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2020/07/22

今日――Kはお嬢さんへの切ない恋情を先生に告白する――

 其内年が暮れて春になりました。ある日奥さんがKに歌留多(かるた)を遣るから誰か友達を連れて來ないかと云つた事があります。するとKはすぐ友達なぞは一人もないと答へたので、奥さんは驚ろいてしまひました。成程Kに友達といふ程の友達は一人もなかつたのです。往來で會つた時挨拶をする位(くらゐ)のものは多少ありましたが、それ等だつて決して歌留多などを取る柄ではなかつたのです。奥さんはそれぢや私の知つたものでも呼んで來たら何うかと云ひ直しましたが、私も生憎そんな陽氣な遊びをする心持になれないので、好(よ)い加減な生返事をしたなり、打ち遣つて置きました。所が晩になつてKと私はとう/\御孃さんに引つ張り出されてしまひました。客も誰も來ないのに、内々(うちうぢ)の小人數(こにんず)丈で取らうといふ歌留多ですから頗る靜なものでした。其上斯ういふ遊技を遣り付けないKは、丸で懷手をしてゐる人と同樣でした。私はKに一體百人一首の歌を知つてゐるのかと尋ねました。Kは能く知らないと答へました。私の言葉を聞いた御孃さんは、大方Kを輕蔑するとでも取つたのでせう。それから眼に立つやうにKの加勢をし出しました。仕舞には二人が殆ど組になつて私に當るといふ有樣になつて來ました。私は相手次第では喧嘩を始めたかも知れなかつたのです。幸ひにKの態度は少しも最初と變りませんでした。彼の何處にも得意らしい樣子を認めなかつた私は、無事に其塲を切り上げる事が出來ました。

 それから二三日經つた後(のち)の事でしたらう、奥さんと御孃さんは朝から市ケ谷にゐる親類の所へ行くと云つて宅を出ました。Kも私もまだ學校の始まらない頃でしたから、留守居同樣あとに殘つてゐました。私は書物を讀むのも散步に出るのも厭だつたので、たゞ漠然と火鉢(ひはち)の緣に肱(ひじ)を載せて凝(じつ)と顋(あご)を支へたなり考へてゐました。隣の室にゐるKも一向音を立てませんでした。双方とも居るのだか居ないのだか分らない位靜でした。尤も斯ういふ事は、二人の間柄として別に珍らしくも何ともなかつたのですから、私は別段それを氣にも留めませんでした。

 十時頃になつて、Kは不意に仕切の襖を開けて私と顏を見合せました。彼は敷居の上に立つた儘、私に何を考へてゐると聞きました。私はもとより何も考へてゐなかつたのです。もし考へてゐたとすれば、何時もの通り御孃さんが問題だつたかも知れません。其御孃さんには無論奥さんも食付(くつつ)いてゐますが、近頃ではK自身が切り離すべからざる人のやうに、私の頭の中をぐるぐる回つて、此問題を複雜にしてゐるのです。Kと顏を見合せた私は、今迄朧氣(おぼろげ)に彼を一種の邪魔ものゝ如く意識してゐながら、明らかに左右と答へる譯に行かなかつたのです。私は依然として彼の顏を見て默つてゐました。するとKの方からつか/\と私の座敷へ入つて來て、私のあたつてゐる火鉢(ひはち)の前に坐りました。私はすぐ兩肱(りやうびず)を火鉢(ひはち)の縁から取り除けて、心持それをKの方へ押し遣るやうにしました。

 Kは何時もに似合はない話を始めました。奥さんと御孃さんは市ケ谷の何處へ行つたのだらうと云ふのです。私は大方叔母さんの所だらうと答へました。Kは其叔母さんは何だと又聞きます。私は矢張り軍人の細君だと敎へて遣りました。すると女の年始は大抵十五日過だのに、何故そんなに早く出掛けたのだらうと質問するのです。私は何故だか知らないと挨拶するより外に仕方がありませんでした。

(以上、『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月21日(火曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第八十九回より。太字は私が附した)

 「Kは中々奥さんと御孃さんの話を己(や)めませんでした。仕舞には私も答へられないやうな立ち入つた事迄聞くのです。私は面倒(めんたう)よりも不思議の感に打たれました。以前私の方から二人を問題にして話しかけた時の彼を思ひ出すと、私は何うしても彼の調子の變つてゐる所に氣が付かずにはゐられないのです。私はとう/\何故今日に限つてそんな事ばかり云ふのかと彼に尋ねました。其時彼は突然默りました。然し私は彼の結んだ口元の肉が顫(ふる)へるやうに動いてゐるのを注視しました。彼は元來無口な男でした。平生(へいせい)から何か云はうとすると、云ふ前に能く口のあたりをもぐ/\させる癖がありました。彼の唇がわざと彼の意志に反抗するやうに容易(たやす)く開(あ)かない所に、彼の言葉の重みも籠つてゐたのでせう。一旦聲が口を破つて出るとなると、其聲には普通の人よりも倍の强い力がありました。

 彼の口元を一寸眺めた時、私はまた何か出て來るなとすぐ疳付(かんづ)いたのですが、それが果して何の準備なのか、私の豫覺は丸でなかつたのです。だから驚ろいたのです。彼の重々しい口から、彼の御孃さんに對する切ない戀を打ち明けられた時の私を想像して見て下さい。私は彼の魔法棒(まほふぼう)のために一度に化石されたやうなものです。口をもぐ/\させる働さへ、私にはなくなつて仕舞つたのです。

 其時の私は恐ろしさの塊りと云ひませうか、又は苦しさの塊りと云ひませうか、何しろ一つの塊りでした。石か鐵のやうに頭から足の先までが急に固くなつたのです。呼吸をする彈力性さへ失はれた位(くらゐ)に堅くなつたのです。幸ひな事に其狀態は長く續きませんでした。私は一瞬間の後(のち)に、また人間らしい氣分を取り戻しました。さうして、すぐ失策(しま)つたと思ひました。先(せん)を越されたなと思ひました。

 然し其先を何うしやうといふ分別は丸で起りません。恐らく起る丈の餘裕がなかつたのでせう。私は腋の下から出る氣味のわるい汗が襯衣(しやつ)に滲み透るのを凝と我慢して動かずにゐました。Kは其間何時もの通り重い口を切つては、ぽつり/\と自分の心を打ち明けて行きます。私は苦しくつて堪りませんでした。恐らく其苦しさは、大きな廣告のやうに、私の顏の上に判然りした字で貼り付けられてあつたらうと私は思ふのです。いくらKでも其處に氣の付かない筈はないのですが、彼は又彼で、自分の事に一切を集中してゐるから、私の表情などに注意する暇(ひま)がなかつたのでせう。彼の自白は最初から最後まで同じ調子で貫ぬいてゐました。重くて鈍い代りに、とても容易な事では動かせないといふ感じを私に與へたのです。私の心は半分其自白を聞いてゐながら、半分何うしやう/\といふ念に絕えず搔き亂されてゐましたから、細かい點になると殆ど耳へ入らないと同樣でしたが、それでも彼の口に出す言葉の調子だけは强く胸に響きました。そのために私は前いつた苦痛ばかりでなく、ときには一種の恐ろしさを感ずるやうになつたのです。つまり相手は自分より强いのだといふ恐怖の念が萌し始めたのです。

 Kの話が一通り濟んだ時、私は何とも云ふ事が出來ませんでした。此方も彼の前に同じ意味の自白をしたものだらうか、夫とも打ち明けずにゐる方が得策だらうか、私はそんな利害を考へて默つてゐたのではありません。たゞ何事も云へなかつたのです。又云ふ氣にもならなかつたのです。

 午食(ひるめし)の時、Kと私は向ひ合せに席を占めました。下女に給仕をして貰つて、私はいつにない不味い飯を濟ませました。二人は食事中も殆ど口を利きませんでした。奥さんと御孃さんは何時歸るのだか分りませんでした。

『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月22日(水曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第九十回の総て。太字下線は私が附した)

   *

私は、意外なことに、若き日に読んだ折り、この最後の最後の上辺だけの日常のシークエンスを脳裡に再現して、そこに激しい強い衝撃を受けたことを思い出す。この昼飯のシーンのカット・バックに、私は、名状しがたい痛烈な悲しみを感じたのである……

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