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2020/07/04

三州奇談續編卷之六 赤浦の似鯉

 

    赤浦の似鯉

 彼の四十三社の内「赤倉の神社」と云ふは、所口より二里餘り西にして、田鶴濱の山入にありて、神樹重々(ちやうぢやう)として靈嵐(れいらん)颯々(さつさつ)たり。此方(こなた)の山風景尤もよし。眼下に入海を見る、これを「赤浦」と云ふ。「松百(まつとう)の橋」の水源とかや。漁獵の舟多く釣竿もまた數多(あまた)見ゆ。所口の間に岸(きし)缺け出でたる所あり、「薄着崎(うすぎざき)」と云ふ。山頭は岡野にして、菊花多く咲く。【「薄霧崎(うすきりざき)」の略語と云へ共、爰は「若葉の君」遊び處と見ゆるなり。】又此盤石(ばんじやく)に瀧のありし跡多し。今は岩崩れて水纔かなり、潜りて流れ出づ。百年許前迄は四五百瀧となりて落ちし。四五十年先迄も、二三間の瀧はありし由、古き人の語れり。

[やぶちゃん注:「赤浦の似鯉」「あかうらのにごひ」。

「赤浦」石川県七尾市赤浦町(グーグル・マップ・データ)。七尾市街の北西直近で、七尾湾に繋がっている現在の赤浦潟の西部南部沿岸に当たる。但し、本篇当時は叙述から見て、入海状態にあった広大な七尾湾の入江であったように読める。この赤浦潟は縄文の時代から入り江から潟・海跡湖・汽水湖・入江を何度も繰り返してきたようで、昭和の初めまでは概ね海との出入りがあった汽水湖で海産魚介類が豊富に棲息していた。現在は海との間に水門が設けられて(グーグル・マップ・データ航空写真)純淡水湖となっている。

「似鯉」魚類に暗い方のために言い添えておくと、本邦にはズバり、「似鯉」と書く、日本固有種の条鰭綱コイ目コイ科カマツカ亜科ニゴイ属ニゴイ Hemibarbus barbus がいる。注意しなくてはいけないのは、ニゴイとコイは同科異亜科の別種であることである。ウィキの「ニゴイ」によれば、『急流でない川や湖沼などに生息する日本の固有種の淡水魚。塩分耐性を有し』、『海水中での生息も可能である』。『体長は最大』六〇センチメートルに『達する。成魚の体色は緑褐色で』一『対のひげを持つなど』、『和名』通り、コイ(コイ科コイ亜科コイ属コイ Cyprinus carpio中央アジア原産)に『似るが、口吻が長く突出し』、『口は下向きにつく』。『体型は細長い流線型を示し、より流水に適する形態を示す』。『背鰭はコイのような前後に長い不等脚台形ではなく、小さく三角形』を成し、『尾びれは二又が深い』。『日本では本州、四国、九州北部に分布する。このうち』、『中部地方以北の本州と九州北部のものがニゴイで、本州西部と四国のものは近縁種』コウライニゴイ Hemibarbus labeo で『あるとされている。コウライニゴイ』の方は『朝鮮半島から中国、台湾まで分布する』。『川の中流から下流、大小の湖沼と、淡水域の極めて広範囲に生息する。水の汚れにも比較的強いが、低酸素への耐性は高くない。汽水域にも生息できるが海水耐性は無く、塩分濃度 0.2%以下の水域に多く、塩分濃度 1.5%以上の水域では捕獲されなかった』。『小石や砂底がある水域を好むが、それ以外でも生息している。また、低層を泳いでいることが多いが、止水を好むコイ、フナよりも流水への適応性が高い。産卵期は水温の高い地域ほど早く』四~七月で、直径三ミリメートルほどの『粘着性の卵を産む。稚魚は体側に黒い斑点が』十『個前後並んでいるが、成長すると斑点が消える。繁殖期のオス個体には、「追星」と呼ばれる白色の瘤状小突起物が出現する』。一九八〇『年代後半に筑後川で行われた調査によれば、生後』一『年から』三『年程度を感潮域で過ごし、以降は』二十キロメートル『以上上流の産卵域のある浅瀬周辺に移動する』。『雑食性であるが』、『餌は季節毎に変化し、生息水域で利用しやすいものを餌としている』。『体長』四センチメートル『程度までの稚魚期はプランクトン、成長すると小魚、水生生物、藻類、小型二枚貝などを食べる』。『また、成長するにつれて顕著な魚食性を示し』、『大型個体はルアーでも釣れるようになる』。『なお、発達した咽頭骨と咽頭歯を備えており、摂食した餌はそこで噛み砕かれて消化管に送られる』。『ニゴイを目当てに漁獲することは少ないが、栃木県などではサイタタキ漁』『と呼ばれる専門の漁が行われる。コイやフナ、ウグイ、ウナギなどの大型淡水魚と一緒に漁獲(混獲)されることがある』『一方、商品価値が低く』、『大型に育ち』、『膨大な数に繁殖する雑魚であり、シラスウナギ』(ウナギの稚魚)『やモクズガニなども捕食することから、地域の漁協によっては駆除目的の漁獲も実施される』。『小骨が多いが、白身の上品な肉質で』、『食味は良好な魚であり』、『唐揚げなどで食べられ』、『旬は春とされている』。『味は良いが』、『骨が多く』、『食べにくい雑魚として扱われ、蒲鉾や天ぷらの材料として使われてきた』とある。但し、本文に出る「似鯉」が本種か、はたまたモデルか、全くの異種かは、本文を読んで、ご自分で判断されたい。但し、途中で私の見解は示す。

「四十三社」既出既注だが、再掲しておく。「延喜式」の神名帳には能登国には大社一座一社(名神大社。現在の石川県羽咋市寺家町にある能登国一宮の気多神社に比定される)及び小社四十二座四十二社を記載する。

「赤倉の神社」石川県七尾市三引町にある赤倉神社(グーグル・マップ・データ)。七尾市中心部の所口町からは西北西に当たり、直線で確かに八キロメートル弱に相当し、「田鶴濱」現在の石川県七尾市田鶴浜町の海浜から二キロメートル弱の「山入」の位置にある。同神社のグーグル・マップ・データのサイド・パネルの写真を見ると、今以って「神樹重々として靈嵐颯々たり。此方の山風景尤もよし。」という雰囲気であることが判る。

「眼下に入海を見る」これは少し言い方がおかしい。赤倉神社のから現在の赤浦潟を見ても(グーグル・マップ・データ航空写真)、五キロメートルも離れている上に、途中には有意な丘陵があり、眼下に赤浦を見下ろすことは当時でも不可能であると思われる。今までも何度か感じたが、麦水は訪ねた地を安直に繋げてしまい、あたかも両者がごく近いかのように記してしまう悪い癖がある。ここもそれと思われる。

「松百(まつとう)の橋」既出既注であるが、再掲し、補足する。現在、七尾市松百町(まっとうまち)がある。岩屋町からは三キロメートルほど北西で、赤浦潟から流れ出る川が七尾湾に注いでいて、そこに現在四基の橋が架かり、赤浦潟にも一基ある。この内、グーグル・ストリートビューで確認すると、この橋が「松百本橋」と橋名板にある。ここから河口までは二百メートルほどである。河口に架かる橋は「松百大橋」(同じく橋名板で確認した)であるが、江戸時代にここに架橋されてあった可能性は、「松百本橋」より低い気がする。今回、『広報 ななお』(二〇〇六年二月号・第十七号・PDF)を閲覧、その二ページ目で、この赤浦潟の詳しい解説が読め(必見)、そこに昭和三(一九二八)年刊の「鹿島郡誌」に、赤浦潟を名名跡として紹介しており、『松百橋(河口の水門あたりにあったといわれる橋)』『からの情景、特に夕映えの美しさは言い表すことができないほどと記されいる』とあることから、以上の私の推理が正しかったことが証明された形となった。

『所口の間に岸缺け出でたる所あり、「薄着崎」と云ふ』この名は現存しない。しかし、位置的に見て、七尾市市街所口の北西に、七尾湾に突き出る岬があり、ここには国土地理院図を見ると、「大杉崎」とある。「おほすぎざき」と「うすぎざき」の音の一致や、「山頭は岡野にして」というのとも現在の地形が一致するから、ここであろう。

「若葉の君」不詳。流れから言って前田利政の幼名(愛称)かとも思ったが、如何にもな名でもあり、当然、見当たらない。後の「公子行」の言葉から考えると、単に特定されない貴公子の一般名詞で使っている可能性もあるか。

「百年許前」本「三州奇談續編 卷 六」の冒頭「雷餘の風怪」には「安永七年五月七日は予が所口に寄宿せし間」の出来事と確述している。続編は既に見てきた通り、確信犯で各話柄が完全に連続性を持っていることがはっきり判る。されば、この安永七(一七七八)年を起算年として全く問題なく、百年前(数え)は延宝七(一六七九)年である。第四代徳川家綱の治世(翌年死去して綱吉となる)である。

「四五十年先」同前で享保一四(一七二九)年から元文四(一七三九)年で第八代徳川吉宗の治世。

「二三間」三・六四~五・四五メートル。]

 

 此谷入の地を、「俣赤濱の谷」と云ひ、爰に住む魚を「赤濱の御放し魚」と呼ぶ。文字とても慥ならず。其魚は鰡(ぼら)に非ず、鯉にあらず、他所(よそ)にある魚には少し替れり。此名の付きし初めを尋ね聞くに、里叟(りさう)云へり。

「中頃の事にや、國の守(かみ)なる人來り住給ひ、此入江に逍遙し、花を植ゑ鳥を放つ日々なりしなり。何事にかありけん、此魚を多く網に得て爰に放ちし。此四五間の瀧の下にをどらせて、

『何卒此瀧に登れよ、龍にしてとらせん。予が望みの事ぞ。此瀧を越えよ、飛龍になる事ぞや』

と、多く魚を寄せて是にさとされしに、其中には聞入れて瀧に向ひて躍り飛びし魚もありしかど、終に瀧に上り得ずして其態(そのさま)も劣りしが徒(いたづ)らに此(これ)『赤濱の似鯉』となりて、今に多き」

由語れり。

[やぶちゃん注:「俣赤濱の谷」不詳。七尾市津向町内(グーグル・マップ・データ航空写真)に当たるが、それらしい地名等は見当たらず、一般の人家も非常に少ない。或いは、麦水の悪癖の場所があっちゃこっちゃしている可能性と、表題が「赤浦の似鯉」なのにはここでは「赤濱の似鯉」となっている激しい不審からも、赤浦地区の山入(この辺り。同前)の可能性も視野に入れなくてはならない気が私はする。

「中頃」その時制から見て、あまり遠くない時代を指すので、ここはせいぜい室町から織豊時代を指すか。

「四五間」七・二七~九・〇九メートル。

「終に瀧に上り得ずして其態(そのさま)も劣りしが徒らに此『赤濱の似鯉』となりて、今に多き」「態」を「近世奇談全集」は『わざ』と訓じているが、これでは瀧登りの技が劣っているという屋上屋になるので私は従えない。寧ろ――龍に成りそこなって、鯉(登龍門で御存じの如く、中国で古くから鯉は瀧を遡って龍と成ると信じられた)に似ているが、鯉ではない姿形をしている――という、まさに種としてのニゴイを私は指しているように思えてならない。普通のコイがデブデブして鈍重な印象を与えるのに対して、ニゴイは口吻が尖り、体幹全体がスマートな流線形を呈し、「コイと比べてどっちが龍っぽいか」を考えると、繁殖期の♂の吻部上部に現れる白色の瘤状の小突起(追星)の奇態さなどを含めて、遙かにニゴイの方が龍っぽいし、登龍門の絵にも描きたい気がするのである。則ち、私は「似鯉」を現在のニゴイと同一種と採りたいのである。]

 

 是(これ)其(その)誰ならんことを知らずと云へども、薄着崎花園の逍遙を思へば、公子行(こうしかう)の類(たぐひ)とは思はるれ[やぶちゃん注:ママ。]。則ち魚を集めて宜命(せんみやう)ある屬(たぐ)ひ、又望みある人に似たり。若しくは瀧は能登の公子の訛言にや。「俣赤濱」は「又若樣」に似たり。「若樣魚」と聞く時は、彼(かの)侍從の隨龍の意是等に及ぶ事もあるか。俚言の其實(そのじつ)となることは所々多し。梁の王彥章(わうびんしやう)、勇武天下第一たり。唐の世を亡して梁の朱民を起す。好みて鐡柄(てつつか)の鎗を使ふ故に、世人異名して「王鐡鎗(わうてつさう)」と云ふ。一日(いちじつ)運盡きて後唐の爲に戰ひ死す。里民其名を仰ぎ、骨を集めて塚となし、折々是に詣づ。後年終に一寺となれり。則(すなはち)鐡鎗寺と云ふ山、「五代史」に見ゆ。然れば方言又證據とすることも著(しる)し。然れば利政公の御幼名又若樣の口實、稍々(やや)あるに似たり。また龍氣を索(もと)められしかのことにも及ぶか。

[やぶちゃん注:「公子行」貴公子の逍遙・散策或いは旅。

「宜命(せんみやう)」天皇の命令を伝える文書の様式の一つ。漢文体を用いる「詔」・「勅」に対し、宣命書き(宣命・祝詞 (のりと) などに用いた漢字による本邦の文章表記の形式の一つ。体言や用言の語幹などは大きく書き、助詞・助動詞・用言の活用語尾などは一字一音の万葉仮名で小さく記した)で記されたもの。

「瀧は能登の公子の訛言にや」意味不明。識者の御教授を乞う。

『「俣赤濱」は「又若樣」に似たり』先の不審があるので、無効。

「侍從の隨龍の意」皇帝・天子は「龍」に比されるから、それに「隨」ふ「侍從」という意で、公子と侍従の関係性が透けて見えると言っているのであろう。

「俚言の其實となることは所々多し」と言うのだったら、まず、歴史を遡って七尾のこの辺りにやって来た天皇の子弟らを捜し当ててからにしろよ! 麦水!

「梁の王彥章」五代十国(九〇七年~九六〇年)の後梁(九〇七年~九二三年)]王彦章(おうびんしょう 八六三年~九二三年)の軍人政治家。字は賢明。鄆(うん)州寿長の人。幼い頃から軍卒となり、朱全忠(八五二年~九一二年:唐王朝を滅ぼした後梁の初代太祖)に従った。戦いの度に先鋒で勇戦し、「王鉄槍」の異名を取った。後梁が建国されると、濮(ぼく)・澶(せん)州刺史や汝(じょ)・鄭(てい)州防御使、許・滑州節度使などを歴任し、開国侯に封ぜられた。、五代後唐の初代皇帝李存勗(りそんきょく)は彼を恐れて、彼の妻子を捕らえて誘ったが、使者を斬って拒んだ。九二三年、後梁が鄆州を失って危地に陥ると、彼は北面招討使となり、百余戦して後唐の侵攻を阻み続けた。兗(えん)と鄆の境で李嗣源(りしげん)に敗れ、退却するも、再び敗れ、捕らえられた。李存勗は彼を助けようとしたが、「梁に朝事しておきながら、晋に暮事できようか」「豹は死して皮を留め、人は死して名を留む」と言って拒否し、斬られた(以上はサイト「中国史人物事典」のこちらにある解説を加工データに使用させて戴いた)。

「朱民」「近世奇談全集」は『朱子』とある。それでもいいが、私は底本の表記に拘る。而してこれは――「氏」の崩し字の判読ミスではなかろうか?――と考えた。「子」では誤りようがないが、「氏」と「民」は崩し字が似てくるからである

「鐡鎗寺」德昌著「衛輝府志」巻四十五に、この寺の名とここに記された由来も書かれてあるのを確認は出来た。但し、位置不詳で、現存もしないであろう。

「五代史」北宋の薛(せつ)居正らの撰になる歴史書で「二十四史」の一つ。原名は「梁唐晋漢周書」。後梁の九〇七年から後周の九六〇年に北宋が後周に代わって建つまでが記されてある。全百五十巻。中文サイトで同書のテクストを調べてみたが、以上の記載には辿り着けなかった。

「然れば方言又證據とすることも著し」と何故、麦水が言えるのか、私には一向、判らぬ。

「口實」ここは「普通によく言う言い方」の意。

「龍氣を索(もと)められしかのことにも及ぶか」「近世奇談全集」では『龍氣を索(もと)められし。かのことにも及ぶが』(「が」はママ)とする。しかし、どっちも意味不明である。]

 

 爰に一話を聞けり。

 所口一本杉町藤橋屋彌左衞門と云ふ人、去る寳曆七八年の頃の事とかや、時は五月雨の晴上りたる頃しも、家廻りを掃除する。此家腰は則ち利政公の御構へ小麿山(こまろやま)の外堀なり。水深からずとは云へども、泥二尺許も入りて渡るべからず。竹竿を入れて芥(あくた)をかき流しかき流して[やぶちゃん注:ママ。踊り字「〱」であるが、ここは「て」ではなく「して」と続くべきところ。]廻りけるに、泥中に一物あり。赤濱鯉の死したるやうなるにも見え、又はへちまに泥のまとひ付きたるとも覺えて、尾頭(をかしら)も見えず。

「ぬらぬら」

と流れもやらで沈み居る故に、彌左衞門彼(かの)竹竿にて刎ね返し刎ね返して[やぶちゃん注:同前。]、流の末の方へ送りやりし。四五間程は打返し打返しして送りけるが、最早外堀の地を放(はな)るゝ頃になり、何とか渠(かれ)が肉にもや障(さは)りてありけん。又『地の程の行くまじ』と思ふ所にやありけん。此物

「むつく」

と起きて怒る躰(てい)に見えしが、眞直に立ちて彌左衞門を追懸くる。

 風聲(ふうせい)雨雲(あまぐも)を帶(おぶ)るやうにて勢(いきおひ)あり。

 彌左衞門存じ寄らざることなれば肝を失ひ、

「是は生きたる物にてありしや、あら恐しや」

と、竿も打捨逸足(いちあし)出して家に迯込(にげこ)みけり。

 慥に十四五間も追ふ躰に覺えし。龍躰(りゆうてい)の事には覺えしが、爾(しか)と見定めず。

 又元の水に入りて見えず。

 其後は此邊り溝の際(きは)に、竹垣を結びて人にも障らせずと聞えし。

 覺束なき事ながら、少し證するにも足らんか。

[やぶちゃん注:「所口一本杉町」七尾市一本杉町(グーグル・マップ・データ)。 現在の所口町の北の小丸山城址公園の直近。驚くべきサイトがある。「能登・七尾市・一本杉通り」である! 必見!

「藤橋屋彌左衞門」不詳。

「寳曆七八年」一七五七~一七五九年。

「家腰」下方。

「渠」ここは、その正体不明のものを指示する三人称。

「地の程の行くまじ」ここから先の場所には行かぬ、行くまい。

「逸足」速足。

「十四五間」二十五メートル半から二十七メートル強。

 最後に登場した怪奇物は正体不詳。淡水で糸瓜(へちま)みたような形で、水上に立ち上がって、非常なスピードで人を追い掛けるというのは、如何なる生物も想起し得ない。大鰻でも屹立することは出来ない。何かパイプ状のものに獣か魚が頭部を突っ込んだケースぐらいしか浮かばぬが、何かは指名出来ない。]

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