譚海 卷之三 細川家和哥の事
細川家和哥の事
○石田治部少輔謀反の時、玄旨法印丹後の城に籠られしに、逆徒貴詰(せめつめ)て既にあやうかりし由叡聞(えいぶん)に達し、和歌の名匠なる事を悼み思召(おぼしめし)、逆徒へ勅使を立られ、早速圍(かこみ)をとき無事に成(なり)たり。其時玄旨法印必死の覺悟ゆゑ、年來和歌相傳の書を箱に入(いれ)、光廣卿へ傳へられ、往反(わうはん)贈答の詠に及ベり。子息三齋殿此事を殘念に存ぜられ、和歌の事に拘(こだは)りて武士の死(しす)ベき時に死せざる恥(はづ)べき事とて、以後三齋和歌を詠ぜられずといへり。今時(きんじ)も細川家斗(ばか)りは京都隱居住(ぢゆう)する事相叶(あひかな)ふ例(ためし)のよし、和歌の事によりて然るにやといへり。
[やぶちゃん注:「石田治部少輔」石田三成。
「謀反」豊臣秀吉の没後、政権の首座に就いた大老徳川家康は、度重なる上洛命令に応じずに敵対的姿勢を強める会津の上杉景勝を討伐するために、慶長五(一六〇〇)年六月に諸将を率いて東下した(「会津征伐」)が、家康と対立して佐和山に蟄居していた石田三成は、家康の出陣によって畿内一帯が軍事的空白地域となったのを好機と捉え、大坂城に入り、家康討伐の兵を挙げたことを指す。その緒戦が慶長五年七月十九日から九月六日にかけて、丹後田辺城(現在の京都府舞鶴市のここ。グーグル・マップ・データ)を巡りって起こったのがここで挙げられた「丹後田辺城の戦い」である。本籠城戦は広義の「関ヶ原の戦い」の一環として戦われ、丹波福知山城主小野木重次、同亀岡城主前田茂勝らの西軍が、田辺城に籠城する細川幽斎・細川幸隆(東軍)を攻めた。参照したウィキの「田辺城の戦い」によれば、『西軍は、まず』、『畿内近国の家康側諸勢力の制圧に務めた。上杉討伐軍に参加していた細川忠興の丹後田辺城もその目標の一つで、小野木重次・前田茂勝・織田信包・小出吉政・杉原長房・谷衛友・藤掛永勝・川勝秀氏・早川長政・長谷川宗仁・赤松左兵衛佐・山名主殿頭ら、丹波・但馬の諸大名を中心とする』一万五千の『兵が包囲した』。『忠興が殆んどの丹後兵を連れて出ていたので、この時田辺城を守っていたのは、忠興の実弟の細川幸隆と父の幽斎および従兄弟の三淵光行(幽斎の甥)が率いる』五百名に『すぎなかった』。『幸隆と幽斎は抵抗したものの、兵力の差は隔絶し、援軍の見込みもなく』、七月十九日から『始まった攻城戦は、月末には落城寸前となった』。『しかし西軍の中には、当代一の文化人でもある幽斎を歌道の師として仰いでいる諸将も少なくなく、攻撃は積極性を欠くものであった。当時幽斎は三条西実枝から歌道の奥義を伝える古今伝授を相伝されており、弟子の一人である八条宮智仁親王やその兄後陽成天皇も幽斎の討死と古今伝授の断絶を恐れていた。八条宮は使者を遣わして開城を勧めたが、幽斎はこれを謝絶し、討死の覚悟を伝えて籠城戦を継続』、「古今集証明状」を八条宮に贈り、「源氏抄」と「二十一代和歌集」を朝廷に献上している。『ついに天皇が、幽斎の歌道の弟子である大納言三条西実条と中納言中院通勝、中将烏丸光広を勅使として田辺城の東西両軍に派遣し、講和を命じるに至った。勅命ということで幸隆と幽斎はこれに従い』、九月十三日、『田辺城を明け渡し、敵将前田茂勝の居城である丹波亀山城に身を移されることとなった』。『この戦いは西軍の勝利となったが、小野木ら丹波・但馬の西軍』一万五千は、この間、『田辺城に釘付けにされ、開城から』二日後に起こった「関ヶ原の戦い」本戦に『間に合わな』くなったのであった。
「玄旨法印」戦国から江戸前期の武将で歌人の細川藤孝(幽斎)(天文三(一五三四)年~慶長一五(一六一〇)年)。京生まれ。三淵晴員(みつぶちはるかず)の次男であったが、伯父細川元常の養子となった。細川忠興の父。足利義晴・義輝や織田信長に仕えて丹後田辺城主となり、後に豊臣秀吉・徳川家康に仕えた。和歌を三条西実枝(さねき)に学び、古今伝授を受けて二条家の正統を伝えた。有職故実・書道・茶道にも通じた。剃髪して幽斎玄旨と号した。著書に「百人一首抄」・歌集「衆妙集」等がある。
「光廣」先の「元和の比堂上之風儀惡敷事」の私の注を参照。
「子息三齋殿」細川藤孝(幽斎)の長男で当時は丹後国宮津城主。後、豊前国小倉藩初代藩主となった細川忠興(永禄六(一五六三)年~正保二(一六四六)年)。「田辺城の戦い」の開城の一件で、一時、父と不和になっており、それがこの述懐に現われている。
「以後三齋和歌を詠ぜられずといへり」事実かどうかは不詳。]