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2020/07/19

三州奇談續編卷之七 朝日の石玉 / 三州奇談續編卷之七~了

 

     朝日の石玉

 朝日山上日寺(じやうにちじ)に登る。此地や風潔く水淸し。元來有磯・奈湖の海を眸中(ばうちゆう)に盡(つく)し、立岳(りふがく)・寳嶺(はうれい)に目を極むれば、景は云ふべきにも非ず。寺は莊嚴(しやうごん)物さび、「龍灯の松」あり。是は大晦日の夜、三ヶ所一團となりて牛島より來りかゝると云ふ。上の山を「牛潜(うしもぐ)り」と云ふ。越の大德泰澄の牛に駕(が)して、山路を通ひ給ふよし物語るを聞きしが、略す。寺院は白鳳年中に開かれし山なれども、中興我が國君の歸依により、芳春尼公の佛忠懇志(こんし)より起るよし。大和の法師、慶長十八年に緣起を殘す。本尊は觀世音一寸八分の尊像にして、石玉(せきぎよく)に乘じて太田の濱に上(あが)り給ふよし。御佛(みほとけ)は後に、鳥佛師(とりぶつし)が作の五尺の木像の頭上(とうじやう)に納(をさま)り給ひて、拜見し難し。其乘り給ふ石を「兩曜石(りやうえうせき)」と號す。寺號・山號も爰に起るとにや。親しく手に移し戴くに、掌中濕(うるほ)ひ石に汗を發す。此石大(おほい)さ三寸ばかり、蓮花(れんくわ)一葩(ひとひら)の形に似て、兩面に日月(じつげつ)の紋あり。色黃にして不思議殊(こと)に多しとなり。既に太田濱に上り給ふ時も、石ありて損ぜんことを恐れ、百餘間の石を退(の)け給ふとて、岩崎は石甚だ多けれども、太田濱には今に小粒なる石だにもなしとにや。能く能く其兩曜石を愛(めで)し給ふと見ゆ。依りてつくづく拜し奉るに、是咋嗒(さたう)の類(たぐひ)にして、靈鹿(れいろく)・妙兎(めうと)の類(たぐひ)、是を捧げたるならんと思ふ。

[やぶちゃん注:「朝日山上日寺」富山県氷見市朝日本町にある真言宗朝日山上日寺(グーグル・マップ・データ)。本尊は一寸八分(約五・五センチメートル)の千手観世音菩薩。創建は天武天皇一〇(六八一)年、開基は法道上人と伝える。嘗ては七堂伽藍が完備し、十八坊を有した大寺であったが、数度の火災により、現在は江戸時代の本坊銀杏精舎(いちょうしょうじゃ)、観音堂など数宇を残すのみである。毎年四月十七日と十八日の観音縁日に行われる祭礼「ごんごん祭り」は、寛文四(一六六四)年の大干魃の際に雨乞いをして待望の慈雨を得たことへの感謝のために始められた祭りと伝え、現在も盛大に行われて参詣者は鐘を打ち鳴らして厄除け・諸願成就を祈る。境内の大銀杏は樹齢千三百年、周囲十二メートルに及ぶ大樹で、乳(ちち)授けの霊木とされて、国の天然記念物である(小学館「日本大百科全書」に拠る)。ここである(グーグル・マップ・データ航空写真)。……ああっ!……何んということか!?!……ここは……私にとって秘密の場所である……遠い昔の……若き日の私の心臓の高鳴りが……聴こえる!…………

「立岳」立山の異名。

「寳嶺」立山連峰の他の霊峰の峰々。

「大晦日の夜、三ヶ所一團となりて牛島より來りかゝると云ふ」「日文研」の「怪異・妖怪伝承データベース」のこちらに、「龍燈」として、小倉学氏の「北陸の龍燈伝説」(『加能民俗研究』通巻十七号・平成元(一九八九)年「加能民俗の会」官発行所収)に「誹諧草庵集」・及び本書を出典として、この氷見市『朝日山の山腹にある観音堂の前の松に、毎年正月朔日と六月十七日の夜龍燈がかかる。本尊の観音様が太田浜から上がったものだが、龍燈は三ヶ所一団となって牛島から飛来する』とある。「牛島」は後の最終巻「三州奇談續編卷之八」の「唐島の異觀」によって、唐島から五、六百メートル離れた岩礁の名前と出る。

「越の大德泰澄」(たいちょう 天武天皇一一(六八二)年~神護景雲元(七六七)年)は奈良時代の修験道の僧で、当時の越前国の白山を開山したと伝えられ、「越(こし)の大徳」と称された。既出既注であるが、再掲しておく。越前国麻生津(現在の福井市南部)で豪族三神安角(みかみのやすずみ)の次男として生まれ、十四歳で出家し、法澄と名乗った。近くの越智山に登って、十一面観音を念じて修行を積んだ。大宝二(七〇二)年、文武天皇から鎮護国家の法師に任ぜられ、豊原寺(越前国坂井郡(現在の福井県坂井市丸岡町豊原)にあった天台宗寺院。白山信仰の有力な拠点であったが、現存しない)を建立した。その後、養老元(七一七)年、越前国の白山に登り、妙理大菩薩を感得した。同年には白山信仰の本拠地の一つである平泉寺を建立した。養老三年からは越前国を離れ、各地にて仏教の布教活動を行ったが、養老六年、元正天皇の病気平癒を祈願し、その功により神融禅師(じんゆうぜんじ)の号を賜っている。天平九(七三七)年に流行した疱瘡を収束させた功により、孝謙仙洞の重祚で称徳天皇に即位の折り、正一位大僧正位を賜り、泰澄に改名したと伝えられる(以上はウィキの「泰澄」に拠った)。

「白鳳年中」寺社の縁起や地方の地誌や歴史書等に多数散見される私年号(逸年号とも呼ぶ。「日本書紀」に現れない元号を指す)の一つで、通説では元号の白雉(六五〇年〜六五四年)の別称・美称であるともされている。他に六六一年から六八三年とも、中世以降の寺社縁起等では六七二年から六八五年の期間を指すものもあるという。なお、「続日本紀」の神亀元(七二四年)年冬十月の条には『白鳳より以來、朱雀以前、年代玄遠にして、尋問明め難し』という記載がみられる(ここはウィキの「白鳳」に拠った)。

「中興我が國君の歸依により、芳春尼公」前田利家の正室まつ(天文一六(一五四七)年~元和三(一六一七)年)の戒名。上日寺は江戸時代は前田家の祈願所となった。

「慶長十八年」一六一三年。

「太田の濱」現在の太田地区の海浜で、松田枝(まつだえ)浜及び島尾にかけての広域呼称(グーグル・マップ・データ航空写真)と考えられる。私の好きな美しい海岸である。

「鳥佛師」鞍作止利(くらつくりのとり 生没年不詳)のこと。飛鳥時代の仏師。「鳥仏師」とも書くが、これは「司馬鞍作部首止利仏師(しばのくらつくりべのおびととりぶっし)」の通称。中国の南梁からの渡来人司馬達等(しばたっと)の孫とされるが、司馬一族自体が四世紀頃に渡来した「鞍作村主(すぐり)」なる人物の子孫とする説もある。聖徳太子や当時の権力者蘇我氏に重用され、「日本書紀」によれば、推古天皇一四(六〇六)年に飛鳥寺の釈迦如来坐像(飛鳥大仏)を造像したとされ(但し、彼の作仏を否定する説もある)、六二三年には、聖徳太子と母后・妃の菩提を弔うため、法隆寺金堂の釈迦如来及び両脇侍像を完成している。先の「飛鳥大仏」が後世の補修が多いのに比べ、この三尊像は殆んど完全に残っており、光背裏の刻銘から、彼の確実な作品と知られる貴重な仏像である。作風は中国北魏竜門系の様式を取り入れながら、独自な造形感覚で日本的に整斉された「止利様式」を確立しており、単純な形の大きく張った目、両端が釣り上がってアルカイック・スマイルと称される不思議な微笑を感じさせる唇、板を重ねたように堅く直線的な衣の襞など、象徴的で力強く、威厳に満ちており、名実ともに七世紀前半の彫刻界を代表する作家であったことを示している(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「兩曜石」日月石のこと。全国的な非常に古い岩石信仰として、太陽と月を象徴するとする磐座(いわくら)によくつく名前であるが、時に晴雨や潮の干満を司る石ともされ、豊穣のシンボルとして陰陽石との関連も認められる。ここでは、海浜に漂着したものである点や、風雨を支配する龍との絡みから、そうしたニュアンスが匂う。実際に「親しく手に移し戴くに、掌中濕ひ石に汗を發す」という辺りはそうした水を司る水石とも読める。但し、ネットで検索する限りでは、同寺には現存しないようである。

「百餘間」百間は約一八二メートル。

「岩崎」伏木の東、国分浜の先の岩崎ノ鼻から雨晴海岸の東に至る岩礁地帯。ここも私にはとても懐かしい場所である。跋渉もし、釣り(甚だ岩掛かりしたものである)もした。

「太田濱……」確かに現在も穏やかな美しい砂浜海岸である。

「能く能く其兩曜石を愛し給ふと見ゆ」主語は流れ着いた本尊観世音菩薩(像)である。

「咋嗒(さたう)」これは各種獣類の胎内結石或いは悪性・良性の腫瘍や免疫システムが形成した異物等を称するもので、普通は「鮓答」と書き、「さとう」と読む。「牛の玉(たま)」とか「犬の玉」という風にも呼ぶ。「詳しくは私の「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 鮓荅(へいさらばさら・へいたらばさら)(獣類の体内の結石)」の私の注を参照されたい。

「靈鹿・妙兎」ただの鹿や兎ではない神霊神仏の使者や眷属であるそれら。]

 

 されば氷見は海畔也。又遙か二里奧なる蒲田・神代(こうじろ)の間にさへ鹽井(しほゐ)を出(いだ)す。【粥(かゆを燒(たく)に甚だよしとなり。他村へ汲めば水となるといふ。】海近き此邊(このあたり)、水潔(きよ)きこと近鄕の例すべきに非ず。妙智力能く靈淸水(れいせいすい)を御手洗(みたらひ)となし給ふ故となり。緣起の中にも、此御佛の施主芳春院殿と稱して、天竺震旦(てんぢくしつたん)稀有の女才(ぢよさい)と崇(あが)め奉る。然共善には惡添ひ、幸ひには害隨ひて、功德は黑闇女(こくあんによ)と須臾(しゆゆ)も相離れず。又々此女才を侵(おか)す女才ありて、北海に少し怨(うらみ)をなすこと「中外傳」中にも記す。其後も海氣(かいき)の押して登るを、銀杏の大樹能く支へ、或は人家火災起り、御手洗の麗水(れいすい)數日(すじつ)留(とま)る事抔(など)聞えし。近年も靈風起り、末院山王の堂を吹潰(ふきつぶ)し、其再興勸化(くわんげ)より氷見の人々論起りて騷(さはが)しき迄に及ぶ。是は年近ければ記さず。

[やぶちゃん注:「蒲田」富山県氷見市蒲田(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「神代」蒲田の西及び北に接する富山県氷見市神代(こうじろ)(同前)。ここの北の末端でも海岸線から四・二キロ内陸で、南部分は山間地である。

「鹽井」塩水の井戸。

「此御佛の施主芳春院殿と稱して、天竺震旦(てんぢくしつたん)稀有の女才(ぢよさい)と崇(あが)め奉る」思うに「と稱して」の「と」は「を」の誤判読か、誤写ではなかろうか。後半は本邦(や中国)どころか、インド・チベット中にあって稀有の才女という謂いであろう。利家の正室芳春院まつは、学問や武芸に通じた女性として頓に知られる才媛であった。

「黑闇女」吉祥天の妹であるが、容貌醜く、人に災いを与える女神とされる。密教では閻魔大王の妃とする。「胎蔵界曼荼羅」の「外金剛部」に属す。像は肉色で、左手に人頭の杖を持つ。

『此女才を侵(おか)す女才ありて、北海に少し怨(うらみ)をなすこと「中外傳」中にも記す』既に何度も注した通り、自己宣伝。正しい書名は「慶長中外傳」で本「三州奇談」の筆写堀麦水の実録物。「加能郷土辞彙」によれば、本体は『豐臣氏の事蹟を詳記して、元和元年大坂落城に及ぶ。文飾を加へて面白く記され、後の繪本太閤記も之によつて作られたのだといはれる』とある。同書を読むことが出来ないので、上記の内容は不詳。

「末院山王の堂」「末院」とあるので上日寺の僧坊と思われるが、現存しない。山王権現は神道系であるから、「其再興勸化より氷見の人々論起りて騷しき迄に及ぶ」というのは、或いは本寺側や一部の信者が再興にあまり乗り気でなかったのかも知れない。]

 

 扨濱表(はまおもて)に下りて見渡すに、本(も)と是(これ)古戰の地なり。町はづれの「三本松」と云ふ地下には「首數(しゆすう)何百の内」と云ふ札を掘出(ほりいだ)せし話も聞えたり。

[やぶちゃん注:上杉謙信や佐々成政の侵攻の際にこの辺りは戦場となっている。

『町はづれの「三本松」』不詳。「町はづれ」で、以下続けて「柳田」を経てとあるのだから、氷見市柳田(グーグル・マップ・データ)の市街地との境に比定は出来ようか。]

 

 是より柳田を過ぎて彼(かの)の太田濱なり。此濱實(げ)にも小石迚(とて)もなし。眞(まこと)に梵力(ぼんりき)能く泥沙にも及ぶこと驚くに堪へたり。此邊大鳥(おほとり)の死する物多し。人に尋ぬるに「是れ信天翁(あはうどり)」となり。得て人の喰ふべき肉なければ、打殺して捨つとかや。多くは狗(いぬ)の取り、小兒の戲れにて撲(たた)き殺したるなり。

「大悲の誓ひの濱なるに無用の殺生哉(かな)、鳥も又逃(にげ)よかし」

と委しく尋ぬれば、和莊平(わさうへい)なる人ありて敎へて曰く、

「此邊(このあたり)を『贅鳥(アホウドリ)』と云ふは、人のあまり肉の如く無用より號(なづ)く。元來此鳥目耳(みみ)用をなさず。然るに小魚を投ぐるに寄り來(きた)るは、氣(かざ)を以て相求むるなり。

『こうこう』

と呼ぶに來(きた)るも、氣(かざ)の氣(き)に對するなり。目見えず耳なき故、呼びよせて捕へ得るに甚だ易し。形ちは鴈(かり)に似てまた大いなり。毛は必ず白し、而していやしき黑毛を交(まぢ)ゆ。口嘴(くちばし)黃にして大なり、曲珠(まがたま)の形ちをなす。かゝる巨躰(きよたい)を、何を喰ひてか生涯を送るらんと見るに、纔(わづ)かに鷗の取落したる小魚を喰(くら)ひ、網を遁れ出でたる細鱗(さいりん)を甞(な)めて世の樂(たのし)みとす。然るに此中(このうち)小賢(こざか)しき贅鳥(ぜいてう)ありて、彼(か)の觀音の佛力にすがり、

『我にも目を明けさせて景淸(かげきよ)の昔をなさしめ給へ』

と、此濱に願ひし鳥あり。功力(くりき)豈(あに)魚鳥(ぎよてう)に至らざらんや。忽ち眼(まなこ)明きたる鳥となりしに、數日(すじつ)にして瘦せ衰へ、既に死せんとす。則ち同類の信天翁(あはうどり)に氣(き)を以て示して曰く、

『汝等今の身を樂みて別願を起すことなかれ。我が眼明きて甚だ樂しからんと思ひしに、却りて大害爰に來(きた)る。憂ひて今死せんとす。元來我曹(われら)は死せんとする時鳴くこと悲し。是(これ)人の善言(ぜんげん)と同事(おなじこと)なり。能く聞き置くべし。先づ眼見ゆると物を恐るゝ事甚だ發す。人にも心ひかれ。大魚にも退(しりぞ)け去らんとす。扨(さて)他の鳶(とび)・鴉の多く食を得るを見て、羨みてねたみ、又怒ること燃ゆるが如し。頻りに奔走するに餌(ゑさ)小鳥程も得がたし。故に心痛して悲瘦骨(こつ)に至る。高く飛ぶ鴻鶴(こうかく)を見ては羽の及ばざることを恨み、水に潜る鸕鷀を見ては身の重きを歎く。只日々に物に恐るゝと怨むとの爲に苦しみ多くして、彼(か)の耳なく目なく氣の餌(ゑ)を求むるの思ひにて、人の側(かたはら)とも大魚の眼(まなこ)とも知らず走り行き、鰯一つ得る時、「天地の間此樂みの上なし」と思ひしを思へば、今悔(くや)しきこと限りなし。若し經說に云ふ、「盲龜(まうき)の浮木(うきぎ)」、暫く日を重ねなば、肩たゆみ目埃(ほこり)入りて其悲しみ云ふべからず。願ひたることは初め叶ひたる一時(いつとき)のみにして早(はや)苦し。汝達(なんぢたち)天性のまゝ樂みて、願ひ求(もとむ)ることあるべからず』

と遺言しき。此故に此鳥死に及びても、又樂しさを知る。大悲の誓ひにはこり果てたる鳥ぞや。死鳥(してう)にあたらしき感慨を必ず起し給ふな」

と、杖をかゞめかして去りし。

[やぶちゃん注:「柳田」氷見市柳田(グーグル・マップ・データ)。

「信天翁(あはうどり)」ミズナギドリ目アホウドリ科アホウドリ属アホウドリ Phoebastria albatrus。私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鶚(みさご)(ミサゴ/〔附録〕信天翁(アホウドリ))」を参照されたい。なお、ごく近年の学術調査による「DNAメタバーコーディング」と呼ばれる手法によってアホウドリが摂餌した生物を糞から特定した結果、彼らが特異的に好んでクラゲを摂餌していることが判明している。

「得て人の喰ふべき肉なければ」というわけではない。食用にはなるが、あまり美味いものではないというネット記載をやっと見つけた。しかしヒトはただ捨ててはいない。本邦では専ら羽毛を採取する目的で撲殺し(和名はヒトが近づいても地表での動きが緩慢で、捕殺が容易であったことに由来する)、乱獲が続いて絶滅しかかった。

「大悲の誓ひの濱」この浜に漂着した観世音菩薩は、「世」の人々の「音」声を「観」じて、その苦悩から救済する菩薩の謂いで、人々の姿に応じて「大」慈「悲」を行ずることを「誓」われたところから、千変万化の相となると称し、その姿は六観音・三十三観音などに多様に表わされる。

「和莊平」不詳。何か、怪しい名前だね(後述)。

「此邊(このあたり)を『贅鳥(アホウドリ)』と云ふ」太田浜の異称を「あほうどり」言うというのである。後の結果は「信天翁」も裏切られる。

「人のあまり肉の如く無用より號く」前の地名の漢字を見ると、「贅鳥」で「贅肉」のそれで、「人のあまり肉」(余分な肉)の意である。これは恐らく先行する――「人」がその「肉」を不味いとして「あまり」食わず、殺してもその肉は「あまり肉」として捨てるように「無用」な鳥のいるところ――という意味にも通じているのであろう。

「こうこう」これはヒトがアホウドリを遊びで打ち殺すために呼び寄せる時の声のオノマトペイア。因みに、アホウドリの鳴き声は「サントリーの愛鳥活動」のこちらでどうぞ。

「氣(かざ)」臭い。

「氣(かざ)の氣(き)に對するなり」「臭いの気(き)の流れに応じているのである」の意で採るためにかく読んだ。

「鴈(かり)」「がん」と読んでもよい。広義のガン(「鴈」「雁」)は鳥綱Carinatae 亜綱Neornithes 下綱Neognathae 小綱カモ目カモ科ガン亜科 Anserinae の水鳥の中で、カモ(カモ目カモ亜目カモ科 Anatidae の仲間、或いはカモ科マガモ属 Anasより大きく、ハクチョウ(カモ科Anserinae 亜科 Cygnus 属の六種及び Coscoroba  属の一種の全七種)より小さい種群を総称する。詳しくは私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鴈(かり・がん)〔ガン〕」を参照されたい。

「此中小賢しき贅鳥(ぜいてう)ありて」以下、どうも二重に「贅鳥」を掛けているところ、これ、諧謔に過ぎた話で、如何にも作り物臭い、鼻白む展開である。目が見えなかった時の方が幸福、目が見えるようになって恐怖や憤懣に満ちるようになって不幸になったという、如何にもな感官による煩悩を戒める説教のようなところが、どうにも厭な感じだ(「ジョン・M・シング(John Millington Synge)著 松村みね子訳 聖者の泉(三幕):The Well of the Saintsの方が遙かに面白い。リンク先は私の電子テクスト)。麦水の見え透いた創作のような気さえしてくる。もし、現地のこの伝承があるとならば、是非、お教え戴きたい。

「景淸の昔」藤原悪七兵衛景清(?~建久七(一一九六)年?)は、平安末期の平氏に属した武士。平氏と俗称されるものの、藤原秀郷の子孫伊勢藤原氏(伊藤氏)の出。平家一門の西走に従って一ノ谷・屋島・壇ノ浦と転戦奮戦した。「平家物語」巻十一「弓流(ゆみながし)」で、源氏方の美尾屋十郎の錣(しころ)を素手で引き千切ったという「錣引き」で知られる勇猛果敢な荒武者(「悪」は「強い」の意)。壇ノ浦から逃れたとされるが、その後の動静は不明。幕府方に降って後に出家したとも、伊賀に赴き、建久年間に挙兵したとも伝わる。後、謡曲「景清」や近松の「出世景清」等で脚色されて伝説化した。この謡曲「景清」では、落魄して盲人となった彼と、一人娘人丸との再会悲話仕立てで、後者は平家滅亡後も頼朝の命を狙う荒事で、鎌倉には捕らわれた景清が入れられたという「景清の牢」跡なるものがあるが、信じ難い。私の「鎌倉攬勝考卷之九」の「景淸牢跡」を参照されたい。

「善言」人のよき言葉、後の者たちへの戒めとなる言葉。

「鴻鶴」ここは大きな鳥のこと。アホウドリは確かに高高度を飛ぶことは出来ない。但し、「空を飛ぶのは苦手」などとしばしばネット記載されているのは大変な誤りで、飛ぶのに長い滑走距離を必要とするに過ぎない。そもそもが彼らは渡り鳥であるから、実は気流に乗って滑空をしながら、一度も羽ばたきをせずに、驚くべき長距離をも飛ぶことが出来るのである。

「鸕鷀(ろじ)」鵜(う)の異名。ここは海浜なので、カツオドリ目ウ科ウ属ウミウ Phalacrocorax capillatus。なお、事実、本邦産のアホウドリは海中に潜ることは出来ない。

「盲龜(まうき)の浮木(うきぎ)」広い海の上に一ヶ所だけ穴が空いている一本の木が浮かんでおり、この海に住んでいる百年に一度だけ海面に浮かんできて頭を出す一匹の目の見えない亀が、その木の穴に頭を突っ込むことは非常に難しい。人が人としてこの世に生まれ出ずることは、この盲亀が浮木に頭を入れることよりも難しい想像を絶することなのであるという譬え話。釈迦が阿難に諭したそれとされる。

 さても。この話のエンディング、信天翁(あほうどり)はその目や耳の不自由故に「無為自然」の中に自(おのず)とその「分」(ぶん)を知って生き死にしてゆくのであればこそ、「此故に此鳥死に及びても、又樂しさを知る」というのだ。仏説のありがたい観世音菩薩なんぞの「大悲の誓ひには」すっかり「こり果て」てしまっていると言うのだ。さればこそ――そうした「死鳥」に「あたらしき」皮相的な勝手な「感慨」なんぞは、これ、決して起こされぬが身のためじゃ――と言って悠然と杖を突いて去ってゆく「和莊平」という男の後ろ姿は、「漁父之辭」の道家的人物として描かれる漁父のラスト・シーンの映像とよく合致しているではないか! 則ち、この男は「和」(倭・日本)の「莊」子的な在野の真人としての「平」民であることが判るのである。ますます麦水の作り話の可能性が高くなってくるように私は思うね。しかし、これはこれで、いい。老荘好きの私としては。

 以上で「三州奇談續編卷之七」は終わっている。]

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