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2020/07/02

三州奇談續編卷之六 靈寺の霧船

 

    靈寺の霧船

 所口(ところぐち)一鄕を養ふ水は、藤橋村の「岩屋」と云へる所の淸水なり。郊外に逍遙するの日、爰に臨みて水を試むるに、淸潔例(たと)ふべきなし。良々(やや)洛陽加茂川の水に似たり。此所の古物語にも、先年志津摩(しづま)と云ふ大字(だいじ)を書く人、國主に大字を望まれて、硯水に洛陽の加茂川の水を求む。國主此水を汲みて與ふるに、

「池の水は筆すべからず、此窟(いはや)の水は殆ど加茂川の風情あり」

と稱せしと聞く。

[やぶちゃん注:「所口」複数回既出既注。現在の七尾市の中心部に当たる石川県七尾市所口町(ところぐちまち)(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「藤橋村」七尾市藤橋町(まち)

「岩屋」現在の七尾市藤橋町申に岩屋町(交差点・バス停)という旧地名を地図上に確認出来るが、この辺りか。この直近の西丘陵に「七尾市上水道管理センター」(グーグル・マップ・データ航空写真)があり、まさに謂いと一致するので、ここが旧水源の窟(いわや)である可能性が強いように思われる。

「志津摩」不詳。なお、少し古いが、寛文一一(一六一七)年の士帳に書物役として五十三歳の佐々木志津摩(「磨」とも記す)なる人物が『金澤古蹟志卷廿一』のこちらPDF・金沢市図書館公式サイト内)に出るから、この後裔かも知れぬ。]

 

 窟は門戶の如く開(ひら)けて、内に方丈の水を貯ふ。是を人數(にんず)百桶に汲み取るに減ること更になしとなり。此水の主は𩶅魚(ていぎよ)にして、此奧に住むと云ふ。實(げ)にも二三寸の小𩶅(しやうてい)の足元に浮びて見ゆ。怪しむべし。此石山根(いしやまね)をこゆると覺えたり。其末(すゑ)幾許(いかばかり)深からんや計り知り難し。「松百(まつとう)の橋」の下へ出(いづ)るとも俗說あり。

[やぶちゃん注:「𩶅魚」これは孰れも海水魚の「サバ」或いは「サワラ」、また「フグ」(中国には淡水フグがいるが、本邦には棲息しない)を意味する。麦水は「怪しむべし。此石山根(いしやまね)をこゆると覺えたり」と言っており、これはこの付近が現在の測定で、一・五キロメートルも離れており、間には築城半ばに建設が中止された小丸山城の丘陵もあることなどを指していると考えられ、純淡水であるにも拘わらずの意ととるなら、腑に落ちるし、次の「松百の橋」というのも理解出来る。

「松百の橋」七尾市松百町(まっとうまち)であろう。岩屋町からは三キロメートルほど北西で、赤浦潟から流れ出る川が七尾湾に注いでいて、そこに現在四基の橋が架かり、赤浦潟にも一基ある。この内、グーグル・ストリートビューで確認すると、この橋が「松百本橋」と橋名板にある。ここから河口までは二百メートルほどである。河口に架かる橋は「松百大橋」(同じく橋名板で確認した)であるが、江戸時代にここに架橋されてあった可能性は、「松百本橋」より低い気がする。]

 

 其水源を試むるに眞に大なり。能く十萬の人を養ふべき靈窟なり。此水を汲むことは、國祖亞相(あさう)公の御書ありて、所口の人のみこの淸水を我が物とす。

[やぶちゃん注:「國祖亞相公」前田利家。彼は権大納言で「亞相」はその唐名。]

 

 此序に遍路して傍らに古寺を探す。或寺の鎭守堂の奉納の中に、

  篠竹や萬船(ばんせん)の騷ぐ霧の海

と云ふ俳句ありき。例の俗流の誹作(はいさく)にやと詠(なが)め捨てゝ歸りしが、此地の俚諺を聞きて又聞き返し、考への爲に暫く記す。

 此向ひの小麿山(こまろやま)と云へるは、巨樹多き岡野なり。是則ち前田利家公の取立て玉ひし屋形城なるに、忽ち金澤の城御手に入りて明け捨て遷り給ふに、其後慶長四五年の頃、御二男利政卿再び取立て給ひて、「能登の侍從」と申しける間、暫く御座せし跡とにや。其尾を斷つて詰(つめ)の城のごときなり。右の小山(こやま)は則ち休岳山長齡寺と云ふ。此間へ窟の水流廻(めぐ)りて、一方は二俣川・紅葉川を分け添へて、所口西町口の神子橋と云ふに流る。小川溝の如し。大石二つを渡して橋とす。此石は石動山より崩れ出でたる石にて、裏面に經文を彫り付けたりと云ふ。今は此流れを町端に分けて、新川を掘り木橋を設(まう)く。是新田(しんでん)植出(うゑだ)しに利あらしむるなり。此新川を傳ひて上れば長齡寺なり。是國祖亞相公の御母於竹御前と云ひし御方の御法名なり。則ち長齡妙久大姊と云ひし御菩提所にして、御孫の又若と云ひし能登の侍從利政公も、御廟爰にあり。此利政公は御忌日七月十四日にて、福昌院怡伯宗悅大居士と云ふ。

[やぶちゃん注:「誹作」「俳作」に同じい。

「小麿山」「小丸山」の言い換えであろう。

「慶長四五年」一五九九~一六〇一年。

「御二男利政」(天正五(一五七八)年~寛永一〇(一六三三)年)。前田利家の次男で母はまつ。尾張国荒子城(現在の愛知県名古屋市)にて生まれた。父利家が豊臣氏に従い、加賀半国と越中三郡を加増されると、利政もこれに伴い、文禄二(一五九三)年に能登国七尾城の城主となり、同年には豊臣姓を下賜された。後、小丸山城に移り、従兄の前田利好が七尾城に詰めた。さらに文禄四(一五九五)年には羽柴氏を与えられている。慶長四(一五九九)年、父より能登に所領を分与されて大名となった。また、同年には大坂城の詰番衆ともなっている。利家死後の慶長五(一六〇〇)年、豊臣政権五奉行の石田三成らが毛利輝元を擁立して五大老の徳川家康に対して挙兵すると、兄利長とともに東軍に属し、関ヶ原に向かう途中、北陸の西軍方の大聖寺城の山口宗永を陥れたものの、その途上、突如、利長たちは金沢へ引き返した(一説には敦賀城主大谷吉継側の謀略によるとされる)。金沢城へ引き返した後、利長が再出陣するが、利政の方は動かなかった。その原因は、妻子が三成の人質となっていたためともいわれる(「象賢紀略」)。また、利政は家康に対する反発心から、石田三成方に気脈を通じていたとする指摘もある。一説に、利政は妻子の救出を図ろうとしたが、事態が急速に展開して利長が出陣したために、病気と偽り、出陣しなかったのではないかとして、石田方であったとするのを否定する説もある。また、「天寛日記」の一節を論拠に、利政が石田方についたと家康に訴え出たのは他ならぬ利長であったという指摘もある。ともかくも、「関ヶ原の戦い」の後、西軍が敗れたため、利政は能登の所領を没収され、それは兄に与えられた。その後、京都の嵯峨に隠棲して宗悦と号した。本阿弥光悦とも親交があったとされる。慶長一九(一六一四)年からの「大坂の陣」では、両陣営から誘いを受けたが、中立を守ったという。戦後、家康は西軍の誘いに乗らなかった利政の行動を気に入り、利政を十万石の大名として取り立てる打診をしたが、「自分は大野治長の指揮下に入りたくなかっただけで、関東方(徳川氏)への忠節を尽くす行動ではない」と辞退している。但し、利政の大名取り立てに実現しなかった背景には、母の芳春院(まつ)の働きかけにも関らず、家康が言を左右にしたという事情や「関ヶ原の戦い」の時の利政の行動を許せなかった兄利長が拒否し続けた事情があったとする指摘もある。京都の町人角倉与市邸(長女の婚家先)で死去した。享年五十五。墓所は京都府京都市北区の大徳寺にある。なお、利政の子直之は叔父の加賀藩主田利常に仕え、人持組頭(加賀八家)前田土佐守家を立てている(以上はウィキの「前田利政」に拠った)。

「能登の侍從」利政の最終官位は従四位下侍従で能登守であった。

「其尾を斷つて詰(つめ)の城のごときなり」その丘陵の尾根を断ち切って館が構築されてあること。「詰の城」とは本城が平地に建つ居館だった場合に、敵に攻められたら立て籠もるための城を本城の傍に築いたが、そうした支城を「詰の城」と呼んだ。

「休岳山長齡寺」石川県七尾市小島町に現存する曹洞宗休岳山長齢寺。前田利家が能登に建立した唯一の寺で、元は宝円寺と称した。後のこの山号と寺名は利家の父利春(休岳公)と母(長齢院)の法号に拠る。

「二俣川・紅葉川」御祓(みそぎ)川水系の支流と思われるが、不詳。

「所口西町口の神子橋」不詳。現在の同寺周辺には川が見えない。古地図があればいいのだが、この長齢寺が含まれるものを見出せなかった。

「侍從利政公も、御廟爰にあり」前注通り、墓は京都にある。但し、ここに位牌はあるとは思われる。後のグーグル・ストリートビューを見ると、寺への階段の下方に「前田家墳墓」と記された指示板があり、同寺のサイド・パネルでも前田利家の父休岳と母夫人の墓所を見ることが出来る。

「福昌院怡伯宗悅大居士」「大」は附かないようである。]

 

 左れば水江某の咄に、

「頃は今より七八十年も前のことにや。前川家に仕官せし寺田氏と云ふ人、所以ありて此所口に住みけるが、此長齡寺に詣でんと、朝まだきに宿を出づることありけり。其日は九月十五日なり。小鹿鳴く遠山里物哀れなる頃、猿の叫ぶさへ小麿山の巨樹にこたへて、朝霧も深かりしに立出で、町はづれなる新川の橋を渡るに、其頃はまだ小嶋村妙觀院の前入江にして、渺々たるのみなりしを、此新川の水引き用ひて新田を植出す初めの年なりけん、水も多かりし樣に覺ゆ。然るに此仕官を遁れたる寺田氏立ち出でゝ、此所に至る頃は心朦然たりし。此朝は殊に霧深く、咫尺(しせき)も見え分かず。只空程の雲棧(うんさん)を步める心ちして、彼の木橋を渡りけるに、下れば彌々心恍惚として、我ながら我を辨へず。徒に薄光(うすびか)り、空花のみ散りて夢の如し。

 忽ち橋の下より一艘の舟出で、河を棹さし上る。此船中多く人ありげに見ゆれども、霧深くして誰(たれ)なるを知らず。多少をも辨ぜず。人語は凡(およそ)數百人も寄りて密談する如し。

『此船の人に物問はん』

と、河添に隨ひ上るに、先きにも又一艘見え續きて、又々人音聞ゆ。霧裏(きりのうち)定かならずといへども、凡(およそ)二三艘も漕續(こぎつづ)きたるよと覺ゆ。

『こはいかに』

と走り寄り、爰を差覗かんとすれば、河ならぬ前にも又舟音して、左右前後に舟音人語交りたれば、

『先づあれに問はん、是に語らん』

と溝河(みぞかは)を上り行くに、覺えずして長齡寺の坂の側に至る。爰にては川とは逢かに隔たる所なり。梶の音・櫓の音・人音も猶耳元にあり。既に坂の石壇を登り果て、惣門の前「葷酒(くんしゆ)を禁ず」と石碑の前に至るに、猶舟の音櫂の音あり。

『怪しや』

と心付き、振返りて能く見るに、朝日霧隱れに朧々と照り、兩方の林樹修竹(しうちく)の間悉く舟となりて、競ひ合ひこぞり合ひて、霧の海雲の間に押ひたして、凡そ百艘にも及ぶべし。旗を振り幕を飜へして衆人の入違(いれちが)ふ躰(てい)、陣雷の響き山を衝(つ)き谷にこたへて夥(おびただ)し。

『こはふしぎなり。此舟共斯く間近く霧間(むかん)にあるべき筈もなし。いかなる奉行達、何國(いづこ)の郡主達の催しぞや。外海の海上にさへ、斯く寄り集るべき道理もなし。是は我眼氣(ねむけ)の故か、痰氣(たんき)の類(たぐひ)か』

と、目をこすり心を定むれども、彌々(いよいよ)舟を間近く繫げり。

『こはそも怪異の所爲にてあるべし。爰は山上なり、水の來り舟の寄らん樣(やう)なし』

と、急度(きつと)心を改むれども更に替らず。

 舟共の少し遠ざかりたる儘にて、猶ありありと日光うつりて彌々鮮(あざやか)なり。

『是や北方湖上に明公到ると聞きし、彼の蜃氣樓の類(たぐひ)にや。實(げ)にや今朝は西風東へ通り行かず、東風くだりに吹合ひて、兩方に風吹き戰(たたか)ひ、此邊(このあたり)は風止みて雲(くも)靄(もや)のみ厚く立ちたる靜(しづか)なる空なれば、必ず斯(かか)る日(ひ)蛤(はまぐり)の城は立つ物と常に聞きしが、扨は是故に物を近く縮めて見することにや』

と、工夫を付けて見るといへども、兎角に夫(それ)とも定め難し。

『怪しや怪しや』

と打守る所に、巳刻(みのこく)過ぐる許になりし程に、此御菩提寺長齡寺精舍の梵鐘、近く鐘樓より一聲おとづれければ、此華鯨(くわげい)能く吞舟(どんしう)の氣を含むことやありけん。數聲の響に泡の水上に消ゆるが如く啾々として聲あり、暫くの間に悉く消え失せて、忽ち四方の霧も晴れ渡りて、一望平日の樹林田地の形となりにけり。爰に於て得(とく)と海面を見めぐらすに、鹿渡島(かどじま)・島の地・ふで島・屛風崎を盡くして、漁舟に小艇の纔に渡るの外は、奉行衆の設けの舟躰の物一艘も見えす。又あるべき筈の事にもなし。

 彌々怪異に極まれり。

 後に能く尋ね聞くに、此怪異に大(おほ)やう似て、少し宛(づつ)相違せる類(たぐひ)の咄、此邊に多くあり。必ず日は七月十四日か、又は九月十五日の間なり。思ふに此九月十五日は、彼の關ケ原大軍(おほいくさ)の其日なれば、利政公に其舟艤(ふなよそほ)ひの沙汰ありしこと聞えしが、今も猶幽意あるか。國禁の話に至れば、此土(このど)の人といへども恐れ謹みて多くは言ひ出さず。人口にはひそひそと舟怪の趣を語り合ふこと所々なり」

とぞ。

 彼(かの)奉納の俳句、俗吟ながらも、斯ることや思ひ合せけん。自然に其意ありてかゝる吟や奉納しつらんと覺えてふしぎなり。

 此邊には前田五郞兵衞殿・前川播磨守殿の天正年中の事跡は折々殘れども、利政公の小麿山の屋形再び構へ給ひし慶長初年の事跡に於ては、俚諺にだにも殘らず。

 纔かの說も云傳へず、杳として跡なし。其行跡を思ひ計り見るに、一奇の妙境なり。猶强ひて深く求めて、二三里山入(やまいり)の村夫(そんぷ)の話まで尋ねて、左に少し記せり。

[やぶちゃん注:「水江某」不詳。

「頃は今より七八十年も前のこと」本「三州奇談續編 卷 六」の冒頭「雷餘の風怪」には「安永七年五月七日は予が所口に寄宿せし間」の出来事と確述している。続編は既に見てきた通り、確信犯で各話柄が完全に連続性を持っていることがはっきり判る。されば、この安永七(一七七八)年を起算年として全く問題ない。元禄一二(一六九九)年から宝永六(一七〇九)年の間の出来事と限定出来るのである。

「前川家」後の「前川播磨守」の後裔か。「加能郷土辞彙」に『マヘガハセンスケ 前川千佑 前田利家に仕へて百八十石を領した。その子小兵衞は狩野氏を冐し[やぶちゃん注:「おかし」。]、前田利政に仕へて八十石を領し、小兵衞の子與三兵衛は廣瀬氏を稱して利常に仕えた。子採相纏いで藩に仕へる』とあるが、「播磨守」が彼かどうかは確認出来なかった。識者の御教授を乞う。

「寺田氏」不詳。

「小嶋村妙觀院」七尾市小島町のここに現存。長齢寺の北北西五百メートル弱の位置。前が入江というのは腑に落ちる。何なら、スタンフォード大学の「國土地理院圖」(明治四三(一九一〇)年測図・昭和九(一九三四)年修正版)の「七尾」を見られたい。「七尾港」の東奥角の「小島」地区の記名の左上方、護岸堤防の外の海岸線直近に「卍」があるのが、この寺である。

「仕官を遁れたる」寺田某は何故か前川家から出て、浪人していたようである。

「心朦然」ぼうっとして、霧が一面に立ちこめているさまの意でとってはいけない。「心」が「朦然」なのである。則ち、ここに至るまでに既に寺川自身の意識が訳もなく、ぼんやり、うっとしていたのである。

「空程の雲棧」遙か高い空中にでもあるが如き、雲をぬって作られた目も眩む桟(かけはし)。

を步める心ちして、彼の木橋を渡りけるに、下れば彌々心恍惚として、我ながら我を辨へず。「多少をも辨ぜず」その話声が耳に入っているにも拘わらず、その船に乗る人々の人数がどれくらいなのかも認することが出来ない。

「長齡寺の坂の側に至る」長齢寺をグーグル・ストリートビューで見ると、この奥から確かに坂道になっている。中央をクリックして移動されたい。

「葷酒を禁ず」禅宗寺院でしばしば見られる「不許葷酒入山門」と彫った石柱(戒壇石)のこと。「葷(くん)・酒(しゆ)山門に入るを許さず」で、「葷」は精進料理でも使えない禅僧が口にしてはいけない野草(野菜)を指す。「五葷」「五辛(ごしん)」とも呼ばれ、五種の植物を指す。この五種は国や時代等によってやや異なるが、要は臭いが強く、味が濃い、世俗で精力がつくとされる野菜や香辛料を指し、代表的なものは御多分に漏れぬ「大蒜(にんにく)」「韮(にら)」「辣韭(らっきょう)」はまず入り、それに「葱(ねぎ)」「玉葱(たまねぎ)」或いは「生姜(しょうが)」「山椒」といったものである。

「修竹」長く伸びた竹のこと。

「陣雷」不詳。「雷鳴の陣」という語があり、これは、不吉なる雷鳴の際に、宮中に臨時に設けられる警固の陣で、近衛の将官が清涼殿の孫廂(まごびさし)に伺候し、魔を避けるための弓による弦打(つるうち)をして天皇を守ることを指すから、或いはここは船に乗っている武人らが、船中の貴人のために警護のために弓を鳴らす、その音のことを言っているのかも知れない。

「痰氣」漢方では、痰は物の鬱滞により起こるとされ、痰は体中を絶えず巡るのが良いのであるが、胸郭に水が集まって停滞すると、咳や嘔吐以外に眩暈や幻覚などの原因ともなるとされる。

「北方湖上に明公到る」出典不祥。「明公」は非常に地位の高い神人の尊称。或いは、中国の故事由来ではなく、「北方湖上」はこの長齢寺の北西一・五キロメートルにある赤浦潟のことを指すか。

「蛤(はまぐり)の城」「蜃氣樓」に同じい。

「巳刻」午前十時半過ぎ頃。

「華鯨」釣鐘或いはその鐘の音。一説に「華」は「飾りのある鏡」、「鯨」は「撞木(しゅもく)の意とする。鐘の音を「鯨音(げいおん)」とも呼ぶ。

「吞舟の氣」舟をのみ込むほどの鬼神の気。「荘子庚桑楚」に「呑舟の魚」という語があり、転じて「善悪を問わぬ存在や大人物」の意がある。

「啾々」啜(すす)り泣くさま、憂い泣くさまであるが、ここは鬼神の何とも言えぬ慄っとするような音声の謂いであろう。

「鹿渡島(かどじま)」崎山半島先端部に鹿渡島漁港があるので、この崎山半島を指すか。前者には近くに観音島があるが、半島の東に回り込んだ先にあり、長齢寺の位置からは見えない。能登島の旧異名かとも思ったが、見当たらない。

「島の地」不詳。識者の御教授を乞う。

「ふで島」同前。

「屛風崎」現在の能登島大橋が能登島に架橋されてあるが、この瀬戸を「屏風瀬戸」と言い、半島側の東に突き出た岬を屏風崎と呼ぶ。

「必ず日は七月十四日か、又は九月十五日の間なり」ここの東方の富山湾は蜃気楼が有名で、私も何度か見たことがあるが、まさに海上に都市が見える。但し、富山湾の蜃気楼の発生は春から初夏にかけて、三月下旬から六月上旬であって一致しない。

「九月十五日は、彼の關ケ原大軍の其日」「関ヶ原の戦い」は慶長五年九月十五日でグレゴリオ暦で一六〇〇年十月二十一日に当たる。

「利政公に其舟艤(ふなよそほ)ひの沙汰ありしこと聞えし」「舟艤(ふなよそほ)ひ」「艤舟(ぎしゅう)」という語は「船出の用意をすること」を指し、現在も進水後に完全に航行可能にするための全装備を装着させることを艤装と呼ぶ。ここは軍船を発せという指示か。既に利政の注で示した通り、家康軍へ加わった兄利長が彼に出陣を促したのは当然あったであろう。但し、そのような軍船による命令が兄から発せられたということは私は知らない。識者の御教授を乞う。まあ、船路の方が早く着けるから、合戦間近のことならば、あったとして不思議ではない。

「前田五郞兵衞」前田安勝(?~文禄三(一五九四)年)は前田利家の実兄で家臣。ウィキの「前田安勝」によれば、『尾張国荒子城主・前田利春の三男として誕生し』、永禄一二(一五六九)年に主君『織田信長の命で前田家の家督を継いでいた兄の前田利久が隠居し、弟の利家が家督を継ぐが、安勝が利家に仕えるのは利家が越前府中に城を構えてからであった。のちに七尾城代となり、知行』一万三千五百石を『有し、能登国支配を一任されるなど利家からの信頼は厚かった』。天正一〇(一五八二)年に能登棚木城(たなぎじょう)の『反乱鎮圧や石動山合戦に従軍し』、翌年には『能登小丸山城主とな』り、同十二年の「末森城の戦い」での『能登の守備などで戦功が著し』く、『利家が九州へ出陣の際には、物資の補給を担当した』。死後の『家督は子の利好が継』ぎ、引き続き、加賀藩家臣となった。

「天正年中」ユリウス暦一五七三年からグレゴリオ暦一五九三年(グレゴリオ暦は一五八二年十月十五から行用された)。

「慶長初年」文禄五年十月二十七日(グレゴリオ暦一五九六年十二月十六日)に慶長に改元しているので、ここは一五九六年一月三十日(改元されるとその年の元日まで戻って元年とするのが普通)から一五九七年二月十六日の間となる。

「猶强ひて深く求めて、二三里山入(やまいり)の村夫(そんぷ)の話まで尋ねて、左に少し記せり」「三州奇談續編」に入ってから顕著になった〈次話へ続く〉式の枕。

 さても、この手の話は本邦の怪奇談集に非常によく出現するものである。空中に人馬の姿をはっきりと見たケースもある。逆転層による、驚くべき遠く隔たった場所の音が聞こえることは非科学的なことではないし、気象学上の蜃気楼現象として説明もある程度、可能である。また、この寺田なる人物はそうした現実の自然現象としての可能性も射程に入れて考えており、浪人にしておくにはもったいない人物のように見える。彼の精神的或いは機能的疾患による幻視・幻聴と断ずるには、彼自身の見当識が有意なレベルで保たれていることから、私には出来ない。]

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