今日のおぞましい先生の態度を見よ!――しかし「安静」は続かぬ――Kの「覚悟」の語への関係妄想的「ぐるぐる」が遂に始まってしまう――
上野から歸つた晩は、私に取つて比較的安靜な夜(よ)でした。私はKが室へ引き上げたあとを追ひ懸けて、彼の机の傍に坐り込みました。さうして取り留めもない世間話をわざと彼に仕向けました。彼は迷惑さうでした。私の眼には勝利の色が多少輝いてゐたでせう、私の聲にはたしかに得意の響があつたのです。私はしばらくKと一つ火鉢(ひはち)に手を翳した後(あと)、自分の室に歸りました。外の事にかけては何をしても彼に及ばなかつた私も、其時丈は恐るゝに足りないといふ自覺を彼に對して有つてゐたのです。
私は程なく穩やかな眠に落ちました。
(『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月29日(水曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第九十七回より。太字下線は私が附した(以下同じ。後の方は改行・行空けや記号を多く施し、Kの台詞内の「私」を「お前」に変えた。ポイントも一部で変えた)。以上のシークエンスは私の生理的嫌悪感を甚だしく刺激する特異点である。以下、続く短い部分のみをシナリオ化してみた)
*
○先生の部屋
K 「○○……」(先生の呼び名)
先生、眼を覚ます。蒲団の下方を見る。
間の襖が六十センチばかり開いていて、そこにKの黒い影が立っている。Kの室には先の通り、未だ灯火が点いている。
急に安静な眠りから起こされてしまった先生は、面食らい、少しの間、口をきくことも出来ずに「ぼうっ」として、その光景を眺めている。
黒い影法師のやうに立ち竦んでいるK。落ち着いた声で。
K 「もう寝たのか。」
先生「何か用か。」
あくまで妙に落ち着いた声で話す、Kの、黒い影法師。
K 「大した用でもない。……ただもう寝たか、まだ起きているかと思って、便所へ行ったついでに聞いて見ただけだ。」
K、襖を静かに「ぴたり」と立て切る。
*
私の室は、すぐ、元の暗闇に歸りました。
私は、其暗闇より、靜かな夢を見るべく、又、眼を閉ぢました。
私は、それぎり、何も知りません。
然し、翌朝になつて、昨夕(ゆふべ)の事を考へて見ると、何だか、不思議でした。
私は『ことによると、凡てが夢ではないか?』と思ひました。
それで、飯を食ふ時、Kに聞きました。Kは、
「たしかに襖を開けてお前の名を呼んだ」
と云ひます。
「何故そんな事をしたのか」
と尋ねると、別に判然(はつきり)した返事もしません。
調子の拔けた頃になつて、
「近頃は熟睡が出來るのか」
と、却て向ふから私に問ふのです。
私は、何だか、變に感じました。
其日は丁度同じ時間に講義の始まる時間割になつてゐたので、二人はやがて一所に宅を出ました。
今朝から昨夕の事が氣に掛つてゐる私は、途中でまたKを追窮しました。
けれどもKはやはり私を滿足させるやうな答をしません。
私は
「あの事件に就いて何か話す積ではなかつたのか」
と念を押して見ました。Kは
「左右ではない」
と强い調子で云ひ切りました。
『昨日、上野で「其話はもう止めやう」と云つたではないか』
と注意する如くにも聞こえました。
Kはさういふ點に掛けて鋭どい自尊心を有つた男なのです。
不圖其處に氣のついた私は突然彼の用ひた「覺悟」といふ言葉を連想し出しました。
すると、今迄、丸で氣にならなかつた其二字が、妙な力で、私の頭を抑へ始めたのです。
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