梅崎春生 砂時計 17
17
雨はすこしずつ上りつつあった。場所によっては、雲の切れ間さえ見え始めていた。
ニラ爺はまだうとうとと、悪夢のつづきを見ていた。躰がちいさいのと、居眠りの技術が巧妙なために、周囲の爺さんたちはまだ誰もそれに気がついていなかった。みんな黒須院長との対決に没頭し、かんかんに熱中していた。その烈しいやりとりの嵐の眼の位置で、ニラ爺は唇のはしから透明なよだれを垂らしながら、しずかに眠りつづけていた。院長室の窓ガラスを打つ雨の音が、その頃からようやく衰えを見せてきた。
栗山佐介の小屋のトタン屋根でも、雨声はまばらになりつつあった。小屋の中は、さっき三人が立ち去ったそのままの状況で、湯呑みやコップや竹の皮などが雑然と散らばっていた。その竹の皮のひとつに付着したハムの切れっぱしを、一匹の小さな泥棒猫が油断なく周囲に気をくばりながら、ぺろぺろと嘗(な)めていた。猫の毛並みは真黒で、眼だけが金色にらんらんと光っていた。身体の角度を変えたとたんに、後肢がコップに触れ、かたりと音を立てた。泥棒猫はぎょっとして頭を上げ、黒い尻尾をぶうとふくらませた。カレー工場のガシャガシャ音は、相変らず正確なリズムで、夜気をゆるがせている。
雨は乃木七郎の服を濡らし、シャツを通り抜けて、すでに肌にまで沁(し)みこんでいた。これまで濡れた以上は、雨が小止みになり、あるいは全然止んだとしても、さほど意味はなかった。ずぶ濡れになったことによって、乃木七郎の鼻や咽喉(のど)は、すでにカタル症状をおこしかけていた。水洟(みずばな)がしきりに流れ出たし、咽喉もいがらっぽかった。肌にべとつくシャツの感触が気味が悪い。やがてそれは風邪特有の悪寒(おかん)に変って行く予感があったのだ。
(来なきゃよかったな)得体の知れない仕事をうかうかと引き受けたことについて、乃木七郎は何度目かの後悔をした。日当が高いのでつい引き受ける気になったのだが、カンタンな仕事だというだけで、仕事の内容はほとんど知らされていないのだ。あまり面白くない。と言って、仕事を放棄して自分の家に帰る、というわけにも行かない。そうすればぐしょ濡れになっただけソンになるのだ。その上風邪でもひどくなれば、目もあてられないではないか。チョビ鬚(ひげ)の男の指示通り仕事を果たして、八百円の日当を受取る以外に、手はないのだ。(雨が降ってても、傘を持って来ちゃいけないと言う。おかげでこんなにびしょ濡れになったじゃないか。どんな仕事か知らないが、雨降りに傘なしで歩くなんて、犬や牛じゃあるまいし!)
地面はぐちゃぐちゃにぬかるんでいた。地下足袋のあわせ目から、泥水はようしゃなく足に入ってくる。くらがりの中でチョビ鬚が腰をかがめたまま、うしろ手をふって、集まって来い、という合図をした。乃木七郎も中腰のまま、ぬかるみから足を引き抜くようにして、チョビ鬚の方に近寄って行った。
「みんな石を十個ずつ、持ってきただろうな」集まってきた六つの黒い人影を見回しながら、チョビ鬚が押しつけるような低い声を出した。「忘れた奴はいないだろうな!」
六つの人影はそれぞれの姿勢で、うなずいたり、低声で返事をしたりした。乃木七郎はそっと上衣のポケットを上から押えてみた。右のポケットに五個、左のポケットに五個、手頃の石が入っている。そのごろごろの感触をたしかめながら、乃木七郎は大きなくしゃみをした。
「シッー」チョビ垠が顔をねじ向けて、乃木七郎を叱った。
「こんなところでくしゃみをする奴があるか。向うに気取られたらどうするんだ!」
「だって」乃木七郎は蚊(か)のなくような声で抗弁した。「風邪をひいたらしいんで」
「風邪をひこうとひくまいと、俺の知ったことか」チョビ鬚が押し殺した声を出した。「くしゃみが出そうになったらだな、拳固を口の中に押し込め!」
そしてチョビ鬚は前方十二三米ほどのアトリエ風の建物を指差した。高い天井から百ワットの電燈がひとつぶら下っている。その下の板の間で、十四五人の男女が車座をつくって、何かしきりに話し合っている様子で、きれぎれの言葉が乃木七郎の耳まで届いてくる。そちらを指差したまま、チョビ鬚はみんなに振り返った。すご味のきいた声を出した。
「いいか。今からお前たちの仕事というのを説明する!」
「しかしだね、君が説明する通り殴り込みをかけるとしても、成功率はすくないと思うんだ」板の間の車座の一隅から、ソバカスの中年男が手を上げて発言した。「なにしろ向うは操業中だ。交代制で、四六時中器械が動き、従業員がせっせっと働いている。そこへ殴り込みをかけて、カレー原料に砂をぶっかけるとか、器械をぶっこわすとか、そんなことがやすやすと成功するとは思われない。その前に向うの反撃を食うだろう。成功率がすくない上に、先に暴力をふるったという点で、こちらは不利な立場に追い込まれる。その点で私は不賛成です」
「じゃ、手を束ねて、今まで通り、カレー粉を吸い込むつもりですか」ジャンパーの若者がぼそぼそと言い返した。[やぶちゃん注:「束(つか)ねて」ただ両手を組んだままに手出しせず傍観する。なにもしないで見ている。「拱(こまね)く」「拱(こまぬ)く」に同じい。]
「そういう考え方は敗北主義というものです。それで恥かしくはありませんか」
「まあ、まあ」イガグリ頭がとりなした。
「殴り込みは殴り込みとして、署名簿の方はどうなったんですか?」丸首シャツが発言した。「修羅印工場の騒音ならびに悪臭反対の署名は、現在のところ、どのくらい集まったのか。それを知りたい。これの係は誰でしたかしら。栗山佐介君ですか」
「ぼ、ぼくは調査の方の係です」佐介はきょとんと顔を上げ、目をぱちぱちさせて言った。
「あたしがその係です」連絡係の曽我ランコがしゃがれ声で発言した。「署名者は今のところー―」
「署名なんか意味ないわ。無力です」ジャンパーの隣に坐っている赤スカートの女がさえぎった。「署名をつきつけたって、ひるむような修羅吉五郎ですか」
「いいか」くらがりの空地で、チョビ鬚は声をするどくした。「あの部屋の中に、各自持っている石を投げつけるんだ。力いっぱい叩き込め!」
六人の人影に、一瞬ざわざわと動揺がおこった。
「も、もしあの人たちに当ったら、ど、どういうことになるんです」乃木七郎は中腰のまま、どもりながら質問した。「ケ、ケガでもさせたら――」
「バカ! ねらいをつけて、あいつらにぶち当てるんだ!」
チョビ鬚は肩をいからせて、乃木七郎をにらみつけた。
「ただ投げ込んで一体何になる。あの悪者どもにぶち当てて、ケガをさせてこそ、こらしめになるんだ!」
「でも――」
乃木七郎はくらがりの中で、もそもそと尻ごみをした。その乃木の肩を、チョビ鬚の頑丈な掌ががっしと摑(つか)んだ。
「お前は電燈をねらえ」乃木の肩胛骨(けんこうこつ)をチョビ鬚はぐりぐりとしめ上げた。「昼間のキャッチボールの要領で、コントロールよく投げるんだぞ。電燈をぶち割れば、あいつらはますます泡を食うだろう」
「どうもやはり庭の方で、変な奴がうろうろしているようだよ」鼠男の牛島康之が腰を浮かせて、不安げに佐介の耳にささやいた。「デカじゃなかろうか」
「デカが来るわけないよ」佐介はささやき返した。「この会合は、別にデカにねらわれるような会じゃない。気のせいだよ」
「でも、なんだかイヤな予感がするぞ」牛島は逃げ途(みち)を探すように、落着きなく上り口を眺めたり、窓を見上げたりした。「おれ、もうそろそろ帰らして貰うよ」
「も一度従業員説得の工作をこころみたらどうだね」中年のソバカスが提案した。「一度当って失敗したからとて、それで諦(あきら)めてしまうのは性急に過ぎる。わたしたちと従業員たちとは、もともと同一の利害関係にあるのだ。係を他の人に変えて、も一度説得をこころみることを、私は提案する」
「対従業員係としての僕は、不適格というわけですか?」
ジャンパーはむっとしたように口をとがらせた。「つまりこの僕を信任しないというわけか?」
「俺が、突撃、という司令をかける」チョビ鬚は自分もポケットから石を三つ四つ摑み出した。「そうしたら一斉に石を投げるんだぞ。沈着に、着実に、ねらいをつけて投石する。十個全部、かならず最後まで投げるんだ!」
「そして、そのあとは?」緊張したふるえ声で誰かが質問した。
「あとはお前らの勝手にせい。逃げるなり、つかまるなり、どうなりとしろ。そのかわり、つかまったら、あいつらから半殺しにされることだけは覚悟して置けよ」そしてチョビ鬚は背を更(さら)にかがめて、ひたひたと建物の方に迫って行った。残る六人もおどおどと、あるいは無理に勇み立って、チョビ鬚と同一の姿勢で、ひたひたとそのあとにつづいた。足音がぬかるみにぐちゃぐちゃと鳴り乱れた。
車座の中から、その時牛島康之が脅(おび)えと不安の色を顔にみなぎらせ、戸外の闇を凝視しながら、ごそごそと立ち上りつつあった。
チョビ鬚は立ち止り、投石の姿勢をとり、六人を見回しながら、低いするどい声で号令をかけた。「突撃!」
雨に濡れた顔に更に汗をいっぱいふき出しながら、乃木七郎は無我夢中でポケットの石をつかんだ。天井からぶら下った百ワットの電球めがけて、力まかせに投げつけた。石は電球に当らず、コードをかすめて壁にぶつかり、空しくぼとりと畳に落ちた。他の六つの掌の石も、空気を切って飛んだ。カレー粉対策協議場はたちまちにして総立ちとなり、大混乱におちいった。男の怒声と女の悲鳴が入り乱れた。乃木七郎のふるえる指が二個目の石をつかみ出した。
[やぶちゃん注:この章は非常に短い点で特異点であるだけでなく、遂に唯一、不詳のままであった「2」のシークエンスが本篇に絡んで明らかになり、無名だったその「男」にも姓名が与えられるという構成上の特異点でもある。底本の解説で中村真一郎氏は本作のシークエンス(というよりもマルチ・カメラによるモンタージュというか、カット・バック)ついて、『ここには作者の推理小説趣味も働いている。働いているといっただけでは言い足りないような、大胆な、殆んど乱暴と言ってもいい程の冒険を作者は試みている。推理小説の読者ならば「アンフェア」だと文句をつけたくなるくらいである』。『それは第二章で、火事の夢を見ていた「男」という無名の人物の十七章での唐突な再登場で、私はそこに図らずも梅崎の「人の悪さ」を見出して、怒るべきか笑うべきかに迷ったくらいである』と評しておられる。]
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