梅崎春生 砂時計 4
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ぺちゃんこの鞄を横抱きにして、栗山佐介はリノリュームの階段をぎしぎしと降りた。階下の土地事務所では、中年の客が一人ソファーに腰をおろし、事務員の一人と商談を交していたが、靴音を耳にして口をつぐみ、じろりと佐介の方を見た。卓には紅茶と洋菓子の皿が乗っている。その客の視線を受け流すようにして佐介は表に出た。(あいつ、売り手だな)そう思っただけだ。この建物に出入りし始めて、もう二ヵ月になるから、よその会社のことにしても、それくらいのことは判る。客の身なりや物腰などで判る。土地を持っているやつといないやつとの違い、売りたがっているやつと買いたがっているやつとの違い、それが身のこなしのどこかに出ている。生活の条件がじかに出てくるのだ。(おれにはそんなものはないだろう)佐介は歩道と車道の境をぶらぶらと歩きながら考えた。(第一おれには生活の条件なんてものはないのだから)しかしこの考えは佐介のうぬぼれに過ぎなかった。空は午前中よりも暗く、大気もねっとりとしてきた。また雨が近づいてくるらしい。
角のベーカリーのところで、同僚の牛島康之が佐介にせかせかとうしろから追いついてきた。牛島はちゃんとビニールのレインコートの釦(ボタン)をかけ、額にうすく汗をにじませている。佐介はちょっと意外そうに牛島の顔を見て言った。
「なんだ。出かけるのかい?」
「うん。用事を思い出したんでね」牛島は形式的に空を見上げた。「こりゃ一雨来るかな。降るとちょっと困るんだがな」
「仕事がかね?」
「うん。仕事はロケーション先だ。雨が降りそうになったら、奴等は皆そこから引き上げるだろうしな」しかし牛島はそれほど困った口調でもなく、のろのろと佐介の歩調に自分のを合わせてきた。「クリさんはどこに行くんだい?」
「デパート」
「じゃおれもデパートに行こう。なんだかむしゃくしゃするんだ」牛島は肩を佐介に寄せてきた。並んで歩いていると、肩で押してきて道の端まで相手を押しつけてしまう。そんな歩き方をする男が時々いるが、牛島のもそれであった。「どうもうちの研究所は近頃面白くねえやな。クリさん、お前、面白いかい?」
佐介は首を回して、顎が張って色が黒い、ちょっと下駄の形に似た牛島の顔をじっと見た。こんな顔の男の歳はわりに判りにくいものだが、三十五六にはなるのだろう。白川社会研究所にはもう一年近く勤めていて、だから佐介のような見習い所員でなく、れっきとした正式所員だ。いつも女事務員の熊井とふざけてばかりいて、怠けているように見えるが、それでもかげではちゃんと仕事はしているのだろう。もっとも恐喝なんて仕事は、生産的でもなければ労働的でもない、一種のゲームみたいなものだから、しょっちゅうイライラと忙しがっていては成立しないものだ。だからあの古風な建物の二階の連中は、須貝主任を初めとして、いつもごろごろと遊んでいる感じだ。それは面白いとか面白くないとか、そんな言葉で表現する筋合いのものでないように佐介には思われる。そこで彼は黙っていた。牛島はまた右肩をすり寄せてきて、いどむような口調で言った。
「近頃、どうもおかしいとは思わないかい?」
「おかしいと言うと?」
「うちはどこからかねらわれてるぜ。きっと誰からかねらわれているんだ」
「どうしてそれが判るんだね」
「そりゃ判るさ」牛島はあたりを見回してせかせかと早口でささやいた。「そらA金庫の鍵型だって、まんまとやられちゃったじゃねえか。まったくうちの連中は間が抜けているよ」
「だってあんたは先刻、ありゃ粘土の粉じゃない、カビだと――」
「ありゃあ、カビ、じゃなかった」行人とすれちがうたびに牛島は声をとぎらせた[やぶちゃん注:途中でやめること。]。盛り場に近づくにつれて、すこしずつ人通りが多くなってくる。「ありゃカビじゃない。おれも昔鍵型をとる仕事を少々やったことがあるんだ」
「そうかね」佐介もすこし警戒的な気分になって口をきいた。それは行人に対してだけでなく、そんなことを言い出してきた牛島に対してもだ。「やはりそれは粘土でやるんかね」
「いや、粘土を使うのは素人だ。ヅブの素人(しろうと)だね。粘土じゃどうしても型がずれちゃうんだ。だから専門家は他のものを使用するな」
「たとえば、どんなものを?」
「それはそうと、さっき出て来るとき」と牛島は佐介のその問いをはぐらかした。「階下(した)のソファーに男が一人腰かけてただろう。見たかね」
「見ない」
佐介はウソをついた。底意の知れない問いには、肯定するより否定する方がまず無難だ。この二毛ヵ月でそのやり方をすっかり佐介は身につけていた。そして佐介は今のところ研究所の男たちとは、いわば触手だけの交際しか保っていない。ところがこの牛島康之は一週間ほど前から、しきりに佐介に近づいてきたがる気配があった。その態度にはなにか企みみたいなものがぼんやりと感じられた。牛島は怪談の語り手みたいに声を押し殺した。
「おれはだな、あいつの顔を、どこかで見たような気がするんだ。あいつはこの一週間、毎日階下に通ってきて、そして長い間ねばっている。知らないか」
「知らないね」
牛島は自分でしゃべることで、だんだん脅(おび)え、また無理に力んでいるように見えた。ただしそれが牛島の本音(ほんね)なのか演技なのか、まだ佐介には見当がつかなかった。こちらも表情や応答を控え目にする必要があった。
「あいつは土地を売込みに来てるんじゃなかろう。売込みだけなら一週間もかかるわけがないからな。あいつはどうもあそこでおれたちの出入りを見張っているらしい。いや、確かに見張っている」
「それじゃあ警察関係というわけかな」
歩きながら牛島はぎくりと肩を動かした。肩を接しているので、その動きはすぐに佐介につたわってきた。佐介は肩を引いた。
「いや、刑事か何か、今のところ判らんが、しかしとにかく、あいつはおれたちの味方じゃ絶対にない。あの眼は、やはり敵の眼だ。これは間違いないよ。用心しなくちゃ」
やがて家並の向うに七層の百貨店の建物が見えてきた。うすよごれた梅雨空の色を。バックにして、その壁の色はヘんにどぎつい黄色で、一面べたっと濡れているように見えた。牛島の肩にじりじりと押され、とうとうデコボコの舗装路を端まで追い詰められ、佐介ははっと身をひるがえして牛島と入れ替った。すると今度は牛島はあたり前だと言わんばかりに左の肩を寄せてきた。
「そりゃあんたのカンかね」すこし経って佐介が訊ねた。
「論理的なものじゃないらしいね」
牛島はむっとしたように頰をふくらませて佐介を見た。
「カンだって、ばかにしなさんなよ。おれはお前さんより五つ六つ年長だし、つまりお前さんよりたくさん、ずっとたくさん経験をつんで来たわけだぜ。終戦後だって、おれはいろんな仕事をしてきたんだ。しかしてへんでもドジを踏んだことはねえよ。あぶなくなりそうになると、いち早くおれは逃げ出してしまうんだ。それがおれのやり方だ。残った連中が皆ひっくくられたりペシャンコになってるのに、おれだけは悠々と次の仕事をやっているという寸法さ。君子あやうきに近寄らず、というのがおれのモットーだ。判るかね。いいか、おれはお前さんに教えてやっているつもりだよ」
「ふん」佐介は口の中で言った。「梁上(りょうじょう)の君子かな」
「おれは戦争中、船に乗っていた」牛島の声はさっきほど沈痛でなく、いくらか浮き浮きしてきた。「ネズミという動物は実にカンのいいやつで、この航海で船が沈没すると思えば、皆波止場にどんどん逃げ出して行きゃがるんだ。実に大したもんだよ。もっともあまりカンが働き過ぎて、沈まない船から逃げ出すこともあったがね。ある時おれが乗っている船艙(せんそう)にネズミが一匹もいなくなったことがあった。いつもの航海とちがって、どうも船室に寝ててもガリガリと音がしない。前の寄港地で仝部上陸したらしいんだな。こりゃ大変だ、本船は沈むに違いねえ。そう思って、もう船長以下総員びくびくものよ。今日沈むか、明目沈むかと、おれも実は半分観念してたんだが、さしたることもなく、無事船は次の港に入ったな。で、その日は総員上陸して、盛大に祝杯を上げたよ。ええと、おれは何の話をしてたんだったっけ」
「カンの話」
「ああ、そうだ。つまりおれは、そのネズミなんだ」
道ばたの電信柱のかげに、子供が一人立っていた。子供はへんな顔をしていた。頰っぺたをいっぱいにふくらませ、そして身体全部が緊張していた。こみ上げてくる笑いをこらえている風(ふう)にも見えた。すこし向うの塵箱から、やせおとろえた白犬がゆっくりと子供の方に歩いてくる。その子供の口から瞬間水がほとばしって、白犬の耳から顔にかかった。白犬は大げさな啼(な)き声で飛びのき、濡れた顔をぶるっとふるって、路地の中に一目散に逃げて行った。子供は二人の顔を見上げながら、満足そうに歯を見せてわらった。
「おじさん。おれ、犬に、水をかけてやった!」
その呼びかけを無視して、二人はのろのろと子供のそばを通過した。佐介は頰にうす笑いをうかべていたし、牛島は顔をややあおむけて顎(あご)をつき出していた。十米ほど過ぎて佐介が言った。
「あんたがネズミだということは判ったが、すると――」
「ネズミはネズミでも」と牛島が口をはさんだ。「ただのネズミじゃねえと言って貰いたいね。これでもおれはわりかた自尊心が強い方なんだ」
「あんたがただのネズミではないとして」佐介は面倒くさそうに復唱した。「そうすれば白川研究所は沈没船というわけかな」
「はっきり沈没したわけじゃないが、遠からず沈没するというきざしがあるな。お前さんが入所した頃から、研究所も急速に下り坂になってきた」
「そんな言い方だと、下り坂はまるで僕が原因のように聞えるね」
「うん。それは偶然の一致だろう、とおれは思ってるんだがね」そして牛島は横目でじろりと佐介を見た。「どうもあれ以来、皆の仕事の成績が上らなくなってきたな。半年がかりでかかっていた相手に自殺されたり、暗闇で誰かにひっぱたかれたり、脅かしに行って逆に脅されて帰ってきたりさ。なっちゃねえや。『この世に弱味なき人間なし』か。『相手のすべての退路を絶て』だってさ。まったく笑わせるよ。うかうかしてるとこちらの退路の方が絶たれてしまうぜ。なあ」
「ああ、そう言えば、僕のところにも今日手紙が来てたな」
佐介は内ポケットから無造作に二つ折りの封筒をつまみ出した。牛島はびくりとして立ち止り、封筒を受取ってあたりを見回した。佐介も立ち止った。
「見てもいいのかい?」
「いいんだよ」
二人は道の端に寄り、電柱のかげに向き合って立った。牛島は便箋をひろげ、眼をぐるぐる動かして、急がしく文面を読み終えた。ふたたび周囲をぎろりと見回して、封筒を佐介のポケットにそっとつっこんだ。その秘密めかした動作は、もし誰かが見ていたとすれば、かえって不審の念を抱かせたにちがいない。
「こういう手紙が来たらだな」少し経って牛島はものものしく訓戒した。「すぐ報告しなくちゃ駄目じゃないか。こちらにも都合があるんだ。しかしまさか、これがアリバイというわけじゃなかろうな」
「どういう意味だね、それは」
「いや」ちょっと狼狽の色を走らせ、そしてわざとらしく肩をゆすって牛島は歩き出した。「それで、この脅迫状、どこから来たのか、アテがあるのかね?」
「ないね。でも、大したことじゃなかろう」
「いや、いや、そこがお前さんの若いところさ。そういうことを放って置くと、ことによっては大変なことになる。小さな傷でも放って置くと、そこからバイキンが入るようなものだ」
「バイキン」佐介は短くわらった。「バイキンはむしろ僕らの方だろう」
「クリさん。お前の前任者だってそうだぜ。ヘビという綽名(あだな)があったほど腕っこきだったが、脅迫状を無視したばかりに、ある晩、京王線明大前のホームからまっさかさまに落ち、頭の鉢が割れて死んじまったんだ。だからおれたちも一同参考人として警察に呼ばれた。おれたちは口をそろえて、やっこさんは近頃イライラして神経衰弱気味でした、と述べ立てたんだな。そこでとうとうヘビさんは自殺ということになった。なんのヘビさんが自殺するような男かよ。誰かに突き落されたにきまってらあね。これが他殺ということになれば、サツじゃあ全力をあげて犯人を探し出すだろうさ。そうすりゃどうなる。犯人が自白すりゃ、ついでにおれたちの仕事の内容まで全部ばれちまうじゃないか。だからさ、お前さんもそんな手紙をかろがろしく持ち回っちゃいけねえんだ。もし誰かにうしろから不意にぐさりとやられたらどうする。お前の死体のポケットから、その手紙が発見されるだろう。するとお前さんは自分が死ぬという迷惑だけでなく、手紙を発見されることによっておれたちにも大迷惑をかけるわけだぜ。判ったかい。くれぐれも注意をしてくれ」
「うん。判った」佐介は素直に言った。
「それにだな」牛島は自分を制するように声を低くした。「それでヘビさんは死んでどうなったと思う。おれは告別式に行ったんだ。告別式なんていうセンチメンタルなものは大嫌いなんだが、とにかくおれは行った。杉並区東田町の奥まった小さな家だ。二間か三間しかないその古家に、未亡人と、小学校三年生を頭に五人の子供がいた。家財道具もあまりない。ヘビさんは腕ききだったから、相当な歩合(ぶあい)も入ってた筈だが、なにしろ大した酒好きの遊び好きだったからな。それに自分が直ぐ死ぬとは考えないから、ろくに貯蓄もしなかったんだろう。その日は雨がしとしと降っていて、貧乏たらしい告別式だったよ。横死したからって、白川研究所から見舞金も出なきゃ退職金も出ないのだ。それも仕方がない。雇傭(こよう)契約がそうなっているんだから。ヘビさんみたいに業務上で死んでも、びた一文出ないんだぜ」
「そんな時みんなで交渉してみたらどんなもんかな」
「お前さん。さっき、おれたちはバイキンだと言ったな」牛島は唇を曲げて笑った。「バイキンというやつは、原則的に群居はするが、団結はしないものなんだ。それにお前、所長々々と言うが、白川弥兵衛所長は病気と称して、一度も研究所に出て来ねえだろ。おれだってまだ一ぺんも所長の顔を見たことがねえんだ」
「僕だって」
勤め始めて日が浅いし、それに一日おきのことだから、佐介にはまだ白川研究所の機構がよく呑みこめない。見習い所員として、須貝主任の手を経て資料や材料を与えられ、そして指示通りの行動をするだけだ。いろんな資料や材料がどんな具合にして集められるのか、ながらく病気だという白川所長から須貝主任にどんな連絡方法がとられているのか、佐介はほとんど関知しない。研究所には佐介をふくめた定員の他に、臨時的な連絡員や情報売込みの男、その他得体の知れない男女が随時出入りする。ここに勤め始めて以来、同業者や同業の会社が東京には意外に多いことを、佐介は知った。しかし白川研究所の特徴は、他の同業団体とちがって、会社などを相手にしない。つけまわす対象は個人だけだ。会社相手の恐喝は、同業者間の競争がはげしいし、それによほど巧妙な戦法と優秀なメンバーを具えていないと、たちまち会社側からはねかえされてしまう。個人相手というならば、白川研究所程度の弱体団体でもけっこう運営出来るのだ。しかも個人の方が自らの秘密を守ることが固いから、したがって警察に探知される率がすくないわけだ。それなのに近頃の研究所の成績は、牛島の説明によると、ガタ落ちだという。佐介にしても入所以来、成功した事件と言えば、今朝の菅医師の件をふくめて二件しかない。菅医師のが二万円、その前のが一万二千円、合わせて三万二千円だ。見習い期間中の歩合は一割というキメで、彼が今までに取得した歩合金は、計算してみると三千二百円に過ぎないのだ。
「あまりいい商売じゃないな」
街はざわめいていた。広告塔の放送やラジオのひびき、自動車の警笛、その他のあらゆる雑音が、それらが全部ひっくるまってひとつの立体的な音響になるのではなく、ばらばらに
千切れたと思うと不規則につながり、十文字に重なっては折れ曲り、消えたと思うと別の音がかぶさってくる。そんなでたらめな音の動きと同じく、街を歩く人々は皆ばらばらで、肩をぶっつけ合ったり、押されて歩道をはみ出たり、ある種の虫の集団のように、全体としてはほとんど無意志な動き方をしていた。店々は乱雑な色彩でかざり立て、道ばたでは安物のハンドバッグを若者が大声上げて売りあおり、また中年の男が水を張った金だらいを前にして、セルロイドの小舟をうかべて売っていた。小舟は尻にとりつけた樟脳(しょうのう)の力によって、水面を自在にスイスイと動いている。雑踏の中にまぎれこんでから、牛島はしだいに無口になってきた。無口になるだけでなく、眼付きも少しずつするどくなってきたようだ。悪党であるためには、まず悪党らしくあらねばならぬ。その信条を実行しているらしかったが、それにしてもこんな巷(ちまた)の人ごみの中では、二人の格好や身のこなしは妙に田舎じみて見えた。あの古びた建物のある一郭では、あんなにもピッタリしていたのに。
「うん」
牛島はあいまいにうなずいて見せた。しかし、あまりいい商売でないのは何か、二人の考えていることはお互いに食い違っていた。
「どこに行くんだね?」
デパートのつるつるした入口にやっと足を踏み入れた時、牛島は額の汗をふきながら、佐介の顔を見て言った。レインコートにむされて、牛島の顔は一面あおぐろく汗に濡れていた。
「書籍部」
「そうか」牛島は視線を宙に浮かせた。「じゃ、おれは屋上にでも上ってみるかな。久しく高いところへ上ったことがないからな」
「突き落されないようにするんだね」と佐介はまじめな顔で言った。「七階から落ちるとなれば、まずは生命はないだろう」
「今晩、暇あるかね?」牛島は佐介のその言葉を黙殺して言った。「暇だったら、午後六時、駅の西口の改札付近で落ち合わないか。ちょっと相談したいこともあるんだ」
「相談って、僕にかい?」
「うん。そうだよ」しかしその瞬間の牛島の眼は、信頼というよりもむしろつよい疑いと困惑の色にみたされているように見えた。何故ともなく佐介は一歩あとずさりした。
「そうなんだよ。それとも相談には乗れねえと言うか?」
「今晩、僕はうちの近所の連中との会合があるんだ。だから六時は困る」
「何の会合だね?」
「そ、それはあんたと関係ないことだよ」
「もちろん関係ないさ」牛島は粘りつぐように言葉をついだ。「じゃ、午後四時はどうだね。もうロケーション行きはあきらめた。四時までおれはここの屋上で時間をつぶしてるよ。どうだい?」
「四時か」佐介は首を傾けた。「うん。四時ならいいだろう。改札付近だね」
そうだと答えるかわりに牛島は掌(て)を上げ、そして背を向けて大階段の方に歩き出した。佐介はエレベーターの方角に歩を移しながら、その後ろ姿にしばらく眼をとめていた。透明な雨衣につつまれた牛島の格好は、ちょっとセロファンに包まれたお歳暮(せいぼ)の鮭(さけ)かなにかを連想させた。職業からくる孤独感のようなものが、その後ろ姿にただよっている。(あの男、屋上まで階段をトコトコ登って行くつもりかな?)佐介は鉄扉の前に立ちエレベーターを待ちながら考えた。(屋上に別に用事はないから、それで足で登るというわけかな。理屈にあってるような、あってないような――)満員のエレベーターは佐介の身体を三階まで運んだ。
書籍売場は三階のすみにあった。佐介はあれこれ探して、ミッキー・スピレインの『裁くのは俺だ』という探偵小説を買った。自分が読むつもりではない。さっき『殺人準備完了』の犯人の名をばらしたばかりに、熊井の激怒を買い、代償として別の一冊を買って贈ることを約束させられたのだ。『裁くのは俺だ』を包装している女店員に佐介は声をかけた。
「それには、ノシをつけて呉れませんか」
「ノシ?」
「ええ。ノシ。小さなものでもいい。贈り物にするんだから」
女店員は妙な表情をつくって佐介を見、そして本を持って向うに行ってしまった。ずらずら並んだ本の背にぼんやりと眼をさらしながら、佐介は犯人をばらした瞬間の感じを反芻(はんすう)していた。腕に貼りついた大きな絆創膏(ばんそうこう)を一気にひっぱがす快感、そんなものがその瞬間にはあったのだ。(しかしその代償として百五十円はすこし高いな)あのハムのような顔をした熊井は、佐介にある種の感情をもって対している。たんなる好意とはちがう、もっとべたついたお節介のやり方で、ハムは佐介にまつわりついてくるのだ。佐介に対して優越感みたいなものも感じているらしい。ハムは白川研究所に勤め始めて、五ヵ月になる。佐介よりも三ヵ月先任になるわけだ。仕事と言えば『研究所報』を刷ったり、使いに出たり、そんな雑用ばかりだが、研究所全体の仕事に直接関係はなくても、間接に片棒かついでいることは否めない。(なにしろ他人の幸福や秘密をゆすぶることによって生きようと言うんだからな)悪というものをたくさん積み込んで航行する大きな船、佐介は瞼(まぶた)の裡(うち)にそんなものを思い浮べた。その船からのおこぼれや排出物を追って、眼の色をかえて泳いでいる魚の群。不潔なものをいちはやく嗅ぎあて、むらがりとまるやくざな蠅。蠅の舌なめずり――。
[やぶちゃん注:本章で初めて舞台が「東京」であることが示される。「杉並区東田町」とも出るが、ここは昭和一七(一九三二)に町名が成立し、昭和四四(一九六九)年に廃止されて、現在は「梅里二」及び「成田東一」と同「三」から「五」が当該する。この付近である(グーグル・マップ・データ)。白河研究所から徒歩で行けるところに「七層の百貨店」があり、その「壁の色はヘんにどぎつい黄色」とあるところからロケーションが特定出来るはずだが、私は生憎、東京には疎い。識者の御教授を乞うものである。
「小舟は尻にとりつけた樟脳(しょうのう)の力によって、水面を自在にスイスイと動いている」「樟腦」クスノキ目クスノキ科ニッケイ属クスノキ Cinnamomum camphoraの精油の主成分である分子式 C10H16Oで表される二環性モノテルペン・ケトン(monoterpene ketone)の一種。思い出す――小さな時にやった「樟脳舟(しょうのうぶね)」だ。「協和界面科学株式会社」公式サイト内のこちらから引用しておく。『小さな模型舟の船尾にショウノウの塊を付けておくと、舟を水に浮かべたときに勝手に走り回る現象』だ。『「ショウノウ」というと防虫剤の匂いを思い出す方もいらっしゃるでしょうが、最近ではp(パラ)−ジクロロベンゼンなどにその役目を奪われてしまいましたので、入手しにくいかもしれません』。『(なお、いずれも口に入れると有害ですので、食べないように。)』『こショウノウの分子は、水をはじく疎水基と、水になじむ親水基を持っています。舟の船尾に取り付けられたショウノウの塊が分解して、分子が水面に移ると、疎水基を上にして単分子の膜を形成します。舟の後方ではショウノウの単分子膜ができ、舟の前方には水面があります。物質は表面張力により、その面積を少なくしようとします。この場合、水の表面張力はショウノウよりも高いため、水面の面積の方がより小さくなろうとする力が強いのです。したがって、ショウノウと水の境目は水のほうへ引き寄せられます。そして、その境目にある舟も、一緒に引っ張られてしまうため動きます。また船尾のショウノウはどんどん溶け出していきますから、ますますショウノウの表面は広げられてしまいます』。『ショウノウにはじかれて動いているように見えますが、実際は水の表面張力によって引っ張られているわけです。しかしこの舟も、水面が完全にショウノウ分子で覆われてしまうと、動かなくなります』。
「ミッキー・スピレインの『裁くのは俺だ』」アメリカの小説家でハードボイルド探偵小説を得意とした“ミッキー”・フランク・モリスン・スピレイン(Frank Morrison "Mickey" Spillane 一九一八年~二〇〇六年)の「裁くのは俺だ」(I, the Jury)はスピレインの代表作であり、私立探偵マイク・ハマーを主人公とする「マイク・ハマー」シリーズの第一作で、金に困っていたスピレインが一九四七年に出版社に自ら原稿を持って売り込み、出版されたデビュー作でもある。邦訳は中田耕治訳で早川書房から単行本で、本「砂時計」発表の前年の昭和二八(一九五三)年に刊行されている。]