の句を挙げて、その追慕の情を偲ぶことにする。

   いがへおもむくときばせを翁
   墓にまうでて

 ことづても此とほりかや墓のつゆ    丈艸

[やぶちゃん注:元禄一〇(一六八七)年七月、芭蕉の故郷伊賀に旅立つ折り、芭蕉の墓前に手向けた一句。「人生、朝露の如し」が、その「此(この)とほり」の「ことづて」であったことだ、という謂いである。こういう感傷句はこの丈草以外の有象無象の俳人が口にするや、直ちに薄っぺらく嘘臭いものに響くから不思議である。]

 

   越の十丈吟士此秋伊勢詣での道すがら
   山吟野詠文囊に満むとす、就中湖上の
   無名庵を尋ねて蕉翁の古墳を弔ふ余
   (あまり)、哀いまだ尽ずして予が草
   庵に杖をひかる、柴の扉は粟津野の秋
   風に霜枯て一夜の草の枕何おもひ出な
   らんとも覚えず、殊更発句せよと望ま
   るゝにせん方なき壁に片より柱に背中
   をせめてやうやうおもひ付る事あり、
   翁往昔麓の庵に寝覚して此岡山の鹿追
   の声をはかなみ、何とぞ句なるべき景
   情いづれはとねらひ暮されし夢の跡な
   がら、今又呼やまぬ声々をむかしがた
   りのひとつ趣向の片はしにもと筆を馳
   す

 鹿小屋の声はふもとぞ庵の客      同

[やぶちゃん注:「鹿小屋」は「ししごや」。これは「射水川」(いみづがは:十丈編。元禄十四年自序)に所収の句文「木曾塚」。野田別天楼編の大正一二(一九二三)年雁来紅社刊「丈艸集」巻末(国立国会図書館デジタルコレクション)のこちらで正字正仮名で読める。「十丈」は竹内十丈(?~享保八(一七二三)年)。越中生まれ。元禄九年、伊勢・京都・大坂・粟津・彦根などの松尾芭蕉の高弟を訪ね、その折の句を上巻に、文通の句を下巻に収めて「射水川」を刊行した。以下、上記リンク先の「射水川」のそれを参考に(宵曲の引用が何に基づくか判らぬが、有意に異なる箇所がある)正字で記号も増やし、読みを推定で補った。

   *

      木 曾 塚

越の十丈吟士、此秋、伊勢詣での道すがら、山吟野詠、文囊(ぶんなう)に滿ちんとす。就中(なかんづく)、湖上の無名庵(むみやうあん)を尋ねて、蕉翁の古墳を弔ふ。餘念いまだ盡きずして、予が草庵に杖を曳かる。柴の扉(とぼそ)は粟津野(あはづの)の秋風に霜枯(しもがれ)て一夜(ひとよ)の草の枕、何おもひ出ならんとも覺えず。殊更「發句せよ」と望まるゝにせん方なく、壁に片より、柱に背中をせめて、やうやうおもひつくる事あり、翁、往昔(そのかみ)、麓の庵(いほり)に旅寢して、此(この)岡山の鹿追(ししおひ)の聲をはかなみ、「何とぞ句なるべき景情いづれは」とねらひ暮されし夢の跡ながら、今、又、呼びやまぬ聲々を、むかしがたりのひとつ趣向の片はしにも、と筆を馳(は)す。

 鹿小屋(ししごや)の聲はふもとぞ庵(いほ)の客

   *]

 

   芭蕉翁追悼

 ゆりすわる小春の海や塚の前      丈艸

[やぶちゃん注:「後の旅」(如行編・元禄八年序)所収。「小春」は陰暦十月の異名。「ゆりすわる」「搖り坐る」で、体をゆり動かして落ち着かせた状態に成して座ることで、松尾勝郎氏編著「蝸牛 俳句文庫17 内藤丈草」(一九九五年蝸牛社刊)によれば、『琵琶湖の動きと、丈草の心のゆらぎを掛ける。先師の墓前で穏やかな湖水を見つめる。自分にの心にもいくらか平常心が戻ってきた』と評釈しておられる。但し、ここは「ゆりすわる」の「ゆり」の方に重みがあるように思われ、寧ろ、未だ師を欠損した自身の心の揺らぎの方に傾きがあるように私には読める。]

 

   幻住庵頽廃の跡一見して

 霜原や窓の付たる壁のきれ       同

[やぶちゃん注:浪化編で元禄十一年刊の「続有磯海」所収。凄絶の景である。後の宵曲の評釈が正鵠を射ており、屋上屋はいらぬ。]

 

   芭蕉翁の七日々々もうつり行あはれさ
   猶無名庵に偶居してこゝちさへすぐれ
   ず、去来がもとへ申つかはしける

 朝霜や茶湯の後のくすり鍋       同

[やぶちゃん注:堀切氏の前掲書に従えば、元禄七年十月十二日(一六九四年十一月二十八日)の芭蕉逝去の年内の冬の句で、丈草は芭蕉の死を悼んで三年の心喪を決し、木曾塚無名庵に籠っていたが、体調が思わしくなかったことを言う。だから「くすり鍋」(こちらは自身のための漢方薬を煮出すための鍋である。まず、先師のための「茶湯」(ちやとう)を供えてその「後」(あと)から、というところに丈草の思いが籠る)。「偶居」は「寓居」の誤記。「茶湯」は『茶を煎じて出した湯のこと。ここは仏前に供えるためのもの』と堀切氏注にあり、前書にある通り、去来にこの句を送った。その返しは、

 朝霜や人參つんで墓まいり

(「まいり」はママ)であったとある。]

 

   芭蕉翁の往昔を思ふ

 梅が香に迷はぬ道のちまたかな     同

[やぶちゃん注:松尾氏前掲書によれば、『「道」は蕉風の道。「ちまた」は別れ道。今咲き匂う梅の薫香のような亡師の教えを、これからも信奉してゆくのみ、との決意表明。芭蕉七回忌の元禄十三年春。去来と巻いた歌仙の発句』とある。前書は「丈草句集」のもの。]

 

  芭蕉翁の墳に詣でゝ我病身をおもふ

 陽炎や墓より外に住むばかり      同

[やぶちゃん注:「かげろふやはかよりそとにすむばかり」。丈草畢生の絶唱。元禄九年春の作。但し、掲句は「浮世の北」(可吟編・元禄九年刊)のそれで、私は「初蟬」(風国編。元禄九年刊)の、

   芭蕉翁塚にまうでゝ

 陽炎や塚より外に住(すむ)ばかり

の「塚」でありたい。それは個人的に偏愛する、芭蕉が亡き小杉一笑を詠じた絶唱、

 塚も動け我泣聲は秋の風

に遠く幽かに通うからである(なお、私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 65 金沢 塚も動け我が泣く聲は秋の風』をも参照されたい。但し、そこでは私は比較に於いては批判的に丈草の句を評している)。そこにもリンクさせた私の「宇野浩二 芥川龍之介 二十一~(5)」では、私は本句を以下のように評釈した。

   *

……先師の墓に詣でる……と……折柄、春の陽炎ゆらゆらと……師の墓もその景も……みなみな定めなき姿に搖れてをる……その影も搖れ搖れる陽炎も……ともに儚く消えゆくもの……いや……儚く消えゆくものは、外でもない……この我が身とて同じ如……先師と我と……「幽明相隔つ」なんどとは言うものの……いや、儚き幻に過ぎぬこの我が身とて……ただただ「墓」からたった一歩の外に……たまさか、住んでをるに過ぎぬのであり……いや、我が心は既にして……冥界へとあくがれて……直き、この身も滅び……確かに先師の元へと……我れは旅立つ……

   *

私の訳では鼻白む向きも多かろうからして、堀切氏の前掲書のそれを引くと、『先師芭蕉翁の墓に詣でてみると、墓のあたりには陽炎がゆらゆらと立っている。たちまちにして消えるはかない陽炎と同じく、自分もいつこの世を去るかわからない。師と自分と今は幽明境を異にしているのであるが、幻のようなわが身は、ただ墓から一歩外の世界に住むだけのことであり、すでに心は墓の中、間もなく師翁の後を追う身なのである、といった句意であろう。平常から病身であり、仏幻庵に孤独なわび住いをしていた丈草の師翁への心服のほどが、痛いほどに伝わってくる句である。春の季節のおとずれの象徴でもあり、また幻のようにはかないものの象徴でもある「陽炎」がよく効いている』とされる。]

 

   越中翁塚手向

 入る月や時雨るゝ雲の底光り      同

[やぶちゃん注:堀切氏前掲書によれば、元禄一三(一七〇〇)年に丈草が越中井波の翁塚(おきなづか)に向けて遙かに詠んだ手向(たむ)けの一句である(そこに行ったのではない。後述)。翁塚は富山県観光公式サイト「とやま観光ナビ」の「翁塚・黒髪庵」に(地図有り)、『井波の町の緑あふれる浄蓮寺境内に』ある芭蕉供養塚である。『芭蕉の門弟だった瑞泉寺』第十一『代の浪化上人が、芭蕉の墓から小石』三『個を持ち帰り、浄蓮寺の境内に塚を建てました。その』二『年後には芭蕉の遺髪も納められたといいます。この塚を翁塚と言い、表面に「翁塚」の二字が刻まれています。翁塚は、伊賀上野の故郷塚、義仲寺の本廟とともに芭蕉三塚とされています』(私は大学時分に訪れたことがあるはずなのだが、全く記憶がない)とある。堀切氏前掲書に、『浪化が元禄十三年上洛の折、義仲寺の翁墓前の小石を三個拾って帰り、それを埋めて井波浄蓮社の翁墳を建立したが、この意図に合わせて』、同年中に『各地の門人に乞うて集めた十百韻の中の一つの発句が、この句であったという』とあり、『宵月が西空に入ろうとするあたりに時雨雲がかかってきたが、その雲が底の方から光っているように見えるという景色である。凄味を帯びた客観写生の句にみえるが、裏面には、芭蕉の没したことを「入月」にたとえ、その命日(陰暦十月十二日)を「しぐれ」に合わせ、さらにその没後の威光を「雲の底光」に示すという寓意がこめられているのである』と評されておられる。]

 

   芭蕉翁七回忌追福の時法華経頓写の前
   書あり

 待受けて経書く風の落葉かな      同

[やぶちゃん注:「頓写」(とんしや)とは追善供養のために大勢が集まって一部の経を一日で速やかに写すことを言う。「一日経」とも。松尾氏の前掲書では、『心待ちにした亡師の七回忌。風もこの日を待ちうけていたのか、写経する目の前を、落葉も経文字を書くような舞いかたで散っている』と評釈しておられる。]

 

   奈良の玄梅蕉翁の
   こがらしの身は竹斎に似たる哉
   といへる句を夢見て、其翁の像を画き
   て讃望みけるに

 木がらしの身は猶軽し夢の中      同

[やぶちゃん注:「玄梅」石岡玄梅(生没年未詳)。奈良の人。当初は貞門に属したが、貞享二(一六八五)年に奈良を訪れた芭蕉の門人となり、素觴子(そしょうし)の号を与えられた。編著に「鳥の道」(元禄十年序)がある。堀切氏は前掲書評釈で、『前書にみえるように、玄梅に求められて、芭蕉の像に賛をした句である。木枯しに吹かれながら瓢々と旅を続けられた芭蕉生前の侘姿』(わびすがた)『は、今、あなたの夢の中では、なおいっそう軽やかなものとして浮かんできたことであろう、という意である。もちろん、そこには丈草自身の故翁への想いもこめられているわけである』とされ、玄梅について、「鳥の道」によれば、『芭蕉に草扉を敲かれ、素觴子(そしょうし)の号を与えられて、「誉られて挨拶もなきかはづ哉」と吟じたことがあったという。そうした懐しい回想をこめ、丈草に翁の像への賛を望んだのであろう』とある。堀切氏も指摘されておられるが、前書の芭蕉の句は正しくは、

 狂句こがらしの身は竹齋に似たる哉

「俳諧七部集」の第一「冬の日」(山本荷兮編。貞享元(一六八四)年刊)の巻頭「こがらしの卷」の破格の発句である。「冬の日」では芭蕉の前書があって、

   *

笠は長途の雨にほころび、帋衣(かみこ)はとまりとまりのあらしにもめたり。侘(わび)つくしたるわび人、我さへあはれにおぼえける。むかし狂哥の才士、此國にたどりし事を、不圖(ふと)おもひ出(いで)て申(まうし)侍る。

   *

と附される。「長途」は「野ざらし紀行」の旅を指す。「狂哥の才士」「竹齋」は江戸初期の仮名草子でベストセラーとなった「竹斎(物語)」の主人公を指す。全二巻。烏丸(からすま)光広の作とする説もあるが、現行では伊勢松坂生まれの江戸の医師富山道冶(とみやまどうや)とする説が有力。元和七(一六二一)年から寛永一三(一六三六)年頃までの間で成立したもので、写本・木活字本・整版本などの諸本がある。京の藪医者竹斎が、「にらみの介」という郎党をつれて江戸へ下る途中、名古屋で開業したりしながら、さまざまな滑稽を展開する話。啓蒙的色彩も強く、また、名所記風な味わいもあり、後の「東海道名所記」から「東海道中膝栗毛」に至るまで大きな影響を与えた。伊東洋氏は「芭蕉DB」のこちらで、『やぶ医者が下男を連れて諸国行脚をする和製ドン・キホーテ物語。芭蕉は自らのやつれた姿と俳諧に掛ける尋常ならざる想いを竹斎の風狂になぞらえた。この旅の風狂は、芭蕉俳諧の一大転機になっており、名古屋の門弟に見せる並々ならぬ自信とみてよい。冒頭の「狂句」は、芭蕉の決意を示す並々ならぬ宣言であり、敢えて「狂句」という自虐的な言い方をしたのであろう。ただし、「狂句」は、後日削除したと言われている』とある。]

 

 これらの句は必ずしも年次を同じゅうするものではない。例えば「ゆりすわる」の句、「朝霜や」の句に現れた追慕の情と、「待受けて」の句、「木がらし」の句に現れたそれとでは、時間的に見て大分の距離があるに相違ないが、その底に流れるものには自ら一貫したところがある。

 「ことづても」の句は元禄十一年の『続有磯海』に出ているから、歿後数年を経ざる場合のものであろう。伊賀は芭蕉の郷里である。芭蕉の歿後その郷里へ行くことになった丈艸は、出発に先って義仲寺の墓に諧でた。「此とほり」というのは人生朝露の如きを意味するのであろうか。「ことづて」は無論郷里の人に対する伝言と思われる。亡師の郷里に赴かむとしてその墓前に立った丈艸は、今更の如く人生の無常なるを痛感せずにいられぬ。その感懐を一句に托したので、句としては面白くもないが、出家沙門たる丈艸の面目はよく現れている。

 「鹿小屋」の句はそれに比べるとよほど面白い。尤もその面白味の大半は、前書によって補われねばならぬものであるが、この感懐は前の句のような観念的なものでないからである。芭蕉の墳を弔い丈艸の庵を訪い寄った俳人が、強いて何か発句をと乞う。「感ありて吟じ、人ありて談じ、常は此事打わすれたるが如し」という丈艸としては、いささか迷惑であったに相違ない。乃ち壁により柱に靠(もた)れて考えるうちに、芭蕉在世当時のことを憶出(おもいだ)した。「麓の庵」というのは栗津の無名庵であろう。「鹿追の声」は畑を荒す鹿を迫う百姓の声らしい。芭蕉がその声を寝覚に聞いて、何とか句になりそうなものだといっていたが、遂に意を果さなかった。その声は今でも聞えて来る。翁の興がった鹿小屋の声は、今麓の方に聞えるのがそれだ、と庵の客に対して語ったのである。この鹿追の追懐は前の句より更に数年後の作であるらしい。

 「幻住庵頽廃」のことは他に何か文献があるのかも知れぬが、姑(しばら)くこの句だけで考えても、芭蕉歿後数年にして全く頽(すた)れていたことがわかる。芭蕉の遺蹟をたずねた丈艸は、頽れた壁が落ちているのを見出した。その壁には窓の一部がついている。単に頽れた壁だけでは、われわれに訴える感じはさのみ強くない。「壁の付たる窓のきれ」というに至ってその印象がまざまざと眼に浮んで来るような気がする。

 「陽炎や」の句についてはまた芥川氏の説がある。許六が亡師迫善の句について、自己の「鬢の霜無言の時の姿かな」を挙げ、嵐雪の「なき人の裾をつかめば納豆かな」を罵倒した。芥川氏はそれに対し、

[やぶちゃん注:以下は、前に掲げた芥川龍之介『「續晉明集」讀後』の一節。

以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。]

 

これは大気焰にも何にもせよ、正に許六の言の通りである。しかし五老井主人以外に、誰も先師を憶うの句に光焰を放ったものはなかったのであろうか? 第二年の追善かどうかはしばらく問わず、下にかかげる丈艸の句は確にその種類の尤(ゆう)なるものである。いや、僕の所信によれば、むしろ許六の悼亡よりも深処の生命を捉えたものである。

 

といって、丈艸のこの句を挙げているのである。許六の「自得発明弁」に対して一拶(いっさつ)を与えるだけなら、あるいはこの一句で足りるかも知れない。丈艸はその他にもかくの如く先師に対する追慕の情を叙している。この一事は丈艸その人を考える上において容易に看過すべからざるものと信ずる。

[やぶちゃん注:「自得発明弁」は既注であるが、再掲しておくと、俳諧論書「許六・去来 俳諧問答」(許六と去来の間で交わされた往復書簡を集めたもので「贈落舍去來書」・「俳諧自讃之論」・「答許子問難辯」・「再呈落柿舍先生」・「俳諧自讃之論」・「自得發明弁」(「弁」はママ)・「同門評判」から成る)の一章。]

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